美濃国諸旧記/巻之七



尋ね来てあふちが許を宿るなり若葉の花のゆかりとやいふ
又一本の書に見えたるには、
あづけてぞ主がもとをば出づるなり若紫のはなのゆかりに
家信
杉原与左衛門へ
斯の如く詠じ給ひける。是れ大炊御門中納言家信卿と知られたり。夫より与左衛門は、釣月寺へ案内をなし奉り、直に又池田郡瑞岩寺の皇居の所迄、御供仕りけるにぞ、頓て主上にも聞召し叡感ありて、是より与左衛門を、其郷の頭となされて、杭瀬川を賜はりける。則其綸旨に曰、
去廿八日、勅使家信釣月登山之処、令㆓案内㆒之条御感不㆑斜。為㆓忠賞㆒株瀬川賜。天気仍如㆑件。
左中弁時光申
文和二酉七月七日 大膳大夫頼康取次
清水郷頭方へ
此時より、杭瀬川に関所を建て。川運上を取りしといふ。其後とても、清水は釣月の寺領なりしが、土岐左京大夫成頼の代よりして、漸く釣月寺も断絶に及びぬ。然れども、聊か印のみの庵室残りて、今長良村の岸に、釣月庵といふあり。扨又彼の杉原が綸旨といふは、与左衛門が子孫に伝はりて、与三右衛門といふ者、所持してありけるが、不慮に彼の与三右衛門乱心となりて、常に所々に出歩きけるに、然れども彼の綸旨を放さず、我が着たる簑の襟に括り付けて、人にも見せず持廻りぬ。或時、清水の隣郷 NDLJP:109】り居けるが、終に其火、簑に焼付きて、其身も、綸旨も焼亡しけるとなり。其写、清水村の江崎七郎兵衛・志那三右衛門等にありといへり。其後清水には、林七郎右衛門通兼住す。然る所、又程経て、斎藤道三の時代に至りては、其臣加納悦右衛門寛之といふ者、清水の山上に城を築きて居住しけるが、道三亡びて後、弘治三年の春、稲葉伊予守通朝、安八郡曽根の城より攻め来りて、大軍を以て押寄せ、一時に之を攻落しける。城将加納悦右衛門は生害す。其子武藤右衛門尉といひけるが、是より稲葉に降参して、後に又悦右衛門と改名し、通朝に仕へける。其以後、此山上の城は破却しける。其城跡は、今腰切山の上に形あり。又永禄八乙丑年三月、稲葉通朝は、清水の地に一城を築き、隠居城と号して是に住せり。居城曽根には、嫡子右京亮住せり。稲葉伊予守は、其後天正十八年の秋より、郡上郡八幡の城に移る。其跡清水へは、西尾豊後守の舎弟修理亮光国、一万石にて居住せり。然る所、慶長五年、関ヶ原の合戦の砌、西尾修理は、石田方に組せしに依つて、其科として、清水を召上げらるゝ。然れども舎兄豊後守は、関東に忠節を運びける故に、其武功に代へて、舎弟の刑罪御免ありて、豊後守に御預け仰付けられ、揖斐に入りて蟄居せり。然る間此時より、清水の城は断絶しける。今は其形堀の跡など相残りて、田所となり、俗呼びて、其所を城の内とも、又城屋敷ともいふなり。慶長五年の秋より、御蔵入領となり、林丹波守支配地となりぬ。此時清水に、覚林寺といふ一宇を建立ありて、清水の郷、残らず法華宗となしける。寛永八年より、岡田伊勢守の知行所となりて、夫より後は、代々岡田家の領分と相なりける。稲葉氏の略系、左に記す。
人皇八代孝元天皇御弟伊予親王と号す。〈孝霊天皇第三の皇子なり。〉
伊予親王より四十五代河野四郎通信十三代の孫河野弾正通直。
越智通直河野弾正忠遠江守──────── ──通実伊予守始名彦三郎通成と号す。────────────────────芸州竹原にて細川武蔵守頼之が為に生害す。─────┐
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└通高稲葉七郎刑部少輔始め予州の住人なり。後美濃国に入りて──────────────────────────土岐氏に随順せり。本巣郡軽海の城に住す。────────────┐
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├通以稲葉備中守法名元塵──────────本巣郡軽海の城に住す────────────────────────────┐
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【 NDLJP:110】 └通兼林七郎右衛門、後に左衛門尉といふ。大野郡清水の城主林氏の家督となるなり。────────────────────────────────────永徳三亥年五月生、嘉吉二戌年十月二日卒す。─┐│
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├通祐林左衛門尉、稲葉氏家督となるなり。 │
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└通村林佐渡守、後号駿河守、────┬────── ─通安林新左衛門尉───────────方県郡下土居村に住す。────────────┐│
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└通忠林新五郎──────────後に左近大夫といふ。───────────────────┐││
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└通政又政長ともいふ。林駿河守入道道慶本巣郡十七条村の城主なり。───────────────────────────────元亀三申年十月廿五日卒す。法名寿昌院前駿州大守月郎宗伯大居士。─────┐││
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├長政林玄蕃亮、始名市之助といふ。 甲州勢と夜合戦にて討死。 ││
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├正三林宗兵衛、十七条落去の後は稲葉伊予守良通に仕へ老臣となる。─────────────────────────────故に其後氏を受けて稲葉と名乗るなり。───────┐││
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└女子江州の住人鯰江左近大夫綱房室といへり。 │││
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└正成
始め林市助といふ。後に稲葉佐渡守といふなり。濃州を出でて後、筑前の国主小───────────────────────────────────早川中納言金吾秀秋に仕へたり。正成の妻は、斎藤内蔵助利三の娘にして、おふ
くといふなり。後に此妻は江戸将軍の御乳母に召出され、春日の局といふなり。─┐││
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├女子堀田勘左衛門正利の室なり。秀秋家臣たり。 母は斎藤内蔵助利三の娘なり ││
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├正次稲葉八左衛門 └通安子通勝─ 林佐渡守──── ───────────┐│
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├正勝稲葉宇右衛門、後改丹後守。 子正勝の美濃守正則七万石に召出さる。└通豊
林佐渡守、尾州知多に住す。織田備後────────────────守信秀其子信長に仕へ老臣となる。
後に信長の意に違ひ追放せられ畢。┐│
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├正定同七之丞 └通国林新之丞 │
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├正利内記。正利の子は堀田勘左衛門養子とな り、徳川家より召出され七万石を領す。 │
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├正房稲葉出雲守 │
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└正吉同伊勢守 │
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└通以子通富─ 稲葉伊予守法名塩塵、加茂郡─────────────御座野村遠見山の城に住す──通則稲葉備中守、始の名右京亮、郡上郡下田───────────────────の城主なり。永正年中牧田合戦に討死す。─┐
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├通勝稲葉右京亮
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├通房宮内少輔
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├通朝刑部少輔
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├通豊四郎兵衛
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├通広又五郎 右兄弟五人父と同時に討死す
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└通朝彦六郎伊予守入道一鉄斎、後良通と改む。慶長六辛丑年十一月廿四日卒す。法名清光院殿 予州大守三品法印一鉄宗勢居士、石碑清水の北長良の月桂院にあり

〈又は、郡上郡ともいふ〉粥川村の辺に居住の由、天暦年中に、武儀郡洞戸村の山中の悪魔を退治して、粥川の辺に帰り、太刀・長刀の血を洗ひ、悪鬼の骸を、其所に埋めけるとぞ。是よりして、粥川を、赤瀬川といふといへり。其子を藤原長勝といふ。後には安八郡中川村に住す。是れ林・稲葉の元祖なりといへり。然れども時代遥に隔ちたる事故に、其慥なることを知らずと云々。また林と名乗ることは、安八郡林といふ所に住せし故に、其在名なりといふなり。然れども是れ又、其由来詳なる事を知らず。稲葉元塵の老国記に曰く、我館は、糸貫・六種の二川を請けて、要害にすと記せり。本巣郡軽海村の城主故なり。其後、応仁二子年、加茂郡御座野村の遠見山に要害を構へて、是に移住せり。総じて子孫繁昌して、所々に住せり。又稲葉備中守通則は、郡上郡下田の城主なり。今の北辰寺山に城跡あり。又林の先祖、中頃武儀郡山中村に住居するの由。林駿河入道道慶も、武儀郡に居城あり。其後、川手の領下といふ所に、屋敷を構へて住すといへり。其外、林主水・林主馬・林外記・林右衛門佐・林忠助・林新九郎とて、歴々の一族多し。扨又稲葉備中守通則に、六人の子あり。長男右京亮通勝・二男宮内少輔通房・三男刑部少輔通明・四男四郎兵衛通豊・五男又五郎通広・六男彦六郎通朝なり。然るに濃州牧田合戦に、稲葉通則并子息五人共に討死す。六男彦六郎は、岐阜長良の崇福寺にて出家して、崇福寺の喝食と申してありけるが、父兄討死の後還俗して、伊予守通朝と名乗りける。性質勇猛絶倫にして武功あり。先代より相続いて、土岐氏の旧臣なり。通朝は、始め土岐左京大夫頼芸に仕へ、頼芸落去の後、暫く【 NDLJP:113】道三に伏し、而して後、一色左京大夫義龍、其子斎藤右兵衛大夫龍興に随身し永禄十一年より、変心をなして斎藤を背き、織田信長に仕ふ。信長生害の後は、羽柴秀吉に属したりぬ。始は郡上郡下田の城に住し、天文廿一壬子年八月、安八郡曽根村に一城を築きて、是に移り住しぬ。其後、弘治三年の春、大野郡清水を攻取りて、是より此所に在住す。信長生害の後には、又方県郡郷渡の城を攻取り、城主井戸十郎を追出し、三男左京・四男勘右衛門を入置きぬ。二男彦六兵衛重通は、曽根に住す。一説に曰、一鉄斎は、天正十六年巳十一月十九日卒去といへり。然れども誤なるべし。其故は、慶長五年、関ヶ原合戦の砌、一鉄斎八十有余にて、郡上の城にありて、犬山勢と戦ひし事あるの故なり。然るに一鉄斎は、勇猛の剛将たるの故に、生涯の内には、不義不仁の事共多かりけるとなり。傍友安藤伊賀守、信長の意に違ひ、居城鏡島を改易せられ、濃州を追放の砌、稲葉は、郎等をして鏡島に遣し、狼藉をさせしなどの事共、以の外の不道なり。夫故に、其臣斎藤内蔵助利一・那波和泉守等之を憎みて、稲葉の家を出でて、明智光秀に仕へし事などあり。其外斎藤を背きて、織田家に身を寄せし事も、天下国家の為と雖も、実は非義の振舞なり。而して天正九年の正月元日、揖斐光親を攻落し、是よりして発心せしと云々。三代相恩の主君の連枝を追落しぬる事、本意にあらずと思ひて、入道して一鉄斎と号しける。されば其後よりは、善道を行ひけるといへり。其故にや、天正十年の夏なりしが、当国先の大守土岐頼芸は、斎藤道三が為に国を奪はれ、零落の身となりて、其節は上総の国海喜といふ所に、蟄居しておはしけるが、此人先年より、眼病を受けて悩み煩ひ、後には盲人となり、剃髪して宗芸と号し、世を頼みなく暮し居給ひけるにぞ、稲葉一鉄斎、倩思ひ出し、君臣の義を重んじ、痛はしく思ひ、何卒宗芸入道を、美濃国に帰し迎へ参らせんと欲しける。然りと雖も一鉄斎は、先年揖斐五郎を、攻出せし程の事なれば、之を聞かれなば、我を恨みありて、来向はあるまじと思ひければ、夫より思慮を運らして、厚見郡江崎村に住し居ける江崎六郎といふは、頼芸の末子なる故に、則ち之を以て、迎の為めに遣すべしとて、六郎を尋ね出して、其由を申含めける。然れども、六郎は、幼少にて頼芸に別れて、久々父子の対面もせざりし事なれば、心元なく思ひける故に、乳父の十【
NDLJP:114】八条村の住人林七郎右衛門を差添へ、天正十年七月、上総の国へ遣して、宗芸を呼迎へける。是に依つて、頼芸入道、再び当国に来向せられ畢。則ち一鉄斎之を請じて、大野郡岐礼村に新館を構へ、頼芸を住せしめ、米二百石参らせ、侍女五六人付けて労はりける。尤此岐礼の里は、稲葉暫く住せし所なり。然るに頼芸は、同年の十二月四日、仮初に病に臥して、終に此所にて逝去なり。法名東春院殿前濃州大守左京大夫文閣宗芸大居士、年齢八十二歳なり。則ち一鉄斎より、南化玄奥和尚を招き、導師とせり。下火拈香等、南化文集に見えたり。日頃住居せられし館を、東春庵といひける故に。東春院殿と号しける。其墳墓は、今岐礼村の東春庵の西南の隅にあり。頼芸の遺命に依つて、山本数馬芸重が舎弟の僧衆知に庵を賜ふ。其後、火災に依つて、庵中の重器地蔵尊等、焼失しける。然るに、此山本数馬といふは、先祖代々より、岐礼村の住人にして、則ち頼芸の近習なり。忠節無双の者にして、始終少しも傍を去らず、美濃国を出で越前に至り、又上総国にも随ひ行き、此度又本国に帰り、我が在所に於て、主君を介抱し奉りける。後には山本次郎左衛門と改名せり。誠に主君の臨終迄随身して、忠心を尽せし者なり。子なくして、小津の住人高橋但馬が二男を養子とす。次郎左衛門娘は、野村の住人飯田道純が妻なり。二代目の次郎左衛門娘は、岩手弾正が妻なり。山本の子孫は、今に郷士となりて、岐礼村にあり。又江崎六郎の子孫は、清水にあり。一説に曰く、竹中半兵衛と、父子の好ある故に、紋所に九枚笹を付くるといへり。扨又、林七郎右衛門は。江崎六郎に随ひて、清水に住しけるが、其後は西国に至り、筑前中納言金吾秀秋に仕へ、林宗兵衛正三と改名せり。其子は、稲葉佐渡守正成と号す。関ヶ原の合戦には、金吾秀秋に随ひ、在陣の中に、主君秀秋を、関東への味方に進めける。是は関東の御殿内に、春日の局といふ女、正成の妻なるに依つて、内通是ある故なり。是に依つて、正成は、脇坂中務少輔・小川土佐守・朽木河内守・平野遠江守・赤座久兵衛等六人、申合せて裏切をなし、武功ありける故に、江戸将軍御感の上、御取立ありて、十万石に立身し、今の丹波守の祖なり。扨彼の春日の局といふは、女儀に稀なる人にて、隠居屋敷を賜はり住しけるが、寛永十一甲戌年九月十四日逝去なり。法名麟祥院殿仁淵了儀尼大姉と申しける、扨稲葉【
NDLJP:115】父子、天正十八年に、郡上の城を賜はり、是に移りぬ。彦六は早世なり。左京は、東美濃七組村の山下に住す。一鉄斎の長女を、一色小次郎頼秀に遣す。土岐小次郎昭頼・其弟稲葉勘解由良頼などの母なり。又右京貞通の妹は、林宗兵衛の妻なり。関ヶ原合戦の後、稲葉右京亮は、豊後国白木の城太田飛騨守没落の地を賜はり、是に移り、以後は臼木の城主となるなり。一鉄斎は濃州に止まり、旧領清水の北なる長良村の釣月庵に住しける。右釣月の西の面に、一つの額をかけて、一鉄斎の自筆にて、辞世の一首あり。
幾度かかくすみ捨てゝ出でぬらん定めなき世のさゝのかり庵
其翌年慶長六年丑十一月廿四日、逝去なり。墳墓は、長良月桂庵の境内にあり。其後、一鉄斎に相随ひ居し所の家人等、残らず豊後に引移りける。相残りて加納道益といふ者一人、極楽寺村に住し居ける所、豊後より召に依つて赴きけるが、其道すがら、船中にて病死しける。女子二人ありけるが、一人は清水の若原市右衛門に嫁す。一人は、極楽寺村にて、竹中氏より聟を取りて、家名を相続して、若原も倶に子孫今にあり。稲葉両家倶に徳川家に仕へて、武運長久たり。
不破氏の事【不破氏家系】安八郡西の保の城主不破河内守通貞は、東美濃遠山刑部允正元の孫なりといふ。通貞の父は、不破彦左衛門通直というて、西の保村の城主なり。一説に、不破氏の先祖は、山城国の松井蔵人直家といひける者なるが、笠置の城没落の後に、六波羅の命に随ひ、後醍醐天皇を尋ね奉る。此恩賞として、美濃国にて、数ヶ所の庄園を六波羅より賜はりて、始めて当国に来り、不破郡府中村に住せり。其後、氏を不破と改め、其子孫は、不破・多芸の両郡に数多し。府中の住人不破隼人直重江州の篠原にて討死しける。是れ通貞の先祖なりと云々。扨又、退翁新法印の日記を見るに、天正元癸酉年十二月、不破河内守通貞儀、滝川左近将監一益に対し、刄傷に及びける事あり。是を以て見る時は、源姓なるべきにや。其故は、滝川一益の長女を、不破通貞の嫡子彦三郎通家に、嫁し申度の由を申入るゝの所、滝川、如何なる故にや之を承引せず。【


【氏家卜全戦死】来りて、終に是を討取り畢。時に卜全五十九歳なり。此時、安藤五左衛門守宗も、討死しけるなり。卜全卒して後、其子氏家左京亮直元、相続いて大垣の城主なり。天正元年八月、越前の敦賀にて、斎藤龍興を討取りぬ。天正三年より、又楽田の城に住せり。其後、又同八年七月より、氏家内膳正直元、〈改名なり、〉其弟志摩守、大垣に再び住【 NDLJP:119】せり。而して後、勢州桑名の城に移住しける。慶長五年に、氏家兄弟石田三成に組し、桑名の城に楯籠りける。是より没落して子孫なく、衰微しけるなり。

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