『吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。1905年1月、『ホトトギス』に発表され、好評を博したため、翌1906年8月まで継続した。中学校の英語教師である珍野苦沙弥の家に飼われている猫である「吾輩」の視点から、珍野一家や、そこに集う彼の友人や門下の書生たち、「太平の逸民」(第二話、第三話)の人間模様が風刺的・戯作的に描かれている。—
ウィキペディア日本語版 「
吾輩は猫である 」より。
吾輩 ( わがはい ) は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当 ( けんとう ) がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪 ( どうあく ) な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕 ( つかま ) えて煮 ( に ) て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌 ( てのひら ) に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始 ( みはじめ ) であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶 ( やかん ) だ。その後 ( ご ) 猫にもだいぶ逢 ( あ ) ったがこんな片輪 ( かたわ ) には一度も出会 ( でく ) わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙 ( けむり ) を吹く。どうも咽 ( む ) せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草 ( たばこ ) というものである事はようやくこの頃知った。
この書生の掌の裏 ( うち ) でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗 ( むやみ ) に眼が廻る。胸が悪くなる。到底 ( とうてい ) 助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一疋 ( ぴき ) も見えぬ。肝心 ( かんじん ) の母親さえ姿を隠してしまった。その上今 ( いま ) までの所とは違って無暗 ( むやみ ) に明るい。眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でも容子 ( ようす ) がおかしいと、のそのそ這 ( は ) い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁 ( わら ) の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。
ようやくの思いで笹原を這い出すと向うに大きな池がある。吾輩は池の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという分別 ( ふんべつ ) も出ない。しばらくして泣いたら書生がまた迎に来てくれるかと考え付いた。ニャー、ニャーと試みにやって見たが誰も来ない。そのうち池の上をさらさらと風が渡って日が暮れかかる。腹が非常に減って来た。泣きたくても声が出ない。仕方がない、何でもよいから食物 ( くいもの ) のある所まであるこうと決心をしてそろりそろりと池を左 ( ひだ ) りに廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這 ( は ) って行くとようやくの事で何となく人間臭い所へ出た。ここへ這入 ( はい ) ったら、どうにかなると思って竹垣の崩 ( くず ) れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩はついに路傍 ( ろぼう ) に餓死 ( がし ) したかも知れんのである。一樹の蔭とはよく云 ( い ) ったものだ。この垣根の穴は今日 ( こんにち ) に至るまで吾輩が隣家 ( となり ) の三毛を訪問する時の通路になっている。さて邸 ( やしき ) へは忍び込んだもののこれから先どうして善 ( い ) いか分らない。そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降って来るという始末でもう一刻の猶予 ( ゆうよ ) が出来なくなった。仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へとあるいて行く。今から考えるとその時はすでに家の内に這入っておったのだ。ここで吾輩は彼 ( か ) の書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇 ( そうぐう ) したのである。第一に逢ったのがおさんである。これは前の書生より一層乱暴な方で吾輩を見るや否やいきなり頸筋 ( くびすじ ) をつかんで表へ抛 ( ほう ) り出した。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再びおさんの隙 ( すき ) を見て台所へ這 ( は ) い上 ( あが ) った。すると間もなくまた投げ出された。吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。その時におさんと云う者はつくづくいやになった。この間おさんの三馬 ( さんま ) を偸 ( ぬす ) んでこの返報をしてやってから、やっと胸の痞 ( つかえ ) が下りた。吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この家 ( うち ) の主人が騒々しい何だといいながら出て来た。下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿 ( やど ) なしの小猫がいくら出しても出しても御台所 ( おだいどころ ) へ上 ( あが ) って来て困りますという。主人は鼻の下の黒い毛を撚 ( ひね ) りながら吾輩の顔をしばらく眺 ( なが ) めておったが、やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へ這入 ( はい ) ってしまった。主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜 ( くや ) しそうに吾輩を台所へ抛 ( ほう ) り出した。かくして吾輩はついにこの家 ( うち ) を自分の住家 ( すみか ) と極 ( き ) める事にしたのである。
吾輩の主人は滅多 ( めった ) に吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗 ( のぞ ) いて見るが、彼はよく昼寝 ( ひるね ) をしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎 ( よだれ ) をたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色 ( たんこうしょく ) を帯びて弾力のない不活溌 ( ふかっぱつ ) な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後 ( あと ) でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽 ( らく ) なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度 ( たび ) に何とかかんとか不平を鳴らしている。
吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、主人以外のものにははなはだ不人望であった。どこへ行っても跳 ( は ) ね付けられて相手にしてくれ手がなかった。いかに珍重されなかったかは、今日 ( こんにち ) に至るまで名前さえつけてくれないのでも分る。吾輩は仕方がないから、出来得る限り吾輩を入れてくれた主人の傍 ( そば ) にいる事をつとめた。朝主人が新聞を読むときは必ず彼の膝 ( ひざ ) の上に乗る。彼が昼寝をするときは必ずその背中 ( せなか ) に乗る。これはあながち主人が好きという訳ではないが別に構い手がなかったからやむを得んのである。その後いろいろ経験の上、朝は飯櫃 ( めしびつ ) の上、夜は炬燵 ( こたつ ) の上、天気のよい昼は椽側 ( えんがわ ) へ寝る事とした。しかし一番心持の好いのは夜 ( よ ) に入 ( い ) ってここのうちの小供の寝床へもぐり込んでいっしょにねる事である。この小供というのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入 ( はい ) って一間 ( ひとま ) へ寝る。吾輩はいつでも彼等の中間に己 ( おの ) れを容 ( い ) るべき余地を見出 ( みいだ ) してどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く小供の一人が眼を醒 ( さ ) ますが最後大変な事になる。小供は——ことに小さい方が質 ( たち ) がわるい——猫が来た猫が来たといって夜中でも何でも大きな声で泣き出すのである。すると例の神経胃弱性の主人は必 ( かなら ) ず眼をさまして次の部屋から飛び出してくる。現にせんだってなどは物指 ( ものさし ) で尻ぺたをひどく叩 ( たた ) かれた。
吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘 ( わがまま ) なものだと断言せざるを得ないようになった。ことに吾輩が時々同衾 ( どうきん ) する小供のごときに至っては言語同断 ( ごんごどうだん ) である。自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、抛 ( ほう ) り出したり、へっつい の中へ押し込んだりする。しかも吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら家内 ( かない ) 総がかりで追い廻して迫害を加える。この間もちょっと畳で爪を磨 ( と ) いだら細君が非常に怒 ( おこ ) ってそれから容易に座敷へ入 ( い ) れない。台所の板の間で他 ( ひと ) が顫 ( ふる ) えていても一向 ( いっこう ) 平気なものである。吾輩の尊敬する筋向 ( すじむこう ) の白君などは逢 ( あ ) う度毎 ( たびごと ) に人間ほど不人情なものはないと言っておらるる。白君は先日玉のような子猫を四疋産 ( う ) まれたのである。ところがそこの家 ( うち ) の書生が三日目にそいつを裏の池へ持って行って四疋ながら棄てて来たそうだ。白君は涙を流してその一部始終を話した上、どうしても我等猫族 ( ねこぞく ) が親子の愛を完 ( まった ) くして美しい家族的生活をするには人間と戦ってこれを剿滅 ( そうめつ ) せねばならぬといわれた。一々もっともの議論と思う。また隣りの三毛 ( みけ ) 君などは人間が所有権という事を解していないといって大 ( おおい ) に憤慨している。元来我々同族間では目刺 ( めざし ) の頭でも鰡 ( ぼら ) の臍 ( へそ ) でも一番先に見付けたものがこれを食う権利があるものとなっている。もし相手がこの規約を守らなければ腕力に訴えて善 ( よ ) いくらいのものだ。しかるに彼等人間は毫 ( ごう ) もこの観念がないと見えて我等が見付けた御馳走は必ず彼等のために掠奪 ( りゃくだつ ) せらるるのである。彼等はその強力を頼んで正当に吾人が食い得べきものを奪 ( うば ) ってすましている。白君は軍人の家におり三毛君は代言の主人を持っている。吾輩は教師の家に住んでいるだけ、こんな事に関すると両君よりもむしろ楽天である。ただその日その日がどうにかこうにか送られればよい。いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。
我儘 ( わがまま ) で思い出したからちょっと吾輩の家の主人がこの我儘で失敗した話をしよう。元来この主人は何といって人に勝 ( すぐ ) れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやってほととぎす へ投書をしたり、新体詩を明星 へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝 ( こ ) ったり、謡 ( うたい ) を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。その癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ。後架 ( こうか ) の中で謡をうたって、近所で後架先生 ( こうかせんせい ) と渾名 ( あだな ) をつけられているにも関せず一向 ( いっこう ) 平気なもので、やはりこれは平 ( たいら ) の宗盛 ( むねもり ) にて候 ( そうろう ) を繰返している。みんながそら宗盛だと吹き出すくらいである。この主人がどういう考になったものか吾輩の住み込んでから一月ばかり後 ( のち ) のある月の月給日に、大きな包みを提 ( さ ) げてあわただしく帰って来た。何を買って来たのかと思うと水彩絵具と毛筆とワットマンという紙で今日から謡や俳句をやめて絵をかく決心と見えた。果して翌日から当分の間というものは毎日毎日書斎で昼寝もしないで絵ばかりかいている。しかしそのかき上げたものを見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない。当人もあまり甘 ( うま ) くないと思ったものか、ある日その友人で美学とかをやっている人が来た時に下 ( しも ) のような話をしているのを聞いた。
「どうも甘 ( うま ) くかけないものだね。人のを見ると何でもないようだが自 ( みずか ) ら筆をとって見ると今更 ( いまさら ) のようにむずかしく感ずる」これは主人の述懐 ( じゅっかい ) である。なるほど詐 ( いつわ ) りのない処だ。彼の友は金縁の眼鏡越 ( めがねごし ) に主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画 ( え ) がかける訳のものではない。昔 ( むか ) し以太利 ( イタリー ) の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰 ( せいしん ) あり。地に露華 ( ろか ) あり。飛ぶに禽 ( とり ) あり。走るに獣 ( けもの ) あり。池に金魚あり。枯木 ( こぼく ) に寒鴉 ( かんあ ) あり。自然はこれ一幅の大活画 ( だいかつが ) なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」と主人は無暗 ( むやみ ) に感心している。金縁の裏には嘲 ( あざ ) けるような笑 ( わらい ) が見えた。
その翌日吾輩は例のごとく椽側 ( えんがわ ) に出て心持善く昼寝 ( ひるね ) をしていたら、主人が例になく書斎から出て来て吾輩の後 ( うし ) ろで何かしきりにやっている。ふと眼が覚 ( さ ) めて何をしているかと一分 ( いちぶ ) ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア・デル・サルトを極 ( き ) め込んでいる。吾輩はこの有様を見て覚えず失笑するのを禁じ得なかった。彼は彼の友に揶揄 ( やゆ ) せられたる結果としてまず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。吾輩はすでに十分 ( じゅうぶん ) 寝た。欠伸 ( あくび ) がしたくてたまらない。しかしせっかく主人が熱心に筆を執 ( と ) っているのを動いては気の毒だと思って、じっと辛棒 ( しんぼう ) しておった。彼は今吾輩の輪廓をかき上げて顔のあたりを色彩 ( いろど ) っている。吾輩は自白する。吾輩は猫として決して上乗の出来ではない。背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に勝 ( まさ ) るとは決して思っておらん。しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主人に描 ( えが ) き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。第一色が違う。吾輩は波斯産 ( ペルシャさん ) の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆 ( うるし ) のごとき斑入 ( ふい ) りの皮膚を有している。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色 ( とびいろ ) でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色である。その上不思議な事は眼がない。もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理もないが眼らしい所さえ見えないから盲猫 ( めくら ) だか寝ている猫だか判然しないのである。吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア・デル・サルトでもこれではしようがないと思った。しかしその熱心には感服せざるを得ない。なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催うしている。身内 ( みうち ) の筋肉はむずむずする。最早 ( もはや ) 一分も猶予 ( ゆうよ ) が出来ぬ仕儀 ( しぎ ) となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと大 ( だい ) なる欠伸をした。さてこうなって見ると、もうおとなしくしていても仕方がない。どうせ主人の予定は打 ( ぶ ) ち壊 ( こ ) わしたのだから、ついでに裏へ行って用を足 ( た ) そうと思ってのそのそ這い出した。すると主人は失望と怒りを掻 ( か ) き交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴 ( どな ) った。この主人は人を罵 ( ののし ) るときは必ず馬鹿野郎というのが癖である。ほかに悪口の言いようを知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、無暗 ( むやみ ) に馬鹿野郎呼 ( よば ) わりは失敬だと思う。それも平生吾輩が彼の背中 ( せなか ) へ乗る時に少しは好い顔でもするならこの漫罵 ( まんば ) も甘んじて受けるが、こっちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立ったのを馬鹿野郎とは酷 ( ひど ) い。元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来て窘 ( いじ ) めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。
我儘 ( わがまま ) もこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にした事がある。
吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園 ( ちゃえん ) がある。広くはないが瀟洒 ( さっぱり ) とした心持ち好く日の当 ( あた ) る所だ。うちの小供があまり騒いで楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでもここへ出て浩然 ( こうぜん ) の気を養うのが例である。ある小春の穏かな日の二時頃であったが、吾輩は昼飯後 ( ちゅうはんご ) 快よく一睡した後 ( のち ) 、運動かたがたこの茶園へと歩 ( ほ ) を運ばした。茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してその上に大きな猫が前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのも一向 ( いっこう ) 心付かざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな鼾 ( いびき ) をして長々と体を横 ( よこた ) えて眠っている。他 ( ひと ) の庭内に忍び入りたるものがかくまで平気に睡 ( ねむ ) られるものかと、吾輩は窃 ( ひそ ) かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒猫である。わずかに午 ( ご ) を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛 ( な ) げかけて、きらきらする柔毛 ( にこげ ) の間より眼に見えぬ炎でも燃 ( も ) え出 ( い ) ずるように思われた。彼は猫中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。吾輩の倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立 ( ちょりつ ) して余念もなく眺 ( なが ) めていると、静かなる小春の風が、杉垣の上から出たる梧桐 ( ごとう ) の枝を軽 ( かろ ) く誘ってばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王はかっとその真丸 ( まんまる ) の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は人間の珍重する琥珀 ( こはく ) というものよりも遥 ( はる ) かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。双眸 ( そうぼう ) の奥から射るごとき光を吾輩の矮小 ( わいしょう ) なる額 ( ひたい ) の上にあつめて、御めえ は一体何だと云った。大王にしては少々言葉が卑 ( いや ) しいと思ったが何しろその声の底に犬をも挫 ( ひ ) しぐべき力が籠 ( こも ) っているので吾輩は少なからず恐れを抱 ( いだ ) いた。しかし挨拶 ( あいさつ ) をしないと険呑 ( けんのん ) だと思ったから「吾輩は猫である。名前はまだない」となるべく平気を装 ( よそお ) って冷然と答えた。しかしこの時吾輩の心臓はたしかに平時よりも烈しく鼓動しておった。彼は大 ( おおい ) に軽蔑 ( けいべつ ) せる調子で「何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。全 ( ぜん ) てえどこに住んでるんだ」随分傍若無人 ( ぼうじゃくぶじん ) である。「吾輩はここの教師の家 ( うち ) にいるのだ」「どうせそんな事だろうと思った。いやに瘠 ( や ) せてるじゃねえか」と大王だけに気焔 ( きえん ) を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の猫とも思われない。しかしその膏切 ( あぶらぎ ) って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。「己 ( お ) れあ車屋の黒 ( くろ ) よ」昂然 ( こうぜん ) たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的 ( まと ) になっている奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々軽侮 ( けいぶ ) の念も生じたのである。吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかを試 ( ため ) してみようと思って左 ( さ ) の問答をして見た。
「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」
「車屋の方が強いに極 ( きま ) っていらあな。御めえ のうち の主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」
「君も車屋の猫だけに大分 ( だいぶ ) 強そうだ。車屋にいると御馳走 ( ごちそう ) が食えると見えるね」
「何 ( なあ ) におれ なんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。御めえ なんかも茶畠 ( ちゃばたけ ) ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己 ( おれ ) の後 ( あと ) へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
「追ってそう願う事にしよう。しかし家 ( うち ) は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」
「箆棒 ( べらぼう ) め、うちなんかいくら大きくたって腹の足 ( た ) しになるもんか」
彼は大 ( おおい ) に肝癪 ( かんしゃく ) に障 ( さわ ) った様子で、寒竹 ( かんちく ) をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が車屋の黒と知己 ( ちき ) になったのはこれからである。
その後 ( ご ) 吾輩は度々 ( たびたび ) 黒と邂逅 ( かいこう ) する。邂逅する毎 ( ごと ) に彼は車屋相当の気焔 ( きえん ) を吐く。先に吾輩が耳にしたという不徳事件も実は黒から聞いたのである。
或る日例のごとく吾輩と黒は暖かい茶畠 ( ちゃばたけ ) の中で寝転 ( ねころ ) びながらいろいろ雑談をしていると、彼はいつもの自慢話 ( じまんばな ) しをさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向って下 ( しも ) のごとく質問した。「御めえ は今までに鼠を何匹とった事がある」智識は黒よりも余程発達しているつもりだが腕力と勇気とに至っては到底 ( とうてい ) 黒の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問に接したる時は、さすがに極 ( きま ) りが善 ( よ ) くはなかった。けれども事実は事実で詐 ( いつわ ) る訳には行かないから、吾輩は「実はとろうとろうと思ってまだ捕 ( と ) らない」と答えた。黒は彼の鼻の先からぴんと突張 ( つっぱ ) っている長い髭 ( ひげ ) をびりびりと震 ( ふる ) わせて非常に笑った。元来黒は自慢をする丈 ( だけ ) にどこか足りないところがあって、彼の気焔 ( きえん ) を感心したように咽喉 ( のど ) をころころ鳴らして謹聴していればはなはだ御 ( ぎょ ) しやすい猫である。吾輩は彼と近付になってから直 ( すぐ ) にこの呼吸を飲み込んだからこの場合にもなまじい己 ( おの ) れを弁護してますます形勢をわるくするのも愚 ( ぐ ) である、いっその事彼に自分の手柄話をしゃべらして御茶を濁すに若 ( し ) くはないと思案を定 ( さだ ) めた。そこでおとなしく「君などは年が年であるから大分 ( だいぶん ) とったろう」とそそのかして見た。果然彼は墻壁 ( しょうへき ) の欠所 ( けっしょ ) に吶喊 ( とっかん ) して来た。「たんとでもねえが三四十はとったろう」とは得意気なる彼の答であった。彼はなお語をつづけて「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるがいたち ってえ奴は手に合わねえ。一度いたち に向って酷 ( ひど ) い目に逢 ( あ ) った」「へえなるほど」と相槌 ( あいづち ) を打つ。黒は大きな眼をぱちつかせて云う。「去年の大掃除の時だ。うちの亭主が石灰 ( いしばい ) の袋を持って椽 ( えん ) の下へ這 ( は ) い込んだら御めえ 大きないたち の野郎が面喰 ( めんくら ) って飛び出したと思いねえ」「ふん」と感心して見せる。「いたち ってけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。こん畜生 ( ちきしょう ) って気で追っかけてとうとう泥溝 ( どぶ ) の中へ追い込んだと思いねえ」「うまくやったね」と喝采 ( かっさい ) してやる。「ところが御めえ いざってえ段になると奴め最後 ( さいご ) っ屁 ( ぺ ) をこきゃがった。臭 ( くせ ) えの臭くねえのってそれからってえものはいたち を見ると胸が悪くならあ」彼はここに至ってあたかも去年の臭気を今 ( いま ) なお感ずるごとく前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻わした。吾輩も少々気の毒な感じがする。ちっと景気を付けてやろうと思って「しかし鼠なら君に睨 ( にら ) まれては百年目だろう。君はあまり鼠を捕 ( と ) るのが名人で鼠ばかり食うものだからそんなに肥って色つやが善いのだろう」黒の御機嫌をとるためのこの質問は不思議にも反対の結果を呈出 ( ていしゅつ ) した。彼は喟然 ( きぜん ) として大息 ( たいそく ) していう。「考 ( かん ) げえるとつまらねえ。いくら稼いで鼠をとったって——一てえ人間ほどふてえ奴は世の中にいねえぜ。人のとった鼠をみんな取り上げやがって交番へ持って行きゃあがる。交番じゃ誰が捕 ( と ) ったか分らねえからそのたんび に五銭ずつくれるじゃねえか。うちの亭主なんか己 ( おれ ) の御蔭でもう壱円五十銭くらい儲 ( もう ) けていやがる癖に、碌 ( ろく ) なものを食わせた事もありゃしねえ。おい人間てものあ体 ( てい ) の善 ( い ) い泥棒だぜ」さすが無学の黒もこのくらいの理窟 ( りくつ ) はわかると見えてすこぶる怒 ( おこ ) った容子 ( ようす ) で背中の毛を逆立 ( さかだ ) てている。吾輩は少々気味が悪くなったから善い加減にその場を胡魔化 ( ごまか ) して家 ( うち ) へ帰った。この時から吾輩は決して鼠をとるまいと決心した。しかし黒の子分になって鼠以外の御馳走を猟 ( あさ ) ってあるく事もしなかった。御馳走を食うよりも寝ていた方が気楽でいい。教師の家 ( うち ) にいると猫も教師のような性質になると見える。要心しないと今に胃弱になるかも知れない。
教師といえば吾輩の主人も近頃に至っては到底 ( とうてい ) 水彩画において望 ( のぞみ ) のない事を悟ったものと見えて十二月一日の日記にこんな事をかきつけた。
○○と云う人に今日の会で始めて出逢 ( であ ) った。あの人は大分 ( だいぶ ) 放蕩 ( ほうとう ) をした人だと云うがなるほど通人 ( つうじん ) らしい風采 ( ふうさい ) をしている。こう云う質 ( たち ) の人は女に好かれるものだから○○が放蕩をしたと云うよりも放蕩をするべく余儀なくせられたと云うのが適当であろう。あの人の妻君は芸者だそうだ、羨 ( うらや ) ましい事である。元来放蕩家を悪くいう人の大部分は放蕩をする資格のないものが多い。また放蕩家をもって自任する連中のうちにも、放蕩する資格のないものが多い。これらは余儀なくされないのに無理に進んでやるのである。あたかも吾輩の水彩画に於けるがごときもので到底卒業する気づかいはない。しかるにも関せず、自分だけは通人だと思って済 ( すま ) している。料理屋の酒を飲んだり待合へ這入 ( はい ) るから通人となり得るという論が立つなら、吾輩も一廉 ( ひとかど ) の水彩画家になり得る理窟 ( りくつ ) だ。吾輩の水彩画のごときはかかない方がましであると同じように、愚昧 ( ぐまい ) なる通人よりも山出しの大野暮 ( おおやぼ ) の方が遥 ( はる ) かに上等だ。
通人論 ( つうじんろん ) はちょっと首肯 ( しゅこう ) しかねる。また芸者の妻君を羨しいなどというところは教師としては口にすべからざる愚劣の考であるが、自己の水彩画における批評眼だけはたしかなものだ。主人はかくのごとく自知 ( じち ) の明 ( めい ) あるにも関せずその自惚心 ( うぬぼれしん ) はなかなか抜けない。中二日 ( なかふつか ) 置いて十二月四日の日記にこんな事を書いている。
昨夜 ( ゆうべ ) は僕が水彩画をかいて到底物にならんと思って、そこらに抛 ( ほう ) って置いたのを誰かが立派な額にして欄間 ( らんま ) に懸 ( か ) けてくれた夢を見た。さて額になったところを見ると我ながら急に上手になった。非常に嬉しい。これなら立派なものだと独 ( ひと ) りで眺め暮らしていると、夜が明けて眼が覚 ( さ ) めてやはり元の通り下手である事が朝日と共に明瞭になってしまった。
主人は夢の裡 ( うち ) まで水彩画の未練を背負 ( しょ ) ってあるいていると見える。これでは水彩画家は無論夫子 ( ふうし ) の所謂 ( いわゆる ) 通人にもなれない質 ( たち ) だ。
主人が水彩画を夢に見た翌日例の金縁眼鏡 ( めがね ) の美学者が久し振りで主人を訪問した。彼は座につくと劈頭 ( へきとう ) 第一に「画 ( え ) はどうかね」と口を切った。主人は平気な顔をして「君の忠告に従って写生を力 ( つと ) めているが、なるほど写生をすると今まで気のつかなかった物の形や、色の精細な変化などがよく分るようだ。西洋では昔 ( むか ) しから写生を主張した結果今日 ( こんにち ) のように発達したものと思われる。さすがアンドレア・デル・サルトだ」と日記の事はおくび にも出さないで、またアンドレア・デル・サルトに感心する。美学者は笑いながら「実は君、あれは出鱈目 ( でたらめ ) だよ」と頭を掻 ( か ) く。「何が」と主人はまだ譃 ( いつ ) わられた事に気がつかない。「何がって君のしきりに感服しているアンドレア・デル・サルトさ。あれは僕のちょっと捏造 ( ねつぞう ) した話だ。君がそんなに真面目 ( まじめ ) に信じようとは思わなかったハハハハ」と大喜悦の体 ( てい ) である。吾輩は椽側でこの対話を聞いて彼の今日の日記にはいかなる事が記 ( しる ) さるるであろうかと予 ( あらかじ ) め想像せざるを得なかった。この美学者はこんな好 ( いい ) 加減な事を吹き散らして人を担 ( かつ ) ぐのを唯一の楽 ( たのしみ ) にしている男である。彼はアンドレア・デル・サルト事件が主人の情線 ( じょうせん ) にいかなる響を伝えたかを毫 ( ごう ) も顧慮せざるもののごとく得意になって下 ( しも ) のような事を饒舌 ( しゃべ ) った。「いや時々冗談 ( じょうだん ) を言うと人が真 ( ま ) に受けるので大 ( おおい ) に滑稽的 ( こっけいてき ) 美感を挑撥 ( ちょうはつ ) するのは面白い。せんだってある学生にニコラス・ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で出版させたと言ったら、その学生がまた馬鹿に記憶の善い男で、日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であった。ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが、皆熱心にそれを傾聴しておった。それからまだ面白い話がある。せんだって或る文学者のいる席でハリソンの歴史小説セオファーノの話 ( はな ) しが出たから僕はあれは歴史小説の中 ( うち ) で白眉 ( はくび ) である。ことに女主人公が死ぬところは鬼気 ( きき ) 人を襲うようだと評したら、僕の向うに坐っている知らんと云った事のない先生が、そうそうあすこは実に名文だといった。それで僕はこの男もやはり僕同様この小説を読んでおらないという事を知った」神経胃弱性の主人は眼を丸くして問いかけた。「そんな出鱈目 ( でたらめ ) をいってもし相手が読んでいたらどうするつもりだ」あたかも人を欺 ( あざむ ) くのは差支 ( さしつかえ ) ない、ただ化 ( ばけ ) の皮 ( かわ ) があらわれた時は困るじゃないかと感じたもののごとくである。美学者は少しも動じない。「なにその時 ( とき ) ゃ別の本と間違えたとか何とか云うばかりさ」と云ってけらけら笑っている。この美学者は金縁の眼鏡は掛けているがその性質が車屋の黒に似たところがある。主人は黙って日の出を輪に吹いて吾輩にはそんな勇気はないと云わんばかりの顔をしている。美学者はそれだから画 ( え ) をかいても駄目だという目付で「しかし冗談 ( じょうだん ) は冗談だが画というものは実際むずかしいものだよ、レオナルド・ダ・ヴィンチは門下生に寺院の壁のしみ を写せと教えた事があるそうだ。なるほど雪隠 ( せついん ) などに這入 ( はい ) って雨の漏る壁を余念なく眺めていると、なかなかうまい模様画が自然に出来ているぜ。君注意して写生して見給えきっと面白いものが出来るから」「また欺 ( だま ) すのだろう」「いえこれだけはたしかだよ。実際奇警な語じゃないか、ダ・ヴィンチでもいいそうな事だあね」「なるほど奇警には相違ないな」と主人は半分降参をした。しかし彼はまだ雪隠で写生はせぬようだ。
車屋の黒はその後 ( ご ) 跛 ( びっこ ) になった。彼の光沢ある毛は漸々 ( だんだん ) 色が褪 ( さ ) めて抜けて来る。吾輩が琥珀 ( こはく ) よりも美しいと評した彼の眼には眼脂 ( めやに ) が一杯たまっている。ことに著るしく吾輩の注意を惹 ( ひ ) いたのは彼の元気の消沈とその体格の悪くなった事である。吾輩が例の茶園 ( ちゃえん ) で彼に逢った最後の日、どうだと云って尋ねたら「いたち の最後屁 ( さいごっぺ ) と肴屋 ( さかなや ) の天秤棒 ( てんびんぼう ) には懲々 ( こりごり ) だ」といった。
赤松の間に二三段の紅 ( こう ) を綴った紅葉 ( こうよう ) は昔 ( むか ) しの夢のごとく散ってつくばい に近く代る代る花弁 ( はなびら ) をこぼした紅白 ( こうはく ) の山茶花 ( さざんか ) も残りなく落ち尽した。三間半の南向の椽側に冬の日脚が早く傾いて木枯 ( こがらし ) の吹かない日はほとんど稀 ( まれ ) になってから吾輩の昼寝の時間も狭 ( せば ) められたような気がする。
主人は毎日学校へ行く。帰ると書斎へ立て籠 ( こも ) る。人が来ると、教師が厭 ( いや ) だ厭だという。水彩画も滅多にかかない。タカジヤスターゼも功能がないといってやめてしまった。小供は感心に休まないで幼稚園へかよう。帰ると唱歌を歌って、毬 ( まり ) をついて、時々吾輩を尻尾 ( しっぽ ) でぶら下げる。
吾輩は御馳走 ( ごちそう ) も食わないから別段肥 ( ふと ) りもしないが、まずまず健康で跛 ( びっこ ) にもならずにその日その日を暮している。鼠は決して取らない。おさんは未 ( いま ) だに嫌 ( きら ) いである。名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯 ( しょうがい ) この教師の家 ( うち ) で無名の猫で終るつもりだ。
吾輩は新年来多少有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。
元朝早々主人の許 ( もと ) へ一枚の絵端書 ( えはがき ) が来た。これは彼の交友某画家からの年始状であるが、上部を赤、下部を深緑 ( ふかみど ) りで塗って、その真中に一の動物が蹲踞 ( うずくま ) っているところをパステルで書いてある。主人は例の書斎でこの絵を、横から見たり、竪 ( たて ) から眺めたりして、うまい色だなという。すでに一応感服したものだから、もうやめにするかと思うとやはり横から見たり、竪から見たりしている。からだを拗 ( ね ) じ向けたり、手を延ばして年寄が三世相 ( さんぜそう ) を見るようにしたり、または窓の方へむいて鼻の先まで持って来たりして見ている。早くやめてくれないと膝 ( ひざ ) が揺れて険呑 ( けんのん ) でたまらない。ようやくの事で動揺があまり劇 ( はげ ) しくなくなったと思ったら、小さな声で一体何をかいたのだろうと云 ( い ) う。主人は絵端書の色には感服したが、かいてある動物の正体が分らぬので、さっきから苦心をしたものと見える。そんな分らぬ絵端書かと思いながら、寝ていた眼を上品に半 ( なか ) ば開いて、落ちつき払って見ると紛 ( まぎ ) れもない、自分の肖像だ。主人のようにアンドレア・デル・サルトを極 ( き ) め込んだものでもあるまいが、画家だけに形体も色彩もちゃんと整って出来ている。誰が見たって猫に相違ない。少し眼識のあるものなら、猫の中 ( うち ) でも他 ( ほか ) の猫じゃない吾輩である事が判然とわかるように立派に描 ( か ) いてある。このくらい明瞭な事を分らずにかくまで苦心するかと思うと、少し人間が気の毒になる。出来る事ならその絵が吾輩であると云う事を知らしてやりたい。吾輩であると云う事はよし分らないにしても、せめて猫であるという事だけは分らしてやりたい。しかし人間というものは到底 ( とうてい ) 吾輩猫属 ( ねこぞく ) の言語を解し得るくらいに天の恵 ( めぐみ ) に浴しておらん動物であるから、残念ながらそのままにしておいた。
ちょっと読者に断っておきたいが、元来人間が何ぞというと猫々と、事もなげに軽侮の口調をもって吾輩を評価する癖があるははなはだよくない。人間の糟 ( かす ) から牛と馬が出来て、牛と馬の糞から猫が製造されたごとく考えるのは、自分の無智に心付かんで高慢な顔をする教師などにはありがちの事でもあろうが、はたから見てあまり見っともいい者じゃない。いくら猫だって、そう粗末簡便には出来ぬ。よそ目には一列一体、平等無差別、どの猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社会に這入 ( はい ) って見るとなかなか複雑なもので十人十色 ( といろ ) という人間界の語 ( ことば ) はそのままここにも応用が出来るのである。目付でも、鼻付でも、毛並でも、足並でも、みんな違う。髯 ( ひげ ) の張り具合から耳の立ち按排 ( あんばい ) 、尻尾 ( しっぽ ) の垂れ加減に至るまで同じものは一つもない。器量、不器量、好き嫌い、粋無粋 ( すいぶすい ) の数 ( かず ) を悉 ( つ ) くして千差万別と云っても差支えないくらいである。そのように判然たる区別が存しているにもかかわらず、人間の眼はただ向上とか何とかいって、空ばかり見ているものだから、吾輩の性質は無論相貌 ( そうぼう ) の末を識別する事すら到底出来ぬのは気の毒だ。同類相求むとは昔 ( むか ) しからある語 ( ことば ) だそうだがその通り、餅屋 ( もちや ) は餅屋、猫は猫で、猫の事ならやはり猫でなくては分らぬ。いくら人間が発達したってこればかりは駄目である。いわんや実際をいうと彼等が自 ( みずか ) ら信じているごとくえらくも何ともないのだからなおさらむずかしい。またいわんや同情に乏しい吾輩の主人のごときは、相互を残りなく解するというが愛の第一義であるということすら分らない男なのだから仕方がない。彼は性の悪い牡蠣 ( かき ) のごとく書斎に吸い付いて、かつて外界に向って口を開 ( ひら ) いた事がない。それで自分だけはすこぶる達観したような面構 ( つらがまえ ) をしているのはちょっとおかしい。達観しない証拠には現に吾輩の肖像が眼の前にあるのに少しも悟った様子もなく今年は征露の第二年目だから大方熊の画 ( え ) だろうなどと気の知れぬことをいってすましているのでもわかる。
吾輩が主人の膝 ( ひざ ) の上で眼をねむりながらかく考えていると、やがて下女が第二の絵端書 ( えはがき ) を持って来た。見ると活版で舶来の猫が四五疋 ( ひき ) ずらりと行列してペンを握ったり書物を開いたり勉強をしている。その内の一疋は席を離れて机の角で西洋の猫じゃ猫じゃを躍 ( おど ) っている。その上に日本の墨で「吾輩は猫である」と黒々とかいて、右の側 ( わき ) に書を読むや躍 ( おど ) るや猫の春一日 ( はるひとひ ) という俳句さえ認 ( したた ) められてある。これは主人の旧門下生より来たので誰が見たって一見して意味がわかるはずであるのに、迂濶 ( うかつ ) な主人はまだ悟らないと見えて不思議そうに首を捻 ( ひね ) って、はてな今年は猫の年かなと独言 ( ひとりごと ) を言った。吾輩がこれほど有名になったのを未 ( ま ) だ気が着かずにいると見える。
ところへ下女がまた第三の端書を持ってくる。今度は絵端書ではない。恭賀新年とかいて、傍 ( かたわ ) らに乍恐縮 ( きょうしゅくながら ) かの猫へも宜 ( よろ ) しく御伝声 ( ごでんせい ) 奉願上候 ( ねがいあげたてまつりそろ ) とある。いかに迂遠 ( うえん ) な主人でもこう明らさまに書いてあれば分るものと見えてようやく気が付いたようにフンと言いながら吾輩の顔を見た。その眼付が今までとは違って多少尊敬の意を含んでいるように思われた。今まで世間から存在を認められなかった主人が急に一個の新面目 ( しんめんぼく ) を施こしたのも、全く吾輩の御蔭だと思えばこのくらいの眼付は至当だろうと考える。
おりから門の格子 ( こうし ) がチリン、チリン、チリリリリンと鳴る。大方来客であろう、来客なら下女が取次に出る。吾輩は肴屋 ( さかなや ) の梅公がくる時のほかは出ない事に極 ( き ) めているのだから、平気で、もとのごとく主人の膝に坐っておった。すると主人は高利貸にでも飛び込まれたように不安な顔付をして玄関の方を見る。何でも年賀の客を受けて酒の相手をするのが厭らしい。人間もこのくらい偏屈 ( へんくつ ) になれば申し分はない。そんなら早くから外出でもすればよいのにそれほどの勇気も無い。いよいよ牡蠣の根性 ( こんじょう ) をあらわしている。しばらくすると下女が来て寒月 ( かんげつ ) さんがおいでになりましたという。この寒月という男はやはり主人の旧門下生であったそうだが、今では学校を卒業して、何でも主人より立派になっているという話 ( はな ) しである。この男がどういう訳か、よく主人の所へ遊びに来る。来ると自分を恋 ( おも ) っている女が有りそうな、無さそうな、世の中が面白そうな、つまらなそうな、凄 ( すご ) いような艶 ( つや ) っぽいような文句ばかり並べては帰る。主人のようなしなびかけた人間を求めて、わざわざこんな話しをしに来るのからして合点 ( がてん ) が行かぬが、あの牡蠣的 ( かきてき ) 主人がそんな談話を聞いて時々相槌 ( あいづち ) を打つのはなお面白い。
「しばらく御無沙汰をしました。実は去年の暮から大 ( おおい ) に活動しているものですから、出 ( で ) よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」と羽織の紐 ( ひも ) をひねくりながら謎 ( なぞ ) 見たような事をいう。「どっちの方角へ足が向くかね」と主人は真面目な顔をして、黒木綿 ( くろもめん ) の紋付羽織の袖口 ( そでぐち ) を引張る。この羽織は木綿でゆき が短かい、下からべんべら者が左右へ五分くらいずつはみ出している。「エヘヘヘ少し違った方角で」と寒月君が笑う。見ると今日は前歯が一枚欠けている。「君歯をどうかしたかね」と主人は問題を転じた。「ええ実はある所で椎茸 ( しいたけ ) を食いましてね」「何を食ったって?」「その、少し椎茸を食ったんで。椎茸の傘 ( かさ ) を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか爺々臭 ( じじいくさ ) いね。俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな」と平手で吾輩の頭を軽 ( かろ ) く叩く。「ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月君は大 ( おおい ) に吾輩を賞 ( ほ ) める。「近頃大分 ( だいぶ ) 大きくなったのさ」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる。賞められたのは得意であるが頭が少々痛い。「一昨夜もちょいと合奏会をやりましてね」と寒月君はまた話しをもとへ戻す。「どこで」「どこでもそりゃ御聞きにならんでもよいでしょう。ヴァイオリンが三挺 ( ちょう ) とピヤノの伴奏でなかなか面白かったです。ヴァイオリンも三挺くらいになると下手でも聞かれるものですね。二人は女で私 ( わたし ) がその中へまじりましたが、自分でも善く弾 ( ひ ) けたと思いました」「ふん、そしてその女というのは何者かね」と主人は羨 ( うらや ) ましそうに問いかける。元来主人は平常枯木寒巌 ( こぼくかんがん ) のような顔付はしているものの実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、かつて西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと惚 ( ほ ) れる。勘定をして見ると往来を通る婦人の七割弱 には恋着 ( れんちゃく ) するという事が諷刺的 ( ふうしてき ) に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である。そんな浮気な男が何故 ( なぜ ) 牡蠣的生涯を送っているかと云うのは吾輩猫などには到底 ( とうてい ) 分らない。或人は失恋のためだとも云うし、或人は胃弱のせいだとも云うし、また或人は金がなくて臆病な性質 ( たち ) だからだとも云う。どっちにしたって明治の歴史に関係するほどな人物でもないのだから構わない。しかし寒月君の女連 ( おんなづ ) れを羨まし気 ( げ ) に尋ねた事だけは事実である。寒月君は面白そうに口取 ( くちとり ) の蒲鉾 ( かまぼこ ) を箸で挟んで半分前歯で食い切った。吾輩はまた欠けはせぬかと心配したが今度は大丈夫であった。「なに二人とも去 ( さ ) る所の令嬢ですよ、御存じの方 ( かた ) じゃありません」と余所余所 ( よそよそ ) しい返事をする。「ナール」と主人は引張ったが「ほど」を略して考えている。寒月君はもう善 ( い ) い加減な時分だと思ったものか「どうも好い天気ですな、御閑 ( おひま ) ならごいっしょに散歩でもしましょうか、旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と促 ( うな ) がして見る。主人は旅順の陥落より女連 ( おんなづれ ) の身元を聞きたいと云う顔で、しばらく考え込んでいたがようやく決心をしたものと見えて「それじゃ出るとしよう」と思い切って立つ。やはり黒木綿の紋付羽織に、兄の紀念 ( かたみ ) とかいう二十年来着古 ( きふ ) るした結城紬 ( ゆうきつむぎ ) の綿入を着たままである。いくら結城紬が丈夫だって、こう着つづけではたまらない。所々が薄くなって日に透かして見ると裏からつぎ を当てた針の目が見える。主人の服装には師走 ( しわす ) も正月もない。ふだん着も余所 ( よそ ) ゆきもない。出るときは懐手 ( ふところで ) をしてぶらりと出る。ほかに着る物がないからか、有っても面倒だから着換えないのか、吾輩には分らぬ。ただしこれだけは失恋のためとも思われない。
両人 ( ふたり ) が出て行ったあとで、吾輩はちょっと失敬して寒月君の食い切った蒲鉾 ( かまぼこ ) の残りを頂戴 ( ちょうだい ) した。吾輩もこの頃では普通一般の猫ではない。まず桃川如燕 ( ももかわじょえん ) 以後の猫か、グレーの金魚を偸 ( ぬす ) んだ猫くらいの資格は充分あると思う。車屋の黒などは固 ( もと ) より眼中にない。蒲鉾の一切 ( ひときれ ) くらい頂戴したって人からかれこれ云われる事もなかろう。それにこの人目を忍んで間食 ( かんしょく ) をするという癖は、何も吾等猫族に限った事ではない。うちの御三 ( おさん ) などはよく細君の留守中に餅菓子などを失敬しては頂戴し、頂戴しては失敬している。御三ばかりじゃない現に上品な仕付 ( しつけ ) を受けつつあると細君から吹聴 ( ふいちょう ) せられている小児 ( こども ) ですらこの傾向がある。四五日前のことであったが、二人の小供が馬鹿に早くから眼を覚まして、まだ主人夫婦の寝ている間に対 ( むか ) い合うて食卓に着いた。彼等は毎朝主人の食う麺麭 ( パン ) の幾分に、砂糖をつけて食うのが例であるが、この日はちょうど砂糖壺 ( さとうつぼ ) が卓 ( たく ) の上に置かれて匙 ( さじ ) さえ添えてあった。いつものように砂糖を分配してくれるものがないので、大きい方がやがて壺の中から一匙 ( ひとさじ ) の砂糖をすくい出して自分の皿の上へあけた。すると小さいのが姉のした通り同分量の砂糖を同方法で自分の皿の上にあけた。少 ( しば ) らく両人 ( りょうにん ) は睨 ( にら ) み合っていたが、大きいのがまた匙をとって一杯をわが皿の上に加えた。小さいのもすぐ匙をとってわが分量を姉と同一にした。すると姉がまた一杯すくった。妹も負けずに一杯を附加した。姉がまた壺へ手を懸ける、妹がまた匙をとる。見ている間 ( ま ) に一杯一杯一杯と重なって、ついには両人 ( ふたり ) の皿には山盛の砂糖が堆 ( うずたか ) くなって、壺の中には一匙の砂糖も余っておらんようになったとき、主人が寝ぼけ眼 ( まなこ ) を擦 ( こす ) りながら寝室を出て来てせっかくしゃくい出した砂糖を元のごとく壺の中へ入れてしまった。こんなところを見ると、人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より優 ( まさ ) っているかも知れぬが、智慧 ( ちえ ) はかえって猫より劣っているようだ。そんなに山盛にしないうちに早く甞 ( な ) めてしまえばいいにと思ったが、例のごとく、吾輩の言う事などは通じないのだから、気の毒ながら御櫃 ( おはち ) の上から黙って見物していた。
寒月君と出掛けた主人はどこをどう歩行 ( ある ) いたものか、その晩遅く帰って来て、翌日食卓に就 ( つ ) いたのは九時頃であった。例の御櫃の上から拝見していると、主人はだまって雑煮 ( ぞうに ) を食っている。代えては食い、代えては食う。餅の切れは小さいが、何でも六切 ( むきれ ) か七切 ( ななきれ ) 食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと箸 ( はし ) を置いた。他人がそんな我儘 ( わがまま ) をすると、なかなか承知しないのであるが、主人の威光を振り廻わして得意なる彼は、濁った汁の中に焦 ( こ ) げ爛 ( ただ ) れた餅の死骸を見て平気ですましている。妻君が袋戸 ( ふくろど ) の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、主人は「それは利 ( き ) かないから飲まん」という。「でもあなた澱粉質 ( でんぷんしつ ) のものには大変功能があるそうですから、召し上ったらいいでしょう」と飲ませたがる。「澱粉だろうが何だろうが駄目だよ」と頑固 ( がんこ ) に出る。「あなたはほんとに厭 ( あ ) きっぽい」と細君が独言 ( ひとりごと ) のようにいう。「厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ」「それだってせんだってじゅうは大変によく利くよく利くとおっしゃって毎日毎日上ったじゃありませんか」「こないだうちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ」と対句 ( ついく ) のような返事をする。「そんなに飲んだり止 ( や ) めたりしちゃ、いくら功能のある薬でも利く気遣 ( きづか ) いはありません、もう少し辛防 ( しんぼう ) がよくなくっちゃあ胃弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ」とお盆を持って控えた御三 ( おさん ) を顧みる。「それは本当のところでございます。もう少し召し上ってご覧にならないと、とても善 ( よ ) い薬か悪い薬かわかりますまい」と御三は一も二もなく細君の肩を持つ。「何でもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか、黙っていろ」「どうせ女ですわ」と細君がタカジヤスターゼを主人の前へ突き付けて是非詰腹 ( つめばら ) を切らせようとする。主人は何にも云わず立って書斎へ這入 ( はい ) る。細君と御三は顔を見合せてにやにやと笑う。こんなときに後 ( あと ) からくっ付いて行って膝 ( ひざ ) の上へ乗ると、大変な目に逢 ( あ ) わされるから、そっと庭から廻って書斎の椽側へ上 ( あが ) って障子の隙 ( すき ) から覗 ( のぞ ) いて見ると、主人はエピクテタスとか云う人の本を披 ( ひら ) いて見ておった。もしそれが平常 ( いつも ) の通りわかるならちょっとえらいところがある。五六分するとその本を叩 ( たた ) き付けるように机の上へ抛 ( ほう ) り出す。大方そんな事だろうと思いながらなお注意していると、今度は日記帳を出して下 ( しも ) のような事を書きつけた。
寒月と、根津、上野、池 ( いけ ) の端 ( はた ) 、神田辺 ( へん ) を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着 ( はるぎ ) をきて羽根をついていた。衣装 ( いしょう ) は美しいが顔はすこぶるまずい。何となくうちの猫に似ていた。
何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。吾輩だって喜多床 ( きたどこ ) へ行って顔さえ剃 ( す ) って貰 ( もら ) やあ、そんなに人間と異 ( ちが ) ったところはありゃしない。人間はこう自惚 ( うぬぼ ) れているから困る。
宝丹 ( ほうたん ) の角 ( かど ) を曲るとまた一人芸者が来た。これは背 ( せい ) のすらりとした撫肩 ( なでがた ) の恰好 ( かっこう ) よく出来上った女で、着ている薄紫の衣服 ( きもの ) も素直に着こなされて上品に見えた。白い歯を出して笑いながら「源ちゃん昨夕 ( ゆうべ ) は——つい忙がしかったもんだから」と云った。ただしその声は旅鴉 ( たびがらす ) のごとく皺枯 ( しゃが ) れておったので、せっかくの風采 ( ふうさい ) も大 ( おおい ) に下落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかなる人なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手 ( ふところで ) のまま御成道 ( おなりみち ) へ出た。寒月は何となくそわそわしているごとく見えた。
人間の心理ほど解 ( げ ) し難いものはない。この主人の今の心は怒 ( おこ ) っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に一道 ( いちどう ) の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ交 ( まじ ) りたいのだか、くだらぬ事に肝癪 ( かんしゃく ) を起しているのか、物外 ( ぶつがい ) に超然 ( ちょうぜん ) としているのだかさっぱり見当 ( けんとう ) が付かぬ。猫などはそこへ行くと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、怒 ( おこ ) るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属 ( ねこぞく ) に至ると行住坐臥 ( ぎょうじゅうざが ) 、行屎送尿 ( こうしそうにょう ) ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数 ( てかず ) をして、己 ( おの ) れの真面目 ( しんめんもく ) を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。
神田の某亭で晩餐 ( ばんさん ) を食う。久し振りで正宗を二三杯飲んだら、今朝は胃の具合が大変いい。胃弱には晩酌が一番だと思う。タカジヤスターゼは無論いかん。誰が何と云っても駄目だ。どうしたって利 ( き ) かないものは利かないのだ。
無暗 ( むやみ ) にタカジヤスターゼを攻撃する。独りで喧嘩をしているようだ。今朝の肝癪がちょっとここへ尾を出す。人間の日記の本色はこう云う辺 ( へん ) に存するのかも知れない。
せんだって○○は朝飯 ( あさめし ) を廃すると胃がよくなると云うたから二三日 ( にさんち ) 朝飯をやめて見たが腹がぐうぐう鳴るばかりで功能はない。△△は是非香 ( こう ) の物 ( もの ) を断 ( た ) てと忠告した。彼の説によるとすべて胃病の源因は漬物にある。漬物さえ断てば胃病の源を涸 ( か ) らす訳だから本復は疑なしという論法であった。それから一週間ばかり香の物に箸 ( はし ) を触れなかったが別段の験 ( げん ) も見えなかったから近頃はまた食い出した。××に聞くとそれは按腹 ( あんぷく ) 揉療治 ( もみりょうじ ) に限る。ただし普通のではゆかぬ。皆川流 ( みながわりゅう ) という古流な揉 ( も ) み方で一二度やらせれば大抵の胃病は根治出来る。安井息軒 ( やすいそっけん ) も大変この按摩術 ( あんまじゅつ ) を愛していた。坂本竜馬 ( さかもとりょうま ) のような豪傑でも時々は治療をうけたと云うから、早速上根岸 ( かみねぎし ) まで出掛けて揉 ( も ) まして見た。ところが骨を揉 ( も ) まなければ癒 ( なお ) らぬとか、臓腑の位置を一度顛倒 ( てんとう ) しなければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な揉 ( も ) み方をやる。後で身体が綿のようになって昏睡病 ( こんすいびょう ) にかかったような心持ちがしたので、一度で閉口してやめにした。A君は是非固形体を食うなという。それから、一日牛乳ばかり飲んで暮して見たが、この時は腸の中でどぼりどぼりと音がして大水でも出たように思われて終夜眠れなかった。B氏は横膈膜 ( おうかくまく ) で呼吸して内臓を運動させれば自然と胃の働きが健全になる訳だから試しにやって御覧という。これも多少やったが何となく腹中 ( ふくちゅう ) が不安で困る。それに時々思い出したように一心不乱にかかりはするものの五六分立つと忘れてしまう。忘れまいとすると横膈膜が気になって本を読む事も文章をかく事も出来ぬ。美学者の迷亭 ( めいてい ) がこの体 ( てい ) を見て、産気 ( さんけ ) のついた男じゃあるまいし止 ( よ ) すがいいと冷かしたからこの頃は廃 ( よ ) してしまった。C先生は蕎麦 ( そば ) を食ったらよかろうと云うから、早速かけ ともり をかわるがわる食ったが、これは腹が下 ( くだ ) るばかりで何等の功能もなかった。余は年来の胃弱を直すために出来得る限りの方法を講じて見たがすべて駄目である。ただ昨夜 ( ゆうべ ) 寒月と傾けた三杯の正宗はたしかに利目 ( ききめ ) がある。これからは毎晩二三杯ずつ飲む事にしよう。
これも決して長く続く事はあるまい。主人の心は吾輩の眼球 ( めだま ) のように間断なく変化している。何をやっても永持 ( ながもち ) のしない男である。その上日記の上で胃病をこんなに心配している癖に、表向は大 ( おおい ) に痩我慢をするからおかしい。せんだってその友人で某 ( なにがし ) という学者が尋ねて来て、一種の見地から、すべての病気は父祖の罪悪と自己の罪悪の結果にほかならないと云う議論をした。大分 ( だいぶ ) 研究したものと見えて、条理が明晰 ( めいせき ) で秩序が整然として立派な説であった。気の毒ながらうちの主人などは到底これを反駁 ( はんばく ) するほどの頭脳も学問もないのである。しかし自分が胃病で苦しんでいる際 ( さい ) だから、何とかかんとか弁解をして自己の面目を保とうと思った者と見えて、「君の説は面白いが、あのカーライルは胃弱だったぜ」とあたかもカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名誉であると云ったような、見当違いの挨拶をした。すると友人は「カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ」と極 ( き ) め付けたので主人は黙然 ( もくねん ) としていた。かくのごとく虚栄心に富んでいるものの実際はやはり胃弱でない方がいいと見えて、今夜から晩酌を始めるなどというのはちょっと滑稽だ。考えて見ると今朝雑煮 ( ぞうに ) をあんなにたくさん食ったのも昨夜 ( ゆうべ ) 寒月君と正宗をひっくり返した影響かも知れない。吾輩もちょっと雑煮が食って見たくなった。
吾輩は猫ではあるが大抵のものは食う。車屋の黒のように横丁の肴屋 ( さかなや ) まで遠征をする気力はないし、新道 ( しんみち ) の二絃琴 ( にげんきん ) の師匠の所 ( とこ ) の三毛 ( みけ ) のように贅沢 ( ぜいたく ) は無論云える身分でない。従って存外嫌 ( きらい ) は少ない方だ。小供の食いこぼした麺麭 ( パン ) も食うし、餅菓子の饀 ( あん ) もなめる。香 ( こう ) の物 ( もの ) はすこぶるまずいが経験のため沢庵 ( たくあん ) を二切ばかりやった事がある。食って見ると妙なもので、大抵のものは食える。あれは嫌 ( いや ) だ、これは嫌だと云うのは贅沢 ( ぜいたく ) な我儘で到底教師の家 ( うち ) にいる猫などの口にすべきところでない。主人の話しによると仏蘭西 ( フランス ) にバルザックという小説家があったそうだ。この男が大の贅沢 ( ぜいたく ) 屋で——もっともこれは口の贅沢屋ではない、小説家だけに文章の贅沢を尽したという事である。バルザックが或る日自分の書いている小説中の人間の名をつけようと思っていろいろつけて見たが、どうしても気に入らない。ところへ友人が遊びに来たのでいっしょに散歩に出掛けた。友人は固 ( もと ) より何 ( なんに ) も知らずに連れ出されたのであるが、バルザックは兼 ( か ) ねて自分の苦心している名を目付 ( めつけ ) ようという考えだから往来へ出ると何もしないで店先の看板ばかり見て歩行 ( ある ) いている。ところがやはり気に入った名がない。友人を連れて無暗 ( むやみ ) にあるく。友人は訳がわからずにくっ付いて行く。彼等はついに朝から晩まで巴理 ( パリ ) を探険した。その帰りがけにバルザックはふとある裁縫屋の看板が目についた。見るとその看板にマーカスという名がかいてある。バルザックは手を拍 ( う ) って「これだこれだこれに限る。マーカスは好い名じゃないか。マーカスの上へZという頭文字をつける、すると申し分 ( ぶん ) のない名が出来る。Zでなくてはいかん。Z. Marcus は実にうまい。どうも自分で作った名はうまくつけたつもりでも何となく故意 ( わざ ) とらしいところがあって面白くない。ようやくの事で気に入った名が出来た」と友人の迷惑はまるで忘れて、一人嬉しがったというが、小説中の人間の名前をつけるに一日 ( いちんち ) 巴理 ( パリ ) を探険しなくてはならぬようでは随分手数 ( てすう ) のかかる話だ。贅沢もこのくらい出来れば結構なものだが吾輩のように牡蠣的 ( かきてき ) 主人を持つ身の上ではとてもそんな気は出ない。何でもいい、食えさえすれば、という気になるのも境遇のしからしむるところであろう。だから今雑煮 ( ぞうに ) が食いたくなったのも決して贅沢の結果ではない、何でも食える時に食っておこうという考から、主人の食い剰 ( あま ) した雑煮がもしや台所に残っていはすまいかと思い出したからである。……台所へ廻って見る。
今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で椀の底に膠着 ( こうちゃく ) している。白状するが餅というものは今まで一辺 ( ぺん ) も口に入れた事がない。見るとうまそうにもあるし、また少しは気味 ( きび ) がわるくもある。前足で上にかかっている菜っ葉を掻 ( か ) き寄せる。爪を見ると餅の上皮 ( うわかわ ) が引き掛ってねばねばする。嗅 ( か ) いで見ると釜の底の飯を御櫃 ( おはち ) へ移す時のような香 ( におい ) がする。食おうかな、やめようかな、とあたりを見廻す。幸か不幸か誰もいない。御三 ( おさん ) は暮も春も同じような顔をして羽根をついている。小供は奥座敷で「何とおっしゃる兎さん」を歌っている。食うとすれば今だ。もしこの機をはずすと来年までは餅というものの味を知らずに暮してしまわねばならぬ。吾輩はこの刹那 ( せつな ) に猫ながら一の真理を感得した。「得難き機会はすべての動物をして、好まざる事をも敢てせしむ」吾輩は実を云うとそんなに雑煮を食いたくはないのである。否椀底 ( わんてい ) の様子を熟視すればするほど気味 ( きび ) が悪くなって、食うのが厭になったのである。この時もし御三でも勝手口を開けたなら、奥の小供の足音がこちらへ近付くのを聞き得たなら、吾輩は惜気 ( おしげ ) もなく椀を見棄てたろう、しかも雑煮の事は来年まで念頭に浮ばなかったろう。ところが誰も来ない、いくら蹰躇 ( ちゅうちょ ) していても誰も来ない。早く食わぬか食わぬかと催促されるような心持がする。吾輩は椀の中を覗 ( のぞ ) き込みながら、早く誰か来てくれればいいと念じた。やはり誰も来てくれない。吾輩はとうとう雑煮を食わなければならぬ。最後にからだ全体の重量を椀の底へ落すようにして、あぐりと餅の角を一寸 ( いっすん ) ばかり食い込んだ。このくらい力を込めて食い付いたのだから、大抵なものなら噛 ( か ) み切れる訳だが、驚いた! もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。もう一辺 ( ぺん ) 噛み直そうとすると動きがとれない。餅は魔物だなと疳 ( かん ) づいた時はすでに遅かった。沼へでも落ちた人が足を抜こうと焦慮 ( あせ ) るたびにぶくぶく深く沈むように、噛めば噛むほど口が重くなる、歯が動かなくなる。歯答えはあるが、歯答えがあるだけでどうしても始末をつける事が出来ない。美学者迷亭先生がかつて吾輩の主人を評して君は割り切れない男だといった事があるが、なるほどうまい事をいったものだ。この餅も主人と同じようにどうしても割り切れない。噛んでも噛んでも、三で十を割るごとく尽未来際方 ( じんみらいざいかた ) のつく期 ( ご ) はあるまいと思われた。この煩悶 ( はんもん ) の際吾輩は覚えず第二の真理に逢着 ( ほうちゃく ) した。「すべての動物は直覚的に事物の適不適を予知す」真理はすでに二つまで発明したが、餅がくっ付いているので毫 ( ごう ) も愉快を感じない。歯が餅の肉に吸収されて、抜けるように痛い。早く食い切って逃げないと御三 ( おさん ) が来る。小供の唱歌もやんだようだ、きっと台所へ馳 ( か ) け出して来るに相違ない。煩悶の極 ( きょく ) 尻尾 ( しっぽ ) をぐるぐる振って見たが何等の功能もない、耳を立てたり寝かしたりしたが駄目である。考えて見ると耳と尻尾 ( しっぽ ) は餅と何等の関係もない。要するに振り損の、立て損の、寝かし損であると気が付いたからやめにした。ようやくの事これは前足の助けを借りて餅を払い落すに限ると考え付いた。まず右の方をあげて口の周囲を撫 ( な ) で廻す。撫 ( な ) でたくらいで割り切れる訳のものではない。今度は左 ( ひだ ) りの方を伸 ( のば ) して口を中心として急劇に円を劃 ( かく ) して見る。そんな呪 ( まじな ) いで魔は落ちない。辛防 ( しんぼう ) が肝心 ( かんじん ) だと思って左右交 ( かわ ) る交 ( がわ ) るに動かしたがやはり依然として歯は餅の中にぶら下っている。ええ面倒だと両足を一度に使う。すると不思議な事にこの時だけは後足 ( あとあし ) 二本で立つ事が出来た。何だか猫でないような感じがする。猫であろうが、あるまいがこうなった日にゃあ構うものか、何でも餅の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔中引っ掻 ( か ) き廻す。前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。倒れかかるたびに後足で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいる訳にも行かんので、台所中あちら、こちらと飛んで廻る。我ながらよくこんなに器用に起 ( た ) っていられたものだと思う。第三の真理が驀地 ( ばくち ) に現前 ( げんぜん ) する。「危きに臨 ( のぞ ) めば平常なし能 ( あた ) わざるところのものを為 ( な ) し能う。之 ( これ ) を天祐 ( てんゆう ) という」幸 ( さいわい ) に天祐を享 ( う ) けたる吾輩が一生懸命餅の魔と戦っていると、何だか足音がして奥より人が来るような気合 ( けわい ) である。ここで人に来られては大変だと思って、いよいよ躍起 ( やっき ) となって台所をかけ廻る。足音はだんだん近付いてくる。ああ残念だが天祐が少し足りない。とうとう小供に見付けられた。「あら猫が御雑煮を食べて踊を踊っている」と大きな声をする。この声を第一に聞きつけたのが御三である。羽根も羽子板も打ち遣 ( や ) って勝手から「あらまあ」と飛込んで来る。細君は縮緬 ( ちりめん ) の紋付で「いやな猫ねえ」と仰せられる。主人さえ書斎から出て来て「この馬鹿野郎」といった。面白い面白いと云うのは小供ばかりである。そうしてみんな申し合せたようにげらげら笑っている。腹は立つ、苦しくはある、踊はやめる訳にゆかぬ、弱った。ようやく笑いがやみそうになったら、五つになる女の子が「御かあ様、猫も随分ね」といったので狂瀾 ( きょうらん ) を既倒 ( きとう ) に何とかするという勢でまた大変笑われた。人間の同情に乏しい実行も大分 ( だいぶ ) 見聞 ( けんもん ) したが、この時ほど恨 ( うら ) めしく感じた事はなかった。ついに天祐もどっかへ消え失 ( う ) せて、在来の通り四 ( よ ) つ這 ( ばい ) になって、眼を白黒するの醜態を演ずるまでに閉口した。さすが見殺しにするのも気の毒と見えて「まあ餅をとってやれ」と主人が御三に命ずる。御三はもっと踊らせようじゃありませんかという眼付で細君を見る。細君は踊は見たいが、殺してまで見る気はないのでだまっている。「取ってやらんと死んでしまう、早くとってやれ」と主人は再び下女を顧 ( かえり ) みる。御三 ( おさん ) は御馳走を半分食べかけて夢から起された時のように、気のない顔をして餅をつかんでぐいと引く。寒月 ( かんげつ ) 君じゃないが前歯がみんな折れるかと思った。どうも痛いの痛くないのって、餅の中へ堅く食い込んでいる歯を情 ( なさ ) け容赦もなく引張るのだからたまらない。吾輩が「すべての安楽は困苦を通過せざるべからず」と云う第四の真理を経験して、けろけろとあたりを見廻した時には、家人はすでに奥座敷へ這入 ( はい ) ってしまっておった。
こんな失敗をした時には内にいて御三なんぞに顔を見られるのも何となくばつが悪い。いっその事気を易 ( か ) えて新道の二絃琴 ( にげんきん ) の御師匠さんの所 ( とこ ) の三毛子 ( みけこ ) でも訪問しようと台所から裏へ出た。三毛子はこの近辺で有名な美貌家 ( びぼうか ) である。吾輩は猫には相違ないが物の情 ( なさ ) けは一通り心得ている。うちで主人の苦 ( にが ) い顔を見たり、御三の険突 ( けんつく ) を食って気分が勝 ( すぐ ) れん時は必ずこの異性の朋友 ( ほうゆう ) の許 ( もと ) を訪問していろいろな話をする。すると、いつの間 ( ま ) にか心が晴々 ( せいせい ) して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。女性の影響というものは実に莫大 ( ばくだい ) なものだ。杉垣の隙から、いるかなと思って見渡すと、三毛子は正月だから首輪の新しいのをして行儀よく椽側 ( えんがわ ) に坐っている。その背中の丸さ加減が言うに言われんほど美しい。曲線の美を尽している。尻尾 ( しっぽ ) の曲がり加減、足の折り具合、物憂 ( ものう ) げに耳をちょいちょい振る景色 ( けしき ) なども到底 ( とうてい ) 形容が出来ん。ことによく日の当る所に暖かそうに、品 ( ひん ) よく控 ( ひか ) えているものだから、身体は静粛端正の態度を有するにも関らず、天鵞毛 ( びろうど ) を欺 ( あざむ ) くほどの滑 ( なめ ) らかな満身の毛は春の光りを反射して風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。吾輩はしばらく恍惚 ( こうこつ ) として眺 ( なが ) めていたが、やがて我に帰ると同時に、低い声で「三毛子さん三毛子さん」といいながら前足で招いた。三毛子は「あら先生」と椽を下りる。赤い首輪につけた鈴がちゃらちゃらと鳴る。おや正月になったら鈴までつけたな、どうもいい音 ( ね ) だと感心している間 ( ま ) に、吾輩の傍 ( そば ) に来て「あら先生、おめでとう」と尾を左 ( ひだ ) りへ振る。吾等猫属 ( ねこぞく ) 間で御互に挨拶をするときには尾を棒のごとく立てて、それを左りへぐるりと廻すのである。町内で吾輩を先生と呼んでくれるのはこの三毛子ばかりである。吾輩は前回断わった通りまだ名はないのであるが、教師の家 ( うち ) にいるものだから三毛子だけは尊敬して先生先生といってくれる。吾輩も先生と云われて満更 ( まんざら ) 悪い心持ちもしないから、はいはいと返事をしている。「やあおめでとう、大層立派に御化粧が出来ましたね」「ええ去年の暮御師匠 ( おししょう ) さんに買って頂いたの、宜 ( い ) いでしょう」とちゃらちゃら鳴らして見せる。「なるほど善い音 ( ね ) ですな、吾輩などは生れてから、そんな立派なものは見た事がないですよ」「あらいやだ、みんなぶら下げるのよ」とまたちゃらちゃら鳴らす。「いい音 ( ね ) でしょう、あたし嬉しいわ」とちゃらちゃらちゃらちゃら続け様に鳴らす。「あなたのうちの御師匠さんは大変あなたを可愛がっていると見えますね」と吾身に引きくらべて暗 ( あん ) に欣羨 ( きんせん ) の意を洩 ( も ) らす。三毛子は無邪気なものである「ほんとよ、まるで自分の小供のようよ」とあどけなく笑う。猫だって笑わないとは限らない。人間は自分よりほかに笑えるものが無いように思っているのは間違いである。吾輩が笑うのは鼻の孔 ( あな ) を三角にして咽喉仏 ( のどぼとけ ) を震動させて笑うのだから人間にはわからぬはずである。「一体あなたの所 ( とこ ) の御主人は何ですか」「あら御主人だって、妙なのね。御師匠 ( おししょう ) さんだわ。二絃琴 ( にげんきん ) の御師匠さんよ」「それは吾輩も知っていますがね。その御身分は何なんです。いずれ昔 ( むか ) しは立派な方なんでしょうな」「ええ」
君を待つ間 ( ま ) の姫小松……………
障子の内で御師匠さんが二絃琴を弾 ( ひ ) き出す。「宜 ( い ) い声でしょう」と三毛子は自慢する。「宜 ( い ) いようだが、吾輩にはよくわからん。全体何というものですか」「あれ? あれは何とかってものよ。御師匠さんはあれが大好きなの。……御師匠さんはあれで六十二よ。随分丈夫だわね」六十二で生きているくらいだから丈夫と云わねばなるまい。吾輩は「はあ」と返事をした。少し間 ( ま ) が抜けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそうおっしゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも天璋院 ( てんしょういん ) 様の御祐筆 ( ごゆうひつ ) の妹の御嫁に行った先 ( さ ) きの御 ( お ) っかさんの甥 ( おい ) の娘なんだって」「何ですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」「なるほど。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「御嫁に行った」「妹の御嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。妹の御嫁に入 ( い ) った先きの」「御っかさんの甥の娘なんですとさ」「御っかさんの甥の娘なんですか」「ええ。分ったでしょう」「いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰 ( つま ) るところ天璋院様の何になるんですか」「あなたもよっぽど分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先 ( さ ) っきっから言ってるんじゃありませんか」「それはすっかり分っているんですがね」「それが分りさえすればいいんでしょう」「ええ」と仕方がないから降参をした。吾々は時とすると理詰の虚言 ( うそ ) を吐 ( つ ) かねばならぬ事がある。
障子の中 ( うち ) で二絃琴の音 ( ね ) がぱったりやむと、御師匠さんの声で「三毛や三毛や御飯だよ」と呼ぶ。三毛子は嬉しそうに「あら御師匠さんが呼んでいらっしゃるから、私 ( あた ) し帰るわ、よくって?」わるいと云ったって仕方がない。「それじゃまた遊びにいらっしゃい」と鈴をちゃらちゃら鳴らして庭先までかけて行ったが急に戻って来て「あなた大変色が悪くってよ。どうかしやしなくって」と心配そうに問いかける。まさか雑煮 ( ぞうに ) を食って踊りを踊ったとも云われないから「何別段の事もありませんが、少し考え事をしたら頭痛がしてね。あなたと話しでもしたら直るだろうと思って実は出掛けて来たのですよ」「そう。御大事になさいまし。さようなら」少しは名残 ( なご ) り惜し気に見えた。これで雑煮の元気もさっぱりと回復した。いい心持になった。帰りに例の茶園 ( ちゃえん ) を通り抜けようと思って霜柱 ( しもばしら ) の融 ( と ) けかかったのを踏みつけながら建仁寺 ( けんにんじ ) の崩 ( くず ) れから顔を出すとまた車屋の黒が枯菊の上に背 ( せ ) を山にして欠伸 ( あくび ) をしている。近頃は黒を見て恐怖するような吾輩ではないが、話しをされると面倒だから知らぬ顔をして行き過ぎようとした。黒の性質として他 ( ひと ) が己 ( おの ) れを軽侮 ( けいぶ ) したと認むるや否や決して黙っていない。「おい、名なしの権兵衛 ( ごんべえ ) 、近頃じゃ乙 ( おつ ) う高く留ってるじゃあねえか。いくら教師の飯を食ったって、そんな高慢ちきな面 ( つ ) らあするねえ。人 ( ひと ) つけ面白くもねえ」黒は吾輩の有名になったのを、まだ知らんと見える。説明してやりたいが到底 ( とうてい ) 分る奴ではないから、まず一応の挨拶をして出来得る限り早く御免蒙 ( ごめんこうむ ) るに若 ( し ) くはないと決心した。「いや黒君おめでとう。不相変 ( あいかわらず ) 元気がいいね」と尻尾 ( しっぽ ) を立てて左へくるりと廻わす。黒は尻尾を立てたぎり挨拶もしない。「何おめでてえ? 正月でおめでたけりゃ、御めえなんざあ年が年中おめでてえ方だろう。気をつけろい、この吹 ( ふ ) い子 ( ご ) の向 ( むこ ) う面 ( づら ) め」吹い子の向うづらという句は罵詈 ( ばり ) の言語であるようだが、吾輩には了解が出来なかった。「ちょっと伺 ( うか ) がうが吹い子の向うづらと云うのはどう云う意味かね」「へん、手めえが悪体 ( あくたい ) をつかれてる癖に、その訳 ( わけ ) を聞きゃ世話あねえ、だから正月野郎だって事よ」正月野郎は詩的であるが、その意味に至ると吹い子の何とかよりも一層不明瞭な文句である。参考のためちょっと聞いておきたいが、聞いたって明瞭な答弁は得られぬに極 ( き ) まっているから、面 ( めん ) と対 ( むか ) ったまま無言で立っておった。いささか手持無沙汰の体 ( てい ) である。すると突然黒のうちの神 ( かみ ) さんが大きな声を張り揚げて「おや棚へ上げて置いた鮭 ( しゃけ ) がない。大変だ。またあの黒の畜生 ( ちきしょう ) が取ったんだよ。ほんとに憎らしい猫だっちゃありゃあしない。今に帰って来たら、どうするか見ていやがれ」と怒鳴 ( どな ) る。初春 ( はつはる ) の長閑 ( のどか ) な空気を無遠慮に震動させて、枝を鳴らさぬ君が御代 ( みよ ) を大 ( おおい ) に俗了 ( ぞくりょう ) してしまう。黒は怒鳴るなら、怒鳴りたいだけ怒鳴っていろと云わぬばかりに横着な顔をして、四角な顋 ( あご ) を前へ出しながら、あれを聞いたかと合図をする。今までは黒との応対で気がつかなかったが、見ると彼の足の下には一切れ二銭三厘に相当する鮭の骨が泥だらけになって転がっている。「君不相変 ( あいかわらず ) やってるな」と今までの行き掛りは忘れて、つい感投詞を奉呈した。黒はそのくらいな事ではなかなか機嫌を直さない。「何がやってるでえ、この野郎。しゃけ の一切や二切で相変らずたあ何だ。人を見縊 ( みく ) びった事をいうねえ。憚 ( はばか ) りながら車屋の黒だあ」と腕まくりの代りに右の前足を逆 ( さ ) かに肩の辺 ( へん ) まで掻 ( か ) き上げた。「君が黒君だと云う事は、始めから知ってるさ」「知ってるのに、相変らずやってるたあ何だ。何だてえ事よ」と熱いのを頻 ( しき ) りに吹き懸ける。人間なら胸倉 ( むなぐら ) をとられて小突き廻されるところである。少々辟易 ( へきえき ) して内心困った事になったなと思っていると、再び例の神さんの大声が聞える。「ちょいと西川さん、おい西川さんてば、用があるんだよこの人あ。牛肉を一斤 ( きん ) すぐ持って来るんだよ。いいかい、分ったかい、牛肉の堅くないところを一斤だよ」と牛肉注文の声が四隣 ( しりん ) の寂寞 ( せきばく ) を破る。「へん年に一遍牛肉を誂 ( あつら ) えると思って、いやに大きな声を出しゃあがらあ。牛肉一斤が隣り近所へ自慢なんだから始末に終えねえ阿魔 ( あま ) だ」と黒は嘲 ( あざけ ) りながら四つ足を踏張 ( ふんば ) る。吾輩は挨拶のしようもないから黙って見ている。「一斤くらいじゃあ、承知が出来ねえんだが、仕方がねえ、いいから取っときゃ、今に食ってやらあ」と自分のために誂 ( あつら ) えたもののごとくいう。「今度は本当の御馳走だ。結構結構」と吾輩はなるべく彼を帰そうとする。「御めっちの知った事じゃねえ。黙っていろ。うるせえや」と云いながら突然後足 ( あとあし ) で霜柱 ( しもばしら ) の崩 ( くず ) れた奴を吾輩の頭へばさりと浴 ( あ ) びせ掛ける。吾輩が驚ろいて、からだの泥を払っている間 ( ま ) に黒は垣根を潜 ( くぐ ) って、どこかへ姿を隠した。大方西川の牛 ( ぎゅう ) を覘 ( ねらい ) に行ったものであろう。
家 ( うち ) へ帰ると座敷の中が、いつになく春めいて主人の笑い声さえ陽気に聞える。はてなと明け放した椽側から上 ( あが ) って主人の傍 ( そば ) へ寄って見ると見馴れぬ客が来ている。頭を奇麗に分けて、木綿 ( もめん ) の紋付の羽織に小倉 ( こくら ) の袴 ( はかま ) を着けて至極 ( しごく ) 真面目そうな書生体 ( しょせいてい ) の男である。主人の手あぶりの角を見ると春慶塗 ( しゅんけいぬ ) りの巻煙草 ( まきたばこ ) 入れと並んで越智東風君 ( おちとうふうくん ) を紹介致候 ( そろ ) 水島寒月という名刺があるので、この客の名前も、寒月君の友人であるという事も知れた。主客 ( しゅかく ) の対話は途中からであるから前後がよく分らんが、何でも吾輩が前回に紹介した美学者迷亭君の事に関しているらしい。
「それで面白い趣向があるから是非いっしょに来いとおっしゃるので」と客は落ちついて云う。「何ですか、その西洋料理へ行って午飯 ( ひるめし ) を食うのについて趣向があるというのですか」と主人は茶を続 ( つ ) ぎ足して客の前へ押しやる。「さあ、その趣向というのが、その時は私にも分らなかったんですが、いずれあの方 ( かた ) の事ですから、何か面白い種があるのだろうと思いまして……」「いっしょに行きましたか、なるほど」「ところが驚いたのです」主人はそれ見たかと云わぬばかりに、膝 ( ひざ ) の上に乗った吾輩の頭をぽかと叩 ( たた ) く。少し痛い。「また馬鹿な茶番見たような事なんでしょう。あの男はあれが癖でね」と急にアンドレア・デル・サルト事件を思い出す。「へへー。君何か変ったものを食おうじゃないかとおっしゃるので」「何を食いました」「まず献立 ( こんだて ) を見ながらいろいろ料理についての御話しがありました」「誂 ( あつ ) らえない前にですか」「ええ」「それから」「それから首を捻 ( ひね ) ってボイの方を御覧になって、どうも変ったものもないようだなとおっしゃるとボイは負けぬ気で鴨 ( かも ) のロースか小牛のチャップなどは如何 ( いかが ) ですと云うと、先生は、そんな月並 ( つきなみ ) を食いにわざわざここまで来やしないとおっしゃるんで、ボイは月並という意味が分らんものですから妙な顔をして黙っていましたよ」「そうでしょう」「それから私の方を御向きになって、君仏蘭西 ( フランス ) や英吉利 ( イギリス ) へ行くと随分天明調 ( てんめいちょう ) や万葉調 ( まんようちょう ) が食えるんだが、日本じゃどこへ行ったって版で圧 ( お ) したようで、どうも西洋料理へ這入 ( はい ) る気がしないと云うような大気燄 ( だいきえん ) で——全体あの方 ( かた ) は洋行なすった事があるのですかな」「何迷亭が洋行なんかするもんですか、そりゃ金もあり、時もあり、行こうと思えばいつでも行かれるんですがね。大方これから行くつもりのところを、過去に見立てた洒落 ( しゃれ ) なんでしょう」と主人は自分ながらうまい事を言ったつもりで誘い出し笑をする。客はさまで感服した様子もない。「そうですか、私はまたいつの間 ( ま ) に洋行なさったかと思って、つい真面目に拝聴していました。それに見て来たようになめくじ のソップの御話や蛙 ( かえる ) のシチュの形容をなさるものですから」「そりゃ誰かに聞いたんでしょう、うそをつく事はなかなか名人ですからね」「どうもそうのようで」と花瓶 ( かびん ) の水仙を眺める。少しく残念の気色 ( けしき ) にも取られる。「じゃ趣向というのは、それなんですね」と主人が念を押す。「いえそれはほんの冒頭なので、本論はこれからなのです」「ふーん」と主人は好奇的な感投詞を挟 ( はさ ) む。「それから、とてもなめくじ や蛙は食おうっても食えやしないから、まあトチメンボー くらいなところで負けとく事にしようじゃないか君と御相談なさるものですから、私はつい何の気なしに、それがいいでしょう、といってしまったので」「へー、とちめんぼうは妙ですな」「ええ全く妙なのですが、先生があまり真面目だものですから、つい気がつきませんでした」とあたかも主人に向って麁忽 ( そこつ ) を詫 ( わ ) びているように見える。「それからどうしました」と主人は無頓着に聞く。客の謝罪には一向同情を表しておらん。「それからボイにおいトチメンボー を二人前 ( ににんまえ ) 持って来いというと、ボイがメンチボー ですかと聞き直しましたが、先生はますます真面目 ( まじめ ) な貌 ( かお ) でメンチボー じゃないトチメンボー だと訂正されました」「なある。そのトチメンボー という料理は一体あるんですか」「さあ私も少しおかしいとは思いましたがいかにも先生が沈着であるし、その上あの通りの西洋通でいらっしゃるし、ことにその時は洋行なすったものと信じ切っていたものですから、私も口を添えてトチメンボー だトチメンボー だとボイに教えてやりました」「ボイはどうしました」「ボイがね、今考えると実に滑稽 ( こっけい ) なんですがね、しばらく思案していましてね、はなはだ御気の毒様ですが今日はトチメンボー は御生憎様 ( おあいにくさま ) でメンチボー なら御二人前 ( おふたりまえ ) すぐに出来ますと云うと、先生は非常に残念な様子で、それじゃせっかくここまで来た甲斐 ( かい ) がない。どうかトチメンボー を都合 ( つごう ) して食わせてもらう訳 ( わけ ) には行くまいかと、ボイに二十銭銀貨をやられると、ボイはそれではともかくも料理番と相談して参りましょうと奥へ行きましたよ」「大変トチメンボー が食いたかったと見えますね」「しばらくしてボイが出て来て真 ( まこと ) に御生憎で、御誂 ( おあつらえ ) ならこしらえますが少々時間がかかります、と云うと迷亭先生は落ちついたもので、どうせ我々は正月でひまなんだから、少し待って食って行こうじゃないかと云いながらポッケットから葉巻を出してぷかりぷかり吹かし始められたので、私 ( わたく ) しも仕方がないから、懐 ( ふところ ) から日本新聞を出して読み出しました、するとボイはまた奥へ相談に行きましたよ」「いやに手数 ( てすう ) が掛りますな」と主人は戦争の通信を読むくらいの意気込で席を前 ( すす ) める。「するとボイがまた出て来て、近頃はトチメンボー の材料が払底で亀屋へ行っても横浜の十五番へ行っても買われませんから当分の間は御生憎様でと気の毒そうに云うと、先生はそりゃ困ったな、せっかく来たのになあと私の方を御覧になってしきりに繰り返さるるので、私も黙っている訳にも参りませんから、どうも遺憾 ( いかん ) ですな、遺憾極 ( きわま ) るですなと調子を合せたのです」「ごもっともで」と主人が賛成する。何がごもっともだか吾輩にはわからん。「するとボイも気の毒だと見えて、その内材料が参りましたら、どうか願いますってんでしょう。先生が材料は何を使うかねと問われるとボイはへへへへと笑って返事をしないんです。材料は日本派の俳人だろうと先生が押し返して聞くとボイはへえさようで、それだものだから近頃は横浜へ行っても買われませんので、まことにお気の毒様と云いましたよ」「アハハハそれが落ちなんですか、こりゃ面白い」と主人はいつになく大きな声で笑う。膝 ( ひざ ) が揺れて吾輩は落ちかかる。主人はそれにも頓着 ( とんじゃく ) なく笑う。アンドレア・デル・サルトに罹 ( かか ) ったのは自分一人でないと云う事を知ったので急に愉快になったものと見える。「それから二人で表へ出ると、どうだ君うまく行ったろう、橡面坊 ( とちめんぼう ) を種に使ったところが面白かろうと大得意なんです。敬服の至りですと云って御別れしたようなものの実は午飯 ( ひるめし ) の時刻が延びたので大変空腹になって弱りましたよ」「それは御迷惑でしたろう」と主人は始めて同情を表する。これには吾輩も異存はない。しばらく話しが途切れて吾輩の咽喉 ( のど ) を鳴らす音が主客 ( しゅかく ) の耳に入る。
東風君は冷めたくなった茶をぐっと飲み干して「実は今日参りましたのは、少々先生に御願があって参ったので」と改まる。「はあ、何か御用で」と主人も負けずに済 ( す ) ます。「御承知の通り、文学美術が好きなものですから……」「結構で」と油を注 ( さ ) す。「同志だけがよりましてせんだってから朗読会というのを組織しまして、毎月一回会合してこの方面の研究をこれから続けたいつもりで、すでに第一回は去年の暮に開いたくらいであります」「ちょっと伺っておきますが、朗読会と云うと何か節奏 ( ふし ) でも附けて、詩歌 ( しいか ) 文章の類 ( るい ) を読むように聞えますが、一体どんな風にやるんです」「まあ初めは古人の作からはじめて、追々 ( おいおい ) は同人の創作なんかもやるつもりです」「古人の作というと白楽天 ( はくらくてん ) の琵琶行 ( びわこう ) のようなものででもあるんですか」「いいえ」「蕪村 ( ぶそん ) の春風馬堤曲 ( しゅんぷうばていきょく ) の種類ですか」「いいえ」「それじゃ、どんなものをやったんです」「せんだっては近松の心中物 ( しんじゅうもの ) をやりました」「近松? あの浄瑠璃 ( じょうるり ) の近松ですか」近松に二人はない。近松といえば戯曲家の近松に極 ( きま ) っている。それを聞き直す主人はよほど愚 ( ぐ ) だと思っていると、主人は何にも分らずに吾輩の頭を叮嚀 ( ていねい ) に撫 ( な ) でている。藪睨 ( やぶにら ) みから惚 ( ほ ) れられたと自認している人間もある世の中だからこのくらいの誤謬 ( ごびゅう ) は決して驚くに足らんと撫でらるるがままにすましていた。「ええ」と答えて東風子 ( とうふうし ) は主人の顔色を窺 ( うかが ) う。「それじゃ一人で朗読するのですか、または役割を極 ( き ) めてやるんですか」「役を極めて懸合 ( かけあい ) でやって見ました。その主意はなるべく作中の人物に同情を持ってその性格を発揮するのを第一として、それに手真似や身振りを添えます。白 ( せりふ ) はなるべくその時代の人を写し出すのが主で、御嬢さんでも丁稚 ( でっち ) でも、その人物が出てきたようにやるんです」「じゃ、まあ芝居見たようなものじゃありませんか」「ええ衣装 ( いしょう ) と書割 ( かきわり ) がないくらいなものですな」「失礼ながらうまく行きますか」「まあ第一回としては成功した方だと思います」「それでこの前やったとおっしゃる心中物というと」「その、船頭が御客を乗せて芳原 ( よしわら ) へ行く所 ( とこ ) なんで」「大変な幕をやりましたな」と教師だけにちょっと首を傾 ( かたむ ) ける。鼻から吹き出した日の出 の煙りが耳を掠 ( かす ) めて顔の横手へ廻る。「なあに、そんなに大変な事もないんです。登場の人物は御客と、船頭と、花魁 ( おいらん ) と仲居 ( なかい ) と遣手 ( やりて ) と見番 ( けんばん ) だけですから」と東風子は平気なものである。主人は花魁という名をきいてちょっと苦 ( にが ) い顔をしたが、仲居、遣手、見番という術語について明瞭の智識がなかったと見えてまず質問を呈出した。「仲居というのは娼家 ( しょうか ) の下婢 ( かひ ) にあたるものですかな」「まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の下女で、遣手というのが女部屋 ( おんなべや ) の助役 ( じょやく ) 見たようなものだろうと思います」東風子はさっき、その人物が出て来るように仮色 ( こわいろ ) を使うと云った癖に遣手や仲居の性格をよく解しておらんらしい。「なるほど仲居は茶屋に隷属 ( れいぞく ) するもので、遣手は娼家に起臥 ( きが ) する者ですね。次に見番 と云うのは人間ですかまたは一定の場所を指 ( さ ) すのですか、もし人間とすれば男ですか女ですか」「見番は何でも男の人間だと思います」「何を司 ( つかさ ) どっているんですかな」「さあそこまではまだ調べが届いておりません。その内調べて見ましょう」これで懸合をやった日には頓珍漢 ( とんちんかん ) なものが出来るだろうと吾輩は主人の顔をちょっと見上げた。主人は存外真面目である。「それで朗読家は君のほかにどんな人が加わったんですか」「いろいろおりました。花魁が法学士のK君でしたが、口髯 ( くちひげ ) を生やして、女の甘ったるいせりふを使 ( つ ) かうのですからちょっと妙でした。それにその花魁が癪 ( しゃく ) を起すところがあるので……」「朗読でも癪を起さなくっちゃ、いけないんですか」と主人は心配そうに尋ねる。「ええとにかく表情が大事ですから」と東風子はどこまでも文芸家の気でいる。「うまく癪が起りましたか」と主人は警句を吐く。「癪だけは第一回には、ちと無理でした」と東風子も警句を吐く。「ところで君は何の役割でした」と主人が聞く。「私 ( わたく ) しは船頭」「へー、君が船頭」君にして船頭が務 ( つと ) まるものなら僕にも見番くらいはやれると云ったような語気を洩 ( も ) らす。やがて「船頭は無理でしたか」と御世辞のないところを打ち明ける。東風子は別段癪に障った様子もない。やはり沈着な口調で「その船頭でせっかくの催しも竜頭蛇尾 ( りゅうとうだび ) に終りました。実は会場の隣りに女学生が四五人下宿していましてね、それがどうして聞いたものか、その日は朗読会があるという事を、どこかで探知して会場の窓下へ来て傍聴していたものと見えます。私 ( わたく ) しが船頭の仮色 ( こわいろ ) を使って、ようやく調子づいてこれなら大丈夫と思って得意にやっていると、……つまり身振りがあまり過ぎたのでしょう、今まで耐 ( こ ) らえていた女学生が一度にわっと笑いだしたものですから、驚ろいた事も驚ろいたし、極 ( きま ) りが悪 ( わ ) るい事も悪るいし、それで腰を折られてから、どうしても後 ( あと ) がつづけられないので、とうとうそれ限 ( ぎ ) りで散会しました」第一回としては成功だと称する朗読会がこれでは、失敗はどんなものだろうと想像すると笑わずにはいられない。覚えず咽喉仏 ( のどぼとけ ) がごろごろ鳴る。主人はいよいよ柔かに頭を撫 ( な ) でてくれる。人を笑って可愛がられるのはありがたいが、いささか無気味なところもある。「それは飛んだ事で」と主人は正月早々弔詞 ( ちょうじ ) を述べている。「第二回からは、もっと奮発して盛大にやるつもりなので、今日出ましたのも全くそのためで、実は先生にも一つ御入会の上御尽力を仰ぎたいので」「僕にはとても癪なんか起せませんよ」と消極的の主人はすぐに断わりかける。「いえ、癪などは起していただかんでもよろしいので、ここに賛助員の名簿が」と云いながら紫の風呂敷から大事そうに小菊版 ( こぎくばん ) の帳面を出す。「これへどうか御署名の上御捺印 ( ごなついん ) を願いたいので」と帳面を主人の膝 ( ひざ ) の前へ開いたまま置く。見ると現今知名な文学博士、文学士連中の名が行儀よく勢揃 ( せいぞろい ) をしている。「はあ賛成員にならん事もありませんが、どんな義務があるのですか」と牡蠣先生 ( かきせんせい ) は掛念 ( けねん ) の体 ( てい ) に見える。「義務と申して別段是非願う事もないくらいで、ただ御名前だけを御記入下さって賛成の意さえ御表 ( おひょう ) し被下 ( くださ ) ればそれで結構です」「そんなら這入 ( はい ) ります」と義務のかからぬ事を知るや否や主人は急に気軽になる。責任さえないと云う事が分っておれば謀叛 ( むほん ) の連判状へでも名を書き入れますと云う顔付をする。加之 ( のみならず ) こう知名の学者が名前を列 ( つら ) ねている中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんな事に出合った事のない主人にとっては無上の光栄であるから返事の勢のあるのも無理はない。「ちょっと失敬」と主人は書斎へ印をとりに這入る。吾輩はぼたりと畳の上へ落ちる。東風子は菓子皿の中のカステラ をつまんで一口に頬張 ( ほおば ) る。モゴモゴしばらくは苦しそうである。吾輩は今朝の雑煮 ( ぞうに ) 事件をちょっと思い出す。主人が書斎から印形 ( いんぎょう ) を持って出て来た時は、東風子の胃の中にカステラが落ちついた時であった。主人は菓子皿のカステラが一切 ( ひときれ ) 足りなくなった事には気が着かぬらしい。もし気がつくとすれば第一に疑われるものは吾輩であろう。
東風子が帰ってから、主人が書斎に入って机の上を見ると、いつの間 ( ま ) にか迷亭先生の手紙が来ている。
「新年の御慶 ( ぎょけい ) 目出度 ( めでたく ) 申納候 ( もうしおさめそろ ) 。……」
いつになく出が真面目だと主人が思う。迷亭先生の手紙に真面目なのはほとんどないので、この間などは「其後 ( そのご ) 別に恋着 ( れんちゃく ) せる婦人も無之 ( これなく ) 、いず方 ( かた ) より艶書 ( えんしょ ) も参らず、先 ( ま ) ず先 ( ま ) ず無事に消光罷 ( まか ) り在り候 ( そろ ) 間、乍憚 ( はばかりながら ) 御休心可被下候 ( くださるべくそろ ) 」と云うのが来たくらいである。それに較 ( くら ) べるとこの年始状は例外にも世間的である。
「一寸参堂仕り度 ( たく ) 候えども、大兄の消極主義に反して、出来得る限り積極的方針を以 ( もっ ) て、此千古未曾有 ( みぞう ) の新年を迎うる計画故、毎日毎日目の廻る程の多忙、御推察願上候 ( そろ ) ……」
なるほどあの男の事だから正月は遊び廻るのに忙がしいに違いないと、主人は腹の中で迷亭君に同意する。
「昨日は一刻のひまを偸 ( ぬす ) み、東風子にトチメンボー の御馳走 ( ごちそう ) を致さんと存じ候処 ( そろところ ) 、生憎 ( あいにく ) 材料払底の為 ( た ) め其意を果さず、遺憾 ( いかん ) 千万に存候 ( ぞんじそろ ) 。……」
そろそろ例の通りになって来たと主人は無言で微笑する。
「明日は某男爵の歌留多会 ( かるたかい ) 、明後日は審美学協会の新年宴会、其明日は鳥部教授歓迎会、其又明日は……」
うるさいなと、主人は読みとばす。
「右の如く謡曲会、俳句会、短歌会、新体詩会等、会の連発にて当分の間は、のべつ幕無しに出勤致し候 ( そろ ) 為め、不得已 ( やむをえず ) 賀状を以て拝趨 ( はいすう ) の礼に易 ( か ) え候段 ( そろだん ) 不悪 ( あしからず ) 御宥恕 ( ごゆうじょ ) 被下度候 ( くだされたくそろ ) 。……」
別段くるにも及ばんさと、主人は手紙に返事をする。
「今度御光来の節は久し振りにて晩餐でも供し度 ( たき ) 心得に御座候 ( そろ ) 。寒厨 ( かんちゅう ) 何の珍味も無之候 ( これなくそうら ) えども、せめてはトチメンボー でもと只今より心掛居候 ( おりそろ ) 。……」
まだトチメンボー を振り廻している。失敬なと主人はちょっとむっとする。
「然 ( しか ) しトチメンボー は近頃材料払底の為め、ことに依ると間に合い兼候 ( かねそろ ) も計りがたきにつき、其節は孔雀 ( くじゃく ) の舌 ( した ) でも御風味に入れ可申候 ( もうすべくそろ ) 。……」
両天秤 ( りょうてんびん ) をかけたなと主人は、あとが読みたくなる。
「御承知の通り孔雀一羽につき、舌肉の分量は小指の半 ( なか ) ばにも足らぬ程故健啖 ( けんたん ) なる大兄の胃嚢 ( いぶくろ ) を充 ( み ) たす為には……」
うそをつけと主人は打ち遣 ( や ) ったようにいう。
「是非共二三十羽の孔雀を捕獲致さざる可 ( べか ) らずと存候 ( ぞんじそろ ) 。然る所孔雀は動物園、浅草花屋敷等には、ちらほら見受け候えども、普通の鳥屋抔 ( など ) には一向 ( いっこう ) 見当り不申 ( もうさず ) 、苦心 ( くしん ) 此事 ( このこと ) に御座候 ( そろ ) 。……」
独りで勝手に苦心しているのじゃないかと主人は毫 ( ごう ) も感謝の意を表しない。
「此孔雀の舌の料理は往昔 ( おうせき ) 羅馬 ( ローマ ) 全盛の砌 ( みぎ ) り、一時非常に流行致し候 ( そろ ) ものにて、豪奢 ( ごうしゃ ) 風流の極度と平生よりひそかに食指 ( しょくし ) を動かし居候 ( おりそろ ) 次第御諒察 ( ごりょうさつ ) 可被下候 ( くださるべくそろ ) 。……」
何が御諒察だ、馬鹿なと主人はすこぶる冷淡である。
「降 ( くだ ) って十六七世紀の頃迄は全欧を通じて孔雀は宴席に欠くべからざる好味と相成居候 ( あいなりおりそろ ) 。レスター伯がエリザベス女皇 ( じょこう ) をケニルウォースに招待致し候節 ( そろせつ ) も慥 ( たし ) か孔雀を使用致し候様 ( そろよう ) 記憶致候 ( いたしそろ ) 。有名なるレンブラントが画 ( えが ) き候 ( そろ ) 饗宴の図にも孔雀が尾を広げたる儘 ( まま ) 卓上に横 ( よこた ) わり居り候 ( そろ ) ……」
孔雀の料理史をかくくらいなら、そんなに多忙でもなさそうだと不平をこぼす。
「とにかく近頃の如く御馳走の食べ続けにては、さすがの小生も遠からぬうちに大兄の如く胃弱と相成 ( あいな ) るは必定 ( ひつじょう ) ……」
大兄のごとくは余計だ。何も僕を胃弱の標準にしなくても済むと主人はつぶやいた。
「歴史家の説によれば羅馬人 ( ローマじん ) は日に二度三度も宴会を開き候由 ( そろよし ) 。日に二度も三度も方丈 ( ほうじょう ) の食饌 ( しょくせん ) に就き候えば如何なる健胃の人にても消化機能に不調を醸 ( かも ) すべく、従って自然は大兄の如く……」
また大兄のごとくか、失敬な。
「然 ( しか ) るに贅沢 ( ぜいたく ) と衛生とを両立せしめんと研究を尽したる彼等は不相当に多量の滋味を貪 ( むさぼ ) ると同時に胃腸を常態に保持するの必要を認め、ここに一の秘法を案出致し候 ( そろ ) ……」
はてねと主人は急に熱心になる。
「彼等は食後必ず入浴致候 ( いたしそろ ) 。入浴後一種の方法によりて浴前 ( よくぜん ) に嚥下 ( えんか ) せるものを悉 ( ことごと ) く嘔吐 ( おうと ) し、胃内を掃除致し候 ( そろ ) 。胃内廓清 ( いないかくせい ) の功を奏したる後 ( のち ) 又食卓に就 ( つ ) き、飽 ( あ ) く迄珍味を風好 ( ふうこう ) し、風好し了 ( おわ ) れば又湯に入りて之 ( これ ) を吐出 ( としゅつ ) 致候 ( いたしそろ ) 。かくの如くすれば好物は貪 ( むさ ) ぼり次第貪り候 ( そうろう ) も毫 ( ごう ) も内臓の諸機関に障害を生ぜず、一挙両得とは此等の事を可申 ( もうすべき ) かと愚考致候 ( いたしそろ ) ……」
なるほど一挙両得に相違ない。主人は羨 ( うらや ) ましそうな顔をする。
「廿世紀の今日 ( こんにち ) 交通の頻繁 ( ひんぱん ) 、宴会の増加は申す迄もなく、軍国多事征露の第二年とも相成候折柄 ( そろおりから ) 、吾人戦勝国の国民は、是非共羅馬 ( ローマ ) 人に傚 ( なら ) って此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着致し候 ( そろ ) 事と自信致候 ( いたしそろ ) 。左 ( さ ) もなくば切角 ( せっかく ) の大国民も近き将来に於て悉 ( ことごと ) く大兄の如く胃病患者と相成る事と窃 ( ひそ ) かに心痛罷 ( まか ) りあり候 ( そろ ) ……」
また大兄のごとくか、癪 ( しゃく ) に障 ( さわ ) る男だと主人が思う。
「此際吾人西洋の事情に通ずる者が古史伝説を考究し、既に廃絶せる秘法を発見し、之を明治の社会に応用致し候わば所謂 ( いわば ) 禍 ( わざわい ) を未萌 ( みほう ) に防ぐの功徳 ( くどく ) にも相成り平素逸楽 ( いつらく ) を擅 ( ほしいまま ) に致し候 ( そろ ) 御恩返も相立ち可申 ( もうすべく ) と存候 ( ぞんじそろ ) ……」
何だか妙だなと首を捻 ( ひね ) る。
「依 ( よっ ) て此間中 ( じゅう ) よりギボン、モンセン、スミス等諸家の著述を渉猟 ( しょうりょう ) 致し居候 ( おりそうら ) えども未 ( いま ) だに発見の端緒 ( たんしょ ) をも見出 ( みいだ ) し得ざるは残念の至に存候 ( ぞんじそろ ) 。然し御存じの如く小生は一度思い立ち候事 ( そろこと ) は成功するまでは決して中絶仕 ( つかまつ ) らざる性質に候えば嘔吐方 ( おうとほう ) を再興致し候 ( そろ ) も遠からぬうちと信じ居り候 ( そろ ) 次第。右は発見次第御報道可仕候 ( つかまつるべくそろ ) につき、左様御承知可被下候 ( くださるべくそろ ) 。就 ( つい ) てはさきに申上候 ( そろ ) トチメンボー 及び孔雀の舌の御馳走も可相成 ( あいなるべく ) は右発見後に致し度 ( たく ) 、左 ( さ ) すれば小生の都合は勿論 ( もちろん ) 、既に胃弱に悩み居らるる大兄の為にも御便宜 ( ごべんぎ ) かと存候 ( ぞんじそろ ) 草々不備」
何だとうとう担 ( かつ ) がれたのか、あまり書き方が真面目だものだからつい仕舞 ( しまい ) まで本気にして読んでいた。新年匆々 ( そうそう ) こんな悪戯 ( いたずら ) をやる迷亭はよっぽどひま人だなあと主人は笑いながら云った。
それから四五日は別段の事もなく過ぎ去った。白磁 ( はくじ ) の水仙がだんだん凋 ( しぼ ) んで、青軸 ( あおじく ) の梅が瓶 ( びん ) ながらだんだん開きかかるのを眺め暮らしてばかりいてもつまらんと思って、一両度 ( いちりょうど ) 三毛子を訪問して見たが逢 ( あ ) われない。最初は留守だと思ったが、二返目 ( へんめ ) には病気で寝ているという事が知れた。障子の中で例の御師匠さんと下女が話しをしているのを手水鉢 ( ちょうずばち ) の葉蘭の影に隠れて聞いているとこうであった。
「三毛は御飯をたべるかい」「いいえ今朝からまだ何 ( なん ) にも食べません、あったかにして御火燵 ( おこた ) に寝かしておきました」何だか猫らしくない。まるで人間の取扱を受けている。
一方では自分の境遇と比べて見て羨 ( うらや ) ましくもあるが、一方では己 ( おの ) が愛している猫がかくまで厚遇を受けていると思えば嬉しくもある。
「どうも困るね、御飯をたべないと、身体 ( からだ ) が疲れるばかりだからね」「そうでございますとも、私共でさえ一日御饍 ( ごぜん ) をいただかないと、明くる日はとても働けませんもの」
下女は自分より猫の方が上等な動物であるような返事をする。実際この家 ( うち ) では下女より猫の方が大切かも知れない。
「御医者様へ連れて行ったのかい」「ええ、あの御医者はよっぽど妙でございますよ。私が三毛をだいて診察場へ行くと、風邪 ( かぜ ) でも引いたのかって私の脈 ( みゃく ) をとろうとするんでしょう。いえ病人は私ではございません。これですって三毛を膝の上へ直したら、にやにや笑いながら、猫の病気はわしにも分らん、抛 ( ほう ) っておいたら今に癒 ( なお ) るだろうってんですもの、あんまり苛 ( ひど ) いじゃございませんか。腹が立ったから、それじゃ見ていただかなくってもようございますこれでも大事の猫なんですって、三毛を懐 ( ふところ ) へ入れてさっさと帰って参りました」「ほんにねえ」
「ほんにねえ」は到底 ( とうてい ) 吾輩のうちなどで聞かれる言葉ではない。やはり天璋院 ( てんしょういん ) 様の何とかの何とかでなくては使えない、はなはだ雅 ( が ) であると感心した。
「何だかしくしく云うようだが……」「ええきっと風邪を引いて咽喉 ( のど ) が痛むんでございますよ。風邪を引くと、どなたでも御咳 ( おせき ) が出ますからね……」
天璋院様の何とかの何とかの下女だけに馬鹿叮嚀 ( ていねい ) な言葉を使う。
「それに近頃は肺病とか云うものが出来てのう」「ほんとにこの頃のように肺病だのペストだのって新しい病気ばかり殖 ( ふ ) えた日にゃ油断も隙もなりゃしませんのでございますよ」「旧幕時代に無い者に碌 ( ろく ) な者はないから御前も気をつけないといかんよ」「そうでございましょうかねえ」
下女は大 ( おおい ) に感動している。
「風邪 ( かぜ ) を引くといってもあまり出あるきもしないようだったに……」「いえね、あなた、それが近頃は悪い友達が出来ましてね」
下女は国事の秘密でも語る時のように大得意である。
「悪い友達?」「ええあの表通りの教師の所 ( とこ ) にいる薄ぎたない雄猫 ( おねこ ) でございますよ」「教師と云うのは、あの毎朝無作法な声を出す人かえ」「ええ顔を洗うたんびに鵝鳥 ( がちょう ) が絞 ( し ) め殺されるような声を出す人でござんす」
鵝鳥が絞め殺されるような声はうまい形容である。吾輩の主人は毎朝風呂場で含嗽 ( うがい ) をやる時、楊枝 ( ようじ ) で咽喉 ( のど ) をつっ突いて妙な声を無遠慮に出す癖がある。機嫌の悪い時はやけにがあがあやる、機嫌の好い時は元気づいてなおがあがあやる。つまり機嫌のいい時も悪い時も休みなく勢よくがあがあやる。細君の話しではここへ引越す前まではこんな癖はなかったそうだが、ある時ふとやり出してから今日 ( きょう ) まで一日もやめた事がないという。ちょっと厄介な癖であるが、なぜこんな事を根気よく続けているのか吾等猫などには到底 ( とうてい ) 想像もつかん。それもまず善いとして「薄ぎたない猫」とは随分酷評をやるものだとなお耳を立ててあとを聞く。
「あんな声を出して何の呪 ( まじな ) いになるか知らん。御維新前 ( ごいっしんまえ ) は中間 ( ちゅうげん ) でも草履 ( ぞうり ) 取りでも相応の作法は心得たもので、屋敷町などで、あんな顔の洗い方をするものは一人もおらなかったよ」「そうでございましょうともねえ」
下女は無暗 ( むやみ ) に感服しては、無暗にねえ を使用する。
「あんな主人を持っている猫だから、どうせ野良猫 ( のらねこ ) さ、今度来たら少し叩 ( たた ) いておやり」「叩いてやりますとも、三毛の病気になったのも全くあいつの御蔭に相違ございませんもの、きっと讐 ( かたき ) をとってやります」
飛んだ冤罪 ( えんざい ) を蒙 ( こうむ ) ったものだ。こいつは滅多 ( めった ) に近 ( ち ) か寄 ( よ ) れないと三毛子にはとうとう逢わずに帰った。
帰って見ると主人は書斎の中 ( うち ) で何か沈吟 ( ちんぎん ) の体 ( てい ) で筆を執 ( と ) っている。二絃琴 ( にげんきん ) の御師匠さんの所 ( とこ ) で聞いた評判を話したら、さぞ怒 ( おこ ) るだろうが、知らぬが仏とやらで、うんうん云いながら神聖な詩人になりすましている。
ところへ当分多忙で行かれないと云って、わざわざ年始状をよこした迷亭君が飄然 ( ひょうぜん ) とやって来る。「何か新体詩でも作っているのかね。面白いのが出来たら見せたまえ」と云う。「うん、ちょっとうまい文章だと思ったから今翻訳して見ようと思ってね」と主人は重たそうに口を開く。「文章? 誰 ( だ ) れの文章だい」「誰れのか分らんよ」「無名氏か、無名氏の作にも随分善いのがあるからなかなか馬鹿に出来ない。全体どこにあったのか」と問う。「第二読本」と主人は落ちつきはらって答える。「第二読本? 第二読本がどうしたんだ」「僕の翻訳している名文と云うのは第二読本の中 ( うち ) にあると云う事さ」「冗談 ( じょうだん ) じゃない。孔雀の舌の讐 ( かたき ) を際 ( きわ ) どいところで討とうと云う寸法なんだろう」「僕は君のような法螺吹 ( ほらふ ) きとは違うさ」と口髯 ( くちひげ ) を捻 ( ひね ) る。泰然たるものだ。「昔 ( むか ) しある人が山陽に、先生近頃名文はござらぬかといったら、山陽が馬子 ( まご ) の書いた借金の催促状を示して近来の名文はまずこれでしょうと云ったという話があるから、君の審美眼も存外たしかかも知れん。どれ読んで見給え、僕が批評してやるから」と迷亭先生は審美眼の本家 ( ほんけ ) のような事を云う。主人は禅坊主が大燈国師 ( だいとうこくし ) の遺誡 ( ゆいかい ) を読むような声を出して読み始める。「巨人 ( きょじん ) 、引力 ( いんりょく ) 」「何だいその巨人引力と云うのは」「巨人引力と云う題さ」「妙な題だな、僕には意味がわからんね」「引力と云う名を持っている巨人というつもりさ」「少し無理なつもり だが表題だからまず負けておくとしよう。それから早々 ( そうそう ) 本文を読むさ、君は声が善いからなかなか面白い」「雑 ( ま ) ぜかえしてはいかんよ」と予 ( あらか ) じめ念を押してまた読み始める。
ケートは窓から外面 ( そと ) を眺 ( なが ) める。小児 ( しょうに ) が球 ( たま ) を投げて遊んでいる。彼等は高く球を空中に擲 ( なげう ) つ。球は上へ上へとのぼる。しばらくすると落ちて来る。彼等はまた球を高く擲つ。再び三度。擲つたびに球は落ちてくる。なぜ落ちるのか、なぜ上へ上へとのみのぼらぬかとケートが聞く。「巨人が地中に住む故に」と母が答える。「彼は巨人引力である。彼は強い。彼は万物を己 ( おの ) れの方へと引く。彼は家屋を地上に引く。引かねば飛んでしまう。小児も飛んでしまう。葉が落ちるのを見たろう。あれは巨人引力が呼ぶのである。本を落す事があろう。巨人引力が来いというからである。球が空にあがる。巨人引力は呼ぶ。呼ぶと落ちてくる」
「それぎりかい」「むむ、甘 ( うま ) いじゃないか」「いやこれは恐れ入った。飛んだところでトチメンボー の御返礼に預 ( あずか ) った」「御返礼でもなんでもないさ、実際うまいから訳して見たのさ、君はそう思わんかね」と金縁の眼鏡の奥を見る。「どうも驚ろいたね。君にしてこの伎倆 ( ぎりょう ) あらんとは、全く此度 ( こんど ) という今度 ( こんど ) は担 ( かつ ) がれたよ、降参降参」と一人で承知して一人で喋舌 ( しゃべ ) る。主人には一向 ( いっこう ) 通じない。「何も君を降参させる考えはないさ。ただ面白い文章だと思ったから訳して見たばかりさ」「いや実に面白い。そう来なくっちゃ本ものでない。凄 ( すご ) いものだ。恐縮だ」「そんなに恐縮するには及ばん。僕も近頃は水彩画をやめたから、その代りに文章でもやろうと思ってね」「どうして遠近 ( えんきん ) 無差別 ( むさべつ ) 黒白 ( こくびゃく ) 平等 ( びょうどう ) の水彩画の比じゃない。感服の至りだよ」「そうほめてくれると僕も乗り気になる」と主人はあくまでも疳違 ( かんちが ) いをしている。
ところへ寒月 ( かんげつ ) 君が先日は失礼しましたと這入 ( はい ) って来る。「いや失敬。今大変な名文を拝聴してトチメンボー の亡魂を退治 ( たいじ ) られたところで」と迷亭先生は訳のわからぬ事をほのめかす。「はあ、そうですか」とこれも訳の分らぬ挨拶をする。主人だけは左 ( さ ) のみ浮かれた気色 ( けしき ) もない。「先日は君の紹介で越智東風 ( おちとうふう ) と云う人が来たよ」「ああ上 ( あが ) りましたか、あの越智東風 ( おちこち ) と云う男は至って正直な男ですが少し変っているところがあるので、あるいは御迷惑かと思いましたが、是非紹介してくれというものですから……」「別に迷惑の事もないがね……」「こちらへ上 ( あが ) っても自分の姓名のことについて何か弁じて行きゃしませんか」「いいえ、そんな話もなかったようだ」「そうですか、どこへ行っても初対面の人には自分の名前の講釈 ( こうしゃく ) をするのが癖でしてね」「どんな講釈をするんだい」と事あれかしと待ち構えた迷亭君は口を入れる。「あの東風 ( こち ) と云うのを音 ( おん ) で読まれると大変気にするので」「はてね」と迷亭先生は金唐皮 ( きんからかわ ) の煙草入 ( たばこいれ ) から煙草をつまみ出す。「私 ( わたく ) しの名は越智東風 ( おちとうふう ) ではありません、越智 ( おち ) こち ですと必ず断りますよ」「妙だね」と雲井 ( くもい ) を腹の底まで呑 ( の ) み込む。「それが全く文学熱から来たので、こちと読むと遠近 と云う成語 ( せいご ) になる、のみならずその姓名が韻 ( いん ) を踏んでいると云うのが得意なんです。それだから東風 ( こち ) を音 ( おん ) で読むと僕がせっかくの苦心を人が買ってくれないといって不平を云うのです」「こりゃなるほど変ってる」と迷亭先生は図に乗って腹の底から雲井を鼻の孔 ( あな ) まで吐き返す。途中で煙が戸迷 ( とまど ) いをして咽喉 ( のど ) の出口へ引きかかる。先生は煙管 ( きせる ) を握ってごほんごほんと咽 ( むせ ) び返る。「先日来た時は朗読会で船頭になって女学生に笑われたといっていたよ」と主人は笑いながら云う。「うむそれそれ」と迷亭先生が煙管 ( きせる ) で膝頭 ( ひざがしら ) を叩 ( たた ) く。吾輩は険呑 ( けんのん ) になったから少し傍 ( そば ) を離れる。「その朗読会さ。せんだってトチメンボー を御馳走した時にね。その話しが出たよ。何でも第二回には知名の文士を招待して大会をやるつもりだから、先生にも是非御臨席を願いたいって。それから僕が今度も近松の世話物をやるつもりかいと聞くと、いえこの次はずっと新しい者を撰 ( えら ) んで金色夜叉 ( こんじきやしゃ ) にしましたと云うから、君にゃ何の役が当ってるかと聞いたら私は御宮 ( おみや ) ですといったのさ。東風 ( とうふう ) の御宮は面白かろう。僕は是非出席して喝采 ( かっさい ) しようと思ってるよ」「面白いでしょう」と寒月君が妙な笑い方をする。「しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄なところがないから好い。迷亭などとは大違いだ」と主人はアンドレア・デル・サルトと孔雀 ( くじゃく ) の舌とトチメンボー の復讐 ( かたき ) を一度にとる。迷亭君は気にも留めない様子で「どうせ僕などは行徳 ( ぎょうとく ) の俎 ( まないた ) と云う格だからなあ」と笑う。「まずそんなところだろう」と主人が云う。実は行徳の俎と云う語を主人は解 ( かい ) さないのであるが、さすが永年教師をして胡魔化 ( ごまか ) しつけているものだから、こんな時には教場の経験を社交上にも応用するのである。「行徳の俎というのは何の事ですか」と寒月が真率 ( しんそつ ) に聞く。主人は床の方を見て「あの水仙は暮に僕が風呂の帰りがけに買って来て挿 ( さ ) したのだが、よく持つじゃないか」と行徳の俎を無理にねじ伏せる。「暮といえば、去年の暮に僕は実に不思議な経験をしたよ」と迷亭が煙管 ( きせる ) を大神楽 ( だいかぐら ) のごとく指の尖 ( さき ) で廻わす。「どんな経験か、聞かし玉 ( たま ) え」と主人は行徳の俎を遠く後 ( うしろ ) に見捨てた気で、ほっと息をつく。迷亭先生の不思議な経験というのを聞くと左 ( さ ) のごとくである。
「たしか暮の二十七日と記憶しているがね。例の東風 ( とうふう ) から参堂の上是非文芸上の御高話を伺いたいから御在宿を願うと云う先 ( さ ) き触 ( ぶ ) れがあったので、朝から心待ちに待っていると先生なかなか来ないやね。昼飯を食ってストーブの前でバリー・ペーンの滑稽物 ( こっけいもの ) を読んでいるところへ静岡の母から手紙が来たから見ると、年寄だけにいつまでも僕を小供のように思ってね。寒中は夜間外出をするなとか、冷水浴もいいがストーブを焚 ( た ) いて室 ( へや ) を煖 ( あたた ) かにしてやらないと風邪 ( かぜ ) を引くとかいろいろの注意があるのさ。なるほど親はありがたいものだ、他人ではとてもこうはいかないと、呑気 ( のんき ) な僕もその時だけは大 ( おおい ) に感動した。それにつけても、こんなにのらくらしていては勿体 ( もったい ) ない。何か大著述でもして家名を揚げなくてはならん。母の生きているうちに天下をして明治の文壇に迷亭先生あるを知らしめたいと云う気になった。それからなお読んで行くと御前なんぞは実に仕合せ者だ。露西亜 ( ロシア ) と戦争が始まって若い人達は大変な辛苦 ( しんく ) をして御国 ( みくに ) のために働らいているのに節季師走 ( せっきしわす ) でもお正月のように気楽に遊んでいると書いてある。——僕はこれでも母の思ってるように遊んじゃいないやね——そのあとへ以 ( もっ ) て来て、僕の小学校時代の朋友 ( ほうゆう ) で今度の戦争に出て死んだり負傷したものの名前が列挙してあるのさ。その名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気 ( あじき ) なくなって人間もつまらないと云う気が起ったよ。一番仕舞 ( しまい ) にね。私 ( わた ) しも取る年に候えば初春 ( はつはる ) の御雑煮 ( おぞうに ) を祝い候も今度限りかと……何だか心細い事が書いてあるんで、なおのこと気がくさくさしてしまって早く東風 ( とうふう ) が来れば好いと思ったが、先生どうしても来ない。そのうちとうとう晩飯になったから、母へ返事でも書こうと思ってちょいと十二三行かいた。母の手紙は六尺以上もあるのだが僕にはとてもそんな芸は出来んから、いつでも十行内外で御免蒙 ( こうむ ) る事に極 ( き ) めてあるのさ。すると一日動かずにおったものだから、胃の具合が妙で苦しい。東風が来たら待たせておけと云う気になって、郵便を入れながら散歩に出掛けたと思い給え。いつになく富士見町の方へは足が向かないで土手 ( どて ) 三番町 ( さんばんちょう ) の方へ我れ知らず出てしまった。ちょうどその晩は少し曇って、から風が御濠 ( おほり ) の向 ( むこ ) うから吹き付ける、非常に寒い。神楽坂 ( かぐらざか ) の方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。大変淋 ( さみ ) しい感じがする。暮、戦死、老衰、無常迅速などと云う奴が頭の中をぐるぐる馳 ( か ) け廻 ( めぐ ) る。よく人が首を縊 ( くく ) ると云うがこんな時にふと誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。ちょいと首を上げて土手の上を見ると、いつの間 ( ま ) にか例の松の真下 ( ました ) に来ているのさ」
「例の松た、何だい」と主人が断句 ( だんく ) を投げ入れる。
「首懸 ( くびかけ ) の松さ」と迷亭は領 ( えり ) を縮める。
「首懸の松は鴻 ( こう ) の台 ( だい ) でしょう」寒月が波紋 ( はもん ) をひろげる。
「鴻 ( こう ) の台 ( だい ) のは鐘懸 ( かねかけ ) の松で、土手三番町のは首懸 ( くびかけ ) の松さ。なぜこう云う名が付いたかと云うと、昔 ( むか ) しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊 ( くく ) りたくなる。土手の上に松は何十本となくあるが、そら首縊 ( くびくく ) りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。年に二三返 ( べん ) はきっとぶら下がっている。どうしても他 ( ほか ) の松では死ぬ気にならん。見ると、うまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。ああ好い枝振りだ。あのままにしておくのは惜しいものだ。どうかしてあすこの所へ人間を下げて見たい、誰か来ないかしらと、四辺 ( あたり ) を見渡すと生憎 ( あいにく ) 誰も来ない。仕方がない、自分で下がろうか知らん。いやいや自分が下がっては命がない、危 ( あぶ ) ないからよそう。しかし昔の希臘人 ( ギリシャじん ) は宴会の席で首縊 ( くびくく ) りの真似をして余興を添えたと云う話しがある。一人が台の上へ登って縄の結び目へ首を入れる途端に他 ( ほか ) のものが台を蹴返す。首を入れた当人は台を引かれると同時に縄をゆるめて飛び下りるという趣向 ( しゅこう ) である。果してそれが事実なら別段恐るるにも及ばん、僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見ると好い具合に撓 ( しわ ) る。撓り按排 ( あんばい ) が実に美的である。首がかかってふわふわするところを想像して見ると嬉しくてたまらん。是非やる事にしようと思ったが、もし東風 ( とうふう ) が来て待っていると気の毒だと考え出した。それではまず東風 ( とうふう ) に逢 ( あ ) って約束通り話しをして、それから出直そうと云う気になってついにうちへ帰ったのさ」
「それで市 ( いち ) が栄えたのかい」と主人が聞く。
「面白いですな」と寒月がにやにやしながら云う。
「うちへ帰って見ると東風は来ていない。しかし今日 ( こんにち ) は無拠処 ( よんどころなき ) 差支 ( さしつか ) えがあって出られぬ、いずれ永日 ( えいじつ ) 御面晤 ( ごめんご ) を期すという端書 ( はがき ) があったので、やっと安心して、これなら心置きなく首が縊 ( くく ) れる嬉しいと思った。で早速下駄を引き懸けて、急ぎ足で元の所へ引き返して見る……」と云って主人と寒月の顔を見てすましている。
「見るとどうしたんだい」と主人は少し焦 ( じ ) れる。
「いよいよ佳境に入りますね」と寒月は羽織の紐 ( ひも ) をひねくる。
「見ると、もう誰か来て先へぶら下がっている。たった一足違いでねえ君、残念な事をしたよ。考えると何でもその時は死神 ( しにがみ ) に取り着かれたんだね。ゼームスなどに云わせると副意識下の幽冥界 ( ゆうめいかい ) と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に感応 ( かんのう ) したんだろう。実に不思議な事があるものじゃないか」迷亭はすまし返っている。
主人はまたやられたと思いながら何も云わずに空也餅 ( くうやもち ) を頬張 ( ほおば ) って口をもごもご云わしている。
寒月は火鉢の灰を丁寧に掻 ( か ) き馴 ( な ) らして、俯向 ( うつむ ) いてにやにや笑っていたが、やがて口を開く。極めて静かな調子である。
「なるほど伺って見ると不思議な事でちょっと有りそうにも思われませんが、私などは自分でやはり似たような経験をつい近頃したものですから、少しも疑がう気になりません」
「おや君も首を縊 ( くく ) りたくなったのかい」
「いえ私のは首じゃないんで。これもちょうど明ければ昨年の暮の事でしかも先生と同日同刻くらいに起った出来事ですからなおさら不思議に思われます」
「こりゃ面白い」と迷亭も空也餅を頬張る。
「その日は向島の知人の家 ( うち ) で忘年会兼 ( けん ) 合奏会がありまして、私もそれへヴァイオリンを携 ( たずさ ) えて行きました。十五六人令嬢やら令夫人が集ってなかなか盛会で、近来の快事と思うくらいに万事が整っていました。晩餐 ( ばんさん ) もすみ合奏もすんで四方 ( よも ) の話しが出て時刻も大分 ( だいぶ ) 遅くなったから、もう暇乞 ( いとまご ) いをして帰ろうかと思っていますと、某博士の夫人が私のそばへ来てあなたは○○子さんの御病気を御承知ですかと小声で聞きますので、実はその両三日前 ( りょうさんにちまえ ) に逢った時は平常の通りどこも悪いようには見受けませんでしたから、私も驚ろいて精 ( くわ ) しく様子を聞いて見ますと、私 ( わたく ) しの逢ったその晩から急に発熱して、いろいろな譫語 ( うわごと ) を絶間なく口走 ( くちばし ) るそうで、それだけなら宜 ( い ) いですがその譫語のうちに私の名が時々出て来るというのです」
主人は無論、迷亭先生も「御安 ( おやす ) くないね」などという月並 ( つきなみ ) は云わず、静粛に謹聴している。
「医者を呼んで見てもらうと、何だか病名はわからんが、何しろ熱が劇 ( はげ ) しいので脳を犯しているから、もし睡眠剤 ( すいみんざい ) が思うように功を奏しないと危険であると云う診断だそうで私はそれを聞くや否や一種いやな感じが起ったのです。ちょうど夢でうなされる時のような重くるしい感じで周囲の空気が急に固形体になって四方から吾が身をしめつけるごとく思われました。帰り道にもその事ばかりが頭の中にあって苦しくてたまらない。あの奇麗な、あの快活なあの健康な○○子さんが……」
「ちょっと失敬だが待ってくれ給え。さっきから伺っていると○○子さんと云うのが二返 ( へん ) ばかり聞えるようだが、もし差支 ( さしつか ) えがなければ承 ( うけたま ) わりたいね、君」と主人を顧 ( かえり ) みると、主人も「うむ」と生返事 ( なまへんじ ) をする。
「いやそれだけは当人の迷惑になるかも知れませんから廃 ( よ ) しましょう」
「すべて曖々然 ( あいあいぜん ) として昧々然 ( まいまいぜん ) たるかたで行くつもりかね」
「冷笑なさってはいけません、極真面目 ( ごくまじめ ) な話しなんですから……とにかくあの婦人が急にそんな病気になった事を考えると、実に飛花落葉 ( ひからくよう ) の感慨で胸が一杯になって、総身 ( そうしん ) の活気が一度にストライキを起したように元気がにわかに滅入 ( めい ) ってしまいまして、ただ蹌々 ( そうそう ) として踉々 ( ろうろう ) という形 ( かた ) ちで吾妻橋 ( あずまばし ) へきかかったのです。欄干に倚 ( よ ) って下を見ると満潮 ( まんちょう ) か干潮 ( かんちょう ) か分りませんが、黒い水がかたまってただ動いているように見えます。花川戸 ( はなかわど ) の方から人力車が一台馳 ( か ) けて来て橋の上を通りました。その提灯 ( ちょうちん ) の火を見送っていると、だんだん小くなって札幌 ( さっぽろ ) ビールの処で消えました。私はまた水を見る。すると遥 ( はる ) かの川上の方で私の名を呼ぶ声が聞えるのです。はてな今時分人に呼ばれる訳はないが誰だろうと水の面 ( おもて ) をすかして見ましたが暗くて何 ( なん ) にも分りません。気のせいに違いない早々 ( そうそう ) 帰ろうと思って一足二足あるき出すと、また微 ( かす ) かな声で遠くから私の名を呼ぶのです。私はまた立ち留って耳を立てて聞きました。三度目に呼ばれた時には欄干に捕 ( つか ) まっていながら膝頭 ( ひざがしら ) ががくがく悸 ( ふる ) え出したのです。その声は遠くの方か、川の底から出るようですが紛 ( まぎ ) れもない○○子の声なんでしょう。私は覚えず「はーい」と返事をしたのです。その返事が大きかったものですから静かな水に響いて、自分で自分の声に驚かされて、はっと周囲を見渡しました。人も犬も月も何 ( なん ) にも見えません。その時に私はこの「夜 ( よる ) 」の中に巻き込まれて、あの声の出る所へ行きたいと云う気がむらむらと起ったのです。○○子の声がまた苦しそうに、訴えるように、救を求めるように私の耳を刺し通したので、今度は「今直 ( すぐ ) に行きます」と答えて欄干から半身を出して黒い水を眺めました。どうも私を呼ぶ声が浪 ( なみ ) の下から無理に洩 ( も ) れて来るように思われましてね。この水の下だなと思いながら私はとうとう欄干の上に乗りましたよ。今度呼んだら飛び込もうと決心して流を見つめているとまた憐れな声が糸のように浮いて来る。ここだと思って力を込めて一反 ( いったん ) 飛び上がっておいて、そして小石か何ぞのように未練なく落ちてしまいました」
「とうとう飛び込んだのかい」と主人が眼をぱちつかせて問う。
「そこまで行こうとは思わなかった」と迷亭が自分の鼻の頭をちょいとつまむ。
「飛び込んだ後 ( あと ) は気が遠くなって、しばらくは夢中でした。やがて眼がさめて見ると寒くはあるが、どこも濡 ( ぬ ) れた所 ( とこ ) も何もない、水を飲んだような感じもしない。たしかに飛び込んだはずだが実に不思議だ。こりゃ変だと気が付いてそこいらを見渡すと驚きましたね。水の中へ飛び込んだつもりでいたところが、つい間違って橋の真中へ飛び下りたので、その時は実に残念でした。前と後 ( うし ) ろの間違だけであの声の出る所へ行く事が出来なかったのです」寒月はにやにや笑いながら例のごとく羽織の紐 ( ひも ) を荷厄介 ( にやっかい ) にしている。
「ハハハハこれは面白い。僕の経験と善く似ているところが奇だ。やはりゼームス教授の材料になるね。人間の感応と云う題で写生文にしたらきっと文壇を驚かすよ。……そしてその○○子さんの病気はどうなったかね」と迷亭先生が追窮する。
「二三日前 ( にさんちまえ ) 年始に行きましたら、門の内で下女と羽根を突いていましたから病気は全快したものと見えます」
主人は最前から沈思の体 ( てい ) であったが、この時ようやく口を開いて、「僕にもある」と負けぬ気を出す。
「あるって、何があるんだい」迷亭の眼中に主人などは無論ない。
「僕のも去年の暮の事だ」
「みんな去年の暮は暗合 ( あんごう ) で妙ですな」と寒月が笑う。欠けた前歯のうちに空也餅 ( くうやもち ) が着いている。
「やはり同日同刻じゃないか」と迷亭がまぜ返す。
「いや日は違うようだ。何でも二十日 ( はつか ) 頃だよ。細君が御歳暮の代りに摂津大掾 ( せっつだいじょう ) を聞かしてくれろと云うから、連れて行ってやらん事もないが今日の語り物は何だと聞いたら、細君が新聞を参考して鰻谷 ( うなぎだに ) だと云うのさ。鰻谷は嫌いだから今日はよそうとその日はやめにした。翌日になると細君がまた新聞を持って来て今日は堀川 ( ほりかわ ) だからいいでしょうと云う。堀川は三味線もので賑やかなばかりで実 ( み ) がないからよそうと云うと、細君は不平な顔をして引き下がった。その翌日になると細君が云うには今日は三十三間堂です、私は是非摂津 ( せっつ ) の三十三間堂が聞きたい。あなたは三十三間堂も御嫌いか知らないが、私に聞かせるのだからいっしょに行って下すっても宜 ( い ) いでしょうと手詰 ( てづめ ) の談判をする。御前がそんなに行きたいなら行っても宜 ( よ ) ろしい、しかし一世一代と云うので大変な大入だから到底 ( とうてい ) 突懸 ( つっか ) けに行ったって這入 ( はい ) れる気遣 ( きづか ) いはない。元来ああ云う場所へ行くには茶屋と云うものが在 ( あ ) ってそれと交渉して相当の席を予約するのが正当の手続きだから、それを踏まないで常規を脱した事をするのはよくない、残念だが今日はやめようと云うと、細君は凄 ( すご ) い眼付をして、私は女ですからそんなむずかしい手続きなんか知りませんが、大原のお母あさんも、鈴木の君代さんも正当の手続きを踏まないで立派に聞いて来たんですから、いくらあなたが教師だからって、そう手数 ( てすう ) のかかる見物をしないでもすみましょう、あなたはあんまりだと泣くような声を出す。それじゃ駄目でもまあ行く事にしよう。晩飯をくって電車で行こうと降参をすると、行くなら四時までに向うへ着くようにしなくっちゃいけません、そんなぐずぐずしてはいられませんと急に勢がいい。なぜ四時までに行かなくては駄目なんだと聞き返すと、そのくらい早く行って場所をとらなくちゃ這入れないからですと鈴木の君代さんから教えられた通りを述べる。それじゃ四時を過ぎればもう駄目なんだねと念を押して見たら、ええ駄目ですともと答える。すると君不思議な事にはその時から急に悪寒 ( おかん ) がし出してね」
「奥さんがですか」と寒月が聞く。
「なに細君はぴんぴんしていらあね。僕がさ。何だか穴の明いた風船玉のように一度に萎縮 ( いしゅく ) する感じが起ると思うと、もう眼がぐらぐらして動けなくなった」
「急病だね」と迷亭が註釈を加える。
「ああ困った事になった。細君が年に一度の願だから是非叶 ( かな ) えてやりたい。平生 ( いつも ) 叱りつけたり、口を聞かなかったり、身上 ( しんしょう ) の苦労をさせたり、小供の世話をさせたりするばかりで何一つ洒掃薪水 ( さいそうしんすい ) の労に酬 ( むく ) いた事はない。今日は幸い時間もある、嚢中 ( のうちゅう ) には四五枚の堵物 ( とぶつ ) もある。連れて行けば行かれる。細君も行きたいだろう、僕も連れて行ってやりたい。是非連れて行ってやりたいがこう悪寒がして眼がくらんでは電車へ乗るどころか、靴脱 ( くつぬぎ ) へ降りる事も出来ない。ああ気の毒だ気の毒だと思うとなお悪寒がしてなお眼がくらんでくる。早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、それから細君と相談をして甘木 ( あまき ) 医学士を迎いにやると生憎 ( あいにく ) 昨夜 ( ゆうべ ) が当番でまだ大学から帰らない。二時頃には御帰りになりますから、帰り次第すぐ上げますと云う返事である。困ったなあ、今杏仁水 ( きょうにんすい ) でも飲めば四時前にはきっと癒 ( なお ) るに極 ( きま ) っているんだが、運の悪い時には何事も思うように行かんもので、たまさか妻君の喜ぶ笑顔を見て楽もうと云う予算も、がらりと外 ( はず ) れそうになって来る。細君は恨 ( うら ) めしい顔付をして、到底 ( とうてい ) いらっしゃれませんかと聞く。行くよ必ず行くよ。四時までにはきっと直って見せるから安心しているがいい。早く顔でも洗って着物でも着換えて待っているがいい、と口では云ったようなものの胸中は無限の感慨である。悪寒はますます劇 ( はげ ) しくなる、眼はいよいよぐらぐらする。もしや四時までに全快して約束を履行 ( りこう ) する事が出来なかったら、気の狭い女の事だから何をするかも知れない。情 ( なさ ) けない仕儀になって来た。どうしたら善かろう。万一の事を考えると今の内に有為転変 ( ういてんぺん ) の理、生者必滅 ( しょうじゃひつめつ ) の道を説き聞かして、もしもの変が起った時取り乱さないくらいの覚悟をさせるのも、夫 ( おっと ) の妻 ( つま ) に対する義務ではあるまいかと考え出した。僕は速 ( すみや ) かに細君を書斎へ呼んだよ。呼んで御前は女だけれども many a slip 'twixt the cup and the lip と云う西洋の諺 ( ことわざ ) くらいは心得ているだろうと聞くと、そんな横文字なんか誰が知るもんですか、あなたは人が英語を知らないのを御存じの癖にわざと英語を使って人にからかうのだから、宜 ( よろ ) しゅうございます、どうせ英語なんかは出来ないんですから、そんなに英語が御好きなら、なぜ耶蘇学校 ( ヤソがっこう ) の卒業生かなんかをお貰いなさらなかったんです。あなたくらい冷酷な人はありはしないと非常な権幕 ( けんまく ) なんで、僕もせっかくの計画の腰を折られてしまった。君等にも弁解するが僕の英語は決して悪意で使った訳じゃない。全く妻 ( さい ) を愛する至情から出たので、それを妻のように解釈されては僕も立つ瀬がない。それにさっきからの悪寒 ( おかん ) と眩暈 ( めまい ) で少し脳が乱れていたところへもって来て、早く有為転変、生者必滅の理を呑み込ませようと少し急 ( せ ) き込んだものだから、つい細君の英語を知らないと云う事を忘れて、何の気も付かずに使ってしまった訳さ。考えるとこれは僕が悪 ( わ ) るい、全く手落ちであった。この失敗で悪寒はますます強くなる。眼はいよいよぐらぐらする。妻君は命ぜられた通り風呂場へ行って両肌 ( もろはだ ) を脱いで御化粧をして、箪笥 ( たんす ) から着物を出して着換える。もういつでも出掛けられますと云う風情 ( ふぜい ) で待ち構えている。僕は気が気でない。早く甘木君が来てくれれば善いがと思って時計を見るともう三時だ。四時にはもう一時間しかない。「そろそろ出掛けましょうか」と妻君が書斎の開き戸を明けて顔を出す。自分の妻 ( さい ) を褒 ( ほ ) めるのはおかしいようであるが、僕はこの時ほど細君を美しいと思った事はなかった。もろ肌を脱いで石鹸で磨 ( みが ) き上げた皮膚がぴかついて黒縮緬 ( くろちりめん ) の羽織と反映している。その顔が石鹸と摂津大掾 ( せっつだいじょう ) を聞こうと云う希望との二つで、有形無形の両方面から輝やいて見える。どうしてもその希望を満足させて出掛けてやろうと云う気になる。それじゃ奮発して行こうかな、と一ぷくふかしているとようやく甘木先生が来た。うまい注文通りに行った。が容体をはなすと、甘木先生は僕の舌を眺 ( なが ) めて、手を握って、胸を敲 ( たた ) いて背を撫 ( な ) でて、目縁 ( まぶち ) を引っ繰り返して、頭蓋骨 ( ずがいこつ ) をさすって、しばらく考え込んでいる。「どうも少し険呑 ( けんのん ) のような気がしまして」と僕が云うと、先生は落ちついて、「いえ格別の事もございますまい」と云う。「あのちょっとくらい外出致しても差支 ( さしつか ) えはございますまいね」と細君が聞く。「さよう」と先生はまた考え込む。「御気分さえ御悪くなければ……」「気分は悪いですよ」と僕がいう。「じゃともかくも頓服 ( とんぷく ) と水薬 ( すいやく ) を上げますから」「へえどうか、何だかちと、危 ( あぶ ) ないようになりそうですな」「いや決して御心配になるほどの事じゃございません、神経を御起しになるといけませんよ」と先生が帰る。三時は三十分過ぎた。下女を薬取りにやる。細君の厳命で馳 ( か ) け出して行って、馳 ( か ) け出して返ってくる。四時十五分前である。四時にはまだ十五分ある。すると四時十五分前頃から、今まで何とも無かったのに、急に嘔気 ( はきけ ) を催 ( もよ ) おして来た。細君は水薬 ( すいやく ) を茶碗へ注 ( つ ) いで僕の前へ置いてくれたから、茶碗を取り上げて飲もうとすると、胃の中からげーと云う者が吶喊 ( とっかん ) して出てくる。やむをえず茶碗を下へ置く。細君は「早く御飲 ( おの ) みになったら宜 ( い ) いでしょう」と逼 ( せま ) る。早く飲んで早く出掛けなくては義理が悪い。思い切って飲んでしまおうとまた茶碗を唇へつけるとまたゲーが執念深 ( しゅうねんぶか ) く妨害をする。飲もうとしては茶碗を置き、飲もうとしては茶碗を置いていると茶の間の柱時計がチンチンチンチンと四時を打った。さあ四時だ愚図愚図してはおられんと茶碗をまた取り上げると、不思議だねえ君、実に不思議とはこの事だろう、四時の音と共に吐 ( は ) き気 ( け ) がすっかり留まって水薬が何の苦なしに飲めたよ。それから四時十分頃になると、甘木先生の名医という事も始めて理解する事が出来たんだが、背中がぞくぞくするのも、眼がぐらぐらするのも夢のように消えて、当分立つ事も出来まいと思った病気がたちまち全快したのは嬉しかった」
「それから歌舞伎座へいっしょに行ったのかい」と迷亭が要領を得んと云う顔付をして聞く。
「行きたかったが四時を過ぎちゃ、這入 ( はい ) れないと云う細君の意見なんだから仕方がない、やめにしたさ。もう十五分ばかり早く甘木先生が来てくれたら僕の義理も立つし、妻 ( さい ) も満足したろうに、わずか十五分の差でね、実に残念な事をした。考え出すとあぶないところだったと今でも思うのさ」
語り了 ( おわ ) った主人はようやく自分の義務をすましたような風をする。これで両人に対して顔が立つと云う気かも知れん。
寒月は例のごとく欠けた歯を出して笑いながら「それは残念でしたな」と云う。
迷亭はとぼけた顔をして「君のような親切な夫 ( おっと ) を持った妻君は実に仕合せだな」と独 ( ひと ) り言 ( ごと ) のようにいう。障子の蔭でエヘンと云う細君の咳払 ( せきばら ) いが聞える。
吾輩はおとなしく三人の話しを順番に聞いていたがおかしくも悲しくもなかった。人間というものは時間を潰 ( つぶ ) すために強 ( し ) いて口を運動させて、おかしくもない事を笑ったり、面白くもない事を嬉しがったりするほかに能もない者だと思った。吾輩の主人の我儘 ( わがまま ) で偏狭 ( へんきょう ) な事は前から承知していたが、平常 ( ふだん ) は言葉数を使わないので何だか了解しかねる点があるように思われていた。その了解しかねる点に少しは恐しいと云う感じもあったが、今の話を聞いてから急に軽蔑 ( けいべつ ) したくなった。かれはなぜ両人の話しを沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって愚 ( ぐ ) にもつかぬ駄弁を弄 ( ろう ) すれば何の所得があるだろう。エピクテタスにそんな事をしろと書いてあるのか知らん。要するに主人も寒月も迷亭も太平 ( たいへい ) の逸民 ( いつみん ) で、彼等は糸瓜 ( へちま ) のごとく風に吹かれて超然と澄 ( すま ) し切っているようなものの、その実はやはり娑婆気 ( しゃばけ ) もあり慾気 ( よくけ ) もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒 ( ばとう ) している俗骨共 ( ぞっこつども ) と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。ただその言語動作が普通の半可通 ( はんかつう ) のごとく、文切 ( もんき ) り形 ( がた ) の厭味を帯びてないのはいささかの取 ( と ) り得 ( え ) でもあろう。
こう考えると急に三人の談話が面白くなくなったので、三毛子の様子でも見て来 ( き ) ようかと二絃琴 ( にげんきん ) の御師匠さんの庭口へ廻る。門松 ( かどまつ ) 注目飾 ( しめかざ ) りはすでに取り払われて正月も早 ( は ) や十日となったが、うららかな春日 ( はるび ) は一流れの雲も見えぬ深き空より四海天下を一度に照らして、十坪に足らぬ庭の面 ( おも ) も元日の曙光 ( しょこう ) を受けた時より鮮 ( あざや ) かな活気を呈している。椽側に座蒲団 ( ざぶとん ) が一つあって人影も見えず、障子も立て切ってあるのは御師匠さんは湯にでも行ったのか知らん。御師匠さんは留守でも構わんが、三毛子は少しは宜 ( い ) い方か、それが気掛りである。ひっそりして人の気合 ( けわい ) もしないから、泥足のまま椽側 ( えんがわ ) へ上 ( あが ) って座蒲団の真中へ寝転 ( ねこ ) ろんで見るといい心持ちだ。ついうとうととして、三毛子の事も忘れてうたた寝をしていると、急に障子のうちで人声がする。
「御苦労だった。出来たかえ」御師匠さんはやはり留守ではなかったのだ。
「はい遅くなりまして、仏師屋 ( ぶっしや ) へ参りましたらちょうど出来上ったところだと申しまして」「どれお見せなさい。ああ奇麗に出来た、これで三毛も浮かばれましょう。金 ( きん ) は剥 ( は ) げる事はあるまいね」「ええ念を押しましたら上等を使ったからこれなら人間の位牌 ( いはい ) よりも持つと申しておりました。……それから猫誉信女 ( みょうよしんにょ ) の誉の字は崩 ( くず ) した方が恰好 ( かっこう ) がいいから少し劃 ( かく ) を易 ( か ) えたと申しました」「どれどれ早速御仏壇へ上げて御線香でもあげましょう」
三毛子は、どうかしたのかな、何だか様子が変だと蒲団の上へ立ち上る。チーン南無猫誉信女 ( なむみょうよしんにょ ) 、南無阿弥陀仏 ( なむあみだぶつ ) 南無阿弥陀仏と御師匠さんの声がする。
「御前も回向 ( えこう ) をしておやりなさい」
チーン南無猫誉信女南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と今度は下女の声がする。吾輩は急に動悸 ( どうき ) がして来た。座蒲団の上に立ったまま、木彫 ( きぼり ) の猫のように眼も動かさない。
「ほんとに残念な事を致しましたね。始めはちょいと風邪 ( かぜ ) を引いたんでございましょうがねえ」「甘木さんが薬でも下さると、よかったかも知れないよ」「一体あの甘木さんが悪うございますよ、あんまり三毛を馬鹿にし過ぎまさあね」「そう人様 ( ひとさま ) の事を悪く云うものではない。これも寿命 ( じゅみょう ) だから」
三毛子も甘木先生に診察して貰ったものと見える。
「つまるところ表通りの教師のうちの野良猫 ( のらねこ ) が無暗 ( むやみ ) に誘い出したからだと、わたしは思うよ」「ええあの畜生 ( ちきしょう ) が三毛のかたきでございますよ」
少し弁解したかったが、ここが我慢のしどころと唾 ( つば ) を呑んで聞いている。話しはしばし途切 ( とぎ ) れる。
「世の中は自由にならん者でのう。三毛のような器量よしは早死 ( はやじに ) をするし。不器量な野良猫は達者でいたずらをしているし……」「その通りでございますよ。三毛のような可愛らしい猫は鐘と太鼓で探してあるいたって、二人 ( ふたり ) とはおりませんからね」
二匹と云う代りに二 ( ふ ) たりといった。下女の考えでは猫と人間とは同種族ものと思っているらしい。そう云えばこの下女の顔は吾等猫属 ( ねこぞく ) とはなはだ類似している。
「出来るものなら三毛の代りに……」「あの教師の所の野良 ( のら ) が死ぬと御誂 ( おあつら ) え通りに参ったんでございますがねえ」
御誂え通りになっては、ちと困る。死ぬと云う事はどんなものか、まだ経験した事がないから好きとも嫌いとも云えないが、先日あまり寒いので火消壺 ( ひけしつぼ ) の中へもぐり込んでいたら、下女が吾輩がいるのも知らんで上から蓋 ( ふた ) をした事があった。その時の苦しさは考えても恐しくなるほどであった。白君の説明によるとあの苦しみが今少し続くと死ぬのであるそうだ。三毛子の身代 ( みがわ ) りになるのなら苦情もないが、あの苦しみを受けなくては死ぬ事が出来ないのなら、誰のためでも死にたくはない。
「しかし猫でも坊さんの御経を読んでもらったり、戒名 ( かいみょう ) をこしらえてもらったのだから心残りはあるまい」「そうでございますとも、全く果報者 ( かほうもの ) でございますよ。ただ慾を云うとあの坊さんの御経があまり軽少だったようでございますね」「少し短か過ぎたようだったから、大変御早うございますねと御尋ねをしたら、月桂寺 ( げっけいじ ) さんは、ええ利目 ( ききめ ) のあるところをちょいとやっておきました、なに猫だからあのくらいで充分浄土へ行かれますとおっしゃったよ」「あらまあ……しかしあの野良なんかは……」
吾輩は名前はないとしばしば断っておくのに、この下女は野良野良と吾輩を呼ぶ。失敬な奴だ。
「罪が深いんですから、いくらありがたい御経だって浮かばれる事はございませんよ」
吾輩はその後 ( ご ) 野良が何百遍繰り返されたかを知らぬ。吾輩はこの際限なき談話を中途で聞き棄てて、布団 ( ふとん ) をすべり落ちて椽側から飛び下りた時、八万八千八百八十本の毛髪を一度にたてて身震 ( みぶる ) いをした。その後 ( ご ) 二絃琴 ( にげんきん ) の御師匠さんの近所へは寄りついた事がない。今頃は御師匠さん自身が月桂寺さんから軽少な御回向 ( ごえこう ) を受けているだろう。
近頃は外出する勇気もない。何だか世間が慵 ( もの ) うく感ぜらるる。主人に劣らぬほどの無性猫 ( ぶしょうねこ ) となった。主人が書斎にのみ閉じ籠 ( こも ) っているのを人が失恋だ失恋だと評するのも無理はないと思うようになった。
鼠 ( ねずみ ) はまだ取った事がないので、一時は御三 ( おさん ) から放逐論 ( ほうちくろん ) さえ呈出 ( ていしゅつ ) された事もあったが、主人は吾輩の普通一般の猫でないと云う事を知っているものだから吾輩はやはりのらくらしてこの家 ( や ) に起臥 ( きが ) している。この点については深く主人の恩を感謝すると同時にその活眼 ( かつがん ) に対して敬服の意を表するに躊躇 ( ちゅうちょ ) しないつもりである。御三が吾輩を知らずして虐待をするのは別に腹も立たない。今に左甚五郎 ( ひだりじんごろう ) が出て来て、吾輩の肖像を楼門 ( ろうもん ) の柱に刻 ( きざ ) み、日本のスタンランが好んで吾輩の似顔をカンヴァスの上に描 ( えが ) くようになったら、彼等鈍瞎漢 ( どんかつかん ) は始めて自己の不明を恥 ( は ) ずるであろう。
三毛子は死ぬ。黒は相手にならず、いささか寂寞 ( せきばく ) の感はあるが、幸い人間に知己 ( ちき ) が出来たのでさほど退屈とも思わぬ。せんだっては主人の許 ( もと ) へ吾輩の写真を送ってくれと手紙で依頼した男がある。この間は岡山の名産吉備団子 ( きびだんご ) をわざわざ吾輩の名宛で届けてくれた人がある。だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、己 ( おのれ ) が猫である事はようやく忘却してくる。猫よりはいつの間 ( ま ) にか人間の方へ接近して来たような心持になって、同族を糾合 ( きゅうごう ) して二本足の先生と雌雄 ( しゆう ) を決しようなどと云 ( い ) う量見は昨今のところ毛頭 ( もうとう ) ない。それのみか折々は吾輩もまた人間世界の一人だと思う折さえあるくらいに進化したのはたのもしい。あえて同族を軽蔑 ( けいべつ ) する次第ではない。ただ性情の近きところに向って一身の安きを置くは勢 ( いきおい ) のしからしむるところで、これを変心とか、軽薄とか、裏切りとか評せられてはちと迷惑する。かような言語を弄 ( ろう ) して人を罵詈 ( ばり ) するものに限って融通の利 ( き ) かぬ貧乏性の男が多いようだ。こう猫の習癖を脱化して見ると三毛子 や黒 の事ばかり荷厄介にしている訳には行かん。やはり人間同等の気位 ( きぐらい ) で彼等の思想、言行を評隲 ( ひょうしつ ) したくなる。これも無理はあるまい。ただそのくらいな見識を有している吾輩をやはり一般猫児 ( びょうじ ) の毛の生 ( は ) えたものくらいに思って、主人が吾輩に一言 ( いちごん ) の挨拶もなく、吉備団子 ( きびだんご ) をわが物顔に喰い尽したのは残念の次第である。写真もまだ撮 ( と ) って送らぬ容子 ( ようす ) だ。これも不平と云えば不平だが、主人は主人、吾輩は吾輩で、相互の見解が自然異 ( こと ) なるのは致し方もあるまい。吾輩はどこまでも人間になりすましているのだから、交際をせぬ猫の動作は、どうしてもちょいと筆に上 ( のぼ ) りにくい。迷亭、寒月諸先生の評判だけで御免蒙 ( こうむ ) る事に致そう。
今日は上天気の日曜なので、主人はのそのそ書斎から出て来て、吾輩の傍 ( そば ) へ筆硯 ( ふですずり ) と原稿用紙を並べて腹這 ( はらばい ) になって、しきりに何か唸 ( うな ) っている。大方草稿を書き卸 ( おろ ) す序開 ( じょびら ) きとして妙な声を発するのだろうと注目していると、ややしばらくして筆太 ( ふでぶと ) に「香一炷 ( こういっしゅ ) 」とかいた。はてな詩になるか、俳句になるか、香一炷とは、主人にしては少し洒落 ( しゃれ ) 過ぎているがと思う間もなく、彼は香一炷を書き放しにして、新たに行 ( ぎょう ) を改めて「さっきから天然居士 ( てんねんこじ ) の事をかこうと考えている」と筆を走らせた。筆はそれだけではたと留ったぎり動かない。主人は筆を持って首を捻 ( ひね ) ったが別段名案もないものと見えて筆の穂を甞 ( な ) めだした。唇が真黒になったと見ていると、今度はその下へちょいと丸をかいた。丸の中へ点を二つうって眼をつける。真中へ小鼻の開いた鼻をかいて、真一文字に口を横へ引張った、これでは文章でも俳句でもない。主人も自分で愛想 ( あいそ ) が尽きたと見えて、そこそこに顔を塗り消してしまった。主人はまた行 ( ぎょう ) を改める。彼の考によると行さえ改めれば詩か賛か語か録か何 ( なん ) かになるだろうとただ宛 ( あて ) もなく考えているらしい。やがて「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋 ( やきいも ) を食い、鼻汁 ( はな ) を垂らす人である」と言文一致体で一気呵成 ( いっきかせい ) に書き流した、何となくごたごたした文章である。それから主人はこれを遠慮なく朗読して、いつになく「ハハハハ面白い」と笑ったが「鼻汁 ( はな ) を垂らすのは、ちと酷 ( こく ) だから消そう」とその句だけへ棒を引く。一本ですむところを二本引き三本引き、奇麗な併行線 ( へいこうせん ) を描 ( か ) く、線がほかの行 ( ぎょう ) まで食 ( は ) み出しても構わず引いている。線が八本並んでもあとの句が出来ないと見えて、今度は筆を捨てて髭 ( ひげ ) を捻 ( ひね ) って見る。文章を髭から捻り出して御覧に入れますと云う見幕 ( けんまく ) で猛烈に捻ってはねじ上げ、ねじ下ろしているところへ、茶の間から妻君 ( さいくん ) が出て来てぴたりと主人の鼻の先へ坐 ( す ) わる。「あなたちょっと」と呼ぶ。「なんだ」と主人は水中で銅鑼 ( どら ) を叩 ( たた ) くような声を出す。返事が気に入らないと見えて妻君はまた「あなたちょっと」と出直す。「なんだよ」と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。「今月はちっと足りませんが……」「足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん」とすまして抜き取った鼻毛を天下の奇観のごとく眺 ( なが ) めている。「それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭 ( パン ) を御食 ( おた ) べになったり、ジャムを御舐 ( おな ) めになるものですから」「元来ジャムは幾缶 ( いくかん ) 舐めたのかい」「今月は八つ入 ( い ) りましたよ」「八つ? そんなに舐めた覚えはない」「あなたばかりじゃありません、子供も舐めます」「いくら舐めたって五六円くらいなものだ」と主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体 ( てい ) で、ふっと吹いて見る。粘着力 ( ねんちゃくりょく ) が強いので決して飛ばない。「いやに頑固 ( がんこ ) だな」と主人は一生懸命に吹く。「ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない物もあります」と妻君は大 ( おおい ) に不平な気色 ( けしき ) を両頬に漲 ( みなぎ ) らす。「あるかも知れないさ」と主人はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が交 ( まじ ) る中に一本真白なのがある。大に驚いた様子で穴の開 ( あ ) くほど眺めていた主人は指の股へ挟んだまま、その鼻毛を妻君の顔の前へ出す。「あら、いやだ」と妻君は顔をしかめて、主人の手を突き戻す。「ちょっと見ろ、鼻毛の白髪 ( しらが ) だ」と主人は大に感動した様子である。さすがの妻君も笑いながら茶の間へ這入 ( はい ) る。経済問題は断念したらしい。主人はまた天然居士 ( てんねんこじ ) に取り懸 ( かか ) る。
鼻毛で妻君を追払った主人は、まずこれで安心と云わぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうと焦 ( あせ ) る体 ( てい ) であるがなかなか筆は動かない。「焼芋を食う も蛇足 ( だそく ) だ、割愛 ( かつあい ) しよう」とついにこの句も抹殺 ( まっさつ ) する。「香一炷 もあまり唐突 ( とうとつ ) だから已 ( や ) めろ」と惜気もなく筆誅 ( ひっちゅう ) する。余す所は「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」と云う一句になってしまった。主人はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は御廃 ( おはい ) しにして、銘だけにしろと、筆を十文字に揮 ( ふる ) って原稿紙の上へ下手な文人画の蘭を勢よくかく。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。それから裏を返して「空間に生れ、空間を究 ( きわ ) め、空間に死す。空たり間たり天然居士 ( てんねんこじ ) 噫 ( ああ ) 」と意味不明な語を連 ( つら ) ねているところへ例のごとく迷亭が這入 ( はい ) って来る。迷亭は人の家 ( うち ) も自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から飄然 ( ひょうぜん ) と舞い込む事もある、心配、遠慮、気兼 ( きがね ) 、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。
「また巨人引力 かね」と立ったまま主人に聞く。「そう、いつでも巨人引力 ばかり書いてはおらんさ。天然居士 の墓銘を撰 ( せん ) しているところなんだ」と大袈裟 ( おおげさ ) な事を云う。「天然居士 と云うなあやはり偶然童子 のような戒名かね」と迷亭は不相変 ( あいかわらず ) 出鱈目 ( でたらめ ) を云う。「偶然童子 と云うのもあるのかい」「なに有りゃしないがまずその見当 ( けんとう ) だろうと思っていらあね」「偶然童子 と云うのは僕の知ったものじゃないようだが天然居士 と云うのは、君の知ってる男だぜ」「一体だれが天然居士 なんて名を付けてすましているんだい」「例の曾呂崎 ( そろさき ) の事だ。卒業して大学院へ這入って空間論 と云う題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。曾呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」「親友でもいいさ、決して悪いと云やしない。しかしその曾呂崎を天然居士に変化させたのは一体誰の所作 ( しょさ ) だい」「僕さ、僕がつけてやったんだ。元来坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな」と天然居士はよほど雅 ( が ) な名のように自慢する。迷亭は笑いながら「まあその墓碑銘 ( ぼひめい ) と云う奴を見せ給え」と原稿を取り上げて「何だ……空間に生れ、空間を究 ( きわ ) め、空間に死す。空たり間たり天然居士噫 ( ああ ) 」と大きな声で読み上 ( あげ ) る。「なるほどこりゃあ善 ( い ) い、天然居士相当のところだ」主人は嬉しそうに「善いだろう」と云う。「この墓銘 ( ぼめい ) を沢庵石 ( たくあんいし ) へ彫 ( ほ ) り付けて本堂の裏手へ力石 ( ちからいし ) のように抛 ( ほう ) り出して置くんだね。雅 ( が ) でいいや、天然居士も浮かばれる訳だ」「僕もそうしようと思っているのさ」と主人は至極 ( しごく ) 真面目に答えたが「僕あちょっと失敬するよ、じき帰るから猫にでもからかっていてくれ給え」と迷亭の返事も待たず風然 ( ふうぜん ) と出て行く。
計らずも迷亭先生の接待掛りを命ぜられて無愛想 ( ぶあいそ ) な顔もしていられないから、ニャーニャーと愛嬌 ( あいきょう ) を振り蒔 ( ま ) いて膝 ( ひざ ) の上へ這 ( は ) い上 ( あが ) って見た。すると迷亭は「イヨー大分 ( だいぶ ) 肥 ( ふと ) ったな、どれ」と無作法 ( ぶさほう ) にも吾輩の襟髪 ( えりがみ ) を攫 ( つか ) んで宙へ釣るす。「あと足をこうぶら下げては、鼠 ( ねずみ ) は取れそうもない、……どうです奥さんこの猫は鼠を捕りますかね」と吾輩ばかりでは不足だと見えて、隣りの室 ( へや ) の妻君に話しかける。「鼠どころじゃございません。御雑煮 ( おぞうに ) を食べて踊りをおどるんですもの」と妻君は飛んだところで旧悪を暴 ( あば ) く。吾輩は宙乗 ( ちゅうの ) りをしながらも少々極りが悪かった。迷亭はまだ吾輩を卸 ( おろ ) してくれない。「なるほど踊りでもおどりそうな顔だ。奥さんこの猫は油断のならない相好 ( そうごう ) ですぜ。昔 ( むか ) しの草双紙 ( くさぞうし ) にある猫又 ( ねこまた ) に似ていますよ」と勝手な事を言いながら、しきりに細君 ( さいくん ) に話しかける。細君は迷惑そうに針仕事の手をやめて座敷へ出てくる。
「どうも御退屈様、もう帰りましょう」と茶を注 ( つ ) ぎ易 ( か ) えて迷亭の前へ出す。「どこへ行ったんですかね」「どこへ参るにも断わって行った事の無い男ですから分りかねますが、大方御医者へでも行ったんでしょう」「甘木さんですか、甘木さんもあんな病人に捕 ( つら ) まっちゃ災難ですな」「へえ」と細君は挨拶のしようもないと見えて簡単な答えをする。迷亭は一向 ( いっこう ) 頓着しない。「近頃はどうです、少しは胃の加減が能 ( い ) いんですか」「能 ( い ) いか悪いか頓 ( とん ) と分りません、いくら甘木さんにかかったって、あんなにジャムばかり甞 ( な ) めては胃病の直る訳がないと思います」と細君は先刻 ( せんこく ) の不平を暗 ( あん ) に迷亭に洩 ( も ) らす。「そんなにジャムを甞めるんですかまるで小供のようですね」「ジャムばかりじゃないんで、この頃は胃病の薬だとか云って大根卸 ( だいこおろ ) しを無暗 ( むやみ ) に甞めますので……」「驚ろいたな」と迷亭は感嘆する。「何でも大根卸 ( だいこおろし ) の中にはジヤスターゼが有るとか云う話しを新聞で読んでからです」「なるほどそれでジャムの損害を償 ( つぐな ) おうと云う趣向ですな。なかなか考えていらあハハハハ」と迷亭は細君の訴 ( うったえ ) を聞いて大 ( おおい ) に愉快な気色 ( けしき ) である。「この間などは赤ん坊にまで甞めさせまして……」「ジャムをですか」「いいえ大根卸 ( だいこおろし ) を……あなた。坊や御父様がうまいものをやるからおいでてって、——たまに小供を可愛がってくれるかと思うとそんな馬鹿な事ばかりするんです。二三日前 ( にさんちまえ ) には中の娘を抱いて箪笥 ( たんす ) の上へあげましてね……」「どう云う趣向がありました」と迷亭は何を聞いても趣向ずくめに解釈する。「なに趣向も何も有りゃしません、ただその上から飛び下りて見ろと云うんですわ、三つや四つの女の子ですもの、そんな御転婆 ( おてんば ) な事が出来るはずがないです」「なるほどこりゃ趣向が無さ過ぎましたね。しかしあれで腹の中は毒のない善人ですよ」「あの上腹の中に毒があっちゃ、辛防 ( しんぼう ) は出来ませんわ」と細君は大 ( おおい ) に気焔 ( きえん ) を揚げる。「まあそんなに不平を云わんでも善いでさあ。こうやって不足なくその日その日が暮らして行かれれば上 ( じょう ) の分 ( ぶん ) ですよ。苦沙弥君 ( くしゃみくん ) などは道楽はせず、服装にも構わず、地味に世帯向 ( しょたいむ ) きに出来上った人でさあ」と迷亭は柄 ( がら ) にない説教を陽気な調子でやっている。「ところがあなた大違いで……」「何か内々でやりますかね。油断のならない世の中だからね」と飄然 ( ひょうぜん ) とふわふわした返事をする。「ほかの道楽はないですが、無暗 ( むやみ ) に読みもしない本ばかり買いましてね。それも善い加減に見計 ( みはか ) らって買ってくれると善いんですけれど、勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取って来て、月末になると知らん顔をしているんですもの、去年の暮なんか、月々のが溜 ( たま ) って大変困りました」「なあに書物なんか取って来るだけ取って来て構わんですよ。払いをとりに来たら今にやる今にやると云っていりゃ帰ってしまいまさあ」「それでも、そういつまでも引張る訳にも参りませんから」と妻君は憮然 ( ぶぜん ) としている。「それじゃ、訳を話して書籍費 ( しょじゃくひ ) を削減させるさ」「どうして、そんな言 ( こと ) を云ったって、なかなか聞くものですか、この間などは貴様は学者の妻 ( さい ) にも似合わん、毫 ( ごう ) も書籍 ( しょじゃく ) の価値を解しておらん、昔 ( むか ) し羅馬 ( ローマ ) にこう云う話しがある。後学のため聞いておけと云うんです」「そりゃ面白い、どんな話しですか」迷亭は乗気になる。細君に同情を表しているというよりむしろ好奇心に駆 ( か ) られている。「何んでも昔し羅馬 ( ローマ ) に樽金 ( たるきん ) とか云う王様があって……」「樽金 ( たるきん ) ? 樽金はちと妙ですぜ」「私は唐人 ( とうじん ) の名なんかむずかしくて覚えられませんわ。何でも七代目なんだそうです」「なるほど七代目樽金は妙ですな。ふんその七代目樽金がどうかしましたかい」「あら、あなたまで冷かしては立つ瀬がありませんわ。知っていらっしゃるなら教えて下さればいいじゃありませんか、人の悪い」と、細君は迷亭へ食って掛る。「何冷かすなんて、そんな人の悪い事をする僕じゃない。ただ七代目樽金は振 ( ふる ) ってると思ってね……ええお待ちなさいよ羅馬 ( ローマ ) の七代目の王様ですね、こうっとたしかには覚えていないがタークイン・ゼ・プラウドの事でしょう。まあ誰でもいい、その王様がどうしました」「その王様の所へ一人の女が本を九冊持って来て買ってくれないかと云ったんだそうです」「なるほど」「王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高い事を云うんですって、あまり高いもんだから少し負けないかと云うとその女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべて焚 ( や ) いてしまったそうです」「惜しい事をしましたな」「その本の内には予言か何かほかで見られない事が書いてあるんですって」「へえー」「王様は九冊が六冊になったから少しは価 ( ね ) も減ったろうと思って六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通り一文も引かないそうです、それは乱暴だと云うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。王様はまだ未練があったと見えて、余った三冊をいくらで売ると聞くと、やはり九冊分のねだんをくれと云うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても代価は、元の通り一厘も引かない、それを引かせようとすると、残ってる三冊も火にくべるかも知れないので、王様はとうとう高い御金を出して焚 ( や ) け余 ( あま ) りの三冊を買ったんですって……どうだこの話しで少しは書物のありがた味 ( み ) が分ったろう、どうだと力味 ( りき ) むのですけれど、私にゃ何がありがたいんだか、まあ分りませんね」と細君は一家の見識を立てて迷亭の返答を促 ( うな ) がす。さすがの迷亭も少々窮したと見えて、袂 ( たもと ) からハンケチを出して吾輩をじゃらしていたが「しかし奥さん」と急に何か考えついたように大きな声を出す。「あんなに本を買って矢鱈 ( やたら ) に詰め込むものだから人から少しは学者だとか何とか云われるんですよ。この間ある文学雑誌を見たら苦沙弥君 ( くしゃみくん ) の評が出ていましたよ」「ほんとに?」と細君は向き直る。主人の評判が気にかかるのは、やはり夫婦と見える。「何とかいてあったんです」「なあに二三行ばかりですがね。苦沙弥君の文は行雲流水 ( こううんりゅうすい ) のごとしとありましたよ」細君は少しにこにこして「それぎりですか」「その次にね——出ずるかと思えば忽 ( たちま ) ち消え、逝 ( ゆ ) いては長 ( とこしな ) えに帰るを忘るとありましたよ」細君は妙な顔をして「賞 ( ほ ) めたんでしょうか」と心元ない調子である。「まあ賞めた方でしょうな」と迷亭は済ましてハンケチを吾輩の眼の前にぶら下げる。「書物は商買道具で仕方もござんすまいが、よっぽど偏屈 ( へんくつ ) でしてねえ」迷亭はまた別途の方面から来たなと思って「偏屈は少々偏屈ですね、学問をするものはどうせあんなですよ」と調子を合わせるような弁護をするような不即不離の妙答をする。「せんだってなどは学校から帰ってすぐわきへ出るのに着物を着換えるのが面倒だものですから、あなた外套 ( がいとう ) も脱がないで、机へ腰を掛けて御飯を食べるのです。御膳 ( おぜん ) を火燵櫓 ( こたつやぐら ) の上へ乗せまして——私は御櫃 ( おはち ) を抱 ( かか ) えて坐っておりましたがおかしくって……」「何だかハイカラの首実検のようですな。しかしそんなところが苦沙弥君の苦沙弥君たるところで——とにかく月並 ( つきなみ ) でない」と切 ( せつ ) ない褒 ( ほ ) め方をする。「月並か月並でないか女には分りませんが、なんぼ何でも、あまり乱暴ですわ」「しかし月並より好いですよ」と無暗に加勢すると細君は不満な様子で「一体、月並月並と皆さんが、よくおっしゃいますが、どんなのが月並なんです」と開き直って月並の定義を質問する、「月並ですか、月並と云うと——さようちと説明しにくいのですが……」「そんな曖昧 ( あいまい ) なものなら月並だって好さそうなものじゃありませんか」と細君は女人 ( にょにん ) 一流の論理法で詰め寄せる。「曖昧じゃありませんよ、ちゃんと分っています、ただ説明しにくいだけの事でさあ」「何でも自分の嫌いな事を月並と云うんでしょう」と細君は我 ( われ ) 知らず穿 ( うが ) った事を云う。迷亭もこうなると何とか月並の処置を付けなければならぬ仕儀となる。「奥さん、月並と云うのはね、まず年は二八か二九からぬ と言わず語らず物思い の間 ( あいだ ) に寝転んでいて、この日や天気晴朗 とくると必ず一瓢を携えて墨堤に遊ぶ 連中 ( れんじゅう ) を云うんです」「そんな連中があるでしょうか」と細君は分らんものだから好 ( いい ) 加減な挨拶をする。「何だかごたごたして私には分りませんわ」とついに我 ( が ) を折る。「それじゃ馬琴 ( ばきん ) の胴へメジョオ・ペンデニスの首をつけて一二年欧州の空気で包んでおくんですね」「そうすると月並が出来るでしょうか」迷亭は返事をしないで笑っている。「何そんな手数 ( てすう ) のかかる事をしないでも出来ます。中学校の生徒に白木屋の番頭を加えて二で割ると立派な月並が出来上ります」「そうでしょうか」と細君は首を捻 ( ひね ) ったまま納得 ( なっとく ) し兼ねたと云う風情 ( ふぜい ) に見える。
「君まだいるのか」と主人はいつの間 ( ま ) にやら帰って来て迷亭の傍 ( そば ) へ坐 ( す ) わる。「まだいるのかはちと酷 ( こく ) だな、すぐ帰るから待ってい給えと言ったじゃないか」「万事あれなんですもの」と細君は迷亭を顧 ( かえり ) みる。「今君の留守中に君の逸話を残らず聞いてしまったぜ」「女はとかく多弁でいかん、人間もこの猫くらい沈黙を守るといいがな」と主人は吾輩の頭を撫 ( な ) でてくれる。「君は赤ん坊に大根卸 ( だいこおろ ) しを甞 ( な ) めさしたそうだな」「ふむ」と主人は笑ったが「赤ん坊でも近頃の赤ん坊はなかなか利口だぜ。それ以来、坊や辛 ( から ) いのはどこと聞くときっと舌を出すから妙だ」「まるで犬に芸を仕込む気でいるから残酷だ。時に寒月 ( かんげつ ) はもう来そうなものだな」「寒月が来るのかい」と主人は不審な顔をする。「来るんだ。午後一時までに苦沙弥 ( くしゃみ ) の家 ( うち ) へ来いと端書 ( はがき ) を出しておいたから」「人の都合も聞かんで勝手な事をする男だ。寒月を呼んで何をするんだい」「なあに今日のはこっちの趣向じゃない寒月先生自身の要求さ。先生何でも理学協会で演説をするとか云うのでね。その稽古をやるから僕に聴いてくれと云うから、そりゃちょうどいい苦沙弥にも聞かしてやろうと云うのでね。そこで君の家 ( うち ) へ呼ぶ事にしておいたのさ——なあに君はひま人だからちょうどいいやね——差支 ( さしつか ) えなんぞある男じゃない、聞くがいいさ」と迷亭は独 ( ひと ) りで呑み込んでいる。「物理学の演説なんか僕にゃ分らん」と主人は少々迷亭の専断 ( せんだん ) を憤 ( いきどお ) ったもののごとくに云う。「ところがその問題がマグネ付けられたノッズルについてなどと云う乾燥無味なものじゃないんだ。首縊りの力学 と云う脱俗超凡 ( だつぞくちょうぼん ) な演題なのだから傾聴する価値があるさ」「君は首を縊 ( くく ) り損 ( そ ) くなった男だから傾聴するが好いが僕なんざあ……」「歌舞伎座で悪寒 ( おかん ) がするくらいの人間だから聞かれないと云う結論は出そうもないぜ」と例のごとく軽口を叩く。妻君はホホと笑って主人を顧 ( かえり ) みながら次の間へ退く。主人は無言のまま吾輩の頭を撫 ( な ) でる。この時のみは非常に丁寧な撫で方であった。
それから約七分くらいすると注文通り寒月君が来る。今日は晩に演舌 ( えんぜつ ) をするというので例になく立派なフロックを着て、洗濯し立ての白襟 ( カラー ) を聳 ( そび ) やかして、男振りを二割方上げて、「少し後 ( おく ) れまして」と落ちつき払って、挨拶をする。「さっきから二人で大待ちに待ったところなんだ。早速願おう、なあ君」と主人を見る。主人もやむを得ず「うむ」と生返事 ( なまへんじ ) をする。寒月君はいそがない。「コップへ水を一杯頂戴しましょう」と云う。「いよー本式にやるのか次には拍手の請求とおいでなさるだろう」と迷亭は独りで騒ぎ立てる。寒月君は内隠 ( うちがく ) しから草稿を取り出して徐 ( おもむ ) ろに「稽古ですから、御遠慮なく御批評を願います」と前置をして、いよいよ演舌の御浚 ( おさら ) いを始める。
「罪人を絞罪 ( こうざい ) の刑に処すると云う事は重 ( おも ) にアングロサクソン民族間に行われた方法でありまして、それより古代に溯 ( さかのぼ ) って考えますと首縊 ( くびくく ) りは重に自殺の方法として行われた者であります。猶太人中 ( ユダヤじんちゅう ) に在 ( あ ) っては罪人を石を抛 ( な ) げつけて殺す習慣であったそうでございます。旧約全書を研究して見ますといわゆるハンギングなる語は罪人の死体を釣るして野獣または肉食鳥の餌食 ( えじき ) とする意義と認められます。ヘロドタスの説に従って見ますと猶太人 ( ユダヤじん ) はエジプトを去る以前から夜中 ( やちゅう ) 死骸を曝 ( さら ) されることを痛く忌 ( い ) み嫌ったように思われます。エジプト人は罪人の首を斬って胴だけを十字架に釘付 ( くぎづ ) けにして夜中曝し物にしたそうで御座います。波斯人 ( ペルシャじん ) は……」「寒月君首縊りと縁がだんだん遠くなるようだが大丈夫かい」と迷亭が口を入れる。「これから本論に這入 ( はい ) るところですから、少々御辛防 ( ごしんぼう ) を願います。……さて波斯人はどうかと申しますとこれもやはり処刑には磔 ( はりつけ ) を用いたようでございます。但し生きているうちに張付 ( はりつ ) けに致したものか、死んでから釘を打ったものかその辺 ( へん ) はちと分りかねます……」「そんな事は分らんでもいいさ」と主人は退屈そうに欠伸 ( あくび ) をする。「まだいろいろ御話し致したい事もございますが、御迷惑であらっしゃいましょうから……」「あらっしゃいましょうより、いらっしゃいましょうの方が聞きいいよ、ねえ苦沙弥君 ( くしゃみくん ) 」とまた迷亭が咎 ( とが ) め立 ( だて ) をすると主人は「どっちでも同じ事だ」と気のない返事をする。「さていよいよ本題に入りまして弁じます」「弁じます なんか講釈師の云い草だ。演舌家はもっと上品な詞 ( ことば ) を使って貰いたいね」と迷亭先生また交 ( ま ) ぜ返す。「弁じます が下品なら何と云ったらいいでしょう」と寒月君は少々むっとした調子で問いかける。「迷亭のは聴いているのか、交 ( ま ) ぜ返しているのか判然しない。寒月君そんな弥次馬 ( やじうま ) に構わず、さっさとやるが好い」と主人はなるべく早く難関を切り抜けようとする。「むっとして弁じましたる柳かな、かね」と迷亭はあいかわらず飄然 ( ひょうぜん ) たる事を云う。寒月は思わず吹き出す。「真に処刑として絞殺を用いましたのは、私の調べました結果によりますると、オディセーの二十二巻目に出ております。即 ( すなわ ) ち彼 ( か ) のテレマカスがペネロピーの十二人の侍女を絞殺するという条 ( くだ ) りでございます。希臘語 ( ギリシャご ) で本文を朗読しても宜 ( よろ ) しゅうございますが、ちと衒 ( てら ) うような気味にもなりますからやめに致します。四百六十五行から、四百七十三行を御覧になると分ります」「希臘語云々 ( うんぬん ) はよした方がいい、さも希臘語が出来ますと云わんばかりだ、ねえ苦沙弥君」「それは僕も賛成だ、そんな物欲しそうな事は言わん方が奥床 ( おくゆか ) しくて好い」と主人はいつになく直ちに迷亭に加担する。両人 ( りょうにん ) は毫 ( ごう ) も希臘語が読めないのである。「それではこの両三句は今晩抜く事に致しまして次を弁じ——ええ申し上げます。
この絞殺を今から想像して見ますと、これを執行するに二つの方法があります。第一は、彼 ( か ) のテレマカスがユーミアス及びフㇶリーシャスの援 ( たすけ ) を藉 ( か ) りて縄の一端を柱へ括 ( くく ) りつけます。そしてその縄の所々へ結び目を穴に開けてこの穴へ女の頭を一つずつ入れておいて、片方の端 ( はじ ) をぐいと引張って釣し上げたものと見るのです」「つまり西洋洗濯屋のシャツのように女がぶら下ったと見れば好いんだろう」「その通りで、それから第二は縄の一端を前のごとく柱へ括 ( くく ) り付けて他の一端も始めから天井へ高く釣るのです。そしてその高い縄から何本か別の縄を下げて、それに結び目の輪になったのを付けて女の頸 ( くび ) を入れておいて、いざと云う時に女の足台を取りはずすと云う趣向なのです」「たとえて云うと縄暖簾 ( なわのれん ) の先へ提灯玉 ( ちょうちんだま ) を釣したような景色 ( けしき ) と思えば間違はあるまい」「提灯玉と云う玉は見た事がないから何とも申されませんが、もしあるとすればその辺 ( へん ) のところかと思います。——それでこれから力学的に第一の場合は到底成立すべきものでないと云う事を証拠立てて御覧に入れます」「面白いな」と迷亭が云うと「うん面白い」と主人も一致する。
「まず女が同距離に釣られると仮定します。また一番地面に近い二人の女の首と首を繋 ( つな ) いでいる縄はホリゾンタルと仮定します。そこでα1 α2 ……α6 を縄が地平線と形づくる角度とし、T1 T2 ……T6 を縄の各部が受ける力と見做 ( みな ) し、T7 =Xは縄のもっとも低い部分の受ける力とします。Wは勿論 ( もちろん ) 女の体重と御承知下さい。どうです御分りになりましたか」
迷亭と主人は顔を見合せて「大抵分った」と云う。但しこの大抵と云う度合は両人 ( りょうにん ) が勝手に作ったのだから他人の場合には応用が出来ないかも知れない。「さて多角形に関する御存じの平均性理論によりますと、下 ( しも ) のごとく十二の方程式が立ちます。T1 cosα1 =T2 cosα2 …… (1) T2 cosα2 =T3 cosα3 …… (2) ……」「方程式はそのくらいで沢山だろう」と主人は乱暴な事を云う。「実はこの式が演説の首脳なんですが」と寒月君ははなはだ残り惜し気に見える。「それじゃ首脳だけは逐 ( お ) って伺う事にしようじゃないか」と迷亭も少々恐縮の体 ( てい ) に見受けられる。「この式を略してしまうとせっかくの力学的研究がまるで駄目になるのですが……」「何そんな遠慮はいらんから、ずんずん略すさ……」と主人は平気で云う。「それでは仰せに従って、無理ですが略しましょう」「それがよかろう」と迷亭が妙なところで手をぱちぱちと叩く。
「それから英国へ移って論じますと、ベオウルフの中に絞首架 ( こうしゅか ) 即 ( すなわ ) ちガルガと申す字が見えますから絞罪の刑はこの時代から行われたものに違ないと思われます。ブラクストーンの説によるともし絞罪に処せられる罪人が、万一縄の具合で死に切れぬ時は再度 ( ふたたび ) 同様の刑罰を受くべきものだとしてありますが、妙な事にはピヤース・プローマンの中には仮令 ( たとい ) 兇漢でも二度絞 ( し ) める法はないと云う句があるのです。まあどっちが本当か知りませんが、悪くすると一度で死ねない事が往々実例にあるので。千七百八十六年に有名なフㇶツ・ゼラルドと云う悪漢を絞めた事がありました。ところが妙なはずみで一度目には台から飛び降りるときに縄が切れてしまったのです。またやり直すと今度は縄が長過ぎて足が地面へ着いたのでやはり死ねなかったのです。とうとう三返目に見物人が手伝って往生 ( おうじょう ) さしたと云う話しです」「やれやれ」と迷亭はこんなところへくると急に元気が出る。「本当に死に損 ( ぞこな ) いだな」と主人まで浮かれ出す。「まだ面白い事があります首を縊 ( くく ) ると背 ( せい ) が一寸 ( いっすん ) ばかり延びるそうです。これはたしかに医者が計って見たのだから間違はありません」「それは新工夫だね、どうだい苦沙弥 ( くしゃみ ) などはちと釣って貰っちゃあ、一寸延びたら人間並になるかも知れないぜ」と迷亭が主人の方を向くと、主人は案外真面目で「寒月君、一寸くらい背 ( せい ) が延びて生き返る事があるだろうか」と聞く。「それは駄目に極 ( きま ) っています。釣られて脊髄 ( せきずい ) が延びるからなんで、早く云うと背が延びると云うより壊 ( こわ ) れるんですからね」「それじゃ、まあ止 ( や ) めよう」と主人は断念する。
演説の続きは、まだなかなか長くあって寒月君は首縊りの生理作用にまで論及するはずでいたが、迷亭が無暗に風来坊 ( ふうらいぼう ) のような珍語を挟 ( はさ ) むのと、主人が時々遠慮なく欠伸 ( あくび ) をするので、ついに中途でやめて帰ってしまった。その晩は寒月君がいかなる態度で、いかなる雄弁を振 ( ふる ) ったか遠方で起った出来事の事だから吾輩には知れよう訳がない。
二三日 ( にさんち ) は事もなく過ぎたが、或る日の午後二時頃また迷亭先生は例のごとく空々 ( くうくう ) として偶然童子のごとく舞い込んで来た。座に着くと、いきなり「君、越智東風 ( おちとうふう ) の高輪事件 ( たかなわじけん ) を聞いたかい」と旅順陥落の号外を知らせに来たほどの勢を示す。「知らん、近頃は合 ( あ ) わんから」と主人は平生 ( いつも ) の通り陰気である。「きょうはその東風子 ( とうふうし ) の失策物語を御報道に及ぼうと思って忙しいところをわざわざ来たんだよ」「またそんな仰山 ( ぎょうさん ) な事を云う、君は全体不埒 ( ふらち ) な男だ」「ハハハハハ不埒と云わんよりむしろ無埒 ( むらち ) の方だろう。それだけはちょっと区別しておいて貰わんと名誉に関係するからな」「おんなし事だ」と主人は嘯 ( うそぶ ) いている。純然たる天然居士の再来だ。「この前の日曜に東風子 ( とうふうし ) が高輪泉岳寺 ( たかなわせんがくじ ) に行ったんだそうだ。この寒いのによせばいいのに——第一今時 ( いまどき ) 泉岳寺などへ参るのはさも東京を知らない、田舎者 ( いなかもの ) のようじゃないか」「それは東風の勝手さ。君がそれを留める権利はない」「なるほど権利は正 ( まさ ) にない。権利はどうでもいいが、あの寺内に義士遺物保存会と云う見世物があるだろう。君知ってるか」「うんにゃ」「知らない? だって泉岳寺へ行った事はあるだろう」「いいや」「ない? こりゃ驚ろいた。道理で大変東風を弁護すると思った。江戸っ子が泉岳寺を知らないのは情 ( なさ ) けない」「知らなくても教師は務 ( つと ) まるからな」と主人はいよいよ天然居士になる。「そりゃ好いが、その展覧場へ東風が這入 ( はい ) って見物していると、そこへ独逸人 ( ドイツじん ) が夫婦連 ( づれ ) で来たんだって。それが最初は日本語で東風に何か質問したそうだ。ところが先生例の通り独逸語が使って見たくてたまらん男だろう。そら二口三口べらべらやって見たとさ。すると存外うまく出来たんだ——あとで考えるとそれが災 ( わざわい ) の本 ( もと ) さね」「それからどうした」と主人はついに釣り込まれる。「独逸人が大鷹源吾 ( おおたかげんご ) の蒔絵 ( まきえ ) の印籠 ( いんろう ) を見て、これを買いたいが売ってくれるだろうかと聞くんだそうだ。その時東風の返事が面白いじゃないか、日本人は清廉の君子 ( くんし ) ばかりだから到底 ( とうてい ) 駄目だと云ったんだとさ。その辺は大分 ( だいぶ ) 景気がよかったが、それから独逸人の方では恰好 ( かっこう ) な通弁を得たつもりでしきりに聞くそうだ」「何を?」「それがさ、何だか分るくらいなら心配はないんだが、早口で無暗 ( むやみ ) に問い掛けるものだから少しも要領を得ないのさ。たまに分るかと思うと鳶口 ( とびぐち ) や掛矢 の事を聞かれる。西洋の鳶口や掛矢 は先生何と翻訳して善いのか習った事が無いんだから弱 ( よ ) わらあね」「もっともだ」と主人は教師の身の上に引き較 ( くら ) べて同情を表する。「ところへ閑人 ( ひまじん ) が物珍しそうにぽつぽつ集ってくる。仕舞 ( しまい ) には東風と独逸人を四方から取り巻いて見物する。東風は顔を赤くしてへどもどする。初めの勢に引き易 ( か ) えて先生大弱りの体 ( てい ) さ」「結局どうなったんだい」「仕舞に東風が我慢出来なくなったと見えてさいなら と日本語で云ってぐんぐん帰って来たそうだ、さいなら は少し変だ君の国ではさよなら をさいなら と云うかって聞いて見たら何やっぱりさよなら ですが相手が西洋人だから調和を計るために、さいなら にしたんだって、東風子は苦しい時でも調和を忘れない男だと感心した」「さいならはいいが西洋人はどうした」「西洋人はあっけに取られて茫然 ( ぼうぜん ) と見ていたそうだハハハハ面白いじゃないか」「別段面白い事もないようだ。それをわざわざ報知 ( しらせ ) に来る君の方がよっぽど面白いぜ」と主人は巻煙草 ( まきたばこ ) の灰を火桶 ( ひおけ ) の中へはたき落す。折柄 ( おりから ) 格子戸のベルが飛び上るほど鳴って「御免なさい」と鋭どい女の声がする。迷亭と主人は思わず顔を見合わせて沈黙する。
主人のうちへ女客は稀有 ( けう ) だなと見ていると、かの鋭どい声の所有主は縮緬 ( ちりめん ) の二枚重ねを畳へ擦 ( す ) り付けながら這入 ( はい ) って来る。年は四十の上を少し超 ( こ ) したくらいだろう。抜け上った生 ( は ) え際 ( ぎわ ) から前髪が堤防工事のように高く聳 ( そび ) えて、少なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向ってせり出している。眼が切り通しの坂くらいな勾配 ( こうばい ) で、直線に釣るし上げられて左右に対立する。直線とは鯨 ( くじら ) より細いという形容である。鼻だけは無暗に大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真中へ据 ( す ) え付けたように見える。三坪ほどの小庭へ招魂社 ( しょうこんしゃ ) の石灯籠 ( いしどうろう ) を移した時のごとく、独 ( ひと ) りで幅を利かしているが、何となく落ちつかない。その鼻はいわゆる鍵鼻 ( かぎばな ) で、ひと度 ( たび ) は精一杯高くなって見たが、これではあんまりだと中途から謙遜 ( けんそん ) して、先の方へ行くと、初めの勢に似ず垂れかかって、下にある唇を覗 ( のぞ ) き込んでいる。かく著 ( いちじ ) るしい鼻だから、この女が物を言うときは口が物を言うと云わんより、鼻が口をきいているとしか思われない。吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの女を称して鼻子 ( はなこ ) 鼻子と呼ぶつもりである。鼻子は先ず初対面の挨拶を終って「どうも結構な御住居 ( おすまい ) ですこと」と座敷中を睨 ( ね ) め廻わす。主人は「嘘をつけ」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか煙草 ( たばこ ) をふかす。迷亭は天井を見ながら「君、ありゃ雨洩 ( あまも ) りか、板の木目 ( もくめ ) か、妙な模様が出ているぜ」と暗に主人を促 ( うな ) がす。「無論雨の洩りさ」と主人が答えると「結構だなあ」と迷亭がすまして云う。鼻子は社交を知らぬ人達だと腹の中で憤 ( いきどお ) る。しばらくは三人鼎坐 ( ていざ ) のまま無言である。
「ちと伺いたい事があって、参ったんですが」と鼻子は再び話の口を切る。「はあ」と主人が極めて冷淡に受ける。これではならぬと鼻子は、「実は私はつい御近所で——あの向う横丁の角屋敷 ( かどやしき ) なんですが」「あの大きな西洋館の倉のあるうちですか、道理であすこには金田 ( かねだ ) と云う標札 ( ひょうさつ ) が出ていますな」と主人はようやく金田の西洋館と、金田の倉を認識したようだが金田夫人に対する尊敬の度合 ( どあい ) は前と同様である。「実は宿 ( やど ) が出まして、御話を伺うんですが会社の方が大変忙がしいもんですから」と今度は少し利 ( き ) いたろうという眼付をする。主人は一向 ( いっこう ) 動じない。鼻子の先刻 ( さっき ) からの言葉遣いが初対面の女としてはあまり存在 ( ぞんざい ) 過ぎるのですでに不平なのである。「会社でも一つじゃ無いんです、二つも三つも兼ねているんです。それにどの会社でも重役なんで——多分御存知でしょうが」これでも恐れ入らぬかと云う顔付をする。元来ここの主人は博士 とか大学教授 とかいうと非常に恐縮する男であるが、妙な事には実業家に対する尊敬の度は極めて低い。実業家よりも中学校の先生の方がえらいと信じている。よし信じておらんでも、融通の利かぬ性質として、到底実業家、金満家の恩顧を蒙 ( こうむ ) る事は覚束 ( おぼつか ) ないと諦 ( あき ) らめている。いくら先方が勢力家でも、財産家でも、自分が世話になる見込のないと思い切った人の利害には極めて無頓着である。それだから学者社会を除いて他の方面の事には極めて迂濶 ( うかつ ) で、ことに実業界などでは、どこに、だれが何をしているか一向知らん。知っても尊敬畏服の念は毫 ( ごう ) も起らんのである。鼻子の方では天 ( あめ ) が下 ( した ) の一隅にこんな変人がやはり日光に照らされて生活していようとは夢にも知らない。今まで世の中の人間にも大分 ( だいぶ ) 接して見たが、金田の妻 ( さい ) ですと名乗って、急に取扱いの変らない場合はない、どこの会へ出ても、どんな身分の高い人の前でも立派に金田夫人で通して行かれる、いわんやこんな燻 ( くすぶ ) り返った老書生においてをやで、私 ( わたし ) の家 ( うち ) は向う横丁の角屋敷 ( かどやしき ) ですとさえ云えば職業などは聞かぬ先から驚くだろうと予期していたのである。
「金田って人を知ってるか」と主人は無雑作 ( むぞうさ ) に迷亭に聞く。「知ってるとも、金田さんは僕の伯父の友達だ。この間なんざ園遊会へおいでになった」と迷亭は真面目な返事をする。「へえ、君の伯父さんてえな誰だい」「牧山男爵 ( まきやまだんしゃく ) さ」と迷亭はいよいよ真面目である。主人が何か云おうとして云わぬ先に、鼻子は急に向き直って迷亭の方を見る。迷亭は大島紬 ( おおしまつむぎ ) に古渡更紗 ( こわたりさらさ ) か何か重ねてすましている。「おや、あなたが牧山様の——何でいらっしゃいますか、ちっとも存じませんで、はなはだ失礼を致しました。牧山様には始終御世話になると、宿 ( やど ) で毎々御噂 ( おうわさ ) を致しております」と急に叮嚀 ( ていねい ) な言葉使をして、おまけに御辞儀までする、迷亭は「へええ何、ハハハハ」と笑っている。主人はあっ気 ( け ) に取られて無言で二人を見ている。「たしか娘の縁辺 ( えんぺん ) の事につきましてもいろいろ牧山さまへ御心配を願いましたそうで……」「へえー、そうですか」とこればかりは迷亭にもちと唐突 ( とうとつ ) 過ぎたと見えてちょっと魂消 ( たまげ ) たような声を出す。「実は方々からくれくれと申し込はございますが、こちらの身分もあるものでございますから、滅多 ( めった ) な所 ( とこ ) へも片付けられませんので……」「ごもっともで」と迷亭はようやく安心する。「それについて、あなたに伺おうと思って上がったんですがね」と鼻子は主人の方を見て急に存在 ( ぞんざい ) な言葉に返る。「あなたの所へ水島寒月 ( みずしまかんげつ ) という男が度々 ( たびたび ) 上がるそうですが、あの人は全体どんな風な人でしょう」「寒月の事を聞いて、何 ( なん ) にするんです」と主人は苦々 ( にがにが ) しく云う。「やはり御令嬢の御婚儀上の関係で、寒月君の性行 ( せいこう ) の一斑 ( いっぱん ) を御承知になりたいという訳でしょう」と迷亭が気転を利 ( き ) かす。「それが伺えれば大変都合が宜 ( よろ ) しいのでございますが……」「それじゃ、御令嬢を寒月におやりになりたいとおっしゃるんで」「やりたいなんてえんじゃ無いんです」と鼻子は急に主人を参らせる。「ほかにもだんだん口が有るんですから、無理に貰っていただかないだって困りゃしません」「それじゃ寒月の事なんか聞かんでも好いでしょう」と主人も躍起 ( やっき ) となる。「しかし御隠しなさる訳もないでしょう」と鼻子も少々喧嘩腰になる。迷亭は双方の間に坐って、銀煙管 ( ぎんぎせる ) を軍配団扇 ( ぐんばいうちわ ) のように持って、心の裡 ( うち ) で八卦 ( はっけ ) よいやよいやと怒鳴っている。「じゃあ寒月の方で是非貰いたいとでも云ったのですか」と主人が正面から鉄砲を喰 ( くら ) わせる。「貰いたいと云ったんじゃないんですけれども……」「貰いたいだろうと思っていらっしゃるんですか」と主人はこの婦人鉄砲に限ると覚 ( さと ) ったらしい。「話しはそんなに運んでるんじゃありませんが——寒月さんだって満更 ( まんざら ) 嬉しくない事もないでしょう」と土俵際で持ち直す。「寒月が何かその御令嬢に恋着 ( れんちゃく ) したというような事でもありますか」あるなら云って見ろと云う権幕 ( けんまく ) で主人は反 ( そ ) り返る。「まあ、そんな見当 ( けんとう ) でしょうね」今度は主人の鉄砲が少しも功を奏しない。今まで面白気 ( おもしろげ ) に行司 ( ぎょうじ ) 気取りで見物していた迷亭も鼻子の一言 ( いちごん ) に好奇心を挑撥 ( ちょうはつ ) されたものと見えて、煙管 ( きせる ) を置いて前へ乗り出す。「寒月が御嬢さんに付 ( つ ) け文 ( ぶみ ) でもしたんですか、こりゃ愉快だ、新年になって逸話がまた一つ殖 ( ふ ) えて話しの好材料になる」と一人で喜んでいる。「付け文じゃないんです、もっと烈しいんでさあ、御二人とも御承知じゃありませんか」と鼻子は乙 ( おつ ) にからまって来る。「君知ってるか」と主人は狐付きのような顔をして迷亭に聞く。迷亭も馬鹿気 ( ばかげ ) た調子で「僕は知らん、知っていりゃ君だ」とつまらんところで謙遜 ( けんそん ) する。「いえ御両人共 ( おふたりとも ) 御存じの事ですよ」と鼻子だけ大得意である。「へえー」と御両人は一度に感じ入る。「御忘れになったら私 ( わた ) しから御話をしましょう。去年の暮向島の阿部さんの御屋敷で演奏会があって寒月さんも出掛けたじゃありませんか、その晩帰りに吾妻橋 ( あずまばし ) で何かあったでしょう——詳しい事は言いますまい、当人の御迷惑になるかも知れませんから——あれだけの証拠がありゃ充分だと思いますが、どんなものでしょう」と金剛石 ( ダイヤ ) 入りの指環の嵌 ( はま ) った指を、膝の上へ併 ( なら ) べて、つんと居ずまいを直す。偉大なる鼻がますます異彩を放って、迷亭も主人も有れども無きがごとき有様である。
主人は無論、さすがの迷亭もこの不意撃 ( ふいうち ) には胆 ( きも ) を抜かれたものと見えて、しばらくは呆然 ( ぼうぜん ) として瘧 ( おこり ) の落ちた病人のように坐っていたが、驚愕 ( きょうがく ) の箍 ( たが ) がゆるんでだんだん持前の本態に復すると共に、滑稽と云う感じが一度に吶喊 ( とっかん ) してくる。両人 ( ふたり ) は申し合せたごとく「ハハハハハ」と笑い崩れる。鼻子ばかりは少し当てがはずれて、この際笑うのははなはだ失礼だと両人を睨 ( にら ) みつける。「あれが御嬢さんですか、なるほどこりゃいい、おっしゃる通りだ、ねえ苦沙弥 ( くしゃみ ) 君、全く寒月はお嬢さんを恋 ( おも ) ってるに相違ないね……もう隠したってしようがないから白状しようじゃないか」「ウフン」と主人は云ったままである。「本当に御隠しなさってもいけませんよ、ちゃんと種は上ってるんですからね」と鼻子はまた得意になる。「こうなりゃ仕方がない。何でも寒月君に関する事実は御参考のために陳述するさ、おい苦沙弥君、君が主人だのに、そう、にやにや笑っていては埒 ( らち ) があかんじゃないか、実に秘密というものは恐ろしいものだねえ。いくら隠しても、どこからか露見 ( ろけん ) するからな。——しかし不思議と云えば不思議ですねえ、金田の奥さん、どうしてこの秘密を御探知になったんです、実に驚ろきますな」と迷亭は一人で喋舌 ( しゃべ ) る。「私 ( わた ) しの方だって、ぬかりはありませんやね」と鼻子はしたり顔をする。「あんまり、ぬかりが無さ過ぎるようですぜ。一体誰に御聞きになったんです」「じきこの裏にいる車屋の神 ( かみ ) さんからです」「あの黒猫のいる車屋ですか」と主人は眼を丸くする。「ええ、寒月さんの事じゃ、よっぽど使いましたよ。寒月さんが、ここへ来る度に、どんな話しをするかと思って車屋の神さんを頼んで一々知らせて貰うんです」「そりゃ苛 ( ひど ) い」と主人は大きな声を出す。「なあに、あなたが何をなさろうとおっしゃろうと、それに構ってるんじゃないんです。寒月さんの事だけですよ」「寒月の事だって、誰の事だって——全体あの車屋の神さんは気に食わん奴だ」と主人は一人怒 ( おこ ) り出す。「しかしあなたの垣根のそとへ来て立っているのは向うの勝手じゃありませんか、話しが聞えてわるけりゃもっと小さい声でなさるか、もっと大きなうちへ御這入 ( おはい ) んなさるがいいでしょう」と鼻子は少しも赤面した様子がない。「車屋ばかりじゃありません。新道 ( しんみち ) の二絃琴 ( にげんきん ) の師匠からも大分 ( だいぶ ) いろいろな事を聞いています」「寒月の事をですか」「寒月さんばかりの事じゃありません」と少し凄 ( すご ) い事を云う。主人は恐れ入るかと思うと「あの師匠はいやに上品ぶって自分だけ人間らしい顔をしている、馬鹿野郎です」「憚 ( はばか ) り様 ( さま ) 、女ですよ。野郎は御門違 ( おかどちが ) いです」と鼻子の言葉使いはますます御里 ( おさと ) をあらわして来る。これではまるで喧嘩をしに来たようなものであるが、そこへ行くと迷亭はやはり迷亭でこの談判を面白そうに聞いている。鉄枴仙人 ( てっかいせんにん ) が軍鶏 ( しゃも ) の蹴合 ( けあ ) いを見るような顔をして平気で聞いている。
悪口 ( あっこう ) の交換では到底鼻子の敵でないと自覚した主人は、しばらく沈黙を守るのやむを得ざるに至らしめられていたが、ようやく思い付いたか「あなたは寒月の方から御嬢さんに恋着したようにばかりおっしゃるが、私 ( わたし ) の聞いたんじゃ、少し違いますぜ、ねえ迷亭君」と迷亭の救いを求める。「うん、あの時の話しじゃ御嬢さんの方が、始め病気になって——何だか譫語 ( うわごと ) をいったように聞いたね」「なにそんな事はありません」と金田夫人は判然たる直線流の言葉使いをする。「それでも寒月はたしかに○○博士の夫人から聞いたと云っていましたぜ」「それがこっちの手なんでさあ、○○博士の奥さんを頼んで寒月さんの気を引いて見たんでさあね」「○○の奥さんは、それを承知で引き受けたんですか」「ええ。引き受けて貰うたって、ただじゃ出来ませんやね、それやこれやでいろいろ物を使っているんですから」「是非寒月君の事を根堀り葉堀り御聞きにならなくっちゃ御帰りにならないと云う決心ですかね」と迷亭も少し気持を悪くしたと見えて、いつになく手障 ( てざわ ) りのあらい言葉を使う。「いいや君、話したって損の行く事じゃなし、話そうじゃないか苦沙弥君——奥さん、私 ( わたし ) でも苦沙弥でも寒月君に関する事実で差支 ( さしつか ) えのない事は、みんな話しますからね、——そう、順を立ててだんだん聞いて下さると都合がいいですね」
鼻子はようやく納得 ( なっとく ) してそろそろ質問を呈出する。一時荒立てた言葉使いも迷亭に対してはまたもとのごとく叮嚀になる。「寒月さんも理学士だそうですが、全体どんな事を専門にしているのでございます」「大学院では地球の磁気の研究 をやっています」と主人が真面目に答える。不幸にしてその意味が鼻子には分らんものだから「へえー」とは云ったが怪訝 ( けげん ) な顔をしている。「それを勉強すると博士になれましょうか」と聞く。「博士にならなければやれないとおっしゃるんですか」と主人は不愉快そうに尋ねる。「ええ。ただの学士じゃね、いくらでもありますからね」と鼻子は平気で答える。主人は迷亭を見ていよいよいやな顔をする。「博士になるかならんかは僕等も保証する事が出来んから、ほかの事を聞いていただく事にしよう」と迷亭もあまり好い機嫌ではない。「近頃でもその地球の——何かを勉強しているんでございましょうか」「二三日前 ( にさんちまえ ) は首縊りの力学 と云う研究の結果を理学協会で演説しました」と主人は何の気も付かずに云う。「おやいやだ、首縊り だなんて、よっぽど変人ですねえ。そんな首縊り や何かやってたんじゃ、とても博士にはなれますまいね」「本人が首を縊 ( くく ) っちゃあむずかしいですが、首縊りの力学 なら成れないとも限らんです」「そうでしょうか」と今度は主人の方を見て顔色を窺 ( うかが ) う。悲しい事に力学 と云う意味がわからんので落ちつきかねている。しかしこれしきの事を尋ねては金田夫人の面目に関すると思ってか、ただ相手の顔色で八卦 ( はっけ ) を立てて見る。主人の顔は渋い。「そのほかになにか、分り易 ( やす ) いものを勉強しておりますまいか」「そうですな、せんだって団栗のスタビリチーを論じて併せて天体の運行に及ぶ と云う論文を書いた事があります」「団栗 ( どんぐり ) なんぞでも大学校で勉強するものでしょうか」「さあ僕も素人 ( しろうと ) だからよく分らんが、何しろ、寒月君がやるくらいなんだから、研究する価値があると見えますな」と迷亭はすまして冷かす。鼻子は学問上の質問は手に合わんと断念したものと見えて、今度は話題を転ずる。「御話は違いますが——この御正月に椎茸 ( しいたけ ) を食べて前歯を二枚折ったそうじゃございませんか」「ええその欠けたところに空也餅 ( くうやもち ) がくっ付いていましてね」と迷亭はこの質問こそ吾縄張内 ( なわばりうち ) だと急に浮かれ出す。「色気のない人じゃございませんか、何だって楊子 ( ようじ ) を使わないんでしょう」「今度逢 ( あ ) ったら注意しておきましょう」と主人がくすくす笑う。「椎茸で歯がかけるくらいじゃ、よほど歯の性 ( しょう ) が悪いと思われますが、如何 ( いかが ) なものでしょう」「善いとは言われますまいな——ねえ迷亭」「善い事はないがちょっと愛嬌 ( あいきょう ) があるよ。あれぎり、まだ填 ( つ ) めないところが妙だ。今だに空也餅引掛所 ( ひっかけどころ ) になってるなあ奇観だぜ」「歯を填める小遣 ( こづかい ) がないので欠けなりにしておくんですか、または物好きで欠けなりにしておくんでしょうか」「何も永く前歯欠成 ( まえばかけなり ) を名乗る訳でもないでしょうから御安心なさいよ」と迷亭の機嫌はだんだん回復してくる。鼻子はまた問題を改める。「何か御宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでもございますならちょっと拝見したいもんでございますが」「端書 ( はがき ) なら沢山あります、御覧なさい」と主人は書斎から三四十枚持って来る。「そんなに沢山拝見しないでも——その内の二三枚だけ……」「どれどれ僕が好いのを撰 ( よ ) ってやろう」と迷亭先生は「これなざあ面白いでしょう」と一枚の絵葉書を出す。「おや絵もかくんでございますか、なかなか器用ですね、どれ拝見しましょう」と眺めていたが「あらいやだ、狸 ( たぬき ) だよ。何だって撰りに撰って狸なんぞかくんでしょうね——それでも狸と見えるから不思議だよ」と少し感心する。「その文句を読んで御覧なさい」と主人が笑いながら云う。鼻子は下女が新聞を読むように読み出す。「旧暦の歳 ( とし ) の夜 ( よ ) 、山の狸が園遊会をやって盛 ( さかん ) に舞踏します。その歌に曰 ( いわ ) く、来 ( こ ) いさ、としの夜 ( よ ) で、御山婦美 ( おやまふみ ) も来 ( く ) まいぞ。スッポコポンノポン」「何ですこりゃ、人を馬鹿にしているじゃございませんか」と鼻子は不平の体 ( てい ) である。「この天女 ( てんにょ ) は御気に入りませんか」と迷亭がまた一枚出す。見ると天女が羽衣 ( はごろも ) を着て琵琶 ( びわ ) を弾 ( ひ ) いている。「この天女の鼻が少し小さ過ぎるようですが」「何、それが人並ですよ、鼻より文句を読んで御覧なさい」文句にはこうある。「昔 ( むか ) しある所に一人の天文学者がありました。ある夜 ( よ ) いつものように高い台に登って、一心に星を見ていますと、空に美しい天女が現われ、この世では聞かれぬほどの微妙な音楽を奏し出したので、天文学者は身に沁 ( し ) む寒さも忘れて聞き惚 ( ほ ) れてしまいました。朝見るとその天文学者の死骸 ( しがい ) に霜 ( しも ) が真白に降っていました。これは本当の噺 ( はなし ) だと、あのうそつきの爺 ( じい ) やが申しました」「何の事ですこりゃ、意味も何もないじゃありませんか、これでも理学士で通るんですかね。ちっと文芸倶楽部でも読んだらよさそうなものですがねえ」と寒月君さんざんにやられる。迷亭は面白半分に「こりゃどうです」と三枚目を出す。今度は活版で帆懸舟 ( ほかけぶね ) が印刷してあって、例のごとくその下に何か書き散らしてある。「よべの泊 ( とま ) りの十六小女郎 ( じゅうろくこじょろ ) 、親がないとて、荒磯 ( ありそ ) の千鳥、さよの寝覚 ( ねざめ ) の千鳥に泣いた、親は船乗り波の底」「うまいのねえ、感心だ事、話せるじゃありませんか」「話せますかな」「ええこれなら三味線に乗りますよ」「三味線に乗りゃ本物だ。こりゃ如何 ( いかが ) です」と迷亭は無暗 ( むやみ ) に出す。「いえ、もうこれだけ拝見すれば、ほかのは沢山で、そんなに野暮 ( やぼ ) でないんだと云う事は分りましたから」と一人で合点している。鼻子はこれで寒月に関する大抵の質問を卒 ( お ) えたものと見えて、「これははなはだ失礼を致しました。どうか私の参った事は寒月さんへは内々に願います」と得手勝手 ( えてかって ) な要求をする。寒月の事は何でも聞かなければならないが、自分の方の事は一切寒月へ知らしてはならないと云う方針と見える。迷亭も主人も「はあ」と気のない返事をすると「いずれその内御礼は致しますから」と念を入れて言いながら立つ。見送りに出た両人 ( ふたり ) が席へ返るや否や迷亭が「ありゃ何だい」と云うと主人も「ありゃ何だい」と双方から同じ問をかける。奥の部屋で細君が怺 ( こら ) え切れなかったと見えてクツクツ笑う声が聞える。迷亭は大きな声を出して「奥さん奥さん、月並の標本が来ましたぜ。月並もあのくらいになるとなかなか振 ( ふる ) っていますなあ。さあ遠慮はいらんから、存分御笑いなさい」
主人は不満な口気 ( こうき ) で「第一気に喰わん顔だ」と悪 ( にく ) らしそうに云うと、迷亭はすぐ引きうけて「鼻が顔の中央に陣取って乙 ( おつ ) に構えているなあ」とあとを付ける。「しかも曲っていらあ」「少し猫背 ( ねこぜ ) だね。猫背の鼻は、ちと奇抜 ( きばつ ) 過ぎる」と面白そうに笑う。「夫 ( おっと ) を剋 ( こく ) する顔だ」と主人はなお口惜 ( くや ) しそうである。「十九世紀で売れ残って、二十世紀で店曝 ( たなざら ) しに逢うと云う相 ( そう ) だ」と迷亭は妙な事ばかり云う。ところへ妻君が奥の間 ( ま ) から出て来て、女だけに「あんまり悪口をおっしゃると、また車屋の神 ( かみ ) さんにいつけ られますよ」と注意する。「少しいつけ る方が薬ですよ、奥さん」「しかし顔の讒訴 ( ざんそ ) などをなさるのは、あまり下等ですわ、誰だって好んであんな鼻を持ってる訳でもありませんから——それに相手が婦人ですからね、あんまり苛 ( ひど ) いわ」と鼻子の鼻を弁護すると、同時に自分の容貌 ( ようぼう ) も間接に弁護しておく。「何ひどいものか、あんなのは婦人じゃない、愚人だ、ねえ迷亭君」「愚人かも知れんが、なかなかえら者だ、大分 ( だいぶ ) 引き掻 ( か ) かれたじゃないか」「全体教師を何と心得ているんだろう」「裏の車屋くらいに心得ているのさ。ああ云う人物に尊敬されるには博士になるに限るよ、一体博士になっておかんのが君の不了見 ( ふりょうけん ) さ、ねえ奥さん、そうでしょう」と迷亭は笑いながら細君を顧 ( かえり ) みる。「博士なんて到底駄目ですよ」と主人は細君にまで見離される。「これでも今になるかも知れん、軽蔑 ( けいべつ ) するな。貴様なぞは知るまいが昔 ( むか ) しアイソクラチスと云う人は九十四歳で大著述をした。ソフォクリスが傑作を出して天下を驚かしたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニジスは八十で妙詩を作った。おれだって……」「馬鹿馬鹿しいわ、あなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか」と細君はちゃんと主人の寿命を予算している。「失敬な、——甘木さんへ行って聞いて見ろ——元来御前がこんな皺苦茶 ( しわくちゃ ) な黒木綿 ( くろもめん ) の羽織や、つぎだらけの着物を着せておくから、あんな女に馬鹿にされるんだ。あしたから迷亭の着ているような奴を着るから出しておけ」「出しておけって、あんな立派な御召 ( おめし ) はござんせんわ。金田の奥さんが迷亭さんに叮嚀になったのは、伯父さんの名前を聞いてからですよ。着物の咎 ( とが ) じゃございません」と細君うまく責任を逃 ( の ) がれる。
主人は伯父さん と云う言葉を聞いて急に思い出したように「君に伯父があると云う事は、今日始めて聞いた。今までついに噂 ( うわさ ) をした事がないじゃないか、本当にあるのかい」と迷亭に聞く。迷亭は待ってたと云わぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に頑物 ( がんぶつ ) でねえ——やはりその十九世紀から連綿と今日 ( こんにち ) まで生き延びているんだがね」と主人夫婦を半々に見る。「オホホホホホ面白い事ばかりおっしゃって、どこに生きていらっしゃるんです」「静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃ無いです。頭にちょん髷 ( まげ ) を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子を被 ( かぶ ) れってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被るほど寒さを感じた事はないと威張ってるんです——寒いから、もっと寝 ( ね ) ていらっしゃいと云うと、人間は四時間寝れば充分だ。四時間以上寝るのは贅沢 ( ぜいたく ) の沙汰だって朝暗いうちから起きてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠 ( ねむ ) たくていかなんだが、近頃に至って始めて随処任意の庶境 ( しょきょう ) に入 ( い ) ってはなはだ嬉しいと自慢するんです。六十七になって寝られなくなるなあ当り前でさあ。修業も糸瓜 ( へちま ) も入 ( い ) ったものじゃないのに当人は全く克己 ( こっき ) の力で成功したと思ってるんですからね。それで外出する時には、きっと鉄扇 ( てっせん ) をもって出るんですがね」「なににするんだい」「何にするんだか分らない、ただ持って出るんだね。まあステッキの代りくらいに考えてるかも知れんよ。ところがせんだって妙な事がありましてね」と今度は細君の方へ話しかける。「へえー」と細君が差 ( さ ) し合 ( あい ) のない返事をする。「此年 ( ことし ) の春突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと云うんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人自身が着ると云う返事が来ました。二十三日に静岡で祝捷会 ( しゅくしょうかい ) があるからそれまでに間 ( ま ) に合うように、至急調達しろと云う命令なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子は好い加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって大丸 ( だいまる ) へ注文してくれ……」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋 ( しろきや ) と間違えたんだあね」「寸法を見計ってくれたって無理じゃないか」「そこが伯父の伯父たるところさ」「どうした?」「仕方がないから見計らって送ってやった」「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい」「まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。国の新聞を見たら、当日牧山翁は珍らしくフロックコートにて、例の鉄扇 ( てっせん ) を持ち……」「鉄扇だけは離さなかったと見えるね」「うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ」「それでも帽子も洋服も、うまい具合に着られて善かった」「ところが大間違さ。僕も無事に行ってありがたいと思ってると、しばらくして国から小包が届いたから、何か礼でもくれた事と思って開けて見たら例の山高帽子さ、手紙が添えてあってね、せっかく御求め被下候 ( くだされそうら ) えども少々大きく候間 ( そろあいだ ) 、帽子屋へ御遣 ( おつか ) わしの上、御縮め被下度候 ( くだされたくそろ ) 。縮め賃は小為替 ( こがわせ ) にて此方 ( こなた ) より御送 ( おんおくり ) 可申上候 ( もうしあぐべきそろ ) とあるのさ」「なるほど迂濶 ( うかつ ) だな」と主人は己 ( おの ) れより迂濶なものの天下にある事を発見して大 ( おおい ) に満足の体 ( てい ) に見える。やがて「それから、どうした」と聞く。「どうするったって仕方がないから僕が頂戴して被 ( かぶ ) っていらあ」「あの帽子かあ」と主人がにやにや笑う。「その方 ( かた ) が男爵でいらっしゃるんですか」と細君が不思議そうに尋ねる。「誰がです」「その鉄扇の伯父さまが」「なあに漢学者でさあ、若い時聖堂 ( せいどう ) で朱子学 ( しゅしがく ) か、何かにこり固まったものだから、電気灯の下で恭 ( うやうや ) しくちょん 髷 ( まげ ) を頂いているんです。仕方がありません」とやたらに顋 ( あご ) を撫 ( な ) で廻す。「それでも君は、さっきの女に牧山男爵と云ったようだぜ」「そうおっしゃいましたよ、私も茶の間で聞いておりました」と細君もこれだけは主人の意見に同意する。「そうでしたかなアハハハハハ」と迷亭は訳 ( わけ ) もなく笑う。「そりゃ嘘 ( うそ ) ですよ。僕に男爵の伯父がありゃ、今頃は局長くらいになっていまさあ」と平気なものである。「何だか変だと思った」と主人は嬉しそうな、心配そうな顔付をする。「あらまあ、よく真面目であんな嘘が付けますねえ。あなたもよっぽど法螺 ( ほら ) が御上手でいらっしゃる事」と細君は非常に感心する。「僕より、あの女の方が上 ( う ) わ手 ( て ) でさあ」「あなただって御負けなさる気遣 ( きづか ) いはありません」「しかし奥さん、僕の法螺は単なる法螺ですよ。あの女のは、みんな魂胆があって、曰 ( いわ ) く付きの嘘ですぜ。たちが悪いです。猿智慧 ( さるぢえ ) から割り出した術数と、天来の滑稽趣味と混同されちゃ、コメディーの神様も活眼の士なきを嘆ぜざるを得ざる訳に立ち至りますからな」主人は俯目 ( ふしめ ) になって「どうだか」と云う。妻君は笑いながら「同じ事ですわ」と云う。
吾輩は今まで向う横丁へ足を踏み込んだ事はない。角屋敷 ( かどやしき ) の金田とは、どんな構えか見た事は無論ない。聞いた事さえ今が始めてである。主人の家 ( うち ) で実業家が話頭に上 ( のぼ ) った事は一返もないので、主人の飯を食う吾輩までがこの方面には単に無関係なるのみならず、はなはだ冷淡であった。しかるに先刻図 ( はか ) らずも鼻子の訪問を受けて、余所 ( よそ ) ながらその談話を拝聴し、その令嬢の艶美 ( えんび ) を想像し、またその富貴 ( ふうき ) 、権勢を思い浮べて見ると、猫ながら安閑として椽側 ( えんがわ ) に寝転んでいられなくなった。しかのみならず吾輩は寒月君に対してはなはだ同情の至りに堪えん。先方では博士の奥さんやら、車屋の神 ( かみ ) さんやら、二絃琴 ( にげんきん ) の天璋院 ( てんしょういん ) まで買収して知らぬ間 ( ま ) に、前歯の欠けたのさえ探偵しているのに、寒月君の方ではただニヤニヤして羽織の紐ばかり気にしているのは、いかに卒業したての理学士にせよ、あまり能がなさ過ぎる。と言って、ああ云う偉大な鼻を顔の中 ( うち ) に安置している女の事だから、滅多 ( めった ) な者では寄り付ける訳の者ではない。こう云う事件に関しては主人はむしろ無頓着でかつあまりに銭 ( ぜに ) がなさ過ぎる。迷亭は銭に不自由はしないが、あんな偶然童子だから、寒月に援 ( たす ) けを与える便宜 ( べんぎ ) は尠 ( すくな ) かろう。して見ると可哀相 ( かわいそう ) なのは首縊りの力学 を演説する先生ばかりとなる。吾輩でも奮発して、敵城へ乗り込んでその動静を偵察してやらなくては、あまり不公平である。吾輩は猫だけれど、エピクテタスを読んで机の上へ叩きつけるくらいな学者の家 ( うち ) に寄寓 ( きぐう ) する猫で、世間一般の痴猫 ( ちびょう ) 、愚猫 ( ぐびょう ) とは少しく撰 ( せん ) を殊 ( こと ) にしている。この冒険をあえてするくらいの義侠心は固 ( もと ) より尻尾 ( しっぽ ) の先に畳み込んである。何も寒月君に恩になったと云う訳もないが、これはただに個人のためにする血気躁狂 ( けっきそうきょう ) の沙汰ではない。大きく云えば公平を好み中庸を愛する天意を現実にする天晴 ( あっぱれ ) な美挙だ。人の許諾を経 ( へ ) ずして吾妻橋 ( あずまばし ) 事件などを至る処に振り廻わす以上は、人の軒下に犬を忍ばして、その報道を得々として逢う人に吹聴 ( ふいちょう ) する以上は、車夫、馬丁 ( ばてい ) 、無頼漢 ( ぶらいかん ) 、ごろつき書生、日雇婆 ( ひやといばばあ ) 、産婆、妖婆 ( ようば ) 、按摩 ( あんま ) 、頓馬 ( とんま ) に至るまでを使用して国家有用の材に煩 ( はん ) を及ぼして顧 ( かえり ) みざる以上は——猫にも覚悟がある。幸い天気も好い、霜解 ( しもどけ ) は少々閉口するが道のためには一命もすてる。足の裏へ泥が着いて、椽側 ( えんがわ ) へ梅の花の印を押すくらいな事は、ただ御三 ( おさん ) の迷惑にはなるか知れんが、吾輩の苦痛とは申されない。翌日 ( あす ) とも云わずこれから出掛けようと勇猛精進 ( ゆうもうしょうじん ) の大決心を起して台所まで飛んで出たが「待てよ」と考えた。吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においてはあえて中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな咽喉 ( のど ) の構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が饒舌 ( しゃべ ) れない。よし首尾よく金田邸へ忍び込んで、充分敵の情勢を見届けたところで、肝心 ( かんじん ) の寒月君に教えてやる訳に行かない。主人にも迷亭先生にも話せない。話せないとすれば土中にある金剛石 ( ダイヤモンド ) の日を受けて光らぬと同じ事で、せっかくの智識も無用の長物となる。これは愚 ( ぐ ) だ、やめようかしらんと上り口で佇 ( たたず ) んで見た。
しかし一度思い立った事を中途でやめるのは、白雨 ( ゆうだち ) が来るかと待っている時黒雲共 ( とも ) 隣国へ通り過ぎたように、何となく残り惜しい。それも非がこっちにあれば格別だが、いわゆる正義のため、人道のためなら、たとい無駄死 ( むだじに ) をやるまでも進むのが、義務を知る男児の本懐であろう。無駄骨を折り、無駄足を汚 ( よご ) すくらいは猫として適当のところである。猫と生れた因果 ( いんが ) で寒月、迷亭、苦沙弥諸先生と三寸の舌頭 ( ぜっとう ) に相互の思想を交換する技倆 ( ぎりょう ) はないが、猫だけに忍びの術は諸先生より達者である。他人の出来ぬ事を成就 ( じょうじゅ ) するのはそれ自身において愉快である。吾 ( われ ) 一箇でも、金田の内幕を知るのは、誰も知らぬより愉快である。人に告げられんでも人に知られているなと云う自覚を彼等に与うるだけが愉快である。こんなに愉快が続々出て来ては行かずにはいられない。やはり行く事に致そう。
向う横町へ来て見ると、聞いた通りの西洋館が角地面 ( かどじめん ) を吾物顔 ( わがものがお ) に占領している。この主人もこの西洋館のごとく傲慢 ( ごうまん ) に構えているんだろうと、門を這入 ( はい ) ってその建築を眺 ( なが ) めて見たがただ人を威圧しようと、二階作りが無意味に突っ立っているほかに何等の能もない構造であった。迷亭のいわゆる月並 ( つきなみ ) とはこれであろうか。玄関を右に見て、植込の中を通り抜けて、勝手口へ廻る。さすがに勝手は広い、苦沙弥先生の台所の十倍はたしかにある。せんだって日本新聞に詳しく書いてあった大隈伯 ( おおくまはく ) の勝手にも劣るまいと思うくらい整然とぴかぴかしている。「模範勝手だな」と這入 ( はい ) り込む。見ると漆喰 ( しっくい ) で叩き上げた二坪ほどの土間に、例の車屋の神 ( かみ ) さんが立ちながら、御飯焚 ( ごはんた ) きと車夫を相手にしきりに何か弁じている。こいつは剣呑 ( けんのん ) だと水桶 ( みずおけ ) の裏へかくれる。「あの教師あ、うちの旦那の名を知らないのかね」と飯焚 ( めしたき ) が云う。「知らねえ事があるもんか、この界隈 ( かいわい ) で金田さんの御屋敷を知らなけりゃ眼も耳もねえ片輪 ( かたわ ) だあな」これは抱え車夫の声である。「なんとも云えないよ。あの教師と来たら、本よりほかに何にも知らない変人なんだからねえ。旦那の事を少しでも知ってりゃ恐れるかも知れないが、駄目だよ、自分の小供の歳 ( とし ) さえ知らないんだもの」と神さんが云う。「金田さんでも恐れねえかな、厄介な唐変木 ( とうへんぼく ) だ。構 ( かま ) あ事 ( こた ) あねえ、みんなで威嚇 ( おど ) かしてやろうじゃねえか」「それが好いよ。奥様の鼻が大き過ぎるの、顔が気に喰わないのって——そりゃあ酷 ( ひど ) い事を云うんだよ。自分の面 ( つら ) あ今戸焼 ( いまどやき ) の狸 ( たぬき ) 見たような癖に——あれで一人前 ( いちにんまえ ) だと思っているんだからやれ切れないじゃないか」「顔ばかりじゃない、手拭 ( てぬぐい ) を提 ( さ ) げて湯に行くところからして、いやに高慢ちきじゃないか。自分くらいえらい者は無いつもりでいるんだよ」と苦沙弥先生は飯焚にも大 ( おおい ) に不人望である。「何でも大勢であいつの垣根の傍 ( そば ) へ行って悪口をさんざんいってやるんだね」「そうしたらきっと恐れ入るよ」「しかしこっちの姿を見せちゃあ面白くねえから、声だけ聞かして、勉強の邪魔をした上に、出来るだけじらしてやれって、さっき奥様が言い付けておいでなすったぜ」「そりゃ分っているよ」と神さんは悪口の三分の一を引き受けると云う意味を示す。なるほどこの手合が苦沙弥先生を冷やかしに来るなと三人の横を、そっと通り抜けて奥へ這入る。
猫の足はあれども無きがごとし、どこを歩いても不器用な音のした試しがない。空を踏むがごとく、雲を行くがごとく、水中に磬 ( けい ) を打つがごとく、洞裏 ( とうり ) に瑟 ( しつ ) を鼓 ( こ ) するがごとく、醍醐 ( だいご ) の妙味を甞 ( な ) めて言詮 ( ごんせん ) のほかに冷暖 ( れいだん ) を自知 ( じち ) するがごとし。月並な西洋館もなく、模範勝手もなく、車屋の神さんも、権助 ( ごんすけ ) も、飯焚も、御嬢さまも、仲働 ( なかばたら ) きも、鼻子夫人も、夫人の旦那様もない。行きたいところへ行って聞きたい話を聞いて、舌を出し尻尾 ( しっぽ ) を掉 ( ふ ) って、髭 ( ひげ ) をぴんと立てて悠々 ( ゆうゆう ) と帰るのみである。ことに吾輩はこの道に掛けては日本一の堪能 ( かんのう ) である。草双紙 ( くさぞうし ) にある猫又 ( ねこまた ) の血脈を受けておりはせぬかと自 ( みずか ) ら疑うくらいである。蟇 ( がま ) の額 ( ひたい ) には夜光 ( やこう ) の明珠 ( めいしゅ ) があると云うが、吾輩の尻尾には神祇釈教 ( しんぎしゃっきょう ) 恋無常 ( こいむじょう ) は無論の事、満天下の人間を馬鹿にする一家相伝 ( いっかそうでん ) の妙薬が詰め込んである。金田家の廊下を人の知らぬ間 ( ま ) に横行するくらいは、仁王様が心太 ( ところてん ) を踏み潰 ( つぶ ) すよりも容易である。この時吾輩は我ながら、わが力量に感服して、これも普段大事にする尻尾の御蔭だなと気が付いて見るとただ置かれない。吾輩の尊敬する尻尾大明神を礼拝 ( らいはい ) してニャン運長久を祈らばやと、ちょっと低頭して見たが、どうも少し見当 ( けんとう ) が違うようである。なるべく尻尾の方を見て三拝しなければならん。尻尾の方を見ようと身体を廻すと尻尾も自然と廻る。追付こうと思って首をねじると、尻尾も同じ間隔をとって、先へ馳 ( か ) け出す。なるほど天地玄黄 ( てんちげんこう ) を三寸裏 ( り ) に収めるほどの霊物だけあって、到底吾輩の手に合わない、尻尾を環 ( めぐ ) る事七度 ( ななた ) び半にして草臥 ( くたび ) れたからやめにした。少々眼がくらむ。どこにいるのだかちょっと方角が分らなくなる。構うものかと滅茶苦茶にあるき廻る。障子の裏 ( うち ) で鼻子の声がする。ここだと立ち留まって、左右の耳をはすに切って、息を凝 ( こ ) らす。「貧乏教師の癖に生意気じゃありませんか」と例の金切 ( かなき ) り声 ( ごえ ) を振り立てる。「うん、生意気な奴だ、ちと懲 ( こ ) らしめのためにいじめてやろう。あの学校にゃ国のものもいるからな」「誰がいるの?」「津木 ( つき ) ピン助 ( すけ ) や福地 ( ふくち ) キシャゴがいるから、頼んでからかわしてやろう」吾輩は金田君の生国 ( しょうごく ) は分らんが、妙な名前の人間ばかり揃 ( そろ ) った所だと少々驚いた。金田君はなお語をついで、「あいつは英語の教師かい」と聞く。「はあ、車屋の神さんの話では英語のリードルか何か専門に教えるんだって云います」「どうせ碌 ( ろく ) な教師じゃあるめえ」あるめえ にも尠 ( すく ) なからず感心した。「この間ピン助に遇 ( あ ) ったら、私 ( わたし ) の学校にゃ妙な奴がおります。生徒から先生番茶 は英語で何と云いますと聞かれて、番茶 は Savage tea であると真面目に答えたんで、教員間の物笑いとなっています、どうもあんな教員があるから、ほかのものの、迷惑になって困りますと云ったが、大方 ( おおかた ) あいつの事だぜ」「あいつに極 ( きま ) っていまさあ、そんな事を云いそうな面構 ( つらがま ) えですよ、いやに髭 ( ひげ ) なんか生 ( は ) やして」「怪 ( け ) しからん奴だ」髭を生やして怪しからなければ猫などは一疋だって怪しかりようがない。「それにあの迷亭とか、へべれけとか云う奴は、まあ何てえ、頓狂な跳返 ( はねっかえ ) りなんでしょう、伯父の牧山男爵だなんて、あんな顔に男爵の伯父なんざ、有るはずがないと思ったんですもの」「御前がどこの馬の骨だか分らんものの言う事を真 ( ま ) に受けるのも悪い」「悪いって、あんまり人を馬鹿にし過ぎるじゃありませんか」と大変残念そうである。不思議な事には寒月君の事は一言半句 ( いちごんはんく ) も出ない。吾輩の忍んで来る前に評判記はすんだものか、またはすでに落第と事が極 ( きま ) って念頭にないものか、その辺 ( へん ) は懸念 ( けねん ) もあるが仕方がない。しばらく佇 ( たたず ) んでいると廊下を隔てて向うの座敷でベルの音がする。そらあすこにも何か事がある。後 ( おく ) れぬ先に、とその方角へ歩を向ける。
来て見ると女が独 ( ひと ) りで何か大声で話している。その声が鼻子とよく似ているところをもって推 ( お ) すと、これが即ち当家の令嬢寒月君をして未遂入水 ( みすいじゅすい ) をあえてせしめたる代物 ( しろもの ) だろう。惜哉 ( おしいかな ) 障子越しで玉の御姿 ( おんすがた ) を拝する事が出来ない。従って顔の真中に大きな鼻を祭り込んでいるか、どうだか受合えない。しかし談話の模様から鼻息の荒いところなどを綜合 ( そうごう ) して考えて見ると、満更 ( まんざら ) 人の注意を惹 ( ひ ) かぬ獅鼻 ( ししばな ) とも思われない。女はしきりに喋舌 ( しゃべ ) っているが相手の声が少しも聞えないのは、噂 ( うわさ ) にきく電話というものであろう。「御前は大和 ( やまと ) かい。明日 ( あした ) ね、行くんだからね、鶉 ( うずら ) の三を取っておいておくれ、いいかえ——分ったかい——なに分らない? おやいやだ。鶉の三を取るんだよ。——なんだって、——取れない? 取れないはずはない、とるんだよ——へへへへへ御冗談 ( ごじょうだん ) をだって——何が御冗談なんだよ——いやに人をおひゃらかすよ。全体御前は誰だい。長吉 ( ちょうきち ) だ? 長吉なんぞじゃ訳が分らない。お神さんに電話口へ出ろって御云いな——なに? 私 ( わたく ) しで何でも弁じます?——お前は失敬だよ。妾 ( あた ) しを誰だか知ってるのかい。金田だよ。——へへへへへ善く存じておりますだって。ほんとに馬鹿だよこの人あ。——金田だってえばさ。——なに?——毎度御贔屓 ( ごひいき ) にあずかりましてありがとうございます?——何がありがたいんだね。御礼なんか聞きたかあないやね——おやまた笑ってるよ。お前はよっぽど愚物 ( ぐぶつ ) だね。——仰せの通りだって?——あんまり人を馬鹿にすると電話を切ってしまうよ。いいのかい。困らないのかよ——黙ってちゃ分らないじゃないか、何とか御云いなさいな」電話は長吉の方から切ったものか何の返事もないらしい。令嬢は癇癪 ( かんしゃく ) を起してやけにベル をジャラジャラと廻す。足元で狆 ( ちん ) が驚ろいて急に吠え出す。これは迂濶 ( うかつ ) に出来ないと、急に飛び下りて椽 ( えん ) の下へもぐり込む。
折柄 ( おりから ) 廊下を近 ( ちかづ ) く足音がして障子を開ける音がする。誰か来たなと一生懸命に聞いていると「御嬢様、旦那様と奥様が呼んでいらっしゃいます」と小間使らしい声がする。「知らないよ」と令嬢は剣突 ( けんつく ) を食わせる。「ちょっと用があるから嬢 ( じょう ) を呼んで来いとおっしゃいました」「うるさいね、知らないてば」と令嬢は第二の剣突を食わせる。「……水島寒月さんの事で御用があるんだそうでございます」と小間使は気を利 ( き ) かして機嫌を直そうとする。「寒月でも、水月でも知らないんだよ——大嫌いだわ、糸瓜 ( へちま ) が戸迷 ( とまど ) いをしたような顔をして」第三の剣突は、憐れなる寒月君が、留守中に頂戴する。「おや御前いつ束髪 ( そくはつ ) に結 ( い ) ったの」小間使はほっと一息ついて「今日 ( こんにち ) 」となるべく単簡 ( たんかん ) な挨拶をする。「生意気だねえ、小間使の癖に」と第四の剣突を別方面から食わす。「そうして新しい半襟 ( はんえり ) を掛けたじゃないか」「へえ、せんだって御嬢様からいただきましたので、結構過ぎて勿体 ( もったい ) ないと思って行李 ( こうり ) の中へしまっておきましたが、今までのがあまり汚 ( よご ) れましたからかけ易 ( か ) えました」「いつ、そんなものを上げた事があるの」「この御正月、白木屋へいらっしゃいまして、御求め遊ばしたので——鶯茶 ( うぐいすちゃ ) へ相撲 ( すもう ) の番附 ( ばんづけ ) を染め出したのでございます。妾 ( あた ) しには地味過ぎていやだから御前に上げようとおっしゃった、あれでございます」「あらいやだ。善く似合うのね。にくらしいわ」「恐れ入ります」「褒 ( ほ ) めたんじゃない。にくらしいんだよ」「へえ」「そんなによく似合うものをなぜだまって貰ったんだい」「へえ」「御前にさえ、そのくらい似合うなら、妾 ( あた ) しにだっておかしい事あないだろうじゃないか」「きっとよく御似合い遊ばします」「似あうのが分ってる癖になぜ黙っているんだい。そうしてすまして掛けているんだよ、人の悪い」剣突 ( けんつく ) は留めどもなく連発される。このさき、事局はどう発展するかと謹聴している時、向うの座敷で「富子や、富子や」と大きな声で金田君が令嬢を呼ぶ。令嬢はやむを得ず「はい」と電話室を出て行く。吾輩より少し大きな狆 ( ちん ) が顔の中心に眼と口を引き集めたような面 ( かお ) をして付いて行く。吾輩は例の忍び足で再び勝手から往来へ出て、急いで主人の家に帰る。探険はまず十二分の成績 ( せいせき ) である。
帰って見ると、奇麗な家 ( うち ) から急に汚ない所へ移ったので、何だか日当りの善い山の上から薄黒い洞窟 ( どうくつ ) の中へ入 ( はい ) り込んだような心持ちがする。探険中は、ほかの事に気を奪われて部屋の装飾、襖 ( ふすま ) 、障子 ( しょうじ ) の具合などには眼も留らなかったが、わが住居 ( すまい ) の下等なるを感ずると同時に彼 ( か ) のいわゆる月並 ( つきなみ ) が恋しくなる。教師よりもやはり実業家がえらいように思われる。吾輩も少し変だと思って、例の尻尾 ( しっぽ ) に伺いを立てて見たら、その通りその通りと尻尾の先から御託宣 ( ごたくせん ) があった。座敷へ這入 ( はい ) って見ると驚いたのは迷亭先生まだ帰らない、巻煙草 ( まきたばこ ) の吸い殻を蜂の巣のごとく火鉢の中へ突き立てて、大胡坐 ( おおあぐら ) で何か話し立てている。いつの間 ( ま ) にか寒月君さえ来ている。主人は手枕をして天井の雨洩 ( あまもり ) を余念もなく眺めている。あいかわらず太平の逸民の会合である。
「寒月君、君の事を譫語 ( うわごと ) にまで言った婦人の名は、当時秘密であったようだが、もう話しても善かろう」と迷亭がからかい出す。「御話しをしても、私だけに関する事なら差支 ( さしつか ) えないんですが、先方の迷惑になる事ですから」「まだ駄目かなあ」「それに○○博士夫人に約束をしてしまったもんですから」「他言をしないと云う約束かね」「ええ」と寒月君は例のごとく羽織の紐 ( ひも ) をひねくる。その紐は売品にあるまじき紫色である。「その紐の色は、ちと天保調 ( てんぽうちょう ) だな」と主人が寝ながら云う。主人は金田事件などには無頓着である。「そうさ、到底 ( とうてい ) 日露戦争時代のものではないな。陣笠 ( じんがさ ) に立葵 ( たちあおい ) の紋の付いたぶっ割 ( さ ) き羽織でも着なくっちゃ納まりの付かない紐だ。織田信長が聟入 ( むこいり ) をするとき頭の髪を茶筌 ( ちゃせん ) に結 ( い ) ったと云うがその節用いたのは、たしかそんな紐だよ」と迷亭の文句はあいかわらず長い。「実際これは爺 ( じじい ) が長州征伐の時に用いたのです」と寒月君は真面目である。「もういい加減に博物館へでも献納してはどうだ。首縊りの力学 の演者、理学士水島寒月君ともあろうものが、売れ残りの旗本のような出 ( い ) で立 ( たち ) をするのはちと体面に関する訳だから」「御忠告の通りに致してもいいのですが、この紐が大変よく似合うと云ってくれる人もありますので——」「誰だい、そんな趣味のない事を云うのは」と主人は寝返りを打ちながら大きな声を出す。「それは御存じの方なんじゃないんで——」「御存じでなくてもいいや、一体誰だい」「去る女性 ( にょしょう ) なんです」「ハハハハハよほど茶人だなあ、当てて見ようか、やはり隅田川の底から君の名を呼んだ女なんだろう、その羽織を着てもう一返御駄仏 ( おだぶつ ) を極 ( き ) め込んじゃどうだい」と迷亭が横合から飛び出す。「へへへへへもう水底から呼んではおりません。ここから乾 ( いぬい ) の方角にあたる清浄 ( しょうじょう ) な世界で……」「あんまり清浄でもなさそうだ、毒々しい鼻だぜ」「へえ?」と寒月は不審な顔をする。「向う横丁の鼻がさっき押しかけて来たんだよ、ここへ、実に僕等二人は驚いたよ、ねえ苦沙弥君」「うむ」と主人は寝ながら茶を飲む。「鼻って誰の事です」「君の親愛なる久遠 ( くおん ) の女性 ( にょしょう ) の御母堂様だ」「へえー」「金田の妻 ( さい ) という女が君の事を聞きに来たよ」と主人が真面目に説明してやる。驚くか、嬉しがるか、恥ずかしがるかと寒月君の様子を窺 ( うかが ) って見ると別段の事もない。例の通り静かな調子で「どうか私に、あの娘を貰ってくれと云う依頼なんでしょう」と、また紫の紐をひねくる。「ところが大違さ。その御母堂なるものが偉大なる鼻の所有主 ( ぬし ) でね……」迷亭が半 ( なか ) ば言い懸けると、主人が「おい君、僕はさっきから、あの鼻について俳体詩 ( はいたいし ) を考えているんだがね」と木に竹を接 ( つ ) いだような事を云う。隣の室 ( へや ) で妻君がくすくす笑い出す。「随分君も呑気 ( のんき ) だなあ出来たのかい」「少し出来た。第一句がこの顔に鼻祭り と云うのだ」「それから?」「次がこの鼻に神酒供え というのさ」「次の句は?」「まだそれぎりしか出来ておらん」「面白いですな」と寒月君がにやにや笑う。「次へ穴二つ幽かなり と付けちゃどうだ」と迷亭はすぐ出来る。すると寒月が「奥深く毛も見えず はいけますまいか」と各々 ( おのおの ) 出鱈目 ( でたらめ ) を並べていると、垣根に近く、往来で「今戸焼 ( いまどやき ) の狸 ( たぬき ) 今戸焼の狸」と四五人わいわい云う声がする。主人も迷亭もちょっと驚ろいて表の方を、垣の隙 ( すき ) からすかして見ると「ワハハハハハ」と笑う声がして遠くへ散る足の音がする。「今戸焼の狸というな何だい」と迷亭が不思議そうに主人に聞く。「何だか分らん」と主人が答える。「なかなか振 ( ふる ) っていますな」と寒月君が批評を加える。迷亭は何を思い出したか急に立ち上って「吾輩は年来美学上の見地からこの鼻について研究した事がございますから、その一斑 ( いっぱん ) を披瀝 ( ひれき ) して、御両君の清聴を煩 ( わずら ) わしたいと思います」と演舌の真似をやる。主人はあまりの突然にぼんやりして無言のまま迷亭を見ている。寒月は「是非承 ( うけたまわ ) りたいものです」と小声で云う。「いろいろ調べて見ましたが鼻の起源はどうも確 ( しか ) と分りません。第一の不審は、もしこれを実用上の道具と仮定すれば穴が二つでたくさんである。何もこんなに横風 ( おうふう ) に真中から突き出して見る必用がないのである。ところがどうしてだんだん御覧のごとく斯様 ( かよう ) にせり出して参ったか」と自分の鼻を抓 ( つま ) んで見せる。「あんまりせり出してもおらんじゃないか」と主人は御世辞のないところを云う。「とにかく引っ込んではおりませんからな。ただ二個の孔 ( あな ) が併 ( なら ) んでいる状体と混同なすっては、誤解を生ずるに至るかも計られませんから、予 ( あらかじ ) め御注意をしておきます。——で愚見によりますと鼻の発達は吾々人間が鼻汁 ( はな ) をかむと申す微細なる行為の結果が自然と蓄積してかく著明なる現象を呈出したものでございます」「佯 ( いつわ ) りのない愚見だ」とまた主人が寸評を挿入 ( そうにゅう ) する。「御承知の通り鼻汁 ( はな ) をかむ時は、是非鼻を抓みます、鼻を抓んで、ことにこの局部だけに刺激を与えますと、進化論の大原則によって、この局部はこの刺激に応ずるがため他に比例して不相当な発達を致します。皮も自然堅くなります、肉も次第に硬 ( かた ) くなります。ついに凝 ( こ ) って骨となります」「それは少し——そう自由に肉が骨に一足飛に変化は出来ますまい」と理学士だけあって寒月君が抗議を申し込む。迷亭は何喰わぬ顔で陳 ( の ) べ続ける。「いや御不審はごもっともですが論より証拠この通り骨があるから仕方がありません。すでに骨が出来る。骨は出来ても鼻汁 ( はな ) は出ますな。出ればかまずにはいられません。この作用で骨の左右が削 ( けず ) り取られて細い高い隆起と変化して参ります——実に恐ろしい作用です。点滴 ( てんてき ) の石を穿 ( うが ) つがごとく、賓頭顱 ( びんずる ) の頭が自 ( おのず ) から光明を放つがごとく、不思議薫 ( ふしぎくん ) 不思議臭 ( ふしぎしゅう ) の喩 ( たとえ ) のごとく、斯様 ( かよう ) に鼻筋が通って堅くなります」[#「なります」」は底本では「なります。」]「それでも君のなんぞ、ぶくぶくだぜ」「演者自身の局部は回護 ( かいご ) の恐れがありますから、わざと論じません。かの金田の御母堂の持たせらるる鼻のごときは、もっとも発達せるもっとも偉大なる天下の珍品として御両君に紹介しておきたいと思います」寒月君は思わずヒヤヤヤと云う。「しかし物も極度に達しますと偉観には相違ございませんが何となく怖 ( おそろ ) しくて近づき難いものであります。あの鼻梁 ( びりょう ) などは素晴しいには違いございませんが、少々峻嶮 ( しゅんけん ) 過ぎるかと思われます。古人のうちにてもソクラチス、ゴールドスミスもしくはサッカレーの鼻などは構造の上から云うと随分申し分はございましょうがその申し分のあるところに愛嬌 ( あいきょう ) がございます。鼻高きが故に貴 ( たっと ) からず、奇 ( き ) なるがために貴しとはこの故でもございましょうか。下世話 ( げせわ ) にも鼻より団子と申しますれば美的価値から申しますとまず迷亭くらいのところが適当かと存じます」寒月と主人は「フフフフ」と笑い出す。迷亭自身も愉快そうに笑う。「さてただ今 ( いま ) まで弁じましたのは——」「先生弁じました は少し講釈師のようで下品ですから、よしていただきましょう」と寒月君は先日の復讐 ( ふくしゅう ) をやる。「さようしからば顔を洗って出直しましょうかな。——ええ——これから鼻と顔の権衡 ( けんこう ) に一言 ( いちごん ) 論及したいと思います。他に関係なく単独に鼻論をやりますと、かの御母堂などはどこへ出しても恥ずかしからぬ鼻——鞍馬山 ( くらまやま ) で展覧会があっても恐らく一等賞だろうと思われるくらいな鼻を所有していらせられますが、悲しいかなあれは眼、口、その他の諸先生と何等の相談もなく出来上った鼻であります。ジュリアス・シーザーの鼻は大したものに相違ございません。しかしシーザーの鼻を鋏 ( はさみ ) でちょん切って、当家の猫の顔へ安置したらどんな者でございましょうか。喩 ( たと ) えにも猫の額 ( ひたい ) と云うくらいな地面へ、英雄の鼻柱が突兀 ( とっこつ ) として聳 ( そび ) えたら、碁盤の上へ奈良の大仏を据 ( す ) え付けたようなもので、少しく比例を失するの極、その美的価値を落す事だろうと思います。御母堂の鼻はシーザーのそれのごとく、正 ( まさ ) しく英姿颯爽 ( えいしさっそう ) たる隆起に相違ございません。しかしその周囲を囲繞 ( いにょう ) する顔面的条件は如何 ( いかが ) な者でありましょう。無論当家の猫のごとく劣等ではない。しかし癲癇病 ( てんかんや ) みの御かめ のごとく眉 ( まゆ ) の根に八字を刻んで、細い眼を釣るし上げらるるのは事実であります。諸君、この顔にしてこの鼻ありと嘆ぜざるを得んではありませんか」迷亭の言葉が少し途切れる途端 ( とたん ) 、裏の方で「まだ鼻の話しをしているんだよ。何てえ剛突 ( ごうつ ) く張 ( ばり ) だろう」と云う声が聞える。「車屋の神さんだ」と主人が迷亭に教えてやる。迷亭はまたやり初める。「計らざる裏手にあたって、新たに異性の傍聴者のある事を発見したのは演者の深く名誉と思うところであります。ことに宛転 ( えんてん ) たる嬌音 ( きょうおん ) をもって、乾燥なる講筵 ( こうえん ) に一点の艶味 ( えんみ ) を添えられたのは実に望外の幸福であります。なるべく通俗的に引き直して佳人淑女 ( かじんしゅくじょ ) の眷顧 ( けんこ ) に背 ( そむ ) かざらん事を期する訳でありますが、これからは少々力学上の問題に立ち入りますので、勢 ( いきおい ) 御婦人方には御分りにくいかも知れません、どうか御辛防 ( ごしんぼう ) を願います」寒月君は力学と云う語を聞いてまたにやにやする。「私の証拠立てようとするのは、この鼻とこの顔は到底調和しない。ツァイシングの黄金律 を失していると云う事なんで、それを厳格に力学上の公式から演繹 ( えんえき ) して御覧に入れようと云うのであります。まずHを鼻の高さとします。αは鼻と顔の平面の交叉より生ずる角度であります。Wは無論鼻の重量と御承知下さい。どうです大抵お分りになりましたか。……」「分るものか」と主人が云う。「寒月君はどうだい」「私にもちと分りかねますな」「そりゃ困ったな。苦沙弥 ( くしゃみ ) はとにかく、君は理学士だから分るだろうと思ったのに。この式が演説の首脳なんだからこれを略しては今までやった甲斐 ( かい ) がないのだが——まあ仕方がない。公式は略して結論だけ話そう」「結論があるか」と主人が不思議そうに聞く。「当り前さ結論のない演舌は、デザートのない西洋料理のようなものだ、——いいか両君能 ( よ ) く聞き給え、これからが結論だぜ。——さて以上の公式にウィルヒョウ、ワイスマン諸家の説を参酌して考えて見ますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に追陪 ( ついばい ) して起る心意的状況は、たとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。従ってかくのごとく身分に不似合なる鼻の持主の生んだ子には、その鼻にも何か異状がある事と察せられます。寒月君などは、まだ年が御若いから金田令嬢の鼻の構造において特別の異状を認められんかも知れませんが、かかる遺伝は潜伏期の長いものでありますから、いつ何時 ( なんどき ) 気候の劇変と共に、急に発達して御母堂のそれのごとく、咄嗟 ( とっさ ) の間 ( かん ) に膨脹 ( ぼうちょう ) するかも知れません、それ故にこの御婚儀は、迷亭の学理的論証によりますと、今の中御断念になった方が安全かと思われます、これには当家の御主人は無論の事、そこに寝ておらるる猫又殿 ( ねこまたどの ) にも御異存は無かろうと存じます」主人はようよう起き返って「そりゃ無論さ。あんなものの娘を誰が貰うものか。寒月君もらっちゃいかんよ」と大変熱心に主張する。吾輩もいささか賛成の意を表するためににゃーにゃーと二声ばかり鳴いて見せる。寒月君は別段騒いだ様子もなく「先生方の御意向がそうなら、私は断念してもいいんですが、もし当人がそれを気にして病気にでもなったら罪ですから——」「ハハハハハ艶罪 ( えんざい ) と云う訳 ( わけ ) だ」主人だけは大 ( おおい ) にむきになって「そんな馬鹿があるものか、あいつの娘なら碌 ( ろく ) な者でないに極 ( きま ) ってらあ。初めて人のうちへ来ておれをやり込めに掛った奴だ。傲慢 ( ごうまん ) な奴だ」と独 ( ひと ) りでぷんぷんする。するとまた垣根のそばで三四人が「ワハハハハハ」と云う声がする。一人が「高慢ちきな唐変木 ( とうへんぼく ) だ」と云うと一人が「もっと大きな家 ( うち ) へ這入 ( はい ) りてえだろう」と云う。また一人が「御気の毒だが、いくら威張ったって蔭弁慶 ( かげべんけい ) だ」と大きな声をする。主人は椽側 ( えんがわ ) へ出て負けないような声で「やかましい、何だわざわざそんな塀 ( へい ) の下へ来て」と怒鳴 ( どな ) る。「ワハハハハハサヴェジ・チーだ、サヴェジ・チーだ」と口々に罵 ( のの ) しる。主人は大 ( おおい ) に逆鱗 ( げきりん ) の体 ( てい ) で突然起 ( た ) ってステッキを持って、往来へ飛び出す。迷亭は手を拍 ( う ) って「面白い、やれやれ」と云う。寒月は羽織の紐を撚 ( ひね ) ってにやにやする。吾輩は主人のあとを付けて垣の崩れから往来へ出て見たら、真中に主人が手持無沙汰にステッキを突いて立っている。人通りは一人もない、ちょっと狐 ( きつね ) に抓 ( つま ) まれた体 ( てい ) である。
例によって金田邸へ忍び込む。
例によって とは今更 ( いまさら ) 解釈する必要もない。しばしば を自乗 ( じじょう ) したほどの度合を示す語 ( ことば ) である。一度やった事は二度やりたいもので、二度試みた事は三度試みたいのは人間にのみ限らるる好奇心ではない、猫といえどもこの心理的特権を有してこの世界に生れ出でたものと認定していただかねばならぬ。三度以上繰返す時始めて習慣なる語を冠せられて、この行為が生活上の必要と進化するのもまた人間と相違はない。何のために、かくまで足繁 ( あししげ ) く金田邸へ通うのかと不審を起すならその前にちょっと人間に反問したい事がある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の足 ( た ) しにも血の道の薬にもならないものを、恥 ( はず ) かし気 ( げ ) もなく吐呑 ( とどん ) して憚 ( はば ) からざる以上は、吾輩が金田に出入 ( しゅつにゅう ) するのを、あまり大きな声で咎 ( とが ) め立 ( だ ) てをして貰いたくない。金田邸は吾輩の煙草 ( たばこ ) である。
忍び込む と云うと語弊がある、何だか泥棒か間男 ( まおとこ ) のようで聞き苦しい。吾輩が金田邸へ行くのは、招待こそ受けないが、決して鰹 ( かつお ) の切身 ( きりみ ) をちょろまかしたり、眼鼻が顔の中心に痙攣的 ( けいれんてき ) に密着している狆 ( ちん ) 君などと密談するためではない。——何探偵?——もってのほかの事である。およそ世の中に何が賤 ( いや ) しい家業 ( かぎょう ) だと云って探偵と高利貸ほど下等な職はないと思っている。なるほど寒月君のために猫にあるまじきほどの義侠心 ( ぎきょうしん ) を起して、一度 ( ひとたび ) は金田家の動静を余所 ( よそ ) ながら窺 ( うかが ) った事はあるが、それはただの一遍で、その後は決して猫の良心に恥ずるような陋劣 ( ろうれつ ) な振舞を致した事はない。——そんなら、なぜ忍び込む と云 ( い ) うような胡乱 ( うろん ) な文字を使用した?——さあ、それがすこぶる意味のある事だて。元来吾輩の考によると大空 ( たいくう ) は万物を覆 ( おお ) うため大地は万物を載 ( の ) せるために出来ている——いかに執拗 ( しつよう ) な議論を好む人間でもこの事実を否定する訳には行くまい。さてこの大空大地 ( たいくうだいち ) を製造するために彼等人類はどのくらいの労力を費 ( つい ) やしているかと云うと尺寸 ( せきすん ) の手伝もしておらぬではないか。自分が製造しておらぬものを自分の所有と極 ( き ) める法はなかろう。自分の所有と極めても差 ( さ ) し支 ( つか ) えないが他の出入 ( しゅつにゅう ) を禁ずる理由はあるまい。この茫々 ( ぼうぼう ) たる大地を、小賢 ( こざか ) しくも垣を囲 ( めぐ ) らし棒杭 ( ぼうぐい ) を立てて某々所有地などと劃 ( かく ) し限るのはあたかもかの蒼天 ( そうてん ) に縄張 ( なわばり ) して、この部分は我 ( われ ) の天、あの部分は彼 ( かれ ) の天と届け出るような者だ。もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するなら我等が呼吸する空気を一尺立方に割って切売をしても善い訳である。空気の切売が出来ず、空の縄張が不当なら地面の私有も不合理ではないか。如是観 ( にょぜかん ) によりて、如是法 ( にょぜほう ) を信じている吾輩はそれだからどこへでも這入 ( はい ) って行く。もっとも行きたくない処へは行かぬが、志す方角へは東西南北の差別は入らぬ、平気な顔をして、のそのそと参る。金田ごときものに遠慮をする訳がない。——しかし猫の悲しさは力ずくでは到底 ( とうてい ) 人間には叶 ( かな ) わない。強勢は権利なりとの格言さえあるこの浮世に存在する以上は、いかにこっちに道理があっても猫の議論は通らない。無理に通そうとすると車屋の黒のごとく不意に肴屋 ( さかなや ) の天秤棒 ( てんびんぼう ) を喰 ( くら ) う恐れがある。理はこっちにあるが権力は向うにあると云う場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、または権力の目を掠 ( かす ) めて我理を貫くかと云えば、吾輩は無論後者を択 ( えら ) ぶのである。天秤棒は避けざるべからざるが故に、忍 ばざるべからず。人の邸内へは這入り込んで差支 ( さしつか ) えなき故込 まざるを得ず。この故に吾輩は金田邸へ忍び込む のである。
忍び込む度 ( ど ) が重なるにつけ、探偵をする気はないが自然金田君一家の事情が見たくもない吾輩の眼に映じて覚えたくもない吾輩の脳裏 ( のうり ) に印象を留 ( とど ) むるに至るのはやむを得ない。鼻子夫人が顔を洗うたんびに念を入れて鼻だけ拭く事や、富子令嬢が阿倍川餅 ( あべかわもち ) を無暗 ( むやみ ) に召し上がらるる事や、それから金田君自身が——金田君は妻君に似合わず鼻の低い男である。単に鼻のみではない、顔全体が低い。小供の時分喧嘩をして、餓鬼大将 ( がきだいしょう ) のために頸筋 ( くびすじ ) を捉 ( つら ) まえられて、うんと精一杯に土塀 ( どべい ) へ圧 ( お ) し付けられた時の顔が四十年後の今日 ( こんにち ) まで、因果 ( いんが ) をなしておりはせぬかと怪 ( あやし ) まるるくらい平坦な顔である。至極 ( しごく ) 穏かで危険のない顔には相違ないが、何となく変化に乏しい。いくら怒 ( おこ ) っても平 ( たいら ) かな顔である。——その金田君が鮪 ( まぐろ ) の刺身 ( さしみ ) を食って自分で自分の禿頭 ( はげあたま ) をぴちゃぴちゃ叩 ( たた ) く事や、それから顔が低いばかりでなく背が低いので、無暗に高い帽子と高い下駄を穿 ( は ) く事や、それを車夫がおかしがって書生に話す事や、書生がなるほど君の観察は機敏だと感心する事や、——一々数え切れない。
近頃は勝手口の横を庭へ通り抜けて、築山 ( つきやま ) の陰から向うを見渡して障子が立て切って物静かであるなと見極めがつくと、徐々 ( そろそろ ) 上り込む。もし人声が賑 ( にぎや ) かであるか、座敷から見透 ( みす ) かさるる恐れがあると思えば池を東へ廻って雪隠 ( せついん ) の横から知らぬ間 ( ま ) に椽 ( えん ) の下へ出る。悪い事をした覚 ( おぼえ ) はないから何も隠れる事も、恐れる事もないのだが、そこが人間と云う無法者に逢っては不運と諦 ( あきら ) めるより仕方がないので、もし世間が熊坂長範 ( くまさかちょうはん ) ばかりになったらいかなる盛徳の君子もやはり吾輩のような態度に出ずるであろう。金田君は堂々たる実業家であるから固 ( もと ) より熊坂長範のように五尺三寸を振り廻す気遣 ( きづかい ) はあるまいが、承 ( うけたまわ ) る処によれば人を人と思わぬ病気があるそうである。人を人と思わないくらいなら猫を猫とも思うまい。して見れば猫たるものはいかなる盛徳の猫でも彼の邸内で決して油断は出来ぬ訳 ( わけ ) である。しかしその油断の出来ぬところが吾輩にはちょっと面白いので、吾輩がかくまでに金田家の門を出入 ( しゅつにゅう ) するのも、ただこの危険が冒 ( おか ) して見たいばかりかも知れぬ。それは追って篤 ( とく ) と考えた上、猫の脳裏 ( のうり ) を残りなく解剖し得た時改めて御吹聴 ( ごふいちょう ) 仕 ( つかまつ ) ろう。
今日はどんな模様だなと、例の築山の芝生 ( しばふ ) の上に顎 ( あご ) を押しつけて前面を見渡すと十五畳の客間を弥生 ( やよい ) の春に明け放って、中には金田夫婦と一人の来客との御話 ( おはなし ) 最中 ( さいちゅう ) である。生憎 ( あいにく ) 鼻子夫人の鼻がこっちを向いて池越しに吾輩の額の上を正面から睨 ( にら ) め付けている。鼻に睨まれたのは生れて今日が始めてである。金田君は幸い横顔を向けて客と相対しているから例の平坦な部分は半分かくれて見えぬが、その代り鼻の在所 ( ありか ) が判然しない。ただ胡麻塩 ( ごましお ) 色の口髯 ( くちひげ ) が好い加減な所から乱雑に茂生 ( もせい ) しているので、あの上に孔 ( あな ) が二つあるはずだと結論だけは苦もなく出来る。春風 ( はるかぜ ) もああ云う滑 ( なめら ) かな顔ばかり吹いていたら定めて楽 ( らく ) だろうと、ついでながら想像を逞 ( たくま ) しゅうして見た。御客さんは三人の中 ( うち ) で一番普通な容貌 ( ようぼう ) を有している。ただし普通なだけに、これぞと取り立てて紹介するに足るような雑作 ( ぞうさく ) は一つもない。普通と云うと結構なようだが、普通の極 ( きょく ) 平凡の堂に上 ( のぼ ) り、庸俗の室に入 ( い ) ったのはむしろ憫然 ( びんぜん ) の至りだ。かかる無意味な面構 ( つらがまえ ) を有すべき宿命を帯びて明治の昭代 ( しょうだい ) に生れて来たのは誰だろう。例のごとく椽の下まで行ってその談話を承わらなくては分らぬ。
「……それで妻 ( さい ) がわざわざあの男の所まで出掛けて行って容子 ( ようす ) を聞いたんだがね……」と金田君は例のごとく横風 ( おうふう ) な言葉使である。横風ではあるが毫 ( ごう ) も峻嶮 ( しゅんけん ) なところがない。言語も彼の顔面のごとく平板尨大 ( へいばんぼうだい ) である。
「なるほどあの男が水島さんを教えた事がございますので——なるほど、よい御思い付きで——なるほど」となるほどずくめのは御客さんである。
「ところが何だか要領を得んので」
「ええ苦沙弥 ( くしゃみ ) じゃ要領を得ない訳 ( わけ ) で——あの男は私がいっしょに下宿をしている時分から実に煮 ( に ) え切らない——そりゃ御困りでございましたろう」と御客さんは鼻子夫人の方を向く。
「困るの、困らないのってあなた、私 ( わた ) しゃこの年になるまで人のうちへ行って、あんな不取扱 ( ふとりあつかい ) を受けた事はありゃしません」と鼻子は例によって鼻嵐を吹く。
「何か無礼な事でも申しましたか、昔 ( むか ) しから頑固 ( がんこ ) な性分で——何しろ十年一日のごとくリードル専門の教師をしているのでも大体御分りになりましょう」と御客さんは体 ( てい ) よく調子を合せている。
「いや御話しにもならんくらいで、妻 ( さい ) が何か聞くとまるで剣もほろろの挨拶だそうで……」
「それは怪 ( け ) しからん訳で——一体少し学問をしているととかく慢心が萌 ( きざ ) すもので、その上貧乏をすると負け惜しみが出ますから——いえ世の中には随分無法な奴がおりますよ。自分の働きのないのにゃ気が付かないで、無暗 ( むやみ ) に財産のあるものに喰って掛るなんてえのが——まるで彼等の財産でも捲 ( ま ) き上げたような気分ですから驚きますよ、あははは」と御客さんは大恐悦の体 ( てい ) である。
「いや、まことに言語同断 ( ごんごどうだん ) で、ああ云うのは必竟 ( ひっきょう ) 世間見ずの我儘 ( わがまま ) から起るのだから、ちっと懲 ( こ ) らしめのためにいじめてやるが好かろうと思って、少し当ってやったよ」
「なるほどそれでは大分 ( だいぶ ) 答えましたろう、全く本人のためにもなる事ですから」と御客さんはいかなる当り方 か承 ( うけたまわ ) らぬ先からすでに金田君に同意している。
「ところが鈴木さん、まあなんて頑固な男なんでしょう。学校へ出ても福地 ( ふくち ) さんや、津木 ( つき ) さんには口も利 ( き ) かないんだそうです。恐れ入って黙っているのかと思ったらこの間は罪もない、宅 ( たく ) の書生をステッキを持って追っ懸けたってんです——三十面 ( づら ) さげて、よく、まあ、そんな馬鹿な真似が出来たもんじゃありませんか、全くやけ で少し気が変になってるんですよ」
「へえどうしてまたそんな乱暴な事をやったんで……」とこれには、さすがの御客さんも少し不審を起したと見える。
「なあに、ただあの男の前を何とか云って通ったんだそうです、すると、いきなり、ステッキを持って跣足 ( はだし ) で飛び出して来たんだそうです。よしんば、ちっとやそっと、何か云ったって小供じゃありませんか、髯面 ( ひげづら ) の大僧 ( おおぞう ) の癖にしかも教師じゃありませんか」
「さよう教師ですからな」と御客さんが云うと、金田君も「教師だからな」と云う。教師たる以上はいかなる侮辱を受けても木像のようにおとなしくしておらねばならぬとはこの三人の期せずして一致した論点と見える。
「それに、あの迷亭って男はよっぽどな酔興人 ( すいきょうじん ) ですね。役にも立たない嘘 ( うそ ) 八百を並べ立てて。私 ( わた ) しゃあんな変梃 ( へんてこ ) な人にゃ初めて逢いましたよ」
「ああ迷亭ですか、あいかわらず法螺 ( ほら ) を吹くと見えますね。やはり苦沙弥の所で御逢いになったんですか。あれに掛っちゃたまりません。あれも昔 ( むか ) し自炊の仲間でしたがあんまり人を馬鹿にするものですから能 ( よ ) く喧嘩をしましたよ」
「誰だって怒りまさあね、あんなじゃ。そりゃ嘘をつくのも宜 ( よ ) うござんしょうさ、ね、義理が悪るいとか、ばつを合せなくっちゃあならないとか——そんな時には誰しも心にない事を云うもんでさあ。しかしあの男のは吐 ( つ ) かなくってすむのに矢鱈 ( やたら ) に吐くんだから始末に了 ( お ) えないじゃありませんか。何が欲しくって、あんな出鱈目 ( でたらめ ) を——よくまあ、しらじらしく云えると思いますよ」
「ごもっともで、全く道楽からくる嘘だから困ります」
「せっかくあなた真面目に聞きに行った水島の事も滅茶滅茶 ( めちゃめちゃ ) になってしまいました。私 ( わたし ) ゃ剛腹 ( ごうはら ) で忌々 ( いまいま ) しくって——それでも義理は義理でさあ、人のうちへ物を聞きに行って知らん顔の半兵衛もあんまりですから、後 ( あと ) で車夫にビールを一ダース持たせてやったんです。ところがあなたどうでしょう。こんなものを受取る理由がない、持って帰れって云うんだそうで。いえ御礼だから、どうか御取り下さいって車夫が云ったら——悪 ( に ) くいじゃあありませんか、俺はジャムは毎日舐 ( な ) めるがビールのような苦 ( にが ) い者は飲んだ事がないって、ふいと奥へ這入 ( はい ) ってしまったって——言い草に事を欠いて、まあどうでしょう、失礼じゃありませんか」
「そりゃ、ひどい」と御客さんも今度は本気に苛 ( ひど ) いと感じたらしい。
「そこで今日わざわざ君を招いたのだがね」としばらく途切れて金田君の声が聞える。「そんな馬鹿者は陰から、からかってさえいればすむようなものの、少々それでも困る事があるじゃて……」と鮪 ( まぐろ ) の刺身を食う時のごとく禿頭 ( はげあたま ) をぴちゃぴちゃ叩 ( たた ) く。もっとも吾輩は椽 ( えん ) の下にいるから実際叩いたか叩かないか見えようはずがないが、この禿頭の音は近来大分 ( だいぶ ) 聞馴れている。比丘尼 ( びくに ) が木魚の音を聞き分けるごとく、椽の下からでも音さえたしかであればすぐ禿頭だなと出所 ( しゅっしょ ) を鑑定する事が出来る。「そこでちょっと君を煩 ( わずら ) わしたいと思ってな……」
「私に出来ます事なら何でも御遠慮なくどうか——今度東京勤務と云う事になりましたのも全くいろいろ御心配を掛けた結果にほかならん訳でありますから」と御客さんは快よく金田君の依頼を承諾する。この口調 ( くちょう ) で見るとこの御客さんはやはり金田君の世話になる人と見える。いやだんだん事件が面白く発展してくるな、今日はあまり天気が宜 ( い ) いので、来る気もなしに来たのであるが、こう云う好材料を得 ( え ) ようとは全く思い掛 ( が ) けなんだ。御彼岸 ( おひがん ) にお寺詣 ( てらまい ) りをして偶然方丈 ( ほうじょう ) で牡丹餅 ( ぼたもち ) の御馳走になるような者だ。金田君はどんな事を客人に依頼するかなと、椽の下から耳を澄して聞いている。
「あの苦沙弥と云う変物 ( へんぶつ ) が、どう云う訳か水島に入 ( い ) れ智慧 ( ぢえ ) をするので、あの金田の娘を貰っては行 ( い ) かんなどとほのめかすそうだ——なあ鼻子そうだな」
「ほのめかすどころじゃないんです。あんな奴の娘を貰う馬鹿がどこの国にあるものか、寒月君決して貰っちゃいかんよって云うんです」
「あんな奴とは何だ失敬な、そんな乱暴な事を云ったのか」
「云ったどころじゃありません、ちゃんと車屋の神さんが知らせに来てくれたんです」
「鈴木君どうだい、御聞の通りの次第さ、随分厄介だろうが?」
「困りますね、ほかの事と違って、こう云う事には他人が妄 ( みだ ) りに容喙 ( ようかい ) するべきはずの者ではありませんからな。そのくらいな事はいかな苦沙弥でも心得ているはずですが。一体どうした訳なんでしょう」
「それでの、君は学生時代から苦沙弥と同宿をしていて、今はとにかく、昔は親密な間柄であったそうだから御依頼するのだが、君当人に逢ってな、よく利害を諭 ( さと ) して見てくれんか。何か怒 ( おこ ) っているかも知れんが、怒るのは向 ( むこう ) が悪 ( わ ) るいからで、先方がおとなしくしてさえいれば一身上の便宜も充分計ってやるし、気に障 ( さ ) わるような事もやめてやる。しかし向が向ならこっちもこっちと云う気になるからな——つまりそんな我 ( が ) を張るのは当人の損だからな」
「ええ全くおっしゃる通り愚 ( ぐ ) な抵抗をするのは本人の損になるばかりで何の益もない事ですから、善く申し聞けましょう」
「それから娘はいろいろと申し込もある事だから、必ず水島にやると極 ( き ) める訳にも行かんが、だんだん聞いて見ると学問も人物も悪くもないようだから、もし当人が勉強して近い内に博士にでもなったらあるいはもらう事が出来るかも知れんくらいはそれとなくほのめかしても構わん」
「そう云ってやったら当人も励 ( はげ ) みになって勉強する事でしょう。宜 ( よろ ) しゅうございます」
「それから、あの妙な事だが——水島にも似合わん事だと思うが、あの変物 ( へんぶつ ) の苦沙弥を先生先生と云って苦沙弥の云う事は大抵聞く様子だから困る。なにそりゃ何も水島に限る訳では無論ないのだから苦沙弥が何と云って邪魔をしようと、わしの方は別に差支 ( さしつか ) えもせんが……」
「水島さんが可哀そうですからね」と鼻子夫人が口を出す。
「水島と云う人には逢った事もございませんが、とにかくこちらと御縁組が出来れば生涯 ( しょうがい ) の幸福で、本人は無論異存はないのでしょう」
「ええ水島さんは貰いたがっているんですが、苦沙弥だの迷亭だのって変り者が何だとか、かんだとか云うものですから」
「そりゃ、善くない事で、相当の教育のあるものにも似合わん所作 ( しょさ ) ですな。よく私が苦沙弥の所へ参って談じましょう」
「ああ、どうか、御面倒でも、一つ願いたい。それから実は水島の事も苦沙弥が一番詳 ( くわ ) しいのだがせんだって妻 ( さい ) が行った時は今の始末で碌々 ( ろくろく ) 聞く事も出来なかった訳だから、君から今一応本人の性行学才等をよく聞いて貰いたいて」
「かしこまりました。今日は土曜ですからこれから廻ったら、もう帰っておりましょう。近頃はどこに住んでおりますか知らん」
「ここの前を右へ突き当って、左へ一丁ばかり行くと崩れかかった黒塀のあるうちです」と鼻子が教える。
「それじゃ、つい近所ですな。訳はありません。帰りにちょっと寄って見ましょう。なあに、大体分りましょう標札 ( ひょうさつ ) を見れば」
「標札はあるときと、ないときとありますよ。名刺を御饌粒 ( ごぜんつぶ ) で門へ貼 ( は ) り付けるのでしょう。雨がふると剥 ( は ) がれてしまいましょう。すると御天気の日にまた貼り付けるのです。だから標札は当 ( あて ) にゃなりませんよ。あんな面倒臭い事をするよりせめて木札 ( きふだ ) でも懸けたらよさそうなもんですがねえ。ほんとうにどこまでも気の知れない人ですよ」
「どうも驚きますな。しかし崩れた黒塀のうちと聞いたら大概分るでしょう」
「ええあんな汚ないうちは町内に一軒しかないから、すぐ分りますよ。あ、そうそうそれで分らなければ、好い事がある。何でも屋根に草が生 ( は ) えたうちを探して行けば間違っこありませんよ」
「よほど特色のある家 ( いえ ) ですなアハハハハ」
鈴木君が御光来になる前に帰らないと、少し都合が悪い。談話もこれだけ聞けば大丈夫沢山である。椽 ( えん ) の下を伝わって雪隠 ( せついん ) を西へ廻って築山 ( つきやま ) の陰から往来へ出て、急ぎ足で屋根に草の生えているうちへ帰って来て何喰わぬ顔をして座敷の椽へ廻る。
主人は椽側へ白毛布 ( しろげっと ) を敷いて、腹這 ( はらばい ) になって麗 ( うらら ) かな春日 ( はるび ) に甲羅 ( こうら ) を干している。太陽の光線は存外公平なもので屋根にペンペン草の目標のある陋屋 ( ろうおく ) でも、金田君の客間のごとく陽気に暖かそうであるが、気の毒な事には毛布 ( けっと ) だけが春らしくない。製造元では白のつもりで織り出して、唐物屋 ( とうぶつや ) でも白の気で売り捌 ( さば ) いたのみならず、主人も白と云う注文で買って来たのであるが——何しろ十二三年以前の事だから白の時代はとくに通り越してただ今は濃灰色 ( のうかいしょく ) なる変色の時期に遭遇 ( そうぐう ) しつつある。この時期を経過して他の暗黒色に化けるまで毛布の命が続くかどうだかは、疑問である。今でもすでに万遍なく擦 ( す ) り切れて、竪横 ( たてよこ ) の筋は明かに読まれるくらいだから、毛布と称するのはもはや僭上 ( せんじょう ) の沙汰であって、毛の字は省 ( はぶ ) いて単にット とでも申すのが適当である。しかし主人の考えでは一年持ち、二年持ち、五年持ち十年持った以上は生涯 ( しょうがい ) 持たねばならぬと思っているらしい。随分呑気 ( のんき ) な事である。さてその因縁 ( いんねん ) のある毛布 ( けっと ) の上へ前 ( ぜん ) 申す通り腹這になって何をしているかと思うと両手で出張った顋 ( あご ) を支えて、右手の指の股に巻煙草 ( まきたばこ ) を挟んでいる。ただそれだけである。もっとも彼がフケ だらけの頭の裏 ( うち ) には宇宙の大真理が火の車のごとく廻転しつつあるかも知れないが、外部から拝見したところでは、そんな事とは夢にも思えない。
煙草の火はだんだん吸口の方へ逼 ( せま ) って、一寸 ( いっすん ) ばかり燃え尽した灰の棒がぱたりと毛布の上に落つるのも構わず主人は一生懸命に煙草から立ち上 ( のぼ ) る煙の行末を見詰めている。その煙りは春風に浮きつ沈みつ、流れる輪を幾重 ( いくえ ) にも描いて、紫深き細君の洗髪 ( あらいがみ ) の根本へ吹き寄せつつある。——おや、細君の事を話しておくはずだった。忘れていた。
細君は主人に尻 ( しり ) を向けて——なに失礼な細君だ? 別に失礼な事はないさ。礼も非礼も相互の解釈次第でどうでもなる事だ。主人は平気で細君の尻のところへ頬杖 ( ほおづえ ) を突き、細君は平気で主人の顔の先へ荘厳 ( そうごん ) なる尻を据 ( す ) えたまでの事で無礼も糸瓜 ( へちま ) もないのである。御両人は結婚後一ヵ年も立たぬ間 ( ま ) に礼儀作法などと窮屈な境遇を脱却せられた超然的夫婦である。——さてかくのごとく主人に尻を向けた細君はどう云う了見 ( りょうけん ) か、今日の天気に乗じて、尺に余る緑の黒髪を、麩海苔 ( ふのり ) と生卵でゴシゴシ洗濯せられた者と見えて癖のない奴を、見よがしに肩から背へ振りかけて、無言のまま小供の袖なしを熱心に縫っている。実はその洗髪を乾かすために唐縮緬 ( とうちりめん ) の布団 ( ふとん ) と針箱を椽側 ( えんがわ ) へ出して、恭 ( うやうや ) しく主人に尻を向けたのである。あるいは主人の方で尻のある見当 ( けんとう ) へ顔を持って来たのかも知れない。そこで先刻御話しをした煙草 ( たばこ ) の煙りが、豊かに靡 ( なび ) く黒髪の間に流れ流れて、時ならぬ陽炎 ( かげろう ) の燃えるところを主人は余念もなく眺めている。しかしながら煙は固 ( もと ) より一所 ( いっしょ ) に停 ( とど ) まるものではない、その性質として上へ上へと立ち登るのだから主人の眼もこの煙りの髪毛 ( かみげ ) と縺 ( もつ ) れ合う奇観を落ちなく見ようとすれば、是非共眼を動かさなければならない。主人はまず腰の辺から観察を始めて徐々 ( じょじょ ) と背中を伝 ( つた ) って、肩から頸筋 ( くびすじ ) に掛ったが、それを通り過ぎてようよう脳天に達した時、覚えずあっと驚いた。——主人が偕老同穴 ( かいろうどうけつ ) を契 ( ちぎ ) った夫人の脳天の真中には真丸 ( まんまる ) な大きな禿 ( はげ ) がある。しかもその禿が暖かい日光を反射して、今や時を得顔に輝いている。思わざる辺 ( へん ) にこの不思議な大発見をなした時の主人の眼は眩 ( まば ) ゆい中に充分の驚きを示して、烈しい光線で瞳孔 ( どうこう ) の開くのも構わず一心不乱に見つめている。主人がこの禿を見た時、第一彼の脳裏 ( のうり ) に浮んだのはかの家 ( いえ ) 伝来の仏壇に幾世となく飾り付けられたる御灯明皿 ( おとうみょうざら ) である。彼の一家 ( いっけ ) は真宗で、真宗では仏壇に身分不相応な金を掛けるのが古例である。主人は幼少の時その家の倉の中に、薄暗く飾り付けられたる金箔 ( きんぱく ) 厚き厨子 ( ずし ) があって、その厨子の中にはいつでも真鍮 ( しんちゅう ) の灯明皿がぶら下って、その灯明皿には昼でもぼんやりした灯 ( ひ ) がついていた事を記憶している。周囲が暗い中にこの灯明皿が比較的明瞭に輝やいていたので小供心にこの灯を何遍となく見た時の印象が細君の禿に喚 ( よ ) び起されて突然飛び出したものであろう。灯明皿は一分立たぬ間 ( ま ) に消えた。この度 ( たび ) は観音様 ( かんのんさま ) の鳩の事を思い出す。観音様の鳩と細君の禿とは何等の関係もないようであるが、主人の頭では二つの間に密接な聯想がある。同じく小供の時分に浅草へ行くと必ず鳩に豆を買ってやった。豆は一皿が文久 ( ぶんきゅう ) 二つで、赤い土器 ( かわらけ ) へ這入 ( はい ) っていた。その土器 ( かわらけ ) が、色と云い大 ( おおき ) さと云いこの禿によく似ている。
「なるほど似ているな」と主人が、さも感心したらしく云うと「何がです」と細君は見向きもしない。
「何だって、御前の頭にゃ大きな禿があるぜ。知ってるか」
「ええ」と細君は依然として仕事の手をやめずに答える。別段露見を恐れた様子もない。超然たる模範妻君である。
「嫁にくるときからあるのか、結婚後新たに出来たのか」と主人が聞く。もし嫁にくる前から禿げているなら欺 ( だま ) されたのであると口へは出さないが心の中 ( うち ) で思う。
「いつ出来たんだか覚えちゃいませんわ、禿なんざどうだって宜 ( い ) いじゃありませんか」と大 ( おおい ) に悟ったものである。
「どうだって宜いって、自分の頭じゃないか」と主人は少々怒気を帯びている。
「自分の頭だから、どうだって宜 ( い ) いんだわ」と云ったが、さすが少しは気になると見えて、右の手を頭に乗せて、くるくる禿を撫 ( な ) でて見る。「おや大分 ( だいぶ ) 大きくなった事、こんなじゃ無いと思っていた」と言ったところをもって見ると、年に合わして禿があまり大き過ぎると云う事をようやく自覚したらしい。
「女は髷 ( まげ ) に結 ( ゆ ) うと、ここが釣れますから誰でも禿げるんですわ」と少しく弁護しだす。
「そんな速度で、みんな禿げたら、四十くらいになれば、から薬缶 ( やかん ) ばかり出来なければならん。そりゃ病気に違いない。伝染するかも知れん、今のうち早く甘木さんに見て貰え」と主人はしきりに自分の頭を撫 ( な ) で廻して見る。
「そんなに人の事をおっしゃるが、あなただって鼻の孔 ( あな ) へ白髪 ( しらが ) が生 ( は ) えてるじゃありませんか。禿が伝染するなら白髪だって伝染しますわ」と細君少々ぷりぷりする。
「鼻の中の白髪は見えんから害はないが、脳天が——ことに若い女の脳天がそんなに禿げちゃ見苦しい。不具 ( かたわ ) だ」
「不具 ( かたわ ) なら、なぜ御貰いになったのです。御自分が好きで貰っておいて不具だなんて……」
「知らなかったからさ。全く今日 ( きょう ) まで知らなかったんだ。そんなに威張るなら、なぜ嫁に来る時頭を見せなかったんだ」
「馬鹿な事を! どこの国に頭の試験をして及第したら嫁にくるなんて、ものが在るもんですか」
「禿はまあ我慢もするが、御前は背 ( せ ) いが人並外 ( はず ) れて低い。はなはだ見苦しくていかん」
「背いは見ればすぐ分るじゃありませんか、背 ( せい ) の低いのは最初から承知で御貰いになったんじゃありませんか」
「それは承知さ、承知には相違ないがまだ延びるかと思ったから貰ったのさ」
「廿 ( はたち ) にもなって背 ( せ ) いが延びるなんて——あなたもよっぽど人を馬鹿になさるのね」と細君は袖 ( そで ) なしを抛 ( ほう ) り出して主人の方に捩 ( ね ) じ向く。返答次第ではその分にはすまさんと云う権幕 ( けんまく ) である。
「廿 ( はたち ) になったって背いが延びてならんと云う法はあるまい。嫁に来てから滋養分でも食わしたら、少しは延びる見込みがあると思ったんだ」と真面目な顔をして妙な理窟 ( りくつ ) を述べていると門口 ( かどぐち ) のベルが勢 ( いきおい ) よく鳴り立てて頼むと云う大きな声がする。いよいよ鈴木君がペンペン草を目的 ( めあて ) に苦沙弥 ( くしゃみ ) 先生の臥竜窟 ( がりょうくつ ) を尋ねあてたと見える。
細君は喧嘩を後日に譲って、倉皇 ( そうこう ) 針箱と袖なしを抱 ( かか ) えて茶の間へ逃げ込む。主人は鼠色の毛布 ( けっと ) を丸めて書斎へ投げ込む。やがて下女が持って来た名刺を見て、主人はちょっと驚ろいたような顔付であったが、こちらへ御通し申してと言い棄てて、名刺を握ったまま後架 ( こうか ) へ這入 ( はい ) った。何のために後架へ急に這入ったか一向要領を得ん、何のために鈴木藤十郎 ( すずきとうじゅうろう ) 君の名刺を後架まで持って行ったのかなおさら説明に苦しむ。とにかく迷惑なのは臭い所へ随行を命ぜられた名刺君である。
下女が更紗 ( さらさ ) の座布団を床 ( とこ ) の前へ直して、どうぞこれへと引き下がった、跡 ( あと ) で、鈴木君は一応室内を見廻わす。床に掛けた花開 ( はなひらく ) 万国春 ( ばんこくのはる ) とある木菴 ( もくあん ) の贋物 ( にせもの ) や、京製の安青磁 ( やすせいじ ) に活 ( い ) けた彼岸桜 ( ひがんざくら ) などを一々順番に点検したあとで、ふと下女の勧めた布団の上を見るといつの間 ( ま ) にか一疋 ( ぴき ) の猫がすまして坐っている。申すまでもなくそれはかく申す吾輩である。この時鈴木君の胸のうちにちょっとの間顔色にも出ぬほどの風波が起った。この布団は疑いもなく鈴木君のために敷かれたものである。自分のために敷かれた布団の上に自分が乗らぬ先から、断りもなく妙な動物が平然と蹲踞 ( そんきょ ) している。これが鈴木君の心の平均を破る第一の条件である。もしこの布団が勧められたまま、主 ( ぬし ) なくして春風の吹くに任せてあったなら、鈴木君はわざと謙遜 ( けんそん ) の意を表 ( ひょう ) して、主人がさあどうぞと云うまでは堅い畳の上で我慢していたかも知れない。しかし早晩自分の所有すべき布団の上に挨拶もなく乗ったものは誰であろう。人間なら譲る事もあろうが猫とは怪 ( け ) しからん。乗り手が猫であると云うのが一段と不愉快を感ぜしめる。これが鈴木君の心の平均を破る第二の条件である。最後にその猫の態度がもっとも癪 ( しゃく ) に障る。少しは気の毒そうにでもしている事か、乗る権利もない布団の上に、傲然 ( ごうぜん ) と構えて、丸い無愛嬌 ( ぶあいきょう ) な眼をぱちつかせて、御前は誰だいと云わぬばかりに鈴木君の顔を見つめている。これが平均を破壊する第三の条件である。これほど不平があるなら、吾輩の頸根 ( くびね ) っこを捉 ( とら ) えて引きずり卸したら宜 ( よ ) さそうなものだが、鈴木君はだまって見ている。堂々たる人間が猫に恐れて手出しをせぬと云う事は有ろうはずがないのに、なぜ早く吾輩を処分して自分の不平を洩 ( も ) らさないかと云うと、これは全く鈴木君が一個の人間として自己の体面を維持する自重心の故であると察せらるる。もし腕力に訴えたなら三尺の童子も吾輩を自由に上下し得るであろうが、体面を重んずる点より考えるといかに金田君の股肱 ( ここう ) たる鈴木藤十郎その人もこの二尺四方の真中に鎮座まします猫大明神を如何 ( いかん ) ともする事が出来ぬのである。いかに人の見ていぬ場所でも、猫と座席争いをしたとあってはいささか人間の威厳に関する。真面目に猫を相手にして曲直 ( きょくちょく ) を争うのはいかにも大人気 ( おとなげ ) ない。滑稽である。この不名誉を避けるためには多少の不便は忍ばねばならぬ。しかし忍ばねばならぬだけそれだけ猫に対する憎悪 ( ぞうお ) の念は増す訳であるから、鈴木君は時々吾輩の顔を見ては苦 ( にが ) い顔をする。吾輩は鈴木君の不平な顔を拝見するのが面白いから滑稽の念を抑 ( おさ ) えてなるべく何喰わぬ顔をしている。
吾輩と鈴木君の間に、かくのごとき無言劇が行われつつある間に主人は衣紋 ( えもん ) をつくろって後架 ( こうか ) から出て来て「やあ」と席に着いたが、手に持っていた名刺の影さえ見えぬところをもって見ると、鈴木藤十郎君の名前は臭い所へ無期徒刑に処せられたものと見える。名刺こそ飛んだ厄運 ( やくうん ) に際会したものだと思う間 ( ま ) もなく、主人はこの野郎と吾輩の襟 ( えり ) がみを攫 ( つか ) んでえいとばかりに椽側 ( えんがわ ) へ擲 ( たた ) きつけた。
「さあ敷きたまえ。珍らしいな。いつ東京へ出て来た」と主人は旧友に向って布団を勧める。鈴木君はちょっとこれを裏返した上で、それへ坐る。
「ついまだ忙がしいものだから報知もしなかったが、実はこの間から東京の本社の方へ帰るようになってね……」
「それは結構だ、大分 ( だいぶ ) 長く逢わなかったな。君が田舎 ( いなか ) へ行ってから、始めてじゃないか」
「うん、もう十年近くになるね。なにその後時々東京へは出て来る事もあるんだが、つい用事が多いもんだから、いつでも失敬するような訳さ。悪 ( わ ) るく思ってくれたもうな。会社の方は君の職業とは違って随分忙がしいんだから」
「十年立つうちには大分違うもんだな」と主人は鈴木君を見上げたり見下ろしたりしている。鈴木君は頭を美麗 ( きれい ) に分けて、英国仕立のトウィードを着て、派手な襟飾 ( えりかざ ) りをして、胸に金鎖りさえピカつかせている体裁、どうしても苦沙弥 ( くしゃみ ) 君の旧友とは思えない。
「うん、こんな物までぶら下げなくちゃ、ならんようになってね」と鈴木君はしきりに金鎖りを気にして見せる。
「そりゃ本ものかい」と主人は無作法 ( ぶさほう ) な質問をかける。
「十八金だよ」と鈴木君は笑いながら答えたが「君も大分年を取ったね。たしか小供があるはずだったが一人かい」
「いいや」
「二人?」
「いいや」
「まだあるのか、じゃ三人か」
「うん三人ある。この先幾人 ( いくにん ) 出来るか分らん」
「相変らず気楽な事を云ってるぜ。一番大きいのはいくつになるかね、もうよっぽどだろう」
「うん、いくつか能 ( よ ) く知らんが大方 ( おおかた ) 六つか、七つかだろう」
「ハハハ教師は呑気 ( のんき ) でいいな。僕も教員にでもなれば善かった」
「なって見ろ、三日で嫌 ( いや ) になるから」
「そうかな、何だか上品で、気楽で、閑暇 ( ひま ) があって、すきな勉強が出来て、よさそうじゃないか。実業家も悪くもないが我々のうちは駄目だ。実業家になるならずっと上にならなくっちゃいかん。下の方になるとやはりつまらん御世辞を振り撒 ( ま ) いたり、好かん猪口 ( ちょこ ) をいただきに出たり随分愚 ( ぐ ) なもんだよ」
「僕は実業家は学校時代から大嫌だ。金さえ取れれば何でもする、昔で云えば素町人 ( すちょうにん ) だからな」と実業家を前に控 ( ひか ) えて太平楽を並べる。
「まさか——そうばかりも云えんがね、少しは下品なところもあるのさ、とにかく金 ( かね ) と情死 ( しんじゅう ) をする覚悟でなければやり通せないから——ところがその金と云う奴が曲者 ( くせもの ) で、——今もある実業家の所へ行って聞いて来たんだが、金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないと云うのさ——義理をかく 、人情をかく 、恥をかく これで三角になるそうだ面白いじゃないかアハハハハ」
「誰だそんな馬鹿は」
「馬鹿じゃない、なかなか利口な男なんだよ、実業界でちょっと有名だがね、君知らんかしら、ついこの先の横丁にいるんだが」
「金田か? 何 ( な ) んだあんな奴」
「大変怒ってるね。なあに、そりゃ、ほんの冗談 ( じょうだん ) だろうがね、そのくらいにせんと金は溜らんと云う喩 ( たとえ ) さ。君のようにそう真面目に解釈しちゃ困る」
「三角術は冗談でもいいが、あすこの女房の鼻はなんだ。君行ったんなら見て来たろう、あの鼻を」
「細君か、細君はなかなかさばけた人だ」
「鼻だよ、大きな鼻の事を云ってるんだ。せんだって僕はあの鼻について俳体詩 ( はいたいし ) を作ったがね」
「何だい俳体詩と云うのは」
「俳体詩を知らないのか、君も随分時勢に暗いな」
「ああ僕のように忙がしいと文学などは到底 ( とうてい ) 駄目さ。それに以前からあまり数奇 ( すき ) でない方だから」
「君シャーレマンの鼻の恰好 ( かっこう ) を知ってるか」
「アハハハハ随分気楽だな。知らんよ」
「エルリントンは部下のものから鼻々と異名 ( いみょう ) をつけられていた。君知ってるか」
「鼻の事ばかり気にして、どうしたんだい。好いじゃないか鼻なんか丸くても尖 ( と ) んがってても」
「決してそうでない。君パスカルの事を知ってるか」
「また知ってるかか、まるで試験を受けに来たようなものだ。パスカルがどうしたんだい」
「パスカルがこんな事を云っている」
「どんな事を」
「もしクレオパトラの鼻が少し短かかったならば世界の表面に大変化を来 ( きた ) したろうと」
「なるほど」
「それだから君のようにそう無雑作 ( むぞうさ ) に鼻を馬鹿にしてはいかん」
「まあいいさ、これから大事にするから。そりゃそうとして、今日来たのは、少し君に用事があって来たんだがね——あの元 ( もと ) 君の教えたとか云う、水島——ええ水島ええちょっと思い出せない。——そら君の所へ始終来ると云うじゃないか」
「寒月 ( かんげつ ) か」
「そうそう寒月寒月。あの人の事についてちょっと聞きたい事があって来たんだがね」
「結婚事件じゃないか」
「まあ多少それに類似の事さ。今日金田へ行ったら……」
「この間鼻が自分で来た」
「そうか。そうだって、細君もそう云っていたよ。苦沙弥さんに、よく伺おうと思って上ったら、生憎 ( あいにく ) 迷亭が来ていて茶々を入れて何が何だか分らなくしてしまったって」
「あんな鼻をつけて来るから悪るいや」
「いえ君の事を云うんじゃないよ。あの迷亭君がおったもんだから、そう立ち入った事を聞く訳にも行かなかったので残念だったから、もう一遍僕に行ってよく聞いて来てくれないかって頼まれたものだからね。僕も今までこんな世話はした事はないが、もし当人同士が嫌 ( い ) やでないなら中へ立って纏 ( まと ) めるのも、決して悪い事はないからね——それでやって来たのさ」
「御苦労様」と主人は冷淡に答えたが、腹の内では当人同士 と云う語 ( ことば ) を聞いて、どう云う訳か分らんが、ちょっと心を動かしたのである。蒸 ( む ) し熱い夏の夜に一縷 ( いちる ) の冷風 ( れいふう ) が袖口 ( そでぐち ) を潜 ( くぐ ) ったような気分になる。元来この主人はぶっ切ら棒の、頑固 ( がんこ ) 光沢 ( つや ) 消しを旨 ( むね ) として製造された男であるが、さればと云って冷酷不人情な文明の産物とは自 ( おのず ) からその撰 ( せん ) を異 ( こと ) にしている。彼が何 ( なん ) ぞと云うと、むかっ腹をたててぷんぷんするのでも這裏 ( しゃり ) の消息は会得 ( えとく ) できる。先日鼻と喧嘩をしたのは鼻が気に食わぬからで鼻の娘には何の罪もない話しである。実業家は嫌いだから、実業家の片割れなる金田某も嫌 ( きらい ) に相違ないがこれも娘その人とは没交渉の沙汰と云わねばならぬ。娘には恩も恨 ( うら ) みもなくて、寒月は自分が実の弟よりも愛している門下生である。もし鈴木君の云うごとく、当人同志が好いた仲なら、間接にもこれを妨害するのは君子のなすべき所作 ( しょさ ) でない。——苦沙弥先生はこれでも自分を君子と思っている。——もし当人同志が好いているなら——しかしそれが問題である。この事件に対して自己の態度を改めるには、まずその真相から確めなければならん。
「君その娘は寒月の所へ来たがってるのか。金田や鼻はどうでも構わんが、娘自身の意向はどうなんだ」
「そりゃ、その——何だね——何でも——え、来たがってるんだろうじゃないか」鈴木君の挨拶は少々曖昧 ( あいまい ) である。実は寒月君の事だけ聞いて復命さえすればいいつもりで、御嬢さんの意向までは確かめて来なかったのである。従って円転滑脱 ( かつだつ ) の鈴木君もちょっと狼狽 ( ろうばい ) の気味に見える。
「だろう た判然しない言葉だ」と主人は何事によらず、正面から、どやし付けないと気がすまない。
「いや、これゃちょっと僕の云いようがわるかった。令嬢の方でもたしかに意 ( い ) があるんだよ。いえ全くだよ——え?——細君が僕にそう云ったよ。何でも時々は寒月君の悪口を云う事もあるそうだがね」
「あの娘がか」
「ああ」
「怪 ( け ) しからん奴だ、悪口を云うなんて。第一それじゃ寒月に意 ( い ) がないんじゃないか」
「そこがさ、世の中は妙なもので、自分の好いている人の悪口などは殊更 ( ことさら ) 云って見る事もあるからね」
「そんな愚 ( ぐ ) な奴がどこの国にいるものか」と主人は斯様 ( かよう ) な人情の機微に立ち入った事を云われても頓 ( とん ) と感じがない。
「その愚な奴が随分世の中にゃあるから仕方がない。現に金田の妻君もそう解釈しているのさ。戸惑 ( とまど ) いをした糸瓜 ( へちま ) のようだなんて、時々寒月さんの悪口を云いますから、よっぽど心の中 ( うち ) では思ってるに相違ありませんと」
主人はこの不可思議な解釈を聞いて、あまり思い掛けないものだから、眼を丸くして、返答もせず、鈴木君の顔を、大道易者 ( だいどうえきしゃ ) のように眤 ( じっ ) と見つめている。鈴木君はこいつ、この様子では、ことによるとやり損なうなと疳 ( かん ) づいたと見えて、主人にも判断の出来そうな方面へと話頭を移す。
「君考えても分るじゃないか、あれだけの財産があってあれだけの器量なら、どこへだって相応の家 ( うち ) へやれるだろうじゃないか。寒月だってえらい かも知れんが身分から云や——いや身分と云っちゃ失礼かも知れない。——財産と云う点から云や、まあ、だれが見たって釣り合わんのだからね。それを僕がわざわざ出張するくらい両親が気を揉 ( も ) んでるのは本人が寒月君に意があるからの事じゃあないか」と鈴木君はなかなかうまい理窟をつけて説明を与える。今度は主人にも納得が出来たらしいのでようやく安心したが、こんなところにまごまごしているとまた吶喊 ( とっかん ) を喰う危険があるから、早く話しの歩を進めて、一刻も早く使命を完 ( まっと ) うする方が万全の策と心付いた。
「それでね。今云う通りの訳であるから、先方で云うには何も金銭や財産はいらんからその代り当人に附属した資格が欲しい——資格と云うと、まあ肩書だね、——博士になったらやってもいいなんて威張ってる次第じゃない——誤解しちゃいかん。せんだって細君の来た時は迷亭君がいて妙な事ばかり云うものだから——いえ君が悪いのじゃない。細君も君の事を御世辞のない正直ないい方 ( かた ) だと賞 ( ほ ) めていたよ。全く迷亭君がわるかったんだろう。——それでさ本人が博士にでもなってくれれば先方でも世間へ対して肩身が広い、面目 ( めんぼく ) があると云うんだがね、どうだろう、近々 ( きんきん ) の内水島君は博士論文でも呈出して、博士の学位を受けるような運びには行くまいか。なあに——金田だけなら博士も学士もいらんのさ、ただ世間と云う者があるとね、そう手軽にも行かんからな」
こう云われて見ると、先方で博士を請求するのも、あながち無理でもないように思われて来る。無理ではないように思われて来れば、鈴木君の依頼通りにしてやりたくなる。主人を活 ( い ) かすのも殺すのも鈴木君の意のままである。なるほど主人は単純で正直な男だ。
「それじゃ、今度寒月が来たら、博士論文をかくように僕から勧めて見よう。しかし当人が金田の娘を貰うつもりかどうだか、それからまず問い正 ( ただ ) して見なくちゃいかんからな」
「問い正すなんて、君そんな角張 ( かどば ) った事をして物が纏 ( まと ) まるものじゃない。やっぱり普通の談話の際にそれとなく気を引いて見るのが一番近道だよ」
「気を引いて見る?」
「うん、気を引くと云うと語弊があるかも知れん。——なに気を引かんでもね。話しをしていると自然分るもんだよ」
「君にゃ分るかも知れんが、僕にゃ判然と聞かん事は分らん」
「分らなけりゃ、まあ好いさ。しかし迷亭君見たように余計な茶々を入れて打 ( ぶ ) ち壊 ( こ ) わすのは善くないと思う。仮令 ( たとい ) 勧めないまでも、こんな事は本人の随意にすべきはずのものだからね。今度寒月君が来たらなるべくどうか邪魔をしないようにしてくれ給え。——いえ君の事じゃない、あの迷亭君の事さ。あの男の口にかかると到底助かりっこないんだから」と主人の代理に迷亭の悪口をきいていると、噂 ( うわさ ) をすれば陰の喩 ( たとえ ) に洩 ( も ) れず迷亭先生例のごとく勝手口から飄然 ( ひょうぜん ) と春風 ( しゅんぷう ) に乗じて舞い込んで来る。
「いやー珍客だね。僕のような狎客 ( こうかく ) になると苦沙弥 ( くしゃみ ) はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村 ( ふじむら ) の羊羹 ( ようかん ) を無雑作 ( むぞうさ ) に頬張 ( ほおば ) る。鈴木君はもじもじしている。主人はにやにやしている。迷亭は口をもがもがさしている。吾輩はこの瞬時の光景を椽側 ( えんがわ ) から拝見して無言劇と云うものは優に成立し得ると思った。禅家 ( ぜんけ ) で無言の問答をやるのが以心伝心であるなら、この無言の芝居も明かに以心伝心の幕である。すこぶる短かいけれどもすこぶる鋭どい幕である。
「君は一生旅烏 ( たびがらす ) かと思ってたら、いつの間 ( ま ) にか舞い戻ったね。長生 ( ながいき ) はしたいもんだな。どんな僥倖 ( ぎょうこう ) に廻 ( めぐ ) り合わんとも限らんからね」と迷亭は鈴木君に対しても主人に対するごとく毫 ( ごう ) も遠慮と云う事を知らぬ。いかに自炊の仲間でも十年も逢わなければ、何となく気のおけるものだが迷亭君に限って、そんな素振 ( そぶり ) も見えぬのは、えらいのだか馬鹿なのかちょっと見当がつかぬ。
「可哀そうに、そんなに馬鹿にしたものでもない」と鈴木君は当らず障 ( さわ ) らずの返事はしたが、何となく落ちつきかねて、例の金鎖を神経的にいじっている。
「君電気鉄道へ乗ったか」と主人は突然鈴木君に対して奇問を発する。
「今日は諸君からひやかされに来たようなものだ。なんぼ田舎者だって——これでも街鉄 ( がいてつ ) を六十株持ってるよ」
「そりゃ馬鹿に出来ないな。僕は八百八十八株半持っていたが、惜しい事に大方 ( おおかた ) 虫が喰ってしまって、今じゃ半株ばかりしかない。もう少し早く君が東京へ出てくれば、虫の喰わないところを十株ばかりやるところだったが惜しい事をした」
「相変らず口が悪るい。しかし冗談は冗談として、ああ云う株は持ってて損はないよ、年々 ( ねんねん ) 高くなるばかりだから」
「そうだ仮令 ( たとい ) 半株だって千年も持ってるうちにゃ倉が三つくらい建つからな。君も僕もその辺にぬかりはない当世の才子だが、そこへ行くと苦沙弥などは憐れなものだ。株と云えば大根の兄弟分くらいに考えているんだから」とまた羊羹 ( ようかん ) をつまんで主人の方を見ると、主人も迷亭の食 ( く ) い気 ( け ) が伝染して自 ( おの ) ずから菓子皿の方へ手が出る。世の中では万事積極的のものが人から真似らるる権利を有している。
「株などはどうでも構わんが、僕は曾呂崎 ( そろさき ) に一度でいいから電車へ乗らしてやりたかった」と主人は喰い欠けた羊羹の歯痕 ( はあと ) を撫然 ( ぶぜん ) として眺める。
「曾呂崎が電車へ乗ったら、乗るたんびに品川まで行ってしまうは、それよりやっぱり天然居士 ( てんねんこじ ) で沢庵石 ( たくあんいし ) へ彫 ( ほ ) り付けられてる方が無事でいい」
「曾呂崎と云えば死んだそうだな。気の毒だねえ、いい頭の男だったが惜しい事をした」と鈴木君が云うと、迷亭は直 ( ただ ) ちに引き受けて
「頭は善かったが、飯を焚 ( た ) く事は一番下手だったぜ。曾呂崎の当番の時には、僕あいつでも外出をして蕎麦 ( そば ) で凌 ( しの ) いでいた」
「ほんとに曾呂崎の焚いた飯は焦 ( こ ) げくさくって心 ( しん ) があって僕も弱った。御負けに御菜 ( おかず ) に必ず豆腐をなまで食わせるんだから、冷たくて食われやせん」と鈴木君も十年前の不平を記憶の底から喚 ( よ ) び起す。
「苦沙弥はあの時代から曾呂崎の親友で毎晩いっしょに汁粉 ( しるこ ) を食いに出たが、その祟 ( たた ) りで今じゃ慢性胃弱になって苦しんでいるんだ。実を云うと苦沙弥の方が汁粉の数を余計食ってるから曾呂崎[#「曾呂崎」は底本では「曾兄崎」]より先へ死んで宜 ( い ) い訳なんだ」
「そんな論理がどこの国にあるものか。俺の汁粉より君は運動と号して、毎晩竹刀 ( しない ) を持って裏の卵塔婆 ( らんとうば ) へ出て、石塔を叩 ( たた ) いてるところを坊主に見つかって剣突 ( けんつく ) を食ったじゃないか」と主人も負けぬ気になって迷亭の旧悪を曝 ( あば ) く。
「アハハハそうそう坊主が仏様の頭を叩いては安眠の妨害になるからよしてくれって言ったっけ。しかし僕のは竹刀だが、この鈴木将軍のは手暴 ( てあら ) だぜ。石塔と相撲をとって大小三個ばかり転がしてしまったんだから」
「あの時の坊主の怒り方は実に烈しかった。是非元のように起せと云うから人足を傭 ( やと ) うまで待ってくれと云ったら人足じゃいかん懺悔 ( ざんげ ) の意を表するためにあなたが自身で起さなくては仏の意に背 ( そむ ) くと云うんだからね」
「その時の君の風采 ( ふうさい ) はなかったぜ、金巾 ( かなきん ) のしゃつに越中褌 ( えっちゅうふんどし ) で雨上りの水溜りの中でうんうん唸 ( うな ) って……」
「それを君がすました顔で写生するんだから苛 ( ひど ) い。僕はあまり腹を立てた事のない男だが、あの時ばかりは失敬だと心 ( しん ) から思ったよ。あの時の君の言草をまだ覚えているが君は知ってるか」
「十年前の言草なんか誰が覚えているものか、しかしあの石塔に帰泉院殿 ( きせんいんでん ) 黄鶴大居士 ( こうかくだいこじ ) 安永五年辰 ( たつ ) 正月と彫 ( ほ ) ってあったのだけはいまだに記憶している。あの石塔は古雅に出来ていたよ。引き越す時に盗んで行きたかったくらいだ。実に美学上の原理に叶 ( かな ) って、ゴシック趣味な石塔だった」と迷亭はまた好い加減な美学を振り廻す。
「そりゃいいが、君の言草がさ。こうだぜ——吾輩は美学を専攻するつもりだから天地間 ( てんちかん ) の面白い出来事はなるべく写生しておいて将来の参考に供さなければならん、気の毒だの、可哀相 ( かわいそう ) だのと云う私情は学問に忠実なる吾輩ごときものの口にすべきところでないと平気で云うのだろう。僕もあんまりな不人情な男だと思ったから泥だらけの手で君の写生帖を引き裂いてしまった」
「僕の有望な画才が頓挫 ( とんざ ) して一向 ( いっこう ) 振わなくなったのも全くあの時からだ。君に機鋒 ( きほう ) を折られたのだね。僕は君に恨 ( うらみ ) がある」
「馬鹿にしちゃいけない。こっちが恨めしいくらいだ」
「迷亭はあの時分から法螺吹 ( ほらふき ) だったな」と主人は羊羹 ( ようかん ) を食い了 ( おわ ) って再び二人の話の中に割り込んで来る。
「約束なんか履行 ( りこう ) した事がない。それで詰問を受けると決して詫 ( わ ) びた事がない何とか蚊 ( か ) とか云う。あの寺の境内に百日紅 ( さるすべり ) が咲いていた時分、この百日紅が散るまでに美学原論と云う著述をすると云うから、駄目だ、到底出来る気遣 ( きづかい ) はないと云ったのさ。すると迷亭の答えに僕はこう見えても見掛けに寄らぬ意志の強い男である、そんなに疑うなら賭 ( かけ ) をしようと云うから僕は真面目に受けて何でも神田の西洋料理を奢 ( おご ) りっこかなにかに極 ( き ) めた。きっと書物なんか書く気遣はないと思ったから賭をしたようなものの内心は少々恐ろしかった。僕に西洋料理なんか奢る金はないんだからな。ところが先生一向 ( いっこう ) 稿を起す景色 ( けしき ) がない。七日 ( なぬか ) 立っても二十日 ( はつか ) 立っても一枚も書かない。いよいよ百日紅が散って一輪の花もなくなっても当人平気でいるから、いよいよ西洋料理に有りついたなと思って契約履行を逼 ( せま ) ると迷亭すまして取り合わない」
「また何とか理窟 ( りくつ ) をつけたのかね」と鈴木君が相の手を入れる。
「うん、実にずうずうしい男だ。吾輩はほかに能はないが意志だけは決して君方に負けはせんと剛情を張るのさ」
「一枚も書かんのにか」と今度は迷亭君自身が質問をする。
「無論さ、その時君はこう云ったぜ。吾輩は意志の一点においてはあえて何人 ( なんぴと ) にも一歩も譲らん。しかし残念な事には記憶が人一倍無い。美学原論を著わそうとする意志は充分あったのだがその意志を君に発表した翌日から忘れてしまった。それだから百日紅の散るまでに著書が出来なかったのは記憶の罪で意志の罪ではない。意志の罪でない以上は西洋料理などを奢る理由がないと威張っているのさ」
「なるほど迷亭君一流の特色を発揮して面白い」と鈴木君はなぜだか面白がっている。迷亭のおらぬ時の語気とはよほど違っている。これが利口な人の特色かも知れない。
「何が面白いものか」と主人は今でも怒 ( おこ ) っている様子である。
「それは御気の毒様、それだからその埋合 ( うめあわ ) せをするために孔雀 ( くじゃく ) の舌なんかを金と太鼓で探しているじゃないか。まあそう怒 ( おこ ) らずに待っているさ。しかし著書と云えば君、今日は一大珍報を齎 ( もた ) らして来たんだよ」
「君はくるたびに珍報を齎らす男だから油断が出来ん」
「ところが今日の珍報は真の珍報さ。正札付一厘も引けなしの珍報さ。君寒月が博士論文の稿を起したのを知っているか。寒月はあんな妙に見識張った男だから博士論文なんて無趣味な労力はやるまいと思ったら、あれでやっぱり色気があるからおかしいじゃないか。君あの鼻に是非通知してやるがいい、この頃は団栗博士 ( どんぐりはかせ ) の夢でも見ているかも知れない」
鈴木君は寒月の名を聞いて、話してはいけぬ話してはいけぬと顋 ( あご ) と眼で主人に合図する。主人には一向 ( いっこう ) 意味が通じない。さっき鈴木君に逢って説法を受けた時は金田の娘の事ばかりが気の毒になったが、今迷亭から鼻々と云われるとまた先日喧嘩をした事を思い出す。思い出すと滑稽でもあり、また少々は悪 ( にく ) らしくもなる。しかし寒月が博士論文を草しかけたのは何よりの御見 ( おみ ) やげで、こればかりは迷亭先生自賛のごとくまずまず近来の珍報である。啻 ( ただ ) に珍報のみならず、嬉しい快よい珍報である。金田の娘を貰おうが貰うまいがそんな事はまずどうでもよい。とにかく寒月の博士になるのは結構である。自分のように出来損いの木像は仏師屋の隅で虫が喰うまで白木 ( しらき ) のまま燻 ( くすぶ ) っていても遺憾 ( いかん ) はないが、これは旨 ( うま ) く仕上がったと思う彫刻には一日も早く箔 ( はく ) を塗ってやりたい。
「本当に論文を書きかけたのか」と鈴木君の合図はそっち除 ( の ) けにして、熱心に聞く。
「よく人の云う事を疑ぐる男だ。——もっとも問題は団栗 ( どんぐり ) だか首縊 ( くびくく ) りの力学だか確 ( しか ) と分らんがね。とにかく寒月の事だから鼻の恐縮するようなものに違いない」
さっきから迷亭が鼻々と無遠慮に云うのを聞くたんびに鈴木君は不安の様子をする。迷亭は少しも気が付かないから平気なものである。
「その後鼻についてまた研究をしたが、この頃トリストラム・シャンデーの中に鼻論 ( はなろん ) があるのを発見した。金田の鼻などもスターンに見せたら善い材料になったろうに残念な事だ。鼻名 ( びめい ) を千載 ( せんざい ) に垂れる資格は充分ありながら、あのままで朽 ( く ) ち果つるとは不憫千万 ( ふびんせんばん ) だ。今度ここへ来たら美学上の参考のために写生してやろう」と相変らず口から出任 ( でまか ) せに喋舌 ( しゃべ ) り立てる。
「しかしあの娘は寒月の所へ来たいのだそうだ」と主人が今鈴木君から聞いた通りを述べると、鈴木君はこれは迷惑だと云う顔付をしてしきりに主人に目くばせをするが、主人は不導体のごとく一向 ( いっこう ) 電気に感染しない。
「ちょっと乙 ( おつ ) だな、あんな者の子でも恋をするところが、しかし大した恋じゃなかろう、大方鼻恋 ( はなごい ) くらいなところだぜ」
「鼻恋でも寒月が貰えばいいが」
「貰えばいいがって、君は先日大反対だったじゃないか。今日はいやに軟化しているぜ」
「軟化はせん、僕は決して軟化はせんしかし……」
「しかしどうか したんだろう。ねえ鈴木、君も実業家の末席 ( ばっせき ) を汚 ( けが ) す一人だから参考のために言って聞かせるがね。あの金田某なる者さ。あの某なるものの息女などを天下の秀才水島寒月の令夫人と崇 ( あが ) め奉るのは、少々提灯 ( ちょうちん ) と釣鐘と云う次第で、我々朋友 ( ほうゆう ) たる者が冷々 ( れいれい ) 黙過する訳に行かん事だと思うんだが、たとい実業家の君でもこれには異存はあるまい」
「相変らず元気がいいね。結構だ。君は十年前と容子 ( ようす ) が少しも変っていないからえらい」と鈴木君は柳に受けて、胡麻化 ( ごまか ) そうとする。
「えらいと褒 ( ほ ) めるなら、もう少し博学なところを御目にかけるがね。昔 ( むか ) しの希臘人 ( ギリシャじん ) は非常に体育を重んじたものであらゆる競技に貴重なる懸賞を出して百方奨励の策を講じたものだ。しかるに不思議な事には学者の智識 に対してのみは何等の褒美 ( ほうび ) も与えたと云う記録がなかったので、今日 ( こんにち ) まで実は大 ( おおい ) に怪しんでいたところさ」
「なるほど少し妙だね」と鈴木君はどこまでも調子を合せる。
「しかるについ両三日前に至って、美学研究の際ふとその理由を発見したので多年の疑団 ( ぎだん ) は一度に氷解。漆桶 ( しっつう ) を抜くがごとく痛快なる悟りを得て歓天喜地 ( かんてんきち ) の至境に達したのさ」
あまり迷亭の言葉が仰山 ( ぎょうさん ) なので、さすが御上手者 ( おじょうずもの ) の鈴木君も、こりゃ手に合わないと云う顔付をする。主人はまた始まったなと云わぬばかりに、象牙 ( ぞうげ ) の箸 ( はし ) で菓子皿の縁 ( ふち ) をかんかん叩いて俯 ( う ) つ向 ( む ) いている。迷亭だけは大得意で弁じつづける。
「そこでこの矛盾なる現象の説明を明記して、暗黒の淵 ( ふち ) から吾人の疑を千載 ( せんざい ) の下 ( もと ) に救い出してくれた者は誰だと思う。学問あって以来の学者と称せらるる彼 ( か ) の希臘 ( ギリシャ ) の哲人、逍遥派 ( しょうようは ) の元祖アリストートルその人である。彼の説明に曰 ( いわ ) くさ——おい菓子皿などを叩かんで謹聴していなくちゃいかん。——彼等希臘人が競技において得るところの賞与は彼等が演ずる技芸その物より貴重なものである。それ故に褒美 ( ほうび ) にもなり、奨励の具ともなる。しかし智識その物に至ってはどうである。もし智識に対する報酬として何物をか与えんとするならば智識以上の価値あるものを与えざるべからず。しかし智識以上の珍宝が世の中にあろうか。無論あるはずがない。下手なものをやれば智識の威厳を損する訳になるばかりだ。彼等は智識 に対して千両箱をオリムパスの山ほど積み、クリーサスの富を傾 ( かたむ ) け尽 ( つく ) しても相当の報酬を与えんとしたのであるが、いかに考えても到底 ( とうてい ) 釣り合うはずがないと云う事を観破 ( かんぱ ) して、それより以来と云うものは奇麗さっぱり何にもやらない事にしてしまった。黄白青銭 ( こうはくせいせん ) が智識の匹敵 ( ひってき ) でない事はこれで十分理解出来るだろう。さてこの原理を服膺 ( ふくよう ) した上で時事問題に臨 ( のぞ ) んで見るがいい。金田某は何だい紙幣 ( さつ ) に眼鼻をつけただけの人間じゃないか、奇警なる語をもって形容するならば彼は一個の活動紙幣 ( かつどうしへい ) に過ぎんのである。活動紙幣の娘なら活動切手くらいなところだろう。翻 ( ひるがえ ) って寒月君は如何 ( いかん ) と見ればどうだ。辱 ( かたじ ) けなくも学問最高の府を第一位に卒業して毫 ( ごう ) も倦怠 ( けんたい ) の念なく長州征伐時代の羽織の紐をぶら下げて、日夜団栗 ( どんぐり ) のスタビリチーを研究し、それでもなお満足する様子もなく、近々 ( きんきん ) の中ロード・ケルヴィンを圧倒するほどな大論文を発表しようとしつつあるではないか。たまたま吾妻橋 ( あずまばし ) を通り掛って身投げの芸を仕損じた事はあるが、これも熱誠なる青年に有りがちの発作的 ( ほっさてき ) 所為 ( しょい ) で毫 ( ごう ) も彼が智識の問屋 ( とんや ) たるに煩 ( わずら ) いを及ぼすほどの出来事ではない。迷亭一流の喩 ( たとえ ) をもって寒月君を評すれば彼は活動図書館である。智識をもって捏 ( こ ) ね上げたる二十八珊 ( サンチ ) の弾丸である。この弾丸が一たび時機を得て学界に爆発するなら、——もし爆発して見給え——爆発するだろう——」迷亭はここに至って迷亭一流と自称する形容詞が思うように出て来ないので俗に云う竜頭蛇尾 ( りゅうとうだび ) の感に多少ひるんで見えたがたちまち「活動切手などは何千万枚あったって粉 ( こ ) な微塵 ( みじん ) になってしまうさ。それだから寒月には、あんな釣り合わない女性 ( にょしょう ) は駄目だ。僕が不承知だ、百獣の中 ( うち ) でもっとも聡明なる大象と、もっとも貪婪 ( たんらん ) なる小豚と結婚するようなものだ。そうだろう苦沙弥君」と云って退 ( の ) けると、主人はまた黙って菓子皿を叩き出す。鈴木君は少し凹 ( へこ ) んだ気味で
「そんな事も無かろう」と術 ( じゅつ ) なげに答える。さっきまで迷亭の悪口を随分ついた揚句ここで無暗 ( むやみ ) な事を云うと、主人のような無法者はどんな事を素 ( す ) っ破抜 ( ぱぬ ) くか知れない。なるべくここは好 ( いい ) 加減に迷亭の鋭鋒をあしらって無事に切り抜けるのが上分別なのである。鈴木君は利口者である。いらざる抵抗は避けらるるだけ避けるのが当世で、無要の口論は封建時代の遺物と心得ている。人生の目的は口舌 ( こうぜつ ) ではない実行にある。自己の思い通りに着々事件が進捗 ( しんちょく ) すれば、それで人生の目的は達せられたのである。苦労と心配と争論とがなくて事件が進捗すれば人生の目的は極楽流 ( ごくらくりゅう ) に達せられるのである。鈴木君は卒業後この極楽主義によって成功し、この極楽主義によって金時計をぶら下げ、この極楽主義で金田夫婦の依頼をうけ、同じくこの極楽主義でまんまと首尾よく苦沙弥君を説き落して当該 ( とうがい ) 事件が十中八九まで成就 ( じょうじゅ ) したところへ、迷亭なる常規をもって律すべからざる、普通の人間以外の心理作用を有するかと怪まるる風来坊 ( ふうらいぼう ) が飛び込んで来たので少々その突然なるに面喰 ( めんくら ) っているところである。極楽主義を発明したものは明治の紳士で、極楽主義を実行するものは鈴木藤十郎君で、今この極楽主義で困却しつつあるものもまた鈴木藤十郎君である。
「君は何にも知らんからそうでもなかろう などと澄し返って、例になく言葉寡 ( ことばずく ) なに上品に控 ( ひか ) え込むが、せんだってあの鼻の主が来た時の容子 ( ようす ) を見たらいかに実業家贔負 ( びいき ) の尊公でも辟易 ( へきえき ) するに極 ( きま ) ってるよ、ねえ苦沙弥君、君大 ( おおい ) に奮闘したじゃないか」
「それでも君より僕の方が評判がいいそうだ」
「アハハハなかなか自信が強い男だ。それでなくてはサヴェジ・チーなんて生徒や教師にからかわれてすまして学校へ出ちゃいられん訳だ。僕も意志は決して人に劣らんつもりだが、そんなに図太くは出来ん敬服の至りだ」
「生徒や教師が少々愚図愚図言ったって何が恐ろしいものか、サントブーヴは古今独歩の評論家であるが巴里 ( パリ ) 大学で講義をした時は非常に不評判で、彼は学生の攻撃に応ずるため外出の際必ず匕首 ( あいくち ) を袖 ( そで ) の下に持って防禦 ( ぼうぎょ ) の具となした事がある。ブルヌチェルがやはり巴里の大学でゾラの小説を攻撃した時は……」
「だって君ゃ大学の教師でも何でもないじゃないか。高がリードルの先生でそんな大家を例に引くのは雑魚 ( ざこ ) が鯨 ( くじら ) をもって自 ( みずか ) ら喩 ( たと ) えるようなもんだ、そんな事を云うとなおからかわれるぜ」
「黙っていろ。サントブーヴだって俺だって同じくらいな学者だ」
「大変な見識だな。しかし懐剣をもって歩行 ( ある ) くだけはあぶないから真似 ( まね ) ない方がいいよ。大学の教師が懐剣ならリードルの教師はまあ小刀 ( こがたな ) くらいなところだな。しかしそれにしても刃物は剣呑 ( けんのん ) だから仲見世 ( なかみせ ) へ行っておもちゃの空気銃を買って来て背負 ( しょ ) ってあるくがよかろう。愛嬌 ( あいきょう ) があっていい。ねえ鈴木君」と云うと鈴木君はようやく話が金田事件を離れたのでほっと一息つきながら
「相変らず無邪気で愉快だ。十年振りで始めて君等に逢ったんで何だか窮屈な路次 ( ろじ ) から広い野原へ出たような気持がする。どうも我々仲間の談話は少しも油断がならなくてね。何を云うにも気をおかなくちゃならんから心配で窮屈で実に苦しいよ。話は罪がないのがいいね。そして昔しの書生時代の友達と話すのが一番遠慮がなくっていい。ああ今日は図 ( はか ) らず迷亭君に遇 ( あ ) って愉快だった。僕はちと用事があるからこれで失敬する」と鈴木君が立ち懸 ( か ) けると、迷亭も「僕もいこう、僕はこれから日本橋の演芸 ( えんげい ) 矯風会 ( きょうふうかい ) に行かなくっちゃならんから、そこまでいっしょに行こう」「そりゃちょうどいい久し振りでいっしょに散歩しよう」と両君は手を携 ( たずさ ) えて帰る。
二十四時間の出来事を洩 ( も ) れなく書いて、洩れなく読むには少なくも二十四時間かかるだろう、いくら写生文を鼓吹 ( こすい ) する吾輩でもこれは到底猫の企 ( くわだ ) て及ぶべからざる芸当と自白せざるを得ない。従っていかに吾輩の主人が、二六時中精細なる描写に価する奇言奇行を弄 ( ろう ) するにも関 ( かかわ ) らず逐一これを読者に報知するの能力と根気のないのははなはだ遺憾 ( いかん ) である。遺憾ではあるがやむを得ない。休養は猫といえども必要である。鈴木君と迷亭君の帰ったあとは木枯 ( こがら ) しのはたと吹き息 ( や ) んで、しんしんと降る雪の夜のごとく静かになった。主人は例のごとく書斎へ引き籠 ( こも ) る。小供は六畳の間 ( ま ) へ枕をならべて寝る。一間半の襖 ( ふすま ) を隔てて南向の室 ( へや ) には細君が数え年三つになる、めん子さんと添乳 ( そえぢ ) して横になる。花曇りに暮れを急いだ日は疾 ( と ) く落ちて、表を通る駒下駄の音さえ手に取るように茶の間へ響く。隣町 ( となりちょう ) の下宿で明笛 ( みんてき ) を吹くのが絶えたり続いたりして眠い耳底 ( じてい ) に折々鈍い刺激を与える。外面 ( そと ) は大方朧 ( おぼろ ) であろう。晩餐に半 ( はん ) ぺんの煮汁 ( だし ) で鮑貝 ( あわびがい ) をからにした腹ではどうしても休養が必要である。
ほのかに承 ( うけたま ) われば世間には猫の恋とか称する俳諧 ( はいかい ) 趣味の現象があって、春さきは町内の同族共の夢安からぬまで浮かれ歩 ( あ ) るく夜もあるとか云うが、吾輩はまだかかる心的変化に遭逢 ( そうほう ) した事はない。そもそも恋は宇宙的の活力である。上 ( かみ ) は在天の神ジュピターより下 ( しも ) は土中に鳴く蚯蚓 ( みみず ) 、おけらに至るまでこの道にかけて浮身を窶 ( やつ ) すのが万物の習いであるから、吾輩どもが朧 ( おぼろ ) うれしと、物騒な風流気を出すのも無理のない話しである。回顧すればかく云 ( い ) う吾輩も三毛子 ( みけこ ) に思い焦 ( こ ) がれた事もある。三角主義の張本金田君の令嬢阿倍川の富子さえ寒月君に恋慕したと云う噂 ( うわさ ) である。それだから千金の春宵 ( しゅんしょう ) を心も空に満天下の雌猫雄猫 ( めねこおねこ ) が狂い廻るのを煩悩 ( ぼんのう ) の迷 ( まよい ) のと軽蔑 ( けいべつ ) する念は毛頭ないのであるが、いかんせん誘われてもそんな心が出ないから仕方がない。吾輩目下の状態はただ休養を欲するのみである。こう眠くては恋も出来ぬ。のそのそと小供の布団 ( ふとん ) の裾 ( すそ ) へ廻って心地快 ( ここちよ ) く眠る。……
ふと眼を開 ( あ ) いて見ると主人はいつの間 ( ま ) にか書斎から寝室へ来て細君の隣に延べてある布団 ( ふとん ) の中にいつの間にか潜 ( もぐ ) り込んでいる。主人の癖として寝る時は必ず横文字の小本 ( こほん ) を書斎から携 ( たずさ ) えて来る。しかし横になってこの本を二頁 ( ページ ) と続けて読んだ事はない。ある時は持って来て枕元へ置いたなり、まるで手を触れぬ事さえある。一行も読まぬくらいならわざわざ提 ( さ ) げてくる必要もなさそうなものだが、そこが主人の主人たるところでいくら細君が笑っても、止せと云っても、決して承知しない。毎夜読まない本をご苦労千万にも寝室まで運んでくる。ある時は慾張って三四冊も抱えて来る。せんだってじゅうは毎晩ウェブスターの大字典さえ抱えて来たくらいである。思うにこれは主人の病気で贅沢 ( ぜいたく ) な人が竜文堂 ( りゅうぶんどう ) に鳴る松風の音を聞かないと寝つかれないごとく、主人も書物を枕元に置かないと眠れないのであろう、して見ると主人に取っては書物は読む者ではない眠を誘う器械である。活版の睡眠剤である。
今夜も何か有るだろうと覗 ( のぞ ) いて見ると、赤い薄い本が主人の口髯 ( くちひげ ) の先につかえるくらいな地位に半分開かれて転がっている。主人の左の手の拇指 ( おやゆび ) が本の間に挟 ( はさ ) まったままであるところから推 ( お ) すと奇特にも今夜は五六行読んだものらしい。赤い本と並んで例のごとくニッケルの袂時計 ( たもとどけい ) が春に似合わぬ寒き色を放っている。
細君は乳呑児 ( ちのみご ) を一尺ばかり先へ放り出して口を開 ( あ ) いていびきをかいて枕を外 ( はず ) している。およそ人間において何が見苦しいと云って口を開けて寝るほどの不体裁はあるまいと思う。猫などは生涯 ( しょうがい ) こんな恥をかいた事がない。元来口は音を出すため鼻は空気を吐呑 ( とどん ) するための道具である。もっとも北の方へ行くと人間が無精になってなるべく口をあくまいと倹約をする結果鼻で言語を使うようなズーズーもあるが、鼻を閉塞 ( へいそく ) して口ばかりで呼吸の用を弁じているのはズーズーよりも見ともないと思う。第一天井から鼠 ( ねずみ ) の糞 ( ふん ) でも落ちた時危険である。
小供の方はと見るとこれも親に劣らぬ体 ( てい ) たらくで寝そべっている。姉のとん子は、姉の権利はこんなものだと云わぬばかりにうんと右の手を延ばして妹の耳の上へのせている。妹のすん子はその復讐 ( ふくしゅう ) に姉の腹の上に片足をあげて踏反 ( ふんぞ ) り返っている。双方共寝た時の姿勢より九十度はたしかに廻転している。しかもこの不自然なる姿勢を維持しつつ両人とも不平も云わずおとなしく熟睡している。
さすがに春の灯火 ( ともしび ) は格別である。天真爛漫 ( らんまん ) ながら無風流極まるこの光景の裏 ( うち ) に良夜を惜しめとばかり床 ( ゆか ) しげに輝やいて見える。もう何時 ( なんじ ) だろうと室 ( へや ) の中を見廻すと四隣はしんとしてただ聞えるものは柱時計と細君のいびきと遠方で下女の歯軋 ( はぎし ) りをする音のみである。この下女は人から歯軋りをすると云われるといつでもこれを否定する女である。私は生れてから今日 ( こんにち ) に至るまで歯軋りをした覚 ( おぼえ ) はございませんと強情を張って決して直しましょうとも御気の毒でございますとも云わず、ただそんな覚はございませんと主張する。なるほど寝ていてする芸だから覚はないに違ない。しかし事実は覚がなくても存在する事があるから困る。世の中には悪い事をしておりながら、自分はどこまでも善人だと考えているものがある。これは自分が罪がないと自信しているのだから無邪気で結構ではあるが、人の困る事実はいかに無邪気でも滅却する訳には行かぬ。こう云う紳士淑女はこの下女の系統に属するのだと思う。——夜 ( よ ) は大分更 ( だいぶふ ) けたようだ。
台所の雨戸にトントンと二返ばかり軽く中 ( あた ) った者がある。はてな今頃人の来るはずがない。大方例の鼠だろう、鼠なら捕 ( と ) らん事に極めているから勝手にあばれるが宜 ( よろ ) しい。——またトントンと中 ( あた ) る。どうも鼠らしくない。鼠としても大変用心深い鼠である。主人の内の鼠は、主人の出る学校の生徒のごとく日中 ( にっちゅう ) でも夜中 ( やちゅう ) でも乱暴狼藉 ( ろうぜき ) の練修に余念なく、憫然 ( びんぜん ) なる主人の夢を驚破 ( きょうは ) するのを天職のごとく心得ている連中だから、かくのごとく遠慮する訳がない。今のはたしかに鼠ではない。せんだってなどは主人の寝室にまで闖入 ( ちんにゅう ) して高からぬ主人の鼻の頭を囓 ( か ) んで凱歌 ( がいか ) を奏して引き上げたくらいの鼠にしてはあまり臆病すぎる。決して鼠ではない。今度はギーと雨戸を下から上へ持ち上げる音がする、同時に腰障子を出来るだけ緩 ( ゆる ) やかに、溝に添うて滑 ( すべ ) らせる。いよいよ鼠ではない。人間だ。この深夜に人間が案内も乞わず戸締 ( とじまり ) を外 ( は ) ずして御光来になるとすれば迷亭先生や鈴木君ではないに極 ( きま ) っている。御高名だけはかねて承 ( うけたま ) わっている泥棒陰士 ( どろぼういんし ) ではないか知らん。いよいよ陰士とすれば早く尊顔 ( そんがん ) を拝したいものだ。陰士は今や勝手の上に大いなる泥足を上げて二足 ( ふたあし ) ばかり進んだ模様である。三足目と思う頃揚板 ( あげいた ) に蹶 ( つまず ) いてか、ガタリと夜 ( よる ) に響くような音を立てた。吾輩の背中 ( せなか ) の毛が靴刷毛 ( くつばけ ) で逆に擦 ( こ ) すられたような心持がする。しばらくは足音もしない。細君を見ると未 ( ま ) だ口をあいて太平の空気を夢中に吐呑 ( とどん ) している。主人は赤い本に拇指 ( おやゆび ) を挟 ( はさ ) まれた夢でも見ているのだろう。やがて台所でマチを擦 ( す ) る音が聞える。陰士でも吾輩ほど夜陰に眼は利 ( き ) かぬと見える。勝手がわるくて定めし不都合だろう。
この時吾輩は蹲踞 ( うずく ) まりながら考えた。陰士は勝手から茶の間の方面へ向けて出現するのであろうか、または左へ折れ玄関を通過して書斎へと抜けるであろうか。——足音は襖 ( ふすま ) の音と共に椽側 ( えんがわ ) へ出た。陰士はいよいよ書斎へ這入 ( はい ) った。それぎり音も沙汰もない。
吾輩はこの間 ( ま ) に早く主人夫婦を起してやりたいものだとようやく気が付いたが、さてどうしたら起きるやら、一向 ( いっこう ) 要領を得ん考のみが頭の中に水車 ( みずぐるま ) の勢で廻転するのみで、何等の分別も出ない。布団 ( ふとん ) の裾 ( すそ ) を啣 ( くわ ) えて振って見たらと思って、二三度やって見たが少しも効用がない。冷たい鼻を頬に擦 ( す ) り付けたらと思って、主人の顔の先へ持って行ったら、主人は眠ったまま、手をうんと延ばして、吾輩の鼻づらを否 ( い ) やと云うほど突き飛ばした。鼻は猫にとっても急所である。痛む事おびただしい。此度 ( こんど ) は仕方がないからにゃーにゃーと二返ばかり鳴いて起こそうとしたが、どう云うものかこの時ばかりは咽喉 ( のど ) に物が痞 ( つか ) えて思うような声が出ない。やっとの思いで渋りながら低い奴を少々出すと驚いた。肝心 ( かんじん ) の主人は覚 ( さ ) める気色 ( けしき ) もないのに突然陰士の足音がし出した。ミチリミチリと椽側を伝 ( つた ) って近づいて来る。いよいよ来たな、こうなってはもう駄目だと諦 ( あき ) らめて、襖 ( ふすま ) と柳行李 ( やなぎごうり ) の間にしばしの間身を忍ばせて動静を窺 ( うか ) がう。
陰士の足音は寝室の障子の前へ来てぴたりと已 ( や ) む。吾輩は息を凝 ( こ ) らして、この次は何をするだろうと一生懸命になる。あとで考えたが鼠を捕 ( と ) る時は、こんな気分になれば訳はないのだ、魂 ( たましい ) が両方の眼から飛び出しそうな勢 ( いきおい ) である。陰士の御蔭で二度とない悟 ( さとり ) を開いたのは実にありがたい。たちまち障子の桟 ( さん ) の三つ目が雨に濡れたように真中だけ色が変る。それを透 ( すか ) して薄紅 ( うすくれない ) なものがだんだん濃く写ったと思うと、紙はいつか破れて、赤い舌がぺろりと見えた。舌はしばしの間 ( ま ) に暗い中に消える。入れ代って何だか恐しく光るものが一つ、破れた孔 ( あな ) の向側にあらわれる。疑いもなく陰士の眼である。妙な事にはその眼が、部屋の中にある何物をも見ないで、ただ柳行李の後 ( うしろ ) に隠れていた吾輩のみを見つめているように感ぜられた。一分にも足らぬ間ではあったが、こう睨 ( にら ) まれては寿命が縮まると思ったくらいである。もう我慢出来んから行李の影から飛出そうと決心した時、寝室の障子がスーと明いて待ち兼ねた陰士がついに眼前にあらわれた。
吾輩は叙述の順序として、不時の珍客なる泥棒陰士その人をこの際諸君に御紹介するの栄誉を有する訳 ( わけ ) であるが、その前ちょっと卑見を開陳 ( かいちん ) してご高慮を煩 ( わずら ) わしたい事がある。古代の神は全智全能と崇 ( あが ) められている。ことに耶蘇教 ( ヤソきょう ) の神は二十世紀の今日 ( こんにち ) までもこの全智全能の面 ( めん ) を被 ( かぶ ) っている。しかし俗人の考うる全智全能は、時によると無智無能とも解釈が出来る。こう云うのは明かにパラドックスである。しかるにこのパラドックスを道破 ( どうは ) した者は天地開闢 ( てんちかいびゃく ) 以来吾輩のみであろうと考えると、自分ながら満更 ( まんざら ) な猫でもないと云う虚栄心も出るから、是非共ここにその理由を申し上げて、猫も馬鹿に出来ないと云う事を、高慢なる人間諸君の脳裏 ( のうり ) に叩き込みたいと考える。天地万有は神が作ったそうな、して見れば人間も神の御製作であろう。現に聖書とか云うものにはその通りと明記してあるそうだ。さてこの人間について、人間自身が数千年来の観察を積んで、大 ( おおい ) に玄妙不思議がると同時に、ますます神の全智全能を承認するように傾いた事実がある。それは外 ( ほか ) でもない、人間もかようにうじゃうじゃいるが同じ顔をしている者は世界中に一人もいない。顔の道具は無論極 ( きま ) っている、大 ( おおき ) さも大概は似たり寄ったりである。換言すれば彼等は皆同じ材料から作り上げられている、同じ材料で出来ているにも関らず一人も同じ結果に出来上っておらん。よくまああれだけの簡単な材料でかくまで異様な顔を思いついた者だと思うと、製造家の伎倆 ( ぎりょう ) に感服せざるを得ない。よほど独創的な想像力がないとこんな変化は出来んのである。一代の画工が精力を消耗 ( しょうこう ) して変化を求めた顔でも十二三種以外に出る事が出来んのをもって推 ( お ) せば、人間の製造を一手 ( いって ) で受負 ( うけお ) った神の手際 ( てぎわ ) は格別な者だと驚嘆せざるを得ない。到底人間社会において目撃し得ざる底 ( てい ) の伎倆であるから、これを全能的伎倆と云っても差 ( さ ) し支 ( つか ) えないだろう。人間はこの点において大 ( おおい ) に神に恐れ入っているようである、なるほど人間の観察点から云えばもっともな恐れ入り方である。しかし猫の立場から云うと同一の事実がかえって神の無能力を証明しているとも解釈が出来る。もし全然無能でなくとも人間以上の能力は決してない者であると断定が出来るだろうと思う。神が人間の数だけそれだけ多くの顔を製造したと云うが、当初から胸中に成算があってかほどの変化を示したものか、または猫も杓子 ( しゃくし ) も同じ顔に造ろうと思ってやりかけて見たが、とうてい旨 ( うま ) く行かなくて出来るのも出来るのも作り損 ( そこ ) ねてこの乱雑な状態に陥 ( おちい ) ったものか、分らんではないか。彼等顔面の構造は神の成功の紀念と見らるると同時に失敗の痕迹 ( こんせき ) とも判ぜらるるではないか。全能とも云えようが、無能と評したって差し支えはない。彼等人間の眼は平面の上に二つ並んでいるので左右を一時 ( いちじ ) に見る事が出来んから事物の半面だけしか視線内に這入 ( はい ) らんのは気の毒な次第である。立場を換 ( か ) えて見ればこのくらい単純な事実は彼等の社会に日夜間断なく起りつつあるのだが、本人逆 ( のぼ ) せ上がって、神に呑 ( の ) まれているから悟りようがない。製作の上に変化をあらわすのが困難であるならば、その上に徹頭徹尾の模傚 ( もこう ) を示すのも同様に困難である。ラファエルに寸分違わぬ聖母の像を二枚かけと注文するのは、全然似寄らぬマドンナを双幅 ( そうふく ) 見せろと逼 ( せま ) ると同じく、ラファエルにとっては迷惑であろう、否同じ物を二枚かく方がかえって困難かも知れぬ。弘法大師に向って昨日 ( きのう ) 書いた通りの筆法で空海と願いますと云う方がまるで書体を換 ( か ) えてと注文されるよりも苦しいかも分らん。人間の用うる国語は全然模傚主義 ( もこうしゅぎ ) で伝習するものである。彼等人間が母から、乳母 ( うば ) から、他人から実用上の言語を習う時には、ただ聞いた通りを繰り返すよりほかに毛頭の野心はないのである。出来るだけの能力で人真似をするのである。かように人真似から成立する国語が十年二十年と立つうち、発音に自然と変化を生じてくるのは、彼等に完全なる模傚 ( もこう ) の能力がないと云う事を証明している。純粋の模傚 ( もこう ) はかくのごとく至難なものである。従って神が彼等人間を区別の出来ぬよう、悉皆 ( しっかい ) 焼印の御かめ のごとく作り得たならばますます神の全能を表明し得るもので、同時に今日 ( こんにち ) のごとく勝手次第な顔を天日 ( てんぴ ) に曝 ( さ ) らさして、目まぐるしきまでに変化を生ぜしめたのはかえってその無能力を推知し得るの具ともなり得るのである。
吾輩は何の必要があってこんな議論をしたか忘れてしまった。本 ( もと ) を忘却するのは人間にさえありがちの事であるから猫には当然の事さと大目に見て貰いたい。とにかく吾輩は寝室の障子をあけて敷居の上にぬっと現われた泥棒陰士を瞥見 ( べっけん ) した時、以上の感想が自然と胸中に湧 ( わ ) き出でたのである。なぜ湧いた?——なぜと云う質問が出れば、今一応考え直して見なければならん。——ええと、その訳はこうである。
吾輩の眼前に悠然 ( ゆうぜん ) とあらわれた陰士の顔を見るとその顔が——平常 ( ふだん ) 神の製作についてその出来栄 ( できばえ ) をあるいは無能の結果ではあるまいかと疑っていたのに、それを一時に打ち消すに足るほどな特徴を有していたからである。特徴とはほかではない。彼の眉目 ( びもく ) がわが親愛なる好男子水島寒月君に瓜 ( うり ) 二つであると云う事実である。吾輩は無論泥棒に多くの知己 ( ちき ) は持たぬが、その行為の乱暴なところから平常 ( ふだん ) 想像して私 ( ひそ ) かに胸中に描 ( えが ) いていた顔はないでもない。小鼻の左右に展開した、一銭銅貨くらいの眼をつけた、毬栗頭 ( いがぐりあたま ) にきまっていると自分で勝手に極 ( き ) めたのであるが、見ると考えるとは天地の相違、想像は決して逞 ( たくまし ) くするものではない。この陰士は背 ( せい ) のすらりとした、色の浅黒い一の字眉の、意気で立派な泥棒である。年は二十六七歳でもあろう、それすら寒月君の写生である。神もこんな似た顔を二個製造し得る手際 ( てぎわ ) があるとすれば、決して無能をもって目する訳には行かぬ。いや実際の事を云うと寒月君自身が気が変になって深夜に飛び出して来たのではあるまいかと、はっと思ったくらいよく似ている。ただ鼻の下に薄黒く髯 ( ひげ ) の芽生 ( めば ) えが植え付けてないのでさては別人だと気が付いた。寒月君は苦味 ( にがみ ) ばしった好男子で、活動小切手と迷亭から称せられたる、金田富子嬢を優に吸収するに足るほどな念入れの製作物である。しかしこの陰士も人相から観察するとその婦人に対する引力上の作用において決して寒月君に一歩も譲らない。もし金田の令嬢が寒月君の眼付や口先に迷ったのなら、同等の熱度をもってこの泥棒君にも惚 ( ほ ) れ込まなくては義理が悪い。義理はとにかく、論理に合わない。ああ云う才気のある、何でも早分りのする性質 ( たち ) だからこのくらいの事は人から聞かんでもきっと分るであろう。して見ると寒月君の代りにこの泥棒を差し出しても必ず満身の愛を捧げて琴瑟 ( きんしつ ) 調和の実を挙げらるるに相違ない。万一寒月君が迷亭などの説法に動かされて、この千古の良縁が破れるとしても、この陰士が健在であるうちは大丈夫である。吾輩は未来の事件の発展をここまで予想して、富子嬢のために、やっと安心した。この泥棒君が天地の間に存在するのは富子嬢の生活を幸福ならしむる一大要件である。
陰士は小脇になにか抱えている。見ると先刻 ( さっき ) 主人が書斎へ放り込んだ古毛布 ( ふるげっと ) である。唐桟 ( とうざん ) の半纏 ( はんてん ) に、御納戸 ( おなんど ) の博多 ( はかた ) の帯を尻の上にむすんで、生白 ( なまじろ ) い脛 ( すね ) は膝 ( ひざ ) から下むき出しのまま今や片足を挙げて畳の上へ入れる。先刻 ( さっき ) から赤い本に指を噛 ( か ) まれた夢を見ていた、主人はこの時寝返りを堂 ( どう ) と打ちながら「寒月だ」と大きな声を出す。陰士は毛布 ( けっと ) を落して、出した足を急に引き込ます。障子の影に細長い向脛 ( むこうずね ) が二本立ったまま微 ( かす ) かに動くのが見える。主人はうーん、むにゃむにゃと云いながら例の赤本を突き飛ばして、黒い腕を皮癬病 ( ひぜんや ) みのようにぼりぼり掻 ( か ) く。そのあとは静まり返って、枕をはずしたなり寝てしまう。寒月だと云ったのは全く我知らずの寝言と見える。陰士はしばらく椽側 ( えんがわ ) に立ったまま室内の動静をうかがっていたが、主人夫婦の熟睡しているのを見済 ( みすま ) してまた片足を畳の上に入れる。今度は寒月だと云う声も聞えぬ。やがて残る片足も踏み込む。一穂 ( いっすい ) の春灯 ( しゅんとう ) で豊かに照らされていた六畳の間 ( ま ) は、陰士の影に鋭どく二分せられて柳行李 ( やなぎごうり ) の辺 ( へん ) から吾輩の頭の上を越えて壁の半 ( なか ) ばが真黒になる。振り向いて見ると陰士の顔の影がちょうど壁の高さの三分の二の所に漠然 ( ばくぜん ) と動いている。好男子も影だけ見ると、八 ( や ) つ頭 ( がしら ) の化 ( ば ) け物 ( もの ) のごとくまことに妙な恰好 ( かっこう ) である。陰士は細君の寝顔を上から覗 ( のぞ ) き込んで見たが何のためかにやにやと笑った。笑い方までが寒月君の模写であるには吾輩も驚いた。
細君の枕元には四寸角の一尺五六寸ばかりの釘付 ( くぎづ ) けにした箱が大事そうに置いてある。これは肥前の国は唐津 ( からつ ) の住人多々良三平君 ( たたらさんぺいくん ) が先日帰省した時御土産 ( おみやげ ) に持って来た山の芋 ( いも ) である。山の芋を枕元へ飾って寝るのはあまり例のない話しではあるがこの細君は煮物に使う三盆 ( さんぼん ) を用箪笥 ( ようだんす ) へ入れるくらい場所の適不適と云う観念に乏しい女であるから、細君にとれば、山の芋は愚 ( おろ ) か、沢庵 ( たくあん ) が寝室に在 ( あ ) っても平気かも知れん。しかし神ならぬ陰士はそんな女と知ろうはずがない。かくまで鄭重 ( ていちょう ) に肌身に近く置いてある以上は大切な品物であろうと鑑定するのも無理はない。陰士はちょっと山の芋の箱を上げて見たがその重さが陰士の予期と合して大分 ( だいぶ ) 目方が懸 ( かか ) りそうなのですこぶる満足の体 ( てい ) である。いよいよ山の芋を盗むなと思ったら、しかもこの好男子にして山の芋を盗むなと思ったら急におかしくなった。しかし滅多 ( めった ) に声を立てると危険であるからじっと怺 ( こら ) えている。
やがて陰士は山の芋の箱を恭 ( うやうや ) しく古毛布 ( ふるげっと ) にくるみ初めた。なにかからげるものはないかとあたりを見廻す。と、幸い主人が寝る時に解 ( と ) きすてた縮緬 ( ちりめん ) の兵古帯 ( へこおび ) がある。陰士は山の芋の箱をこの帯でしっかり括 ( くく ) って、苦もなく背中へしょう。あまり女が好 ( す ) く体裁ではない。それから小供のちゃんちゃんを二枚、主人のめり安 ( やす ) の股引 ( ももひき ) の中へ押し込むと、股のあたりが丸く膨 ( ふく ) れて青大将 ( あおだいしょう ) が蛙 ( かえる ) を飲んだような——あるいは青大将の臨月 ( りんげつ ) と云う方がよく形容し得るかも知れん。とにかく変な恰好 ( かっこう ) になった。嘘だと思うなら試しにやって見るがよろしい。陰士はめり安をぐるぐる首 ( くび ) っ環 ( たま ) へ捲 ( ま ) きつけた。その次はどうするかと思うと主人の紬 ( つむぎ ) の上着を大風呂敷のように拡 ( ひろ ) げてこれに細君の帯と主人の羽織と繻絆 ( じゅばん ) とその他あらゆる雑物 ( ぞうもつ ) を奇麗に畳んでくるみ込む。その熟練と器用なやり口にもちょっと感心した。それから細君の帯上げとしごきとを続 ( つ ) ぎ合わせてこの包みを括 ( くく ) って片手にさげる。まだ頂戴 ( ちょうだい ) するものは無いかなと、あたりを見廻していたが、主人の頭の先に「朝日」の袋があるのを見付けて、ちょっと袂 ( たもと ) へ投げ込む。またその袋の中から一本出してランプに翳 ( かざ ) して火を点 ( つ ) ける。旨 ( う ) まそうに深く吸って吐き出した煙りが、乳色のホヤを繞 ( めぐ ) ってまだ消えぬ間 ( ま ) に、陰士の足音は椽側 ( えんがわ ) を次第に遠のいて聞えなくなった。主人夫婦は依然として熟睡している。人間も存外迂濶 ( うかつ ) なものである。
吾輩はまた暫時 ( ざんじ ) の休養を要する。のべつに喋舌 ( しゃべ ) っていては身体が続かない。ぐっと寝込んで眼が覚 ( さ ) めた時は弥生 ( やよい ) の空が朗らかに晴れ渡って勝手口に主人夫婦が巡査と対談をしている時であった。
「それでは、ここから這入 ( はい ) って寝室の方へ廻ったんですな。あなた方は睡眠中で一向 ( いっこう ) 気がつかなかったのですな」
「ええ」と主人は少し極 ( きま ) りがわるそうである。
「それで盗難に罹 ( かか ) ったのは何時 ( なんじ ) 頃ですか」と巡査は無理な事を聞く。時間が分るくらいなら何 ( な ) にも盗まれる必要はないのである。それに気が付かぬ主人夫婦はしきりにこの質問に対して相談をしている。
「何時頃かな」
「そうですね」と細君は考える。考えれば分ると思っているらしい。
「あなたは夕 ( ゆう ) べ何時に御休みになったんですか」
「俺の寝たのは御前よりあとだ」
「ええ私 ( わたく ) しの伏せったのは、あなたより前です」
「眼が覚めたのは何時だったかな」
「七時半でしたろう」
「すると盗賊の這入 ( はい ) ったのは、何時頃になるかな」
「なんでも夜なかでしょう」
「夜中 ( よなか ) は分りきっているが、何時頃かと云うんだ」
「たしかなところはよく考えて見ないと分りませんわ」と細君はまだ考えるつもりでいる。巡査はただ形式的に聞いたのであるから、いつ這入ったところが一向 ( いっこう ) 痛痒 ( つうよう ) を感じないのである。嘘でも何でも、いい加減な事を答えてくれれば宜 ( よ ) いと思っているのに主人夫婦が要領を得ない問答をしているものだから少々焦 ( じ ) れたくなったと見えて
「それじゃ盗難の時刻は不明なんですな」と云うと、主人は例のごとき調子で
「まあ、そうですな」と答える。巡査は笑いもせずに
「じゃあね、明治三十八年何月何日戸締りをして寝たところが盗賊が、どこそこの雨戸を外 ( はず ) してどこそこに忍び込んで品物を何点盗んで行ったから右告訴及 ( みぎこくそにおよび ) 候也 ( そうろうなり ) という書面をお出しなさい。届ではない告訴です。名宛 ( なあて ) はない方がいい」
「品物は一々かくんですか」
「ええ羽織何点代価いくらと云う風に表にして出すんです。——いや這入 ( はい ) って見たって仕方がない。盗 ( と ) られたあとなんだから」と平気な事を云って帰って行く。
主人は筆硯 ( ふですずり ) を座敷の真中へ持ち出して、細君を前に呼びつけて「これから盗難告訴をかくから、盗られたものを一々云え。さあ云え」とあたかも喧嘩でもするような口調で云う。
「あら厭 ( いや ) だ、さあ云えだなんて、そんな権柄 ( けんぺい ) ずくで誰が云うもんですか」と細帯を巻き付けたままどっかと腰を据 ( す ) える。
「その風はなんだ、宿場女郎の出来損 ( できそこな ) い見たようだ。なぜ帯をしめて出て来ん」
「これで悪るければ買って下さい。宿場女郎でも何でも盗られりゃ仕方がないじゃありませんか」
「帯までとって行ったのか、苛 ( ひど ) い奴だ。それじゃ帯から書き付けてやろう。帯はどんな帯だ」
「どんな帯って、そんなに何本もあるもんですか、黒繻子 ( くろじゅす ) と縮緬 ( ちりめん ) の腹合せの帯です」
「黒繻子と縮緬の腹合せの帯一筋——価 ( あたい ) はいくらくらいだ」
「六円くらいでしょう」
「生意気に高い帯をしめてるな。今度から一円五十銭くらいのにしておけ」
「そんな帯があるものですか。それだからあなたは不人情だと云うんです。女房なんどは、どんな汚ない風をしていても、自分さい宜 ( よ ) けりゃ、構わないんでしょう」
「まあいいや、それから何だ」
「糸織 ( いとおり ) の羽織です、あれは河野 ( こうの ) の叔母さんの形身 ( かたみ ) にもらったんで、同じ糸織でも今の糸織とは、たちが違います」
「そんな講釈は聞かんでもいい。値段はいくらだ」
「十五円」
「十五円の羽織を着るなんて身分不相当だ」
「いいじゃありませんか、あなたに買っていただきゃあしまいし」
「その次は何だ」
「黒足袋が一足」
「御前のか」
「あなたんでさあね。代価が二十七銭」
「それから?」
「山の芋が一箱」
「山の芋まで持って行ったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか」
「どうするつもりか知りません。泥棒のところへ行って聞いていらっしゃい」
「いくらするか」
「山の芋のねだんまでは知りません」
「そんなら十二円五十銭くらいにしておこう」
「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、いくら唐津 ( からつ ) から掘って来たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか」
「しかし御前は知らんと云うじゃないか」
「知りませんわ、知りませんが十二円五十銭なんて法外ですもの」
「知らんけれども十二円五十銭は法外だとは何だ。まるで論理に合わん。それだから貴様はオタンチン・パレオロガスだと云うんだ」
「何ですって」
「オタンチン・パレオロガスだよ」
「何ですそのオタンチン・パレオロガスって云うのは」
「何でもいい。それからあとは——俺の着物は一向 ( いっこう ) 出て来んじゃないか」
「あとは何でも宜 ( よ ) うござんす。オタンチン・パレオロガスの意味を聞かして頂戴 ( ちょうだい ) 」
「意味も何 ( な ) にもあるもんか」
「教えて下すってもいいじゃありませんか、あなたはよっぽど私を馬鹿にしていらっしゃるのね。きっと人が英語を知らないと思って悪口をおっしゃったんだよ」
「愚 ( ぐ ) な事を言わんで、早くあとを云うが好い。早く告訴をせんと品物が返らんぞ」
「どうせ今から告訴をしたって間に合いやしません。それよりか、オタンチン・パレオロガスを教えて頂戴」
「うるさい女だな、意味も何にも無いと云うに」
「そんなら、品物の方もあとはありません」
「頑愚 ( がんぐ ) だな。それでは勝手にするがいい。俺はもう盗難告訴を書いてやらんから」
「私も品数 ( しなかず ) を教えて上げません。告訴はあなたが御自分でなさるんですから、私は書いていただかないでも困りません」
「それじゃ廃 ( よ ) そう」と主人は例のごとくふいと立って書斎へ這入 ( はい ) る。細君は茶の間へ引き下がって針箱の前へ坐る。両人 ( ふたり ) 共十分間ばかりは何にもせずに黙って障子を睨 ( にら ) め付けている。
ところへ威勢よく玄関をあけて、山の芋の寄贈者多々良三平 ( たたらさんぺい ) 君が上 ( あが ) ってくる。多々良三平君はもとこの家 ( や ) の書生であったが今では法科大学を卒業してある会社の鉱山部に雇われている。これも実業家の芽生 ( めばえ ) で、鈴木藤十郎君の後進生である。三平君は以前の関係から時々旧先生の草廬 ( そうろ ) を訪問して日曜などには一日遊んで帰るくらい、この家族とは遠慮のない間柄である。
「奥さん。よか天気でござります」と唐津訛 ( からつなま ) りか何かで細君の前にズボン のまま立て膝をつく。
「おや多々良さん」
「先生はどこぞ出なすったか」
「いいえ書斎にいます」
「奥さん、先生のごと勉強しなさると毒ですばい。たまの日曜だもの、あなた」
「わたしに言っても駄目だから、あなたが先生にそうおっしゃい」
「そればってんが……」と言い掛けた三平君は座敷中を見廻わして「今日は御嬢さんも見えんな」と半分妻君に聞いているや否や次の間 ( ま ) からとん 子とすん 子が馳け出して来る。
「多々良さん、今日は御寿司 ( おすし ) を持って来て?」と姉のとん子 は先日の約束を覚えていて、三平君の顔を見るや否や催促する。多々良君は頭を掻 ( か ) きながら
「よう覚えているのう、この次はきっと持って来ます。今日は忘れた」と白状する。
「いやーだ」と姉が云うと妹もすぐ真似をして「いやーだ」とつける。細君はようやく御機嫌が直って少々笑顔になる。
「寿司は持って来んが、山の芋は上げたろう。御嬢さん喰べなさったか」
「山の芋ってなあに?」と姉がきくと妹が今度もまた真似をして「山の芋ってなあに?」と三平君に尋ねる。
「まだ食いなさらんか、早く御母 ( おか ) あさんに煮て御貰い。唐津 ( からつ ) の山の芋は東京のとは違ってうまかあ」と三平君が国自慢をすると、細君はようやく気が付いて
「多々良さんせんだっては御親切に沢山ありがとう」
「どうです、喰べて見なすったか、折れんように箱を誂 ( あつ ) らえて堅くつめて来たから、長いままでありましたろう」
「ところがせっかく下すった山の芋を夕 ( ゆう ) べ泥棒に取られてしまって」
「ぬす盗 ( と ) が? 馬鹿な奴ですなあ。そげん山の芋の好きな男がおりますか?」と三平君大 ( おおい ) に感心している。
「御母 ( おか ) あさま、夕べ泥棒が這入 ( はい ) ったの?」と姉が尋ねる。
「ええ」と細君は軽 ( かろ ) く答える。
「泥棒が這入って——そうして——泥棒が這入って——どんな顔をして這入ったの?」と今度は妹が聞く。この奇問には細君も何と答えてよいか分らんので
「恐 ( こわ ) い顔をして這入りました」と返事をして多々良君の方を見る。
「恐い顔って多々良さん見たような顔なの」と姉が気の毒そうにもなく、押し返して聞く。
「何ですね。そんな失礼な事を」
「ハハハハ私 ( わたし ) の顔はそんなに恐いですか。困ったな」と頭を掻 ( か ) く。多々良君の頭の後部には直径一寸ばかりの禿 ( はげ ) がある。一カ月前から出来だして医者に見て貰ったが、まだ容易に癒 ( なお ) りそうもない。この禿を第一番に見付けたのは姉のとん子である。
「あら多々良さんの頭は御母 ( おかあ ) さまのように光 ( ひ ) かってよ」
「だまっていらっしゃいと云うのに」
「御母あさま夕べの泥棒の頭も光かってて」とこれは妹の質問である。細君と多々良君とは思わず吹き出したが、あまり煩 ( わずら ) わしくて話も何も出来ぬので「さあさあ御前さん達は少し御庭へ出て御遊びなさい。今に御母あさまが好い御菓子を上げるから」と細君はようやく子供を追いやって
「多々良さんの頭はどうしたの」と真面目に聞いて見る。
「虫が食いました。なかなか癒りません。奥さんも有んなさるか」
「やだわ、虫が食うなんて、そりゃ髷 ( まげ ) で釣るところは女だから少しは禿げますさ」
「禿はみんなバクテリヤですばい」
「わたしのはバクテリヤじゃありません」
「そりゃ奥さん意地張りたい」
「何でもバクテリヤじゃありません。しかし英語で禿の事を何とか云うでしょう」
「禿はボールドとか云います」
「いいえ、それじゃないの、もっと長い名があるでしょう」
「先生に聞いたら、すぐわかりましょう」
「先生はどうしても教えて下さらないから、あなたに聞くんです」
「私 ( わたし ) はボールドより知りませんが。長かって、どげんですか」
「オタンチン・パレオロガスと云うんです。オタンチンと云うのが禿と云う字で、パレオロガスが頭なんでしょう」
「そうかも知れませんたい。今に先生の書斎へ行ってウェブスターを引いて調べて上げましょう。しかし先生もよほど変っていなさいますな。この天気の好いのに、うちにじっとして——奥さん、あれじゃ胃病は癒りませんな。ちと上野へでも花見に出掛けなさるごと勧めなさい」
「あなたが連れ出して下さい。先生は女の云う事は決して聞かない人ですから」
「この頃でもジャムを舐 ( な ) めなさるか」
「ええ相変らずです」
「せんだって、先生こぼしていなさいました。どうも妻 ( さい ) が俺のジャムの舐め方が烈しいと云って困るが、俺はそんなに舐めるつもりはない。何か勘定違いだろうと云いなさるから、そりゃ御嬢さんや奥さんがいっしょに舐めなさるに違ない——」
「いやな多々良さんだ、何だってそんな事を云うんです」
「しかし奥さんだって舐めそうな顔をしていなさるばい」
「顔でそんな事がどうして分ります」
「分らんばってんが——それじゃ奥さん少しも舐めなさらんか」
「そりゃ少しは舐めますさ。舐めたって好いじゃありませんか。うちのものだもの」
「ハハハハそうだろうと思った——しかし本 ( ほん ) の事 ( こと ) 、泥棒は飛んだ災難でしたな。山の芋ばかり持って行 ( い ) たのですか」
「山の芋ばかりなら困りゃしませんが、不断着をみんな取って行きました」
「早速困りますか。また借金をしなければならんですか。この猫が犬ならよかったに——惜しい事をしたなあ。奥さん犬の大 ( ふと ) か奴 ( やつ ) を是非一丁飼いなさい。——猫は駄目ですばい、飯を食うばかりで——ちっとは鼠でも捕 ( と ) りますか」
「一匹もとった事はありません。本当に横着な図々図々 ( ずうずう ) しい猫ですよ」
「いやそりゃ、どうもこうもならん。早々棄てなさい。私 ( わたし ) が貰って行って煮て食おうか知らん」
「あら、多々良さんは猫を食べるの」
「食いました。猫は旨 ( うも ) うござります」
「随分豪傑ね」
下等な書生のうちには猫を食うような野蛮人がある由 ( よし ) はかねて伝聞したが、吾輩が平生眷顧 ( けんこ ) を辱 ( かたじけの ) うする多々良君その人もまたこの同類ならんとは今が今まで夢にも知らなかった。いわんや同君はすでに書生ではない、卒業の日は浅きにも係 ( かか ) わらず堂々たる一個の法学士で、六 ( む ) つ井 ( い ) 物産会社の役員であるのだから吾輩の驚愕 ( きょうがく ) もまた一と通りではない。人を見たら泥棒と思えと云う格言は寒月第二世の行為によってすでに証拠立てられたが、人を見たら猫食いと思えとは吾輩も多々良君の御蔭によって始めて感得した真理である。世に住めば事を知る、事を知るは嬉しいが日に日に危険が多くて、日に日に油断がならなくなる。狡猾 ( こうかつ ) になるのも卑劣になるのも表裏二枚合せの護身服を着けるのも皆事を知るの結果であって、事を知るのは年を取るの罪である。老人に碌 ( ろく ) なものがいないのはこの理だな、吾輩などもあるいは今のうちに多々良君の鍋 ( なべ ) の中で玉葱 ( たまねぎ ) と共に成仏 ( じょうぶつ ) する方が得策かも知れんと考えて隅 ( すみ ) の方に小さくなっていると、最前 ( さいぜん ) 細君と喧嘩をして一反 ( いったん ) 書斎へ引き上げた主人は、多々良君の声を聞きつけて、のそのそ茶の間へ出てくる。
「先生泥棒に逢いなさったそうですな。なんちゅ愚 ( ぐ ) な事です」と劈頭 ( へきとう ) 一番にやり込める。
「這入 ( はい ) る奴が愚 ( ぐ ) なんだ」と主人はどこまでも賢人をもって自任している。
「這入る方も愚だばってんが、取られた方もあまり賢 ( かし ) こくはなかごたる」
「何にも取られるものの無い多々良さんのようなのが一番賢こいんでしょう」と細君が此度 ( こんど ) は良人 ( おっと ) の肩を持つ。
「しかし一番愚なのはこの猫ですばい。ほんにまあ、どう云う了見じゃろう。鼠は捕 ( と ) らず泥棒が来ても知らん顔をしている。——先生この猫を私 ( わたし ) にくんなさらんか。こうしておいたっちゃ何の役にも立ちませんばい」
「やっても好い。何にするんだ」
「煮て喰べます」
主人は猛烈なるこの一言 ( いちごん ) を聞いて、うふと気味の悪い胃弱性の笑を洩 ( も ) らしたが、別段の返事もしないので、多々良君も是非食いたいとも云わなかったのは吾輩にとって望外の幸福である。主人はやがて話頭を転じて、
「猫はどうでも好いが、着物をとられたので寒くていかん」と大 ( おおい ) に銷沈 ( しょうちん ) の体 ( てい ) である。なるほど寒いはずである。昨日 ( きのう ) までは綿入を二枚重ねていたのに今日は袷 ( あわせ ) に半袖 ( はんそで ) のシャツだけで、朝から運動もせず枯坐 ( こざ ) したぎりであるから、不充分な血液はことごとく胃のために働いて手足の方へは少しも巡回して来ない。
「先生教師などをしておったちゃとうていあかんですばい。ちょっと泥棒に逢っても、すぐ困る——一丁 ( いっちょう ) 今から考を換 ( か ) えて実業家にでもなんなさらんか」
「先生は実業家は嫌 ( きらい ) だから、そんな事を言ったって駄目よ」
と細君が傍 ( そば ) から多々良君に返事をする。細君は無論実業家になって貰いたいのである。
「先生学校を卒業して何年になんなさるか」
「今年で九年目でしょう」と細君は主人を顧 ( かえり ) みる。主人はそうだとも、そうで無いとも云わない。
「九年立っても月給は上がらず。いくら勉強しても人は褒 ( ほ ) めちゃくれず、郎君 ( ろうくん ) 独寂寞 ( ひとりせきばく ) ですたい」と中学時代で覚えた詩の句を細君のために朗吟すると、細君はちょっと分りかねたものだから返事をしない。
「教師は無論嫌 ( きらい ) だが、実業家はなお嫌いだ」と主人は何が好きだか心の裏 ( うち ) で考えているらしい。
「先生は何でも嫌なんだから……」
「嫌でないのは奥さんだけですか」と多々良君柄 ( がら ) に似合わぬ冗談 ( じょうだん ) を云う。
「一番嫌だ」主人の返事はもっとも簡明である。細君は横を向いてちょっと澄 ( すま ) したが再び主人の方を見て、
「生きていらっしゃるのも御嫌 ( おきらい ) なんでしょう」と充分主人を凹 ( へこ ) ましたつもりで云う。
「あまり好いてはおらん」と存外呑気 ( のんき ) な返事をする。これでは手のつけようがない。
「先生ちっと活溌 ( かっぱつ ) に散歩でもしなさらんと、からだを壊 ( こわ ) してしまいますばい。——そうして実業家になんなさい。金なんか儲 ( もう ) けるのは、ほんに造作 ( ぞうさ ) もない事でござります」
「少しも儲けもせん癖に」
「まだあなた、去年やっと会社へ這入 ( はい ) ったばかりですもの。それでも先生より貯蓄があります」
「どのくらい貯蓄したの?」と細君は熱心に聞く。
「もう五十円になります」
「一体あなたの月給はどのくらいなの」これも細君の質問である。
「三十円ですたい。その内を毎月五円宛 ( ずつ ) 会社の方で預って積んでおいて、いざと云う時にやります。——奥さん小遣銭で外濠線 ( そとぼりせん ) の株を少し買いなさらんか、今から三四個月すると倍になります。ほんに少し金さえあれば、すぐ二倍にでも三倍にでもなります」
「そんな御金があれば泥棒に逢ったって困りゃしないわ」
「それだから実業家に限ると云うんです。先生も法科でもやって会社か銀行へでも出なされば、今頃は月に三四百円の収入はありますのに、惜しい事でござんしたな。——先生あの鈴木藤十郎と云う工学士を知ってなさるか」
「うん昨日 ( きのう ) 来た」
「そうでござんすか、せんだってある宴会で逢いました時先生の御話をしたら、そうか君は苦沙弥 ( くしゃみ ) 君のところの書生をしていたのか、僕も苦沙弥君とは昔 ( むか ) し小石川の寺でいっしょに自炊をしておった事がある、今度行ったら宜 ( よろ ) しく云うてくれ、僕もその内尋ねるからと云っていました」
「近頃東京へ来たそうだな」
「ええ今まで九州の炭坑におりましたが、こないだ東京詰 ( づめ ) になりました。なかなか旨 ( うま ) いです。私 ( わたし ) なぞにでも朋友のように話します。——先生あの男がいくら貰ってると思いなさる」
「知らん」
「月給が二百五十円で盆暮に配当がつきますから、何でも平均四五百円になりますばい。あげな男が、よかしこ取っておるのに、先生はリーダー専門で十年一狐裘 ( いちこきゅう ) じゃ馬鹿気ておりますなあ」
「実際馬鹿気ているな」と主人のような超然主義の人でも金銭の観念は普通の人間と異 ( こと ) なるところはない。否困窮するだけに人一倍金が欲しいのかも知れない。多々良君は充分実業家の利益を吹聴 ( ふいちょう ) してもう云う事が無くなったものだから
「奥さん、先生のところへ水島寒月と云う人 ( じん ) が来ますか」
「ええ、善くいらっしゃいます」
「どげんな人物ですか」
「大変学問の出来る方だそうです」
「好男子ですか」
「ホホホホ多々良さんくらいなものでしょう」
「そうですか、私 ( わたし ) くらいなものですか」と多々良君真面目である。
「どうして寒月の名を知っているのかい」と主人が聞く。
「せんだって或る人から頼まれました。そんな事を聞くだけの価値のある人物でしょうか」多々良君は聞かぬ先からすでに寒月以上に構えている。
「君よりよほどえらい男だ」
「そうでございますか、私 ( わたし ) よりえらいですか」と笑いもせず怒 ( おこ ) りもせぬ。これが多々良君の特色である。
「近々 ( きんきん ) 博士になりますか」
「今論文を書いてるそうだ」
「やっぱり馬鹿ですな。博士論文をかくなんて、もう少し話せる人物かと思ったら」
「相変らず、えらい見識ですね」と細君が笑いながら云う。
「博士になったら、だれとかの娘をやるとかやらんとか云うていましたから、そんな馬鹿があろうか、娘を貰うために博士になるなんて、そんな人物にくれるより僕にくれる方がよほどましだと云ってやりました」
「だれに」
「私 ( わたし ) に水島の事を聞いてくれと頼んだ男です」
「鈴木じゃないか」
「いいえ、あの人にゃ、まだそんな事は云い切りません。向うは大頭ですから」
「多々良さんは蔭弁慶 ( かげべんけい ) ね。うちへなんぞ来ちゃ大変威張っても鈴木さんなどの前へ出ると小さくなってるんでしょう」
「ええ。そうせんと、あぶないです」
「多々良、散歩をしようか」と突然主人が云う。先刻 ( さっき ) から袷 ( あわせ ) 一枚であまり寒いので少し運動でもしたら暖かになるだろうと云う考から主人はこの先例のない動議を呈出したのである。行き当りばったりの多々良君は無論逡巡 ( しゅんじゅん ) する訳がない。
「行きましょう。上野にしますか。芋坂 ( いもざか ) へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を揮 ( ふる ) ってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱 ( くつぬぎ ) へ下りる。
吾輩はまた少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、また尾行 ( びこう ) する勇気もないからずっと略してその間 ( あいだ ) 休養せんければならん。休養は万物の旻天 ( びんてん ) から要求してしかるべき権利である。この世に生息すべき義務を有して蠢動 ( しゅんどう ) する者は、生息の義務を果すために休養を得ねばならぬ。もし神ありて汝 ( なんじ ) は働くために生れたり寝るために生れたるに非ずと云わば吾輩はこれに答えて云わん、吾輩は仰せのごとく働くために生れたり故に働くために休養を乞うと。主人のごとく器械に不平を吹き込んだまでの木強漢 ( ぼくきょうかん ) ですら、時々は日曜以外に自弁休養をやるではないか。多感多恨にして日夜心神を労する吾輩ごとき者は仮令 ( たとい ) 猫といえども主人以上に休養を要するは勿論の事である。ただ先刻 ( さっき ) 多々良君が吾輩を目して休養以外に何等の能もない贅物 ( ぜいぶつ ) のごとくに罵 ( ののし ) ったのは少々気掛りである。とかく物象 ( ぶっしょう ) にのみ使役せらるる俗人は、五感の刺激以外に何等の活動もないので、他を評価するのでも形骸以外に渉 ( わた ) らんのは厄介である。何でも尻でも端折 ( はしょ ) って、汗でも出さないと働らいていないように考えている。達磨 ( だるま ) と云う坊さんは足の腐るまで座禅をして澄ましていたと云うが、仮令 ( たとい ) 壁の隙 ( すき ) から蔦 ( つた ) が這い込んで大師の眼口を塞 ( ふさ ) ぐまで動かないにしろ、寝ているんでも死んでいるんでもない。頭の中は常に活動して、廓然無聖 ( かくねんむしょう ) などと乙な理窟を考え込んでいる。儒家にも静坐の工夫と云うのがあるそうだ。これだって一室の中 ( うち ) に閉居して安閑と躄 ( いざり ) の修行をするのではない。脳中の活力は人一倍熾 ( さかん ) に燃えている。ただ外見上は至極沈静端粛の態 ( てい ) であるから、天下の凡眼はこれらの知識巨匠をもって昏睡仮死 ( こんすいかし ) の庸人 ( ようじん ) と見做 ( みな ) して無用の長物とか穀潰 ( ごくつぶ ) しとか入らざる誹謗 ( ひぼう ) の声を立てるのである。これらの凡眼は皆形を見て心を見ざる不具なる視覚を有して生れついた者で、——しかも彼 ( か ) の多々良三平君のごときは形を見て心を見ざる第一流の人物であるから、この三平君が吾輩を目して乾屎橛 ( かんしけつ ) 同等に心得るのももっともだが、恨むらくは少しく古今の書籍を読んで、やや事物の真相を解し得たる主人までが、浅薄なる三平君に一も二もなく同意して、猫鍋 ( ねこなべ ) に故障を挟 ( さしはさ ) む景色 ( けしき ) のない事である。しかし一歩退いて考えて見ると、かくまでに彼等が吾輩を軽蔑 ( けいべつ ) するのも、あながち無理ではない。大声は俚耳 ( りじ ) に入らず、陽春白雪の詩には和するもの少なしの喩 ( たとえ ) も古い昔からある事だ。形体以外の活動を見る能 ( あた ) わざる者に向って己霊 ( これい ) の光輝を見よと強 ( し ) ゆるは、坊主に髪を結 ( い ) えと逼 ( せま ) るがごとく、鮪 ( まぐろ ) に演説をして見ろと云うがごとく、電鉄に脱線を要求するがごとく、主人に辞職を勧告するごとく、三平に金の事を考えるなと云うがごときものである。必竟 ( ひっきょう ) 無理な注文に過ぎん。しかしながら猫といえども社会的動物である。社会的動物である以上はいかに高く自 ( みずか ) ら標置するとも、或る程度までは社会と調和して行かねばならん。主人や細君や乃至 ( ないし ) 御 ( お ) さん、三平連 ( づれ ) が吾輩を吾輩相当に評価してくれんのは残念ながら致し方がないとして、不明の結果皮を剥 ( は ) いで三味線屋に売り飛ばし、肉を刻んで多々良君の膳に上 ( のぼ ) すような無分別をやられては由々 ( ゆゆ ) しき大事である。吾輩は頭をもって活動すべき天命を受けてこの娑婆 ( しゃば ) に出現したほどの古今来 ( ここんらい ) の猫であれば、非常に大事な身体である。千金の子 ( し ) は堂陲 ( どうすい ) に坐せずとの諺 ( ことわざ ) もある事なれば、好んで超邁 ( ちょうまい ) を宗 ( そう ) として、徒 ( いたず ) らに吾身の危険を求むるのは単に自己の災 ( わざわい ) なるのみならず、また大いに天意に背 ( そむ ) く訳である。猛虎も動物園に入れば糞豚 ( ふんとん ) の隣りに居を占め、鴻雁 ( こうがん ) も鳥屋に生擒 ( いけど ) らるれば雛鶏 ( すうけい ) と俎 ( まないた ) を同 ( おな ) じゅうす。庸人 ( ようじん ) と相互 ( あいご ) する以上は下 ( くだ ) って庸猫 ( ようびょう ) と化せざるべからず。庸猫たらんとすれば鼠を捕 ( と ) らざるべからず。——吾輩はとうとう鼠をとる事に極 ( き ) めた。
せんだってじゅうから日本は露西亜 ( ロシア ) と大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔負 ( びいき ) である。出来得べくんば混成 ( こんせい ) 猫旅団 ( ねこりょだん ) を組織して露西亜兵を引っ掻 ( か ) いてやりたいと思うくらいである。かくまでに元気旺盛 ( おうせい ) な吾輩の事であるから鼠の一疋や二疋はとろうとする意志さえあれば、寝ていても訳なく捕 ( と ) れる。昔 ( むか ) しある人当時有名な禅師に向って、どうしたら悟れましょうと聞いたら、猫が鼠を覘 ( ねら ) うようにさしゃれと答えたそうだ。猫が鼠をとるようにとは、かくさえすれば外 ( は ) ずれっこはござらぬと云う意味である。女賢 ( さか ) しゅうしてと云う諺はあるが猫賢 ( さか ) しゅうして鼠捕 ( と ) り損 ( そこな ) うと云う格言はまだ無いはずだ。して見ればいかに賢 ( かし ) こい吾輩のごときものでも鼠の捕れんはずはあるまい。とれんはずはあるまいどころか捕り損うはずはあるまい。今まで捕らんのは、捕りたくないからの事さ。春の日はきのうのごとく暮れて、折々の風に誘わるる花吹雪 ( はなふぶき ) が台所の腰障子の破れから飛び込んで手桶 ( ておけ ) の中に浮ぶ影が、薄暗き勝手用のランプの光りに白く見える。今夜こそ大手柄をして、うちじゅう驚かしてやろうと決心した吾輩は、あらかじめ戦場を見廻って地形を飲み込んでおく必要がある。戦闘線は勿論 ( もちろん ) あまり広かろうはずがない。畳数にしたら四畳敷もあろうか、その一畳を仕切って半分は流し、半分は酒屋八百屋の御用を聞く土間である。へっついは貧乏勝手に似合わぬ立派な者で赤の銅壺 ( どうこ ) がぴかぴかして、後 ( うし ) ろは羽目板の間 ( ま ) を二尺遺 ( のこ ) して吾輩の鮑貝 ( あわびがい ) の所在地である。茶の間に近き六尺は膳椀 ( ぜんわん ) 皿小鉢 ( さらこばち ) を入れる戸棚となって狭 ( せま ) き台所をいとど狭く仕切って、横に差し出すむき出しの棚とすれすれの高さになっている。その下に摺鉢 ( すりばち ) が仰向 ( あおむ ) けに置かれて、摺鉢の中には小桶の尻が吾輩の方を向いている。大根卸し、摺小木 ( すりこぎ ) が並んで懸 ( か ) [#ルビの「か」は底本では「け」]けてある傍 ( かたわ ) らに火消壺だけが悄然 ( しょうぜん ) と控 ( ひか ) えている。真黒になった樽木 ( たるき ) の交叉した真中から一本の自在 ( じざい ) を下ろして、先へは平たい大きな籠 ( かご ) をかける。その籠が時々風に揺れて鷹揚 ( おうよう ) に動いている。この籠は何のために釣るすのか、この家 ( うち ) へ来たてには一向 ( いっこう ) 要領を得なかったが、猫の手の届かぬためわざと食物をここへ入れると云う事を知ってから、人間の意地の悪い事をしみじみ感じた。
これから作戦計画だ。どこで鼠と戦争するかと云えば無論鼠の出る所でなければならぬ。いかにこっちに便宜 ( べんぎ ) な地形だからと云って一人で待ち構えていてはてんで戦争にならん。ここにおいてか鼠の出口を研究する必要が生ずる。どの方面から来るかなと台所の真中に立って四方を見廻わす。何だか東郷大将のような心持がする。下女はさっき湯に行って戻って来 ( こ ) ん。小供はとくに寝ている。主人は芋坂 ( いもざか ) の団子を喰って帰って来て相変らず書斎に引き籠 ( こも ) っている。細君は——細君は何をしているか知らない。大方居眠りをして山芋の夢でも見ているのだろう。時々門前を人力 ( じんりき ) が通るが、通り過ぎた後 ( あと ) は一段と淋しい。わが決心と云い、わが意気と云い台所の光景と云い、四辺 ( しへん ) の寂寞 ( せきばく ) と云い、全体の感じが悉 ( ことごと ) く悲壮である。どうしても猫中 ( ねこちゅう ) の東郷大将としか思われない。こう云う境界 ( きょうがい ) に入ると物凄 ( ものすご ) い内に一種の愉快を覚えるのは誰しも同じ事であるが、吾輩はこの愉快の底に一大心配が横 ( よこた ) わっているのを発見した。鼠と戦争をするのは覚悟の前だから何疋来ても恐 ( こわ ) くはないが、出てくる方面が明瞭でないのは不都合である。周密なる観察から得た材料を綜合 ( そうごう ) して見ると鼠賊 ( そぞく ) の逸出 ( いっしゅつ ) するのには三つの行路がある。彼れらがもしどぶ鼠であるならば土管を沿うて流しから、へっついの裏手へ廻るに相違ない。その時は火消壺の影に隠れて、帰り道を絶ってやる。あるいは溝 ( みぞ ) へ湯を抜く漆喰 ( しっくい ) の穴より風呂場を迂回 ( うかい ) して勝手へ不意に飛び出すかも知れない。そうしたら釜の蓋 ( ふた ) の上に陣取って眼の下に来た時上から飛び下りて一攫 ( ひとつか ) みにする。それからとまたあたりを見廻すと戸棚の戸の右の下隅が半月形 ( はんげつけい ) に喰い破られて、彼等の出入 ( しゅつにゅう ) に便なるかの疑がある。鼻を付けて臭 ( か ) いで見ると少々鼠臭 ( くさ ) い。もしここから吶喊 ( とっかん ) して出たら、柱を楯 ( たて ) にやり過ごしておいて、横合からあっと爪をかける。もし天井から来たらと上を仰ぐと真黒な煤 ( すす ) がランプの光で輝やいて、地獄を裏返しに釣るしたごとくちょっと吾輩の手際 ( てぎわ ) では上 ( のぼ ) る事も、下 ( くだ ) る事も出来ん。まさかあんな高い処から落ちてくる事もなかろうからとこの方面だけは警戒を解 ( と ) く事にする。それにしても三方から攻撃される懸念 ( けねん ) がある。一口なら片眼でも退治して見せる。二口ならどうにか、こうにかやってのける自信がある。しかし三口となるといかに本能的に鼠を捕 ( と ) るべく予期せらるる吾輩も手の付けようがない。さればと云って車屋の黒ごときものを助勢に頼んでくるのも吾輩の威厳に関する。どうしたら好かろう。どうしたら好かろうと考えて好い智慧 ( ちえ ) が出ない時は、そんな事は起る気遣 ( きづかい ) はないと決めるのが一番安心を得る近道である。また法のつかない者は起らないと考えたくなるものである。まず世間を見渡して見給え。きのう貰った花嫁も今日死なんとも限らんではないか、しかし聟殿 ( むこどの ) は玉椿千代も八千代もなど、おめでたい事を並べて心配らしい顔もせんではないか。心配せんのは、心配する価値がないからではない。いくら心配したって法が付かんからである。吾輩の場合でも三面攻撃は必ず起らぬと断言すべき相当の論拠はないのであるが、起らぬとする方が安心を得るに便利である。安心は万物に必要である。吾輩も安心を欲する。よって三面攻撃は起らぬと極 ( き ) める。
それでもまだ心配が取れぬから、どう云うものかとだんだん考えて見るとようやく分った。三個の計略のうちいずれを選んだのがもっとも得策であるかの問題に対して、自 ( みずか ) ら明瞭なる答弁を得るに苦しむからの煩悶 ( はんもん ) である。戸棚から出るときには吾輩これに応ずる策がある、風呂場から現われる時はこれに対する計 ( はかりごと ) がある、また流しから這い上るときはこれを迎うる成算もあるが、そのうちどれか一つに極 ( き ) めねばならぬとなると大 ( おおい ) に当惑する。東郷大将はバルチック艦隊が対馬海峡 ( つしまかいきょう ) を通るか、津軽海峡 ( つがるかいきょう ) へ出るか、あるいは遠く宗谷海峡 ( そうやかいきょう ) を廻るかについて大 ( おおい ) に心配されたそうだが、今吾輩が吾輩自身の境遇から想像して見て、ご困却の段実に御察し申す。吾輩は全体の状況において東郷閣下に似ているのみならず、この格段なる地位においてもまた東郷閣下とよく苦心を同じゅうする者である。
吾輩がかく夢中になって智謀をめぐらしていると、突然破れた腰障子が開 ( あ ) いて御三 ( おさん ) の顔がぬうと出る。顔だけ出ると云うのは、手足がないと云う訳ではない。ほかの部分は夜目 ( よめ ) でよく見えんのに、顔だけが著るしく強い色をして判然眸底 ( ぼうてい ) に落つるからである。御三はその平常より赤き頬をますます赤くして洗湯から帰ったついでに、昨夜 ( ゆうべ ) に懲 ( こ ) りてか、早くから勝手の戸締 ( とじまり ) をする。書斎で主人が俺のステッキを枕元へ出しておけと云う声が聞える。何のために枕頭にステッキを飾るのか吾輩には分らなかった。まさか易水 ( えきすい ) の壮士を気取って、竜鳴 ( りゅうめい ) を聞こうと云う酔狂でもあるまい。きのうは山の芋、今日 ( きょう ) はステッキ、明日 ( あす ) は何になるだろう。
夜はまだ浅い鼠はなかなか出そうにない。吾輩は大戦の前に一と休養を要する。
主人の勝手には引窓がない。座敷なら欄間 ( らんま ) と云うような所が幅一尺ほど切り抜かれて夏冬吹き通しに引窓の代理を勤めている。惜し気もなく散る彼岸桜 ( ひがんざくら ) を誘うて、颯 ( さっ ) と吹き込む風に驚ろいて眼を覚 ( さ ) ますと、朧月 ( おぼろづき ) さえいつの間 ( ま ) に差してか、竈 ( へっつい ) の影は斜めに揚板 ( あげいた ) の上にかかる。寝過ごしはせぬかと二三度耳を振って家内の容子 ( ようす ) を窺 ( うかが ) うと、しんとして昨夜のごとく柱時計の音のみ聞える。もう鼠の出る時分だ。どこから出るだろう。
戸棚の中でことことと音がしだす。小皿の縁 ( ふち ) を足で抑えて、中をあらしているらしい。ここから出るわいと穴の横へすくんで待っている。なかなか出て来る景色 ( けしき ) はない。皿の音はやがてやんだが今度はどんぶりか何かに掛ったらしい、重い音が時々ごとごととする。しかも戸を隔ててすぐ向う側でやっている、吾輩の鼻づらと距離にしたら三寸も離れておらん。時々はちょろちょろと穴の口まで足音が近寄るが、また遠のいて一匹も顔を出すものはない。戸一枚向うに現在敵が暴行を逞 ( たくま ) しくしているのに、吾輩はじっと穴の出口で待っておらねばならん随分気の長い話だ。鼠は旅順椀 ( りょじゅんわん ) の中で盛に舞踏会を催うしている。せめて吾輩の這入 ( はい ) れるだけ御三がこの戸を開けておけば善いのに、気の利かぬ山出しだ。
今度はへっついの影で吾輩の鮑貝 ( あわびがい ) がことりと鳴る。敵はこの方面へも来たなと、そーっと忍び足で近寄