浅井日記

 

淺井日記

 
 
オープンアクセス NDLJP:6
 
解題
 
 
浅井日記 二巻
 
本書は、江州浅井氏の代々を年序を追ひて記したるものにして、浅井氏の事蹟は詳細に記し、之と関係せる他氏の事蹟までを、其編年の条々に記入したるものなり。其の他公武の出来事は、関係なしといへども、其の年の事実として記したり。オープンアクセス NDLJP:7内容は、最初に浅井氏の系図を掲げ、嘉吉三年浅井氏の祖先三条大納言公綱勅勘を蒙り、江州に謫せられしより筆を起し、公綱の子浅井新三郎重政、国主政頼に仕へ、追々子孫繁栄せる事蹟と、長政の代に至り、天正元年織田信長の為に攻められ、軍利あらずして滅亡せらるゝ迄、浅井家の興亡を委しく記したり。

本書作者詳ならず。黒川蔵本写本を採収す。

 

  大正四年十二月 黑川眞道 識

 
 
 
目次
 
 
浅井の先祖浅井京極合戦京極高清逝去京極家滅亡土岐範国京極を援く京極方敗北細川澄元同高国と合戦後柏原天皇御即位義晴征夷大将軍となる将軍石清水社参後柏原天皇崩御三好長基細川高国と合戦高国自尽後奈良天皇御即位義昭誕生北条氏康上杉憲政と合戦大内義隆尼子晴久と合戦鉄炮江州に入る佐々木義実逝去義藤元服細川晴元京都を攻む三好長慶同宗三入道と合戦将軍義晴他界
 
三好、細川合戦源定頼逝去将軍家三好と和睦将軍義藤義輝と改名毛利元就陶全姜と合戦後奈良院崩御正親町天皇践祚三好松永の乱正親町天皇御即位武田上杉合戦浅井久政佐々木承禎と合戦三好義継等将軍を攻む将軍義輝自尽覚慶還俗松永弾正謀叛義栄征夷大将軍となる佐々木義秀逝去信長、佐々木承禎と合戦将軍義栄病死松永久秀信長に降る義昭征夷大将軍となる三好一家敗北浅井長政信長を討たんとす信長、朝倉義景抱の手筒山城を攻む信長虎口を遁る佐々木承禎、信長と合戦姉川合戦新村忠資自尽松永久秀信長に降る信長、義昭の御所を囲む義昭の軍敗北浅井長政山本山の城を攻む信長、義景と合戦義景敗る義景自尽浅井久政自尽浅井長政の忠節浅井長政自尽信長、浅井石見守赤尾美作守を誅す

 
 
オープンアクセス NDLJP:198
 
浅井日記 
 
〈[#図は省略]〉オープンアクセス NDLJP:199嘉吉二年三月、三条大納言公綱卿、勅勘を蒙り江州に謫せらる。国主佐々木管領政頼朝臣、浅井郡丁野村に宅を構へて之を預置く。総べて十三年なり。亨徳三年勅免。此卿、文安三年配所に於て一男子を生む。亀若と号す。寛正二年に亀若丸十六歳、国主政頼朝臣、浅井郡に狩するの次、始めて之を見、公卿の子たるを以て、引いて近習に召され、浅井の先祖称号并諱字を給はつて、浅井新三郎政重と号す。是れ浅井の元祖なり。応仁・文明年中に、度々の軍功あるに依つて、国主政頼朝臣、浅井郡に於て、百貫の地を給はる。改めて浅井新左衛門と号す。器量勇健にして、身長六尺八寸ありといふ。明応元年二月二日、年四十七にて出家す。道端と号す。同五年正月廿日卒す。往齢五オープンアクセス NDLJP:200十一。伝に曰、母昔日竹生島明神に祈りて之を得、凡そ在胎十二月を経て産す。長男新三郎賢政、文明八年生る。長享元年九月、京極三郎高清、佐々木管領高頼朝臣に叛きて野心を懐く、于時賢政も誘引せられて是に与す。管領高頼士を遣して之を罰す。一戦の後、江州北郡の所領悉く没収せられて蟄居す。二男新七郎定政は、同所領没収せられて後、三田村権守之を取り家に附く。三男新八守政は、大野木の家を継ぎ、大野木但馬守と号す。浅井賢政長男亮政は、明応六年に生る。永正十一年父所領零落の後、京極中務大輔高清の長臣上坂治部大輔に仕ふ。于時浅井新三郎亮政と号す。

同十三年の夏、京極中務大輔高清、武の器に当らざる故に、長臣上坂が為に、代々の家名治部大輔を奪はる。上坂之を奪ひ、国主佐々木管領六角氏綱朝臣に向つて逆心す。是に依つて管領、上平へ討手を差向けらる。大将には後藤左衛門尉・進藤対馬守・山崎源太・朽木・森川・青地八千七百騎にて攻寄す。京極方は、上坂治部大輔を大将として、江北の士西野丹波守・東野美作守、彼是城主上平の城に楯籠り、浅見対馬守が云、大軍を引受け、小城を以て防戦ふ事、誠に武略なきに似たりとて、佐和山表へ討つて出で、六月廿八日の卯刻に合戦を始め、同巳刻に終る。此時京極勢敗北して、既に大将上坂討死せんとす。于時管領の兵に、高宮兵助といふ大力と、浅井新三郎戦ふに、難なく兵助に組伏せらる。新三郎下より短刀を以て、上なる高宮を二刀刺して首を取る。是れ新三郎初陣の高名なり。同月晦日合戦。于時管領の御勢の中、原安房守手勢八百余騎山際に伏置き、京極方の先手の進むに、横鑓に突懸る。上坂治部大輔亦将に討死せんとする所に、浅井新三郎磯山の手崎にて長刀を以て、唯一人蹈止つて支へ戦ふ。于時新三郎が前腹の兄浅井新二郎、並に大橋善次郎来つて戦ふ。上坂治部大輔是に力を得、取つて返し大きに相戦ふ。然れども大軍手痛く攻来る故、上坂へ引退き、帰城の後、新三郎に感書を出す。其文に曰、

其方の事、今度合戦味方敗北之処、一人蹈止、管領之旗本高宮兵助討取之。同晦日大合戦、亦味方令敗北之処、新三郎甲斐々々敷蹈止。依之敵数輩切崩、味方無難引取訖。誠希代之高名不勝計。依之為賞恩三百貫令思補、候。加之向後可オープンアクセス NDLJP:201備前守者也。猶上坂主計助可申状如件。

  永正十三年七月九日 上坂治部大輔景宗

    浅井備前守殿

其後、管領の長臣後藤左衛門尉・同心小倉将監道氏は、上坂治部大輔伯父なる故に、上坂、此小倉を以ていろび降参す。管領聊か御承引なく、剰へ先づ彼の愚昧の京極父子を誅伐し、次に近年奢を好む上坂一類を悉く誅せらるべきの由なり。此時管領の長臣平井加賀守諫言を申して云、且つ御国の騒動、且つは降人を誅せらるべき法なしと、申すに依つて、御赦免ありて江北静謐なり。されども武威を押さんが為め、京極高清の所領を削り入道させ、環山寺と号す。上坂治部は閉居すべき由なり。于時上坂、京極高清の子を養つて、是に治部大輔を授け、其身は入道して泰貞斎と号す。上坂信濃守・同修理亮も共に入道して、信濃守は清眼と号し、修理をば了清といふ。上坂の城には京極の子治部大輔を居ゑ置き、上坂泰貞斎は其より一里坤に当つて今浜といふ所に居住。此外京極家の家臣、上坂泰貞斎が婿浅見対馬守も、入道して春向軒と号す。尾上村に居住す。浅井新三郎亮政戦功有難しと、主君上坂大屋形の御気色に違ひ、入道しける上、徒に労して其功やなし。

永正十四年正月浅井備前守亮政、主君上坂入道泰貞斎に密に諫言しけるは、美濃国主土岐殿に外戚の子あり。之を養ひて御娘と一所にし、今浜の家督を譲り給ふに於ては、土岐殿の太刀影を以て、年来の面目を雪がるべしといふに附きて、上坂入道是に力を得、即ち土岐家の長臣斎藤掃部助が方へ、浅井亮政を以ていひ入れけるに、斎藤早速領掌の返事しける間、近日密に彼の子を、江北今浜へ呼び迎へ、頓て元服して上坂兵庫助と号す。同年三月九日、上坂入道泰貞斎病死、往齢五十三。嫡子兵庫助跡を継ぐ。浅見春向軒後見す。于時浅井備前亮政、上坂家臣として、家内是れが下知に順ふ。上坂兵庫助実高が後見浅見春向軒、家中仕置の事に付いて、浅井備前の守と不和なり。亦上坂も浅井を悪む。依之上坂家中上下不和なり。此時京極家は、所領も減じ、高清隠居にて、子息壱岐守高峯は、生得愚にして京極手下の仕置もならざるなり。

オープンアクセス NDLJP:202同十五年正月、浅井備前守亮政が姉〈号北向殿一子を生む。大屋形氏綱の妾なり。外戚の腹たるに依つて、亮政之を給つて子とす。後浅井下野守久政といふは是なり。同七月九日、佐々木管領源氏綱朝臣逝去。御曹子幼少に依り、大屋形高頼朝臣江州の国政を行はる。八月廿四日亮政、密に兄の浅井新二郎兼政に、上坂父子を夜討すべき由談ず。新二郎臆して是に応ぜず。次に叔父の三田村新七郎定政に之を談ず、是も同ぜず。次に大野木新八郎守政を語るに、猶是に応ぜず。此時浅井一家悉く同心与力せば、人数六七十騎あるべきか。亮政一度思立つ所黙止難く思ひ、朋友大橋善次郎を語らふに、大橋一言に及ばず、是に応ず。此外江北の士彼此催し、人数漸く百二三十騎に及ぶ。亮政思ふに、此の小勢を以て、上坂父子其外一家の大勢に対せん事覚束なしとて、伊部清兵衛を頼む。異議なく同心す。是等を集めて三百余騎に及ぶ。同月廿三日助政下知として、大橋善次郎・伊部清兵衛に百二三十人差添へ、上坂村に忍入り、伏兵として相図を待ち、残る百五十余人を三手に分け、上坂近所の在々に押寄せ、家々に火を懸け、園の声を揚ぐ。上坂兵庫助在々の火の手を見て、其勢千七百人を率して、城外に討つて出で、鬨の声に従つて馳向ふ所に、浅井備前守亮政、精兵八十余人を勝りて、敵に紛れて、上坂の城へ打入り、老武者・女童以下一一に之を誅し、勝鬨を揚ぐる。于時在々に伏せ置く人数、彼此より走寄り、鬨の声を合す、上坂陣を引いて城に入らんとするに、敵早や入替りぬ。途方を失ひ、直に今浜の城へ落往き、舎兄上坂治部大輔と一所に居す。同廿四日浅井一家の者共之を聞きて曰、今度備前守亮政が智略、誠に前代未聞一門の眉目なり。此度之を助けずば、何の時を期すべきとて、兄の新二郎を始め、新七郎・新八急ぎ馳付き、共に彼の城に楯籠る。此外傍輩の中、伊部介七・丁野村弥介・田部助八・尾山彦右衛門、其勢三百余騎にて馳付け、浅井に力を勠す。之を聞きて、三田村新七郎・大野木新八郎も一時に馳付、依之亮政が勢二千余騎に及ぶ。同廿五日上坂兵庫助一門他家の面々を召集め、上坂の城を攻落すべき評定なり。今浜城中の人々は、上坂治部大輔・浅見春向軒子息対馬守等なり。浅井京極合戦同日午刻上平に住居せらるゝ京極入道高清、今浜城に移つて江北の諸士を集む。侍大将には上坂信濃守・同掃部助・浅見父子三人なり。同廿六日早天に、オープンアクセス NDLJP:203京極・上坂の人数六千余騎、今浜の城を打立つて、上坂の城へ押寄す。浅井亮政城を出で、一文字に討つて懸る。京極上坂の勢を三方へ追散し、勝鬨を作る。此に京極人数の中に、上坂掃部助・口分田彦七敗軍の味方を集めて、引返し大に戦ふ。浅見新七郎・堀弥七郎とは、名を惜んで引返し討死す。浅井亮政が内、丁野弥兵衛は、浅見新七を討取るなり。堀弥七郎は乾次郎吉を鑓下にて首を取る。今日の合戦に、京極方の人数百八十騎を討取る。浅井人数は卅七騎討死す。同九月六日に今浜の城にて、上坂兵庫助、京極を引立て、江北の諸士を招き集め、是非に浅井を誅伐すべしとて、打立つ人数六千余人なり。同七日卯刻に上坂の城へ押寄する。一番に上坂修理亮。二番に口分田彦七。三番京極・上坂の旗本。左備は上坂治部大輔・同兵庫助・同信濃守・同掃部助。右備は浅見春向軒子息対馬守・沢田備中守・津田兵内左衛門なり。浅井は微敵なれば、彼打つて出でば、引包んで討取るべき支度なり。浅井予め備へなむ。伏兵を三所に置き、相図を定めて打立ち相戦ふに、浅井勢敗北して城へ引入れば、京極勢勝に乗りて追懸く。浅井予め置く伏兵を以て、守返して相戦ふに、京極・上坂の勢、一戦に利を失ひて討死する者多し。終日敵味方戦ひ暮し、申の刻に、両陣互に引退く。今日の合戦、四分は浅井負なり。六分は京極勢の勝軍なり。同十日上坂治部大輔・浅見春向軒、何れも上平に集り評定して、逆臣浅井を退治せん事を、京極入道高清へ報ず。高清は臆して、早速退治の評定相極らざる所に、大津弾正が曰、急ぎ退治の儀然るべきか。其故は、亮政が姉北向殿、大屋形の妾として一人の若君あり。亮政之を養育し奉る故、江北の諸士彼に属するの由なれば、退治延引せば、一定味方の大事なるべしといへども、最前両度の合戦不利故に、早速の評定延引す。是に依つて、上坂治部大輔大に怒つて、今浜の城へ帰り、人数を集めて、毎日浅井方と迫合あり、戦ふ度毎に、浅井智略を以て、敵を討取る事勝げて計るべからず。浅見春向軒・京極高清入道子息高峯、毎事武の器に当らざる事を悪みて、主君京極父子を打捨て、居城尾上の城に引籠る。同廿一日午刻、浅井備前守亮政、智略を以て、今浜の城をも攻取るべしとて、伊部清兵衛・大橋善次郎を近付て、誠や浅見春向軒父子は、京極家出陣延引なるを見限り、居城尾上へ引取るとなり。其外諸侍皆悉く主君オープンアクセス NDLJP:204を見捨て、在々へ引籠るとなり。是に依つて、今浜の城には、然るべき人なしと聞き、忍を入れて弥〻之を窺ひ聞くに果して然なり。亮政大きに悦び、是偏に天の与へ給ふ所なり。今此城を取らざれば、却つて其罰遁るべからずと、伊部清兵衛に六百余人を相添へ、大橋善次郎に三百余人を相加へ、今浜の近所、田の畔・藪の中に、夜中に兵を遣し伏せ置き、吾身は九百余人を二手に分けて、今浜の城へ押寄せ、早天に鬨を作る。城中以ての外周章し上下を反す。されども大将上坂治部大輔は、近習・外様の人々を引率し、大手の門を開いて、切つて出で防ぎ戦ふ。浅井勢、小勢なるを見て取つて、追懸々々相戦ふに、浅井態と弱々と二町計引退く。敵勝に乗つて行く所、伊部清兵衛・大橋善次郎、時刻よしと、相図の旗を挙げ、在家に火を懸け相戦ふ。今朝寅刻より小雨降り、朝霧立ちて物の色相見えず。上坂八郎左衛門、浅井が勢を小勢なりと見侮つて、敵は小勢なるぞ、進めやとて、味方を励ます。上坂修理は敵小勢なりとて欺くべからず。浅井は智略の者なれば、味方を不意に落すべき事もあるべしといふに、上坂治部大輔は、血気の大将にて、之を用ひず。大はやりに懸つて相戦ふ。上坂信濃守は、老武者にて町屋に火の手の挙るを見て、城中の兵に下知をなさんとしけれども、諸兵火の手を見て途方を失ひ、散々に戦なして、吾先にと落行く。大将上坂治部を始め、一門の面々力なく、尾上を指し落行けば、浅井亮政は百十騎にて城を乗取り、勝鬨をぞ挙ぐる。爰に浅見春向軒は、今浜の焼くるを見て、如何にと案じ煩ふ所に、上坂治部大輔・同兵庫助・同修理亮・同信濃守百四五十人、尾上の城へ落来る。春向軒出向ひ、吾が助勢の延引する事、是天命といふ。此時上坂勢の中より、多く浅井に降参する者あり。是に依つて、浅井勢は三千人に余るなり。同廿三日、上坂八郎左衛門・浅見春向軒は、密に尾上を忍出で上平へ行き、京極高清入道・子息壱岐守高峯の長臣大津弾正に向つて、今浜落城の次手を具に語る。弾正大きに驚きて云、上坂一家奢侈甚しく、已而武勇に疎し。是に依つて、浅井の若者に両城ともに謀取らるゝ事、誠に言甲斐なき次第なり。是れ弓矢の冥加に尽きたる物か。浅井今度の逆臣、大屋形高頼朝臣之を知り給はぬ事のあるべくや。是れ併、浅井内縁の者故に、否の御下知に及ばざる所なり。京極家の滅亡遠きにあらずと、加賀入道宗愚・黒田甚オープンアクセス NDLJP:205四郎・隠岐修理亮・多賀新右衛門・若宮以下の人々評定して曰、重ねて浅井退治あらん事に於て、江北の諸侍の心覚束なし。先づ廻文を以て、召集め見給はんかとて、多賀新右衛門筆執つて触送る。一味同心の人々には、高野瀬修理亮・山崎源八・多賀右近大夫・河瀬壱岐守・高宮次郎左衛門・土田兵助・多賀新右衛門・土肥次郎左衛門・樋口次郎左衛門・新庄弥八郎・大炊新左衛門・野村伯耆守・同肥後守・口分田彦七・富田新七郎・香取少助・伊吹宮内少輔〔内匠亮イ〕・伊井平八郎・中山五郎左衛門・小足宮内少輔・細〔江イ〕甚七郎・阿閇参河守・同帯刀左衛門・同万五郎・熊谷次郎左衛門・同新次郎・安養寺河内守・渡辺監物・八木与藤治・今井十郎兵衛・同孫左衛門〔今井肥前守頼弘イ〕・同四郎左衛門・今村掃部助・井口宮内少輔・筧助七郎・尾山彦七郎・千田伯耆守・磯野源三郎・同右衛門大夫・西野丹波守・赤尾与四郎・東野左馬助以上各連判なり。同年九月廿六日、浅井備前守亮政・大野木・三田村・伊部・大橋を呼んで曰、已に上坂・今浜両城を攻取ると雖も、何れも平地にして、大軍を引請け相戦ふ事然るべからず、其上江北の諸侍、粗ぼ京極・上坂の手に属するの由聞えあり。いざや此所を引退き、小谷山を城郭に構へて、思の儘に防ぎ戦ふべきなり。去れば此山は鹼岨にして、防戦に数多の利あり。第一水の手自由、山峯聳えて伏かまりを置くに便あり。是れ究竟の勝地なり。若し此普請の間にも、京極・上坂の両勢押寄する事、用心あるべく、方便あるべしとて、毎日忍入りて、敵陣の案内を聞く。亮政亦、諸卒に向つて曰、万一味方軍に利を失はん時は、一方を切破り、息男新九郎を先に立て、大屋形御父子の許に駈入り、京極・上坂が年来の悪行を申上げ、屋形の御下知を以て、彼等を退治すべきなり。其間各々随分相働くべしと、味方の兵を慰む。浅井に与せし侍共、此事を聞きて、心鉄石の如くなり。京極・上坂の人々、此内意を聞きて、浅井退治評定中々事易からず。江北の諸侍皆云、此間の合戦など大屋形の耳に立たざる事之れあるべからず。是れ唯浅井が養ふ所の御曹子は、亮政が姉の生む所の子なり。是等の故にや、兎角御下知に及ばず。是のみにあらず、高島郡六代官高島越中守・田中・朽木・横山・永田・万木等も、余所に懸つて居る者、一定大屋形の御内意を知るにやと、いふを聞きて、京極・上坂の人々、熱湯にて手を洗ふが如し。其余誰ありて、浅井退治の評定せん。兎角延引の間に、浅井は緩々と小谷の城を拵へオープンアクセス NDLJP:206て移りぬ。同十月十三日上坂治部大輔は、浅井が捨つる所の今浜の古城を取立てて移入るなり。同二十日浅見春向軒・子息対馬守、尾上を立ちて、今浜上坂治部が館に至つて、諫て曰、此合戦、浅井独が心より起る所にあらざるべし。其いはれは、亮政が子は、甥ながら、屋形氏綱の落腹なり、是れ一。江北是程迄の騒動、御耳に立たざるも、浅井を内意に思召す御下心、是れ二。主君京極入道高清御父子共に、性愚にして、諸侍之を慢るに依つて、其方の父泰貞斎家中を手に付け、度々に大屋形の御下知に違背せられし事、是れ三。彼此条々、以来とても御宥免あるべからず。此度浅井退治の事延引せば、悔ゆとも其益なかるべし。世間の哢口誠に塞ぎがたし。上坂の人数とても、一千人に及ぶなれば、対すまじきにあらず。他の兵を備へずして、是非に小谷へ夜討に押寄せ、十死一生の合戦然るべしと、再三強ひけれども、上坂治部大輔、臆して是に応ぜず。春向軒制し兼ねて、夫より上平京極の長臣大津弾正・若宮兵助が許に往きて、亦右の様を諫むるに、京極高清入道子息壱岐守、大に臆して是に同ぜず。春向軒は一所のみならず、両所迄も己が本意立たずして、唯徒に居城尾上へ帰りぬ。同十六年二月十五日、京極高清逝去京極中務大輔高清入道、環寺梅叟宗意大居士逝去、于時上坡治部大輔・同兵庫助・浅見春向軒子息対馬守評定して、御子息壱岐守高峯は、家を続がるべき器量ならねばとて、京極家の菩提所の清滝寺に置き申し、理悪斎と号しぬ。是より所領等は、残らず上坂治部大輔支配しける。京極家滅亡京極家の滅亡なり。同五月十二日浅見春向軒連判して、衆中を呼集め、京極理悪斎の子息三郎殿を取立て、大将として八千余騎にて、小谷の城へ押寄す。左備は上坂治部大輔一家一千余騎、右備浅見春向軒子息対馬守千余騎、其外の諸侍は、一番に磯野右衛門大夫・千田伯耆守子息帯刀左衛門・東野右馬助・赤尾与四郎其勢九百余騎、侍大将には、磯野源三郎、此源三郎は精兵の強弓にて、十五束半を引き、四町表射透すなり。二番井口宮内少輔・今村掃部助・西野丹波守・阿閇参河守・渡部監物其勢八百騎。三番に安養寺河内守・今井十郎兵衛・同孫右衛門・熊谷次郎左衛門・同新〔次イ〕郎・月瀬新六・小足掃部助・同宮内少輔・中〔山イ〕五郎左衛門其勢八百騎。四番狩野弥八郎・勘田孫八郎・伏木十内左衛門・沢田十内左衛門・但馬守中村小十郎左衛門・下坂右馬助・下坂式部少輔・新荘伊勢守・乾加賀守五百オープンアクセス NDLJP:207騎五番土肥次郎・伊吹宮内少輔・百堀次郎左衛門・多賀新右衛門実高・多賀右近・山崎源八郎・土田兵助・馬場清太夫其勢八百騎。六番には旗本京極の門葉多賀・河瀬・上坂の一族近習を始めとして、其勢二千五百騎。明くれば十三日早天小谷口へ押寄せ、追手・搦手一同に鬨の声を揚ぐる。浅井備前守亮政は、兼て忍を以て、京極家の方便の様を一々聞き済しければ、少しも驚かず。大軍は不意を以て、討つに利ありといひて、伊部清兵衛・大橋善次郎に五百余騎を差副へ、大岳虎御前山の蔭に深く、旗を巻いて伏置き、敵攻め来つて、正に一戦に及ぶ時、俄に起て横合に懸るべし。敵是に色立ちて前後騒ぎあへる隙に、亮政大手の門を開き、亦一文字に打つて出で、命を限の軍をすべしと、鬨の声だに合せず、静り返つて居たる所に、海北善右衛門・赤尾孫三郎馳来つて力を戮す。亮政大きに悦び、殊に海北を賞す。是れ又京極家上下不和の故なり。海北が浅井に加はるを見て、村上甚四郎・赤尾与四郎も同小谷へ馳入る。浅見春向軒下知していひけるは、当手の中に敵多く紛れ居らん。只矢軍のみして敵味方の機を見るべしとて、足軽迫合ばかりにて、今日の合戦は止りぬ。同十四日阿閇参河守息万五郎、京極勢の備疎らにして、始終の軍利あるまじと見透して、小谷の城へ討入り降参す。其勢八十五騎なり。浅見春向軒・同対馬守五百余騎は遊軍となりて陣す。是は浅井亮政、日頃不意の合戦を好む者なれば、味方しどろなる所へ討つて懸るべき為めなり。同十五日浅井嘉政は、上半の人数多、味方に来りてかたぬく事、偏に武運を開くべき先表なりとて、新に軍伍を組替へける。先づ伊部・大橋に八百三十騎を相副へ、伏兵として、虎御前山の谷間に之を置き、阿閇参河守・同万五郎・海北善右衛門・赤尾孫三郎・同与四郎に、二百五十騎を差加へ、小谷の東なる山陰に之を伏せ、城内は浅井七百五十騎相図を定めて、敵を相待つ。同十八日、京極并上坂勢八千騎にて亦小谷の城へ押寄す。浅井、大手へ討出で、一戦して弱々と引退く。上平勢追ひ縋うて、大門口に討入る所に、両方の伏兵一度に、起つて討つて懸る。亮政取つて返して相戦ふ。上平勢敗北して討たるゝ兵七百廿騎なり。同十九日上平勢、昨日の合戦に利を失ひし事を口惜しと思ひ、行を替へて寄来る。京極勢の内、野村伯耆守・同肥後守・口分田彦七郎、毎度味方の敗北する事は、諸兵の一途に思合はざる故なり。オープンアクセス NDLJP:208今日の合戦に、野村・口分田討死して、江北の諸侍を恥しめんと、最前に馳出で、蹈止つて戦へば、是に少し力を得て、上平人数乗越え命を惜まず相戦ふ。此時浅井は城内に引籠り、さまを閉ぢて防ぎ戦日午に及んで軍まけす。今日の合戦は、京極勢の勝軍なり。同廿日辰刻より申刻迄、上平勢と浅井勢と、今日を限りと相戦ひ、上平勢終に敗北す。大半討たれければ、重ねて勢を催して、相戦ふべき事は難しと見えたり。土岐範国京極を援く同廿一日美濃国主土岐範国、所縁たるに依つて、妻木駿河守を大将にて、二千余騎を相副へ、加勢として京極方へ遣す。浅井方にも美口京極勢少し力を得て、小谷表に対陣す。浅井方にも美濃勢の新手と知つて、卒爾には出合はず、唯城をのみ堅固に守るなり。同六月三日、永々対陣すれども、大屋形より是非の御下知に及ばざる事、是れ偏に浅井を引かせ給ふ故なりといふに、京極・上坂の勢弥〻猶予して、墓々しく合戦もせざれば、美濃の援兵も快く働くを得ず、唯対陣にのみ日を送る迄なり。同十一日浅井亮政、海北・阿閇・大橋等を集めて評定す。京極勢の永陣急に攻敗らん事、夜討にしくはなかるべしと、先づ合言葉を定め。北風吹くかといはゞ、一度に切つて懸るべし。南風烈しといはゞ、城中へ引取れよ、谷かと問はゞ山と答へよ。味方の相印には、天目ざいを綿嚙に打入るべし。歩兵の印には羽織の後に縫付くべし。太刀・脇差の印には、白紙を以て三引両を鞘巻せよと、此外色々夜討の支度用意しける最中に、上平勢の中、磯野源三郎を大将にして、諸手中より精兵を勝つて、小谷の北なる嵩へ上り、城を目下に見下し、矢種を惜まず散々に射る。本より磯野が矢先は、四町を射徹す事なれば、城中防ぎかねたり。されども亮政は、今夜夜討せんと支度しぬる事なれば、一人も防矢射出す者なく、静まり反つて居たり。夜に入れば大将亮政、大橋・赤尾に三百余騎を差副へ、山田の東の谷を下り、八島村へ忍び入り、夜半ばかりに家々に火を懸けたり。時に尊照寺に陣を取りたる京極三郎の備、上下周章て騒ぐ。其時浅井、一文字に切出でければ、京極勢一戦にも及ばず敗北しけるを、追討に二百卅騎計捕る。浅見春向軒、子息対馬守に下知して曰、今此時を遁して何れの時をか期せん。只反合つて討死せよと蹈止りて、逃ぐる味方を遮つて相戦ふ。春向軒が五百余騎、子の刻より寅の一点迄相支へ、浅井荒手を入替へ、十方に変オープンアクセス NDLJP:209化して相戦へば、春向軒父子叶はず、尾上を指して引退く。上坂の人々上坂掃部助・同八郎右衛門・同主水正・同主殿助・同十郎三郎、是に恥しめられ、取つて返して相戦ひ、上坂掃部助は、赤尾孫三郎と鑓を合せて討死す。上坂八郎右衛門は、海北善右衛門と相戦ひしが、相互に昨日迄傍輩の好ある故、尋常に言葉をかはし、鑓を捨て馬上より組みて落ちけるが、海北第一の大力なるか、難なく八郎右衛門を組伏せ首を取る。京極方敗北大将京極三郎は、一騎当千の家族共の、取つて返しては討死するを見捨て、虎口を遁れて落行く。今夜上平勢四百三十騎討たれ、浅井方には卅九騎討死す。京極三郎、上平へ落来りて、浅見春向軒父子・大津弾正忠・多賀新右衛門実高・若宮兵助・隠岐修理亮等を呼集めて曰、此の如く、味方毎度敗北する上は、江北の諸侍定めて、今は皆浅井方にこそ加るべけれといへば、果して浅井廻文を送つて、其文に日、

近年度々合戦、全非亮政逆心。京極家并上坂之一類、依累年積悪大屋形様之御内意、擲一命。万人之愁、頗及此者也。此間、誤雖京極家随逐、忽翻悪心。於当城相加輩者、大屋形様御前可然執成可申、状仍而如件。

 永正十六年六月十二日  浅井備前守亮政

           江北城主御中

前に神文を書副へて廻しける。江北の諸侍残らず、小谷の城へ馳加はる。此由、京極家の長臣等聞きて、是れ京極家の滅亡此時なり。然るべくば大屋形へ加勢を請申され、今一戦之れあるべきかといふに、大津弾正曰、度々の合戦に何の御沙汰もなければ、大屋形は必定浅井を引かせ給ふ者なり。亮政重ねて寄せ来らば、随分防戦、京極殿を介錯し、自害せんより外なしといへば、多賀新右衛門が曰、尤も遁るゝ所なしといへども、一往謀無きは大将の恥なり。然りと雖も、大屋形、浅井をたとひ援かせ給ふとも、猶思食す所もあればこそ前後の御下知なけれ。兎角一往の御歎然るべしとて、多賀新右衛門実高・河瀬壱岐守宗高両使を以て、大屋形の近臣平井加賀守・三雲豊後守方へ、京極三郎殿より両使を以て、申上ぐるの趣、

今度家来浅井備前守、企逆心籠小谷城、為誅戮発向之処、味方不慮敗北之段、嘲弄難人口。偏是為当家恥辱。且亦近日雖征伐、江北之諸士悉オープンアクセス NDLJP:210以、依彼等組、当手軍勢以外屈懼、早速難攻伏。此上者、以大屋形様御太刀影、令凶徒誅伐、年来欲恥辱。誠以被御勢者、且先孝之〔考カ〕好、且当家面目何事如之哉。此条々宜奉誼説。誠惶々々謹言。

  六月十六日 京極三郎

      平井加賀守殿

    謹上

      三雲豊後守殿

平井・三雲、此趣を奏達す。大屋形聞食し、京極家不器量にして、江北の諸侍逆心の条、彼非其器量故なりと仰せられ、御同心なきのみならず、以の外御不予なり。同六月十九日浅井亮政、阿閇参河守を以て大屋形へ言上す。近年京極家愚昧たるに依つて、家中の仕置等、家臣上坂治部大輔、私を以て贔屓の沙汰をなす。去に依つて、諸人疎果て、亮政に限らず上坂に背く者数多なり。今度の一戦不已之条、全く上意を軽んずるにあらず、願くは御赦免を蒙り、向後凶徒を誅伐し忠勤を抽づべし。此等の趣、御披露頼入り申すといひ、其上北向殿の御若君所縁、他なく思召されけるにや、御隠居大屋形様高頼公、早速御赦免の御書を下しなさる。廿一日浅井亮政兄弟四人、大屋形様へ御目見申す所に、京極家所領残らず、之を拝領す。年来の本望を達し、剰へ江北の総旗頭を仰付けらるゝなり。亮政一世の眉目珍重、而して廿五日には小谷の城へ帰りぬ。此より江北の諸士多くは亮政に属す。京極偏執の士は、猶出で従はざる者も少々あり。又京極家は無きが如くにて閉居せらる。上坂一家は或は出家遁世、又他国出走の者もあり。此外亮政に与せざる人々は、美濃・伊勢の方へ落行く。

同十七年二月十七日、細川澄元同高国と合戦細川修理大夫澄元と細川右京大夫高国と、権威を争うて合戦す。高国軍敗れて、江州佐々木高頼を頼みて落来る。国主高頼朝臣之を許し、岡山に置かる。四月廿五日、江州先手八千余騎上洛、寺社等制法を定む。五月廿四日、佐佐木高頼朝臣、嫡孫義実、并二男定頼を召具し、細川高国を同道して上洛、勝軍山に陣取り京都を攻めらる。浅井備前守亮政先陣たり。六月細川澄元病死、高国自然と本意を達す。摂州尼崎に於て城を構へ是に居る。同十一日浅井亮政軍功に依て、オープンアクセス NDLJP:211高頼朝臣より坂田郡を給はる。同日夜、今度合戦の内、十三人に領地を給はる。中にも塩津の城主熊谷兵庫助直昌、首数に依つて感書を給はる。八月廿一日佐々木廿二代の管領源高頼朝臣他界、嫡孫義実其跡を続ぎ給ふ。叔父弾正忠定頼于時後見たり。浅井亮政、江州三老の随一となる。

大永元年三月廿三日御即位なり。応仁大乱の後、禁中以の外御不如意たるに依つて、後柏原天皇御即位二十年余絶えたる大礼を興行し給ふ。其料は本願寺より之を調進す。此賞として、始めて門跡の号を永代許し下さるなり。五月十一日佐々木管領義実朝臣の後見、弾正忠定頼・細川高国評定ありて、法住院殿義澄公の若君千寿王殿〈後号義晴公を執立て奉りて、江州岳山より三井寺に入れ奉る。六月九日六角屋形義実朝臣、叔父弾正忠定頼朝臣・細川高国朝臣供奉にて、若君千寿王殿御上洛、相国寺御安座、六角家は南禅寺、細川家は東福寺に旅館を構へらる。十二日千寿王殿御参内、叙従五位下御諱号義晴。廿八日義晴公叙従五位上、十一月廿五日義晴公叙正五位下左馬頭。十二月廿四日義晴公御年十一歳にて御元服。加冠は細川武蔵守高国、理髪六角義実、打乱は佐々木弾正定頼、泔盃は伊勢守貞信之を勤めらる。義晴征夷大将軍となる廿五日義晴公任征夷大将軍、于時十一歳。管領は細川高国なり。

同二年二月、義晴公従四位下に叙し、参議に任じ、左中将を兼ぬ。

同三年五月前将軍義植公、阿波国撫養といふ所にて、毒害せられ給うて他界。御年五十八。慧林院殿と号す。

同四年二月十日、前将軍家、江州多賀社参詣、国主義実・同定頼・浅井亮政に命じて、舟中を奉行なり。多賀より将軍家、竹生島に御参詣、三月朔日上洛。江州御逗留の座は観音寺なり。十月将軍家御不例に依り、佐々木家十一月二十日上洛。

同五年六月九日、甲賀郡望月対馬守・神保采女逆心なり。伊賀の河合にて引逢ふ。亮政・河瀬壱岐守、佐々木家の命を蒙り悉く誅伐なり。即ち彼等が没収を給はる。三好・畠山と不平の事に依つて、将軍家より御扱として、九条殿御下向にて和平なり。十一月廿八日、若州武田家中騒動す。是に依つて、信秀・亮政、佐々木の命にて、若州に往きて悉く静まるなり。オープンアクセス NDLJP:212同六年二月十六日、将軍石清水社参石清水八幡宮造営遷宮、将軍御社参。山城摂津守護代等、京都より八幡に至つて辻固す。山上は細川高国警固す。山下は畠山植長警固す。供奉の人々は、細川右馬頭澄賢・伊勢守貞孝、此外丹波・但馬・若州等の武士、并に公家伝奏広橋大納言守光・日野大納言内光なり。尊氏将軍の先例として、善法寺を御宿房に召さる。奉納物は弓・劒・神馬・神鎧等なり。京都御所の御留守は、六角義実朝臣・同叔父定頼朝臣之を勤む。浅井備前守亮政は、江州観音寺城に入り、之を守る。四月七日今上皇帝崩。後柏原天皇崩御御齢算六十三。江州屋形代官として、浅井亮政上洛。廿九日太子践祚。五月六月七月〔〈本ノマヽ〉〕八月十九日将軍義晴公、江州坂本に御下向日吉御社参、六角義実朝臣・同叔父定頼の命を蒙りて、浅井備前守亮政、旅館経営之を奉行す。廿二日将軍義晴公御上洛、佐々木屋形義実朝臣の命を蒙りて、浅井備前守亮政供奉。廿三日、浅井亮政、始めて将軍義晴公に謁し奉り、御太刀拝領す。九月・十月・十一月〔〈本ノマヽ〉〕、十二月十五日安房の里見義弘、相州鎌倉に攻入る。小田原城主北条氏綱出で戦ひ、里見義弘即時敗北す。同月将軍義晴公、近国の射手を召して御的始あり。

同七年二月十一日、三好筑前守入道長基海雲、阿波の国より出張りて、泉州堺の浦に於て、人数を揃へて京都に攻入りて、桂川にて相戦ふ。高国敗北す。十三日高国、将軍義晴公に供奉して江州に下り、国主義実を御頼み、六角家、浅井を以て之を守らしむ。十五日越前の国主朝倉弾正忠孝景、上洛して三好と合戦、三好敗北して泉州に引返す。三月・四月・五月・六月〔〈本ノマヽ〉〕、七月廿五日、江州七手組、所謂目加多・馬淵・伊庭・三井・三合・落合・池田等六千騎上洛。十月十三日将軍義晴公御上洛、江州大守六角義実朝臣・同叔父定頼朝臣・朝倉孝景供奉せらる。時に六角義実管領たり。従四位下大膳大夫に任ず。

享禄元年、将軍義晴公十八歳。八月三好一家、泉州より蜂起。九月八日将軍、京都を御出で、江州御下向、国主義実、同叔父定頼の評議を以て、高島郡朽木谷に御館を構へて之を請ず。朽木民部少輔植綱・河瀬刑部少輔、并河上六代官・浅井亮政等之を警固す。今年正廿八、柳下、六条法華堂下りて坂に居す。三好和平調つて又坂に下るなり。二月六日金吾帰郷、其後和州に入る。筒井没落、柳下賢治、幡州に出で生害オープンアクセス NDLJP:213なり。

二年将軍家・朽木、猶御逗留なり。

三年正月、大外記清原良雄勅使として、朽木に至つて、大納言従三位を将軍義晴公に授けらる。江州の屋形家来各賀奉るに、太刀・馬等を献ず。

四年六月三好長基入道海雲、故細川澄元の子晴元を取立てゝ、三好長基細川高国と合戦大将として二万余騎を引具して、阿波を発して摂州尼崎に着岸、細川高国入道常桓、天王寺と大坂の間にて合戦し、高国大きに敗北す。引いて大和川を渡らんとするに、大蛇前に横つて眼光人を射、其勢恐らくは言ひ難し。高国已むを得ずして一矢を放つ。蛇取つて屑とせず、猶口を開いて高国に向ふ。高国重ねて発つ。其の矢誤たず眉間に入りて、蛇立所に死す。高国此の難所を遁れて、川を渡りて尼崎に帰城すと雖も、三好が勢程なく追詰めける間、高国自尽一支にも及ばず、庫〔〈本ノマヽ〉〕に入りて自殺す。長臣島村以下悉く殉死す。此時、江州より加勢として浅井亮政、兵を引いて上洛、高国已に自殺すと聞きて、山科より引返して此旨を申す。江州佐々木家、浅井遅引して、其手に遇はざる事を責めて、大に嗔り給ふ。亮政暫く出仕を止む。

天文元年三月十一日、将軍義晴公、朽木より志賀郡竟花の下生庵に御移座。十二日同郡和途善福寺。十三日坂本の宝永寺。十四日穴太あなふの常在寺、六角家・朝倉家以下供奉す。浅井亮政先陣。十月五日本願寺以下退治を加へられ、日蓮宗軍忠を抽んづ。是に依つて、将軍家御感書を給ふ。都て十三箇寺。此時細川右京大夫晴元管領に任ず。晴元と三好海雲と不和なり。是に依りて、泉州堺浦海雲一家、管領の為めに害せらる。

同二年十月八日、暁天衆星感動して落つる事大雨の如し。諸人之を奇怪とし、見て怕れ死す者多し。禁裏に於て御祓あり。十二月山城国梅宮炎上。

同三年正月晦日、月読宮炎す。春夏疾病万民迫悩、死者巷に満てり。八月二十日、将軍義晴公江州御下向、多賀竹生島参詣、国主六角家居城繖山きぬがさに御逗留。九月三日将軍家、江州より上洛。浅井備前守亮政、六角家の命に依つて供奉す。同二十日、将軍家の上使伊勢守某、江州に下向。国主義実朝臣に、文の裏書塗輿等を御許容。浅井オープンアクセス NDLJP:214亮政代官とし上洛、公方家に謁し奉るなり。

四年越前国主朝倉弾正忠孝景、軍功に依つて塗輿御免。此の人の父陪臣と雖も、其子孝景は、高家の武家に准ぜらるゝとなり。浅井備前守亮政曰、凡そ武者は万事にうとくとも、一筋に武道に勝るゝ人、必ず未代とても国も天下も知るべきなり。去ながら、天理に協はざる武道は、一旦其功立つと雖も亡ぶべきなり。三田村が曰、是れ因果なりと。

五年二月御即位あり。後奈良天皇御即位禁中御不如意に付いて、大内助義隆朝臣より、其料を調進にて御執行なり。三月十日将軍義晴公若君御誕生。〈後号義藤又義輝。〉江州六角家より浅井備前守亮政名代として、大蛇といふ太刀を献ぜらる。六月中納言兼秀卿、勅使として大宰大弐を大内助義隆朝臣に授けらる。是は大内助、御即位の料を奉りし故なり。七月廿七日、京中の日蓮宗・法華宗、号の事、度々叡山より之を制すと雖も、曽て以て用ひざるに依り、延暦寺の衆徒・末寺・末山を召集して、勢を京中へ乱入りて、日蓮宗の寺々を破却す。彼の徒数多害せらる。此時、山門より近江の国主義実朝臣・同叔父定頼を頼み申すに依つて、浅井備前守亮政、八千三百余騎を引率し、粟田口北白川に陣す。是は若し日蓮宗門与力の武士あらん為めの備なり。此の日、洛中日蓮宗寺寺に火を放つて、駆討つに依つて、禁裏其外諸家類火にや及ぶべきかとて、浅井、人数を引具して、洛に入りて禁中を警固す。叡感に預るなり。六年正月朔日、佐々木大屋形義実朝臣若君生る。後義秀と号す。十五日江州屋形、并後見定頼の御曹子義賢、八幡山の典厩、江北浅井備前守城に於て、遊興対的等あり。八月十日院は、山田大蔵房、関東より上りて告げて曰、去る七月二十日、小田原北条氏綱と上杉朝定の家臣難波田弾正と、武州松山にて合戦すとなり。十一月三日、義昭誕生将軍義晴公の二男義昭誕生。十二月三日より大慧星現はる。

七年、東国に下す宛は帰来りて告げて曰、甲州武田大膳大夫晴信、父信虎、悪逆にして国を有つべからざる事を知つて、老臣・近習に評し合ひて、父を嫌つて婿駿河国主今川義元の許に放ち遣すと、浅井亮政之を聞いて曰、みな謂ふ、晴信は良将なりと、何ぞ痛く其父を擯する。実に悪むべきのはなゝだしきなり。其武田家は、唯自身のみ武にオープンアクセス NDLJP:215僑ると云ふ者か。北条氏康上杉憲政と合戦是れ人望に背き天道に捨てらるゝ所、吾は可謂、良将といふべからざるなりと、七月相州北条氏康、八千余騎を以て、上杉憲政・同朝定の八万余騎にて固めたる武州河越の城を、夜討にて大に勝つ。此時扇が谷の上杉朝定は討死し、山内上杉憲政は、上州平井の城を指して落逃れぬ。是より両上杉衰微して、関八州悉く氏康に属す。北条家より古河晴氏を妹婿に取つて、北条家諸事支配す。甲州武田晴信功に誇り、信州の小笠原長時・越後の村上義清を攻伏するなり。十月七日、北条氏康、下総の国小弓御所足利義明を攻めて、国府台にて合戦、義明朝臣一戦にて亡ぶ。

八年六月、三好一家京都を攻む。将軍義晴公江州御下向あるべき由告げ来る。是に依つて、佐々木管領義実、浅井備前守亮政に命じて、御迎の為めに上洛せしむ。将軍家既に、山州八瀬の里に着き給ひて御滞留、河瀬刑部少輔実宗、高島郡六代官の内、朽木民部少輔植綱供奉、浅井備前守亮政、高野里修学院に陣取警固し奉る。八月十七日洪水、賀茂川洛中に流れ入りて、人民多く水災の為めに死す。江州所々損ず。九年、春夏天下餓殍、疫癘人民多く死す。四月九日洪水。五月江州佐々木屋形庶流尼子晴久、中国十三箇国を領す。安人〔〈本ノマヽ〉〕安芸の毛利右馬助元就、近年周防山口の城主大内助義隆に密に通ず。出雲の屋形尼子晴久、之を聞き、家来須佐河内守久高・富田豊後守久宗に、二万余騎を差副へ吉田に遣して、毛利元就を攻伏せしむ。大内助之を聞き、家臣陶尾張守晴賢に、八千七百余騎を相加へ、毛利加勢として田村田上に至つて対陣す。数月合戦に及び、尼子晴久の代官須佐・富田敗北して帰陣す。切々此時尼子晴久も、同じく出馬せりと。

十年四月、三好一家京都に攻上る。将軍家、江州に御下向。佐々木義実・同叔父定頼之を迎へ奉る。河瀬刑部少輔、義実の命を蒙り上洛、将軍家に供奉し至つて坂本に警固す。八月十一日、大風、京中大破、江州繖の城大損。禁中殿門多く傾頽す。河内・摂津・丹波・但馬等同じく損ず。

十一年正月六日、浅井備前守藤原亮政〔〈脱字アルカ〉〕行年六十一。浅井郡小谷山に葬る。二月廿九日、大内義隆尼子晴久と合戦大内助義隆、二万人を引率し出雲国に発向し、尼子晴久の居城富田の城オープンアクセス NDLJP:216を攻む。大内助家臣陶尾張守晴賢大手の大将毛利元就は、国中の案内者として先陣す。数月合戦して五月十八日大内助敗北、義隆の嫡子新助義国討死して、首を尼子家内山佐・主殿助之を取る。先陣の毛利元就降参す。尼子屋形之を容さず。此より周防国に往きて、永く大内助の家人となる。此合戦に大内助敗北の後、家臣陶尾張守晴賢、大に主君を謾り欺くとなり。四月朔日〔〈前ニ正月朔日トアリ〉〕、江州の大屋形義実朝臣の若君誕生。後義秀と号す。八月駿河国主今川義元、遠江国を討取つて、参河国に発向す。依つて、尾張国主織田弾正忠信秀、二千余騎を以て、小豆坂に出陣し合戦、今川方敗北。鉄炮江州に入る十二歳正月八日、天月を残して晨に及ぶ。八月廿五日、鉄炮、大隅国より江州に来る。元種ヶ島より渡るなり。江州国友に於て鉄炮を作らしむ。屋形之を制して他国に出さゞるなり。

十三歳七月九日、京中洪水前代未聞。五月朔日、佐々木後見弾正忠定頼朝臣の若君誕生。後義頼と号す。義賢の弟、之を考ふべし。六月六日後見義賢の長男生る。後、義弼と号す。

十四歳応仁より後、度々兵乱に依つて、禁中以の外御不如意の事、神武天皇以来之れなき所なり。諸卿之を難儀とせり。近衛殿・鷹司殿・綾小路殿・庭田殿・五達殿・中原大外記等、皆江州に下向ありて、佐々木の屋形を頼り、観音城下常楽寺・慈恩寺に寓居せらる。此外諸公家、皆国々に下つて、其所縁を語ひ、末々の殿上人・地下人等、摂津・河内・近江等の間に徘徊して民間に交り、亦京都を出でられざる人々は、賈家に身を寄せて、朝夕を餬する人もあり。或は一椀の食を求めん為めに、門戸に佇立すれば、戦国の習に案内検見の者かと恠み捕へて、嗷問の責に及べるもあり。或は賊の為めに討殺されたる人の妻子眷属とて、所々に迷ひ行き、愁歎の余りには、淵瀬に身を投げ、自ら湯水を断つて渇死するもあり。其消息中々見るに忍び難く、哀なる事前代未聞なり。

十五年正月、将軍義晴公若君義藤公十一歳にて、従五下に叙す。八月廿三日、酉刻黄雲西に靉靆たなびき人面相映じて金色なり。佐々木義実逝去九月十四日、佐々木大屋形廿四世源義実朝臣逝去。武算卅七歳。智仁勇の良将なり。諸士僉て之を歎惜す。十五日御遺骸オープンアクセス NDLJP:217を大慈恩寺に移す。十六日御葬送、寺内の警固は、浅井下野守・同備前守長政。御本城の御留守は、進後の両藤なり。御追善中陰仏事の次第、繁に依つて之を略し、別記之を誌す。十月細川晴元并三好一族、京都を攻めんと欲するの由、聞えあるに依り、江州大守義秀朝臣の後見定頼の命を蒙りて、浅井下野守久政上洛し、将軍家を警固す。十一月十九日、将軍家の若君義藤公、正五下に叙し左馬頭に任ず。此時浅井久政猶京都にあり。十二月十八日、将軍義晴公江州御下向、左馬頭義藤卿御同道、浅井下野守久政供奉。今日の晩間佐々木管領義秀朝臣・同後見定頼、坂本に出で、之を迎ふ。義藤元服十九日将軍家、日吉社の社司樹下主膳資時が館に於て、若君義藤御元服。此時武家の管領闕く。佐々木雲光寺殿の氏綱舎弟、弾正忠定頼、俄に四品に叙し管領となりて、加冠の役を勤めらる。義実の嫡子義秀幼稚なるに依つて、定頼是に代る。理髪は細川中務大輔晴経。打乱は朽木民部少輔植綱・泔杯は定頼の舎弟大原中務大輔高保なり。二十日勅使として、広橋大納言兼秀卿下向。若君義藤卿征夷大将軍に任じ従四位下に叙し、禁色昇殿を聴さる。左馬頭は元の如くす。御所義晴公右大将に任ず。同日申刻社司樹下資時、諱字を賜はりて晴時と号す。同日佐々木弾正忠定頼朝臣諱字を賜はりて晴頼と号す。廿一日佐々木家嫡龍武丸・朝倉・畠山家、将軍家の元服を賀奉り献上物あり。同日日吉領を倍加す。其外奉納物多し。今日山門の衆徒等之を賀奉る。同日社司晴時に一所を賜はる。同日勅使広橋大納言兼秀卿帰洛、禄原与へらるゝ。

十六歳、将軍家御父子、観音寺の城に移り給ふ。正月六日将軍家御父子上洛。佐々木家の命に依り、浅井下野守久政供奉、年来の忠功に依り、従六位下に叙す。二月廿六日、将軍義藤卿、参議に任じ左中将を兼ぬ。三月細川右京大夫晴元家来、三好が一族、二万余騎京都へ押寄せんとの風聞あり。大御所右大将義晴公・当将軍義藤公、北白川の御城に入り給ふ。佐々木定頼朝臣の兄、雲光寺殿の嫡男龍武丸同道、北白川の城へ参らる。細川晴元京都を攻む是れ浅井久政が供奉する所の御君なり。四月十八日細川晴元上洛、四国の兵を引来つて北白川の在家を焼く。浅井久政、佐々木龍武、御曹子の後見となりて出向合戦し、首三百七十三討取る。将軍御感書を久政に給はる。

オープンアクセス NDLJP:218

今度細川令逆心、於北白川相働之処、即時懸付、首三百七十三討捕之条、御満悦不少。重而恩賞地可下置。猶伊勢守可申付者也。

  天正十六年四月廿一日  御判

             浅井下野守方

七月十二日、細川晴元、山脇相国寺に陣す。佐々木後見弾正忠定頼・子息左京大夫義賢、江州南郡の兵を催し上洛し、細川に与力し、将軍の御座北白川の城を攻む。浅井下野守久政、山下にて大に戦ひしが、味方に裏切の者多ければ叶はずして、城中に引返し、城に火を懸け、将軍家御父子に供奉し、江州坂本に下り、壺笠山の城に楯籠る。此時江州の大屋形は、幼稚にして観音城にありしを、浅井久政・河瀬刑部少輔・阿閇参河守・蒲生将監・山崎源太左衛門等に評し合ひて、坂本壺笠の城へ引取る。此時大屋形の後見定頼は、御敵細川晴元が舅なる故、是の如し。是より江州の兵士二つに分れて、大屋形方・定頼方とて父子兄弟絶信、国中穏ならず。八月三日主上御扱の事に依つて、細川晴元・佐々木定頼御赦免、勅使同道坂本壺笠の城に至つて、将軍家御父子の御入眼なり。

十七年六月、将軍家御父子上洛。此時細川晴元管領に任ず。佐々木四郎義秀・同定佐々木四郎義秀・同定頼子息義賢・浅井下野守久政供奉。

十八年二月中旬、摂州の三好筑前守源長慶同名宗三入道と不和なり。此事を晴元に訴ふる所に、晴元偏に示三を贔屓せらる。長慶大に怒りて宗三入道を討たんと欲す。三好長慶同宗三入道と合戦是に依つて、宗三、晴元の嫡子右馬頭晴賢の居城中島の城に楯籠る。長慶三千七百余騎にて、急に之を挫かんと取懸る。毎戦度に討たるゝ者多くして城中危し。宗三思へらく、所作の未練なる故に、晴賢辜なくして亡び給はん事、本意にあらずとて、三月朔日に同国江波城に引退く。此城は元より宗三が城にて、子息右衛門大夫政勝是に居る。即ち父子一所に楯籠るなり。同国に晴元の被官三宅権守といふ者あり。是も三好長慶に与す。是に依つて、晴元の家臣香西越後守を差向け、不日に攻落す。晴元即ち入城す。是は若し君臣不和なるに依つて、三好長慶逆心して、晴元を恨むべき事あるべきかとて、晴元の舅佐々木の後見弾正忠定頼に、内意を通じて助オープンアクセス NDLJP:219勢を乞ふなり。二月下旬三好長慶、吾が身一分の上には、恐らくは他人の随順する事あらんと、予め是れ覚悟なり。細川高国の子次郎氏綱を取立て大将として、河内国遊佐河内守長教・大和国筒井順照寺をかたらひ、中島の城に楯籠るなり。是に依つて、摂州・河内・大和の内、兵数多馳集りて三好長慶に与す。其勢三万余騎に及ぶ。六月十一日早天に三好宗三入道・子息右衛門大夫政勝は、手勢三千余騎、并晴元の勢二千五百騎を引率し、江波の城を打出で、江口の渡を越え、中島城に相近付き、江口の郷に陣取つて、予め約諾しける近江の佐々木定頼子息義賢の援兵を相待つなり。廿三日三好長慶、中島の城にて筒井・遊佐の人々を召集め、先づ江口の敵宗三を、今夜夜討にやせん。又三宅の城に押寄せて、細川晴元父子を討ちやせんと、評定一途ならざる所に、長慶が舎弟十河民部大輔一存が曰、敵宗三、此表へ寄来ると雖も、味方の大軍に恐れて、近江の加勢を待つと見えたり。若し一戦半に及んで、江州の大軍馳加はらば、一定味方の利あるべからず。急ぎ晴元の無勢にて、楯籠りたる三宅の城を攻落し、直ちに其勢を以て、江口の城を攻落さんに、何の難儀あるべきと、一存手勢八百七十騎にて、三宅城に押寄せ、急に之を攻む。已に一二の木戸を攻破る時、茨木筑前守大手に進出でゝ曰、仮令晴元朝臣、宗三入道を贔屓せられ、其沙汰に及ぶと雖も、正なく代々の主君を辜なくして討ち奉るべくや。何れの不道か是に如かんとのゝじり申せば、一存尤とや思ひけん。夫より人数を引払ひ、淀川の東の堤に打懸り、江口の城へ押寄せんとす。折節川水岸に湛へて、渡すべきやうなし。于時一存が先陣、乾次郎が一家手の者七十騎一度に打渡す。是に依りて、江口の西の木戸に破れ懸るなり。之を聞きて三好長慶は、細川氏綱を奉つて二万三一千余騎、丹波堤を筋違に、江口の東の木戸口に押寄す。城中の兵三千余騎一度に打出で相戦ふ。于時城中に逆心の兵ありて火を放つ。是に依りて、大将宗三入道・子息右衛門大夫政勝、大和口より落ちて越えんとする所に、河内国遊佐が内、小島十郎が発つ矢に中りて、川端に討たれぬ。右衛門大夫政勝は、甲斐なく逃去つて、江州を指して落つるなり。此合戦に討死する者、都て一千八百五十三人なり。大将宗三が首は、十河民部少輔一存が扈従、恒川八郎三郎之を取る。細川晴元父子主従廿余人、三宅のオープンアクセス NDLJP:220城を落ちて、丹波路に懸り嵯峨に到つて、暫く逗留して未だ入洛せず。将軍家遮つて、伊勢守貞孝を使として之を召され、六月廿五日の暮に及んで、晴元父子入洛す。佐々木の後見定頼朝臣、予め晴元に力を戮すべしとの事にて、当廿四日三万五千余騎を引率し上洛す。先陣進藤山城守貞治・二陣浅井下野守久政・三陣後藤但馬守実興、今道を越えて北白川に打出づる。佐々木京極大夫義賢は、義秀朝臣と同陣にて大津を経て上洛。〈一説に、此時は出陣なし。定頼と同じく観音城にありとなん。〉先陣既に西郊山崎神南に陣取る。大将義賢は東西の九条に着陣なり。此所に於て、摂州の註進を聞くに、晴元昨日廿三日敗北して、丹波路に懸りて落去の由なり。是に依りて、江州の勢、廿六日の卯刻陣を引払ひ、残らず上洛。同廿七日前将軍義晴公・当将軍義藤公、京都を御出で江州に御下向。是れ三好長慶が乱を避けて、御同道の人々には、大御所義晴公の御台所の御兄、近衛関白植家公・同御子内大臣晴嗣公・三井の門主聖護院准后道増・南都大覚寺門主義後〔〈俊カ〉〕・九条関白政基の二男三宝院門主義尭・久我大納言晴通・庭田中納言某、武家には佐々木左京大夫義賢・細川右京大夫晴元・子息右馬頭晴賢・同播磨守元常等供奉。今日の暮には神楽岳に御旅館。此所に於て、逆徒追伐の御評定あつて、東山慈照寺に御止宿。同廿八日今道に懸りて、江州志賀郡に御下向、東坂本常在寺を御旅館とす。此所に於て、三好退治の評定あり。然りと雖も、本人細川晴元父子臆して、先陣討つべきの覚悟なし。浅井下野守久政之を謾り陣を引払はんとす。佐々木後見定頼、観音城を出で来りて之を諫むと雖も、晴元敢て進むことを得ず。再往の諫言に及ばず、浅井下野守久政・進藤山城守貞治等、義秀朝臣を奉じて引退くなり。七月九日三好筑前守長慶、細川氏綱を奉じて上洛し、悉く巡見して、十五日摂州に下向す。家人松永弾正忠久秀を京都に留置き諸司とす。八月十一日将軍家御父子、上野民部大輔信孝を遣して、越前朝倉伊勢の国司を召さる。十月廿八日将軍大御所、佐々木定頼父子に命じて、慈照寺の大岳中尾の山に御城を築かれんとて、今日鋤初す。永原太郎左衛門・山崎源八郎之を奉行す。十一月廿六日より将軍大御所御不例、上池院法印紹弼御薬を調進し奉る。十二月四日御所御快気に依つて、伊勢国住人加多兵庫助教員が所持の大鷹竟花と号するを、彦部雅楽頭晴直を以て、之を召され、長オープンアクセス NDLJP:221等山御狩、近衛准后父子、細川家以下供奉。三井の衆徒等多く出迎へ夜に入りて還御。浅井久政、進藤山城守に語りて曰、将軍家の体を見るに、甚だ武の御器量少し。勢州の加多が秘蔵する鷹を召し、之を御慰とせらるゝ事、此時に当らず、唯義士を集め、武林の下に慰み給はゞ、何となく御運も開かるべし。人は其作用にうときとき、必ず家を失ふ者ぞ。将軍家和歌に達し給はんより、武に達し給はゞ、誠に先祖の大功も、自ら輝かせ給はんとなり。同甘一日より復将軍大御所御不例なり。今度は片岡大和守晴親御薬を奉る。

十九年正月五日より、復上池院御薬を奉る。足に腫気あり。同八日には山徒正覚房法印が勧に依つて、御近習十二人登山して、中堂まで千度巡礼あり。久政之を聞いて曰、人必ず亡びんとする時、先づ空しく物にかゝりて内に不宿、依つて物を頼む。是れ先表なり。〈久政名言といふ。〉鬼神を祈るは常なり。事に臨み祈るべき所なし。嗚呼将軍家他界せば、三好時を得て、天下是が物となるべし。是れ武将の勤めざるあやまちなり。自己の神明を磨出す人稀なれば、皆是の如しといへり。同十六日には、将軍家の御祈として、佐々木・細川の両家より大神宮代参、江州より平井駿河守勢州に行く。同十七日前将軍家御不例大切に依つて、殿中に於て御祈事あり。義賢・高保・高実之を奉行せらる。同廿一日将軍家御不例小験、貴賤慶悦。同廿七日復御病重る。是に依つて、竹田瑞竹軒定栄御薬を奉る。同廿九日、佐々木後見定頼朝臣、山門祈願所鶏足院・覚林房・上乗院・実光房・正覚房・南光房、一ハ坊の法印を請じて、去る廿三日より今日に至るまで、一七日温座の降魔あり。件の寺は佐々木代々祈願所なり。山門の衆徒、之を六角家六坊といふ。二月二日より平井宮内卿明英・上池院紹弼両人、一紙誓言の御薬を進む。同十六日復中尾の御城普請事始り、佐々木定頼朝臣悉く之を調ふ。此城、坂を登る事七町半余中間に於て武者屯三所あり。南方如意岳に続ける尾崎を、三重に掘截りて、二重に壁を付け、石を其中に入るなり。四方山続きなく最よき城なり。目下に山・摂・丹の三国を見下す。同廿八日大御所御病小験なり。三月七日、今日吉日と稽へ申すに依つて、大御所義晴公・当将軍義藤卿御同途、御座を穴太の新房に移さる。廿六日御快に依り、廿七日如意岳の新城に移らせ給ふべしとオープンアクセス NDLJP:222て、方に御動座の所に、伊丹大和守雅興叛逆の事、註進ありければ、猶新房に御逗留。四月中旬より大御所御快気に依つて、佐々木義秀・細川晴元等、日吉社にて神楽あり。久政之を奉行す。同下旬より大御所御病重く御薬常の如し。五月朔日、大御所不快、是に依りて、如意岳在城の人々、上野民部大輔信孝・伊勢守貞孝・三淵掃部頭晴員・大館左衛門佐晴光・摂津守元造・飯川山城守信賢等、各穴太の新房に来集す。三日大御所、上野民部大輔信孝に命じて、土佐刑部卿光茂を召して、御真影を写さしむ。四日戊辰辰下刻、前征夷大将軍正二位大納言兼右近衛大将源朝臣義晴卿御他界。武算四十一。将軍義晴他界万松院殿御法名道照道、号曄山。七日、左大臣従一位を贈る。今日御棺を慈照寺に移す。御仏事は相国寺鹿苑院に於て、之を執行す。細川右京大輔晴元・子息右馬頭晴賢・同元常・佐々木修理大夫義秀・同弾正忠定頼・息左京大夫義賢・同中務大輔高保・同左近大夫高実・朽木民部少輔植綱等、穴太の御所へ香奠を奉る。九日御台所御雉髪。号慶寿院殿。御戒師は妙安和尚。前将軍義晴公近臣多く剃髪す。十一日佐々木・細川勧め申すに依り、当将軍義藤公、穴太の新房より比叡辻宝泉寺に御座を移さる。廿一日御葬送、松田対馬守盛秀之を奉行す。五山長老西堂諷経。公家には烏丸大納言光康・飛鳥井大納言雅綱・広橋中納言国光・藤右衛門佐永相・日野左少弁晴賢各送り行く。廿六日御中陰仏事満散。今日勅使烏丸大納言光康・広橋大納言国光、贈日輪当午の法華経一部。六月廿一日、前将軍義晴公の御遺物を禁中に差上げらる。御使は伊勢守貞孝、烏帽子上下にて参内す。御腰物は大原真守鮫鞘、金具は焼付、胴丸の目貫・縁・柄・頭折金、何も彫物御紋なり。伝奏広橋黄門之を請取つて、即ち叡覧に供へらる。主上御泪を御衣に落させ給ふとなり。廿八日諸公家江州坂本に下着して、宝泉寺の御前に於て各拝謁す。

 
浅井物語
 
 
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浅井日記 
 
三好、細川合戦天文十九年十一月十九日、三好筑前守長慶、二余万人を引率して上洛し、東山の御城を焼き、并北白川の在家に放火す。同廿三日、三好長慶、大津松本に放火す。細川晴元并将軍義藤公の近臣三井寺に陣し、佐々木義秀並浅井下野守久政、粟津より打懸り相戦ひ、三井寺に陣取し、細川以下の兵敗北し、坂本へ引返す。是に依つて、粟津の合戦勝に乗るといへども、三好事ともせず、江州勢の河瀬壱岐守・同丹波守馳前む。精兵多く船手より射ける矢に、三好難儀して山科に引退き、三好、山科より直に摂州に下る。同月三好長慶、摂州より上洛東山に放火し進んで、大津松本に到る。晴元等が家人敗れ走る。

同廿年三月、三好長慶、細川氏綱を奉じて上洛し、十月参内す。洛中地子銭を免許す。是れ洛人を懐けんが為めなり。七月十四日。細川晴元家人七百余人、相国寺に楯籠りて、静つ原の山本対馬守・大原の久保勘解由左衛門・芥川左近・山科の四宮十内左衛門等を語らひ寄せ、三好長慶上洛せば、不意に囲んで、之を討つべしとの事なり。芥川左近、三好に反忠しければ、方便悉く相違して、三好却つて逆寄に来て之を討つ。此時相国寺悉く回禄す。源定頼逝去八月大内介義隆の家人陶安房守晴賢謀叛して、九月朔日大内介自殺す。此時公家多く自殺す。廿一年正月二日、佐々木後見弾正忠従四位下行兼大膳大夫源朝臣定頼逝去。行年五十八歳。江雲寺殿と号す。法名承亀と号す。道号光室。此人元相国寺僧。亀侍と号する者、舎兄氏綱朝臣逝去後、佐々木嫡領義実、幼稚にて乱世の故、廿七歳にて還俗せられ、江州の後見として其武威高し。同廿八日将軍義藤公、坂本宝泉寺より上洛、近衛関白植家卿・同内大臣晴嗣公・聖護院門主道増・大覚寺門主義俊・三宝院門主義尭・久我大納言晴通同途、武家には浅井下野守久政・佐々木義秀〔〈脱字アルカ〉〕を奉て後陣に打つ。左京大夫義賢は、父定頼朝臣の喪中なるに依つて、供奉を闕かる。此時細川右京大夫晴元は、舅定頼朝臣逝去の後、頼む方なくなりて、江州堅田に蟄居せられけるが、将軍家三好と和睦将軍家既に三好と御和睦なつて、上洛オープンアクセス NDLJP:224し給へば、剃髪染衣の身となりて、堅田を出奔せらる。浅井久政、江州傍輩中に語りて曰、されば右京大夫義賢は、彼が為めには小舅なり。殊に伊勢国司北畠・能州畠山・本願寺・美濃国主土岐等、是れ皆父定頼有縁の国主なり。蓋ぞ此度此人々を相語らひ、晴元を取立て、三好を退治して、彼が憤を散ぜざらんや。是れ偏に義賢武備の足らざる故なりと、はがみて歎息す。二月廿六日、細川二郎氏綱其弟藤賢、摂州より上洛し、三好長慶供奉、翌日将軍義藤公に謁す。三月十一日、細川氏綱右京大夫に任じ管領に補す。其弟藤賢右馬頭に任ず。時に三好長慶、天下の権を執る。此時三好が家人松永弾正忠久秀、長慶が長男義長が乳母と嫁して諸事を沙汰す。其奢甚し。又長慶、此松永を京師に留めて万づ下知す。此松永は西岡の凡下の者なりしが、方々に変化して、終に三好に仕ふるに至つて、内縁に懸ること是の如し。六月十日、越前国主朝倉左近将監延景上洛し、将軍家に謁し衛る。諱字を給はりて義景と号す。実は江州佐々木の管領氏綱朝臣の二男、朝倉弾正忠孝景、これを養子とす。七月八日朝倉義景帰国。此時左衛門督に任じ従四下に叙す。江州に滞留、浅井下野守久政が館、小谷の城に於て軍事を評論す。今世武道に正しき将なし。運に乗じて一旦功ありといふとも、後代武の亀鑑に備ふべき者なしと、義景曰、夫れ吾が武は子孫の繁栄を能くすと雖も、非道にして身を立てずと。

廿二年正月三日、六角義秀朝臣、元三会勤行せらる。精進代鶏足院導賀、浅井久政代官として登山。七月廿八日、将軍家許容あつて、前右京大夫晴元父子上洛す。是は佐々木左京大夫義賢予め申しなすに依つてなり。嗚呼是れ乱の元か。今武将無実なり。足利家滅亡殆んど相近しと、久政之を歎く。八月朔日、三好長慶、前右京大夫晴元父子が許されて上洛すと聞きて、摂・河両国の兵二万余人を引率上洛す。将軍家防戦に及ばず、京師を去つて丹波国山国に下り給ふ。同十三日、将軍義藤公勅命に依り上洛。

将軍義藤義輝と改名廿三年二月十二日、勅詔に依り、将軍義藤公、御諱の字を改めて義輝と号す。佐々木家名代として浅井久政上洛し、之を賀奉り、将軍家に謁す。十月十五日、小谷城、普請成就。

オープンアクセス NDLJP:225弘治元年正月廿五日、大地震、江州所々に損ず。二月、日本乱世故、流人多く大明にかゝるの由註進。三月十四日、石見国より白鹿を献ず。五月三日、安芸国厳島神顕廿三日に及ぶ。毛利元就陶全姜と合戦十一月朔日、毛利右馬助元就と陶全姜と合戦し、全姜安芸国厳島に攻め入り、夜に乗じて之を討ち、全姜敗北す。是より毛利武威甚だ高し。大友義長之を聞き、走りて長門国に到り、深川大寧寺にて自殺す。毛利は尼子の家来、陶は大内介の家来、何れも主君を亡して武を輝すとなり。

二年、相州小田原の北条氏康、切ほこり其武徳を以て、足利左馬頭晴氏の子、義氏を取立てゝ、葛西谷に移し、奏聞を経て左馬頭に任じ、鎌倉公方と号するなり。伝聞く、氏康の先祖、常に絵島明神を祈るとなり。久政曰、人必ず貧乏にして、能く仏神の心に叶ふ。神亦之を憐む。富貴の時、貧を忘れずとなり。十月越後の上杉景虎・太田三楽と、北条氏康と上州にて合戦す。景虎は元来関東上松家に僕たり。主君の称号を給はりて上杉と号す。

後奈良院崩御三年九月五日、主上崩御、後奈良院と号す。三月佐々木大屋形義秀、勢州を攻む。義賢之を下知し、小倉参河守三千騎を以て、勢州千草城を攻め、同じく三重の城を攻む。倶に勢州軍記にあり。正親町天皇践祚十一月廿七日、践祚、当今御年四十二年。近年打続く度度の兵乱に付、御即位の事延引、漸く先帝崩御の後、此の如きなり。

三好松永の乱永禄元年、三好松永が乱に依つて、将軍源義輝並に細川晴元、朽木へ没落。同年正月廿四日、将軍義輝公、細川前右京大夫晴元を管領に補せらる。三好長慶之を聞き、上洛せんと欲す。是に依つて二月三日、将軍家、細川晴元父子を召連れて、勝軍山の城に入り給ふ。浅井下野守久政、佐々木後見承禎入道を諫めて、将軍家並に細川晴元父子を、江州へ迎へ奉る。浅井久政、主君義秀を奉じて、坂本に往きて将軍家を本誓寺に移し奉る。三月朔日、将軍家並に細川晴元朽木谷に移り、此所に於て、三好退治の評定あり。十三日、将軍家朽木より龍花の下生庵に御移、佐々木義秀並に承禎入道・子息義祐・浅井下野守久政、此外江州の旗頭中残らず参り集る。細川晴元父子先陣に相究め、四月廿三日、将軍家御座を、和途の善福寺に移さる。五月三日、将軍家、又御座を善福寺より坂本本誓寺に移さる。六月四日、諸軍勢如意岳の城に入オープンアクセス NDLJP:226りて軍伍を定む。于時細川晴元父子先陣。二陣江州の先手甲賀組。三陣佐々木義秀並に浅井下野守久政。四陣佐々木承禎父子。五陣将軍家の御家人。八日早天、先づ諸軍を勝軍山に移さる。午刻に至つて、将軍家義輝公、坂本本誓寺より勝軍山の城に御移り、九日未刻に、三好長慶が先陣松永弾正忠久秀、八千七百騎にて勝軍山の麓に押寄す。江州勢則ち山を下りて合戦、敵七百五十七騎を討取る。味方の内、河瀬刑部少輔討取る。其外、細川晴元の兵、将軍家の御家人江州勢合せて、三百五十四騎討死す。此内甲賀組多く死す。九月廿四日、松永久秀と、将軍家の御家人并細川晴元の兵と北白川にて合戦、将軍家の兵並に細川の兵打負け、引取らんとする所に、浅井久政横合に之を討ち、松永が兵七百三十騎を討取る。松永大に敗北し、将に討死せんとする所に、西村主水正、浅井勢に討つて懸りて大に戦ふ。此間に松永久秀、虎口を遁れて入洛す。九月義輝並に晴元、坂本より進発し、勝軍山の城に旗を建てられ、松永弾正と白河にて合戦、十一月三好長慶と和睦、義輝は帰洛し、晴元をば芥川に囚へ蟄居せしめ、年を経て死す。十一月十日、勅命に依り、三好和睦の事相調ひ、将軍家御入洛なり。前右京大夫晴元をば、三好長慶家来池田太郎左衛門を以て、之を召取りて、摂州芥川に召籠め置き、歳を経て晴元は病死。是より細川家断絶す。三好大に天下の権を執るなり。

二年二月上旬以来、浅井下野守久政、江州大屋形義秀を奉じて、後見承禎入道の武器の儀中らざる事を謗る。其故は、承禎先に姉婿細川晴元が、三好が為めに亡されしを助け得ざる事を悪み思ふとなり。是より江州二つに分れて、佐々木代々の家人、父子兄弟の間を隔てゝ、互に相凌ぐ。三月二十日夜、承禎の長男四郎義祐十六年、居城箕作を去つて、佐和山の城へ退く。廿一日、浅井久政勢を寄せて之を攻め、数日合戦に及ぶ。廿二日、百済寺衆徒中之を扱ふ。是に依りて、久政兵を引去る。四月三日、高野瀬美作守秀定、敵として承禎に背く。承禎父子八千余騎にて之を攻む。浅井久政、高野瀬を救ひて、大屋形義秀を奉じて、其勢一万六千騎にて後巻す。是に依つて承禎父子、塘を築いて水攻にせんと支度す。其塘縦五十八町、横十三間なり。高野瀬出で戦ふ。翌四日、叡山衆扱に依り、承禎兵を引去る。五月三日、長尾景オープンアクセス NDLJP:227虎、越後より上洛す。将軍家御相伴に召加へらる。加之関東管領職を申請け、又御諱の字を給はりて輝虎と号す。七月八日、上杉輝虎帰国、浅井久政、小谷城に迎へて軍事を談ず。

正親町天皇御即位三年正月廿七日御即位、毛利元就其料を調進す。是に依つて、大膳大夫に任じ、菊桐の御紋を賜はる。五月、今川義元駿河より発向し、遠・三両国を討従へて、尾張国に討入らんとす。此時、織田弾正忠信長、援兵を浅井に乞ふ。佐々木管領義秀、浅井備前守長政を差越〔〈遣カ〉〕すべき評定極の所に、当国不安の故之を止めらる。甲賀の池田前田の一族に、三千余人を差加へ、之を遣す。十八日、浅井久政が計らひとして、織田信長の娘を大屋形義秀の御前に嫁入せんとし、信長に申送る。信長悦んで許諾し、舎兄大隅守信広の娘を養つて、義秀朝臣に嫁す。承禎父子不快なり。浅井長政が室は信長の姉なり。国人も之を吉とせず。然りと雖も、久政之をなす。信長は今世の強将にして、当国の助なりといひて、終に嫁娶の儀、相調ひて興入あり。信長娘千世君廿二歳、義秀十九歳。

四年正月、三好長慶の長男義長上洛して、将軍義輝公に謁し、義長、新宅を洛に造る。落成の後御成。三月十九日、八幡山典厩義昌逝去。大屋形義秀朝臣の叔父なり。四月十日、勢州梅戸左近大夫卒す。佐々木前屋形高頼朝臣の三男なり。勢州に往きて梅戸の家を継がる。五月、大屋形義秀朝臣の若君誕生。御母は織田信長卿の娘なり。七月廿六日、佐々木承禎勝軍山に出張、神楽岡にて合戦す。浅井下野守久政、同備前守長政等、主君義秀を奉じて如意岳に陣す。三好義長対陣す。廿八日、将軍家御扱として、伊勢守貞孝を江州に下さる。江州勢是に依つて引取る。九月十日、武田信玄と上杉景虎と、武田上杉合戦信州河中島にて合戦す。輝虎は車備を以てす。信玄は鶴翼の備なり。輝虎難なく鶴翼を打破り、切貫きて海津の城へ打入り、切貫きたるを勝とす。武田は場を蹈へたるを以て勝とす。此時武田の兵多く討死す。十一月廿四日、三好と手切に依つて、江州より攻上る。勝軍山に陣す。江州先陣長原安芸守、北白川にて相戦ふ。先手敗北して長原討死す。其外、細川晴賢の兵百二十騎討死す。此時、柳本・内藤・赤沢三郎も討死す。敵の先陣松永弾正が兵二百三十騎討取る。対オープンアクセス NDLJP:228対の合戦なり。浅井下野守久政、三好勢の左備と相戦ひて、浅井小泉を討取り、其外七十三討取るなり。十二月十日、洛陽城北焼く。今月江州白鬚明神の前、湖中玉石の華表現す。

五年五月三日、織田信長と斎藤右衛門大夫龍興と、西美濃に於て合戦、斎藤敗北す。龍興予め浅井久政に援兵を乞ふと雖も、江陽騒動の故是に応ぜず。

六年正月、安房里見義弘・武州岩付の城主太田三楽と、北条氏康・同氏政と、武州国府台にて合戦、里見敗北す。四月二日、東寺塔雷火。十日浅井。下野守久政、佐々木管領義秀朝臣を奉じて、浅井久政佐々木承禎と合戦愛智川にて佐々木承禎と合戦、浅井急に之を挫ぐ。承禎敗軍して甲賀に入る。五月十日河州の畠山政家と、三好義長と合戦、畠山敗北して千三百余討死す。十月朔日、承禎の長男右衛門督義祐、大屋形義秀を亡さんが為に、偽りて種村大蔵少輔・建部采女正両人に命じて、先づ義秀公の長臣後藤但馬守を、今朝登城の次を以て、観音寺の城山の座敷に於て之を討つ。息後藤又三郎も同時に討たる。其弟又六郎は、大屋形の御前に侍りて、此騒動を聞き、即ち山の座敷に走入り、種村・建部に討つて懸り、暫く相戦ひて死す。国中登城の面々、大に驚き其故を問ふ。義秀朝臣、浅井久政に命じて之を尋ねらる。建部・種村事を当座の喧嘩に譲つて、大慈恩寺に馳入る。二日、浅井下野守久政、大屋形義秀の命を蒙り、後藤自殺の事、急いで糺明せらる。評定の人々、進藤山城守賢盛・後藤豊前守宗保・朽木宮内少輔貞綱・山崎源太左衛門賢家・蒲生右兵衛大夫賢秀・貴地駿河守賢相・平井加賀守之武・池田大和守定藤・磯野丹波守秀昌・本馬五郎左衛門成保・小倉備前守実治・加藤佐渡守家治・建部源八兵衛秀明・種村伊豆守高安・武藤肥後守家明・山岡美作守実俊・馬淵美作守元房・布施淡路守公雄・木村筑後守重孝・目加多左大夫秀遠・同又六郎秀保・三上伊予守秀成・宮本右兵衛賢祐・杉立又九郎秀政・森川民部少輔氏房・土屋左京進為吉等なり。其僉議未だ決せず、翌朝三日に及ぶ。右衆中猶観音城にあり。四日、和田和泉守貞国、右金吾義祐の内意を承けて之を扱ふ。五日、大屋形御病気、是に依つて、旗頭中評定停止。于時承禎父子、大屋形の御病気を候はんが為に入城す。浅井下野守久政・同備前守長政・進藤山城守賢盛等、之を遮つて、義秀朝臣の入城を許さオープンアクセス NDLJP:229ず。七日、訴人片桐主馬助、評定の場に出でゝ、承禎父子隠謀の事を白状す。八日暁、佐々木右衛門督義祐・同舎弟大原二郎賢永、日野の谷貝懸に落去し、承禎は甲賀郡三雲に落去す。十日今度右衛門督義祐逆意に付て、浅井下野守久政・同備前守長政沙汰として、近江国中の諸士を集め血を歃りて誓盟を堅む。所謂京極伯耆守高郷・同長門守高吉・進藤山城守賢盛・後藤豊前守宗保・同又五郎直政・乾甲斐守秀氏・伊庭民部少輔実家・池田大和守定藤・同新三郎豊雄・同次郎左衛門高雄・同但馬守秀政・石田刑部少輔賢三・伊左可中斎宗円・井口宮内少輔秀成・磯野丹波守秀昌・伊達出羽守実方・子息同出羽守秀宗・伊吹宮内少輔秀国・今井駿河守秀之・猪飼源五左衛門秀依・馬場丹後守頼資・畑勘六左衛門高氏・速水右馬助実枝・林与左衛門高之・錦織民部少輔常義・西野丹波守秀方・堀内蔵丞賢永・同弥六郎正和・同伊豆守信武・同新助賢安・細江河内守秀時・本荘孫二郎賢雄・本間又兵衛賢治・同五郎左衛門武保・戸田河内守則国・富田刑部少輔実綱・藤堂角内左衛門高光・徳永左近将監元方・鳥山左近丞実輔・大原丹後守定綱・岡田備後守良隆・大宇大和守秀則・大野木備前守高盛・落合八郎左衛門高経同出雲守家祐・隠岐平左衛門公広・同左近大夫賢広・小倉備前守実治・同内蔵助実雄・尾園管左衛門賢房・同土佐守定覚・大津日向守秀持・小河土佐守秀三・和田伊賀守惟政同和泉守貞国・同中務丞秀綱・腰坂甚内左衛門安守・和途越後守秀信・若宮兵助秀光・渡部監物高方・河合左馬亮康明・同安芸守実之・蒲生右兵衛賢秀・堅田兵部少輔秀氏・片桐備後守実光・同備中守実方・柏原美作守資冬・鏡陸奥守高規・亀井民部少家継・加藤佐渡守家治・同孫六忠次・川野新兵衛貞英・片岡善左衛門元恒・川瀬壱岐守秀盛・海北善右衛門実新・同主水正実信・同主膳正秀信・狩野弥八郎時光・金田河内守実継 〈秀宗兄なり〉梶原平八郎景宗・金田監物秀宗・神崎右近大夫賢高・同与太郎昌氏、横山佐渡守高長・吉田安芸守定雄・同若狭守定之・田上甲斐守実国・高島越中守実国・同日向守秀氏・高宮参河守豊信・信武・建部左近将監信勝・同大蔵少輔秀治・同源八郎秀明・高木右近大夫義清・藤堂善兵衛実成・田中播磨守実氏・同主馬助秀忠・同久兵衛吉政・谷口武兵衛兼条・多賀日向守秀名・同新左衛門吉忠・高野瀬美作守秀隆・多羅尾和泉守賢頼・種村大蔵大輔身誠・同参河守賢仍・同伊予守高成・同伊豆守高安・高田安房守実方・高橋オープンアクセス NDLJP:230越前守好信・田村兵庫助景輔・津田権内介高光・永田刑部少輔賢家・同左近大夫秀家・楢崎内蔵助賢家・同助八郎弼高・永原大炊頭実冬・同安芸守信頼・鯰江満介貞時・同又八郎貞雄・中原安芸守貞行・村井大学介高冬・武田肥前守信重・武田若狭守信佐・武藤肥後守家明・同与助武信・氏家・左内左衛門守之・植村丹後守実頼・宇野武蔵守親光・野村越中守高勝・同肥後守秀勝・栗田式部少輔秀元・朽木宮内少輔貞綱・同信濃守元綱・黒田伊賀守高三・同市正忠清・熊谷二郎左衛門貞之・倉橋部右京進政広・九里三郎左衛門秀雄・山田掃部助秀成・山内〈本ノマヽ〉〕川守高吉・山岡美作守実俊〔〈江州南部旗頭随一なり大日山の城主〉〕・同八郎左衛門景隆・山崎源太左衛門賢家・山際出羽守秀俊・山路主殿頭弼高・馬淵美作守元房・同源右衛門家盛・同豊前守賢秀・間宮若狭守信冬・真野佐渡守信重・町野石見守秀俊・松原弥兵衛賢佐・藤井豊前守貞房・布施新蔵人賢友・同淡路守公雄・同藤九郎公保〔〈古今至考人也〉〕・舟木重兵衛氏信・後藤豊後守宗行・同又五郎真政・杓修理亮賢安・同孫三郎秀豊・同丹後守秀道・駒井伊賀守貞勝・香荘源左衛門賢輔・上坂兵部少輔高宗・小足掃部助政之・寺田掃部助成時・青山左近大夫実定・青木忠右衛門正信・赤田信濃守信光・赤座加賀守秀春・同勘解由左衛門賢隆・同孫八郎永政・青地駿河守実貞・同伊予守秀資・阿閇参河守信之・同淡路守長之・安養寺河内守秀春・弟子猪介高春・赤尾美作守長行・坂田河内守泰高・沢田武蔵守秀忠・同兵庫頭忠次・木村次郎左衛門重光・同筑後守重孝木戸越前守秀資・万木能登守高成・目加多左大夫秀遠・同越後守貞遠・同文六秀保・三井新三郎安隆・同出羽守賢之・三上孫兵衛高久・同蔵人佐高佐・同伊予守秀成・同総左衛門頼久・同九郎左衛門重政・三雲丹後守氏之・三田村相模守氏光・宮部安房守定秋・宮川参河守貞度・三塚備後守高徳・箕浦越後守高光・水原河内守賢隆・同伊賀守資盛・同甚助二〔〈本ノマヽ〉〕成・宮本右兵衛賢祐・同新次郎忠祐・進藤伊賀守貞方・下内太郎左衛門長安・新村左衛門忠資・新荘伊賀守実頼・志賀山城守頼佐・日夏越前守秀種・同孫三賢佐・樋口二郎左衛門之藤・平井駿河守定能・同丹後守賢供・一柳右馬助正之・木須管介貞清・森川左近将監氏兼・瀬田掃部助秀昌・千田伯耆守賢房・須田下総守家康・同七郎左衛門賢隆・杉立又九郎秀政等なり。〈家日記曰、江州諸士之頭二百六十人、此起請文於佐々木神前灰焼吸食之、子孫永々奉屋形、逆心有之輩、悉可深罰也。依是当家之御家人等於末世異念者、云々。〉

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    敬白佐々木大社上巻起請文前書

、近江国中御家人、依奸乱大乱之条、是併諸臣越度不之。向後改順路之儀、起請文相固之上者、大屋形様并承禎公御為、御国之為、聊以不私曲、可然様可覚悟事。

、自分之公事令言上論訴、御糺明之所、乍非義、巧言者道理之由、不掠申上事。

、他人之公事執取申上事、乍其仔細相紛。猶以乍非義、或為縁者・親類・朋友等、耽賄賂道理之由、不掠申上事。

、公事執申輩、乍道理之旨、或恐権門、或被有縁輩、不仔細申分、為其公事非分之儀不之。并言上之仔細申募固、又者含他事之憎公事相手、同執申輩、申沈巧言讒訴不仕事。

、於仰出者、具以可申渡。然言上之輩、誤并論之者不然之旨、所心中、無油断申聞事。

、依相手権門、其身之儀執申輩無之者、其旨趣以起請文、連判衆中指当其仁体、両人可之。然件之相手、縦雖親類・縁者・烏帽子親之間、不斟酌、右之旨、慥相届可言上事。

、年貢所当諸役之儀、借用物等諸催促之儀、御中間之事者不申。雖自分之催促人、速可其越判仁、縦雖催促人、為御中間請付註進。然卒爾之働令緩怠者、不仔細其咎、可仰付拾置事。

、連判衆之内、喧嘩・口論・公事等落居之儀、被相届仁体有之者、至其時起請文、無贔屓偏頗順路異見。若判者申旨、無同心者道理方人相組可之事。

、雖非分、於御裁許之儀者、則其旨趣、被載新式目、其公事之類、向後一様於御成敗歎也。若又新式目不書載已前、背右之旨御書奉書等、申給輩有之者、一同御理可申上、不緩怠事。

、致理非決断仰付、於抱置揆〔〈脱字アルカ〉〕者、仔細各爰可申渡。然者可御成敗旨可相届。尚以無一途者、既背公儀之条不軽。濫悪縦雖オープンアクセス NDLJP:232見放、一味同心方付可相達事。

、御使節并諸事奉行等相勤之輩、或以私曲依怙、或以非分之儀、民悩儀不仕事。

、為代々方御家来之身、依当分之御奉公、号大屋形様方、号承禎公方、偏頗不存。若此旨者、此起請文御罰、至子々孫々迄、可罷蒙神罰深厚事。


、向後御家人者不申。他国御旗下之面々、於逆心者、早速可言上。依遁間緩怠者、子孫永々可氏々之大社神罰。尤可御記録所々名号事。

右此条々為公私相同者也。十三箇条之内、而後心中之誤者不有。神罰心裏仔細存、少相紛令執行之者、忝此大社上巻起請文之御罰、可深重〔也カ〕。仍前書如件。

  永禄六年十月十日

十一月六日、前大屋形義実朝臣の二男、右京大夫義頼、若州の武田大膳大夫義統の為に養子となり。浅井下野守久政、是に供奉し若州に送る。

七年五月五日、大屋形義秀朝臣の若君生る。七月晦日、尾州の信長と濃州の斎藤龍興と戦ふ。龍興敗北す。八月十日、復信長と龍興と合戦す。斎藤大に敗北すれども、終に信長の旗下とならず。浅井備前守長政、赤尾に告げて曰、斎藤は誠に今世の義士なり。末世武道盛んならん時は、此人を取るべし。又武道衰へて今日の勢に着く世には、必ず是等を用ふべし。嗚呼今より後、義士あるべしとも覚えず。唯商人の友を以て緑として、諧ふ如きの士のみ将のみ多からんといへり。

八年五月、三好左京大夫義継家人、松永弾正忠久政等、将軍家を蔑如し、大に逆威を振ひ、天子を軽んじて之を見奉る事、只神社の祝部の如くする事を、将軍家悪み思食すに依つて、彼等誅伐の為めに、蜜に御内意を以て、佐々木管領義秀・武田大膳大夫義統・丹後の一色左京大夫義嗣に頼る。爰に佐々木承禎の長男、右衛門督義祐は、三好左京大夫義継が姉婿たる故、此事を以て三好に告げ報ず。三好義継等将軍を攻む三好義継・松永弾正忠久秀・同右衛門佐久道、急に兵を催し、其勢八千余騎にて、十九日の暁天に不意にオープンアクセス NDLJP:233発して、将軍の御所を打囲む。御所の勢、纔に五百余騎なり。相戦ふこと辰の刻迄に、御家人悉く討死す。時に将軍家義輝公、自ら手を下し相戦ひ防がる。御印三箇所負はせ給ふに依つて、将軍義輝自尽御殿に火を放ちて御自殺なり。御母公大方殿慶寿院殿と号す。同じく自殺す。是は近衛植家公の御娘なり。将軍家行齢三十年。二十日、三好義継、家人平田和泉守を遣し、将軍家の御舎弟北山殿、鹿苑院御門主周暠をすかし、洛内を出で夷川にて殺害す。義継、家人茨木備前守を南都に遣して、将軍の御弟一乗院の御門主を討取らんとす。此に三好義継が家人、元は将軍家の者なりし大庭大学助といふ者、密に人を南都に下し、京都の次第、門主に告げ奉る。是に依つて、一乗院御門主覐慶、二十日の戌刻に南都を忍び出で、春日山に入らせ給ふ。此所より御家人大館左京大夫を以て、江州に告げらる。廿二日、江州より一乗院殿御迎として、平井加賀守之武を遣さる。之武即ち御門主を供奉し、南都より直に江州甲賀郡和田和泉守が城に入れ奉る。是は承禎の嫡子義祐は、三好義継が姉婿たるに依つて、観音城へは之を入れ奉らず。二つに分れて、佐々木家来中連判神文の内も心々になりて、義祐方に与する者多し。浅井久政・同長政・進藤山城守賢盛に告げて曰、義秀朝臣の命を請けて、南都の門主覚慶を取立てんとす。義祐方の城主等、之を討ち奉らんとはかり、国内穏ならず。六月七日、前将軍義輝公に左大臣従一位を贈る。光源院殿融山道円公と号す。八月四日、佐々木右衛門督義祐、甲賀郡の御所覚慶を討つべき由を、甲賀廿一家の中、望月刑部左衛門・内記三郎左衛門・大野右近上野十内左衛門・大川原左馬助・里川八郎左衛門・神保角内左衛門等に評し合すと風聞す、大屋形義秀、進藤山城守賢盛に命じて、御門主を野州郡の内、矢島の小林寺に移し奉らる。則ち進藤山城守之を警固す。承禎父子は、三好合体なれば、江州の御家人等両家に相分れて、偶〻交る時は、水の油に入るが如し。九月八日、浅井久政、主君義秀に諫言し、覚慶還俗矢島の御所覚慶を還俗させ奉る。京師に達し密に元服、左馬頭に任じ従五下に叙す。勅使庭田中納言重保卿下向。加冠は佐々木管領義秀朝臣、理髪は上野中務大輔清信、打乱は浅井備前守長政、泔抔は三淵兵部少輔藤孝なり。時に国主義秀卿、太刀・鎧等を献ず。浅井久政・同長政、御馬を献ず。今日改めて義昭とオープンアクセス NDLJP:234号す。

九年春二月十日、矢島の御所義昭公御扱に依つて、承禎は三雲より、義祐は貝懸より、観音寺の子城、箕作の城に入る。浅井父子、和睦の事甚だ同心せずと雖も、諸旗頭中、各同心の上は、独異儀に及ばざるなり。是に依つて、承禎父子、深く浅井を悪まる。浅井父子も亦之を憤る。〈勢州記、永禄九年三月十一日、佐々木義秀後見承禎、京都に攻上る。大手粟田口、搦手は山中今道中尾山に陣し、大手南禅寺上に陣す。三好と合戦、三好敗北都を落つ云々。〉 十三日、江州十六人評定衆、誓盟を固む。五月、出雲国主〔尻カ〕子屋形没落の故に、家人亀井新十郎永綱、譜代主君の家を出で、他門に仕へん事を恥ぢて、大屋形義秀朝臣に仕へん事を乞うて、江州に来つて浅井長政に談ず。屋形厚く憐愍を加へらる。十二月廿八日、三好左京大夫義継家臣松永弾正忠等評定して、前軍万松院殿の御舎弟、左馬頭義維の子、義栄を取立て奉りて主君とし、今日叙爵、或説には〔〈矢ノ字脱カ〉〕島の公方義〔昭カ〕の御子なりといふ。

十年二月、矢島の御所左馬頭義昭公、佐々木義秀に命じて、所々に散在する御家人共尋ね集めらる。三月下旬より四月上旬迄に、馳来る人々、公家には飛鳥井左中将・徳大寺中納言・日野大納言・藤宰相・五達左馬頭・綾小路中将・庭田中納言、武家には伊勢伊勢守・二階堂駿河守・野瀬丹波守・一色丹後守・同式部大輔・飯河山城守・同肥後守・大草治部大輔・会我兵庫頭・収村孫六郎・丹羽丹後守・上野佐渡守等なり。三月廿四日左馬頭義昭公、竹生島参詣。浅井下野守久政海上之を警固す。八月十六日、三好義継、姉婿佐々木義祐に密談して、矢島の御所を、討たんと謀る由、風聞す。浅井下野守久政・息長政・進藤賢盛等、此旨を大屋形に奏達す。屋形是に命じて御所を若狭に移し奉らる。屋形義秀の御母と、武田義統の室は、御姉妹にして、何れも将軍家の御連枝なり。廿四日、摂州住吉社鳴動。勅使奉幣あり。松永弾正謀叛十月十日、松永弾正忠久秀謀叛し、三好左京大夫義継を南都大仏殿に襲うて、火を放ち急に迫る。義継大に敗北す。此時、般若寺兵火の為めに焼く。十一月朔日、矢島御所義昭公、若州は分内狭く、天下再興もなり難きに依り、朝倉弾正忠孝景・同子息義景を頼んで、越前に御移りなり。義景は佐々木氏綱の二男なり。孝景之を養ひて家を附す。義秀の叔父の国なれば、尤も異儀に及ばず。今年左馬頭義昭公、越州に御越年なり。国主義景は、礼オープンアクセス NDLJP:235を厚くして、旧好に負かずと雖も、其父弾正忠孝景は、常に御相伴に参り、甚だ不礼なり。子息義景属之。是に依つて、朝倉父子其中疎なり。

義栄征夷大将軍となる十一年二月八日、三好左京大夫義継が奉ずる左馬頭義栄に、三好・松永等供奉参内、征夷大将軍に任じ、従三位に叙す。左馬頭如元禁色昇殿を聴さる。此日、三好義綱従四位下に叙し、松永久秀従六位下に叙す。六月十三日、左馬頭義昭公の御使として、上野中務大輔清信、越前より江州に来りて、浅井父子を以て、佐々木屋大形義秀に告げて曰、朝倉義景崇敬すと雖も、父孝景不礼にして、大義を談ずるに堪へず。始終御本意を遂げらるべき事、尤も覚束なし。尾州、織田信長は、今世の良将にして義秀並長政有縁深し。旁以て信長を御頼あるべきかとの事なり。管領義秀並に長政父子即ち領掌す。七月六日、左馬頭義昭公、上野中務清信・長岡兵部大輔藤孝を使として、尾州信長の許に到りて、三好退治の儀を頼まる。信長早速領掌す。上野・長岡越前に帰る。此時、江州より浅井備前守長政を、尾州に副へらるべき所に、管領義秀病気甚だしき故之を闕く。佐々木義秀逝去七月九日、佐々木廿五世管領源朝臣義秀逝去。江州東西の旗頭中来集す。十日、御遺骸を慈恩寺に移す。浅井下野守久政・同備前守長政稚屋形龍武御曹子五歳なり。之を奉じて観音城に居す。御仏事奉行進藤山城守賢盛・後藤豊前守宗保等なり。御追善の次第多きに依りて。之を記さず。御引導は帝釈寺存海和上。籠僧十二人。山門五箇の別所の比丘衆なり。十八日、左馬頭義昭公、越前より濃州御下向、小谷に御滞留。稚屋形を奉じて、浅井久政、左馬頭義昭公に謁す。是に於て、三好退治の評定あり。十九日、信長公方家の御迎として、不破河内守来る。廿五日、義昭公小谷城御動座、美濃国御下向、御旅館は立正寺なり。翌廿六日、信長、岐阜より来りて、始めて公方家に謁し奉る。献上物多く御家人に及ぶ。八月九日、信長、岐阜より江州佐和山に来る。浅井久政・同長政・稚屋形龍武丸を奉じて佐和山に到る。稚屋形は信長の孫なり。長政は姉婿なり。何れも外戚として、始めて対面なり。各之を相賀す。是に於て、長政、信長に相擬して、同十日きぬがさの城承禎父子の許に往きて、三好退治の儀に付て、信長、既に佐和山に出向の由を説いて之を諫むれども、承禎父子同ぜず。是に長政退いて進藤山城守を招きて、此オープンアクセス NDLJP:236旨を語る。進藤之を聞いて曰、往年承禎父子、三好義継と所縁之ある故、公方義昭公を討たんと欲す。其志至つて切なり。此度若し此の父子を除きて、抑へて信長を引入れられば、恐らくは味方の内に、反忠の者ありて、災大事に及ばんか。浅井聞いて、已むを得ず、重ねて承禎父子に強ふれども、更に同心せず。浅井詮方なく佐和山に立帰りて、此由を信長に語る。信長之を聞いて曰、是非に此父子を味方に招き入れずんばあるべからずとて、公方家の近臣上野中務大夫清信に、不破河内守・管屋九右衛門両人を、承禎父子の許に寄せて再三催促に及ぶ。父子之を聞いて曰、諸士評定の品を以て、三好御退治の御味方に参るべき条、尤も本意なりと雖も、彼等当家に所縁たる事、世の知る所遁れ難きに依り、しばらく延引す。尚併、了簡を加ふべしといふ。是に依つて信長、亦浅井長政をして、頻に父子を鞭策せらる。父承禎は殆ど志を傾けらるゝと雖も、子息義祐全く之を受けず、稚屋形観音城に帰入せらる。二十日、信長、佐和山を立ちて岐阜に帰る、此時、長政、信長に評する事あり。廿七日、信長、又岐阜より佐和山に来る。浅井父子出でゝ対評す。先づ承禎の長臣、永原大炊頭に約して、信長、佐々木承禎と合戦窃に稚屋形龍武御曹子を、観音城より佐和山に移し、永原以下の諸士をして、承禎に叛かしむ。翌廿八日、信長先陣として、愛智川表に出張す。承禎予め、信長・浅井寄来らん事を察して、三雲三郎左衛門・楢崎内蔵助・建部伝八郎・種村大蔵大輔を先駆として、愛智川表へ差向けられ、其身父子は大軍を引率して、観音城より討出で、平場に控へて、敵の先手に向つて鉄炮を打ちかくる。此時美濃・尾張に鉄炮未だ多からず。是に依つて、信長の兵多く討たる。是に矯まず愛智川に臨んで轡を一面に双べ、一文字に河を絶さんとす。案の外に水浅ければ、軍勢過半河中に馳入る。時に承禎、予め愛智川の水上を壅いで、流を止めて待ち懸る十八箇所の塘を一度に切つて放つ。河水漲り落ちて寄手大に狼狽す。漂溺して死する者三千余騎、信長敗北して岐阜に帰る。後に知る。承禎の支度誠に徒然ならずと。九月七日、信長復岐阜を立ちて江州沢山に着く。浅井父子、稚屋形龍武御曹子を奉じて同じく至る。是に於て、江州の旗頭等馳集る。其余纔に承禎父子に属す。是に依つて右衛門督義祐使節を以て予め加勢を三好に乞ふ。三好是に応ずとオープンアクセス NDLJP:237雖も、未だ果さず。十一日、信長、再び愛智川表に出張す。時に浅井父子、稚屋形を奉じ来つて、信長に告げて曰、去月尾・濃二州の兵、当国の地図に疎くして、容易に承禎の計略に堕つ。先づ且く佐和山城を擱いて、箕作の城を攻めらるべし。是れ承禎父子所謀の外なり。其手の兵、国図を知らずして、戦ふに難儀たらん。浅井父子、稚屋形を奉じて江州の諸士を随へ、先陣として箕作・観音両城の間に入りて、承禎父子を遮つて箕作を攻めしめんといふ。信長是に応じて則ち佐久間右衛門信盛・木下藤吉郎秀吉・丹羽五郎左衛門長秀を以て、箕作の城を攻めさせらる。吉田安芸守・同若狭守・同出雲守・建部大蔵大輔・同源八郎を籠め置かれたり。何れも精兵にて、信長の兵多く討白らまされて引返す所に、松平参河守家康引違へて、討つて懸る。家人松平勘四郎といふ者、一番に進んで攻登る。城兵防ぎかねて引入る。勘四郎続いて切つて入る。城の諸将等叶はずして、浅井長政に就いて降参す。同日戊刻、和田山の大将馬淵豊前守賢英・松原弥兵衛賢佐・木村筑後守重孝・宮木右衛門大夫賢祐、浅井長政に通じて城を開渡す。十二日、承禎父子、永原大炊頭を観音寺に留め、自身出で戦ふ。前に浅井備前守に約諾せし如く、永原、観音寺の城に火を放つ。是に依つて、承禎并義祐の兵大に敗北す。承禎父子、軍術尽きて野須郡落久保を差して落行く。是に於て、甲賀郡の士和田和泉守、其外三雲・黒川・神保・大川原・池田等馳来る。承禎大に悦んで、之を引き石部に移る。承禎父子に与せし城主等、夜陰に及んで、十八箇所迄城を開いて、皆石部に往きて、承禎父子に相仕ふるなり。十三日、浅井下野守久政・同備前長政、稚屋形を奉じて、観音寺の城に復入りぬ。信長同じく入城す。昨日当城二の丸と南丸とは焼火〔〈失カ〉〕す。其残る所は、本丸・東の丸・並に西大門・東門、諸士の山の座敷なり。信長の兵は、桑実寺・老僧石寺外傍の侍屋敷に居す。同日信長、感書を松平参河守の侍、松平勘四郎に遣す。同日信長、浅井長政に内談して、江州の制法を沙汰せらる。其評定人は、信長の下、柴田権六勝家・森三左衛門可成・坂井右近将監長勝・蜂屋兵庫助吉成なり。江州の下、進藤山城守賢盛・山崎源太左衛門賢家・平井加賀守之武・目加多左太夫秀遠なり。十四日信長、長政と評す。今日公方御迎として、不破河内守を濃州に下す。同日忍を京師に遣して、三好一家の方人を尋決す。十五日、オープンアクセス NDLJP:238将軍義栄病死征夷大将軍源義栄公、腫物を病んで他界。是れ三好が奉ずる所の将軍なり。浅井長政、信長に語りて曰、今上洛せんと欲するの所、此の人他界する事は、味方必ず本意を遂ぐべき前表なりと。信長之を聞いて甚だ悦喜す。廿二日、左馬頭義昭公、濃州より江州に到つて、観音寺の城に御着座。于時西坂桑実寺を御旅館に転ず。廿五日、信長、長政に告げて曰、某、義昭公を奉じて上洛し、三好・松永以下を退治すべし。然らば承禎父子、伊勢国司〈承禎の婿なり〉・本願寺顕如承認為等を集め、三好に力を戮せ、後へに在りて攻上るべきなり。其時長政は、稚屋形龍武丸〈長信孫なり〉を誘ひ、観音寺を守り、江州を後見として、佐和山・小谷を固め、国中佐々木譜代の城主を懐け、承禎父子並に国主等が後巻を押へしめんか。長政然りとす。廿八日、信長上洛、東福寺に旅陣す。左馬頭義昭公は、清水寺に御旅館なり。今日勅使あり。京中耆老参賀す。同日信長、一万八千余騎にて、青龍寺の城を攻む。城主岩成主税助長方防ぎ戦ふ。信長の兵、柴田権六・蜂屋兵庫助・森三左衛門・坂井右近が手に、首八十三級討取る。廿九日、信長三万余騎にて、復た青龍寺を囲む。時に岩成主税介軍術尽きて、森三左衛門が手に属して降参、即ち城を開渡し、先馳の人数に加はる。晦日摂州芥川の城を攻む。城主三好日向守・細川六郎。十月朔日の夜に入りて城落つ。十月二日、小清水の城主篠原右京進、防戦に及ばず、夜に紛れ落つ。松永久秀信長に降る三日、左馬頭義昭公、小清水の城に移入る。信長は芥川の城に入る。同日信長、池田の城を攻む。城主池田筑後守之を防ぎ戦ひ同四日降参。五日、松永弾正忠久秀、子右衛門佐を召具し、芥川に来り、信長に降る。義昭征夷大将軍となる十五日、信長、左馬頭義昭公を奉じて入洛す。義昭公は本国寺に御旅館、信長は清水寺に居る。十八日、左馬頭源義昭参内、征夷大将軍に任じ。禁色昇殿を聴さるゝ故、信長同じく参内す。同日の夜、勅使あり。義昭公参議左近衛中将を兼ね、従四位上に叙す。十一月近衛関白前久将軍義昭の命に背きて職を止め、二条前関白晴良再任す。十二月、東国へ下す忍の宛は、帰り申して曰、武田信玄、甥の今川氏真を逐ひて駿河国を奪ふ。是に依つて北条氏政、兵を遣して氏直を救ふと。

十二年正月五日、三好山城守・同下野守・同日向守・岩成主税介・斎藤右兵衛大夫龍興・長井隼人佐等五千三百余騎、今月朔日、泉州堺の浦にて人数を揃へ、先づ家原の城オープンアクセス NDLJP:239主寺町左近旧部次郎を攻殺して、次に将軍義昭公の御座、洛下本国寺に押寄す。予め此旨を京師より江州に告げらる。浅井久政・同長政・江州旗頭中評して、稚屋形の命として、和田伊賀守・野村越中守を京師に差向けて、将軍家に加勢せしむ。今未明に戦初つて三好一家敗北寄手悉く敗北、三好が一家落去す。将軍御家人等手痛く相働き、野村越中守大に軍功あるに依つて、将軍義昭公御感書を給ふ。

今度三好一族攻来之処、於所々神妙之働。別而御感悦。殊数輩引廻智略之至、於御当家二無之忠節思食所也。猶上野中務大輔申付者也。

  正月七日  御朱印

       野村越中守方

正月六日、未刻逆徒敗北の由、京師より江州に告げ来る。浅井長政、亦此旨を岐阜信長に触れ送り、即日長政は稚屋形を奉じて上洛す。相随ふ面々、進藤山城守・後藤喜三郎・蒲生右兵衛大夫・川瀬壱岐守・山崎源太左衛門・磯野丹波守・平井加賀守・池田大和守・本間五郎左衛門・落合出雲守・小倉備前守・神崎右近大夫・吉田出雲守・建部源八・種村伊予守・布施淡路守・青木忠右衛門・阿閇参河守・木村三郎左衛門・目加多左太夫・宮木右兵衛・平井丹後守等本国寺後巻として上洛す。此外相留まる江州の城主は、皆浅井久政に随従して城を固む。是れ尚ほ不意を思ふ故なり。八日信長、江州高宮に到り九日入洛す。二月二十日より、信長、近国諸士に命じて、二条元の御所に堀を二町四方に掘り石垣をつく。卒爾の普請なる故に、山城中の寺社の石を取るとなり。長政曰、神を後にし己を先とする者、果して天の責あり。奉行等之を知らざる故云々。四月朔日二条御城の普請造畢す。同六日将軍家御移徙。七日勅使あり。信長参向し之を賀す。浅井長政、龍武丸を奉じて同じく之を賀す。五月四日、浅井長政以下江州に下る。蒲生右兵衛大夫賢秀、将軍家守護の為めに京に留まる。信長取立の者木下藤吉郎を京師に置く。十一日、信長、京を出で観音城に到り岐阜に帰る。六月十八日、将軍義昭公参内、従三位に叙し大納言に任ず。八月三日、伊勢国司佐々木承禎・同子息義祐、伊賀国河合伊賀守を語らひ、信長・浅井を亡さんとするの告あり。二十日今三日の告を以て、岐阜を立ち勢州桑名に到る。廿三日、米造の城に到つて軍事評定しオープンアクセス NDLJP:240て、国司の士木造播磨守が守る所の浅井を攻めらる。城兵に逆心の者ありて、防戦に及ばず、即ち降る。同日信長、勢州より軍利の由告げ来る。長政、蒲生・進藤・後藤・山岡・磯野寺を加勢として之を遣さる。廿九日、信長、江州の勢を加へて五万三千余騎、国司居城大河内の城を攻む。城兵防ぎ戦つて、九月朔日に扱の事ありて、国司城を開渡し和州に往くなり。信長之を憐み、其寄物多く之を与へしむ。同日信長の二男信雄を、大河内の城に置きて、其弟上野介信包を上野の城に置き、三男三七郎信孝を神戸城にすゑ、北伊勢五郡を滝川左近に授け、長島城に置き、勢州諸関を破る。是より先、信雄は国司の娘と嫁して、既に其家督たり。家人等種々逆意あり。重ねて考へて記すべし。二日、江州の健士帰り来つて、件の旨浅井に告ぐ。信長猶は伊勢に在り。十一月十一日、信長勢州より千草越を経て、江州蒲生郡に到りて、観音寺の城に入る。是に於て、浅井以下の面々、勢州平功を賀す云々。十二日、信長上洛、将軍義昭公に謁す。信長此時、禁中御修理の事をなす。長政曰く、信長名聞ながら、冥加に相叶ふべしと。十九日、信長京を出で、江州に至つて岐阜に帰入る。元亀元年二月廿四日、信長、岐阜を立ちて江州に来つて、観音寺城に入り、御息女千世君に御対面。〈龍武丸の御母なり。〉実は信長の兄、信広の息女なり。信長之を養ふ。浅井以下国中の城主、当城に於て信長に会す。

江原武鑑十一、永禄十二己巳、人皇百七正親町院、自永禄十二天和三亥百十五年歟。二月十五日、両将評議ありて、二条元の御所を、方一町四方を広げ、さしわたし四十五間に堀を掘り、石垣等夫々に請取ありて、今日御所造営事始めあり。五畿内に、近江・美濃・尾張等の人夫を集め、夜を日に続ぎ御所普請を急ぎ給ふ。村井長門守・野村越中守・織田大隅守三人奉行なり。下奉行十二人、御所作事の次第多きに依つて記さず。四月六日辰刻に、二条新造の御移徙の事相定まる。本国寺の御所より、二条元の御所へ移り給ふ。昵近の公家衆二行に供奉す。次に江・尾の両将、其外名高き面々供奉なり。両将より音物あり。八日勅使三条中納言、二条の新御所に来り給ひて、再び二条御安座の儀を、皇家より御珍重たるの由、今日午刻より諸公家諸門跡の御礼あり。九月・十日・十一日、二条御所に御能あり。大オープンアクセス NDLJP:241夫は梅若なり。洛中の貴賤見物致すべき由なり。諸公家・門跡・国主出仕なり。十三日、将軍より江州へ仰付けて、洛中へ黄金を給ふなり。廿一日、二条南門に落書あり。其歌に云、

   なきあとの印の石を取集めはかなく見えし御所の体哉

右の落書を何故に立つるぞといふに、今度二条の新御所、急ぎに依て、遠国より石など招き集むる事、おそきに依て、賀茂・平野・西山・東山の旧寺共、苔むしたる石共を、あたるを幸に取る程に石塔など多ければ、此の如くは落書立てけるとなり。廿五日、五条松原通より、彼落書立てたりし者を、野村越中守が手の者、搦取りて、今日二条の御所に引参る。御所天の与へ給ふ所の罪人なり。如何様にか罪に行はんとて、種々思召して江・尾へ問ひ給ふに、信長曰、最も罪に行ひ給ふべきなり。四条川原にて釜にて、いり殺さんなどゝ申さるゝ。屋形曰、甚だしき奉行の科なり。落書を立つる者、治世のあやまりを正す所なり。何ぞ国家のあやまりを改むる者を、罪する法あらんやと仰せければ、御所理にせまりて、彼の落書立てたる者を免し給ふなり。彼の者は、隠れなき狂歌の上手にて、名を無一左衛門といふ町人なりしが、先年三好家、御即位を取行ひし時も、色々落書あり。

三月六日、信長江州より上洛し、将軍義昭公に謁す。四月朔日、信長、泉州に下り数日留連して、買人を召集め器物等を翫ぶ。長政之を聞いて曰、信長武を意に忘れたるか。家業を外になす時は、必ず身を失ふといへり、十一日、信長、泉州より上洛、十五日、将軍家、猿楽を催して、信長をして之を観せしむ。十八日、浅井下野守久政・同備前守長政、江州の諸士に向つて曰、此頃信長が行跡を看るに、其の志偏に天下を奪はんとするにあり。恥づらくは、諸人彼に所縁たるを以て、我が内意を推度せん。縦ひ彼れが為に、肉を段々に砕かれ、骨を粉にすとも、何ぞ譜代の主君を忘れて、をめと随ひ移らんや。事延引せば難儀に及ばんか。浅井長政信長を討たんとす急ぎ越州に伝へて、義景等に相評して、近日彼等を誅伐すべし。若し佐々木家代々の御人の内、信長に心あらん人は、憚を存ぜず、早速彼に告げて、此旨を註進せらるべしと、進藤・後藤以下の人々、即座には是非の返答之れなし。十九日、長政、浅見対馬守を使として、越オープンアクセス NDLJP:242前の義景が許に寄せて、此事を告げ送る。義景大に悦んで即ち是に応ず。江州の諸士、其志区々にして一同せず。或は承禎に傾いて甲賀に馳する者もあり。或は信長に靡いて京師に赴く者もあり。又義を思ひ名を愛する者は、稚屋形に随従して、浅井父子が下知に属する人もあり。此時江州三つに分かる。多賀新右衛門・山岡対馬守は、忽ち裏反つて信長に属して之を告ぐ。信長、頓て彼等を内通として、江州の士を多く我が手に引入れて、先づ越前を退治せんと擬せらる。廿三日、信長、京師より若州に入り、信長、朝倉義景抱の手筒山城を攻む悉く武田大膳大夫義統家来を背かしめ、其より義景抱の手筒山の城を攻むとなり。廿六日、義景の長臣朝倉式部大輔が居城金箇崎の城を攻む。式部大輔柔弱にして即時に降る。廿七日浅井父子、其外江州の城主等、金箇崎・手筒山両城共に降参する由を聞きて、信長が後を遮つて討たんとす。信長大に驚きて兵を引いて、廿八日、朽木越に引返す。越前勢追懸け戦ふ。信長将に討死せんとす。松平参河守家康、後殿して朽木谷に懸る。朽木信濃守元綱、八百余騎にて切所に引受け、信長を討たんとして之を遮る。信長通り得ず。松永弾正久秀、朽木と旧好あり。松永先づ往きて朽木を頼む。朽木、節を仮初の所縁を忘れて、即ち許して信長を通す。信長虎口を遁る信長虎口を遁れて洛に到る。江州の諸士、皆朽木が義なきことを悪む。浅井長政、朽木を恥かしめて曰、元綱何ぞ馬を他門に繋ぎて、肩を聳し尾を振る。夫れ朽木は江州先方の士にして、而かも佐々木家血脈の一流なり。其業の口惜しき、且つ又名字を汚すの士なり。朽木一言の返答に及ばず。同月伊勢国司具教、四月勅詔に依り、将軍義昭之を扱ふ。信長已むを得ず、之を許す。五月、国司自ら和州より勢州に帰入る。皆是れ佐々木承禎の所為なり。信長二男信雄を婿とし、以て国を譲る。天正四年十一月廿五日、国司一家自殺す。国司の居城は、竹井といふ所なり。後には内山がみせに隠居す。大河内といふ所にて自殺なり。此時、具教が長男、中御所侍従具長二男長野左衛門佐具定・長野家継三男式部少輔具信・四男渥見殿□□具教・婿坂内具光入道範甫・子息兵庫頭教国、皆田丸にて自殺なり。御本処とも号す。府内に住す。国司家滅亡。

永禄十二年正月十一日、木造下総守・柘植三郎左衛門具教の家人、此二人滝川伊予守オープンアクセス NDLJP:243を以て、信玄に内通する所、元亀四年五月五日、国司より信玄に内通の事、条々信長之を聞き、再び発して国司を攻亡すなり。国司室は、佐々木後見承禎の長女なり。五月二日、浅井長政、稚屋形を奉じて、南都の兵を催し、信長の兵稲葉伊予守を守山に攻む。江南の兵内・青地采女正等裏切す。依つて味方敗北して、討死する者多し。長政兵を引取る三日、信長、越前に留置きたる木下藤吉郎、信長の難儀を聞きて、今夜雨を凌いで、越前を引いて京師に入る。九日、信長、畿内敵多くして在京難儀に依つて、家人森三左衛門を志賀宇佐山に留置き、其身は東江州に赴く。愛智郡鯰江城には、佐々木右衛門督義祐あり。甲賀には承禎あり。江東の城主浅井長政に随ふ者共、道に遮つて之を討たんと議す。時に日野の蒲生右衛門大夫賢秀・香津畑勘六左衛門両人、江州の譜代として主君を違背し、信長に案内をして、二十日の早天に千草越に懸りて、北伊勢に之を落す。日野の内、三木大学助、此由を承禎に告ぐ。承禎の妾の父、家人杉谷の善住房を彼山に遣す。善住房鉄炮を以て之を打つ。信長運強くして、此難を遁れて北伊勢に出で着す。件の妾、甲賀にありし時、一男子を生む。後佐々木三郎といふ。義祐称号を是に依つて許さず。母の氏を用ひて端と号す。之を端の御房といふ。佐々木承禎、信長と合戦六月五日、承禎、甲賀より野州川原に出張して、信長の士柴田権六・佐久間右衛門と合戦、野州郡の内、江州譜代の士、三上伊予守裏反りて、佐久間・柴田に約して、承禎の後より切つて出づる。承禎敗北す。此日、三雲三郎左衛門・同主水正・永原河内守・馬野瀬民部大輔・乾主膳正等を始めとして、八百卅六騎討死す。七日、浅井長政、越前勢を合せて江北所々に要害を構ふ。江州の士堀二郎左衛門・樋口三郎兵衛、信長に内通して裏反るなり。十八日、信長、堀二郎左衛門を案内者として、小谷表へ打寄する。十九日合戦、信長の兵七百五十三騎討取り、味方二百七十騎討死するなり。二十日、合戦対々の勝負なり。但し味方六分の勝軍なり。廿一日合戦、信長敗北す。敵八百七十騎討取り、味方二百八十騎討死するなり。廿二日合戦、信長敗北す。味方之を追ひ八十三騎を討取る。信長難儀して小谷表を引去る。木下・柴田殿後たり。廿三日、信長、横山の城を攻む。味方の兵大野木土佐守・三田村左衛門佐・野村肥後守防戦し城兵多く討死す。信長勝軍なり。浅井長政、予オープンアクセス NDLJP:244め約する所の朝倉義景加勢、朝倉孫三郎を大将として、一万余騎江北に到る。廿六日、浅井・朝倉勢大寄山に打つて出で、信長と対陣す。此山より信長の龍鼻迄、其間五十町を隔つ。廿八日、西方朝倉勢一万余騎と、信長方松平参河守家康の五千余騎と姉川合戦両陣姉川を隔てゝ、互に越しつ越されつ合戦、辰の刻より午の刻に至る。終に朝倉方討勝つ。時に磯野丹波守・高宮参河守・進藤山城守・永原大炊頭・大宇大和守・目加多左太夫・池田大和守・山崎源太左衛門・赤田信濃守・連大寺主膳正・神崎右近大夫・吉田安芸守・建部源八・種村大蔵大輔・山岡対馬守・馬淵豊前守・布施淡路守・三上蔵人・宮木新次郎・平井加賀守一万二千余騎を以て、信長方の先手に向つて一文字に討つて懸る。信長の先手坂井右近・二陣池田勝三郎を乗崩し、北ぐる敵を追つて、首級三百七十九之を討取る。此内、坂井右近が嫡子久蔵・同家臣可児彦右衛門・坂井喜八郎・同大膳を討取る。坂井、池田方に崩れかゝる。依つて信長の本陣乱れ騒ぐ。于時長政、横合に討つてかゝり相戦ふ。参河守無勢なるに因つて、崩れかゝる所に、参河守本陣を持固め平に直して、朝倉勢の中に横合に討つて懸る。朝倉勢二つに分れて戦ふ。終に敗北して、前波新八郎・同新九郎・真柄十郎左衛門・小林周防守・魚住主水正・龍門寺佐渡守・黒坂備中守等討死す。東方長政備も、越前勢の敗北を見て、長政二陣の兵、横合に松平勢に討つてかゝる所に、信長本陣より、頻に鉄炮を打懸く。長政の兵是に難儀して乱合ふ。此時、浅井雅楽助・同斎宮助・磯野孫兵衛・狩野次郎左衛門・同二郎兵衛・遠藤喜左衛門・今村掃部助・東野刑部左衛門・伊部大学助・海北主水正・熊谷二郎左衛門・同孫左衛門・今井内膳正・大津小弾正・上坂主殿助等討死す。藤堂源介の子与介、十五歳にて高名あり。鑓下に首を取る。于時稚屋形の勢、磯野丹波守秀昌以下の人々は、信長の先陣坂井・池田を乗崩して、続いて信長の本陣に討つてかゝる。信長当に討死すべき所に、越前の勢敗北を見て、長政横がゝりの時、信長本陣より打出す鉄炮に、歴々討死するを見て、敵陣を一文字に南方に切透き馳せ迫り、悉く佐和山城に引籠る。七月朔日より、信長家人丹羽五郎左衛門、其外市橋九郎左衛門・水野下野守・河尻与兵衛等を以て、佐和山の城を攻む。二日磯野丹波守秀昌夜討して、丹羽五郎左衛門が手○者百三十騎討取り、毎夜忍を以て、敵陣の小屋を焼いて、敵オープンアクセス NDLJP:245兵二十騎・三十騎宛之を取る。敵是に難儀して、向城を取つて兵糧詰にせんと計る。秀昌又忍を以て計る。七日、信長、江北の合戦七分の勝軍にして、先づ人数を引退き上洛す。爰に三好山城守・同日向守、今度姉川合戦のしどろに引きて上洛すと聞きて、東条紀伊守・篠原・奈良・岩成・細川六郎・斎藤右衛門大夫龍興、摂州野田・福島に楯籠る所々の一揆をかり催し、上洛せしめんとす。信長之を聞きて遮つて、将軍義昭公を奉じて摂州に下る。八月廿一日なり。甘九日より三好と合戦し、雌雄彼此互に進退す。九月二日、将軍家摂州退治として出京、野田・福島へ向はる。于時大坂の本願寺門跡顕如、浅井長政に之を通じ人数を出し、信長の兵を討つ。信長の兵、是に難儀して討死する者多し。川口の合戦には、既に将軍の兵大いに敗北して、野村越中守討死し、信長の兵も敗北す。本願寺より此旨を通ず。長政も亦、越前の朝倉義景に之を通ず。義景、即ち二万五千余騎を引率して、九月十三日江州小谷に着し、長政と評す。長政、稚屋形を奉じて、一万八千余騎並に江州の諸士を相随へて、十六日志賀郡坂本に到り上洛せんと欲す。十九日、浅井長政、先手を以て信長の士森三左衛門宇佐山の取手にあり。之を攻む。森、打出で戦ふ。敗北して森は瀬戸在家にて討死す。長政の内、石田十蔵、森が首を取る。其外首三百七十三、之を取る。藤堂与介高名あり。長政、太刀を給ふ。佐々木承禎瀬多に陣す。是は信長、大津にかゝらば打留むべしとなり。二十日・廿一日、味方の先手、大津・山科に陣す。廿二日、信長、将軍義昭を奉じて、摂州を引退き上洛す。大坂より追駈け挑み戦ふ。信長敗北して、人数を繰引にして京に引入る。廿四日、信長、今道越を経て江州志賀に出で、宇佐山の取手に入りて、坂本表に向つて対陣す。浅井・朝倉・青山、坪根笠山に陣す。同日夜、信長人数を穴太村唐崎に移す。廿五日、越前勢八千余騎二手に分れて、穴太村に打向ひ合戦す。信長の兵敗北し味方之を追ふ。長政制して之を止む。十月十六日、浅井勢と信長先手と高畠に戦ひ味方敗北す。長政下知として、山路主水正・昭光房以下、其兵六千余騎、神崎・坂田・蒲生の士を構へ、箕作に楯籠る。信長の士丹羽五郎左衛門・木下藤吉郎等、信長志賀の陣、難儀すと聞きて、坂本に往く所に、箕作より討出で、之を遮り相戦ふ。山路・昭光房等戦死す。同日佐々木承禎、瀬多よオープンアクセス NDLJP:246り陣を大津に移す。将軍義昭公、之を聞き勝軍山の陣を引いて三井寺に移す。又承禎と尾花川にて合戦し、互に勝敗あり。十一月廿四日、堅田郷地下侍猪飼甚助・馬場孫二郎・居初又四郎、信長方に内通して、信長の士坂井右近を引入る。浅井・朝倉、兵を寄せて即時に之を誅伐して、坂井以下一人も残さず、之を討取る。同日信長の士、池田勝三郎が内通を以て、江州の士進藤山城守・後藤喜三郎・多賀新右衛門、山岡対馬守裏反つて信長に降る。是は長坂江州の士魁たるを悪みてなり。浅井長政、義景に語りて曰、進・後両藤、並に多賀・山岡、当国代々の長臣として、今此時節に当つて、信長に降参する事は、真に人外なり。又池田は元来当国譜代の士にして、一門を離れて信長に仕ふといへばとて、其義を忘るゝ事、彼れ一人だも之を許さゞるに、剰へ傍輩を牽堕す。今此義条〔〈本ノマヽ〉〕是亦悪むべきの甚だしきなりと、義景曰、去れば古今節義を守るの兵甚だ稀なり。不唯限江州士。受生於弓馬之家者は、最容其名也。本朝之武士守其節之人は、後昆輝其面、失義者は子孫懐其嘲。彼等武運遂に尽きて、無身。自招悪果下劣所業、実に不論といへり。無用、在敵亦然りと互に相笑ふ。十二月朔日、信長、山門の老僧及び執行に内通して、和平の事を義景・長政に乞ふ。之を受用せず。五日、瀬多に陣取る。承禎の家人山岡対馬守を、信長志賀の陣に遣し、和平の事之を許す。同日勅使勧修寺大納言尹豊・将軍義昭公御扱の事あり。長政・義景之を受けず。七日信長、血判の誓詞を、義景・六角龍武丸家臣長政・本願寺光佐、叡山三執行に送つて和を請ふ。皆已むを得ず之を許す。十四日、信長岐阜に下る。

二年二月十二日、佐和山城磯野丹波守秀昌以下、江州譜代の城主等信長に降り、城を開渡す。信長、即ち家人丹羽五郎左衛門を入れ置く。長政曰、嗚呼磯野以下江州譜代の人々、悪名を子孫に貽す。百年不生の身を以て、士の志を失ふこと、誠に甲斐なき次第、勝げて計るべからずと云々。江州の士、大半信長に降参す。今日迄当手を背かれぬ人は、有難き志なり。節に当つて義を守る者実に少し。然るに彼等信長に降参すとも、武の志なければ、必ず子孫の面を汚すべし。長政は信長の姉婿たりと雖も、士の志を立て譜代の主君を捨てず。自今以後、尚ほ当手の諸士、譜代のオープンアクセス NDLJP:247主を見捨て、信長に降参せん人は、疾く当城を出でらるべしといへり。五月五日、長政二万三千余騎を引率し、姉川表へ出張なり。赤尾美作守・阿閇淡路守・浅見対馬守・馬淵伊賀守をして、横山の城を押へさせ、浅井新七郎を先陣として、去年信長に内通せし堀二郎左衛門を攻亡すべしとて、箕浦の城に押寄す。同類の樋口三郎左衛門、堀と一緒に楯籠る。今朝卯刻に木下藤吉郎、後の山より脱出で、横山の城より箕浦の城に馳入る。午の刻浅井勢取懸り、酉の刻迄合戦して、敵二百廿余騎討取り、味方討死百人に及ぶ。六日朝、木下藤吉郎が企に依つて、高島の士三千余人、信長方に降つて箕浦に入城するの由告げ来る。長政、先づ兵を引取つて、江州諸士の逆心を試む。十一日、信長三万七千余騎を以て、尾州長島へ攻向ふ。是は本願寺光佐一味のところなり。然るに近年信長抱の城を攻む。是に依つて、信長已むを得ず発向すとなり。此合戦に、信長方大に敗北して引取るところに、長島勢、追駈け挑みて、信長の士氏家常陸介入道ト全を始めとして、二千余人討取るなり。八月十九日、木下藤吉郎、信長に告げて、堀・樋口相加はるといへども、長政手痛く之を攻むるに依つて堪へ保ち難しと。是に依つて信長、岐阜より発して、横山の城に馳入る。二十日、信長、小谷と山本山の間に押入りて、先づ小谷の城を攻む。于時長政、一万八千余騎にて、信長より押遣す柴田権六を追払ふ。之を見て山本山の城より、阿閇淡路守・同万五郎三千八百余騎にて討つて出で、信長の先手原備中守を乗崩す。于時信長敗北して引退く。阿閇三千八百余騎・赤尾・浅見六千余騎北るを追うて、首を取ること九百五十三なり。信長難儀して陣を繰引にして、横山の城に引入る。藤堂与助高名あり。長政の感状に曰、

其方事、及二度首事、雖若輩神妙之至也。猶抽軍功之後、一廉可取立候者也。

  元亀二年八月廿日  長政

           藤堂与助殿

廿二日、信長、横山より佐和山に移りて新村の城を攻む。城主新村左衛門佐忠資、三千余騎にて討つて出で。大音を揚げて曰、江州佐々木代々の士、近年義を忘れて信オープンアクセス NDLJP:248長の為めに降るといへども、新村に於ては、縦ひ身を肉びしほになすとも、義は失ふまじと存ずといひて、一文字に駈入り、敵一万九千の多勢に対して、今朝辰刻より午刻迄、縦横無尽に相戦ふ。新村が兵過半討たれ、纔に残つて七百余騎、尚ほ信長の旗本を目に懸けて、切つて入る。佐久間・柴田ひらき合せて、之を討止めんとす。新村之を物ともせず、七百騎一群に討つて通る。信長の二陣・三陣大に敗北して、信長正に危し。此時、新村切脱けば難なく遁るべきに、死を一途に思定めてければ、少しもたゆまず相戦ふ所に、七百騎の者共、皆五箇所・三箇所手を負はぬ者なければ、新村忠資自尽新村左衛門佐叶はじと味方を引まとひ、城に入り火をかけ自殺す。廿四日、河瀬南北の城を攻む。城主河瀬壱岐守秀盛・大宇大和守秀則一族家子都合三千余騎討出で防戦ふと雖も、大軍河瀬の兵多く以て討死す。是に依つて叶はずして、廿五日の夜に入り城に火をかけ、小谷城へ落去る。廿八日、小河城主小河孫一郎貞勝・金森城主駒井本間弱兵にして、殊に貞勝は、柴田権六所縁たる故、一戦に及ばず、城を開渡し、前代未聞の不道、武士の甚だ悪む所なり。九月十一日、信長、瀬田に陣す。山岡父子に比叡山の四方間道等を案内させて、十二日未明に、早尾坂・奈良坂・無動寺坂・本八瀬坂・雲母坂より、信長五万七千余騎にて討つて上り、諸堂に火を放つ。衆徒等十方に北ぐ。悉く追つて之を討殺す。衆徒の内、少々防戦ふ者もあり。此日、三王神社・中堂・講堂・戒檀堂・釈迦堂・法華堂・浄行堂、其外谷々の諸堂・開山伝教大師廟・浄土院を始め、残らず焼く。此時、山門の僧徒上下合せて四千三百四人、並に雑人一万三千人死す。浅井長政曰、信長、山門を恨むる意趣は、先年武田上洛の志ありて衆徒に内通し、将軍義昭公に密に通ずといふ。次に義景・長政といふ先手寄処ありといふ。其上山徒等、信長愛する所の舟木慈敬寺を討つといふ。此三つを以て、今是に及ぶか。嗚呼信長は不仁なり。何ぞ恨を仏神に遺し、手に立たぬ僧徒を焼討にし、殊に朝家護持の法跡、国土安全の道場、是の如きの霊地を、己れ一人の恨を以て焼亡すこと、狼藉血気の小人なり。末代の武士たらん者思ふべし。之を吾が武は国の父母たり。教へずして其子を殺さんや。吾れ信長が娣に嫁し、殊に疎意有るまじき事なれども、彼が行末の所存を兼ねてより考へ見るに、遂に武のオープンアクセス NDLJP:249冥加に尽きて、逆亡久しからず、必ず獅子身中の虫の為に身を堕し、一生の功空しく子孫の面を恥かしむる者なり。

元亀三年三月六日、信長岐阜より横山城に入る。七日巳刻、信長、小谷表に寄来る。長政、宵より在々に伏兵六千を、三所に分ち置き、味方敢て兵を出さず、敵を城下に引寄せ、信長先陣八千余騎、余吾木本辺に来る時、伏兵両方より一度に発る。于時城中より長政討つて出で、前後より敵を挟み討つ。信長敗北して横山の城に引退く。九日信長大溝に引退く。時に長政、志賀郡の士に告げて信長を攻めしむ。信長討つて出で相戦ふ。志賀郡の兵敗北して引去る。長政、援兵として阿閇淡路守・浅見美作守に、兵六千余人を差副へ之を遣す。志賀郡の城主等なり。已に敗北すと聞きて各引返す。十一日信長、志賀郡に討つて出づ。明智十兵衛・丹羽五郎左衛門・中川八郎左衛門・山岡玉林斎・進藤山城守を以て、木戸城主佐野十乗房・比良城主田中房覚雲法印・和途の城主金蔵坊成覚・真野城主西養房善正・雄野城主和田源内左衛門等を攻めしむ。城主等防戦ふといへども、大軍にて数日の合戦故、城を開渡すなり。十二日、信長京に入る。十三日、進藤山城守賢盛扱に依つて、志賀の城主志賀若狭守城を開渡す、長政之を聞きて曰、進藤は江州代々の長臣として、其威高く功もあり。近年信長が血気におもねり随ふ。唯己れ一人のみならず、同輩迄引堕して降参せしむる事、人外の所為にして、武の沙汰にあらずといへり。四月二日、細川六郎之元・岩城主税介、種々に手を入れ又信長に降参す。信長も不勇の士と見て之を用ひず。此月、三好左京大夫義継、松永弾正忠久秀息右衛門佐相議して、信長上洛の次手を以て、之を討たんと欲す。信長先立て高屋の城に攻向ふ。依つて三好義継兵を引率して、河内国若江城に引籠る。松永弾正は、大和国信貴城、子息右衛門佐は同国多門の城に引籠るなり。信長京を出で岐阜に帰る。山岡父子、江北の難を思うて鈴鹿越に導き之を下す。七月廿一日、信長長男三郎信忠を引具して、小谷に寄来る。長政討つて出で相戦ふ。味方敗北す。于時下野守久政、搦手より討出で横合にかゝる。信長の兵是に切立てられて引退く。首を取ること二百卅五、味方討死二百十二人、今日の合戦は対々の軍なり。廿二日、信長、木下藤吉郎を先陣として、山オープンアクセス NDLJP:250本山の城を攻む。阿閇淡路守子息万五郎、八百余騎討つて出で相戦ひ、敵七十五騎を討取り味方五十六騎討死す。廿三日、信長、長途を歴て山本に寄す。浅井長政、朝倉義景に告げて、此表出張すべき由をいふ。義景是に応ず。晦日、朝倉左衛門佐義景、二万三千余騎を引率し江北に到る。八月十日、信長の兵と義景の兵と足軽迫合あり。此軍の最中に、義景の家人前波九郎兵衛・同九助・富田孫六・戸田与次・毛屋猪之介、木下藤吉に属して裏反す。信長、取手を虎御前山に〈築カ〉〕く。木下藤吉郎を居う。十六日、宮部善祥房祐全逆心し、信長の手に属して、近辺の士を集む。此時、信長、横山の城に居す。宮部を以て、浅井郡伊香郡を拘引せしむ。十七日、長政、宮部善祥房を討たんとて、赤尾美作守に三千余騎を差副へ之を攻む。木下藤吉郎、宮部を救ひ来つて合戦、互に勝敗あり。十一月三日、長政、宮部城を攻む。木下藤吉郎、其外信長の援兵多し。故に城堅固にて堕ちず、足軽迫合にて、長政兵を引取るなり。十二月廿四日、松永弾正忠久秀父子、佐久間右衛門尉を使として降り、信貴・多門の二城を開渡す。松永久秀信長に降る長政曰、久秀は元来山城国両郊松波とて、凡下の者たりしが、彼方此方に腰を折り諧ひ仕へ て、主人を悉く亡して、已を立つ時の宜に乗じて、已に諾侯の位に陪すといへども、吾が武の立つる所を知らず。故に恥を捨て面を曝して、三好に背き信長に随従する事、其種姓の拙さにと思へば、片腹痛しと云々。

天正元年正月十日、松永父子岐阜に下り、信長に語ひ見ゆるなり。多門の城には山岡対馬守を入置き、信貴の城には進藤山城守を入置くなり。廿八日、信長と信玄と互に其罪を数へて、之を将軍義昭公に訴ふ。将軍家、武田信玄が志を是とす。信長甚だ之を恨むといへども、時を待者なりと世人いへり。二月四日、将軍義昭公。三淵大和守を御使節として、信長御退治の御味方に参るべき由、浅井長政に告げ下さる。長政曰、奉る所の稚屋形は、将軍の御甥子、義秀朝臣の長男なれば、殊に浅井台命に応じ奉るべき事なれども、長政、常に将軍家、武将の器に当らざる事を思ふ故に、畏り奉るとは御受申しながら、且つ出陣の催はなし。志賀郡仰木おうき上の房貞慶が方より告げて曰、将軍家、信長御進伐として人数を相催さる。勢多の山岡光浄院・山中の磯貝新右衛門・堅田の地下侍等、其外公方家代々の御家人彼此二千余人なり。同オープンアクセス NDLJP:251廿一日、信長、家人柴田・明智・丹羽・蜂屋を遣し石山を攻む。山岡光浄院一戦に及ばず降参す。即ち城を開渡す。廿八日より堅田の城を攻む。是れ亦地下侍一揆の事故、戦迄の事に及ばず、首を延べて降参す。然れども明智十兵衛聞かず、之を戦はずして誅伐すとなり。三月十日、将軍家、上野中務大輔清信を以て越後に下し、長尾を頼る。是に応ず。次に武田信玄に頼まる。相応ぜずとなり。是れ信長誅伐の事なり。武田は公方の作法悪しき事を聞きて、迚ても御味方に参るとも、将軍家の行末保たざる事を察して相応ぜざるなり。信長、義昭の御所を囲む廿八日、信長、岐阜より上洛して、将軍家の御所を囲む所に、禁中より御扱として近衛殿・九条殿、信長の陣に到る。信長已むを得ずして、勅命に従ひ兵を引退く。四月四日、三好党俄に発りて、信長を不意に討たんとす。信長、兵を差向け防戦ふ、三好党敗北して、火を町屋にかけ落去す。此時、下京多く焼く。七日、信長京を出で江州に下る。佐々木右衛門督義祐を、鯰江の城に攻む。義祐出で戦ふ。信長、家人佐久間・柴田等を以て、附城を拵へて毎日足軽迫合あり。義祐、信長に敵する事度々多き中に、別して今度将軍家御味方に参り、信長の下向を遮らんとす。時に蒲生右兵衛大夫之を扱ふ。義祐受けず。之を信長家人を以て、義祐を押へて岐阜に下る。十五日、承禎、甲賀郡石部を出で紀州雑賀に往く。二男佐々木大原二郎賢永、甲州の武田を頼つて甲斐国に下る。浅井父子之を聞きて曰、噫承禎父子、義祐と一緒に鯰江に籠り、有無の軍に運を果さで、謀と号し身を去らんや。子孫の面を汚さんよりは、姓名を天下に輝し、後なきこそよけれ。七月朔日、将軍家再び信長誅伐の催あり。今度は行を替へて、二条の御所には、日野大納言・藤宰相・徳大寺義門、並に三淵大和守・伊勢備中守・三浦内蔵助等、一千七百余騎を籠置き、将軍は宇治の真木の島に御陣をすゑらる。是れ信長、再び上洛し、二条の御所を攻むるの時、将軍は夜に入り、佐々木右衛門佐義祐・渡部宮内少輔と牒じ合せて、洛中に火をかけ、一戦中に信長を討取るべしとの行なり。此時、将軍家、三淵大和守を差下され、浅井長政は信長上洛の後を遮るべき由、仰せ下さる。長政復た御受申しながら兵を発せず。阿閇淡路守曰、上意に任せて信長上洛の後を遮らば、必ず信長を討取るべきなり。長政聞いて之を曰、他の弊に乗じオープンアクセス NDLJP:252て当敵を伐つことは、良将の悪む所なり。足下の言中らず。此節若し長政、後を遮るならば、一定信長を討たん事、石を以て卵を圧ぐが如くならん。然りと雖も、吾が武の志を外にせば、必ず後人の笑を受くべきなりとて、遂に兵を出さゞるなり。阿閇曰、正成・長政のみ天下の義士なりと。長政曰、足下の言、将には吉と。五日、信長大に驚きて岐阜を立ち、江州佐和山の城に入る。是に於て、将軍家方便の様を告ぐる人あり。是に依つて、朝妻より諸勢残らず、船にて坂本に着き、今道・大津二手に分れて上洛し、町屋に火を放ちて、二条の御所に攻向ふ。城には大将等公家其外弱兵にて、一戦に及ばず降参す。七日、信長、二条妙覚寺に居す。于時長岡兵部大輔藤孝・荒木信濃守・伊丹内蔵助・三浦内蔵助等信長に降参す。十五日、信長、兵を二に分ちて、宇治真木島に攻向ふ。此時、江州譜代の城主、悉く信長に随従して、宇治に馳向ふ人々には、蒲生右兵衛・子息忠三郎・永原筑前守・進藤山城守・後藤喜三郎・永田刑部少輔・山岡美作守・同孫太郎・同玉林斎・多賀新右衛門・山崎源太左衛門・平井加賀守・小河孫市・久徳左近右衛門・青地千世寿麻呂・池田孫二郎等なり。宇治・真木島の兵討出で、義昭の軍敗北巳刻より午刻迄防ぎ戦ふと雖も、信長大軍に依つて、将軍家の兵悉く討死す。于時蒲生右兵衛大夫・山崎源太左衛門方へ、将軍家の近臣二階堂山城守を以て、御扱の事仰出され、信長已むを得ず是に応じ、木下藤吉郎を以て城を受取り、将軍義昭公を普賢寺に入れて後、信長、木下藤吉に命じて将軍を送る。河内国津田を越えて尊延寺にかゝり、若江の城に至る。後に紀州に往き、又毛利家に依つて、永く足利の家を絶す。十八日、今度将軍家に屈したる渡部宮内少輔、預め計略はかるところ相違しければ、一乗寺の城を出で、佐久間に便りて信長に降参す。十九日、将軍家に屈せし和田伊賀守惟政、摂州に居る。信長之を攻む。当国の士中、川瀬兵衛といふ者あり。和田伊賀守が隠るゝ所を知りて、之を尋ね首を取る。二十日、信長、洛中地子料迄免許す。先代より天下を治むる人、先づ洛内の地子銭を許す事、是れ古規なり。信長、今天下を治めんとするに依つてなり。廿七日、信長、洛を出で江州に下り岐阜に下り帰る。八月七日、永田刑部少輔が諫に依つて、浅井長政山本山の城を攻む山本山の城主阿閇淡路守・同万五郎、信長方に裏反る程に旗を差挙ぐる。八日、長政、山本山の城を攻む。阿閇オープンアクセス NDLJP:253降参す。長政、兵を引取らんとするに、浅井石見守曰、彼信長の出張を待たんが為に、偽つて降るなるべし。唯攻亡すべしと、長政曰、縦ひ偽つて人を誑すとて、已に降参する者を攻むべきかとて聴き敢ず、嗚呼是れ浅井家の運尽くるなりといへり。十一日、信長、岐阜より江北に来る。同日、月ヶ瀬の城主伊部掃部助城を開き去る。併、信長には降らず。長政曰、伊部弱兵なりと雖も少し義ありと。十二日、信長の兵佐久間右衛門・柴田権六等、大嵩の北山田山に陣す。是に依つて、小谷より越前通路不自由なり。敵之を計つて陣す。同日、朝倉左衛門督義景、二万二千余騎を引率し、長政の援兵として来つて、田辺山に陣す。信長の兵、高月に来つて義景に対陣す。于時浅見対馬守裏反つて、大岳の三の丸へ敵を引入る。是に依つて、十三日、越前勢の内、斎藤刑部少輔・小林彦六・西方院数馬助以下二千七百余騎、忽ち信長に降参して、越前の郷導をするなり。信長、義景と合戦十四日、丁野山落つ。越前の兵、是に居り早速落城する事は、城中に平泉寺僧ありて、内通裏切の故なり。十五日、義景兵を引退く。信長、刀根山に馳付け大に戦ふ。義景敗る義景敗北して武者頭多く討死す。所謂朝倉治部大輔・同掃部助・同権守・同土佐守・同豊後守・同八郎左衛門・三田島六郎左衛門・河合安芸守・青山隼人・鳥井与七郎・久保将監・佗見越後守・山崎新左衛門・同肥前守・同七郎左衛門・細本治部少輔・中村五郎左衛門・伊藤九兵衛・中村大学助・和田九郎右衛門・引多山城守等なり。又前美濃守護斎藤右衛門大夫龍興、此時義景に依つて同じく討死す。義景一騎当千の家子多く討死するに依つて、兵を引いて越前に入る。若州の兵之を聞き、多く信長に降参す。十八日、信長、越前府中龍門寺に陣す。朝倉譜代の城主等皆信長に降参す。是に依つて義景、居城を保ちがたく、武備の術尽きて、近臣等を引率し、今日子刻に一乗の谷を引払ひ、他国の兵知らざる山中にて、而も小勢を以て大軍を防ぐに利ある所なりとて、大野郡山田の荘六房に引籠る。信長の兵ともに曽つて、義景の在所を知らず。二十日、信長の士稲葉伊予守、平泉寺の僧をかたらひ、大野郡の百姓を懐け、義景の在所を索出す。稲葉即ち義景の館を囲む。時に義景の長臣、義景自尽朝倉式部大輔景鏡、義景に自殺を奨め、其首を取つて稲葉に渡し降参す。義景の近臣、鳥井兵庫助・高橋甚三郎は、主君を介錯し其身も即ち殉死す。廿オープンアクセス NDLJP:254六日、信長の諸兵悉く引返し、海北主水正・安養寺大和守・井口主殿介・新荘孫八兵衛が、楯籠る浅井郡虎御前山の城を、囲んで之を攻む。城兵防ぎ戦ふ。海北・安養寺・井口・新荘四人の大将、一度に切出で、忠臣二君に事へざるものをと、義を相守る事、金石の如き四百八十二人、信長の備に切つて入り、敵に多く討亡され、皆枕を並べて討死す。雑兵は多く信長に降参す。実に四大将、義を不義の中に守りて、名を子孫の面に輝すなり。廿七日、信長の先末木下廃吉郎八千余騎にて京極太に行登りて、浅井久政と長政との間を取切る。于時久政、討出で大に相戦ふところに、裏切の者之れあり、大宇大和守・門根次郎左衛門・山際出羽守等討死す。是に依つて、兵を引退きて籠る。浅井久政自尽廿八日、久政の兵大門口に戦つて、皆悉く討死す。是に依つて、浅井下野守源朝臣自殺す。行年六十一歳。浅井福寿軒・同宮内少輔・同新八郎殉死す。廿九日、信長の三万八千余騎、小谷の四方より平に攻登る。信長は木下藤吉郎が陣所京極太に移つて、兵を進めて大に戦ふ。城兵防ぎ戦ふ。川瀬壱岐守・沢田兵庫頭、手勢三百余騎を一文字に進め、信長の陣取りたる太が岳に討つてかゝり戦ふに、信長の兵多く討取る。木下藤吉郎が兵、横合に馳合せて戦ふ。是に於て、河瀬壱岐守・沢田兵庫頭以下皆討死す。于時長政、浅井石見守・赤尾美作守を招いて曰、吾れ二君に仕へず、死を遂ぐる事、是れ日頃の大望にして、悦是に過ぎず。浅井長政の忠節然りと雖も、稚屋形今年纔に十歳にして、眼前に御自殺を見、佐々木数代の屋形、こゝに断絶に及ばん事、天命といひながら、是併、我等文道に疎く、武威の拙きがなす所なり。此恨、永く泉下に繋るのみ。願はくは其方二人、我が死に殉はんよりは、稚屋形龍武御曹子を具し奉りて、城を出で信長に降参し、時の宜しきあらんを見て、今一度信長に此憤を報ぜば、我が志といひ、各が志といひ、何の功か是に如かんや。凡そ士たる者、死期の術、遠大の計を致すこそ専要なれ。相構へて短慮の働をなすべからずと、打歎きていへば、石見守・美作守之を聞いて曰、尤も此を遁れて、信長に降らん事、一旦の計あるに似たりといへども、終に信長に事を悟らるゝ程ならば、稚屋形並に我等殺害に及ばん事必せり。然らば賤しき奴僕の手に堕ち、所存の外の死を取らん事、実に口惜しき次第なるべしと、長政復た曰、其こそ士たる者の本意なれ。恥にして恥オープンアクセス NDLJP:255ならず、謀略も無くして、只徒に死果つるは、恥にして恥なり。若し各推量の如く、此謀空しからば、但彼が武運強くして、我等忠義の足らざる所なりと思ひなし、只今生一往のみかは、歴劫忘れざるの思深く、其心を運びなば、終には蓋ぞ其恨を果さゞるべき。時刻移らば然るべからず。疾々といへば、両人異議に及ばず、稚屋形を抱へ奉り、木下藤吉郎に便りて信長に降参すと呼んで馳出づ。長政、之を看て大に悦び、浅井長政自尽即ち火を城に放つて自殺す。行年卅九歳。忠を子孫の上に貽し、名を万代の鏡に懸く。本朝忠臣多しと雖も、天下武家の手に移りし以来、惟楠正成・浅井長政二人のみ。万人の鏡にして武士の骨脈なり。信長、木下を以て、先づ稚屋形を受取り、次に浅井石見守・赤尾美作守は降人なればとて、甲を脱がせ弓絃をはなし太刀を取りて、木下に預けらる。稚屋形に供奉し、小谷城を出づる内、小姓の内加藤虎之助〈後号肥後守・片桐助作〈後号市正・脇坂甚内〈後号中将・稚屋形将軍義昭公の継嗣となりし時、右三人の小姓秀吉卿に属する七本鑓の内なり。七本鑓は、所謂加藤虎之助・片桐助作・脇坂甚内・加藤孫六・福島市松・平野権六・糟屋助右衛門等なり。九月朔日、信長、浅井石見守・赤尾美作守に対面して曰、汝等二人、既に長政自殺の場より心を翻し、我に降参する事、甚だ疑あり。龍武丸は我が孫なり。之を供して吾に屈せば、我れ汝等を賞せん。時節不意に長政が恨を報ぜんとの行なるべし。愚将は是等の謀に堕ちて、不覚に死を取るべし。信長に於ては謀らるべからず。誠に爾曹は、節義を守るの義士なり。免し置きたくは之れありと雖も、是非に及ばざる次第なりとて、信長、浅井石見守赤尾美作守を誅す木下藤吉郎に申付けて二人共に之を誅す。二日稚屋形をば、木下藤吉郎秀吉之を預るところに、磯野丹波守秀昌、代々の主君たるに依つて、此度の軍功の賞に申し替へて、之を預り養育す。四日、鯰江の城主佐々木右衛門督義祐を、信長家人柴田権六勝家に、兵四千余騎を相副へ攻めしむ。之を義祐、城を保たず、即ち降参す。五日、信長、百済寺を破却す。是は義祐籠城中、兵糧を送給みつぎたる罪となり。六日、信長岐阜に下る。十日、椙谷善住房、高島郡堀川阿弥寺に隠れ居けるを、磯野丹波守秀昌之を召捕り、岐阜に召具して信長に渡す。信長大に悦んで、土中に埋めて竹鋸を以て之を捜殺す。是は先年信長、千草越の時、承禎の命を蒙りて、鉄炮を以て信長を打ちたる者オープンアクセス NDLJP:256なり。浅井備前守長政は、元祖浅井新三郎政重、三条大納言公綱卿の子にして、其姓藤原なり。久政の代に至りて実父の姓に反つて源姓なり。久政は佐々木管領氏綱朝臣の妾、浅井備前守助政が姉、北向殿の生む所なり。亮政之を給はりて養育して家に附す。世にいふ、久政・長政二代の浅井、忠を致し節を持する者、本朝開闢以来絶倫の義士なり。唯楠正成を除くのみと、長政子四人あり。嫡男は万福丸とて、長政に先立つて早世す。余三人は皆女子なり。一人は京極の宰相高次の室、常高院と号し、一人は豊臣秀吉公の室、淀殿と号し、右大臣秀頼公の御母なり。一人は征夷大将軍秀忠公の御台所なり。崇源院殿と号す。征夷大将軍家光公・和子国母女院の御母公なり。二代の浅井家、無二の義士たる故に、没後の佳名天下に輝けり。

 
浅井物語大尾
 
 

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