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- ← 越後史集 天・目次 上杉三代日記 編者:黒川真道 大正五年 1916年 『上杉三代日記』(うえすぎさんだいにっき)、別名『上杉軍記』(うえすぎぐんき)は、越後国の戦国大名 長尾為景・上杉謙信・上杉景勝 三代の事蹟の大略を記した文書である。 底本: 黒川真道 編『越後史集』天,越後史集刊行会,大正5…3キロバイト (18,944 語) - 2024年3月24日 (日) 14:42
- 浅井日記 編者:黒川真道 大正四年 1915年 『浅井日記』(あざいにっき)は、近江国浅井氏にまつわる軍記物である。ここでは黒川蔵本写本の片仮名を平仮名に改めた国史研究会の刊行物を底本とする。 底本: 国史研究会 編『国史叢書』越後軍記 昔日北花錄︀ 淺井物語 淺井日記,国史研究会,大正4.…3キロバイト (34,518 語) - 2024年2月3日 (土) 11:10
- 年ふりて夥敷破損す。其の暮に右近殿嫁娶の祝義あるべしとて、犬千代様より御入用修造被仰付。御奉行佃源太左衛門承り、御大工伊右衛門・江戸大工理兵衛召連れ指図を極め、化粧の間・長局・湯殿・雪隠・物置・二階・土蔵まで事新敷造作し、十一月晦日には戸障子張付絵様金具までかゞやく程に出来す。其の頃御上屋敷に御飼鳥…177バイト (6,654 語) - 2024年2月3日 (土) 17:30
- 東照宮御実紀附録 作者:江戸幕府(林述斎、成島司直など) 編者:国史研究会(監修:萩野由之、共編:堀田璋左右、川上多助) 大正4年 1915年 『東照宮御実紀附録』(とうしょうぐうごじっきふろく)は、江戸幕府に仕えた儒学者林述斎、成島司直などが天保14年(1843~1844)に著した江戸…91バイト (5,902 語) - 2024年5月10日 (金) 03:51
- 七郎兵衛尉家則と申しけるが、是は故ありて尾州に至り、愛智郡に住す。此人一男二女を設く。嫡子を杉原七郎左衛門家次と申して、木下藤吉郎秀吉に属せり。女子は朝日といへり。杉原助左衛門入道道松に嫁す。次の女子を、七曲といふ。是は浅野又右衛門長勝の妻となる。後に高台院と号す。長勝は、秀吉の舅なり。長…177バイト (7,687 語) - 2024年2月13日 (火) 16:24
- ← 越後史集 人・目次 春日山日記 作者:松下近義 編者:黒川真道 大正六年 1917年 『春日山日記』(かすがやまにっき)は、春日山城を本拠とした越後国の戦国大名 上杉謙信の事蹟の大略を記した全七巻の文書である。 底本: 黒川真道 編『越後史集』人,越後史集刊行会,大正6.…3キロバイト (30,964 語) - 2024年3月24日 (日) 13:39
- 濃陽諸士伝記 (カテゴリ 江戸時代)長弘を害し、斎藤の家を奪ひ、長井新九郎正利と名乗り、追付立身し、斎藤山城守秀龍と号す。頼芸の舎弟三男を、三郎伊豆守治頼。四男は、勢州梅戸へ養子、民部大輔光尚。五男は揖斐五郎光周、六男は鷲巣六郎光就、七男は七郎丹後守頼満、八男は八郎頼香とておはしける。治頼は、常州の信太の城に、江戸崎の城主なり。七郎…3キロバイト (22,427 語) - 2024年2月13日 (火) 15:59
- に通実が末子、出家をして、芸州の安国寺にありけるが、此時より還俗して、稲葉七郎越智通高と名乗る。康暦元年の十一月、予州外木の城にて、細川頼之と戦ひ打負けて始めて美濃国に落ち来り、土岐氏の臣下となり、刑部少輔と号す。則ち加留見長勝卿の開基せられし本巣郡軽海村の明城を修覆して、始めて是に住せり。是より代…177バイト (7,605 語) - 2024年2月13日 (火) 16:22
- 東照宮御実紀附録 作者:江戸幕府(林述斎、成島司直など) 編者:国史研究会(監修:萩野由之、共編:堀田璋左右、川上多助) 大正4年 1915年 『東照宮御実紀附録』(とうしょうぐうごじっきふろく)は、江戸幕府に仕えた儒学者林述斎、成島司直などが天保14年(1843~1844)に著した江戸…91バイト (5,825 語) - 2024年5月10日 (金) 03:56
- 東照宮御実紀附録 作者:江戸幕府(林述斎、成島司直など) 編者:国史研究会(監修:萩野由之、共編:堀田璋左右、川上多助) 大正4年 1915年 『東照宮御実紀附録』(とうしょうぐうごじっきふろく)は、江戸幕府に仕えた儒学者林述斎、成島司直などが天保14年(1843~1844)に著した江戸…91バイト (7,173 語) - 2024年5月10日 (金) 03:55
- は十二年の後、菅茶山と共に西帰して、驥蝱(きばう)日記を著した人である。池は十三年の後、霞亭が廉塾から的屋に帰つた時家にあつて、霞亭と弟惟長とに訪はれた人である。 北条霞亭が二十四歳の時、歳晩に舟を墨田川に泛べた記は渉筆に見えてゐる。「予嘗居江戸数年。享和癸亥歳晩。河良佐池隣哉来在府下。一日快雪…1.54メガバイト (342,889 語) - 2024年3月25日 (月) 01:52
- 江戸の様子をも探り、日光の地方をも見、いくらかでもこれまでの旅に開けて来た耳でもって、七郎左衛門のような人の話をきくこともできた。 半蔵の前にいる七郎左衛門は、事あるごとに浦賀の番所へ詰めるという人である。この内海へ乗り入れる一切の船舶は一応七郎…704キロバイト (133,425 語) - 2019年9月29日 (日) 05:04
- ちょう)の早駕籠(はやかご)が京都方面から急いで来た。そのあとには江戸行きの長持が暮れ合いから夜の五つ時(どき)過ぎまでも続いた。 長防再征の触れ書が馬籠の中央にある高札場に掲げられるようになったのも、それから間もなくであった。江戸から西の沿道諸駅へはすでに一貫目ずつの秣(まぐさ)と、百石ずつの糠…648キロバイト (123,779 語) - 2019年9月29日 (日) 05:04
- 鷺森旧事記 (カテゴリ 江戸時代)院殿(ト)㆒。従㆓元禄十一戊寅㆒至(ル)㆓宝永二乙酉(ニ)㆒。御治世八年。 一頼職(モト)公。〈従四位少将贈従三位宰相〉 光貞公之二男。御童名長七。後改㆓新之助(ト)㆒。領(ス)㆓越前(ノ)国三万石(ヲ)㆒。号(ス)㆓内蔵(ノ)頭(ト)㆒依(テ)㆓綱教公之御逝去㆒継(イテ)㆓…147キロバイト (24,775 語) - 2024年4月5日 (金) 18:19
- 近世軍記 (国枝清軒) (カテゴリ 江戸時代)由をぞ申しける。此旨、密に御耳に達しければ、 御所は、八月四日、小山を御立ち、古河より船に召され、江戸へ御帰城なり。御船に召され候時、赤館源七郎始めて召出され、具足並に刀一腰下さる。源七郎御後より江戸へ罷登り関ヶ原へ行くなり。関ヶ原に於て、中村一学、九月九日十四日追合の時討死するなり。…3キロバイト (116,548 語) - 2024年2月3日 (土) 18:43
- 上杉将士書上 (カテゴリ 江戸時代)を討取り、国中一統する事は、数年本庄美作が忠功莫大に依りて、其子清七郎武辺覚も度々の事に候由、父子共後名あり、 一、本庄弥次郎繁長 〈後大和守後越後守〉 廿五将 〔〈二字欠〉〕越後守と申候。父は大和守房長が子なり。脇腹にて父の房長に離れ、十三歳にて、一族の小川紀八郎・鮎川因幡守が逆心せしを、討取…768バイト (20,470 語) - 2023年11月26日 (日) 18:25
- 往來した間柄であつたらしい。この隱居の一番日記は文政九年、同じく十年、十一年の三ヶ年間の日記帳より成るもので、それをつけはじめたのは三十歳の頃かと思はれる。さういふ日記帳が二十七番までも文平君の家に仕舞つてあつた。最初のうちはわたしもあの隱居が二十七番の日記を殘したこととのみ思つてゐたが、そのうちに…282キロバイト (57,833 語) - 2021年5月19日 (水) 16:37
- 南龍言行録 (カテゴリ 江戸時代)江戸将軍様より土井大炊頭参府、御前に出で、泉頭御隠居、珍重思召さるるの旨、御内書被㆑進㆑之、御普請等の儀、幕府より仰付らるべく候由言上と云々、 【駿府政事録】右此趣は駿府政事録に記有㆑之、但し此書は林道春駿府に於ての日記…7キロバイト (38,642 語) - 2024年5月6日 (月) 09:15
- 東照宮御実紀附録 作者:江戸幕府(林述斎、成島司直など) 編者:国史研究会(監修:萩野由之、共編:堀田璋左右、川上多助) 大正4年 1915年 『東照宮御実紀附録』(とうしょうぐうごじっきふろく)は、江戸幕府に仕えた儒学者林述斎、成島司直などが天保14年(1843~1844)に著した江戸…91バイト (11,257 語) - 2024年5月10日 (金) 03:51
- りければ、態と難所に引請けんと、中段に備へたり。去程に江戸の遠山丹波守父子・富永四郎以下切て入り、□の声を上るともともく攻登る。房州には、柾木大膳先駈にて、黒河権右衛門・河崎なといふ大力の兵、今度敵になりし太田源六・同源次三郎・同源四郎・長南七郎といふ逸雄の若者共、一面に打つて懸る。小田原衆は、敵を…3キロバイト (70,791 語) - 2024年2月3日 (土) 11:08