松隣夜話

 
 
 

 
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松隣夜話 巻之上
 

関東の御所持氏生害の後、両上杉、権を恣にし、頻に猛威を振ふと雖も、亦両家威を争ひ、殊に扇谷の忠臣太田道灌、死を給はり、北条其費に乗りて、次第に勃興し、上杉両家衰へしかば、先づ両家和順し、北条家を亡さん事を欲す。両上杉家老功者の面々打寄り、見聞の様ならば、両上杉共に、北条の為め滅亡せん事、踵を廻すべからず。極運といひ乍ら、口惜しき次第なりとて、長尾意玄入道を先として、諸将相議し、両大将へ諫言を致し、以前の如く無事にして、北条退治せんと謀を廻す。此時は、両家若世となり、御父は共に逝去まし、山内をば則政、扇谷をば朝義と申す。扇谷殿は、従来小身なる上、太田一乱にて家中衰へ、大身の侍数輩取退き、当時は山内殿を以て、管領と仰ぎて、国々の執政、此家より出づ。北条も、早雲の子息氏綱の代となり、豆・相両州を治め、其勢一万余を以て、多年攻め戦ひ、或は神奈川・所沢・瀬田茅などといふ処にて、十余箇度の合戦に、則政公一度も御出馬せず、軍旅の法悪しき故、上オープンアクセス NDLJP:158杉衆、毎度敗軍し、大剛覚えの兵士共、無謀の戦に皆討死を致し、走り遁れたる者共は、新参仕出の嬖人、例の奸者なり。然りと雖も上杉家、猶ほ十箇国に及べる大身故、負くれども勢も透かず、北条は未だ小勢にて、近国に助くる味方もあらず、竟には又如何あらんと、諸人別れ兼ねける処に、是も亦、須加野大膳・上原兵庫といふ曲者権を執りて、義士勇兵遁れ隠る。則政公仕置違ふ故、管領数代の繁栄、一朝に滅却し給ふこそ浅ましけれ。須加野といふ者は、都の町人、舞曲の名人とて、召下されたる人。上原は本来当家の侍吉客なる者にて、次第に歴上り、此頃は坂東十箇国の成敗、只両人が掌の中にあり。取伝へたる上杉家弓箭の古風に依る事なく、新儀を用び、華美の好み、君臣の間を遠く避け、下の情、上に通ずる事を塞ぎ、合戦の砌、大将の御出馬おはすをば、軽々しきと嫌ひ、己が気に逆ふ武士を選み出し、敵合の方に之を遣し、討死亡命する事を笑壺に悦び、政行善忠道理に構はず、陣中にて法を置き、役々の器をも選まず、目付などとて職を司る族、見聞向正しからず。故に後を取りたる者、或は賞禄を給はり、覚ある者、最戒に遇ひ、境国は日々夜々鯨波を挙げ戦ふと雖も、都府中は是を余所に見、舞乱・猿楽・月見・花見等、閑に推移る。長尾意玄深く之を愁歎して、数度諫静すれども、須加野・上原附副へ相妨ぐるに依つて其詮なし。此時に当りて、取退き別旗を立てし人々、先づ越後為景の一族・長野信濃・伊勢小幡・白倉一党・結城朝宗・千葉義実・太田三楽なり。〈太田、素は扇谷の家臣、道灌死後山の内に依る。〉

三楽、日頃則政公へ参り、馴れたる日蓮僧を以て、使として申されけるは、故道灌横死の後、幕下に候し、多年相睦むの処に、近頃御家風大に違ひ、国家を治め給ふべき善政、絶えて之あらず候。第一軍族の法乱れ、賢士・勇兵手を失ひ候に依つて、所々の御合戦に、一度として御勝利なき事、是併御屋形盲将にて、御目利違ひ、悪人を以て大任を授け給ふ故なり。御家中忠臣の士も、猶あるべく候へども、讒佞権にあるが故、口を閉ぢ目を塞ぎて、扨罷在候。凡そ亡国の兆、何事か之に過ぎ申すべく候。玆に於て、今より以後は、別旌に罷成り、小弱の一身を以て、安危を定むべしと存ずるにて候。今迄は御威勢尚ほ存す、命東国の主にて渡らせ座すに依つて、憚る所なく、此儀を申すにて候。若し世上打替り、御事かけもおはすに於ては、何事も其節の御用をば、いなみ申すべからず候と、心腹を残さず申されける。則政答へけるは、先づ以て別旌の事、貴慮の外他段なし。其期に於て、心底を残さず申され候。最も義に当れり。オープンアクセス NDLJP:159当家の諸将表裏を構へ、恩を忘れ危を捨て、北条へ心を通じながら、又平井へも出仕申され候条、本意を失ふといひ乍ら、今時の通例なれば、言葉なく候。貴坊の端言を忘ると、万里の異、其中にありとぞ仰せける。其折しも、上杉古参の侍上杉主人子息三五郎といふ者あり。去年瀬多茅の戦場にて後を取り、其難を遁れんが為め、味方にある雑式童の首を斬り、実権に備へたりなど、様々悪説を蒙り、則政公御前を損じ、殿中に於て討捨に遇へり。父主水大に憤り、こは如何に愚息三五郎、去年両度の出陣に、鎧武者の三つ迄自ら討つて之を得、上杉武士の事柄には、抜群の働、重賞に預るべきなど、郎従共は常々申しける。夫をこそなからめ、結句未練をしたりとて、打捨にせらるゝ条、言語に及ばず。我一族たらん者、七生迄泉下に骨を投じて、此遺恨を報ずべし。陣中に法度なき、暗士・盲将の群集たれば、讒言の為す所と覚ゆるなり。暫く事を静めて、其実を問うてこそと、少しも色に出さず、理に伏したる様にて之を聞くに、其陣目付逆輪次郎・土井角兵衛、三五郎に対し宿意ありて、上原兵庫に付き之を讒す。兵庫は、又主水と不快に依つて、即ち遂に上庁、様々虚説・奸説を催し、此処に及べる由、人口にあり。主水之を聞澄し、女中と稚き子をば、越後へ退け、三五郎弟常松并に郎党金鉄の勇士、混甲に出立ちて、十三人、五月の暗夜子の刻計りに二手に別れ、土井宿が所柳が辻に押寄せ、両所に火を放ち、裏表より切入り、角兵衛を初め妻子迄、寸々に切捨て、足を屯さず、先づ近辺なりとて、上原兵庫が侍小路に押寄せ、是も同じく火を懸け、両方より乱れ入る。兵庫屋敷には、近所に焼亡あり。馳せ合はんと犇く折しも、何とは知らず、混甲の兵士、煙の下より打つて出でたる間、上下の男女騒動し、相撃してなす所を知らず、数十人ありたる若党、合敵に当る者稀なり。兵庫は寝殿にありて、驚き起きて目をする所に、裏より塀を破りて、鎧ひたる武者六七人、会釈もなく討つて懸る。是は後の山より、搦手に廻りける主水等なり。兵庫之を見て、何者とは知らざれども、先づ懸合ひ置きたる長刀取合せ、真驀に懸り、主水が膝の渡りを、したゝかに薙ぎけれども、兵庫運尽きてやありけん、草摺をはね切られて、念なく主水に討たれけり。主水大に呼ばはり下知をなし、当るを幸と切つて廻りければ、妻子眷属は、寝殿居間の辺にて、散を乱して討たれけり。夫より大手の常松等と一手にならんと、客殿より広間へ打つて出でたりければ、大手の者共は、式台の辺にて、当番の若党と打合ひたる最中なり。主水又奮撃して、当番の兵士に相当り、竟に追崩し、余多討取る。常松はオープンアクセス NDLJP:160先年十四歳、幼稚と雖も、勇気双なく、力量尋常に勝れ、打物に得たる事、又自在なるに依つて、兵庫が郎等、殊に勝れたる者、所々にて五人迄討たれてけり。後日謙信公、聞及び給ひ、越後に召され、奉公の間、度々の功、比倫に絶え、鬼神石と申しける者是なり。主水が郎従の内にも、六人疵を蒙る。其内三人は、殊に痛手なり。歩行なり難かりければ、之を打捨て、主従十人相連れ、逆輪が宿所蓮島を志し、揉みに揉みけれども、所々にて疑はれ、十町計りの間にて、五月の短夜明けければ、今は如何に思ふとも、十人足らずの小勢にて、中々本意を遂げ難く、憖なる事仕出しては、後に悔ゆとも詮なしと、夫より引違へ、猿が坂に懸り、越後の方へ落行きぬ。所々にて行逢ひ聞付けたる者も、したり顔にてありける程に、討留めんといふ者一人もなく、父子主従各恙なくて、越後の白屋といふ処にあり。

上杉古参の大名藤田・見田・荻谷等の人数評定して、平井の不久を鑑みて、氏康に手を入れ、旗下に属す。此時を得て、氏康、伊豆・相模を催し、扇谷朝義の居城河越を乗取り、其競を以て、中武蔵太田三楽取出で、松山をも攻め落し、河越には北条左衛門を籠め、松山には同名龍山を差置かる。其急既に喉に逼る故、両上杉大に仰天まし、則政公・朝義公御出馬と定め、十四州の人数催促に応ずる族を率し、八万余りにて、武州に打出で、井流間近き所柏原といふ処に、本陣を居ゑられ、結城・多賀谷大勢を以て、河越に取詰め之を攻む。其時太田三楽方へも、会軍の一通ありけれども、三楽返答申されけるは、今度は御勢莫大に候。不肖が会士に相及ばず。松山の儀は、後日御勢を惜まず、三楽一旌にて、乗取るべく候とて、敢て領掌之なし。其意趣、必定此度も、奥方敗軍たるべし。三楽僅の勢にて、相会といふとも、大敗軍の時盛返すべき、其道あるべからずと存ぜられ、此の如く申されしとなり。氏康は一万余りにて、井流間川の西端に陣を張り、天文六年七月十五日の夜軍に、柏原の本陣に切入り、二時計りに切崩し、八十余敵を討取り、両上杉共に敗軍なり。是は由良といふ上杉侍、二千計りの大勢、氏康の語らひを得て、裏切せし故なり。上杉衆到着、八万余之ありと雖も、身に懸けて敵合する者僅に一万に足らず。其余は悉く見物人の様にて、敗軍に引立てられ、動乱せし計りなり。河越の夜軍とて、氏康の大手柄に沙汰ありけるは是なり。結城・多賀谷は、聞ゆる勇将たる故、上杉敗軍にも、備を動かさず夜を明し、白昼に氏康の前を押通り、恙なく引いて帰る。其頃坂東にて、くり引といふ事絶えてなく、是より興りけるとなり。氏康は、夜明けて松山の城へ入り、降オープンアクセス NDLJP:161参の諸将に対面まし、即座にて本頭安堵の免状を給はり、後日三楽批判して曰く、結城多賀谷両勢六千余、十六日の未明、氏康、松山へ入らんと押立てたる勢の半腰に蒐らば、勝利を得ん事は、十に八つ。但し結城も、是等の図を見付けぬ将にてはなけれども身に懸りたる鑓にてなければ、人数を損ぜず引取り、謀を専と守りたるなるべしとなり。

扇谷殿は、柏原の引陣にて、前に当り、手負ひ給ふ。其年の九月逝去まします。御舎弟友貞、夫より平井に便り、則政の養子となり、幽なる体に、平井に住し給ふ。

氏康、弥〻大勢になり、平井の味方、日を追うて減ず。只今出で来る事の様に、則政仰天斜ならず。玆に於て三楽方へ、玉縄といふ者を越され、如何して然るべきやと御相談あり。三楽、

使者に対面して、仰の旨承知仕候。夫れ大家の習、傾きさは立ち候てより、治まる事はなり難きためし古今に候。然れば御家の衆にて、北条を仕詰め給はん事、千に一も其道なく候。

何と日を経候はゞ、必ず味方に敵出来て、同士崩になりぬと存候。中々に、一向御自分の謀を問ひ候。北越の景虎を頼入ると仰せられ、御尤に候。景虎は、古今稀なる勇将にて候上、士を仕ふ道、天性得たる者に候。長生にさへ候へば、功を立つべき事、目前に候。扨又、仮にも

約諾を変じて、影暗き振廻を仕らぬ気質の人に候。景虎領掌あるに於ては、某は本来の義、南北より牒じ合せ、氏康手を出さざる様に、謀を廻らし候べし。口惜きかな、一万程手の者を持ち候はゞ、越後へ御手遣とは申すまじく候へども、数を尽し候時、三十に過ぎざる小勢にては、如何存じ候ても、一旌にて、其功なり難しとぞ返答せられける。

玉縄帰れば、平井にて、須賀野大膳等近臣推寄り、日々夜々評定ありと雖も、異議区々にして埓明かず。斯かりければ、弥〻家中さは立ち、様々の巷説ありて、府中近辺の町人百姓等、以の外に騒動す。近習の外は、悉く恨を含める家中なれば、此節の御用に相立つべしといふ者、一人もなかりし。却て此日頃御秘蔵に思召し、御重恩を与へられし近臣達の御働を、此時一見仕るべく候。某等は御用に相立たざる者に候て、御疎を蒙り候。高覧を違へ候まじ。何に依つてか、今更頼まれ奉るべく候。但し武士の義たれば、自分の屋宅に於ては、只一分の働を仕るべく候と、言を放ちて申す輩も多かりけり。又先年讒言に遇ひて、罪過を蒙りたる本間江州が兄本間大膳、弟の遺恨を報いん為め、一族を催し、唐坂より、須賀野大膳が館に、押寄するとも相聞ゆ。事の実は未だ知らず、老若東西にさまよひ、男女財宝を運送す。則政公聞オープンアクセス NDLJP:162召し、当世の様、あるまじきにもあらず、先づ兵士を集めよとて、須賀野大膳之を承り、四方三里打並びたる士小路を、三度迄、残る所なく触れけれども、馳せ参る者、雑兵五百に足らず。斯くては中々叶ふべからず、一先づ山岡外記が城まで、御忍あるべしとて、天文十六年八月下旬、夜に紛れて御出奔なり。須賀野大膳等近習十四人、上下百人に過ぎず。則政公仰せけるは、行末尤も頼なし。山岡も白倉も、母方に付きての縁者たれば、不運の主と一味して、身を亡さんといふべからず。越国の景虎とても、当家を出で已に二代、其好尤も遠し。龍若は是に留りて、越後の便宜を相待つべし。則政落ちてなからんには、却て静謐なるべし。友貞は武略の為め太田を頼み、武蔵へ越えて時を待ち、兵を起し、会稽の恨を散ずべしと、委細仰せ置かれ、猿坂に懸り、佐原へ落ち給へば、友貞は引違へて、唐坂通にぞ懸けちれける。扨龍若殿へは、乳母の一家馬方新介・九里采女を初め、無二の近習侍二百余人、上下三千六百計り相付くや、平井の国府に留り給ひ、頓て九里采女が計らひにて、故長尾意玄が長男長尾佐次右衛門に飛脚を越し、龍若君の御書にして、頼み思召す旨言越しければ、佐次右衛門涕を流し、覚悟の前とは申し乍ら、哀なる次第なり。流石故主の事なれば、否み申すに及ばず、先づ以て近々参府を遂げ、高顔を謁すべしと返答して、使者を返し、頓て一族郎従を催し、三千余騎にて、居城猪山を発し、十月上旬平井へ至り、先づ堀垣に修理を加へ、弓・鉄炮を調へ、物具を彩色し、氏康の寄せ来るを相待ち、籠城の支度を結構す。此佐次右衛門と申すは、故意玄が息男、生得勇謀兼備せる上、多年の〔〈間ノ一字脱カ〉〕意玄に付き、鍛錬浅からず。其頃東国に於て、大将余多の内、太田・長尾とて、三楽と此佐次右衛門を以て、諸将恐屈す。是に因つて氏康も、卒爾に取懸り給はず、小身といひ乍ら、近国に三楽あり、佐次右衛門籠城の大将たる故なり。則政公は、佐原に至りて、山岡外記が城下龍峯寺に、先づ馳せ参り、城中へ入御なし進らせ、頓に評定を加へ、長尾主計頭を使者として、管領職并に御抱の国、景虎へ譲渡さる。浮沈に付きて、一向頼み思召さるゝの由、之を仰せられて、私を以て、景虎家老喜多条丹後に談じて曰佐原殊に人なく候。近日の内、氏康寄せ来る事候はゞ、則政切腹疑なし。此条、丹州所為を以て、演説せらるべしとなり。景虎則ち諸老を会し、僉議の上、頓て領掌まし、主計頭に相副へ、斎藤弾正・甘糟近江、二千余騎の将を守護して、外記が城へ之を遣され、斎藤・甘糟、佐原の城辺を見廻り、此処は要害の便なく、下は浅間に候。明日もや氏康寄せ来んずらん。猶オープンアクセス NDLJP:163予すべからずとて、翌日上州佐原の城へ御座を移し、堅固に守護し奉る。則政公を始め供奉の面々、多年危急の愁を散じ、初めて寝食快楽を得。平井には、則政公出奔の後、長尾佐次右衛門忠勤に依つて、中々恙なかりけるが、龍若君御乳持の一類、馬方・九里が非道の仕配に依つて、佐次右衛門腹を居ゑ兼ね、翌年正月在所へ引込み、其後は通路絶えけるに依つて、守護の地侍も、段々に分散致し、僅に残留者三十余人、上下四五百人に過ぎず。此時氏康、島左近・大道寺などいふ侍を大将として、大勢を差向け、平井に於て、其聞え夥しかりければ、乳母の一類馬方新介・九里采女等、其外相議し、扨もや命を助くるとて、龍若殿を取り参らせ、氏康へ降参す。氏康義将たるに依り、以の外之を悪み給ふ。降参の輩彼是八人、縛首を切り、獄門に懸けらる。龍若殿も、足柄の麓海岸寺に於て害し奉り、氏康近習神尾といふ侍、御介錯を仕る。十一歳にて御早世なり。

友貞は、則政公同時に、平井を落ち、中武の太田へ至り、頼み入る由申されければ、三楽、甲斐甲斐しく領掌して、涕を流し申されけるは、故扇谷不明にまし、高祖父道灌に横死を給はる。其時分某は胎内にあり、兄三郎心を尽し、讒人の内曽我計りを漸く討つて候。中次は、以前鎌倉にて病死仕候へば、手を空うする処なり。其後兄三郎、腫物を生じて死し候時、某を近付け、構へて扇谷殿に、先祖の讐を報ずべからず。故道灌、鎌倉にて遺言の旨も此の如し。父と兄に似ずして、立腹勝なる気質の者なれば、心許なく思ふぞと、返々申置き候。斯様の旨だに候はずば、三楽斯て罷在、君御兄弟をば、何れにか、恙なくて見奉るべく候。夫れ父祖の讐には、共に天を戴くべからずと。申伝へ候をやと、思はず今、高顔に謁し候て、道灌が今はの時節迄、思ひ残す方なしとて、直衣の袖を濡されける。友貞は興さめて、暫く言葉も出されず。やゝありて三楽、何事も今は是迄にて候。左候へば、平井の事こそ覚束なく候へ。臆病至極の町人原、扨もや我身を遁るゝと、龍若君を取り参らせ、必定降参仕るべし。彼の馬方・九里といふは、境の町人なりと聞く、頼むべきにあらずとて、先づ以て使者として、那須といふ者を遣し、事の様を問はれけるに、平井には、長尾佐次右衛門、数千騎にて馳せ参り、若君を守護し奉る由、其聞えありければ、三楽、さては別儀なし。左候はゞ計謀を致し、景虎の発向を進めんとて、平井の議を閣く。然る処に天文十七年正月下旬、長尾、平井を打捨てける由、商人の便りに聞えければ、三楽大に驚き、早速中村伊勢守に、五百余人を従へ、龍若殿御迎とオープンアクセス NDLJP:164して平井へ差越しけれども、一日以前、北条へ捕はれさせ給ひたりとて、城中には人もなし。捨て置きたる財宝を、町人・百姓争ひ取らんとて、部・格子・遺戸・壁墻を毀ち、散々に荒れ果てたり。則政公出奔ましまし、尚一年を送らざるに、古蘇台の露蕭々たり。伊勢守大に怒り、数日逗留し馳せ廻り、馬方・九里、并に降参せし人々の残党を尋ね、所々に於て捕へ、或は切捨にし、三十余人が首を蓮島に懸けさせ、府中の狼藉・強盗を静め飛脚を北越景虎公へ註進致す。玆に因つて景虎公、中村伊勢を褒讚し給ひ、太田家の水を呑めば、犬も能く獣を捕るとて、笑ひ給ひけるとなり。天文廿年、太田三楽、飛札を以て、景虎公へ、関東の成行註進あり。書付の次第、

○則政浪人、越後へ便り、景虎公を頼まれ候。御領掌ましまし、年逐うては、坂東筋へも御進発なるべき由。然るに於ては、三楽も期を約し、武州を打出で、松山を乗取り、伊豆・相模・上野・武蔵の半要を、遮り申すべく候事。

○則政養子友貞、近年武州に居住仕られ候事。

○平井には、氏康も只今迄は相構はず、無主の地となり居申候。近々夫より大将分の衆唯一人、差越さるべき事。

○氏康計策を以て、古河の公方を越え立ち、妹を嬢にして、奉公に差出し、壻に取り候といひなし、其位を以て、推して廻り候に依つて、坂東、近年悉く旌下に属し申候。勘弁の前人数積り、凡そ七万計りに候。但し自家の軍兵は、尤も二万に過ぎず候。領地は豆州・武州半国、其外は下総・上野所々に於て、一郡一里浮地に候故、相定まらず候事。

○坂東に於て、宗徒の者、〈但名字は、其方へ委細相知れ候故、書記すに及ばず、〉遠国には結城・多賀谷・武佐・熊谷・清党、近国には、小幡・長野・長尾・忍・細屋・脇屋、此等の外は、悉く古河北条が幕下に候事。

○白倉丹波・山岡外記・大石大膳・見田小七・荻谷主水・和田和泉・青蓮寺・東照寺等は、明日にても御進発に於ては、味方に参るべき由申通じ候とて、人質など御所望候儀は、先づ御無用に候。坂東は大形手合の御一戦、勝負に依つて、敵味方暫時に替り候事。

○奥筋諸将の存ずる所、専ら族姓を選み申す事に候。古河殿は、紛れなき清和の嫡流とて、うつけたる人をも、神の如く敬ひ申され候。是れ御計策の為に候事。

○松山の城、一旦乗取り候事は、いと易く候。去ながら持留め候事、某小身故、難儀に存じ時節を相計り罷有事、

オープンアクセス NDLJP:165右に依つて景虎公、関東進発の事を、急速に思召し立ち候といふも、甲州・賀州の取合、差競ひ、兎角延引す。併し一両年中有無に付きて、奥筋へ御馬を出さるべき条事、既に一決するによりて、七組の老将北城伊豆・宇佐美駿河・直江山城・柿崎和泉等相議して、諫言を申上ぐる。近年の中、関東御進発、其条は御尤に奉存候。去ながら先づ以て京都へ御手使なされ、近衛殿の御公達を、一旦下し進らせられ、公方と号し、威を借り、奥筋諸将を撫で国郡を広め、御手に附けられ候、計策御尤に候。其故は、当時吾朝争国となり、勇将・謀将多く候と雖も、御屋形と武田晴信を以て、無双の良将と申す事に候。吾身も多年御手に属し、多方に相当りて見え候に、凡そ味方二倍・三倍の敵は、只能き捕手とこそ存じ馴れて候へ。是併し乍ら当家の弓箭、他に異なる故なり。又織田信長は、大身の将にて候へども、御屋形と晴信へは、一年に十度に及び、御音書を致し、書翰の文章、其外旌下の様に仕られ、扨又佐々権左衛門をば、都筋御用の為めとて、御城下へ相詰めさせ、如何にもして御気色宜しき様にとの結構に候。此御方よりは、首尾迄に、一年に唯一度御使を遣され、御書札等殊に蹴下げたるなされ方に候へども、今迄竟にあなたより沙汰なし。此仔細は、信長見切の賢き人にて、随敵の謀を仕らるゝ処に候。御覧候へ、信長程、無手に余る大軍に罷なられ候はゞ、武田も御屋形も、無事を計り申さるべく候。弱将にても、十倍の敵には、勝なしと申伝へて候。武田は奥の〔諫カ〕める将にて、疾く此意を推察し、内々は駿河・遠江を手に附け、尾・濃の喉首を断つべき其支度と承り及ぶ事に候。御当家は尤も然らず。先年よりは、村上義清に御頼まれ、老功の武田と、度々危戦を遂げられ、夫さへ御座候に、今更又極運の則政に御頼まれ、大敵の北条と取合を御始めなさるゝ様の振に依り、御家中の為め、損はありて、益絶えて無之候。今の様にては、帰する処、武田も御家も、信長に頽されなん事疑なく候。御一代はさるにても、弓箭の上にての御不覚は、あるまじく候へども、末々の御器量迄は覚束なし。往昔より以来、二代・三代相続く良将は之あらず。さるに依つて、都へ御手使をなされ、近衛殿を下し参らせられ、威を取りて、東国を御治めなされ候事、御屋形の御事はさて置き、御家中我々諸侍の為め、是甚だ益ある御謀にて候。御前に於て、恥入り奉りたる申上事に候とも、我々式は、名利を以て、生涯を楽み申す外、高上の志無之候に依つて、如何にもして、一度都へ御旗を建てられ、命の中に、天下の主とも仰ぎ奉るべき念願に候。御年齢唯今廿二歳、朝陽の漸く発るが如し。思召し立てられオープンアクセス NDLJP:166候に於ては、成功争でか疑あるべからず候。夫とも先づ東国を、一二箇国も御治めなされ、信玄は兎ても角ても、底心の懼しき大将にて候へば、立置き候ては、相叶はず候。信長と無事をなされ、東上野を、一向に太田三楽へ相附けられ、北条を押へさせ、椎名・神保を押潰し、其威を以て、織田・松平を語らひ、二口より甲州へ取寄せ、年月を送り候はゞ、信玄、何程軍に賢き良将にて、何時迄か保ち申さるべく候。只今は氏康と信玄、入懇に候へども、久しき謀に候はず。近年の内、必ず以て取合になり候べし。左候ては、武田さへ押倒しなされ候はゞ、信長・氏康等は、兎も角も懼るゝに足らざる所に候。御領国、何れも雪深にて候へば、春半より、秋の半七箇月の間、先づ能登・加賀・越中に於て、椎名・神保・大聖寺・勝沼等と取合ひ、信州・甲州にて、信玄と又長途を越え、東国へ出でば、北条等と大軍をなされ、諸軍辛労仕り、末の頼之なくしては、益の儀と申上ぐる。景虎、委細聞召され、七人の所存余儀なく候。総じては某生涯、始終弓箭の道、其覚悟一筋所存有之と雖も、只今申す如くんば、我意を立つるに似て候。行末の儀は、予め期する所にあらず。東国発向の儀は、如何にも意見に相随ふべく候。所詮家中の為めと承り候上は、千万は入らざる事に候。為景以て相続いてより、命を泉下に投じて、一期の恩を謝す。夫れ主として従者に恩を与へ、地を施す事に、吾一人にあらず。今古以然なり。然らば則ち、是全く天恩、景虎が与ふる所にあらず。其故は、千金より、一夫は重き当世の風俗にて候へば、今日当家に暇を得し人、明日は又、他家に於て緑を受けん事疑なし。一人として、身を捨て昔を忍ぶ者、是あるべからず。是を人の処分といふ。然れば則ち、吾各諸人の一命を受くべき道理無之に、命を給はる。謝せずんばあるべからず。故に家中諸士の為め、身命を以て泉下に投ぜん事、又痛ましからずや。然りと雖も、吾は一身、家来の諸士又余多なれば、何方に向つて、謝すべき事を知らず。吾常に之を思惟するに、唯行懸の場を去らず、死を快くせんのみと仰せけるを承り、七人の老士を初め、列座の面々、感涕胆に銘し、言葉無く退出す。

○同年九月上旬、近衛殿招請の為め、浄土宗蓮誉と、長尾小四郎景征を、京都へ差越さる。其時佐々を尾州へ返し、信長へ仰せらるゝは、上杉則政還府の為め、近衛公方を大将と仰ぎ、来春東国へ罷越し、玆に因つて近衛殿御迎の為め、京都へ人を越し候。左候へば其路次、皆以て御分国に候。旁に付、今度頼入度候。勿論御許容無之ば、早々其旨仰せ知らさるべく候。オープンアクセス NDLJP:167其儀に於ては、京都の事、相止め候となり。信長よりは、仰の旨相意得悦入候。信長斯くて罷在候上は、途中の御警固をば、他に譲るべからず候。滝川といふ小者を、道中へ差置き申すべく候。御用の儀、小四郎より事々申され候様にとの返答に、滝川より長尾へ、書翰を副へ来る。玆に於て、聊遠慮なく都へ上り、山辺を以て、近衛殿へ旨を達す。近衛殿、以の外御難渋坐し、数日迄御返答無之。小四郎、山辺左近を以て、重ねて自分に申しけるは、越後国雪の儀は、公家にも御存知なき事は候まじ。来月になれば、雪積り、行路絶え候。成不成、三日の内御返答承るべく候。其仔細は、若し御下向相叶はず候て、重ねて景虎罷越すか、又は家中の内何者にても、差遣し候はん時、深雪になり候ては、人馬を労る事に候と、甚だ以て穏便ならず。近衛殿興なくましまし、機を取り期を延さんとて、様々の御馳走あり。就中唐橋の亭にて、両使に厚く茶を給はる。坊主は天下第一の茶道堺の梅田了庵斎なり。珍器重宝善尽し又美尽し、小四郎座入の体、一円等閑ならず。切戸の際迄刀を差し、席の内を除目に見、其内へは、大脇差にて口入、御茶を給はり、罷出づると等しく、日の中に御返答を承るべしなど、堅固を申し、田舎武士の事柄、如何なる僻事もせんずらんと、近衛殿を初め、安き御心もあらず、竟に一着事定まり、近衛殿末の御公達松丸殿と申して、十二歳になり給ふが、小姓一人相副へ、蓮誉・小四郎へ相渡され、小四郎請取り奉り、一手に橋富大吉といふ足軽大将相副へ、上下六百人計りにて、江州へ出づれば、即ち滝川出向ひ、大勢にて長途の警固を致し、九月下旬、越後へ到着まします。

〇十月上旬、蜂屋隼人を使者にて、信長へ厳礼あり。滝川へも礼幣の為め、助実の刀・曝布百反給はる。信長、蜂屋を両日迄留められ、慇懃の体大方ならず。帰還に及び、百枚の馬匹に鞍置きて、之を引かせらる。

○長尾弾正謙忠を以て、前橋に仕居ゑられ、雑兵二千三百人余にて、上州に至る。最も来春御発軍の為なり。太田三楽謀を以て、大石・小幡・見田・藤田・白倉等を賺し、味方に致す。玆に於て関東心々になりて、氏康を背く輩あり。〈此次天文廿一年より、永禄三年迄年数九年、景虎公廿三歳より三十二歳までの中間、古本虫害失する故之を記さず。〉

○永禄三年庚申二月上旬、相州北条氏康公、大藤・金谷・多島・九島等の耆老を会し、評定ありて曰、北越の景虎入道謙信、都へ上り公方に謁し、関東の管領職を給はり、諱字を申受けて輝虎になり、網代の輿を許され、威光を肆にして吠廻り、当春は大軍を動かし、当家を頽し、坂オープンアクセス NDLJP:168東を治めんとする由、危急近きにあり。謙信は、近代稀なる剛強の者にてある間、今度は無理に蒐けても、一戦と存ずべきか。思ふに謙信人数、先づ越後一国・越中・上野・加賀は各半国。越中は猶ほ争国なれば、催促に応ずべからず。凡そ二箇国半、各大国なれば、凡そ四万、堅くは三万五千たるべし。其内所々の押に、一万引残して、二万か二万五千は、発向すべしとの勘弁なり。当方手の者多からず、上杉先方は、敵にはなるとも、決定の味方と頼み、対当し難き勢にて、原野に出でて、馳せ合ふ軍は然るべからず。今度も三楽謀を致し、大石・小幡・白倉等先陣をする風聞なれば、定めて大勢たるべし。要害の用意を増し、籠城の覚悟尤なり。持分の城余多の内、構浅間なるは破却して、村下鷹の巣・入江・松山・引布・白根・山根なんど、各一将を加へて守護すべし。謙信も、前後に大敵あり、両月と当表に手間を費す事あるべからず。上州の儀は、小田原より郡代を置きたるにもあらず、謙信支配する。とても世の聞え、何ぞ苦しからん。謙信は、一旦の情を張る男にて、則政に頼まれたる首尾迄にする事なれば、平井をさへあなたより支配せらるゝに於ては、一益はありと思ふべき事なり。されば場により敵により、或は腹を立てしめ、怒らせて能事〔ありカ〕、又態とも敵に一面目付けて、無事をして能き事あり。其図を謀り知るを以て、良将といふなりと、委細に氏康評論し給ひ、耆老の面面、各之に同ず。滝長門といふ者を、前橋の城下幡屋といふ処に差遣し、弾正入道と忍び会す。是は謙忠・輝虎と、主従の中不快を以て、裏切を致させ給はり候へ。仕課せ候に於ては、東上野并に相州山上を副へて、充行ふべき由の相談なり。謙忠、如何にも領掌申して候。去りながら十に一も、危き事候はゞ、一向に開き候べしと、返答申しけるとなり。

○永禄三年三月上旬、越後の管領輝虎入道謙信公、近衛公方を大将軍とし、一万六千にて、北越を御進発。上州平井へ御馬を寄せられ、氏康旗下上杉先方荻谷太郎左衛門が木沢の城を押へ、小幡日向守居城高津に取詰め、一日の内に攻破り、女童迄一人も残らず、千余人斬捨になし、其足にて、直に木沢に押寄せ、攻めんとする擬勢に堪へず、太郎左衛門降参し、人質を進め、幕下になる。太田三楽三千余騎にて、武州より馳せ付き、先陣を給はり、八州の要害或は居城、味方に参らざるをば、一城も残らず、三日の間に攻破り、当歳の幼児迄、斬捨になるべき由、其聞え甚龍の天に響き、八州の儀は申すに及ばず、北国・南海・京・上方迄、勇鋭に怖れざるなく、其威に伏し、小幡・大石・見田・白倉・忍・荻谷・藤田・長尾・三浦・岡崎・宗龍寺・那須・清党の上オープンアクセス NDLJP:169杉家の諸侯、馳せ集りける間、両日の間に、軍勢七万余騎になり、玆に依つて、平井に陣所余り、唐坂口迄充満せり。翌日より総軍を進め、三楽を魁首として、小田原へ押詰め、蓮池迄乱れ入る。中山所所クの取合ありけるに織信毎度の子より弊出て、初対面なる東国武士の〈[#花びらのような記号]〉はな も識らず、諸手へ乗入れ、冑をも着られず、白き布にて頭を包み、朱の采配を取つて下知ぞなす、人を虫とも思はぬ振廻を見て、諸将大に懼をなし、仮令如何なる良将にてもおはせ、此人を主と頼みなば、首の切らん事疑なしとて、退屈せざる者一人もなし。将至つて剛きときば、士必ず応ぜずとかや、兵法の言是なり。此時、忍・小幡・長尾・白倉、氏康と素より内通せし者、時節宜しと思ひ、謙信と談じ、旗本の左右に相並んで、後矢を射んと相謀る。城内よりは、此者裏切をし、旗本騒ぐ。同時に突いて出で、外より揉合せ、討取らんと擬して待懸けたり。謙信は、神変を得たる大将にてまします故、方々の振を、早見知り給ひけれども、少しも気を屈し給はず、味方の将の内、甘糟計りに内意を含め給ひ、近衛殿御陣只一備を立替へ、楯無山といふ山に居申され、宇佐美駿河守・上村甚右衛門を副へ置かれ、自身は柿崎和泉守・直江山城守を左右にして、蓮池の門前近く詰寄せ、城中より備を出さば、無理に蒐入りて、刹那が内に勝負を決せんとする機を量りて、城中よりも、曽て人数を出さず。謙信、池の両端に馬を控へ、弁当を取寄せ、茶を喫せらるゝ所を、金沢といふ者、出丸より鉄炮十挺計り連ね、三十間程にて、二繰まで、ためつけに打ちけれども、射向の袖・鎧の鼻などを撃ちて、一毛の隔にて、御身には恙なし。謙信少しも騒ぎ給はず、長々と茶を三点まで喫し、悠閑無事の体にてましましければ、左右に候ひける数千の兵士、髪毛をすりて、鉄炮が来れども、頭を俯く者独もなし。城中より、北条耆老の面々之を見物して、誉めざる者なし。橋富大吉・苦桃伊予相る二備の足軽、鉄炮八十挺連ねて、右の出丸・井楼・矢倉を射閉ぢ、城内の前口を留めてより、謙信公御茶を取置かせ、本陣へ馬を入れ給ふ。跡備は甘糟近江・北城伊豆・同名丹後・長尾義景・越中侍に神保常陸・飯尾左吉等、彼是八千五百、前後の備図に当り、少しも違はぬ勇鋭を見て、逆心の諸将欺く事を得ず。太田は、又家の耆老大道渋谷といふ者に、総勢を附け置き、自身は陸者廿四人を従へ、諸手を乗廻し、備の色を見、白倉丹波が陣所へ行き、丹州を謀り、本陣へ同道し、之を帰さず、人質の如くにして置きたる間、逆心の謀尽く相違して、手を出す者なし。玆に於て城中相談の上、北条上総・二階道沢阿弥・太田三楽、備場に来り、謙信公御合点ましまし候に於てオープンアクセス NDLJP:170は、西上州の儀一円、則政方へ返進申すべく候。謙信公と氏康故、無二の合戦に及び、隣境の敵に謀られ候事、且は武略の不足といひつべし。此旨貴坊心得を以て、調達仕度き旨之を申す。三楽、氏康の賢慮の旨、御尤に存ずるとて、二の手に参り、謙信公へ、右の通り具に申されければ、謙信、如何にも上州をさへ、則政へ返され候はゞ、謙信は所存之あらず候。今度の儀、上州・相州に於て、氏康持の要害二つ迄乗取り、其上今日、此処迄人数を押入れ候へば、能き程に候。総じては取詰めたる城の有無を決せず、人数を打入れ候事、如何にて候へ。且つあなたより、無事を申乞はれ候へば、夫も能く候と仰ありて、一途調ひければ、今度は大敵・強敵といひ、行末如何あらんと、気を詰め声を呑みたりける。国人悦び合へる事斜ならず。謙信は、諸軍に一日後れ、譜代衆并に越中衆、合せて一万六千、前後十三備、鐘・鼓を静に打挙げ、一歩を乱さず、岫雲の雨を帯び、暮山を出づる勢をなし、川田豊前と斎藤主税と、繰替に殿を致し、自身は其前に、以上三万計り、真驀になりて引取り給ひけるを、氏康其外松田・大道寺・遠山・山角等の城将遥に見て、合戦の道に於ては、天生の英雄なりと、数度讚歎せられたり。

○近衛殿、小田原より鎌倉へ御輿を寄せられ、鶴が岡へ御社参。謙信公、之を守護し給ふ。宇佐美駿河、御前に於て、事竟りては、速に去ると申伝へて候。此度の御社参、然るべからずと申上ぐ。然りと雖も謙信公、何程の事かあるべきとて、用ひ給はず。玆に於て鎌倉に半日人馬を休め、龍山といふ間道に懸り、其夜は関山の広野に御宿陣。諸軍は小田原より、平井へ帰され、御供には、加治内匠・柴田大学・宇佐美駿河・直江山城・本庄清七・河田豊前・長尾小四郎・中条五郎右衛門・太田三楽、彼是八千計りに過ぎず。頃は三月末の二日夜半計より、敵幾重ともなく取巻き、松明の光、峯の篝は、晴れたる星の数よりも茂く、鉄炮を放懸け襲はんとす。是は鎌倉八幡宮にて、東国の諸将、近衛公方へ御礼を遂げられける時、忍の成田長康といふ者、酒に酔ひ、言語尾籠なりけるを怒り給ひ、扇を以て、謙信公、忍が頭を二つ迄、したゝかに打ち給ふ。其の遺恨に依つて、一門家族を催し、武州の千葉・清党を語らひ、幸ひ小勢の折節を窺ひ、足軽を懸け、夜軍にし、討つて恨を報ぜんと企てたる処なり。謙信公、是は成田が野伏を懸けたるにぞあらん。さにても暗夜といひ、切所といひ、追詰め打果す事も叶ひ難し。太田殿と直江は、公方を警固あられ候へ。中条は戦場を見計らひ、宇佐美と術をして、敵を近付け一戦を遂げ、少しなりとも討取り候へ。本庄清七・加治内匠は、後陣に下り、小四郎とオープンアクセス NDLJP:171組合ひ、小荷駄を守護仕れと下知をなし給ひ、自身は、柴田大学と河田豊前を前後にして、平塚といふ小さき尾に陣を張り、夜を明し給ふ。敵次第に近付き、矢石を飛ばす事雨の如し。中条五郎右衛門・宇佐美駿河、足並を見て、敵を広野へおびき、伏兵を起し、鑓を入れ追崩し、敵四十余人討取り、後陣に打ちける小荷駄両陣の内、長尾小四郎は、恙あらず。同名伝左衛門は、敗軍に及び候を以て、小荷駄は残らず奪はれけり。謙信大に怒り給ひ、翌日早旦に首を切り、関山懸けさせ、家来共廿四人、圧々の者共一所にて、一人も残さず、討捨にさせ給ふ。其内、殊に相働きける悴者を、自ら鑓を以て自ら突臥せ給ふ。夜已に暁天に及び、敵残らず引いて退きければ、日出でて後軍を発し、古路に懸り、太田三楽先陣を打ち、直江山城後陣に下り、九里の山中難なく押通り、其夜は葛見に宿し給ひ、酒飯を備へ、危軍を労り、三楽を客位に請じ、物語暁天に及ぶ。謙信、諸士に語り給ひて曰、関東諸将の面々、皆弱兵なりと思ひ侮りて、伝左右衛門に、昨日小荷駄を預けし事、某一代の不覚なり。然らずんば、何しにか長く安体の敵に、之を奪はれんや。某常々甲州武田信玄に及ばず、長ずる所の者と申すは是にて候。此法師は、弱敵と見ても、猶弓矢を大事に取り、斯様の率爾なき人に候。大事の場と思ひ候時は、誰とてもそゝけたる事をせず候へども、生得ならぬに依つて、動もすれば、其儘慢りて、敵を疎略にのみ仕候。信州更科義清などは、軍の場に臨み、相対してよりは、武き事も賢き事も、信玄に優りはするとも、劣る者にてはなく候へども、愚に正直なる男にて、常々委き慮之なきに依つて、度々後れを取り候と仰せければ、三楽、御意の通りに候。併し此伝左衛門も、以前は数度の覚えある侍とこそ承り候へ。先年地蔵峠にて、義景の御手にありて、甲州の小山田備中を討ちしも、伝左衛門手にて候はずやと申す。謙信、さる事に候。伝左衛門、生得力量・太刀打には、達者をしたる者に候へども、武道を嗜む心なき地体の気質にて候故、行懸りては、器量走り廻りなども候。それらも皆徒事となり、理に当らず候とて、夜明けければ、暁天に御馬を出され、平井に両日逗留まし、村里の仕置仰付けられ、年久しき虐政に、困窮の里民なりとて、三年の間、半は貢を許され、柿崎泉州を仕居ゑ給ひ、前橋の城普請仰付けられ、三月晦日御帰陣なり。

三楽は、前橋より御暇を申し、中武蔵に帰り、如何にもして、松山城を取返すべき謀より外他事なし。兼て松山近郷の里民、太田の成敗を敬慕し、家々に三楽の兵士を扶持し置き、松山オープンアクセス NDLJP:172の辺を窺ひて、註進せん事を相擬す。平井の柿崎方へも、松山の城乗取り候節は、羽書を飛ばし、註進せしむべく候条、御勢差向けられ給ふべき由、約をなす。永禄四年正月下旬、柿崎和泉、千三百にて平井を発し、鳴瀬へ出で、忍の成田が居城朝日山の麓迄相働き、村里を放火し、青麦を刈り、人数を上げ、定光寺に陣す。長安八百余にて、即ち出合ひ対陣し、雌雄未だ決せず。

○永禄四年、武州松山の城主北条安房、板橋といふ処に鷹野に越し、若侍余多引率し、逗留したりける透を窺ひ、太田三楽、三千余騎にて取詰め、間宮・高梨を魁首とし、西北をば明け置き、東南より無理無体に乗入る。松山の副将北条玄庵・子息雅楽佐・笠原新五郎を始め、城中の兵士千二百、各渡り合ひ、持口を堅め防戦す。三楽旗本の内、佐藤組とて、五十人に備へ合せて、百人ありける。奈良の佐藤一甫の弟子にて、其頃、絶えてなかりける十文目玉の鉄炮を得手に打つ者共なり。三楽是に下知をなし、北条雅楽助、東の門前山の寄手を追払ひ、勢屯の外側へ、突いて出でけるを、横合になし、近々と詰寄せ、五十挺づつ立替りに、つるべに打たせける間、城中の兵士三百計り、雅楽助を始め、立処に死す。城中是に騒ぎ、足を立兼ねけるを見て、太田先将高梨三右衛門・間宮隼人・渋谷全久、塀を押破り乱れ入り、暫時に乗取らしむ。笠原新五郎が力及ばず、安房が妻子を警固し、西の明きたる方より落ち去る。柿崎和泉は、鳴瀬に於て、忍と対陣せし処に、三楽が飛札到来しければ、即ち引払ひ、松山へ押付け、千三百石を三軍に作り、松山に副へたるなだれ尾に陣す。房州は、板橋より八里の行程を、片時に打ち、二百計りにて馳せ付けけれども、早や落ちたりければ、引退かんとしけるを、柿崎に攻められ、一戦に利を失ひ、従兵過半討取られて、自身も疵を蒙り、辛く死を遁れ、藤沢へ引取る。

三楽、松山を乗取る故、管領則政の庶子友貞を、是に仕居ゑ、村里の仕置申付け、柿崎と打連れ直に鳴瀬へ出張し、朝日山の城下へ押詰め、鳴瀬の町を放火し、相働くと雖も、長安出づる事を得ざるに依つて、人数を引上げ、武瀬川より通る水道を埋め、翌日各東西へ帰陣す。永禄四年、信長より、越後へ御見舞の使者来る。去年東国へ御進発、御帰陣以後、上方筋へ手間取り候て、音信を通ぜざる旨演達なり。進物、謙信公へ時服三十重・地紙三千枚、北城伊豆宇佐美駿河へ、各白鳥十羽、使者に饗膳を給はり、箆野牧の馬一匹、鞍を置いて之を引き給オープンアクセス NDLJP:173はる。

○永禄四年八月十七日、謙信公、一万騎を率し、越府を御立ち、義清の為め、川中島へ出張坐し、野武士共に山の毛作を刈らしめ、終日相働き、貝津の東西条山へ陣を居ゑらる。是は信玄、越後への手当の為め、新に貝津の城を取立て候に依つて、此の如し。蓋し信玄発向延引あらば、其内貝津を破却あるべく、又早速対陣申さるゝに於ては、便宜により、今度は有無の一戦を遂げらるべき由、組頭の面々へ、直に言聞かせ坐ます。御供には、柿崎和泉・直江山城・甘糟近江・斯波田因幡・河田豊前・長尾小四郎・荒尾一学・加治内匠・上村甚右衛門・中条五郎右衛門・宇佐美駿河・三宝寺等なり。信玄相続いで出合ひ、二万余にて、西条山より、越後へ越す中路を取切り、雨の宮の渡りに陣せらる。謙信、此十五年前、初めて信州に働き、海野平に於て、信玄と迫合を取始められしより以来、信玄は、軍に鍛錬深っ老将にてある間、対陣の勢にて、常の如く術をなすものならば、何としても、備の違ふ事あるべからず。備違はざる所に、此方より無理に仕懸けては、必ず負くるか、扨は能き侍を、多く亡すかの二つなり。只少人数にて軽く働き、透間もあらば、信玄と手に手を取り、組臥せて首を取るか、刺違ふるか、何れ手詰の勝負をせんと、覚悟なりと雖も、信玄、工夫の賢き将にて、是を悟り、成程静りて、荒勝負に遇はず、用心第一にせられ候に依つて、取組みたる大合戦、竟に之あらずして、年月を延ぶる。此度も其御志にて、信玄二万の大勢にて、半途を遮り候と雖も、方便を待ち透を窺ひて、三日迄対陣に及び、四日目に、信玄、貝津へ引入り申さるゝに依つて、謙信、諸将を召し、各等茲に於て、其謀如何と尋ね給ふ。宇佐美駿河曰、此方の御帰陣之なき中、彼方より引取り候儀は、あるまじく候。其故は、貝津の城を捨てられ候になり申すべく候。彼方よりは、例の如く軍を延し、成程無事にと仕られ候と相見え候。此の如くならば、又今度も、手を取りける取合なり難く候。明日御帰陣然るべしと申す。謙信を始め、満座是に同じ、翌日は御馬入と相定むる処に、其夜貝津に、したゝめする飯香、夥しく上るを、謙信見給ひて、又諸将を集め、信玄は又明日一戦と志し候と見えてあり。去るに付きては、信玄別に方便はあるまじ。二万の勢を二つに分け、一手は、昨日迄陣を打ち居ゑられたる雨の宮の渡、広瀬の辺に立置き、一手は此山に懸けて一戦を始め、勝つても負けても、謙信が越後へ引退かんとする処を、疲れたる便に乗りて、討留めんとする事、掌にあり。然らば夜中此山を取りて、川の彼方へ備を立置き、オープンアクセス NDLJP:174暁天に、信玄が旗本へ切つて入り、無二無三の一戦を遂げて、雌雄を一時に定むべし。西条山よりの間、一里余に過ぎず。信玄先手、一時に馳合すべき事疑なし。然らば則ち後度の軍は、味方敗軍たるべし。甘糟は千余騎にて、雨の宮の葛尾に居て、敗軍の士を助け候へ。初度の鎗に於て、今見給へとありて、手配をなされ、夜半に西条山を下り、雨の宮の渡を越え、備を立て給ふ。一の先柿崎和泉・川田豊前、二番御旗本・三番本城清七・加治内匠、旗本右長尾小四郎、左中将五郎右衛門、其余の荒尾一学・上村甚右衛門・三宝寺織部・直江山城等、宇佐美を軍奉行として跡備なり。甘糟は殊に八町余り引退き、葛尾といふ山の半腹に、千余騎にて備を立て、味方の我を、全所に見る。恰も見物衆の如し。去る程に武田勢、謙信公のさげすみに、少しも違はず、二手に分け、信玄は、息の義信、弟の典厩、伯父の穴山遥道軒、内藤修理・諸角豊後・山県・望月等相従へて八千余騎、広瀬を越えて備を立てられ、一手は高坂・飯富・馬場・小山田・真田・甘利・小幡・蘆田等、宗徒の侍大将組合せて、都合一万一千余騎、西条山へ懸る。夜已に暁天に及び、信玄の物見浦野といふ老功の者、馳せ廻り見て帰り、信玄へ、謙信の陣は、頓て是に候。但し人数既に起り、旗本の一組、味方の備の中に置きて、押廻り犀川の方へ赴きて見え候と申す。信玄、扨は手に逢ひたりと覚えたり。夫は車懸とて、遠近に依つて、幾度目に、旗本と旗本と巡り合ふといふ次第あり。山本道鬼備を立替へ、一方便仕れとあり。但し信玄内の侍足軽大将に及ぶ迄、人数を返す事、手を返すより早し。玆に因つて越後勢、未だ懸り来らざる〔〈にノ字脱カ〉〕、一町余引取り備を立つる。謙信の術には、左右先衆備、共に一度に鎗合を始め、諸手乱れたる時、旗本と旗本と相逢ひ、勝負を決せんとなり。斯くて双方前後左右、只一時に入乱れ、一手切にして相戦ひける間主討たるれども、従助くる事を得ず、父が組んで落つれども、子是を顧みず。謙信其日は、態と大灌の鎧に、青き緞子の胴肩衣を着し、三尺九寸と聞え、国吉の打刀を抜き持ち、直江市兵衛・稲津三右衛門・片桐三介・瀬場四助・勝尾五郎丸・田井六郎とて、天下無双の太刀打、物の達者を、諸国より選み、六人抱へて持たれけるを、左右に随へ、こね返したる敵陣へ一番に乱れ入り、相手嫌はず切つて廻り給ふ。武田勢も諸手乱れ、父子主従押隔り、手々に組臥せ切合ひける間、信玄の旗本騒ぎ立ち、大将のまします処も知らず。謙信も、猶以て深く働き、一所に居給はず。之に依つて六人の力士共も、自身の敵に透を得ずして、主の在処を失ひ、謙信一騎になりて馳せ廻る処に、黒き鎧に、オープンアクセス NDLJP:175香染頭巾し、念珠を手に懸けたる法師武者三人、一所に立ち、侍十人計り打囲みたるあり。謙信、見付け給ふと等しく、馬を馳せ寄せ、先達のかせ者共切払ひ、三人が中、信玄と見ゆるを、重打に三刀切り給ふ。後にたづぬれば、其武者、信玄にて坐しけるとなり。信玄刀を抜合せ、二太刀迄受け給ふ。後の刀は、肩先より籠手に懸けて、打迦しに当る。此時左右にありける侍、鎗を以て、謙信の馬の三つを突きける間、馬さうだつて駈出づる。信玄、陸歩者四人追ひ来り、謙信を引落し奉らんとしけるを、謙信と勝尾と二人して、四人が中二人を討ち、切払ひ遁れ給ふ。去る程に信玄十一備の内、飯富組・穴山組を以ては、越後勢最初に懸る。二組柿崎和泉・河田豊前を切崩す。残る九組は、信玄旗本、共に総敗軍なり。謙信跡備の内、中条五郎右衛門・長尾小四郎・本城清七・加治内匠・直江山城、五備を以て、広瀬迄追討にして、典厩并山本道鬼・諸角豊後等、数輩を討取る。太郎典厩は、若き大将にて坐しけれども、さすが信玄の骨肉を写されたりと覚えて、広瀬の渡り二町計りに見懸けて、一度に返し合せて、比類なき働故、信玄旗本其外諸勢、遁れ去る事を得たり。典厩と山本、其処に於て竟に討死なり。義信も二箇所疵を負ひて、辛々切り遁れ給ふ。信玄も此度は、右の腕と脇腹と、二箇所手負ひ給ひ、御身も自由に動かず。敵は隙なく慕ひ来る。わるびれて見え給ふと、雨の宮十兵衛といふ義信の侍、浪人して武州に候時、太田家来間宮に語る。扨西条山へ懸りける信玄の先手飯富・高坂等、逸足になつて、雨の宮上の渡りに押付け相戦ふ。此時は、謙信公馬廻の侍は、宿所宿所にて別れ、僅か五六人を従へ、宇佐美駿河が跡備の内に坐ます。秘蔵の放生月毛といふ馬も突かれて、働かざりければ、近習の侍和田木兵衛が馬を取つて来り給ひ、使番を六人迄、敵を追うて、広瀬まで進み行きたりける。長尾・中条・本城・直江へ遣され、西条山を、敵押し来るとも、早々人数を纒め、犀川を越し引取り候へと、下知をなされ、謙信は、残れる備宇佐美一手と、又〔〈一字欠〉〕度の軍に打乱れたる柿崎・河田・斯波田・三宝寺等、諸手の士卒を集め、二千計りにて、甲州先衆真田・高坂等が組に、一万余の勢に相懸りにし、戦はしめ給ふ。是れ広瀬の味方を引かしめ給はん為めなり。駿河守、謙信公を引かせ奉らんと存ずるに依つて、三宝寺と同じく馳せられて、殿は先づ広瀬より引取り候御下知坐し、犀川を恙なく越し候様に遊ばされ候へ。爰は三宝寺・荒尾等罷在る上は、御下知に及ばずと申上ぐる。謙信、夫には御取合之なく、先づ左手先なる真田が一手に懸りて追崩し、其後に駿州は、人数を連れて、上の瀬を越し引取オープンアクセス NDLJP:176り候へ。味方高梨・山際迄、繰退きて見るべし。其時節何方なりとも、打破つて、謙信は引いて帰るべし。弓矢八幡も照覧、違言なしと、大に怒り給ふに依つて、宇佐美も三宝寺も、畏り候とて、人数を北へ廻す。扨左の手先真田、高坂が備に切つて入る。侍には深淵主馬助・荒尾対馬・柳勘右衛門・神保作屋・長尾遠江守、五百余人に過ぎず。謙信は、三百計りを、馬の前後に固めて、深淵・柳・神保等、戦屈せし時入替り、味方を助け給はんとて、控へ給ふ。広瀬にも、甲州勢手を分けて、懸るに依つて、中条五郎右衛門・長尾小四郎・本城清七・加治内匠・直江山城、犀川の河原にて、取つて返し相戦ふ。本城清七・加治内匠・飯富兵部・馬場民部に仕負け、川中にて追討に遇ふ。長尾小四郎・中条五郎右衛門は、相木・蘆田・小山田組を追崩す。広瀬の戦は爰にて、畢本の戦場に在り。謙信公と、宇佐美・荒尾・柿崎衆には、高坂・真田・甘利・小幡等、五千計りにて附け来りけるを、深淵・荒尾・柳・神保、謙信公御馬廻加はりて八百余人、散々に相戦ひ、切崩さんとせられしかども、武田衆軍法違はざるに依つて、一旦崩さるれども、亦人数を纒め、後度の戦にて追返す。其間に、宇佐美も広瀬の勢も、高梨の山腰迄、人数を引上げ候と見給ひ、謙信采配を取つて、味方を廻し、犀川の釣瀬を引越し給ふ。敵引付き、喰留むるを以て、謙信自ら返し合せ、敵合をなさる、既に五度。越後衆多く討死す。甘糟近江、其時葛尾を下り、千計りにて押廻すを見て、武田勢、早々貝津に引入りければ、日已に夕陽に及ぶ。謙信は、余りに強き御働なるを以て、御腰物をも、三度迄帯び替へ給ふ。後には和田木兵衛一人を具され、高梨山に懸りて帰り給ふ。武田勢、越後へ討取る首数二千八百余と云々。其内侍大将首三つ。越後方戦死の其数、以上二千十七人なり。謙信は、夫程強き御働にてありつれども、薄手にても負ひ給はず、越後の侍大将宗徒の衆梅津宗三の外は、一人も討たれず。凡そ此戦の事、関東に於て、太田三楽評判して、初度の鎗は、十に十謙信の勝。軍場も、越後衆蹈入り、大将分の者をも討取り、後度の軍は、十に七つ信玄の勝。相引と雖も、軍場は甲州衆、蹈留りたる理なり。又越後衆大将分の者討たれざるは、さなる謙信手柄と取沙汰申すと雖も、夫は理を知らぬ大様の批判なり。是程の手切の鎗には、吾が生死さへ、我人心に任せず。多き侍を、謙信なりとて、何として死せざる様、仕らるゝ道のあるべくや。夫れ吾人、敵も味方も、天命のなす処なりと、語りて申されけるとなり。甘糟近江、葛尾といふ所に、両日逗留。三旗打立て、引後れたる雑人・下部を集め、手負ひてよろぼひ臥したる者共の生死を窮め、貝津よりオープンアクセス NDLJP:177は僅に十五町を隔て、取納めたる体、実にも聞ゆる勇気智謀兼備せる侍大将なりと、沙汰ありける。

○永禄五年壬戌正月、氏康より、信玄へ、使者を以て、武州松山の城は、以前より氏康持分の所に候。然るを去る頃、太田三楽、越後の柿崎と成合ひ、量らざるに乗取り候。松山東国の固めたるに依つて、是より奥筋近国の手使、心の儘に相叶はず候。然れば近日、氏康人数を出し、彼城を取返し申すべく候。左候はゞ、定めて三楽、越後へ後詰を頼み、謙信を引出し申すべき儀疑なく候。此度は専度と思召され、信玄公御馬を出され、氏康が警固を遊ばされ下され度候。松山を取り、武州を押へ治め候に於ては、以前の如く、節々御不詳の儀申入間数候と、相頼まれ候に依つて、信玄領掌まし、甲州并に信州へ陣触あり。

 
松隣夜話巻之上 
 
 
オープンアクセス NDLJP:177
 
松隣夜話 巻之中
 

二月下旬、信玄・義信、一万八千余騎にて、武州に発向せらる。北条は、氏康・氏政・其弟源蔵二万八千騎、両家合せて其勢四万六千余騎、松山を取囲み、昼夜を嫌はず攻められける。武田勢の内甘利左衛門与力米倉丹後、竹手束といふ物を仕出したりし寄にして、諸手攻め近付くを以て、城内の火炮、する業左迄之なく、籠城の兵士、皆退屈に及ぶ。友貞も軍卒も、昼夜粉骨を尽すと雖も、武田・北条両旗、五万に及ぶ大軍にて、かつき連れて攻めける間、防戦に術絶えて、三月十日、友貞降陣になり、城を明けて渡す。太田三楽は、其前越後へ使を越し、謙信出張之あるべき由、返答に於て、今三日城堪ふるに於ては、無事故、寄手を払はん事疑なしと、思設けたるに、存の外落城急なりければ、臍を喫んで、前橋迄出迎ひ、謙信公の到着在すを、相待ちたりける。氏康・信玄へは、又謙信出張の旨、友貞が白状に聞かれてければ、両軍山を後にし、利根川を前に当て、鳥雲の陣をなし給ふ。謙信は、其二日、百八十騎にて、前橋にオープンアクセス NDLJP:178御着なり。三楽に対面し、大に怒り、是程の不覚人に、要害を預けて、謙信を引出し、手を取らせ恥を見せ給ふ事、甚だ奇怪なり。其儀ならば、三楽と討果すべしとありて、刀にて追懸け、場中にて三楽を手討にすべき様子なり。三楽騒がず申されけるは、仰誠に御尤に候。さり乍ら上杉殿御浪人以後、某僅の小身にて、氏康大身の持分に挟まれ、今迄滅却仕らず罷居候儀、全く他事にあらず、偏に謙信公弓箭の御陰に候。されば今度に相限らず、何時も氏康・信玄、大軍にて、仕懸け申さるゝに於ては、某二千・三千にて、孫子・呉子が術を得ても、手に及ばざることに候へば、重ねても御助を待ち奉る外、別儀なく候。然れば三楽、意なき禽獣にても候、流を斟んで、争でか淵を汗し申すべく候。友貞事、多年手に付け候て、武蔵・上野所々の働を勘弁仕るに、終に不覚の儀之なく、上又三楽が重恩を以て、安全仕りたる者にて候ひつるに依つて、斯様に之あるべくとも存ぜぬ事、某愚蒙のなす処、是非に及ばず候。弓箭・鉄炮・玉薬・兵糧等の儀は、さりとも半年は不足なく、其覚悟仕候。又余りの御事に、人質に取り候友貞が弟と実子共、是へ召具し候。彼是御覧遊ばされて下され候へとて、兵糧・玉薬の註文と、友貞が子弟を御目に懸くる。謙信席を立ち給ひ、二人の童子の長き髪を、左の手に握り、中に提げ、右の手にて即ち刀を抜き、両人を一打に四つに斬りて投捨て、気を直し、酒を乞出し、一つ召され、三楽に差し給ふ。三楽、少しも遅々せば能からんと思ひ、差寄りて、一つ傾け、側を引取り、虎口の死を免れたる心地にて、息次ぎ居たり。謙信、又三楽を呼出し、謙信是迄遥々出でて、手に合はずしては帰るべからず。利根川の陣に懸けては、信玄工夫の深き人にて、又手を結びたる軍なり難かるべく候。近辺に氏康が要害はあらずやと尋ね給ふ。三楽承り、山の根の城と申し、奥へ下道四里候て、氏康秘蔵の要害御座候。是には忍の成田が弟小田助三郎、長濃対馬守を籠め置かれ候。併差当てざる処に、武田北ぐるに依つて、越後にて受領致し、伊豆守になる。〈是より以後、倍々虫失損害に依つて、漸く残りたるを記す。最も落節多し。〉

天正三年、北条伊豆守、直江山城守等七組衆、謙信公へ申上げて曰、信玄死去の後、甲州騒ぎ立ち、長坂長閑・跡部大炊といふ両人の者、口入致すに依つて、勝頼と家老の間不知になり、度々備相違ひ、鎗向微弱になり、相見え候に依つて、若年の勝頼に、夢を見せ給はん事、然るべからずとありて、去年三月、大龍寺を以て、無事をなさるべき由仰越さるゝ処、勝頼合点申さず候。其上去年秋の程より、遠州・尾州に勝頼発向申され、信長・家康を追付け、信玄代にて、オープンアクセス NDLJP:179終に手に入らざる処、新しく切取り、結句手向の強き事は、信玄にも増さる様に、弓矢不勘の者共、取沙汰仕候。さ候へば、甲州・信州の間に御馬を出され、取合をなされ候とも、弱気なる勝頼軍法度に違ひ、信長・家康を相手に受けしよりは、大負仕らるべく候。さ候へば、あたら国を信長・家康に取られ給はんより、甲州・信州の儀は、先づ差置かれ、飛騨・越中は、此方より御手使をなされ候へかし。何れの道、帰する処、信長・家康と近年の間、有無の御一戦を遊ばさるべき御事に候へば、其便宜に候と申上ぐる。謙信領掌まし、越中の椎名を退治せらるべき事に定まる。

天正三年二月、越中の椎名へ使者を越され、来月上旬、一万にて、越中筋へ働き申すにて候。其用意あるべき由仰せらる。是に依て、椎名、甲州へ、甥の椎名又市を差越後東は〈誤字アルカ〉〕直江山城守・川田豊前、合せて二千、御旗本は甘糟近江・長尾小四郎・中条五郎右衛門・竹股勘解由・赤輪新介等、前後の備以上二千。義景は五六町を隔て、利根川の方に当る。崔嵬の嶺に陣を張る。謙信、将を会し給ひ、今度は、無理に各の一命を、輝虎所望申す。城乗の方便は、吾れ下を加ふるに及ばず、只荒攻めに仕られ候へ。某は是より見物申すべく候。若し後詰のあらん時は、本陣の相図に随ひて、此の如き備を立て、下知を待ち候へとて、絵図を出し給ひ、城中には之を知らず。然る処に、矢倉にありける侍、小田の役所に来り、利根川の方より、馬煙夥しく見えどよみて、次第に相近付き候。氏康公、奥筋へ御手使候やと申す。小田覚束なくて、長野を伴ひ、矢倉に上り之を見るに、両将利根川におはす軍門の前を押通り、敵の寄すべき様なし。近国には、輝虎と太田ならでは、敵はなし。輝虎と三楽は、松山の城後詰の為め、昨日より前橋に着きたりと聞ゆれども、城は落ちぬ。今日は定めて帰陣たるべし、若し夫れ謙信誤つて、奥筋へ手使申さるゝとも、両将斯くて在ませば、争でか一戦あるべき。さるにても亦、味方にてはあるべくとも覚えず、大物見に出で、七八町西に当る丸山峠へ乗上げける処に、太田三楽先将渋谷が一手、三百計りにて寄せ来りけるに、険しき山の嶺に、面突く程に行逢ひたり。双方振方あらずして、驀向に鎗を合せ、一足も退かず、分々に、当々の敵に相当り、物見の兵士は、一人も残らず、丸山に於て討死し畢。小田は、太田が家来深川修理といふ者に討たれて、首を授く。長濃対馬は、小田が使を、今やと待つ所に、丸山の辺に鉄炮の音聞え、誰とは知らず、其勢二千計り、しくろうして、小田が下部の陸者共を追ひ来る。すはやと見オープンアクセス NDLJP:180る処に、又、南の山の手より、銀の吹流・矢筈の指物余多差させたる一備、馬煙を挙げて相近く。長濃大に驚き、手別をし、各持口に馳合はんとすれども、込合ひて騒動しけるに依つて、下知ならず。対馬守歯を嚙んで、口惜いかな、利根川の腰抜けたる味方を頼とし、不覚の死を遂ぐる者かなと、いひ捨て、西の門を破つて、乱入る太田勢に馳向ひ、与力同心十四五人伴ひ、暫く戦つて東を顧れば、北条・柿崎両手の馬印、早や本丸の城地に立つ。川田組・直江組、共に続いて攻め入る。就中太田勢は、西の川の手より、嶮しき山を一息も継がず攻上り、外側を破り、二の曲輪の門際迄、切入りけれども、長濃隙なく防ぎ戦ふを以て、本丸へは未だ入らず。去る程に城兵、余りに強く攻められ、足を立兼ね、明きたる方北を指して、押なだれたるを見、長濃・対馬、同心の由良五六を近付け、御辺は早々本丸へ入り、清水と吾が妻子共を下知をなし、能きに計らはしめ給へ。郎従共残り居り候へども定めて未だ事果さず、罷在るべしと推量仕り、頼入候といはれければ、五六、委細相心得候。御心安く御戦死遊ばされ候へ。某は御子息達の御供を仕り、即ち追付け参るべしと、申して立別れ、主従四五人にて、本丸役所へ入り、長濃と小田が妻子を相仕廻はせ、五六も一所に自殺す。対馬は、此城辛労して、全く守りたればとて、いつ迄保つべき。中々に心行く程打合ひて遊ばんとて、三楽、旗本へ切つて懸り、比類なき働して、父子主従十七人、一所にて討死す。去る程に、直江山城・川田豊前・柿崎和泉・北条丹後・太田三楽、三方より同時に乗入り、謙信公下知に任せ、老若・男女・僧俗を別たず、当るを幸に、突臥せ切倒す。謙信公、諸手過半乗入りたる時節、御旗本より、竹股勘解由、本城清七に組合ひて、六百計を別けて、北の方へ廻し、鉄炮を持つて、遁れ出づる者を打たしめ給うて、依て助くる者、百が中に、一二もある事稀なり。城中に籠る処の兵士、何れも北条家に於て、度々の武辺、仕馴れたる勇士共なりと雖も、鉄炮を二つと快く放敢へたる者之なく、三方の寄手急に攻め、利那の間に乗入るを以てなり。謙信公、丸山より始終見給ひ、侍は常の事、雑人・下部迄、一様に身命を塵とも思はぬ働、見事なりとて、節々讚歎し給ふ。辰の刻に取合始まり、午の刻に乗取る。抑今度山の根に於て、城兵死する者上下・男女并に僧童、凡そ二千六百人なり。寄手には死者三百七十五人・手負五百人なり。事終りて、即ち諸手を丸山へ打入れ、腰兵糧を仕ひ、人馬を休まし、城をば乗捨にして、又本の路を帰り、利根川下の瀬を渡し、前橋へ入り給ふ。永禄五年二月十三日、山の根の合戦是なり。坂東の諸将、敵・味方之を見聞オープンアクセス NDLJP:181く者、凡そ開闢より以来、是程の仕課せたる軍を、未だ聞かず。武田・北条両名将、四万余の大軍にて控へ給ふ処に、大河を越し押通り、老功の勇士二千余にて持ちたる険難の要害を、僅か一万計りにて、半日に乗取り、二度武田・北条の矢懸り近く押返して、恙なく帰陣ありし事、更に凡夫の態にあらず。只摩利支尊天の所為なりとの沙汰ありける。長尾佐治右衛門といふ武辺功者の侍大将、小田原に於て、批判して曰、縦ひ謙信にても候へ。其時、味方両旗を以て後詰なるに於ては、百に一も負けずといふ事あるべからず。輝虎も、決して此の如く存ぜらるべく候へども、生得に立派を好み、腹の悪き男にて、其時は一人も残らず討死する迄ぞと、見果したるより外、別の術是あるべからず候。不動明王と摩利支天とを以て、粉に摧き、等分に錬立てたる謙信と雖も、山の根へ勢を押し候時、河を越させ、十町程を延べて、跡より仕懸け候か、又城を半攻め候時か、又は帰りて利根川に臨み、人数を三分一渡し候時か、合戦を始め候はゞ、争でか遁し申すべく候。是非共に於て、合戦を遊ばされ候へと、某はさしも申しつるものを、氏康御父子も信玄も、謙信は強敵なりとて、余り御慎み過ぎ候に依つて、勇鋭に気を奪はれて、図を迦し給ふとこそ存じ候へ。さりとては、人に勇気も、重々浅深なる者に候。行懸り遁れざる場にて、一命を軽んじ候儀は、常々勇士の習に候。前橋より直に帰陣ありて、其難之なし。人の龍頭を渡り、虎の尾を蹈み太田等が意見をも用ひず、山の根を無理攻にして、引取り申され候事、分別なきは扨置き候処、健気に於ては、古今希代の大将とこそ見成し申して候へ。似たるを以て、友とするならん、同行の太田三楽、右は増りの大剛の者、家来にては甘糟近江・長尾小四郎・川田豊前・上村甚右衛門〈前名常松〉・北条伊豆・其弟丹後・本城清七郎・柿崎和泉・直江山城・中条五郎右衛門・三宝寺織部介・加治内匠・荒尾一学・斎藤筑前・長尾義景等、是等は勇謀兼備して、比類なき者共にて候。又越後の龍四虎とて、十二人の荒勝負を得方にする者、直江市兵衛〈山城舎弟〉津津二右衛門・片桐三介・瀬場四助・勝尾五郎丸・田井六郎・志賀肥前・石黒藤蔵・丸雲十兵衛・苦桃弥吉・志村新介・青龍寺など、是等は小身者、謙信馬廻りにありて、鬼を酢に浸して、食はんとする奴原共にて候と語りければ、氏康公聞き給ひ、如何にもさる事にて候。夫に付きては、一度手に手を取組みたる有無の一戦を遂げ、今度利根川に於て、生眼を抜かれたる返礼をし、其後の様子に依つて、無事をせんと思ふとぞ仰せける。山の根の城落ちて、引返し給ふ途中より、先達を待二人仰付けられ、前橋城中に於て、各役所オープンアクセス NDLJP:182を割り別け、陣札を合せ打ち給ふ。太田三楽・北条丹後は三の曲輪、東城地の内は直江山城、北の出丸には、川田豊前・柿崎和泉と、各陣札に随ひて幕を引き、城主入道謙忠は、西の丸穴門の内、一段低き地に陣を打つ。謙信、翌日謙忠を召す。謙忠、脇差を次の間へ抜置き、差入らんとするを、苦しからず、今日は差し候へと、仰せけるに依つて、又出でて脇差を差し、御前に出づ。其時謙信、書物を披き候へとて、自ら読み聞かせ給ふ。

一、謙忠、近年当城に居り、隣境の様子を存じ乍ら山の〔〈一字欠〉〕の引導をなさず、他家の三楽へ譲る事。

一、柿崎和泉、平井より鳴瀬へ出でて、忍の成田と取合ひ、半載に及ぶ迄に、近境に居て、助成を知らず。加之忍が領内毛作を刈られ、困窮すと聞きて、畠が瀬より、舟にて敵陣に兵糧を遣す事。

一、小田原陣の時、成田と談じ、謙信に対し、逆心これある事。

一、家来の侍戸部といふ者を、甲州へ遣し、帰着以後、妻子眷属迄之を害す。其意、謙信が聞かん事を相憚る隠謀の企、疑なき事。

右の条数に依つて、唯今誅を給はるとありて、刀を抜き、謙忠が脇差を、半計り抜きたる所を、首を懸けず打落し給ふ。さありて、宇佐美に仰付けられ、御旗本百人組并に苦桃組等を以て、謙忠が与家来、西の丸にある所、之を殺害せしむ。宇佐美先づ石垣を上り、西の丸を見下し、謙忠家来川原与八を呼出し、旨を申渡す。但し謙忠并に伝右衛門に対し、好之なくて、出去るべき者は、御構無之間、穴門より、番手の侍竹股に断り、出通べき、委細に言聞かせ、二方の石垣の上に、楯を一面に突き、弓・鉄炮を以て、与家来上下五百人、即時に殺害せしむ。早や少々は、穴門より遁去る輩も之あり。但し女童は、一人も死せず。是は去々年、当城の普請ありける以後、城内は、妻子を籠置くべからざる由、堅く仰付けられ候に依つてなり。其時節は、諸人其意を暁らず、当城の儀は、武田・北条両家の中間にある手当にて、謙信公、毎度御馬を寄せられ、取合繁き処なるに依つて、若しもの時、女童のありて、取忙てたらんものと思召され、禁じ給ふかと思ふ処に、科なき者の殃死せしを、痛く思召す事なりとは、今思ひ知られける。

去る程に、殺されける者共の妻子、城下の村里宿屋に居たる処、悉く尋ね問はれ、分々当々にオープンアクセス NDLJP:183随ひて、金銀・米銭を給はり、喝命を輔け給ふ。其内に謙忠が幼子十二三の童一人、母に連れられて近郷にあり。是は父が子にて候間、御殺害あるべき旨、耆老の面より申上ぐる。謙信聞召し、何条さる事のあるべき。其子成人して吾に敵し、父が恨を報いんや。夫は其者と、吾が天運ならん。吾亦、夫迄存命すべきや知らず。十二三の者なれば、父に与して、逆心の罪あるべからずとて、是も同じく金子を給はり、飢寒の愁を恵み給ふ。御子息景勝の時、彼の兄弟右馬助・右京亮と呼ばれ、加賀国市橋の城にて、忠死せし者是なり。

斯くて夜に入りて、御小姓頭井手弥兵衛・松永伊織を招き、美酒・嘉肴を催し、太田を始め、組頭の面々并に諸侍を請じ、終夜労を慰むべき旨仰付けらる、之に因つて一会を催し、三楽を始め、御家中七組の面々、其外諸士次第に居流れ、配膳を給はり、所々に古今の軍物語暁天に及び、三楽七組の耆老衆に問はれけるは、承るに、御家来の衆、諸方度々の御覚多しと雖も、一番鎗・初印等、先鋒にある手柄は、皆四十以前、二十・三十の若侍、又引陣の後働・切所・難所にて殿に下り、味方を助け、敵を払ふ如き、後度のこゝろばせは、是れ四十以後、及び五十・六十の老武者なり。是れ何としたる御事に候。手柄は、吾人行懸の仕合にて候へば、老若の選は、ならぬ事に候。ついでの御物語に、此行細承るべく候との所望なり。北条伊豆守答へて申す。御不審尤にて候。さり乍らさ迄定りたる事にては無之候。年寄の先頭に進みし者、跡鎗をしたる者も、亦多く候。然る内過半は、只仰の趣に候。其仔細、先づ御了簡もあられ候へ。某等が如く老耄れて、若者争で先を蒐け、一番に、鎗合など仕ては、弥〻をこがましく、妨ぐる様にこそ候はめ。頭の禿げたるにも恥ぢよかし。如何計り、武辺は珍しき物と思ふやらんと、推量せられ候はん事、尤も恥しく候。左様候へば、態とも少しはいやな振をして、若殿原に先を仕る外、更に仕方なく候。さ計り申しては、老の果の遊山、一向に絶え申す外無之候に依つて、攻めて引取る後、働の捨首抔を致し、眠を覚し候と、語りて笑はれければ、三楽、如何にも、東国にて老功の者共、批判も斯く仕候。さりとては、御家程、弓矢高上の穿鑿、別にあるまじく候。手柄にも、年の程を恥ぢ候事、能き武辺と睦如くと隔なく、常になり候はでは、有難き事なりとて、数度之を感ず。鶏鳴頻に催しければ、各役所へ退出す。其次の日、今度山の根に於て、戦功を抽でたる衆、并に戦死の者の子弟、委細に糺明せられ、各加恩を給はり、又は与力同心を附け加へ給はる。尤も感状下されたる者も是多し。然して前橋の城を、北オープンアクセス NDLJP:184条丹後に預けられ、三月十七日帰陣なり。

三楽は、前橋にて暇を告げて、浮洲通に懸り、鳴瀬に出で、成田居城朝日山の城下を相働き、麦を刈上るに依つて、長安忍び兼ね、五百計りにて城を出で、畠瀬といふ川を境に、相対しけるを、三楽ためらはず、二千余にて河を渡して追ひ、上下百九十余討取り、人数を引入れ、中武蔵へ帰り、松山の城、乗取るべき其支度隙なく、松山には、氏康より、上田又次郎入道安斎を置かれ、雑兵加へて二千五百余入れ置く。

謙信公、四月上旬、越府を御進発。越中へ出陣し給ひ、蘆田・時田を攻め、越中武礼・磯二郷の御仕置仰付けられ、四月中旬帰陣なり。

甲州穴山梅雪より、越後北の庄龍峯寺迄、空庵といふ僧を差越され、其趣聊か故あるに依り、信玄、近来総領の太郎義信を押下し、庶子伊奈四郎を立てんと仕られ候。其積累猶止まず。矛楯の機、既に顕はれ候。さ候へば、謙信公、義信を養子になされ、取立てまし候に於ては、梅雪連れて、城後へ相越ゆべく、信玄家中にも、宗徒の者四五人も、義信を引き申す輩御座候間、更科より御取続け、信州は大方御手に入り申すべく候か。是れ多年御願望の由候。義清を本地へ仕居ゑ給ふ計策の御調達なりとの口達なり。謙信公近習諸角喜介・本郷八左衛門之を聞次ぎ、先づ七組の耆老に相談す。七組衆、是は大吉事に候。甲州を謀る術の便なれば、早々披露仕られ、尤とあるに依り、両人罷出で、委細に申上ぐる。謙信、其僧是へ召出し候へ。直答せらるべしとの仰せに随ひ、押付け空庵御前に謁す。謙信仰せけるは、御坊能く聞きて、梅雪にいはれ候へ。義信の使を以て、信州を取るとの儀、謙信合点申さず候。夫は是非と存ずるに於ては、人手は借る間敷候。義信は若く候へば、さもあるべし。梅雪、何ぞ是程空気うつけたる言葉を出され候や。身の寄処なき程に頼入ると候はゞ、謙信何とて慮外申すべく候。御坊黒衣に対して、今度は無事に帰す。疾く去れとありて、はつたと白眼み給へば、空庵、色を失ひ、走り出でにける。

同年五月、北条丹後・柿崎和泉、四千計りの人数を以て、朝日山へ取詰め、攻落すべき様子なるに依て、長安、弟の紀伊守を小田原へ越し、加勢を乞ふに依つて、氏康自身、一万計りにて小田原を御立ち、前橋へ押詰め、相働き給ふ。之に依て丹後・和泉、朝日山を払ひ、前橋に帰り、片田に陣を張り相対す。太田之を聞き、江戸を発し、忍を退治せんとて、又鳴瀬へ働き、次第オープンアクセス NDLJP:185に取詰むるを以て、長安より、羽使を前橋に飛ばして、氏康を頼む。氏康之に依つて、前橋を差置き、中道を経て、武州へ出で、千町が原に陣を取つて、江戸へ働き給ふ。三楽之を聞き、又鳴瀬を引取り、江戸の城へ帰り入る。太田帰城しければ、氏康武蔵を立ち、鳴瀬へは加勢の為め、物頭二人、其勢五百計りを差越し、小田原へ軍を入れんとし給ふに依て、北条家の耆老北条左衛門佐・同名玄庵・氏康へ申しけるは、今度武田御救の為め、御旗を出され候儀、隠れなく候。然る処に、後詰の一戦をもなされず、敵を除け給ふ。所々に御陣を移され、此儘御帰陣ある事、一円其意を得ず候。且は天下の嘲弄ともなるべし。此間、北条・柿崎・太田三楽等、鳴瀬へ罷ある内懸り、一戦遊ばし候に於ては、疑なく御勝利にて之あるべく候はんものを。

此図を迦し給ひ候。是れ一つ。さなく候はゞ、又北条・柿崎・鳴瀬より押戻り、味方と対陣の時、押懸け候はゞ、敵は三千、味方は一万なれば、是れ又争でか二人が中一人、討取らざるべく候。是れ二つ。抑如何なる御遠慮にて、勝ち給ふべき軍を遊ばされず候や。承るべく候と、諫めければ、氏康、二人を近く召され、さゝやいて仰せけるは、汝等能く勘弁仕候へ。此度直に鳴瀬へ押付け、柿崎・北条をも討果さず、又中武前橋にて、一戦をもなさゞる義、遠慮ある事なり。さあらざれば、氏康大軍を持ち乍ら、僅か計りの者共近場に置きて、争でか根を断ちて葉を枯らさゞらん。先づ思ふに、謙信は軍の勝負、家の浮沈、身の安危にも拘らず、只健気をのみ好みて、差当りたる図を迦さぬ者なり。汝等も見聞せる処なり。見候へ、只今にても、泉州・丹州・三楽等を、吾等取詰め、或は討漏し、痛くも当るものならば、無二無三に押来り、急戦を遂げん事疑なし。左候て、謙信と我等、手詰の軍をせば、大事の勝負にして、安からざる事なり。某は近国に、大敵を余多持たざれば、年を逐うて大身になり、八州をも、後には手に入るべきの処に、其時をも得ずして、危き軍をせん事、武器の不足といふべし。只今の様に所々に相働き、手を結ばざる分にては、謙信も、甲斐・能登・加賀の大敵に、隙なきを差置きて、当表へ来る事は、あるまじきなり。彼方より無理に手を出し、仕り懸けん時は、止む事を得ず、此方より思慮なき働をして、大敵・強敵を引出し、危き取合を仕るを、名付けて下手といふぞと、明し給ひけるを聞き、両人も、浅からず服心仕り、千町が原を引払ひ、小田原に帰陣なり。三楽、武州下屋といふ処に塞を拵へ、取続きて松山の近辺へ、節々働き出で、青田をこね、麦作を刈る。或時三楽、三千計りにて例の如く相働くに依つて、松山の城主上田又次郎、オープンアクセス NDLJP:186是も二千計りにて出向ひ、一戦に及ぶの処に、思の外散々に仕負け、十町程追討にせられ、与力同心多く亡し、辛く松山へ遁れ入る。此事を、東国にて、敵味方共に嘲弄し、又次郎面目を失ひ、憤に堪へず、如何にもして、会稽の恥辱を雪がんとする事他事なく、其折にも、松山の近所落合といふ所に住む浪人の子童を、又次郎取立て、衾直させ、懇意に召しける者、密に主の又次郎に語りて申しけるは、親にて候者は、多年三楽に親み、家来の如く出入を致し、心安く仕はれ候。左候へば、其儀御気に違ひ、御家を出でたる体にて、暫く引入罷あり、其後親にて候者を、三楽方へ遣し、今時分、松山の城主又次郎と、同心・中間不和の儀出来て、矛楯に及び候。早々人数を懸けられ、城を御取り候へ。註進の人質には、某父子の間、一人は御城へ留り、何れなりとも、一人は御手引に御供仕るべしといはせ候はゞ、疑なく太田急に発し、当城を攻め申さるべく候。其時に当りて、御謀をなされ、三楽を御計り、近国の人口を塞がれ候へかしと申す。上田つく之を聞き、誠に謀の次第、尤も賢く、三楽を討たん事、案の内なりと思はれければ、偽りて勘当を致し、城中を追ひ出す。彼小々姓落合に帰り、両月日を過し、永禄七年四月下旬、父子相連れ、太田へ到り、然々の通証を挙げ、拠を正し懇に語り告ぐ、三楽、以の外に悦び、先父の腰刀を取り、両人共に籠め置き、二千五百にて打立ち、其夜は下谷に着し、翌五月朔日早旦に押寄せ、堀崕共いはずして、乗つたりける。又次郎、其前小田原へも、此由を申通じ、伊勢兵庫・富永大学といふ侍大将二人、雑兵五千を呼寄せ、鞍懸といふ深山に置き、自身も城を出で、二千を随へ、瀬田ヶ谷に伏して相待つ。城には先年当城にて、三楽に計られし北条雅楽が弟黒沼伊豆・遠山左衛門・芳賀伯耆、二千計りにて籠り居たり。三楽さすが明察たりと雖も、斯かる謀ありとは夢にも知らず、三千五百の勢を三手に作り、先陣は間宮・刀根・大法寺大膳二千余兵、後陣は三楽千五百、壻の太田筑前坊を跡備として、真丸に作り、甲をうつむけ、攻盛つたる最中、上田又次郎二千余兵、佐藤一景といふ法師武者を大将とし、太田を包み、寄せ来る。三楽之を見て、馬廻千五百の内六百を別けて、筑前坊に相副へ、東の方五町程隔て、備を立て、敵味方の勝負に構はざれと下知し、自身は一千余騎、南向に備を立て直し、佐藤組を左右に置き、鉄炮にて射さしめ敵の備しらみたる処へ鎗を入れ、空立てける間、又治郎が先頭一景、足を立て兼ねて見えけるに、鞍懸に伏し居たる大軍同時に発し、相図の刻限に違はずして、雲霞の如く群り、戌亥に当りたる丸山に差上げ、太田勢を目の下オープンアクセス NDLJP:187に見、鐘を鳴らし鯨波を挙げ、足を乱さず、閑に討つて懸る。城よりは遠山左衛門を大将とし、黒沼伊豆守千余兵、城戸を開き討つて出で、いらつて切入るに依つて、金鉄を欺く太田勢も、防ぎ兼ねて、足並になつて見ゆるに、三楽が先将間宮兵庫・刀根内匠・大法寺大膳等相議し、引いて去らんとせば、味方の兵士一人も遁るゝ者なく、只一途に死を窮め、戦はんには如かずとて、二千計りの兵を三に別け、立替り相戦ふ。丸山の大軍に渡し合せ、一足も退かず、三楽も、先陣に数度使を遣し、唯死を仕れとぞ下知せられける。三楽旗本も、城より出でたる遠山左衛門に取立てられ、五六段控へてしさりしを、三楽、馬廻百人計りを以て切つて廻り、竟に又せり返す。後には一手切になりて、間宮・刀根・大法寺は、二千余兵にて、小田原勢、伊勢兵庫・富永大学と戦ひ、三楽千五百にて、遠山左衛門・佐藤一景・黒沼伊豆・上田又次郎と取合ひ、敵味方以上一万計りの人数、乱れ合ひて、子は親を助くべき隙なく、従者は主人を蹈付け、切伏せ突頽す有様、敵味方一人も生残りてあらん程は、事果つべきとも見えず。三楽壻の筑前坊は、六百余騎にて、五町を隔て、東の山の手に備へて、兵を動かさず見物してありける。五月の永き日に、辰の刻より始り、未の時に至れども、未だ竟らず。屍は忽ち山をなし、血は野辺の緑を染む。両陣戦窮りて、矢尽き力堪へざるを見澄し、筑前坊六百余人を従へ、弓・鉄炮を投捨て、鎗障を立てて、上田又治郎が後陣に廻り、鯨波を作懸け、切入りけると等しく、二千五百の兵士、跡より崩れ、きたなし返せと雖も聞入れず。瀬田ヶ谷の方は靉き立つ。太田勢是に気を得、揉立て攻めける間、小田原より来る三千余人堪へ兼ねて、敗軍せしに依つて、城兵も足々になりて、松山へ引入る。三楽は、万死を出で一生に遇ひ、軍場を取り、鬨時を行ひ、下屋迄漸々引取る。斯くて三楽、総軍の中より、手負はず疲れざる逞兵を勝り、三百人を従へ、夜廻を致し、草臥れたる役所には、大声を懸け、諸軍を警固せられけるに依つて、上田又次郎が夜討せんと籠城して、昼の手に遇はざる兵士三百計りにて、落合の山の嶺へ差挙げけれども、中々窺ふべき様なかりければ、鉄炮少々打懸け、競を見せて引返す。抑此度松山に於て、敵・味方宗徒の討死する者其数多し。太田方には、先づ家老大法寺大膳が長子同名武蔵守・侍大将間宮兵庫・渋谷主水・平山勘右衛門・太田勘解由・刀根五助・平崎大之介・大井土岐等を始めとして、侍二百六十人・雑兵一千三百人と記す。北条家には、遠山左衛門・黒沼伊豆守・佐藤一景・和田左吉・松田修理・曽我内膳・遠山虎之介等、侍百九十二人・雑兵一千四オープンアクセス NDLJP:188百余人、永禄七年甲子五月、太田三楽・上田又次郎、松山の城にての大合戦是なり。

永禄八年正月、武田信玄、子息の太郎義信・家老飯富兵部少輔・近習の長坂源五郎と、義信小姓八十人余成敗仕られ候。其趣は、四年以前、信州川中島に於て、信玄振廻宜しからず、義信は敗軍の時も、三度迄返し合せ、健気の働をして、信玄の旗本を助けられ候。此事を飯富兵部能く存知し、沙汰し候に付、信玄大に憤り、父子・主従の間、宜しからず。義信逆心と号して、件の如しと、上州下田安房守書付を以て、三楽方へ註進す。同年五月十九日、公方光源院義輝公、三好松永が為めに弑せられ給ふ由、織田信長、飛脚を以て、謙信へ註進す。同年六月、謙信公、佐渡庄内へ御馬を出され、八月上旬迄、軍馬を立てられ、田原の定守伏す。

同七月、柿崎和泉・北条丹後、上州下分に働き、毛作をこね、夫より和田へ取詰め、巡見するの処、武田衆堅く守るを以て、早々引取る。其時、青沼新九郎といふ謙信寵愛の小姓、遠筒に当つて疵を蒙り、翌日前橋に於て死す。是は北条丹後与力青沼勘兵衛三男、久しく越後へ相詰め休息する為め、六月より父が在所にあり。謙信公、佐渡より御帰城ましまし、新九郎御暇を申さず、忍びて在所へ罷帰り、剰へ多日逗留致し、是非に及ばず由、大に怒り給はせ、掘埋めたる新九郎が屍を引出させ、首を斬り、獄門に懸け、父子兄弟悉く御追放あり。又如何なる密事を聞召しけるにや、北条丹後甥伊豆守末の弟水右衛門とて、其年廿二三歳、若く清げなる侍ありけるを、飛脚を以て、越後へ召出され、御不断御居間に於て、御詞を懸け、例の国吉二尺九寸を以て、袈裟刀に切つて捨て給ふ。

三楽は、去年松山に於て、大剛の兵士共、余多損害せしむ。悲歎の涕、未だ乾かず、只暗然として、諸方の手使を止め、供仏作善の営の外他事なし。然る処に、其紛に乗じ、北条氏康・子息氏政、二万余騎を率し、上田又次郎入道安独斎を先陣として、上道中武蔵に取詰め、江戸の城を攻落さんとす。平井・柿崎・前橋の北条、相共に中武の虚弱を警固の為め、両方より三百五十宛、都て七百人の兵を別けて、太田方へ遣し置く。三楽、是等に芳賀・大法寺・高梨を相副へ、二千五百を以て、城内を守らせ、吾身は二千五百を手に付け城を出でて、下屋に陣取り相対し、度々の迫合あり。謙信は、佐渡帰陣あり。追付上州・武州筋へ御馬を出され、太田が労を助けんとて、陣触れ之あるの処に、江戸より飛脚来り、氏康発向の其告あるに依つて、早速御起ち、先づ前橋へ着き給ふ。供奉の面々には、宇佐美駿河・川田豊前・甘糟近江・長尾小四郎・上オープンアクセス NDLJP:189村甚右衛門・津田若狭・神保志摩・柴田出雲・中条五郎右衛門・荒尾右馬助・黒川意仙等、八千余騎に過ぎず。氏康父子も、此城落去延引に於ては、又謙信出でて、六ヶしくなるべしとて、昼夜隙なく攻められけれども、城兵能く拒ぎて破れず。然る処に八月十二日、輝虎前橋へ来り、大勢にて、頓て後詰申さるゝ由、先達て聞えありければ、氏康、如何思ひ給ひけん、大道寺駿河守・北条陸奥守・同美濃守等九千余の兵を以て、三楽を押へさせ、氏康・氏政は、一万五千を従へ、小田原へは帰り給はず、鳴瀬より畠瀬を渡り、前橋へ逆寄に仕懸け、町口迄押込み、人数を打入れ、引取らんとせられけるを、越後衆宇佐美駿河・川田豊前・長尾小四郎以下三千計りにて引付け喰留むる。二陣は、謙信旗本組柴田出雲・中条五郎左衛門等三千、三番は、甘糟近江・黒川・竹股等二千余人、城を出で備を立つる。小田原勢引き兼ねけるを、蒲上備前守一備、三百計りにて返し合せ、宇佐美衆に突いて懸り、追返すを以て、乱れ立ちたる大軍閑りて、一町程引取る。氏康も、本陣には氏政を置き、馬廻三千計りにて引返す。敵をくつろげ、味方を引締め給ふ。謙信返して、跡へ下りたるは、氏康の旗本と見給ひければ、此節手と手を取組み、雌雄を一時に決せんとて、三千余の兵旗をうつむけて懸合ひ、自身鎗を取り馳せ廻り給ふ。大将此の如くなれば、越後勢甘糟後備の外は、総懸りなり。小田原衆も、後へ下りたるは、大方引返し相戦ひ、手を摧くと雖も、乱れたる大軍の内より、抜々に返したる事なれば、備定らざりける故、北条衆終に敗軍し、十町余追討に遇ひ、武辺覚の衆北条新右衛門・長濃吉十郎・川上主水・遠山左衛門以下、侍八十余人・雑兵四百計り死を致す。越後衆も、上下百五十余討死。氏康父子、其夜は橋塚まで引取り、陣し給ふ。三楽は三千にて、其翌日前橋へ参られ、頭を地に付けて、此度の御礼を申して、其次に氏康、尚ほ橋塚に堪へて候に於ては、七組衆の内、誰にても仰付けられ候へかし。三楽御先を仕り、死を軽く仕り、高恩を謝すべきの由、之を申す。然る処に氏康・氏政、橋塚を引取り、帰陣の由相聞ゆるに依つて、其沙汰に及ばず。さらば忍の成田が城へ、勢を差向けらるべしとて、平井の柿崎和泉守・太田三楽・甘糟近江・北条丹後・同伊豆、以上五頭六千余兵、永禄八年八月下旬、前橋を起ち、畠瀬より朝日山へ取詰め相働く。謙信は一日後れ、前橋を御立ち、氏康後詰の手当として、鳴瀬より西二十町を去つて、御膳岳に陣を居ゑ給ふ。其勢五千余なり。三楽・柿崎・甘糟等軍議を談じ、態と城を攻めず、村里を放火し、稲梁を刈取り、人数を打挙げ、御膳山迄引取り、小田原へは謙信出でて、朝日山を取囲むオープンアクセス NDLJP:190との註進に依つて、氏政一万五千にて、出で給ふと雖も、軍はなし。只御膳山南二里を隔て、対陣まします。鳴瀬へは、平井と前橋と太田より、間もなく働き出で、青田をこね、麦を振り稲を刈り、或は村里を焼き、近年の内、既に五箇度に及べり。之に依つて、民窮り士困んで、居住叶はず。老弱は溝壑に転び、壮者は四方に散る者、挙げて計るべからず。忽ち荒処と成果てければ、長康すべき道なく、永禄八年九月、朝日山の城に火を懸け、家来侍悉く分散し、自身は小田原に参り、小扶持を乞請け、浪人の様にてぞ候ひける。

永禄八年九月、寒気漸々節を催し、峯々の雪、既に見事にて、九月半前橋を立ち、越後へ帰陣あり。

同年十月、越後御城に於て、七組衆を始め、諸侍へ配膳を給はる。是は毎年三度づつ定めて、此の如し。人数広大なるに依つて、三日に事終る。七人の大将・十二人の御先衆・六人の党の衆・廿一人の大備の衆へは、自ら膳居ゑさせ給ふ。其余の諸侍へは、引渡の時、銚子の柄に手を付け給ふ。但し夏の一節、諸方の出陣事繁きに依つて、御振廻之なし。

去る九月、前橋より御帰陣の路次にて、和田八助といふ浪人、挟状を捧げて、道の側にあり。長尾志村之介之を請取り、謙信公へ御目に懸けたり。其紙中、先年川中島合戦の砌、御召の放生月毛労れて死し、下りて立ち給ひけるを、和田木兵衛、己が馬に乗せ奉り、数多の敵を主従にて凌ぎ、始終供奉を離れ奉らずしけるを、高梨山中にて、如何なる故にや、例の大太刀にて打捨になされ、夫よりは只一騎にて、御入城坐す。父にて候者は重科にて、御手討にはなさるべく候へども、早や年代相隔りたる御事にて候へば、以前の忠に思召替へられ、子にて候者は、御赦免を遊ばされ候て、下され候へかし。さ候はゞ、一度御膝下に候し、身命を擲ち、二代の忠に備へ申したき深念に候。此条、多年七組の衆まで、訴訟仕候へども、御取上之なきに依り、直達に及び候とぞ書きたりける。謙信公御覧ぜられ、志村介を以て、此者召し候くん、七組の衆へ仰付けらる。去れども七組衆、何れも合点申さず、宜しかるまじき由、申上ぐるに依つて、謙信、さらば手当を添へて、小田原へ差越しなさるべしとて、金子を二百両程下され、御手書を給はり、北条氏康へ差越し給ふ。氏康大に悦び給ひ、謙信の手書を得るものならば、定めて器量の侍なるべしとて、即ち召され、抱扶持を下さるべしとありけれども、聊か所存候条、御扶持の儀は、先づ辞退申上候。何者の寄子になりとも、仰付けられ候オープンアクセス NDLJP:191へ。堪忍分にて、軍陣の御供には候し候はんと、逹て申しけるにより、福島殿の同心になり、小田原に罷あり。其後一両年経て、小田原衆、武田衆と、薩陲山に於て迫合ありける時、跡部大炊助、同心従者一人連れ、物見に出でて、福島殿の備近く乗懸けけるを、此八助渡合ひ、一人にて二人を討捕る。同所にて、二度目の迫合の時、馬場民部与力飛大弐といふ大剛の者と取合ひ、大弐を鎗付け突倒しけれども、馬場衆馳合せて首は渡さず。同じ場にて、両度の働に依つて、氏康感状に、所領を添へ給はる。然れども八助、御感状計りを頂戴致し、所領をば受けず。其志、如何にもして、謙信公の御免を蒙り、越後へ帰らんと思ふにあり。謙信公聞召され、又志村を召し、汝宜しく七組の者共の気を謀り、能き様に申宥め、八助を越後へ召返す調達仕候へと仰せられ、志村も内々申上げたく存じ居たる折柄なれば、大に悦び、七組衆の内宇佐美駿州と直江城州と同座にて、申出しけるを、宇佐美聞き敢ず、やあ志村殿、聞かれ候へ。彼八助、如何様なる所存あつて申すも計り難く、父の讐なれば、さめるまじくとも存ぜられず候。匹夫をも、其志を奪ふべからずと申す時は、別人が執し申すとも、志村殿心あらば、申留め給ふこそ本意にて候へ。八助一人あらずとも、何の欠けたる事ぞ。甲州の飛大弐を、鎗にて突きたるが、珍事にならば、某は、飛ばぬ大弐なりとも、突いて御目に懸くべしと、御前へも申され候へ。御辺左様にうつけたる儀を、重ねて執し給ふなと、大に呵りければ、志村面目を失ひ、座敷を立ち御前へ罷出で、有の儘に申上ぐる。謙信公御笑ひ、駿河守堅き言、今に始めず。志村腹立ち候な。然るに於ては、八助に早望を絶し候へ。当家に限らざる事なれば、早々有付き候へと、其方申越し候へと、仰せられて、其事止みぬ。松山の上田又治郎安独斎より、長江といふ禅僧を以て、太田三楽方へ申されけるは、去々年父子自ら人質に出でて、身を捨つる計策仕候。落合の童父子が事、重奸の者に候へば、定めて時日を移されず、首を召されて候はんと存候処に、思の外、未だ存生致し、長慶の御宅に候由、其聞え候。さりとは叶ひ申難き事に候へども、童が儀は、理を曲げて、命を給はり候へかし。年頃召仕へたる某、好み申すにては、努々之なく候。彼者、年の程には、比類なき健気の者に候。古き言にも、後世畏るべしとこそ申伝へて候。さ候へば、助け置き、行末の器量をも見申度存候。御赦免に於ては、安独斎生前の望足り候と、長慶に付きて所望あり。三楽聞きて、さぞあらん、実に此童、去々年十六歳の程にも似ざる振廻、智仁勇の三を兼備せり。後世オープンアクセス NDLJP:192畏るべしとの理、義に当れり。唯生けて返すべしとて、長慶入道之を承り、父子の者を獄舎より出し、長江といふ使僧に渡す。二人の者感涙眼に溢れ、申出づる詞もなし。安独斎の感悦、又大方ならず。甥の上田主計を以て、幣礼を厚うして事を謝す。是よりして松山衆、下屋に働く事なし。三楽も松山領へは、好んで人数を出さず、武州頃年平均。

永禄九年、越府に於て、七組衆を初め諸侍へ、正月配膳給はる。御儀式例の如し。一会事終つて後、各御座間に於て、尚ほ目禄を給はる。各名字を詳にせず。加恩を蒙り、与力と共に、御機嫌を預る侍、百余人と云々。

深淵金大夫といふ尾州浪人、十年以来、御家中にあり。此者御座所次の間にて、仙可といふ若年を、童坊と差立す口論を仕り、仙可を捕つて臥せ、乗懸り押へて居候を、謙信駈付け給ひ、御腰を放されず、貞宗の脇差を以て、片手討に、二人を重ねて、一刀に四つに切放し給ひけるを、仙可の親内記といふ者、側にあつて之を見、金大夫は公儀を恐れず、狼藉の者なれば、さも候はん。仙可は未だ童の身として、遁れ申すべき様之なき仕合、更に科なき者に候を、同罪になされ候儀、是非に及ばずと怒りて、脇差を抜き、謙信公へ切懸り奉るを、誤たず蹈懸けて、二刀切らせ給ふ。初めの太刀は、内記能く合せて、背け身に当らず。後の太刀にて、右の腕を、手の首二寸計り置きて切落され、左の手に脇差を持ち、猶ほ切合せんとするを、御小姓上村伊勢松走り寄り、高股切つて打臥せ、仕留めてけり。謙信公、今日は汝と相討したとありて、大に笑はせ給ふ。

土佐佐保と申す侍の子に、若年の女ありけるを、年頃近く召仕はれ、常に謙信公、寝殿を放し給はず。或時古郷見廻として、御暇を申し罷帰る。謙信公、取次の女房へ、三月二十日前後、日限を違へず罷出づべき由、堅く申聞かせ候へ。此者は、毎度郷惜みを致し、謙信が申付を、承引仕らざる事ありと仰せらる。取次の女房承り、厳しく申付てぞ帰しける。扨三月二十日過ぐれども、此娘罷出でず。斯くて四月上旬迄逗留致すを以て、取次の女房、気遣の余り、飛脚を仕立て差越し呼出す。四五日経て後、謙信公聞召付けられ、御不断所へ、彼娘を召出され、人や候と仰せければ、御小々姓荒尾助九郎と申す者罷出づる。謙信公、此女、去る仔細あり。只今御前に於て成敗仕る。女なる故、直には遊ばされぬぞと仰せける。荒尾承り、少しも遅々仕るに於ては、吾身全かるまじく存ずるに依つて、御声の下より脇差を抜き、小首をオープンアクセス NDLJP:193懸けず討落す。総じて謙信公、御家中死罪の者、他を十にして、其二三のみ。但し死罪に及ぶ者、事に依つて侍なれば半は御前に召出され、御つぼの内などにて、三十五人衆に仰せて、せさせ給ひ、稀には自身も遊ばされけり。太田三楽、後日承り伝へ、北条丹後に語りて曰、貴方の主人謙信公、御武勇の儀は扨置き候。其余の御気質、凡て見奉る処、十にして八つは大賢人、又其二つは大悪人ならん。但し生得立腹にまし、其致す処、多くは僻事あり。其人の或は猛く勇み、無欲清浄にして、器量大に廉直にして隠す処なく、明敏にして下を察し、士を憐愍して育し、忠諫を好みて容れ給ふ如き、末の代にはあり難き名将。此故に、其八つは賢人と訓じ申すなりとて、談笑して去る。

永禄十年五月、家康より、内藤三左衛門信成を見廻として、越府へ差越し申され、音物には、謙信公へ高麗の御茶碗二つ、多年申馴れ候とて、宇佐美駿河・長尾・志村へ、唐の頭一つ之を送り、謙信公、使者へ対面なされ、馬を給はりて罷帰る。

同年六月、太田三楽、子息を召連れて、越府へ参られ、謙信公召下の御鎧を給うて、初着をせさせんとの望に依つて、即ち応諾まし、御召の料に取置かれし紫糸の御鎧に、星甲を添へて之を給ふ。然して越後に、二十日余り太田父子を御留めまし、丁寧に御馳走申すに、言語に及ばず。七組の衆・五人の諸侯、朝夕段々に振廻致され、謙信公毎度御相伴なり。毎日の遊興には、若侍に仰付けられ、鉄炮的・弓的・責馬・鎗合・打合等なり。先づ射手の手垂には、芥川財右衛門、三十間にて人形を立て、五手の矢にて、九筋中る。鳴海義大夫・石川佐渡・長尾小四郎・飯田吾一等の侍、以上百余人、何れも五手の矢を放ち、八筋六七を致す。鉄炮打には、長尾小四郎・本城清七・矢木伝右衛門・佐久間半之祐等、以上六十余人、三十間にて、人形を十箇づつ打つて退出。其中弓に等し。鎗を仕る侍百余人、馬を乗る侍二百五十余人、兵法を致す者五十余人、名字を記すに及ばず。夜に入れば酒菓を設け、鶏鳴に及ぶまで、古今家に弓矢を取る批判并に御当家軍法の穿鑿、思ひに語り慰む。〈惜哉此巻、紙員二十片虫ばみ見えず。其末の一両紙僅に残る所左の如し。〉

三宝寺が曰、是は些うつけたる申事にて候へども、此御座敷にて、嗜には及ばざる儀と、存じ申すにて候。抑今時和朝に於て、高名の大将衆、其数多く候。其中に於ても、先づ北条殿・織田殿・甲州の信玄・吾等の主人、又は安芸の毛利と、海道の家康、是にて候。其中に於て、何れの家か、始終天下を掌握にして、全うすべく候。只今は信長殿、五畿内を支配候へども、武田・オープンアクセス NDLJP:194北条あり。又謙信も斯くて在られ候へば、竟畢定り申さず。御了簡の程、御序に承るべき由、三楽に申す。太田曰、斯様の儀は、吾人天命にて候へば、人情の積を以て、申し難く候へども、其段は差除きて仰せられ候へ。某も申して見候へなん。毛利家の儀は、遠国故、細に承らず候へば、加へて申すべき了簡之なく候。さ候へば御屋形と信玄に北条と織田とは、〔〈脱字アルカ〉〕最早氏康余年なく、其上近年病者になられ、久しかるまじくと見えて候。又子息氏政は、天下の儀は置き給へ。只今の四箇国も、人に奪はれ申すべく候。斯く申す某なども、氏康より生残りて罷在候はゞ、一郡一里どもは、望み申すべく候。又信玄と御当家とは、龍虎の争となり、どなたなりとも一方頽れ申す間は、両月日と手間取りて、他方の御働相成るまじく候。信玄当年四十八、御屋形三十九、老少不定と申す内に、先づ階老より先立ち候。其積りに候へば、信玄果報短くして、近き間にも死し候はゞ、信長・家康の一方にして、此御方に対して、防戦なるまじく候左なく候はゞ、以来は知らず、信長いよ切太り、終には四国・中国までも、仕配申さるべく候。其故は、上方筋の侍は軽忽にて、一城落つれば、前後皆、敵を見ずしても、明退き候。まして一二度相遇うて、手痛き目を見候ては、後途の鎗に及ばず候。東国・北国などは、一度・二度・五度・六度まで詰め候とても、一同に草臥れ申す事之なく、猶以て夫を餌に致し、命さへ候へば、迫返さんとのみ仕候。是に依つて小敵にても、東北は国郡を取るに手間を取り候。家康なども、所柄武田・北条に摂せられ、今より上は、切取るべき国郡多く之なく候へば、是も先づ暫の程は、信長には手を出し申されまじく候。将の器量を申すならば、家康抜群勝れ申されて候。凌ぎ難き所をば、度々見事に化られて候。底意に、些ひねくりて、賤しき弓取と見え候へども、夫は今時末の世にて、結句能き事にて候。さて信長は、大気無欲なる迄にて、其余はそゝけたる将にて候へば、大身になり候程、慎薄く、無行跡なる儀、愈〻増り、全からん事定まらずと見申して候。信長頽れ候はゞ、其後は家康ならで、別にあるまじく候。さるにても是非定まらず、世間に於て、命ある者の穿鑿なれば、二五十又は二五七、心得べき事なり。謙信公仰せけるは、実に仰の通りにて候。夫に依つて某は、兼ねて天下国家にも望なく、又軍の勝負にも、さまで相構はず候。只差当つて、致すべき図をよけ申さぬ様にと相嗜み候。さ候て、死なば死ね、生きば生きよ、とても侍生れたらん者、誰か生きんとて引き候べき。差当りたる図といひ、品々心得之あるべき儀なり。悪しく弁ふれば、無オープンアクセス NDLJP:195理非道に落ち候。細には各御存の上、謙信は申すに及ばず。又甲州信玄などの守る処は、全く右にあらず。唯仮にも、怪我なき様に相嗜まれ候と見えて候。夫に随ひて、信玄程軍をしめて仕れば、古今竟になき処に候。但し信玄、今迄軍に大なる誤、終になきは、人を能く見る将にて、侍大将・足軽大将、或は馬場美濃・真田弾正・山形源四郎・春日弾正・内藤修理・小幡山城・甘利備前・飯富兵部・原美濃守、其他勝れて能き者共多くある故なり。夫も最も信玄の眼力が強き故なれば、軍に取つて自身下知し、手配をするにてはさのみなし。此者共を左右に置き、相談をして、弓箭をしめて、丈夫にせらるゝに依つて、あの如くならば、信玄一代は、何方に於ても、汚き負は、絶えてあるまじく候。信玄内の者、何れにても、人を能く遣ふと存ずる儀は、先年川中島にて、信玄が方便を、某推量するに、手に取る如くなるに依つて、此度は、是非とも手に手を取組み、雌雄を決せんと思ふ故、荒勝負心得たる党の者を、馬廻に多く随へ、信玄旗本の先手義信が陣に切つて入り、押立てたるに、侍の儀は沙汰に及ばず、雑人下部まで、敵合をなさずして、崩れたる者之なく候。尋常誰が下にても、一番鎗・二番鎗答へて、三番鎗までは稀なる儀、四番に及ぶは絶えてなし。是は侍十人が中、五人・六人は押立てられ、敵合をなさずして、崩るゝ故なり。此の如くなるにより、何方に合ひても、甲州勢の大崩はあるまじき事なり。味方崩れざれば、敵崩るゝに依つて、信玄軍に怪我をせぬなり。氏康者共の中に、名高き侍大身なるは、余多之ありと雖も、人数の取廻、抜羣に劣れり。但し氏康は、大度にして、せばゝしからず。士を撫でて人を和げ、大廻の遠慮を能くせらるゝに依つて、是又一廉の良将といふべし。謙信、是等の名将に、加賀越中衆を加へ、相手に持ち、他の境は切取れども、尺地として他に取られざる事、不思議と申す内に、又一理あり。某は、貴坊存の前、粗略なる者にて、慎を知らず。其上愚案短才なれども、果報いみじき故にや、能き人を持ちたる故、隣国の為めに犯されず。軍は一孤の業にあらず、人を持つを以て肝要とす。吾が侍、今是に候十四人を加へ、小身押込以上四十余人の者は、恐らくは武田・北条・信長・家康を合せて、其中より選み出すとも、多くはあるまじくと存ずる。最も是は、只軍陣の一赴き、其余の事は、浅き備をも弁へたる者共には候はず。氏康・信玄に、某劣りたる分、又家来の侍共、能き者多く候に依つて、引合ひて、今迄相対し候。此者共、謙信が眼の強きにて、仕立て候にあらず、某は気儘なる者にて、気に合ひたる者計り、手本に召出し候故、人の穿鑿大方に候。七人の者オープンアクセス NDLJP:196共念を入れ、人を選めと仕候。如何様心に誠あれば、大外おほはづれ之なきものなるが、此の如く候と語り給ふ。其次に、直江山城、三楽に語つて曰、一年、謙信御自分と、氏康・信玄両陣の備の前を押通り、山根の要害を攻め落し、又本の路を返り、利根川を渡り、前橋へ打入り申されける時、氏康公は、合戦を遂げらるべきものをと御後悔。又信玄公は、北条・武田両旗にて、謙信一人に懸り、勝つて恥なりと仰せける由。小田原浪人竹辺といふ者、某へ語り候。是は吾等至らぬ故か、不穿鑿なる信玄の申分にて、存じ進らせ候。其仔細は、両旗にて一敵と取組み給ふ事、殊に是のみにあらず、勝つて怪我ならば、始めより出陣あるまじき事に候。又多勢にて、小を以て怪我と仕らず候。多将・一将、大勢・小勢に依らず、善き悪しきは、只其振舞に候。左候へば、大勢にて陣を召し候近辺を、小勢の敵一度ならず押通り候取合を召されず、勝つて怪我なりと、おめ通られ候こそ、却つて怪我にては候へ。是こそ前に申す、差立てられたる軍を廻したるならん。大合戦勝負は、吾人心に相仕習はず、負け候ても、様に依つて、強ちに恥辱とは申し難し。然れば氏康仰せの如く、取合を懸け給ひて、たとひ勝利あらずとも、只通したらんには、遥に増し申すべく候。但し是は、某等一遍の存様にて候。東国などにて、此事如何取沙汰候やらん。御物語り候へと申す。三楽聞きて、仰御尤に候。先づ以て勝つて怪我なりと、信玄申されたる事は、是は即座の申のひろふさきといふ物にて候。信玄は、生得些と人をうつけになす挨拶の気質にて、斯様の類まゝ之あるげに候。穿鑿に及びては、理窟あるまじく候。実心ある者が、聞き候ひなば、比興の申様とも存ずべき事なり。余人にあらず、流石の信玄なれば、不出来なる答話なるべく候。さて両将になりて、軍を率爾にせぬ事、是はさもあるべき事と、某は存じ候。其故は、先づ以て謙信公、大将と申し、士卒といひ、たとひ二三百たりとも、欺き申すべき相手にあらず。其上其勢堅く、一万なれば、是れ五万・六万の敵に取合せても、之を以て、戦時は不足なき位に候。第一には金鉄の逞兵、死を一途に思ひ定め、一万にて、戦はんを、誰やの人か、大事の敵と慎むまで候べき。氏康も信玄も、悪しく召されては、多分敗軍なるべし。是れ一つ勝ち給ふとも、四万の人数、二万は亡び候ひなん。然れば北条にてもあれ、又武田にてもあれ、取当る人、味方と相討にありてあらん処へ、今時の世の習、能き便宜を見て、残る大将心を変じ、討果さん時、遁るゝ道あるまじき事を、遠慮申さるべき事、是れ二つ。かたに付、率爾にはせられぬ重立ちたる処に候と、太田三オープンアクセス NDLJP:197楽、七組の衆に語る。

越後の科人の御仕置、一の重科には、刀・脇差を召取られ、一代身に帯びず。〈但侍以下は格別。〉二番死罪、三番追出、四番所領没収、五番与力同心を放さる、六番籠居する等なり。長尾右衛門佐といふ侍大将、聊か無沙汰の行跡あるに依つて、謙信公大に咎め給ひ、与力同心を召放され、所領を取上げ、其上にて、両腰を帯ばざる様にと仰付けらるゝの処に、親類より、右衛門親庵原之介、御家に対し、戦忠之ありたる儀を申立てゝ、生害の詫言申上ぐるに依つて、一等を免許せられ、両腰を給はり、切腹なり。前後此類多し。〈此次永禄十一年より同十二年中の一巻虫ばみ、記録を得ず。〉 永禄十三年正月より、氏康公、越後の止観といふ僧と、小田原海岸寺の住持を申人として、謙信公と無事をなされ、御末子三郎殿を、越後へなりとも、亦前橋へなりとも、差越しなさるべく候通り、両僧を以て、北条丹後・同伊豆方迄仰せられ、北条即ち越後へ越えて、耆老方へ相談の上、謙信公へ申上げ、無事相済み、謙信よりは、さしも氏康の御息を、此方へ申請け、人質にしては、然るべからずとありて、養子にせらるべき通り、事定まる。但し先づ前橋迄御越し、彼地に於て対面をなされ、両家の侍、各会集慇懃の儀式あり。氏康は脳病によつて、氏政・源蔵、前橋へ御越ある。〈此巻未だ全きを得ず、因つて詳に録せず。〉

右三郎殿養子に付きて、上田の政景等家門悦ばず。此の政景と申すは、景勝公の実父、去々年以来、景勝、謙信養子になりたる故なり。景勝は、若年と雖も、謙信の気を能く請取りたる人にて、三郎と交好し。謙信公・政景、内々無随を以て、奇怪に思召し、殿中へ召出され、長尾小四郎に仰せて成敗なり。親属家臣上下二百余人、政景が宅にて戦ひ死す。討手は長尾小四郎なり。

 
松隣夜話巻之中 大尾
 
 
オープンアクセス NDLJP:198
 
松隣夜話 巻之下
 

永禄十三年三月、佐渡衆羽持・朝尾と、越後衆荒尾右馬助、庄内に於て相戦ひ、右馬助討死なり、謙信大に怒り給ひ、同月下旬、一万三千にて、越後を御立ち、供奉には、北城伊豆守・上村甚右衛門・柴田掃部・甘糟近江・長尾小四郎・河田豊前・三宝寺織部・苦桃伊勢守等なり。羽持・朝尾五千計りにて、鴻巣迄出合ひ、相戦ふと雖も、悉く敗軍に及ぶ。朝尾因幡守侍忠死す。羽持は、志津ヶ岳の要害へ、籠城仕りけるが、謙信公巡見まし、四方に柵を附け、獣路を切塞ぎ、鳥道を絶して、食攻になし、上村甚右衛門・甘糟近江・三宝寺織部・河田豊前等、六千余兵にて之を守らせ、翌日越後へ帰陣あり。

同年五月、氏康より、松田尾張を越後へ差越され、去月、氏康、深沢へ働き、駒井右京を取詰め候処に、信玄、大軍を率し罷出で、対陣に及び候に依て、氏政一手にて、深沢の城、攻め取り申す儀、相叶はず候条、越後の御加勢を頼入り候。謙信公・氏政両旗にて、武田と対陣なさるべきとは、とても仰あるまじと推量申候間、然るべき物頭両三人、三郎殿に相副へられ、差越され下されたき由、七組の衆まで、松田之を相断る。是に依つて謙信公、土田上野守・柴田掃部・上村甚右衛門三人を、三郎殿に附けられ、六千余兵にて、前橋より、深沢口へ相働き、氏康は御出なく、氏政計り一万五千を率し、西上野へ出で給ひ、信玄と対陣五六日なり。前橋衆と、折々迫合ありと雖も、小田原勢さして助けず。前橋衆利を失ひ、二日に、侍十七人まで討死す。上村甚右衛門大に怒り、松田尾張まで申しけるは、氏政公御馬を入れられ、武田衆を一同に、三郎殿一手にて請取り候に於ては、他に譲らず、一戦を仕るべく候。さなく候はゞ、人数を打入れ、罷帰るべしと頻に申す。松田、様々申断ると雖も、上村合点致さず、河村まで人数を打入るゝに依つて、氏政一手にて、対陣相叶はざれば、武州小山まで引取り給ふ。上村甚右衛門・柴田掃部相議して、河村に六日逗留し、武田仕懸け候はゞ、一軍して憤を散ぜんと、相待ちけれども、武田衆、早々帰陣あるに依り、上村、今見の村里を放火し、両日相働き帰陣なり。〈此後、元亀二年より同三年、迄虫失。年代以上三年。〉

天正元年四月、武田信玄死去の由、同年九月、あまさありの阿達山より、書付を以て註進す。オープンアクセス NDLJP:199謙信公大に惜み給ひ、子期去りて、伯牙琴を留む。吾天下に知音なしとありて、御涙を流し給ふ。即ち荒尾一角・河田豊前を召され、信玄は天下の英勇なり、今日より三日の間、府中侍の家に計り、音楽を禁ずべし。農人・商家は、其沙汰に及ばず。是れ信玄を敬するにあらず、弓矢軍神への礼なり。侍所より触渡す迄は、事余りなれば、両人より、緑々に物語にして、申聞かせ候へと、仰付けられ入らせ給ふ。

同年の夏より、信長次第に越後へ取入り、佐々が上に、又侍一人相副へ一箇月に一度づつ定まつて、御気色を伺ひ、安土へ註進仕候へと、申付け置かれ、一年に十度使者を献じ、進物念を入れたる儀、甚だ丁寧なり。佐々能く勤め仕候条、両陣の前を、遥々と奥へ御通り、要害を御攻なさるゝ儀、如何之あるべきや。城主は氏康奥筋の先手、老功の人数も、堅く千五百と勘弁仕候。前には城堅くして、雌雄未だ決せざるに、武田・北条両旌にて押懸り候はゞ、甚だ危き御軍に候。此城、御手に入り候ても、遠国の事に候へば、乗捨になさるゝ外、其道なく候。無益の所に、腹心と等しき大功の侍を損じ給はん事、御手違と奉存候。直江殿・宇佐美殿、如何御計らひ候と申す。謙信、又気色を損じ給ひ、諸老の意見をも伺ひ給はず、謙信が守る所、夫にはあらずとて、即ち須田といふ者にて、利根川の両将へ使を立て、輝虎、松山後詰の為め、是迄罷出で候へども、早速落城の上は、力及ばず候、定めてたぎらぬ振舞と思召さるべき処、恥入り候へば、此儘にて罷帰らん事、両御旌に対し、弓箭の無礼と存候に依つて、氏康公御秘蔵の要害と承る山の根を、明日押破り候。夫れ無用と思召さるゝに於ては、両旌にて、如何様にも相妨げられ候べしとありて、利根川に品木の渡りに、舟橋を懸けさせ、押渡りて後綱を切り、舟橋を流し、越後勢に、太田加はり合せて、其勢一万余騎、武田・北条陣の前、九町計りの傍を押通り、山の根の城へ寄せられける。三楽は、内々今度の儀、他に譲らざる処と思はれければ、達つて先陣を乞ひ、我が輩二千の兵士、一人も生きてあらん程は、越後衆に、太刀をも抜かすべからずと、手の者を属して下知せらる。謙信備を定め、先づ城攻の面々、西の手は太田三楽二千、南は柿崎和泉守・北条丹後、合せて二千六百詰を乞ひ、勝頼は已に越中へ越し、後詰せんと申されけれども、高坂弾正は、逹つて意見を致し、謙信と取合を始められ候は、一年の内に、御当家滅亡に及ぶべしと申すに依つて、勝頼は出されず、首尾を合せんとて、板垣衆に、神保治部といふ越中侍を相副へ、三千余の兵を、椎名へ附けらる。椎名手勢五千余騎、此勢オープンアクセス NDLJP:200を加へて、都合八千余、越中八幡へ陣を取りて、越後勢を相待つ。謙信公、三月朔日、一万二千にて、春日山を御立ある。供奉には、直江山城守・甘糟近江守・長尾小四郎・河田豊前・荒尾一角・上村甚右衛門・苦桃兼竹・竹股主計頭・色部河内・北条丹後守等なり。直江と甘糟は、三千余兵上路を経て、越中八幡の後、西の庄といふ処より相働く。追手口一の先長尾小四郎・河田豊前、鴉川を渡し、戦を始め、椎名が副将軍神保治部と取合ひ追崩し、追討にする。椎名二陣を続けて、迫合はんとするを、上村・苦桃組にて横鎗を入れ、二の手も、椎名敗軍なり。謙信は、未だ川向に備を乱し給はず、五千余騎にて、控へ給ふ。然る処に搦手の二手、八幡の後、西の庄より、瀬部の山の腰に押上るを見て、椎名衆・板垣衆多く討死す。椎名は剛強の士にて、切払ひ、遁れて城へ入る。神保は所々に漂泊し、籠城も叶はず、深山幽谷に身を隠し、軍散じて後、在所へ帰る。斯くて謙信公、諸手に仰せ、雑人を出し、近郷の在家を陥ち寄せ、繰楯を作り、弓・鉄炮を防ぎ、繰寄にして、両日に攻め落さる。上下男女二千五百人余、椎名を始めとして、切捨にせらる。其競にて、関東・真田・一蓮寺等を追出し、越中半国を治め給ひ、所々御仕置仰付けられ、椎名へは、河田豊前守に、苦桃組を相副へ仕居ゑ給ひ、三月下旬に御馬入。

同年四月、佐々伊豆守登城致し、武田勝頼、遠州・尾州へ働き出でて、岩村を切取り、其後へ、秋山伯耆守を仕居ゑ、剰へ海道筋信長持の城々を攻め取り、甚だ逆意を募り候。信長は五畿内中国に於て、所々に敵を持ち、透を得ず。依て家康等に申付け、相構はず候。さり乍ら唯今の様にて、以来差置き候は、武田はびこり太り、六かしく候はんと存ずるに依つて、今年夏冬の間に備を廻し、〔一カ〕軍仕りて、塩付け申すべく候。願くは謙信公、其時御旗を出され、信州を御随へ、御支配あられ候へかし。去る程ならば、今度武田を絶し、累年の鬱憤を散じ、慰に仕らん事疑なく候。曽て勝頼事、自今以後輝虎を頼み無事を仕り、意見を請ひ然るべく候。輝虎は、勝頼崇敬仕らせて苦しからず。相手頼入ると申候は、若き勝頼をなぶりて、無沙汰の儀あるまじく候と、遺言仕候由。其詞をも、勝頼水になし、謙信公に対し、傍若無人の振舞、言語に絶し候。信玄死して後、勝頼若き者に、夢を見する事本意なしとて、御構之なき段、兼ねて承り候。一旦は如何にもさる御事にて候へども、彼方より、右の通り手遣ひ仕候上は、御遠慮に及ばぬ儀と奉存候。当春は、越中へ御人数を懸けられ、椎名を御成敗候由、承り候に依て、此旨申上候。総じては勝頼、三郎殿と縁者なれば、遠慮仕候ては、叶はず候へども、最早勝頼持分オープンアクセス NDLJP:201へ、御手を懸けられ候へば、用拾に及ばず存ずる由、信長内談申され候。謙信、伊豆を御前へ召され、信長への御返答に、武田の若代、軍法に違ひ、近年の内大負致し、家を失はん事、目前に候。夫を仕詰め給はん事は、謙信方より、手遣迄も之なき御事に候。越中の儀は、椎名といふ者、此方の侍河田意仙を、境目に於て殺し候。其返報に討取り、仕配仕りて候。飛騨国も近年の内に手に入れ申すべくと、内々存入候。其故は、江馬常陸といふ武功の侍、此方の旗下白屋監物を取詰め、勝頼をも引出し、取合に及び候。彼方より少しも手出し申さゞるに於ては、此方も人数を懸け申す所存に候。左様なく候はゞ、遠慮仕るべく候。信玄一代は、竟に軍を止めず、一年に二度・三度対陣仕候へども、此法師、鍛錬深き老功の人に候故、尺地も切取り候儀相叶はず。村上義清竟に安堵仕られず候。今にても、信玄法師蘇生申され候はゞ、無二無三に、御先を申請くべきにて候へども、勝頼早や備違ひ、久しく見えず候に依つて、御同心申すべくも、申し難く候。其上此間川中島より、小幡といふ者来りて、勝頼家老共より、勝頼には、往々意見を致し、無事をさせ申すべく候。以来頼み候由、七組の者へ申遣し候。但し以往遠・参・尾・濃に於て、有無の御一戦を相懸けられ、勝頼切募り、手に余り候に於ては、其時愚坊一手の旗を出し、甲・信に於て、手に手を取組み、雌雄を一時に決すとぞ仰せける。

同年五月、武田勝頼、参州瓜といふ処に打出で、家康悴者奥平九八郎居城長篠へ取詰め、之を攻む。信長・家康、両旗の後詰に取合ひ、無理なる防戦を遂げ、信玄以来の侍大身・小身、大方残らず討殺され、散々に仕負け、敗軍の由、其聞え著し。信長・家康よりも、六月上旬、河尻与兵衛・内藤三左衛門両使を差越し、謙信公へ、御見舞の次手に註進なり。幣進甚だ厚し。之を記せず。謙信、両使者へ対面し、合戦の体を尋ね聞召され、各馬を給はりて帰る。

越後衆森出雲といふ侍と、佐渡先方槙伊賀と、武辺公事を致し、目安を捧ぐ。両人大身の侍、殊に武道の出入故、奉行衆も遠慮にて、謙信公御前に披露あり。其濫觴、越後の風にて、侍大将と采幣を下され候は、之を除き、其の余の侍、私に参会仕る時は、老若高下をいはず、為景以来の御感状を多く持ちたる侍を以て、座上とす。感状同じく持ちたるは、領知恩の多少を選び、領知同分の衆は、又階老を以て、崇敬仕る定めなり。折しも春日山蓮華宝院にて、近所の侍数輩、振廻ひ申されける時、一の座上は、侍大将柴田内膳、其次は長尾小四郎、三番より感状を以て、座をも定まる。地侍なれば、森出雲守とて、年齢六十余にて、感状を廿三まで取つオープンアクセス NDLJP:202て持ちたる覚の侍、侍大将の次に居る。然る処に、佐渡庄内衆槙伊賀といふ侍、後走に来り、座席を見廻して後、遥に下座に居る。是も覚のある兵にて、人に知られたる者なりければ、各式対して、伊賀殿は、夫に坐す人に非ず、雲州の次に居られよと申す。斯くて些か挨拶あつて後、伊賀守申すは、雲州は、故為景公・当謙信公両殿の御感を、廿三まで御取り候由、其聞え全く承り候。尤も冥加の御覚、いみじき御事に候。去乍ら某も、近頃より謙信公へ罷出で、所々の御陣へ御供致し、十六年以来に、御感状廿一戴き罷在候。其内越前衆と御取合の時、日の中に、十三度の迫合のありしに、十一度一番鎗を仕り、甲冑を帯したる侍を、九人討ち首を得、天下無双と遊ばされたる御感状を、一つ取り申して候。御当家の御座席は、手柄次第と候へば、申すにて候。其数を申す時は、某二つ後れたり。手柄づくを申すに於ては、某増りや仕るべく候。先づ以て天下無双の四文字を遊ばされたる御感状は、大方常の御感状、五つ六つには替へまじく候。其上、雲州御所持の御感状過半は、御父為景公より、御頂戴候と承る。某のは、皆以て当謙信公より申して候も、同じ事と申し乍ら、謙信公の御感状希にして、大切なる事、自ら百里千倍なり。知行奉禄は、惜しみ給はずおはすと申せども、御墨附を下さるゝ事、常々之なきを以てなり。但し是は、先づ自分の申す事、雲州にも、如何様なる大切の御感状、之あるかも存ぜず。又雲州公、長尾御譜代の御事、某は先方にて、十六年以来の者なれば、夫を以て式対を仕る筈に候や。其時は、一旦も愚意申さず候と、礼を厚く之を申す。森出雲之を聞き、伊賀殿の御事、兼ねて以て承及び候へども、是程委細の儀は、只今初にて候。扨は左様に様希なる御感状を帯し給ふにや。先づ以て越前にて、十三度の迫合に、十一度まで一番鎗を合されたると候事、実に天下無双とも申すべき御覚に候。其故は、総じて取合の時、相手弱兵なれば、何と存じても、一人にて毎度の一番鎗は、なり難きものなり。敵弱兵なるに依つて、味方より進む者多くして、一人に渡し申さず候。又相手剛強にて、少しも蹈出し候はゞ、其儘命を取らると。強く見え候時は、味方共に進み兼ね、抜出づる者無之を以て、幾度も心懸次第、一番鎗を、一人にて仕る仕合安く候。是を以て積りて候へば、越前の御敵、就中剛敵と相見え候。其時は某儀、前橋に罷在、手に合ひ申さずして、存ぜず候。然らば、謙信公御一将の御感状を、廿一迄、十六年の間に御頂戴と承り候上は、何れに争ひ申すべく候。強敵あり弱敵あり、危き場あり安き場あり、武辺は時の仕合なれば、後日の褒貶、当り兼ね申オープンアクセス NDLJP:203すものにて候。感状にて、吾一増に申さんに於ては、某も少しの謂れは持ち候へども、全体吾等の存ずる処、左様の当りにて無之候。及ばず乍ら、孟之反が誇らざる意地こそ貴く候へ。是は先づ当座の戯言、座席の我は、ためし希なる御感状を御持ち候へば、即ち此方へ御直り候へ。其余の御方にも、武辺を申さば、某抔の及び申す御方に無之候へども、夫は皆以前よりの旧例にて、御座上に罷在候へば、式対に及ばず候。伊賀殿の御次にこそ、罷在候はんずれとて、則ち座を立ち、伊賀をあれへと請ず。伊賀守、そこにて大に恥ぢ、さりとては年寄に不覚の儀を申出し、御座敷の妨とも罷成申して候ものかな。御譜代と申し、殊には御感状の其数も、二つ迄御所持多く候。先程の慮外は、是非御免なされ、唯某は、此座に召置かれ候へと、断を申す。出雲一円承引申さず、伊賀を強ひて座上に請ず。往返止まざるを以て、柴田・長尾扱ひ兼ねて、後日披露に及ぶ。但謙信公、余の事に替り、武辺の出入は、深く評議を遂げられ、御念入候を以てなり。謙信公聞召し、先づ七組衆・十一人衆・廿一人衆を命じ給ひ、僉議の上仰出されけるは、出雲は感状数多し。殊に譜代覚の者、下座に着く謂れなし。伊賀は、感状の其数は劣り候へども、日の内に十一度、一番鎗を合せ、九人侍を討ち、天下無双といふ感状を取り候事、是れ名誉なれば、是も下座に着け難く、両面に別れ、対座あるべし。其上双方口説に及ばず、謙退を第一にして、強みある論談、就中出雲初段の酬対、慇懃の様子、御案ながら、結構の式対なりとて、両人同座に召され、出雲には信国の刀、伊賀には大原実守の脇差を給はる。両腰乍ら、謙信度々手づから人を切り、刃金よしとの御詞なり。

甲州浪人落合彦助、謙信公御下へ参り、度々走り廻り、心ばせある働を仕るとて、賞禄を給はり、御側廿八人の内に加へらる。或時鎗の間に於て、彦助を御覧ぜられ、勝頼小姓阿部加賀、十余年以前に、川中島にて、汝を討ちたりと信玄悦び、已に加賀を褒美せし由、武笠といふ者之を語る。是れ加賀、又余りあらまほしさに、無事を作りていひたるが、武田家中にて、大なる弱み、之に過ぐべからざる者なり。三人行則有吾師、其不善者而改之とか、吾輩深く之を思ふ、相嗜むべしと、若き者に、彦助、武笠を証になされ、御意見を加へ給ひけるは、一切の事、就中武辺方は有体にして、吾心を証人とするより外はなし。夫れ心を証とせずして、取はやし、いひなしたる事は、必定弱き事なり。結構なる働をして、其名隠れ埋るとも、心を証とする時は、恨なし。君子は独を慎むと聞くとぞ仰せける。

オープンアクセス NDLJP:204天正四年二月、謙信公、越後春日山を御立ち、一万五千にて、飛騨国江間常陸介居城へ取詰め給ふ。先陣は、飛騨衆白屋監物といふ侍なり。江間、多年武田の幕下にありて、武辺老功の侍なる故、以来の儀を能く分別し、勝頼段々威勢衰へ、久しかるまじく相見ゆるの間、白屋同前に、謙信へ便り、旗下に属すべし。さるに付きては、今度手強く一軍して、夫をしほにし、降参人の如く罷りならざる様にと積り候て、二千余り城を出で、上道九里を一夜に打ち、謙信公総軍一万七千、松倉といふ所へ陣を取りて、油断して居給ふ所へ、会釈もなく押寄せ、一の前白屋監物、二千の備を追崩し、二手柿崎久米介・中条五郎右衛門に切つて蒐り、一町余、之をしさらする。朝の事にて、諸軍認をもせず、物具したる侍も稀なりける故、渡り合はんとすれども、下知ならず。其間に、常陸容易く引取り、人数を纒め、東の山の手に繰上る。日出でて備を見れば、其勢二千計りに過ぎず。謙信公は、日頃に相替り、人数をも懸け給はず、乱れたる諸軍へ、各使番一手に、二人づつ遣され、取静めて、少しも騒ぎ給はず。謙信公御一代に、加賀の小山と此陣と、両度先衆敗軍なり。然る処に、江間常陸の家老大城戸市兵衛を、柿崎久米介陣へ差遣し、持来り候柳瀬・江間を、安堵仰せらるゝに於ては、旗下に罷成、御礼を遂ぐべしと申越す。謙信公、先づ荒尾一角・柴田掃部・長尾小四郎・柿崎伊予介四頭、合せて八千余を、江間の城へ、間宮通より、相働くべき旨、下知をなし給ひ、其後直江を、江間が方へ仰下されけるは、降参の後は、様子に依つて、加恩を給はるとも苦しからず。未だ弓を逃れざる者へ、恩扶を定むべき謂れなし。汝右を申さんが為め、無益の場に夜蒐をして、口を聞き候事、慮外なり。女性幼稚まで、残らず成敗すべき由、只今申付け候。早々城へ帰り、其覚悟仕り尤なりとありて、直江山城・白屋監物・柿崎久米介・鍛冶内匠等に、手術を致し、常陸が退く所を、食留めて討取り候へと下知し給ひ、大城戸市兵衛、江間が陣所へ帰り、評定しけれども、事往かず。何れ先城へ帰り、妻子の取仕廻をせでは、身体を定むべき様なしとて、引退かんとする所へ、越後衆八千計り、備を堅くし、繰寄にして懸来る。一の先白屋監物、即ち引付け鎗を入る。江間も、今は退く事叶はず、常陸守・子息又九郎・家老大城戸市兵衛、三軍に替る返し合せ、戦ひけれども、所柄さへ平野にて、切所を取るべき様もなく、大勢の強兵に揉崩され、散々に敗軍し、常陸守・又九郎、後には一所に成りて、身近き郎従七八人を随へて討死す。大城戸は、越後党の者瀬場四介と組みて、生捕に遇ひ、本条には、又前の四頭押寄オープンアクセス NDLJP:205せて見えけれども、兵士残らず、常陸介連れて出でたれば、防ぎ戦ふ者、百人計りに足らず。是に依つて、四将安々と乗入り、女童迄之を切殺し、首数三百余、本陣へ送る。総て今度、江間・常陸一党、上下男女千二百余、越後へ討取り跡を絶す。然して江間が関所三箇一を分けて、白屋監物に付けらる。是は初め江間退治の胆煎、悉く皆監物相計る故なり。其三分の二を、中条五郎右衛門に給はり、五郎右衛門旧領本瀬は、又五郎右衛門次男半蔵に給はる。斯くて飛州平均まし、御逗留ありて、諸法度を出され、三月二日帰陣。

其頃、信長工夫を以て、加賀松任の城主長といふ剛強の武士に、種々追従をし、味方に付けて、此者が胆煎を以て、越中の神保治部を、すさ壻に取り、両人につくろを飼ひ、謙信に楯を突かせ、越後の手当に仕置き、自身に愈懇志を致し、さりげなき様にて、時至るを待つ。此長といふ者は、丹波に赤井、加賀に長、信州に平賀の玄真とて、名を得たる大剛の力士なり。人数も堅く、三千計り持つ。是に神保治部を加へて、究竟の兵七八千なれば、謙信も、容易には退治なるまじくとの積なり。長・神保相謀り、謙信と取合を始めんとする時、長、安土へ行き、信長に謁して申しけるは、御存の如く、輝虎は強き将に候へば、吾々両人相約し、敵の色を見せ候はば、無二無三に押し来り、首を切られん事、目前に候。大身と申し強しといひ、殊に弓矢の道に取りては、神変とも申すべき名将なれば、我等僅の小勢にては、如何に存じても、叶ひ難く候。さ候て、仕負け申すに於ては、当歳の児童共まで助け置かず、越後衆の成敗にて候へば、根を絶ち葉を枯らし候と申す物に候。其時、御自身御出馬あるか、さなくば柴田・羽柴等の数将を差越され、吾等首を切らざる様に、防戦ましますに於ては、二足を蹈まず、一筋に謙信と取合を始め候べし。さなくば、我人妻子を世に立てん為めにして、艱難を凌ぎ候へば、輝虎と対陣叶ひ難く、通りを面縛に申す。信長大に服心にて、即座に誓紙を書き、長に給はるを以て、筑前守も二心なく、安土の味方にぞ究めける。斯くて長、加賀へ帰り、大聖寺を語らひ、人数を出し、折々越中へ相働き、河田豊前守領内椎名口を放火す。河田も備を出し、昼夜迫合ひ、雌雄半なる由、謙信聞き給ひ、則ち陣触ありて、四月上旬、二万三千にて、越中に御越し、椎名に両日御馬を立てられ、諸老を会し評定し給ふ。河田豊前守申しけるは、某すつぱを商人に仕立て、当二月より加賀へ越し、承り候所に、長も殊の外、謙信公を敵に受け、取合ひに及ぶを大事と存じ、自身安土へ越し、合戦の時は、信長出馬候か、さなくば柴田修理亮・河尻与兵衛・オープンアクセス NDLJP:206滝川伊予・明智日向・羽柴筑前・佐久間玄蕃・丹羽五郎左衛門・長谷川於竹・前田又左衛門・徳山五兵衛・大柿の卜全など、宗徒の者共を余多遣し、加勢をし、長恙なき様に致すべしとある誓紙を、取り候由、其聞え候。然る時は今度の儀、信長勢数を尽し出で候はん事、案の前に候。さ候へば、神保をば人数五千にて御押へ、長へ、筑前居城を二万にて俄攻になされ、一日の内に乗取り、大聖寺表に御陣を居ゑられ、上方勢の出張を御待ち、有無の御合戦を遊ばされ、御尤に奉存候。且つは近年越前口にて、信長と手詰め、御防戦を遂げられ、押倒し、都へ御上洛の其馴れしに候。直江・宇佐美・北条・甘糟、吾々に至つても、上方衆の備を取様、人数配り、未だ遇馴れ候はぬに依つて、一段珍らしく、今度は中々勇むまじき心も、進み候と申す。甘糟近江、豊前守申さるゝ如く、某等も同意仕候。先づ以て長筑前、名を得たる剛強の士と承れば、吾々さへ、其働を見物仕るべくと存ずるに依つて、一景を恃み心勇み候。若き者共も、さこそと推量りて存ずる御事に候。長、落城に於ては、上方勢、越前より此方へ出で申す事、之あるまじく候。筑前守は、定めて昨日使者を越し、御屋形御出陣の旨、安土へ註進候はん。夫にても今五日の内には、信長勢駈付け申すまじく候。さ候はゞ、明日己午の間より、長へ御取寄せ御尤と申す。謙信公、そこにて仰せけるは、先づ以て戦は、士の募に如くはなし。此二三日、旗本の者、誠に手の舞ひ足の蹈む事を知らず。是れ信長も長も、始めて遇へる敵故、珍しく存ずる所にあり。さ候へば、有無に付きて、今度は一戦尤なり。但始めて逢ふ敵に、少しも気を付け候てよりは、重ねての取合、大に仕り悪きものなり。大早りなるまゝ敵を侮り、仕損じなき様に、各手配り仕候へ。明日・明後日は、先づ作格を造り、其翌日、河田・直江・北条・荒尾・上村、一万余兵にて城攻、尤に候。長尾小四郎・苦桃組・上田党四十は越中に居て、神保を押へ然るべしと、委しく仰付けられ、天正四年丙子年五月朔日、長が城へ取寄する。二万の人数を二手に分け、河田豊前・柴田掃部・直江山城・北条丹後・荒尾一角・上村党、一万にて城を攻め、中条五郎右衛門・甘糟近江・北条伊豆・竹股・色部・白屋・土岐等、御旗本に加はりて、一万余兵は、松任に備へて、是は城の落ちざる中に、信長が加勢の来らん時、勢を決せん為めなり。謙信公、甘糟江州に、汝がすつぱを、越前筋五里を限りにして、入置き候へ。信長の者共は、何れも陣所へ、柵の木を結ぶと聞くなるをと、密に仰付けられ、党の者計り召連れられ、諸手を乗廻し、下知をなされ、大軍にせらるゝ事斜ならず。信長へは、長より、謙信越中御着陣の其日よオープンアクセス NDLJP:207り、使者を立続けて、今度若し首尾御違に於ては、輝虎旗下になり、先手致すべし。越前を日の中に押破るべき由、申越すにより、信長より後詰として、差越され候はんには、柴田修理・佐久間玄蕃・丹羽五郎・長谷川於竹・前田又左衛門・木下藤吉・徳山五兵衛・氏家卜全・滝川伊予守大将九人、都合四万八千を、松任の南大聖寺が原へ差越さる。謙信の陣所と、其間二里、上方勢恐れて河を越す。越後勢之を物ともせず、旗本一万は、松任に備へ、後詰の受手の心懸、先衆一万にて、くり楯を突き、俄攻にして、唯一日に乗取り、長筑前守兄弟を始めとして、上下男女二千六百余人、撫切にして後、即ち大聖寺後詰の侍へ、謙信使を立て、明日卯の刻、其方へ謙信参り候て、一戦を遂ぐべき由言越され、二万の人数を一所に集め、前後左右の手配を丈夫にせられ、一の鐘にて、詰軍したゝめ、三の鐘にて武具をし、三の鐘にて打立つ擬勢を、信長衆聞き、前日河を越し、木下藤吉・佐久間玄蕃を先とし、有無の一戦と励したる気色忽に打替り、前田又左衛門・丹波五郎左衛門、一番に崩れて、河を引越す。之を見て諸手騒ぎ、晩天に敗軍致し、大聖寺河を急に越すとて、歩騎数百人、流死すると雖も、吾先にと後見もせで、夜の中に越前まで引き取る。謙信公は、夜明けて卯の刻、大聖寺に押付け見給へば、武具糧米、所々に捨て置き、人一人もなし。謙信公大に笑ひ給ひ、今迄堪忍たらましかば、蹴散らし、河へ切込むべきに、其処を能く見付けて、夜逃にするは、さしも聞ゆるに違はず、信長内の名人共なりと、還つて誉め給ふ。松任へ人数を引上げ給ふ。其処にて、越中神保が押に罷在りたる衆長尾小四郎・苦桃衆を始め、今度手に合はぬ事を、無念に存じ、是非共に於て、神保をも此節に御絶し、御尤と申上ぐる。直江・北条・柴田・河田等も、此競にて、神保を押倒し申さんに、手間取るまじく候由、之を申すと雖も、謙信公、夫は各遠慮なき事を申され候。武田信玄は、六歩の勝を常々全き勝として、七分・八分には、竟にせられぬ由聞及び候。今度は信長加勢の数将、五万余騎の目前にて、松任の要害を一日に乗取り、殊に城主剛強と聞ゆる長筑前守兄弟を討取り、其上にて、信長勢五万の陣所へ、前廉案内をいひ、此方より仕懸け、追崩したるは、只今十二分に過ぎたる大勝にて候。其上又神保へ働き、越中まで治め候事、凡そ十分といふは、是等の仕方にて候はん。天道は充を欠くと申す事候へば、先づ今度は、帰陣尤に候。信玄ならば、何として松任の城落し候て、大聖寺の陣へ仕懸け申さるべきや。此分が、吾等信玄に及ばざる所の一つなりと、仰せありければ、列座の諸侍、一同心服仕り、翌オープンアクセス NDLJP:208日暁天に、諸軍を引かしめ給ふ。抑今度松任へ、謙信取詰め給ひける其晩より、疫痢といふ悪病、城内に流行、十人に七八人煩ひ、其中二人・三人は、三日を過さずして忽ち死す。之に依つて、長、勇兵たりと雖も、防戦叶はず、所存して早々落城す。是を上方筋に於て、散々に沙汰申誤り、謙信の働き給ふ処は、諸人悩み、敵する事を得ず、唯人にてあらずとぞ取沙汰あり。夫より謙信公、能瀬通りを成され、上州に御出で下分の仕置仰付けられ、小幡上総持分春井に、人数を御懸け、二日青田を踏ましめ、其帰陣に、袋と申す河尻にて、柿崎和泉家来千計りを、御旗本一組九千にて取巻き、引包み、一人も残らず御成敗なり。柿崎も、日頃の勇力を顕し、手を砕き相働きしと雖も、謙信公乗懸け、采配を取り、士卒を励まし、下知をなさるゝに依つて、遁れ去る事を得ず、討死し畢ぬ。是は去年、上州牧の名馬を、柿崎、上方信長へ遣し、懇切なる礼状を得ながら、謙信公へ披露仕らざる故なりと申しけれども、実は上州千葉采女助息女伊勢といふ女房が故なりとぞ聞えける。

天正四年八月、謙信公御馬を出され、上州和田の城を乗取り、和久村里の制礼等仰付けられ、前橋に二日逗留まします。九月下旬御馬入る。

同年十月、謙信公より、上方信長へ使札を越し給ふ。是れ手切の案内なり。其紙面に、謙信、信長をば、奥州長鎗かつぎの侍の様には、努々あり申さず。依つて来春越前に於て、有無の一戦を仕り、雌雄を一時に決すべく候。某生国雪深にて、寒中には出陣相叶はず候間、三月十五日、越後を罷立ち候。謙信との鎗は、赫瓜取りたる京家の衆との御挨拶とは、些か替り申すべく候。さ候へば、互に嗜み、負けなば、生きては帰らぬ申合に仕度候。信玄死去の後、忰四郎に、数多城を取らせ給ひ、其打返しに、参州長篠に於て、柵の木を結廻し、御勝ち候体にはなされまじく候なりと、直江草案にて、散々に書遣す。使は謙信傍侍新室原介といふ者。信長への音信は、越後晒十端なり。信長、使者に逢ひ給ひ、武辺は、誰も仕る事珍しからずと申す内に、謙信公御手並は、凡夫の所為にあらず、一重ひとへに摩利支尊天の如く取沙汰仕候。候へば、来春御上洛の折、越前にて防ぎ候とも、何として叶ひ申すべく候間、近江国長浜にて、扇一本にて某罷出で、降を乞ひ、都への御先を申し給ふべく候。謙信公荒き様にて、又慈悲なる大将と承り及び候へば、某多年辛労して、切従へたる国郡を、召放さるべしとは、定めてあるまじく候。其段各宇佐美・直江・柴田・河田殿申談じ、東国・北国・東海道は、一円に謙信公オープンアクセス NDLJP:209御仕配をなされ、両旗にて公方を取立て、狼藉を静め申すべく候。此旨其方御得心、演達あるべく候へとの返答にて、厚板五十反引出物にせられ、種々馳走して、使者をば帰し給ふ。甲州勝頼より使者を越し、謙信へ申されけるは、信長より、京都の山伏頭松仙院を以て、吾等へ申されけるは、来春越前にて、輝虎と有無の一戦を仕候。さ候へば、此方よりは、家康・某、両旗にて出で候べし。其時、勝頼御旗を出され、越前へ御働き給はり候へ。さ候はゞ、甲・信の儀は、表沙汰に及ばず、越後・越前・加賀・越中まで、勝頼御仕配尤の由、書付にて申越し候。長篠にて負け候後、如何に候ても、信長へ一味仕る事之なき儀に候。信長・家康とは、信玄以来数度の取合仕り、能く透を知り候。謙信公御旗を出され、勝頼脇鎗を致し、押詰め候に於ては、一日も足をたむる者共にて之なく候。氏政も、謙信公又勝頼に付けても、縁者なれば、申越し候は、凡二万か三万かの人数は出でざるべく候。さり乍ら此方より申越す勢を、乞ふに及ばざる事に候へば、先づ申さず候。亡父信玄死し候時、勝頼事、謙信公へ対し、以来御無沙汰なき様にと申置き候へば、諸事に付けて、此後は御指南を違へ申すまじき通り、跡部大炊といふ家老に、長音寺を相副へ、河田豊前守屋敷まで差越さる。謙信公御返答に、信長表裏を以て、余多の国々を掠め、軍の時は、或は柵を付け、旁、侍の道を取失ひ、是非に及ばず。依つて国郡の望みは之なく候へども、唯軍神へ血祭に、明春、越州・江州に於て、有無の一戦を致し、首を取り、弐門に晒し申すべくと存立候。勝頼公御同意の旨、只今仰越され、承知仕る処に候。あなたも家康と両旗なれば、苦しかるまじく候。北条殿へ仰せられざる事、尤も心服仕候。勝頼公と謙信両旗にて、一所に働き候儀は、如何にて候条、勝頼公は、例の如く参州へ御打出、御尤に候。某は越前筋を相働き候べし。来三月十五日には、必定越後を罷立ち候。夫よりは道筋程近く候を以て、両日計り御延引あらるべく候なり。勝頼公御人数、何程にて候やらん。謙信は、三万八千にて罷出づべしと、支度仕候と、委細の趣に依つて、長音寺・跡部大炊助、大に悦び、河田豊前・長尾小四郎、其外、直江・北条等の面々に対し、万歳を祝して罷帰る。

関東小田原北条家老衆、各僉議して、越後の謙信、来春上洛の為め、武田勝頼を旗下にし、両旗の人数凡そ六万。勝頼は参州・濃州に働き、越後勢は、越前より江州に直に押通り、都を志し上洛の由、其聞え大なり。其如くならば、信長・家康・謙信・勝頼の鎗向を、支へらるゝ事なるオープンアクセス NDLJP:210まじくして、旗下になさるゝか、さなくば切腹疑之なく候。近年は謙信公、猶ほ鍛錬重り、軍を上手にせらるゝに依つて、威勢強き事、言語に及ばず。畢竟天下の主たるべし。其果報にや、去年より謙信の敵になる者は、疫病を受けて死すと聞く。勝頼も、信玄程の工夫なき故なり。長篠にて、不慮の後れを取り、信玄取立の名人、悉く討死し、威勢衰ふるといひ乍ら、猶以て能者数多残り、鎗向の強き事は、前代に劣らず。夫に謙信指図をして、備を出さするならば、此両旗に対し、敵する者、首を切らずといふ事あるべからず。氏政公は、謙信にも勝頼にも、今にては御縁者たり。夫に信長滅亡の以後、祝儀を仰せらるゝ事、宜しかるまじ。来春、謙信同前に、此方よりも御馬出され、武田と謀じ合せ、家康を追立て、尾州・江州迄も、御発向なくては叶はぬ道理なり。長き物には巻かれよと申す諺に相任せ、謙信に、兎も角も意見を任せ給はゞ、行末目出度かるべし。武田も、高坂弾正といふ家老、勝頼に能く意見をして、謙信幕下に属すといへり。油断すべきにあらずとて、氏政へ意見を致す。氏政、合点ありければ、北条玄庵・多馬左近両人、先づ前橋に行き、氏政、三郎殿合力の為め、来春三月十六日、三万五千にて、遠・参・尾・濃へ働き、謙信公御下知を相待つべき由、北条伊豆守を以て之を申す。甲州にも、亦使者を通はし、牒送せられければ、武田の諸勢、長篠の遺恨を、此時に至つて、一時に散ぜんと、各勇み悦び合へる事斜ならず。

或時謙信公、諸士を率ゐて鳥の巣といふ瀑流に臨み給ひ、魚を狩らせて御見物坐ます。其折しも、河の洲崎に当りて、犬多く群集して見ゆる。謙信公、人を召して、何事にやと御尋あり。梅津左京承りて、是は佐渡の星熊にて、酒を盗みたる者、以上四人搦捕り、政所より、今日殺害申付け候と申上ぐる。謙信公聞召され、越州の政務、誠に当れり。併し今日は御心にある事候間、延引申さるべきにて候。さり乍ら期を引きては叶はざる者ならば、力なき次第なり。此旨梅津、政所に至りて申すべしと仰せられ、梅津、先づ太刀取を制して、早打を以て、城州に謁し、上意の旨を申しける間、城州、夫は何にても苦しからず候とて、其日の生害を止めてけり。斯くて謙信公御帰館の夜、諸老を会し仰せられて曰、我れ国を領せしより以来、人を殺す事凡そ九十余人。理に当り政に違へざる者、尤も是多かるべからず。然れば頗る他の一命を奪ひ、私心を快くするの境を出でず。豈天罰を蒙らざらんや。然れば各も、亦心片々として、僉議を加へ給ふべし。凡そ生ある者、大患死を以て之を限りとす。今度佐渡庄盗人のオープンアクセス NDLJP:211事、此心を以て評定あるべし。然して死せし者は、力及ばざる所なり。若し殺さずして事済まば、人上の大幸ならん。某は生得短才にして、治政の任之なきを以て、国郡の事大小となく、耆老の面々に任せ参らせ候。委細は承るに及び候はずと、仰ありけるを以て、直江山城守・北条伊豆守・河田豊前守相議して、昼夜肺肝を傾け、盗賊四人の内三人は、手指二つ宛切つて、境を越さしめ、一人、切殺を加へて、之を梟首す。

或時河田豊前守所へ、北条丹後守・同伊豆守・直江山城守・甘糟近江守・長尾小四郎・本城清七以下数人、料理参会あり。饗膳事畢りて、茶話の時、直江山城守申されけるは、各も定めて同志たるべし。抑今時、日本国に於て、大身・小身・名将・劣将、是れ余多ある其内、選みて主人に仕らん時、東国の太田三楽と吾々謙信公に若くはなしと、他家よりも其沙汰仕る事に候。惜しい哉、三楽も、翻胃といふ悪病出でて、今日明日と承れば、其方様の人々、さこそ無念に存ずらめ。痛はしき申事とぞ、各は思ひ給はんずれども、某は此日頃、寝食も快くせず、思ひ侍る事候。夫を何ぞと申す、謙信公の御在世、御長久あるまじき様に、了簡し奉り候。吾等凡夫に候へば、争でか未来を知るべく候と、思召さるべく候へども、近頃不祥の其箇条、一ならず候。一には去年より、御病気も坐ますに、日を逐うて御肉落ちさせ給ひ、二には、御自ら世の短く思召され候。三には、吾君謙信公にある程の善悪を勘ふるに、勇鋭に坐ます、無欲に坐ます、聡明に坐ます、正直に坐ます、義理に坐ます、慈悲に坐ます、智恵に坐ます、明弁に坐ます。日本小国の事はいふに及ばず、大凡唐土・天竺まで、此の如くの大将は之あるべからず候。其悪を申す時は、一つ御怒常に強くして、不仁を悪み給ふ事の甚しき計りなり。各我等折々は、御前にても、聊か申したるに候。然るに此一両年、御怒なさるゝ儀、尋常に無之候。不肖の者をば、猶以て御恵を加へ給ふ。さ候へば、誠に所謂円満万徳の名将とも、此人を申さずしては、古往今来、誰を申すべく候。承り及ぶ天地造化の理、全き事を興さず、全からんと欲する時は、天必ず之を闕くと、聖人の言なるをや。恐れても余りあるは、此一言に候。甲斐の信玄末期の時、信長・家康果報あり、必ず天下の主たるべし。さるに付いては、法性院先づ死して、謙信死すべし。此二人、若し一人残りて、今五年存生せば、信長・家康亡ぶべけれども、謙信も五年の内、必ず死すべしと、申されし事迄思合されて、心に懸り候。各の御存若し相違ひ、左様なき道理ども候はゞ、御一言を蒙りて、所存を晴らしたく候と語られければ、江オープンアクセス NDLJP:212州と豊州と小四郎と、同音に申されけるは、扱如何なる凶事にや、吾々も、城州の仰せ候所と相違はず。兼て存候に付きて、参会の度々、三人にて世を危み候。扨は城州御事も、同じ御了簡にて坐ますや。且は丹州・豆州は、如何思召し候と問ふ。北条丹後・北条伊豆・本城清七以下四五人の諸将は、一言の批判にも及ばず、唯今出で来る事の様に、愁傷せられけるこそ不思議なれ。翌日甘糟江州宅へ、七組の面々井に数輩、料理に参会申され候序で、江州曰、去頃東国上野に於て、謙信公、如何なる伝にや、千葉采女が息女伊勢と申せし無双の女房を御覧ぜられ、初互の御志、誠に和理わりなかりしを、直江殿・宇佐美殿に、柿崎泉州謀計を入れ申し、避け参らせ候。謙信公、夫より後、又女房を御覧ぜられず。伊勢も其年明け、正月、青龍寺に於て尼になる。謙信公は、御存の様に、情識をなされぬ大将にてあればこそ、御立腹も坐まさず候。此甘糟共ならば、何しに承引申すべく候。伊勢が父采女佐は、屋形の御敵と申せども、夫は恩愛、夫妻の契は、左様の事の入る所にあらず。異国にも、唐の太宗、其外賢王の其例多し。目のあたり武田信玄は、諏訪の頼重を殺し、其息女を取り、浅からず寵愛して、勝頼を設け候。其上采女が、其方様の者共、彼の娘、謙信公へ召され候と承り、限りなく悦をしたりと聞く。少しも苦しからざる儀を、あの泉州といふ大佞人に謀られて、謂れなく申避け、竟に唐土・天竺にも亦なき主人に、断腸の思を付け進らせ、各は屋形の御恩にて、心の儘に金銀・珠玉を費し、京・田舎より女房を求め、五人も三人も並べ置き給ふ事、是非に及ばぬ次第なり。是に依つて去る頃、泉州御成敗の其時も、悪き奴と存候て、某一手第一番に押付け、無理討にして蹴散らし捨て候。御両所も、泉州と同前なる御心入にだに候はゞ、一刀宛恨み申すべく候へども、夫は屋形の御為めに、能き様にと思召したる忠言にて候へば、申す事なく候。某は人に勝れ、女房好きたる其故にや、何と案じ候へども、悪しかるべき筋をば存付かず候。今御内の山口但馬は、伊勢が為めに伯父なり。青龍寺より、彼女房を取りて来り、但州養子にして、御機嫌を伺ひ、簾中へ出し給へかし。又別の女房ならば、楊貴妃を以て、今蘇生せしめ出し給ふと雖も、謙信公の御気質、御寵愛之あるまじと申す。駿州・城州相共に、江州仰の如く、柿崎といふ曲者に謀られて候。彼女を、今還俗せさせ、簾中に召され候様に事調ひ候はゞ、夫は上なき事に候。但し我君謙信公に、鳴をなされぬ事、御存知の旨に候へば、如何にも御合点あるまじと存ずる。彼女伊勢も、思入れたる深き女房と承れば、領掌申すべき事不定なオープンアクセス NDLJP:213り。如何ありて、能く候はんやと申す。江州夫は、只今思ふ所に候はず。御屋形の御承引之なき時は、夫迄なり。彼女若し異議を申さば、某に任せて御覧候へ。あやはいはせ候べきと申す。長尾小四郎・苦桃喜介、今日初夜深けて後、加賀見三右衛門・福井了庵、吾々二人と御宿直申し、寝殿に入り候時、福井了庵、いつぞや飛騨の白屋より、上州平井に通り、青龍寺弥陀の開張の日、彼の伊勢を見申して候ひしに、ありしに引替へ面易り、老尼二三人伴ひ、五十計りの太刀帯一人召具し、弥陀の開張に詣でられ候故、采女が宿所より青龍寺まで、殊に長途に候。殊勝にも参詣申されたると申上ぐる。謙信公聞召され、さる事ありつるな。千葉が宿所鴻の平より、青龍寺までは、さまで長途にあらじ。先年〔志イ〕洲の主馬助、青龍寺の東栗原といふ山に宿陣してありけるを、故長尾謙忠入道、子の刻に、五百の兵にて鴻の平を打立ち、寅の刻に押付け切崩し、主馬を討つ。五百人の押道は、一時に、早くは六十町、静かなれば五十町に過ぎず。謙忠は、年来東国瀬山を住所として、足軽の陸迫合に老功なりし。殿原も相馴れて、能く知り候はんとの御挨拶にて、各退出仕候。伊勢御前、縦ひ御分国但州の所に坐すとも、簾中に召され候はん事、有難く存候。さり乍ら先づ江州の御結構の如く、是へ入り参らせられ、夫よりは兎も角も成行きたるべしと、小四郎も喜介も申されて、各一同に退散す。其翌日山口但州、七組の諸老と相談し、三百計りにて、春日山を打立ち、伊勢を相迎へん為、長途を経て青龍寺に到り、女房の有家に越し、相尋ねたるに、坊守の老尼出合ひ、事の体を語りけるこそ、理にも過ぎて哀なれ。抑伊勢御前、先年上州平井より、袖の別れの明方、此寺に詣で来り給ひ、十七歳の世を憂き物にして、翠の髪を剃落し、此閑坊に引籠り給ふ。其事とは知り候はねども、思込み給ひ、節々の御涕の色に顕れて、いはぬ恨を知られける。翌年の春、平井の御館に、緋桜の盛なる頃、御供申候ひしに、何事にか候ひけん、花の蔭に萎れ臥し給ひ、御頭を持上げ坐まさず。日もすがら、袂を絞り給ひ、御帰りあらんとて、又木蔭に立寄り、短冊なども候はねば、賤しき料紙に筆を染め給ふ。

   諸共に見しを名残の春ぞとは今日白川の花の下かげ

抑此所は、則政公全盛の御時、陸奥の十八景を写し給ふ白川に当りける所とぞ。扨も去ぬる春の頃、謙信公、平井に御坐の時、折しも桜の盛なるに、此花の下蔭にて、御遊なんどの候ひしことを、殊に思ひ出で給ふにや。斯くて二三日は、又此閑坊に伴ひ申し、権・阿伽の水なんオープンアクセス NDLJP:214ど、彼是物し給ふ。去る御事も侍らざりけるが、樵歌牧笛の暁の涕、冷雲寒月の夜の御思にや、夫となう打悩みまし、うつらになりけるが、終に此年長月の初、十有九年の春秋を終へず、御隠れ候と語り申す。但州悲歎の涕を押へ、追善の法会を執行し、泣く越後へ罷り帰る。

直江・宇佐美等、其外七組衆・十一党の輩相談し、青龍寺鴻の平へ使者を送る。松本休庵金光寺之を承り、青龍寺の寺僧并に坊守の尼、采女佐の所縁相知りたる者まで、片金・銀銭・巻物の類、一方を洩らさず之を送り遣す。多なるを以て、註文を記さず。

同年の冬の半より、謙信公御肉、日を追うて脱し、鉄丸の如くなる物、御胸に支へ、御食を吐き給ふこと多日なり。其後は、冷水の外飲食遊ばされず。然れども御疲の色、露も見え給はず。昼は巳の下刻より、遠待に御出で、諸士に御対面。申の刻を終りて入らせられ、夜は戌の上刻より、子の刻迄、御出ありて、酒宴を設けさせ、諸士を会し、談笑自如として、御愁の色なし。就中十二月一日より、七組衆を召され、越前口より、江州・濃州へ人数を出され、都へ御進発あるべきとの御手配、昼夜十余日に事畢り、明年三月十五日、春日山を御進発、五万余兵の到着なり。武田甲斐の四郎勝頼は、一万八千にて、三月十六日甲州を立ち、越後の北条三郎殿の三万余兵を相備として、参州へ打出で、奥平が籠りたる長篠の城を攻め落し、謙信公の御旗を守り、尾濃の間へ押して出で、会稽の恥辱を一時に雪め、信長・家康を擒にして、首を獄門に懸け候はん。中組の為めとて、真田喜兵衛といふ信玄取立の大剛の侍大将に、樋口甚五郎を引導として、春日山へ登城致し、北条氏政よりは、九縫織部・北条幼庵両使として、春日山に参上し、来春三月十五日、氏政三万五千にて、小田原を打立ち、参州家康を押崩し、尾州・濃州に於て、参合すべしと申越され候。四夷・八蛮一時に随ひ、運を開かるべき時、已に到ると雖も、越後七組并に宗徒の諸士は、謙信公御余命久しからぬ御有様を鑑み奉り、折々は唯差つどひ、愁歎のみぞせられける。

越前境宮野郷主中沢長兵衛、殊に剛強の士たり。信長より、柴田修理を以て、様々手を入れ申さるゝに依つて、振方なく裏切の約束を致す。然して松任の城主馬を絶し給ふ時も、肺肝を砕くと雖も、謙信衆手配違はぬ故、相窺ふ事を得ず。猶以て穏密に致し、さらぬ振にて候ひけるを、謙信公、如何にしてか知召しけるにや、月迫に及び、歳末の御礼に、登城致しけるオープンアクセス NDLJP:215を召出され、童坊に後の戸を鎖させ、御腰物を抜放し、長兵衛脇差抜き、立上る所を討たせ給ふ。数月の御重病にて、御肉落ち、就中二十日以前より、御食事一向絶ち給へば、御力も定めて落ち給ひ、御手足も叶ふまじく、危く見奉るの所に、思の外御身軽き事、鳥の様に見え給ふ。一の太刀にて、肘の懸りをふつと斬つて落され、二の太刀を以て、高紐の辺を横手切に、露も懸けず、三つに切つて離し給ふ。見る人、肝を消さぬはなし。即ち中条五郎右衛門・苦桃伊織に仰付けられ、中沢共の者五十余人、御坪の内に於て之を切害す。中条五郎右衛門疵を蒙る。苦桃衆・中条衆九人まで討たれ、片時の間に之を尽す。殊更見物目覚めたるは、苦桃伊織家来浄真といふ者、小太刀を以て走り廻り、総て七人まで敵を討つに、皆余の所に切る事なし。一の腕・二の腕・高肘・手の首、一分も志す所を誤たず。自身も髪面・太股、かすり手二箇所被る。希代の達人なり。又中条が末子半蔵、鉄炮二三挺持出し、召仕の童に詰替へさせ、鎗の間の長窻より下り、目当にして放しけるに、一放もつさはず、矢庭に八人迄射臥せたり。謙信公、直に御覧ぜられ、中にも此二人が得道具を、重く賞し給ふ。折節三郎景虎、御前にありて、鉄炮は、遠業の物なる事も候べし。浄真入道が働、希代の名誉に候と申されけるを、謙信公聞召され、何にてもあれ、武具は得たるを専用とす。其業を以て人を射んに、遠業物にてあればとて、死したる命が、いやといふか。汝が申す所に依らば、刀業も、小太刀にて仕りたるが手柄にてあるべきや。又は如何様、敵を強く隔心に存ぜられて、間近き道具を以て仕るを能き事と申すに相似たり。侍たる者の一言、遠慮あるべき事をや。率爾の儀を申され候とて、御腰物を取り、はたと白眼み給ふ。御前に侍りける面々、皆汗をかく。

明くれば天正五丁丑年正月、謙信公違例、猶以て御不快と雖も、元日諸事の御規式、一日も欠闕之なし。今年は殊更春暖にして、正月より、早や峯々の雪消え、寒氷肌を労さゞるを以て、川田豊前守に、長尾小四郎・上村甚右衛門仰付けられ、中沢長兵衛居館宮野を取詰め、残党を尽すべき由仰出さる。之に依つて三将同時に、正月廿五日春日山を発し、越前の宮野に押寄せ、先づ足軽を懸け之を討つ。是は若し信長より、加勢を越したる事もやと、相伺ふ所にあり。宮野にも、長兵衛隠謀露顕して、生害せられし事、先達つて聞えてければ、中沢家老板持美濃といふ者、家来を会し、三百余兵にて楯籠り、弓・鉄炮を揃へ、堅固に守る。三将相談して、先年東国松山の城にて、武田内米倉丹後が工み出せる竹束を余多作らせ、繰寄にして詰オープンアクセス NDLJP:216寄り、後には柵の木へ、熊手の届く様に相付けけるを以て、城兵怺へ兼ね、二月五日朝旦を払つて出づ。二百五十余兵を二手に作り、先陣上村甚右衛門に、会釈も無く討つて懸る。手先は板持美濃が忰竹といふ若者、後陣は長兵衛弟右金吾なり。美濃は態と城へ留り、味方仕損ぜん事、案の中なれば、其期に及びて、女童を介錯せん為めなり。案の如く、竹・右金吾、粉骨を砕くと雖も、寄手三将五千余兵、軍を九つに分け、長蛇に備へ、一歩も乱さず攻め戦ふを以て、術を欺き絶たんと欲し、過半射頽され切殺され、散々に敗亡致し、竹は、上村与力久野筑前といふ者に首を授く。右衛門督は、城中へ引入り、屋形に火を放し切腹す。美濃も、自分の女童を手に懸け、同じく自殺仕りけるが、如何なる所存ありけるにや、長兵衛妻女并娘九歳になりけるを、之を討ち果さず。某存ずる仔細あり。君達等相構へて、御命を全う遊ばし候さあるに於ては、和州多武峯に上り、僧行意に御身を寄せられ、世の変を御覧候へ。行意は美濃に親しくて、疎意なき者に候と申置く。長兵衛は、清和源氏の嫡流、殊に名高き家門たるを以て、平人に下つて年久しと雖も、未だ志願を天下に絶ち去らざれば、此度も其志を以て、信長・家康に与し、世変に懸け、便宜を窺ひありとにや。美濃守が所為、聊か故あるをや。長兵衛妻女并に娘・局女房、都合廿余人、植込の中に火燄を凌ぎ、呆れて立ちさまよひたるを、川田豊前守手の者、之を生捕る。謙信公聞召され、三将を召して仰せられけるは、長兵衛執事美濃は、勇謀兼備の侍、汝等も知る処なり。今度宮野の落城、女童迄、残らず取仕舞ひたる其中に、何故に此者計り、助けて置きぬらんと案ずるに、長兵衛清和の家流として、世に志願ある者なれば、血脈を此度絶さん事、是非に及ばずと思ふ所にてあらん。妻女は定めて懐胎にてもあるか。若し男子なんど産せば、猶更志あるなり。誠に美濃が所為、義に当れり。然るを謙信、心なく之を絶つ事無道なり。殊更女性の身なれば、何の科ありてか、之を誅すべけん。唯助けて、何方へも便ある所へ送るべしと、仰せ出されけるを以て、三将其旨を含め、行迹を痛はり、和州多武峯の郡行意僧都の方へ送る。然して宮野長兵衛旧領六百余町、上村甚右衛門・長尾小四郎両人に分けて之を給ふ。

 
松隣夜話巻之下 大尾
 
 

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