北条五代記/巻第七

北条五代記巻第七 目次

 
 
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北条五代記巻第七
 
 
 
見しはむかし。北条氏直公うぢつなこうくわん八州を静謐せいひつにおさめ。賞罸しやうばつたゞしく。国の政道せいだうを取をこなひ。たみゆたかにして後々末代ごゞまつだいまでも。目でたかるべしとおもひつるに。天うんつくるにや。天正十八とらの年七月六日。氏直公をはじめ。一もん関八州の諸侍しよさふらひほろびはてぬたゞ五かうあぶらかはひて。ともしびまさにきえんとほつする時。ひかりをますがごとし。なげきても甲斐かひなかるべし。然るにわれ。氏直の先祖せんぞたづねるに。古き文にも見へず。あらかじめ聞つたふるに。むかし山しろの国に伊勢いせ新九郎氏茂うぢしげといふさふらひあり。のち入道にうだう北条早雲庵主ほうでうさううんあんしゆ改名かいみやう〈[#ルビ「かいみやう」は底本では「かいややう」]〉す。此早雲京都よりするがのくにへ下り。今川いまがは五郎氏親うぢゝかをたのみ。牢人らうにん分にて有しが文武ぶんぶ智謀ちぼうさふらひたるにより。今川殿縁者江んじやとなり。其後早雲は駿河するが高国寺かうこくじ在城ざいじやう也。其比伊豆国いづのくに堀越こりこし所と申て。北条にまします。是は義教公よしのりこうの三なん。左兵衛かみ政知公まさともこうの御茶々丸ちやまる成就院じやうじゆゐん殿とがうす。されば伊豆いづの国は年久しく無事に有て。弓矢もなかりけり。然所に御所に逆臣ぎやくしん有て。伊豆の国みだれしづかならず。早うん此よしを聞。ねがふにさいはひ哉時来りぬと人数にんじゆをもよほし。伊豆いづとするがのさかひ。きせ川を夜中やちうに取こし。北オープンアクセス NDLJP:529条へみだれ入てたゝかひ。つゐには御所をほろぼし。伊豆の国を切て取よしあまねく云つたへり。扨又ある老士らうし語りけるは。早雲は今川殿と府中ふちうに一所に有しが。清水浦しみづうらより舟にて渡海とかいし。伊豆を切しよし物語せり。是は異説いせつなりといへ共しるし侍る。老士語ていはく。早雲病気びやうきとなぞらへ。伊豆の国修善寺しゆぜんじにしばらく入て。諸人しよにんの物語を聞に。伊豆の国は三郡山国ぐんさんこく也。東西とうざいへ一日南北なんぼく半日はんじつ行程かうてい。南の海中かいちうへ出。島国しまくにとおなじ。関東永享ゑいかうより乱国らんごくといへ共。伊豆は無事ぶじに有て。一ぐんを十人廿人づゝ分持わけもちにし。下々のさふらひ共は田地でんち手作てさくし。礼義風俗ぎやうぎふうぞくさふらひ共百姓共見わけがたく。しかとしたる大しやう一人もなきよしつぶさに聞とゞけ。早雲府中ふちうかへり。氏親うぢゝかに語て云年来拝領としごろはいりやうせしむる所帯しよたいをもて。勇士ゆうしを二百人かゝへをけり。ねがはくば三百人御加勢かせい有にをいては。伊豆の国をたやすく。切て取べき計策けいさく有むね申されければ。氏親うぢちか聞て早雲。智謀ちぼう武略ぶりやくの心ざしをかんじ。勇士をえらび。三百人加勢也。早雲のぞみたんぬと喜悦きゑつあさからず。清水浦しみづうらにをいて。大せんそう用意よういし。都合五百人の勇士に。下知していはく。それ合戦の勝負。大勢小勢によらず。たゞ士卒しそつの心ざしを。一つにするとせざると也。此等の兵士ひやうし他国たこくに目をかけ。はるかの海路かいろわたり。戦場せんじやうにをもむく所存しよぞんたのもしき成。たとひてき百万むかふといふ共。なかじは雌雄しゆうけつせざるべき。其上たけて。いさめるのみにあらず。かなてははかりごとをめぐらし。智恵ちゑさきとす。一方にたゝかひをけつし。万方にかつ事をうるは。是武略ぶりやく威徳いとくなり。むもれぬながのこさんこそ。弓矢取身の本懐ほんぐわいなれすこぶ勇士ゆうし本意ほんいといふは。智仁勇ちじんゆうの三ツのとくをかね。善道ぜんだうにまもり。せつををもくするをもてとせり。此度諸卒軍戦しよそつぐんせんを。はげますにをいては。恩賞をんしやう忠功ちうこうによるべしと申されければ。をのいさみすゝみて。金石きんせきよりも。かたくし。めいを一じん〈[#ルビ「じん」は底本では「びん」]〉よりかろくちうをいたさんとす。延徳えんとく年中清水浦しみづうらより。太船十そうに。五百人取り。ともづなといて順風じゆんふうをあげ。明ぼのにのり出し。日中に伊豆の国。松崎まつさき西奈田子にしなたご。あられのみなと着岸ちやくがんす。此ふね共はたを立。みな甲冑かつちうたいしぬれば。浜辺在所はまべざいしよのもの共是を見て。やれてき海賊かいぞく来るぞと。おどろきさはぎ。親をすて。子をすて。われ先にて。山嶺谷底みねたにぞこへぞにげ入たる。五百人は舟よりくがにあがり。さはぐけしきもなく。おもひ舟道具ふねだうぐを陸へあげ。とまぶきに陣屋ぢんやをかけ。其屋に入て。まづ三ケ条の高札かうさつを立る

    禁制きんせい一あきいへに入諸道具に手をかくる事
一一せんあたもの何にても取候事
伊豆国中いづこくちうさふらひ土民どみん〈[#ルビ「どみん」は底本では「どろん」]〉に至る迄其住所ぢうしよさる

条々でう堅停止かたくちやうしせしめもし違犯いはんともがら是あるにをいては。在家ざいけ放火はうくわすべき者也仍執達しゆたつくだんのごとし
オープンアクセス NDLJP:530と。右の三ケ条を。在々所々ざいしよに立をきたり。扨村里むらさとのあきいへを見るに。いかなるいへにも五人三人づゝ病者びやうしやふしてあり。大かた千人にもこえつべし。是はいかにと尋ぬれば。此比風病ふうびやうはやり。諸人しよにん五日七日づゝ前後ぜんごもわきまへず。一に十人わづらひ。八九はしにてき海賤かいぞく〈[#「海賤」はママ]〉にはかの事なれば。我等あしたゝずおやをすて。子はおやをすて。いづくともしらず迯行にげゆくといふ。早雲さううん聞て不便ふびんの次第哉。孟子まうしに大人は其赤子せきしの心をうしなはざる者也と云々。ゆへ君子くんしは万事につうじてしらざる所なく。よくせざる所なし。なさけは人のためならず。かれらを打すて。われさきへ行ならば。此病人びやうにんみなしすべし。いくべき者をばいかし。ころすべき者をば殺すをもつて。仁政じんせいの道とせり。いそ医師くすしに仰て。良薬りやうやく調合てうがうし。五百人の人々打ちりて。看病かんびやうし。くすりを用ひ。好物こうぶつ食事しよくじあたへ給へば。此療養れうやうによつて。一人もせず。五日三日のうちに。みな本復ほんぷくし。いのちたすかりたる御恩賞いつの世にかは。ほうつくしがたしとよろこび。此者どもいそぎ。山みねに入て。子は親にかたり。おやは子にしらせ。なふ此人々よろひかぶと給へば。あらけなき鬼神をにがみのやうに見へけれ共。御心はやさしく。慈悲忍辱じひにんにく生仏いきぼとけにて。我々が命をたすけ給ひ候ぞや。いそぎ山を出て。おやいのちいのち。助かりたる御れい申上給へといへば。皆山みねを出て我屋に帰り。よろこびけり。是を聞つたへて。五十里四方しはうの者。皆こときたつて。是はそんじやう其所のさふらひ。是は山もり。是は在所ざいしよ肝煎きもいりなどいへば。其所前々ぜんのごとく。相違さうい有べからずと。印判ゐんばんを出す。早雲病者びやうじやゆへ一七日滞留たいりう其うちに三十里近辺きんぺんは。皆みかたにはせさんじたり。然る所に関東くわんとう道二十里。山のおく深根ふかねと云所に。関戸せきど幡摩守はりまのかみ吉信よしのぶといふ者あり。是はいにしへ御所のゆかりと云つたへ。名高なだかき人也。みかたにも参らず。あまつさへ。古城ふるしろを取立候。手労てせいわづか二百。其外一るいさふらひ共あつまりて。雑兵ざいひやう五百有べしとつげ来る。早雲さううん聞て。ねがふにさひはひかな。当国へ発向はつかうすといへども。むかふてきなければ物さびしく思ひつるに。まづかれをほろぼし。軍神いくさがみまつりにせんと。鶏鳴けいめいより此在所ざいしよを打立。うしろの山をこえ。日中に深根ふかねへはせつきたり。扨又こゝかしこのさふらひ共はせ来て。はた下に付ぬれば。みかたのせい二千よきになる。此城北しろきたは山。東南はぬまにて。寄所よりどころなし。西にし一方にほり〈[#「城」はママ]〉

をほり。へい〈[#「堀」はママ]〉さかも木を引せ。門矢蔵もんやぐらを立。こゝを専とぞかためたる。早雲さううん是を見て。あたりの在家ざいけを。百ばかり引破ひきやぶり。二千の人一かづきづゝ持寄もちよりて。ほりをうめ即時そくじ平地へいぢとなる。すきもあらせずせめ入たり。幡摩守はりまのかみしゆをいさめ。爰をせんどゝたゝかひ。長刀なぎなたにて切てまはるといへ共。五百人心ざしを一ツにしてせめければ。たとひ万騎。くろがねのたてをつきふせぐと云共いふ。かなふべしとは見へず。幡摩守父子ふし五人。鑓下やりしたにてうたるれば。残る者其敗軍はいぐんし。にぐるをおいたをし。追まはし。しろこもる者どもをば。女わらはべ法師ほうしまでも。一人残さずくびを切。しろめぐりに千かけをきぬれば。是を見聞しより。国中の諸侍しよさふらひ。此にをそれ。いそぎはせ来て。かう人となる。ながら伊豆一国は。早雲の国となる事。武略ぶりやく世にこへたる名将めいしやう仁義じんぎをもつはらとをオープンアクセス NDLJP:531こなひ給へるがゆへ也。仁者じんしやといふは慈悲じひ愛敬あひきやう有て。あやうきをたすけ。災難さいなんをすくはんとす。敵国へ来。死にのぞむ病者びやうしや。千余人を助け。諸人の心をなだめ給へるも。是仁じんの道なり。扨又義者ぎしやと云は。万事よく思ひ切て。すべき所にて死するも義なり。てきをほろぼし国をおさむるもみち也。聖人せいじん制詞せいしにも。道理だうりあたりてころす時は数万すまんてきをうつといへども。無道ぶだうにあらず。ころすまじき道理あらば。つみなき者一人。つみすといふとも。仁道じんだうにあらずといへり。然に早雲翌日よくじつ。伊豆の北条に付給ひぬ。此所むかし北条時政ときまさ居住きよぢうと。在所ざいしよの者申ければ。早雲聞て。さき右兵衛すけ頼朝よりとも平治へいぢの比ほひ此北条ひるが小じまへながされ。廿一年の星霜せいさうをむなしくをくられしが。四郎時政をかたらひ。治承ぢせう四年八月十七日。伊豆の国の目代もくだい和泉判官いづみのはんぐわん兼隆かねたか屋牧やまきたちにて夜討ようちにし。義兵ぎへいをあげられし所。吉例きちれいなりとて。此旧跡きうせき再興さいこう有て。早雲居城ゐじやうし給へば。皆人北条殿といふ。早雲いはく。北条たえて久しきあと也。われ此もとめずといへ共。諸人其名をよぶ。早雲このいへをつがん願望ぐわんまうによて。三しま明神みやうじん参籠さんろう通夜つやし給ふ霊夢れいむに。不思儀ふしぎのつげ有とかや。扨又大杉二本有けるを。ねづみ一ツ出て喰折くひおりたると見てさめぬ。此ゆめをうらかたに尋ね給へば。此でたき御霊夢れいむなり。関東奥州おうしうまでの国司こくし。両上杉殿上野かうづけ相摸さがみ両国にまします。此二本の上杉を。御退治たいぢ有べしと申ければ。早雲観喜くわんきあさからず。此両上杉をほろぼさんと。昼夜ちうや思量しりやうをめぐらさるといへ共。上杉殿は。さがみ武蔵むさし下総しもふさ常陸ひたち下野しもつけ上野かうづけ越後ゑちご佐渡さど出羽では奥州おうしうまでもことごとく。かの下知げちしたがふ然所に。両上杉殿うんすゑにや。扇谷修理あふぎのやつしゆり大夫定正さだまさ家老からう長尾ながを兄弟の中に。鉾楯むじゆん出来。其上長尾左衛門尉。子息しそく四郎右衛門尉むほんし。あまつさへ両上杉殿の中あしく成て。弓矢みだれ。やむ事なし。早雲此由を聞。讒臣ざんしん国をみだすといへる。古人こじん言葉ことば是也。両上杉ほろぶべき時至りぬと。人数にんじゆをもよほし。箱根はこね足柄あしがら山をこえ。小田原のしろをのつとる事明応めいおうの比ほひ也。此いきほひに其年。相摸さがみ半国はんごく切て取。其後定正さだまさ病死びやうし。民部大夫顕定あきさだ滅亡めつばうし。早雲永正十五年七月十一日。三うら道寸だうすん居城ゐじやう三浦の新井あらゐの城をせめ落す。早雲子息しそく氏綱うぢつな時代じだい小弓の御所義明よしあきら公。上杉朝興ともおき子息朝定ともさだ父子ふしうちほろばし。武総ぶそう両国へ手をかけ。氏康うぢやす時代じだいに。とうさうふさ四ケ国の人数にんじゆにて。上杉憲政数万騎と。年久しくたゝかひ。数度すど勝利せうりをえ。天文十五丙午年ひのへむまのとしの大合戦かつせん氏康うぢやすうちかつて。憲政を追討ついたうし。関八州をおさめ給へる事。文武ぶんぶ智謀ちばう世にまれなる猛強まうがうの大将たる故也。氏康うぢやすいはく。つみのうたがひをば。是かろくし。こうのうたがひをば。是をもくするにしかじ。近年諸侍しよさふらひみやうをなげうつて粉骨ふんこつつくし。数度すど忠功ちうこう軽重けいぢうおうじ。国郡くにこほりをさきあたへ給ひければ。諸侍しよさふらひよろこびのまゆをひらき。名誉めいよを関八州にあげ。子孫しそん繁昌はんじやう万歳ばんぜいをいはひ。氏政うぢまさなをまで五代。静謐せいひつに国をおさめ給ひしが。北条武運ぶうん末になり。宿報しゆくほうやうやくかたぶき。天心てんしんにもそむき。仏神ぶつじんもすて給ふにや。天正十八とらの年。氏直うぢなを時代じだいに至てほろびぬとかたる。早雲の合戦是は異説いせつなりといへ共。此物語の題号だいがう見聞けんもんの二オープンアクセス NDLJP:532字におうじてしるし侍る者也

 
 
見しは昔。北条氏直と武田勝頼たけだかつより〈[#「勝頼」は底本では「頼勝」]〉たゝかひの時節じせつ。駿州の内。高国寺かうこくじと三枚橋まいばしは。勝頼のしろ也。泉頭いづみかしら長久保ながくぼ戸倉とくら志師浜ししばま。此四ケ城はするがの国中こくちうたりといへ共。先年今川義元よしもと時代。北条氏綱うぢつな切て取しより以来このかた。氏直領国りやうごくとなる。義元よしもと信玄しんげん時代。此するが領を取返さんと。遺恨いこんやむことなしといへ共。つゐにかなはず。扨又ぬま津の浦つゞき。香貫かぬき志下しげ志師浜ししはま真籠まごめ江浦えのうら田飛たび口野くちの此等の浦里うらさともするが領氏直もち也。志師浜には大いし越後ゑちご在城ざいじやうす。此城のうしろに。わしずと云高山かうさんあり。勝頼かつよりするがへ出陣の時は。わしず山に物見の番所ばんどころ有て。人しかとぢうし。浮島うきしまが原を見わたせば。勝頼かつより陣場ぢんば様子やうす目の下に手に取がごとし。さればするがうらに。氏直兵船ひやうせんかけをくべきみなとなきゆへ。伊豆重須おもすみなとに。兵船ことくかけをく。ぬま津よりは二里へだゝりぬ。梶原備前守かぢはらびぜんのかみ子息しそく兵部ひやうぶ大夫。かしらとし。清水しみづゑち前守。富長とみなが左兵衛尉。山かど治部少輔ちぶのせうゆう松下まつした三郎左衛門尉。山もと信濃しなの守などゝ云ふなしやう重須をもす浦にきよ住す。氏直伊豆の国にをいて。軍船いくさぶねを十そうつくり給ひぬ。是をあたけと名付たり。一ぱう二十五丁両方合五十丁立の兵船ひやうぜん也。つねにひとりさぐる鉄砲てつぱうにて。十五間さきに板を立たまのぬけぬほどに。むくの木いたをもて。ふねの左右艫舳ともへをかこひ。下に水手かこ五十人。上の矢倉やぐらさふらひ五十人有て。さまよりゆみ鉄砲てつぱうはなつやうに作りたり。さきに大鉄砲てつぱうを仕付をきたり然に天正八年のはる勝頼かつより駿河に出陣しゆつぢんす。氏直も伊豆の国へ出馬しゆつばし。三島みしまにはたを立たゝかひ有。重須おもす兵船ひやうせん駿河うみはたらきをなすべきよし。氏直下知げぢに付て。毎日まいにち駿河海へのり出す。勝頼かつより旗本はたもとは。浮島うきしまが原。諸勢しよせい沼津ぬまづ千本の松原より吉原よしはらまで寸地すんちのすきまなく真砂まさごの上うみぎはまで陣取ぢんどる然に十そうふねにかけをきたる。大鉄炮てつぱうをはなしかくるてきこらへず皆こと退散たいさんしへいたる真砂地まさごぢ白妙しろたへに見えたり扨又てき諸勢しよぜいはまへ来て。いさごをほり上其中に有て。鉄題をちやうがけをきふねまつ所に十そうの舟みぎはをつたひこぎ行。陸と舟との鉄炮いくさ。あめのごとく舟にあたるといへ共兼ての用意ようい板垣いたがきとをる事なし。敵船てきせん清水しみづのみなとにかけをくといへ共。小船せうせんゆへつゐに出あはず。日くれぬれば伊豆へ帰海きかいす。然所に勝頼かつより下知げちとして三月十五日の夜いまだ明ざるに。敵船てきせんそう重須おもすのみなとへ来て。鉄炮てつぱうをはなつ。すは敵船こそ来りたれと。ふねを出す敵船は櫓二十丁立にて小船すえせんなり此舟をおひ行所に。沼津河ぬまづがはへも入ずして。勝頼かつより陣場ぢんば浮島うきしまはら下へこぎ行所に。又沼津ぬまづ川より舟二そう出し。合五艘に成ぬ。浜辺はまべに付てこぎゆくを十そうの舟をひかへる。此五艘の舟おきへこぎ出ては又浮島うきしまはら下へこき帰る。勝頼かつよりふねいくさ見物けんぶつとしてはまへおり下り。はた馬しるし見えたり。諸勢しよぜいはまへ打出塩水しほみづの中。こしだけに入て。ゆみ鉄炮てつぱうをはなつ。十そうの舟あつまりて。評定へうぢやうしていはく。敵船てきせん清水しみづ沼津ぬまづへもにげゆかず。又勝頼かつよりオープンアクセス NDLJP:533旗本はたもと浮島うきしまはら前海まへうみに来る事。勝頼下知げぢとして。舟いくさ見物けんぶつとしられたり。すべて味方みかたの舟二そうは。浜辺はまべ前後ぜんごに有て。八そうふねおきより敵船てきせんを取まはし。うつとらんと智略ちりやくをめぐらすといへども。小船せうせんにてはやければ。をひつきがたく。ひろかい中に。さんをみだしをひめぐる。勝頼かつよりそうの船共。にぐるを見て。はらわたをたつ。其せつ持出もちいでたる。はた馬じるし。甲冑かつちうことく其仕場居しばゐにて。やきすて本陣ほんぢんに帰り給ひぬ。日もくれぬれば。十そうの舟。伊豆いづ帰海きかいす。ある老士らうしいひけるは。それ大将は是非ぜひ分明ぶんみやう進退しんたい有べき事也。いくさ勝負せうぶは時のうんによる事なれば。まけたるとてもはぢにあらず。たゞ引まじき所引。かくまじき所をかくるを。大将の不覚ふかくといへり。武略ぶりやく智謀ちぼう武士ぶし名誉めいよ。是をしるを。文武ぶんぶ達者たつしや懸引かけひき上手じやうず勇士ゆうしとはいへり。然にてき小船せうせんにて大せんに出あひ。とられぬを手柄てがらにすといへどもにぐるばかりにては。何のゑきあらん。相摸さがみはたつかたとぞくいふてわが立方たつかたを引は。世のならひ也いかにいはんかた。終日しうじつ。にぐるを見て。諸軍しよぐんもいかで遺恨いこんなからん。ゑきなき舟軍ふないくさ見物けんぶつをこのみ。かへつ耻辱ちじよくまねき。大将末代まつだいまで不覚ふかくと申されし。されば浮島うきしまはら田子たごうらは。わきてことなる名所めいしよ海士あま釣舟つりぶねうかび。はらにはしほやくけぶりをこそ。うたにもよみたれ。其比はむかしにかはり。なみには軍舟いくさぶね数々うかび。はらには鉄炮てつぱうくすりの煙そらによこをれ。鬨音ときのこゑさけびのをとのみやむ事なく。修羅しゆらのちまたとなれり。いにしへかも長明ちやうめい東国とうごく行脚あんぎやせし。海道かいだう路次ろじに。田子たごうらいでて。富士ふじ高嶺たかねを打ながめて云。貞観でうくわん十七年ふゆの比。白衣はくゑ美女びぢよ二人ありて。山のいたゞきにならび。みやこのこしかゞ富士ふじの山に書たる。いかなるゆへぞとおぼつかなし

富士ふじの。風にたゞよふ白雲しらくもは。あまつ乙女をとめが袖かとぞ見る

とよめり浮島うきしまはらは。いづくよりもすぐれて見ゆ。きた富士ふじふもとにて。東西とうざいへはるとながきぬまあり。ぬのをひけるがごとし山のみどりかげをひたし。そらみづもひとつなり。あしかり小舟をぶね所々にさほさして。むれたるとりおほくさりたる。南はうみのおもてとをく見わたされて。くもなみけふりのなみ。いとふかきながめなり。すべて孤島こたう真砂まさごにさへぎりなし。わづかに。遠孤をんこそらにつらなれるをのぞむ。こなたかなたの眺望てうばう。いづれもとりに心ぼそし。原にはしほやのけふり。たへ立わたりて。浦風松うらかぜまつこずえにむせぶ。此原むかしうみの上にうかびて。蓬萊ほうらいみつしまのごとくに有けるによりて。浮島うきしま名付なづけたりと。聞にもをのづから。神仙しんせんすみかにもやあるらん。いとゞおくゆかしく見ゆ

影ひたす。沼の入江に富士の根の。煙も雲も浮島が原

ゑいぜりやがて此原につゞきて。千本の松原まつばらと云所あり。海のなぎさとをからず。松はるかに生わたりてみどり〈[#「緑」は底本では「縁」]〉かげきはもなし。おきには舟は行ちがひて木の葉のうける様に見ゆ。かの千株せんしゆの松のもとに。双峯さうほうてら。一えうふねうちの。万里ばんりの身とつくれるに。かれも是もはづれず。眺望てうばういづくにもすぐれオープンアクセス NDLJP:534たり

見わたせば。千もとの松のすゑとをみ。みどりにつゞくなみのうへかな

と長明よめり。かの千本の松原は。勝頼かつより時代じだい海賊かいぞくのためのさはりとて。切捨きりすてげり。今は其ばかりぞのこりける

 
 
聞しは昔。越後ゑちごの上杉藤原輝虎ふぢはらてるとら入道鎌信けんしん〈[#「鎌信」はママ。以後同じ]〉と。相摸さがみ北条平氏康たいらのうぢやすたゝかひ。つゐ和睦くわぼくの儀なし。然に輝虎てるとらいかなるおもはくにや。氏やすと一の心ざし有によて。氏康の七なん三郎殿を養子やうし所望しよもうせり。輝虎実子じつしなきがゆへなり。是によて三郎殿十七さいにして。永禄ゑいろく十二年のはる越後ゑちご越山ゑつざん家老からうには。とを山左衛門尉。山中民部みんぶをさしそへられたり。輝虎てるとらのぞみたんぬと。自他じた嘉幸かゝうなゝめならず。其上をい長尾ながを喜平次景勝かげかついもうとを。三郎殿のつまとなし。上杉三郎景虎かけとら改名かいみやうし。家督かとくをつぎ春日かすが山に給ひぬ。然に氏康は元亀げんき元年十月三日に逝去せいきよ輝虎てるとらは天正六年三月十三日頓死とんし也。鎌信けんしん居所きよしよは春日山の本城ほんじやう景虎かげとらは二の曲輪くるわなり。景勝かげかつはならびの曲輪くるわに有しが。野心やしんをさしはさみ。越後ゑちごの国をうばひとらんと。計策けいさくをめぐらすといへ共。景虎かげとら此くはだてを夢にもしらず鎌信けんしん第一の家老からう北城きたじやう丹後守たんごのかみをはじめ。諸侍しよさふらひ景虎かげとら尊敬そんきやうにより。其心付なく油断ゆだんする所に。時日じゞつうつさず。景勝かげかつ同十三日人数にんじゆひきつれ。本城ほんじやうへはしり入て。もんをかため二の曲輪くるわを。目の下に見て。弓をかけ。鉄砲てつぱうをはなしかくる。景虎かげとらたゝかふといへ共こらへず。出城しゆつじやうし。越後ゑちご府中ふちう。おたちしろに取こもる。北条丹後たんご守は。越後の内。とちうのしろに。遠路ゑんろをへだて有つるが鎌信けんしん頓死とんしによて。春日かすが山にたゝかひ有よしをきゝ。いそぎはせさんじ。景虎かげとらへ一す。是によて諸卒しよそつを。善光寺ぜんくわうじうつし。ぢんはつて。春日山へ人数にんじゆをさしつかはし。いくさ有て。いどみたゝかふ。景勝かげかつがたまけたるべしとぞ。人沙汰さたしける。然ども景勝へおもひにはせくはゝり。一皆一す。景勝智略ちりやくをめぐらし。夜中やちうしのび入て。丹後守たんごのかみ陣取ぢんとつ善光寺ぜんくわうじのうしろへ人数にんじゆをまはし。近々ちかと取よつて。ときをどつとつくり。おめきさけんで切かゝる。北条丹後守は。其を得たる。大かうの者なりといへ共。おもひのほかとおどろき。すでにはいぐんす。府中ふちうしろを心がけ落行おちゆき所に。景虎かげとらうんすゑにや。北城きたじやういた手おひ府中ふちうに入て。其日に〈[#ルビ「し」は底本では「す」]〉武田勝頼たけだかつよりは。景虎かげとらいもうとむこたり。越後ゑちご鉾楯むじゆんのよしを聞。人数にんじゆをつかはし。勝頼かつよりの跡より出陣しゆつぢんする所に。景虎かげとらうちまけ勝頼の陣中に入。先もて安堵あんどの思ひをなす。其頃勝頼の家老からう長坂長閑ながさかちやうかん跡部道印あとべだういん出頭しゆつたうし其に。甲斐かひ国中こくちう飛鳥とぶとりおちぬべしといふ。此両人深欲しんよくにふけり。無道むだう沙汰さたし。武田たけだいへ滅亡めつばうのはしと。いひならはす。然に輝虎てるとらなつ中。京へせめのぼるべきよし。かねての支度したくに。貯へをきたる。黄金わうごん数箱すはこに入をきたるを。さいはひなる哉此きんを取出し。長坂長閑ながさかちやうかんに千両。路部道印あとべだういん〈[#「路部」はママ]〉オープンアクセス NDLJP:535に千両。勝頼かつよりへ五千両つかはし。越後ゑちごよりにげゆく。景虎かげとら誅罸ちうばつし。此度景勝かげかつを御引立ひきたてこれあるに付ては。生前しやうぜん大幸たいかうたるべきむね。使札しさつをさしつかはす所に。かのしん千両ヅヽのきんを見て心まどひ。勝頼へ申て云。きみ織田信長をだのぶながといふ大てきを持給ひて。たゝかひやむことなし。其上越後ゑちご相摸さがみ。一にをいては。甲州かうしう持国じこくはたして。あやうかるべし。三郎殿をちうし。越後と和順わじゆん然るべしとしきりに。いさめ申に付て。勝頼かつより万事ばんじ。両しんはからひなれば。其儀にまかせ。三郎をがいし給ひぬ。越後鉾楯むじゆんの義小田原へ聞え。いそ人数にんじゆをさしつかはす所に。先陣せんぢんは上州沼田ぬまたに付。氏政うぢまさは武州河越かはごえまで着馬ちやくば遅参ちさんゆへ。三郎は勝頼かつよりのためにちうせらるゝよし。途中とちうより。ゑきなく引返すとかたりければ。かたへなる人聞て。景虎かげとら滅亡めつばうは。輝虎てるとらかねてのはかりごと。遺言によて也。其乱觴らんしやうを尋るに。輝虎実子じつしなきゆへ。をひの景勝をやう子に思ひさだめり。されどもわれ。明日あすにもすならば。氏政は信玄しんげんむこなり。越後ゑちごへはたらくに至ては。景勝は幼雅ようちはたして。ひとの国となるべし。しかしたゞ氏康の三郎を養子にもらひをき。景勝成人せいじんまでは。人ぢちに取たると心得べしと。家老からうの者にいひふくめ。永禄ゑいろく十二年より。天正六年までは。十年以前いぜんよりの謀計ぼうけいなりとかたる。ある老士聞て。それ人は一生涯しやうがい欲心よくしんにまよひ。おやとあらそひ。をとゝあに鉾楯むじゆんする事。いにしへも今も有ならひなり。輝虎遺言なしといふ共。景勝越後ゑちごを取べき計策けいさく有て。三郎をちうしたるはことはり也。さて又輝虎てるとら遺言。もし治定ぢぢやうにをいては。悪逆無道あくきやくぶだうはたして。仏神ぶつじんのにくみをうくべし。かくのごときの武略ぶりやく先古せんこにもきかず。末代まつだいとても有べからず。是ひとへに小人のはかりごとにて。大人にはなき事也。かばかり我国あやうく思ふに至ては。隣国りんごく真実しんじつに。和平わへいなくして。仁義じんぎに背きたるはかりごと。たとへたんをうる事有といふとも。世のゆびさす所。人のをそるゝ計略けいりやく也。ざいくはんもとたねなし。あく事をもて種とすと云々。神明しんめい横道わうだうなし。鬼意正直きいしやうぢきをこのむ。たゞ簾直れんちよくをむねとし。身のわざはひをのがれ。祈念きねんを先として。いへうんまつにはしかじ。然ときんば。悪鬼あくきかへつ守護しゆごし。神明しんめいすなはち利生りしやう有。それ大将と云は。仁道じんだうもつぱらとし。慈悲じひ愛敬あいきやう有て。を心とし。清白せいはくを身として。業報ごうほうを。をそるべき事なりといへり
 
 
見しは今。相模さがみ安房あは上総かづさ下総しもふさ武蔵むさし此五ケ国の中に。おほきなる入うみあり。諸国しよこくうみをめぐる大魚は。此入海を。よきすみ所としつてあつまるといへ共。関東くわんとうのあま。取事をしらず。磯辺いそべうをを小網釣あみつりをたれて取はかりなり。然所に今武州江戸はんじやうゆへ。西国さいこく海士あまは。こと関東くわんとうへ来り。此うをを見て。ねがふにさいはひかなと。地岳ぢごくあみといふ大あみを作り。あみの両のはじに。二人してもつほどのいしを二つくゝり付。是を千ぐわん石と石付なわを二すぢ付。ながさ三尺ほど。はゞ二三寸の木をふりと名付て。大づなの所々に。千も二千も付る。此真木まきといふ木うをの目には。ひオープンアクセス NDLJP:536かるといふ。はや舟一そう水手かこ六人づゝ。七そうに取のり。大かいこぎ出で。綱をおろし両方へ三艘づゝ引わけて。大つなを引。一艘はことり舟と名付あみ本に有て。左右の綱のさし引する。此網の内にある。大うを小魚一つもほかへもるゝ事なし。海底かいていのうろくづまでもことく引上る。扨又砂底すなぞこにある貝をとらむとて。あみのもとにいしを二つ。をもにつけ。それにかな熊手くまでを作り付あみうみへおろし。大づなを引はへて。舟の内にまきくるまを仕付。いかりを打て。綱を引ぬれば。すな三尺そこにある。もろかい共を。熊手くまでにかけて引おこす。天地かいびやくより。関東にて見も聞もせぬ。かいていの大うを砂底しやていの貝を取上る。其程に四を待て。なみの上いさごの上に出る。魚貝うをかい共今は時をしらず。つねにぶくしぬれば。江戸にてはつ魚初貝のさたなし。はや二十四五年以来このかた此地ごくあみにて。取つくしぬれば。今は十の物一つもなし。数罟汚池ざつこをちに入ずんば。魚鼈ぎよべつあげてくらふべからずとは。孟子もうし言葉ことばなり。其上淮南子わなんしに。ながれをたつてすなどるときんば。明年めいねんに魚なしといへるも。おもひ出てうたてさよ。もろの魚のなかにも。とり分たいすゞきこそゆかしけれ扨桜鯛と名付春に用ひ鱸を秋のによみ給へるも。いとやさしかりき。かつをしびは毎年度に至て。西海さいかいよりとう海へ来る。伊豆いづ相模さがみ安房あはうらにつり上る。初鰹はつかつをしやうくはんなり。天文六年のなつ。小田原浦近く。釣舟つりぶねおほくうかび。鰹をつる。此よし北条氏つな聞召。小舟にめされ。海士あまのしわざを御見物けんぶつ珍事ちんじ御遊ぎよゆう盃酒はいしゆけうじ給ふ所に。鰹一つ御舟へとび入たり。氏綱喜悦きゑつにおぼしめし。勝負せうぶにかつうをと御祝詞しうし。なゝめならず。即時そくじ酒肴しゆかうに用ひらる。然におなじき七月上じゆん。上杉五郎朝定ともさだ。武州へ発向はつかうのよしつげ来る。氏綱出陣しゆつぢん同十五日の夜いくさに。氏綱討勝うちかちて。武州ぶしうおさめ給ひぬ。其比は四方よもてき有て。まいたゝかひやむ事なし。氏綱賞翫しやうくわんし給ふくだんかつをは。勝負せうぶにかつうをと。もてはやしつね支度したくし。諸侍しよさふらひ戦場せんぢやう門出かどいで酒肴しゆかうには。かつうををもつはらと用ひ給ひぬ。扨又本草綱目ほんさうかうもく人魚にんぎよありかたち人にて。はらに四そく有。ひれのごとし。海山河うみやまかはにも有魚人ぎよじんのあみにかゝる人をそれてくらはずとむかしみちのく出羽では海浦うみうらへ。人魚しんでながれよる事度々どゞにをよべり。文治ぶんぢ五年のなつ。そとのはまへ。人魚にんぎよながれよる。人あやしみこぞつて是を見る。おなしき年のあき秀衡ひでひら子息こと滅亡めつぼうす。又建保けんぽ元年のなつ秋田あきたうらへ人魚ながれよる。此よし鎌倉かまくら殿へ注意ちうしん〈[#「注意」はママ。「注進」の意か]〉す。此義を。はかせにうらなはせ給へば。兵かくのもとひと申に付て。御祈祷きたうあり。同年五月二日。和田義盛わだよしもり大いくさあり。建仁けんにん三年四月。津軽つがるの浦へ。人魚にんぎよながれよる。将軍しやうぐん実朝さねとも公。悪禅師あくぜんじがいせられ給ひぬ。宝治ほうぢ元年三月十一日。津軽の浦へ人魚ながれよるよし。注進ちうしんす。是によて。八幡宮まんぐうにをいて御祈祷あり。同き六月五日。三うら泰村やすむら合戦かつせんあり。同二年の秋。そとのはまへ。人魚ながれよるよし風聞ふうぶんあり。其比鎌倉かまうら殿のじつけんは。北条左近将監さこんのしやうげん時頼ときよりなり。此よしをきゝ。先規せんき不快ふくわいの義なりと。おどろきみちのくの国司こくし。三浦五郎左衛門尉盛時もりときに。たづねらるゝによつて。奥州おうしう飛脚ひきやくをつかはす所に申て云。去九月十日津軽つがるうらへ。人魚にんぎよオープンアクセス NDLJP:537がれよるといへ共。先々三注進ちうしん申。皆もつて不吉ふきつの事。地下ちげ人かくし。申上ざるのよしを申。此義不快ふくわいたるにより。将軍家しやうぐんけ諸寺しよじしやへ御祈請きしやうの事あり。うをうちに人魚有事。必定ひつぢやう海人かいじん殺生せつしやう。いふにたへたりと申されし
 
 
見しはむかし。天正の此ほひ。常陸ひたち国江戸さきといふ所に。諸岡もろをかと云て。兵法へいほう名人めいじんあり。いにしへの。飯篠長威入道いひざゝちやういにうだうにも。をとるべからずといひならはす。然るに土子つちこどろの助。岩間いはまぐま根岸ねぎし莵角とかくと云て。名をうる弟子でし三人あり。此者共兵法に身をなげうち。昼夜つちうや付そひけいこする所に。諸岡重病ぢうびやうふし存命不定ぞんめいふぢやう也。莵角とかく病人びやうにんを見すて。逐電ちくてんす。然る両人の弟子でし扨もにくし莵角めを。をつかけうたんも行衛ゆくゑをしらず。深恩しんをんを忘るゝ事。仁義じんきみちに。そむき神明しんめい冥感みやうかんにもはづれたり。師のばつのがるべからず。かく有べしとしるならば。切てすてべきをと。矢じりをぞかみける。両人は身まづしければ。かたな脇指わきざし沽却こきやくし。一までもしろがへ。医術いじゆつつくし。三年看病かんびやうすといへ共。諸岡もろをか。ついにしゝたり。かの莵角とかく相州さうしう小田原へ来る。天下無双ぶさう名人めいじんと云ならはす此者長高たけたかく。かみは山ぶしのごとくまなこかどありて。物すごく。つね魔法まほうを。おこなひ天狗てんぐ変化へんげと云よるふし所を見たる者なし。愛岩あたご山太郎坊。よる来て。兵法の秘術ひじゆつつたふると申て。微陣流みぢんりうと名付。人にをしへ弟子でし共多かりけり其後武州ぶしう江戸へ来て。大みやう小名に弟子でしおほく有て。上見ぬ鷲のごとし。然に常陸ひたち相弟子あひでし両人此よしを聞及び。是非ぜひに江戸へ行。蒐角をうつべし。其上師伝しでんのりうを埋み私曲しきよくをかまへ。微塵流みぢんりうがうし。兵法つたふる事。も草のかげにて。さぞやにくしとをぼすらん。天罰てんばつのがるべからず。木刀ぼくたうにて打をろし。蒐角がかばねを。路頭ろとうにさらし。はぢをあだふべしたゞしこれ一人を二人してうつては。うれしからず。世の聞へも然べからず。我々が手なみをば。莵角こそかねてよくしりたれ。両人が中にて𩰘くじをとり。みくじに取あたる者。一人江戸へゆくべしとさだめ。小熊こぐま𩰘くじにとりあたつて。江戸をさして行。どろの助は国にとゞまり。時日じゞつを移さず。鹿島かしまの明神にまうでゝ。願書ぐわんしよをこめ奉る

   敬白うやまいてまをす願書すぐわんじよたてまつるをさめ鹿島大明神かしまだいみやうじん御宝前ごほうぜん

右心ざしのをもむきは。それがし土子つちこ泥之どろの助。兵法ひやうはふ師匠ししやう諸岡もろをか一羽いつは亡霊ぼうれいに。敵対てきたい弟子でしあり。根岸ねぎし莵角とかく名付なづく此者おんを。あだをもつて。ほうぜんとす。今武州ぶしう江戸に有て。私曲しきよくををこなひ逆威ぎやくいをふるひをはんぬ。是によつて。かれをうたん為それがしの相弟子あひでし岩間小熊いはまこぐま。江戸へはせ参じたり。あふぎねがはくは。神力しんりきまもり奉る所なり。此のぞみたんぬにをいては。二人兵法の威力いりきをもつて。日本国中を勧進くわんじんし。当社たうしや破損はそん建立こんりうし奉るべし。もし小熊を。うしなふにをいては。それがし又かれと。雌雄しゆうを決すべし一ツ。千に。それがしまくるにオープンアクセス NDLJP:538至ては。生て当社へ帰参きさんし。神前しんぜんにてはらもん字に切。はらわたをくり出し。悪血あくちをもつて。神柱じんちゆをことくあけにそめ。悪霊あくりやくと成て。未来永劫みらいえいこう。当社のひはを。草野さうやとなし。野干やかんすみかとなすべし。すべて此願望ぐわんまう毛頭もうとう私欲しよくあらず。師の恩をしやせんがため也。いかでか神明しんめいの。御あはれみ御たすけのなからん仍如件

 文緑二年癸巳みづのへのみ〈[#ルビ「みづのへのみ」は底本では「かのとのみ」]〉九月吉日          土子つちこどろ之助

かきて。御宝殿ほうでんをさめ。本たくに帰りぬ。扨又小熊は江戸へ。夜を日についいそぎける。然に小熊こぐま江戸へ来るを見るに。小をとこにて色黒いろくろく。かみはかぶろのごとし。ほうひげ。あつくひたる内より。まなこぎらめき。誠ににしおふたる小熊なり。此者兎角とかくが事をばさたせずして。御しろの大。大はしのもとに先札まづふだを立つ。そのをもむきは。兵法へいほうのぞみの入是あるにをいては。其じん勝負しやうぶけつし。師弟していやくさだむべし。文録二年癸巳みづのへのみ〈[#ルビ「みづのへのみ」は底本では「かのとのみ」]〉九月十五日。日本無双ぶさう岩間いはま小熊こぐまかきたり。蒐角とかく弟子でし百人あり此ふだを見て。にくきやつめが。さつの立やうかな。天下にかくれなき。莵角とかく江戸におはするをしつてたてけるか。しらで立たるか。まづ札を打わつてすて。小熊こぐまをばよりあひ。たゞぼうにて打ころせとのゝしりあへる所に。とかく聞て愚人ぐにんなつむしとんに入とは。小熊こぐまなるべし。たゞ一うちに。われ打ころし。諸人に見せんと放言はうげんし。御奉行ぶぎやう所へ此を申上。すなはち大はしへ両人出たり。御奉行衆はじめ両方に弓鑓ゆみやりもち稽古けいごし両人のかたな脇差わきざしあづかり給ひぬ。扨両人はしの東西とうざいへ出る。莵角は大すじの小袖に。しゆすのめうちのくゝりばかまを白布はくふをよりて。たすきにかけ。くろはぎわらんぢをはき。木刀ぼくたうを六かくに。ふとくながふつくり。てつにてすぢがねをわたし。所々にいぼ〈[#「肬」は底本では「肱(ひじ)」]〉をすへ。是をひつさげいぶせきていにて出る。小熊こぐま鼠色ねずみいろ木綿もめんあはせに。あさぎの木綿はかまを足半あしなかをはきぼくせうなる姿すがたにて。つね木刀ほくたうもち出る。両方よりすゝみかゝつてうつ。両の木刀はたと打あひ。たがひにをすかと見えしが。小熊莵角を。はしげたへ押付をしつけ片足かたあしを取て。さかさまに川へ。かつぱとおとしたり。小熊はすまふも上と聞えしが。此度の仕合に出合たると皆人さたせり。莵角はぬれねずみのすがたにて。それより逐電ちくてんす。小熊は天下に名をあげたり。愚老ぐらう見物けんぶつせしか共。人群集ぐんじゆ故。たしかには見ざりけり。侍衆さたし給ひけるは。此者どものたゝかひを見るに。木刀ほくたうわきひつさげ。両方はしりかゝつて。はたと打合たる斗なり。両人様々の太刀たちしるといへ共。極位ごくゐに至ては。五尺の身を目当にして。切より外の太刀はなしとしられたり。むかし下総しもふさの国。香取かとり塚原木伝つかはらぼくでんと云。兵法者有しが。是希代きたいの名人。末代まつだいにをいて。木伝が一ツの太刀といひならはせり。ていれば太刀の名。様々有といへ共。きはまる所は一たうしられたり。たゞし一刀としるといふ共。稽古けいこなくして。本分のくらゐに。至りがたし。莵角とかくも小熊も名人たるによつて。目がねの寸しやく少もはづれず。両方の太月。ちうにてはたとあたつて。其木刀ぼくたうほごれざるも。奇特きどくなり。勝負せうぶのならび。一方かち。方まく。たゞ運命うんめい厚薄ごうはくにこたへたり。されオープンアクセス NDLJP:539共兎角。はしげたへをし付られ。川へおとされしは。小熊に勇力ゆうりき。をとりたる故なるべしと申ければ。爰に岩沢いはさは右兵衛助と云人是を聞て。其せつわれ奉行ぶぎやうの内にくははり。はしもとに有て。勝負せうぶをたしかに見たり。小熊はとく来て西よりいで兎角とかくひがしより出むかふ所に。わが近所に。たか豊後守ぶんごのかみと云老士らうし有しが。是を見て。いまだ勝負せうぶなき以前いぜん。すは莵角まけたりと二こゑ申されしを。不審ふしんにおもひ其後其言葉ことばをたづねしに。豊後守云けるは。小熊右に木刀ぼくたうもちひだりの手にてかしらをなであげ。いかに莵角ととばをかくる。莵角さればと立て。ほうひげをなでたり。是にて高下かうげのしるしあらはれたり。其上莵角。御しろむかつて釼をふり。いかでかつ事をえん。是運命うんめいのつくる前表ぜんぺうなり。然ば莵角は。大をとこの大りきなる故に。小熊をあなどりて。たゞ一打と。上だんにかまへたり。小熊は小をとこにて。無力ぶりきなれ共。功者こうしやたる故かひ打して叶ふべからずと。則妙そくめうてんじ。下だんにもつ。あんのごとく苑角一打とうつ所に小熊はたとうけとめ。とかくをはしげたへ。をし付る。はしげたこしより下に有ければ。兎角川へさかさまにおちたりすべて兎角強力かうりきをたのみとし是非ぜひ進退しんだいをわきまへず。有てたけし。是血気けつき勇士ゆうしといひて。本意にあらず。小熊は項王かうわうがいさみを心とし。張良ちやうりやうがはかりごとをむねとす。てきつよくをごれども。我はをごらず。やなぎの枝に雪おれのなきがごとし。変動へんどうつねになし。てきによつて転化てんくはすといへる三りやく言葉ことば。小熊が兵法へいほうにて。思ひあたれりと申されし

 
北条五代記巻第七