夜明け前/第一部上

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 きそじはすべて山の中である。あるところはそばづたいに行くがけの道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋のかいどうはこの深い森林地帯を貫いていた。

 東ざかいの桜沢から、西のじっきょくとうげまで、木曾十一しゅくはこの街道に添うて、二十二里余にわたる長いけいこくの間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深いやまあいうずもれた。名高いかけはしも、つたのかずらを頼みにしたようなあぶない場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へとくだって来た。道の狭いところには、木をって並べ、ふじづるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでもけんそな山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水のはんらんが旅行を困難にする。そのたびに旅人はもより最寄りの宿場にとうりゅうして、道路の開通を待つこともめずらしくない。

 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。このけいこくの最も深いところにはきそふくしまの関所も隠れていた。

 とうさんどうとも言い、木曾街道六十九つぎとも言った駅路の一部がここだ。この道は東はいたばしを経て江戸に続き、西はおおつを経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、いやでもおうでもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとにつかを築き、えのきを植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。

 まごめは木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。そこはみのざかいにも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこのしゅくを見つける。街道の両側には一段ずついしがきを築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしいこうさつの立つところを中心に、ほんじんといやとしよりてんまやくじょうほこうやくみずやくしちりやく(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々がおもな部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっているこなの家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。あらまち、みつや、よこて、中のかや、いわたとうげなどの部落がそれだ。そこの宿はずれではたぬきこうやくを売る。名物くりこわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つおやすみどころもある。山の中とは言いながら、広い空はえなさんのふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気もかよって来るようなところだ。

 本陣の当主きちざえもんと、年寄役のきんべえとはこの村に生まれた。吉左衛門は青山の家をつぎ、金兵衛は、小竹の家をついだ。この人たちが宿役人として、駅路一切の世話に慣れたころは、ふたりともすでに五十の坂を越していた。吉左衛門五十五歳、金兵衛の方は五十七歳にもなった。これは当時としてめずらしいことでもない。吉左衛門の父にあたる先代の半六などは六十六歳まで宿役人を勤めた。それから家督を譲って、ようやく隠居したくらいの人だ。吉左衛門にはすでにはんぞうという跡継ぎがある。しかし家督を譲って隠居しようなぞとは考えていない。福島の役所からでもそのさたがあって、いよいよ引退の時期が来るまでは、まだまだ勤められるだけ勤めようとしている。金兵衛とても、この人に負けてはいなかった。



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 山里へは春の来ることもおそい。毎年旧暦の三月に、えな山脈の雪も溶けはじめるころになると、にわかに人の往来も多い。なかつがわの商人はおくすじみどのあげまつ、福島からならい辺までをさす)への諸かんじょうを兼ねて、ぽつぽつ隣の国から登って来る。いなの谷の方からはいいだの在のものが祭礼のいしょうなぞを借りにやって来る。だいかぐらもはいり込む。いせへ、津島へ、こんぴらへ、あるいは善光寺へのさんけいもそのころから始まって、それらの団体をつくって通る旅人の群れの動きがこの街道に活気をそそぎ入れる。

 西の領地よりするさんきんこうたいの大小の諸大名、日光へのれいへいし、大坂のぶぎょうおかばんしゅうなどはここを通行した。吉左衛門なり金兵衛なりは他の宿役人を誘い合わせ、はおりに無刀、せんすをさして、西のしゅくざかいまでそれらの一行をうやうやしく出迎える。そして東はじんばか、峠の上まで見送る。宿から宿へのつぎたてと言えば、にんそくや馬の世話から荷物の扱いまで、一通行あるごとに宿役人としての心づかいもかなり多い。多人数の宿泊、もしくはおこやすみの用意も忘れてはならなかった。みとおちゃつぼ、公儀のおたかかたをも、こんなふうにして迎える。しかしそれらは普通の場合である。村方の財政や山林田地のことなぞに干渉されないで済む通行である。福島勘定所の奉行を迎えるとか、木曾山一帯を支配するおわりはんの材木方を迎えるとかいう日になると、ただの送り迎えや継立てだけではなかなか済まされなかった。

 多感な光景が街道にひらけることもある。文政九年の十二月に、黒川村の百姓がろうや御免ということで、美濃境まで追放を命ぜられたことがある。二十二人の人数がしゅくかごで、朝の五つどきまごめへ着いた。しわすももう年の暮れに近い冬の日だ。その時も、吉左衛門は金兵衛と一緒に雪の中を奔走して、村の二軒のはたごやで昼じたくをさせるからくにざかいへ見送るまでの世話をした。もっとも、福島からは四人のあしがるが付き添って来たが、二十二人ともに残らずこしなわ手錠であった。

 五十余年のしょうがいの中で、この吉左衛門らが記憶に残る大通行と言えば、尾張藩主のいがいがこの街道を通った時のことにとどめをさす。藩主は江戸でくなって、その領地にあたる木曾谷をこしで運ばれて行った。福島の代官、山村氏から言えば、木曾谷中の行政上の支配権だけをこの名古屋の大領主から託されているわけだ。吉左衛門らはふたりの主人をいただいていることになるので、名古屋城の藩主をびしゅうの殿と呼び、その配下にある山村氏を福島のだんな様と呼んで、「殿様」と「旦那様」で区別していた。

「あれはてんぽう十年のことでした。全く、あの時の御通行はぜんだいみもんでしたわい。」

 この金兵衛の話が出るたびに、吉左衛門は日ごろから「本陣鼻」と言われるほど大きくにくあつな鼻の先へしわをよせる。そして、「また金兵衛さんの前代未聞が出た」と言わないばかりに、としの割合にはつやつやとした色の白い相手の顔をながめる。しかし金兵衛の言うとおり、あの時の大通行は全く文字どおり前代未聞の事と言ってよかった。同勢およそ千六百七十人ほどの人数がこの宿にあふれた。問屋のくだゆう、年寄役のぎすけ、同役の新七、同じくよじえもん、これらの宿役人仲間からくみがしらのものはおろか、ほとんど村じゅう総がかりで事に当たった。木曾谷中から寄せた七百三十人の人足だけでは、まだそれでも手が足りなくて、千人あまりもの伊那のすけごうが出たのもあの時だ。諸方から集めた馬の数は二百二十匹にも上った。吉左衛門の家は村でも一番大きい本陣のことだから言うまでもないが、金兵衛のすまいにすら二人のごようにんのほかに上下合わせて八十人の人数を泊め、馬も二匹引き受けた。

 木曾は谷の中が狭くて、田畑もすくない。限りのある米でこの多人数の通行をどうすることもできない。伊那の谷からの通路にあたるごんべえ街道の方には、馬の振る鈴音に調子を合わせるようなまごうたが起こって、米をつけたばひつの群れがこの木曾街道に続くのも、そういう時だ。



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 山の中の深さを思わせるようなものが、この村の周囲には数知れずあった。林にはしかも住んでいた。あの用心深い獣は村の東南を流れる細いおりさかがわについて、よくそこへ水を飲みに降りて来た。

 古い歴史のあるみさかごえをも、ここからえな山脈の方に望むことができる。たいほうの昔に初めて開かれた木曾路とは、実はその御坂を越えたものであるという。その御坂越から幾つかの谷を隔てた恵那山のすその方には、霧が原の高原もひらけていて、そこにはまた古代の牧場の跡が遠くかすかに光っている。

 この山の中だ。時には荒くれたいのししが人家の並ぶ街道にまで飛び出す。塩沢というところから出て来た猪は、しゅくはずれの陣場からやくしどうの前を通り、それから村の舞台の方をあばれ回って、馬場へ突進したことがある。それ猪だと言って、皆々鉄砲などを持ち出して騒いだが、日暮れになってその行くえもわからなかった。この勢いのいい獣に比べると、むこうやまから鹿の飛び出した時は、石屋の坂の方へ行き、七回りのやぶへはいった。おおぜいの村の人が集まって、とうとうひとやでその鹿を射とめた。ところが隣村のゆぶねざわの方から抗議が出て、しまいには口論にまでなったことがある。

「鹿よりも、けんかの方がよっぽどおもしろかった。」

 と吉左衛門は金兵衛に言って見せて笑った。何かというとふたりは村のことに引っぱり出されるが、そんなけんかは取り合わなかった。

 ひのきさわらあすひこうやまきねずこ〈[#「木+鑞のつくり」、10-17]〉――これを木曾ではごぼくという。そういう樹木の生長する森林の方はことに山も深い。この地方にはすやまとめやまあきやまの区別があって、巣山と留山とは絶対に村民の立ち入ることを許されない森林地帯であり、明山のみが自由林とされていた。その明山でも、五木ばかりは許可なしに伐採することを禁じられていた。これは森林保護の精神より出たことは明らかで、木曾山を管理する尾張藩がそれほどこの地方から生まれて来る良い材木を重くていたのである。取り締まりはやかましい。すこしの怠りでもあると、木曾谷中三十三か村のしょうやあげまつの陣屋へ呼び出される。吉左衛門の家は代々本陣庄屋問屋の三役を兼ねたから、そのたびに庄屋として、せぎりの厳禁を犯した村民のため言い開きをしなければならなかった。どうしてひのき一本でもばかにならない。陣屋の役人の目には、どうかすると人間のいのちよりも重かった。

「昔はこの木曾山の木一本伐ると、首一つなかったものだぞ。」

 陣屋の役人のおどし文句だ。

 この役人が吟味のために村へはいり込むといううわさでも伝わると、いのしししかどころの騒ぎでなかった。あわてて不用の材木を焼き捨てるものがある。囲って置いたひのきいたよそへ移すものがある。多分の木を盗んで置いて、板にへいだり、売りさばいたりした村の人などはことにろうばいする。せぎりの吟味と言えば、村じゅうやさがしの評判が立つほど厳重をきわめたものだ。

 めあかしやへいはもう長いこと村に滞在して、幕府時代のひくい「おかっぴき」の役目をつとめていた。弥平の案内で、福島の役所からの役人を迎えた日のことは、一生忘れられない出来事の一つとして、まだ吉左衛門の記憶には新しくてある。その吟味は本陣の家の門内で行なわれた。のみならず、そんなにたくさんなけがにんを出したことも、村の歴史としてかつて聞かなかったことだ。前庭の上段には、福島から来た役人の年寄、用人、かきやくなどが居並んで、そのわきには足軽が四人も控えた。それから村じゅうのものが呼び出された。そのとがによってこしなわ手錠で宿役人の中へ預けられることになった。もっとも、老年で七十歳以上のものは手錠を免ぜられ、すでに死亡したものは「おしかり」というだけにとどめて特別なれんびんを加えられた。

 この光景をのぞき見ようとして、庭のすみのなしの木のかげに隠れていたものもある。その中に吉左衛門がせがれの半蔵もいる。当時十八歳の半蔵は、目を据えて、役人のすることや、腰繩につながれた村の人たちのさまを見ている。それに吉左衛門は気がついて、

「さあ、行った、行った――ここはお前たちなぞの立ってるところじゃない。」

 としかった。

 六十一人もの村民が宿役人へ預けられることになったのも、その時だ。その中の十人は金兵衛が預かった。まごめの宿役人やくみがしらとしてこれが見ていられるものでもない。福島の役人たちが湯舟沢村の方へ引き揚げて行った後で、「お叱り」のものの赦免せられるようにと、不幸な村民のために一同おひまちをつとめた。その時のお札は一枚ずつ村じゅうへ配当した。

 この出来事があってからはつかばかり過ぎに、「お叱り」のものの残らず手錠を免ぜられる日がようやく来た。福島からは三人の役人が出張してそれを伝えた。

 手錠を解かれたこまえのもののひとりは、役人の前に進み出て、おずおずとした調子で言った。

おそれながら申し上げます。木曾は御承知のとおりな山の中でございます。こんな田畑もすくないような土地でございます。お役人様の前ですが、山の林にでもすがるよりほかに、わたくしどもの立つ瀬はございません。」



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 新茶屋に、馬籠の宿の一番西のはずれのところに、そのみちばたばしょうくづかの建てられたころは、なんと言っても徳川のはまだ平和であった。

 木曾路の入り口に新しい名所を一つ造る、しなのみのくにざかいにあたる一里づかに近い位置をえらんで街道を往来する旅人の目にもよくつくようななだらかな丘のすそにおきなづかを建てる、山石やつつじらんなどを運んで行って周囲に休息の思いを与える、土を盛りあげた塚の上に翁の句碑を置く――その楽しい考えが、日ごろはいかいなぞに遊ぶと聞いたこともない金兵衛の胸に浮かんだということは、それだけでも吉左衛門を驚かした。そういう吉左衛門はいくらか風雅の道にたしなみもあって、本陣や庄屋の仕事のかたわら、美濃派の俳諧の流れをくんだ句作にふけることもあったからで。

 あれほど山里に住むこころもちを引き出されたことも、吉左衛門らにはめずらしかった。金兵衛はまた石屋に渡した仕事もほぼできたと言って、そのつど句碑の工事を見に吉左衛門を誘った。二人ともやまがふうかるさん(地方により、もんぺいというもの)をはいて出かけたものだ。

おやじも俳諧は好きでした。自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、口癖のようにそう言っていました。まあ、あの親父のくようにと思って、わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」

 そう言って見せる金兵衛の案内で、吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。碑の表面には左の文字が読まれた。


  送られつ送りつはては木曾のあき  はせを


「これはたっしゃに書いてある。」

「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。のぎへんがくずして書いてあって、それにつくりがかめでしょう。」

「こういう書き方もありますサ。」

「どうもこれでは木曾のはえとしか読めない。」

 こんな話の出たのも、ひとむかしまえだ。

 あれは天保十四年にあたる。いわゆる天保の改革の頃で、世の中建て直しということがしきりに触れ出される。村方一切の諸帳簿の取り調べが始まる。福島の役所からは公役、ふしんやくが上って来る。尾張藩のじしゃぶぎょう、または材木方の通行も続く。馬籠のあらまちにある村社のとりいのためにひのきせぎりしたと言って、その始末書を取られるような細かい干渉がやって来る。村民の使用するたばこれ、紙入れから、女のかんざしまで、およそ銀という銀を用いたたぐいのものは、すべて引き上げられ、封印をつけられ、目方まで改められて、しょうや預けということになる。それほど政治はこまかくなって、句碑一つもうっかり建てられないような時世ではあったが、まだまだそれでも社会にゆとりがあった。

 翁塚の供養はその年の四月のはじめに行なわれた。あいにくと曇った日で、はんどきより雨も降り出した。招きを受けた客は、おもに美濃の連中で、てみやげいなからしく、扇子にようかんを添えて来るもの、なまじいたけをさげて来るもの、先代の好きな菓子を仏前へと言ってわざわざ玉あられ一箱用意して来るもの、それらの人たちが金兵衛方へ集まって見た時は、国も二つ、言葉のなまりもまた二つに入れまじった。その中には、峠一つ降りたところに住む隣宿おちあいの宗匠、すさぼうも招かれて来た。この人の世話で、美濃派の俳席らしいしこうの『さんちょうの図』なぞの壁にかけられたところで、やがて連中のつけあいがあった。

 主人役の金兵衛は、自分で五十韻、ないし百韻の仲間入りはできないまでも、

「これで、さぞおやじもよろこびましょうよ。」

 と言って、弁当に酒さかななどじゅうづめにして出し、招いた人たちの間をあっせんした。

 その日は新たにできた塚のもとに一同集まって、そこで吟声供養を済ますはずであった。ところが、記念の一巻を巻き終わるのに日暮れ方までかかって、吟声は金兵衛の宅で済ました。供養の式だけを新茶屋の方で行なった。

 むかしかたぎの金兵衛は亡父のかたみだと言って、その日の宗匠すさぼうちゃじまの綿入れ羽織なぞを贈るために、わざわざ自分で落合まで出かけて行く人である。

 吉左衛門は金兵衛に言った。

「やっぱり君はわたしのよい友だちだ。」



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 暑い夏が来た。旧暦五月の日のあたった街道を踏んで、いなの方面まで繭買いにと出かける中津川の商人も通る。その草いきれのするあつい空気の中で、上り下りの諸大名の通行もある。月の末には毎年福島の方に立つけづけ(馬市)も近づき、各村のこまあらためということも新たに開始された。当時幕府に勢力のあるひこねの藩主(いいかもんのかみ)も、久しぶりの帰国と見え、すはらじゅく泊まり、つまごしゅくちゅうじき、馬籠はおこやすみで、木曾路を通った。

 六月にはいって見ると、うち続いた快晴で、日に増し照りも強く、村じゅうであまごいでも始めなければならないほどの激しい暑気になった。荒町の部落ではすでにそれを始めた。

 ちょうど、峠の上の方から馬をひいて街道を降りて来る村のこまえのものがある。福島の馬市からのもどりと見えて、青毛の親馬のほかに、当歳らしい一匹の子馬をもそのあとに連れている。気の短い問屋のくだゆうがそれを見つけて、どなった。

「おい、どこへ行っていたんだい。」

「馬買いよなし。」

「このひでりを知らんのか。お前の留守に、たんぼかわいてしまう。荒町あたりじゃぼんでんやまへ登って、雨乞いを始めている。うじがみさまへ行ってごらん、おせんどまいりの騒ぎだ。」

「そう言われると、いちごんもない。」

「さあ、このお天気続きでは、いせぎを出さずに済むまいぞ。」

 伊勢木とは、伊勢太神宮へ祈願をこめるためのしんぼくをさす。こうした深い山の中に古くから行なわれる雨乞いの習慣である。よくよくの年でなければこの伊勢木を引き出すということもなかった。

 六月の六日、村民一同はかまどめを申し合わせ、荒町にある氏神の境内に集まった。本陣、問屋をはじめ、宿役人からくみがしらまで残らずそこに参集して、氏神境内のみやばやしからもみの木一本をもとぎりにする相談をした。

「一本じゃ、伊勢木も足りまい。」

 と吉左衛門が言い出すと、金兵衛はすかさず答えた。

「や、そいつはわたしに寄付させてもらいましょう。ちょうどよいもみが一本、うちの林にもありますから。」

 もとぎりにした二本の樅にはしめなぞが掛けられて、その前でねぎきとうがあった。この清浄な神木が日暮れ方になってようやく鳥居の前に引き出されると、左右に分かれた村民は声を揚げ、太い綱でそれを引き合いはじめた。

「よいよ。よいよ。」

 互いに競い合う村の人たちの声は、荒町のはずれから馬籠の中央にあるこうさつばあたりまで響けた。こうなると、庄屋としての吉左衛門も骨が折れる。金兵衛は自分から進んで神木の樅を寄付した関係もあり、夕飯のしたくもそこそこにまた馬籠の町内のものを引き連れて行って見ると、伊勢木はずっと新茶屋の方まで荒町の百姓の力に引かれて行く。それを取り戻そうとして、つやおもてからたたみいしの辺で双方のもみ合いが始まる。とうとうその晩は伊勢木を荒町に止めて置いて、一同疲れて家に帰ったころは一番どりが鳴いた。



「どうもことしは年回りがよくない。」

「そう言えば、正月のはじめから不思議なこともありましたよ。正月の三日の晩です、この山の東の方から光ったものが出て、それがにしみなみの方角へ飛んだといいます。見たものは皆驚いたそうですよ。まごめばかりじゃない、つまごでも、山口でも、中津川でも見たものがある。」

 吉左衛門と金兵衛とはふたりでこんな話をして、伊勢木の始末をするために、村民の集まっているところへ急いだ。山里に住むものは、すこし変わったことでも見たり聞いたりすると、すぐそれを何かの暗示に結びつけた。

 三日がかりで村じゅうのものが引き合った伊勢木を落合川の方へ流したあとになっても、まだごりしょうは見えなかった。峠のものはくまのだいごんげんに、荒町のものはあたごやまに、いずれも百八のたいまつをとぼして、思い思いの祈願をこめる。宿内では二組に分かれてのおひまちも始まる。雨乞いのきとう、それに水の拝借と言って、村からはすわたいしゃへ二人の代参までも送った。神前へのおはつほりょうとして金百ぴき、道中の路用としてひとりにつき一しゅずつ、百六十軒の村じゅうのものが十九文ずつ出し合ってそれを分担した。

 東海道うらがしゅくくりはまの沖合いに、黒船のおびただしく現われたといううわさが伝わって来たのも、村ではこの雨乞いの最中である。

 問屋の九太夫がまずそれをひこねはやびきゃくから聞きつけて、吉左衛門にも告げ、金兵衛にも告げた。その黒船の現われたため、にわかに彦根の藩主は幕府から現場のつめやくを命ぜられたとのこと。

 かえい六年六月十日の晩で、ちょうど諏訪大社からの二人の代参が村をさして大急ぎに帰って来たころは、そのかわききった夜の空気の中を彦根の使者が西へ急いだ。江戸からのたよりはなかせんどうを経て、この山の中へ届くまでに、早飛脚でも相応日数はかかる。黒船とか、とうじんぶねとかがおびただしくあの沖合いにあらわれたということ以外に、くわしいことはだれにもわからない。ましてアメリカの水師提督ペリイが四そうの軍艦を率いて、初めて日本に到着したなぞとは、知りようもない。

「江戸は大変だということですよ。」

 金兵衛はただそれだけを吉左衛門の耳にささやいた。

〈[#改丁]〉


第一章


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 七月にはいって、きちざえもんきそふくしまの用事を済まして出張先から引き取って来た。その用向きは、前の年の秋に、福島の勘定所から依頼のあったしほうだての件で、まごめしゅくとしては金百両の調達を引き請け、暮れに五十両のむじんを取り立ててその金は福島の方へ回し、二番口も敷金にして、首尾よく無尽も終会になったところで、都合全部の上納を終わったことを届けて置いてあった。今度、福島からそのあいさつがあったのだ。

 きんべえは待ち兼ね顔に、無事で帰って来たこの吉左衛門を自分の家のみせざしきに迎えた。金兵衛の家はふしみやと言って、造り酒屋をしている。街道に添うた軒先にすぎの葉のまるたばにしたのを掛け、それを清酒の看板に代えてあるようなところだ。店座敷も広い。その時、吉左衛門は福島から受け取って来たものをふろしきづつみの中から取り出して、

「さあ、これだ。」

 と金兵衛の前に置いた。村の宿役人仲間へ料紙一束ずつ、無尽の加入者一同へのしゅこうりょう、まだそのほかに、ふたはばちりめんの風呂敷が二枚あった。それは金兵衛とますだやぎすけふたりが特に多くの金高を引き受けたというので、その挨拶の意味のものだ。

 吉左衛門の報告はそれだけにとどまらなかった。最後に、一通のかきつけもそこへ取り出して見せた。


そのほう儀、おかって御仕法立てにつき、たのもしこう御世話かた格別に存じ入り、こまえさとし方も行き届き、その上、自身にも別段御奉公申し上げ、奇特の事にそうろう。よって、一代みょうじたいとう御免なし下され候。その心得あるべきものなり。」

  かえい六年うし六月

みついつさく

いしだんのじょう

おぎじょうざえもん

しろしんござえもん

    青山吉左衛門殿


「ホ。苗字帯刀御免とありますね。」

「まあ、そんなことが書いてある。」

「吉左衛門さん一代限りともありますね。なんにしても、これは名誉だ。」

 と金兵衛が言うと、吉左衛門はすこしにがい顔をして、

「これが、せめて十年前だとねえ。」

 ともかくも吉左衛門は役目を果たしたが、同時に勘定所の役人たちがいやなにおいをもかいで帰って来た。苗字帯刀を勘定所のやり繰り算段に替えられることは、吉左衛門としてあまりいい心持ちはしなかった。

「金兵衛さん、君には察してもらえるでしょうが、しょうやのつとめもつらいものだと思って来ましたよ。」

 吉左衛門の述懐だ。

 その時、かみの伏見屋のせんじゅうろうが顔を出したので、しばらくふたりはこんな話を打ち切った。仙十郎は金兵衛の仕事を手伝わされているので、ちょっと用事の打ち合わせに来た。金兵衛をおじと呼び、吉左衛門を義理ある父としているこの仙十郎は伏見家から分家して、別に上の伏見屋という家を持っている。年も半蔵より三つほど上で、腰にしたたばこいれのねつけにまで新しい時のはやりを見せたような若者だ。

「仙十郎、お前も茶でも飲んで行かないか。」

 と金兵衛が言ったが、仙十郎は吉左衛門の前に出ると妙に改まってしまって、茶も飲まなかった。何か気づまりな、じっとしていられないようなふうで、やがてそこを出て行った。

 吉左衛門は見送りながら、

「みんなどういう人になって行きますかさ――仙十郎にしても、半蔵にしても。」

 若者への関心にかけては、金兵衛とても吉左衛門に劣らない。アメリカのペリイ来訪以来のあわただしさはおろか、それ以前からの周囲の空気の中にあるものは、若者の目や耳から隠したいことばかりであった。殺人、盗賊、かけおち、男女の情死、諸役人の腐敗ざたなぞは、この街道でめずらしいことではなくなった。

 同宿三十年――なんと言っても吉左衛門と金兵衛とは、その同じ駅路の記憶につながっていた。この二人に言わせると、日ごろ上に立つ人たちからやかましく督促せらるることは、街道のよい整理である。言葉をかえて言えば、封建社会の「秩序」である。しかしこの「秩序」を乱そうとするものも、そういう上に立つ人たちからであった。ばくちはもってのほかだという。しかし毎年のけづけ(馬市)をとばくじょうに公開して、土地の繁華を計っているのも福島の役人であった。そでの下はもってのほかだという。しかしおさかなだいもしくはごしゅうぎ何両かの献上金を納めさせることなしに、かつてこの街道を通行したためしのないのも日光への例幣使であった。人殺しはもってのほかだという。しかしやさわの長坂のみちばたにあたるところで口論の末からとさかちゅうの一人を殺害し、その仲裁にはいった一人の親指を切り落とし、この街道でにんじょうの手本を示したのもこいけいせの家中であった。女はてがたなしには関所をも通さないという。しかし木曾路を通るごとに女の乗り物を用意させ、見る人が見ればそれが正式な夫人のものでないのもひこねの殿様であった。

「あゝ。」と吉左衛門は嘆息して、「世の中はどうなって行くかと思うようだ。あの御勘定所のお役人なぞがお殿様からのお言葉だなんて、献金の世話を頼みに出張して来て、うちの床柱の前にでもすわり込まれると、わたしはまたかと思う。しかし、金兵衛さん、そのお役人の行ってしまったあとでは、わたしはどんな無理なことでも聞かなくちゃならないような気がする……」

 東海道浦賀の方に黒船の着いたといううわさを耳にした時、最初吉左衛門や金兵衛はそれほどにも思わなかった。江戸は大変だということであっても、そんな騒ぎは今にやむだろうぐらいに二人とも考えていた。江戸から八十三里の余も隔たった木曾の山の中に住んで、鎖国以来の長い眠りを眠りつづけて来たものは、アメリカのような異国の存在すら初めて知るくらいの時だ。

 この街道に伝わるうわさの多くは、ことわざにもあるようにころがるたびに大きなかたまりになるゆきだるまに似ている。六月十日の晩に、彦根の早飛脚が残して置いて行ったうわさもそれで、十四日には黒船八十六そうもの信じがたいような大きな話になって伝わって来た。かんえい十年以来、日本国の一切の船は海の外に出ることを禁じられ、五百石以上の大船を造ることも禁じられ、オランダ、シナ、朝鮮をのぞくのほかは外国船の来航をも堅く禁じてある。その国のおきてを無視して、故意にもそれを破ろうとするものがまっしぐらにあの江戸湾を望んで直進して来た。当時幕府が船改めの番所はしもだの港から浦賀の方に移してある。そんな番所の所在地まで知って、あのとうじんぶねがやって来たことすら、すでに不思議の一つであると言われた。

 種々な流言が伝わって来た。宿役人としての吉左衛門らはそんな流言からも村民をまもらねばならなかった。やがて通行の前触れだ。間もなくこの街道では江戸出府のおわりの家中を迎えた。尾張藩主(徳川よしかつ)のみょうだいなるせはやとのしょう、その家中のおびただしい通行のあとには、かねて待ち受けていた彦根の家中も追い追いやって来る。公儀のおちゃつぼ同様にとの特別扱いのお触れがあって、名古屋城からのぐそくながもちとさおもそのあとから続いた。それらの警護の武士がみのじから借りて連れて来た人足だけでも、百五十人に上った。つぎたても難渋であった。馬籠の宿場としては、山口村からの二十人の加勢しか得られなかった。例の黒船はやがて残らず帰って行ったとやらで、江戸表へ出張の人たちは途中から引き返して来るものがある。ある朝まごめから送り出した長持は隣宿のつまごで行き止まり、翌朝中津川から来た長持は馬籠の本陣の前で立ち往生する。荷物はそれぞれ問屋預けということになったが、人馬継立てのけんぶんとしてぶぎょうまで出張して来るほど街道はごたごたした。

 ろうばいそのもののようなこの混雑が静まったのは、半月ほど前にあたる。浦賀へ押し寄せて来た唐人船も行くえ知れずになって、まずまずきょうえつだ。そんなしらせが、江戸方面からは追い追いと伝わって来たころだ。

 吉左衛門は金兵衛を相手に、伏見屋の店座敷で話し込んでいると、ちょうどそこへ警護の武士を先に立てた尾張の家中の一隊が西から街道を進んで来た。吉左衛門と金兵衛とははなし半ばに伏見屋を出て、この一隊を迎えるためにほかの宿役人らとも一緒になった。尾張の家中は江戸の方へおおづつの鉄砲を運ぶ途中で、馬籠の宿の片側に来て足を休めて行くところであった。本陣や問屋の前あたりはひのきがさや六尺棒なぞでうずめられた。騎馬から降りて休息する武士もあった。はだ脱ぎになって背中に流れる汗をふく人足たちもあった。よくあの重いものをかつぎ上げて、みのざかいじっきょくとうげを越えることができたと、人々はその話で持ちきった。吉左衛門はじめ、金兵衛らはこの労苦をねぎらい、問屋の九太夫はまたますだやの儀助らと共にその間をはしり回って、隣宿妻籠までの継立てのことをあっせんした。

 村の人たちは皆、街道に出て見た。その中に半蔵もいた。彼は父の吉左衛門に似てせいも高く、青々としたさかやきも男らしく目につく若者である。ちょうど暑さの見舞いに村へ来ていた中津川の医者と連れだって、通行の邪魔にならないところに立った。この医者がみやがわかんさいだ。半蔵のふるい師匠だ。その時、半蔵は無言。寛斎も無言で、ただ医者らしく頭をまるめた寛斎の胸のあたりに、手にした扇だけがわずかに動いていた。

「半蔵さん。」

 上の伏見屋の仙十郎もそこへ来て、考え深い目つきをしている半蔵のそばに立った。目方百十五、六貫ばかりのおおづつの鉄砲、この人足二十二人がかり、それに七人がかりから十人がかりまでの大筒五ちょう、都合六挺が、やがて村の人々の目の前を動いて行った。こんなに諸藩から江戸のやしきへ向けて大砲を運ぶことも、その日までなかったことだ。

 間もなく尾張の家中衆は見えなかった。しかし、不思議な沈黙が残った。その沈黙は、何が江戸の方に起こっているか知れないような、そんな心持ちを深い山の中にいるものに起こさせた。六月以来ひんぱんな諸大名の通行で、江戸へ向けてこの木曾街道を経由するものに、黒船騒ぎに関係のないものはなかったからで。あるものは江戸湾一帯の海岸の防備、あるものは江戸城下の警固のためであったからで。

 金兵衛は吉左衛門のそでを引いて言った。

「いや、お帰り早々、いろいろお骨折りで。まあ、おかげでおつぎたても済みました。今夜は御苦労呼びというほどでもありませんが、お玉のやつにしたくさせて置きます。あとでおいでを願いましょう。そのかわり、吉左衛門さん、ごちそうは何もありませんよ。」



 酒のさかな。きゅうりもみにあおじそ。枝豆。到来物のたたみいわし。それになすしんづけ。飯の時にとろろじる。すべてお玉の手料理の物で、金兵衛は夕飯に吉左衛門を招いた。

 店座敷も暑苦しいからと、二階を明けひろげて、お玉はそこへふたりの席を設けた。やまがふうふろの用意もお玉の心づくしであった。招かれて行った吉左衛門は、一風呂よばれたあとのさっぱりとした心持ちで、広い炉ばたの片すみから二階へのはこばしごを登った。黒光りのするほどよくき込んであるその箱梯子も伏見屋らしいものだ。西向きの二階のへやには、金兵衛が先代の遺物と見えて、美濃派の俳人らの寄せ書きがあくぬけのした表装にして壁に掛けてある。八人のものが集まって馬籠風景の八つのながめを思い思いの句と画の中に取り入れたものである。この俳味のある掛け物の前に行って立つことも、吉左衛門をよろこばせた。

 夕飯。お玉はぜんを運んで来た。ほんの有り合わせの手料理ながら、青みのある新しい野菜で膳の上を涼しく見せてある。やがて酒もはじまった。

「吉左衛門さん、何もありませんが召し上がってくださいな。」とお玉が言った。「うちつるまつも出まして、お世話さまでございます。」

「さあ、一杯やってください。」と言って、金兵衛はお玉を顧みて、「吉左衛門さんはお前、みょうじ帯刀御免ということになったんだよ。今までの吉左衛門さんとは違うよ。」

「それはおめでとうございます。」

「いえ。」と吉左衛門は頭をかいて、「苗字帯刀もこう安売りの時世になって来ては、それほどありがたくもありません。」

「でも、悪い気持ちはしないでしょう。」と金兵衛は言った。「二本さして、青山吉左衛門で通る。どこへ出ても、おおいばりだ。」

「まあ、そう言わないでくれたまえ。それよりか、さかずきでもいただこうじゃありませんか。」

 吉左衛門も酒はいける口であり、それに勧めじょうずなお玉のおしゃくで、金兵衛とさしむかいに盃を重ねた。その二階は、かつておきなづかの供養のあったおりに、落合の宗匠すさぼうまで集まって、金兵衛が先代の記念のために俳席を開いたところだ。そう言えば、吉左衛門や金兵衛のむかしなじみでもはやこの世にいない人も多い。馬籠の生まれで水墨の山水や花果などを得意にした画家のらんけいもそのひとりだ。あの蘭渓も、黒船騒ぎなぞは知らずにくなった。

「お玉さんの前ですが。」と吉左衛門は言った。「こうしてごしゅでもいただくと、実に一切を忘れますよ。わたしはよく思い出す。金兵衛さん、ほら、あのアトリ(獦子鳥)三十羽に、ちゃづけ三杯――」

「それさ。」と金兵衛も思い出したように、「わたしも今それを言おうと思っていたところさ。」

 アトリ三十羽に茶漬け三杯。あれはかえい二年にあたる。山里では小鳥のおびただしくれた年で、ことにおおだいらむらの方では毎日三千羽ずつものアトリが驚くほど鳥網にかかると言われ、この馬籠の宿までたびたび売りに来るものがあった。小鳥の名所として土地のものが誇る木曾の山の中でも、あんな年はめったにあるものでなかった。仲間のものが集まって、一興を催すことにしたのもその時だ。そのアトリ三十羽に、茶漬け三杯食えば、ほうびとして別に三十羽もらえる。もしまた、その三十羽と茶漬け三杯食えなかった時は、あべこべに六十羽差し出さなければならないという約束だ。場処はほうらいや。時刻は七つどき。食い手は吉左衛門と金兵衛の二人。食わせる方のものはくみがしらささやしょうべえこざさやの勝七。それには勝負を見届けるものもなくてはならぬ。蓬莱屋の新七がその審判官を引き受けた。さて、食った。約束のとおり、一人で三十羽、茶漬け三杯、残らず食い終わって、褒美の三十羽ずつは吉左衛門と金兵衛とでもらった。アトリは形もちいさく、骨も柔らかく、つぐみのような小鳥とはわけが違う。それでもなかなか食いではあったが、二人とも腹もはらないで、その足で会所の店座敷へ押し掛けてたくさん茶を飲んだ。その時の二人の年齢もまた忘れられずにある。吉左衛門は五十一歳、金兵衛は五十三歳を迎えたころであった。二人はそれほど盛んな食欲を競い合ったものだ。

「あんなおもしろいことはなかった。」

「いや、大笑いにも、なんにも。あんなおもしろいことは前代みもんさ。」

「出ましたね、金兵衛さんの前代未聞が――」

 こんな話も酒の上を楽しくした。隣人同志でもあり、宿役人同志でもある二人の友だちは、しばらく街道から離れる思いで、尽きないよばなしに、とろろ汁に、夏の夜のふけやすいことも忘れていた。

 まごめしゅくで初めて酒を造ったのは、伏見屋でなくて、ますだやであった。そこの初代と二代目の主人、そうえもん親子のものであった。桝田屋の親子が協力して水の量目を計ったところ、おりさかがわで四百六十目、桝田屋の井戸で四百八十目、伏見屋の井戸で四百九十目あったという。その中で下坂川の水をくんで、惣右衛門親子は初めて造り酒の試みに成功した。馬籠の水でも良い酒のできることを実際に示したのも親子二人のものであった。それまで馬籠には造り酒屋というものはなかった。

 この惣右衛門親子は、村の百姓の中から身を起こして無遠慮に頭を持ち上げた人たちであるばかりでなく、後の金兵衛らのためにもかれしかれ一つの進路を切り開いた最初の人たちである。桝田屋の初代が伏見屋から一軒置いて上隣りの街道に添うた位置に大きな家を新築したのは、宝暦七年の昔で、そのころに初代が六十五歳、二代目が二十五歳であった。親代々からの百姓であった初代惣右衛門が本家の梅屋から分かれて、別に自分の道を踏み出したのは、それよりさらに四十年も以前のことにあたる。

 馬籠はたはたの間にすら大きくあらわれたいしころを見るような地方で、古くから生活も容易でないとされた山村である。初代惣右衛門はこの村に生まれて、十八歳の時から親のみょうせきを継ぎ、岩石の間をもいとわず百姓の仕事を励んだ。本家は代々の年寄役でもあったので、じゃくはいながらにその役をも勤めた。旅人相手の街道に目をつけて、はたごやの新築を思い立ったのは、この初代が二十八、九のころにあたる。そのころの馬籠は、一か二分の金を借りるにも、隣宿のつまごか美濃の中津川まで出なければならなかった。しわすも押し詰まったころになると、中津川のびぜんやおやじが十日あまりも馬籠へ来て泊まっていて、町中へこがしなどした。その金でようやく村のものが年を越したくらいの土地がらであった。

 四人の子供を控えた初代惣右衛門夫婦の小歴史は、馬籠のような困窮な村にあって激しい生活苦とたたかった人たちの歴史である。百姓の仕事とするあさくさも、春先青草を見かける時分から九月十月の霜をつかむまで毎朝二度ずつは刈り、昼は人並みに会所の役を勤め、晩は宿泊の旅人を第一にして、その間に少しずつの米商いもした。かみさんはまたかみさんで、内職に豆腐屋をして、三、四人の幼いものを控えながら夜通しいしうすをひいた。新宅のはたごやもできあがるころは、ふしんのおりに出た木のきれとぼして、それをあぶらびに替え、夜番のあんどんを軒先へかかげるにも毎朝夜明け前にしたそうじを済まし、同じ布でとしょうじの敷居などをいたのも、そのかみさんだ。貧しさにいる夫婦二人のものは、自分の子供らを路頭に立たせまいとの願いから、夜一夜ろくろくあんきに眠ったこともなかったほど働いた。

 そのころ、本家の梅屋では隣村湯舟沢から来る人足たちの宿をしていた。その縁故から、初代夫婦はなじみの人足に頼んで、春先のくいまい三斗ずつ内証で借りうけ、あきまいで四斗ずつ返すことにしていた。これは田地を仕付けるにも、はたごや片手間では芝草の用意もなりかねるところから、麦で少しずつ刈り造ることに生活の方法を改めたからで。

 初代惣右衛門はこんなところから出発した。旅籠屋の営業と、そして骨の折れる耕作と。もともと馬籠にはほかによい旅籠屋もなかったから、新宅と言って泊まる旅人も多く、追い追いと常得意の客もつき、こおんなまで置き、その奉公人の給金も三分がものは翌年は一両に増してやれるほどになった。はんまい一升買いの時代のあとには、一俵買いの時代も来、後には馬で中津川から呼ぶ時代も来た。新宅桝田屋の主人はもうただの百姓でもなかった。旅籠屋営業のほかに少しずつ商売などもする町人であった。

 二代目惣右衛門はこの夫婦の末子として生まれた。親からしきたった百姓は百姓として、そうりょうにはまだ家の仕事を継ぐ特権もある。次男三男からはそれも望めなかった。十三、四のころから草刈り奉公に出て、末はくもすけにでもなるか。末子と生まれたものが成人しても、馬追いかかごかきにきまったものとされたほどの時代である。そういう中で、二代目惣右衛門は親のそばにいて、物心づくころから草刈り奉公にも出されなかったというだけでも、親惣右衛門を徳とした。この二代目がまた、親の仕事を幾倍かにひろげた。

 人も知るように、当時の諸大名が農民から収めたねんぐまいの多くは、大坂の方に輸送されて、金銀に替えられた。大坂は米取引の一大市場であった。次第に商法も手広くやるころの二代目惣右衛門は、大坂の米相場にも無関心ではなかった人である。彼はまた、優に千両の無尽にも応じたが、それほど実力を積み蓄えたぶげんしゃは木曾谷中にも彼のほかにないと言われるようになった。彼は貧困を征服しようとした親惣右衛門の心を飽くまでも持ちつづけた。誇るべき伝統もなく、そうかと言ってわずらわされやすい過去もなかった。腕一本で、無造作に進んだ。

 てんめい六年は二代目惣右衛門が五十三歳を迎えたころである。そのころの彼は、大きな造り酒屋の店にすわって、自分の子に酒の一番火入れなどをさせながら、初代在世のころからの八十年にわたる過去を思い出すような人であった。彼は親先祖から譲られた家督財産その他一切のものを天からの預かり物と考えよと自分の子におしえた。彼は金銭を日本の宝の一つと考えよとおしえた。それをみだりにわが物と心得て、私用に費やそうものなら、いつか「てんどう」にれ聞こえる時が来るとも誨えた。彼は先代惣右衛門の出発点を忘れそうな子孫の末を心配しながら死んだ。

 伏見屋の金兵衛は、この惣右衛門親子のいはつを継いだのである。そういう金兵衛もまた持ち前の快活さで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、時には米の売買にもたずさわり、美濃のくくりあたりの旗本にまで金を貸した。



 ふたりの隣人――吉左衛門と金兵衛とをよく比べて言う人に、中津川の宮川寛斎がある。この学問のあるいなか医者に言わせると、馬籠はくにざかいだ、おそらく町人かたぎの金兵衛にも、あの惣右衛門親子にも、商才に富む美濃人の血がまじり合っているのだろう、そこへ行くと吉左衛門は多分にしなのの百姓であると。

 吉左衛門が青山の家は馬籠の裏山にある本陣林のように古い。木曾谷の西のはずれに初めて馬籠の村を開拓したのも、そうしゅうみうらの方から移って来た青山けんもつの第二子であった。ここに一宇をこんりゅうして、まんぷくじと名づけたのも、これまた同じ人であった。まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもん、俗名青山次郎左衛門、隠居しての名をどうさいと呼んだ人が、自分で建立した寺の墓地に眠ったのは、てんしょう十二年の昔にあたる。

「金兵衛さんの家と、おれの家とは違う。」

 と吉左衛門が自分のせがれに言って見せるのも、その家族の歴史をさす。そういう吉左衛門が青山の家を継いだころは、十六代も連なり続いて来た木曾谷での最も古い家族の一つであった。

 遠い馬籠の昔はくわしく知るよしもない。青山家の先祖が木曾にはいったのは、木曾よしまさの時代で、おそらく福島の山村氏よりも古い。その後この地方のごうしとして馬籠その他数か村の代官を勤めたらしい。慶長年代のころ、いしだみつなりが西国の諸侯をかたらって濃州関ヶ原へ出陣のおり、徳川台徳院はなかせんどうを登って関ヶ原の方へ向かった。その時のおさきだちには、山村じんべえばばはんざえもんちむらへいえもんなどの諸士を数える。馬籠の青山しょうざぶろう、またの名しげなが(青山二代目)もまた、徳川がたに味方し、馬籠のとりでにこもって、いぬやまぜいを防いだ。当時犬山城の石川備前は木曾へうってを差し向けたが、木曾の郷士らが皆徳川方の味方をすると聞いて、激しくも戦わないで引き退いた。その後、青山の家では帰農して、代々本陣、庄屋、問屋の三役を兼ねるようになったのも、当時の戦功によるものであるという。

 青山家の古い屋敷は、もと石屋の坂をおりた辺にあった。ゆいしょのある武具馬具なぞは、寛永年代の馬籠の大火に焼けて、二本のやりだけが残った。その屋敷跡には代官屋敷の地名も残ったが、尾張藩への遠慮から、きょうほう九年の検地の時以来、代官屋敷のあざを石屋に改めたともいう。その辺は岩石の間で、付近に大きな岩があったからで。

 子供の時分の半蔵を前にすわらせて置いて、吉左衛門はよくこんな古い話をして聞かせた。彼はまた、酒の上のきげんのよい心持ちなぞから、表玄関のなげしの上に掛けてある古い二本の鎗の下へこせがれを連れて行って、

「御覧、御先祖さまが見ているぞ。いたずらするとこわいぞ。」

 と戯れた。

 隣家の伏見屋なぞにない古い伝統がとしわかな半蔵の頭に深く刻みつけられたのは、幼いころから聞いたこの父のこたつばなしからで。自分の忰に先祖のことでも語り聞かせるとなると、吉左衛門の目はまた特別に輝いたものだ。

「代官造りという言葉は、地名で残っている。うちの先祖が代官を勤めた時分に、田地を手造りにした場所だというので、それで代官造りさ。今のまちだがそれさ。その時分には、毎年五月に村じゅうの百姓を残らず集めて植え付けをした。その日にうちから酒を一斗出した。酔ってたんぼの中に倒れるものがあれば、その年は豊年としたものだそうだ。」

 この話もよく出た。

 吉左衛門の代になって、本陣へ出入りの百姓の家は十三軒ほどある。その多くは主従の関係に近い。吉左衛門が隣家の金兵衛とも違って、村じゅうの百姓をほとんど自分の子のように考えているのも、由来する源は遠かった。



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「また、黒船ですぞ。」

 七月の二十六日には、江戸からのごおんしが十二代将軍徳川いえよしこうきょを伝えた。どうちゅうぶぎょうから、普請鳴り物類一切停止の触れも出た。この街道筋では中津川の祭礼のあるころに当たったが、狂言もけいこぎりで、舞台の興行なしに謹慎の意を表することになった。問屋九太夫の「また、黒船ですぞ」が、吉左衛門をも金兵衛をも驚かしたのは、それからわずかに三日過ぎのことであった。

「いったい、きょうは幾日です。七月の二十九日じゃありませんか。公儀のごおんしが見えてから、まだ三日にしかならない。」

 と言って吉左衛門は金兵衛と顔を見合わせた。長崎へ着いたというそのとうじんぶねが、アメリカの船ではなくて、ほかの異国の船だといううわさもあるが、それさえこの山の中でははっきりしなかった。多くの人は、先に相州浦賀の沖合いへあらわれたと同じ唐人船だとした。

「長崎の方がまた大変な騒動だそうですよ。」

 と金兵衛は言ったが、にわかに長崎奉行の通行があるというだけで、さきにもつを運んで来る人たちの話はまちまちであった。奉行は通行を急いでいるとのことで、道割もいろいろに変わって来るので、宿場宿場ではつぎたてに難渋した。八月の一日には、この街道ではくりいろなめしのやりを立てて江戸方面から進んで来る新任の長崎奉行、幕府内でも有数の人材に数えらるるみずのちくごの一行を迎えた。

 ちょうど、吉左衛門が羽織を着かえに、大急ぎで自分の家へ帰った時のことだ。妻のおまんは刀にわきざしなぞをそこへ取り出して来て勧めた。

「いや、馬籠の駅長で、おれはたくさんだ。」

 と吉左衛門は言って、晴れて差せる大小も身に着けようとしなかった。今までどおりの丸腰で、着慣れた羽織だけに満足して、やがて奉行の送り迎えに出た。

 諸公役が通過の時の慣例のように、吉左衛門は長崎奉行のかごの近くあいさつに行った。旅を急ぐ奉行は乗り物からも降りなかった。本陣の前に駕籠をめさせてのほんのお小休みであった。料紙を載せたさんぽうなぞがそこへ持ち運ばれた。その時、吉左衛門は、駕籠のそばにひざまずいて、言葉も簡単に、

「当宿本陣の吉左衛門でございます。お目通りを願います。」

 と声をかけた。

「おゝ、馬籠の本陣か。」

 奉行の砕けた挨拶だ。

 水野ちくごは二千石のちぎょうということであるが、特にその旅は十万石の格式で、重大な任務を帯びながら遠く西へと通り過ぎた。



 街道は暮れて行った。会所に集まった金兵衛はじめ、その他の宿役人もそれぞれ家の方へ帰って行った。隣宿落合まで荷をつけて行った馬方なぞも、長崎奉行の一行を見送ったあとで、ぽつぽつ馬を引いて戻って来るころだ。

 子供らは街道に集まっていた。夕空に飛びかうこうもりの群れを追い回しながら、遊び戯れているのもその子供らだ。山の中のことで、よたかもなき出す。往来一つ隔てて本陣とむかい合った梅屋の門口には、夜番ののきあんどんあかりもついた。

 一日の勤めを終わった吉左衛門は、しばらく自分の家の外に出て、山の空気を吸っていた。やがておまんが二人のげじょを相手に働いている炉ばたの方へ引き返して行った。

「半蔵は。」

 と吉左衛門はおまんにたずねた。

「今、今、仙十郎さんと二人でここに話していましたよ。あなた、異人の船がまたやって来たというじゃありませんか。半蔵はだれに聞いて来たんですか、オロシャの船だと言う。仙十郎さんはアメリカの船だと言う。オロシャだ、いやアメリカだ、そんなことを言い合って、また二人でそとへ出て行きましたよ。」

「長崎あたりのことは、てんで様子がわからない――なにしろ、きょうはおれもくたぶれた。」

 山家らしいふろと、質素な夕飯とが、この吉左衛門を待っていた。ちょうど、その八月ついたちは吉左衛門が生まれた日にも当たっていた。だれしもその日となるといろいろ思い出すことが多いように、吉左衛門もまた長い駅路の経験を胸に浮かべた。雨にも風にもこの交通の要路を引き受け、旅人の安全を第一に心がけて、うまかたうしかた、人足の世話から、道路の修繕、すけごうかけあいまで、街道一切のめんどうを見て来たその心づかいは言葉にも尽くせないものがあった。

 吉左衛門は炉ばたにいて、妻のおまんがあたためて出した一本の銚子と、到来物のあゆの塩焼きとで、自分の五十五歳を祝おうとした。彼はおまんに言った。

「きょうの長崎奉行にはおれも感心したねえ。水野ちくごかみ――あの人は二千石のちぎょう取りだそうだが、きょうの御通行は十万石の格式だぜ。非常に破格な待遇さね。一足飛びに十万石の格式なんて、今まで聞いたこともない。それだけでも、徳川様のは変わって来たような気がする。そりゃ泰平無事な日なら、いくら無能のものでも上に立つお武家様でいばっていられる。いったん、事ある場合に際会してごらん――」

「なにしろあなた、この唐人船の騒ぎですもの。」

「こういう時世になって来たのかなあ。」

 くつろぎのと名づけてあるのは、一方はこの炉ばたにつづき、一方は広いなかにつづいている。吉左衛門が自分のへやとしてねおきをしているのもその寛ぎの間だ。そこへも行って周囲を見回しながら、

「しかし、御苦労、御苦労。」

 と吉左衛門は繰りかえした。おまんはそれを聞きとがめて、

「あなたはだれに言っていらっしゃるの。」

「おれか。だれも御苦労とも言ってくれるものがないから、おれは自分で自分に言ってるところさ。」

 おまんは苦笑いした。吉左衛門は言葉をついで、

「でも、世の中は妙なものじゃないか。名古屋の殿様のために、お勝手向きのお世話でもしてあげれば、みょうじ帯刀御免ということになる。三十年この街道の世話をしても、だれも御苦労とも言い手がない。このおれにとっては、目に見えない街道の世話の方がどれほど骨が折れたか知れないがなあ。」

 そこまで行くと、それから先には言葉がなかった。

 馬籠の駅長としての吉左衛門は、これまでにどれほどの人を送ったり迎えたりしたか知れない。彼も殺風景な仕事にあくせくとして来たが、すこしは風雅の道を心得ていた。この街道を通るほどのものは、どんな人でも彼の目には旅人であった。

 遠からず来る半蔵の結婚の日のことは、すでにしばしば吉左衛門夫婦の話に上るころであった。隣宿つまごの本陣、青山じゅへいじの妹、おたみという娘が半蔵の未来の妻に選ばれた。このせがれの結婚には、吉左衛門も多くの望みをかけていた。早くも青年時代にやって来たような濃いゆううつが半蔵を苦しめたことをおもって見て、もっと生活を変えさせたいと考えることは、その一つであった。六十六歳の隠居半六から家督を譲り受けたように、吉左衛門自身もまた勤められるだけ本陣の当主を勤めて、あとから来るものにを譲って行きたいと考えることも、その一つであった。半蔵の結婚は、やがて馬籠の本陣と、妻籠の本陣とを新たに結びつけることになる。二軒の本陣はもともと同姓を名乗るばかりでなく、遠い昔は相州三浦の方から来て、まず妻籠に落ち着いた、青山けんもつを父祖とする兄弟関係の間柄でもある、と言い伝えられている。ふたりの兄弟は二里ばかりの谷間をへだてて分かれ住んだ。兄は妻籠に。弟は馬籠に。何百年来のこの古い関係をもう一度新しくして、すえ頼もしい寿平次を半蔵の義理ある兄弟と考えて見ることも、その一つであった。

 この縁談には吉左衛門は最初からその話を金兵衛の耳に入れて、相談相手になってもらった。吉左衛門が半蔵を同道して、親子二人づれで妻籠の本陣をたずねに行って来た時のことも、まずその報告をもたらすのは金兵衛のもとであった。ある日、二人は一緒になって、秋の祭礼までには間に合わせたいという舞台普請の話などから、若い人たちのうわさに移って行った。

「吉左衛門さん、妻籠の御本陣の娘さんはおいくつにおなりでしたっけ。」

「十七さ。」

 その時、金兵衛は指を折って数えて見て、

「して見ると、半蔵さんとは六つ違いでおいでなさる。」

 よい一対の若夫婦ができ上がるであろうというふうにそれを吉左衛門に言って見せた。そういう金兵衛にしても、吉左衛門にしても、二十三歳と十七歳とで結びつく若夫婦をそれほど早いとは考えなかった。早婚は一般にあたりまえの事と思われ、むしろよい風習とさえ見なされていた。当時の木曾谷には、新郎十六歳、新婦は十五歳で行なわれるような早い結婚もあって、それすら人は別に怪しみもしなかった。

「しかし、金兵衛さん、あの半蔵のやつがもうしゅうげんだなんて、早いものですね。わたしもこれで、ふだんはそれほどにも思いませんが、こんな話が持ち上がると、自分でも年を取ったかと思いますよ。」

「なにしろ、吉左衛門さんもお大抵じゃない。あなたのところのお嫁取りなんて、御本陣と御本陣の御婚礼ですからねえ。」



「半蔵さま――お前さまのところへは、妻籠の御本陣からお嫁さまがさっせるそうだなし。お前さまも大きくならっせいたものだ。」

 半蔵のところへは、こんなことを言いに寄る出入りのおふきばあさんもある。おふきはうばとして、幼い時分の半蔵の世話をした女だ。まだちいさかったころの半蔵を抱き、その背中に載せて、歩いたりしたのもこの女だ。半蔵の縁談がまとまったことは、本陣へ出入りの百姓のだれにもまして、この婆さんをよろこばせた。

 おふきはまた、今の本陣の「あねさま」(おまん)のいないところで、半蔵のそばへ来て歯のかけた声で言った。

「半蔵さま、お前さまは何も知らっせまいが、おれはお前さまのおっか様をよく覚えている。おそでさま――美しい人だったぞなし。あれほどのきりょうは江戸にもないと言って、通る旅の衆が評判したくらいの人だったぞなし。あのお袖さまがわずらってくなったのは、あれはお前さまを生んでからはつかばかり過ぎだったずら。おれはお前さまを抱いて、おっかさまのまくらもとへ連れて行ったことがある。あれがお別れだった。三十二のとしの惜しい盛りよなし。それから、お前さまはまた、間もなくおうだんまっせる。あの時は助かるまいと言われたくらいよなし。おおだんな(吉左衛門)の御苦労も一通りじゃあらすか。あのおっかさまが今までたっしゃでいて、今度のお嫁取りの話なぞを聞かっせいたら、どんなだずら――」

 半蔵も生みの母を想像する年ごろに達していた。また、ひとりで両親を兼ねたような父吉左衛門が養育の辛苦を想像する年ごろにも達していた。しかしこのおふき婆さんを見るたびに、多く思い出すのは少年の日のことであった。子供の時分の彼が、あれが好きだったとか、これが好きだったとか、そんな食物のことをよく覚えていて、木曾の焼き米の青いにおい、そばこさといもの子で造るいもやきもちなぞを数えて見せるのも、この婆さんであるから。

 山地としての馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、村の子供らの教育のことなぞにかけては耕されない土も同然であった。この山の中に生まれて、周囲には名を書くことも知らないようなものの多い村民の間に、半蔵は学問好きな少年としての自分を見つけたものである。村にはろくな寺小屋もなかった。人を化かすきつねたぬき、その他さまざまな迷信はあたりに暗くばっこしていた。そういう中で、半蔵が人の子を教えることを思い立ったのは、まだ彼が未熟な十六歳のころからである。ちょうど今の隣家のつるまつますだやむすこなどと連れだってかよって来るように、多い年には十六、七人からの子供が彼のもとへ読書習字珠算などのけいこに集まって来た。峠からも、あらまちからも、中のかやからも。時には隣村の湯舟沢、山口からも。年若な半蔵は自分を育てようとするばかりでなく、同時に無学な村の子供を教えることから始めたのであった。

 山里にいて学問することも、この半蔵には容易でなかった。良師のないのが第一の困難であった。信州うえだの人でこだままさおという医者がひところ馬籠に来て住んでいたことがある。その人に『しきょう』のくとうを受けたのは、半蔵が十一歳の時にあたる。しょうがの一章になって、児玉は村を去ってしまって、もはやいて学ぶべき師もなかった。馬籠の万福寺にはそうえんおしょうのような禅僧もあったが、教えてまない人ではなかった。十三歳のころ、父吉左衛門について『こぶんしんぽう』の句読を受けた。当時の半蔵はまだそれほど勉強する心があるでもなく、ただ父のそばにいて習字をしたり写本をしたりしたに過ぎない。そのうちに自ら奮って『ししょ』のしゅうちゅうを読み、十五歳には『えきしょ』や『しゅんじゅう』のたぐいにも通じるようになった。寒さ、暑さをいとわなかった独学の苦心が、それから十六、七歳のころまで続いた。父吉左衛門は和算をいなおの村の小野ほほうに学んだ人で、その術には達していたから、半蔵も算術のことは父から習得した。村には、やれ魚りだ碁将棋だと言って時を送る若者の多かった中で、半蔵ひとりはそんな方に目もくれず、また話相手の友だちもなくて、読書をそれらの遊戯に代えた。幸い一人の学友を美濃の中津川の方に見いだしたのはそのころからである。はちやこうぞうと言って、もっと学ぶことを半蔵に説き勧めてくれたのも、この香蔵だ。二人の青年の早い友情が結ばれはじめてからは、馬籠と中津川との三里あまりの間を遠しとしなかった。ちょうど中津川には宮川寛斎がある。寛斎は香蔵が姉の夫にあたる。医者ではあるが、漢学に達していて、また国学にもくわしかった。馬籠の半蔵、中津川の香蔵――二蔵は互いに競い合って寛斎の指導を受けた。

「自分は独学で、そしてころうだ。もとよりこんな山の中にいて見聞もすくない。どうかして自分のようなものでも、もっと学びたい。」

 と半蔵は考え考えした。古い青山のような家に生まれた半蔵は、この師に導かれて、国学に心を傾けるようになって行った。二十三歳を迎えたころの彼は、言葉の世界に見つけた学問のよろこびを通して、かものまぶちもとおりのりながひらたあつたねなどの諸先輩がのこして置いて行った大きな仕事を想像するような若者であった。

 黒船は、実にこの半蔵の前にあらわれて来たのである。



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 その年、かえい六年の十一月には、半蔵が早い結婚の話もつまごの本陣あてにゆいのうの品を贈るほど運んだ。

 もはやえなさんへは雪が来た。ある日、おまんは裏の土蔵の方へ行こうとした。山家のならわしで、めぼしい器物という器物は皆土蔵の中に持ち運んである。さら何人前、ぜん何人前などと箱書きしたものを出したり入れたりするだけでも、主婦のひとやくだ。

 ちょうど、そこへ会所の使いが福島の役所からのさしがみを置いて行った。まごめしょうやあてだ。おまんはそれを渡そうとして、おっとさがした。

おおだんなは。」

 と下女にきくと、

「蔵の方へおいでだぞなし。」

 という返事だ。おまんはその足で、もやから勝手口の横手について裏の土蔵の前まで歩いて行った。石段の上には夫の脱いだげたもある。戸前の錠もはずしてある。夫もやはり同じ思いで、婚礼用の器物でも調べているらしい。おまんは土蔵の二階の方にごとごと音のするのを聞きながらはしごを登って行って見た。そこに吉左衛門がいた。

「あなた、福島からおさしがみですよ。」

 吉左衛門はわずかのひまの時を見つけて、その二階に片づけ物なぞをしていた。壁によせて幾つとなく古い本箱のたぐいも積み重ねてある。日ごろ彼の愛蔵する俳書、和漢の書籍なぞもそこに置いてある。その時、彼はおまんから受け取ったものを窓に近く持って行って読んで見た。

 その差紙には、海岸警衛のため公儀の物入りもばくだいだとある。国恩を報ずべき時節であると言って、三都の市中はもちろん、諸国のごりょうしょざいかた村々まで、めいめいみょうがのため上納金を差し出せとの江戸からの達しだということが書いてある。それにはまた、うらがおもてへアメリカ船四そう、長崎表へオロシャ船四艘交易のため渡来したことが断わってあって、海岸ぼうぎょのためとも書き添えてある。

「これは国恩金の上納を命じてよこしたんだ。」と吉左衛門はおまんに言って見せた。「外はしけだというのに、内では祝言のしたくだ――しかしこのおさしがみの様子では、おれもひとはだ脱がずばなるまいよ。」

 その時になって見ると、半蔵の祝言を一つのくぎりとして、古い青山の家にもいろいろな動きがあった。年老いた吉左衛門の養母は祝言のごたごたを避けて、土蔵に近い位置にある隠居所の二階に隠れる。新夫婦の居間にと定められた店座敷へは、畳屋もかよって来る。長いこと勤めていた下男も暇を取って行って、そのかわり佐吉という男が今度新たに奉公に来た。

 おまんがはしごを降りて行ったあと、吉左衛門はまた土蔵の明り窓に近く行った。てつごうしを通してさし入る十一月の光線もあたりを柔らかに見せている。彼はひとりで手をもんで、福島から差紙のあった国防献金のことを考えた。徳川幕府あって以来いまだかつて聞いたこともないような、公儀のおかねぐらがすでにからっぽになっているというないないの取りざたなぞが、その時、胸に浮かんだ。昔かたぎの彼はそれらの事を思い合わせて、若者の前でもなんでもおかまいなしに何事も大げさに触れ回るような人たちを憎んだ。そこから子に対する心持ちをも引き出されて見ると、年もまだ若く心も柔らかく感じやすい半蔵なぞに、今から社会の奥をのぞかせたくないと考えた。いかなる人間同志の醜い秘密にも、その刺激に耐えられる年ごろに達するまでは、ゆっくりしたくさせたいと考えた。権威はどこまでも権威として、子の前には神聖なものとして置きたいとも考えた。おそらく隣家の金兵衛とても、親としてのその心持ちに変わりはなかろう。そんなことを思い案じながら、吉左衛門はその蔵の二階を降りた。

 かねて前触れのあった長崎行きの公儀衆も、やがて中津川泊まりで江戸の方角から街道を進んで来るようになった。空は晴れても、大雪の来たあとであった。のじりしゅくつぎしょからおちあいまで通し人足七百五十人の備えを用意させるほどの公儀衆が、さくさく音のする雪の道を踏んで、長崎へと通り過ぎた。この通行が三日も続いたあとには、つまごの本陣からその同じ街道を通って、新しい夜具のぎっしり詰まったながもちなぞが吉左衛門の家へかつぎ込まれて来た。

 吉日として選んだ十二月の一日が来た。金兵衛は朝から本陣へ出かけて来て、吉左衛門と一緒に客の取り持ちをした。台所でもあり応接間でもある広い炉ばたには、手伝いとして集まって来ているお玉、お喜佐、おふきなどの笑い声も起こった。

 せんじゅうろうも改まった顔つきでやって来た。くつろぎのと店座敷の間をったり来たりして、半蔵を退屈させまいとしていたのもこの人だ。この取り込みの中で、金兵衛はちょっと半蔵を見に来て言った。

「半蔵さん、だれかお前さんの呼びたい人がありますかい。」

「お客にですか。宮川寛斎先生に中津川の香蔵さん、それにけいぞうさんも呼んであげたい。」

 あさみ景蔵は中津川本陣の相続者で、同じ町に住む香蔵を通して知るようになった半蔵の学友である。景蔵はもと漢学のはたけの人であるが、半蔵らと同じように国学に志すようになったのも、寛斎の感化であった。

「それは半蔵さん、言うまでもなし。中津川の御連中はあすということにして、もう使いが出してありますよ。あのふたりは黙って置いたって、向こうから祝いに来てくれる人たちでさ。」

 そばにいた仙十郎は、この二人の話を引き取って、

「おれも――そうだなあ――もう一度祝言の仕直しでもやりたくなった。」

 と笑わせた。

 山家にはめずらしい冬で、一度は八寸も街道に積もった雪が大雨のために溶けて行った。そのあとには、金兵衛のような年配のものが子供の時分から聞き伝えたこともないと言うほどの暖かさが来ていた。寒がりの吉左衛門ですら、その日はこたつひばちでなしに、たばこぼんの火だけで済ませるくらいだ。この陽気は本陣の慶事を一層楽しく思わせた。

 午後に、寿平次きょうだいがすでにつまごの本陣を出発したろうと思われるころには、吉左衛門はじょうもん付きのかみしも姿で、表玄関前の広い板の間を歩き回った。下男の佐吉もじっとしていられないというふうで、表門を出たりはいったりした。

「佐吉、めずらしい陽気だなあ。この分じゃ妻籠の方も暖かいだろう。」

「そうよなし。今夜は門の前でかがりでもかずと思って、おれは山から木をしよって来た。」

「こう暖かじゃ、かがりにも及ぶまいよ。」

「今夜はたかはりだけにせずか、なし。」

 そこへ金兵衛も奥から顔を出して、一緒に妻籠から来る人たちのうわさをした。

おとといの晩でさ。」と金兵衛は言った。「ますだやの儀助さんが夜行で福島へ出張したところが、往還の道筋にはすこしも雪がない。茶屋へ寄って、店先へ腰掛けても、凍えるということがない。どうもこれは世間一統の陽気でしょう。あの儀助さんがそんな話をしていましたっけ。」

「金兵衛さん――前代みもんの冬ですかね。」

「いや、全く。」

 日の暮れるころには、村の人たちは本陣の前の街道に集まって来て、梅屋のこうし先あたりから問屋のいしがきの辺へかけて黒山を築いた。土地の風習として、花嫁を載せて来たかごはいきなり門の内へはいらない。峠の上まで出迎えたものを案内にして、寿平次らの一行はまず門の前でまった。ちょうちんに映る一つの駕籠を中央にして、木曾の「なかのりさん」のうたが起こった。荷物をかついで妻籠から供をして来た数人のものが輪を描きながら、唄のふしにつれて踊りはじめた。手を振り腰を動かす一つの影の次ぎには、またほかの影が動いた。このひなびた舞踏の輪は九度も花嫁のまわりを回った。

 その晩、さかずきをすましたあとの半蔵はお民と共に、冬の夜とも思われないような時を送った。半蔵がお民を見るのは、それが初めての時でもない。彼はすでに父と連れだって、妻籠にお民の家をたずねたこともある。この二人の結びつきは当人同志の選択からではなくて、ただ父兄の選択に任せたのであった。親子の間柄でも、当時は主従の関係に近い。それほど二人は従順であったが、しかし決して安閑としてはいなかった。初めて二人が妻籠の方で顔を見合わせた時、すべてをその瞬間に決定してしまった。長くかかって見るべきものではなくて、一目に見るべきものであったのだ。

 店座敷は東向きで、戸の外には半蔵の好きな松のもあった。新しい青いへやの畳は、うぐいすでもなき出すかと思われるようなあたたかい空気にかおって、夜遊び一つしたことのない半蔵の心をのぼせるばかりにした。彼は知らない世界にでもはいって行く思いで、若さとおそろしさのために震えているようなお民を自分のそばに見つけた。



「おとっさん――わたしのためでしたら、祝いはなるべく質素にしてください。」

「それはお前に言われるまでもない。質素はおれも賛成だねえ。でも、本陣には本陣のしきたりというものもある。呼ぶだけのお客はお前、どうしたって呼ばなけりゃならない。まあ、おれに任せて置け。」

 半蔵が父とこんな言葉をかわしたのは、きゃくぶるまいの続いた三日目の朝である。

 思いがけない尾張藩のかちめつけさくじかたとがその日の午前に馬籠のしゅくに着いた。来たる三月には尾張藩主が木曾路を経て江戸へ出府のことに決定したという。この役人衆の一行は、冬のうちに各本陣をけんぶんするためということであった。

 こういう場合に、なくてならない人は金兵衛と問屋の九太夫とであった。万事扱い慣れた二人は、吉左衛門の当惑顔をみて取った。まず二人で梅屋の方へ役人衆を案内した。金兵衛だけが吉左衛門のところへ引き返して来て言った。

「まずありがたかった。もう少しで、この取り込みの中へ乗り込まれるところでした。オット。皆さま、当宿本陣には慶事がございます、取り込んでおります、恐れ入りますが梅屋の方でしばらくお休みを願いたい、そうわたしが言いましてね。そこはお役人衆も心得たものでさ。お昼のしたくもあちらで差し上げることにして来ましたよ。」

 梅屋と本陣とは、呼べばこたえるほどのむかい合った位置にある。午後に、かちめつけの一行は梅屋で出したふくぞうりにはきかえて、かわいた街道を横ぎって来た。大きなまげのにおい、帯刀の威、はかまれる音、それらが役人らしいあいさつと一緒になって、本陣の表玄関には時ならぬいかめしさを見せた。やがて、吉左衛門の案内で、へや部屋の見分があった。

 吉左衛門は徒士目付にたずねた。

「はなはだ恐縮ですが、ちゅうなごん様の御通行は来春のようにうけたまわります。当しゅくではどんな心じたくをいたしたものでしょうか。」

「さあ、ことによるとおひるを仰せ付けられるかもしれない。」

 婚礼の祝いは四日も続いて、最終の日のきゃくぶるまいにはこの慶事に来て働いてくれた女たちから、出入りの百姓、会所のじょうづかいなどまで招かれて来た。大工も来、畳屋も来た。日ごろ吉左衛門や半蔵のところへ油じみただいばこをさげてかよって来る髪結いなおじまでが、その日は羽織着用でやって来て、ぜんの前にかしこまった。

 町内のこまえのものの前に金兵衛、髪結い直次の前に仙十郎、涙を流してその日の来たことを喜んでいるようなおふきばあさんの前には吉左衛門がすわって、それぞれ取り持ちをするころは、酒も始まった。吉左衛門はおふきの前から、出入りの百姓たちの前へ動いて、

「さあ、やっとくれや。」

 とそこにあるちょうしを持ち添えて勧めた。百姓のひとりひざをかき合わせながら、

「おれにかなし。どうもおおだんなにおしゃくしていただいては申しわけがない。」

 隣席にいるほかの百姓が、その時、吉左衛門に話しかけた。

おおだんな――こないだの上納金のお話よなし。ほかの事とも違いますから、一同申し合わせをして、お受けをすることにしましたわい。」

「あゝ、あの国恩金のことかい。」

「それが大旦那、百姓はもとより、豆腐屋、あんままで上納するような話ですで、おれたちも見ていられすか。十八人で二両二分とか、五十六人で三両二分とか、村でも思い思いに納めるようだが、おれたちは七人で、一人がいっしゅずつと話をまとめましたわい。」

 仙十郎は酒をついで回っていたが、ちょうどその百姓の前まで来た。

「よせ。こんな席で上納金の話なんか。いせの神風の一つも吹いてごらん、そんなとうじんぶねなぞはどこかへ飛んでしまう。くよくよするな。それよりか、一杯行こう。」

「どうも旦那はえらいことを言わっせる。」と百姓は仙十郎のさかずきをうけた。

「上の伏見屋の旦那。」と遠くの席から高い声であいづちを打つものもある。「おれもお前さまに賛成だ。徳川さまの御威光で、四艘や五艘ぐらいの唐人船がなんだなし。」

 酒が回るにつれて、こんな話は古風ないしばづきのうたなぞに変わりかけて行った。この地方のものは、いったいに酒に強い。だれでも飲む。若い者にも飲ませる。おふき婆さんのような年をとった女ですら、なかなかすみへは置けないくらいだ。そのうちに仙十郎が半蔵の前へ行ってすわったころは、かなりの上きげんになった。半蔵も方々から来る祝いの盃をことわりかねて、顔をあかくしていた。

 やがて、仙十郎は声高くうたい出した。

  木曾のナ

  なかのりさん、

  木曾のおんたけさんは

  なんちゃらほい、

  夏でも寒い。

  よい、よい、よい。

 半蔵とはむかい合いに、お民の隣には仙十郎の妻で半蔵が異母妹にあたるお喜佐も来てぜんに着いていた。お喜佐は目を細くして、若い夫のほれぼれとさせるような声に耳を傾けていた。その声は一座のうちのだれよりもすずしい。

「半蔵さん、君の前でわたしがうたうのは今夜初めてでしょう。」

 と仙十郎は軽く笑って、またてびょうしを打ちはじめた。百姓の仲間からおふき婆さんまでが右に左にからだを振り動かしながら手をって調子を合わせた。しおからい声を振り揚げる髪結い直次のおんどとりで、ひなびた合唱がまたそのあとに続いた。

  あわせ

  なかのりさん、

  袷やりたや

  なんちゃらほい、

  たび添えて。

  よい、よい、よい。



 本陣とは言っても、吉左衛門の家の生活は質素で、いもやきもちなぞを冬の朝の代用食とした。祝言のあった六日目の朝には、もはやきゃくぶるまいの取り込みも静まり、一日がかりのあと片づけも済み、出入りの百姓たちもそれぞれ引き取って行ったあとなので、おまんは炉ばたにいて家の人たちの好きな芋焼餅を焼いた。

 店座敷に休んだ半蔵もお民もまだ起き出さなかった。

「いつも早起きの若旦那が、この二、三日はめずらしい。」

 そんな声が二人の下女の働いている勝手口の方から聞こえて来る。しかしおまんは奉公人の言うことなぞにとんちゃくしないで、ゆっくり若い者を眠らせようとした。そこへおふき婆さんが新夫婦の様子を見にそとからはいって来た。

あねさま。」

「あい、おふきか。」

 おふきは炉ばたにいるおまんを見て入り口の土間のところに立ったまま声をかけた。

「姉さま。おれはけさ早く起きて、山のいもを掘りに行って来た。大旦那も半蔵さまもお好きだで、こんなものをさげて来た。店座敷ではまだ起きさっせんかなし。」

 おふきはわらづと〈[#「くさかんむり/稾」、58-12]〉につつんだ山の芋にもあたたかい心を見せて、半蔵のうばとしてかよって来た日と同じように、やがて炉ばたへ上がった。

「おふき、お前はよいところへ来てくれた。」とおまんは言った。「きょうは若夫婦にごへいもちを祝うつもりで、くるみを取りよせて置いた。お前も手伝っておくれ。」

「ええ、手伝うどころじゃない。農家も今はひまだで。御幣餅とはお前さまもよいところへ気がつかっせいた。」

「それに、若夫婦のおしょうばんに、お隣のむすこさんでも呼んであげようかと思ってさ。」

「あれ、そうかなし。それじゃおれが伏見屋へちょっくら行って来る。そのうちには店座敷でも起きさっせるずら。」

 気候はめずらしい暖かさを続けていて、炉ばたも楽しい。黒くすすけた竹筒、魚の形、そのじざいかぎの天井からるしてある下では、あかあかと炉の火が燃えた。おふきが隣家まで行って帰って見たころには、半蔵とお民とが起きて来ていて、二人でまつまきをくべていた。渡しがねの上に載せてある芋焼餅も焼きざましになったころだ。おふきはそのさといもの子の白くあらわれたやつを温め直して、大根おろしを添えて、新夫婦に食べさせた。

「お民、おいで。髪でも直しましょう。」

 おまんは奥の坪庭に向いた小座敷のところへお民を呼んだ。つまごの本陣から来た娘を自分の嫁として、「お民、お民」と名を呼んで見ることもおまんにはめずらしかった。おとなの世界をのぞいて見たばかりのようなお民は、いくらかはじらいを含みながら、十七のはつしまだの祝いのおりに妻籠の知人から贈られたというくしばこなぞをそこへ取り出して来ておまんに見せた。

「どれ。」

 おまんはたすきがけになって、お民を古風な鏡台に向かわせ、人形でも扱うようにその髪をといてやった。まだ若々しく、娘らしい髪の感覚は、おまんの手にあまるほどあった。

「まあ、長い髪の毛だこと。そう言えば、わたしも覚えがあるが、これでまゆでもり落とす日が来てごらん――あの里帰りというものは妙に昔の恋しくなるものですよ。もう娘の時分ともお別れですねえ。女はだれでもそうしたものですからねえ。」

 おまんはいろいろに言って見せて、左の手に油じみた髪の根元を堅く握り、右手に木曾名物のおろくぐしというやつを執った。ひたいからびんの辺へかけて、の力がはいるたびに、お民は目を細くして、これから長くしゅうとめとして仕えなければならない人のするままに任せていた。

くまや。」

 とその時、おまんはそばへ寄って来る黒毛のねこの名を呼んだ。熊は本陣に飼われていて、だれからもかわいがられるが、ただ年老いた隠居からは憎まれていた。隠居が熊を憎むのは、みんなの愛がこの小さな動物にそそがれるためだともいう。どうかすると隠居は、おまんや下女たちの見ていないところで、人知れずこの黒猫にげんこを見舞うことがある。おまんはお民の髪を結いながらそんな話までして、

うちのおばあさんも、あれだけ年をとったかと思いますよ。」

 とも言い添えた。

 やがて本陣の若い「ごしんぞ」に似合わしい髪のかたちができ上がった。儀式ばった晴れの装いはとれて、さっぱりとしたまきえくしなぞがそれに代わった。りんごのようにあかくて、そしてき生きとしたお民のほおは、まるで別の人のように鏡のなかに映った。

「髪はできました。これからへやの案内です。」

 というおまんのあとについて、間もなくお民は家のなかをすみずみまでも見て回った。さとを見慣れた目で、この街道にえたような家を見ると、お民にはいろいろな似よりを見いだすことも多かった。奥の間、仲の間、次の間、くつろぎの間というふうに、部屋部屋に名のつけてあることも似ていた。上段の間という部屋が一段高く造りつけてあって、本格な床の間、障子から、白地に黒く雲形を織り出したようなこうらいべりの畳まで、この木曾路を通る諸大名諸公役の客間にあててあるところも似ていた。

 熊は鈴の音をさせながら、おまんやお民の行くところへついて来た。二人が西向きの仲の間の障子の方へ行けば、そこへも来た。この黒毛の猫は新来の人をもおそれないで、まだ半分お客さまのようなお民のすそにもまといついて戯れた。

「お民、来てごらん。きょうはえなさんがよく見えますよ。つまごの方はどうかねえ、木曾川の音が聞こえるかねえ。」

「えゝ、日によってよく聞こえます。わたしどもの家はかわのすぐそばでもありませんけれど。」

「妻籠じゃそうだろうねえ。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ。」

「それでも、まあよいながめですこと。」

「そりゃまごめはこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気のよい日には、遠いいぶき山まで見えることがありますよ――」

 林も深く谷も深い方に住み慣れたお民は、この馬籠に来て、西の方に明るく開けた空を見た。何もかもお民にはめずらしかった。わずかに二里を隔てた妻籠と馬籠とでも、言葉のなまりからしていくらか違っていた。この村へ来て味わうことのできるあかい「ずいき」のつけものなぞも、妻籠の本陣では造らないものであった。



 まだ半蔵夫婦の新規な生活は始まったばかりだ。午後に、おまんは一通り屋敷のなかを案内しようと言って、土蔵の大きなかぎをさげながら、今度はもやの外の方へお民を連れ出そうとした。

 炉ばたでは山家らしいくるみを割る音がしていた。おふきは二人の下女を相手に、堅い胡桃のたねを割って、ごへいもちのしたくに取りかかっていた。その時、上がりはなにあるつえをさがして、おまんやお民と一緒に裏の隠居所まで歩こうと言い出したのは隠居だ。このおばあさんもひところよりは健康を持ち直して、食事のたびに隠居所からもやかよっていた。

 馬籠の本陣はふたむねに分かれて、もやしんやより成り立つ。新屋は表門の並びに続いて、すぐ街道とむかい合った位置にある。別に入り口のついた会所(宿役人詰め所)と問屋場の建物がそこにある。いしがきの上に高く隣家の伏見屋を見上げるのもその位置からで、大小幾つかの部屋がその裏側に建て増してある。多人数の通行でもある時は客間に当てられるのもそこだ。おまんは雨戸のしまった小さな離れ座敷をお民にさして見せて、そこにも本陣らしい古めかしさがあることを話し聞かせた。ずっと昔からこの家の習慣で、女が見るものを見るころは家族のものからも離れ、ひとりでにたきまでして、そこにこもり暮らすという。

「お民、来てごらん。」

 と言いながら、おまんは隠居所のしたにあたるみそなやの戸をあけて見せた。味噌、たまり、漬物のおけなぞがそこにあった。おまんは土蔵の前の方へお民を連れて行って、金網の張ってある重い戸をあけ、薄暗い二階の上までも見せて回った。おまんの古い長持と、お民の新しい長持とが、そこに置き並べてあった。

 土蔵の横手について石段を降りて行ったところには、深い掘り井戸を前に、米倉、木小屋なぞが並んでいる。そこは下男の佐吉の世界だ。佐吉も案内顔に、伏見屋寄りの方の裏木戸を押して見せた。街道と並行した静かな村の裏道がそこに続いていた。古い池のある方に近い木戸をあけて見せた。本陣のいなりほこらかしひいらぎの間に隠れていた。

 その晩、家のもの一同は炉ばたに集まった。隠居はじめ、吉左衛門から、佐吉まで一緒になった。隣家の伏見家からは少年のつるまつも招かれて来て、半蔵の隣にすわった。おふきが炉で焼く御幣餅の香気はあたりに満ちあふれた。

「鶴さん、これがうちの嫁ですよ。」

 とおまんは隣家のむすこにお民を引き合わせて、くしざしにした御幣餅をそのぜんに載せてすすめた。こんがりときつねいろに焼けたくるみだまりのうまそうなやつは、新夫婦の膳にも上った。吉左衛門夫婦はこの質素な、しかし心のこもった山家料理で、半蔵やお民の前途を祝福した。

〈[#改頁]〉


第二章


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 じっきょくとうげの上にある新茶屋には出迎えのものが集まった。今度いよいよ京都本山の許しを得、僧ちげんの名もしょううんと改めて、まごめ万福寺の跡を継ごうとする新住職がある。くみがしらささやしょうべえはじめ、五人組仲間、その他のものが新茶屋に集まったのは、この人の帰国を迎えるためであった。

 山里へは旧暦二月末の雨の来るころで、年もあんせい元年と改まった。一同が待ち受けているおしょうは、前の晩のうちにみのてがの村のしょうげんじまでは帰って来ているはずで、村からはその朝早く五人組のひとりたせ、人足もふたりつけて松源寺まで迎えに出してある。そろそろあの人たちも帰って来ていいころだった。

「きょうは御苦労さま。」

 出迎えの人たちに声をかけて、本陣の半蔵もそこへ一緒になった。半蔵は父吉左衛門のみょうだいとして、小雨の降る中をやって来た。

 こうした出迎えにも、古い格式のまだくずれずにあった当時には、だれとだれはどこまでというようなことをやかましく言ったものだ。たとえば、村の宿役人仲間は馬籠の石屋の坂あたりまでとか、五人組仲間は宿はずれの新茶屋までとかというふうに。しかし半蔵はそんなことにとんちゃくしない男だ。のみならず、彼はこうした場処に来て腰掛けるのが好きで、ここへ来て足を休めて行く旅人、馬をつなぐ馬方、または土足のまま茶屋のいろりばたに踏んんできそふうな「めんぱ」(木製わりご)を取り出す人足なぞの話にまで耳を傾けるのを楽しみにした。

 馬籠の百姓総代とも言うべき組頭庄兵衛は茶屋を出たりはいったりして、和尚の一行を待ち受けたが、やがてまた仲間のもののそばへ来て腰掛けた。おやすみどころとした古い看板や、あるものは青くあるものは茶色に諸こうじゅうのしるしを染め出した下げ札などの掛かった茶屋の軒下から、往来一つ隔てて向こうにおきなづかが見える。ばしょうの句碑もその日の雨にぬれて黒い。

 間もなく、半蔵のあとを追って、伏見屋のつるまつが馬籠のしゅくの方からやって来た。鶴松も父きんべえみょうだいという改まった顔つきだ。

「お師匠さま。」

「君も来たのかい。御覧、翁塚のよくなったこと。あれは君のおとっさんの建てたんだよ。」

「わたしは覚えがない。」

 半蔵が少年の鶴松を相手にこんな言葉をかわしていると、庄兵衛も思い出したように、

「そうだずら、鶴さまは覚えがあらっせまい。」

 と言い添えた。

 小雨は降ったりやんだりしていた。松雲和尚の一行はなかなか見えそうもないので、半蔵は鶴松を誘って、新茶屋の周囲を歩きに出た。みちばたに小高く土を盛り上げ、えのきを植えて、里程を示すたよりとしたつきやまがある。駅路時代の一里塚だ。その辺はしなのみのくにざかいにあたる。西よりする木曾路の一番最初の入り口ででもある。

 しばらく半蔵は峠の上にいて、学友の香蔵や景蔵の住む美濃の盆地の方に思いをせた。今さら関東関西の諸大名が一大かっせんに運命を決したような関ヶ原の位置を引き合いに出すまでもなく、古くから東西両勢力の相接触する地点と見なされたのも隣の国である。学問に、宗教に、商業に、工芸に、いろいろなものがそこに発達したのに不思議はなかったかもしれない。すくなくもそこに修業時代を送って、そういう進んだ地方の空気の中にそうりょとしてのたましいを鍛えて来た松雲が、半蔵にはうらやましかった。その隣の国に比べると、この山里の方にあるものはすべておそい。あだかも、西から木曾川を伝わって来る春が、両岸に多いけやきや雑木の芽を誘いながら、一か月もかかって奥へ奥へと進むように。万事がそのとおりおくれていた。

 その時、半蔵は鶴松を顧みて、

「あの山の向こうがなかつがわだよ。美濃はよい国だねえ。」

 と言って見せた。何かにつけて彼は美濃おわりの方の空を恋しく思った。

 もう一度半蔵が鶴松と一緒に茶屋へ引き返して見ると、ちょうど伏見屋の下男がそこへやって来るのにあった。その男は庄兵衛の方を見て言った。

うちだんなはお寺の方でお待ち受けだげな。和尚さまはまだ見えんかなし。」

「おれはさっきから来て待ってるが、なかなか見えんよ。」


「弁当持ちの人足も二人出かけたはずだが。」

「あの衆は、いずれ途中で待ち受けているずらで。」

 半蔵がこの和尚を待ち受ける心は、やがて西から帰って来る人を待ち受ける心であった。彼が家と万福寺との縁故も深い。最初にあの寺をこんりゅうして万福寺と名づけたのも青山の家の先祖だ。しかし彼は今度帰国する新住職のことを想像し、その人の尊信する宗教のことを想像し、人知れずある予感に打たれずにはいられなかった。早い話が、彼は中津川の宮川寛斎にいたでしである。寛斎はまたひらた派の国学者である。この彼が日ごろ先輩から教えらるることは、暗い中世の否定であった。中世以来学問道徳の権威としてこの国に臨んで来たからまなふうの因習からも、仏の道で教えるような物の見方からも離れよということであった。それらのものの深い影響を受けない古代の人の心に立ち帰って、もう一度こころゆたかにこの世を見直せということであった。一代の先駆、かだのあずままろをはじめ、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、それらの諸大人が受け継ぎ受け継ぎして来た一大反抗の精神はそこから生まれて来ているということであった。彼に言わせると、「物学びするともがら」の道は遠い。もしその道を追い求めて行くとしたら、彼が今待ち受けている人に、その人の信仰に、行く行く反対を見いだすかもしれなかった。

 こんな本陣のむすこが待つとも知らずに、松雲の一行は十曲峠の険しいさかみちを登って来て、予定の時刻よりおくれて峠の茶屋に着いた。



 松雲は、出迎えの人たちの予想に反して、それほど旅やつれのした様子もなかった。六年の長い月日をあんぎゃの旅に送り、さらに京都本山まで出かけて行って来た人とは見えなかった。一行六、七人のうち、こちらから行った馬籠の人足たちのほかに、中津川からは宗泉寺の老和尚も松雲に付き添って来た。

「これは恐れ入りました。ありがとうございました。」

 と言いながら松雲はかさひもをといて、半蔵の前にも、庄兵衛たちの前にもお辞儀をした。

「鶴さんですか。見ちがえるように大きくお成りでしたね。」

 とまた松雲は言って、そこに立つ伏見屋のむすこの前にもお辞儀をした。手賀野村からの雨中の旅で、かさわらじもぬれて来た松雲の道中姿は、まず半蔵の目をひいた。

「この人が万福寺の新住職か。」

 と半蔵は心の中で思わずにはいられなかった。和尚としては年も若い。まだ三十そこそこの年配にしかならない。そういう彼よりは六つか七つもとしうえにあたるくらいの青年のそうりょだ。とりあえず峠の茶屋に足を休めるとあって、京都の旅の話なぞがぽつぽつ松雲の口から出た。京都に十七日、名古屋に六日、それから美濃路回りで三日目に手賀野村の松源寺に一泊――それを松雲は持ち前の禅僧らしい調子で話し聞かせた。もののこはんときも半蔵が一緒にいるうちに、とてもこの人を憎むことのできないような善良な感じのする心の持ち主を彼は自分のそばに見つけた。

 やがて一同は馬籠の本宿をさして新茶屋を離れることになった。途中で松雲は庄兵衛を顧みて、

「ほ。見ちがえるように道路がよくなっていますな。」

「この春、びしゅうの殿様が江戸へ御出府だげな。お前さまはまだ何も御存じなしか。」

「その話はわたしも聞いて来ましたよ。」

「新茶屋の境から峠の峰までみちぶしんよなし。尾州からはもうしゅくわりの役人まで見えていますぞ。道造りのけんぶん、見分で、みんないそがしい思いをしましたに。」

 うわさのある名古屋の藩主(尾張よしかつ)の江戸出府は三月のはじめに迫っていた。来たる日の通行の混雑を思わせるような街道を踏んで、一同石屋の坂あたりまで帰って行くと、村の宿役人仲間がそこに待ち受けるのにあった。といやくだゆうをはじめ、ますだやの儀助、ほうらいやの新七、梅屋のよじえもん、いずれもかみしも着用にあまがさをさしかけて松雲の一行を迎えた。

 当時の慣例として、新住職が村へ帰り着くところは寺の山門ではなくて、まず本陣の玄関だ。出家の身としてこんな歓迎を受けることはあながち松雲の本意ではなかったけれども、万事は半蔵が父の計らいに任せた。付き添いとして来た中津川の老和尚の注意もあって、松雲がしょうぞくを着かえたのも本陣の一室であった。乗り物、さきばこだいがさで、この新住職がきちざえもんの家を出ようとすると、それを見ようとする村の子供たちはぞろぞろ寺の道までついて来た。

 万福寺は小高い山の上にある。門前の墓地に茂るすぎこだちの間を通して、傾斜を成した地勢に並び続く民家の板屋根を望むことのできるような位置にある。松雲が寺への帰参は、くつばきで久しぶりの山門をくぐり、それからほうじょうへ通って、いちれいざりょうで式が済んだ。わざとばかりのうどんぶるまいのあとには、隣村のてらかた、村の宿役人仲間、それに手伝いの人たちなぞもそれぞれ引き取って帰って行った。

「和尚さま。」

 と言って松雲のそばへ寄ったのは、長いことここに身を寄せている寺男だ。その寺男は主人が留守中のことを思い出し顔に、

「よっぽど伏見屋の金兵衛さんには、お礼を言わっせるがいい。お前さまがお留守の間にもよく見舞いにおいでて、本堂の廊下には大きな新しい太鼓が掛かったし、すっかり屋根のき替えもできました。あのかやだけでも、お前さま、五百二十からかかりましたよ。まあ、おれは何からお話していいか。村へ大風の来た年には鐘つき堂が倒れる。そのたびに、金兵衛さんのお骨折りも一通りじゃあらすか。」

 松雲はうなずいた。

 諸国を遍歴して来た目でこの境内を見ると、これが松雲には馬籠の万福寺であったかと思われるほど小さい。長い留守中は、ここへ来て世話をしてくれた隣村の隠居和尚任せで、なんとなく寺も荒れて見える。方丈には、あの隠居和尚が六年もながめ暮らしたような古い壁もあって、そこにはだるまの画像が帰参の新住職を迎え顔に掛かっていた。

「寺に大地小地なく、じゅうじに大地小地あり。」

 この言葉が松雲を励ました。

 松雲は周囲を見回した。彼には心にかかるかずかずのことがあった。当時の戸籍簿とも言うべき宗門帳は寺で預かってある。あの帳面もどうなっているか。いはいどうの整理もどうなっているか。数えて来ると、何から手を着けていいかもわからないほど種々雑多な事が新住職としての彼を待っていた。毎年のけんばちを例とするかいざんきの近づくことも忘れてはならなかった。彼は考えた。ともかくもあすからだ。朝早く身を起こすために何かの目的を立てることだ。それにはふたりでしや寺男任せでなしに、まず自分で庭の鐘楼に出て、十八声の大鐘をくことだと考えた。

 翌朝は雨もあがった。松雲は夜の引き明けに床を離れて、山から来る冷たいしみずに顔を洗った。ほうこちょうかはあと回しとして、まず鐘楼の方へ行った。えなさんを最高の峰としてこの辺一帯の村々を支配して立つような幾つかのさんがくも、その位置からは隠れてよく見えなかったが、遠くかすかに鳴きかわす鶏の声を谷の向こうに聞きつけることはできた。まだ本堂の前のひいらぎも暗い。その時、朝の空気の静かさを破って、澄んだ大鐘の音が起こった。力をこめた松雲のき鳴らす音だ。その音は谷から谷を伝い、はたけから畠をって、まだ動きはじめない村の水車小屋の方へも、半分眠っているような馬小屋の方へもひびけて行った。



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 ある朝、半蔵は妻のそばに目をさまして、街道を通る人馬の物音を聞きつけた。妻のお民は、と見ると、まだ娘のような顔をして、ねごこちのよい春の暁を寝惜しんでいた。半蔵は妻の目をさまさせまいとするように、自分ひとり起き出して、新婚後ふたりの居間となっている本陣の店座敷の戸を明けて見た。

 旧暦三月はじめのめずらしい雪が戸の外へ来た。暮れから例年にない暖かさだと言われたのが、三月を迎えてかえってその雪を見た。表庭のへいの外は街道に接していて、雪を踏んで行く人馬の足音がする。半蔵は耳を澄ましながらその物音を聞いて、かねてうわさのあった尾張藩主の江戸出府がいよいよ実現されることを知った。

「尾州のおさきにがもうやって来た。」

 と言って見た。

 宿継ぎさしたてについて、尾張藩から送られて来ただちんがねが馬籠の宿だけでも金四十一両に上った。駄賃金は年寄役金兵衛が預かったが、その金高を聞いただけでも今度の通行のかなり大げさなものであることを想像させる。半蔵はうすうす父からその話を聞いて知っていたので、へやにじっとしていられなかった。台所に行って顔を洗うとすぐ雪の降る中をそとへ出て見ると、会所では朝早くからつぎたてが始まる。あとからあとからとさかみちを上って来る人足たちの後ろには、鈴の音に歩調を合わせるような荷馬の群れが続く。朝のことで、馬の鼻息は白い。時には勇ましいいななきの声さえ起こる。村の宿役人仲間でも一番先に家を出て、雪の中を奔走していたのは問屋の九太夫であった。

 前の年の六月に江戸湾を驚かしたアメリカの異国船は、また正月からあの沖合いにかかっているころで、今度は四隻の軍艦を八、九隻に増して来て、武力にも訴えかねまじき勢いで、幕府に開港を迫っているとのうわさすら伝わっている。全国の諸大名が江戸城に集まって、交易を許すか許すまいかのだいひょうじょうも始まろうとしているという。半蔵はその年の正月二十五日に、尾州から江戸送りのおおづつの大砲や、軍用の長持が二十二さおもこの街道に続いたことを思い出し、一人持ちの荷物だけでも二十一もあったことを思い出して、目の前を通る人足や荷馬の群れをながめていた。

 半蔵が家の方へもどって行って見ると、吉左衛門はゆっくりしたもので、炉ばたで朝茶をやっていた。その時、半蔵はきいて見た。

「おとっさん、けさ着いたのはみんな尾州の荷物でしょう。」

「そうさ。」

「この荷物は幾日ぐらい続きましょう。」

「さあ、三日も続くかな。この前にとうじんぶねの来た時は、上のものも下のものも大あわてさ。今度は戦争にはなるまいよ。何にしても尾州の殿様も御苦労さまだ。」

 馬籠の本陣親子がおわり藩主に特別の好意を寄せていたのは、ただあの殿様がきそだにや尾張地方の大領主であるというばかりではない。吉左衛門には、時に名古屋まで出張するおりなぞには藩主のお目通りを許されるほどの親しみがあった。半蔵は半蔵で、『じんぎ宝典』や『るいじゅうにほんぎ』などをえらんだ源敬公以来の尾張藩主であるということが、彼の心をよろこばせたのであった。彼はあの源敬公の仕事をみとぎこうに結びつけて想像し、『大日本史』の大業を成就したのもそういう義公であり、僧のけいちゅうをして『万葉だいしょうき』をえらばしめたのもこれまた同じ人であることを想像し、その想像を儒仏の道がまだこの国に渡って来ない以前のまじりけのない時代にまでよく持って行った。彼が自分の領主を思う心は、当時の水戸の青年がその領主を思う心に似ていた。

 その日、半蔵は店座敷にこもって、この深い山の中に住むさみしさの前に頭をたれた。障子の外には、へいに近い松の枝をすべる雪の音がする。それが恐ろしい響きを立てて庭の上に落ちる。街道から聞こえて来る人馬の足音も、絶えたかと思うとまた続いた。

「こんな山の中にばかり引っ込んでいると、なんだかおれは気でも違いそうだ。みんな、のんきなことを言ってるが、そんな時世じゃない。」

 と考えた。

 そこへお民が来た。お民はまだ十八の春を迎えたばかり、つまご本陣への里帰りを済ましたころからまゆり落としていて、いくらか顔のかたちはちがったが、動作は一層生き生きとして来た。

「あなたの好きなねぶ茶をいれて来ました。あなたはまた、何をそんなに考えておいでなさるの。」

 とお民がきいた。ねぶ茶とは山家で手造りにする飲料である。

「おれか。おれは何も考えていない。ただ、こうしてぼんやりしている。お前とおれと、二人一緒になってから百日の余にもなるが――そうだ、百日どころじゃないや、もう四か月にもなるんだ――その間、おれは何をしていたかと思うようだ。おやじの好きなたばこの葉を刻んだことと、おばあさんの看病をしたことと、まあそれくらいのものだ。」

 半蔵は新婚のよろこびに酔ってばかりもいなかった。学業の怠りを嘆くようにして、それをお民に言って見せた。

「わたしはお節句のことを話そうと思うのに、あなたはそんなに考えてばかりいるんですもの。だって、もう三月は来てるじゃありませんか。この御通行が済むまでは、どうすることもできないじゃありませんか。」

 新婚のそもそもは、娘の昔に別れを告げたばかりのお民にとって、むしろ苦痛でさえもあった。それが新しいよろこびに変わって来たころから、とかく店座敷を離れかねている。いつのまにか半蔵のひざはお民の方へ向いた。彼はまるでしりもちでもついたように、後ろ手を畳の上に落として、それで身をささえながら、妻籠から持って来たという記念のひな人形の話なぞをするお民の方をながめた。手織りじまでこそあれ、当時の風俗のように割合に長くひいたすその着物は彼女に似合って見える。り落としたまゆのあとも、青々として女らしい。半蔵の心をよろこばせたのは、ことにお民の手だ。この雪に燃えているようなその娘らしい手だ。彼は妻と二人ぎりでいて、その手に見入るのを楽しみに思った。

 実に突然に、お民は夫のそばですすり泣きを始めた。

「ほら、あなたはよくそう言うじゃありませんか。わたしに学問の話なぞをしても、ちっともわけがわからんなんて。そりゃ、あのおっかさん(しゅうとめ、おまん)のまねはわたしにはできない。今まで、妻籠の方で、だれもわたしに教えてくれる人はなかったんですもの。」

「お前ははたでも織っていてくれれば、それでいいよ。」

 お民は容易にすすり泣きをやめなかった。半蔵は思いがけない涙を聞きつけたというふうに、そばへ寄って妻をいたわろうとすると、

「教えて。」

 と言いながら、しばらくお民は夫のひざに顔をうずめていた。

 ちょうど本陣では隠居が病みついているころであった。あのばあさんももう老衰の極度にあった。

「おい、お民、お前はおばあさんをよくてくれよ。」

 と言って、やがて半蔵は隠居のているへやの方へお民を送り、自分でも気を取り直した。

 いつでも半蔵が心のさみしいおりには、日ごろ慕っている平田あつたねの著書を取り出して見るのを癖のようにしていた。『たままはしら』、『玉だすき』、それから講本の『古道大意』なぞは読んでも読んでも飽きるということを知らなかった。大判のうすあいいろの表紙から、必ず古紫の糸でじてある本のそうていまでが、彼には好ましく思われた。『しずいわや』、『さいせきがいろん』の筆記録から、三百部を限りとして絶版になった『きよ相半ばする書』のようないぶきの深い消息までも、不便な山の中で手に入れているほどの熱心さだ。平田篤胤はてんぽう十四年に没している故人で、この黒船騒ぎなぞをもとより知りようもない。あれほどの強さに自国の学問と言語の独立を主張した人が、かえい安政の代に生きるとしたら――すくなくもあの先輩はどうするだろうとは、半蔵のような青年の思いを潜めなければならないことであった。

 新しい機運は動きつつあった。全く気質をあいことにし、全く傾向を相異にするようなものが、ほとんど同時に踏み出そうとしていた。ちょうしゅうはぎの人、よしだしょういんは当時の厳禁たる異国への密航を企てて失敗し、信州まつしろの人、さくましょうざんはその件に連座して獄に下ったとのうわさすらある。美濃のおおがきあたりに生まれた青年で、異国の学問に志し、遠く長崎の方へ出発したという人の話なぞも、決してめずらしいことではなくなった。

「黒船。」

 雪で明るいへやの障子に近く行って、半蔵はその言葉を繰り返して見た。遠い江戸湾のかなたには、実に八、九そうもの黒船が来てあの沖合いに掛かっていることを胸に描いて見た。その心から、彼は尾張藩主の出府も容易でないと思った。



 きそ寄せの人足七百三十人、いなすけごう千七百七十人、この人数合わせて二千五百人を動かすほどの大通行が、三月四日に馬籠の宿を経て江戸表へ下ることになった。宿場に集まった馬の群れだけでも百八十匹、馬方百八十人にも上った。

 松雲和尚は万福寺の方にいて、長いこと留守にした方丈にもろくろく落ちつかないうちに、三月四日を迎えた。前の晩に来たはげしい雷鳴もおさまり、夜中ごろから空も晴れて、人馬の継ぎ立てはその日の明け方から始まった。

 尾張藩主が出府と聞いて、寺ではとていそうも寺男もじっとしていない。大領主のさかんな通行を見ようとして裏山越しに近在から入り込んで来る人たちは、門前の石段の下にこみちの続いている墓地の間を急ぎ足に通る。

「お前たちも行って殿様をお迎えするがいい。」

 と松雲は二人のでしにも寺男にも言った。

 旅にある日の松雲はかなりわびしい思いをして来た。京都の宿でわずらいついた時は、書きにくい手紙を伏見屋の金兵衛にあてて、余分な路銀の心配までかけたこともある。もし無事にあんぎゃの修業を終わる日が来たら、村のためにも役に立とう、貧しい百姓の子供をも教えよう、そう考えて旅から帰って来た。周囲にある空気のあわただしさ。この動揺の中にそうりょの身をうけて、どうして彼は村の幼く貧しいものを育てて行こうかとさえ思った。

「和尚さま。」

 と声をかけて裏口からはいって来たのは、日ごろ、寺へ出入りのせんたくばあさんだ。腰にかまをさし、わらぞうり〈[#「くさかんむり/稾」、78-4]〉をはいて、男のようながんじょうな手をしている山家の女だ。

「お前さまはお留守居かなし。」

「そうさ。」

「おれは今まではたけにいたが、もちぐさどころじゃあらすか。きょうのお通りはしょういつどきだげな。殿様は下町のささやの前まで馬にっておいでで、それから御本陣までおひろいだげな。お前さまも出て見さっせれや。」

「まあ、わたしはお留守居だ。」

「こんな日にお寺に引っ込んでいるなんて、そんなお前さまのような人があらすか。」

「そう言うものじゃないよ。用事がなければ、親類へも行かない。それが出家の身なんだもの。わたしはお寺の番人だ。それでたくさんだ。」

 婆さんはおはぐろのはげかかった半分黒い歯を見せて笑い出した。庭の土間での立ち話もそこそこにして、また裏口から出て行った。

 やがて正五つ時も近づくころになると、寺の門前を急ぐ人の足音も絶えた。物音一つしなかった。何もかも鳴りをひそめて、静まりかえったようになった。ちょうど例年より早くめずらしい陽気は谷間に多い花のつぼみをふくらませている。馬にりかえて新茶屋あたりから進んで来る尾張藩主が木曾路の山ざくらのかげに旅の身を見つけようというころだ。松雲は戸から外へ出ないまでも、街道の両側に土下座する村民の間を縫ってお先案内をうけたまわる問屋の九太夫をも、まのあたり藩主を見ることを光栄としてありがたい仕合わせだとささやき合っているような宿役人仲間をも、うやうやしく大領主を自宅に迎えようとする本陣親子をも、ありありと想像で見ることができた。

 方丈もしんかんとしていた。まるでそこいらはからっぽのようになっていた。松雲はただひとりもくねんとして、古い壁にかかるだるまの画像の前にすわりつづけた。



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 なんとなくくもあしの早さを思わせるような諸大名諸公役の往来は、それからも続きに続いた。尾張藩主の通行ほど大がかりではないまでも、としゅううんしゅうさんしゅうなどの諸大名は西から。長崎奉行ながいいわのじょうの一行は東から。五月の半ばには、八百人の同勢を引き連れたひごの家老ながおかけんもつの一行が江戸の方から上って来て、いずれも鉄砲持参で、一人ずつ腰弁当でこの街道を通った。

 せんとうごしょの出火のうわさ、その火はにしじんまでの町通りを焼き尽くして天明年度の大火よりも大変だといううわさが、京都方面から伝わって来たのもそのころだ。

 この息苦しさの中で、年若な半蔵なぞが何物かを求めてやまないのにひきかえ、村の長老たちの願いとしていることは、結局現状の維持であった。黒船騒ぎ以来、諸大名の往来は激しく、いなあたりから入り込んで来るすけごうの数もおびただしく、その弊害はてきめんに飲酒とばくの流行にあらわれて来た。しょうやとしての吉左衛門が宿役人らの賛成を得て、賭博厳禁ということを言い出し、それを村民一同に言い渡したのも、その年の馬市が木曾福島の方で始まろうとするころにあたる。

「あの時分はよかった。」

 年寄役の金兵衛が吉左衛門の顔を見るたびに、よくそこへ持ち出すのも、「あの時分」だ。同じ駅路の記憶につながれている二人の隣人は、まだまだ徳川の代が平和であった時分のことを忘れかねている。新茶屋に建てたおきなづか、伏見屋の二階に催した供養のはいかいほうらいやの奥座敷でうんと食ったアトリ三十羽にちゃづけ三杯――「あの時分」を思い出させるようなものは何かにつけ恋しかった。この二人には、山家が山家でなくなった。街道はいとわしいことで満たされて来た。もっとゆっくり隣村の湯舟沢や、山口や、あるいはつまごからの泊まり客を家に迎え、こちらからも美濃の落合の祭礼や中津川あたりの狂言を見に出かけて行って、すくなくも二日や三日は泊まりがけでしんせき知人の家の客となって来るようでなくては、どうしても二人には山家のような気がしなかった。

 その年の祭礼狂言をさかんにするということが、やがて馬籠の本陣で協議された。組頭庄兵衛もこれには賛成した。ちょうど村では金兵衛のきもいりで、前の年の十月あたりに新築の舞台普請をほぼ終わっていた。付近の山の中に適当なふしんぎを求めることから、舞台のむなあげ、投げもちの世話まで、多くは金兵衛の骨折りでできた。その舞台は万福寺の境内に近い裏山の方に造られて、もはや楽しい秋の祭りの日を待つばかりになっていた。

 この地方で祭礼狂言を興行する歴史も古い。それだけ土地の人たちがかぶきそのものに寄せている興味も深かった。当時の南信からのうび地方へかけて、演劇の最も発達した中心地は、近くはいいだ、遠くは名古屋であって、いちかわえびぞうのような江戸の役者が飯田の舞台を踏んだこともめずらしくない。それを聞くたびに、この山の中に住む好劇家連は女中衆まで引き連れて、おおだいらとうげを越しても見に行った。あのあららぎ、広瀬あたりから伊那の谷の方へ出る深い森林の間も、よいしばいを見たいと思う男や女には、それほど遠い道ではなかったのである。金兵衛もその一人だ。彼は秋の祭りの来るのを待ちかねて、その年のうるう七月にしばらく村を留守にした。伏見屋もどうしたろう、そう言って吉左衛門などがうわさをしているところへ、とよかわ、名古屋、こまきおんたけおおいを経て金兵衛親子が無事に帰って来た。そのおりのみやげばなしが芝居好きな土地の人たちをうらやましがらせた。名古屋の若宮の芝居では八代目市川団十郎が一興行を終わったところであったけれども、たちばなちょうの方には同じ江戸の役者みます大五郎、関三十郎、大谷広右衛門などの一座がちょうど舞台に上るころであったという。

 九月も近づいて来るころには、村の若いものは祭礼狂言のけいこに取りかかった。荒町からは十一人も出て舞台へ通う村の道を造った。かねて金兵衛が秘蔵むすこのために用意した狂言用の大小の刀も役に立つ時が来た。彼はつるまつばかりでなく、上の伏見屋のせんじゅうろうをも舞台に立たせ、日ごろのりゅういんを下げようとした。好ましいかずらを子にあてがうためには、一しゅぐらいの金は惜しいとは思わなかった。



 狂言番組。しきさんばそうごばんたいへいきしらいしばなし三の切り。おぐらしきし。最後にもどかご。このうち式三番叟と小倉色紙に出る役と、その二役は仙十郎が引きうけ、戻り籠に出るなにわじろさくの役は鶴松がすることになった。金兵衛がはじめてけいこばへ見物に出かけるころには、ともかくも村の若いものでこれだけの番組を作るだけの役者がそろった。

 その年の祭りの季節には、馬籠以外の村々でもめずらしいにぎわいを呈した。各村はほとんど競争の形で、みこしを引き出そうとしていた。馬籠でさかんにやると言えば、山口でも、湯舟沢でも負けてはいないというふうで。中津川での祭礼狂言は馬籠よりも一月ほど早く催されて、そのおりは本陣のおまんも仙十郎と同行し、金兵衛はまた吉左衛門とそろって押しかけて行って来た。目にあまる街道一切のほこりッぽいことも、このにぎやかな祭りの気分にはうずめられそうになった。

 そのうちに、名古屋の方へ頼んで置いた狂言いしょうの荷物が馬で二も村に届いた。舞台へ出るけいこ最中の若者らは他村にひけを取るまいとして、ふりつけは飯田の梅蔵に、うたは名古屋のじへえに、しゃみせんは中村屋かぎぞうに、それぞれ依頼する手はずをさだめた。祭りの楽しさはそれを迎えた当日ばかりでなく、それを迎えるまでの日に深い。じょうるりかたがすでに村へ入り込んだとか、化粧方が名古屋へ飛んで行ったとか、そういううわさが伝わるだけでも、村の娘たちの胸にはよろこびがわいた。こうなると、金兵衛はじっとしていられない。毎日のように舞台へ詰めて、さじきをかける世話までした。伏見屋の方でも鶴松に初舞台を踏ませるとあって、お玉の心づかいは一通りでなかった。中津川からはしんせきの女まで来て衣裳ごしらえを手伝った。

「きょうもよいお天気だ。」

 そう言って、金兵衛が伏見屋の店先から街道の空を仰いだころは、旧暦九月の二十四日を迎えた。例年祭礼狂言の初日だ。朝早くから金兵衛は髪結いの直次を呼んで、とし相応のまげに結わせた。五十八歳まで年寄役を勤続して、村の宿役人仲間での年長者と言われる彼も、白いもとゆいで堅く髷の根を締めた時は、さすがにさわやかな、祭りの日らしい心持ちに返った。り立てたあごのあたりも青く生き生きとして、平素の金兵衛よりもかえって若々しくなった。

「鶴、うまくやっておくれよ。」

「大丈夫だよ。おとっさん、安心しておいでよ。」

 伏見屋親子はこんな言葉をかわした。

 そこへ仙十郎もちょっと顔を出しに来た。金兵衛はこの義理あるおいの方を見た時にも言った。

「仙十郎しっかり頼むぜ。式三番と言えば、お前、ざがしらの勤める役だぜ。」

 仙十郎は美濃の本場から来て、上の伏見屋を継いだだけに、こうした祭りの日なぞには別の人かと見えるほど快活な男を発揮した。彼はこんな山の中に惜しいと言われるほどのびぼうで、その享楽的な気質は造り酒屋の手伝いなぞにはあまり向かなかった。

「さあ。きょうは、うんと一つあばれてやるぞ。村の舞台が抜けるほど踊りぬいてやるぞ。」

 仙十郎の言い草だ。

 まだ狂言のふたもあけないうちから、金兵衛の心は舞台の楽屋の方へも、さじきの方へも行った。だんだら模様のえぼしをかぶり、さんばそうらしいかんかつな狂言の衣裳をつけ、鈴を手にしたおいの姿が、彼の目に見えて来た。もどかごに出る籠かき姿の子がつえでもついて花道にかかる時に、桟敷の方から起こるかっさいは、必ず「伏見屋」と来る。そんな見物の掛け声まで、彼の耳の底に聞こえて来た。

「ほんとに、おれはこんなばかな男だ。」

 金兵衛はそれを自分で自分に言って、束にして掛けたすぎの葉のしるしも酒屋らしい伏見屋の門口を、出たりはいったりした。



 三日続いた狂言はかなりの評判をとった。たとい村芝居でもかしゃくはしなかったほど藩の検閲は厳重で、風俗壊乱、その他の取り締まりにと木曾福島の役所の方から来た見届けぶぎょうなぞも、狂言の成功を祝って引き取って行ったくらいであった。

 いたるところのいろりばたでは、しばらくこの狂言の話で持ち切った。何しろ一年に一度の楽しい祭りのことで、顔だちからしぐさから衣裳まで三拍子そろった仙十郎が三番叟の美しかったことや、十二歳で初舞台を踏んだ鶴松が難波治郎作のいたいけであったことなぞは、村の人たちの話の種になって、そろそろ大根引きの近づくころになっても、まだそのうわさは絶えなかった。

 旧暦十一月の四日はとうじの翌日である。多事な一年も、どうやら滞りなく定例のえびすこうを過ぎて、村では冬至を祝うまでにこぎつけた。そこへ地震だ。あの家々にすだれを掛けて年寄りから子供まで一緒になって遊んだ祭りの日から数えると、わずか四十日ばかりの後に、いつやむとも知れないようなそんな地震が村の人たちを待っていようとは。

 吉左衛門の家では一同裏のたけやぶへ立ちいた。おまんも、お民も、皆たびはだしで、半蔵に助けられながら木小屋の裏に集まった。その時は、隠居はもはやこの世にいなかった。七十三のとしまで生きたあのおばあさんも、孫のお民が帯祝いの日にあわずじまいに、ましてお民に男の子の生まれたことも、生まれる間もなくその子のくなったことも、そんな慶事と不幸とがほとんど〈[#「ほとんど」は底本では「ほんど」]〉同時にやって来たことも知らずじまいに、その年の四月にはすでに万福寺の墓地の方に葬られた人であった。

「あなた、遠くへ行かないでくださいよ。皆と一緒にいてくださいよ。」

 とおまんが吉左衛門のことを心配するそばには、産後三十日あまりにしかならないお民が青ざめた顔をしていた。また揺れて来たと言うたびに、下男の佐吉もふたりの下女までも、互いに顔を見合わせて目の色を変えた。

 太い青竹の根を張ったやぶの中で、半蔵は帯を締め直した。父と連れだってそこいらへ見回りに出たころは、本陣のかいわいに住むもので家の中にいるものはほとんどなかった。隣家のことも気にかかって、吉左衛門親子が見舞いに行くと、伏見屋でもお玉や鶴松なぞは舞台下のひがりごやの方に立ちいたあとだった。さすがに金兵衛はおちついたもので、その不安の中でも下男の一人を相手に家に残って、京都から来た飛脚にだちんを払ったり、判取り帳をつけたりしていた。

「どうもことしは正月の元日から、いやに陽気が暖かで、おかしいおかしいと思っていましたよ。」

 それを吉左衛門が言い出すと、金兵衛もおもい当たるように、

「それさ。元日にぞうりばきで年始が勤まったなんて、きそじゃ聞いたこともない。おまけに、寺道の向こうにつばきが咲き出す、わかもちでもこうという時分によもぎが青々としてる。あれはみんなこの地震の来る知らせでしたわい。なにしろ、吉左衛門さん、うちじゃ仙十郎のひろうを済ましたばかりで、まあおかげであれもくみがしらのお仲間入りができた。わたしも先祖への顔が立った、そう思って祝いの道具を片づけているところへ、この地震でしょう。」

さるどしの善光寺の地震が大きかったなんて言ったってとても比べものにはなりますまいよ、ほら、とらどし六月の地震の時だって、こんなじゃなかった。」

「いや、こんな地震は前代未聞にも、なんにも。」

 とりあえず宿役人としての吉左衛門や金兵衛が相談したことは、老人女子供以外の町内のものを一定の場所に集めて、火災盗難等からこの村をまもることであった。場所は問屋と伏見屋の前に決定した。そして村民一同おひまちをつとめることに申し合わせた。天変地異に驚く山の中の人たちの間には、春以来江戸表や浦賀辺を騒がしたアメリカの船をも、長崎から大坂の方面にたびたび押し寄せたというオロシャの船をも、さてはせんとうごしょの出火までも引き合いに出して、この異変を何かの前兆に結びつけるものもある。夜一夜、だれもまんじりとしなかった。半蔵もその仲間に加わって、産後の妻の身を案じたり、たけやぶせどたに野宿する人たちのことを思ったりして、太陽の登るのを待ち明かした。

 翌日は雪になったが、揺り返しはなかなかやまなかった。問屋、伏見屋の前には二組に分れた若者たちが動いたり集まったりして、美濃の大井や中津川辺はまごめよりも大地震だとか、隣宿のつまごも同様だとか、どこから聞いて来るともなくいろいろなうわさを持っては帰って来た。えなさんかおれやまかまざわやまのかなたにはおおくずれができて、それが根の上あたりから望まれることを知らせに来るのも若い連中だ。その時になると、まれに見るにぎわいだったと言われた祭りの日のよろこびも、狂言の評判も、すべて地震の騒ぎの中にさらわれたようになった。



 揺り返し、揺り返しで、不安な日がそれから六日も続いた。しゅくでは十八人ずつの夜番が交替に出て、街道から裏道までを警戒した。きとうのためと言って村の代参を名古屋のあつた神社へも送った。そのうちに諸方からの通知がぽつぽつ集まって来て、今度の大地震が関西地方にことにはげしかったこともわかった。東海道おかざきじゅくあたりへはつなみがやって来て、あらいの番所なぞはつなみのためにさらわれたこともわかって来た。

 熱田からの代参の飛脚が村をさして帰って来たころには、怪しい空の雲行きもおさまり、そこいらもだいぶ穏やかになった。吉左衛門は会所のじょうづかいに言いつけて、熱田神社祈祷の札を村じゅう軒別に配らせていると、そこへ金兵衛のたずねて来るのにあった。

「吉左衛門さん、もうわたしは大丈夫と見ました。時に、あすは十一月の十日にもなりますし、仏事をしたいと思って、おちゃとうのしたくに取りかかりましたよ。御都合がよかったら、あなたにも出席していただきたい。」

「お茶湯とは君もよいところへ気がついた。こんな時の仏事は、さぞ身にしみるだろうねえ。」

 その時、金兵衛は一通の手紙を取り出して吉左衛門に見せた。ぜつだいとして、病中の松雲おしょうから金兵衛にあてたものだ。それには、伏見屋の仏事にもでしを代理として差し出すというびからはじめて、こんな非常時には自分のようなものでも村の役に立ちたいと思い、あんぎゃの旅にあるころからそのことを心がけて帰って来たが、あいにくと病にしていてそれのできないのが残念だという意味を書いてある。寺でも経堂その他の壁は落ち、土蔵にもエミ(きれつ)を生じたが、おかげでひとりけがもなくて済んだと書いてある。本陣の主人へもよろしくと書いてある。

「いや、和尚さまもお堅い、お堅い。」

「なにしろ六年も行脚に出ていた人ですから、旅の疲れぐらいは出ましょうよ。」

 それが吉左衛門の返事だった。

「お宅では。」

「まだみんな裏のたけやぶです。ちょっと、おまんにもあってやってください。」

 そう言って吉左衛門が金兵衛を誘って行ったところは、おそろしげに壁土の落ちた土蔵のそばだ。木小屋を裏へ通りぬけると、暗いほど茂った竹藪がある。その辺に仮小屋を造りつけ、戸板で囲って、たいせつな品だけはもやの方から運んで来てある。そこにおまんや、お民なぞが避難していた。

「わたしはお民さんがお気の毒でならない。」と金兵衛は言った。「つまごからお嫁にいらしって、翌年にはこの大地震なんて全くやり切れませんねえ。」

 おまんはその話を引き取って、「お宅でも、皆さんお変わりもありませんか。」

「えゝ、まあおかげで。たった一人おもしろい人物がいまして、これだけは無事とは言えないかもしれません。実はうちで使ってる源吉のやつですが、この騒ぎの中で時々どこかへいなくなってしまう。あれはすこし足りないんですよ。あれはアメリカという人相ですよ。」

「アメリカという人相はよかった。金兵衛さんの言いそうなことだ。」

 と吉左衛門もかたわらにいて笑った。

 こんな話をしているところへ、さとの親たちを見に来る上の伏見屋のお喜佐、半蔵夫婦を見に来るうばのおふきばあさん、いずれも立ちき先からそこへ一緒になった。主従の関係もひどくやかましかった封建時代に、下男や下女までそこへひざを突き合わせて、目上目下の区別もなく、互いに食うものを分け、互いに着るものを心配し合う光景は、こんな非常時でなければ見られなかった図だ。

 村民一同が各自の家に帰って寝るようになったのは、ようやく十一月の十三日であった。はじめて地震が来た日から数えて実に十日目に当たる。夜番に、見回りに、ごく困窮な村民のきゅうじゅつに、その間、半蔵もよく働いた。彼は伏見屋から大坂〈[#「大坂」は底本では「大阪」]〉地震の絵図なぞを借りて来て、それを父と一緒に見たが、震災の実際はうわさよりも大きかった。大地震の区域はいせの山田辺からししゅうとばにまで及んだ。東海道の諸宿でも、出火、つぶなど数えきれないほどで、みやしゅくからよしわらの宿までの間に無難なところはわずかに二宿しかなかった。

 やがて、その年初めての寒さも山の上へやって来るようになった。一切を沈黙させるような大雪までが十六日の暮れ方から降り出した。その翌日は風も立ち、すこし天気のよい時もあったが、夜はまた大雪で、およそ二尺五寸も積もった。石を載せた山家の板屋根は皆さびしい雪の中にうずもれて行った。



「九太夫さん、どうもわたしは年回りがよくないと思う。」

「どうでしょう、馬籠でも年を祭り替えることにしては。」

「そいつはおもしろい考えだ。」

「この街道筋でも祭り替えるようなうわさで、村によってはもう松を立てたところもあるそうです。」

さっそく、年寄仲間や組頭の連中を呼んで、相談して見ますか。」

 本陣の吉左衛門と問屋の九太夫とがこの言葉をかわしたのは、村へ大地震の来た翌年安政二年の三月である。

 流言。流言には相違ないが、その三月は実に不吉な月で、悪病が流行するか、大風が吹くか、大雨が降るかないしだいききんが来るか、いずれ天地の間に恐ろしい事が起こる。もし年を祭り替えるなら、その災難からのがれることができる。こんなうわさがどこの国からともなくこの街道に伝わって来た。九太夫が言い出したこともこのうわさからで。

 やがて宿役人らが相談の結果は村じゅうへ触れ出された。三月節句の日を期して年を祭り替えること。その日およびその前日は、農事その他一切の業務を休むこと。こうなると、流言の影響も大きかった。村では時ならぬ年越しのしたくで、暮れのようなもちつきの音が聞こえて来る。松を立てた家もちらほら見える。「そえご」と組み合わせた門松の大きなのは本陣の前にも立てられて、日ごろ出入りのこまえのものは勝手の違った顔つきでやって来る。その中の一人は、百姓らしい手をもみもみ吉左衛門にたずねた。

おおだんな、ちょっくら物を伺いますが、正月を二度すると言えば、年を二つ取ることだずら。村の衆の中にはそんなことを言って、たまげてるものもあるわなし。おれの家じゃ、お前さま、去年の暮れに女の子が生まれて、まだ数えどし二つにしかならない。あれも三つと勘定したものかなし。」

「待ってくれ。」

 この百姓の言うようにすると、吉左衛門自身は五十七、五十八と一時に年を二つも取ってしまう。伏見屋の金兵衛なぞは、一足飛びに六十歳を迎える勘定になる。

「ばかなことを言うな。正月のやり直しと考えたらいいじゃないか。」

 そう吉左衛門はしごくまじめに答えた。

 一年のうちに正月が二度もやって来ることになった。まるでうそのように。気の早い連中は、とそを祝え、ぞうにを祝えと言って、節句の前日から正月のような気分になった。当日は村民一同夜のひきあけに氏神すわしゃへのさんけいを済まして来て、まず吉例として本陣の門口に集まった。その朝も、吉左衛門は麻のかみしも着用で、にこにこした目、大きな鼻、静かな口に、馬籠の駅長らしい表情を見せながら、一同の年賀を受けた。

「へい、おおだんな、明けましておめでとうございます。」

「あい、めでたいのい。」

 これも一時の気休めであった。

 その年、安政二年の十月七日には江戸の大地震を伝えた。この山の中のものはひこねの早飛脚からそれを知った。江戸表は七分通りつぶれ、おまけに大火を引き起こして、大部分焼失したという。震災後一年に近い地方の人たちにとって、このしらせは全くひとごとではなかった。もっとも、馬籠のような山地でもかなりの強震を感じて、最初にどしんと来た時は皆そとへ飛び出したほどであった。それからの昼夜幾回とない微弱な揺り返しは、八十余里を隔てた江戸方面からの余波とわかった。

 江戸大地震の影響は避難者の通行となって、次第にこの街道にもあらわれて来た。村では遠く江戸から焼け出されて来た人たちに物を与えるものもあり、またそれを見物するものもある。月も末になるころには、吉左衛門は家のものを集めて、江戸から届いた震災の絵図をひろげて見た。いちおうさいくにちか画、あるいはよしつな画として、浮世絵師の筆になった悲惨な光景がこの世ながらのじごくのようにそこに描き出されている。したやひろこうじからきんりゅうさんの塔までを遠見にして、町の空には六か所からも火の手が揚がっている。右に左にと逃げ惑う群衆は、京橋しほうぐらからたけがしあたりに続いている。ふかがわ方面を描いたものは武家、町家いちめんの火で、煙につつまれたひのみやぐらも物すごい。目もくらむばかりだ。

 半蔵が日ごろその人たちのことを想望していた水戸のふじたとうことだほうけんなぞも、この大地震の中に巻き込まれた。おそらく水戸ほど当時の青年少年の心を動かしたところはなかったろう。しょうこうかんの修史、こうどうかんの学問は言うまでもなく、義公、武公、烈公のような人たちが相続いてその家に生まれた点で。ごさんけの一つと言われるほどの親藩でありながら、大義名分を明らかにした点で。『ひたちおび』を書き『かいてんしし』を書いた藤田東湖はこの水戸をささえる主要な人物のひとりとして、少年時代の半蔵の目にも映じたのである。あの『せいきの歌』なぞをあんしょうした時の心は変わらずにある。そういう藤田東湖は、水戸内部の動揺がようやくしげくなろうとするころに、開港かじょういかの舞台の序幕の中で、倒れて行った。

「東湖先生か。せめてあの人だけは生かして〈[#「生かして」は底本では「生かし」]〉置きたかった。」

 と半蔵は考えて、あの藤田東湖の死が水戸にとっても大きな損失であろうことをおもって見た。

 やがて村へはこうしんこうの季節がやって来る。半蔵はそのめっきり冬らしくなった空をながめながら、自分の二十五というとしもむなしく暮れて行くことを思い、街道の片すみに立ちつくす時も多かった。



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 安政三年はまごめの万福寺で、松雲おしょうが寺小屋を開いた年である。江戸の大地震後一年目という年を迎え、震災のうわさもやや薄らぎ、この街道を通る避難者も見えないころになると、なんとなくそこいらはあらしの通り過ぎたあとのようになった。当時の中心地とも言うべき江戸の震災は、たしかに封建社会の空気を一転させた。かえい六年の黒船騒ぎ以来、続きに続いた一般人心の動揺も、震災の打撃のために一時取り沈められたようになった。もっとも、尾張藩主が江戸出府後の結果も明らかでなく、すでにしもだの港は開かれたとのうわさも伝わり、交易を非とする諸藩の抗議には幕府の老中もただただ手をこまねいているとのうわさすらある。しかしこの地方としては、一時の混乱も静まりかけ、街道も次第に整理されて、米の値までも安くなった。

 各村倹約の申し渡しとして、木曾福島からの三人の役人が巡回して来たころは、山里も震災のあとらしい。土地の人たちは正月のみそつきに取りかかるころから、その年の豊作を待ち構え、あるいはすぎなえ植え付けの相談なぞに余念もなかった。

 ある一転機が半蔵のなかにもきざして来た。その年の三月には彼も父となっていた。お民は彼のそばで、ふたりの間に生まれた愛らしい女の子を抱くようになった。おくめというのがその子の名で、それまで彼の知らなかったちいさなものの動作や、物を求めるような泣き声や、無邪気なあくびや、無心なほほえみなぞが、なんとなく一人前になったという心持ちを父としての彼の胸の中によび起こすようになった。その新しい経験は、今までのような遠いところにあるものばかりでなしに、もっと手近なものに彼の目を向けさせた。

「おれはこうしちゃいられない。」

 そう思って、へんぴな山の中の寂しさ不自由さに突き当たるたびに、半蔵は自分の周囲を見回した。



「おい、峠のうしかたしゅう――中津川の荷物がさっぱり来ないが、どうしたい。」

「当分休みよなし。」

「とぼけるなよ。」

「おれが何を知らすか。当分の間、かどじゅうの荷物を付け出すなと言って、仲間のものから差し留めが来た。おれは一向知らんが、仲間のことだから、どうもよんどころない。」

「困りものだな。荷物を付け出さなかったら、お前たちはどうして食うんだ。うしぎょうじにあったらよくそう言ってくれ。」

 往来のまん中で、尋ねるものは問屋の九太夫、答えるものは峠の牛方だ。

 最初、半蔵にはこの事件の真相がはっきりつかめなかった。今までいりにでにともつけおくりを取り扱って来た中津川の問屋かどじゅうに対抗して、牛方仲間が団結し、荷物の付け出しを拒んだことは彼にもわかった。角十の主人、かどや十兵衛が中津川からやって来て、伏見屋の金兵衛にその仲裁を頼んだこともわかった。事件の当事者なる角十と、峠の牛行司ふたりの間に立って、六十歳の金兵衛が調停者としてたつこともわかった。双方示談の上、牛馬共に今までどおりの出入りをするように、それにはよく双方の不都合を問いただそうというのが金兵衛の意思らしいこともわかった。西は新茶屋から東は桜沢まで、木曾路の荷物は馬ばかりでなく、牛の背で街道を運搬されていたので。

 荷物送り状の書き替え、だちんうわはね――駅路時代の問屋の弊害はそんなところに潜んでいた。角十ではそれがはなはだしかったのだ。その年の八月、小草山の口明けの日から三日にわたって、金兵衛は毎日のように双方の間に立って調停を試みたが、紛争は解けそうもない。中津川からは角十側の人が来る。峠からは牛行司の利三郎、それにじゅうにかねむらの牛方までが、呼び寄せられる。峠の組頭、平助は見るに見かねて、この紛争の中へ飛び込んで来たが、それでもらちは明きそうもない。

 半蔵が本陣の門を出て峠の方まで歩き回りに行った時のことだ。がけに添うた村の裏道には、村民の使用する清い飲料水がといをつたってあふれるように流れて来ている。そこは半蔵の好きな道だ。その辺にはよいこかげがあったからで。途中で彼は峠の方からやって来る牛方の一人に行きあった。

「お前たちもなかなかやるねえ。」

「半蔵さま。お前さまも聞かっせいたかい。」

「どうも牛方衆はにがてだなんて、平助さんなぞはそう言ってるぜ。」

「冗談でしょう。」

 その時、半蔵は峠の組頭から聞いた言葉を思い出した。いずれ中津川からも人が出張しているから、とくと評議の上、随分いっさつも入れさせ、今後無理非道のないように取り扱いたい、それが平助を通して聞いた金兵衛の言葉であることを思い出した。

「まあ、そこへ腰を掛けろよ。場合によっては、うちおやじに話してやってもいい。」

 牛方はすぎの根元にあった古い切り株を半蔵に譲り、自分はその辺のこかげにしゃがんで、みちばたの草をむしりむしり語り出した。

「この事件は、お前さま、きのうやきょうに始まったことじゃあらすか。角十のような問屋は断わりたい。もっと他の問屋に頼みたい、そのことはもう四、五年も前から、しもかいどう辺の問屋でもいまど(水陸荷物の集散地)の問屋仲間でも、荷主まで一緒になって、みんな申し合わせをしたことよなし。ところが今度という今度、角十のやり方がいかにも不実だ、そう言って峠の牛行司がふたりともおこってしまったもんだで、それからこんなことになりましたわい。伏見屋のだんなの量見じゃ、『おれが出たら』と思わっせるか知らんが、この事件がお前さま、そうやすやすと片づけられすか。そりゃ峠の牛方仲間は言うまでもないこと、みやこしやじえもんに弥吉から、水上村の牛方や、山田村の牛方まで、そのほかアンコ馬まで申し合わせをしたことですで。まあ、見ていさっせれ――牛方もなかなか粘りますぞ。いったい、角十は他の問屋よりもごうよくすぎるわなし。それがそもそも事の起こりですで。」



 半蔵はいろいろにしてこの牛方事件を知ることに努めた。彼が手に入れた「牛方より申し出のかじょう」は次ぎのようなものであった。

一、これまでだちんの儀、すべて送り状は包み隠し、控えのつけにて駄賃等書き込みにして、別に送り状をしたため荷主方へつけおくりのこと多く、右にては一同けねんやみ申さず。今後はありていに、実意になし、送り状も御見せ下さるほど万事親切に御取り計らい下さらば、一同安心いたすべきこと。
一、牛方どものうち、へいぜい心安き者は荷物もよく、また駄賃等もごひいきあり。しかるに向きに合わぬ牛方、並びにまるがめや出入りの牛方どもには格別不取り扱いにて、有り合わせし荷物も早速には御渡しなく、願い奉る上ならではつけおくかたに御回し下さらず、これも御出入り牛方同様にふびんを加え、荷物も早速御出し下さるよう御取り計らいありたきこと。(もっとも、寄せ荷物なき時はよんどころなく、その節はいずれなりとも御取り計らいありたし。)
一、大豆売買の場合、これを一駄四百五十文と問屋の利分を定め、その余は駄賃として牛方どもに下されたきこと。
一、送り荷の運賃、うんじょうは一駄いちぶわりと御定めもあることなれば、その余を駄賃として残らず牛方どもへ下さるよう、今後御取りめありたきこと。
一、通し送り荷駄賃、名古屋より福島まではんぶわりの運上引き去り、その余はおはねなく下されたきこと。
一、荷物送り出しの節、心安き牛方にても、初めて参りそうろう牛方にても、同様に御扱い下され、すべていまどの問屋同様に、えこひいきなきよう願いたきこと。
一、すべて荷物、問屋に長く留め置き候ては、荷主催促に及び、はなはだ牛方にて迷惑難渋つかまつり候間、早速つけおくり方、御取り計らい下され候よう願いたきこと。
一、このたびくみじょうとりきめ候上は、双方堅く相守り申すべく、万一問屋無理非道の儀を取り計らい候わば、その節は牛方どもにおいて問屋を替え候とも苦しからざるよう、その段御引き合い下されたく候こと。

 これは調停者の立場から書かれたもので、牛方仲間がこの個条書をそっくり認めるか、どうかは、峠の牛行司でもなんとも言えないとのことであった。はたして、水上村から強い抗議が出た。八月十日の夜、峠の牛方仲間のものが伏見屋へ見えての話に、右の書付を一同に読み聞かせたところ、少々に落ちないところもあるから、いずれ仲間どもで別の案文をしたためた上のことにしたい、それまで右の証文は二人の牛行司の手に預かって置くというようなことで、またまた交渉は行き悩んだらしい。

 ちょうど、中津川の医者で、半蔵がふるい師匠にあたる宮川寛斎がますだやの病人を見にまごめへ頼まれて来た。この寛斎からも、半蔵は牛方事件の成り行きを聞くことができた。牛方仲間に言わせると、とかく角十の取り扱い方にはえこひいきがあって、駄賃書き込み等の態度は不都合もはなはだしい、このまま双方とくしんということにはどうしても行きかねる、今一応仲間のもので相談の上、伏見屋まであいさつしようという意向であるらしい。牛方仲間は従順ではあったが、決して屈してはいなかった。

 とうとう、この紛争は八月の六日から二十五日まで続いた。長引けば長引くほど、事件は牛方の側に有利に展開した。下海道の荷主が六、七人も角十を訪れて、峠の牛方と同じようなことは何も言わないで、今まで世話になった礼を述べ、荷物問屋のことは他の新問屋へ依頼すると言って、お辞儀をしてさっさと帰って行った時は、角屋十兵衛もあっけに取られたという。その翌日には、六人の瀬戸物商人が中津川へ出張して来て、新規の問屋を立てることに談判を運んでしまった。

 中津川のいずみやは、半蔵から言えば親しい学友はちやこうぞうの家である。その和泉屋が角十にかわって問屋を引き受けるなぞも半蔵にとっては不思議な縁故のように思われた。もみにもんだこの事件が結局牛方の勝利に帰したことは、半蔵にいろいろなことを考えさせた。あらゆる問屋が考えて見なければならないような、こんな新事件は彼の足もとから動いて来ていた。ただ、彼ら、名もない民は、それを意識しなかったまでだ。



 生みの母を求める心は、早くから半蔵をゆううつにした。その心は友だちを慕わせ、師とする人を慕わせ、親のない村の子供にまで深いあわれみを寄せさせた。彼がまだ十八歳のころに、この馬籠の村民が木曾山の厳禁を犯して、多分の木を盗んだりせぎりをしたりしたというとがで、村から六十一人もの罪人を出したことがある。その村民が彼の家の門内に呼びつけられて、福島から出張して来た役人の吟味を受けたことがある。彼は庭のすみのなしの木のかげに隠れて、こしなわ手錠をかけられた不幸な村民を見ていたことがあるが、貧窮なくろくわこまえのものを思う彼の心はすでにそのころから養われた。馬籠本陣のような古い歴史のある家柄に生まれながら、彼の目が上に立つ役人や権威の高い武士の方に向かわないで、いつでも名もない百姓の方に向かい、従順で忍耐深いものに向かい向かいしたというのも、一つはままははに仕えて身を慎んで来た少年時代からの心の満たされがたさが彼のなかに奥深く潜んでいたからで。この街道に荷物を運搬する牛方仲間のような、下層にあるものの動きを見つけるようになったのも、その彼の目だ。



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「御免ください。」

 まごめの本陣の入り口には、ともひとり連れた訪問の客があった。

つまごからお客さまが見えたぞなし。」

 という下女の声を聞きつけて、お民は奥からいろりばたへ飛んで出て来て見た。兄の寿平次だ。

「まあ、兄さん、よくお出かけでしたねえ。」

 とお民は言って、奥にいるしゅうとめのおまんにも、店座敷にいる半蔵にもそれと知らせた。広い囲炉裏ばたは、台所でもあり、食堂でもあり、懇意なものの応接間でもある。山家らしいたきびすすけた高い屋根の下、黒光りのするほど古い太い柱のそばで、やがて主客のあいさつがあった。

「これさ。そんなところに腰掛けていないで、わらじでもおぬぎよ。」

 おまんは本陣の「あねさま」らしい調子で、寿平次の供をして来た男にまで声をかけた。二里ばかりある隣村からの訪問者でも、供を連れてやまみちを踏んで来るのが当時の風習であった。ちょうど、木曾路は山の中に多いくりの落ちるころで、妻籠から馬籠までの道は楽しかったと、供の男はそんなことをおまんにもお民にも語って見せた。

 間もなくお民は明るい仲の間を片づけて、秋らしい西の方の空の見えるところに席をつくった。馬籠と妻籠の両本陣の間には、宿場の連絡をとる上から言っても絶えず往来がある。半蔵が父の代理として木曾福島の役所へ出張するおりなぞは必ず寿平次の家を訪れる。その日は半蔵もめずらしくゆっくりやって来てくれた寿平次を自分の家に迎えたわけだ。

「まず、わたしのしくじりばなしから。」

 と寿平次が言い出した。

 お民は仲の間と囲炉裏ばたの間をったり来たりして、茶道具なぞをそこへ持ち運んで来た。その時、寿平次は言葉をついで、

「ほら、この前、おたずねした日ですねえ。あの帰りに、とうぞうさんの家の上道を塩野へ出ましたよ。いろいろな細い道があって、自分ながらすこし迷ったかと思いますね。それから林の中の道を回って、下り坂の平蔵さんの家の前へ出ました。たぬきにでも化かされたように、ぼんやり妻籠へ帰ったのが八つどきごろでしたさ。」

 半蔵もお民も笑い出した。

 寿平次はお民とふたりぎりのきょうだいで、その年の正月にようやく二十五歳やくよけのおひまちを祝ったほどの年ごろである。先代が木曾福島へ出張中に病死してからは、早く妻籠の本陣の若主人となっただけに、としの割合にはふけて見え、口のききようもおとなびていた。彼はせいの低い男で、肩の幅で着ていた。一つ上の半蔵とそこへむかい合ったところは、どっちがとしうえかわからないくらいに見えた。年ごろから言っても、二人はよい話し相手であった。

「時に、半蔵さん、きょうはめずらしい話を持って来ました。」と寿平次は目をかがやかして言った。

「どうもこの話は、ただじゃ話せない。」

「兄さんも、もったいをつけること。」とお民はそばに聞いていて笑った。

「お民、まあなんでもいいから、おとっさんやおっかさんを呼んで来ておくれ。」

「兄さん、お喜佐さんも呼んで来ましょうか。あの人もせんじゅうろうさんと別れて、今じゃ家にいますから。」

「それがいい、この話はみんなに聞かせたい。」



「大笑い。大笑い。」

 吉左衛門はちょうどそとから帰って来て、まず半蔵の口から寿平次のしくじりばなしというのを聞いた。

「おとっさん、寿平次さんは塩野から下り坂の方へ出たと言うんですがね、どこの林をそんなに歩いたものでしょう。」

「きっと梅屋林の中だぞ。寿平次さんもたぬきに化かされたか。そいつは大笑いだ。」

「山の中らしいお話ですねえ。」

 とおまんもそこへ来て言い添えた。その時、お喜佐もあいさつに来て、母のそばにいて、寿平次の話に耳を傾けた。

「兄さん、すこし待って。」

 お民は別のへやに寝かして置いたちのみごを抱きに行って来た。目をさまして母親をさがす子の泣き声を聞きつけたからで。

「へえ、くめを見てやってください。こんなに大きくなりました。」

「おゝ、これはよい女の子だ。」

「寿平次さん、御覧なさい。もうよく笑いますよ。女の子は知恵のつくのも早いものですねえ。」

 とおまんは言って、お民に抱かれている孫娘の頭をなでて見せた。

 その日、寿平次が持って来た話というは、供の男を連れて木曾路を通り過ぎようとしたある旅人が妻籠の本陣に泊まり合わせたことから始まる。偶然にも、その客は妻籠本陣のじょうもんを見つけて、それが自分の定紋と同じであることを発見する。もっこうと、丸に三つびきの二つの定紋からであった。それから系図を交換して見ると、二つに割った竹を合わせたようで、妻籠の本陣なぞに伝わらなかった祖先が青山監物以前にまだまだ遠く続いていることがわかったという。

「これにはわたしも驚かされましたねえ。自分らの先祖が相州の三浦から来たことは聞いていましたがね、そんな古い家がまだ立派に続いているとは思いませんでしたねえ。」と寿平次が言い添えて見せた。

「ハーン。」吉左衛門は大きな声を出してうなった。

「寿平次さん、うちのこともそのお客に話してくれましたか。」と半蔵が言った。

「話したとも。青山監物に二人の子があって、兄が妻籠の代官をつとめたし、弟は馬籠の代官をつとめたと話して置いたさ。」

 何百年となく続いて来た青山の家には、もっと遠い先祖があり、もっと古い歴史があった。しかも、それがまだまだ立派に生きていた。おまん、お民、お喜佐、そこに集まっている女たちも皆何がなしに不思議な思いに打たれて、寿平次の顔を見まもっていた。

「その山上さんとやらは、どんな人柄のお客さんでしたかい。」とおまんが寿平次にきいた。

「なかなか立派な人でしたよ。なんでも話の様子では、よほど古い家らしい。相州の方へ帰るとすぐ系図と一緒に手紙をくれましてね、ぜひ一度たずねて来てくれと言ってよこしましたよ。」

「お民、店座敷へ行って、わたしの机の上にある筆と紙を持っといで。」半蔵は妻に言いつけて置いて、さらに寿平次の方を見て言った。「もう一度、その山上という人の住所を言って見てくれませんか。忘れないように、書いて置きたいと思うから。」

 半蔵は紙をひろげて、まだ若々しくはあるがみごとな筆で、寿平次の言うとおりを写し取った。

相州三浦、よこすか在、くごう

         山上七郎左衛門

「寿平次さん。」と半蔵はさらに言葉をつづけた。「それで君は――」

「だからさ。半蔵さんとふたりで、一つその相州三浦をたずねて見たらと思うのさ。」

「訪ねて行って見るか。えらい話になって来た。」

 しばらく沈黙が続いた。

「山上の方の系図も、持って来て見せてくださるとよかった。」

「あとから届けますよ。あれで見ると、青山の家は山上から分かれる。山上は三浦家から出ていますね。つまりわたしたちの遠い祖先はかまくら時代に活動した三浦一族の直系らしい。」

「相州三浦の意味もそれで読める。」と吉左衛門は言葉をはさんだ。

「寿平次さん、もし相州の方へ出かけるとすれば、君はいつごろのつもりなんですか。」

「十月の末あたりはどうでしょう。」

「そいつはおれもしごく賛成だねえ。」と吉左衛門も言い出した。「半蔵も思い立って出かけて行って来るがいいぞ。江戸も見て来るがいい――ついでに、日光あたりへもさんけいして来るがいい。」

 その晩、おまんは妻籠から来た供の男だけを帰らせて、寿平次を引きとめた。半蔵は店座敷の方へ寿平次を誘って、昔風なあんどんのかげでおそくまで話した。青山氏系図として馬籠の本陣に伝わったものをもそこへ取り出して来て、二人でひろげて見た。その中にはこの馬籠の村の開拓者であるという祖先青山道斎のことも書いてあり、家中女子ばかりになった時代に妻籠の本陣からこうけんに来たももすけというような隠居のことも書いてある。道斎から見れば、半蔵は十七代目の子孫にあたった。その晩は半蔵は寿平次とまくらを並べて寝たが、父から許された旅のことなぞが胸に満ちて、よく眠られなかった。



 偶然にも、半蔵が江戸から横須賀の海の方まで出て行って見る思いがけない機会はこんなふうにして恵まれた。翌日、まだ朝のうちに、お民は万福寺の墓地の方へ寿平次と半蔵を誘った。寿平次は久しぶりで墓参りをして行きたいと言い出したからで。お民が夫と共に看病に心を砕いたあのおばあさんももはやそこに長く眠っているからで。

 半蔵と寿平次とはひとあし先に出た。二人は本陣の裏木戸から、隣家の伏見屋のさかぐらについて、暗いほど茂ったまだけはちくやぶの横へ出た。寺の方へ通う静かな裏道がそこにある。途中で二人はお民を待ち合わせたが、煙の立つ線香や菊の花なぞを家から用意して来たお民と、おくめを背中にのせた下女とが細い流れを渡って、たんぼの間の寺道を踏んで来るのが見えた。

 小山の上に立つ万福寺は村の裏側から浅い谷一つ隔てたところにある。墓地はその小川に添うて山門を見上げるような傾斜の位置にある。そこまで行くと、墓地の境内もよく整理されていて、以前の住職の時代とは大違いになった。村の子供を集めてちいさく寺小屋をはじめている松雲和尚のもとへは、本陣へ通学することを遠慮するような髪結いの娘や、大工のせがれなぞが手習い草紙を抱いて、毎日かよって来ているはずだ。隠れたところに働く和尚の心は墓地のそうじにまでよく行き届いていた。半蔵はその辺に立てかけてあるたけぼうきを執って、古い墓石の並んだ前を掃こうとしたが、わずかに落ち散っている赤ちゃけた杉の古葉を取り捨てるぐらいで用は足りた。和尚の心づかいと見えて、その辺の草までよくむしらせてあった。すべて清い。

 やがて寿平次もお民もくなった隠居の墓の前に集まった。

「兄さん、おばあさんの名は生きてる時分からおじいさんと並べて刻んであったんですよ。ただそれが赤くしてあったんですよ。」

 とお民は言って、下女の背中にいるお粂の方をも顧みて、

「御覧、ののさんだよ。」

 と言って見せた。

 古くこけむした先祖の墓石は中央の位置に高く立っていた。何百年の雨にうたれ風にもまれて来たその石のおもてには、万福寺殿昌屋常久禅定門の文字が読まれる。青山道斎がそこに眠っていた。あだかも、自分で開拓した山村の発展と古い街道の運命とを長い目でそこにながめ暮らして来たかのように。

 寿平次は半蔵に言った。

「いかにも昔の人のお墓らしいねえ。」

「このかいみょうは万福寺をこんりゅうした記念でしょう。まだこのほかにも、村の年寄りの集まるところがなくちゃ寂しかろうと言って、薬師堂を建てたのもこの先祖だそうですよ。」

 二人の話は尽きなかった。

 裏側から見える村のちょうぼうは、その墓場の前の位置から、杉のこだちの間にひらけていた。半蔵は寿平次と一緒に青い杉の葉のにおいをかぎながら、しばらくそこに立ってながめた。そういう彼自身のなかには、父から許された旅のことを考えて見たばかりでも、もはや別の心持ちがき上がって来た。その心持ちから、彼は住み慣れた山の中をいくらかでも離れて見るようにして、あそこにかきこずえがある、ここに白い壁があると、寿平次にさして言って見せた。えなさんのふもとに隠れている村のちょうぼうは、つまごから来て見る寿平次をも飽きさせなかった。

「寿平次さん、旅に出る前にもう一度ぐらいあえましょうか。」

「いろいろな打ち合わせは手紙でもできましょう。」

「なんだかわたしは夢のような気がする。」

 こんな言葉をかわして置いて、その日の午後に寿平次は妻籠をさして帰って行った。

 長いこと見聞のすくないことを嘆き、自分のころうを嘆いていた半蔵の若いいのちも、ようやくひとあし踏み出して見る機会をとらえた。その時になって見ると、江戸は大地震後一年目の復興最中である。そこには国学者としての平田かねたねもいる。鉄胤はあつたねうしの相続者である。かねて平田篤胤没後の門人に加わることを志していた半蔵には、これは得がたい機会でもある。のみならず、横須賀海岸のくごうむらとは、黒船上陸の地点から遠くないところとも聞く。半蔵の胸はおどった。

〈[#改頁]〉


第三章


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はちや君、近いうちに、自分は江戸から相州三浦方面へかけて出発する。妻の兄、つまご本陣の寿平次と同行する。この旅は横須賀在のくごうむらに遠い先祖の遺族をたずねるためであるが、江戸をも見たい。自分は長いことこもり暮らした山の中を出て、初めての旅に上ろうとしている。」

 こういう意味の手紙を半蔵は中津川にある親しい学友の蜂谷香蔵あてに書いた。

「君によろこんでもらいたいことがある。自分はこの旅で、かねての平田入門の志を果たそうとしている。最近に自分はさとうのぶひろの著書を手に入れて、あのすぐれた農学者が平田うしと同郷の人であることを知り、また、いかにうしの深い感化を受けた人であるかをも知った。もとおり、平田諸大人の国学ほど世に誤解されているものはない。古代の人に見るようなあのぐな心は、もう一度この世に求められないものか。どうかして自分らはあの出発点に帰りたい。そこからもう一度この世を見直したい。」

 という意味をも書き添えた。

 まごめのような狭いかたいなかでは半蔵の江戸行きのうわさが村のすみまでもすぐに知れ渡った。半蔵が幼少な時分からのことを知っていて、遠い旅を案じてくれるうばのおふきのようなばあさんもある。おふきは半蔵を見に来た時に言った。

「半蔵さま、男はそれでもいいぞなし。どこへでも出かけられて。まあ、女の身になって見さっせれ。なかなかそんなわけにいかすか。おれも山の中にいて、江戸の夢でも見ずかい。このへんぴな田舎には、お前さま、せめて一生のうちに名古屋でも見て死にたいなんて、そんなことを言う女もあるに。」



 江戸をさして出発する前に、半蔵は平田入門のことを一応は父にことわって行こうとした。平田篤胤はすでに故人であったから、半蔵が入門は先師没後の門人に加わることであった。それだけでも彼は一層自分をはっきりさせることであり、また同門の人たちと交際する上にも多くの便宜があろうと考えたからで。

 父、きちざえもんはもう長いことこのせがれを見まもって来て、行く行く馬籠の本陣を継ぐべき半蔵が寝食を忘れるばかりに平田派の学問に心を傾けて行くのを案じないではなかった。しかし吉左衛門は根が好学の人で、自分で学問の足りないのを嘆いているくらいだから、

「お前の学問好きも、そこまで来たか。」

 と言わないばかりに半蔵の顔をながめて、結局子の願いをれた。

 当時平田派の熱心な門人は全国を通じて数百人に上ると言われ、南信から東みのの地方へかけてもその流れをくむものは少なくない。篤胤ののこした仕事はおもに八人のすぐれたでしに伝えられ、その中でも特に選ばれたようしとして平田家を継いだのが当主かねたねであった。半蔵が入門は、中津川のみやがわかんさいの紹介によるもので、いずれ彼が江戸へ出た上は平田家をたずねて、鉄胤からその許しを得ることになっていた。

「おとっさんに賛成していただいて、ほんとにありがたい。長いこと私はこの日の来るのを待っていたようなものですよ。」

 と半蔵は先輩を慕う真実を顔にあらわして言った。同じ道を踏もうとしている中津川の浅見景蔵も、蜂谷香蔵も、さぞ彼のためによろこんでくれるだろうと父に話した。

「まあ、何も試みだ。」

 と吉左衛門は持ち前の大きな本陣鼻の上へしわを寄せながら言った。父は半蔵からいろいろと入門の手続きなぞを聞いたのみで、そう深入りするなとも言わなかった。

 安政の昔は旅も容易でなかった。木曾谷の西のはずれから江戸へ八十三里、この往復だけにも百六十六里の道は踏まねばならない。その間、峠を四つ越して、関所を二つも通らねばならない。吉左衛門は関西方面に明るいほど東の方の事情に通じてもいなかったが、それでも諸街道問屋のひとりとして江戸のどうちゅうぶぎょうしょへ呼び出されることがあって、そんな用向きで二、三度は江戸の土を踏んだこともある。この父は、いろいろ旅の心得になりそうなことを子に教えた。寿平次のようなよい連れがあるにしても、若い者ふたりぎりではどうあろうかと言った。遠く江戸から横須賀辺までも出かけるには、ともの男を一人連れて行けと勧めた。当時の旅行者が馬や人足を雇い、一人でも多く連れのあるのをよろこび、なるべくたいごをつくるようにしてこの街道をったり来たりするのも、それ相応の理由がなくてはかなわぬことを父は半蔵に指摘して見せた。

「ひとり旅のものは宿屋でも断わられるぜ。」

 とも注意した。

 かねて妻籠の本陣とも打ち合わせの上、出発の日取りも旧暦の十月上旬に繰りあげてあった。いよいよその日も近づいて、継母のおまんは半蔵のためにあおじにしきの守り袋を縫い、妻のお民はさらしの胴巻きなぞを縫ったが、それを見る半蔵の胸にはなんとなく前途の思いがおごそかに迫って来た。遠く行くほどのものは、かわどめなぞの故障の起こらないかぎり、たとい強い風雨を冒しても必ず予定のしゅくまではたどり着けと言われているころだ。ゆさん半分にできる旅ではなかった。



「佐吉さん、お前は半蔵さまのお供だそうなのい。」

「あい、半蔵さまもそう言ってくれるし、おおだんなからもお許しが出たで。」

 おふきはだれよりも先に半蔵のかどでを見送りに来て、もはや本陣の囲炉裏ばたのところで旅じたくをしている下男の佐吉を見つけた。佐吉は雇われて来てからまだ年も浅く、半蔵といくつも違わないくらいの若さであるが、今度江戸への供に選ばれたことをこの上もないよろこびにして、留守中主人の家の炉でくだけのまつまきなぞはすでに山から木小屋へ運んで来てあった。

 いよいよ出発の時が来た。半蔵は青いかわちもめんかっぱを着、きゃはんをつけて、すっかり道中姿になった。旅の守り刀はめんざらさの袋でつばもとを包んで、それを腰にさした。

「さあ、これだ。これさえあれば、どんな関所でも通られる。」

 と吉左衛門は言って、一枚のてがたを半蔵の前に置いた。関所の通り手形だ。それには安政三年十月として、宿役人の署名があり、馬籠宿の印が押してある。

「このお天気じゃ、あすも霜でしょう。半蔵も御苦労さまだ。」

 という継母にも、女の子のおくめを抱きながら片手にひのきがさを持って来てすすめる妻にも別れを告げて、やがて半蔵は勇んで家を出た。おふきは、目にいっぱい涙をためながら、本陣の女衆と共に門口に出て見送った。

 峠には、くみがしら平助の家がある。名物くりこわめしの看板をかけた休み茶屋もある。吉左衛門はじめ、組頭しょうべえ、そのほか隣家のつるまつのような半蔵の教え子たちは、峠の上まで一緒に歩いた。当時の風習として、その茶屋で一同別れの酒をくみかわして、思い思いに旅するものの心得になりそうなことを語った。出発のはじめはだれしも心がはやって思わず荒く踏み立てるものである、とかくはじめは足をたいせつにすることが肝要だ、と言うのは庄兵衛だ。旅はここのかじのものなら、十日かかって行け、と言って見せるのはそこへ来て一緒になった平助だ。万福寺の松雲和尚さまが禅僧らしい質素な法衣に茶色のけさがけで、わざわざ見送りに来たのも半蔵の心をひいた。

「夜道は気をつけるがいいぜ。なるべく朝は早く立つようにして、日の暮れるまでには次ぎのしゅくへ着くようにするがいいぜ。」

 この父の言葉を聞いて、間もなく半蔵は佐吉と共に峠の上から離れて行った。この山地には俗に「道知らせ」と呼んで、ほたるの形したやさしい虫があるが、その青と紅のあざやかな色の背を見せたやつまでが案内顔に、街道を踏んで行く半蔵たちの行く先に飛んだ。



 隣宿つまごの本陣には寿平次がこのふたりを待っていた。その日は半蔵も妻籠泊まりときめて、一夜をお民のさとに送って行くことにした。寿平次を見るたびに半蔵の感ずることは、よくその若さで本陣しょうやといや三役の事務を処理して行くことであった。寿平次のへやには、先代からつけて来たという覚え帳がある。諸大名宿泊のおりの人数、はたごちんから、入り用のふろ何本、ひばち何個、しょくだい何本というようなことまで、事こまかにしるしつけてある。当時の諸大名は、各自に寝具、食器のたぐいを携帯して、本陣へは部屋代を払うというふうであったからで。寿平次の代になってもそんなめんどうくさいことを一々書きとめて、後日の参考とすることを怠っていない。半蔵が心深くながめたのもその覚え帳だ。

「寿平次さん、今度の旅は佐吉に供をさせます。そのつもりで馬籠から連れて来ました。あれも江戸を見たがっていますよ。君の荷物はあれにかつがせてください。」

 この半蔵の言葉も寿平次をよろこばせた。

 翌朝、佐吉はだれよりも一番早く起きて、半蔵や寿平次が目をさましたころには、二足のわらじをちゃんとそろえて置いた。自分用のひのきがさてんびんぼうまで用意した。それから囲炉裏ばたにかしこまって、主人らのしたくのできるのを待った。寿平次は留守中のことをわき本陣のおうぎやの主人、とくえもんに頼んで置いて、かきいろくろらしゃえりのついたかっぱを身につけた。関所の通り手形も半蔵と同じように用意した。

 妻籠の隠居はもういい年のおばあさんで、孫にあたる寿平次をそれまでに守り立てた人である。お民の女の子のうわさを半蔵にして、寿平次に迎えたよめのお里にはまだ子がないことなどを言って見せる人である。隠居は家の人たちと一緒に門口に出て、寿平次を見送る時に言った。

「お前にはもうすこし背をくれたいなあ。」

 この言葉が寿平次を苦笑させた。隠居は背の高い半蔵に寿平次を見比べて、江戸へ行って恥をかいて来てくれるなというふうにそれを言ったからで。

 半蔵や寿平次は檜木笠をかぶった。佐吉も荷物をかついでそのあとについた。同行三人のものはいずれも軽いわらじで踏み出した。



[編集]

 木曾十一宿はおおよそ三つに分けられて、まごめつまごみどののじりしも四宿といい、すはらあげまつふくしまなか三宿といい、みやこしやぶはらならいにえがわかみ四宿という。半蔵らの進んで行った道はその下四宿から奥筋への方角であるが、こうしてそろって出かけるということがすでにめずらしいことであり、興も三人の興で、心づかいも三人の心づかいであった。あそこの小屋の前にひのきの実がしてあった、ここに山の中らしい耳のとがった茶色な犬がいた、とそんなことを語り合って行く間にも楽しい笑い声が起こった。一人のわらじひもが解けたと言えば、他のふたりはそれを結ぶまで待った。

 深い森林の光景がひらけた。妻籠から福島までの間は寿平次のよく知っている道で、福島の役所からのさしがみでもあるおりには半蔵も父吉左衛門の代理としてこれまで幾たびとなく往来したことがある。幼い時分から街道を見る目を養われた半蔵らは、馬方や人足やかごかきなぞの隠れたところに流している汗を行く先に見つけた。九月から残ったはえは馬にも人にも取りついて、それだけでも木曾路の旅らしい思いをさせた。

「佐吉、どうだい。」

「おれは足はたっしゃだが、お前さまは。」

「おれも歩くことは平気だ。」

 寿平次と連れだって行く半蔵は佐吉を顧みて、こんな言葉をかわしては、また進んだ。

 秋も過ぎ去りつつあった。色づいたしもはは谷に満ちていた。季節が季節なら、木曾川の水流を利用して山からり出した材木を流しているさかんな活動のさまがその街道から望まれる。こたにがりにはややおそく、おおかわがりにはまだ早かった。かわらにはせきを造るひようの群れの影もない。きはなきじりの作業もまだ始まっていない。諸役人が沿岸の警戒に出て、どうかすると、鉄砲まで持ち出して、盗木流材を取り締まろうとするような時でもない。半蔵らの踏んで行く道はもはや幾たびかしぐれの通り過ぎたあとだった。気の置けないものばかりの旅で、三人はときどきみちばたの草の上にかさを敷いた。小松の影を落としている川のなかずを前にして休んだ。対岸には山が迫って、檜木、さわらの直立した森林がその断層をおおうている。とがった三角を並べたように重なり合った木と木のこずえの感じも深い。奥筋の方からうずまき流れて来る木曾川〈[#「木曾川」は底本では「木曽川」]〉の水は青緑の色に光って、かわいたりぬれたりしている無数の白いみかげいしの間におどっていた。

 その年は安政の大地震後初めての豊作と言われ、馬籠の峠の上のような土地ですら一部落で百五十俵からの増収があった。木曾も妻籠から先は、それらの自然の恵みを受くべきたはたとてもすくない。中三宿となると、次第に谷の地勢もせばまって、わずかのかしの傾斜、わずかのがけの上の土地でも、それを耕地にあててある。山のなかに成長して樹木も半分友だちのような三人には、そこの河岸にさやをたれたさいかちがある、ここの崖の上に枝の細いなつめの樹があると、して言うことができた。土地の人たちが路傍に設けた意匠もまたしおらしい。あるところのいしがきの上は彼らの花壇であり、あるところの崖の下は二十三夜もしくはばとうかんのんなぞの祭壇である。

 この谷の中だ。木曾地方の人たちが山や林を力にしているのに不思議はない。当時の木曾山一帯を支配するものはおわりはんで、すやまとめやまあきやまの区域を設け、そのうち明山のみは自由林であっても、許可なしに村民が五木を伐採することは禁じられてあった。言って見れば、ひのきさわらあすひこうやまきねずこ〈[#「木+鑞のつくり」、118-13]〉の五種類が尾張藩の厳重な保護のもとにあったのだ。半蔵らは、名古屋から出張している諸役人の心が絶えずこの森林地帯に働いていることを知っていた。いちこくとちにあるしらきの番所から、あげまつの陣屋の辺へかけて、諸役人の目の光らない日は一日もないことを知っていた。

 しかし、巣山、留山とは言っても、絶対に村民の立ち入ることを許されない区域は極少部分に限られていた。自由林は木曾山の大部分を占めていた。村民は五木の厳禁を犯さないかぎり、意のままに明山をばっしょうして、雑木を伐採したりしんたんの材料を集めたりすることができた。檜木笠、めんぱ(木製わりご)、おろくぐし、諸種の塗り物――村民がこの森林に仰いでいる生活のもとでもかなり多い。耕地も少なく、農業も難渋で、そうかと言って塗り物渡世の材料も手に入れがたいところでは、「ごめんひもの」ととなえて、毎年千数百ずつの檜木を申し受けている村もある。あるいはまた、そういう木材で受け取らない村々では、けいちょう年度の昔から谷中一般人民に許された白木六千駄のかわりに、それを「おきりかえ」と称えて、代金で尾張藩から分配されて来た。これらは皆、歴史的に縁故の深い尾張藩が木曾山保護の精神にもとづく。どうして、山や林なしに生きられる地方ではないのだ。半蔵らの踏んで行ったのも、この大きな森林地帯を貫いている一筋道だ。

 ねざめまで行くと、あげまつの宿の方から荷をつけて来る牛の群れが街道に続いた。

「半蔵さま、どちらへ。」

 とその牛方仲間から声をかけるものがある。見ると、馬籠の峠のものだ。このかいわいに顔を知られているうしぎょうじ利三郎だ。その牛行司は福島から積んで来た荷物の監督をして、みのいまどへの通し荷を出そうとしているところであった。

 その時、寿平次が尋ね顔に佐吉の方をふりかえると、佐吉は笑って、

「峠の牛よなし。」

 と無造作に片づけて見せた。

「寿平次さん、君も聞いたでしょう。あれが牛方事件の張本人でさ。」

 と言って、半蔵は寿平次と一緒に、その荒いしままわがっぱを着た牛行司の後ろ姿を見送った。

 下民百姓の目をさまさせまいとすることは、長いこと上に立つ人たちが封建時代に執って来た方針であった。しかし半蔵はこの街道筋に起こって来た見のがしがたい新しい現象として、あの牛方事件から受け入れた感銘を忘れなかった。不正な問屋を相手に血戦を開き、抗争の意気でって来たのもあの牛行司であったことを忘れなかった。彼は旅で思いがけなくその人から声をかけられて見ると、たとい自分の位置が問屋側にあるとしても、そのために下層に黙って働いているような牛方仲間を笑えなかった。



 木曾福島の関所も次第に近づいた。三人ははらはら舞い落ちる木の葉を踏んで、さらに山深く進んだ。時には岩石が路傍に迫って来ていて、高いすぎの枝は両側からおおいかぶさり、昼でも暗いような道を通ることはめずらしくなかった。谷も尽きたかと見えるところまで行くと、またその先に別の谷がひらけて、そこに隠れている休み茶屋の板屋根からは青々とした煙が立ちのぼった。かけはしごうどから先は木曾川も上流の勢いに変わって、山坂の多い道はだんだん谷底へとくだって行くばかりだ。半蔵らはある橋を渡って、おんたけの方へ通う山道の分かれるところへ出た。そこが福島の城下町であった。

「いよいよ御関所ですかい。」

 佐吉は改まった顔つきで、主人らの後ろから声をかけた。

 福島の関所は木曾街道中の関門と言われて、大手橋の向こうに正門を構えた山村氏の代官屋敷からは、かわ一つ隔てた町はずれのところにある。「でおんなでっぽう」と言った昔は、西よりする鉄砲の輸入と、東よりする女の通行をそこで取り締まった。ことに女の旅は厳重をきわめたもので、髪の長いものはもとより、そうでないものもあまびくにかみきりおとめなどと通行者の風俗を区別し、乳まで探って真偽を確かめたほどの時代だ。これは江戸を中心とするさんきん交代の制度を語り、一面にはまた婦人の位置のいかなるものであるかを語っていた。通り手形を所持する普通の旅行者にとって、なんのはばかるところはない。それでもいよいよ関所にかかるとなると、その手前からかさずきんを脱ぎ、思わずえりを正したものであるという。

 福島では、半蔵らは関所に近く住むうえまつしょうすけの家をたずねた。父吉左衛門からの依頼で、半蔵はその人に手紙を届けるはずであったからで。菖助は名古屋藩の方に聞こえた宮谷家から後妻を迎えている人で、関所を預かるおもきゅうにんであり、砲術の指南役であり、福島でも指折りの武士のひとりであった。ちょうど非番の日で、菖助は家にいて、半蔵らの立ち寄ったことをひどくよろこんだ。この人は伏見屋あたりへ金のゆうずうを頼むために、馬籠の方へ見えることもある。それほど武士も生活には骨の折れる時になって来ていた。

「よい旅をして来てください。時に、おふたりとも手形をお持ちですね。ここの関所は堅いというので知られていまして、大名のお女中がたでも手形のないものは通しません。とにかく、私が御案内しましょう。」

 と菖助は言って、せんべつのしるしにと先祖伝来の秘法による自家製の丸薬なぞを半蔵にくれた。

 ひらばかまに紋付のはおりで大小を腰にした菖助のあとについて、半蔵らは関所にかかった。そこは西の門から東の門まで一町ほどの広さがある。一方は傾斜の急な山林にり、一方は木曾川のだんがいに臨んだ位置にある。山村じんべえ代理格のぶぎょう、加番の給人らが四人も調べ所の正面に控えて、そのそばには足軽が二人ずつ詰めていた。西に一人、東に二人の番人がさらにその要害のよい門のそばを堅めていた。半蔵らは門内に敷いてあるこめいしを踏んで行って、先着の旅行者たちが取り調べの済むまで待った。ゆいしょのある婦人の旅かと見えて、門内にかごめさせ、乗り物のまま取り調べを受けているのもあった。

 半蔵らはかなりの時を待った。そのうちに、

かみながごいちにん。」

 と乗り物のそばで起こる声を聞いた。駕籠で来た婦人はいくらかのそでしたを番人の妻に握らせて、型のように通行を許されたのだ。半蔵らの順番が来た。調べ所の壁に掛かるつくぼう、さすまたなぞのいかめしく目につくところで、階段の下に手をついて、かねて用意して来た手形を役人たちの前にささげるだけで済んだ。

 菖助にも別れを告げて、半蔵がもう一度関所の方を振り返った時は、いかにすべてが形式的であるかをそこに見た。

 とりいとうげはこの関所からみやこしやぶはら二宿を越したところにある。風は冷たくても、日はかんかん照りつけた。前途の遠さは曲がりくねった坂道に行き悩んだ時よりも、かえってその高い峠の上におんたけようはいじょなぞを見つけた時にあった。そこは木曾川の上流とも別れて行くところだ。

「寿平次さん、江戸からよこすかまで何里とか言いましたね。」

「十六里さ。わたしは道中記でそれを調べて置いた。」

「江戸までの里数を入れると、九十九里ですか。」

「まあ、ざっと百里というものでしょう。」

 供の佐吉も、この主人らの話を引き取って、

「まだこれから先に木曾二宿もあるら。江戸は遠いなし。」

 こんな言葉をかわしながら、三人とも日暮れ前のみちを急いで、やがてその峠を降りた。



「お泊まりなすっておいでなさい。ならいのおやどはこちらでございます。なにわこうおじょうやどはこちらでございます。」

 しきりに客を招く声がする。街道の両側に軒を並べた家々からは、競うようにその招き声が聞こえる。半蔵らが鳥居峠を降りて、そのふもとにある奈良井に着いた時は、他の旅人らも思い思いにはたごやを物色しつつあった。

 半蔵はかねて父の懇意にするしょうや仲間の家に泊めてもらうことにして、寿平次や佐吉をそこへ誘った。往来の方へ突き出したようなどこの家の低い二階にもきまりで表廊下が造りつけてあって、馬籠や妻籠に見る街道風の屋造りはその奈良井にもあった。

「半蔵さん、わたしはもうまめをこしらえてしまった。」

 と寿平次は笑いながら言って、わらじのためにみずばれのした足をたらいの中の湯に浸した。半蔵も同じように足を洗って、広い囲炉裏ばたから裏庭の見える座敷へ通された。きのこ、豆、とうがらししそなぞが障子の外の縁にしてあるようなところだ。気の置けない家だ。

「静かだ。」

 寿平次は腰にしたどうちゅうざしをへやの床の間へ預ける時に言った。その静かさは、かわの音の耳につく福島あたりにはないものだった。そこの庄屋の主人は、半蔵が父とはよく福島の方で顔を合わせると言い、この同じ部屋に吉左衛門を泊めたこともあると言い、そんな縁故からも江戸行きの若者をよろこんでもてなそうとしてくれた。ちょうどとやのさかりのころで、木曾名物の小鳥でも焼こうと言ってくれるのもそこの主人だ。鳥居峠のつぐみは名高い。鶫ばかりでなく、裏山にはこまどりやまほととぎすの声がきかれる。ぶっぽうそうも来て鳴く。ここに住むものは、表の部屋に向こうの鳥の声をきき、裏の部屋にこちらの鳥の声をきく。そうしたことを語り聞かせるのもまたそこの主人だ。

 半蔵らは同じ木曾路でもずっと東寄りの宿場の中に来ていた。鳥居峠一つ越しただけでも、親たちや妻子のいる木曾の西のはずれはにわかに遠くなった。しかしそこはなんとなく気の落ち着く山のすそで、旅のかっぱきゃはんも脱いで置いて、いなか風なふろに峠道の汗を忘れた時は、いずれもき返ったようなここちになった。



「ここの家は庄屋を勤めてるだけなんですね。本陣問屋は別にあるんですね。」

「そうらしい。」

 半蔵と寿平次は一風呂浴びたあとのさっぱりした心地で、奈良井の庄屋の裏座敷に互いの旅の思いを比べ合った。朝晩はめっきり寒く、部屋にはこたつができているくらいだ。寿平次は下女がさげて来てくれたあんどんを引きよせて、そのかげに道中の日記や矢立てを取り出した。やぶはらで求めたわらじが何もん、峠の茶屋での休みが何文というようなことまで細かくつけていた。

「寿平次さん、君はそれでも感心ですね。」

「どうしてさ。」

「妻籠の方でもわたしは君の机の上に載ってる覚え帳を見て来ました。君にはそういう綿密なところがある。」

 どうして半蔵がこんなことを言い出したかというに、本陣庄屋問屋の仕事は将来に彼を待ち受けていたからで。ふたりは十八歳のころから、すでにその見習いを命ぜられていて、福島の役所への出張といい、諸大名の送り迎えといい、二人が少年時代から受けて来た薫陶はすべてその準備のためでないものはなかった。半蔵がまだ親のみょうせきを継がないのに比べると、寿平次の方はすでに青年の庄屋であるの違いだ。

 半蔵は嘆息して、

うちおやじの心持ちはわたしによくわかる。家をほうてきしてまで学問に没頭するようなものよりも、よい本陣の跡継ぎを出したいというのが、あの人の本意なんでさ。おやじももう年を取っていますからね。」

「半蔵さんはため息ばかりついてるじゃありませんか。」

「でも、君には事務の執れるようにそなわってるところがあるからいい。」

「そう君のように、むずかしく考えるからさ。庄屋としては民意を代表するし、本陣問屋としては諸街道の交通事業に参加するとおもって見たまえ。とにかく、働きがいはありますぜ。」

 囲炉裏ばたの方で焼く小鳥の香気は、やがて二人のいる座敷の方まで通って来た。夕飯には、下女が来て広いこたついたの上を取り片づけ、そこを食卓の代わりとしてくれた。一本つけてくれたちょうしくしざしにしてさらの上に盛られたつぐみ、すべては客を扱い慣れた家の主人の心づかいからであった。その時、半蔵は次ぎの間にくつろいでいる佐吉を呼んで、

「佐吉、お前もここへおぜんを持って来ないか。旅だ。今夜は一杯やれ。」

 この半蔵の「一杯」が佐吉をほほえませた。佐吉は年若ながらに、半蔵よりも飲める口であったから。

「おれは囲炉裏ばたでいただかず。その方が勝手だで。」

 と言って佐吉は引きさがった。

「寿平次さん、わたしはこんな旅に出られたことすら、不思議のような気がする。実に一切から離れますね。」

「もうすこし君は楽な気持ちでもよくはありませんか。まあ、そのさかずきでもすさ。」

 若いものふたりは旅の疲れを忘れる程度に盃を重ねた。主人がちそうぶりの鶫も食った。焼きたての小鳥の骨をかむ音も互いの耳には楽しかった。

「しかし、半蔵さんもよく話すようになった。以前には、ほんとに黙っていたようですね。」

「自分でもそう思いますよ。今度の旅じゃ、わたしも平田入門を許されて来ました。うちおやじもああいう人ですから、快く許してくれましたよ。わたしも、これで弟でもあると、家はその弟に譲って、もっと自分の勝手な方へ出て行って見たいんだけれど。」

「今から隠居でもするようなことを言い出した。半蔵さん――君は結局、宗教にでも行くような人じゃありませんか。わたしはそう思って見ているんだが。」

「そこまではまだ考えていません。」

「どうでしょう、平田先生の学問というものは宗教じゃないでしょうか。」

「そうも言えましょう。しかし、あの先生の説いたものは宗教でも、その精神はいわゆる宗教とはまるきり別のものです。」

「まるきり別のものはよかった。」

 こたつばなしに夜はふけて行った。ひっそりとした裏山に、奈良井川の上流に、そこへはもう東木曾の冬がやって来ていた。山気は二人の身にしみて、翌朝もまた霜かと思わせた。



 おいわけの宿まで行くと、江戸の消息はすでにそこでいくらかわかった。同行三人のものは、しおじりしもすわから和田峠を越え、ちくまがわを渡って、木曾街道と善光寺道とのこうさてんにあたるその高原地の上へ出た。そこに住む追分のなぬしで、年寄役を兼ねたぶんだゆうは、かねて寿平次が先代とは懇意にした間柄で、そんな縁故から江戸行きの若者らの素通りを許さなかった。

 名主文太夫は、のばんてんわりばおりに、とりなわで、御領私領の入れまじった十一か村のまぐさばを取り締まっているような人であった。その地方にある山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどの見回りをしているような人であった。半蔵らはこの客好きな名主の家に引き留められて、佐久のみそしるや堅いじだいこんたくあんなぞを味わいながら、赤松、からまつの山林の多い浅間山腹がいかに郷里の方のたにと相違するかを聞かされた。こうやと、焼け石と、砂と、烈風と、土地の事情に精通した名主の話は尽きるということを知らなかった。

 しかし、そればかりではない。半蔵らが追分に送った一夜の無意味でなかったことは、思いがけない江戸の消息までもそこで知ることができたからで。その晩、文太夫が半蔵や寿平次に取り出して見せた書面は、あるまつしろの藩士から借りて写し取って置いたというものであった。かえい六年六月十一日付として、江戸屋敷の方にいる人の書き送ったもので、黒船騒ぎ当時の様子を伝えたものであった。

「このたび、異国船渡りきたそうろうにつき、江戸表はことのほかなる儀にて、東海道筋よりのはやちゅうしん矢のごとく、よって諸国御大名ところどころの御堅め仰せ付けられ候。しかるところ、異国船かながわおきへ乗り入れ候おもむき、ごろうじゅう御屋敷へ注進あり。右につき、夜分急に御登城にて、それぞれごげち仰せ付けられ、七日夜までに出陣の面々は左の通り。

一、まつだいらえちぜんのかみ様、(越前福井藩主)しながわごてんやまかため。
一、ほそかわえっちゅうのかみ様、(肥後熊本藩主)おおもりむらお堅め。
一、松平だいぜんだゆう様、(長州藩主)てっぽうずおよびつくだじま
一、松平あわのかみ様、(阿州徳島藩主)おはまごてん
一、さかいうたのかみ様、(ばんしゅうひめじ藩主)ふかがわ一円。
一、たちばなさこんしょうげん様。いずおおしま一円。松平しもうさのかみ様、あわかずさの両国。その他、かわごえ城主松平やまとのかみ様をはじめ、万石以上にて諸所にお堅めのため出陣の御大名数を知らず。
  公儀御目付役、戸川なかつかさしょうゆう様、松平じゅうろべえ様、右御両人は異国船見届けのため、陣場見回り仰せ付けられ、六日夜浦賀表へ御出立にこれあり候。
  さて、このたびの異国船、国名相尋ね候ところ、北アメリカと申すところ。大船四そう着船。もっとも船の中より、朝夕一両度ずつおおづつなど打ち放し申し候よし。町人並びに近在のものはふえきつかわされ、海岸の人家も大方はうちつぶして諸家様のお堅め場所となり、民家の者ども妻子を引き連れて立ちき候もあり、べいこく日に高く、目も当てられず。実に戦国の習い、是非もなき次第にこれあり候。八日の早暁にいたり、御触れの文面左の通り。
一、異国船万一にも内海へ乗り入れ、非常の注進これあり候節は、老中よりやしろすがし火消し役へ相達し、同所にて平日の出火に紛れざるよう早鐘うちいだし申すべきこと。
一、右の通り、火消し役にて早鐘うち出し候節は、出火の通り相心得、登城の道筋その他相堅め候よういたすべきこと。
一、右については、江戸場末まで早鐘行き届かざる場合もこれあるべく、万石以上の面々においてははやはんしょう相鳴らし申すべきこと。
  右のおもむき、御用番御老中よりも仰せられ候。とりあえず当地のありさま申し上げ候。
以上。」

 実に、一息に、かねて心にかかっていたことが半蔵の胸の中を通り過ぎた。これだけの消息も、木曾の山の中までは届かなかったものだ。すくなくも、半蔵が狭い見聞の世界へは、ばくぜんとしたうわさとしてしかはいって来なかったものだ。あのひこねの早飛脚が一度江戸のうわさを伝えてからの混雑、ろうばいそのものとも言うべき諸大名がおびただしい通行、それから引き続きこの街道に起こって来た種々な変化の意味も、その時思い合わされた。

「寿平次さん、君はこの手紙をどう思いますね。」

「さあ、わたしもこれほどとは思わなかった。」

 半蔵は寿平次と顔を見合わせたが、激しいこころの動揺は隠せなかった。



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 郷里を出立してから十一日目に三人は板橋の宿を望んだ。戸田川の舟渡しを越して行くと、木曾街道もその終点で尽きている。そこまでたどり着くと江戸も近かった。

 十二日目の朝早く三人は板橋を離れた。江戸の中心地まで二里と聞いただけでも、三人が踏みしめて行くわらじの先は軽かった。道中記のたよりになるのもいたばしまでで、すがもたてばから先は江戸の絵図にでもよるほかはない。安政の大地震後一年目で、震災当時多く板橋に避難したという武家屋敷の人々もすでに帰って行ったころであるが、仮小屋の屋根、傾いた軒、新たに修繕の加えられた壁なぞは行く先に見られる。三人は右を見、左を見して、ほんごう森川宿からかんだみょうじんの横手に添い、すじかいみつけへと取って、復興最中の町にはいった。

「これが江戸か。」

 半蔵らは八十余里の道をたどって来て、ようやくそのすじかいの広場に、見附の門に近いこうさつばの前に自分らを見つけた。広場の一角に配置されてある大名屋敷、向こうの町の空に高いひのみやぐらまでがその位置から望まれる。諸役人は騎馬で市中を往来すると見えて、やりもちのやっこ、その他の従者を従えた馬上の人が、その広場を横ぎりつつある。にわかにこうぶしょの創設されたとも聞くころで、はたもとごけにんばいしんろうにんに至るまでもけいこの志望者を募るなぞの物々しい空気が満ちあふれていた。

 半蔵らがめざして行った十一屋という宿屋はりょうごくの方にある。こあみちょうばくろちょう、日本橋すきやちょう、諸国旅人の泊まるじょうやどもいろいろある中で、半蔵らは両国の宿屋を選ぶことにした。同郷の人が経営しているというだけでもその宿屋は心やすく思われたからで。ちょうど、しょうへいばしから両国までは船で行かれることを教えてくれる人もあって、三人とも柳のの続いた土手の下を船で行った。うわさに聞くあさくさばしまで行くと、すじかいで見たようなみつけの門はそこにもあった。両国の宿屋は船の着いたかしからごちゃごちゃとしたひろこうじを通り抜けたところにあって、十一屋とした看板からしてかたぎふうな家だ。まだ昼前のことで、大きなふろしきづつみをしょった男、帳面をぶらさげて行く小僧なぞが、その辺の町中をったり来たりしていた。

「皆さんはきその方から。まあ、ようこそ。」

 と言って迎えてくれる若いかみさんの声を聞きながら、半蔵も寿平次もわらじひもを解いた。そこへ荷を卸した佐吉のそばで、ふたりとも長い道中のあとの棒のようになった足を洗った。

「ようやく、ようやく。」

 二階のへやへ案内されたあとで、半蔵は寿平次と顔を見合わせて言ったが、まだ二人ともきゃはんをつけたままだった。

「ここまで来ると、さすがに陽気は違いますなあ。宿屋の女中なぞはまだあわせを着ていますね。」

 と寿平次も言って、その足で部屋のなかを歩き回った。



 半蔵が江戸へ出たころは、木曾の青年でこの都会に学んでいるという人のうわさも聞かなかった。ただひとり、木曾福島のたけいせつぞう、その人は漢学者としてのこがどうあんき、しおのやとういんまつざきこうどうにも知られ、やすいそっけんとも交わりがあって、しばらくおちゃみずしょうへいこうに学んだが、親は老い家は貧しくて、数年前に郷里の方へ帰って行ったといううわさだけが残っていた。

 半蔵もまだ若かった。青年として生くべき道を求めていた彼には、そうした方面のうわさにも心をひかれた。それにもまして彼の注意をひいたのは、幕府で設けたばんしょしらべしょなぞのすでに開かれていると聞くことだった。みつくりげんぽすぎたせいけいなぞのらん学者を中心に、諸人所蔵の蕃書の翻訳がそこで始まっていた。

 この江戸へ出て来て見ると、日に日に外国の勢力の延びて来ていることは半蔵なぞの想像以上である。その年の八月には三隻の英艦までが長崎にはいったことのしらせも伝わっている。しながわおきにはおだいばが築かれて、多くの人の心に海防の念をよび起こしたとも聞く。外国ごようがかりの交代に、江戸城を中心にした交易大評定のうわさに、震災後めぐって来た一周年を迎えた江戸の市民は毎日のように何かの出来事を待ち受けるかのようでもある。

 両国へ着いた翌日、半蔵は寿平次と二人で十一屋の二階にいて、遠く町の空に響いて来る大砲調練の音なぞをききながら、旅に疲れたからだを休めていた。佐吉もしたで別のへやに休んでいた。同郷と聞いてはなつかしいと言って、半蔵たちのところへ話し込みに来る宿屋の隠居もある。その話し好きな隠居は、木曾の山の中を出て江戸に運命を開拓するまでの自分の苦心なぞを語った末に、

「あなたがたに江戸の話を聞かせろとおっしゃられても、わたしも困る。」

 と断わって、なんと言っても忘れがたいのはかえい六年の六月に十二代将軍のこうきょを伝えたころだと言い出した。

 受け売りにしても隠居の話はくわしかった。ちょうどアメリカのペリイが初めて浦賀に渡来した翌日あたりは、将軍は病の床にあった。強い暑さにあたって、多勢の医者が手を尽くしても、将軍の疲労は日に日に増すばかりであった。将軍自身にももはやてないことを知りながら、押して老中を呼んで、今回の大事はかいびゃく以来の珍事である、自分も深く心を痛めているが、不幸にして大病に冒され、いかんともすることができないと語ったという。ついては、みとの隠居(烈公)は年来海外のことに苦心して、定めしよいりょうけんもあろうから、自分の死後外国処置の件は隠居に相談するようにと言い置いたという。アメリカの軍艦が内海に乗り入れたのは、その夜のことであった。宿直のものから、ただいまいせ(老中あべ)登城、ただいまびんご(老中牧野)登城と上申するのを聞いて、将軍はすぐにこれへ呼べと言い、「かたぎぬ、肩衣」と求めた。その時将軍はすでに疲れ切っていた。極度にくるしんで、精神も次第にこうこつとなるほどだった。それでも人にたすけられて、いつものように正しくすわり直し、肩衣を着けた。それから老中を呼んで、ふたりの言うことを聞こうとしたが、アメリカの軍艦がまたにわかに外海へ出たという再度のしらせを得たので、二人の老中もはいえつを請うには及ばないで引き退いた。翌日、将軍は休息のへやこうじた。

 十一屋の隠居はこの話を日ごろ出入りする幕府おくづめの医者できたむらずいけんという人から聞いたと半蔵らに言い添えて見せた。さらに言葉を継いで、

「わたしはあのくぼうさまの話を思い出すと、涙が出て来ます。何にしろ、あなた、初めて異国の船が内海に乗り入れた時の江戸の騒ぎはありませんや。諸大名はかじぐそくで登城するか、持ち場持ち場を堅めるかというんでしょう。火の用心のお触れは出る。鉄砲や具足の値はふだんの倍になる。海岸の方に住んでるものは、みんな荷物をしょって逃げましたからね。わたしもこんな宿屋商売をして見ていますが、世の中はあれから変わりましたよ。」

 半蔵も、寿平次も、この隠居の出て行ったあとで、ともかくも江戸の空気の濃い町中に互いの旅の身を置き得たことを感じた。木曾の山の中にいて想像したと、出て来て見たとでは、実にたいした相違であることをも感じた。

「半蔵さん、きょうは国へ手紙でも書こう。」

「わたしも一つ、まごめへ出すか。」



「半蔵さん、君はそれじゃ佐吉を連れて、あす平田先生をたずねるとしたまえ。」

 とりあえずそんな相談をして、その日一日は二人とも休息することにした。旅に限りがあって、そう長い江戸のとうりゅうは予定の日取りが許さなかった。まだこれから先ににっこう行き、よこすか行きも二人を待っていた。

 寿平次は手を鳴らして宿のかみさんを呼んだ。もうすこし早く三人が出て来ると、えびすこうに間に合って、おおてんまちょうの方に立つべったら市のにぎわいも見られたとかみさんはいう。しばいは、と尋ねると、いちむら、中村、森田三座とも狂言なだいの看板が出たばかりのころで、茶屋のかざり物、とうろうちょうちん、つみ物なぞは、あるいは見られても、狂言の見物には月のかわるまで待てという。当時売り出しの作者の新作で、世話に砕けたこだんじの出し物が見られようかともいう。

ついたちかおみせは明けの七つどきでございますよ。たゆうさんばそうでも御覧になるんでしたら、暗いうちからお起きにならないと、間に合いません。」

「江戸の芝居見物も一日がかりですね。」

 こんな話の出るのも、旅らしかった。

 夕飯後、半蔵はかねて郷里を出る時に用意して来た一通の書面を旅の荷物の中から取り出した。

「どれ、一つ寿平次さんに見せますか。これがあす持って行くせいしです。」

 と言って寿平次の前に置いた。

    誓詞

「このたび、御門入り願いたてまつそうろうところ、御許容なし下され、御門人の列に召し加えられ、本懐の至りに存じ奉り候。しかる上は、もはら皇国の道を尊信いたし、最も敬神の儀怠慢いたすまじく、しょうがい師弟の儀忘却つかまつるまじき事。

おおやけの御制法にあいそむき候儀は申すに及ばず。すべて古学を申し立て、世間に異様の行ないをいたし、人の見聞を驚かし候ようの儀これあるまじく、ことさら師伝と偽り奇怪の説など申し立て候儀、一切仕るまじき事。

御流儀においては、秘伝口授など申す儀、かつてこれなき段、堅く相守り、さようの事申し立て候儀これあるまじく、すべてひれつの振舞をいたし古学の名をけがし申すまじき事。

学の兄弟相かわらず随分むつまじく相交わり、互いに古学興隆の志を相励み申すべく、がしゅうを立て争論なぞいたし候儀これあるまじき事。

右の条々、つつしんで相守り申すべく候。もし違乱に及び候わば、やおよろずあまつかみくにつかみ、明らかに知ろしめすべきところなり。よって、誓詞くだんのごとし。」

信州、木曾、馬籠村
青山半蔵

  安政三年十月

   平田かねたね大人

          おんもと

「これはなかなかやかましいものだ。」

「まだそのほかに、名簿を出すことになっています。こうねん何歳、父はだれ、職業は何、だれの紹介ということまで書いてあるんです。」

 その時、半蔵は翌朝の天気を気づかい顔に戸の方へ立って行った。すみだがわに近い水辺の夜の空がその戸に見えた。

「半蔵さん。」と寿平次はまたそばへ来てすわり直した相手の顔をながめながら、「君の誓詞には古学ということがしきりに出て来ますね。いったい、国学をやる人はそんなに古代の方に目標を置いてかかるんですか。」

「そりゃ、そうさ。君。」

「過去はそんなに意味がありますかね。」

「君のいう過去は死んだ過去でしょう。ところが、あつたね先生なぞの考えた過去は生きてる過去です。あすは、あすはッて、みんなあすを待ってるけれど、そんなあすはいつまで待っても来やしません。きょうは、君、またたくに通り過ぎて行く。過去こそまことじゃありませんか。」

「君のいうことはわかります。」

「しかし、国学者だって、そう一概に過去を目標に置こうとはしていません。中世以来は濁って来ていると考えるんです。」

「待ってくれたまえ。わたしはそうくわしいことも知りませんがね、平田派の学問はかたより過ぎるような気がしてしかたがない。こんな時世になって来て、そういう古学はどんなものでしょうかね。」

「そこですよ。外国の刺激を受ければ受けるほど、わたしたちは古代の方を振り返って見るようになりました。そりゃ、わたしばかりじゃありません、中津川の景蔵さんや香蔵さんだっても、そうです。」

 どうやら定めない空模様だった。さびしくはあるが、そう寒くないしぐれの来る音も戸の外にした。



 江戸は、初めて来て見る半蔵らにとって、どれほどの広さに伸びている都会とも、ちょっと見当のつけられなかったような大きなところである。そこに住むろうにゃくなんにょの数はかつて正確に計算せられたことがないと言うものもあるし、およそ二百万の人口はあろうと言うものもある。半蔵が連れと一緒に、この都会に足を踏み入れたのは武家屋敷の多い方面で、その辺は割合に人口もきはくなところであった。両国まで来て初めて町の深さにはいって見た。それもわずかに江戸の東北にあたる一つの小さな区域というにとどまる。

 数日の滞在の後には、半蔵も佐吉を供に連れて山下町の方に平田家を訪問し、持参した誓詞のほかに、酒魚料、せんす壱箱を差し出したところ、先方でも快く祝い納めてくれた。平田家では、彼の名を誓詞帳(平田門人の台帳)に書き入れ、先師没後の門人となったと心得よと言って、そくしゅうも篤胤うしの霊前に供えた。彼は日ごろ敬慕するかねたねから、以来懇意にするように、学事にも出精するようにと言われて帰って来たが、その間に寿平次はさるわかちょうの芝居見物などに出かけて行った。そのころになると、ふたりはあちこちと見て回った町々の知識から、はっぴゃくやちょうから成るというこの大きな都会の広がりをいくらかうかがい知ることができた。町中にある七つの橋を左右に見渡すことのできるいちこくばしの上に立って見た時。国への江戸みやげに、もとゆい、油、ようじたぐいを求めるなら、おやじばしまで行けと十一屋の隠居に教えられて、あの橋のたもとからよろいの渡しの方を望んで見た時。目に入るかぎり無数の町家がたて込んでいて、高いひのみやぐら、並んだ軒、深いのれんから、いたるところのかしに連なり続く土蔵の壁まで――そこからまとまって来る色彩の黒と白との調和も江戸らしかった。

 しかし、世は封建時代だ。江戸大城の関門とも言うべき十五、六のみつけをめぐりにめぐるうちぼりはこの都会にある橋々の下へ流れ続いて来ている。そのそとがわにはさらに十か所の関門を設けたそとぼりがめぐらしてある。どれほどの家族を養い、どれほどの土地の面積を占め、どれほどの庭園と樹木とをもつかと思われるような、諸国大小の大名屋敷が要所要所に配置されてある。どこに親藩の屋敷を置き、どこにとざまだいみょうの屋敷を置くかというような意匠の用心深さは、日本国の縮図を見る趣もある。言って見れば、ここは大きな関所だ。町のかどには必ず木戸があり、木戸のそばには番人の小屋がある。あの木曾街道の関所の方では、そこにいる役人が一切の通行者を監視するばかりでなく、役人同志が互いに監視し合っていた。どうかすると、ぶぎょうその人ですら下役から監視されることをまぬかれなかった。それを押しひろげたような広大な天地が江戸だ。

 半蔵らが予定の日取りもいつのまにか尽きた。いよいよ江戸を去る前の日が来た。半蔵としては、この都会で求めて行きたい書籍の十が一をも手に入れず、思うように同門の人もたずねず、かもうしが旧居の跡も見ずじまいであっても、ともかくも平田家を訪問して、こころよく入門の許しを得、かねたねはじめそのむすこさんののぶたねとも交わりを結ぶいとぐちを得たというだけにも満足して、十一屋の二階でいろいろと荷物を片づけにかかった。

 半蔵がへやの廊下に出て見たころは夕方に近い。

「半蔵さん、きょうはひとりで町へ買い物に出て、それはよい娘を見て来ましたぜ。」

 と言って寿平次は国への江戸土産にするものなぞを手にさげながら帰って来た。

「君にはかなわない。すぐにそういうところへ目がつくんだから。」

 半蔵はそれを言いかけて、思わず顔を染めた。二人は宿屋の二階のてすりに身をせて、目につく風俗なぞを話し合いながら、しばらくそこに旅らしい時を送った。髪をゆいわたというものにして、あかの帯なぞをしめた若いさかりの娘の洗練された風俗も、こうした都会でなければ見られないものだ。国の方ですがれたねぎなぞを吹いている年ごろの女が、ここではほおずきを鳴らしている。渋いかきいろの「けいし」をこわきにかかえながら、うたのけいこにでも通うらしい小娘のあどけなさ。くろじゅすえりのかかった着物を着て水茶屋ののれんのかげに物思わしげな女のなまめかしさ。極度にらんじゅくした江戸趣味は、もはや行くところまで行き尽くしたかとも思わせる。

 やがて半蔵は佐吉を呼んだ。翌朝出かけられるばかりに旅の荷物をまとめさせた。町へはいわしを売りに来た、かにを売りに来たと言って、物売りの声がするたびにきき耳を立てるのも佐吉だ。佐吉は、山下町の方の平田家まで供をしたおりのことを言い出して、主人と二人で帰りの昼じたくにある小料理屋へ立ち寄ろうとしたことを寿平次に話した末に、そこのげそくばんの客を呼ぶ声が高い調子であるには驚かされたと笑った。

「へい、いらっしゃい。」

 と佐吉はぼくとつな調子で、その口調をまねて見せた。

「あのへい、いらっしゃいには、おれも弱った。そこへ立ちすくんでしまったに。」

 とまた佐吉は笑った。

「佐吉、江戸にもお別れだ。今夜は一緒に飯でもやれ。」

 と半蔵は言って、三人して宿屋の台所に集まった。夕飯のぜんが出た。佐吉がそこへかしこまったところは、馬籠の本陣の囲炉裏ばたで、どんどんたきびをしながら主従一同食事する時と少しも変わらない。十一屋では膳部も質素なものであるが、江戸にもお別れだという客の好みとあって、その晩にかぎりさしみもついた。木曾の山の中のことにして見たら、深い森林に住む野鳥を捕え、くましかいのししなどの野獣の肉を食い、谷間の土に巣をかけるじばちの子を賞美し、さかなと言えば塩辛いさんまか、いわしか、一年に一度のしおぶりが膳につくのは年取りの祝いの時ぐらいにきまったものである。それに比べると、ここにあるまぐろの刺身の新鮮なあかさはどうだ。そのさらに刺身のツマとして添えてあるのも、繊細をきわめたものばかりだ。細い緑色のうご。小さな茎のままのしその実。黄菊。一つまみの大根おろしの上に青く置いたようなわさび

「こう三人そろったところは、どうしても山の中から出て来た野蛮人ですね。」

 赤いえりを見せたきゅうじの女中を前に置いて、寿平次はそんなことを言い出した。

「こんな話があるで。」と佐吉もひざをかき合わせて、「木曾福島の山村様が江戸へ出るたびに、やまざる、山猿と人にからかわれるのが、くやしくてしかたがない。ある日、口の悪い人たちを屋敷にんだと思わっせれ。そこが、お前さま、福島の山村様だ。これが木曾名物の焼きぐりだと言って、なまの栗をひばちの灰の中にくべて、ぽんぽんはねるやつをわざとやじりでかき回したげな。」

「野性を発揮したか。」

 と寿平次がふき出すと、半蔵はそれを打ち消すように、

「しかし、寿平次さん、こう江戸のように開け過ぎてしまったら、動きが取れますまい。わたしたちは山猿でいい。」

 と言って見せた。

 食後にも三人は、互いの旅の思いを比べ合った。江戸の水茶屋には感心した、と言うのは寿平次であった。思いがけない屋敷町の方で読書の声を聞いて来た、と言うのは半蔵であった。

 その晩、半蔵は寿平次と二人まくらを並べて床についたが、夜番のひょうしぎの音なぞが耳について、よく眠らなかった。枕もとにあるしょんぼりとしたあんどんのかげで、敷いて寝た道中用のわきざしを探って見て、また安心してふとんをかぶりながら、平田家をたずねた日のことなぞを考えた。あのかねたねから古学の興隆に励めと言われて来たことを考えた。世は濁り、江戸は行き詰まり、一切のものが実に雑然紛然として互いに叫びをあげている中で、どうして国学者の夢などをこの地上に実現し得られようと考えた。

「自分のような愚かなものが、どうして生きよう。」

 そこまで考えつづけた。

 翌朝は、なるべく早く出立しようということになった。時が来て、半蔵は例の青いかっぱ、寿平次はかきいろの合羽に身をつつんで、すっかりしたくができた。佐吉はすでにわらじひもを結んだ。三人とも出かけられるばかりになった。

 十一屋の隠居はそこへ飛んで出て来て、

「オヤ、これはどうも、お粗末さまでございました。どうかまた、お近いうちに。」

 と手をもみながら言う。江戸生まれで、まだ木曾を知らないというかみさんまでが、隠居のそばにいて、

「ほんとに、木曾のかたはおなつかしい。」

 と別れぎわに言い添えた。

 十一屋のあるところから両国橋まではほんのひとあしだ。江戸のなごりに、すみだがわを見て行こう、と半蔵が言い出して、やがて三人で河岸の物揚げ場の近くへ出た。早い朝のことで、大江戸はまだ眠りからさめきらないかのようである。ちょうど、うずまき流れて来る隅田川の水に乗って、川上の方角から橋の下へくだって来る川船があった。あたりにもやっている大小の船がまだ半分夢を見ている中で、まず水の上へ活気をそそぎ入れるものは、その船頭たちの掛け声だ。十一屋の隠居の話で、半蔵らはそれがさいたまかわごえの方からいせちょうがしへと急ぐびんせんであることを知った。

「日の出だ。」

 言い合わせたようなその声が起こった。三人は互いにこおどりして、ほんじょ方面の初冬らしい空に登る太陽を迎えた。あかくはあるが、そうまぶしく輝かない。木曾の奥山に住み慣れた人たちは、谷間からだんだん空の明るくなることは知っていても、こんな日の出は知らないのだ。間もなく三人はせんじゅの方面をさして、静かにその橋のたもとからも離れて行った。



[編集]

 千住から日光への往復九十里、横須賀への往復に三十四里、それに江戸と木曾との間の往復の里程を加えると、半蔵らの踏む道はおよそ二百九十里からの旅である。

 日光への寄り道を済まして、もう一度三人が千住まで引き返して来たころは、旅の空で旧暦十一月の十日過ぎを迎えた。その時は、千住からすぐにたかなわへと取り、ふだつじおおきど、番所を経て、東海道へと続くそでうらの岸へ出た。うわさに聞くおだいば、五つのほうるいから成るその建造物はすでに工事を終わって、沖合いの方に遠く近く姿をあらわしていた。おおもりの海岸まで行って、半蔵はハッとした。初めて目に映る蒸汽船――徳川幕府がオランダ政府からい入れたというがいりんがたの観光丸がその海岸から望まれた。

 とうとう、半蔵らの旅は深いあいいろの海の見えるところまで行った。かながわからかなざわへと進んで、横須賀行きの船の出る港まで行った。客や荷物を待つ船頭が波打ちぎわで船のしたくをしているところまで行った。

「なんだか遠く来たような気がする。くにの方でも、みんなどうしていましょう。」

「さあ、ねえ。」

「わたしたちが帰って行く時分には、もう雪が村まで来ていましょう。」

「なんだぞなし。きっと、けさはサヨリ飯でもたいて、こっちのうわさでもしているぞなし。」

 三人はこんなことを語り合いながら、金沢の港から出る船に移った。

 海は動いて行く船の底でおどった。もはや、半蔵らはこれから尋ねて行こうとする横須賀在、くごうむらの話で持ち切った。五百年からの歴史のある古いやまがみの家族がそこに住むかと語り合った。三浦一族の子孫にあたるという青山家の遠祖が、あの山上の家から分かれて、どの海を渡り、どの街道を通って、遠く木曾谷の西のはずれまではいって行ったものだろうと語り合った。

 当時の横須賀はまだ漁村である。船から陸を見て行くことも生まれて初めてのような半蔵らには、その辺を他の海岸に比べて言うこともできなかったが、大島小島の多い三浦半島の海岸に沿うて旅を続けていることをおもって見ることはできた。あるみさきのかげまで行った。海岸の方へ伸びて来ている山のふところに抱かれたような位置に、横須賀の港が隠れていた。

 くごうむらとは、船の着いたりょうしまちから物の半道と隔たっていなかった。半蔵らは横須賀まで行って、山上のうわさを耳にした。公郷村に古い屋敷と言えば、土地の漁師にまでよく知られていた。三人がはるばる尋ねて行ったところは、木曾の山の中で想像したとは大違いなところだ。のどかなことも想像以上だ。ほのかな鶏の声が聞こえて、漁師たちの住む家々の屋根からは静かに立ちのぼる煙を見るようなせんきょうだ。



 つまご本陣青山寿平次殿へ、短刀一本。ただし、古刀。銘なし。まごめ本陣青山半蔵殿へ、ほうらいの図掛け物一軸。ただし、こうりん筆。山上家の当主、七郎左衛門は公郷村のすまいの方にいて、こんな記念の二品までも用意しながら、ふたりの珍客を今か今かと待ち受けていた。

「もうお客さまも見えそうなものだぞ。だれかそこいらまで見に行って来い。」

 と家に使っている男衆に声をかけた。

 半蔵らが百里の道も遠しとしないで尋ねて来るというしらせは七郎左衛門をじっとさせて置かなかった。彼は古い大きな住宅の持ち主で、二十畳からある広間を奥の方へ通り抜け、人ひとり隠れられるほどの太いだいこくばしらのわきを回って、十五畳、十畳と二へや続いた奥座敷のなかをあちこちと静かに歩いた。そこは彼が客をもてなすために用意して待っていたところだ。心をこめた記念の二品はさんぽうに載せて床の間に置いてある。先祖伝来の軸物などは客待ち顔に壁の上に掛かっている。

 七郎左衛門の家には、三浦氏から山上氏、山上氏から青山氏と分かれて行ったくわしい系図をはじめ、祖先らの遺物と伝えらるる古いひたたれから、武具、書画、陶器のたぐいまで、何百年となく保存されて来たものはかなり多い。彼が客に見せたいと思う古文書なぞは、取り出したらきりのないほどながびつの底にうずまっている。あれもこれもと思う心で、彼は奥座敷から古い庭の見える方へ行った。松林の多い裏山つづきに樹木をあしらった昔の人の意匠がそこにある。硬質な岩の間につつじかえでなぞを配置したこけむしたつきやまがそこにある。どっしりとした古風ないしどうろうが一つ置いてあって、その辺にはまるく厚ぼったい「つわぶき」なぞも集めてある。遠い祖先の昔はまだそんなところに残って、子孫の目の前に息づいているかのようでもある。

「まあ、客が来たら、この庭でも見て行ってもらおう。これは自分が子供の時分からながめて来た庭だ。あの時分からほとんど変わらない庭だ。」

 こんなことを思いながら待ち受けているところへ、半蔵と寿平次の二人が佐吉を供に連れて着いた。その時、七郎左衛門は家のものを呼んではかまを持って来させ、その上に短い羽織を着て、古いやりなぞの正面の壁の上に掛かっている玄関まで出て迎えた。

「これは。これは。」

 七郎左衛門は驚きに近いほどのよろこびのこもった調子で言った。

「これ、お供の衆。まあわらじでも脱いで、上がってください。」

 と彼のかないまでそこへ出て言葉を添える。案内顔な主人のあとについて、寿平次は改まった顔つき、半蔵もまゆをあげながら奥の方へ通ったあとで、佐吉は二人の脱いだ草鞋のひもなど結び合わせた。

 やがて、奥座敷では主人と寿平次との一別以来のあいさつ、半蔵との初対面の挨拶なぞがあった。主人の引き合わせで、幾人の家の人が半蔵らのところへ挨拶に来るとも知れなかった。これはせがれ、これはその弟、これは嫁、と主人の引き合わせが済んだあとには、まだ幼い子供たちが目をまるくしながら、かわるがわるそこへお辞儀をしに出て来た。

「青山さん、わたしどもには三夫婦もそろっていますよ。」

 この七郎左衛門の言葉がまず半蔵らを驚かした。

 古式を重んずるもてなしのありさまが、間もなくそこにひらけた。かわらけなぞを三宝の上に載せ、挨拶かたがたはいって来る髪の白いおばあさんの後ろからは、十六、七ばかりの孫娘がへいじを運んで来た。

「おゝ、おゝ、よいむすこさんがただ。」

 とおばあさんは半蔵の前にも、寿平次の前にも挨拶に来た。

「とりあえず一つお受けください。」

 とまたおばあさんは言いながら、三つ組のかわらけを白木の三宝のまま丁寧に客の前に置いて、それかられいしゅを勧めた。

「改めて親類のおさかずきとやりますかな。」

 そういう七郎左衛門の愉快げな声を聞きながら、まず年若な寿平次が土器を受けた。続いて半蔵も冷酒を飲みほした。

「でも、不思議な御縁じゃありませんか。」と七郎左衛門はおばあさんの方を見て言った。「わたしがつまごの青山さんのお宅へ一晩泊めていただいた時に、同じじょうもんから昔がわかりましたよ。えゝ、まるびきと、もっこうとでさ。さもなかったら、わたしは知らずに通り過ぎてしまうところでしたし、わざわざお二人でたずねて来てくださるなんて、こんなめずらしいことも起こって来やしません。こうしてお盃を取りかわすなんて、なんだか夢のような気もします。」

「そりゃ、お前さん、御先祖さまが引き合わせてくだすったのさ。」

 おばあさんは、おばあさんらしいことを言った。



 相州三浦の公郷村まで動いたことは、半蔵にとって黒船上陸の地点に近いところまで動いて見たことであった。

 その時になると、半蔵は浦賀に近いこの公郷村の旧家に身を置いて、あのおいわけなぬしぶんだゆうから見せてもらって来た手紙も、両国十一屋の隠居から聞いた話も、すべてそれを胸にまとめて見ることができた。江戸から踏んで来たまつなみきの続いた砂の多い街道は、三年前うしどしの六月にアメリカのペリイが初めての着船を伝えたころ、早飛脚の織るように往来したところだ。当時きそじを通過したおわり藩の家中、続いてひこねの家中などがおびただしい同勢で山の上を急いだのも、この海岸一帯の持ち場持ち場を堅めるため、あるいは浦賀の現場へ駆けつけるためであったのだ。

 そういう半蔵はここまで旅を一緒にして来た寿平次にたんとお礼を言ってもよかった。もし寿平次の誘ってくれることがなかったら、容易にはこんな機会は得られなかったかもしれない。供の佐吉にも感謝していい。雨の日も風の日も長い道中を一緒にして、影の形に添うように何くれと主人の身をいたわりながら、ここまでやって来たのも佐吉だ。おかげと半蔵は平田入門のこころざしを果たし、江戸の様子をも探り、日光の地方をも見、いくらかでもこれまでの旅に開けて来た耳でもって、七郎左衛門のような人の話をきくこともできた。

 半蔵の前にいる七郎左衛門は、事あるごとに浦賀の番所へ詰めるという人である。この内海へ乗り入れる一切の船舶は一応七郎左衛門のところへ断わりに来るというほど土地の名望を集めている人である。

 古風な盃の交換も済んだころ、七郎左衛門の家内の茶菓などをそこへ運んで来て言った。

「あなた、茶室の方へでも御案内したら。」

「そうさなあ。」

「あちらの方が落ち着いてよくはありませんか。」

「いろいろお話を伺いたいこともある。とにかく、うちにある古い系図をここでお目にかけよう。それから茶室の方へ御案内するとしよう。」

 そう七郎左衛門は答えて、一丈も二丈もあるような巻き物を奥座敷のこぶすまから取り出して来た。その長巻の軸を半蔵や寿平次の前にひろげて見せた。

 この山上の家がまだ三浦の姓を名乗っていた時代の遠い先祖のことがそこに出て来た。三浦の祖でちんじゅふ将軍であった三浦ただみちという人の名が出て来た。きぬがさじょうを築き、この三浦半島を領していた三浦平太夫という人の名も出て来た。じしょう四年の八月に、八十九歳で衣笠城に自害した三浦おおすけよしあきという人の名も出て来た。ほうじ元年の六月、前将軍よりつねを立てようとして事あらわれ、うってのために敗られて、一族共にほっけどうで自害した三浦わかさのかみやすむらという人の名なぞも出て来た。

「ホ。半蔵さん、御覧なさい。ここに三浦ひょうえのじょうよしかつとありますよ。この人はじゅ五位だ。げんこう二年にったよしさだたすけて、かまくらを攻め、ほうじょうたかときの一族を滅ぼす、先世のあだかえすというべしとしてありますよ。」

「みんな戦場を駆け回った人たちなんですね。」

 寿平次も半蔵も互いに好奇心に燃えて、そのくわしい系図に見入った。

「つまり三浦の家は一度北条そううんに滅ぼされて、それからまた再興したんですね。」と七郎左衛門は言った。「五千町の田地をもらって、山上と姓を改めたともありますね。昔はこの辺をくごうの浦とも、大田津とも言ったそうです。この半島にはあぶらつぼというところがありますが、三浦どうすん父子の墓石なぞもあそこに残っていますよ。」

 やがて半蔵らはこの七郎左衛門の案内で、茶室の方へ通う庭のこみちのところへ出た。裏山つづきのいなりほこらなどが横手に見える庭石の間を登って、つきやまをめぐる位置まで出たころに、寿平次は半蔵を顧みて言った。

「驚きましたねえ。この山上の二代目の先祖はくすのきけから養子に来ていますよ。毎年正月にはなんこうの肖像を床の間に掛けて、かがみもちみきを供えるというじゃありませんか。」

「わたしたちの家が古いと思ったら、ここの家はもっと古い。」



 松林の間に海の見える裏山の茶室に席を移してから、七郎左衛門は浦賀の番所通いの話などを半蔵らの前で始めた。二千人の水兵を載せたアメリカの艦隊が初めて浦賀に入港した当時のことがそれからそれと引き出された。

 七郎左衛門の話はくわしい。彼はすいし提督ペリイのざじょうした三本マストの旗艦ミスシッピイ号をも目撃した人である。浦賀のぶぎょうがそれと知った時は、すぐに要所要所を堅め、ここは異国の人と応接すべき場所でない、アメリカ大統領のしょかんを呈したいとあるなら長崎の方へ行けとさとした。けれども、アメリカが日本の開国を促そうとしたは決して一朝一夕のことではないらしい。先方は断然たる決心をもって迫って来た。もし浦賀で国書を受け取ることができないなら、江戸へ行こう。それでも要領を得ないなら、艦隊は自由行動を執ろう。この脅迫の影響は実に大きかった。のみならずペリイは測量艇隊を放って浦賀付近の港内を測量し、さらに内海に向かわしめ、軍艦がそれをえんごしてかんのんざきからはしりみずの付近にまで達した。浦賀奉行とペリイとのくりはまでの会見がそれから開始された。海岸に幕を張り、弓矢、鉄砲を用意し、五千人からの護衛の武士が出て万一の場合にそなえた。なにしろ先方は二千人からの水兵が上陸して、列をつくって進退する。軍艦から打ち出すおおづつの礼砲は近海から遠い山々までもとどろき渡る。かねての約束のとおり、奉行は一言をも発しないで国書だけを受け取って、ともかくも会見の式を終わった。その間はんときばかり。ペリイは大いに軍容を示して、日本人の高い鼻をへし折ろうとでも考えたものか、脅迫がましい態度がそれからも続きに続いた。全艦隊はこしばおきからはねだ沖まで進み、はるかに江戸の市街を望み見るところまでも乗り入れて、それからたいはんのおりに、万一国書を受けつけないなら非常手段に訴えるという言葉を残した。そればかりではない。日本で飽くまで開国をがえんじないなら、武力に訴えてもその態度を改めさせなければならぬ、日本人はよろしく国法によって防戦するがいい、米国は必ず勝って見せる、ついては二本の白旗を贈る、いくさけて講和を求める時にそれを掲げて来るなら、その時は砲撃を中止するであろうとの言葉を残した。

「わたしはアメリカの船を見ました。二度目にやって来た時は九そうも見ました。さよう、二度目の時なぞは三か月もあの沖合いに掛かっていましたよ。そりゃ、あなた、日本の国情がどうあろうと、こっちの言い分が通るまでは動かないというふうに――てこでも動かないいわのようなけんまくで。」

 これらの七郎左衛門の話は、半蔵にも、寿平次にも、容易ならぬ時代に際会したことを悟らせた。当時の青年として、この不安はまた当然覚悟すべきものであることを思わせた。同時に、このせんきょうのような三浦半島の漁村へも、そうした世界の新しい暗いうしおが遠慮なく打ち寄せて来ていることを思わせた。

「時に、お話はお話だ。わたしの茶も怪しいものですが、せっかくおいでくだすったのですから、一服立てて進ぜたい。」

 そう言いながら、七郎左衛門はその茶室にある炉の前にすわり直した。そこにある低い天井も、簡素な壁も、静かな窓も、海の方から聞こえて来るなみの音も、すべてはこの山上の主人がたましいを落ち着けるためにあるかのように見える。

「なにしろ青山さんたちは、おふたりともまだ若いのがうらやましい。これからの時世はあなたがたを待っていますよ。」

 七郎左衛門は手にしたふくさで夏目のふたを掃ききよめながら言った。においこぼれるような青いひきちゃの粉はちゃわんに移された。湯と水とに対する親しみの力、きせんひんぷの外にあるむなしさ、渋さと甘さと濃さと淡さとを一つの茶碗に盛り入れて、あわしるも一緒に溶け合ったような高い茶の香気をかいで見た時は、半蔵も寿平次もしばらくそこに旅の身を忘れていた。

 もやの方からはふろの沸いたことを知らせに来る男があった。七郎左衛門はちがけに、その男と寿平次とを見比べながら、

つまごの青山さんはもうお忘れになったかもしれない。」

「へい、手前は主人のお供をいたしまして、木曾のお宅へ一晩泊めていただいたものでございますよ。」

 その男は手をもみもみ言った。

 夕日は松林の間に満ちて来た。海も光った。いずれこの夕焼けでは翌朝も晴れだろう、一同海岸に出て遊ぼう、網でも引かせよう、ゆっくり三浦に足を休めて行ってくれ、そんなことを言って客をもてなそうとする七郎左衛門が言葉のはしにも古里の人の心がこもっていた。まったく、木曾の山村を開拓した青山家の祖先にとっては、ここが古里なのだ。裏山のがけの下の方には、岸へ押し寄せ押し寄せする潮が全世界をめぐる生命のみゃくはくのように、をおいては響き砕けていた。半蔵も寿平次もその裏山の上の位置から去りかねて、海を望みながら松林の間に立ちつくした。



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 異国――アメリカをもロシヤをも含めた広い意味でのヨーロッパ――シナでもなく朝鮮でもなくインドでもない異国に対するこの国の人の最初の印象は、決して後世から想像するような好ましいものではなかった。

 もし当時のいわゆる黒船、あるいはとうじんぶねが、二本の白旗をこの国の海岸に残して置いて行くような人を乗せて来なかったなら。もしその黒船が力に訴えても開国を促そうとするような人でなしに、真に平和修好の使節を乗せて来たなら。古来この国に住むものは、そう異邦から渡って来た人たちを毛ぎらいする民族でもなかった。むしろそれらの人たちをよろこび迎えた早い歴史をさえ持っていた。シナ、インドは知らないこと、この日本の関するかぎり、もし真に相互の国際の義務を教えようとして渡来した人があったなら、よろこんでそれを学ぼうとしたに違いない。また、これほど深刻な国内の動揺とろうばいと混乱とを経験せずに済んだかもしれない。不幸にも、ヨーロッパ人は世界にわたっての土地征服者として、まずこの島国の人の目に映った。「人間の組織的な意志の壮大なごんげ、人間の合理的な利益のためにはいかなる原始的な自然の状態にあるものをも克服し尽くそうというごとき勇猛な目的を決定するもの」――それが黒船であったのだ。

 当時この国には、こうもうという言葉があり、けとうじんという言葉があった。当時のそれは割合に軽い意味での毛色の変わった異国の人というほどにとどまる。一種のおかし味をまじえた言葉でさえある。黒船の載せた外国人があべこべにこの国の住民を想像して来たように、決してそれほど未開な野蛮人をば意味しなかった。

 しかし、この国には嘉永年代よりずっと以前に、すでにヨーロッパ人が渡って来て、二百年も交易を続けていたことを忘れてはならない。この先着のヨーロッパ人の中にはポルトガル人もあったが、主としてオランダ人であった。彼らオランダ人は長崎らんいの大家として尊敬されたシイボルトのような人ばかりではなかったのだ。彼らがこの国に来て交易からおさめた利得は、年額のこばん十五万両ではきくまいという。諸種の毛織り物、らしゃ、精巧な「びいどろ」、「ぎやまん」のうつわ、その他の天産および人工に係る珍品をヨーロッパからもシャムからも東インド地方からも輸入して来て、この国の人に取り入るためにいかなる機会をも見のがさなかったのが彼らだ。自由な貿易商としてよりも役人のどれい扱いに甘んじたのが彼らだ。港の遊女でも差し向ければ、異人はどうにでもなる、そういう考えを役人にいだかせたのも、また、その先例を開かせたのも彼らだ。

 このオランダ人がまず日本を世界にふいちょうした。事実、オランダ人はこの国に向かっても、ヨーロッパの紹介者であり、通訳者であり、ヨーロッパ人同志としての激しい競争者でもあった。アメリカのペリイが持参した国書にすら、一通の蘭訳を添えて来たくらいだ。この国の最初の外交談判もおもに蘭語によってなされた。すべてはこのとおりオランダというものを通してであって、直接にアメリカ人と会話を交えうるものはなかったのである。

 この言葉の不通だ。まして東西道徳の標準の相違だ。どうして先方の話すこともよくわからないものが、アメリカ人、ロシヤ人、イギリス人とオランダ人とを区別し得られよう。長崎に、浦賀に、下田に、続々到着する新しい外国人が、これまでのオランダ人の執った態度をかなぐり捨てようとは、どうして知ろう。全く対等の位置に立って、一国を代表する使節の威厳を損ずることなしに、重い使命を果たしに来たとは、どうして知ろう。この国のものは、ヨーロッパそのものを静かによく見うるようなまず最初の機会を失った。迫り来るものは、誠意のほども測りがたい全くの未知数であった。求めらるるものは幾世紀もかかって積み重ね積み重ねして来たこの国の文化ではなくて、この島に産するいおうしょうのうきいと、それから金銀のたぐいなぞが、その最初のおもなる目的物であったのだ。

 十一月下旬のはじめには、半蔵らは二日ほどとうりゅうした公郷村をも辞し、山上の家族にも別れを告げ、七郎左衛門から記念として贈られた古刀やこうりんの軸なぞをそれぞれ旅の荷物に納めて、故郷の山へ向かおうとする人たちであった。おそらく今度の帰りみちには、国を出て二度目に見る陰暦十五夜の月も照らそう。その旅の心は、熱い寂しい前途の思いと一緒になって、若い半蔵の胸にまじり合った。別れぎわに、七郎左衛門は街道から海の見えるところまで送って来て、下田の方の空を半蔵らにさして見せた。もはや異国の人は粗末なはんがなどで見るような、そんな遠いところにいる人たちばかりではなかった。さがみなだをへだてた下田の港の方には、最初のアメリカ領事ハリス、その書記ヒュウスケンが相携えてすでに海から陸に上り、長泉寺を仮の領事館として、赤と青と白とでいろどった星条の国旗を高くそこに掲げていたころである。

〈[#改頁]〉


第四章


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 中津川の商人、よろずややすべえてだいかきち、同じ町のやまとやりすけ、これらの人たちが生糸売り込みに目をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、みのを出発して来たのはやがて安政六年の十月を迎えたころである。中津川の医者で、半蔵のふるい師匠にあたるみやがわかんさいも、この一行に加わって来た。もっとも、寛斎はただの横浜見物ではなく、やはりでかせぎのひとりとして――万屋安兵衛のかきやくという形で。

 一行四人は中津川からまごめとうげを越え、きそ街道を江戸へと取り、ひとまず江戸両国の十一屋に落ち着き、あのはたごやを足だまりとして、それから横浜へ出ようとした。木曾出身で世話好きな十一屋の隠居は、郷里に縁故の深い美濃衆のためにも何かにつけて旅の便宜を計ろうとするような人だ。この隠居は以前に馬籠本陣の半蔵を泊め、今また寛斎の宿をして、でしと師匠とを江戸に迎えるということは、これも何かの御縁であろうなどと話した末に言った。

「皆さまはかながわ泊まりのつもりでお出かけになりませんと、浜にはまだはたごやもございますまいよ。神奈川のぼたんや、あそこは古くからやっております。牡丹屋なら一番安心でございますぞ。」

 こんな隠居の話を聞いて、やがて一行四人のものは東海道筋を横浜へ向かった。

 横浜もさみしかった。地勢としての横浜は神奈川よりきしぶかで、海岸にはすでにはとばされていたが、いかに言ってもまだ開けたばかりの港だ。たまたま入港する外国の貿易船があっても、船員はいずれも船へ帰って寝るか、さもなければ神奈川まで来て泊まった。下田を去って神奈川に移った英国、米国、仏国、オランダ等の諸領事はさみしい横浜よりもにぎやかな東海道筋をよろこび、いったんかぐうと定めた本覚寺その他の寺院から動こうともしない。こんな事情をみて取った寛斎らは、やはり十一屋の隠居から教えられたとおりに、神奈川の牡丹屋に足をとどめることにした。

 このでかせぎは、美濃から来た四人のものにとって、かなりの冒険とも思われた。中津川から神奈川まで、百里に近い道を馬の背で生糸の材料を運ぶということすら容易でない。おまけに、相手は、全く知らない異国の人たちだ。



 当時、異国のことについては、実にいろいろな話が残っている。ある異人が以前に日本へ来た時、この国の女を見てけそうした。異人はその女をほしいと言ったが、許されなかった。そんなら女の髪の毛を三本だけくれろと言うので、しかたなしに三本与えた。ところが、どうやらその女は異人の魔法にでもかかったかして、とうとう異国へってしまったという。その次ぎに来た異人がまた、女の髪の毛を三本と言い出したから、今度はふるいの毛を三本抜いて与えた。驚くべきことには、そのふるいが天に登って、異国へ飛んでったともいう。これを見たものはびっくりして、これは必ずキリシタンに相違ないと言って、皆大いにおそれいだいたとの話もある。

 異国に対する無知が、およそいかなる程度のものであったかは、黒船から流れ着いたあきびんの話にも残っている。アメリカのペリイが来航当時のこと、多くの船員を乗せた軍艦からは空壜を海の中へ投げすてた。その投げすてられたものが風のない時は、底の方が重く口ばかり海面に出ていて、水がその中にはいるから、なみのまにまに自然と海岸に漂着する。それを拾って黙って家に持ちかえるものは罰せられた。だから、こういうものが流れ着いたと言って、一々届け出なければならない。その時の役人の言葉に、これは先方で毒を入れて置くものに相違ない、もしこの中に毒がはいっていたら大変だ、さもなければこんなものを流す道理もない、きっと毒が盛ってあって日本人を苦しめようという軍略であろう、ついては一か所捨て置く場所を設ける、心得違いのものがあって万一届け出ない場合があったら直ちに召しるとのきびしい触れを出したものだ。そこであっちの村から五本、こっちの村から三本、と続々届け出るものがある。役人らは毎日それを取り上げ、一軒のあきやを借り受け、そのなかに積んで置いて、厳重な戸締まりをした。それが異人らの日常飲用する酒の空壜であるということすらわからなかったという。

 すべてこの調子だ。とういすが風のために漂着したと言っては不思議がり、寝椅子が一個漂着したと言っては不思議がった。ペリイ出帆の翌日、アメリカ側から幕府への献上物の中には、びんづめかんづめ、その他の箱詰があり、浦賀奉行への贈り物があったが、これらの品々は江戸へ伺い済みの上で、浦賀の波止場で焼きすてたくらいだ。後日のたたりをおそれたのだ。実際、寛斎が中津川の商人について神奈川へ出て来たのは、そういう黒船の恐怖からまだ離れ切ることができなかったころである。

 ちょうど、時はあんせいのたいごくのあとにあたる。ひこねの城主、いいかもんのかみなおすけが大老の職にいたころは、どれほどの暗闘と反目とがそこにあったかしれない。彦根と水戸。紀州とひとつばし。幕府内の有司と有司。その結果は神奈川条約調印の是非と、徳川世子の継嗣問題とにからんであらわれて来た。しかもそれらは大きな抗争の序幕であったに過ぎぬ。井伊大老の期するところは沸騰した国論の統一にあったろうけれど、彼は世にもまれに見る闘士として政治の舞台にあらわれて来た。いわゆる反対派の張本人なる水戸の御隠居(烈公)を初め、それに荷担した大名有司らが謹慎やちっきょを命ぜられたばかりでなく、強い圧迫は京都を中心にうずまき始めた新興勢力のなえどこにまで及んで行った。京都にあるたかつかさこのえ、三条の三公はらくしょくを迫られ、その他のくげたちの関東反対のけんぎのかかったものは皆謹慎を命ぜられた。老女と言われる身で、囚人として江戸に護送されたものもある。民間にある志士、浪人、百姓、町人などの捕縛と厳刑とが続きに続いた。ひとりは切腹に、一人は獄門に、五人は死罪に、七人は遠島に、十一人は追放に、九人はおしこめに、四人はところばらいに、三人はてじょうに、七人はかまいなしに、三人はきっとしかりに。きんのうじょういきゅうせんぽうと目ざされたわかさうめだうんぴんのように、獄中で病死したものが別に六人もある。水戸のあじまたてわきえちぜんの橋本さない、京都のらいおうがい、長州のよしだしょういんなぞは、いずれも恨みをのんで倒れて行った人たちである。

 こんな周囲の空気の中で、だれもがまだ容易に信用しようともしない外国人の中へ、中津川の商人らは飛び込んで来た。神奈川条約はすでに立派に調印されて、外国貿易は公然のさたとなっている。生糸でも売り込もうとするものにとって、なんのはばかるところはない。寛永十年以来の厳禁とされた五百石以上の大船を造ることも許されて、海はもはや事実において解放されている。遠い昔の航海者の夢は、二百何十年の長い鎖国の後に、また生きかえるような新しい機運に向かって来ている。



 寛斎がこの出稼ぎに来たころは六十に近かった。いなか医者としての彼の漢方で治療の届くかぎりどんな患者でもないことはなかったが、中にも眼科を得意にし、中津川の町よりも近在回りを主にして、病家から頼まれれば峠越しにまごめへも行き、みどのへも行き、あららぎ、広瀬からせいないじの奥までも行き、余暇さえあれば本を読み、でしを教えた。学問のある奇人のように言われて来たこの寛斎が医者の玄関も中津川では張り切れなくなったと言って、信州いいだの在に隠退しようと考えるようになったのも、つい最近のことである。今度一緒に来たよろずやの主人は日ごろ彼が世話になる病院先のことであり、生糸売り込みもよほどの高に上ろうとの見込みから、彼の力にできるだけの手伝いもして、その利得を分けてもらうという約束で来ている。彼ももう年をとって、何かにつけて心細かった。最後の「隠れ」に余生を送るよりほかの願いもなかった。

 さしあたり寛斎の仕事は、安兵衛らを助けて横浜貿易の事情をさぐることであった。新参の西洋人は内地の人を引きつけるために、なんでも買い込む。どうせ初めは金を捨てなければいけないくらいのことは外国商人も承知していて、気に入らないものでも買って見せる。江戸の食い詰め者で、にっちさっちも首の回らぬ連中なぞは、一つ新開地の横浜へでも行って見ようという気分で出かけて来る時だ。そういう連中が持って来るような、二文か三文のもとでで仕入れられるおもちゃ〈[#「おもちゃ」は底本では「おもちや」]〉たぐいでさえ西洋人にはめずらしがられた。徳川大名の置き物とさえ言えば、仏壇のろうそくだてを造りかえたような、いかがわしいこっとうひんでさえ二両の余に売れたという。まだ内地の生糸商人はいくらも入り込んでいない。よろずや安兵衛、やまとやりすけなぞにとって、これは見のがせない機会だった。

 だんだん様子がわかって来た。神奈川在留の西洋人は諸国領事から書記まで入れて、およそ四十人は来ていることがわかった。紹介してもらおうとさえ思えば、適当な売り込み商の得られることもわかった。おぼつかないながらも用をすぐらいの通弁は勤まるというものも出て来た。

 やがて寛斎は安兵衛らと連れだって、一人の西洋人を見に行った。二十戸ばかりの異人屋敷、最初の居留地とは名ばかりのように隔離した一区域が神奈川台の上にある。そこに住む英国人で、ケウスキイという男は、横浜の海岸通りに新しい商館でも建てられるまで神奈川にかりずまいするという貿易商であった。初めて寛斎の目に映るその西洋人は、らしゃの丸羽織を着、同じ羅紗のももひきをはき、羽織のひものかわりにぼたんを用いている。手まわりの小道具一切をいしょうのかくしにいれているのも、異国の風俗だ。たとえば手ぬぐいは羽織のかくしに入れ、金入れはももひきのかくしに入れ、時計は胴着のかくしに入れて鎖をぼたんの穴に掛けるというふうに。はきものも変わっている。獣の皮で造ったくつが日本で言って見るならせったの代わりだ。

 安兵衛らの持って行って見せた生糸の見本は、ひどくケウスキイを驚かした。これほど立派な品ならどれほどでも買おうと言うらしいが、先方の言うことはつばめのように早口で、こまかいことまでは通弁にもよくわからない。ケウスキイはまた、安兵衛らの結い立てのまげや、すっかり頭をまるめている寛斎の医者らしい風俗をめずらしそうにながめながら、たばこなぞをそこへ取り出して、客にも勧めれば自分でもうまそうにんで見せた。寛斎が近く行って見たその西洋人は、髪の毛色こそ違い、ひとみの色こそ違っているが、黒船の連想と共に起こって来るような恐ろしいものでもない。幽霊でもなく、化け物でもない。やはり血の気のかよっている同じ人間の仲間だ。

「糸目百匁あれば、一両で引き取ろうと言っています。」

 この売り込み商の言葉に、安兵衛らは力を得た。百匁一両は前代未聞の相場であった。

 早い貿易の様子もわかり、糸の値段もわかった。この上は一日も早く神奈川を引き揚げ、来る年の春までにはできるだけ多くの糸の仕入れもして来よう。このことに安兵衛とりすけは一致した。ふたりが見本のつもりで持って来て、ぼたんやていしゅに預かってもらった糸まで約束ができて、その荷だけでも一個につき百三十両に売れた。

「宮川先生、あなただけは神奈川に残っていてもらいますぜ。」

 と安兵衛は言ったが、それはもとより寛斎も承知の上であった。

「先生もひとりで、ねずみにでも引かれないようにしてください。」

 手代のかきちは嘉吉らしいことを言って、置いて行くあとの事を堅く寛斎に託した。中津川と神奈川の連絡を取ることは、一切寛斎の手にまかせられた。



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 十一月を迎えるころには、寛斎は一人牡丹屋の裏二階に残った。

「なんだかおれは島流しにでもなったような気がする。」

 と寛斎は言って、時には孤立のあまり、海の見える神奈川台へ登りに行った。坂になった道を登れば神奈川台の一角に出られる。目にある横浜もさびしかった。あるところは半農半漁の村民を移住させた町であり、あるところはうんじょうしょ(税関)を中心にほったてごやの並んだ新開の一区域であり、あるところは埋め立てとなわばりの始まったばかりのような畑とたんぼの中である。弁天のもりの向こうには、ところどころにぽつんぽつん立っている樹木が目につく。全体に湿っぽいところで、まだ新しい港の感じも浮かばない。

 長くは海もながめていられなくて、寛斎は逃げ帰るように自分のはたごやもどった。二階の窓で聞くからすの声も港に近い空を思わせる。その声は郷里にある妻や、子や、やがてはふるでしたちの方へ彼の心を誘った。

 古いきりの机がある。本が置いてある。そのそばには弟子たちが集まっている。馬籠本陣のむすこがいる。中津川いずみやの子息がいる。中津川本陣の子息も来ている。それは十余年前に三人の弟子の顔のよくそろった彼のへやの光景である。馬籠の青山半蔵、中津川のはちや香蔵、同じ町の浅見景蔵――あの三人を寛斎が戯れに三蔵と呼んで見るのを楽しみにしたほど、彼のもとへ本を読みにかよって来たかずかずの若者の中でも、末頼もしく思った弟子たちである。ことに香蔵は彼が妻の弟にあたるしんせきの間柄でもある。みんなどういう人になって行くかと見ている中にも、半蔵の一本気と正直さと来たら、一度これが自分らの行く道だと見さだめをつけたら、それを改めることも変えることもできないのが半蔵だ。

 考え続けて行くと、寛斎はそばにいない三人の弟子の前へ今の自分を持って行って、何か弁解せずにはいられないような矛盾した心持ちに打たれて来た。

「待てよ、いずれあの連中はおれのでかせぎを疑問にしているに相違ない。」



「金銀しからずといふは、例のからやうのいつわりにぞありける。」

 このだいせんだつの言葉、『玉かつま』の第十二章にあるもとおりのりながのこの言葉は、今の寛斎にとっては何より有力な味方だった。金もほしいと思いながら、それをほしくないようなことを言うのは、例の漢学者流の虚偽だと教えてあるのだ。

「だれだって金のほしくないものはない。」

 そこから寛斎のように中津川の商人について、横浜出稼ぎということも起こって来た。本居うしのような人にはきょしんたんかいというものがある。その人の前にはなんでも許される。しかし、血気さかんで、単純なものは、あの寛大な先達のように貧しい老人を許しそうもない。

 そういう寛斎は、本居、平田諸大人の歩いた道をたどって、早くも古代復帰の夢想をいだいたひとりである。この夢想は、京都を中心に頭を持ち上げて来た勤王家の新しい運動に結びつくべき運命のものであった。彼の教えた弟子の三人が三人とも、勤王家の運動に心を寄せているのも、実は彼がいた種だ。今度の大獄にれんざした人たちはいずれもそのかちゅうに立っていないものはない。その中には、六人の婦人さえまじっている。感じやすい半蔵らが郷里の方でどんな刺激を受けているかは、寛斎はそれを予想でありありと見ることができた。

 その時になって見ると、ふるい師匠と弟子との間にはすでによほどの隔たりがある。寛斎から見れば、半蔵らの学問はますます実行的な方向に動いて来ている。彼も自分の弟子を知らないではない。古代の日本人に見るような「おごころ」を振るい起こすべき時がやって来た、さもなくて、この国はじまって以来の一大危機とも言うべきこんなかんなんな時を歩めるものではないという弟子の心持ちもわかる。

 新たな外来の勢力、五か国も束になってやって来たヨーロッパの前に、はたしてこの国を解放したものかどうかのやかましい問題は、その時になってまだ日本国じゅうの頭痛の種になっていた。先入主となった黒船の強い印象は容易にこの国の人の心を去らない。横浜、長崎、はこだての三港を開いたことは井伊大老の専断であって、朝廷の許しを待ったものではない。京都の方面も騒がしくて、賢いみかどの心を悩ましていることも一通りでないと言い伝えられている。開港か、じょういか。これほど矛盾を含んだ言葉もない。また、これほど当時の人たちの悩みを言いあらわした言葉もない。前者を主張するものから見れば攘夷は実にがんしゅうもうはいであり、後者を主張するものから見れば開港は屈従そのものである。どうかして自分らのなかにあるものをまもり育てて行こうとしているような心ある人たちは、いずれもこの矛盾に苦しみ、時代の悩みを悩んでいたのだ。

 ぼたんやの裏二階からは、廊下のひさしに近く枝をさし延べているしいこずえが見える。寛斎はその静かな廊下に出て、ひとりで手をもんだ。

「おれも、平田門人の一人として、こんな恐ろしい大獄に無関心でいられるはずもない。しかし、おれには、あきらめというものができた。」



「さぞ、御退屈さまでございましょう。」

 そう言って、牡丹屋の年とったていしゅはよく寛斎を見に来る。東海道筋にあるこの神奈川の宿は、古いといえば古い家で、たばこぼんは古風な手さげのついたのを出し、大きなかしばちにはせんすがたはしいれを添えて出すような宿だ。でも、わざとらしいところは少しもなく、客扱いも親切だ。

 寛斎は日に幾たびとなく裏二階の廊下をったり来たりするうちに、目につくしいふぜいから手習いすることを思いついた。枝に枝のさした冬の木にながめ入っては、しきりと習字を始めた。そこへ宿の亭主が来て見て、

「オヤ、御用事のほかはめったにお出かけにならないと思いましたら、お手習いでございますか。」

「六十の手習いとはよく言ったものさね。」

「手前どもでも初めての孫が生まれまして、昨晩はしちやを祝いました。いろいろごだごだいたしました。さだめし、おやかましかろうと存じます。」

 こんな言葉も、この亭主の口から聞くと、ありふれた世辞とは響かなかった。横浜の海岸近くに大きなたまぐすがしげっている、世にやかましい神奈川条約はあの樹の下で結ばれたことなぞを語って見せるのも、この亭主だ。あの辺はこまがたすいじんもりと呼ばれるところで、たまぐすの枝には巣をかける白いからすがあるが、毎年冬の来るころになるとどこともなく飛び去ると言って見せるのも、この亭主だ。生糸の売り込みとはなんと言ってもよいところへ目をつけたものだ、外国貿易ももはや売ろうと買おうと勝手次第だ、それでも御紋付きの品々、雲上の明鑑、武鑑、兵学書、その他かっちゅう刀剣のたぐいは厳禁であると数えて見せるのも、この亭主だ。

 旧暦十二月のさむい日が来た。港の空には雪がちらついた。例のように寛斎は宿の机にむかって、遠く来ている思いを習字にまぎらわそうとしていた。そこへ江戸両国の十一屋から届いたと言って、宿の年とったかみさんが二通の手紙を持って来た。その時、かみさんは年老いた客をいたわり顔に、盆に載せたどんぶりしたから女中に運ばせた。見ると、寛斎の好きなうどんだ。

「うどんのごちそうですか。や、そいつはありがたい。」

「これはうでまして、それからダシで煮て見ました。お塩で味がつけてございます。これが一番さっぱりしているかと思いますが、一つ召し上がって見てください。」

「うどんとはよい物を造ってくだすった。わたしはお酒の方ですがね、寒い日にはこれがまた何よりですよ。」

「さあ、お口に合いますか、どうですか。手前どもではよくこれをこしらえまして、年寄りに食べさせます。」

 牡丹屋ではすべてこの調子だ。

 一通の手紙はきそから江戸を回って来たものだ。まごめの方にいるふしみやきんべえからのめずらしい消息だ。最愛のひとりむすこつるまつの死がその中に報じてある。鶴松も弱かった子だ。あの少年のからだは、医者としての寛斎もてよく知っている。馬籠の伏見屋からかごで迎いが来るたびに、寛斎は薬箱をさげて、みのしなのくにざかいにあたるじっきょくとうげをよく急いだものだ。筆まめな金兵衛はあの子が生前に寛斎の世話になった礼から始めて、どうかして助けられるものならの願いから、あらゆるかじきとうを試み、わざわざ多賀の大社まで代参のものをやって病気全快を祈らせたことや、あるいはこんぴらだいごんげんへ祈願のためにおちあいの大橋からみきたるを流させたことまで、くどくように書いてよこした。病気の手当ては言うまでもなく、寛斎留守中はおおがきの医者を頼み、おりから木曾路を通行するじゃくしゅうの典医、水戸姫君の典医にまですがって診察を受けさせたことも書いてよこした。とうとう養生もかなわなかったという金兵衛の残念がる様子が目に見えるように、その手紙の中にあらわれている。

 平素懇意にする金兵衛が六十三歳でこの打撃を受けたということは、寛斎にとってひとごととも思われない。今一通の手紙はふるいなじみのある老人から来た。それにはまた、筆に力もなく、言葉も短く、ことのほかに老い衰えたことを訴えて、生きているというばかりのような心細いことが書いてある。ただ、昔を思うたびに人恋しい、もはや生前に面会することもあるまいかと書いてある。「貴君には、いまだごおうじょうもなされずそうろうよし、」ともある。

「いまだ御往生もなされず候よしは、ひどい。」

 と考えて、寛斎はいていいか笑っていいかわからないようなその手紙の前に頭をたれた。

 寛斎の周囲にある旧知も次第にくなった。達者で働いているものは数えるほどしかない。今度十七歳の鶴松を先に立てた金兵衛、半蔵の父吉左衛門――指を折って見ると、そういう人たちはもはや幾人も残っていない。追い追いの無常の風に吹き立てられて、早く美濃へ逃げ帰りたいと思うところへ、横浜の方へは浪士来襲のうわさすら伝わって来た。



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 とうとう、寛斎は神奈川のはたごやで年を越した。彼の日課は開港場の商況を調べて、それを中津川の方へ報告することで、そのつどよろずやからの音信にも接したが、かんじんの安兵衛らはまだいつ神奈川へ出向いて来るともわからない。

 年もまんえん元年と改まるころには、日に日に横浜への移住者がふえた。寛斎が海をながめに神奈川台へ登って行って見ると、そのたびに港らしいにぎやかさが増している。弁天寄りの沼地は埋め立てられて、そこに貸し長屋ができ、外国人の借地を願い出るものが二、三十人にも及ぶと聞くようになった。吉田橋け替えの工事も始まっていて、神奈川から横浜の方へ通う渡し舟も見える。ある日も寛斎はようたしのついでに、神奈川台の上まで歩いたが、なんとなくのげやまかすんで見え、沖の向こうに姿をあらわしているかずさ辺のだんがいには遠い日があたって、さびしい新開地に春のめぐって来るのもそんなに遠いことではなかろうかと思われた。

 時には遠く海風を帆にうけて、あだかも夢のように、寛斎の視野のうちにはいって来るものがある。日本最初の使節を乗せたかんりんまるがアメリカへ向けて神奈川沖を通過した時だ。徳川幕府がオランダ政府からい入れたというその小さな軍艦は品川沖から出帆して来た。艦長木村せっつのかみ、指揮官かつりんたろうをはじめ、運用方、測量方から火夫水夫まで、一切西洋人の手を借りることなしに、オランダ人の伝習を受け初めてからようやく五年にしかならない航海術で、とにもかくにも大洋を乗り切ろうという日本人の大胆さは、寛斎を驚かした。さつまの沖で以前に難船して徳川政府の保護を受けていたアメリカの船員らも、咸臨丸で送りかえされるという。その軍艦は港の出入りに石炭をくばかり、航海中はただ風をたよりに運転せねばならないほどの小型のものであったから、煙も揚げずに神奈川沖を通過しただけが、いささか物足りなかった。大変な評判で、神奈川台の上には人の黒山を築いた。不案内な土地の方へ行くために、使節の一行は何千何百足のわらじを用意して行ったかしれないなぞといううわさがそのあとに残った。当時二十六、七歳の青年ふくざわゆきちが木村摂津守のお供という格で、その最初の航海に上って行ったといううわさなぞも残った。

 二月にはいって、寛斎は江戸両国十一屋の隠居から思いがけないたよりを受け取った。それには隠居が日ごろ出入りする幕府おくづめの医師を案内して、横浜見物に出向いて来るとある。その節は、よろしく頼むとある。



 旅の空で寛斎が待ち受けた珍客は、きたむらずいけんと言って、幕府奥詰の医師仲間でも製薬局の管理をしていた人である。汽船観光丸の試乗者募集のあった時、瑞見もその募りに応じようとしたが、時のおさじほうしににらまれて、けんせきを受け、えぞ移住を命ぜられたという閲歴をもった人である。この瑞見は二年ほど前に家をげ蝦夷の方に移って、はこだて開港地の監督なぞをしている。今度函館から江戸までちょっと出て来たついでに、新開の横浜をも見て行きたいというので、そのことを十一屋の隠居が通知してよこしたのだ。

 瑞見は供の男をひとり連れ、十一屋の隠居を案内にして、天気のよい日の夕方にぼたんやへ着いた。神奈川にはぶぎょうくみがしらもある、そういう役人の家よりもわざわざ牡丹屋のような古いはたごやを選んで微行で瑞見のやって来たことが寛斎をよろこばせた。あって見ると、思いのほか、年も若い。三十二、三ぐらいにしか見えない。

「きょうのお客さまは名高い人ですが、お目にかかって見ると、まだお若いかたのようですね。」

 と牡丹屋のていしゅが寛斎のそでを引いて言ったくらいだ。

 翌日は寛斎と牡丹屋の亭主とが先に立って、江戸から来た三人をまず神奈川台へ案内し、黒いやかたもんの木戸を通って、横浜道へ向かった。番所のあるところからのげやまの下へ出るには、内浦に沿うて岸を一回りせねばならぬ。ほどからの道がそこへ続いて来ている。野毛には奉行の屋敷があり、えちぜんの陣屋もある。そこから野毛橋を渡り、土手通りを過ぎて、仮の吉田橋からかんないにはいった。

「横浜もさびしいところですね。」

「わたしの来た時分には、これよりもっとさびしいところでした。」

 瑞見と寛斎とは歩きながら、こんな言葉をかわして、こうさつばの立つあたりから枯れがれな太田新田の間の新道を進んだ。

 瑞見は遠くえぞの方で採薬、薬園、病院、そすい、養蚕等の施設を早くもくろんでいる時で、函館の新開地にこの横浜を思い比べ、牡丹屋の亭主を顧みてはいろいろと土地の様子をきいた。当時の横浜関内は一羽のちょうのかたちにたとえられる。海岸へき出した二か所のはとばはその触角であり、中央の運上所付近はそのからだであり、本町通りと商館の許可地は左右のはねにあたる。一番左の端にある遊園で、樹木のしげった弁天のけいだいは、蝶の翅に置く唯一の美しいはんもんとも言われよう。しかしその翅の大部分はまだたんぼと沼地だ。そこには何か開港一番の思いつきででもあるかのように、およそ八千坪からの敷地から成る大規模な遊女屋の一郭もひらけつつある。横浜にはまだ市街の連絡もなかったから、一丁目ごとに名主を置き、名主の上に総年寄を置き、運上所わきの町会所で一切の用事を取り扱っていると語り聞かせるのも牡丹屋の亭主だ。

 やがて、その日同行した五人のものは横浜海岸通りの波止場に近いところへ出た。西洋の船にならって造った二本マストもしくは一本マストのほまえせんから、従来あったごだいりきの大船、種々な型の荷船、便船、いさぶね、小舟まで、あるいはていはくしたりあるいは動いたりしているごちゃごちゃとした光景が、からすの群れ飛ぶ港の空気と煙とを通してそこに望まれた。二か所の波止場、水先案内の職業、運上所で扱う税関と外交の港務などは、全く新しい港のために現われて来たもので、ちょうど入港した一そうの外国船も周囲の単調を破っている。

 その時、牡丹屋の亭主は波止場の位置から、向こうの山下の方角を瑞見や寛斎にさして見せ、旧横浜村の住民は九十戸ばかりのかまどげてそちらの方に退却を余儀なくされたと語った。それほどこの新開地に内外人の借地の請求がひんぱんとなって来た意味を通わせた。おおおかがわかわじりから増徳院わきへかけて、長さ五百八十間ばかりのほりかわかいさくも始まったことを語った。その波止場の位置まで行くと、海から吹いて来る風からして違う。しばらく瑞見は入港した外国船の方を望んだまま動かなかった。やがて、寛斎を顧みて、

「やっぱりよくできていますね。同じ汽船でも外国のはどこか違いますね。」

「喜多村先生のお供はかなわない。」とその時、十一屋の隠居がよこやりを入れた。

「どうしてさ。」

「いつまででも船なぞをながめていらっしゃるから。」

「しかし、十一屋さん、早くわれわれの国でもああいうよい船を造りたいじゃありませんか。今じゃさっしゅうでも、としゅうでも、えちぜんでも、二、三そうぐらいの汽船を持っていますよ。それがみんな外国から買った船ばかりでさ。十一屋さんはしょうへいまるという船のことをお聞きでしたろうか。あれは安政二年の夏に、薩州侯が三本マストの大船を一艘造らせて、それを献上したものでさ。幕府に三本マストの大船ができたのは、あれが初めてだと思います。ところが、どうでしょう。昌平丸を作る時分には、まだねじくぎを使うことを知らない。まっすぐなくぎばかりで造ったもんですから、おおあらしの来た年に、品川沖でばらばらに解けてこわれてしまいました。」

「先生はなかなかくわしい。」

「函館の方にだって、二本マストの帆前船がまだ二艘しかできていません。一艘は函館丸。もう一艘の船の方はかめだまるたかだやかへえの呼び寄せた人で、とよじという船大工があれを造りましたがね。」

「先生は函館で船の世話までなさるんですか。」

「まあ、そんなものでさ。でも、こんなやぶ医者にかかっちゃかなわないなんて、函館の方の人は皆そう言っていましょうよ。」

 この「藪医者」には、そばに立って聞いている寛斎もうなった。

 入港した外国船を迎え顔な西洋人なぞが、いつのまにか寛斎らの周囲に集まって来た。波止場にはくねんぼの店をひろげて売っているばあさんがある。そのかたわらに背中の子供をおろして休んでいる女がある。どうちゅうざしを一本腰にぶちこんで、わらじばきのまま、何かもとでのかからない商売でも見つけ顔に歩き回っている男もある。おもしろい丸帽をかぶり、べんぱつをたれ下げ、金入れらしい袋をしょいながら、上陸する船客を今か今かと待ち受けているようなシナ人のりょうがえしょうもある。

 見ると、じょうもんのついたふなじるしの旗を立てて、港の役人を乗せた船が外国船からぎ帰って来た。そのあとから、二、三のはしけが波に揺られながら岸の方へ近づいて来た。横浜とはどんなところかと内々想像して来たような目つきのもの、全くい立ちを異にし気質を異にしたようなもの、本国から来たもの、東洋の植民地の方から来たもの、それらの雑多な冒険家が無遠慮に海からおかへ上がって来た。いずれもいのちがけの西洋人ばかりだ。上陸するものの中にはまだひとりの婦人を見ない。中には、初めて日本の土を踏むと言いたそうに、連れの方を振り返るものもある。おじおいなぞの間柄かと見えて、迎えるものと迎えらるるものとが男同志互いに抱き合うのもある。そのふたりは、寛斎や瑞見の見ている前で、熱烈なほおずりをかわした。



 瑞見はなかなかトボケた人で、この横浜を見に来たよりも、実は牛肉の試食に来たと白状する。こんな注文を出す客のことで、あちこち引っぱり回されるのは迷惑らしい上に、案内者側の寛斎の方でもなるべく日のあるうちに神奈川へ帰りたかった。いつでも日の傾きかけるのを見ると、寛斎はみのの方の空を思い出したからで。

 横浜も海岸へ寄った方はすでに区画の整理ができ、新道はその間を貫いていて、町々のかどには必ず木戸を見る。帰りみちには、寛斎らは本町一丁目の通りを海岸の方へ取って、渡し場のあるところへ出た。そこから出る舟は神奈川の宮下というところへ着く。わざわざ野毛山の下の方を遠回りして帰って行かないでも済む。牡丹屋の亭主はその日の夕飯にと言って瑞見から注文のあった肉を横浜の町で買い求めて来て、それをさげながら一緒に神奈川行きの舟に移った。

「横浜もからすの多いところですね。」

えぞの方ではゴメです。海のかもめの一種です。あの鳴き声を聞くと、いかにも北海らしい気持ちが起こって来ますよ。そう言えば、この横浜にはもう外国の宣教師も来てるというじゃありませんか。」

「一人。」

「なんでも、神奈川の古いお寺を借りて、去年の秋から来ているアメリカ人があります。ブラウンといいましたっけか。横浜へ着いた最初の宣教師です。狭い土地ですからすぐ知れますね。」

「いったい、キリシタン宗は神奈川条約ではどういうことになりましょう。」

「そりゃ無論内地のものには許されない。ただ、宣教師がこっちへ来ている西洋人仲間に布教するのは自由だということになっていましょう。」

「神奈川へはアメリカの医者も一人来ていますよ。」

「ますます世の中は多事だ。」

 だれが語るともなく、だれが答えるともなく、こんな話が舟の中で出た。

 牡丹屋へ帰り着いてから、しばらく寛斎はひとり居る休息の時を持った。例の裏二階から表側の廊下へ出ると、神奈川の町の一部が見える。晩年の彼を待ち受けているような信州いなの豊かな谷と、現在の彼の位置との間には、まだよほどの隔たりがある。彼も最後の「隠れ」にたどり着くには、どんな寂しいみちでも踏まねばならない。それにしても、安政大獄以来の周囲にある空気の重苦しさは寛斎の心を不安にするばかりであった。ますます厳重になって行く町々の取り締まり方と、志士や浪人の気味の悪いこの沈黙とはどうだ。すでに直接行動に訴えたものすらある。前の年の七月の夜には横浜本町でふたりのロシヤの海軍士官が殺され、同じ年の十一月の夕にはこうざきまちのわきで仏国領事の雇い人が刺され、最近には本町一丁目と五丁目の間で船員と商人との二人のオランダ人が殺された。それほど横浜の夜は暗い。外国人の入り込む開港場へ海から何かうようにやって来るやみの恐ろしさは、それを経験したものでなければわからない。彼は瑞見のような人をめずらしく案内して、足もとの明るいうちに牡丹屋へ帰って来てよかったと考えた。

「お夕飯のおしたくができましてございます。」

 という女中に誘われて、寛斎もその晩は例になく庭に向いた階下の座敷へ降りた。瑞見や十一屋の隠居なぞとそこで一緒になった。

「喜多村先生や宮川先生の前ですが、横浜の遊女屋にはわたしもたまげました。」と言い出すのは十一屋だ。

「すこしはんじょうして来ますと、すぐその土地にできるものは飲食店と遊郭です。」と牡丹屋の亭主も夕飯時のあいさつに来て、あいづちを打つ。

 ぎゅうなべは庭で煮た。女中がしちりんを持ち出して、飛び石の上でそれを煮た。その鍋を座敷へ持ち込むことは、牡丹屋のおばあさんがどうしても承知しなかった。

「臭い、臭い。」

 奥の方では大騒ぎする声すら聞こえる。

「ここにも西洋ぎらいがあると見えますね。」

 と瑞見が笑うと、亭主はしきりに手をもんで、

「いえ、そういうわけでもございませんが、うちのお袋なぞはもう驚いております。牛のにおいがこもるのは困るなんて、しきりにそんなことを申しまして。この神奈川には、あなた、肉屋の前をけて通るような、そんな年寄りもございます。」

 その時、寛斎は自分でも好きな酒をはじめながら、瑞見の方を見ると、客も首を延ばし、なみなみとついである方へとがらしたくちびるを持って行くさかずきの持ち方からしてどうもただではないので、この人は話せると思った。

「こんな話がありますよ。」と瑞見は思い出したように、「あれはおととしの七月のことでしたか、エルジンというイギリスの使節が蒸汽船を一そう幕府に献上したいと言って、軍艦で下田から品川まで来ました。まあ品川の人たちとしてはせっかくの使節をもてなすという意味でしたろう。その翌日に、品川の遊女を多勢で軍艦まで押しかけさしたというものです。さすがに向こうでも面くらったと見えて、あとになっての言い草がいい。あれは何者だ、いったい日本人は自分の国の女をどう心得ているんだろうッて、いかにもイギリス人の言いそうなことじゃありませんか。」

「先生。」と十一屋はひざを乗り出した。「わたしはまたこういう話を聞いたことがあります。こっちの女が歯を染めたり、まゆを落としたりしているのを見ると、西洋人は非常にいやな気がするそうですね。ほんとうでしょうか。まあ、わたしたちから見ると、優しい風俗だと思いますがなあ。」

「気味悪く思うのはお互いでしょう。事情を知らない連中と来たら、いろいろなことをこじつけて、やれ幕府の上役のものは西洋人と結託しているの、なんのッて、悪口ばかり。さじょう、鎖攘(鎖港攘夷の略)――あの声はどうです。わたしに言わせると、幕府が鎖攘を知らないどころか、あんまり早く鎖攘し過ぎてしまった。ばんしょは禁じて読ませない、洋学者は遠ざけて近づけない、その方針をよいとしたばかりじゃありません、国内の人材まで鎖攘してしまった。御覧なさい、前には高橋作左衛門を鎖攘する。はぶげんせきを鎖攘する。後にはわたなべかざんたかのちょうえいを鎖攘する。その結果はと言うと、日本国じゅうを実にがんこなものにしちまいました。外国のことを言うのも恥だなんて思わせるようにまで――」

「先生、肉が煮えました。」

 と十一屋は瑞見の話をさえぎった。

 女中が白紙を一枚ずつ客へ配りに来た。肉を突ッついたはしはその紙に置いてもらいたいとの意味だ。煮えたぎゅうなべは庭から縁側の上へ移された。奥のへやに、牡丹屋の家の人たちがいる方では、しょうじをあけひろげるやら、こもった空気を追い出すやらの物音が聞こえる。十一屋はそれを聞きつけて、

「女中さん、そう言ってください。今にこちらのお婆さんでも、おかみさんでも、このにおいをかぐと飛んで来るようになりますよッて。」

 十一屋の言い草だ。

「どれ、わたしも一つくすりぐいとやるか。」

 と寛斎は言って、うまそうに煮えた肉のにおいをかいだ。好きな酒を前に、しばらく彼も一切を忘れていた。盃の相手には、こんな頼もしい人物も幕府方にあるかと思われるような客がいる。おまけに、初めて味わう肉もある。



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 当時、全国になみ打つような幕府非難の声からすれば、横浜や函館の港を開いたことは幕府の大失策である。東西人種の相違、道徳の相違、風俗習慣の相違から来るものを一概に未開野蛮として、人を食った態度で臨んで来るような西洋人に、そうやすやすとこの国の土を踏ませる法はない。開港が東照宮の遺志にそむくはおろか、朝廷尊崇の大義にすらもとると歯ぎしりをかむものがある。

 しかし、瑞見に言わせると、幕府のことほど世に誤り伝えられているものはない。開港の事情を知るには、神奈川条約の実際の起草者なるいわせひごのかみに行くに越したことはない。それにはまず幕府で監察(めつけ)の役を重んじたことを知ってかかる必要がある。

 監察とは何か。この役はろくもそう多くないし、位もそう高くない。しかし、諸司諸職に関係のないものはないくらいだから、きわめて権威がある。老中はじめ三奉行の重い役でも、監察の同意なしには事を決めることができない。どうかして意見のちがうのを顧みずに断行することがあると、監察は直接に将軍なり老中なりに面会して思うところを述べ立てても、それを止めることもできない。およそ人の昇進に何がうらやましがられるかと言って、監察の右に出るものはない。その人を得ると得ないとで一代の盛衰に関する役目であることもおもい知られよう。かえい年代、アメリカの軍艦が渡って来た日のように、外国関係の一大事変に当たっては、幕府の上のものも下のものも皆強い衝動を受けた。その衝動が非常なにんせんを行なわせた。人材をとうようしなければだめだということを教えたのも、またその刺激だ。従来親子共に役にいているものがあれば、子は賢くても父にえることはできなかったのがふるい規則だ。それを改めて、三人のものが監察にばってきせられた。その中のひとりが岩瀬肥後なのだ。

 岩瀬肥後は名をただなりといい、あざなを百里という。つきじに屋敷があったところから、号をせんしゅうとも言っている。心あるものはいずれもこの人を推して、幕府内での第一の人とした。たとえばオランダから観光船を贈って来た時にやたぼりけいぞうかつりんたろうなぞをこぶしんやくから抜いて、それぞれ航海の技術を学ばせたのも彼だ。しもそねきんざぶろうえがわたろうざえもんには西洋の砲術を訓練させる。みつくりげんぽすぎたげんたんにはばんしょとりしらべしょの教育を任せる。そういうたぐいのことはほとんど数えきれない。まつだいらかわちかわじさえもんおおくぼうこんみずのちくご、その他の長老でも同輩でも、いやしくも国事に尽くす志のあるものには誠意をもって親しく交わらないものはなかったくらいだ。各藩の有為な人物をもいて、身をもって時代に当たろうとしたのも彼だ。

 瑞見に言わせると、幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概にけとうじんと言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとしたもののさいしんと労力とは想像も及ばない。岩瀬肥後はそれを成した人だ。最初の米国領事ハリスが来航して、いよいよ和親貿易の交渉を始めようとした時、幕府の有司はみなしりごみして、一人としてしょって立とうとするものがない。皆手をこまねいて、岩瀬肥後を推した。そこで彼は一身を犠牲にする覚悟で、江戸と下田の間を往復して、数か月もかかった後にようやく草稿のできたのが安政の年の条約だ。

 草稿はできた。諸大名は江戸城に召集された。その時、井伊大老がで、和親貿易の避けがたいことを述べて、委細は監察の岩瀬肥後に述べさせるから、とくときいたあとで諸君各自の意見を述べられるようにと言った。そこで大老は退いて、彼が代わって諸大名の前に進み出た。その時の彼の声はよくとおり、言うこともはっきりしていて、だれ一人異議を唱えるものもない。いずれも時宜にかなった説だとして、よろこんで退出した。ところが数日後に諸大名各自の意見書を出すころになると、ことごとく前の日に言ったことをくつがえして、彼の説を破ろうとするものが出て来た。それは多く臣下の手に成ったものだ。君侯といえどもそれを制することができなかったのだ。そこで彼はみとの御隠居や、びしゅうの徳川よしかつや、松平しゅんがくなべしまかんそう、山内ようどうの諸公に説いて、協力して事に当たることを求めた。岩瀬肥後の名が高くなったのもそのころからだ。

 しかし、条約交渉の相手方なるヨーロッパ人が次第に態度を改めて来たことをも忘れてはならない。来るものも来るものも、皆ペリイのような態度の人ばかりではなかったのだ。アメリカ領事ハリス、その書記ヒュウスケン、イギリスの使節エルジン、その書記オリファント、これらの人たちはいずれも日本を知り、日本の国情というものをも認めた。中には、日本に来た最初の印象は思いがけない文明国の感じであったとさえ言った人もある。すべてこれらの事情は、岩瀬肥後のようにその局に当たった人以外には多く伝わらない。それにつけても、彼にはいろいろな逸話がある。彼があたまのよかった証拠には、イギリスの使節らが彼のそうめいさに驚いたというくらいだ。彼はイギリス人からきいた言葉を心覚えに自分のせんすに書きつけて置いて、その次ぎの会見のおりには、かなり正確にその英語を発音したという。イギリスの方では、また彼のすることを見て、日本の扇子は手帳にもなり、風を送るうつわにもなり、退屈な時の手慰みにもなると言ったという話もある。

 もともと水戸の御隠居はそうかたくなな人ではない。そんのうじょういという言葉は御隠居自身の筆に成る水戸弘道館の碑文から来ているくらいで、最初のうちこそ御隠居も外国に対しては、なんでも一つこらせという方にばかりこころざしを向けていたらしいが、だんだん岩瀬肥後の説を聞いて大いに悟られるところがあった。御隠居はもとより英明な生まれつきの人だから、こんにちの外国はいにしえいてきではないという彼の言葉に耳を傾けて、無謀の戦いはいたずらにこの国を害するに過ぎないことを回顧するようになった。その時、御隠居は彼に一つのたとえ話を告げた。ここに一人の美しい娘がある。その娘にしきりに結婚を求めるものがある。再三拒んで容易に許さない。男の心がますます動いて来た時になって、始めて許したら、そのふたりの愛情はかえってこまやかで、多情な人のすみやかに受けいれるものにはまさろうというのである。実際、あの御隠居がだんことして和親貿易の変更すべきでないことを彼に許した証拠には、こんな娘のたとえを語ったのを見てもわかる。御隠居がすでにこのとおり、外交のやむを得ないことを認めて、他の親藩にもとざまの大名にも説き勧めるくらいだ。それまで御隠居を動かしてさじょうの説を唱えた二人の幕僚、ふじたとうことだほうけんなどもとおみのきく御隠居の見識に服して、自分らの説を改めるようになった。そこへ安政の大地震が来た。一藩の指導者は二人とも圧死を遂げた。御隠居は一時にふたつの翼を失ったけれども、その老いた精神はますます明るいところへ出て行った。御隠居の長いしょうがいのうちでも岩瀬肥後にあったころは特別の時代で、御隠居自身の内部に起こって来た外国というものの考え直しもその時代に行なわれた。

 しかし、岩瀬肥後にとっては、彼が一生のつまずきになるほどの一大珍事がしゅったいした。十三代将軍(徳川いえさだ)は生来多病で、物言うことも滞りがちなくらいであった。どうしてもよいよつぎを定めねばならぬ。この多事な日に、内は諸藩の人心をしずめ、外は各国に応じて行かねばならぬ。徳川宗室を見渡したところ、その任に耐えそうなものは、ひとつばしよしのぶのほかにない。ことに一代の声望並ぶもののないような水戸の御隠居が現にその父親であるのだから、諸官一同申し合わせて、慶喜擁立のことを上請することになった。岩瀬肥後はその主唱者なのだ。水戸はもとより、京都方面まで異議のあろうはずもない。ところがこれには反対の説が出て、血統の近い紀州よしとみを立てるのが世襲伝来の精神から見て正しいと唱え出した。その声は大奥の深いすだれの内からも出、水戸の野心と陰謀を疑う大名有司の仲間からも出た。この形勢をみて取った岩瀬肥後は、血統の近いものを立てるという声を排斥して、年長で賢いものを立てるのがこんにちの急務であると力説し、老中ぶぎょうらもその説に賛成するものが多く、それを漏れ聞いた国内の有志者たちも皆大いに喜んで、太陽はこれから輝こうと言い合いながら、いずれもその時の来るのを待ち望んだ。意外にも、その上請をしないうちに、将軍はかっけにかかって、わずか五年を徳川十三代の一期として、にわかにこうきょした。岩瀬肥後の極力排斥したよしとみ擁立説がまた盛り返して来た日を迎えて見ると、そこに将軍の遺旨を奉じてち上がったのが井伊大老その人であったのだ。

 岩瀬肥後の政治しょうがいはその時を終わりとした。水戸の御隠居を始めとして、尾州、越前、土州の諸大名、およそへいぜい彼の説に賛成したものは皆江戸城に集まって大老と激しい議論があったが、大老は一切きき入れなかった。安政大獄の序幕はそこから切って落とされた。彼はもとより首唱の罪で、きびしいけんせきを受けた。しりぞけられ、すわらせられ、断わりなしに人とゆききすることすら禁ぜられた。その時の大老の言葉に、岩瀬輩がけいせんの身でありながら柱石たるわれわれをさし置いて、勝手に将軍の継嗣問題なぞを持ち出した。その罪は憎むべき大逆無道にも相当する。それでも極刑に処せられなかったのは、彼も日本国の平安をはかって、計画することが図に当たり、その尽力の功労はうずめられるものでもないから、非常な寛典を与えられたのであると。

 瑞見に言わせると、今度江戸へ出て来て見ても、水戸の御隠居はじめ大老と意見の合わないものはすべてしりぞけられている。諸司諸役ことごとく更替して、大老の家の子郎党ともいうべき人たちで占められている。驚くばかりさかんな大老の権威の前には、幕府内のものは皆へいそくして、足をかさねて立つ思いをしているほどだ。岩瀬肥後も今はむこうじまちっきょして、客にも会わず、号をおうしょと改めてわずかに好きな書画なぞに日々のさを慰めていると聞く。

「幕府のことはもはや語るに足るものがない。」

 と瑞見は嘆息して、その意味から言っても、罪せられた岩瀬肥後をあわれんだ。そういう瑞見は、彼自身も思いがけないけんせきを受けて、えぞ移住を命ぜられたのがすこし早かったばかりに、大獄事件の巻き添えを食わなかったというまでである。



 十一屋の隠居は瑞見よりもひとあし先に江戸の方へ帰って行った。瑞見の方は腹具合を悪くして、寛斎の介抱などを受けていたために、神奈川を立つのが二、三日おくれた。

 瑞見はえぞから同行して来た供の男を連れて、寛斎にもぼたんやていしゅにも別れを告げる時に言った。

「わたしもまたはこだての方へ行って、昼寝でもして来ます。」

 こんな言葉を残した。

 客を送り出して見ると、寛斎は一層さびしい日を暮らすようになった。毎晩のようにすいせいが空にあらわれて怪しい光を放つのは、あれは何かの前兆を語るものであろうなどと、人のうわさにろくなことはない。水戸藩へはまた秘密な勅旨が下った、その使者が幕府の厳重なたんていを避けるため、あんぎゃそうに姿を変えてこの東海道を通ったという流言なぞも伝わって来る。それを見て来たことのようにおもしろがって言い立てるものもある。じょういを意味する横浜襲撃が諸浪士によって企てられているとのうわさも絶えなかった。

 暖かい雨は幾たびか通り過ぎた。冬じゅうどこかへ飛び去っていた白いからすは、また横浜海岸に近いたまぐすへ帰って来る。旧暦三月の季節も近づいて来た。寛斎は中津川の商人らをしきりに待ち遠しく思った。例の売り込み商をたずねるたびに、貿易諸相場はうわねをたどっているとのことで、この調子で行けば生糸六十五匁か七十匁につき金一両の相場もあらわれようとの話が出る。ごうしゅう、甲州、あるいは信州いいだあたりの生糸商人も追い追い入り込んで来る模様があるから、なかなか油断はならないとの話もある。神奈川在留の外国商人――中にもイギリス人のケウスキイなどは横浜の将来を見込んで、率先して木造建築の商館なりと打ち建てたいとの意気込みでいるとの話もある。

よろずやさんも、だいぶごゆっくりでございますね。」

 と牡丹屋の亭主は寛斎を見に裏二階へ上がって来るたびに言った。

 三月三日の朝はめずらしい大雪が来た。寛斎が廊下に出てはながめるのを楽しみにするしいの枝なぞは、夜から降り積もる雪にされて、今にも折れそうなくらいに見える。牡丹屋では亭主の孫にあたるちいさな女の子のために初節句を祝うと言って、その雪の中で、白酒だまめいりだと女中までが大騒ぎだ。わりご弁当に重詰め、客ぶるまいさけさかなは旅に来ている寛斎のぜんにまでついた。

 その日一日、寛斎は椎の枝から溶け落ちる重い音を聞き暮らした。やがてその葉が雪にぬれて、かえって一層の輝きを見せるころには、江戸方面からの人のうわさがさくらだもん外の変事を伝えた。

 刺客およそ十七人、脱藩除籍の願書を藩邸に投げ込んでながいとまを告げたというから、浪人ではあるが、それらの水戸の侍たちが井伊大老の登城を待ち受けて、その首級をげた。この変事は人の口から口へと潜むように伝わって来た。刺客はいずれもざんかん主意書というをふところにしていたという。それには大老を殺害すべき理由を弁明してあったという。

「あの喜多村先生なぞがえぞの方で聞いたら、どんな気がするだろう。」

 と言って、思わず寛斎は宿の亭主と顔を見合わせた。

 井伊大老のおうしは絶対の秘密とされただけに、来たるべき時勢の変革を予想させるかのような底気味の悪い沈黙が周囲を支配した。首級を挙げられた大老をよく言う人は少ない。それほどの憎まれ者も、くなったあとになって見ると、やっぱり大きい人物であったと、一方には言い出した人もある。なるほど、生前の大老はとかくの評判のある人ではあったが、ただ、他人にまねのできなかったことが一つある。外国交渉のことにかけては、天朝の威をもおそれず、各藩の意見のためにも動かされず、断然として和親通商を許した上で、それから上奏の手続きを執った。この一事は天地もれない大罪を犯したように評するものが多いけれども、もしこの決断がなかったら、日本国はどうなったろう。軽く見積もって蝦夷はもとより、つしまいきも英米仏露の諸外国にき取られ、内地諸所のふとうは随意に占領され、その上にしょい切れないほどの重い償金を取られ、シナのどうこう時代の末のような姿になって、独立の体面はとても保たれなかったかもしれない。大老がこの至険至難をしのぎ切ったのは、この国にとっての大功と言わねばなるまい。こんなふうに言う人もあった。ともあれ、大老は徳川世襲伝来の精神をささえていただいこくばしらの倒れるように倒れて行った。このしらせを聞くひこね藩士の憤激、続いて起こって来そうな彦根と水戸両藩のかっとうは寛斎にも想像された。前途は実に測りがたかった。

 神奈川付近から横浜へかけての町々の警備は一層厳重をきわめるようになった。つるみの橋詰めにはすぎかくばしらおおぬきを通した関門が新たに建てられた。夜になると、神奈川にある二か所の関門も堅く閉ざされ、三つ所紋のわりばおりたっつけばかまもいかめしい番兵が三人の人足を先に立てて、外国諸領事のかぐうする寺々から、神奈川台の異人屋敷の方までも警戒した。町々は夜ふけて出歩く人も少なく、あたりをいましめる太鼓の音のみが聞こえた。



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 ようやく、その年のうるう三月を迎えるころになって、※〈[#「□<万」、屋号を示す記号、191-2]〉かくまん)とした生糸の荷がぽつぽつ寛斎のもとに届くようになった。寛斎は順に来るやつを預かって、適当にその始末をしたが、木曾街道の宿場宿場を経て江戸回りで届いた荷を見るたびに、中津川商人が出向いて来る日の近いことを思った。毎日のように何かの出来事を待ち受けさせるかのような、こんな不安な周囲の空気の中で、よくそれでも生糸の荷が無事に着いたとも思った。

 よろずややすべえが手代のかきちを連れて、みのの方を立って来たのは同じ月の下旬である。ふたりはやはり以前と同じ道筋を取って、江戸両国の十一屋泊まりで、旧暦四月にはいってから神奈川のぼたんやに着いた。

 にわかに寛斎のまわりもにぎやかになった。旅のおとざしを床の間に預ける安兵衛もいる。へやの片すみにきゃはんひもを解く嘉吉もいる。二人は寛斎の聞きたいと思う郷里の方の人たちの消息――彼の妻子の消息、彼の知人の消息、彼のふるでしたちの消息ばかりでなく、何かこう一口には言ってしまえないが、あの東美濃の盆地の方の空気までもなんとなく一緒に寛斎のところへ持って来た。

 寛斎がたったりすわったりしているそばで、嘉吉は働き盛りの手代らしい調子で、

「宮川先生も、ずいぶんお待ちになったでしょう。なにしろはるごの済まないうちは、どうすることもできませんでした。糸はでそろいませんし。」

 と言うと、安兵衛も寛斎をねぎらい顔に、

「いや、よくごしんぼうが続きましたよ。こんなに長くなるんでしたら、一度国の方へお帰りを願って、また出て来ていただいてもとは思いましたがね。」

 百里の道を往復して生糸商売でもしようという安兵衛には、さすがに思いやりがある。

「どうしても、だれかひとりこっちにいないことには、浜の事情もよくわかりませんし、人任せでは安心もなりませんし――やっぱり先生に残っていていただいてよかったと思いました。」

 とも安兵衛は言い添えた。

 やがてともしごろであった。三人は久しぶりで一緒に食事を済ました。町をいましめに来る太鼓の音が聞こえる。うるう三月のみそかまで隠されていた井伊大老の喪もすでに発表されたが、神奈川付近ではなかなか警戒の手をゆるめない。嘉吉は裏座敷から表側の廊下の方へ見に行った。じんがさをかぶって両刀を腰にした番兵の先には、ゆみはりぢょうちんを手にした二人の人足と、太鼓をたたいて回る一人の人足とが並んで通ったと言って、嘉吉は目を光らせながら寛斎のいるところへもどって来た。

「そう言えば、先生はすこし横浜のにおいがする。」

 と嘉吉が戯れて言い出した。

「ばかなことを言っちゃいけない。」

 この七か月ばかりの間、親しい人のだれの顔も見ず、だれの言葉も聞かないでいる寛斎が、どうして旅の日を暮らしたか。嘉吉の目がそれを言った。

「そんなら見せようか。」

 寛斎は笑って、毎日のように手習いしたほごあんどんのかげに取り出して来て見せた。過ぐる七か月は寛斎にとって、二年にも三年にも当たった。はたごやの裏二階から見えるしいの木よりほかにこの人の友とするものもなかった。その枝ぶりをながめながめするうちに、いつのまにか一変したと言ってもいいほどの彼の書体がそこにあった。

 寛斎は安兵衛にも嘉吉にも言った。

「去年の十月ごろから見ると、横浜も見ちがえるようになりましたよ。」



 糸目六十四匁につき金一両の割で、生糸の手合わせも順調に行なわれた。この手合わせは神奈川台の異人屋敷にあるケウスキイの仮宅で行なわれた。売り込み商と通弁の男とがそれに立ち合った。売り方ではぼたんやに泊まっている安兵衛も嘉吉も共に列席して、書類の調製は寛斎が引き受けた。

 ケウスキイはめったに笑わない男だが、その時だけは青いひとみの目にみをたたえて、

「自分は近く横浜の海岸通りに木造の二階屋を建てる。自分の同業者でこの神奈川に来ているものには、英国人バルベルがあり、米国人ホウルがある。しかし、自分はだれよりも先に、あの商館を完成して、そこにイギリス第一番の表札を掲げたい。」

 こういう意味のことを通弁に言わせた。

 その時、ケウスキイは「わかってくれたか」という顔つきをして、安兵衛にも嘉吉にも握手を求め、寛斎の方へも大きな手をさし出した。このイギリス人は寛斎の手を堅く握った。

「手合わせは済んだ。これから糸の引き渡しだ。」

 異人屋敷を出てから安兵衛がホッとしたようにそれを言い出すと、嘉吉も連れだって歩きながら、

だんな、それから、まだありますぜ。請け取った現金を国の方へ運ぶという仕事がありますぜ。」

「その事なら心配しなくてもいい。先生が引き受けていてくださる。」

「こいつがまた一仕事ですぞ。」

 寛斎は二人のあとから神奈川台の土を踏んで、一緒に海の見えるところへ行って立った。目に入るかぎり、ちょうど港は発展の最中だ。のげ町、とべ町なぞの埋め立てもでき、開港当時百一戸ばかりの横浜にどれほどの移住者が増したと言って見ることもできない。この横浜は来たる六月二日を期して、開港一周年を迎えようとしている。その記念には、弁天の祭礼をすら迎えようとしている。牡丹屋の亭主の話によると、みこしはもとより、だしてこまいくもひょうしまいなどいう手踊りの舞台まで張り出して、できるだけ盛んにその祭礼を迎えようとしている。だれがこの横浜開港をどう非難しようと、まるでそんなことはとんちゃくしないかのように、いったんヨーロッパの方へ向かって開いた港からは、世界のうしおが遠慮会釈なくどんどん流れ込むように見えて来た。らしゃとうざんかなきんはり、薬種、酒類なぞがそこからはいって来れば、生糸、漆器、製茶、水油、銅および銅器のたぐいなぞがそこから出て行って、かれしかれ東と西の交換がすでにすでに始まったように見えて来た。

 郷里の方に待ち受けている妻子のことも、寛斎の胸に浮かんで来た。彼の心は中津川の香蔵、景蔵、それからまごめの半蔵なぞのふるい三人のでしの方へも行った。あの血気さかんな人たちが、このむずかしい時をどう乗ッ切るだろうかとも思いやった。



 生糸売り上げの利得のうち、こばんで二千四百両の金を遠く中津川まで送り届けることが寛斎の手にゆだねられた。安兵衛、嘉吉の二人は神奈川に居残って、六月のころまで商売を続ける手はずであったからで。当時、金銀の運搬にはいろいろ難渋した話がある。するめ〈[#「魚+昜」、195-9]〉にくるんで乾物の荷と見せかけ、かろうじてごまはえの難をまぬかれた話もある。武州かわごえの商人はかごで夜道を急ごうとして、江戸へ出る途中でかごかきに襲われた話もある。五十両からの金を携帯する客となると、駕籠かきにはその重さでわかるという。こんな不便な時代に、寛斎は二千四百両からの金を預かって行かねばならない。貧しい彼はそれほどの金をかつて見たこともなかったくらいだ。

 寛斎は牡丹屋の二階にいた。その前へ来てすわって、手さげのついたたばこぼんから一服吸いつけたのが安兵衛だ。

「先生に引き受けていただいて、わたしも安心しました。この役を引き受けていただきたいばかりに、わざわざ先生を神奈川へお誘いして来たようなものですよ。」

 と安兵衛が白状した。

 しかし、これは安兵衛に言われるまでもなかった。もとより寛斎も承知の上で来たことだ。

 寛斎は前途百里の思いに胸のふさがるここちでたちあがった。迫り来る老年はもはやこの人の半身に上っていた。右の耳にはほとんどく力がなく、右の目のる力も左のほどにはきかなかった。彼はその衰えたからだを起こして、最後の「隠れ」にたどり着くための冒険に当たろうとした。その時、安兵衛は一人のさいりょうを彼のところへ連れて来た。

「先生、この人が一緒に行ってくれます。」

 見ると、荷物をまもって行くには屈強な男だ。千両箱の荷造りには嘉吉も来て手伝った。

 四月十日ごろには、寛斎は朝早くしたくをはじめ、旅のおとざしに身を堅めて、七か月のわびしいはたごやずまいに別れて行こうとする人であった。牡丹屋の亭主の計らいで、別れのさかずきなぞがそこへ運ばれた。安兵衛は寛斎の前にすわって、まず自分で一口飲んだ上で、そのかわらけを寛斎の方へ差した。この水盃は無量の思いでかわされた。

「さあ、いた。いた。」

 という声が起こった。廊下に立つ女中なぞの間を分けて、三つの荷が二階からはしごだんの下へ運ばれた。その荷造りした箱の一つ一つは、嘉吉と宿の男とが二人がかりでようやく持ち上がるほどの重さがあった。

「オヤ、もうお立ちでございますか。江戸はいずれ両国のお泊まりでございましょう。あの十一屋の隠居にも、どうかよろしくおっしゃってください。」

 と亭主も寛斎のところへあいさつに来た。

 馬荷一。それに寛斎と宰領とが付き添って、牡丹屋の門口を離れた。安兵衛や嘉吉はせめてしゅくはずれまで見送りたいと言って、一緒に滝の橋を渡り、オランダ領事館の国旗の出ている長延寺の前を通って、神奈川御台場の先までついて来た。

 その時になって見ると、郷里の方にいるふるでしたちのおもわくもしきりに寛斎の心にかかって来た。彼がひとあし踏み出したところは、ゆききするものの多い東海道だ。彼はろうおうの世を忍ぶふぜいで、とぼとぼとした荷馬のわらぐつ〈[#「くさかんむり/稾」、197-8]〉の音を聞きながら、遠く板橋回りで木曾街道に向かって行った。

〈[#改頁]〉


第五章


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 みやがわかんさいよろずやの主人と手代とをかながわに残して置いて帰国の途に上ったことは、早くみのの方へ知れた。中津川も狭い土地だから、それがすぐでし仲間の香蔵や景蔵の耳に入り、半蔵はまた三里ほど離れたきそまごめの方で、ふるい師匠が板橋方面から木曾街道を帰って来ることを知った。

 横浜開港の影響は諸国の街道筋にまであらわれて来るころだ。半蔵は馬籠の本陣にいて、すでに幾たびか銭相場引き上げの声を聞き、さらにまたこばん買いの声を聞くようになった。古二朱金、保字金なぞの当時に残存した古い金貨の買い占めは地方でも始まった。きのうは馬籠ますだやごうしゅう辺の買い手が来てたくわえ置きの保金小判を一両につき一両三分までに買い入れて行ったとか、きょうは中津川やまとやで百枚の保金小判を出して当時通用の新小判二百二十五両を請け取ったとか、そんなうわさが毎日のように半蔵の耳を打った。金一両で二両一分ずつの売買だ。それどころか、二両二分にも、三両にも買い求めるものがあらわれて来た。半蔵が家の隣に住んで昔かたぎで聞こえたふしみやきんべえなぞは驚いてしまって、まことに心ならぬ浮世ではある、こんな姿で子孫がはんじょうするならそれこそ大慶の至りだと皮肉を言ったり、この上どうなって行く世の中だろうと不安な語気をもらしたりした。

 半蔵が横浜貿易から帰って来る旧師を心待ちに待ち受けたのは、この地方の動揺の中だ。



 旅人を親切にもてなすことは、古い街道筋の住民が一朝一夕に養い得た気風でもない。しいの葉にいいを盛ると言った昔の人の旅情は彼らの忘れ得ぬ歌であり、路傍に立つ古いどうそじんは子供の時分から彼らに旅人愛護の精神をささやいている。いたるところにさんがくは重なり合い、河川はあふれやすい木曾のような土地に住むものは、ことにその心が深い。当時における旅行の困難を最もよく知るものは、そういう彼ら自身なのだ。まして半蔵にして見れば、以前に師匠と頼んだ人、平田入門の紹介までしてくれた人が神奈川から百里の道を踏んで、昼でも暗いような木曾の森林の間を遠く疲れて帰って来ようという旅だ。

 半蔵は旧師を待ち受ける心で、毎日のように街道へ出て見た。彼も隣宿つまご本陣のじゅへいじと一緒に、江戸からよこすかへかけての旅を終わって帰って来てから、もう足掛け三年になる。過ぐる年の大火のあとをうけて馬籠のしゅくもちょうど復興の最中であった。幸いに彼の家や隣家の伏見屋は類焼をまぬかれたが、町の向こう側はすっかり焼けて、まっ先にふしんのできたといやくだゆうの家も目に新しい。

 旧師の横浜でかせぎについては、これまでとても弟子たちの間に問題とされて来たことだ。どうかして晩節を全うするように、とは年老いた師匠のために半蔵らの願いとするところで、最初横浜行きのうわさを耳にした時に、弟子たちの間には寄り寄りその話が出た。わざわざ断わって行く必要もなかったと師匠に言われれば、それまでで、きにそのさたがなかったにしても、帰りにはなんとか話があろうと語り合っていた。すくなくも半蔵の心には、あの旧師が自分の家には立ち寄ってくれてせめて弟子だけにはいろいろな打ち明け話があるものと思っていた。

 四月の二十二日には、寛斎も例の馬荷一に宰領の付き添いで、片側に新しい家の並んだ馬籠の坂道を峠の方から下って来た。寛斎は伏見屋の門口に馬をめ、懇意な金兵衛方にくなったつるまつの悔やみを言い入れ、今度横浜を引き上げるについては二千四百両からの金を預かって来たこと、万屋安兵衛らの帰国はたぶん六月になろうということ、生糸売り上げも多分の利得のあること、開港場での小判の相場は三両二朱ぐらいには商いのできること、そんな話を金兵衛のところに残して置いて、せっかく待ち受けている半蔵の家へは立ち寄らずに、そこそこに中津川の方へ通り過ぎて行った。

 このことは後になって隣家から知れて来た。それを知った時の半蔵の手持ちぶさたもなかった。旧師を信ずる心の深いだけ、彼の失望も深かった。



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「どうも小判買いの入り込んで来るには驚きますね。今もわたしは馬籠へ来る途中で、おちあいでもそのうわさを聞いて来ましたよ。」

 こんな話をもって、中津川の香蔵が馬籠本陣をたずねるために、落合からじっきょくとうげの山道を登って来た。

 香蔵は、まだ家督相続もせずにいる半蔵と違い、すでに中津川の方の新しい問屋の主人である。十何年も前に弟子として、義理ある兄の寛斎にいたころから見ると、彼も今は男のさかりだ。三人の友だちの中でも、景蔵はとしうえで、香蔵はそれに次ぎ、半蔵が一番若かった。その半蔵がもはや三十にもなる。

 寛斎も今はなりきんだと戯れて見せるような友だちを前に置いて、半蔵は自分の居間としている本陣の店座敷で話した。

 銭相場引き上げに続いて急激な諸物価騰貴をひき起こした横浜貿易の取りざたほど半蔵らの心をいらいらさせるものもない。当時、国内に流通する小判、いちぶばんなどの異常に良質なことは、米国領事ハリスですら幕府に注意したくらいで、それらの古い金貨を輸出するものは法外な利を得た。幕府で新小判をちゅうぞうし、その品質を落としたのは、外国貨幣とつりあいを取るための応急手段であったが、それがかえって財界混乱の結果を招いたとも言える。そういう幕府には市場に流通する一切の古い金貨をしゅうしゅうして、それを改鋳するだけの能力も信用もなかったからで。新旧小判は同時に市場に行なわれるような日がやって来た。目先の利に走る内地商人と、この機会をとらえずには置かない外国商人とがしきりにその間にちょうりょうし始めた。純粋な小判はどしどし海の外へ出て行って、そのかわりに輸入せらるるものは多少のベイドル銀貨はあるとしても、多くは悪質な洋銀であると言われる。

「半蔵さん、君はあの小判買いの声をどう思います。」と香蔵は言った。「今までに君、九十万両ぐらいの小判は外国へ流れ出したと言いますよ。そうです、軽く見積もっても九十万両ですとさ。驚くじゃありませんか。まさか幕府の役人だって、異人の言うなりになってるわけでもありますまいがね、したくも何もなしに、いきなり港を開かせられてしまって、その結果はと言うと非常な物価騰貴です。そりゃ一部の人たちは横浜開港でもうけたかもしれませんが、一般の人民はこんなに生活に苦しむようになって来ましたぜ。」

 近づいて来る六月二日、その横浜開港一周年の記念日をむしろ屈辱の記念日として考えるものもあるような、さかんな排外熱は全国に巻き起こって来た。のあたりに多くのものの苦しみを見る半蔵らは、一概にそれを偏狭がんこなものの声とは考えられなかった。



「宮川先生のことは、もう何も言いますまい。」と半蔵が言い出した。「わたしたちの衷情としては、今までどおりの簡素清貧に甘んじていていただきたかったけれど。」

「国学者には君、国学者の立場もあろうじゃありませんか。それを捨てて、ただもうけさえすればよいというものでもないでしょう。」と言うのは香蔵だ。

「いったい、先生が横浜なぞへ出かけられる前に、相談してくださるとよかった。こんなにわたしたちを避けなくてもよさそうなものです。」

でかせぎの問題には触れてくれるなと言うんでしょう。」

 にわかな雨で、ふたりの話は途切れた。半蔵は店座敷の雨戸を繰って、それを一枚ほどめずに置き、しばらく友だちと二人で表庭にふりそそぐ強い雨をながめていた。そのうちに雨は座敷へ吹き込んで来る。しまいには雨戸もあけて置かれないようになった。

「お民。」

 と半蔵は妻を呼んだ。あかりなしには話も見えないほど座敷の内は暗かった。お民ももはや二十四で、二人子持ちの若い母だ。奥からあんどんを運んで来る彼女の後ろには、座敷の入り口までついて来て客の方をのぞく幼いものもある。

 時ならぬ行燈のかげで、半蔵と香蔵の二人は風雨の音をききながら旧師のことを語り合った。話せば話すほど二人はいろいろな心持ちを引き出されて行った。半蔵にしても香蔵にしても、はじめて古学というものに目をあけてもらった寛斎の温情を忘れずにいる。旧師も老いたとは考えても、その態度を責めるような心は二人とも持たなかった。いいだの在への隠退が旧師の晩年のためとあるなら、その人の幸福を乱したくないと言うのが半蔵だ。しんせきとしての関係はとにかく、旧師から離れて行こうと言い出すのが香蔵だ。

 国学者としての大きな先輩、もとおりのりながののこした仕事はこの半蔵らに一層光って見えるようになって来た。なんと言っても言葉のかぎを握ったことはあのうしの強味で、それが三十五年にわたる古事記の研究ともなり、健全な国民性を古代に発見する端緒ともなった。儒教という形であらわれて来ている北方シナの道徳、禅宗や道教の形であらわれて来ている南方シナの宗教――それらの異国の借り物をかなぐり捨て、一切の「からごころ」をかなぐり捨てて、ことあげということもさらになかった神ながらのいにしえの代に帰れと教えたのがうしだ。大人から見ると、何の道かの道ということは異国のさたで、いわゆる仁義礼譲孝てい忠信などというやかましい名をくさぐさ作り設けて、きびしく人間を縛りつけてしまった人たちのことを、もろこし方では聖人と呼んでいる。それを笑うために出て来た人があの大人だ。大人が古代の探求から見つけて来たものは、「なおびみたま」の精神で、その言うところをつづめて見ると、「おのずからに帰れ」と教えたことになる。より明るい世界への啓示も、古代復帰の夢想も、中世の否定も、人間の解放も、または大人のあの恋愛観も、物のあわれの説も、すべてそこから出発している。いせの国、いいだかごおりの民として、てんめいかんせいの年代にこんな人が生きていたということすら、半蔵らの心には一つの驚きである。早く夜明けを告げに生まれて来たような大人は、暗いこの世をあとから歩いて来るものの探るに任せて置いて、新しい世紀のやがてめぐって来るきょうわ元年の秋ごろにはすでに過去の人であった。半蔵らに言わせると、あのすずおきなこそ、「ちか」の人の父とも呼ばるべき人であった。

 香蔵は半蔵に言った。

「今になって、おもい当たる。宮川先生も君、あれで中津川あたりじゃ国学者のぎゅうじを執ると言われて来た人ですがね、年をとればとるほど漢学の方へもどって行かれるような気がする。先生には、まだまだ『からごころ』のぬけ切らないところがあるんですね。」

「香蔵さん、そう君に言われると、わたしなぞはなんと言っていいかわからない。四書五経から習い初めたものに、なかなか儒教のからはとれませんよ。」



 強雨はやまないばかりか、しきりに雲が騒いで、夕方まで休みなしに吹き通すような強風も出て来た。名古屋から福島行きの客でやむを得ず半蔵の家に一宿させてくれと言って来た人さえもある。

 香蔵もその晩は中津川の方へは帰れなかった。翌朝になって見ると、風は静まったが、天気は容易に回復しなかった。思いのほかの大荒れで、おくすじの道や橋は損じ、福島のけづけ(馬市)も日延べになったとの通知があるくらいだ。

 ちょうど半蔵の父、きちざえもんおわりはんからおかって仕法立ての件を頼まれて、名古屋出張中の留守の時であった。半蔵は家のいろりばたに香蔵を残して置いて、ちょっと会所の見回りに行って来たが、街道には旅人の通行もなかった。そこへ下男の佐吉もみのかさとでたんぼの見回りから帰って来て、中津川の大橋が流れせたとのうわさを伝えた。

「香蔵さん、大橋が落ちたと言いますぜ。もうすこし見合わせていたらどうです。」

「この雨にどうなりましょう。」と半蔵が継母のおまんもいろりばたへ来て言った。「いずれ中津川からお迎えの人も見えましょうに、それまで見合わせていらっしゃるがいい。まあ、そうなさい。」

 雨のために、やむなくとうりゅうする友だちを慰めようとして、やがて半蔵は囲炉裏ばたから奥のへやの方へ香蔵を誘った。北の坪庭に向いたところまで行って、雨戸をすこし繰って見せると、そこに本陣の上段の間がある。白地に黒く雲形を織り出したこうらいべりの畳の上には、雨の日の薄暗い光線がさし入っている。木曾路を通る諸大名が客間にあててあるのもそこだ。半蔵が横須賀の旅以来、過ぐる三年間の意味ある通行を数えて見ると、ひこねよりするいいかもんのかみ、江戸より老中まなべしもうさのかみはやしだいがくのかみ、監察いわせひごのかみ、等、等――それらのすでに横死したりまたは現存する幕府の人物で、あるいは大老就職のため江戸の任地へおもむこうとし、あるいは神奈川条約上奏のため京都へ急ごうとして、その客間に足をとどめて行ったことが、ありありとそこにたどられる。半蔵はそんな隠れたところにあるへやを友だちにのぞかせて、目まぐるしい「時」の歩みをちょっと振り返って見る気になった。

 その時、半蔵はからかみのそばに立っていた。わざと友だちが上段の間の床に注意するのを待っていた。そうしゅうみうら、横須賀在、くごうむらの方に住むやまがみしちろうざえもんから旅の記念にと贈られたこうりんの軸がその暗い壁のところに隠れていたのだ。

「香蔵さん、これがわたしの横須賀みやげですよ。」

「そう言えば、君の話にはよく横須賀が出る。これを贈ったかたがその御本家なんですね。」

つまごの本陣じゃ無銘の刀をもらう、わたしの家へはこの掛け物をもらって来ました。まったく、あの旅は忘れられない。あれからうちへ帰って来た日は、わたしはもう別の人でしたよ――まあ、自分のつもりじゃ、全く新規な生活を始めましたよ。」

 半日でも多く友だちを引き留めたくている半蔵には、その日の雨はやらずの雨と言ってよかった。彼はその足で、継母や妻の仕事部屋となっている仲の間のわきの廊下を通りぬけて、もう一度店座敷の方に友だちの席をつくり直した。

「どれ、香蔵さんに一つわたしのまずい歌をお目にかけますか。」

 と言って半蔵が友だちの前に取り出したのは、時事を詠じた歌の草稿だ。まだ若々しい筆で書いて、人にも見せずにしまって置いてあるものだ。

あめりかのどるをみくにのしろかねにひとしき品とさだめしやたれ

しろかねにかけておよばぬどるらるをひとしと思ひし人は誰ぞも

国つ物たかくうるともそのしろのいとやすかるを思ひはからで

ももやその物のことごとたかくうりてわれを富ますとおもひけるかな

土のごと山と掘りくるどるらるにみくにのたからかへまく惜しも

どるらるにかふるも悲しかみぐにの人のいとなみ造れるものを

どるらるの品のさだめはおおやしまくぬちあまねく問ふべかりしを

しろかねにいたくおとれるどるらるを知りてさておく世こそつたなき

国つ物足らずなりなばどるらるは山とつむとも何にかはせむ

 これらの歌に「どる」とか、「どるらる」とかあるのは、外国商人の手によりて輸入せらるる悪質なメキシコドル、ホンコンドルなどの洋銀をさす。それは民間に流通するよりも多く徳川幕府の手に入って、一分銀に改鋳せらるるというものである。

「わたしがこんな歌をつくったのはめずらしいでしょう。」と半蔵が言い出した。

「しかし、宮川先生のふるでし仲間では、半蔵さんは歌のめる人だと思っていましたよ。」と香蔵が答える。

「それがです、自分でも物になるかと思い初めたのは、横須賀の旅からです。あの旅が歌を引き出したんですね。詠んで見たら、自分にも詠める。」

「ほら、君が横須賀の旅から贈ってくだすったのがあるじゃありませんか。」

「でも、香蔵さん、うちおやじはいかいを楽しむのと、わたしが和歌を詠んで見たいと思うのとでは、だいぶその心持ちに相違があるんです。わたしはやはり、本居先生の歌にもとづいて、いくらかでもむかしの人のすなおな心に帰って行くために、詩を詠むと考えたいんです。それほど今の時世に生まれたものは、自然なものを失っていると思うんですが、どうでしょう。」

 半蔵らはすべてこの調子で踏み出して行こうとした。あの本居宣長ののこした教えを祖述するばかりでなく、それを極端にまで持って行って、実行への道をあけたところに、日ごろ半蔵らがいけいするひらたあつたねの不屈なきはくがある。半蔵らに言わせると、鈴の屋の翁にはなんと言っても天明寛政年代の人のかんかつさがある。そこへ行くと、いぶきやのうしは狭い人かもしれないが、しかしその迫りに迫って行った追求心が彼らの時代の人の心に近い。そこが平田派の学問の世に誤解されやすいところで、篤胤大人の上に及んだ幕府の迫害もはなはだしかった。『だいふそうこくこう』『こうちょうむきゅうれき』などの書かれるころになると、絶板を命ぜられるはおろか、著述することまで禁じられ、うしその人も郷里の秋田へ隠退を余儀なくされたが、しかし大人は六十八歳のしょうがいを終わるまで決して屈してはいなかった。同時代を見渡したところ、平田篤胤に比ぶべきほどの必死な学者は半蔵らの目に映って来なかった。

 五月も十日過ぎのことで、安政大獄当時に極刑に処せられたもののうち、あるものの忌日がやって来るような日を迎えて見ると、うめだうんぴん、吉田松陰、らいおうがいなぞの記憶がまた眼前の青葉と共に世人の胸にき返って来る。半蔵や香蔵は平田篤胤没後の門人として、あの先輩から学び得た心を抱いて、互いに革新潮流のうずの中へ行こうとこころざしていた。



 降りつづける五月の雨は友だちの足をとどめさせたばかりでなく、親しみを増させるなかだちともなった。半蔵には新たにひとりの弟子ができて、今は住み込みでここ本陣に来ていることも香蔵をよろこばせた。隣宿落合のいなばやむすこ、林かつしげというのがその少年の名だ。学問する機運に促されてか、馬籠本陣へかよって来る少年も多くある中で、勝重ほど末頼もしいものを見ない、と友だちに言って見せるのも半蔵だ。時には、勝重は勉強部屋の方から通って来て、半蔵と香蔵とがふたりで話しつづけているところへ用をききに顔を出す。短いはかまあさぎいろじゅばんえり、前髪をとったひたいごしにこちらを見る少年らしい目つきの若々しさは、半蔵らにもありし日のことを思い出させずには置かなかった。

「そうかなあ。自分らもあんなだったかなあ。わたしが弁当持ちで、宮川先生の家へ通い初めたのは、ちょうど今の勝重さんの年でしたよ。」

 と半蔵は友だちに言って見せた。

 そろそろ香蔵は中津川の家の方のことを心配し出した。強風強雨が来たあとの様子が追い追いわかって見ると、あらまちには風のために吹きつぶされた家もある。峠の村にも半つぶれの家があり、むねに打たれて即死した馬さえある。そこいらのはたけの麦が残らず倒れたなぞは、風あたりの強い馬籠峠の上にしてもめずらしいことだ。

 おまんは店座敷へ来て、

「香蔵さん、お宅の方でも御心配なすっていらっしゃるでしょうが、きょうお帰し申したんじゃ、わたしどもが心配です。うちの佐吉にふろでもかせますに、もう一日ごとうりゅうなすってください。年寄りの言うことをきいてください。」

 と言って勧めた。この継母がはいって来ると、半蔵は急にすわり直した。おまんの前では、くずしているひざでもすわり直すのが半蔵の癖のようになっていた。

「ごめんください。」

 と子供に言って見せる声がして、へやの敷居をまたごうとする幼いものを助けながら、そこへはいって来たのは半蔵の妻だ。娘のおくめは五つになるが、下にそうたという弟ができてから、にわかに姉さんらしい顔つきで、お民に連れられながら、客のところへ茶を運んで来た。一心に客の方をめがけて、茶をこぼすまいとしながら歩いて来るその様子も子供らしい。

「まあ、香蔵さん、見てやってください。」とおまんは言った。「お粂があなたのところへお茶を持ってまいりましたよ。」

「この子が自分で持って行くと言って、きかないんですもの。」とお民も笑った。

 半蔵の家では子供まで来て、雨に逗留する客をもてなした。

 とうとう香蔵は二晩も馬籠に泊まった。東みのからいなの谷へかけての平田門人らとも互いに連絡を取ること、場合によっては京都、名古屋にある同志のものを応援することを半蔵に約して置いて、三日目には香蔵は馬籠の本陣を辞した。

 友だちが帰って行ったあとになって見ると、半蔵は一層わびしい雨の日を山の上に送った。四日目になっても雨は降り続き、風もすこし吹いて、橋の損所や舞台の屋根を修繕するために村じゅう一軒にひとりずつは出た。あままというものがすこしもなく、雲行きは悪く、荒れ気味で安心がならなかった。村には長雨のために、壁がいたんだり、土の落ちたりした土蔵もある。五日目も雨、その日になると、がけになった塩沢あたりの道がぬける。香蔵が帰って行った中津川の方の大橋付近では三軒の人家が流失するという騒ぎだ。日に日に木曾川の水は増し、橋の通行もない。街道は往来止めだ。

 ようやく五月の十七日ごろになって、上り下りの旅人が動き出した。尾張藩のかんじょうぶぎょう、普請役おめつけにしこうりの奉行、いずれも江戸城本丸の建築用材をけんぶんのためとあって、この森林地帯へ入り込んで来る。美濃地方が風雨のために延引となっていた長崎御目付の通行がそのあとに続く。

「黒船騒ぎも、もうたくさんだ。」

 そう思っている半蔵は、また木曾人足百人、伊那のすけごう二百人を用意するほどの長崎御目付の通行を見せつけられた。遠く長崎の港の方には、新たにドイツの船がはいって来て、先着のヨーロッパ諸国と同じような通商貿易の許しを求めるために港内にていはくしているとのうわさもある。



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 七月を迎えるころには、寛斎は中津川の家を養子に譲り、住み慣れた美濃の盆地も見捨て、かねて老後のいんせいの地と定めて置いた信州伊那の谷の方へ移って行った。馬籠にはさびしく旧師を見送る半蔵が残った。

「いよいよ先生ともお別れか。」

 と半蔵は考えて、本陣の店座敷の戸にりながら、寛斎が引き移って行った谷の方へ思いをせた。隣宿つまごから伊那への通路にあたるせいないじには、平田門人として半蔵から見れば先輩の原のぶよしがある。みさかとうげかざこしとうげなぞのえな山脈一帯の地勢を隔てた伊那の谷の方には、いいだにも、大川原にも、やまぶきにも、座光寺にも平田同門の熱心な先輩を数えることができる。その中には、篤胤大人ひっせいの大著でまだ世に出なかった『古史伝』三十一巻のじょうぼくを思い立つ座光寺のきたはらいなおのような人がある。古学研究のむしろを開いて、先師遺著の輪講を思い立つ山吹のかたぎりしゅんいちのような人がある。年々かんろの節に入る日を会日と定め、金二分とか、金半分とかの会費を持ち寄って、地方にいて書籍を購読するための書籍講というものを思い立つものもある。

 半蔵の周囲には、驚くばかり急激な勢いで、平田派の学問が伊那地方の人たちの間にでんぱし初めた。飯田の在のとものという村には、五十歳を迎えてから先師没後の門人に加わり、婦人ながらに勤王の運動に身を投じようとするまつおたせこのような人も出て来た。おまけに、江戸には篤胤大人の祖述者をもって任ずる平田かねたねのようなよい相続者があって、地方にある門人らを指導することを忘れていなかった。一切の入門者がみな篤胤没後の門人として取り扱われた。決して鉄胤の門人とは見なされなかった。半蔵にして見ると、彼はこの伊那地方の人たちを東美濃の同志に結びつける中央の位置に自分を見いだしたのである。かものまぶちから本居宣長、本居宣長から平田篤胤と、諸大人のけ継ぎ承け継ぎして来たものを消えない学問のともしびにたとえるなら、彼は木曾のような深い山の中に住みながらも、一方には伊那の谷の方を望み、一方には親しい友だちのいる中津川から、落合、つけちくくり、大井、岩村、なえぎなぞの美濃の方にまで、あそこにも、ここにもと、その燈火を数えて見ることができた。



 当時の民間にあるしょうやたちは、次第にその位置を自覚し始めた。さしあたり半蔵としては、父きちざえもんから青山の家を譲られる日のことを考えて見て、その心じたくをする必要があった。吉左衛門と、隣家のきんべえとが、ふたりともそろって木曾福島の役所あてに退役願いを申し出たのも、その年、まんえん元年の夏のはじめであったからで。

 長いこと地方自治の一単位とも言うべき村方の世話から、交通輸送の要路にあたる街道一切の面倒まで見て、本陣問屋庄屋の三役を兼ねた吉左衛門と、年寄役の金兵衛とが二人ともようやく隠退を思うころは、吉左衛門はすでに六十二歳、金兵衛は六十四歳に達していた。もっとも、父の退役願いがすぐにきき届けられるか、どうかは、半蔵にもわからなかったが。

 時には、半蔵は村の見回りに行って、そこいらを出歩く父や金兵衛にあう。吉左衛門ももうつえなぞを手にして、新たに養子を迎えたおきさ(半蔵の異母妹)の新宅を見回りに行くような人だ。金兵衛は、と見ると、この隣人はたもとじゅずを入れ、かつては半蔵の教え子でもあったつるまつのことを忘れかねるというふうで、いはいじょこんりゅうするとか、もくぎょを寄付するとかに、何かにつけて村の寺道の方へ足を運ぼうとするような人だ。問屋の九太夫にもあう。

「九太夫さんも年を取ったなあ。」

 そうおもって見ると、金兵衛の家には美濃の大井から迎えたいのすけという養子ができ、九太夫の家にはすでにくろべえというあとつぎがある。

 半蔵は家にもどってからも、よくあたりを見回した。妻をも見て言った。

「お民、ことしか来年のうちには、お前も本陣のあねさまだぜ。」

「わかっていますよ。」

「お前にこの家がやれるかい。」

「そりゃ、わたしだって、やれないことはないと思いますよ。」

 先代の隠居半六から四十二歳で家督を譲られた父吉左衛門に比べると、半蔵の方はまだ十二年も若い。それでももう彼のそばには、お民のふところへ子供らしい手をさし入れて、ちぶさを探ろうとする宗太がいる。ほおの葉に包んでお民の与えた熱いしおむすびをうまそうにほおばるような年ごろのおくめがいる。

 半蔵は思い出したように、

「ごらん、うちおやじはことしで勤続二十一年だ、見習いとして働いた年を入れると、実際は三十七、八年にもなるだろう。あれでおじいさんもなかなかがんばっていて、本陣庄屋の仕事をおやじに任せていいとは容易に言わなかった。それほど大事を取る必要もあるんだね。おれなぞは、お前、十七のとしから見習いだぜ。しかし、おれはお前の兄さん(寿平次)のように事務の執れる人間じゃない。お大名を泊めた時の人数から、はたごちんがいくらで、しょくだいが何本と事細かに書き留めて置くような、そういうことに適した人間じゃない――おれは、こんなばかな男だ。」

「どうしてそんなことを言うんでしょう。」

「だからさ。今からそれをお前に断わって置く。お前の兄さんもおもしろいことを言ったよ。庄屋としては民意を代表するし、本陣問屋としては諸街道の交通事業に参加するとおもって見たまえ、とさ。しかし、おれも庄屋の子だ。平田先生の門人のひとりだ。まあ、おれはおれで、やれるところまでやって見る。」



「半蔵さま、福島からおさしがみ(呼び出し状)よなし。ここはどうしても、お前さまに出ていただかんけりゃならん。」

 村方のものがそんなことを言って、半蔵のところへやって来た。

 村民同志の草山の争いだ。いたるところに森林を見る山間の地勢で、草刈る場所も少ない土地を争うところから起こって来る境界のごたごただ。草山口論ということをつづめて、「さんろん」という言葉で通って来たほど、これまでとてもそのふんじょうは木曾山に絶えなかった。

 銭相場引き上げ、小判買い、横浜交易なぞの声につれて、一方には財界変動の機会に乗じ全盛をうたわるる成金もあると同時に、細民の苦しむこともおびただしい。米も高い。両に四斗五升もした。だいず二両三分、酒一升二百三十二文、豆腐一丁四十二文もした。しょしきがこのとおりだ。世間一統動揺して来ている中で、村民の心がそう静かにしていられるはずもなかった。山論までが露骨になって来た。

 しかし半蔵にとって、おおげさに言えば血で血を洗うような、こうした百姓同志の争いほど彼の心に深い悲しみを覚えさせるものもなかった。福島役所へのそしょうざたにまでなった山論――訴えた方は隣村湯舟沢の村民、訴えられた方は馬籠宿内の一部落にあたる峠村の百姓仲間である。山論がけんかになって、峠村のものがかま十五ちょうほど奪い取られたのは過ぐる年の夏のことで、いったんは馬籠の宿役人が仲裁に入り、示談になったはずの一年越しの事件だ。この争いは去年の二百二十日から九月の二十日ごろまで、およそ二か月にもわたった。そのおりには隣宿妻籠わきほんじんおうぎやとくえもんから、山口村のくみがしらまで立ち合いに来て、草山の境界を見分するために一同弁当持参で山登りをしたほどであった。ところが、湯舟沢村のものから不服が出て、その結果は福島の役所にまで持ち出されるほどもつれたのである。二人の百姓総代は峠村からも馬籠の下町からも福島に呼び出された。両人のものが役所に出頭して見ると、直ちににゅうろうを仰せ付けられて、やさわ送りとなった。福島からは別にさしがみが来て、年寄役付き添いの上、馬籠の庄屋に出頭せよとある。今は、半蔵もちゅうちょすべき時でない。

「お民、おれはおとっさんのみょうだいに、福島まで行って来る。」

 と妻に言って、彼は役所に出頭する時のはかまの用意なぞをさせた。自分でも着物を改めて、堅く帯をしめにかかった。



「どうもにんきが穏やかでない。」

 父、吉左衛門はそれを半蔵に言って、福島行きのしたくのできるのを待った。

 この父は自分の退役も近づいたという顔つきで、本陣の囲炉裏ばたに続いたくつろぎのの方へ行って、そのへやようだんすから馬籠湯舟沢両村の古い絵図なぞを取り出して来た。

「半蔵、これも一つの参考だ。」

 と言って子の前に置いた。


「双方入り合いの草刈り場所というものは、むずかしいよ。山論、山論で、そりゃ今までだってもずいぶんごたごたしたが、大抵は示談で済んで来たものだ。」

 とまた吉左衛門は軽く言って、早く不幸な入牢者を救えという意味を通わせた。

 湯舟沢の方の百姓は、くみがしらとも、都合八人のものが福島の役所に呼び出された。馬籠では、年寄役の儀助、同役よじえもん、それに峠の組頭平助がすでに福島へ向けて立って行った。なお、年寄役金兵衛のみょうだいとして、隣家の養子伊之助も半蔵のあとから出かけることになっている。草山口論も今はおおやけの場処に出て争おうとする御用の山論一条だ。

 これらの年寄役は互いに代わり合って、半蔵の付き添いとして行くことになったのだ。

「おれも退役願いを出したくらいだから、今度は顔を出すまいよ。」

 と父が言葉を添えるころには、峠の組頭平助が福島から引き返して、半蔵を迎えに来た。半蔵は平助の付き添いに力を得て、きゃはんわらじばきしりはしょりのかいがいしい姿になった。

 諸国には当時の厳禁なる百姓いっきも起こりつつあった。しかし半蔵は、村の長老たちが考えるようにそれを単なる農民のむほんとは見なせなかった。百姓一揆の処罰と言えば、軽いものはむちいれずみ、追い払い、重いものはえいろう、打ち首のような厳刑はありながら、進んでその苦痛を受けようとするほどの要求から動く百姓の誠実と、その犠牲的な精神とは、他の社会に見られないものである。当時の急務は、下民百姓を教えることではなくて、あべこべに下民百姓から教えられることであった。

「百姓にはことあげということもさらにない。今こそ草山の争いぐらいでこんな内輪げんかをしているが、もっと百姓の目をさます時が来る。」

 そう半蔵は考えて、庄屋としての父のみょうだいを勤めるために、福島の役所をさして出かけて行くことにした。

 家を離れてから、彼はそこにいない人たちに呼びかけるように、ひとり言って見た。

「同志打ちはよせ。今は、そんな時世じゃないぞ。」



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 十三日の後には、福島へ呼び出されたものも用済みになり、湯舟沢峠両村の百姓の間には和解が成り立った。

 八沢のろうやを出たもの、証人として福島の城下に滞在したもの、いずれも思い思いに帰村を急ぎつつあった。十四日目には、半蔵は隣家の伊之助と連れだって、峠の組頭平助とも一緒に、暑い木曾路を西に帰って来る人であった。

 福島からすはら泊まりで、山論和解の報告をもたらしながら、半蔵が自分の家の入り口まで引き返して来た時は、ちょうど門内の庭そうじに余念もない父を見た。

「半蔵が帰りましたよ。」

 おまんはだれよりも先に半蔵を見つけて、店座敷の前のぼたんの下あたりを掃いている吉左衛門にそれを告げた。

「おとっさん、行ってまいりました。」

 半蔵は表庭のなしの木の幹にかさを立てかけて置いて、汗をふいた。その時、簡単に、両村のものの和解をさせて来たあらましを父に告げた。双方入り合いの草刈り場所を定めたこと、新たにつちづかを築いて境界をはっきりさせること、もよりの百姓ばかりがその辺へはかまを入れることにして、一同福島から引き取って来たことを告げた。

「それはまあ、よかった。お前の帰りがおそいから心配していたよ。」

 と吉左衛門は庭のほうきを手にしたままで言った。

 もはや秋も立つ。馬籠あたりに住むものがきびしい暑さを口にするころに、そこいらのいしがきのそばではこおろぎが鳴いた。半蔵はその年の盆も福島の方で送って来て、さらに村民のために奔走しなければならないほどいそがしい思いをした。

 やがて両村立ち合いの上で、かねて争いの場処である草山に土塚をき立てる日が来た。半蔵は馬籠のそうやくにんと、百姓こまえのものを連れて、草いきれのする夏山の道をたどった。湯舟沢からは、庄屋、組頭四人、百姓全部で、両村のものを合わせるとおよそ二百人あまりの人数が境界の地点と定めた深い沢に集まった。

「そんなとろくさいことじゃ、だちかん。」

「うんと高く土を盛れ。」

 半蔵の周囲には、口々に言いののしる百姓の声が起こる。

 四つの土塚がその境界にき立てられることになった。あるものはほら先の大石へ見通し、あるものは向こう根の松の木へ見通しというふうに。そこいらが掘り返されるたびに、なまなましい土の臭気が半蔵の鼻をつく。工事が始まったのだ。両村の百姓は、やぶかの襲い来るのも忘れて、いずれも土塚の周囲に集合していた。

 その時、うしろから軽く半蔵の肩をたたくものがある。隣村つまごの庄屋として立ち合いに来た寿平次が笑いながらそこに立っていた。



「寿平次さん、泊まっていったらどうです。」

「いや、きょうは連れがあるから帰ります。二里ぐらいの夜道はわけありません。」

 半蔵と寿平次とがこんな言葉をかわすころは、山で日が暮れた。四番目の土塚を見分する時分には、たいまつをともして、ようやく見通しをつけたほど暗い。境界の中心と定めた樹木から、ある大石までの間に土手を掘る工事だけは、余儀なく翌日に延ばすことになった。

 雨にさまたげられた日を間に置いて、翌々日にはまた両村の百姓が同じ場所に集合した。半蔵は妻籠からやって来る寿平次と一緒になって、境界の土手を掘る工事にまで立ち合った。一年越しにらみ合っていた両村の百姓も、いよいよ双方得心ということになり、長い山論もその時になって解決を告げた。

 日暮れに近かった。半蔵は寿平次を誘いながら家路をさして帰って行った。横須賀の旅以来、二人は一層親しく往来する。義理あるきょうだいであるばかりでなく、やがて二人は新進の庄屋仲間でもある。

「半蔵さん、」と寿平次は石ころの多い山道を歩きながら言った。「すべてのものが露骨になって来ましたね。」

「さあねえ。」と半蔵が答えた。

「でも、半蔵さん、この山論はどうです。いや、草山の争いばかりじゃありません、見るもの聞くものが、実に露骨になって来ましたね。こないだも、みとろうにんだなんていう人がうちへやって来て、さんざん文句を並べたあげくに、何か書くから紙と筆を貸せと言い出しました。せんすを二本書かせたところが、酒を五合に、銭を百文、おまけにわらじ一足ねだられましたよ。さっそく追い出しました。あの浪人はぐでぐでに酔って、その足で扇屋へもぐずり込んで、とうとうとくえもんさんの家に寝込んでしまったそうですよ。見たまえ、この街道筋にもえらい事がありますぜ。長崎のおめつけがお下りで通行の日でさ。ながい様とかいう人の家来が、人足がおそいと言うんで、わたしの村の問屋と口論になって、都合五人で問屋を打ちすえました。あの時は木刀が折れて、問屋の頭には四か所もきずができました。やり方がすべて露骨じゃありませんか。君とふたりで相州の三浦へ出かけた時分さ――あのころには、まだこんなじゃありませんでしたよ。」



「お師匠さま。」

 ゆうやみの中に呼ぶ少年の声と共に、村の方からやって来るちょうちんが半蔵たちに近づいた。半蔵の家のものは帰りにおそくなるのを心配して、でしかつしげに下男の佐吉をつけ、途中まで迎えによこしたのだ。

 山の上の宿場らしいあかりが街道の両側にかがやくころに、半蔵らは馬籠の本陣に帰り着いた。家にはお民がふろを用意して、夫や兄を待ち受けているところだった。その晩は、寿平次も山登りの汗を洗い流して、半蔵のへやに来てくつろいだ。

「木曾ははえの多いところだが、かやらずに暮らせるのはいい。水の清いのと、涼しいのと、そのせいだろうかねえ。」

 と寿平次が兄らしく話しかけることも、お民をよろこばせた。

「お民、おっかさんに内証で、今夜はお酒を一本つけておくれ。」

 と半蔵は言った。その年になってもまだ彼は継母の前で酒をやることを遠慮している。どこまでも継母に仕えて身を慎もうとすることは、彼が少年の日からであって、努めに努めることは第二の天性のようになっている。彼は、経験に富む父よりも、賢い継母のおまんを恐れている。

 酒のさかなには、ひややっこ、薬味、しょうがあおじそ。それにきゅうりもみ、なすしんづけぐらいのところで、半蔵と寿平次とは涼しい風の来る店座敷の軒近いところに、めいめいぜんを控えた。

「ここへ来ると思い出すなあ。あの横須賀行きの半蔵さんを誘いに来て、一晩泊めていただいたのもこのへやですよ。」

「あの時分と見ると、江戸も変わったらしい。」

おおかわり。こないだも江戸みやげうちへ届けてくれた飛脚がありましてね、その人の話にはじょういろんが大変な勢いだそうですね。浪人は諸方に乱暴する、外国人は殺される、洋学者という洋学者は脅迫される。江戸市中のとうぶつやでは店をこわされる、実に物すごい世の中になりましたなんて、そんな話をして行きましたっけ。」

「表面だけ見れば、そういうこともあるかもしれません。」

「しかし、半蔵さん、こんなに攘夷なんてことを言い出すようになって来て――それこそ、ねこも、しゃくしもですよ――これで君、いいでしょうかね。」

 疲労を忘れる程度にさかずきを重ねたあとで、半蔵はちょっと座をたって、ひさしから外の方に夜の街道の空をながめた。田の草取りの季節らしい稲妻のひらめきが彼の目に映った。

「半蔵さん、攘夷なんていうことは、君の話によく出る『からごころ』ですよ。外国をいてきの国と考えてむやみに排斥するのは、やっぱりもろこしから教わったことじゃありませんか。」

「寿平次さんはなかなかえらいことを言う。」

「そりゃ君、こんにちの外国は昔のいてきの国とは違う。貿易も、交通も、世界の大勢で、やむを得ませんさ。わたしたちはもっとよく考えて、国を開いて行きたい。」

 その時、半蔵はもとの座にかえって、寿平次の前にすわり直した。

「あゝあゝ、変な流行だなあ。」と寿平次は言葉を継いで、やがて笑い出した。「なんぞというと、すぐに攘夷をかつぎ出す。半蔵さん。君のお仲間は今日流行の攘夷をどう思いますかさ。」

「流行なんて、そんな寿平次さんのように軽くは考えませんよ。君だってもこの社会の変動には悩んでいるんでしょう。良い小判はさらって行かれる、物価は高くなる、みんなの生活は苦しくなる――これが開港の結果だとすると、こんな排外熱の起こって来るのは無理もないじゃありませんか。」

 ふたりが時を忘れて話し込んでいるうちに、いつのまにか夜はふけて行った。酒はとっくにつめたくなり、どんぶりの中の水に冷やした豆腐もくずれた。



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 平田あつたね没後の門人らは、しきりに実行を思うころであった。いなの谷の方のだれ彼はしらかわ家を足だまりにして、京都のくげたちの間にゆうぜいを思い立つものがある。すでに出発したものもある。江戸在住の平田かねたねその人すら動きはじめたとの消息すらある。

 当時は井伊大老横死のあとをうけて、老中あんどうつしまのかみを幕府の中心とする時代である。だれが言い出したとも知れないような流言が伝わって来る。和学講談所(主としてゆうそくこじつを調査する所)のはなわ次郎という学者はひそかに安藤対馬の命を奉じてほうじょう氏廃帝の旧例を調査しているが、幕府方には尊王攘夷説の根源を断つために京都の主上をゆうし奉ろうとする大きな野心がある。こんな信じがたいほどの流言が伝わって来るころだ。当時の外国奉行ほりおりべの自殺も多くの人を驚かした。そのうわさもまた一つの流言を生んだ。安藤対馬はひそかに外国人と結託している。英国公使アールコックに自分のあいしょうまで与え許している、堀織部はそれをくかんしても用いられないので、やいばに伏してその意をいたしたというのだ。流言は一編の偽作の諫書にまでなって、漢文で世に行なわれた。堀織部の自殺をあわれむものが続々と出て来て、たむけの花や線香がその墓に絶えないというほどの時だ。

 だれもがこんな流言を疑い、また信じた。幕府の威信はすでに地をはらい、人心はすでに徳川を離れて、皇室再興の時期が到来したというような声は、血気さかんな若者たちの胸を打たずには置かなかった。

 その年の八月には、半蔵は名高いみとの御隠居(烈公)のこうきょをも知った。吉左衛門親子には間接な主人ながらに縁故の深い尾張藩主(徳川よしかつ)をはじめ、ひとつばしよしのぶまつだいらしゅんがくやまのうちようどう、その他安政大獄当時にゆうへいせられた諸大名も追い追いと謹慎を解かれる日を迎えたが、そういう中にあって、あの水戸の御隠居ばかりはえいちっきょを免ぜられたことも知らずじまいに、江戸こまごめの別邸ではらんの多いしょうがいを終わった。享年六十一歳。あだかも生前の政敵井伊大老のあとを追って、時代から沈んで行く夕日のように。

 半蔵が年上の友人、中津川本陣の景蔵は、伊那にある平田同門北原稲雄のしんせきで、また同門松尾たせことも縁つづきの間柄である。この人もしばらく京都の方に出て、平田門人としての立場から多少なりとも国事に奔走したいと言って、半蔵のところへもその相談があった。日ごろ謙譲な性質で、みょうもんを好まない景蔵のような友人ですらそうだ。こうなると半蔵もじっとしていられなかった。

 父は老い、街道も日に多事だ。本陣問屋庄屋の仕事はいやでもおうでも半蔵の肩にかかって来た。その年の十月十九日の夜にはまた、馬籠の宿は十六軒ほど焼けて、半蔵の生まれた古い家も一晩のうちに灰になった。隣家の伏見屋、本陣の新宅、皆焼け落ちた。風あたりの強い位置にある馬籠峠とは言いながら、三年のうちに二度の大火は、村としても深い打撃であった。



 翌ぶんきゅう元年の二月には、半蔵とお民は本陣の裏に焼け残った土蔵のなかに暮らしていた。土蔵の前にさしかけを造り、板がこいをして、急ごしらえのしたへっついを置いたところには、下女が炊事をしていた。土蔵に近く残ったみそなやの二階の方には、吉左衛門夫妻が孫たちを連れてかりずまいしていた。二間ほど座敷があって、かつて祖父半六が隠居所にあててあったのもその二階だ。その辺の石段を井戸の方へ降りたところから、木小屋、米倉なぞのあるあたりへかけては、火災をまぬかれた。そこには佐吉が働いていた。

 旧暦二月のことで、雪はまだ地にある。半蔵は仮のせっちんを出てから、焼け跡の方を歩いて、周囲を見回した。上段の間、奥の間、仲の間、次の間、くつろぎの間、店座敷、それから玄関先の広い板の間など、古い本陣のもやへや部屋は影も形もない。灰寄せの人夫が集まって、くぎや金物のたぐいを拾った焼け跡には、わずかに街道へ接したへいの一部だけが残った。

 さしあたりこの宿場になくてかなわないものは、会所(宿役人寄合所)だ。幸い九太夫の家は火災をまぬかれたので、仮に会所はそちらの方へ移してある。問屋場の事務も従来吉左衛門の家と九太夫の家とで半月交替に扱って来たが、これも一時九太夫方へ移してある。すべてがかりで、わびしく、落ち着かなかった。吉左衛門は半蔵に力を添えて、大工を呼べ、新しい母屋の絵図面を引けなどと言って、普請工事の下相談もすでに始まりかけているところであった。

 京都にあるみかどの妹君、かずのみやないしんのうが時の将軍(徳川いえもち)へ御降嫁とあって、とうさんどう御通行の触れ書が到来したのは、村ではこの大火後の取り込みの最中であった。

 宿役人一同、くみがしらまでが福島の役所から来た触れ書を前に置いて、はなし合わねばならないような時がやって来た。この相談には、持病のせきでこもりがちな金兵衛までが引っぱり出された。

 吉左衛門は味噌納屋の二階から、金兵衛は上の伏見屋のかりずまいから、いずれも仮の会所の方に集まった。その時、吉左衛門はふるい友だちを見て、

「金兵衛さん、馬籠の宿でも御通行筋の絵図面を差し出せとありますよ。」

 と言って、互いにひたいを集めた。

 本陣問屋庄屋としての仕事はこんなふうに、あとからあとからと半蔵の肩に重くかかって来た。彼は何をさし置いても、年取った父を助けて、西よりする和宮様の御一行をこの木曾路に迎えねばならなかった。

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第六章


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 かずのみやさま御降嫁のことがひとたび知れ渡ると、沿道の人民の間には非常な感動をよび起こした。従来、皇室と将軍家との間に結婚のさたのあったのは、前例のないことでもないが、種々な事情から成り立たなかった。それの実現されるようになったのは全く和宮様を初めとするという。おそらくこれは盛典としてもみぞう、京都から江戸への御通行としても未曾有のことであろうと言わるる。今度の御道筋にあたる宿々村々のものがこの御通行を拝しうるというは非常な光栄に相違なかった。

 きそだにしも四宿の宿役人としては、しかしただそれだけでは済まされなかった。彼らは一度は恐縮し、一度は当惑した。多年の経験が教えるように、この街道の輸送に役立つおてんまには限りがある。木曾谷中の人足を寄せ集めたところで、その数はおおよそ知れたものである。それにはどうしてもいな地方の村民を動かして、多数な人馬を用意し、この未曾有の大通行に備えなければならない。

 木曾街道六十九次の宿場はもはやかえい年度の宿場ではなかった。年老いた吉左衛門や金兵衛がいつまでも忘れかねているようなてんぽう年度のそれではもとよりなかった。いつまで伊那の百姓が道中奉行の言うなりになって、これほど大がかりな人馬の徴集に応ずるかどうかはすこぶる疑問であった。



 馬は四分より一ぴき出す。人足は五分よりひとり出す。人馬共に随分丈夫なものを出す。老年、若輩、それから弱馬などは決して出すまい。

 これは伊那地方の村民総代と木曾谷にある下四宿の宿役人との間に取りかわされたぶんか年度以来の契約である。馬の四分とか、人足の五分とかは、こくだかに応じてのぶあいをさして言うことであって、村々の人馬はその歩合によって割り当てを命じられて来た。もっともこの歩合は天保年度になって多少改められたが、人馬徴集の大体の方針には変わりがなかった。

 宿駅のことを知るには、このきびしい制度のあったことを知らねばならない。これは宿駅常置の御伝馬以外に、人馬を補充し、つぎたてを応援するために設けられたものであった。この制度がいわゆるすけごうだ。徳川政府の方針としては、宿駅付近の郷村にある百姓はみなこれに応ずる義務があるとしてあった。助郷は天下のこうえきで、進んでそのお触れ当てに応ずべきお定めのものとされていた。この課役を命ずるために、奉行は時に伊那地方を見分した。そして、助郷を勤めうる村々の石高を合計一万三百十一石六斗ほどに見積もり、それを各村に割り当てた。たとえば最も大きな村は千六十四石、最も小さな村は二十四石というふうに。てんりゅうがわのほとりに住む百姓三十一か村、後には六十五か村のものは、こんなふうにして彼らのくわを捨て、彼らの田園を離れ、伊那から木曾への通路にあたるかざこしやまの山道を越して、お触れ当てあるごとにこの労役に参加して来た。

 旅行も困難な時代であるとは言いながら、さんきんこうたいの諸大名、公用を帯びたおばんしゅうかたなぞの当時の通行が、いかに大げさのものであったかを忘れてはならない。徴集の命令のあるごとに、助郷を勤める村民は上下二組に分かれ、上組は木曾ののじりみどのの両宿へ、下組はつまごまごめの両宿へと出、交代に朝勤め夕勤めの義務に服して来た。もし天龍川の出水なぞで川西の村々にさしつかえの生じた時は、総助郷で出動するという堅い取りきめであった。徳川政府がこの伝馬制度を重くみた証拠には、直接にそれを道中奉行所の管理の下に置いたのでもわかる。奉行は各助郷に証人を兼ねるものを出勤させ、また、人馬の公用を保証するためには権威のある印鑑を造って、それを道中宿々にも助郷加宿にも送り、紛らわしいものもあらば押え置いてさっそく注進せよというほどに苦心した。いかんせん、百姓としては、御通行の多い季節がちょうど農業のいそがしいころにあたる。彼らは従順で、よく忍耐した。中にはそれでも困窮のあまり、山抜け、谷くずれ、出水なぞの口実にかこつけて、助郷不参の手段を執るような村々をさえ生じて来た。

 そこへ和宮様の御通行があるという。本来なら、これは東海道経由であるべきところだが、それが模様替えになって、木曾街道の方を選ぶことになった。東海道筋はすこぶる物騒で、志士浪人がみちに御東下を阻止するというような計画があると伝えられるからで。この際、奉行としては道中宿々と助郷加宿とに厳達し、どんな無理をしても人馬を調達させ、ぐぶの面々が西から続々殺到する日に備えねばならない。徳川政府の威信の実際にためさるるような日が、とうとうやって来た。



 寿平次は妻籠の本陣にいた。彼はその自宅の方で、伊那の助郷六十五か村の意向を探りに行ったおうぎやとくえもんの帰りを待ち受けていた。ちょうど、半蔵が妻のお民も、半年ぶりで実家のおばあさんを見るために、馬籠から着いた時だ。彼女はたまの里帰りという顔つきで、もやの台所口から広い裏庭づたいに兄のいるところへもちょっとあいさつに来た。

「来たね。」

 寿平次の挨拶は簡単だ。

 そこは裏山につづいたいなかふうな庭のいちぐうだ。寿平次は十間ばかりの矢場をそこに設け、粗末ながらに小屋を造りつけて、多忙な中にひまを見つけては弓術に余念もない。しょうやらしいはかまをつけ、かたはだぬぎになって、右の手にゆがけかわひもを巻きつけた兄をそんなところに見つけるのも、お民としてはめずらしいことだった。

 お民は持ち前の快活さで、

「兄さんも、のんきですね。弓なぞを始めたんですか。」

「いくらいそがしいたって、お前、弓ぐらいひかずにいられるかい。」

 寿平次は妹の見ている前で、一本の矢をつるに当てがった。おりから雨があがったあとの日をうけて、八寸ばかりのまとあづちの方に白く光って見える。

「半蔵さんも元気かい。」

 と妹に話しかけながら、彼は的に向かってねらいを定めた。その時、弦を離れた矢は的をはずれたので、彼はもう一本の方を試みたが、二本ともあづちの砂の中へ行ってめり込んだ。

 この寿平次は安土の方へ一手の矢を抜きに行って、また妹のいるところまで引き返して来る時に言った。

「お民、馬籠のおとっさん(吉左衛門)や、伏見屋の金兵衛さんの退役願いはどうなったい。」

「あの話は兄さん、おきき届けになりませんよ。」

「ほう。退役きき届けがたしか。いや、そういうこともあろう。」

 多事な街道のことも思い合わされて、寿平次はうなずいた。

「お民、お前も骨休めだ。まあ二、三日、妻籠で寝て行くさ。」

「兄さんの言うこと。」

 きょうだいがこんな話をしているところへ、つかつかと庭を回って伊那から帰ったばかりの顔を見せたのは、日ごろ勝手を知った得右衛門である。伊那でも有力な助郷総代を島田村や山村にたずねるのに、得右衛門はその適任者であるばかりでなく、妻籠わきほんじんの主人として、また、年寄役のひとりとして、寿平次の父が早くくなってからは何かにつけて彼のこうけんやくとなって来たのもこの得右衛門である。得右衛門の家で造り酒屋をしているのも、馬籠の伏見屋によく似ていた。

 寿平次はお民に目くばせして、そこを避けさせ、もやの方へ庭を回って行く妹を見送った。小屋の荒い壁には弓をたてかけるところもある。彼はゆがけひもを解いて、その隠れた静かな場所に気の置けない得右衛門を迎えた。

 得右衛門の報告は、寿平次が心配して待っていたとおりだった。伊那助郷が木曾にある下四宿の宿役人を通し、あるいは直接に奉行所にあてて愁訴を企てたのは、その日に始まったことでもない。三十一か村の助郷を六十五か村で分担するようになったのも、実は愁訴の結果であった。ずっと以前の例によると、助郷を勤める村々は五か年を平均して、人足だけでも一か年のこくだか百石につき、十七人二分三厘三毛ほどに当たる。しかしこれは天保年度のことで、助郷の負担は次第に重くなって来ている。ことに、黒船の渡って来た嘉永年代からは、諸大名公役らが通行もしげく、そのたびに徴集されてけんそな木曾路を往復することであるから、自然と人馬も疲れ、病人や死亡者を生じ、つぎたてにもさしつかえるような村々が出て来た。いったい、助郷人足が宿場の勤めは一日であっても、山を越して行くには前の日に村方を出て、その晩に宿場に着き、翌日勤め、継ぎ場の遠いところへ継ぎ送って宿場へ帰ると、どうしてもその晩は村方へ帰りがたい。一日の勤めに前後三日、どうかすると四日を費やし、あまつさえ泊まりの食物の入費も多く、折り返し使わるる途中でこづかいせんもかかり、その日に取った人馬賃銭はいくらも残らない。ことさら遠い村方ではこの労役にえがたく、問屋とも相談の上でお触れ当ての人馬を代銭で差し出すとなると、このぶせんがまたおびただしい高に上る。村々の痛みは一通りではない。なかなか宿駅常備の御伝馬ぐらいではおびただしい入用に不足するところから、助郷村々では人馬を多く差し出し、その勤めも続かなくなって来た。おまけに、しょしきは高く、農業にはおくれ、女や老人任せでたはたも荒れるばかり。こんなことで、どうして百姓の立つ瀬があろう。なんとかして村民の立ち行くように、宿方の役人たちにもよく考えて見てもらわないことには、助郷総代としても一同の不平をなだめる言葉がない。今度という今度は、容易にうけじょうも出しかねるというのが助郷側の言い分である。

「いや、おおやかまし。」と得右衛門は言葉をついだ。「そこをわたしがよく説き聞かせて、なんとかして皆の顔を立てる、お前たちばかりに働かしちゃ置かない。奉行所に願って、助郷を勤める村数を増すことにする。それに尾州藩だってこんな場合に黙って見ちゃいまい。その方からお手当ても出よう。こんな御通行は二度とはあるまいから、と言いましたところが、それじゃ村々のものを集めてよく相談して見ようと先方でも折れて出ましてね、そんな約束でわたしも別れて来ましたよ。」

「そいつはお骨折りでした。さっそく、奉行所あての願書を作ろうじゃありませんか。のじりみどのつまごまごめ、これだけの庄屋連名で出すことにしましょう。たぶん、半蔵さんもこれに賛成だろうと思います。」

「そうなさるがいい。今度わたしも伊那へ行って、つくづくそう思いました。徳川様の御威光というだけでは、百姓も言うことをきかなくなって来ましたよ。」

「そりゃ得右衛門さん、おそい。いったい、諸大名の行列はもっと省いてもいいものでしょう。そうすれば、助郷も助かる。参覲交代なぞはもう時世おくれだなんて言う人もありますよ。」

「こういう庄屋が出て来るんですからねえ。」

 その時、寿平次は「今一手」と言いたげに、小屋の壁にたてかけた弓を取りあげて、つるまつやにを塗っていた。それを見ると、得右衛門も思い出したように、

「伊那の方でもこれがおおはやり。武士が刀を質に入れて、庄屋の衆が弓をはじめるか。世の中も変わりましたね。」

「得右衛門さんはそう言うけれど、わたしはもっとからだを鍛えることを思いつきましたよ。ごらんなさい、こう乱脈な世の中になって来ては、蛮勇をふるい起こす必要がありますね。」

 寿平次は胸を張り、両手を高くさし延べながら、的に向かって深く息を吸い入れた。ゆんでの弓を押す力と、めての弦をひき絞る力とで、見る見る血潮は彼のほおに上り、腕の筋肉までが隆起して震えた。背こそ低いが、彼ももはや三十歳のさかりだ。馬籠の半蔵と競い合って、木曾の「やまざる」を発揮しようという年ごろだ。そのそばに立っていて、混ぜ返すような声をかけるのは、寿平次から見ればおじさんのような得右衛門である。

「ポツン。」

「そうはいかない。」



 とりあえず寿平次らは願書の草稿を作りにかかった。第一、伊那方面は当分たりともましすけごうにして、この急場を救い、あわせて百姓の負担を軽くしたい。次ぎに、御伝馬宿々については今回のごげこうのため人馬のつぎたかたかさむから、その手当てとして一宿へ金百両ずつを貸し渡されるよう。ただし十か年賦にして返納する。当時米穀も払底で、御伝馬を勤めるものは皆難渋の際であるから、右百両のきんすで、米、ひえ、大豆を買い入れ、人馬役のものへ割り渡したい。一か宿、米五十ひえ五十駄ずつの御救助を仰ぎたい。願書の主意はこれらのことに尽きていた。

 下書きはできた。やがて、下四宿の宿役人は妻籠本陣に寄り合うことになった。馬籠からは年寄役金兵衛の名代として、養子伊之助が来た。寿平次、得右衛門、得右衛門が養子のじつぞうもそれに列席した。

「当分のましすけごうしごくもっともだとは思いますが、これが前例になったらどんなものでしょう。」

「さあ、こんな御通行はもう二度とはありますまいからね。」

 宿役人の間にはいろいろな意見が出た。その時、得右衛門は伊那の助郷総代の意向を伝え、こんな願書を差し出すのもやむを得ないと述べ、前途のことまで心配している場合でないと力説した。

「どうです、願書はこれでいいとしようじゃありませんか。」

 と伊之助が言い出して、各庄屋の調印を求めようということになった。



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 例のように寿平次は弓を手にして、裏庭の矢場に隠れていた。彼の胸には木曾福島の役所から来た回状のことが繰り返されていた。それはかずのみやさまの御通行に関係はないが、当時諸国にやかましくなったしんそうさいの一条で、役所からその賛否の問い合わせが来たからで。

 しかし、「うん、神葬祭か」では、寿平次も済まされなかった。早い話が、義理あるきょうだいの半蔵は平田門人のひとりであり、この神葬祭の一条は平田派の国学者が起こした復古運動の一つであるらしいのだから。

「おれは、てっきり国学者の運動とにらんだ。ほんとに、あのお仲間は何をやり出すかわからん。」

 砂を盛り上げ的を置いたあづちのところと、十けんばかりの距離にある小屋との間を往復しながら、寿平次はひとり考えた。

 同時代に満足しないということにかけては、寿平次とても半蔵に劣らなかった。しかし人間の信仰と風俗習慣とに密接な関係のある葬祭のことを寺院から取りもどして、それを白紙に改めよとなると、寿平次は腕を組んでしまう。これは水戸のはいぶつきしゃくに一歩を進めたもので、言わば一種の宗教改革である。古代復帰を夢みる国学者仲間がこれほどの熱情をいだいて来たことすら、彼には実に不思議でならなかった。彼はひとり言って見た。

「まあ、神葬祭なぞは疑問だ。復古というようなことが、はたして今の時世に行なわれるものかどうかも疑問だ。どうも平田派のお仲間のする事には、何か矛盾がある。」



 まだ妹のお民が家にとうりゅうしていたので、寿平次は弓の道具を取りかたづけ、的もはずし、やがてそれをさげながら、自分の妻のおさとや妹のいる方へ行って一緒になろうとした。裏庭からもやの方へ引き返して行くと、店座敷のわきの板の間から、はたを織るおさの音が聞こえて来ている。

 寿平次の家も妻籠のおしろやまのように古い。土地の言い伝えにも毎月三八の日にはむらいちが立ったという昔の時代から続いて来ている青山の家だ。この家にふさわしいものの一つは、今のおばあさん(寿平次きょうだいの祖母)が嫁に来る前からあったというほど古めかしくび黒ずんだはたの道具だ。深い窓に住むほど女らしいとされていたころのことで、お里やお民はそのはたの置いてあるところに集まって、近づいて来る御通行のおうわさをしたり、十四代将軍(徳川いえもち)のみだいどころとして降嫁せらるるという和宮様はどんな美しいかただろうなぞと語り合ったりしているところだった。

 いくらかでも街道のひまな時を見て、手仕事を楽しもうとするこの女たちの世界は、寿平次の目にも楽しかった。織り手のお里は機に腰掛けている。お民はそのそばにいておなどしあによめがすることを見ている。周囲には、小娘のおくめも母親のお民に連れられて馬籠の方から来ていて、てまりの遊びなぞに余念もない。おばあさんはおばあさんで、すこしもじっとしていられないというふうで、あれもこしらえてお民に食わせたい、これも食わせたいと言いながら、何かにつけて孫が里帰りの日を楽しく送らせようとしている。

 その時、お民は兄の方を見て言った。

「兄さんは弓にばかり凝ってるッて、おばあさんがコボしていますよ。」

「おばあさんじゃないんだろう。お前たちがそんなことを言っているんだろう。おれもどうかしていると見えて、きょうの矢は一本も当たらない。そう言えば、半蔵さんは弓でも始めないかなあ。」

うちじゃ暇さえあれば本を読んだり、おでしを教えたりしですよ、男のかたもいろいろですねえ。兄さんは私たちの帯の世話までお焼きなさる方でしょう。うちと来たら、わたしが何を着ていたって、知りゃしません。」

「半蔵さんはそういう人らしい。」

 割合に無口なお里は織りかけたいなかじまの糸をしらべながら、このきょうだいの話に耳を傾けていた。お民は思い出したように、

「どれ、姉さん、わたしにもすこし織らせて。このはたを見ると、わたしは娘の時分が恋しくてなりませんよ。」

「でも、お民さんはそんなことをしていいんですか。」

 とお里に言われて、お民は思わず顔をあからめた。とかく多病で子供のないのをさみしそうにしているお里に比べると、お民の方はふとって、若い母親らしい肉づきを見せている。

「兄さんには、おわかりでしょう。」とお民はまた顔を染めながら言った。「わたしもからだの都合で、またしばらく妻籠へは来られないかもしれません。」

「お前たちはいいよ。結婚生活が順調に行ってる証拠だよ。おれのところをごらん、おれが悪いのか、お里が悪いのか、そこはわからないがね、六年にもなってまだ子供がない。おれはお前たちがうらやましい。」

 そこへおばあさんが来た。おばあさんは木曾の山の中にめずらしい横浜みやげを置いて行った人があると言って、それをお民のいるところへ取り出して来て見せた。

「これだよ。これはおせんたくする時に使うものだそうなが、使い方はこれをくれた人にもよくわからない。あんまり美しいものだから横浜の異人屋敷から買って来たと言って、いいだの商人が土産に置いて行ったよ。」

 せっけんという言葉もまだなかったほどの時だ。くれる飯田の商人も、もらう妻籠のおばあさんも、シャボンという名さえ知らなかった。おばあさんが紙の包みをあけて見せたものは、異国の花の形にできていて、薄桃色と白とある。

「御覧、よいにおいだこと。」

 とおばあさんに言われて、お民は目を細くしたが、第一そのにおいに驚かされた。

「おくめ、お前もかいでごらん。」

 お民がその白い方を女の子の鼻の先へ持って行くと、お粂はそれを奪い取るようにして、いきなり自分の口のところへ持って行こうとした。

「これは食べるものじゃないよ。」とお民はあわてて、娘の手を放させた。「まあ、この子は、お菓子と間違えてさ。」

 新しい異国のにおいは、そこにいるだれよりも寿平次の心を誘った。めずらしい花の形、横に浮き出している精巧なローマ文字――それはよく江戸みやげにもらうにしきえせったなぞの純日本のものにない美しさだ。実に偶然なことから、寿平次は西洋ぎらいでもなくなった。古銭をしゅうしゅうすることの好きな彼は、異国の銀貨を手に入れて、人知れずそれをあいがんするうちに、そんな古銭にまじる銀貨から西洋というものを想像するようになった。しかし彼はその事をだれにも隠している。

「これはどうして使うものだろうねえ。」とおばあさんはまたお民に言って見せた。「なんでも水に溶かすという話を聞いたから、わたしは一つ煮て見ましたよ。これが、お前、ぐるぐるなべの中で回って、そのうちに溶けてしまったよ。棒でかき回して見たら、すっかりあわになってさ。なんだかわたしは気味が悪くなって、鍋ぐるみ土の中へ埋めさせましたよ。ひょっとすると、これはおせんたくするものじゃないかもしれないね。」

「でも、わたしは初めてこんなものを見ました。おばあさんに一つ分けていただいて、馬籠の方へも持って行って見せましょう。」

 とお民が言う。

「そいつは、よした方がいい。」

 寿平次は兄らしい調子で妹を押しとどめた。

 文久元年の六月を迎えるころで、さかんな排外熱は全国の人の心をあおり立てるばかりであった。その年の五月には水戸藩浪士らによって、江戸たかなわとうぜんじにあるイギリス公使館の襲撃さえ行なわれたとのしらせもある。その時、水戸側で三人は闘死し、ひとりは縛にき、三人は品川でじじんしたという。東禅寺の衛兵で死傷するものが十四人もあり、一人の書記と長崎領事とは傷ついたともいう。これほどじょういの声も険しくなって来ている。どうして飯田の商人がくれた横浜土産の一つでも、うっかり家の外へは持ち出せなかった。



 お民が馬籠をさして帰って行く日には、寿平次も半蔵の父に用事があると言って、妹を送りながら一緒に行くことになった。彼にはいなすけごうの願書の件で、吉左衛門の調印を求める必要があった。のじりみどのはすでに調印を終わり、残るところは馬籠の庄屋のみとなったからで。

 ちょうど馬籠の本陣からは、下男の佐吉がお民を迎えに来た。佐吉はおくめを背中にのせ、後ろ手に幼いものを守るようにして、足の弱い女の子は自分が引き受けたという顔つきだ。お民もしたくができた。そこで出かけた。

「寿平次さま、横須賀行きを思い出すなし。」

 足掛け四年前の旅は、佐吉にも忘れられなかったのだ。

 寿平次が村のあるところは、大河の流れに近く、しずもあららぎの森林地帯にり、木曾の山中でも最も美しい谷の一つである。馬籠の方へ行くにはこの谷の入り口を後ろに見て、街道に沿いながら二里ばかりの峠を上る。めったに家を離れることのないお民が、兄と共に踏んで行くことを楽しみにするも、この山道だ。街道の両側は夏の日の林で、その奥は山また山だ。木曾山一帯を支配するおわりはんの役人が森林保護の目的で、禁止林の盗伐を監視するしらきの番所も、妻籠と馬籠の間に隠れている。

 午後の涼しい片影ができるころに、寿平次らは復興最中の馬籠にはいった。どっちを向いても火災後の宿場らしく、新築の工事は行く先に始まりかけている。そこに積み重ねた材木がある。ここに木をく音が聞こえる。寿平次らは本陣の焼け跡まで行って、そこに働いている吉左衛門と半蔵とを見つけた。小屋掛けをした普請場の木の香の中に。

 半蔵は寿平次に伴われて来た妻子をよろこび迎えた。会所の新築ができ上がったことをも寿平次に告げて、本陣の焼け跡のいちぐうに、以前と同じ街道に添うた位置に建てられたかわらぶきの家をさして見せた。会所ととなえる宿役人の詰め所、それにといやばなぞの新しい建物は、何よりもまずこの宿場になくてならないものだった。

 寿平次は半蔵の前に立って、あたりを見回しながら言った。

「よくそれでもこれだけに工事のしたくができたと思う。」

「みんな一生懸命になりましたからね。ここまでこぎつけたのも、そのおかげだと思いますね。」

 吉左衛門はこのふたりの話を引き取って、「三年のうちに二度も大火が来てごらん、たいていの村はまいってしまう。まあ、うちでも先月の三日にたてまえちょうなはじめをしたが、これでいしばづきのできるのは二百十日あたりになろう。かずのみやさまの御通行までには間に合いそうもない。」

 その時、寿平次が助郷願書の件で調印を求めに来たことを告げると、半蔵は「まあ、そこへ腰掛けるさ。」と言って、自分でも普請場の材木に腰掛ける。お民はそのそばを通り過ぎて、裏の立ちき場所にいるしゅうとめ(おまん)の方へと急いだ。

「寿平次さん、君はよいことをしてくれた。助郷のことは隣の伊之助さんからも聞きましたよ。おやじはもとより賛成です。」と半蔵が言う。

「さあ、これから先、助郷もどうなろう。」と吉左衛門も案じ顔に、「これが大問題だぞ。先月の二十二日、大坂のおめつけがお下りという時には、伊那の助郷が二百人出た。例幣使(日光への定例の勅使)の時のことを考えてごらん。あれは四月の六日だ。四百人も人足を出せと言われるのに、伊那からはだれも出て来ない。」

「結局、助郷というものは今のままじゃ無理でしょう。」と半蔵は言う。「宿場さえはんじょうすればいいなんて、そんなはずのものじゃないでしょう。なんとかして街道付近の百姓が成り立つようにも考えてやらなけりゃうそですね。」

「そりゃ馬籠じゃできるだけその方針でやって来たがね。結局、東海道あたりと同じように、じょうすけごうにでもするんだが、こいつがまた容易じゃあるまいて。」と吉左衛門が言って見せる。

「いったい、」と寿平次もその話を引き取って、「二百人の、四百人のッて、そう多勢の人足を通行のたびに出せと言うのが無理ですよ。」

「ですから、諸大名や公役の通行をもっと簡略にするんですね。」と半蔵が言葉をはさんだ。

「だんだんこういう時世になって来た。」と吉左衛門は感じ深そうに言った。「おれの思うには、さんきんこうたいということも今にどうかなるだろうよ。こう御通行がひんぱんにあるようになっちゃ、第一そうは諸藩の財政が許すまい。」

 しかし、その結果は。六十三年の年功を積んだ庄屋吉左衛門にも、それから先のことはなんとも言えなかった。その時、吉左衛門は普請場の仕事にすこし疲れが出たというふうで、

「まあ、寿平次さん、調印もしましょうし、お話も聞きましょうに、裏の二階へ来てください。おまんにもあってやってください。」と言って誘った。

 隠れたところに働く家族のさまが、この普請場の奥にひらけていた。みそなやの前にはたすきがけ手ぬぐいかぶりで、下女たちを相手に、見た目もすずしそうなしんなすけるおまんがいる。そのそばには二番目の宗太を抱いてやるお民がいる。おまんが漬け物おけの板の上で、茄子のへたを切って与えると、孫のお粂はさっそくそれを両足の親指のところにはさんで、茄子のへたを馬にして歩き戯れる。裏の木小屋の方からは、梅の実の色づいたのをもいで来て、それをお粂や宗太に分けてくれる佐吉もいる。



「おとっさん、あなたの退役願いはまだおきき届けにならないそうですね。」

「そうさ。退役きき届けがたしさ。」

 寿平次は吉左衛門のことを「おとっさん」と呼んでいる。その日の夕飯後のことで、一緒に食事した半蔵はちょっと会所の方へ行って来ると言って、父のそばにいなかった時だ。

「寿平次さん、」と吉左衛門は笑いながら言った。「うちへはその事でわざわざ公役が見えましてね、金兵衛さんと私を前に置いて、いろいろお話がありました。ふたりとも、せめてもう二、三年は勤めて、役をせいだせ、そう言われて、願書をお下げになりました。金兵衛さんなぞは、ありがたくおそれ奉って、引き下がって来たなんて、あとでその話が出ましたっけ。」

 そこは味噌納屋の二階だ。大火以来、吉左衛門夫婦が孫を連れてかりずまいしているところだ。寿平次はその遠慮から、夕飯のちそうになった礼を述べ、同じ焼け出された仲間でも上の伏見屋というもののある金兵衛の仮宅の方へ行って泊めてもらおうとした。

「どうもまだわたしも、おねんぐの納めどきが来ないと見えますよ。」

 と言いながら、吉左衛門ははしごだんの下まで寿平次を送りに降りた。夕方の空に光を放つ星のすがたを見つけて、それを何かの暗示に結びつけるように、寿平次にさして見せた。

ほうきぼしですよ。うまどしに北の方へ出たのも、あのとおりでしたよ。どうも年回りがよくないと見える。」

 この吉左衛門の言葉を聞き捨てて、寿平次は味噌納屋の前から同じ屋敷つづきの暗い石段を上った。月はまだ出なかったが、星があって涼しい。例の新築された会所のそばを通り過ぎようとすると、表にはいたびさしがあって、入り口のしょうじも明いている。寿平次は足をとめて、思わずハッとした。

「どうも半蔵さんばかりじゃなく、伊之助さんまでが賛成だとは意外だ。」

「でも結果から見て悪いと知ったことは、改めるのが至当ですよ。」

 こんな声が手に取るように聞こえる。宿役人の詰め所には人が集まると見えて、がもれている。何かがそこで言い争われている。

「そんなことで、先祖以来の祭り事を改めるという理由にはなりませんよ。」

「しかし、人の心を改めるには、どうしてもそのみなもとから改めてかからんことにはだめだと思いますね。」

「それは理屈だ。」

「そんなら、六十九人もの破戒僧がじゅずつなぎにされて、江戸のよしわらや、ふかがわや、品川しんじゅくのようなところへではいりするというかどで、あの日本橋でかおさらされた上に、一か寺の住職は島流しになるし、しょけの坊主は寺法によって罰せられたというのは。」

 神葬祭の一条に関する賛否の意見がそこに戦わされているのだ。賛成者は半蔵や伊之助のような若手で、不賛成を唱えるのは馬籠の問屋九太夫らしい。

「お寺とさえ言えば、むやみとありがたいところのように思って、昔からたくさんな土地を寄付したり、先祖のいはいを任せたり、宗門帳まで預けたりして、その結果はすこしもいて問わないんです。」とは半蔵の声だ。

「これは聞きものだ。」九太夫の声で。

 半蔵の意見にも相応の理由はある。彼に言わせると、あの聖徳太子が仏教をさかんにひろめたもうてからは、代々のみかどがみな法師を尊信し、だいじだいがらんを建てさせ、天下の財用を尽くして御信心があつかったが、しかし法師の方でその本分を尽くしてこれほどの国家の厚意に報いたとは見えない。あまつさえ、後には山法師などという手合いがひえ七社のみこしをかつぎ出して京都の市中を騒がし、あるいは大寺と大寺とが戦争して人を殺したり火を放ったりしたことは数え切れないほどある。平安期以来の皇族くげたちは多く仏門にきえせられ、しゅつせけんの道を願われ、ただただこの世を悲しまれるばかりであったから、救いのない人の心は次第に皇室を離れて、ことごとく武士の威力の前に屈服するようになった。今はこの国に仏寺も多く、ごしゅいんといい諸大名の寄付といって、寺領となっている土地も広大なものだ。そこに住む出家、