北条五代記/巻第六

北条五代記巻第六 目次

 
 
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北条五代記巻第六
 
 
 
聞しは今。さふらひしゆ四五人寄合よりあひ。むかし関東くわんとうにてのいくさ物語をおもひにさた有。其中に一人云けるは。われ生国しやうこく越後ゑちごなり。上杉輝虎てるとらはゑちご一国をもちて。くわんしうぬしたる。北条氏康うぢやすとたゝかひ。つゐに討負うちまけず。あまつさへ一とせ。小田原近所きんじよまで。をしこみたるは。其をえたる猛強まうがうの大しやうなりといふ。又一人われは甲州かうしう住人ぢうにんなり。武田信玄は甲斐かひするが。両国をもちて。氏康うぢやすとたゝかひ。是も一年小田原へをし入。退しりぞく時に至て。しろより出て。あとをしたひける所に。相模さがみ三増みますにて合戦かつせんし。信玄しんげんうちかちおほくのてき討取うちとりたり。氏康うぢやす武勇ぶゆうよはきゆへ輝虎てるとらも信玄も。小田原へをしこみぬ。氏康耻辱ちじよく末代まつだいのこすといふ。爰にいにしへ。北条家につかへし。老士らうし下座げざのかたすみに。そらねぶりしてたりしが。此よしを聞。みゝにやかゝりつらん。座中ざちうへにじり出て云けるは。をろかなる人々のいひ事かな。其時代じだいのいくさを。あらかじめきかずして。なんぜらるゝは僻事ひがこと也。われはいにしへ氏康の人。其比のいくさにあひたり。然に上野かうづけ下野しもつけ武蔵むさし下総しもふさに。前々ぜんより居住きよぢうする氏康はたしたさふらひ共。逆臣ぎやくしんをくはだて。輝虎てるとら信玄にくみし。小田原へはたらくといへ共。かれらかはたらきをばかつてさたせず。遠国よりたゞわれひとりはねおひてとび来るやうに。云なせる故聞人武勇ぶゆうきどくに思へり。逆臣有て国をみだすは。古こんれい。小田原へはたらくとて。いかで氏康の耻辱ちじよくならん。然ば甲州かうしう衆我国の贔屓ひいきして。大将の威光いくわう諸侍しよさふらひ武辺ぶへんの手がらをさたする事。其方一人にかきらず甲州かうしう衆あまたの人の物語をわれ聞をぼえたり。され共相違さういあり。其是非ぜひを申さんににかけとがむべからず。それいかにといふに。人をあなどれば。のち人にあなどられぬと古人云り。ていれば。甲州かうしうさふらひ武勇ぶゆう自慢じまんし。広言くわうげんをはき。他国たこくの大将をあなどつて。数度すどの合戦に切勝きりかちおほく国をて切取よし。利口りこうせらるゝといへ共。まるく持たる国は甲斐かひするが。両国なり其外は。近国きんごくのかたはしの小侍を。旗下はたしたになす斗なり。永禄十二年の冬蒲原かんばらに。北条新三郎在城ざじやうす。小城なれば信玄しんげんのつ取ぬ。其せつ高国寺かうこくじ枚橋まいはしを。をのづから開退あけのきぬ。此三城を取返し手がらにすといへ共。するが国中こくちう長久保ながくぼ泉頭いづみかしら戸倉とくら志師浜しゝはま。此四ケじやうは氏やすもてり。扨又海浦里うみうらさとつゞき。ぬき。志下志師浜しげししはま真籠まこめ江のうら多飛口野たびくちの。此七ケ所のうら里。もするがりやう。氏康国なり。信玄しんげん勝頼かつより時代じだいまで。此するがりやうを取かへさんと。一生涯しやうがいのぞみ斗にてすぎられたり。いかにいはん。氏康前々ぜんよりもち来るしろをや。然に信玄は父信虎のぶとら追出ついしゆつし。甲州かうしうをうばひ取て。我国とす。駿河するが今川氏真いまがはうぢざねの国なるを。氏真若輩じやくはいにて。隣国りんごく源家康みなもとのいへやすに。切てとらるべし。人にとらせ無念むねんなり。氏真母は信玄しんげんがあね。氏真はわがおいなりと。氏真を遠州ゑんしうをひオープンアクセス NDLJP:516らつて。我国とす。いにしへ今に至るまで。大みやう小名もち親類しんるい縁類ゑんるいをねがひもとめるは。自然しぜんの時。ちからをあはせたがひにたのみ。たのまれんがため也。信玄世の誹見ひけんをもわきまへず。のあざけりをもはぢず。五じやうそむき。深欲しんよくちやくして。悪逆無道あくぎやくぶだう。ことばにたえたり。両国を押取をしとり手柄てがらをふるふといへ共。をのが骨肉こつにくのうち。悪子あくしはぢを。ちゝにゆづるといへる。古人こじんのこと葉。たゞ此人のうはさ人非人にぴにん鬼畜木石きちくぼくせきとなんぞことならん。論語ろんごに。君子くんしおやをすてずと云々。是は周公旦しうこうたん言葉ことば也。をよそ君子くんしたる人は。我親類わがしんるいぞくわすすてざるをもてじんとす。寛喜くわんきの比をひ北条武蔵守むさしのかみ恭時やすときは。かまくらの実検じつけん文武ぶんぶたつ人。天下静謐せいひつおさまりぬ。然に日中に。名越辺なごやへん騒動さうどうす。北条越後ゑちご守のていに。かたき打入のよし其聞えあり。此人は武州ぶしうおとゝなり。武州評定へうぢやうにありて。此よしを聞。すぐ彼地かのちにむかはしめ給ふ相州さうしう以下出仕の人々。其あとにしたひて。す。然に越州ゑつしうは。他行たぎやうなり。留守居るすゐさふらひども。悪党あくたう共とたゝかひ。討亡うちほろぼし無事に成ぬ。武州ぶしうよしきゝ路次ろじより帰り給ひぬ。左衛門尉盛綱もりつな。武州をいさめ申て云。重職ぢうしよくたいし給ふ御身也。たとひ国敵こくてきたりといふ共。先御使つかひをもつて。左右さう聞召きこしめし。御はからひ有べき事か。盛綱もりつなを。さしつかはされば。はかりごとをめぐらさしむべし。事を聞あへず。むかはせしめ給ふの条不可ふか也。向後きやうこうもしかくのごときの儀にをいては。ほとんど。乱世らんせのもとひ。のそしりをまねくべきかと云々。武州ぶしうこたへていはく。申所しかるべし。たゞし人の世にあるは。親類しんるい〈[#「親類」は底本では「類親」]〉を思ふが故也。眼前がんぜんにをいて。兄弟きやうたい殺害せつがいせられん事。あに人のそしりをまねくにあらずや。其時はさだめて。重職ぢうしよくのせんなからんか。武道ぶだういかでか。人体じんたいによらんや。只今越州ゑつしうてきにかこまるゝのよし。是を聞。人は少事せうじにしよずるか。このかみの心ざす所は。建暦けんりやくせう久の大敵に。たがふべからずと云々。時に駿河するが前司ぜんじ義村よしむらかたはらにかうし。是を承り。感涙かんかいのごふ。もりつなはおもてをたれて径廻けいくわいす。義村たつのち御所に参じ。御台みだい所にをいて。此事を語る伺候しかう男女なんによ是を聞。感歎かんたんするのあまり。盛綱もりつな諷詞ふうし武州ぶしう陣謝ちんしや。其ことはり猶いづれの方にあらんやのよし。すこぶる相論にをよんで。是をけつせずと云々。まことに世に有て。親類しんるいをば。かくこそ思ふべき事なれ。信玄しんげん生涯しやうがい六順りくじゆんをすてゝ。六ぎやくちやくし。仏神ぶつぢんのにくみをうけ。弓矢ゆみや冥加みやうがそむき。永代ゑいたいのあざけりを成ぬ。然に信玄は。近国きんごくてきと。もゝたびたゝかつて。一度うちまけずと。広言くわうげんすといへ共。其ゑきなし。百度たゝかつて。百度かつぜんとはいはず。はかりごとを。油幕ゆばくのうちにめぐらし。た〻かはずして。国をおさむるを。めい大将とす。するがの内氏やす持の四ケじやうを。一城取かへさぬ。無手柄ぶてがらにて。人の国へいかでをよばんや。誠のねがひ事。ゑきなき過言くわごん也。上をまなぶ下なれば。郎従らうじう武辺ぶへん手柄てがらをいひ。てきは五万三万。みかたはわづかに五千三千にて。数度すど合戦かつせん切勝きりかちわれはくびを百取。たれは首を五十三十取たると。人いつはりをいへば。我もいひ。たがひにほめつ。ほめられつ。他人にあひて。手柄てがらをいふは。国ならひぞかし。是又主君のまねをなす。信玄しんげんつね武威ぶい言葉ことばにはき。悪体にくてい〈[#「悪体」はママ。「憎体」の意か]〉おもてにあらはし。オープンアクセス NDLJP:517けんきやう人といはるゝを。よろこべり。ゆへ従者じうしやの云。信長のぶながも。氏やすも。君の御やりさきにをそれ。かのけんきやう人に。わが国を切てとられぬ様にねがひ候といへば。微咲ほゝえみ其者をほうびせられたり。去程に五じやうの道をしらず。ちゝ信虎のぶとら追出をひいだし。諸国を牢籠らうろうさせ。わが耻辱ちじよくをもわきまへず。子息しそく太郎義信よしのぶろうに入。のちがいす。六しん不和ふわにして。三ぼう加護かご有べからず。忠功ちうこう郎従らうじう等。すこしあやまりあれば。れいのけんきやうおこり。くびを切事。むしをころすよりいとやすし。神明しんめい冥感みやうかんそむき。人罰にんばつのがれがたし。其上信玄しんげん僧正そうじやうと。みづから名付なづきたるとや。それ僧正そうじやうがうは。大せつ官位くわんゐ行基菩薩ぎやうきぼさつよりはじまりぬ。かるがゆへに。出家しゆつけの官にのばる事は。仏道ぶつだうを二十年と卅年修行しゆぎやうし。智得ちとく霊験れいけんのしるし有て。禁中きんちうそう聞し。其こうによる。かるがゆへに。とくなくして。高位かうゐに有をば。官賊くわんぞくと名付。信玄しんげん生涯しやうがい極欲ごくよくちやくし。逆罪ぎやくざいはなせ共あきたらず。修善しゆぜんは一ぢんほども。たくはへず。かしらをそりても。心をそらず。悪逆無道あくぎやくぶだうにして。大僧正そうじやうにすゝむ事。まこと官賊くわんぞく前代未聞ぜんだいみもんなり。扨又甲州かうしうさふらひは。義を知て。けなげにすべき所なれば。一足もひかず。きみのためにくんこうを。ぬきんで。いのちをば一ぢんよりもかろく。をおしみ。をもんずといふ。然に天正十年のはる。信長公甲州かうしう発向はつかうし給ふ。勝頼かつより郎従らうじうも。此威勢いせいをそれ。きもをけし。甲冑かつちうたいし。弓鑓ゆみやりを取てむかはん事は思ひもよらず。身をかろくし。手を打ふつて。一あしさきへ。にげゆかん事をねがひ。てきのはたをも見ずして。たゞおちにはいぐんす。勝頼かつより古符中こふちうおち給ひし時迄は。一二百人どもしつるが。みなにげちつて。勝頼野田のだといふ在所ざいしよ落行おちゆき給ひし時。名有さふらひには。土屋惣蔵つちやそうざうたゞ一人供す。勝頼かつより公さがみはてきたらといへ共。きたのかたを先立さきだて。氏まさをたのまんと思ふはいかにとのたまふ。北のかた云。あにの三郎景虎かげとらなさけなくもころし。何を面目めんぼくにやと。勝頼かつよりよりさき自害じがいあり。皆人是を見て。女姓によしやうたりといへ共。勝頼に心まされりとかんじたり。家老からう長坂ながさか長閑ちやうかんを尋給ひければ。十日以前いぜんより見えず。跡部主爨あとべしゆさんと尋ぬれば。昨日きのふまで見えしがうせぬといふ。勝頼かつより野田のだのおく。天目山てんもくざんごう〈[#「郷」は底本では「卿」]〉人共にがいせられ給ひぬ。甲州かうしうさふらひ兼日けんじつ広言くわうげん。みぬ世のあざけりとなる。信長のぶなが甲府かうふへ打入給ひて後。甲州にていにしほまれ有し侍共。みな罷出候へ。御扶有べしと高札かうさつを立られければ。誠とおもひ。山みねわけ出て。我もと。着到ちやくとう仮名けみやうしるす。然に。かう駿しゆん両国の侍共。やりを一ちやう取なをさず。を一筋はなさず。敵のはたをも見ずたゞきゝおちに。主を見すてにげ臆病者おくびやうもの後代こうだいのこらしめとて。百余人なはをかけ。皆くびをぞきられたり。されば俗語ぞくごに。のうたかは。つめをかくすと云事おもひ合せり。たゞし事あるやらん是をしらず。我此ことばをさつするに。たかは爪有ゆへに。とりをとる。爪なくして鳥は。とりがたし。其つめと云は。勝負せうぶけつするずい一也。扨又さふらひの爪は武勇ぶゆう也其の爪を。戦場せんぢやうにもあらずして。常に外にあらはさんは。無能むのうたかのたぐひ。たか飛鳥とぶとりをはうべからず。されば早雲寺さううんじ殿。二十一ケ条とがうし。さふらひ生涯しやうがい身のおこはひおしへを。しるしをかれたる文有。其内二十ケ条に。武道ぶだうのさた一ごんなし。をはりの一オープンアクセス NDLJP:518ケ条に。文武ぶんぶ弓馬きうばみちつねなり。しるすにをよばず。左文右武さぶんうぶは。いにしへのほうかねてそなへずんばあるべからずと。書とめ給ひぬ。又氏康うぢやすは。文武ぶんぶたつ人。猛強まうがうの大将にて。此時代じだいに至て。関八州をおさめられたり。氏康のたまふは。数度すど合戦かつせん勝利せうりをうる事。我力にはあらず。ひとへに八まん菩薩ぼさつの。冥感みやうかんにかなひ。其上郎従らうじう忠功ちうこうによるがゆへなりと。わが武勇ぶゆうを。いひかくせり。此の人をそものふあるたかつめをかくすといつつべけれ。誠に後代こうだい記録きろくにものこるべきは。小田原北条弓矢ゆみやなり。ていれば。関東侍はいにしへよりだい相つたはり。かまくらの公方くばうの御被官ひくわん。官れい上杉の郎従らうじう也。然に古河の公方春氏はるうぢ公。上杉憲政のりまさと一し。天文十五年四月廿日武州ぶしう河越かはごえたちにをいて。氏康と合戦かつせんし氏康うちかつて。公方をも上杉をも。追討ついたう猛威まうひ遠近ゑんきんにふるひしかは。関東くわんとうさふらひ皆こと降人かうにんなつて。氏康幕下ばつかしよくし。上杉は越後ゑちごおち行。景虎かげとらを頼み。公方は氏康妹聟いもとむこ。其上若君わかきみ誕生たんじやう骨肉こくちく同姓どうしやうの儀たるによて。さすがうちはたしがたく。逆意ぎやくいをなだめ後も公方にあふぎ奉る所に。やゝもすればいにしへの郎従らうじうを相かたらひ。氏康に敵対てきたい有によて。或時あるとき相州さうしうはた野へながされ。或時は下総しもふさの国関宿せきやど流罪るざいせられ。世に有ても有がひなし。されば氏康は関東諸侍しよさふらひ底意そこいを兼てはかりしつて。無事の時境目さかひめの城々に。多人数たにんじゆを入。兵粮米ひやうらうまこめをき。てきにはかに逆乱ぎやくらん出来すといへ共。あへてもておどろかず。持国ぢこくけん固に守護しゆごし給へり。然に関東侍いにしへをしたひ。公方上杉の帰国きこくを一たびとねがひ。二度古主をあふがばやと其内に一人野心やしんをさしはさみ。文をめぐらせば。皆それにつきしたひ。信濃しなの上野かうづけ武蔵むさし下野しもつけ常陸ひたち下総しもふさの侍共。一輝虎てるとらを大将軍しやうぐんとし。永禄三年の春大ぐん引率いんそつし。さがみ大いそへんまではたらき。在家ざいけ放火はうくわ帰陣きぢんす。扨又永禄十一年の冬。武田信玄たけだしんげんするがへ出陣しゆつぢんし。今川氏真うぢざね追討ついたう〈[#「追討」は底本では「討討」]〉す。氏真は遠州ゑんしう懸川かけがはおち行。信玄は駿府すんぷはたを立られたり。其旗のそばに。いかなるものか。狂歌きやうかを書ふだを立ける

かひもなき。大僧正そうじやう官賊くわんぞくが。よくにするがのをひたをす見よ

とぞよみたる。然に氏真は氏康のむこたり此よしを聞。氏康氏政父子ふし同十二年正月中旬ちうじゆん五万余騎をそつし。するがへ進発しんぱつす。信玄此よしを聞。いそぎ小田原へ使者ししやとして。寺島甫庵入道てらじまほあんにうだう宏才者こうざいものつかはす所に。同十三日三じまにて出合であひたり。氏真の不義ふぎ信玄しんげん異心いしんなきむねしやすといへ共。しやつに物ないはせぞと。くびにつなさし。三まいばしに張付はつゝけにかけられけり。氏やすするがへ打入。信玄しんげん押領をうりやう所。ことくもて追討ついたうし同十八日。蒲原由井かんばらゆゐ薩埵さつた山へ取のぼり。はたを上られたり信玄是を見て。興津おきつ清見きよみへんへ。人数にんじゆを出し。たがひに。いどみたゝかふといへ共。中間ちうげん難所なんしよ有て大合戦かつせんなりがたし。数日すじつをくる所に信玄四月廿八日。惣陣そうぢんをはらつて。道もなき野山をたどり。夜もすがら甲州かうしうへにげゆきぬ。氏康は信玄にげ行由聞。するが国中。かんばら。高国寺。三枚橋まいばし戸倉とくら志師浜しゝはま泉頭いづみがしら長久保ながくぼ。七ツのしろに人じゆこめをき。氏やす父子ふし小田原へ帰陣きぢんせり。オープンアクセス NDLJP:519するが大みや善徳寺ぜんとくじ富士ふじのすそ過半くわはん氏康に切とられ。信玄しんげん遺恨いこんたるべしといふ所に。信玄同年六月二日。かう州を打立。駿州すんしうがはなり島にぢん取。氏康も駿河するが出馬しゆつばあり。対陣たいぢんす。然所に蒲原かんばら高国寺かうこくじまいばしの二じやうより相をさだめ信玄陣場ぢんば夜討ようちし。火をはなち焼立やきたて。四方より鯨波ときのこゑをどつとあぐる。信玄おどろき敗軍はいぐんす。一ぢん破れ残党ざんたうまつたからず。夜もすがら甲府かうふへにげ行。信玄八幡大菩薩ぼさつと書たるはたをすてたり是をひろひ氏康へ参らすれば。てきのをくれ此はたにてしつれたると笑ひ。小田原へ帰陣きぢんなり。其節落書らくしよ

名をかへよ。たけだがほすと八まんの。はた打すててにげ田信玄

とぞよみける。信玄当春とうはる夏両度の合戦に二度甲府かうふまで迯行にげゆき。是にもこりず。信玄又出陣しゆつぢんすべしと。この人数をことく。駿州へさしつかはして。七の城々しろ加勢かせいを入。相まつ所に。信玄上野かうづけ下野しもつけ武蔵むさし下総しもふさ居住きよぢうする。いにしへ公方上杉の郎従らうじうし信玄甲府を同十月二日に打立。一味の加勢大ぐんをいんそつし。道すぢの城々にをさへををき。すでに小田原へはたらきをなす。氏康案外あんぐあい無勢ぶぜいなれば合戦かなはず。小田原の人数にんじゆは。芦子河原あしこがはらへ打出大をへだてゝぢんす。信玄さき手の者酒勾さかば宿しゆく放火はうくわし。即刻そくこくひつ返す。時に至て小田原より切て出。おつ返し。てき敗軍はいぐんす。氏康氏政。団扇うちわをあげて。もらすな。あますな。うちとれと下知げぢし給へば。松田まつだ尾張をはり守。山かど上野守かうづけのかみ伊勢いせ備中びつちう守。福島ふくしま伊賀いが守等さきをかけ。酒勾より大いそ平塚ひらつかへんまで。をひうつ首の数。千余と云々。北条上総かづさ子息しそく常陸ひたち守は。甘縄あまなはよりはせ参じ同陸奥守むつのかみ。同安房守あはのかみ大道寺だいだうじ駿河するが守は。城をあげてはせくはゝる。十月六日の事なるに。さうかうのさかひ。三増到下ますとうげに。信玄人数をのこしをきぬ。味方みかた是をしらず北条助五郎同新太郎かつのりて。前登せんとうにすゝみ追討をひうつ所に。かくしをく所の多勢たせい切てかゝる。味方みかたくづれ坂中さかなかにて雑兵ざうひやう二三十人討れぬ。信玄北条弓矢ゆみやを取て。勝利しやうりを得る事。一だいに是一度なり。輝虎てるとら信玄関東逆臣ぎやくしんの。諸侍と一し。小田原へはたらくといへ共。我一身のはたらきの様にいひなせり。此両将の弓矢は。項羽かううひとりけなげをたのむ所。疋夫ひつぷ勇士ゆうし。をそるゝにたらずとこそ。氏康は申されしに。北条助五郎をば。甲州へ証人せうにんわたすといふ。片腹かたはらいたく。言葉ことばにたへたり。くだんの助五郎新太郎兄弟きやうだいに。永禄七甲子きのえね正月八日。高野台かうのだい合戦かつせんに。先陣せんぢんにすゝみ。ほまれをえたる大人なり。氏つなやすよりこのかた。信玄国をおほく切て取。証跡せうせき有といへども。氏康国を一がうそん。信玄取たる証跡有べからず。信玄西にし上州へ出馬しゆつばせらるゝは。氏康はたしたの侍。逆心ぎやくしん有て一するが故也。勝頼かつよりは天正五年。氏政旗下はたしたになるにより。甲州かうしうさふらひ弓矢にをとらじと。作言さくごんのさへづりをもつて。はじをすゝがんとのはかりごとなるべし。あまつさへ。小田原町を放火はうくわすといふ。其いくさは天正十八年まで。廿二年以前の事也。今四五十さいにをよぶ。相模さがみ小田原の男女なんによ迄も。ことく其いくさをばしりたり。国語こくごたみくちをふせぐ事。川をふせぐより。はなはだかたしと云々。虚実きよじつたづねらるべし。甲州かうしう虚笑きよせうなる事。小田原の。うオープンアクセス NDLJP:520はさのみにあらず。永禄四年九月十日。信州しんしう河中島かはなかじまにをいて。輝虎てるとらと信玄合戦あり。かたつていはく信玄床机しやうぎこしをかけ。居所きよしよ輝虎てるとらはせ来て。馬上ばじやうにてつゞけて三かたなうつ。信玄少もさはがず。小勇せうゆう太刀たちをとり。大勇たいゆうはうちはを取といふ。兵書ひやうしよ軍法ぐんぽうしつて。三度ながら団扇うちわをもてうけながし。其外てき共にも。うちはにて請られたり。のち見ればうちはにきず八かたな有といふ。さぞくろがねのうちはにてこそ有つらめ。つねのうちはならば。輝虎てるとらいかで一太刀たちに打おとさざらん。甲州かうしうくびを一ツとれば。百といひ。十とれば。千といふ。かくのごときの虚言きよごんあげてかぞふべからず。たゞ右のうちは一ツをもてさつするにしかじ信玄うちはに。太刀きず八ケ所有といひて。人のまことにせんと思ふは。女わらはへにもをとりたる。侍の所存しよぞんにあらずや。論語ろんごことをたくみにし。いろよくするは。すくないかな。じんあること云々。はづべし随分ずんぶん我ためをいへ共。首尾しゆび不合ふがうのわきまへもなく。他人たにんのあざけりをもしらず。口にまかせつくごとをさへする事。いふにたへたり。ていれば信玄氏康へ。逆臣ぎやくしんともがらに手をひかれ。小田原へはたらくといへ共其いきほひに。小城こじろを一ツせめおとすべき。てだてもせず。一時さゝゆる事もなく。たゞ是一寄合よりあひにて。しりぞく時に至ては。たれ下知げぢにもをよばず。我さきにとひとりに打なつて。退散たいさんしをのれ居城ゐじやうへ。ひいて入有様たとへば。大みやう狂言きやうげんに。ゑほしひたゝれをちやくし。太郎冠者くわんじや。次郎冠者をあとにつれ。まことしく大みやうなつて出るといへ共。舞台ぶたいより楽屋かくやかへれば。もとの猿楽さるがく〈[#「猿楽」は底本では「楽猿」]〉なり。輝虎てるとら信玄しんげん数国しこくぬしなりを引ぐし。大名がほに先立さきだつて。いかめしく小田原へはたらくといへ共。たゝ一時のあいだ。邯鄲かんたんゆめ退散たいさんに至てはともなふ人もなく。手ににぎるたからもなし。ひとりに成て帰りたるは。誠に大名狂言きやうげんにことならず。然に氏やすかの逆臣ぎやくしん追討ついたうのため出馬しゆつばし。先其内張本ちやうぼん人の居城ゐじやうを取まき。せめらるそのに至ては。以前いぜんとかくいかなしみ。ひたすら降参かうさんす。氏やす家老からうの者ども云く。やゝもすれば。かれら野心やしんをさしはさみ。てきをなす。其上一人ばつすれば。しゆ人をそる此小城こじろをせめおとす事。手の内にありといふ。氏康聞てそれ国ををさむるにはたみをもとゝす。われに一たび敵対てきたいの者とて。みなうちぼろほす。是仁道じんだうそむけり。小人は一たんとがを見て。とほとくをしらず。つみをゆるうするは。是しやうのはかりごとなり。関八州はたしたさふらひ共。みな是かくのごときの小城こじろ也。せめおとす事。日を過ぐべからず。然どもかれをうちはたすに至ては。関東くわんとう諸侍しよさふらひ。我身の上と用心ようじんし。氏やすに心をくべし。降人かうにんなつ入道にふだうし。すみぞめのころもちやくし。出仕しゆつしの上は子細しさい有べからず。其上法度はつと慈悲じひよりをこる。つみのをもきをばかろくし。こうのうたがはしきをば。おもくするにしかじと。かれが罪科ざいくはを。あへてもてとがめず。宥免ゆうめんせらる。扨又其時節じせつ逆臣ぎやくしんのともがら。此よしを聞。われ先にといそぎはせ参じかう人となる。関八州もとのごとくをさまりぬ。然に隣国りんごくはう八方にてき有て。西にしより発向はつかうすれば又。ひがしよりも後詰ごづめをなし。敷度すど合戦かつせん有といへ共。帰降きかうのともがら二心なく。以前いぜんつみ宥免ゆうめんせらるゝ。氏オープンアクセス NDLJP:521やす深恩しんをんかんじ。身命しんみやうをなげうち。一すぢ勲功くんこうをはげます。是に付て思ひ出せり。治承ちしやうの比ほひ。頼朝公よりともこう相州さうしう石橋いしばし山の合戦にうちまけ房州ばうしう落行おちゆき給ひぬ。はたけ山次郎重忠しげたゞ河越かはごえ太郎重頼しげより。江戸太郎重長しげながは。有勢ゆうせいもの源氏げんじゆみを引。三うら大介義明よしあきらを討ほろばす。然に頼朝よりとも鎌倉かまくらへ打入給ふ時。右の三人をはじめ。逆心ぎやくしんともがらこと降人かうにんなつて出る。味方みかたこうする者共いはく。今先非せんぴをたゞされずんば。後輩こうはいをこらしめがたしと。然共みな宥免ゆうめんせられ。刑法けいはうに及ぶ事。十に一かと云々。此等の者其厚恩こうをんかんじ。後ちうつくす。国ををさむる大将古今ここんことならず。関八州の武士ぶし輝虎てるとら信玄しんげんにもくみせず。氏やすにおもひより。幕下ばつかしよくし。ゆへ多国たこく永久えいきうをさめ。文武ぶんぶ智謀ちぼうの。めい大将のほまれをえ給へり。古語こゞに日月のしよくをば人皆見る。あらためてもとのごとく。めいに立かへれば。たみみなあふぐ。一しよくするとて。日月をいやしむる事なし。氏康のあやまちも。又しか也あらためて。ぜんにかへれば。人皆たつとぶ。一度あやまつとて。いかで其よきを。うすく思はんや。孟子まうしにまつりことをするに。人ごとによろこばせんとならば。日も又たらずといへり。一つをしやうしてもて。もゝをすゝむといふ事あり。荘王さうわう夜中の酒宴しゆゑんに。臣下しんか共のかぶりのをゝきりつみゆるされたるも後は。荘王のめいにかへられたり。古語こゞに地うすければ大木生せず。水あさければ大ぎよあそばずとかや。氏康は心を大きにもてる故。幕下ばつかに大名おほし。めいしやうは。われとがらをいはね共。多国たこく守護しゆごする証跡せうせき。世に聞え。弓矢の威光いくわうをかゞやかす。小将せうしやうは。われと武辺ぶへん利口りこうすれ共。小国せうこくぬしたるゆへ。武道ぶだうのよはきしるしをあらはす。それ北条根源こんげんたづぬるに。早雲さううんは。京都きやうと公方くばうへ。御他界たかい以後いご。たゞ一人駿河するがへ下り。今川氏ちかをたのみ。其後武畧ぶりやくをもて。伊豆いづきつてとり。扨又相模さがみ半国はんごく手に入。長兄ちやうきやうつな相模さがみをおさめ。武蔵むさし下総しもふさしろを。おほくせめおちし。子息しそくやす時代じだい八ケ国をおさめ。氏まさなをまで五代。嫡々ちやく家督かとくをつぎ。百余年関八州を静謐せいひつおさめ。武運ぶうんすゑいたつては。大じやうに有て。天下を引うけ。百余ケ日楯籠たてこもり。滅亡めつばうし給ひぬ。引矢を取てかく。始終しじうおさめたる武家ぶけ前代未聞ぜんだいみもん後代こうだい亀鏡きけいにもとゞまり。仏神ぶつじんいのつても。ねがはしきは北条の弓矢なるべしと。広言くわうげん

 
 
聞しはむかし。北条氏なを時代じだい。小田原にをいて。まい月二づゝ。奉行ぶぎやう衆八州のをきてを。沙汰さたせらるゝ寄合よりあい人々。伊勢いせ備中守びつちうのかみ大和やまと兵部少輔ひやうぶのせうゆう小笠原をがさはら播摩はりま守。松田まつだ尾張をはり守。同肥後ひご守。山かど上野かうづけ守。同紀伊きい守。塀賀伯耆守はがのはうきのかみ安藤あんどう豊前ぶぜん守。板部岡いたべをか江雪ごうせつ入道にうだう等也。されば。ある奉行ぶぎやうよつ合あり。かやうのさたをば。きゝをく事なりとわれ其場へゆき。かたはらに有て聞しに。様々のさたども有てのち上州じやうしう吉村よしむらといふさとの百しやう一人。かうべをぼうにて打わられ。ながれたるていたらくにて出るあひては女なり。をとこ申けるは。それがしもやもめ。此女もやもめ。おなじ里近所さときんじよに罷有オープンアクセス NDLJP:522候が。此比女のいへへよるかよひ候所に。女又べちをとこ近付ちかづき。われをばきらひ。ぬす人よとたかくよばはり候ゆへ。あたりの者にはぢ。にげ候所に。むらの者共出あひをつかけぼうにて。かうべを打わり候。われまつたく盗人にあらず。かの無実むじつ申かけたるいたづら女を。罪科ざいくわにおほせ付られ下さるべしといふ。女いはく男と出あひ候事。一もしらず。夜中やちうにわがいへの戸をやぶり入候故。盗人よとよばゝりたると返答へんとうすいづれ理非わきまへがたし。盗人のをとこもふてきにして。すこしもおどろかず。気色きしよくとならず。耳目じぼくたゞしく有て。言葉ことばのとゞこほりなし。双方さうはうまことしく申ければ。奉行ぶぎやう衆も。理非りひを付がたく。おぼしめすていにて。しばし是非ぜひの御さたなし。近所きんじよに。老人らうじん有しがいはく。さいぜんをはりたる沙汰さた共は。出入様々の子細しさい有て。我々浅知せんちにはさらに。分明ぶんみやうをよばざりしが。凡慮ぼんりよにをよばぬ。当意則妙たういそくめう金言きんげん。めづらしき御沙汰共。耳目を。おどろかし。感じたり。日本国はさてをきぬ。異国いこくにをいて。さばきあまれる沙汰なり共。此奉行衆の。成敗せいばいにもるゝ事有べからずとおもひつるに。此おとこ女の沙汰さたは。させる子細しさいもなし。あまし給へるていたらく。ふしんなりとつぶやきけり。然に奉行ぶぎやううちに。江雪ごうせつ入道にうだう(氏直の右筆宏才利口の者也)申けるは。やもめおとこ。やも女の出あひ。めづらしき沙汰なり。それ貞永ていえい元年に。しるをかれたる御成敗式目せいばいのしきもくに。他人妻たにんのめ密懐みつくわいする罪科ざいくわの事。所領しよりよう半分はんぶんめされ。出仕しゆつしをやめらるべし。所帯しよたいなくんば。遠流をんるしよせらるべし。女も同罪どうざいと云々。次に道路だうろつじにをいて。女をとらふる事。御家人かにんにをいては。百ケ日出仕をやむべし。郎従らうじう以下いかに至ては。将家しやうけの御時のれいにまかせて。かたかた及びんぱつを。剃除たいじよすべしと云々。扨又正応しやうおう三年の比。鎌倉かまくらにをいて。法度はつとをしるしたるふみに。名主みやうしゆしやう他人たにん密懐みつくわいする事。訴人そにん出来いできたらば。両方を召决めしけつし。証拠せうこたづねあきらむべし。名主の過料。三十貫文くわんもん。百姓の過料五貫文。女の罪科同前ざいくわどうぜんと云々。ていれば。たうだいには。他人たにんつまに密懐する者。死罪しざいにをこなはる。されば孀男。やもめ女。出あひの沙汰さたは右大しやう以後このかた。代々公方くばう法式ほふしきにもしるさず。むかしもろこしに。展季てんきと云者は。りうかけいがあざ名なり。此人やもめ男にてひんなり。となりにやもめ女有けるが。いへを雨風にやぶられて。やもめをとこ宿やどをかるに。すでにかしたり。時しもふゆなりければ。女さむげなりとて。いへやぶりて焼火たきびにし。あたゝめるは。ころもをおほひて。ふとこゝろにいねさすれ共。懐嫁くわいかすべき心なし。扨又がんしゆくしと云男。やもめなり。又やもめ女宿をなやよをかれども。戸をとぢていれざりければ。女が云柳下りうかけいがごとくに。宿やどをかさゞるやとなげく。顔烈子がんしゆくしが云。其人はまことにかたくして。宿やどをかしけれ共。をかす事なし。われはかんにんなるべからずとて。つゐにかさず。むかしはかゝる。律義者りつぎしや正直人しやうじきにんも有けり。今の世は。男女なんによ共に。淫乱いんらんふかふして。此道にまよへり。やもめおとこ嫠女やもめをんな近所きんじよに有事なれば。おとこの申分。さもやあらん。され共証拠せうこなし。それうつたへ聞者きくもの。其人を見るに。五聴ごちやうと云て。五ツのしなを。周礼しうらいに。のせられたり。一に云詞聴しちやう。二に云しき聴。三に云オープンアクセス NDLJP:523聴。四に云聴。五に云目聴。と云々かれらが浄論しようろんにをいては。しき。目にてもさつしがたし。扨又女申分にもせう跡なし。双方さうはういづれ。証拠を出すべしといへり。女云我三とせ以前いぜんをとこにはなれ其年より。なに共しらざる。腫物しゆもつ出来いできたり。ひそかに。医師いしたづねければ。是は開茸かいたけ名付なづく。女の身に有やまひ也ときく。是はいかなる因果いんぐわにやと。あさましく思ひて。養生やうじやうをいたすといへ共今に平愈へいゆせず。是ゆへおとこみちはおもひもよらずといふ。おとこの云もつとも女の生物おひもの有といへ共寝臥ねふしをば心やすくいたすといふ。女のいはく身に出来でき物の事わざと虚言きよげん申たりと。大きにわらふ。其時なん。色をへん無言むごんす。ゆへに男はなはにかゝり。女は私宅したくかへされたり。ぬす人もよくはちんじけれ共。女の智恵ちゑには及びがたし。開茸かいたけのはかりごと。あんほかなりとかたれば。かたへなる人きゝて。男女おとこをんな問答もんだう。まつたく。わたくしの言葉ことばにあらず。これ天のいはする所なり。かくのごときの。災難さいなんに天のめぐみもなく。このむなしくは。神明しんめい本懐ほんくわいも。いたづらに。仏法ぶつほふ正理しやうりも有べからず。天のつみのがれがたしといへり
 
 
聞しはむかし元亀げんき二年のあき。北条氏まさと。佐竹義重さたけよししげ。ひたちの国にをいて。対陣たいぢんのみぎり。岩井いはゐといふ味方みかた在所ざいしよに。いへ四五十有て。朝夕ちようせきけふりを立る。此さと佐竹さたけ陣所ぢんしよへちかし。てき此在所へ夜討ようちすべしと味方みかた足軽あしがる。二三百人。毎夜まいやくさふして。てきをうかがふ所に。あんのごとく。佐竹かたより。多勢たぜいをもて。此さと夜討ようちし。引返ひつかへす時に至て。味方の草おこつて。あとをしたひ。のがさじとをつかくる。てきとつて返したゝかふといへ共。夜討のならひ。引時はをくれてしりぞきがたし。をひかくる者は。いさんですゝみやすし。其上てきは。順路じゆんろ方角はうがくをわきまへず。進退しんたい成がたし。味方は詰り節所せつしよを。かねてよくしり。きほひかゝつて。追討ついたうす。てき数度すど返しあはせ。たゝかふ故。味方みかた手負てをい死人しにんおほし。され共退口のきぐち。一あしさきへと心ざすゆへ。くびは一ツも取えず。敵をば百余人うちとる。其首どもを氏政の旗本はたもともち来て。実検じつけんす。其中に岩井いはゐの百姓二人がらの首をとる。其内一人はさふらひ相討あいうち也。氏政此よしきこしめし。侍のくび取事はつねなり。百姓軍中ぐんちうに入。さふらひと相ならんで首取は珍事ちんじ也。先二人の百姓を最前さいぜんめし出し。賞禄しやうろくをあてをこなはるべしとおほせにより。二の百姓御まへに参候さんかうす。一人申けるは。それがし岩井いはゐの百姓にて候が。味方みかたまい夜草にふし候を。かねぞんずる故。其心がけ有て。竹鑓たけやりちやう支度したくいたし。今夜こんや夜討ようちに。味方みかたの中へくはゝり。さんをみだしたゝかふ時に。てきとそれがし。たがひに鑓ぐみ。それがしひだりのかいなを一やりつかれ候へ共。てきをつきふせ。首取て候と申。氏政聞召。百姓として。気なげのはたらき。奇特きどくむねぢきに御ほうび有て。のち感状かんじやうにいはく。此度佐竹義重さたけよししげ常陸ひたちの国へ出陣しゆつぢんし。岩井いはゐがうへ。てき夜討ようちきざみ。いは井の百姓味方みかたぢんへはせくゝはり。前登せんとうにすゝみ。てきとたがひにオープンアクセス NDLJP:524やりぐみ其身手負てをひといへ共。つゐには。てきをつきふせ。くび討取うつとる事。関八州無双ぶさう剛民がうみん。一人当千たうせんのはたらき。前代未聞ぜんだいみもん也故に。百余討捕うちとり首の内にをいて一番の高名と。着到ちやくとうにしるす者也。此度勲賞くんしやうに。百姓をてんじ。さふらひとし在名ざいみやうもちひ。岩井いはゐのり。くわん兵庫助ひやうごのすけになし下さる。今日より岩井兵庫助と名付なづくべし。其上岩井いはゐがう領知りやうちし。永代えいたい子々孫々しゝそんのさまたげ。有べからず。御はたもとにまかり有て以来いらい忠功ちうこうをはげますにをいては。かさねてしやうをあてをこなはるべき者也と云々。扨又のこる一人の百姓と。相討あいうち小栗をぐり権之ごんの助と。両人御まへかうす。皆人汰沙さたしけるは。小栗権之助は。北条譜代ふだい武士ぶし由来ゆらい有ものゝそんなり。若輩じやくはいと云ながら。いまだやりのさきにをつけず。くび取事もこれはじめなり百姓と相討あいうちするに至ては。其首百姓にとらせたらんは。誠にさふらひ面目めんぼくたるべきに。其上うゐくびを百姓と相討し。御前へ出る事。さふらひ冥加みやうがそむき。諸卒しよそつのあざけりたり。きみもいかで其御心つきなからん。武勇ぶようをたしなまんともがらは。小栗権之助と。同座どうざをもなすべからず。もしあやからんかと目引めひきはな引。くちびるをうごかす所に。百姓出て申けるは。それがしも。岩井いはゐの百姓。てき夜討ようちかねて心がけ。竹鑓たけやりちやう用意ようい味方みかたの内へはしり入て。さきがけ仕候所に。是なるさふらひと。てき太刀たちにて。うつつ。うたれつ。たがひ数ケ所すかしよ手負てをひかちまけいまだ見えざるに。それがしよこやりにかゝり。てきをつきふせ候所に。是なるさふらひ。首を取て候。それがし相討あいうちとたしかにことはり候と申。氏政聞召。軍中ぐんちうにをいて百姓かくのごときのふるまひ。諸侍しよさふらひはづる所。言語ごんごたへ神妙しんめうなり。此度の忠賞ちうしやうに。此者毎年まいねんさくするところの田畠でんばた永代えいたいつくり取にいたし。其上岩井いはゐがうの。肝煎きもいり仕べき者也。然に百姓と相討あいうち仕る。小栗をぐり権之助。此度てき夜討ようちに。前陣ぜんぢんにぬきんで。強敵がうてきに出あひ雌雄しゆうをあらそひ。猛威まうひをふるひ。てき数ケ所すかしよ手負てをふせ。ぬしも手をひ勝負しようぶけつしがたき所に。百姓一人とび来て。助鑓すけやりをし敵をうつ取事。摩利支天ましりてん来現らいげん。権之助が武勇ぶようのいたす所にあらず。是神明しんめい仏陀ぶつだ冥慮みやうりよにかなふがゆへなり。かの百姓けなげ者の。手がらをかんぜしめ給ふによつて。おほく討捕うつとるくびの内にをいて。二ばん高名かうみやうと。着到ちやくとうに付らるゝ事。小栗をくりごん之助。軍中ぐんちう面目めんぼくを。ぞんずべき者也と云々。相のこさふらひ共の。討取うちとる所のくび戦場せんぢやう厚薄こうはく勲功くんこうおうじ。一がうそん金銀きんしよ侍に。勲賞くんしやうせらるゝ事。あげてしるしがたし
 
 
聞しはむかし北条氏康公。近習きんじゆつかへし。たか伊予守いよのかみといふ老士らうしかたりけるは。氏やす文武ぶんぶたつ人。弓矢ゆみやを取て。関八州にをふるひ。東西南北とうざいなんぼくてき有て。たゝかひ。昼夜ちうやいくさ評定ひやうぢやうやんごとなく。寸暇すんかをえ給はず。され共すきのみちにや。其内にも和歌わかを。このましめ給ひたり。ある時は和漢わかん才人さいじんあつめ。或時はうたくわいあり。氏康百しゆ自詠じえいを。京都へ上せられ。逍遥院殿せうえうゐんどの合点がつてんを。度々どゞ取給ひぬ。あるゆふつかた。高楼かうろうにのぼり。すゞみ給ひける時に。其近辺きんべんへ。きつね来てなきつるを。オープンアクセス NDLJP:525まへかうする人々。あやしみけれ共。兎角とかくいふ人なし。梅窓軒かいそうけんと云者申けるはむかし頼朝よりとも公。信州しんしう浅間あさま。みはら御狩みかりに。狐なききたをさしてとびさりぬ。人々是をとゞめんとて。はづを取てをつかけしかどもにげすぎぬ。頼朝よりとも公御らんじ。あききつねとこそいへ。夏野なつのに狐なく事。不審ふしんなり。たれか有うたよみ候へと。おほせ下されければ。工藤祐経くどうすけつね承りて。まこと昨日きのふ御狩みかりにをいて。梶原源太景季かぢはらげんたかげすゑうたには。鳴神なるかみもめでゝ。あめはれ候ひぬ。是にも歌あらばくるしかるまじ。誰々たれもと申けれ共よむ人なかりしに。武蔵むさしの国のぢう人。愛甲かいかふ三郎季隆すゑかた。ゐだけだかになり。うかべるいろ見えしがやがて

夜るならば。こうとこそ鳴べきに。あさまにはしるひるきつねかな

と申ければ。きみ聞召きこしめして。神妙しんめうに申たり。まことに狐におほせて。吉凶きつけう有べからずとて。上野かうづけの国。松井まつゐ田にて三百町を給はるとかや。慮老ぐらう和歌わかの道をまなび候はゞ。をよばぬまでも。あんじて見候べきをと申。氏康うぢやすきこしめし。夏狐なつぎつねなく事。珍事ちんじなり。皆々みなうたあんじ。出来いてき次第に。一しゆ仕るべしと。仰有ければ各々おの案ずるてい見えけれ共。よみ人なし。やがて氏やす

夏はきつ。ねになくせみのからころも。をのれが身の上にきよ

とよみ給ひしに。明て見れば。其狐のなきつる所に。しにて有けり。みな人。奇妙不思議きめうふしぎ也とかんじあへり。氏やす希代きたいの大将。うんを天にまかせ。じんを人にほどこし。諸人しよにん親兄しんきやうのごとくおもひ。慈悲深重じひしんぢうにして。寛仁大度かんじんたいどなり。つね祇候しかう諸侍しよさふらひに。あるひ礼義れいぎあつうして対面たいめんし。或はなさけ有言葉ことばをかけ。しよくするひまもじんにたがはず。累年るいねん過来すぎきたる。氏やすいはく。わが数度すど合戦かつせんに。勝利しようりをうる事。武力ぶりきのいたす所にあらず。たゞしかしながら。天うんまつたうして。神明しんめい仏陁ぶつだ擁護おうごにかゝるが故也と。仏神ぶつじん信敬しんきやうし。諸寺しよじしや建立こんりうせり。亡父ばうふつなは。天文九年鶴岡山かくかうざん幡宮まんぐう造立ざうりうし。氏やすは同十一壬寅みづのへとら年卯月十二日。由井ゆゐはまの大鳥居とりゐを立。旧規きうきにまかせ。千遍陁羅尼せんべんだらにを七日をこなはるゝ。供養くやういたつて。一切経転読先例さいきやうてんどくせんれいに相かはらず。布施等ふせとう品々しな目録もくろくあげてしるしがたし。其大鳥井とりゐ天正年中まで有。今はたえてなし。氏康かく有て。家運かうんまもり給ひぬ。かみあれば。しもあへてもて。ふくせずといふ事なし。諸侍しよさふらひ身命しんみやうきみになげうち。ちうをいたさんとす。されば仁義礼智信じんぎれいちしんの五ツの。ありといへ共。たゞ一心にきはまれり。君としては万民ばんみんをあいし。しんきみ能仕よくつかへ。ちゝとしては。あはれみ。おやかうをつくし。とも礼義れいぎをもて。まじはりをむつまじくす。是みな智仁勇ちじんゆうの内にあり。君臣くんしん合体がつていすれば。国家安泰こつかあんたいなり。其上氏やすは。他国たこくよりきたさふらひを。あまねく扶持ふちし。なをもて有職いうしよくの者をば。慇懃いんぎんにせられたり。楚国そこうには。たからをたからとせず。ぜんをたからとすと云々。珠玉しゆぎよくをたからとする者かならず。わざはひをまねくといへり。賢人けんじん内に有ときむば。小人せうじんほかに有。小人内に有ときんば。賢人けんじんほかさるかるがゆへに。故じつそんずるさふらひは。他国たこくに有ても。北条に心をよせ。諸国しよこくより小田原へ来るをかゝへをき。ことオープンアクセス NDLJP:526もて近習きんじゆめしつかはれ。其国々くに弓矢ゆみやのてだてを。朝暮ちようほ尋聞たづねきかしめ給ひたり。ゆへ諸国しよこくの大将の。弓矢ゆみやのてだて。軍法ぐんはふをよくしつて。戦場せんぢやういたつては。それてだてたいして。智謀ちほう〈[#「智謀」は底本では「略謀」]〉武略ぶりやくをつくし。勝利しようりをえ。持国ぢこくをまつたく守護しゆごし給へり。つたへ聞。けつは。無道むだうにして君臣くんしんれいをうしなふ。扨又いん湯王たうわうは。賢人けんじんをもとめ。はかりごとを聞て。まつりごとを。たゞしく取をこなへり。ゆへ諸候しよかうも。そむき。百姓もとくたうおさむ。つひには湯王たうわうけつうつて。天下をおさめ給ひぬ。されば小田原に。小笠原をがさはら播摩守はりまのかみ伊勢いせ備中びつちう守。大和やまと彦三郎。是はのち兵部少輔ひやうぶのせういふ改名かいみやうす。此三人は京都公方くばう様につかへ。御他界ごたかい以後いご関東くわんとう下向げかうし。牢人ろうにん分にて。小田原に堪忍かんにんなり。仁義じんぎみち有て。弓法きうはふをしれる人々也。氏やす自愛じあいなゝめならず。つねに御はなしの衆なり。氏康をきてに。軍陣ぐんぢんにをいて。諸侍しよさふらひいくさのてだてを見付思ひよる兵術ひやうじゆつ是あるに至ては。貴賤きせん上下をえらばず。推参すいさんをはゞからず。いそぎはせ参じ。直に申上べし。云々。故に諸侍武略ぶりやくをたしなみ。軍中ぐんちうにをいて。ぞんずる。てだてあれば。すなはちごん上す。其せつに至て。時々刻々じゝこくすこぶる。ほうびし。あるひ近習きんじゆめしつかひ。或はしやうをあたへ給ひぬ。是によて又も云しらしめ奉らん。と。下々に至までも兵法ひやうはふをたしなみ。有職いうしよくの人に近付ちかづき軍法ぐんぱう尋聞たづねきゝて。弓馬きうばみち日夜にちやにまなび。其身術計じゆつけい勝利せうりえん事を。もつぱらとす。氏やすいはく。我いくさこうずるに至ては。あまたの者に相談さうだんし。三人いふ時はかならず。二人いふかたにつく。其ゆへは。数度すど合戦かつせんをえたりと。わが分別ふんべつを云かくし。郎従らうじうを取立給ひぬ。かく有により。他国たこくの侍までも。北条に心をよせずといふ事なし。此時代じだいに至て。関八州静謐せいひつにをおさまりたりと。物がたりせり

 
 
見しはむかし。関東くわんとう諸国しよこく見だれ。弓矢ゆみや〈[#「弓矢」は底本では「矢弓」]〉有てやむ事なし。中にも北条たひらまさは。文武ぶんぶの大しやう関八州にをふるひ。ならぶ人なかりき。然に永禄ゑいろくの比ほひ。織田上総守信長をだかづさのかみのぶなが。京都へせめ上り。三好みよし追罰ついばつし。公方くばう義昭公よしあきこうみやこうつし申。天下に義兵ぎへいあげ関西くわんざいをなびかすといへ共。わがまゝを振舞ふるまひ無礼ぶれいをあらはし。公方をかろしめ申さるゝによつて。関東くわんとう北条氏まさ軍兵ぐんびやうそつし。上らく仕り。信長のぶながを退治いたすべきのむね。義昭公より使者ししやを下さるゝ。氏政承て。此めい仰下おほせくださるゝ事。いへにをいて面目めんぼくたり。し申に。かへつをそれありまかり上り信長を。追罰ついばつ仕へきむね言上ごんじやうせしむ。氏政云く。それ信長は。高野聖かうやひじりをことくびきりし事言語げんごにたへたり。むかし仏敵ぶつてきなる人を尋るに。天竺てんぢくにては。提婆だいば。たつた。ほとけそねみ。を出す。我朝わがてうには。守屋もりやじん聖徳太子しやうとくたいし仏法ぶつはふひろめ給ふをさまたげ。きよ盛は南京なんきやう。扨又囲城寺をんじやうじ放火はうくわし。松永まつなが〈[#「松永」は底本では「松長」]〉弾正は。奈良なら〈[#「奈良」は底本では「良奈」]〉の大仏殿を灰燼とす。悪逆無道あくぎやくぶだうによつて。天罰てんばつのがれがたく。此の人々。在世ざいせ久しからず。みなほろび果たり。然に比叡山ひえいざんは。人皇にんわう五十代。桓武天皇くはんむてんわう延暦ゑんりやく年中。伝教でんけうと。御心をあはせ。御建立こんりう有しよりオープンアクセス NDLJP:527以来このかた王城わうじやう鎮守ちんじゆとして。すでに八百余年にをよぶ迄。此山をあふがずと云事なし。詫宣たくせんに三千の衆徒しゆとやしなつて。我がとし。一ぜう教法けうはふまもつて。我いのちとすと示し給ふ所に。信長のぶなが元亀げんき二年。辛未かのとのひつじ九月十三日。比叡山ひえいざん堂社仏閣だうしやぶつかく。こと焼亡やきほろぼし。三千の衆徒。一人ものこさずくびをはね。五ぎやくあく人。いふにたへたり。神明しんめい仏陀ぶつだ冥感みやうかんそむき。天道てんだうのにくみをうけ人罰にんばつのがれがたし。其上信長は。武道ぶだうのみもつぱらとし。ぶんもちひ給はず。故にじんみちをしらず。仁者じんしやはかならずゆう有。勇者ゆうしやはかならずじんあらずと。文宣王ぶんせいわう微言ひごん。おもひしられたり。政道理せいどうりにあたる時は。風雨ふうう時にしたがひ。国家こつかゆたかに。善悪ぜんあくくさの風に。したがふがごとし。信長のぶなが仁義じんぎみち。しらざる事。土木どぼく瓦石ぐはせきと。なんぞことならん。人れい有ときんば。すなはちやすく。不礼ぶれいなるときんば。則あやうしと。礼記らいきに見えたり。威有みちなき者。かならずほろぶといひをきし。先賢せんけん言葉ことばをしらず。氏まさいやしくも。弓馬きうばたづさはり。あひがたき時に。いまむまれあひ。きみの御威光いくわう。御佳運かうんにくみしかれが悪逆あくぎやくをせめほろぼさん事。神明しんめいまもり。天道てんだうもいかでかすくひ給はざらん。然に隣国りんこくてき信玄しんげん入道は。天正元年に卒去そつきよし。常陸ひたち義重よししげ安房あは義頼よしより和談わだんし。同五年のなつ。小田原へ証人せうにんわたす。甲州かうしう勝頼かつよりも。同五年旗下はたしたになり。其上氏まさの。妹聟いもうとむことなる。越後ゑちごは氏まさ舎弟しやてい。三郎輝虎てるとら養子やうしなつて。上すき三郎藤原景虎ふぢはらのかけとら改名かいみやうし。家督かとくつぎ。関東におもひのこす事なし。是によて越後と。相模さがみ兼約けんやく有て。同きたる六年には。信長のぶなが退治たいぢとして。輝虎てるとら東山道たうさんだう。氏まさ東海道とうかいだう。両はたをもて。京都へせめ上り。信長のぶなが追討ついたうし。義兵ぎへいをあげ。仏法ぶつはふ王法わうはうをとろへをおこし。天下の。まつりごとを。たゞしく執行とりをこなはんと。たなごゝろににぎり。其支度したく有所に。同六年のはる輝虎てるとら頓死とんしす。此せつに至て。長尾景勝ながをかげかつ源勝頼みなもとのかつよりと一し。三郎景虎かげとらをほろぼす。すで越後ゑちご甲州かうしうてきたるゆへ。氏まさらく延引えんいん勝頼かつよりまさと。父子ふし契縁けいえんたりといへ共。欲心よくしん内にあれば。骨肉こつにくてきとなる。世のことはりさだめがたし。然に北条とたゝかひし勝頼かつより信長のぶなが公にほろばされ。信長は家人けにん明智あけち日向守ひうがのかみに討れ。日向守は。傍輩はうばいの。羽柴筑前守はしばちくぜんのかみちうせられ。信長のぶなが退治たいぢせんと。のぞみをかけし。北条ひい吉公のためにほろび。是皆思ひのほかに。かたき有て。滅亡めつばうし給ひぬと。われかたりければ。老人らうじん聞て。それ春栄しゆんえいうたひに。われ人をうしなへば。かれ人われをがいす。世々せゝ生涯しやうがい。くるしみのうみに。うきしづみて。御のり舟橋ふねばしを。わたりもせぬぞかなしきと。みなごとの口ずさみにある事なれ共。其わきまへなし。人間は有に付てもうれへ。なきに付てもうれへ。一しやうはつくれ共。のぞみはつきず。是貪瞋痴とんじんちの。三どくやまひ。をもきがゆへに。出離生死しゆつりしやうじを。はなれがたし。此病は耆婆扁鵲ぎばへんじやく療治れうぢにもかなはず。きやうにしよくしよいん。貪欲為本どんよくいほんとかれたり。一さい悪業あきげうみなもとは。貪欲どんよくよりおこり。かへつがいす。摩阿止経まあしきやうに。みやうとして独行ひとりゆきたれ是非ぜひをとふらはんあらゆる所の財宝ざいほう。いたづらにのために有と云々。釈迦しやか八十ぜんくらゐにそなはり。栄花ゑいぐわにほこり給ふべき身なれ共。生死無常しやうじむじやうの。はかなき事をなげき。王位わうゐをすて。十九にて出家しゆつけし。たゞ〈[#「唯」は底本では「誰」]〉ひとオープンアクセス NDLJP:528りだんどくせんに入。十二年の間。難行なんぎやう行の功積こうつもり。十二月八日のあかつき明星みやうじやうげんずる時。諸法しよはふ実相じつさう〈[#「実相」は底本では「実時」]〉の理をさとり。衆生しゆじやうをはなれ。三れうだつのほとけなつて。三がい衆生のだう師となり給ひぬ。わうなつ栄花ゑいぐはきはめ。天下の武将ぶしやうなつて。たのしびにあへるも。唯夢たゞゆめまぼろしの間也。万法まんはふ心のなす所にて。べつはふなし。今人界にんがいに。むまるゝものたからの山に入たるがごとし。手をむなしくして三古郷こきやうかへる事なかれ。如来によらい彼岸ひがんにあひ。すみやかに生死しやうじの大かいをわたり。ねはんのきしにいたらんこそねがはしき事ならめといへり
 
北条五代記巻第六