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北条五代記/巻第三

北条五代記巻第三 目次

 
 
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北条五代記巻第三
 
 
 
聞しは。むかし北条ほうでう左京大夫たいらの氏康うぢやすは。弓矢ゆみやをとりてくわんしうにまういをふるひ。名大将めいだいしやうのほまれをえ給へり。亡父ぼうふ氏綱うぢつな駿河するが長久保ながくぼしろ武蔵むさし河越かはごえしろをせめおとせしより以来このかた氏康うぢやす守護しゆごたり然にするが今川義元いまがわよしもと上州じやうしう上杉憲政のりまさと一し。義元よしもとは。駿しゆんゑんさん。のせいそつし。長くぼのしろをかこむ。此よしつげ来るによて。氏康うぢやす軍兵ぐんびやうをもよほし。するがへ出馬しゆつばあらんとする所に。官領くわんれい上杉後誥ごづめとして。河越かはごえへ。発向はつかうしろを取まはし。すきもあらせずせむる事。昼夜ちうやをわかたず。然ども氏康は。さかひ目の諸城しよじやうつね多勢たぜいをこめ。兵粮米ひやうらうまいを入おき。自国じこく堅固けんごに守り給ふゆへ。にはか逆乱げきらん出来するといへ共。あへてもておどろきがたし。其上河ごえには北条上総守かづさのかみ在域ざいじやうす。此人は数度すど合戦かつせんさきをかけ。其をえたる大がうのものなり。はたは朽葉くちはに八まんの二をすみにて書たり。みなまんとぞいひける。てき此はたを見て。をそれざるといふ事なし。上総守かづさのかみせんのたびごとに。まんのはたを真先まつさきにたてうちわをあげて。しゆうをいさめ。かつたぞと斗いふ人なり。上総守一しやうがい。三十余度よどの大合戦かつせんに。かつたぞといひて。勝利せうりをえたり。味方みかたも此はた。先立さきだつをみては。かつたりとおめき。いさみたり。是によて万の引句ひきくにも。上総守の弓箭ゆみやにて。かつたぞといひならはし候ひぬ。然に憲政のりまさいはく。河越かはごえしろに。上総守たゞ一人有事。籠鳥ろうてうを見るがごとし。先年此城は。同名どうみやう朝定ともさだ居城なり。氏綱うぢつなにせめおとされ。一門のちじよくいこんやんごとなし。無二に此城せめおとし。会稽くわいけいはぢをすゝぐべしと。数万すまんせいにて。せめたゝかふといへ共。上総守こもるゆへ。ちからせめには成がたし。其比河の公方くはう晴氏公はるうぢこうは。氏康うぢやすには縁者えんじや憲政のりまさ旧臣きうしん。いづれ御ひいきなく。双方さうはう無事ぶじの御あつかひあり。然処に憲政むままはり難波田なんばだ弾正だんじやう入道。小野因幡守をのゝいなばのかみ公方くばう様へ参候さんかうし申ていはく。伊豆いづ相摸さがみは。公方様の御領国りやうこくといへ共。其はゞかりもなく。早雲さううん氏綱うぢつな父子ふし横領わうりやうしその上武蔵むさし下総しもふさの国のかたはしを切て取逆威ぎやくいをふるひをはんぬ。氏綱うぢつなは六年以前卒去そつきよすといへ共。其子氏康うぢやす若年じやくねんより。合戦かつせん勝利せうりをえ。世にひいでたる大将のほまれをあらはす。憲政のりまさを。ほろぼし其上は。古河こが様を追討ついたう仕り。をのれ公方くばうにもならんのぞみたなこゝろに。にぎるかとおばへ候。此度御馬出さるゝにをいては。東西南北に。てき味方みかた共見へず。善悪ぜんあくを見合をる。さふらひども皆ことごとく。御はた本へはせ参べし。然るときんば。河ごえしろ数日すじつをへず。せめおとし其いきほひに。氏康御退治たいぢしかるべしと。しきりにいさめ申によて。公方様河越かはごえへ。両年御馬を出され。是によて河越のしろ通路つうろ二年ふさがり。すでに城中じやうちう餓死がしに及ぶよしをきゝ氏康うぢやす出陣しゆつぢんし。有無に一オープンアクセス NDLJP:470合戦かつせんし。運命うんめいをば天にまかすべしと。敵陣てきぢんちかくはたを立。一せんいぜんに。公方様へ氏康うぢやすつうじやうを進上す。河ごえ籠城ろうじやうに付て。これ公方様御あつかひ。きよくなく存奉るといへ共。すでに骨肉こつにく同姓どうしやうの。宮仕きうしに参られ候。上。若君わかぎみ様御誕生たんじやう以来このかたは。猶以忠臣ちうしん一三まいにあふぎ奉る。然に去年駿州すんしうより。長久保の地。取つめ候処に。憲政のりまさ後詰ごづめとして。河越をとりまき。其上御動座どうざの儀を。憲政しきりに申上らるゝよし。其聞へ候氏康事も。御ひざもとに候へば。此きざみ方向はうむきに。御懇切こんせつめいわくたるべく候。たゞ何方へも御はつかうなく。たがひの善悪ぜんあくにより。いか様御威光いくわうあふぎ候よし申上候所に。過半くわはん御なつとく有て。御せいくの御しよ謹而つゝしんで頂戴ちやうだいさい三はいどくを経。安堵あんどのおもひをなし奉り候所に。難波田なんばだ弾正忠だんじやうのちう。小野因幡守いなばのかみ以下申上るにより。やがて上意をひるがへされ。御馬出され両年にをよび。御はた立られ候間。城中じやうちう三千余人籠置こめをき候者共。運粮うんろう用路ようろをふさがれをの難儀なんぎに。をよぶ由承るに付て。河越かはごえ籠城ろうじやう〈[#「籠城」は底本では「城籠」]〉のもの。身命しんめいばかり御赦免しやめん候ばゝ。要害ようがいあけわたすべきよし申候上所に。御納得なつとくのへんたうの上。氏康うぢやす武州ぶしう砂窪すなくぼへ。打出諏訪すわ右馬助。小田政治をだまさはる代官だいくわん菅谷隠岐守すがやをきのかみ未聞不見みもんふけんの人に候といへ共。御陣中ぢんちうよりまねき出し。たゞ今ようがいあけわたししんずべきよし申上候所に。城中の者どもは。天のあみにかけをき候間。一人ももらすべからずのよし。御ふくりつもつてのほかの間。かさねて上聞じやうぶんたつしがたきよし。中使ちうし挨拶あいさつの時刻をうつさず。諸軍しよぐんせんをもよほし下立しもだて砂窪すなくぼへ。をしよせられ候。氏康うぢやす時節到来とうらい。のがれがたきの条。今日有無うむに。一せんをとげ奉るべく候。先年も父氏綱うぢつな上意をもて。内々御たのみの間。君命くんめいそむきがたきによて。義明よしあきら様を追討ついたうし奉り。関東くわんとう諸侍しよさふらひに。ぬきんで。忠勤ちうきんをはげまし候事。都鄙とひまで其かくれなく候処に。いく程なく。先忠せんちうを御わすれ。其子孫しそんたやされべき御くはだて。君子くんし逆道ぎやくだうなに事に候哉。不善ふぜんと善不悪ふあくと悪君臣くんしんあまねくもてなんぞあふぎ奉るべく候。今日こんにちせんをとげ。氏康心底しんていのぎ。天道てんだうのあはれみむなしからずんば。うんめいをひらき累年るいねん宿望しゆくもうをはれ候べし。此むね啓達けいたつせしめ候をはんとかきてをくり。氏康諸軍しよぐんにむかつていはく。それうんは天にあり。いさゝかいのちおしむべからず。其上合戦の勝負せうぶ。大せいせう勢によらず。たゞ軍士ぐんしの心ざしを。一にするとせざるとにあり。小敵せうてきをばをそれ。大てきをあざむくと老士らうしのいさめも此もてなり。憲政のりまさと近年数度すどの合戦におよぶ時にいたつて。味方みかた一人をてき十人に心あて。十人は百人。百は千騎につもり。合戦するに。一ふかくをとらず。此度の人数にんじゆも。敵を十ぶんにして。味方みかた一ツは有ぬべし。いまにはじめぬ。合戦かつせん其上味方の士卒しそつ一もて千にあたる。氏康が太刀たち風をば憲政のりまさ弱兵じやくひやう。さぞ身にしみておぼゆらんと。天文十五年四月廿日。時刻じこくうつすべからず。かゝれつはものどもと。うちはをあげて。下知げちし給へば。めいによつてかろし。討死うちじにしてを後記にとゞめんと命をば一ぢんよりもかろく。おもてもふらず太皷たいこうつてせめかゝる。城中じやうちう上総守かつさのかみ是を見て。もんをひらき三千余騎よきいさみすゝみ切て出る。公方くばう憲政のりまさかねもよふす合戦たがひに鬨オープンアクセス NDLJP:471こゑをあげ天地をひゞかし。つうたれつ。半時はんじたゝかひしが。憲政のりまさうちまけ敗北はいぼくす。氏康かつのつていきほひ。追懸追をいかけをいたをし。つきふせ切ふせ三千余人討捕うちとりたり。難波田なんばだ入道は。此度讒訴ざんそ張本ちやうぼん父子ふし三人。をいの隼人正はやとのかみをはじめみなことくうつとられぬ。憲政は越後をさして。はいぼくす。晴氏はるうぢ公は下総しもふさ落行をちゆく。氏康猛威まうひ遠近ゑんきんにふるひしかば。公方くばうすぎ郎従らうじうくはせ参じかう人と成て。幕下ばつかに付。それより以来このかたくわんしうをせいひつにおさめ給ひぬ。其後氏康うぢやす長兄ちやうきやう氏政うぢまさ家督かとくをわたし。氏康うぢやす元亀げんきぐわん庚午かのへむま十月三日逝去せいきよなり。法名はふみやう大聖寺たいしやうじ殿東陽岱公大居士たうやうないこうだいこじがうす。氏康うぢやすちゝ氏綱うぢつな天文六年七月十五日。上杉朝定ともさだ河越かはごえに。をいて合戦し。氏綱うぢつなうちかつて。朝定ともさだほろぼし其れいにかなひ。戦場せんぢやうかはらず又此度。氏康うぢやす宿望しゆくまうたつし。勝利せうりをえられし事。弓矢ゆみや冥加みやうがに。かなへる武家ぶけ。くわん東にをいて名誉めいよの。大しやうとぞ人沙汰さたし侍る
 
 
見しは今。安房あは上総かづさみなみ海中かいちうへうかび出。たゞしま国とおなじ。此両国を里見さとみいへ数代すだいもちつゞけ君臣くんしん相伝り長久ちやうきうの国なり然るに。隣国りんごく下総しもふさの国と代々たゝかひて。つゐに無事なる事をきかず。去程に両国のさふらひおやおうち。まご。ひこやしは子の末迄すへまでも。他国たこくを見たる人なし。是まこと希代きたいのためしなるべし古歌こか

おやのおや。子の子の子まで山かつの。ほたのけたで。形見かたみとぞする

と。よめるも是にたぐへて思ひ出せり。かるがゆへに万の作法さはうかはる。され共三こうじやうみちもつぱらとし。文武ぶんぶをたしなみ給へり。論語ろんごに。上義かみぎをこのめば下あへてふくせずといふ事なしと云々。主君しゆくん里見さとみ左馬頭さまのかみ義高よしたかじんを第一とし給へば。諸侍しよさふらひみなじんの道を。をこなふ仁者じんしやかならず、ゆうありと云々。義理ぎりしつて。けなげにすべき所なれば。一そくもひかず名ををもし。めいをかろんず。孔子こうしの。のたまはくれいにあらざればいふことなかれ。れいにあらざればみることなかれ。礼にあらざればきくことなかれ。礼にあらざればうごくことなかれと云り。かるがゆへに両国のさふらひ礼儀れいぎ厳重げんぢうに有て。かみたる人も下を。あなどらず。下たる人も。かみきやうせずと云事なし。心に律義りつぎをたしなみ。ほか礼義きいぎ〈[#ルビ「きいぎ」はママ]〉をもつはらとす。取分とりわけ正月の礼義。にことなり。元正ぐわんしやうのあかつきより。やかた義高よしたかの御まへへ。諸侍しよさふらひ出仕しゆつしの時。其人のくらゐによつて。礼の次第色々かはる。主君しゆくんのかはらけを。いたゞきもちたつ人おほし。かわらけをいたゞく上に。片肴かたざかなの礼と云て。肴を其人へひくもあり。又両肴りやうざかなの礼とて。主君しゆくんの前へもひく事あり。其上片茶かたちやの礼。両茶の礼と云事あり。其時は一人のまず。両方りやうはう見合同時どうじに茶をものむがさだまる礼義なり。此上に敷居しきゐ内外ないげの礼。たち礼とて君臣くんしんの間に。品様しなさま々の礼義あり。下々したいたるまでも。正月さかづきの礼義はさだまりてたがひに。七度づゝしやくとり十四度。オープンアクセス NDLJP:472ゆきかへりてのち亭主ていしゆさかづきを取てあぐる故に。正月中は諸侍しよさふらひ此礼義に。かゝづらひ。いとまなくしづかなる事なし。然に相州さうしん北条氏直ほうでううぢなをと。たたかひしが。あつかひ有て天正五年のなつ里見さとみ小田原をだはら証人せうにんをわたし。和睦くわぼくす此時に至て。他国たこくを見はじめしより以来このかた大国たいこく臣服しんふく安堵あんどの国たりと云々。安房あはの国へ行たりし時。ある老士らうしにあひて房州ばうしう里見家さとみけ先祖せんぞたづねるに老士かたつていはく。われ聞つたへしは。むかしあはの国に。安西あんざい金鞠かねまりまる東条とうでうがうし四人のさふらひあり。安房一国を四人して修領しうりやうす。此人々文武ぶんぶたつし。其上子細しさい有て。四天王とがうすと云々。いづれも在名ざいみやう名乗なのる。ていれば。夜討ようち曽我そがまひに。下総しもふさの国には。安西あんざい金鞠かねまり東条とうでうとあり。是は相違さういなり。安房に此四の在所ざいしよあり。頼朝公よりともこう石橋いしばし山の合戦にうちまけ。舟にて房州へうつり。安房あはの国の住人ぢうにんまるの五郎信俊のぶとし安西あんざい三郎景益かげますを。さいせんにめしつれ京下きやうげの者是あらば。ことくからめ参らすべきと。東鏡あづまかゞみしるせり。此人のあらそふべき事なれば。注し侍る。然に房州ばうしう四人の中。うんのすゑにや。不和出来ふくわいできすでにわけ弓矢ゆみやをとり。東西南北とうざいなんぼくに。をいてさんを見だし合戦す。其ころ上野かうづけ里見さとみの住人。左馬助義豊よしとよといふさふらひ。いかなる仕合しあはせにや。上州をしりぞき。安房の国へうつりて。安西あんざい家中かちうに。牢人らうにんぶんにて堪忍かんにんす。是は故実こじつ勇士ゆうしなり。此者いくさせつに及で。てだてをいふに。一として。はづるゝ事なし。安西是をかんじ。摩利支天ましりてんまん菩薩ぼさつ来現らいげんかとしんじ。うちはあづけいくさ大将とし。数度すど合戦かつせん勝利せうりをえ。あまつさへかつのりて。こゝへをしよせ。かしこへ馳走ちそうし。三人をうちほろぼし。安房の国は安西一人守護しゆごとす。然に安西いかなるおもはくにや。里見さとみを。ほろぼさんはかりごとをめぐらす里見其色をさとり。又二に分て合戦す。里見は仁義じんぎの道たゞしく。たみをなで慈悲じひ愛敬あいきやうを。もつぱらとし。武略ぶりやく智謀ちぼうの大将たるゆへに。諸人里見に心ざしをよせずといふ事なし。其上滅亡めつばうせし三人の郎従らうじう。皆もつてはせくはゝつて里見は多勢たせい安西あんざい無勢ぶぜいつゐには。安西うちまけ滅亡せられをはんぬ。其後安房の国は里見義豊よしとよ持国じこくたり。ていれば里見。稲村いなむらと云在所ざいしよに。新城しんしろこう居城きよしやう〈[#ルビ「きよしやう」はママ]〉とすゆへに。稲村殿とも申き。扨又上総かづさの国の国司こくし丸谷まるやつ上総介とたゝかひ。里見さとみうちかつて。上総の国を切てとる義豊よしとよ子息しそく義弘よしひろ時代に。上総の国佐貫さぬきしろ取立とりたて。かの地へうつる。義弘よしひろ長兄ちやうきやう義高よしたかは。同国どうこく久留里くるり城壁じやうへきかまへ。在城ざいじやうす。其比相州さうしう北条氏康ほうでううぢやす下総の国を切て取。上総かづさうち入てたゝかふ。義高よしたか嫡男ちやくなん義頼よしより時代じだい。安房のたち山にしろこうし。居城きよじやうとす。義頼よしよりなん義康よしやす時代まで。北条とたゝかひ。つゐに和睦くわぼくなし。こゝに一ツの物語あり。義高よしたか時代じだいとかや。合戦の見ぎり。ちうあるさふらひどもにしやうをあたへんと。思慮しりよをめぐらさるゝといへども。昔より安房上総かづさ両国ばかりもち来り。相伝さうでん忠臣ちうしんに。知行ちぎやうを皆さきあたへ。明地あきちは一しよもなし。金銀きんぎん米銭べいせん余慶よけいもあらざれば。合戦の見きりちう有さふらひに。感状かんじやうばかりを出されければ。両国のさふらひども。訴状そじやうをさゝげていはく。前々親ぜんぜんおやおうぢより我等まで。数度すど忠功ちうこうそのしるしに。御感状かんじやう数通すつういたゞくといへ共。さらに其オープンアクセス NDLJP:473感徳かんとくなし。それ当国にむかし公家くげのながれ。諸牢人しよろうにんをかゝへをき。先例せんれいにまかせ正月出仕しゆつしの礼に。官位しな作法さはふ有。左伝さでんに。とほきがしたしきをへだて。あたらしきがふるきをへだつと云々。いへにつたはる譜代ふだいさふらひ共みな。末座ばつざにつらなり。軽賤けいせんの次第。面目めんぼくはいにまびれたり。然ば仁義じんぎにも大小。軽重けいぢう浅深せんしんあらん時は小をすてて大につき。かろきを捨て。おうきに付。浅きをすてゝ。ふかきに付。いづれもそれ道理だうりにかなひ。至極しごくする所を至善しぜんにとゞまると云り。古語こゞに。きみ君たる時は。しんちうをもつてし。臣々しんたる時は。きみあはれみを残すと云り。又いはくきみしんもつて礼とす。しんきみをもつて心とす。きみたみをもつてとす。たみは君をもつてちゝとすと云々。すべて自今じこん以後いごちう有さふらひには。御感状かんじやうをさしをかれ。元じつの礼を。一つゞ赦免しやめんせらるゝにをいては。ほとんど会稽くわいけい耻辱ちじよくを。きよむべし。是生前しやうぜんの大こうなるべしと言上ごんじやうす。義高よしたか聞召きこしめし訴状そじやうむね至極しごくせり。しやうのうたがはしきは。あたふるにしたがふ。をんをひろむるのゆへんなり。自今じこん以後いごにをいて。忠臣ちうしんには。感状かんじやうをば。さしをき元じつの礼を。宥免ゆうめんせらるべしと。堅約けんやくし給ふ。諸侍しよさふらひ願望ぐわんもうたんぬと。喜悦きえつまゆをひらきける。合戦かつせん日々ひゞの事なれば諸侍しよさふらひこの元日ぐわんじつ礼位れいゐのぞみをかくる処に。山田豊前守ぶぜんのかみといふ者。合戦のみぎり。一番鑓ばんやりをつき。比類ひるゐなきはしりめぐりなり。此ほうびに。片肴かたさかなの礼を赦免しやめんせられたり。又豊前守翌日よくじつのたゝかひに。岡田をかだ左京亮さきやうのすけと。馬上ばじやうよりくんでおち。左京亮をおさへてくびを取て。両さかなの礼をゆるさるゝ。又其後せりあひいくさに。豊前守。鳥井とりゐ左衛門尉といふ。がうの者と名乗なのりあふてたゝかひ。数ケ所すかしよの手をおうといへ共。かれがくびうつて。片茶かたちやの礼をゆるされたり。諸侍しよさふらひ是を見て。有難ありがた君臣くんしん兼約けんやくは。当月廿日以前の義なり。山田豊前ぶぜんの守はうぢくらゐもなき平侍ひらまふらひ〈[#ルビ「ひらまふらひ」はママ]〉にて有つるが。冥加みやうがにかなひ。はや三度の忠勤ちうきんをぬきんで。片茶かたちやの礼まで赦免なり。ひとつをしやうしてもつて。百をすゝむとは是かや。扨も豊前守は。冥加の侍浦山敷うらやましき〈[#ルビ「うらやましき」は底本では「うらややしき」]〉仕合かなと。両ごく武士ぶし元日の礼にのぞみをかけ。一生涯しやうがい本懐ほんくわい此一事にしくはなしと。めいをば一ぢんよりもかろくす。欧陽公わうやうこう本論ほんろんに。万物ばんぶつと共につきず。卓然たくぜんとしてくちざるは。後世こうせいの名なりといへり。威勢いせい両国りやうごくにふるひ。ほまれ子孫しそんにつたふべしと。武勇ぶゆうもつぱらとはげましゝが。房州ばうしう里見家さとみけ義豊よしとよよりはじまり。義弘よしひろ義高よしたか義頼よしより義康よしやす忠義たゞよし。六代目にあたつて。忠義たゞよしほんぎやくの義有て。秀忠公ひでたゞこうのために遠流をんるせり。扨又房州衆に。紹之せうじと云連歌師れんがし。里家の系図けいづもてり。見しに。清和天皇せいわてんのうより。忠義たゞよしまで二十七代。里見のはじまり義俊よしとしよりは。十九代義豊よしとよよりは。七代なり此内。義高よしたかの名なし。不審ふしんわれは老士らうし物語をしるす者なり

 
 
見しは昔。相州さうしう小田原をだはらに。王滝坊ぎやくりうばうと云て年よりたる山ぶしあり。愚老ぐらうわかき比。其山ぶし物語せられオープンアクセス NDLJP:474しは。我関東くわんとうよりごと年大みねへのばる亭禄ていろくはじまる年。和泉いづみさかいへ下りしに。あらけなくなる物のこゑする。是は何事ぞやととへば。鉄砲てつぱうと云物。唐国もろこしより永正ゑいしやう七年にはじめわたりたると云て。とてうつ。我是を見。扨も不思義ふしぎ。きどくなる物かなとおもひ。此鉄砲を一ちやうかいて。関東くわんとうへ持て下り。屋形やかた氏綱公うぢつなこうへ進上す。此鉄砲をはなさせ御らん有て。関東にたぐひもなきたからなりとて秘蔵ひざうし給へば。近国きんごく他国たこく弓矢ゆみやにたづさはる侍此よしをきゝ。是は武士ぶしいへのたからなり。昔鎮西しんぜい八郎為朝ためともは。大矢束やつかひき。日本無双ぶさう精兵せいびやうなり。弓勢ゆんぜいをこゝる見んためよろひ三りやうをかさね。えだにかけ。六とをしたる強弓つよゆみなり。保元ほうげんの合戦に。新院しんゐん味方みかたに八郎一人有て。たちまちころす者おほし。数万騎すまんきにて。せむるといへ共。此矢にをそれ。ゐんの御門破かどやぶる事かなはずとかや。今弓は有ても。よきよろひを。たいすれば。をそるゝにたらず。いかにいはんやかの鉄砲てつぱうは。八郎がゆみにもまさりなるべし。所帯しよたいにかへても一ちやうほしき物かなとねがはれしが。氏康うぢやす時代じだいさかひより国康くにやすといふ。鉄砲てつぱうはりの名人めいじんをよび下し給ひぬ。扨又根来法師ねごろはふしに。杉房すぎのばう。二王坊。岸和田きしのわだなどゝいふ者下りて。関東くわんとうをかりまはつて。幾砲を。をしへしが。今見れば人ごともちしと申されし。然ば一とせ北条氏なを公。小田原籠城ろうじやう時節じせつてきほりぎはまで取より。海上かいじやう波間なみまもなく。ふねをかけをき。秀吉公ひでよしこう西にしにあたつて。山城やましろこうじ。小田原のじやうを目の下に見て仰けるは。秀吉ひでよし数度すどの合戦城責しろぜめせしといへども。かほど軍勢ぐんぜいをそろへ。鉄砲用意よういせし事。さいはいなるかな。時刻じこくさだめ一どうにはなさせ。てき味方みかたの鉄砲のつもりを。御らんぜんと仰有て。てきがたより。よばゝりけるは。らい五月十八日の数万挺すまんちやうの鉄砲にて。そうぜめして。たて矢倉やぐらも。のこりなく。打くづすべしといふ。氏直うぢなをくわん八州の鉄砲を。かね用意よういし。こめをきたる事なれば。てきにもをとるまじ。鉄砲くらべせんと。矢狭間やざま一ツに。鉄砲てつぱう三挺づゝ其間々に大鉄砲をかけをき。浜手はまての衆は。舟にむかつうみぎはへいでくるるを。おそしと相待あひまつ処に。十八日のくれがたより。はなしはじめてき味方みかたも一夜があいだ。はなしければ。天地てんち震動しんどうし。月のひかりけぶりうづもれ。ひとへにくらやみとなる。され共のひかりは。あらはれかぎりなく見ゆる事。万天ばんてんほしのごとし。氏直うぢなを高矢倉たかやぐらあがり。是を遠見ゑんけん有て狂歌きやうか

地にくだる。ほし堀辺ほりべのほたるかと。見るや我うつ鉄砲の

と。くちずさび有しかば。御まへかうする人々申ていはく。御詠吟ゑいぎんのごとく。てき堀辺ほりべくさむらに。蛍火ほたるびの見えかくれなるがごとし。城中じやうちうの鉄砲のひかりは。さながらほしにことならずと。申ければ。氏直うぢなをゑみをふくませ給ふ事。なゝめならず。まことに其夜の鉄砲てつぱうに。てき味方みかた耳目じもくをおどろかす事。前代未聞ぜんだいみもんなり。愚老ぐらう相州さうしうの住人小田原にろうじやうし。其せついまのやうに。おもひ出られたり。然ば鉄砲唐国からくにより。永正ゑいしやう七年にわたり。それよりはんじやうし。慶長けいちやう十九年迄八百五年なり。扨又くわん八州にて。はなしはじめし事は亭禄ていろくぐわん年より。こんまで。八十七年以来このかたと聞へたり
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聞しはむかし老士らうしかたりけるは。天文てんぶんころほひ。源義明公みなもとのよしあきらこう下総しもふさの。国司こくしとして小弓こゆみたちに。まします故。小弓の御所ごしよがうす。是は政氏公まさうぢこう次男じなん晴氏公はるうぢこう伯父をぢ。然ども古河こが公方くばう晴氏公はるうぢこうと。御中不和ふわに有て。たゝかひ。止事やむことなし。其比伊豆いづ相模さがみ守護しゆご北条氏綱うぢつなは。管領くわんれい上杉修理大夫しゆりのたいふ朝興ともおき子息しそく五郎朝定ともさだとたゝかひ。武州ぶしう江戸のしろ同国どうこく河越かはごえじやうをせめおちし。武威ぶい遠近ゑんきんにふるひ。をそれぬてきなし。然に古河こが公方くばうは。氏綱うぢつなむこなり。晴氏公はるうぢこう小弓こゆみの御所を。追討ついたう有度よし。氏綱を御たのみによつて。氏綱下総へ。出馬しゆつば高野台かうのだいまへにをき。ぢん取義明公此よし聞召きこしめし進発しんぱつ高野かうの台へ。取あがり御はたを上られたり。里見義弘さとみよしひろは。安房上総の国主こくしゆ。義明公とかねて一味是によて。義弘安房上総。両国の軍兵ぐんびやう引率いんそつし。義明公加勢かせいとして。はせくはゝり天文七年戊戌つちのへいぬ〈[#「戊戌」は底本では「戊戍」]〉十月七日。こくに至て合戦す。たがひに鬨音ときのこゑをあげ。おめきさけんでは。雨をふらし。をおもんじ。めいをかろんじ。うちつ。うたれつ。血煙ちけぶりを立て。たゝかひしが。御所うちまけことく。はいぼくす。氏綱うちつなかつのつて。おつかけ。つきふせ。きりふせ三千討捕うちいとり。御所父子ふし舎弟しやてい基頼公ともよりこう滅亡めつばうし給ふ里見義弘は。上総かづささし落行おちゆきぬ。高名かうみやうする勇士等ゆうしら首引くびひつさげ。氏綱の旗本はたもとへ来る。氏綱は高野かうの台にはたをだてて。床机しやうぎこしをかけ給ひ。中山修理しゆり介。御まへかうす。此者数度すどの合戦に武勇ぶゆうをもつて。てきほろぼし。軍法ぐんぱふ兵義ひやうぎをしる故実こじつの者。かね武士ぶしつかさにふせらる。此人くびじつけんの奉行ぶぎやうなり。くび討捕うちとり戦場せんぢやう仕合しあはせたづねね聞て。ちう軽重けいぢうをしるす。大合戦に勝利せうりをうる事なれば。一番やりにぬきんで。くび討取うちとる者おほし。大しやうの首は扨をき。鑓下やりしたにて討とるくび。一番二番をろんずといへ共証拠せうこなきは。本意ほにとせず。然に片山かたやま弥兵衛。前登ぜんとうにすゝみ。首討捕うちとる所に見れば味方みかた大藤だいとう左京すけ弓手ゆんでをはせとをる。此人はのほまれある勇士ゆうしさいわいかなと。よろひ妻子めての袖にとり付片山弥兵衛くび証拠せうこ人よといふ。左京亮見たり一番首比類ひるいあるべからずといひて。よせすぐるかくたしかなるせう人有故。三千余討捕うちとる内にをいて。片山弥兵衛鑓下やりしたの一番首にしるす。扨又はなを一つかき。くび一つ持来もちたりて二ツの首といひ。鼻はかりを一ツ二ツ持来て首帳くびちやうに付べしといふ者おほし。修理しゆり介がいはく。此度討死うちじにする味方みかた死骸しがい道路だうろ山野さんやさんを見だすがごとし。鼻が首になるならば。する味方みかたの鼻を。かゝぬ者やあらん。一年ひとゝせ常陸ひたちの国にをいて。佐竹義重さたけよししげと。小山をやま高井豊前守たかゐぶぜんのかみ。かつせんし味方みかた勝利せうりをえ。首五百うつとる六月中旬ちうじゆん炎熱えねつ時節じせつと云て。鼻をかき小田原へ持来もちきたる事あり。子細しさいもなくて鼻かく事。分明ぶんみやうならずと。首帳くびちやうにつけず。然に伊山いやま助四郎。江川えがは兵衛太夫の両人は。諸人にぬきんで先がけし。強敵がうてき雌雄しゆうをあらそひ。討勝うちかつて相ならび。くび一ツつゝうつ取。助四郎は手ををひたり。兵衛太夫是を見て。其方いた手負てをひ進退しんたいなりがたし。くびはなをかき。よろひ上帯うはおびにはさみ。太刀たちつえにつき。帰陣きぢんせよ其方途中とちゆうにて。オープンアクセス NDLJP:476しすとも我証拠せうこ人になりて。首帳くびちやうに付ぬべし。もし検使けんしうたがひ有にをいては。我討捕首わがうつとるくびを。其方ためにせん。然ばむかし摂州せつしうたにの合戦にをいて。梶原かぢはらが二の。かけしてほまれ有事をいひつたへり。我又二度かけんとほつするゆへ。討捕首うちとるくびはなをかき。おびにはさみたり。我討死うちじにするならば。其方証拠せうこに立て。首帳くびちやうにつけてたべ。未来みらいまでの芳志はうしたるべしと。いひすてはせ参じ。又首一ツ取て帰陳きぢん旗本はたもと実検場じつけんばきたつて。鼻と首と二つ御目にかけ。戦場せんぢやう前後ぜんご仕合しあはせ言上ごんじやうす。修理しゆりの介がいはく。其方より以前いぜん伊山いやま助四郎いた手負てをひ。鼻をそぎ持来て。其方とたちならび。首一ツづゝ討取。生死しやうしのせいごんつぶさに。御前にをいて言上ごんじやうす。きみ其方二度のかけをかんぜしめ給ひ。くびいまだ来らずといへ共。ちやうつけをきぬ。前後ぜんご首二つ江川えがは兵衛太夫としるしたり。臣々しんたれば。君又君たり。君臣くんしん合体がつたいして。のぞみをたつする勇士ゆうしのほまれ。希代きたいのためしなるべし。扨又岡本左衛門尉は。武畧ぶりやく達者たつしや数度すどのたゝかひに。くび討取うちとるといへ共。此度首を取えず。遺恨いこん止事やむことなし。然にてき一人のあぜをつたひ。横道よこみちしてにぐる者あり。味方みかた佐藤さとうしん三郎といふ者是を見。たゞ一人をひかけ一町ほど先にて。をひつき首取てかへるを。左衛門尉是を見て。又あぜをつたゆき途中とちうにて相むかつて。さても手がらとほうびし。其者を切ふせ。てきくびひつさげ。味方みかた陣中ぢんちうに入。諸人是を見て。やれ味方みかたうちよといひしかど。あへてとがむる人なし。うたるゝ者いたずらに成ぬとかたりければ。故実こじつ老士らうし聞て。去程に大合戦には。人ばなれてひとりだちせぬ事なり。いまだ戦場せんぢやうをもふまざる。わかき人は。味方みかたかちいくさとおもひ。独立ひとりだちして味方のためにかいせられぬ。すこぶる味方うちあらかじめ。功者こうしやのなすわざなりといふ。口才こうざいなる若殿原衆わかとのばらしう〈[#ルビ「わかとのばらしう」は底本では「わかとのばちしう」]〉。いひ

けるは其儀ならば。味方の首をも取二ならば。猶益なほえきあらんか。左衛門尉かへつて。無功者ぶこうしやをあらはすといふ。老士らうし聞てされ共所にこそよるべけれ。てき味方みかたと二ツの首を取ならば無功者ぶこうしや。諸人の見る目。あやうかるべし。左衛門尉。敵の首を目がけしは。いよ功者の心ふかしといふ。わかき衆いはく。味方みかたうちはすでに。諸人見たりじん三郎親類しんるいありて。とがむるに至ては。功者こうしや無功者ぶこうしやといつゝべし。老士らうしいはく大合戦は入みだれ。かならず味方討あり。うたるゝ者かへつて恥辱ちじよくたり。其上敵の首を持来る。軍陣ぐんぢんにをいてたれ諍論じやうろんあらんと申されし。この味方討みかたうちに付て。むかしをおもひ出せり。頼朝公よりともこう時代じだい。一でう次郎忠頼たゞより威勢いせいをふるふのあまりに。乱世らんせいの心ざしをはさむのよし。其聞えあり。武衛ぶゑい是をさつせしめ給ふによつて。忠頼たゞより栄中えいちうにをいて。ちうせらるべきため。晩景ばんけいにをよび。武衛西さふらひに出給ふ。忠頼たゞよりめしによつて参入さんにうす。宿老しゆくらう家人けにん数輩列候すはいれつかう対座たいざす。献盃けんぱいの儀あり。工藤祐経くどうすけつねてうしを御前にすゝむ。是かねて其討手うつてさだめられをはんぬ。然にことなる武将ぶしやうたいして。たちまち雌雄しゆうけつするの条。重事ちうじたるの間。いさゝか思案しあんせしむるか。顔色がんしよくすこぶるへんぜしむ。小山田別当有重をやまだべうたうありしげかの有様を見て。を立かくのごときの御しやくは。老者ろうしやのやくたるとせうじ。祐経すけつねが持所のてうしを取。こゝ子息しそく稲毛いなげ三郎重成しげなりオープンアクセス NDLJP:477おとゝ榛谷はんがへ四郎重朝しげとも等。さかづきさかな物を持て。忠頼たゞよりがまへにすゝみよる。有重ありしげ両息りやうそくにをしへていはく。配膳はいぜん故実こじつは。上くゞりなりていれば持所の物を。さしをきくゝりむすぶの時。天野藤内あまのゝとうない遠景とをかげべつの仰をうけたまはり。太刀を取忠頼が左の方にすゝみ誅戮ちうりくし卒ぬ。此時武衛ぶゑいは。御うしろの障子しやうじをひらきいらしめ給ふ。其後忠頼がとものさふらひ。新平太しんぺいだ武藤むとう与一山村小太郎等。地下ぢげより主人しゆじんがいせらるゝを見て。面々めんに太刀を取て。さふらひの上にはしりのぼる事。粗忽そこつにして伺候しかうともがら騒動さうどうし。おほくくだんの三人が為に討れぬ。かれらすでに。深殿しんでん近々ちか推参すいさんす。重成しげなり重朝しげともゆふき結七郎朝光ともみつたゝかひ。新平しんへい太。与市を討取うちとる山村は遠景とほかげをうたんとす。遠景一ケ間を相へだて。魚板まないたを取て是をうつ。山村えんの下に。てんだうするの間。遠景其くびをえたりと云々。翌日よくじつ武衛ぶゑい鮫島さめしま四郎宗家むねいへを。御前にめし。右の手のゆびきりしめ給ふ。是昨夕さくせき騒動さどうの間。味方討みかたうち罪科ざいくわ有が故也と云々。頼朝公よりともこう御前にをいて。味方討さへかく。なだめ右のゆびきり給ひぬ。いかにいはん大合戦にをいてをや

 
 
見しはむかし。兵書ひやうしよ唐国からくによりわたり。我朝わがてうにをいて是をまなび給ひぬ。孫子そんし呉子ごししよなどゝ云て。おほしされば。保元ほうげんの比ほひまでは。軍法ぐんぱうさだまらずとられたり。其時節じせつの大将軍しやうぐんは。馬上ばじやうに弓をたいし。武芸ぶけいをもつぱらにあらはせり。保元はじまる丙子ひのえねの年。新院しんゐん御むほんゆへ。天下見だれ合戦す。みなもとの義朝よしともおなじき。為朝ためとも兄弟きやうだいは。敵味方と相わかれて。内裏だいり新院しんゐんの大将軍しやうぐんたり。然に此両将りやうしやう戦場せんぢやうむかつては。郎従らうじうに。ぬきんで前登ぜんとうにすゝみ。ゆみがらをあらはし。にぐる者を見ては。弓をわきにかいはさみ大をひろげどこまでとのゝしりよばつておつかけ。ひとり気なげをもつぱら振舞ふるまひ給ふ事。ぶんにしるし見えたり。其比は弓矢ゆみやのはじめ。いくさめづらしくさも有べきか。頼朝よりとも石橋いしばし山の合戦かつせんに。弓射ゆみいておほくてきほろほし給ひぬ。源平ぐねぺいしまの合戦にをいて。義経よしつね教経のりつね弓射ゆみい給へるていたらく。武者絵むしやゑなどに見えたり。扨又文治ぶんぢ五年。頼朝公よりともこう秀衡ひでひらとも退治たいぢとして。奥州おうしう発向はつかう。七月廿五日。宇都宮うつのみや着御ちやくぎよし給ふ時に。小山をたま下野しもつけの大ぜう政光まさみつ入道にうだう頼朝公よりともこうへだかうをけんず。此間こんのひたゝれちやくする者御前に。しかとかうす。なに者に候ぞやのよし。政光是をだつね申。仰にいはくかれは。本朝ほんてう無双ぶさう勇士ゆうし熊谷くまがへ小次郎直家なほいへなりと云々政光がいはく何事に。日本無双のがうの者に候ぞやと申。仰に云平家へいけ追討ついたうの時。一たに以下の戦場せんぢやうにをいて。父子ふし相ならびいのちすてんと。ほつするゆへなりとのたまふ。政光は有勢ゆうせいの者なり。すこぶるわらつていはく。きみためいのちすつるの条。勇士ゆうし所為しよゐなり。いかでか直家なほいへに。かぎらんや。たゞしかくのごときのともがらは。こふくの郎従らうじうなきによつて。ぢきにくんこうをはげまし。其がうをあぐるか。政光がごときんば。たゞ郎従を。先につかはし。ちうをぬきんずる所なり。しよせん今度よオープンアクセス NDLJP:478りは。みづから合戦をとげ。無双ぶさう御旨ぎよしをかうふるべしと。朝政まさとも宗政むねまさ朝光ともみつならびに養子やうし頼綱よりつなを御前にめしあつめ。是を下知げちす。二ほん聞召きこしめしけうに入給ふと云々。政光申たるこそ道理だうりしごくなれ。故に頼朝公よりともこうも。邪興じやけうし給ひたり。然ば奥州おうしうあづかし山のしろを。明朝みやうちやうせめらるべき由。諸軍しよぐんへ御ふれ有て。先陣せんぢんはたけ山次郎重忠しげたゞに仰付られたり。かの政光まさみつどもをはじめ。其外の大しやう共。我をとらじと。郎従らうじうどもをば。あとのこしをき。我ひとり夜中やちうに。畠山が陣中ぢんちうをはせすぎ前登ぜんとうにすゝみ。大将七人高名かうみやうをあらはし。ほまれをえたると云て。むかしはかくのごときの子細しさいあり。今の時代じだいの大将は。戦場せんぢやうに出ては。うちはをとり軍兵ぐんびやう下知げちし。万人ばにん勝事かつこともつぱらとす。たとへば一万持たる大人たいじんあり。みな下知げちする事あたはず。此一万人それにつとむる所のやくあり。ゆへ主人しゆじん其内にをいて。数度すど合戦にあひ。武功ぶこうをつみ。をえたる者をえらんで。武者奉行むしやぶぎやうに定め。うちはをあづくる。此大将はうをよくしる。法は軍法ぐんぱう曲制きよくせいをいふ。是大将のをこなふみちなり。軍陣ぐんぢんにをいて人数にんじゆを立る次第。はたかねつゞみ武具等ぶゝとう兵粮ひやうらう運送うんそうまでも。事かゝざるやうにするたぐひをはふとはいへり。つはものを出さんには。此五つの事を。よくさだめて。かならずかつべしと云々。孫子そんしが云いくさはかりごとを第一とす。まなばずんば有べからずと云り。去程にわが大将はなにほど程の智謀ちぼうの者。敵の大将は何程なるものと。うかゞひ知て。いくさをこうす。むかしの大将に。栢直はうちよくと云者あり。高祖かその云。我臣わがしん漢信かんしんにをよぶべからずとて。しんつはゝし合戦し。柏直を討亡うちほろぼす。大将あしければ。軍乱いくさみだれほろぶる事ひつせり。扨又郎従らうじうの其中にをいて。器量きりやうをはかつて。物がしらをえらぶ。論語ろんごに云。一人につぶさなる事を。もとむる事なしと云々。ゆへにそれにえたる所の。才智さいちのをよぶ所を分明ぶんみやうし。はたゆみ鉄炮てつぱうやりの物がしらを一人つゞ申付る時に。皆それ奉行ぶぎやう下知げちまもる。其一人の物頭ものがしら他出たしゆついたつては。のこる所のやく人。進退しんたい成がたし。これによつて軍法をさだめをく。むかしはか様の法度はつともなかりし。軍陣ぐんぢんにをいて。もし一人なりとも法度をそむく者有て。軍中ぐんちうをぬきんで。たとひ比類ひるいなき高名かうみやうをあらはすといふ共。たちまち罪科ざいくわにをこなはる。故に大小みやうに。法度を用ひて。それやくを。つとむるをもつて。弓法きはう本意ほにとす。され共合戦により。武略ぶりやくことなれば。一やうには定がたし。からと日本人の心おなしからず。関東と。関西の弓矢ゆみやのかたぎかはる。むかしと今猶もて各別かくべつなり。然といへ共。ぶんを左にし。を右にするは。いにしへのはうかねてそなへずんば有べからず。保元ほうげんの合戦より以来このかた。永禄八乙丑きのとのうし年。公方くばう義輝よしてる公御滅亡べつばうまで。四百十一年の間の弓矢。其かずあげてかぞふべからず。扨又鎌倉かまくらにをいて。官領くわんれい上杉安房憲実のりざね。むほんによつて。永享えいこう十一年持氏もちうぢ公御生害しやうがいにて。関東乱国らんごくと成て。合戦やむ事なき所に。関東にぬしなくして。国おさまりがたしと。諸侍しよさふらひ相談さうだんし。持氏公の四なん成氏しげうぢ公を。引出し公方くばうの御遺跡ゆいせきを取たて主君しゆくんにあふぎ。官領上杉の下知げちにしたがひ。をのれ国郡くにこほり居舘ゐくあんに有て。永久えいきうねがひ。先祖せんぞをまつり。旧功きうこう郎従らうじう。其子々孫々しゝそんまで。撫育ぶいくせんとオープンアクセス NDLJP:479を専にせつをもくす。然どもやゝもすれば。国堺うにざかひをあらそひ。是は頼朝公よりともこうより以来このかた我家わがいへにつたはる所領しよりやうなり。此所領なかりせば。きみをもたつとぶべからず。戦場せんぢやうにていのちをもすつべからず。此所帯しよたい身命しんみやう売切うりきりたる故に。一所懸命しよけんめいかきて。いのちをかくるとよめりなど云て。ある時はほんぎやくをくはだて公方くばうへ弓を引。或時は官領くわんれい上杉とたゝかやむ事なし。世上せじやう無事ぶじに有ては。先規せんきを正し。家々いへ系図けいづ諍論じやうろんをよぶ。延徳えんとく年中公方政氏まさうぢ時代じだい大森奇栖庵明昇おほもりきせいあんめうしやう長尾ながを左衛門ぜう景信かげのぶ佐保田さほだ河内守かわちのかみ亮治すけはる。太田左衛門大夫。寺尾てらを若狭守わかさのかみ。太田道灌だうくわん沙弥しやみ梶原能登入道かぢはらのとにうだう。などが取かはしたるふるき小さつ共。愚老ぐらうおほく披見ひけんせしに。此等これらさふらひ共家々の意趣いしゆをあらそひ。そし。そうりやう。いへろんじ。東鏡あづまかゞみ証文しようもんとし。沙汰さたにをよぶ。我等先祖せんぞ謹上きんじやうがきかくあり。誰々たれへは御教書みけうしよもか様に有て厳重げんぢう也。承久せうきう三年兵乱ひやうらん鎌倉かまくらより京都きやうと攻上せめのぼ時節じせつ引付ひきつけ共あり。吾妻鑑あづまかゞみ披見ひけんせらるべし。是末代まつだいまでの明鏡めいけいなりとしるす。是不審ふしんなり。今人々もてあぞび給へる。あづまかがみは。慶長けいちやう年中家康いへやす公此もんはじめてて見出し給ひしより。世間せけん流布るふす。たゞし此文のほかに。東鏡あづまかゞみがう書物しよもつ有か。扨又此文のうつし有て。其時代じだい沙汰さたしけるが。おぼつかなし然所に。北条早雲さううん東国とうごくへ打入。氏康うぢやす時代とう八ケ国を追討ついたうせしより。関東くわんとうさふらひ系図けいづ意趣いしゆあらそひも。みなすたれり。又ちかき年中。都鄙とひにをいて。ほまれ有大将をうかゞひ見るに。弓矢ゆみやの取やう心々にかはれり。信長公のぶながこう幼稚ようちより。武勇ぶゆうをこのみ。ぶんまなび給はずといへども。私欲しよくなく。忠臣ちうしんしやうをほどこし。うんぜうじて。度々どゞのたゝかひに討勝うちかちて。武将ぶしやうのほまれをえ給へり。され共長臣ちやうしんのいさめを用ひず。身のかへりみなきゆへにや。下人の明智あけちが為に。えきなくがいせられ。秀吉公ひでよしこうは。善悪ぜんあく分明ぶんみやうし。智謀ちぼう武略ぶりやくをもて。数度すどの合戦に切勝きりかち高麗国かうらいこくまでしたがへ。天下泰平たいへいに治。希代のめいしやうたりといへ共。右の両君りやうくん一代のほまれ有て。武運ぶうんつき給ひぬといへば。老人らうじん云此両将りやうしやうは。ぶんまなびなきゆへ。武威ぶいのみにほこり。仁義じんぎの道なく。神明しんめい仏陀ぶつだをも。たつとび給はず。国民こくみんのなげきかなしびをもわきまへず。心のいかりをやめず。信長のぶなが公は天台山でんだいさん灰燼くわいじんし。三千の衆徒しゆと殺害せちがいす。秀吉公は根来ねごろ覚鑁かくばん上人の霊寺れいじ焼亡やきほろぼし。僧侶そうりよくびを切。仏敵ぶつてきたる故。一代にひいでゝ。ほまれ有といへ共二代つゞかず。いへ滅亡めつばうし給ひぬ。蘇老泉そらうせんが云。一にんもて百ゆうをさゝへ。一せいもて百なんせいすと云々。是は大将の心もちなり。一ツの堪忍かんにんを以て。百の血気けつきの勇をとゞむる。一つのしづかなるをもつて。百のうごきをとゝむべし。一旦のいかりをしづめず。日本無双ぶさう霊山れいざん破却はぎやくし。千の僧徒そうとくびきる。其つみおびたゞし。をそれずくなからずや。尚書しやうしよ云。罪のうたがひをばかろくし。こうのうたがひをばをもくせよと云々。国家こくかおさむきみは先もてぶんまなび。仏神ぶつじん信敬しんきやうし。仏法ぶつぱう王法わうはう繁昌はんじやうし。国民こくみん安世あんせいをねがふ。ほとんど右の両将。文なき故。仁義じんぎをも。をこなはず。仏神ぶつじんをも。きやうせず。ゆへにや弓矢ゆみや〈[#「弓矢」は底本では「矢弓」]〉冥加みやうがにそむき。一代にて滅尽めつじんし給ふ。扨又関東にをいて。上杉輝虎てるとらは。戦場せんぢやうに出。郎従らうじうに先立て。やりを取太刀討たちうちし。ひとりけなげをこのみ。たけき大将のほまれ有。オープンアクセス NDLJP:480武田信玄たけだしんげんは。武欲ぶよくを専とし。片意地かたいぢに弓矢を取て。つよき大将の名をえ給へり。此両将ひとりけなげをたのみ。武威ぶいにほこるを専とせり。孫子そんし兵法ひやうはうをよくしり。勇士ゆうしたりといへども。つはものゆうを用ひず。たゝかはずして。はかりごとを第一とし。かつ事を専とす。扨又小田原北条早雲さううんより以来このかた。五代の弓矢を聞およびしに。仏神ぶつじんをたつとみ。我運わがうんをいのり。仁義じんぎを専とし。たみをなで。智仁勇ちじんゆうとく有て。関八州を千余年。静謐はいひつ〈[#ルビ「はいひつ」はママ]〉もちつゞけ。弓矢のほまれのこせり。右の大将武運ぶうんつき。皆滅亡めつばうし給ひぬ。され共善道よきみちをば。後代こうだいまでもまなび。あしき道をばまなびがたし。
 
 
聞しはむかし。関東くわんとうにをいて。両上杉と。平氏茂たひらのうぢしげたゝかひの事を。聞伝きゝつたふるといへ共。其由来ゆらいをしらず。ある老士らうしかたつていはく。長享ちやうかうの比ほひ。関東の公方くばうがうし。左馬頭さまのかみ源政氏公みなもとのまさうぢこう鎌倉かまくらにおはします。是は左兵衛すけ成氏公しげうぢこうの御そく。持氏公もちうぢこうより三代のこうゐんなり。其比山内の顕定。扇谷あふぎのやつ定正さだまさ。此両上杉殿は。関東くわんとう奥州おうしうまで。諸侍しよさふらひ棟梁たうりやうたり。然所に定正の長臣ちやうしん長尾ながを四郎衛門尉景春かげはる謀叛むほんくはだて主従しゆ分て弓矢を取。あまつさへ両上杉殿の中。不和ふわに有て。諸国みだれ。さんみだし合戦やむことなし。其時節駿州すんしう高国寺かうこくじしろに。伊勢いせ新九郎氏茂うぢしげがうし。文武ぶんぶ智謀ちぼうさふらひあり。後は北条早雲さううん宗瑞そうずいと改名す。されば或夜あるよゆめに。大すぎ二ほん有けるを。ねずみ一ツ来てくひおると見てさめぬ。新九郎心とき人にて。やがてさとり。我の年なり。両上杉をきりたをすべき。天のつげとしられたりと。みづから霊夢れいむ得心とくしんし。喜悦きえつあさからず。上杉をほろぼさんと。思慮しりよをめぐらすといへども。たとへをとるに。蟷螂たうらうをの。かなひがたし然所に。両上杉のなか不和出来ふわいできさんみだしたゝかひ有由早雲さうゝんおよび。是天のあたふる所。霊夢れいむのつげ時をえたりと。よろこび。はじめは相州さうしうの。上杉修理しゆり大夫定正さだまさとくみし山内殿の分国ぶんこく伊豆いづ延徳えんとく年中に切てとり。後は上州の上杉民部みんぶ大夫顕定あきさだと一所に成て。扇谷あふぎのやつ殿の領国りやうごく。相摸小田原の城に。大森筑前守おほもりちくぜんのかみたりしを。明応めいおうころほひ。のつとり両国のぬしとなる事。早雲さううん武畧ぶりやく智謀ちぼうの故なり。其上仁義じんぎをもつぱらとし。一とうしよくをえても。しゆと共にわけてしよくし。一そんの酒をうけても。ながれにそゝぎて。とひとしくいんするがごとし。よるは夜もすがら。ねぶりをわすれて。をこなひに心をかたぶけ。ひるはひめもす。おもてをやはらげて。まじはりを。むつまじくす。すゝみては万人ばんにん〈[#ルビ「ばんにん」は底本では「ばんにす」]〉をなでん事をはかり。退しろぞきては一身のしつあらん事をはづ。たのしみは諸侯しよかうの後にたのしび。うれいは万人のさきにうれふ。いまだしゆゆの間も。心をほしいまゝにせず。つね慈悲じひ政道せいだうを。とりをこなひ。天道てんだう加護かごを。あふぎ。たみをなで。みちたゞしくまします故。神明しんめいのまもり。天道てんだうかなひ。てきをほろぼし。くにしたがふ事あだかもふく風の草木さうもくをなびかすがごとく。万民ばんみんあはれみ給ふ事。ふる雨の国土こくどをうるほすに同じ。定正さだまさ明応めいおう二年十月五日に逝去せいきよなり。子息しそく朝良ともよし。江戸河越かはごえじやうオープンアクセス NDLJP:481守護しゆごたり。顕定あきさだ越中えつちう長尾ながを六郎為景ためかげと合戦しうちまけ敗北はいぼくし。越後えちご信濃しなののさかひ。長森原ながもりはらにて永正えいしやう七年六月廿日。高梨たかなしにほろぼされ。かねて顕定遺言ゆいごんによつて。古河こが若君わかぎみ。関東官領くわんれいとして。鉢形はちかたうつり。顕実あきさねがうす。同き九年八月十三日。三浦みうら道寸だうすん。相摸をか崎の居城ゐじやうを。早雲さううんせめをとし鎌倉へ打入。同十五年七月十一日。三浦みうら新井のしろに。道寸だうすん子息しそく。荒次郎たてごもるを。早雲さううんせめほろぼす。早雲子息氏綱うぢつなは。伊豆いづの国。にら山の城にて。生れ給ひたり。又いはく京都にての子なり。あとより下向げかうせつも有。氏綱いへをつぎ早雲さううん宗瑞そうずいは。同十六年八月十五日病死びやうしなり。大永四年正月十三日。官領くわんれい上杉修理しゆり大夫朝興ともおき武州ぶしう江戸の居城きよじやうを。氏綱せめおとし再興さいこうして。氏綱在城ざいじやうす。朝興ともおきは同国河越かはごえの城にうつり給ひぬ。同六年十二月十五日。初卯はじめのうあたつて。安房あは里見さとみふねにて渡海とかいし。鎌倉かまくら鶴岡つるがをかにみだれ入。雪下ゆきのした破却はきやくす。氏綱はせむかひ。合戦し討勝うちかつて。大将里見さとみ討死うちじにす。ひとへに。神罸しんばつとぞ沙汰さたしける。天文てんぶん六年七月十五日。上杉朝定ともさだ武州ぶしう河越かはごえ居城きよじやうを。氏綱せめ落す。其比関東くわんとう公方くばうをば。晴氏公はるうぢこうと申。是は高基公たかもとこう潜光院殿さんくわうゐんどのの御古河こが公方くばう様とがうす。然に下総の国小弓こゆみの御所と号し。義明公よしあきらこうまします。是は政氏公まさうぢこう次男じなん晴氏公はるうぢこうと。御中不和ふわたり。古河こがの公方様。氏綱うぢつなを御たのみによつて。下総しもふさの国高野台かうのだいにをいて。同七年十月七日。合戦し義明公よしあきらこう父子ふし。御舎弟しやてい基頼公ともよりこうこと滅亡めつばうし給ふ。同九年鶴岡山くわくかうざん幡宮まんぐう造立ざうりう。十一月廿一日遷宮せんぐう。氏綱願主ぐわんしゆたり。氏綱は天文十年七月十九日に逝去せいきよ也氏綱そく氏康うぢやす享録こうろく三年若輩じやくはいの比より。ほまれをとり。それより以来このかた数度すどの合戦に。勝利せうりをえられし事。文武ぶんぶ智謀ちぼう達人たつじん。其上せつにのぞんでは自身じゝんやりをとり。猛威まうひをふるひ給ふ事。もつてたとふるにたらず。然に早雲さううん氏茂うぢしげより三代目。氏康うぢやす時代じだいいたつて。古河こがの公方晴氏公はるうぢこう官領くわんれい上杉憲政のりまさをもこと追討ついたうし。武蔵むさし上野かうづけ下野しもつけ下総しもふさ上総かづさおさめ。するが。信野しなの〈[#「信野」はママ]〉常陸ひたちしろをおほくせめおとし。希代きたい武家ぶけと云つたへたり
 
 
聞しは昔。相州さうしうじう高山伊予守たかやまいよのかみと云て。八十あまりの老士らうし語りけるは。北条早雲さううん氏茂うぢしげ左京さきやう大夫氏綱父子ふしに仕へ其時代じだいの弓矢にあひ。其上応永おうゑいみだれこのかた関東にをいて。合戦有し事を。能覚よくおぼえて物語せり。扨又大清軒せうけん氏康うぢやす切流斎せつりうさい氏政うぢまさ二代のいくさには。皆人あひたりと云て。くはしくかたるを。われわかき比。聞おぼへ。此抄物におほくの。合戦をしるし侍る。其目録もくろくの次第

応永おうゑい年中。禅秀乱ぜんしうらんといひ伝ふる事。其比鎌倉かまくら公方くばうをば。兵衛かみ持氏公もちうぢこうと申。然に関東官領くわんれい上杉右衛門すけ氏憲うぢのり 法名ほうみやう禅秀ぜんしう入道。公方持氏もちうぢ公へ。逆心ぎやくしんくはだて満隆みつたかと一し。関八州は扨をき。奥州おうしうまでもふみをめぐらし。軍勢ぐんぜいはせ来て。鎌倉にて夜日。十日の大合戦あり。持氏公もちうぢこううちまけ。応永二十三年丙申ひのへさる。十二月駿河するがの国。大森おほもり山まで落させ給ひ。上杉安房守あはのかみ憲基のりもとは。越後えちごへはオープンアクセス NDLJP:482いぼくの事

応永二十四年持氏公もちうぢこう。駿河におはしまし。京都へうつたへ給ふにより。義持公よしもちこう下知げちとして。鎌倉にて合戦あり。持氏公もちうぢこううちかつ満隆公みつたかこう持仲公もちなかこうをはじめ。上杉犬懸いぬかけ禅秀ぜんしう入道一るい。悉く雪下ゆきのしたにて滅亡めつばうの事

応永二十五年。武田たけだあく八郎討追ついたうの事付信元のぶもと帰国きこくの事

永享えいこうの比ほひ公方くばう持氏公もちうぢこう。鎌倉におはします。然所に。関東官領くわんれい上杉安房守あはのかみ憲実のりざね叛逆はんぎやくをくはだて。京都の公方くばう義教公よしのりこうへ申により。京せいはせ下り。鎌倉にをいて。合戦あり持氏公もちうぢこううちまけ。同き十一年己未つちのとひつぢ〈[#「己未」は底本では「已未」]〉二月十日父子ふし自害じがい有。それより関東諸国しよこくに。鉾楯むじゆん出来して。修羅しゆらのちまたとなる事

永享年中持氏公の次男じなん春王しゆんわう殿。三なん康王やすわう殿両ぎみ結城ゆふき七郎光久みつひさたちにまします所に。上杉安房守あはのかみ憲実のりざね大将として。大軍たいぐんにて嘉吉かきつ元年辛酉かのとのとり。四月十六日結城の城をせめおちし両若君わかぎみを。生捕いけどり奉り終には。濃州じやうしう垂井たるゐ道場だうじやうにて。同き年の秋。勅使ちよくし下り。春王殿。康王殿自害じがいし給ふ事

文安ぶんあんの比まで。関東くわんとう諸国しよこく見だれ。弓矢ゆみやを取てやむ事なし。其比長尾左衛門入道昌賢まさかたは。文武ぶんぶのものなり。関東くわんとうに主なくして有べからずと。持氏もちうぢ公の四なん永寿王ゑいじゆわう殿。信州しんしうにかくれましますを。引出し天をうかゞひ。四少将せうしやう成氏公しげうぢこうにんじ。鎌倉の公方くばうがうす。是によつて関東無事になる事

享徳かうとく三年甲戌きのへいぬ。十二月廿七日。公方くばう西御門にしみかど成氏公しげうぢこう。かまくらにをいて。上杉左京亮さきやうのすけ憲忠のりたゞちうしたまふ。此時上杉引分ひきわけてたゝかひ。長尾ながをぞく鉾楯むじゆん有て。成氏公かなはず。古河こがへ御馬を入給ふ事

康正かうしやう年中。諸国兵乱ひやうらんやまざる処に。かうえつのさかひに居住きよぢうする。越のさかひに居住する。上杉民部大夫顕定あきさだはせ来て。逆臣ぎやくしん等を追討ついたうし。東国とうごくおさまる事

文明ぶんめい辛卯かのとのうの年。公方くばう茂氏公しげうぢこう上杉とたゝかひ。成氏公うちまけ。古河こがさつ千葉ちばへ。引籠ひきこもり給ふ事

文明年中。主従しうたゝかひ有しが。和睦くわぼくの義ありて。同き十年戊戌つちのへいぬ七月十七日。成氏公古河こが帰城きじやうの事

文明年中。長尾四郎右衛門尉景春かげはる主君しゆくん上杉修理しゆり大夫定正さだまさに。逆心ぎやくしん有て。武州ぶしう五十子いかつこにをいて合戦す。定正討まけ鉢形はちがたしろにこもり給ひぬ。たゞし是は上杉顕定あきさだへ。逆心ぎやくしんとしるしたるぶんあり。此義二せつある事

同十八丙午ひのへむま扇谷あふぎのやつ上杉定正さだまさ家老からう太田道灌おほただうくわんちうす。此時にいたつて上杉の棟梁たうりやう山内顕定あきさだと。不和ふわ出来いでき両上杉たゝかひの事

オープンアクセス NDLJP:483同年二月五日上杉顕定あきさだ同名どうみやう定正さだまさ相州さうしう実巻原たねまきばら合戦の事

同年六月八日相州さうしう須賀谷原すがやはらにをいて。鎌倉の公方くばう左馬かみ政氏公まさうぢこう定正さだまさと一味し顕定あきさだと合戦の事

同年十一月三日両上杉武州ぶしう高見原たかみはら一戦の事

長享ちやうかう戊申つちのへさる〈[#「戊申」は底本では「戊甲」]〉年武州松山にをいて両上杉戦ひの事

延徳えんとく年中伊豆いづ北条ほうでう堀越ほりこし御所ごしよまします駿州すんしう居住きよぢうする伊勢いせ新九郎早雲さうゝん氏茂うぢしげ御所をほろぼし伊豆の国を切て取事

明応めいおう三年甲寅きのへとら九月廿三夜相州さうしう新井落城らくじやう三浦みうら時高ときたか滅亡めつばうの事

明応年中相州さうしう小田原に大森おほもり筑前守ちくぜんのかみ在城ざいじやうす伊豆の早雲さううんせめおとす事

文亀ぶんき年中相州にて北条早雲ほうでうさううん氏茂うぢしげと上杉顕定あきさだ戦ひの事

永正えいしやう元年甲子きのへね九月武州ぶしう河越かはごえ城主しろぬし上杉五郎朝良ともよし加勢かせいとして今川いまがは氏親うちちか北条氏茂うぢしけと一味し武州立河原たてかはらにをいて。上杉顕定あきさだと合戦の事

同年十月。上杉顕定越後ゑちご軍兵ぐんびやうそつし。武州ぶしう河越かはごえ上杉朝良ともよし居城ゐじやうをせむる。よく年の春。和平わへいの義有て。顕定越後へ帰陣きぢんの事

永正年中。越中ゑつちうの上杉九郎房義ふさよしと。家老からう長尾ながを六郎為景ためかげとたゝかひあり。房義討まけ雨溝あまみぞといふ地にて。滅亡めつばうの事

同四年公方政氏公まさうぢこうと。高基たかもと父子ふし不和ふわの義出来でき関東くわんとう鉾楯むじゆんする事

同六年七月廿八日。上杉顕定あきさだ武州に有しが。舎弟しやてい〈[#「舎弟」は底本では「含弟」]〉房義ふさよし滅亡めつばう遺恨いこん。やむことなく武州を打立。越中えつちうにをいて長尾為景ながをためかげと合戦し顕定あきさだうちかつて。越中西浜にしはま為景ためかげはいぼくの事

同七年越中の一おこつて上杉顕定はいぐんし。越後ゑちご信濃しなののさかひ。長森原ながもりばらにて高梨たかなしに出あひ。同六月廿日顕定滅亡めつばうの事

同九年壬申みづのへさる。八月十三日相州岡崎をかざきの城に。見うらの介道寸だうすん居城ゐじやうを。北条早雲せめおとす。道寸は同国。すみよしの城にうつる事

永正年中。三浦介道寸と北条早雲さううん。かまくらにをいて合戦す。道寸討まけ敗北はいぼくし。三浦みうら新井あらゐの城に引こもる事

同十五年戊寅つちのへとら。七月十一日三浦介。陸奥守むつのかみ義同よしあつ法名道寸。子息しそくあら次郎弾正少弼だんじやうのせうひつ義意よしもと。新井の城に三年たてごもり。つゐには北条早雲。せめおちし。父子ふし切腹せつぷくの事

大永四年甲申きのへさる。正月十三日武州ぶしう江戸。上杉修理大夫朝興ともおき居城きよじやうを。北条氏綱うぢつなせめおとす。朝興は河越かはごえしろに。引こもる事

同六年十二月十五日。房州ばうしう里見義弘さとみよしひろふねにて鎌倉へ渡海とかいし。鶴岡つるがをか破却はぎやくす。北条氏綱はせ向里見さとみうちまけ同名どうみやう右近大夫討捕うちとらるゝ事

オープンアクセス NDLJP:484享禄三庚寅かのへとら。上杉朝興ともおき。武州河越かはごえの地にをいて北条氏綱うぢつなとたゝかひの事

天文六丁酉ひのとのとりの年。上杉五郎朝定ともさだ。武州河越のたちにをいて。七月十五日の夜いくさ。北条氏綱討勝うちかつ朝定ともさだめつばうの事

同月廿日。上杉朝定。家老からう難波田なんばだ弾正忠だんじやうちう。武州松山の地にをいて。北条氏綱と合戦し。難波田討まけはいぐんの事

天文七戊戌つちのへいぬ年。十月七日下総しもふさの国小弓こゆみ御所ごしよ義明公よしあきらこう高野台かうのだいにをいて。北条氏綱と合戦し。義明公よしあきらこううちまけ。父子ふしこと滅亡めつばうの事

同十四乙巳きのとのみの年。駿河するが長久保ながくほしろは。北条氏康うぢやすしろなり。然処に今川義元よしもと。上しう上杉憲政のりまさと一し憲政は武州ぶしう河越かはごえしろをせめ。義元よしもと長久保ながくほの城をせむる事

同十四年。古河こが公方くばう春氏公はるうぢこう。上杉憲政のりまさと一し。武州河越のしろを両年せめる。北条氏康うぢやす出馬しゆつばし。同十五年七月廿日合戦す。公方くばううちまけ古河こが落行おちゆき。上杉は越後ゑちご敗北はいぼくの事

同廿三年。甲寅きのへとら二月今川義元よしもと加勢かせいとして。武田信玄たけだしんげん駿州へ出馬しゆつばす。北条氏康伊豆へ出陣しゆつぢんし。たゝかひの事

同年十月四日。北条氏康古河こがの城をせめおちし。春氏公はるうぢこう父子ふしを。相州さうしう羽田野はだのへながし申さるゝ事

弘治こうぢ丙辰ひのへたつ年。北条氏康うぢやす天気てんきをうかゞひ。晴氏公はるうぢこう若君わかぎみ。御元服げんぷく有て。左馬守さまのかみ義氏公よしうぢこうにんじ。葛西谷かさいのやつへうつり。晴氏はるうぢ公と和平わへいの事

弘治年中まで。武田信玄たけだしんげん今川義元よしもとは。北条氏康うぢやすとたゝかひしが。同二年あつかひ有て。三縁者えんじやをくみ。和平わへいの事

同二年十月三日。上杉輝虎てるとら太田おほた楽斎らくさいと。一し上州へ出陣しゆつぢんす。北条氏康出馬しゆつばし。たいぢんをはりたゝかひの事

同二年。房州ばうしう里見義弘さとみよしひろふねにて。三浦へ渡海とかいじやうしま陣取ぢんどり。北条氏康とたゝかひの事

同年十二月十五日。義氏公よしうぢこう下総しもふさの国関宿せきやどへうつり。同三年晴氏公はるうぢこう父子ふし四人。流罪るざいの事

同三年。駿州すんしう今川義元よしもと尾張をはりの国をきつてとらんと。軍兵ぐんびやうそつし。せめのぼる処に。尾州びしうにをいて。織田をだ三郎信長のぶながいであひ。五月十九日義元よしもとめつばうの事

永禄えいろくの比ほひ。上杉憲政のりまさ越後ゑちごに有て。上杉輝虎てるとらを頼み。常陸ひたち下野しもつけ信濃しなの上野かうづけ武蔵むさしさふらひどもことし。輝虎てるとら将軍しやうぐんとして同しき三年庚申かのへさる三月。小田原へはたらく事

同三年。北条氏康武州へ出馬しゆつばし。岩付いはつき城主しろぬし太田おほた楽斎らくさい追討ついたうの事

同四年九月十日。上杉輝虎てるとら信濃しなのの国。河中島かはなかじまにをいて。武田信玄たけだしんげんと合戦の事

同五年の春武州松山上田安徳斎あんとくさいしろを北条氏康せめおとす事

オープンアクセス NDLJP:485同七年甲子きのへね。正月八日房州ばうしう里見義弘さとみよしひろ下総しもふさ高野台かうのだい出陣しゆつぢんす。北条氏康うぢやす氏政うぢまさ出馬しゆつば合戦し義弘うちまけ敗北はいぼくの事

永禄年中上杉輝虎上州沼田ぬまた出陣しゆつぢん。北条氏康氏政出馬したゝかひの事

同年中。里見義弘さとみよしひろ。上総の国。池和田いけのわだの城に。多賀蔵人たがくらんど在城ざいじやうす。北条氏康。氏政出馬しゆつばし。責落せめおとす事

同十一年戊辰つちのへたつごく月。武田信玄たけだしんげん駿州へ出馬しゆつばし。今川氏実うぢざね追出ついしゆつし。駿府すんぷにはたをたつる。氏実は遠州ゑんしう懸川かけがはへはいぼくの事

同年中まで北条氏康と。上杉輝虎てるとらとたゝかひ有しが。和睦くわぼく有て。同十二年の春。氏康の七男三郎輝虎てるとら養子やうしと成て。越後へ越山ゑつざんの事

同十二年正月上旬じやんじゆん。北条氏康。氏政駿州へ進発しんぱつ。三枚橋まいばし高国寺かうこくじ蒲原かんばらの城をのつとり。由井薩埵ゆゐさつた山にはたをたて武田信玄たけだしんげんと同四月までたゝかひあり。信玄しんげん惣陣そうぢんをはらつて。甲州かうしうにげゆく事

同年の六月廿日。武田信玄たけだしんげん駿州すんしう加波かは鳴嶋なりじまぢんす。北条氏康。氏政。駿河へ発向はとかうし。信玄はたもとへ夜討ようちし。鬨音ときのこゑあぐれば。信玄おどろきはいぐんす。八まん菩薩ぼさつのはたを打すて。夜もすがら。甲府かうふまで諸軍しよぐんことくにげゆく事

同年十月上じゆん。武田信玄。信濃しなの〈[#ルビ「しなの」は底本では「しのの」]〉上野かうつけ武蔵むさしさふらひ共と一味し。信玄大将軍しやうぐんとして。相摸さがみ酒勾さかわまではたらく事。同三増みます合戦の事

同年極月。駿州蒲原かんばらに。北条新三郎在城ざいじやうす信玄せめおとす事

同十三年のはる。武田信玄駿州すんしう出陣しゆつぢん。北条氏政するがへ進発しんぱつ。たゝかひの事

元亀げんき元年庚午かのへむまなつ。氏政西上州へ出陣しゆつぢん。武田信玄も出馬しゆつば。たゝかひの事

同二年のあき。北条氏政常州じやうしうにて佐竹義重さたけよしゝげと。対陣たいぢんの事

天正元年癸酉みづのととりふゆ下総しもふさの国。関宿せきやど城主しろぬし簗田やなだ中務つかさ大夫謀叛むほんす。北条氏政出馬しゆつばし。関宿せきやどしろをせむる。佐竹義重さたけよししげ後誥ごづめとして。出陣すといへ共。かなはず引しりぞく。簗田やなだ降参かうさんし。つぎの年五月十一日城を。あけ渡す事

天正年中の。いくさをば。愚老ぐらう出陣しゆつぢんし。覚侍おぼへはんべる。源勝頼みなもとのかつよりと。たいら氏政と。和睦くわぼく有て。同五年勝頼旗下はたしたになる。其上勝頼は。氏政のいもうとむことなり。かうさう一味の事

同年中まで北条氏政と。里見義頼さとみよしよりたゝかひ有しが。同五年のなつ。あつかひ有て。里見小田原へ。証人せうにんを渡し。和平わへいの事

同六年。越後の上杉三郎景虎かげとらと。長尾ながを喜平次景勝かげかつと。鉾楯むじゆんあり。景虎かげとら討まけ滅亡めつばうの事

同七年の春。北条氏政西上州へ。進発しんぱつす。武田勝頼たけだかつよりも。出馬しゆつば手切てぎれのたゝかひの事

オープンアクセス NDLJP:486同八年三月。源勝頼駿州浮島原うきしまがはらへ。出陣しゆつぢん平氏直たいらのうぢなほも。伊豆いづ三島みしまに。はたをたて。たゝかひあり。駿河するがうみにて。ふないくさを勝頼かつよりうきしまが原下へ出見物の事

同年のふゆ駿河するが国中こくちう戸倉とくら城代じやうだい笠原かさはら新太郎。平氏直たいらのうぢなほ謀叛むほんし。源勝頼に一す。是によつて。勝頼駿州へ出陣しゆつぢん氏直うぢなを伊豆いづ出馬しゆつば有てたゝかひの事

同九年二月。源勝頼駿河するが発向はつかうす。平氏直出陣しゆつぢんたゝかひの事

同十年三月十一日。信長公のぶながこう甲州かうしう発向はつかう。源勝頼めつばうの事

同年六月十八日。滝川左近将監たきかはさこんのしやうげん。上州前橋まえばしの城に有。北条氏直出馬しゆつば合戦し。滝川うちまけはいぼくの事

同十三年のなつ佐竹義宣さたけよしのぶ下野しもつけ出馬しゆつばし。太田和おほたわ陣取ぢんどり。北条氏直も出陣しゆつぢん藤岡ふぢをかにはたを立。四月より七月まで対陣たいぢんすといへども。両陣の間に。節所せつしよ有て合戦なりがたし。あつかひ有て。双方さうはう馬をおさむる事

同十八年の春。秀吉ひでよし公関東へ発向はつかう。同き三月廿九日。豆州とうしう山中のしろをせめおとす事

同年七月六日。小田原落城らくじやう。北条いへ滅亡めつばうの事

慶長けいちやう五年庚子かのへねの春。上杉中納言景勝かげかつ陸奥みちのくにをいて。鉾楯むじゆんす。家康公いへやすこう秀忠公ひでたゞこう。同七月廿日江城えじやうを御出陣しゆつぢん会津あいづ逆乱げきらんをおさめ給ふ事

同年七月の比ほひ。石田治部少輔三成いしだぢぶのせうゆみつなり謀叛むほん是によつて。家康公いへやすこう秀忠公ひでたゞこう出馬しゆつば。同九月十五日。美濃みのゝ国春野原の合戦に。関西くわんざいうちまけ滅亡めつばうの事

同十九甲寅きのへとらの年十月の比ほひ。秀頼公ひでよりこう将軍しやうぐん秀忠公ひでたゞこうたい鉾楯むじゆん。則秀忠公諸軍しよぐんそつせつ州大坂へ発向はつかうしろをせめ給ふ。秀頼ひでより降参かうさん身命しんみやう無事に有て。同き極月ごくげつ下旬げじゆん落城らくじやうの事

それ応永おうゑい二十三丙申ひのへさる年のみだれより以来このかた。慶長十九迄百九十六年の間。治世ちせいならず。関東諸国にをいて。合戦有つるよし聞といへどもたしかに語る人なし。され共予あらかじめ。聞及びたる。大合戦七十七度なり。其次第右の一ツ書を。三十二さつの内に。目録もくろくを上て。しるしはんべる。ていれば人かならず。わがおぼへを治定ぢぢやうとし。他説たせつなんずるはつねなり。いにしへよりしるしおきたる文共も。一様にあらず。許由きよゆうみゝをあらひ。巣父そうふうしを引と云伝る所に。逸士伝いつしでんにいはく。許由が物がたりを。巣父聞て耳をあらふ。樊仲父はんちうふといふ。朋友ほうゆううしを引としるせり。かくのごときの異説いせつ上て。かぞふべからず。扨又持氏滅亡めつばうより関東くわんとう乱国らんごくの儀を書をきたるふる小札せうさつ共を見るに一様ならず。老人らうじんあまたにたづねるに。せつおほしすべて。いづれを。じつとしいづれを。きよとせんゆへに。此物がたりにも。一人のうはさを二せつにしるす所もあり。しかしたゞわれふるき文を三ツ見て。二ぶんしやうとし。三人にたづね二人いふかたを。見聞抄けんぶんせう題号だいがうに。おうじしるしはんべるものなり

 
北条五代記巻第三