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- は云った。殊にこの家は尾張屋よりも身代が大きいので、妹娘には婿を取って分家させる筈になっているのであるから、果たして素直(すなお)に尾張屋へくれるかどうだか判らないとのことであった。 「そうか」と、半七はうなずいた。「じゃあ、三河屋へ手をつけるにも及ぶめえ。すぐに尾張屋のおかんという女を引き挙げろ」…44キロバイト (8,940 語) - 2023年2月11日 (土) 10:48
- は、雲居はるかに織田信長の武名を聞し召し、永祿七年、おそれ多くも、勅使を尾張へおつかはしになつて、一日も早く國々の亂れをしづめるやう、お命じになりました。信長は、仰せを受けて感激の淚にむせび、命をささげて大御心にそひ奉らうと、堅く心に誓ひました。 織田氏代々の根城は尾張の淸洲で、信長も、初めは…719バイト (3,754 語) - 2015年12月20日 (日) 01:41
- は絶対に村民の立ち入ることを許されない森林地帯であり、明山のみが自由林とされていた。その明山でも、五木ばかりは許可なしに伐採することを禁じられていた。これは森林保護の精神より出たことは明らかで、木曾山を管理する尾張藩がそれほどこの地方から生まれ…704キロバイト (133,425 語) - 2019年9月29日 (日) 05:04
- は及ばないが、コレクターの心をくすぐる七宝もここで作られている。郊外を抜けると、左右に美しい古木の群生とその周囲の塀が見えるが、これは尾張公の旧領主の無人のヤスキ(城)跡である。シロそのものは、入口の櫓(やぐら)、高い三重の塔が残っているだけで、廃墟と化している。尾張親王は…75キロバイト (14,712 語) - 2023年7月24日 (月) 00:02
- は尾州家から千五百両の金を携えた役人が出張して来て、日によっては千人の人足を買い揚げたのを見ても、いかにその通行の大がかりなものであったかがわかる。奈良井宿詰(ならいしゅくづ)めの尾張人足なぞは、毎日のようにおびただしく馬籠峠を通った。伊那助郷(すけごう)が五百人も出た日の後には、須原(すは…648キロバイト (123,779 語) - 2019年9月29日 (日) 05:04
- は何になるんだいと聞いて見ましたら、あの子の言うことがいい。おれは尾州ですとさ。」 「へえ、次郎のやつは尾州かい。」 「えゝ、その尾州――ほんとに、子供はおかしなものですね。ところが、あなた、だれも会津になり手がない。」 この「会津になり手がない」が伊之助を笑わせた。お富は言葉をついで、…622キロバイト (119,815 語) - 2019年9月29日 (日) 05:04
- 寺本が先祖は尾張国(おわりのくに)寺本に住んでいた寺本太郎というものであった。太郎の子内膳正(ないぜんのしょう)は今川家に仕えた。内膳正の子が左兵衛、左兵衛の子が右衛門佐(うえもんのすけ)、右衛門佐の子が与左衛門で、与左衛門は朝鮮征伐のとき、加藤嘉明(よしあき)に属し…94キロバイト (19,001 語) - 2021年5月20日 (木) 17:17
- 道程 (詩集) (失はれたるモナ・リザの節)そして又、オオガスタス・ジヨンを生んだ血族から生まれた友よ 飽くまで正しい心と敬虔な魂とを有するわが友よ 今こそ喜びの時は來た 太陽のかがやく大道のまつただ中に奇蹟は起つた 失はれた道は與へられ 夢は碎け去り まよはしは尾を卷いて遠く逃げ おぼろにけむる美しさは 隅隅までも照し渡る光の中に全身をあらはし すべての能(ちから)は…107キロバイト (22,262 語) - 2023年1月8日 (日) 15:09
- 戦国時代に諸国に起った英雄は、だれも、われこそ京都に上って天下に号令しようと望んでいたが、一人としてそれをしとげるものがなかった。ところが、織田信長が出て、はじめて、その目的を達し、取分け朝廷を尊んで、大いに忠勤をはげんだ。 信長の生い立ち 信長は、平重盛の子孫だといわれている。その家は、代々、尾張…52キロバイト (16,129 語) - 2023年9月17日 (日) 12:48
- は不思議ですよ」 「まったく不思議だね」 話が済んで、惣八が帰りかけると、出合いがしらに十七八の小奇麗な女が帰って来た。かれは女中のお葉(よう)であった。其月は今年四十六で、五年まえに妻をうしなったので、その後は女中と二人暮らしである。お葉は千住(せんじゅ)の生まれで、女中奉公している女としては…55キロバイト (11,261 語) - 2022年1月2日 (日) 00:26
- は、やがて彼が宗太にも正己にも森夫にも和助にも呼びかける心で、後の代を待つ熱いさびしい思いをその四人に伝えたいと願うからであった。ことに彼が未熟な和助を頼みにするというのも、それは彼とお民との間に生まれた末の子というばかりでなく、「和助は学問の好きなやつだで、あれは…731キロバイト (142,362 語) - 2019年9月29日 (日) 05:05
- は中務の少輔有佐が道にあひておりて居たりつるこそ、いとほしく覺えつれ。院にたがはず似奉りたるさまなど有りけりと聞こえしかど〈ばイ〉、それはさてこそやまれにしか。此のすりのかみは、橘をかへられしかば、なほ關白の御子なるべし。この修理のかみの、昔尾張の國に俊綱といひけるひじりにておは…398バイト (106,040 語) - 2022年10月18日 (火) 09:02
- まれけるにや、軍(いくさ)をめして芳野をゝそはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高(いひたか)の郡(こほり)にいたりて太神宮を遙拝(えうはい)し、美濃(みの)へかゝりて東国の軍をめす。皇子高市(たけち)まゐり給しを大将軍として、美濃の不破(ふは)をまぼらめし、天皇は尾張…373キロバイト (76,412 語) - 2023年8月17日 (木) 14:28
- 尾張町(おわりちょう)、名古屋町(なごやちょう)、鯱鉾町(しゃちほこちょう)、蒲鉾町(かまぼこちょう)……」 「そんなにいろいろな町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」と主人がじれったそうに聞く。 「楽器のある店は金善(かねぜん)即ち金子善兵衛方ですから、まだなかなかです」…1.06メガバイト (208,385 語) - 2022年11月4日 (金) 04:57
- を旋して上野を通りそれより吉備武彥を越に遣はされ、自らは信濃國に進まれた。次いでこれと美濃に會し、尊は尾張の宮簀媛の許に留まり給ひ、それより膽吹山に賊を征して遂に病を獲られ伊勢の能褒野に薨ぜられた。つて吉備武彥が代つて東夷の平定を奏上した。et〓の後天東は尊を何が始ぐって國國を然辛せられまだ豐城入…681キロバイト (152,736 語) - 2024年1月27日 (土) 18:08
- は、故大将のはらからなれば、一かたならず東を重くおぼして、さしいらへもせず、院の御心の軽き事と、あぶながり給ふ。七条院の御ゆかりの殿原、坊門大納言忠信・尾張中将清経・中御門大納言宗家、又修明門院の御はらからの甲斐の宰相中将範茂など、つぎゝあまた聞ゆれど、さのみは…424キロバイト (97,325 語) - 2022年10月1日 (土) 01:23
- 生まれず、十八月にて生まれける。 別当此の子の遅く生まるる事不思議に思はれければ、産所に人を遣はして、「如何様なる者ぞ」と問はれければ、生まれ落ちたる気色は世の常の二三歳ばかりにて、髪は肩の隠るる程に生ひて、奥歯も向歯も殊に大きに生ひてぞ生まれけれ。別当に此の由を申しければ、「さては…482キロバイト (112,842 語) - 2023年1月24日 (火) 19:22
- 手まで打つていで、先鋒を岡崎にすゝめば弥四郎徳川殿といつはり、岡崎の城門を開かしめ、その勢を引入れ、三郎殿を害し奉り、その上にて、城中に籠りし三遠両国の人質をとり置きなば、三遠の者どもみな味方とならむ、しからば徳川殿も浜松におはしかねて、尾張か伊勢へ立のき給はむ、是勝頼刄に血ぬらずして、三遠を手に…91バイト (10,131 語) - 2024年5月10日 (金) 03:34
- は文字通りこゝに當てはまるやうなところだ。尾張、美濃のやうに今は工業の發達した地方に比べると、こゝは依然たる農業國であるが、これはこれでいゝ。こゝで味ふ彦根の米もうまい。のみならず、青年時代の旅の記憶につながれてゐるためかして、わたしは…282キロバイト (57,833 語) - 2021年5月19日 (水) 16:37
- は女中の声を聞いて、「なんだ、なんだ」といいつつ、手に行燈(あんどう)を提(さ)げて厨に出て来た。この時一人の引廻(ひきまわし)がっぱを被(き)た男が暗中より起(た)って、準平に近づいた。準平は行燈を措(お)いて奥に入(い)った。引廻の男は尾(つ)いて入った。準平は…642キロバイト (126,753 語) - 2022年3月23日 (水) 18:11