コンテンツにスキップ

北条五代記/巻第五

リンクを追加
75%（校正済み）
提供：Wikisource

北条五代記巻第五　目次

 
 
挿絵　　※サーバーの状態により挿絵が表示されない場合があります。


 
【オープンアクセス NDLJP:499】
 
北条五代記巻第五
 
 
 
聞しはむかし。尾州（びしう）織田（をだ）​（の）三郎信長（のぶなが）永禄（ゑいろく）年中京都へせめ上り。三好（みよし）修理亮（しゆりのすけ）を追討（ついたう）し。義兵（ぎへい）をあげ。天下に威（い）をふるひ。其上二位（ゐ）大納言（なごん）兼（けん）右（う）大将。平朝臣（たいらのあそん）信長公に任（にん）じ関西（くわんさい）をなびかし給ひ。天下掌（たなごゝろ）なれ共甲州（かうしう）武田（たけだ）​（の）四郎勝（かつ）頼敵たるによて。信長公天正十年の春（はる）甲州へ発向（はつかう）し給ひ。同三月十一日。勝頼（かつより）。太郎信勝（のぶかつ）父子をほろぼし。猛威（まうい）を遠近（えんきん）にふるひ給ひぬ。相州（さうしう）北条氏直（うぢなを）は。信長公と兼（かね）て一味。勝頼（かつより）とは敵対（てきたい）なれば。是によて信長（のぶなが）公手合として。駿州（しゆんしう）へ出馬（しゆつば）の所に勝頼方（かつよりがた）の城（しろ）高国寺（かうこくじ）。三牧橋（まいばし）両城（じやう）はあけ退（のき）ぬ。氏直は浮島原（うきしまがはら）吉原（よしはら）にはたを立。富士（ふじ）のすそ野。近里遠村（ゑんそん）を放火（はうくあ）し。帰陣（きぢん）せり扨又勝頼（かつより）に一味（み）する。西上州の侍（さふらひ）共。此いきほひにをそれ。皆落髪（らくはつ）入道（にふだう）し。すみそめの衣をき。甲州（かうしう）へ参じ。降（かう）人と成（なつ）て。信長公へ出仕（しゆつし）す。然ば氏直名代（みやうだい）として。北条陸奥守（むつのかみ）氏照（うぢてる）。甲州へ参着（さんちやく）す。大鷹（たか）三十聡（もと）。馬五十疋（ぴき）を進上す。信長公陸奥守に対面（たいめん）有て。陸奥守やがて帰国せり。信長公は甲州より引退し。近江（あふみ）安土（あづち）の居城（ゐじやう）へ。馬をおさめ給ひぬ西（にし）上州仕置（しおき）として。滝川（たきかは）左近将監（さこんしやうげん）一益（ます）をさしつかはさる。其上関東官領（くわんれい）職（しよく）にふせられ。奥州（おうしう）までも手柄（てがら）しだひ。切取べき命旨（めいし）を請。滝川信（しん）州小室（をむろ）へ着（つき）。それより上州箕輪（みのわ）へうつり。其後同国前橋（まへばし）の城（しろ）に有て。近隣（きんりん）の侍（さふらひ）共を。わが旗下になす。倉賀野淡路守（くらがのあはぢのかみ）。内藤大和（やまと）守。小幡上野（をばたかうづけ）​（の）守。由良信濃守（ゆらしなのゝかみ）。安中左近（あんなかさこん）大夫。深谷（ふかや）左兵衛尉。成田下野（なりたしもつけ）守。うへ田安徳斎（あんとくさい）。高（たか）山遠江守（とをたうみ）。木辺宮内（きべくない）太輔。長尾（ながを）新五郎。皆もつて滝川（たきかは）が下知（げち）にしたがふ。此等の者の人じちを取て。箕輪（みのわ）の城（しろ）に入をく。其いきほひのいかめしさ。狐（きつね）が虎（とら）の威（い）をかるがごとし。然所に信長（のぶなが）公。信忠（たゞ）卿（きやう）父子（ふし）京都にをいて。同年六月二日。明智日向守（あけちひうがのかみ）光秀（みつひで）がために。ころされ給ひぬ。此よし上州へ告（つげ）来る滝川（たきかは）聞て。おどろきしが。智謀（ちぼう）武略（ぶりやく）の者にて。上州の侍（さふらひ）共は。いまだ此義をしらざれば。近辺（きんぺん）の諸さふらひを。急（いそ）ぎ招（まねき）よせ。滝川（たきかは）云けるは。当月二日信長（のぶなが）公父子（ふし）。京都にをいて。明智（あけち）日向守がために討（うた）れ給ひぬ。滝川京都へせめ上り。主君（しゆくん）をとふらひ合戦（かつせん）し。日向守を討（うち）ほろぼさん望み有と云うも。西国には羽柴筑前（はしばちくでん）〈［＃ルビ「ちくでん」はママ］〉守秀吉（ひでよし）あり。柴田修理（しばたしゆり）の亮（すけ）勝家（かついへ）。加賀（かゞ）ゑちせんに有て。隣国（りんごく）なれば討（うつ）て上るべし。其上中将（ちうじやう）殿。三七殿ましませば。いづれかはせ参じ。かれをうたん事安（やす）かるべし。然ば北条氏直（なを）。此義を聞。上州へ出馬（しゆつば）すべし。ねがはくはわれ氏直と合戦（かつせん）すべし。上州諸侍一味（み）有べきか。きかんいなやと云。上州衆（しゆ）此よしを聞。滝川此一大事（じ）を聞あへず。しらする事。義を守（まも）り節（せつ）ををもくする大将なりと。をの〳〵感じたり。此ぎ異儀に及（およ）ばゝ渡しをく所の。人じち滝川がために。害（がい）せらるべし。以後は兎（と）も角（かく）もあれ。一味せずんば叶（かな）ふべからずと。をの【オープンアクセス NDLJP:500】〳〵一同（どう）す。滝（たき）川此よしを聞。望（のぞ）みたんぬと喜悦（きゑつ）の思ひをなしていはく。氏直大軍（ぐん）にて。よせ来るといへ共。合戦（かつせん）のならひ。多勢（たせい）小（せう）勢によらず。勝負（せうぶ）を決（けつ）する事は士卒（しそつ）の心ざしを。一つにするにあり。其上一方にたゝかひ決（けつ）し。万方（ばんはう）に勝（かつ）事をうるは。武略（ぶりやく）のなす所。ひとへに天運（うん）を守り。名をおもくし。死をかろくするをもて。義（ぎ）とせり。此度待（まち）いくさに至ては。敵（てき）に気をのまれ。みかたをくするに似（に）たるか。滝川小田原へ使者（ししや）をたて。申されけるは。当月二日。信長（のぶなが）公京都にをいて。明智日向（あけちひうが）が為（ため）に討（うた）れ給ひぬ。是によて。滝川京都へ上り。惟任（これたう）を討（うた）んのぞみあり。前橋の居城（ゐじやう）を。あけ渡すべし。急（いそ）ぎ来て請（うけ）取らるべしと。武州（ぶしう）鉢形（はちかた）の城主（しろぬし）。北条安房守（あはのかみ）氏邦（うぢくに）所へ。使者（しゝや）を遣（つかは）すあはの守（かみ）此よしを聞。扨は滝（たき）川上がたへ。にげ行（ゆく）と覚へたり。西（なし）上州をばわれ一人して切（きつ）てとらんと。たなごゝろににぎり。氏直出馬（しゆつば）をもまたず。前陣（ぢん）にすゝみ。上武（かうぶ）のさかひ。かんな川を越（こし）かなくぼまでをしよする。氏直此由（よし）聞あへず。小田原を打立。先陣（せんぢん）は。富田（とみ）。石神辺（いしがみへん）に陳（ぢん）し氏直は。安房（あは）が陣場（ぢんば）二里（り）こなた。本庄（ほんじやう）に旗（はた）を立。後陣（ごぢん）は。深谷（ふかや）。熊谷（くまがへ）に着（つき）ぬ。然に滝川左近将監（たきかはさこんのしやうげん）は。くらか野の方に有て。後陣（ごぢん）也西上州衆は。前陣（ぜんぢん）にこと〳〵くそなへり。安房守（あはのかみ）無勢（ぶぜい）を見て。氏直はいまだ出馬なし。あはの守（かみ）が一手ばかりは。物の数（かず）ならず。いざ打ちらさんと。一同（どう）しおなじき六月十八日の巳の刻に至て。合戦す。既（すで）に上州衆切勝。あはの守（かみ）敗北（はいぼく）し。二百人程討（うた）れ。みかたの陣（ぢん）へ乱（みだ）れ入。上州衆初合戦（はつかつせん）にうち勝（かち）。いきをひける所に。氏直是を見給ひ。一戦をもよほし。かなくぼへをしよする。軍勢（ぐんぜい）じうまんする事雲霞（うんか）のごとし。上州衆（しゆ）大軍を見て。肝（きも）をけし重（かさね）てたゝかふべき事。蟷螂（たうらう）が斧（をの）。かなふべからず。皆々（みな〳〵）居城（ゐじやう）へ引退（ひきしりぞ）くべき体（てい）あらはせり。滝川（たきかは）是を見るといへ共。さあらぬ体にて云けるは。前陣（せんぢん）の合戦（かつせん）に。上州衆切勝（きりかつ）事。其ほまれ天下に比類（ひるい）有べからず。此度の合戦にをいては。滝川前陣（せんぢん）仕べし。上州衆は後陣につゞくべしと云すて。くらか野のかたより打立。其勢津田（せいつだ）次右衛門尉。舎弟（しやてい）五郎。同理助。滝川義太夫。富田（とみた）喜太郎。槙野（まきの）伝蔵。谷崎（たにさき）忠右衛門尉。栗田（くりた）金右衛門尉。壁野（へきの）文左衛門。岩田市右衛門尉。同平三。太田五右衛門尉。稲田（いなだ）九蔵。津田小平次。手勢（てぜい）三千余騎にはすぎず。玉村（たまむら）かなくぼの方へはせむかふ。滝川馬じるしは。金の三ツだんご也。是を正先（まつさき）に立。大敵（てき）をあざむきしは。光武（くわうぶ）が心を移（うつ）しえたる。猛強（まうきやう）の大将也。滝川鴇毛（つきげ）の馬に乗（のり）。ざいをはひちにかけ。鑓（やり）をつ取て先（さき）にすゝみ。かゝれ〳〵と士卒をいさめて下知（げち）をなす。滝川か家老（からう）。篠岡（さゝをか）平右衛門尉。前登（ぜんとう）にすゝむ。かれかさし物は篠（さゝ）也。其家中（かちう）の者共皆篠（さゝ）をしるしにさす。滝川が人数たゞ一まとゐに成て。馬のくつばみをならべ。氏直数万騎（すまんぎ）はせむかふ所へ。ましぐらに。面もふらず切てかゝる。氏直先手には松田尾張守入道（をはりのかみにうだう）。大道寺（だうじ）するがの守。遠（とを）山ぶぜんの守。はがいよの守。山角（かど）かうづけの守（かみ）。同紀伊（きい）​（の）守。ふく島（しま）いがの守。依田（よだ）大膳（ぜん）。南条（なんでう）山城（しろ）​（の）守。清水（しみづ）太郎左衛門尉。いせ備（びつ）中守。松田肥後（ひご）​（の）守等（ら）切てかゝる。追（おつ）つ。まくつつ。首（くび）を取つとられつ。【オープンアクセス NDLJP:501】半時（じ）たゝかひしが。滝川すでに討負（うちまけ）はいぐんす。勝（かつ）に乗（のつ）て。いきほひ。追かけ切ふせ。つき臥。二千余人討取（うつとり）たり。上州衆は滝川にもかまはず。をのれ〳〵が居城（ゐじやう）へ引（ひい）て入。滝川其夜は。箕輪にとゞまり。残党（ざんたう）をあつめ。酒宴（しゆゑん）し。鼓（つゞみ）をならし。滝川（たきかは）扇（あふぎ）を取て舞（まひ）たるとかや。暁天（けうてん）いまだ明（あけ）ざるより。箕輪（みのわ）を打立（うちたち）。人じち共を先（さき）に立。小室（むり）臼井（うすゐ）より皆返し。きそ路（ぢ）を越（こえ）て。いせの国いにしへの領知（りやうち）。かろと島（じま）とかやに着（つき）ぬ。多勢（せい）に無（ぶ）勢。かなひがたき所に。義ををもんじ。命（いのち）をかろんじ。一合戦（かつせん）し。始終（しゞう）をよくおさめたると。皆人感（かん）ぜり
 
 
見しはむかし。さがみ小田原北条家（け）諸侍（しよさふらひ）。仁義礼智信（じんぎれいちしん）を専（もつぱら）とし。形義作法（ぎやうぎさはふ）たゞしく。源平藤橋（げんぺいとうきつ）の。四姓（しやう）を。かしらとし。八十氏（やそうぢ）の旧流（きうりう）をくんで。天下にをいていやしからず。然に宿因（しゆくゐん）をかんじて。果（くわ）をなす所。高下（かうげ）ことなりといへ共。我々の分限（ぶんげん）を知（しつ）て。上を敬（うやま）ひ下を憐（あはれ）み。仁義（じんぎ）を本とせり。殊（こと）にもて弓馬（きうば）の学（まな）び。をこたる事なし。立春（りつしゆん）には氏直公。正月七日御弓場（ゆば）にをいて。御弓（ゆみ）はじめあり。鈴木（すゞき）大学頭（がくのかみ）を前（さき）とし。射手（いて）の衆（しう）参候（さんかう）す。八日に鉄砲（てつぱう）はじめ。両日御前（まへ）にて。をの〳〵武芸（ふげい）をあらはす。扨又御犬（いぬ）の馬場（ばゞ）と号（がう）し。長さ五十間（けん）。よこ三十間程。犬追（いぬをふ）物の馬場（ばゞ）あり。射手（いて）はゑぼし直垂（ひたゝれ）を着（ちやく）し。馬に乗（のり）。犬は二十疋（ぴき）三十疋をはなす。射手（いて）は爰をはれと。矢数（やかず）をあらそふ。小笠原（をがさはら）はりまの守（かみ）。是を執行（しゆぎやう）す。大学（がく）に一家仁（かじん）なるときんば。一国仁をおこすといへるがごとく。氏直仁をもつはらとし給へば。諸侍（しよさふらひ）仁をおこなふ。仁者は山をたのしむといひて。山ははたらかずじねんに。しづかに有て。草木万物（さうもくばんもつ）生（しやう）ずるがごとし。かるがゆへに。仁（じん）は五常（じやう）のはじめにして。義礼智信（ぎれいちしん）の四ツは。仁の内にあり。然に関東諸侍（しよさふらひ）。常（つね）に礼義（れいぎ）をみださず。敵（てき）みかたによらず。大名（みやう）たる人をば。常の物語にも。口きたなくはいはず。未聞（みもん）不見（ぶけん）の人にあふといふ共。道路（だうろ）の辻（つじ）。山野花月（さんやくわげつ）の遊興（ゆうけう）。あるひは有智（うち）の高僧（かうそう）。あるひは上臈（らう）少人（せうじん）。神社（じんじや）仏寺（ぶつじ）等（とう）の前（まへ）にては。かならず下馬（げば）をなし。其くらゐ〳〵にしたがつて。礼義其様厳重（げんぢう）に有て。跼蹐（きよくせき）の礼。終日（ひめもす）をこたらず。君臣（くんしん）の礼いよ〳〵をもんし給へり諸（しよ）侍の形義異様（ぎやうぎいやう）に候ひし。上下（かみしも）の。ひだのためよう。衣紋（ゑもん）のりきやうに至迄（いたるまで）も。小田原やうとて。皆人まなべり。常（つね）の放言（はうげん）にも。賢臣（けんじん）二君（くん）に仕（つか）へず。黒色（こくしき）へんぜざるをもて。鉄漿（かね）とすといひて。侍たる人は。老若（らうんやく）共に。歯黒（はぐろ）をし給ひぬ。歯海経（はかいきやう）に云。東海（とうかい）黒歯国（こくしこく）有。其俗婦人。歯こと〴〵くくろくそむ。今あんずるに。日本東海中（とうかいちう）国ゆへ。是を訓（をしゆ）と云々。昔（むかし）関東（くわんとう）。敵（てき）みかた合戦（かつせん）し。首（くび）じつけんの時。はぐろの首（くび）をば。侍の首とて。先上（まづかみ）へ懸（かけ）たり。故（ゆへ）に戦場（せんぢやう）へ出るには。討死（うちじに）を心がけ。揚枝（やうじ）をつかひ。はぐろをもつぱらとせり。いにしへの実盛（さねもり）は。びん髯（ひげ）を墨（すみ）にそめ。小田原北条家（け）の侍（さふらひ）は。はぐろをす。古今（ここん）ことなれ共。其心ざしはおなしき者（もの）なり。扨又げつじきと名付て。木をもて。【オープンアクセス NDLJP:502】大きに木ばさみを作り。其げつじきにて。かしら毛（け）をぬき。又鬢（びん）の毛（け）のあひだをぬきすかし。皮肉（ひにく）の見ゆる程にして。髪（かみ）をばびなんせきにて。びんを高く。つけあげ給へり。若殿原達（わかとのばらたち）は。髪さきをもみふさのごとくにゆひ。又つけがみとて。別（べつ）にかみさきをこしらへ。うらをもみ。ちゞみをよせて。花ふさなどのごとくに作り。付髪（つけがみ）してゆひ。衣裳（いしやう）をきるには。のけゑもんと名付て。けたかく引（ひき）つくろひ。ゑりをせなかの中ぼね。四のゆまでのけて。膏盲（かうくわう）の灸（やいよ）の見ゆる程に着（ちやく）し。はかまの前を。むなだかに。うしろごしをあげてき給ふ。其程に後（うしろ）のゑもんつきと。はかまごしの間。五寸六寸程有し也。廿四五年以前（いぜん）までは。関東（くわんとう）諸侍（しよさふらひ）の形体（ぎやうてい）。風俗（ふうぞく）叮寧（ていねい）に。かくこそ有つれと。今の若（わか）き衆（しゆ）に。物語なせば。若き衆聞て。礼義（れいぎ）の事はさもこそあらめ。昔（むかし）関東侍の形義（ぎやうぎ）。聞さへおかしきに。今見るならば。いかにと云て笑（わら）ふ。実見なれし愚老（ぐらう）も。今見るならば。さもやあらん。何事も其時の。風俗（ふうぞく）をまなびてよかるべし
 
 
聞しはむかし。さがみ北条氏康（やす）と。安房（あは）里見（さとみ）義（よし）ひろたゝかひあり。然に太田（おほた）みのゝ守（かみ）。武州（ぶしう）岩付（いはつき）に有て。謀叛（むほん）をくはだて。義弘（よしひろ）と一味（み）するによつて。義弘義高（よしたか）父子（ふし）。下総（しもふさ）の国へ発向（はつかう）し。高野台（かうのだい）近辺（きんぺん）に陣（ぢん）をはる。この高野台。ふるき文（ふみ）には国府台（こくふのだい）。国府代（こくぶのだい）。鴻岱（こうのだい）共書（かき）たり。今所の者にとへば。高野台と書といふ。見れば字面（じめん）にあふたる。たかき台（だい）也。武州（ぶしう）江戸より北条がた。遠（とを）山丹波守（たんばのかみ）。富永（とみなが）三郎左衛門尉。はせ参じ。からめきの川を前（まへ）にへだてゝ。そなへたり下総（しもふさ）小金（こがね）より。高木治部少輔（たかぎじぶのせうゆう）出向（いでむかつ）てぞさゝへける。此由（よし）小田原へ告（つげ）来るによつて。小田原の城（しろ）留主居（るすゐ）として。北条幻庵（げんあん）。松田（まつだ）おわりの守（かみ）。石巻下野（いしまきしもつけ）​（の）守をかしらとし。残し置。時日（じゞつ）をうつさず氏康（やす）。氏政（まさ）父子出馬（しゆつば）し。高野台（かうのだい）を。中にへだて。相向（むかつ）て陣取（ぢんどり）。かゝりし所に。義弘（よしひろ）夜中に。こと〴〵く引（ひき）しりぞく由。告（つげ）来るによつて。氏康先手（さきて）の衆。がらめきの瀬（せ）を取こし。敵（てき）は高野台（かうのだい）を。二里（り）ほど引て。そなへたり。味方（みかた）は是をしらず。遠（とを）山。富永（とみなが）人数（にんじゆ）。台（だい）へ取あがる。すでに敵。待うけたるいくさなれば。きほひかゝつて。たがひに死（し）をあらそひ。たゝかふ敵（てき）がたに。正木（まさき）大膳（ぜん）ざいをふつて。正先（まつさき）にすゝみ惣手（そうて）をみだし。切てかゝる。みかたくづれ坂（ざか）中にて。遠（とを）山丹波守（たんばのかみ）。ふし富永（とみなが）三郎左衛門尉。山角（かど）四郎左衛門尉。太田（おほた）ゑちぜんの守（かみ）。中条（でう）出羽（では）​（の）守。河村（かはむら）修理亮（しゆりのすけ）をはじめ百余騎（よき）うたれ。はいぐんす。氏政（まさ）旗本（はたもと）二陣に有て。下知（げち）して云。敵かつに乗（のつ）て。長途（ちやうと）をすぐ。是を討（うつ）べしと。囲扇（うちは）をあげ給へば。命（めい）は義（ぎ）によつて軽（かろ）し。面（おもて）をふらず。一足（あし）もひかず。まつしぐらに責（せめ）かゝる。すでに切（きり）くづし。敵（てき）を追返（をひかえ）し。首（くび）四五十討捕（うちとり）本陣（ほんぢん）に旗（はた）を立られたり。大軍（ぐん）の威敵（いてき）を。氏政はた本（もと）計（ばかり）にて。切かち給ふ事。前代未聞（ぜんだいみもん）の猛（まう）大将と。諸卒（しよそつ）感（かん）じたり。氏康（やす）は後陣（ごぢん）にて。此義を知給はず。氏康諸老（しよらう）を召（めし）あつめていはく。遠（とを）山。富永（とみなが）をうたせ。無念（むねん）【オープンアクセス NDLJP:503】やむ事なし。時（じ）日をうつさず。一戦（せん）をとぐべしと。評諚（へうぢやう）とり〳〵也。氏政仰けるは。先場（せんぢやう）のたかひに。みかた敵を切（きり）くづし。敗北（はいぼく）する時に至て。我郎従（らうじう）二人。敵にまぎれ入。陣（ぢん）中を見て来れと。遣（つかは）す所に二人見届（とゞけ）かへりて申は。敵（てき）先陣（ぢん）のたゝかひに遠（とを）山。富永（とみなが）を討取（うちとる）。其いきほひに。高野台（かうのだい）へこと〴〵く取あがり。諸勢（しよぜい）入乱（みだれ）酒宴（しゆゑん）し。千秋万歳（せんしうばんぜい）をうたひ。一手（て）づゝに引分（ひきわけ）て。備（そな）へべき。覚悟（かくご）もなく。かたきよせ来らん事をもわきまへず。主（しう）は従（じう）を尋（たづね）。従者（じうしや）は主（しゆ）人の有所（ありか）をもしらず。軍法（ぐんはふ）のてだては。かつてなく。算（さん）をみだしたる体（てい）たらく。是義弘（よしひろ）が運（うん）の末（すゑ）。わざはひをまねくにあらずや。みかた急（きう）によせかくるに至ては。敵（てき）の前勢（ぜんせい）は。台（だい）をおりて向（むか）ふべし。次（つぎ）の勢（せい）は半（なかば）に立。後（あと）勢は台に残り。三所に有て。前士（ぜんし）のたゝかひを。跡の士卒（しそつ）ら。見物するより外（ほか）の事有べからず。前（さき）一手（て）は蟷螂（たうらう）が斧（をの）。かれを切（きつ）くづすに至ては。跡は猶（なを）しかならん。今度の合戦（かつせん）にをいても。氏政（まさ）前陣（ぜんぢん）といへり。氏康かさねていはく。今朝（けさ）辰（たつ）の刻（こく）のたゝかひをかんがふるに。敵（てき）は東方（ほうはう）に陣（ぢん）し。出（いづ）る日の光（ひかり）をかゞやかす所に。みかた西（にし）より向（むかつ）て。釼光（けんくわう）をあらそふ事。是孤虚（こきよ）のわきまへあらざるがゆへ。遠（とを）山富永（とみなが）勝利（せうり）をうしなひたるなり。然に今はや未（ひつじ）の刻（こく）を過（すぎ）。東敵（とうてき）は入日にして。みかたの後陣（ごぢん）に影（かげ）きへぬ。時のうらなひ吉事（きちじ）をえたり。其上当（たう）年は甲子（きのえね）なり。甲子は殷（いん）の紂（ちう）が。ほろぼされ。武王（ぶわう）は勝（かて）る年也。義弘（よしひろ）は紂（ちう）に同意（どうい）し。氏康（やす）は武王（わう）に比して。かれを討（うた）ん。しかのみならず。先祖（せんぞ）の吉例（きちれい）多（おほ）し早雲（さううん）氏茂（しげ）。永（ゑい）正元年甲子（きのえね）。九月武州（ぶしう）立河原（かはら）にをいて。上杉民部太輔（みんぶのたゆう）顕定（あきさだ）と合戦し。討勝（うちかち）て顕定敗（はい）ぼくす。随（したがつ）て父（ちゝ）氏綱（うぢつな）〈［＃「氏綱」は底本では「氏網」］〉。大永四年甲申（きのえさる）。正月十三日武州江戸にをいて。上杉修理（しゆり）大夫朝興（ともおき）と合戦し討勝（うちかち）て。ともおきを追討（ついたう）す。就中（なかんづく）今年（こねん）今月は。甲子（きのえね）。正月八日に当（あた）る。吉例（きちれい）なり。扨又氏綱（つな）〈［＃「綱」は底本では「網」］〉天文七戊（つちのえ）いぬ十月七日。この高野台（かうのだい）に至て。小弓（をゆみ）の御所（ごしよ）。義明（よしあきら）と。一戦（せん）討勝（うちかち）て。よしあきらをほろぼす。はなはだもて。戦（たゝか）ひの場（ば）所かはらず。いかでか先例を。たのまざらん。あまつさへ孤虚支干（こきよしかん）。相応（さうおう）する事。われに天のくみする所なり。時刻（じこく）うつすべからず。無（む）二に一戦（せん）に治定（ぢぢやう）す。然に台（だい）より。東北（とうほく）は節所（せつしよ）にて。寄（より）所悪（あし）し。諸勢（しよせい）を二手に分（わけ）。両旗本（はたもと）前陣（せんぢん）なり。氏政（まさ）軍兵（ぐんびやう）を率（そつ）し。台より南三里下（した）へ打廻（まは）り。台を取まき。敵（てき）をもらさず。討捕（うちとる）べきてだてなり。折節露立（かすみ）。台へ近く取よるといへ共。敵は是をしらず。義弘（よしひろ）下知（げち）していはく。今朝（けさ）辰（たつ）の刻の合戦（かつせん）。思ふまゝに勝利（せうり）をえたり、富永（とみなが）遠（とを）山は。安房（あは）上総（かづさ）のかつせんに。何時も先陣（せんぢん）にさゝれたる両大将を。討（うつ）取ければ。敵はをくれを取。前陣のそなへは。さぞ引しりぞきぬらん。暁天（けうてん）に。からめきの瀬（せ）を取こし。此いきほひに。あす又一合戦（かつせん）し。こと〳〵く討ほろぼさん事手のうちにありと。触（ふれ）らるゝ。日もくれかゝり。小雨（こさめ）そゝぎければ。すこしつかれを休（やす）めん為。よろひを脱（ぬぎ）馬に水草かひ。明日の合戦（かつせん）を心がけ。今を油断（ゆだん）するこそ。運命（うんめい）つくる。時刻（じこく）到来（とうらい）なれ。比は永禄（えいろく）七年。甲子（きのえね）正月八日。申（さる）の刻（こく）に至て。氏政（うぢまさ）軍兵（ぐんびやう）近々とをしよせ。鯨波（ときのこえ）をどつとあぐる。氏康（やす）は直（ぢき）にせめかゝり。又鬨音（ときのこゑ）を二所にあげ。【オープンアクセス NDLJP:504】おめきさけんで。責（せめ）かゝる。義弘（よしひろ）案外（あんぐあい）の仕合（しあはせ）とおどろき。台（だい）を折下（おりくだつ）て鬨音（ときのこゑ）をあわせ。両方へ分（わけ）て。せめたゝかふ。鉄砲（てつぱう）矢（や）さけびの音（をと）。天地をひゞかし。首をとつつ。とられつ。血（ち）けぶりを出し。半時（はんぢ）は勝負（せうぶ）も見えざりしが。つゐには義弘（よしひろ）討（うち）まけ。こと〳〵くはいぼくす。つき臥切（ふせきり）臥。追討（ついたう）する事。将棊（しやうぎ）だをしにことならず。敵方（てきがた）討死（うちゞに）の衆。正木弾正（まさきだんじやう）左衛門尉父子（ふし）。勝（かち）山豊前守（ぶぜんのかみ）父子。秋末（あきずゑ）しやうげん。里見民部少輔（さとみゝんぶせうゆう）。同兵衛尉。正木左近（まさきさこん）大夫。次男平六。平七。菅野神（すがのやじん）五郎。加藤左馬丞（かとうさまのせう）〈［＃「丞」は底本では「亟」］〉父子（ふし）。長南（なん）七郎。鳥井信濃守（とりゐしなのゝかみ）父子。佐貫（さぬき）いがの守（かみ）。多賀（たが）越後（ゑちご）をはじめ。五千余騎（よき）討（うつ）取たり。上総（かづさ）の国しゐつ。ゑのもと。とねり。わだ。此外城々（しろ〳〵）。此いきほひに。皆（みな）こと〴〵く。城をひらき落（おち）行ぬ。此度の合戦（かつせん）は。氏康氏政（まさ）両はたもとにて切勝（きりかち）たり。北条新三郎。河越（かはごえ）よりはせ来り。粉骨（ふんこつ）を尽（つく）す。同源三同上総守（かづさのかみ）父子氏康（やす）末子（ばつし）助五郎。新太郎若輩（じやくはい）たりといへ共。比類（ひるい）なき走（はしり）めぐり。諸侍の忠節（せつ）あげて記（しる）しがたし。右の趣（おもむき）は氏康（うぢやす）より合戦（かつせん）の翌日（よくじつ）。小田原城代（じやうだい）。伯父（はくふ）幻庵（げんあん）へ。一戦始中終（せんしちうじう）をかきのせつかはさる状の。文言をうつし侍る者也。太田みのゝ守（かみ）は。二百騎（き）斗にて。はせ参じ舎人（とねり）村上（むらかみ）をはじめ。一人も残らず討（うた）れ太美（おほみ）は二ケ所。手負（ておひ）東（ひがし）をさして。迯（にげ）行ぬ。其節（せつ）の落書（らくしよ）に

よしひろく。たのむ弓矢（ゆみや）の岩（いは）つきて。からき浮（うき）めに。太田（おほた）美濃（みの）はて

とぞよみたる。氏康（うぢやす）いはく此度の合戦に累年（るいねん）の宿望（しゆくもう）を達す。然に謀叛（むほん）の張本（ちやうぼん）人。太田美濃守を。討（うち）もらす事。無念（むねん）千万義弘（よしひろ）は。討死（うちじに）のさた有といへ共。首（くび）いまだ来らずと件（くだん）の状に記せり。然処に義弘（よしひろ）。馬はなれ給ひけるに。安西伊予守（あんざいゝよのかみ）。馬より飛（とん）でおり。義弘をのせ。主従（しう〴〵）二人。かづさ山へぞ分（わけ）入たる。はなれ馬をば。落（おち）人見付乗て行たり。義弘の乗馬を見て。やかた討死（うちじに）。必定（ひつぢやう）のさた有ければ。房州（ばうしう）討もらされの侍（さふらひ）共。主君（しゆくん）を討（うた）せ。生（いき）がひ有べからずと。にげ行道すがらの寺々へ尋（たづ）ね寄（よつ）て。皆出家（しゆつけ）し。一人も入道（にうだう）せぬはなかりけり。義弘（よしひろ）三日すぎ。かづさ山を分出。房州へ帰城（きじやう）し給ひぬ。氏康（うぢやす）高野台（かうのだい）にはたを立（たて）

敵（てき）をうつ。心まゝなる高野台。夕詠（ゆふながめ）してかつ浦（うら）の里

とよめり。合戦（かつせん）ことに狂歌（きやうか）を記（しる）し侍（はんべ）る皆（みな）是氏康氏政興して。よみ給へるによて。皆人覚へたり爰（こゝ）に里（さと）見ゑちぜんの守忠弘（たゞひろ）の息（そく）に。長九郎弘次（ひろつぐ）とて。生年十五歳（さい）ういぢんなりしが。鴇毛（つきげ）の駒（こま）に乗（のり）。ほろをかけ。弓持（ゆみもち）てたゞ一騎。はるかに落行（おちゆき）をさがみの国の住人。松田左京亮（すけ）康吉（やすよし）。是を見て。あつぱれ大将たり。うどんげと。馬にむちうて。追（をつ）かけをしならべて。むずとくんで落（おち）たり。康吉剛者（がうのもの）成ければ。物の数（かず）共せず。くみふせ首（くび）をとらんとせしが。ようがんびれいにして。花のごときの少（せう）人なり。争（いかで）か刀（かたな）をたてん。たすけばやと思ひけるにみかた雲霞（うんか）にはせ来て。首（くび）をうばひとらんとす。力（ちから）をよばず。首討（くびうち）おとし。さすがにたけき康吉（やすよし）も。涙（なみだ）にくれて。前後（ぜんご）に迷（まよ）ふ。倩（つら〳〵）思ひけるは。我（われ）かゝるうき目に逢（あふ）事。弓箭（きせん）に携（たづさは）るが故也。百年の栄耀（ゑいよう）も。風前（ふうぜん）【オープンアクセス NDLJP:505】の塵（ちり）。一念（ねん）の発心（ほつしん）は命後（めいご）のともしびとす。をよそ三界（かい）の輪廻（りんゑ）。四生（しやう）皆（みな）是無明（むみやう）の眠（ねぶり）の中の。妄想（まうそう）の夢（ゆめ）ぞかし。此度の仕合こそ。発（ほつ）心の種（たね）〈［＃「種」は底本では「程」］〉ならめと。帰国（きこく）に及ばず。山寺へ入。出家（しゆつけ）し。浮世（ふせい）と改名（かいみやう）し。すみ染（ぞめ）の衣（ころも）に身をまとひ。一筋（すじ）に里見（さとみ）長九郎弘次（ひろつぐ）の跡（あと）をとふ。皆人是を見て。それ道心（だうしん）を発（おこ）すといふは。世の中の常（つね）なきことわりを知（しつ）て。名利（みやうり）を捨（すつ）る心よりおこる。あしたには。くれないのかほばせ有といへ共。ゆふべには白骨（はつこつ）となる。よろづ心にまかせぬ。あだなる世を観（くわん）ずるが故也古今集（ここんしう）に

世のうきめ。見へぬ山路（ぢ）にいらんには。思ふ人こそほだしなりけれ

とよみしに。家（いへ）をすて。妻子（さいし）をすて世をのがれ。山に入康吉（やすよし）が心ざし感（かん）ぜり。むかしくまがへの次郎直実（なをざね）。あつもりを討（うつ）て。穢土（ゑど）のならひかなしび。世をのがればやと思ひ。西国（さいこく）のいくさしづまり。黒谷（くろたに）法然（はふねん）上人の御弟子（でし）となり。入道（だう）し連生坊（れんしやうばう）と名付たり。今又康吉（やすよし）が弘次（ひろつぐ）を討て。出家（しゆつけ）遁世（とんせい）する事。時かはり人ことなれども。其心ざしはをなじ。やさしかりけりと人皆いへり

 
 
聞しは今。愚老（ぐらう）伊豆（いづ）の国。下田と云在所（ざいしよ）へ行（ゆき）たりけるに里（さと）人語（かたり）しは是より南海（なんかい）はるかにへだて。八丈島あり此島は日本の地（ち）よりも唐国（からこく）へ近く覚（おぼ）へたり。それいかにと云に。雲しづかなる時分。此島より見れば。唐（から）国に当（あた）り定（さだまつ）て雲たなびく山あり。是から国より別（へち）に有べからず。然共此島をもろこしにては。いまだしらず。北条早雲の時代。関東より此島を見出し。伊豆の国の内に入たり。北条氏直公時代（じだい）までは。三年に一度（ど）。伊豆の国下田より。渡海（とかい）あるに。大船（せん）に水手（かこ）を。すぐり取のせて。秋北風（ほくふう）に此島へわたる年貢（ねんぐ）には。上々の絹（きぬ）を納（おさむ）ると。くわしく語（かた）る所に。村田（むらた）久兵衛と云者（もの）いひけるは。我先年八丈島へわたりしが。今にをいて此鳥なつかしく。夢（ゆめ）まぼろしに立そひ。忘れがたし。存命（ぞんめい）の中に今一度（ど）此島へ。わたらばやと。仏神（ぶつしん）へいのれ共かひなしといふ。我聞てむかし治承（ちせう）の比。俊寛僧都（しゆんくわんそうづ）。康頼（やすより）入道（だう）。丹波少（たんばのしやう）将三人。鬼海（きかい）が島へながされし事。古（ふる）き文（ふみ）にみえたり。此嶋の男女の有様。髪（かみ）をけづらずゆひもせず。つくものごとく。かしらにつかね。いたゞき。色黒（くろ）く眼（まなこ）ひかり。山田に立るかゞしに似たり。畑（はた）をうたざれば。米穀（べいこく）のたぐひもなし。薗（その）の桑葉（くわば）をとらざれば絹布（けんふ）の衣服（いふく）もあらばこそ。木の皮（かは）をはぎて身にまとひ。こゑは雷（らい）のごとく。すさまじくして。いふとはりも聞しらず。昔（むかし）鬼（おに）がすみければ。鬼海（きかい）が島と名付。さて又硫黄（ゐわう）有ゆへに。ゐわうが島共いへりされ共日本近（ちか）きにや。つり舟（ふね）も行。ゐわうもとめに商人（あきびと）の舟も行と聞。此八丈は卅の渡海（とかい）。まれなる島（しま）なれば。いかなる夷（ゑびす）畜生（ちくしやう）の栖（すみか）といひしに。此島なつかしく恋（こひ）しきとは。いふぞと云てわらひければ。久兵衛聞て。我主（わがしう）板部岡（いたべをか）江雪入道（がうせつにふだう）ば。元来（ぐわんらい）いづの下田（しもた）の郷（がう）の真言（しんごん）坊主（ばうず）也。能筆（のふひつ）ゆへ。氏直公へめし出され。右筆（ゆうひつ）【オープンアクセス NDLJP:506】に召つかはれたり。是により伊豆（いづ）島々の事を。よくしられたり。故に伊豆七島のさし引を仰付られ。一年江雪斎（がうせつさい）。八丈島（じやうじま）仕置として。渡海（とかい）の時節（じせつ）供して渡りたり。此島の事あらかじめ物語をば聞しかど。人の語（かた）る様（やう）にはよもあらじと思ひしに。女房（にばう）色白く。髪ながふして黒（くろ）し。形（かたち）たぐひなふ。手足瓜（てあしつま）はづれ。いとやさしくかほばせ口つきあひ〳〵しく。上々の絹（きぬ）をかさね着（き）て。立居ふるまひ尋常（じんじやう）に愛敬（あいきやう）有てむつまじさを。一同見しより扨も我此島に来り。かゝる美女（びぢよ）にあふ事。いかるな神仏（かみほとけ）の御引あわせぞやと我身をかへり見るに。色（いろ）くろく有てすがた賤（いや）しく。衣類（るい）までも見ぐるしければ。ならびて居（ゐ）るもはづかしさに。昔男（むかしをとこ）のなりひら。かほる中将の身とも生（むま）れかはり。此女房と契（ちぎ）りをむすび。天にあらば。比翼（ひよく）の鳥。地（ち）にあらば。連理の枝とならばやと思ふに付ても。此鳥は天笠（てんぢく）唐土（たうど）日本をはなれ。南海（なんかい）はるかにうかびたる島なけば。昔時（そのかみ）天人あまくだり。此島を栖（すみか）となし。其ゆかりの女房にておはしけるぞや。さなくばいかでか程まで。容色（ようしよく）たぐひなふ。心ざまゆふにやさしく。花のかほばせ。もゝのこび雪（ゆき）のはだへ。一つとしてかく事なきのふしぎさよと。心空（そら）にあくがれ。浮立雲（うきたつくも）のごとく也。史記（しき）に士（し）はをのれをしる者のために。用（もち）ひられ。女はをのれをよろこぶ者のために。かたちを作るといへるがごとく。我国の女は。かほに白粉（はくふん）をぬり。形（かたち）を色々にかざる。此島の女房は。生（むま）れつきのすがた其まゝに有て。うつくしさ。たとへていはん様（やう）もなし。物をかき歌（うた）さうしを明暮（あけくれ）もてあそび。やさしき道のみ友（とも）となせり。去程に日本の土産（みあげ）物とて。珍（まづら）しき双（さう）しをとらすれば。何か是にはしかじとよろこぶ。扨又男（おとこ）は女にかはり。色黒（くろ）くすがたいやしき。やせ人形（にんぎやう）に小袖をきせたるがごとくなれば。日本人も。是にすこし心をなぐさみぬ。女房絹（きぬ）を織（をり）。北条家（け）へ貢絹（くけん）とて。おさむる故にや。むかしより家主（いへぬし）は女にて。男は入むこなり。仏（ほとけ）は五障（しやう）三従（じう）と説（とき）給ひて。女に三つの家なし。此島（しま）は世界（かい）にかはり。男に三つの家なし。去程に女子を持（もち）ぬればよろこび。親（おや）の家財（かざい）跡職（あとしき）をわたし。男子（なんし）を持ぬれば。すてものに思ひ。入聟（むこ）になす。万事皆（みな）女房のさし引也。此島へ日本の舟着（つき）ぬれば。島のおさきもいり先立（さきだち）。国衆（くにしう）をともなひ。其好（このみ）の家に入。其家の女房を其妻（つま）とさだむるゆへに。女房共天道（たう）へ祈（いのり）をかけ。我家（いへ）へ国衆をいらしめ給へとねがふ。国衆とは日本人をいふ。国衆の入ざる家の女（をんな）は。天道をうらみ。身をかこちあへるばかり也。国衆入ぬる家。よろこぶ事たとへば。から天竺（てんぢく）に住（すみ）付てゐたる子や親（おや）が。不慮（ふりよ）の仕合有て。帰朝（きてう）し。二たびあへる心ち。扨又及びなき人を。年（とし）月恋託（こひわび）しが。まれにあふがごとし。我乗たる舟。此島へ付たりしに。島の肝煎（きもいり）いそぎ来て。はや〳〵島へあがらせ給へ。御国衆を聟入（むこいり）させ申べし。御舟よりすぐに。御目ずきの女房の家（いへ）へ。入せ給ふべしと。国衆をともなひ。望（のぞ）みの家に。一人づゝ入をく。其家の亭主（ていしゆ）出合。御むこ入かたじけなや。所にをいての面目（めんぼく）たり。帰国まではゆる〻〻とおはしませと。心よくいとまごひして。よの在所（さいしよ）へ行て。年月を送（をく）る。女房舅（しゆと）親類（しんるい）下（げ）人ま【オープンアクセス NDLJP:507】でも。御聟（むこ）入めでたきとよろこびあへる事。たゞ手の上に。おさあひ子を置（おき）て。愛（あひ）するがごとく。皆（みな）人集（あつま）りてもてはやしければ。国衆は思ひの外（ほか）のたのしみ。玉（たま）の台（うてな）に有て。女御更衣（にようごかうい）。あたりにみち〳〵て。栄花（ゑいぐわ）の花（なは）ざかり。喜見城（きけんじやう）のたのしび。是たゞ邯鄲（かんたん）の夢の心地。もしさめなば。いかゞせんと思ひぬるのみ。筆（ふで）にもつくしがたしとかたる
 
 
聞しは今。村田（むらた）久兵衛八丈島の物語。右にくわしくしるし侍る。扨又江雪入道は。能（のう）ずきにて有けるが。島の者共に能をして見せんと。笛尺（ふえしやく）八皷（つゝみ）をならし。定家（ていか）を舞（まひ）給へり。はひまとはるゝや。定家かつらと云所にて。座中（ざちう）をはひまわり〳〵。はかなくも形（かたち）は埋（うづも）れて失にけりまで。はひ〳〵幕（まく）の内へ入ければ。島の者ども是を見て。扨も珍（めづら）しやはひまもり給ふすがたの面白（おもしろ）や。御国衆の能（のふ）を。はじめて見たり。何事か是にまさらんと云。江雪（こうせつ）入道島の方角（はうがく）を尋（たづ）ねらるゝ所に。船頭（せんどう）答（こたへ）て。此島は日本よりは南（みなみ）。未申（ひつぢさる）にあたりたれば。伊豆の国より紀州（きしう）熊野（くまの）へちかくおほへ候。郷雪（ごうせつ）云新勅撰（しんちよくせん）に

和田（わだ）の原（はら）。なみもひとつに三熊野（くまの）の。浜（はま）の南（みなみ）は山のはもなし

とこそよみたれ。されば此島の女は。形（かたち）いつくしくゆうなる粧（よそほ）ひ。人間にあらず。天人かとあやまたる。むかし天智（てんち）天皇（わう）の御宇（ぎよう）。大和（やまと）の国よし野の山へ。天人五人あまくだり。栖（すみか）をもとめんとせしか共人倫（じんりん）かよふ山なれば。むなしく天上へ帰りさる。大裏（だいり）に五節（せつ）の舞（まひ）と云事あり。其五人の天乙女（あまをとめ）をまなび給へり。新拾遺（しんしうい）に

袖（そで）かへす。天津乙女（あまつをとめ）もおもひ出よ。よし野の宮（みや）のむかし語りを

とよめり。あへてもて。天乙女此島へ下（くだ）り栖（すみか）となせるにや。爰は人間（にんげん）世（せ）に有べからず。それ仙翁（せんおう）は一ツのつぼの中に。世界（かい）有て。たのしび。商山（しやうざん）の四皓（こう）は。橘（たちばな）の木の中に。栖（すみか）有てたのしむ。かくのごときんば八丈（ぢやう）女橋中皓（によきつちうこう）壺中仙（ちうせん）。是みな乾坤（けんこん）の外（ほか）にて。別世界（べつせかい）也。ていれば男（をとこ）は我朝（わがてう）の。人形（にんぎやう）にひとしくして。梵語（ぼんご）。漢語（かんご）をもとなへず。和語（わご）を囀（さへづ）る事ふしぎなり。むかし清盛公（きよもりこう）。朝頼（よりとも）公の時代（じだい）に至て。非常（ひじやう）の流人（るにん）おほく遠島（ゑんとう）す。西は鎮西（ちんぜい）鬼海（きかい）が島。北は佐渡（さど）が島。東は夷（ゑぞ）が島南（みなみ）は伊豆の大島ならで。遠島（ゑんとう）のさたなし。それより以来（このかた）。延徳（ゑんとく）年中。早雲宗瑞（そうずい）。伊豆の国を治（おさめ）給ひしまでも。八丈（じやう）島の名を聞ず。其比豆州（とうしう）賀茂（かも）の住人。朝比奈（あさひな）の六郎知明（ともあきら）と云侍（さふらひ）あり。是より南海（なんかい）に当（あた）つて島有よし聞及び。大船（せん）一艘（そう）に人多（おほ）く取乗（のり）。伊豆下田の津より渡海（とかい）し。彼（かの）島につき。民家（みんか）をなびかし。末代（まつだい）伊豆の国の内たるべき旨（むね）中さだの。帰海（きかい）し早雲へ此よし告しらしむ。早雲喜悦（きゑつ）なゝめならず。八丈島見出したるけんしやうに。伊豆の国下田の郷（ごう）を朝比奈（あさひな）​（の）六郎知明（ともあきら）。子々孫々（しゝそん〳〵）永代（ゑいたい）。他（た）の妨（さまたげ）有べからずと云々。故に今知明が孫（そん）。あさひな兵庫助（ひやうごのすけ）下田を知行す。此【オープンアクセス NDLJP:508】島より北条家（け）五代。毎（まい）年の貢絹（ぐけん）をおさむる事。千秋万歳（しうばんぜい）なるべし。倩（つら〳〵）島の男に付て。昔（むかし）をかんが見るに。頼朝（よりとも）公下野（しもつけ）​（の）国。なす野の御狩（かり）の時。大鹿（じか）一かしら。せこの内よりかけ下る。幕下（はつか）ことなる射手（いて）をゑらび。下河辺（しもかはべ）六郎行秀（ゆきひで）をめし。是を射（い）べきよし仰らる。厳命（げんめい）なりといへ共。其矢鹿（しか）にあたらず。此鹿せこの外（そと）にはしり出る。然所に小（を）山左衛門尉朝政（ともまさ）射（い）とゞめをはんぬ。よて行秀（ゆきひで）は。世に有て生がひなしと。狩場（かりば）より出家（しゆつけ）をとげ。逐電（ちくてん）し。行（ゆき）がたしらず。其後（のち）紀州（きしう）くまのに有て。智定房（ちぢやうばう）と号（がう）し。日夜法花経（ほけきやう）をどくじゆしつるがくま野なちの浦（うら）より。補陀楽山（ふだらくせん）に渡る時に。一封（ほう）の状を認（したゝ）め。智定房同朋（どうぼう）に託（たく）して。北条武蔵（むさし）守殿へ。をくり進（しんず）べきの旨（むね）申置により。紀州（きしう）糸我（いとが）の庄（しやう）より。是を持参（ぢさん）す。天福（てんふく）元年五月廿七日に。鎌倉（かまくら）へ到来（とうらい）す。武州（ぶしう）御所へ。此状を持参（ぢさん）し。御前（まへ）にをいて。すはうの前司（ぜんぢ）ちかざね披見（ひけん）す。去（さんぬる）三月七日。智定房（ちぢやうばう）くま野なちの浦（うら）より。ふだらくせんに渡る。在俗（ざいぞく）の時より。出家（しゆつけ）とんせい以後（いご）の事をしるす。将軍（ぐん）家（け）もふびんにおぼしめし。武州いにしへ弓馬（きうば）の友（とも）たるよし。あはれみ給ふ。御所に候（かう）する人々。感涙（かんかい）〈［＃ルビ「かんるい」は底本では「かんかい」］〉 をくだすと云々。弓矢（ゆみや）取身は安（やす）からず。ていれば。かのち定（ぢやう）ばうが乗舟（のりふね）は。ふなやかたをこしらへ。其中へ入の後（のち）。外（そと）より釘（くぎ）をもて。皆（みな）打（うち）付。一ツの扉（とぼそ）もなくして。日月の光（ひかり）を見る事あたはず。たゞ灯（ともしび）によるべし。卅ケ日程の食物（しよくもつ）。ならびに油等（あらぶとう）。わづかに用意（ようい）すと云々。此ふだらくせんと云は。南方（なんばう）海（うみ）のはてに。たのしむ世界（せかい）有とかや。あたか是八丈島の事なるべし。智定房（ちぢやうばう）此島へわたり。天乙女（あまをとめ）と契りをなしそれより。男（をとこ）もあまたになり。日本の風俗（ふうぞく）を。まなびぬるか。是ははや三百八十余（よ）年以前（いぜん）の事也。おぼつかなし。然ば此島にて。父母女子（ぶもによし）をまふくる事をねがふより。昔（むかし）もためしあり。唐（から）の玄宗（げんそう）御在（ざい）位の時。天下の父母（ふも）たる者。娘（むすめ）をうまん事を。仏神（ぶつじん）へいのりてねがふ。長恨歌（ちやうこんか）に。つゐに天下の父母（ふぼ）の心をして。男をうむ事ををもんぜず女を生（うむ）事を。をもんぜしむと云々。我朝（わかてう）にも有べき事なりと申されし。扨又女共いふ様来の年聟（むこ）殿。御帰国（きこく）のみあげ物を。はや今（いま）より用意（ようい）せんと。糸（いと）をくり返し。絹（きぬ）を織（おり）出し。たくさんに聟へ取せけるを。女房の手がら。末代（まつだい）家（いへ）の系図（けいづ）なりと。所の者ほめければ。何（いづ）れの女房も。我をとらじと。夜を日に継（つい）で。絹（きぬ）ををり。業（わざ）をなす事いとまあらず。扨中一年滞留（たいりう）し。三年目の夏（なつ）。南風（なんふう）を待えて。舟を出さんと。皆人はし舟に取のれば。枕（まくら）ならべし女房はいふにをよばず。下人までも名残（なごり）をおしみ。浜（はま）へはしり出。もすそを波（なみ）に打ひたし。舟に取付。袂（たもと）にすがり。我をばすてゝ。ゆき給ふべしやと。あらつれなの日本人の心や。今生（こんじやう）の名残（なごり）是までなり。後（のち）の世（よ）にあひ見ん事も定（さだめ）なしと。足（あし）ずりし。舟ばたをたゝき。声（こゑ）をばかりにさけぶ有様。たとへんやうぞなかりける。これ恋路（こひぢ）と云事は。忍（しの）ぶをもて本意（ほんい）とせり。後撰集（ごせんしう）に

忍ぶれど。色にいでけり我恋（こひ）は。物や思ふと人のとふまで

と平兼盛（たいらのかねもり）はよめり。扨又定家卿（ていかのきやう）の歌（うた）に【オープンアクセス NDLJP:509】

うら山し。声（こゑ）もおしまずのら猫（ねこ）の心のまゝに妻（つま）こふる哉

と詠（ゑい）ぜしは。八丈島の恋路（こひぢ）にことならず。国衆もさすが岩木（いはき）にあらねば。心よはくも舟を出しかねそれ一樹（じゆ）のもとにやすみ。一河（が）のながれを渡るれ共。過別（すぎわか）るれば。名残（なごり）をおしむならひぞかし。褒姒（ほうじ）一たびゑみて。幽王（ゆうわう）国をかたふけ。玉妃（ぎよくひ）かたはらにこびて。玄宗（げんそう）世を失（うしな）ひたまひぬ。ましてや此女房達（たち）は。人間のかたちにあらず。たゞ是天人あまくだり。うどんげなる。三年の契り。今別（わかれ）となれば五衰（すい）の苦（くる）しみも。是にはいかでまさるべき。恩愛（をんあい）の道は。つなげるくさりのごとし。釈迦（しやか）善提（ぼだい）の道にいらんとて。十九にして都を出給ひしに。やしゆたらによに。名残（なごり）をおしみ出かね給ひけり。仏（ほとけ）猶（なを）かくのごとし。いはんや凡夫（ぼんぷ）をやと。たがひにかこち。かこたれ。なきかなしめる有様は。目もあてられぬ風情（ふうぜい）なり。江雪（こうせつ）入道是を見て。何（なに）とて舟には。をそなはるぞ。にくい奴原（やつばら）が有様哉。皆一々に海へ切ながさんと。刀（かたな）を抜（ぬい）て。艫舳（ともへ）をはしりまわり給ひければ。ちからをよぱず舟を出す。陸（くが）にてよびさけぶ其声（こゑ）。はる〳〵と波路（なみぢ）を。わけて聞ゆれば。舟人も思ひやられて。涙（なみだ）に暮（くれ）て。前後（ぜんご）も分ず。舟も行々（ゆく〳〵）声もきこへねば。女ども高き所にのぼり。竿（さほ）〈［＃「竿」は底本では「笠」］〉の先に白き絹（きぬ）を。むすびつけ。手（て）々に持（もち）て。おどりあがり。さほをふりける有様は。欽明（きんめい）天皇の御時。大伴（とも）の佐提比古（さたいひこ）遣唐使（けんたうし）にて。もろこしへ渡（はたり）し時妻（つま）のさよ姫（ひめ）は名残（なごり）をおしみ。松浦（まつら）山へのぼり。きぬのひれをふり。其舟を招（まねき）しも。是にはいかでまさるべき。女のむつごとに。御国衆はかたちより。心なんまさりたると云しこそ。忘（わす）〈［＃「忘」は底本では「怠」］〉れがたけれ。島の事人に語るもうらめしさに。ふつと思ひ切て有しに。せんなき事を語り出し。二度物を思ふといひすて。うつぶきに臥（ふし）てなみだにむせぶ。愚老（ぐらう）聞て。島の物語われ聞さへ心そゞろにうかれぬ。其女房をせめて一目見ばやと床しきに。其方三年（とせ）あひなれ。浅（あさ）からぬ契（ちぎ）り。思ひやられて哀（あはれ）なり理（ことはり）なりと共に涙（なみだ）をながし。袖をしばりたり。然に江雪（こうせつ）入道の事。我小田原に有てよく存たり。げに今思ひ合する事あり。江雪斎（さい）島にて。定家（ていか）の能を仕たる由申ければ。氏直聞召（きこしめし）御しゆゑんの時節（じせつ）。江雪島にての定家と仰有しに。興（けう）ある人にて。度々（どゞ）まはれたり。宏才弁舌（こうさいべんぜつ）人にすぐれ。其上仁義（じんぎ）の道有て。文武（ぶ）に達せし人也。弓箭（ゆみや）評定（へうぢやう）の時も。氏直公一門家老（からう）衆の中に。くはゝり給ひき。一年秀吉（ひでよし）公在世（ざいせ）の時。氏直使者（ししや）として。江雪入道上洛（らく）せられしに。秀吉公対面（たいめん）有て。ゐ中者といへ共礼義（れいぎ）の次第厳重（げんぢう）也と。御感（ぎよかん）有しと也。氏直没落（ぼつらく）以後（いご）秀吉公へめし出され。板部岡（をか）江雪（ごうぜつ）。山岡道阿弥（だうあみ）此両人は。常（つね）にはなしの御あひてに参られたり。然に八丈島の女房。ふしぎ有事古（ふる）き文にも見えず。され共見聞集（けんもんしう）の題号（だいがう）に応（おう）じ。久兵衛物語を記（しる）し侍る也

 
 
見しはむかし伊豆（いづ）の国の住（ぢう）人。清水上野守（かうづけのかみ）は。小田原北条家（け）譜代（ふだい）の侍（さふらひ）。関八州に其名（な）をえたる【オープンアクセス NDLJP:510】武士（ものゝふ）なり。されば上野守が妻女（さいぢよ）。山上の社（やしろ）氏神（うぢかみ）へ。宿願（しゆくくわん）有て。参詣（さんけい）する途中（とちう）の坂（さか）に。牛（うし）穀物（こくもつ）を二俵（へう）つけながらふして有。見ればあと足（あし）二つを。がけへふみおとし。岩角（いはかど）に俵（たはら）かゝつて留（とま）る。荷縄（になは）をきるならば牛谷（うしたに）へおちて死（し）すべし。引（ひき）上べき様なく。ふびんなる有様なり。女房是を見て。あたりの者をのけ。一人そばへより。牛とたはらをいだひて。中（ちう）へ持上道（もちあげみち）中に牛を立（たて）たり。此女の力。人間のわざに非（あら）ずと。人さたをせり。其腹（はら）〈［＃「腹」は底本では「服」］〉に男子（なんし）一人有。清（し）水太郎左衛門尉是なり。母（はゝ）の力（ちから）を請次（うけづぎ）。大力の名（な）をえたり。或（ある）時太郎左衛門甲斐（ひ）くろといふ馬を一疋（ぴき）もつ。一日に大豆（まめ）を一斗くらふ悪馬（あくば）なるゆへ乗（のる）ものなし。馬屋の内を出すには。中間（ちうげん）六七人有て。綱（つな）を付てひき出す。鞍（くら）をく事ならず。太郎左衛門此馬に飛乗（とびのり）。鞭（むち）を打てはしる時またにてしむれば。立所に血（ち）をはきて死（し）す扨又奥州（おうしう）より出たる。岩手鴇毛（つきげ）と号（がう）す。駿馬（しゆんめ）を持たり尾（お）かみあくまでちゞみ九寸あまりにて強馬（つよむま）なり。長久保より鷲巣（わしず）の嶺へは。上（のぼり）道五里（り）程あり。此馬の心見んため。甲冑（かつちう）を帯（たい）し。旗（はた）をさし卯（う）の刻（こく）に。長久保（ぼ）を乗出し。鷲巣を目がけむち打て。野原（のはら）を真直（まつすぐ）に馳行（はせゆく）有様たゞ逸物（いちもつ）の鷹（たか）。八重羽（えば）の雉（きじ）を見て。升（ます）かきの羽を飛（とぶ）がごとし。鷲巣の嶺へのり上（あげ）。いきもつかせず引（ひつ）返し。即刻（そくこく）長久保へ帰馬（きば）するに。あせをくださゞる名馬（めいば）也。太郎左衛門。蛇（じや）なり共綱を付て乗（のる）べしと。荒言（くわんげん）をはく。一年（とせ）佐竹義重（さたけよししげ）と。北条氏政（まさ）常陸（ひたち）の国にをいて。合戦（かつせん）の砌（みぎり）。太郎左衛門尉。岩手（いはて）鴇毛（つきげ）の駒（こま）に駕（が）し。黒糸（くろいと）おどしのよろひ着（き）。八（や）の四方の旗（はた）をさし。樫（かし）の棒（ぼう）を一丈あまりにつゝ切。六角（かく）にけづり。此棒を持（もつ）て。はんくわいをふるひ。敵軍勢（ぐんぜい）の中（なか）へ。乗（のり）入て。棒の石（いし）づきをつ取のべ。片手に持て。弓手（ゆんで）妻（め）手のかたきを。一払（はらひ）に五人十人討（うち）ひしぐ。ばうにあたつて死（し）する者。其数をしらず数度（すど）の合戦に先をかけ。強（しはき）をくだき。敵をなびかし。みかたをたすけ。剛者（がうのもの）の名をえたりき。するがの国（こく）中長久保（ながくぼ）の城主（しろぬし）なり甲州（かうしう）信玄（しんげん）勝頼（かつより）父子（ふし）とたゝかひ。つゐに一度（ど）も。をくれをとらざる武略（ぶりやく）智謀（ちぼう）の人世にまれなり然に一年（とせ）信玄（しんげん）と。参州（さんしう）源（みなもと）の家康（いえやす）公との。たゝかひの時節。信玄（しんげん）より氏政（うぢまさ）へ。加勢（かせい）をたのみけるに付て。大藤（とう）式部（しきぶ）少輔。清水（しみづ）太郎左衛門尉。両大将として。三千騎（き）の軍兵（ぐんびやう）を率（そつ）し。信玄にはせくはゝる。比（ころ）は元亀（げんき）三年壬（みづのへ）申（さる）十二月廿三日申の刻（こく）に到（いたつ）て。家康（いえやす）公と遠州（ゑんしう）みかたが原の合戦（かつせん）に。信玄勝利（せうり）をえられたり。此節大藤（とう）式部少輔は討死（うちじに）す。太郎左衛門尉馬（ば）上に鑓（やり）をつとつて。真先（まつさき）にすゝみ。猛威（まうひ）をふるひ。爰（こゝ）にてもかしこにても太郎左衛門と。名乗（なのり）て。千騎（き）万騎が中へ切て入といへども。名にをそれてこと〳〵く敗北（はいぼく）し。面（おもて）をあはする人もなし。敵（てき）はいぐんする。其中に金（きん）の馬よろひかけ。くれなゐおどしの鎧（よろひ）着（き）たる武者（むしや）一騎（き）。大人（じん）とおぼしくて。郎従（らうじう）あまたかこみ落行（おちゆき）を。太郎左衛門尉是を見て。駒（こま）に鞭（むち）うて。のがすまじと大声（こゑ）をあげてよびかくるは。鳴神（なるかみ）のごとし。郎従（らうじう）等（ら）このいきほひにをそれ。左右へ分（わけ）て迯退（にげしりぞ）く。追付（おひつけ）甲（かぶと）のしころをつかんで引返し鞍（くら）の前輪（まへわ）にをし付。ねぢ首（くび）にぞしてけり。故にねぢ首（くび）太郎左衛門と云て。大力（りき）の名をゑたり氏直此ものゝ。力の程【オープンアクセス NDLJP:511】をかんがみ給はんがため。或（ある）時興（けう）じて。太郎左衛門こうする前（まへ）へ八寸まはりの鹿（しゝ）の角を。二ツなげ出されければ。二ツの角を一手ににぎつて。引さきたり。氏直も感（かん）じ諸（しよ）人も奇持（きとく）におもひたり。着量骨柄（きりやうこつから）人にすぐれ関（くわん）八州にならびなる大力（ちから）〈［＃「力」は底本では「刀」］〉末代（だい）まではまれある人なり
 
 
見しは昔。関東（くわんとう）諸国に。弓矢（ゆみや）をとる。東西南北（とうざいなんぼく）にをいて。たゝかひやむごとなし。去程に侍（さふらひ）たる人は。鉄砲（てつぱう）をみがき。薬（くすり）をあはせ。弓の絃（つか）をさし。矢（や）を作（はぎ）。うつ木（ぎ）青（あを）木などにて。木鋒（ほう）をけずるにいとまあらず。扨又鉄（てつ）を木鋒のごとくうちのべ。さきをのみのごとく作（つく）り。矢（や）の根（ね）とす。是をすやきと名付。毎年七月には。七夕（しつせき）の矢と号（がう）し。大名（みやう）小名知行役（ちぎやうやく）に。主人（しゆじん）へ上る。十筋の内。五ツはすやき。五ツは木鋒（ほう）。いづれも是を。数矢（かずや）と名付たり。其時節（じせつ）鉄炮（てつぱう）はすくなく。弓はおほし。日々のたゝかひに。矢種（だね）尽（つき）ぬれば。主人より矢箱（はこ）を。諸侍（しよさふらひ）へくばりわたす。敵（てき）近（ちか）くそなへたる時は。矢束（やつか）引強弓（つよゆみ）をゑらび。矢印（やじるし）を書付。右の数（かず）矢をもて。敵（てき）のそなへを射（い）くづす是をのぶし軍（いくさ）といふ。天正七年の秋。武田勝頼（たけだかつより）伊豆の国に向（むかつ）て。進発（しんぱつ）し。うき島が原（はら）。三枚（まい）橋（ばし）に陣（ぢん）す。北条氏直も出馬（しゆつば）し。伊豆の国。はつねが原。三島（しま）にはたを立。対陣（たいぢん）を張（はつ）て。さかひをへだて。いどみたゝかふ。日も暮（くる）れば。先（さき）手の者（もの）。敵陣（てきぢん）へ夜討（ようち）をもよほす。其比は其国々の案内（あんない）をよくしり。心横道（わうだう）なるくせ者おほかりし。此名を乱波（らんば）と名付。国大名衆ふちし給へり。夜討の時は。かれらを先立（さきだつ）れば。知（しら）ぬ所へ行に灯（ともしみ）を取て夜る行がごとく。道に迷（まよ）はず。足軽（あしがる）共五十も百も。二百も三百も伴（ともな）ひ。敵国（てきこく）へ忍（しの）び入て。或（ある）時は夜討（ようち）分捕（ぶんどり）高名（かうみやう）し。或時はさかひ目へ行（ゆき）。藪原草村（やぶはらくさむら）の中にかくれゐて。毎夜（まいよ）敵（てき）をうかゞひ。何事にもあはざれば。暁（あかつき）がた敵にしらず帰りぬ。是をかまり共。しのび共。くさとも名付たり。過（すぎ）し夜はしのびに行。今朝（けさ）はくさより帰りたるなどゝいひし。其くさ。忍（しの）びと云正字（じ）をしらず。或文（あるふみ）に窃盗（せつとう）は夜るのぬす人。忍びが上手（ず）と注（しる）せり。又盗窃の二字を。しのびとよむ故の名なるか扨又くさと云字を察（さつ）するに。此等の士卒（しそつ）夜（や）中に境目（さかいめ）へ行（ゆき）。昼（ひる）も草に臥（ふし）て。敵（てき）をはかる。是を草（くさ）に臥（ふす）ともいひつれば。下略（げりやく）して。草と名付たるにや。然ば草と云字（じ）を書（かく）べき歟。今の時代（じだい）つたなき言葉（ことば）なれば。記（しる）し侍る。陣中（ぢんちう）終夜（よもすがら）篝（かゞり）をたき。夜明（あけ）ぬれば。先手（さきて）の兵士（ひやうし）等。さかひ目へ日々出向（むかつ）て。陣する所に。若手（わかて）の侍（さふらひ）。ほまれを心がくる輩（ともがら）は陣中（ぢんちう）をぬきんで。両陣の間へ。たがひに進（すゝん）で出あひ。矢（や）いくさをなす。見物（けんぶつ）してをもしろきは。此せりあひ軍（いくさ）なり。是は先手（さきて）の役（やく）として。日々のたゝかひある仕場居（しばゐ）の近隣（きんりん）に。或（ある）はくぼみの地（ち）あり。或は森（もり）はやし藪（やぶ）せこ有て。かくしをく所の人数（にんじゆ）斗がたきが故敵（てき）少勢（せうぜい）なりといふ共。さかひをふみこす事成がたし。然間双方（さうはう）心を一つにして。みかた無勢（ぶせい）なれば。士卒（しそつ）をくはへ。をなし程歩（かち）立の者ども出あふ。馬上（はじやう）も二十騎（き）三十騎。はせ加（くは）はつて下知（げぢ）【オープンアクセス NDLJP:512】す。をつつ。まくつゝ。算（さん）を乱す其間に。前登（ぜんとう）に進（しん）む者は。首（くび）をとつゝとられつ。武勇（ぶゆう）の達者（たつしや）。兵略（りやく）を尽（つく）す。懸引（かけひき）に目をおどろかす。北条美濃（みの）守。氏親（ちか）家中に。鈴（すゞ）木左京亮（すけ）は。すぐれたる強弓（つよゆみ）なり。前登（ぜんとう）にすゝみ。かれがはなつや。はぶくらを。のまずといふ事なく。忽（たちまち）射殺（いころ）す所の者おほし。是を見て敵（てき）かたより。武者（むしや）一騎（き）はせ来り。青（あを）木角蔵と名乗（なのつ）て。左京​（の）亮（すけ）と既（すで）に弓手（ゆんで）に相あふ。たがひに矢をさしはさむ。左京亮敵（てき）の弓を引ざる前（さき）に。ひやうと射（い）る。此矢あやまたず。弓手の脇（わき）。よろひを射（い）とをし。のぶかに立。角蔵弓をひかんとすれ共。痛手（いたで）なりければ。叶（かな）はずして。ひらき退（しりぞ）く。左京亮（すけ）又二ツの矢をつがつて射（い）る。馬のふと腹（はら）に。はぶくらせめてたつ。馬はしきりにはねければ。角蔵馬上より落（おち）たり。みかた是を見て。勝（かち）どきをどつと作り。此仕合を其日の。矢軍の勝負（せうぶ）の験（しるし）として。双方（さうはう）の士卒（しそつ）等（ら）。相引し本陣に旗（はた）を立たり。かゝりし所に敵（てき）かたより。たゞ一人弓に矢（や）を取そへ。みかたの陣（ぢん）まぢかく歩（かち）み向（むかつ）ていはく。是へ罷出たる者は。先場（せんぢやう）のたゝかひにをいて。馬上（ばじやう）より射おとされし。青木角蔵が使者（ししや）也。矢印（やじるし）にさがみの国。三浦（うら）の住人。鈴木（すゞき）左京亮（すけ）とあり。勢兵（せいびやう）の射手（いて）。敵（てき）みかたの誉（ほまれ）かくれなし。それ戦場（せんぢやう）に出て討（うつ）もうたるゝも。武士（ぶし）の名誉（めいよ）。望（のぞ）む所の本懐（ほんくわい）也。扨又軍（いくさ）はかならず一方かち一方まく。すべて其日の運命（うんめい）の厚薄（こうばく）にこたへければ。負（まけ）たりとても。耻辱（ちじよく）に有べからず。然り今日角蔵に。あたる所の矢は。すやきの数矢（かずや）也。既（すで）に目がけて。名乗（なのり）がたきをかろしめ。あざむく仕合。すこぶる遺恨（いこん）やることなし。但（たゞし）終日（しうじつ）の軍に。矢種（やだね）つきたるにや。あへてもて。角蔵今日鈴木（すゞき）左京亮（すけ）殿と参会（さんくわい）のしるしに。送り進（しん）ずと云て。名字（みやうじ）書付（かきつけ）たる。鋒矢（とがりや）二i筋（すぢ）射（い）てをくる。左京亮（すけ）此矢（や）を請取（うけとり）。使者（ししや）に向て云。先陣（せんぢん）のかけに。数矢（かずや）をもて射（い）奉る事。いさゝか軽賤（けうせん）の儀にあらず。我遠敵（とをてき）を心がけ。矢を打つがひたる時刻（じこく）に。青木角蔵（あをきかくざう）殿案外（あんぐわい）に。馳（はせ）来てたがひに弓手に相向（むか）ひ。すでに火急（くわきう）の仕合也。殆（ほとんど）遺恨（いこん）に思ひ給ふべからず。折節。持合せたるとて靭（うつぼ）〈［＃「靭」は底本では「剏」］〉より節（ふし）かげ取。矢印（やじるし）有つる大鴈股（かりまた）の根（ね）を二筋（すじ）抜（ぬき）出して射（い）返す。諸人是を見て。義（ぎ）を守（まも）り。節ををもくする。武士（ものゝふ）の振舞（ふるまひ）。かくこそ有べけれと。敵もみかたも感歎（かんたん）せり
 
 
聞しは昔（むかし）。老士（らうし）語りけるは。我数度（すど）の軍にあひたり。大合戦（かつせん）にをいては。たゞ一勝負（せうぶ）也。有無（うむ）の二ツにきはまる故。先陣（せんぢん）の者は。万死（ばんし）一生にさだめ心たけく樊噲（はんくわい）をもあざむく。討負（うちまけ）はいぼくに至ては。心をくれ餓鬼（がき）にもをとれり。大合戦に崩（くづ）れかゝつて。返す事叶（かな）はず。然に小田原北条家（け）。五代の内数度（すど）の大合戦に。討勝（うちかち）たり扨又みかた負（まく）る事有といへ共。つゐに一度（ど）も。大負（まけ）なし。是定（さだめ）をかるゝ所の法度（はつと）を。用るが故也。それいかにとなれば。かねての軍法（ぐんぱう）にそなへを一手づゝ。段々（だん〴〵）に立る。其間一町へだつ。一備（そな）への内。前後（ぜんご）に武者（むしや）奉行（ぶぎやう）有て。をくるゝ者を【オープンアクセス NDLJP:513】ば。しんがりの奉行。そなへの内へ追（をひ）入。さし出る者あれば。つぎの奉行。をさへ下知（げち）す。其上はた本（もと）より。検使（けんし）として。騎馬（きば）の武者（むしや）。惣陣（そうぢん）を馳廻（はせまはつ）て。両陣（ぢん）一町へだたる間に。紛（まぎ）るゝ者あれば。是非（ぜひ）を論（ろん）ぜず。切捨（きりすつ）る。然にみかたの先陣（せんぢん）いくさに。討負（うちまけ）敗北（はいぼく）に至ては。二陣の武者（むしや）奉行（ぶぎやう）先立て。備（そな）へをとがり矢（や）がたに立。鑓（やり）を作（つくつ）て。敵（てき）を待（まち）。みかたくづれかゝるといへ共。待（まつ）所のみかたの。鑓さきにをそれ。左右へ分て。はいそうす。若（もし）そなへつゝにげ入らんとする者あれば。切て捨（すつ）る故に一人も入得（え）ず。敵（てき）かち軍（いくさ）となれば。かならず鋒矢形（とがりやがた）に追（をひ）来る。然にみかた待請（まちうけ）たる。威（いきほ）ひを見て。かなはじと。前登（ぜんとう）にすゝむ者。引返しぬれば。残党（ざんたう）まつたからずとて。悉（こと〴〵）く敗軍（はいぐん）せずして叶（かな）はざる也。北条家（け）の軍（いくさ）二陣（ぢん）にて切返す事度々に及（をよ）ぶ。なかんずく享禄（こうろく）三年庚寅（かのえとら）。六月十二日武州（ぶしう）小沢原（をさはゞら）にて。官領（くわんれい）上杉朝興（ともおき）と。北条氏綱（つな）かつせんに。みかたの前陣（せんぢん）討（うち）負（まく）るといへ共。二陣（ぢん）にて引返し。千余（よ）人討（うち）取。扨又氏康（やす）と。里見義弘（さとみよしひろ）。下総（しもふさ）の国。高野台（かうのだい）合戦に。先陣（せんぢん）討負（うちまく）るといへども。二陣にて引返し。大勝（がち）あり。件（くだん）の軍法（ぐんほう）は。氏綱（つな）時代（じだい）このかた。北条家にもつぱら。是を用る。軍（いくさ）に大負（まけ）あるは。備（そなへ）を乱（みだ）すが故也。一合戦打勝（かつ）といふ共。新手（あらて）の敵に。二度打勝（かつ）事叶ふべからず。人馬（じんば）ともに。筋力（きんりよく）つかれ。いきほひをうしなふによて也。ほとんど勝（かち）いくさに。長途（ちやうど）を過（すぐ）るは。不可（ふか）也。士卒（しそつ）等。かつに乗（のつ）て。首（くび）をとらんと。身のつかれをもわきまへず。長（なが）をひする時に。敵（てき）かたはらの。藪（やぶ）せこより。五人三人はしり出て。矢石（しせき）をはなつに至ては。すは敵むかうと見て。前（さき）がけの者。一人引返（ひつかへ）す。あとの者。聞おぢして。猶（なを）はいぼくす。其時節（せつ）にをいては。山人（さんじん）百姓等。爰（こゝ）かしこより出走（はしつ）て。鹿弓（しゝゆみ）を射（い）かけなどして。大崩（くづ）れする事ひつせり。され共兵法（ひやうほう）一様（やう）には定（さだめ）がたし。時にのぞんで。せりあひ軍（いくさ）には。勝（かつ）てまくる事有。負（まけ）てかつ事有。其期（ご）に至ては。君命（くんめい）をもをそれず。師伝（しでん）をも用（もち）ひず。敵（てき）によつて。転化（てんくわ）するは。勇士（ゆうし）のをのれと心にうる道（みち）也。軍陣（ぐんぢん）に及（をよ）び。公私（こうし）の儀に付て。叶（かな）はぬ所にては討死（うちじに）し。遁（のが）るべき所を知（しつ）ては。命（いのち）をまつたふし。後日（ごにち）に本望（ほんもう）を達する。是を仁義の勇士（ゆうし）といふ。進（すゝ）むまじき所をかけ。退（しりぞ）くべき所を。のがれず討死するは義（ぎ）に背（そむ）けり。是を血気（けつき）の勇（ゆう）と云。一身の武勇（ぶゆう）を望（のぞ）むには。場所（ばところ）を知（しる）が肝要（かんよう）也。人も見ぬ所にて。けなげをはたらき。討死（うちじに）するは犬死（いぬじに）なり古歌（こか）に

見る人も。なくて散（ちり）ぬるおく山の。紅葉（もみぢ）はよるの錦（にしき）なりけり

とよみしも是にたくへておもひいだせり。ほまれ有人の見る所ならば。万（ばん）人にゐきんで。武勇（ぶゆう）を。はげますべし。討死する共。武名（ぶめい）を子孫（しそん）につたふべし。ほまれ有人の一言（ごん）は。俗士（ぞくし）の千言（ごん）にもすぐれたり。先年秀吉（ひでよし）公時代（じだい）。濃州（のうしう）柳瀬表（やながせをもて）の合戦に。七本鑓（やり）といはれしは。加藤肥後（かとうひご）​（の）守。同左馬助（さまのすけ）。福島（ふくしま）左衛門佐（すけ）。脇坂中務（わきさかなかつかさ）。糟屋内膳正（かすやないぜんのかみ）。平野遠江守（ひらのとをたうみ）。片桐市正（かたぎりいちのかみ）。件（くだん）の七人也。この人々大名（みやう）に成（なり）ての改名（まいみやう）也。是よき戦場（せんぢやう）にて。前登（せんたう）にすゝむが故也。其上誉（ほまれ）をうるに。大勇（ゆう）と小勇（ゆう）【オープンアクセス NDLJP:514】との二名（みやう）あり。文（ぶん）を学（まな）び。武（ぶ）をたしなんで。智謀（ちぼう）兵術（ひやうじゆつ）を。もつぱらとし。たゝかはずして。人に勝（かつ）事をはかるを。大勇（ゆう）といひ。独けなげを旨（むね）とし。人のならぬ所を。をし破（やぶつ）て。われと手をくだひて。討勝（うちかつ）を小勇（ゆう）と名付。いにしへを伝（つた）へ聞しに源九郎義経（よしつね）。ひとりけなげを。専（もつぱら）とせり。平家（へいけ）一谷に城（じやう）をかまふる所に。鵯（ひよどり）ごへといふ。人力のをよばぬ高山（かうざん）より。義経（よしつね）ひとり。先（さき）だつて。つゞけ兵（つはもの）どもと。下知（げぢ）せられたり。其後半家。さぬきの国に城（じやう）を興（こう）す源氏（げんじ）の軍兵（ぐんひやう）。数（す）百艘（そう）の兵船（ひやうせん）を用意（ようい）し。渡海（とかい）せんとする所に。波（なみ）風あれて。乗船（じやうせん）かなはず。義経（よしつね）公平家。追討使（ついたうし）の宣旨（せんし）をうけたまはり。悪風（あくふう）なり共。延引（えんいん）すべからず。運（うん）は天にありと。主（ぬし）ひとり。元暦（げんりやく）三年二月十六日。とも綱（づな）といて乗（のり）出す。彼下知（かのげぢ）に随（したがつ）て。以上五艘（そう）。彼国（かのくに）に着岸（ちやくがん）し。平家（けいけ）を追討すといへ共。是は血気（けつき）の小勇（せうゆう）のふるまひにて。大将のはたらきには不可（ふか）也。去程に義経（よしつね）人のいさめをも用ひず。無理（むり）につよみをこゝろにかく。故に義経独歩（どくほ）の旨（むね）をさしはさみ。万事不義（ふぎ）有て。頼朝（よりとも）公と不快（ふくわい）にして。はたして害（がい）せられ給ひぬ。扨又頼朝公。佐竹（さたけ）の冠者（くわんじや）義秀（よしひて）が城（じやう）を責（せめ）らるゝ。直実（なをざね）は万人にぬきんで。かけやぶり。おほく首（くび）を討取（うちとる）。摂州（せつしう）一谷（たに）の城（じやう）をせむる時。直実夜中に前路（せんろ）をまはり。卯（う）の刻門外（こくもんぐあい）にすゝみ。源氏（げんじ）の侍（さふらひ）くまがへの次郎直実（なをさね）。前陣（せんぢん）と高声（かうしやう）に名乗（なのる）。城中（じやうちう）に此由を聞。飛弾（ひだ）​（の）三郎左衛門尉盛次（もりつぐ）。悪（あく）七兵衛景清（かげきよ）。木戸をひらき打て出たゝかふ。直実は万士（ばんし）にこへたる故。天下無双（ぶさう）の剛者（がうのもの）と。頼朝（よりとも）ほうび有事。度々（どゞ）にをよぶ。され共物がしらの役（やく）は。終（つゐ）に仰付られず。加藤（かとう）次郎景廉（かげかど）。土肥（どひ）次郎実平（さねひら）等（ら）は。一身の手がらをあらはさずといへども。軍兵（ぐんびやう）の統領（とうりやう）を。承り下知する事。数度（すど）にをよぶ。此等（これら）の人は。智略（ちりやく）兵術（ひやうじゆつ）を旨（むね）とするが故也。それ大将は。先もつて文を学（まな）び。黄石公（くわうせきこう）がつたふる所を。かねて心にかけ。呉子（ごし）。孫子（そんし）が秘（ひ）する所を旨とし。軍兵（ぐんびやう）を下知す。論語（ろんご）に三軍（ぐん）の師（し）をば。うばふべし疋夫（ひつぷ）の心ざしをば。うばふべからずと云々。ほとんど。ほまれをのぞむ人は。文（ぶん）をまなび。功者（こうしや）にしたしんで。武略（ぶりやく）を聞（きか）ずんば有べからず。馬ものゝぐ。さし物なども。我力に過たるは。かならずわざはひを招（まね）くべし。みる所はいかめしけれ共。功者の嘲（あざけり）たり。なかんづく。歩立（かちだち）の軍。山坂（さか）にては。かろくみじかきを用ひる。是故実（こじつ）なりと物語せり

 
北条五代記巻第五終
 
 
「https://ja.wikisource.org/w/index.php?title=北条五代記/巻第五&oldid=214088」から取得