神皇正統記
神皇正統記
巻一
〳〵しにも、此名あれば の なりとはしりぬべし。又は と ふ。是は陽神陰神、此国を 給しが、 の なりしによ[つ]て けられたり。又は と ふ。是は の の名也。第八にあたるたび、 と云神を 給ふ。これを となづく。今は四十八け国にわかてり。 たりし上に、 天皇 より の 也。よりて其名をとりて、 の七州をもすべて耶麻土と云なるべし。 にも、 の国より たりしかば、 を周と 、 の よりおこりたれば、 を漢と名づけしが如し。 と云へることは と云也。昔 わかれて のうるほひいまだかわかず、山をのみ として其 おほかりければ と ふ。 古語に居住を と ふ。山に居住せしによりて なりとも云へり。大日本とも大倭とも ことは、此国に漢字 て後、国の名をかくに字をば大日本と てしかも とよませたるなり。 のしろしめす御国なれば、其義をもとれるか、はた日の る所にちかければしかいへるか。義はかゝれども字のまゝ日のもとゝはよまず。耶麻土と ぜり。我国の漢字を訓ずること多く 。おのづから の などいへるは によれるなり。国の名とせるにあらず。〔 。日のもとゝよめる哥、万葉[に] ふ。いざこどもはや日のもとへおほとものみつのはま松まちこひぬらん〕 より大日本とも は大の字をくはへず、日本ともかけり。 の名を大日本豊秋津といふ。 ・ ・ 等の御 みな大日本の字あり。 天皇の御 と ふ。これみな大の字あり。 、 の にのり をかけりて「 の国」との 。神武の御名 と号したてまつる。 を 、 を 日本とも 、景行天皇の御子 の を の尊となづけ奉る。是は大を ざるなり。 くやまとゝよませたれど の義をとらば、おほやまとゝ てもかなふべきか。其 より を へける時、倭と て此国の名に たるを、 して、又此字を耶麻土と訓じて、日本の に大を加へても又のぞきても 訓に しけり。漢土より と けゝる事は、昔此国の人はじめて にいたれりしに、「 が国の名をばいかゞ ふ。」と問けるを、「 は」と云をきゝて、 と名づけたりとみゆ。 に、「 の〈海中に の東北に 郡あり〉 あり。百余国をわかてり。」と ふ。もし の時すでに けるか〈。 には、 の代よりすでに ともみゆ。 にしるせり〉 に、「 王は耶麻 に す。」とみえたり〈耶麻堆は山となり〉。これは すでに此国の の例により大倭と称するによりてかくしるせるか〈。大倭と云ことは異朝にも領納して の ・ ・ をしたがへ給しは後漢の末ざまにあたれり。すなはち漢地にも通ぜられたりと たれば、文字も てつたはれるか。一説には の時より を とも云〉 にのせたれば此国にのみほめて するにあらず〈異朝に。 ・ など云は なりと称するこゝろなり〉 「 年中に倭国の 始てあらためて と号す。其国東にあり。日の に を ふ。」と たり。此事我国の古記にはたしかならず。 天皇の御時、もろこしの より使ありて書をおくれりしに、 とかく。聖徳太子みづから を りて、 を 給しには、「東天皇敬白西皇帝。」とありき。かの国よりは倭と たれど、返牒には日本とも倭とものせられず。是より には牒ありともみえざる也。唐の咸亨の は の御代にあたりたれば、 には の より日本と て送られけるにや。又此国をば といふ。神武天皇国のかたちをめぐらしのぞみ給て、「 の の如くあるかな。」との給しより、此名ありきとぞ。しかれど、 に と云名あれば、神武にはじめざるにや。 もあまた名あり。 の 国とも、 の の国とも、 の ともいへり。又 国と云名もあるか。「東海の中に扶桑の木あり。日の なり。」とみえたり。日本も東にあれば、よそへていへるか。此国に 木ありと云事きこえねば、たしかなる名にはあらざるべし。 の に と云山あり。此山をめぐりて の あり。其中間は皆 なり。金山の に あり。此海中に四大州あり。州ごとに又 の あり。南州をば と云〈又。是は ふ。 ことばの 也〉 の名なり。南州の中心に と云山あり。 に池あり〈阿耨達こゝには。池の と ふ。 に といへるは即この山なり〉 に 樹あり。 七 百由旬なり〈一由旬とは四十里也。六尺を。此樹、州の中心にありて最も高し。よりて州の名とす。 とす。三百六十歩を一 とす。この里をもちて由旬をはかるべし〉 山の南は 、北は なり。葱嶺の北は 、雪山の南は 、東北によりては 国、西北にあたりては 国也。此 州は 七千由旬、里をもちてかぞふれば二十八万里。東海より西海にいたるまで九万里。南海より北海にいたるまで又九万里。天竺は によれり。よ[つ]て贍部の とす也。地のめぐり又九万里。震旦ひろしと云へども五天にならぶれば の小国なり。日本は をはなれて海中にあり。 の 、 の は 也としるされたり。しからば南州と東州との なる と云州なるべきにや。 に「東北の海中に山あり。 と ふ。」とあるは の金剛山の事也とぞ。されば此国は天竺よりも震旦よりも東北の大海の中にあり。別州にして の皇統を へ給へる国也。 世界の中なれば、天地開闢の初はいづくもかはるべきならねど、三国の説 ことなり。天竺の説には、世の始りを と云ふ〈。 に ・ ・ ・ の あり。各二十の増減あり。一増一減を一小劫と ふ。二十の増減を一中劫と ふ。四十劫を て一大劫と云〉 と ふ 、空中に の雲をおこし、 に す。 をふらす。 の上につもりて となる。 して天上にいたれり。又大風ありて を て空中になげおく。即大梵天の宮殿となる。其水次第に て 界の諸宮殿 須弥山・四大州・ をなす。かくて万億の世界同時になる。是を と云也〈此万億の世界を三千大千世界といふなり〉。光音の天衆 して次第に住す。是を と ふ。此住劫の間に二十の増減あるべしとぞ。其初には人の身 とほく照して 也。 を とす。 の なし。後に地より す。 のごとし〈或は。これをなめて とも云〉 を生ず。 を失ひ、 もきえて、 にくらくなる。 の しからしめければ、黒風海を て ・ 二輪を す。須弥の半腹におきて四 を照さしむ。是より始て ・ ・ あり。地味に しより もかじけおとろへき。地味又うせて と云物あり〈或は地皮とも云〉。衆生又 とす。林藤又うせて の あり。 の をそなへたり。 にかれば に す。此 を せしによりて、身に いできぬ。此故に始て あり。男女の相 別にして、つひに のわざをなす。 となづけ を て、共に き。光音の諸天、 に する者 の にいりて の衆生となる。 秔稲 ぜず。衆生うれへなげきて、 をわかち、 を しうゑて食とす。他人の田種をさへうばひぬすむ者 て互にうちあらそふ。是を決する人なかりしかば、衆 にはからひて の を 、 て と云〈。 と云心なり〉
也。 はじめて をひらき、 ながく を へ給ふ。 国のみ此事あり。 には其たぐひなし。此故に と ふ也。 には 国と ふ。 の より此 あり。 、 にさづけ給し にきこえたり。 、 の尊に まし其始の王を民主王と号しき。十〳〵の みなむかへて拝す。あへて 者なし。 四大州に たり。又 ・ ・ ・ ・ ・ 等の あり。此七宝 するを金輪王となづく。 に ・ ・ の転輪王あり。 によりて果報も次第に れる也。 も百年に一年を減じ、身のたけも同く一尺を てけり。百二十歳にあたれりし時、 で〈或は百才[の]時とも。十歳に至らん ふ。是よりさきに で き〉 ほひに小三 と云ことあるべし。 ほと〳〵 てたゞ一万人をあます。その 善を て、又寿命も増し、果報もすゝみて二万歳にいたらん時、鉄輪王 て 一州を領すべし。四万歳の時、銅輪王出て東・南二州を領す。六万歳の時、 王出て東・西・南三州を領し、八万四千歳の時金輪王出て四天下を 領す。其 に るが如し。かの時又 にむかひて 給べし〈八万才の時とも云〉。此後十八けの減増あるべし。かくて大火災と云ことおこりて、 の までやけぬ。三千大千世界同時に する、これを と ふ。かくて世界 のごとくなるを空劫と ふ。かくの すること七けの火災をへて大水災あり。このたびは第二禅まで す。七々の火・七々の水災をへて大風災ありて第三禅まで壊す。是を大の三災と云也。第四禅 は の あることなし。此四禅の に五天あり。 は の住所、 は とて の の 也。此浄居をすぎて 天王の宮殿あり〈。 とも云〉 の に して大千世界を統領す。其天のひろさ 世界にわたれり〈。此上に無色界の天あり。又四地をわかてりといへり。此等の天は小大の も広狭に あり。初禅の梵天は 天下のひろさなり〉 にあはずと ども、 に際限ありて なば、 すべしと見えたり。震旦はことに をことゝする国なれども、世界 を る事たしかならず。儒書には 氏と ふ王よりあなたをば ず。 異書の説に、 のかたち、天・地・人の を云るは、 の に相似たり。或は又 と云王あり。「目は となり、毛髪は となる。」と云る事もあり。それよりしもつかた、 ・地皇・人皇・ 等の 氏うちつゞきて多くの王あり。其間 万歳をへたりと ふ。我朝の初は の をうけて世界を建立するすがたは、天竺の説に似たる方もあるにや。されどこれは より たがはずして、たゞ一種ましますこと天竺にも其 なし。 国の初の民主王も衆のためにえらびたてられしより相続せり。又世くだりては、その もおほくほろぼされて、 あれば、下劣の種も国主となり、あまさへ五天竺を統領するやからも有き。震旦又ことさらみだりがはしき国なり。昔世すなほに道ただしかりし時も、賢をえらびてさづくるあとありしにより、一種をさだむる事なし。乱世になるまゝに、 をもちて国をあらそふ。かゝれば民間より出でゝ位に居たるもあり。 より て国を へるもあり。或は 世の臣として其君をしのぎ、つひに をえたるもあり。伏犠氏の後、天子の をかへたる事三十六。 のはなはだしさ、云にたらざる 。
の をおこなひて国ををさめしかば、 是を す。閻浮提の 、 にして 及び大寒熱あることなし。 も て なりき。民主の子孫相続して久く君たりしが、 正法も しより寿命も じて八万四千歳にいたる。身のたけ なり。其 に王ありて の を せり。 づ天より て王の前に現在す。王 で ことあれば、此 、 してもろ〳〵ける。是しかしながら神明の御誓あらたにして余国にことなるべきいはれなり。 、神道のことはたやすくあらはさずと云ことあれば、根元をしらざれば しき始ともなりぬべし。其つひえをすくはんために し侍り。神代より にてうけ伝へるいはれを ことを て、常に ゆる事をばのせず。しかれば の とや け べき。
我国のみ ひらけし初より今の世の に まで、 をうけ給ことよこしまならず。 の中におきてもおのづから より へ給しすら猶 にかへる道ありてぞたもちまし〈純男といへどもその相ありともさだめがたし〉。 木徳の神を〈蒲鑒反〉 尊・ 尊と ふ。 徳の神を 尊・ 尊と ふ。次に土徳の神を 尊・ の尊と ふ。天地の道相 て、 陰陽のかたちあり。しかれどそのふるまひなしと云り。 には国常立の 神にましますなるべし。五行の徳 神とあらはれ給。是を六代ともかぞふる也。二世三世の次第を べきにあらざるにや。次に し給へる神を 尊・ 尊と申す。是は く陰陽の にわかれて の となり給ふ。 の五行はひとつづゝの徳也。此五徳をあはせて万物を生ずるはじめとす。こゝに 尊、伊弉諾・伊弉冊の 神に しての給はく、「豊葦原の千五百秋の瑞穂の あり。 てしらすべし。」とて、 をさづけ給。此矛又は天の とも、 ほこともいへり。二神このほこをさづかりて、 の の上にたゝずみて、矛をさしおろしてかきさぐり給しかば、 のみありき。そのほこのさきよりしたゝりおつる こりて の嶋となる。これを と ふ。此名に て秘説あり。神代、 にかよへるか。其 もあきらかに 人なし。 の国 なりと云〈。二神此嶋に あり〉 て、 国の中の をたて、 の を してともにすみ給。さて陰陽 して夫婦の道あり。此矛は 、天孫したがへてあまくだり給へりとも ふ。又 天皇の に、大和姫の 、天照太神の御をしへのまゝに国々をめぐり、 国に をもとめ給し時、 の命と云神まゐりあひて、 の に をまぼりおける所をしめし しに、かの天の逆矛・ ・ の ありき。大和姫の命よろこびて、其所をさだめて、神宮をたてらる。霊物は五十鈴の宮の にをさめられきとも、又、 の神と申は 神なり、その神あづかりて地中にをさめたりとも ふ。 には大和の の神はこの滝祭と同体にます、此神のあづかり給へる也、よりて と ふ御名ありとも ふ。昔磤馭盧嶋に くだり給しことはあきらか也。世に と云事はおぼつかなし。天孫のしたがへ給ならば、神代より の のごとく へ給べし。さしはなれて、五十鈴[の]河上に有けんもおぼつかなし。 天孫も玉矛 みづからしたがへ と云事 たり〈。しかれど矛も 説なり〉 の神のたてまつらるゝ、国をたひらげし矛もあれば、いづれと云事をしりがたし。宝山にとゞまりて不動のしるしとなりけんことや なるべからん。 も宝山ちかき所なれば、龍神を といへるも、 の心あるべきにや〈凡〴〵の異説あり〉。 にさま ・ ・古語拾遺等にのせざらん事は の ひとへに信用しがたかるべし。 書の 猶一決せざること多し。 異書におきては とすべからず。かくて、此 神相はからひて の をうみ給ふ。 、 の をうみます。 と ふ。 、 の の をうみます。 に あり。 を と云、これは伊与也。 を と云、是は 也。 を と云、これは 也。 を と云、是は 也。 、 の をうみます。又一身に四面あり。一を の と云、是は 也。後に ・ と ふ。二を と云、これは 国也。後に ・ と ふ。三を と云、是は の国也。後に ・ と ふ。四を と云、是は 也。後に ・ ・ と云〈筑紫・豊国・肥の国・日向といへるも、二神の御代の始の名には。 る 〉 、 の国をうみます。 と ふ。 、 の をうみます。 と ふ。 、 の州をうみます。 と ふ。 、 の州を ます。 と ふ。 、 をうみます。 と ふ。すべて是を と云也。此外あまたの嶋を 給。後に の神、木のおや、草のおやまで うみましてけり。 れも神にませば、 給へる神の をも山をもつくり給へるか。はた を に神のあらはれましけるか、 のわざなれば、まことに 。
ざりし時、 として、まろがれること の如し。くゝもりて ふくめりき。これ の 未分の 也。其気始てわかれてきよくあきらかなるは、たなびきて と成り、おもくにごれるはつゞいて となる。其中より たり。かたち の如し。 して神となりぬ。 尊と申。又は天の御中主の神とも号し奉つる。此神に ・ ・ ・ ・ の の徳まします。 水徳の神にあらはれ給を 尊と ふ。次に火徳の神を 尊と ふ。 の ひとりなす。ゆゑに にてます〈。又天照太神とも 字は霊と通ずべきなり。陰気を霊と云とも云へり。 にましませば ら にや〉 。女神にてまします也。 、 を ます。其光日につげり。 にのぼせて の をさづけ給。 に、 を生ます。みとせになるまで たゝず。 の 船にのせて風のまゝはなちすつ。 、 尊を ます。いさみたけく にして の御心にかなはず。「 の国にいね。」との給ふ。この は にてまします。よりて と申也。すべてあらゆる神みな二神の にましませど、国の たるべしとて 給しかば、ことさらに此 神を申伝けるにこそ。其後 を まし〳〵し時、 やかれて 給にき。 うらみいかりて、火神を にきる。その三段おの〳〵神となる。血のしたゝりもそゝいで神となれり。 の神〈 の神とも申。今の の神〉 神〈の の神とも申。今の の神〉 也。陽神猶したひて までおはしましてさまざまのちかひありき。陰神うらみて「此国の人を に ころすべし。」との給ければ、陽神は「 を べし。」との給けり。よりて をば の とも ふ。 るものよりも生ずるものおほき也。陽神かへり給て、 の の が原と云所にてみそぎし給。この時あまたの神 し玉へり。 神もこゝにて と云説あり。伊弉諾尊 すでにをはりければ、天上にのぼり、天祖に 申て、 天にとゞまり給けりとぞ。 説に伊弉諾・伊弉冊は なり、 ・ なりと ふ。
神又はからひてのたまはく、「我すでに大八州の国および山川草木をうめり。いかでかあめの下のきみたるものをうまざらむや。」とてまづ を ます。此みこひかりうるはしくして国の にてりとほる。二神よろこびて におくりあげて、天上の事をさづけ給。此時天地あひさることとほからず。天のみはしらをもてあげ給。これを の尊と○〳〵て、「われをみるが如くにせよ。」と し給けること、 の御誓もあらはれて、ことさらに 道あるべければ、 に勝劣の義をば存ずべからざるにや。
第一代、 尊。是を と申。又は とも とも申也。此神の 給こと の説あり。 には伊弉諾・伊弉冊尊あひ て、 の をうまざらんやとて、 、日神をうみ、次に、 、 、 、 、素戔烏尊を 給といへり。又は伊弉諾の尊、 御手に の鏡をとりて大日孁の尊を し、 御手にとりて の尊を 、 をめぐらしてかへりみ給しあひだに、素戔烏尊を ともいへり。又伊弉諾尊日向の小戸の川にてみそぎし給し時、左の をあらひて天照太神を化生し、右の御眼をあらひて の尊を 、 鼻を て素戔烏尊を じ給とも云ふ。 神の も あり、化生の所も あれば、 はかりがたし。又おはします所も、 には の原と 、 には日の と 、 には 国これ也。 の御鏡をとらせまし〳〵て、 のそなへをして 給。かの尊 心なきよしをおこたり給ふ。「さらば をなして、きよきか、きたなきかをしるべし。誓約の に女を生ぜば、きたなき心なるべし。男を生ぜば、きよき心ならん。」とて、素戔烏尊のたてまつられける の玉をとり給へりしかば、其玉に感じて 化生し給。すさのをの尊 て、「まさやあれかちぬ。」との給ける。よりて御名を の の の尊と申〈これは古語拾遺の説〉。又の説には、素戔烏尊、天照太神の御くびにかけ給へる の をこひとりて、 の にふりすゝぎ、これをかみ給しかば、 の尊うまれまします。其後猶四はしらの男神 給。「物のさねわが物なれば我子なり。」とて天照太神の御子になし給といへり〈これは日本紀の一説〉。 吾勝尊をば太神めぐしとおぼして、つねに御わきもとにすゑ給しかば、 と ふ。今の世にをさなき子をわかこと云はひが事也。かくて、すさのをの尊なほ天上にましけるが、さま〴〵のとがをゝかし給き。天照太神いかりて、天の にこもり給。国のうちとこやみになりて、昼夜のわきまへなかりき。もろ〳〵の神達うれへなげき給。其時 の にて 尊と ふ神まし〳〵き。昔、 の尊、みはしらの御子おはします。 を高皇産霊とも 、次をば 、次を と云とみえたり。 こそはじめて諸神を じ給しに、 に の御子と云ことおぼつかなし。〈此みはしらを天御中主の御こと云事は日本紀にはみえず。古語拾遺にあり〉。此神、 のやすかはのほとりにして、 の神をつどへて相 し給。其御子に と云神のたばかりにより、 と云神をして日神の の鏡を鋳せしむ。そのはじめなりたりし鏡、諸神の心にあはず〈。次に鋳給へる鏡うるはしくまし 国 の神にます〉〳〵ければ、諸神 あがめ給〈初は皇居にまし〳〵き。今は伊勢国の五十鈴の宮にいつかれ 、これなり〉。又天の の神をして、八坂瓊の玉をつくらしめ、天の の神をして、 をつくらしめ、 ・ の二神をして、 の をきりて の をつくらしむ〈このほかくさ〴〵あれどしるさず〉。其物すでにそなはりにしかば、天の 山の の をねこじにして、 には八坂瓊の玉をとりかけ、 には八咫の鏡をとりかけ、 には青和幣・白和幣をとりかけ、天の太玉の命〈高皇産霊神の子なり〉をしてさゝげもたらしむ。天の の命〈津速産霊の子、或は孫とも。をして の神の子也〉 せしむ。天の の命、 の をかづらにし、 を にし、竹の葉、 の葉を にし、 の矛をもちて、 の前にして をして、相ともにうたひまふ。又 をあきらかにし、 の をつどへて、たがひにながなきせしむ〈これはみな。天照太神きこしめして、われこのごろ石窟にかくれをり。 の なり〉 の はとこやみならん。いか[ん]ぞ、天の鈿女の命かくゑらぐするやとおぼして、御手をもてほそめにあけてみ給。この時に、 の命と云神〈思兼の神の子〉 のわきに 給しが、其戸をひきあけて にうつしたてまつる。 の神〈天児屋命なり〉 の神〈天の太玉の命也〉しりくへなはを〈日本紀には端出之縄とかけり。注にはひきめぐらして「なかへりましそ。」と申。 縄の せると ふ。古語拾遺には とかく。これ の なりといふ〉 はじめてはれて、もろ〳〵ともに 。 みなあきらかにしろし。手をのべて て、「あはれ〈天のあきらかなるなり〉。あな、おもしろ〈古語に〳〵のおもて に白き也〉。あな、たのし。あな、さやけ なるをみなあなと ふ。 、もろ〈竹のはのこゑ〉。おけ〈木の名也。。」かくて、つみを素戔烏の尊によせて、おほするに はをふるこゑ也。天の鈿目の持給へる手草也〉 の をもて のかみ、手足のつめをぬきてあがはしめ、其罪をはらひて神やらひにやらはれき。かの尊 よりくだりて、 の の と云所にいたり給。 に のおきなとうばとあり。 のをとめをすゑてかきなでつゝなきけり。素戔烏尊「たそ。」とゝひ給ふ。「われはこれ 也。 ・ と ふ。このをとめはわが子なり。 と ふ。さきに八けの あり。としごとに の のためにのまれき。今此をとめ又のまれなんとす。」と申ければ、尊、「我にくれんや。」との給。「 のまゝにたてまつる。」と申ければ、此をとめを のつまぐしにとりなし、みづらにさし、やしほをりの酒を の にもりて 給に、はたしてかの大蛇きたれり。 おの〳〵 槽に てのみゑひてねぶりけるを、尊はかせる の をぬきてつだ〳〵にきりつ。尾にいたりて剣の すこしかけぬ。さきてみ給へば の剣あり。その上に ありければ、天の の剣と く〈。「これあやしき の尊にいたりてあらためて草なぎの剣と ふ。それより にます〉 なり。われ、なぞ、あへて私におけらんや。」との給て、天照太神にたてまつり られにけり。其のち出雲の の地にいたり、宮をたてゝ、稲田姫とすみ給。 の神を〈うましめて、素戔烏尊はつひに根の国にいでましぬ。大汝の神、此国にとゞまりて とも云〉〈今の出雲の大神にます〉 を し、 の地を 給けり。よりてこれを大国主の神とも とも申。その 魂は大和の の神にます。
、素戔烏尊、 神にやらはれて 国にくだり給へりしが、天上にまうでゝ姉の尊にみえたてまつりて、「ひたぶるにいなん。」と申給ければ、「ゆるしつ。」との給。よりて天上にのぼります。大うみとゞろき、山をかなりほえき。此神の たけきがしからしむるになむ。天照太神おどろきまし○第二代、〳〵しに、饒速日尊はこれをえ給はず。しかれば日嗣の神にはましまさぬなるべし〈此事旧事本紀の説也。日本紀にはみえず〉。天照太神・吾勝尊は天上に り給へど、 の第一、二にかぞへたてまつる。其 の たるべしとてうまれ給しゆゑにや。
の 尊。高皇産霊の尊の の命にあひて、 尊・ 尊をうましめ て、吾勝尊 にくだりますべかりしを、御子うみ給しかば、「かれを下すべし。」と申給て、天上にとゞまります。まづ、饒速日の尊をくだし給し時、 高皇産霊尊、 の を 給。 鏡 、 鏡一、 剣一、 一、 玉一、 一、 玉一、 一、 比礼一、 の 比礼一、これなり。此みことはやく神さり給にけり。 国の とてはくだし給はざりしにや。吾勝尊くだり べかりし時、天照太神 の を へ給。のちに又瓊々杵尊にも まし○第三代、〳〵き。葦原の中州の として 給はんとす。こゝに其国 あれてたやすく 給ことかたかりければ、 と云神をくだしてみせしめ給しに、 の神の 、 にとつぎて、 こと申さず。みとせになりぬ。よりて名なし をつかはしてみせられしを、天稚彦いころしつ。其矢天上にのぼりて太神の御まへにあり。血にぬれたりければ、あやめ給て、なげくだされしに、天稚彦 てふせりけるむねにあたりて死す。世に返し矢をいむは此故也。さらに又くださるべき神をえらばれし時、 の命〈 神にます〉 の神〈みことのりをうけてくだりましけり。 の神にます〉 国にいたり、はかせる剣をぬきて、地につきたて、其上にゐて、大汝の神に太神の をつげしらしむ。その子 神〈今あひともに の にます〉 申。又次の子 の神〈今したがはずして、にげ給しを、すはの の神にます〉 までおひてせめられしかば、又したがひぬ。かくてもろ〳〵の 神をばつみなへ、まつろへるをばほめて、天上にのぼりて こと申給。大物主の神〈大汝の神は此国をさり、やがてかくれ給と見ゆ。この大物主はさきに云所の三輪の神にますなるべし〉事代主の神、相共に の神をひきゐて、 にまうづ。太神ことにほめ給き。「 八十万の神を て皇孫をまぼりまつれ。」とて、 かへしくだし給けり。其後、天照太神、高皇産霊尊相 て皇孫をくだし給。 の神、 を て御供につかうまつる。諸神の 三十二神あり。其 に 神と云は、 命〈中臣の天 〉 命〈忌部の祖〉天 命〈 の祖〉 命〈鏡 の祖〉 命〈也。此中にも中臣・忌部の の祖〉 神はむねと をうけて皇孫をたすけまぼり給。又 の をさづけまします。 あらかじめ、皇孫に して 、「 也[なり]。 焉。 。 。」又太神御手に宝鏡をもち 、皇孫にさづけ て、「 。 。」との給。八坂瓊の ・天の叢雲の剣をくはへて三種とす。又「此鏡の に なるをもて、 に 給へ。八坂瓊のひろがれるが如く をもて天下をしろしめせ。神剣をひきさげては るものをたひらげ 。」と まし〳〵けるとぞ。
尊。 とも とも申。 天照太神・高皇産霊尊いつきめぐみまし此国の〈八咫に口伝あり〉、〔裏書[に] ふ。咫説文 ふ。中婦人手長八寸謂之咫。周尺也。 、今の八咫の鏡[の]事は 口伝あり。〕玉は八坂瓊の曲玉、々屋の命〈 玉とも云〉 給へるなり〈八坂にも口伝あり〉。剣はすさのをの命のえ給て、太神にたてまつられし の剣也。此三種につきたる は く国をたもちますべき道なるべし。鏡は をたくはへず。 の心なくして、 をてらすに是非善悪のすがたあらはれずと云ことなし。其すがたにしたがひて するを徳とす。これ の本源なり。玉は を徳とす。慈悲の本源也。剣は剛利決断を徳とす。 の本源也。此三徳を ずしては、 のをさまらんことまことにかたかるべし。 あきらかにして、 つゞまやかにむねひろし。あまさへ神器にあらはれ給へり。いとかたじけなき事をや。 にも鏡を とし、 の とあふがれ給。鏡は をかたちとせり。 あきらかなれば、慈悲決断は其 にあり。又 く をうつし給しかば、ふかき御心をとゞめ給けんかし。 にある物、 よりあきらかなるはなし。 を制するにも「日月を明とす。」と云へり。我神、 の にましませば、明徳をもて照臨し給こと陰陽におきてはかりがたし。 につきてたのみあり。君も も神明の をうけ、或はまさしく をうけし神達の 也。誰か是をあふぎたてまつらざるべき。此 をさとり、其道にたがはずは、 の学問もこゝにきはまるべきにこそ。されど、此道のひろまるべき事は内外典 の力なりと云つべし。魚をうることは の によるなれど、衆目の力なければ是をうることかたきが如し。 天皇の御代より儒書をひろめられ、 太子の御時より、 をさかりにし給し、 皆 の にましませば、天照太神の御心をうけて我国の道をひろめふかくし給なるべし。かくて此瓊々杵の尊、 ましゝに と云神まゐりあひき〈これはちまたの神也〉。てりかゝやきて目をあはする神なかりしに、天の鈿目の神 あひぬ。又「皇孫いづくにかいたりましますべき。」と問しかば、「 の日向の高千穂の の にましますべし。われは伊勢の五十鈴の川上にいたるべし。」と 。彼神の のまゝに、槵触の峯にあまくだりて、しづまり給べき所をもとめられしに、 ・ と云神〈これも伊弉諾尊の御子、又はまいりて、「わがゐたる の と云〉 の の なんよろしかるべし。」と申ければ、その所にすませ給けり。こゝに山の神 、 の あり。姉を と云〈これ、妹を の神なり〉 の 姫と云〈これは花木の神なり〉。二人をめしみ 。あねはかたちみにくかりければ返しつ。いもうとを め給しに、磐長姫うらみいかりて、「我をもめさましかば、世の人はいのちながくて磐石の如くあらまし。たゞ妹をめしたれば、うめらん子は の花の如くちりおちなむ。」ととこひけるによりて、人のいのちはみじかくなれりとぞ。木の花のさくやひめ、ゝされて にはらみぬ。天孫のあやめ給ければ、はらたちて をつくりてこもりゐて、みづから火をはなちしに、 の御子 。ほのほのおこりける時、 ますを の命と ふ。火のさかりなりしに生ますを 命と ふ。 に生ますを の尊と 。此三人の御子をば火もやかず、母の神もそこなはれ給はず。父の神 まし〳〵けり。此尊 を 給事三十万八千五百三十三年と云へり。 さき、天上にとゞまります神達の御事は はかりがたきにや。 わかれしより のこと、いくとせをへたりと云こともみえたる なし。 、天竺の説に、 無量なりしが八万四千歳になり、それより百年に一年を減じて百二十歳の時〈或百才とも〉釈迦仏 で と る、此仏出世は 尊のすゑざまの事なれば〈神武天皇元年、百年に一年を増してこれをはかるに、此瓊々杵の尊の 、 二百九十年にあたる。これより上はかぞふべき也〉 つかたは の 給ける時にやあたり侍らん。人寿二万歳の時、此仏は出給けりとぞ。
として、 一種たゞしくまします事、まことにこれらの にみえたり。三種の神器世に こと、 の にあるにおなじ。鏡は日の なり。玉は月の 也。剣は星の 也。ふかき習あるべきにや。 、彼の宝鏡はさきにしるし の命の 給へりし八咫の御鏡○第四代、〈此神の事さきにみゆ〉まゐりあひて、あはれみ申て、はかりことをめぐらして、 命〈の所におくりつ。其 ともかけり〉 を豊玉姫と ふ。 の御孫にめでたてまつりて、父の神につげてとゞめ申つ。つひに其 とあひすみ 。みとせばかりありて をおぼす ありければ、其女父にいひあはせてかへしたてまつる。 いろくづをつどへてとひけるに、 と云 、やまひありとてみえず。しひてめしいづれば、その はれたり。是をさぐりしに、うせにし鉤をさぐりいづ〈。 には と ふ。又此魚はなよしと云魚とみえたり〉 いましめて、「口女いまよりつりくふな。又 の にまゐるな。」となん云ふくめける。又海神ひる珠みつ珠をたてまつりて、 をしたがへ給べきかたちををしへ申けり。さて にかへりまして鉤を つ。 をいだしてねぎ給へば、塩みちきて、このかみおぼれぬ。なやまされて、「 の とならん。」とちかひ給しかば、ひる珠をもちて塩をしりぞけ給き。これより をつたへまし〳〵ける。海中にて豊玉姫はらみ給しかば、「 にいたらば、 に を て待給へ。」と申き。はたして其 姫をひきゐて、海辺に あひぬ。 を作て の にてふかれしが、ふきもあへず、御子うまれ給によりて 尊と申す。又産屋をうぶやと云事もうのはをふけるゆゑなりとなん。さても「 の時み給な。」と しを、のぞきて見ましければ、 になりぬ。はぢうらみて、「われにはぢみせ給はずは、 をして相かよはしへだつることなからまし。」とて、御子をすておきて海中へかへりぬ。後に御子のきら〳〵しくましますことをきゝて憐み めて、妹の玉依姫を奉て養ひまゐらせけるとぞ。此尊、天下を治給こと六十三万七千八百九十二年と云へり。震旦の世の をいへるに、 混然としてあひはなれず。是を と ふ。其後 物は となり、 物は となり、中 は となる。これを と云〈これまでは我国の。其はじめの君 りを云にかはらざる也〉 氏、天下を こと一万八千年。 ・地皇・人皇など云王 て、九十一代一百八万二千七百六十年。さきにあはせて一百十万七百六十年〈これ一説なり。。 にはあきらかならず〉 と云書には、開闢より に て二百七十六万歳とも ふ。獲麟とは孔子の 、 の哀公の時なり。日本の にあたる。しからば、盤古のはじめは此尊の御代のすゑつかたにあたるべきにや。
の尊と 。 の の命、海の ます。此尊は山の ましけり。こゝろみに相かへ給しに、 其 なかりき。 の尊の、 に魚の をかえ給へりしを、弓箭をば つ。おとゝの を魚にくはれて失ひ給けるを、あながちにせめ給しに、せんすべなくて にさまよひ給き。塩土の○第五代、〳〵ける。此神の御代七十七万余年の程にや、もろこしの三皇の初、 と云王あり。 、 氏、 、 氏、三代あはせて五万八千四百四十年〈一説には一万六千八百二十七年。しからば此尊の八十万余の年にあたる也。。其後に 中納言の新古今の序を に、伏犠の皇徳に して四十万年と云り。 説によれるにか。 〉 氏、 氏、 氏、 氏〈堯也〉、 氏〈舜也〉と云五帝あり。 て四百三十二年。其 、 ・ ・ の三代あり。夏には十七主、四百三十二年。殷には三十主、六百二十九年。周の代と て第四代の を昭王と云き。その二十六年 の年までは周おこりて一百二十年。このとしは葺不合尊の八十三万五千六百六十七年にあたれり。ことし天竺に釈迦仏出世しまします。 き八十三万五千七百五十三年に、 御年八十にて しまし〳〵けり。もろこしには昭王の子、 王の五十三年 にあたれり。其後二百八十九年ありて、 にあたる年、此神かくれさせまします。すべて天下を治給こと八十三万六千四十三年と云り。これより つかたを 五代とは申けり。二代は天上にとゞまり 。 三代は西の 宮にて多の年をおくりまします。神代のことなれば、其 たしかならず。葺不合の尊八十三万余年まし〳〵しに、その御子磐余彦尊の御代より、にはかに の となりて、 も短くなりにけること疑ふ人もあるべきにや。されど、神道の事おしてはかりがたし。まことに磐長姫の けるまゝ寿命も短くなりしかば、神のふるまひにもかはりて、やがて人の代となりぬるか。天竺の説の如く次第ありて たりとはみえず。又百王ましますべしと申める。十々の百には るべし。 なきを百とも云り。 など云にてしるべき也。昔、皇祖天照太神天孫の尊に御ことのりせしに、「 。」とあり。天地も昔にかはらず。日月も光をあらためず。 や三種の神器世に現在し給へり。きはまりあるべからざるは我国を る 也。あふぎてた[つ]とびたてまつるべきは日嗣をうけ給すべらぎになんおはします。
尊と 。御母豊玉姫の名づけ申ける御名なり。御 玉依姫にとつぎて はしらの御子をうましめ給ふ。 命、 命、 命、 の尊と申す。磐余彦尊を太子に立てて をなんつがしめまし
巻二
○〳〵利をうしなふ。又 をはきしかば、 みなやみふせり。こゝに天照太神、 の神をめして、「葦原の中つ にさわぐおとす。汝ゆきてたひらげよ。」とみことのりし給。健甕槌の神 給けるは、「昔国をたひらげし時[の]剣あり。かれをくださば、 らたひらぎなん。」と申て、 国 の村に 命と云神にしめして、此剣をたてまつりければ、天皇 給て、士卒のやみふせりけるもみなおきぬ。又 の命の 、 命大 となりて軍の御さきにつかうまつる。天皇ほめて と号し給。又 の くだりて のはずにゐたり。其光てりかゞやけり。これによりて皇軍 にかちぬ。 の命其 のひがめる心をしりて、たばかりてころしつ。その をひきゐてしたがひ申にけり。天皇はなはだほめまし〳〵て、 よりくだれる神剣をさづけ、「其 にこたふ。」とぞのたまはせける。此剣を の神と号す。はじめは の にまし〳〵き。後には の の神宮にまします。 の命又 の尊 し時、 の尊さづけ給し の を へもたりけるを天皇に奉る。天皇 の瑞宝也しかば、其祭を始られにき。此宝をも にあづけ給て、 石上に す。又は と 。此瑞宝を づゝよびて、 をして、ふる事あるによれるなるべし。かくて たひらぎにしかば、大和国 に都をさだめて、宮つくりす。其 天上の儀のごとし。天照太神より伝給へる三種の神器を に安置し、 を同くしまします。皇宮・神宮 なりしかば、国々の つき物をも にをさめて ・ のわきだめなかりき。 命の孫 の命、 の命[の]孫 の命もはら をつかさどる。神代の にことならず。又 を の にたてゝ、 ・ をまつらしめ 。此御代の始、 の年、もろこしの の世、第十七代にあたる君、 王の十七年也。五十七年 は周の二十一代の君、 王の三年にあたれり。ことし す。是は道教の祖也。 の し給しより元年辛酉までは二百九十年になれるか。此天皇 を 給こと七十六年。一百二十七歳おはしき。
第一代、神日本磐余彦 と 。後に となづけたてまつる。 鸕鶿草葺不合の尊の第四の子。御母玉依姫、 第二[の] 也。伊弉諾尊には六世、 の尊には五世の天孫にまします。神日本磐余彦と申は神代よりのやまとことばなり。神武は中古となりて、もろこしの によりてさだめたてまつる御名也。又此御代より代ごとに をうつされしかば、其 を名づけて御名とす。此天皇をば の宮と申、是也。又神代より て を と 、其次を と ふ。人の代となりては とも号したてまつる。臣下にも ・ ・ などと、いふ号いできにけり。神武の御時よりはじまれる事なり。 には尊とも命とも て けるとみえたり。世くだりては天皇を尊と申こともみえず、 を命と云事もなし。古語の耳なれずなれるゆゑにや。此 御年十五にて に 、五十一にて 神にかはりて皇位にはつかしめ 。ことし なり。 日向の宮崎の宮におはしましけるが、 の神達および に して、東 のことあり。此 は皆是王地也。 なりしによりて の国にして、おほくの をおくられけるにこそ。天皇 をとゝのへ、 をあつめて、 にむかひ給。みちのついでの国々をたひらげ、大やまとにいりまさむとせしに、其国に の神 の の尊の御すゑ の命と云神あり。 の と云、「 の御子両種有むや。」とて、 をおこしてふせぎたてまつる。其軍こはくして しば○第二代、〈これより の尊号をばのせず〉 第二[の]御子。御母 、 の神の女也。父の天皇かくれまして、みとせありて即位し給。 年也。 の宮にまします。三十一年 の年もろこしの周の二十三代[の]君、 王の二十一年也。ことし 誕生す。 七十三年までおはしけり。儒教をひろめらる。此道は昔の賢王、 、 、 の の 、 のはじめの 、 のはじめの 王・ 王・ 公の国を治め、民をなで給し道なれば、心を しくし、身をなほくし、家を治め、国を治めて、天下におよぼすを とす。さればことなる道にはあらねども、 となりて、人不正になりしゆゑに、其道ををさめて をたてらるゝ也。天皇天下を 給こと三十三年。八十四歳おまし〳〵き。
天皇[は]○第三代、〳〵き。
天皇は 第二の子。御母 、 の神のおと 也。 の年即位。 の の の宮にまします。天下を治給こと三十八年。五十七歳おまし○第四代、
天皇は 第二の子。御母 、 の神の孫也。 年即位。大和の の宮にまします。天下を治給こと三十四年。七十七歳おはしましき。○第五代、
天皇は 第一の子。御母 姫、 の命の女也。父の天皇かくれまして ありて、 の年即位。大和の の の の宮にまします。天下を治給こと八十三年。百十四歳おはしましき。○第六代、〳〵き。
天皇は 第二の子。御母 の姫、 の の の女也。 の年即位。 の宮にまします。天下を治給こと一百二年。百二十歳おまし○第七代、〴〵くこれをおくる。其後三十五年ありて、 国、書を 、儒をうづみにければ、孔子の全 日本にとゞまるといへり。此事異朝の書にのせたり。我国には 三韓をたひらげ給しより、異国に通じ、応神の御代より の学つたはれりとぞ申ならはせる。孝霊の御時より此国に ありとはきかぬ事なれど、 のことは に とゞめざるにや。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、 、 して へたりける本こそ したれば、この御代より伝けん事もあながちに まじきにや。凡此国をば君子不死の国とも云也。孔子世のみだれたる事を て、「 にをらん。」との給ける。日本は九夷の其 なるべし。異国には此国をば東夷とす。此国よりは又彼国をも と云るがごとし。 と云は ・ ・ ・ 也。南は の なれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありて ながし。よりて ・ の字をしたがふと云へり。〔裏書[に] ふ。夷説文曰。東方之人也。从大从弓。徐氏曰。唯東夷从大从弓。仁而寿。有君子不死之国 ふ。仁而寿、未合弓字之義。弓者以近窮遠也 ふ。若取此義歟。〕孔子の時すらこなたのことをしり給ければ、秦の世に通じけんことあやしむに ぬことにや。此天皇天下を 給事七十六年。百十歳おはしましき。
天皇は の 。御母 、 命の女也。 年即位。大和の の宮にまします。三十六年 にあたる年、もろこしの周の国 して にうつりき。四十五年 、秦の 即位。此の始皇仙 をこのみて の薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇の を 国にもとめしに、始皇こと○第八代、〳〵き。
天皇は孝霊の 。御母 、 の女也。 年即位。 の の宮にまします。九年 の年、もろこしの て にうつりき。此天皇天下を治給こと五十七年。百十七歳おまし○第九代、〳〵き。
天皇は孝元第二の子。御母 姫、 の 妹也。 年即位。大和の の宮にまします。天下を治給こと六十年。百十五歳おまし○第十代、〈初は孝元の、 として の命をうむ〉 の命の女也。 の歳即位。大和の の の宮にまします。此御時神代をさる事、世は十つぎ、年は六百 になりぬ。やうやく神威をおそれ給て、即位六年 年〈神武元年神代の より此 までは六百二十九年〉 の の神のはつこをめして鏡をうつし せしめ、 の神のはつこをして剣をつくらしむ。 の にして、此両種をうつしあらためられて、 の として に安置す。神代よりの宝鏡および霊剣をば の命につけて、大和の の と云所に をたてゝあがめ奉らる。これより神宮・皇居 になれりき。其後太神のをしへありて、豊鋤入姫の命、神体を て をめぐり給けり。十年の秋、 命を に し、 の命を に、吉備津彦命を に、 の の命を に遣す。ともに を て将軍とす〈将軍の名はじめてみゆ〉。天皇の の命、朝廷をかたぶけんとはかりければ、将軍等を て、まづ追討しつ。冬 に将軍 す。十一年の夏、四道の将軍 を ぬるよし す。六十五年秋 の国、 をさして つきをたてまつる〈筑紫をさること二千余里と云〉。天皇天下を治給こと六十八年。百二十歳おまし〳〵き。
天皇は開化第二の子。御母 姫○第十一代、〈孝元の御子〉女也。 の年即位。大和の の の宮にまします。此御時皇女大和姫の命、 姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のをしへにより、なほ国々をめぐりて、二十六年 冬 に 国 川上に をしめ、 の原に に大宮柱 てしづまりまし〳〵ぬ。此 は昔 あまくだり給し時、 の神まゐりあひて、「われは伊勢の の五十鈴の川上にいたるべし。」と申ける所也。 姫の命、宮所を 給しに、大田の命と云人〈又まゐりあひて、此所ををしへ申き。此命は昔の猨田彦の神の とも云〉 なりとぞ。彼川上に ・天上の などあり〈天の。「八万歳のあひだまぼりあがめたてまつりき。」となん申ける。かくて もこの所にありきと云一説あり〉 の の命を とす。又 と云人を になし 。これより とあがめ奉て、 第一の にまします。此天皇天下を治給こと九十九年。百四十歳おまし〳〵き。
天皇は 第三の子。御母 、 の○第十二代、〈日向にあり〉そむきてみつき奉らず。 に天皇筑紫に して是を し給。十三年夏こと〴〵く ぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫より 給。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子 の尊御年十六、をさなくより まして、 。身の 一丈、 かなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめ 。冬 ひそかに彼国にいたり、 をもて、 と云物を 。梟帥ほめ奉て、 となづけ申けり。 余党を て帰給。所々にしてあまたの をころしつ。二十八年春かへりこと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。四十年の夏、 おほく て辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。 の 、 の を左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に して伊勢の神宮にまうでゝ、大和姫の命にまかり 給。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ。」とをしへ給ける。 に〈駿河日本紀説、いたるに、 古語拾遺説〉 野に火をつけて したてまつらんことをはかりけり。火のいきほひまぬかれがたかりけるに、はかせる の剣をみづからぬきて、かたはらの草をなぎてはらふ。これより名をあらためて の剣と ふ。又火うちをもて火を て、むかひ火を て、賊徒を ころされにき。これより船に 給て にいたり、転じて 国にいり、 の国〈その所異説あり〉にいたり、 を げ給。かへりて をへ にこえ、又 ・ をへて、 にいたり、 と云し をしのび給〈上総へ。東南の 給し時、 あらかりしに、尊の御命をあがはんとて海に し人なり〉 をのぞみて、「 。」との給しより、 の諸国をあづまと云也。これより道をわけ、吉備の武彦をば 国に して を しめ給。尊は より にいで給。かの国に と云 あり。 の の妹也。此女をめして あひだ、 の山に ありときこえければ、剣をば宮簀媛の家にとゞめて、かちよりいでます。 して になりて、御道によこたはれり。尊またこえてすぎ給しに、山神毒気を けるに、御心みだれにけり。それより伊勢にうつり給。 と云所にて御やまひはなはだしくなりにければ、武彦の命をして天皇に事のよしを して、つひにかくれ給ぬ。御年三十也。天皇きこしめして、 給事 なし。 に て、伊勢国能褒野にをさめたてまつる。 と て、大和国をさして 原にとゞまれり。其所に又 をつくらしめられければ、又 て にとゞまる。その所に陵を られしかば、白鳥又飛て にのぼりぬ。 の陵あり。 草薙の剣は宮簀媛あがめたてまつりて、尾張にとゞまり給。今の 神にまします。五十一年秋 、 の を の臣とす。五十三年秋、 の命の し国をめぐりみざらんやとて、東国に し給。 あづまよりかへりて、伊勢の の宮にまします。五十四年秋、伊勢より大和にうつり、 の宮にかへり給。天下を治給こと六十年。百四十歳おまし〳〵き。
天皇は垂仁第三の子。御母 、丹波道主の王の女也。 年即位。大和の の の宮にまします。十二年秋、○第十三代、〈崇神の御子〉女也。 尊 をうけ給ふべかりしに、世をはやくしまし〳〵しかば、此 給。 歳即位。近江の の宮にまします。神武より十二代、大和国にまし〳〵き〈景行天皇のすゑつかた、此高穴穂にまし〳〵しかども る皇都にはあらず〉。此時はじめて他国にうつり給。三年の春、武内の宿禰を とす〈大臣の号これにはじまる〉。四十八年の春、 の尊〈日本武の尊の御子〉をたてゝ皇太子とす。天下を治給こと六十一年。百七歳おまし〳〵き。
天皇は景行第三[の]子。御母 、八坂入彦の皇子[の]○第十四代、第十四世、〳〵しより、 と とかはれる初也。これよりは世を としるし べき也〈代と世とは常の義。此天皇御かたちいときら なし。 ど の とまことの継体とを せん為に たり。 字書にもそのいはれなきにあらず。代は の義也。世は の註に、父 て子 を世と云とあり〉〳〵しく、御たけ一丈まし〳〵ける。 の年即位。此御時熊襲又 して朝 せず。天皇 をめしてみづから をいたし、 にむかひ給。皇后 尊は の国 の神にまうでゝ、それより北海をめぐりて行あひ給ぬ。こゝに神ありて皇后にかたり奉る。「これより西に の国あり。うちてしたがへ給へ。熊襲は小国也。又伊弉諾・伊弉冊のうみ給へりし国なれば、うたずともつひにしたがひたてまつりなん。」とありしを、天皇うけがひ給はず。事ならずして の にしてかくれ 。 にをさめ奉る。是を の宮と申す。天下を治給こと九年。五十二歳おまし〳〵き。
天皇は 尊第二の子、 御孫也。御母 、 天皇[の]女也。 神武より第十二代景行までは のまゝに し給。日本武尊世をはやくし給しによりて、 是をつぎ給。此天皇を太子としてゆづりまし○第十五代、〳〵けり。神がゝりてさま〴〵道ををしへ給ふ。此神は「 ・ 筒男・ 筒男なり。」となんなのり給けり。是は伊弉諾尊日向の の が原にてみそぎし給し時、 しましける神也。後には にいつかれ給神これなり。かくて ・ ・ を〈此三け国をうちしたがへ給き。 と ふ。 は新羅にかぎるべきか。 ・ ・ をすべて新羅と云也。しかれどふるくより百済・高麗をくはへて三韓と ならはせり〉 かたちをあらはし、御船をはさみまぼり申しかば、 の如く彼国を げ給。神代より年序久くつもれりしに、かく をあらはし給ける、 御ことなるべし。海中にして の を 給へりき。さてつくしにかへりて皇子を誕生す。応神天皇にまします。神の 給しによりて、是を の天皇とも申。皇后 して 年より天下をしらせ給。皇后いまだ筑紫にまし〳〵し時、皇子の の の王 をおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、 の につけ、皇后はすぐに につき給て、程なく其 を平げられにき。皇子おとなび給しかば皇太子とす。武内[の]大臣もはら朝政を し申けり。大和の の宮にまします。是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国に のつかさをおかれしかば、 相 て国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「 の女王 て来朝す。」と にみえたり。元年 年は漢の 二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王 と云 をうばひて十四年ありき。其 漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢は して此御代の十九年 に献帝位をさりて、 の にゆづる。是より天下 にわかれて、 ・ ・ となる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづ じけるにや。 国より のたくみなどまでわたされき。又 国にも通ぜられけるかとみえたり。四十九年 と云し年、魏又 て の代にうつりにき〈蜀の国は三十年。此皇后天下を治給こと六十九年。一百歳おまし に魏のためにほろぼされ、呉は魏より後までありしが、応神十七年 晉のためにほろぼさる〉〳〵き。
皇后は の の女、 天皇四世の御孫也。 姫の尊と申す。仲哀たてゝ皇后とす。仲哀神のをしへによらず、世を早くし給しかば、皇后いきどほりまして、七日あ[つ]て を作り、いもほりこもらせ給。此時応神天皇はらまれまし○第十六代、第十五世、〳〵なれば、異学の の せる事 。 よりぞ此国のことをばあら〳〵しるせる。 したることもあり、又心えぬこともあるにや。 には、日本の を より の御代まであきらかにのせたり。さても此御時、 大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされける 、おとゝの によりて、すでに追討せられしを、大臣の 、 と云人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりて せらる。大臣は て都にまうでゝ、とがなきよしを められにき。上古 の 猶かゝるあやまちまし〳〵しかば、 かつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治給こと四十一年。百十一歳おまし〳〵き。 天皇の御代に始て神とあらはれて、筑紫の 国 の池と云所にあらはれ 、「われは 十六代 の なり。」との給き。誉田はもとの御名、八幡は の号也。後に の国 の宮にしづまり給しかば、 天皇東大寺 の後、 し給べきよし ありき。 をとゝのへてむかへ申さる。又神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼寺に し らる。されど などは宇佐にまゐりき。清和の御時、 の僧、 宇佐にまうでたりしに、 ありて、今の にうつりまします。 行幸も も石清水にあり。 宇佐へも をたてまつらる。昔 給し時、御 の神 ありき。 の神したがへて へのぼりしも、 の神と云り。今までも を まつらるゝ神、三千 也。しかるに の宮にならびて、 の とて八幡をあふぎ申さるゝこと、いとたふとき御事也。八幡と申御名は御 に「 。 。 。 。」とあり。 とは、 に、 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 、是を八正道と ふ。 なれば はおのづからきよまる。 に なくして、 なるを 出世の とす。神明の も又これがためなるべし。又八方に の を ることあり。密教の 、 の 也。其故にや行教 には の形にてみえさせ給けり。 の上にうつらせまし〳〵けるを して、男山には安置し申けりとぞ。神明の を云ことはたしかならぬたぐひおほけれど、 の は昔よりあきらかなる おはしますにや。或は又、「昔 。」とも、或は なりとも、 なりとも託宣し給。 にも八正の幡をたてゝ、八方の衆生を し を、 てつかうまつるべきにや。天照太神もたゞ をのみ御心とし給へる。神鏡を へまし〳〵しことの は、さきにもしるし ぬ。又 天皇二十二年の冬 に、伊勢の神宮の のまつり、夜ふけてかたへの人々 て 、 ばかり たりしに、 ・ の太神、 命にかゝりて託宣し しに、「人はすなはち天下の なり。心神をやぶることなかれ。神はたるゝに を以て とし、 はくはふるに正直を以て とす。」とあり。 二十三年 、かさねて託宣し給しに、「 は四州をめぐり、 を照すと ども正直の を照すべし。」とあり。されば 宗廟の御心をしらんと思はゞ、 正直を先とすべき也。 の間ありとある人、陰陽の気をうけたり。不正にしてはたつべからず。こと更に此国は神国なれば、神道にたがひては一日も日月をいたゞくまじきいはれなり。倭姫の命人にをしへ給けるは「 心なくして 心をもて、 。左の物を右にうつさず、右の物を左にうつさずして、左を左とし右を右とし、左にかへり右にめぐることも たがふことなくして、 につかうまつれ。 故なり。」となむ。まことに、君につかへ、神につかへ、国ををさめ、人ををしへんことも、かゝるべしとぞおぼえ 。すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本となる。 に、「霜を に 。」と云ことを、孔子釈しての給はく、「 の家に あり、積不善の家に あり。君を し父を弑すること一朝一夕の故にあらず。」と り。 も君をいるかせにする心をきざすものは、かならず乱臣となる。 も親をおろそかにするかたちあるものは、 して賊子となる。此故に古の聖人、「道は もはなるべからず。はなるべきは道にあらず。」と云けり。 其の を学びて を めざれば、ことにのぞみて えざる あり。其源と云は、心に をたくはへざるを ふ。しかも の に るべからず。天地あり、君臣あり。善悪の の如し。 が欲をすて、人を利するを先として、 に対すること、鏡の物を照すが如く、 として迷はざらんを、まことの正道と云べきにや。代くだれりとて ら むべからず。天地の始は今日を始とする理なり。 、君も臣も神をさること遠からず。常に の をかへりみ、神の をさとりて、 に せんことを心ざし、 なからんことを べし。
天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。 の天皇とも、又は 天皇ともなづけたてまつる。 年即位。大和の の宮にまします。此時 より をめし、 をつたへられ、太子 これをまなびならひき。此国に経史 文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。 の一書の中に、「日本は呉の が 也と ふ。」といへり。 あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、 の御代にやきすてられしなり。 て後、すさのをの尊 の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。 の御すゑなれば、なにしにか くだれる 太伯が後にあるべき。 ・ に通じてより 、異国の人おほく此国に しき。秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬ の子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せしによりて、 と云 をつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。異朝にも人の心まち○第十七代、〳〵しをうつくしみ給て、太子に むとおぼしめしけり。 の御子達うけがひ給はざりしを、此天皇ひとりうけがひ給しによりて、応神 まして、菟道稚を太子とし、此尊を になん定め給ける。応神かくれまし〳〵しかば、 達太子を失はんとせられしを、此尊さとりて太子と心を にして彼を せられき。 太子天位を尊に 。尊 くいなみ給、 になるまで に て位を す。太子は の宇治にます。尊は摂 の にましけり。国々の つぎ物もあなたかなたにうけとらずして、民の となりしかば、太子みづから 給ぬ。尊おどろき ことかぎりなし。されどのがれますべきみちならねば、 の年即位。摂 難波 の宮にまします。日嗣をうけ給ひしより国をしづめ民をあはれみ こと、ためしもまれなりし御事にや。民間の きことをおぼして、三年の を られき。 にのぼりてみ給へば、にぎはゝしくみえけるによりて、
天皇は応神第一の御子。御母 の命、 也。大 の尊と 。応神の御時、 と申は の御子にてましにのぼりてみれば のかまどはにぎはひにけり
とぞよませ給ける。さて猶三年を許されければ、宮の中〳〵[の]御調を へけるとぞ。ありがたかりし御 なるべし。天下を治給こと八十七年。百十歳おまし〳〵き。
て もたまらず。 の て其よそほひ からず。 は是をたのしみとなむおぼしける。かくて と云に、国々の民 まゐり て大宮 し、○第十八代、〳〵き。
天皇は仁徳の太子。御母 の命、 の の女也。 の年即位。又大和の の宮にまします。 の稚桜の宮と 。天下を治給こと六年。六十七歳おまし○第十九代、〳〵き。
天皇は仁徳第三の子、 同母の弟也。 年即位。河内の の の宮にまします。天下を治給こと六年。六十歳おまし○第二十代、〳〵におこれりしを と ふ。百七十余年はならびて たりき。此天皇天下を治給こと四十二年。八十歳おまし〳〵き。
天皇は仁徳第四[の]子、履中反正同母[の]弟也。 の年即位。大和の の宮にまします。此御時までは三韓の御調 にかはらざりしに、これより後はつねにおこたりけりとなん。八年 にあたりて、もろこしの ほろびて南北朝となる。 ・ ・ ・ あひつぎて る。是を と ふ。 ・ ・ つぎ
巻三
○第二十一代、〈応神の御子〉女也。 年即位。 宮にまします。 皇子を〈ころして其 御子〉 をとりて皇后とす。 皇子の子 王をさなくて、母にしたがひて宮中に しけり。天皇 の上に 給けるをうかゞひて、さしころして、 の が家ににげこもりぬ。此天皇天上を治給こと三年。五十六歳おまし〳〵き。
天皇は允恭第二の子。御母 姫、 の○第二十二代、〳〵けれども、神に通じ給へりとぞ。二十一年 冬 に、伊勢の 大和姫の命にをしへて、 国 の の原よりして 太神を迎へ奉らる。大和姫の命 し給しによりて、 の秋 に をさしてむかへたてまつる。 に の 山田の原の にしづまり給。垂仁天皇の御代に、皇太神 の宮に らしめ給しより、四百八十四年になむなりにける。神武の よりすでに千百余年に成ぬるにや。又これまで の命 し給しかば、 のつくりも、日の の ・ によりてなさせ給けりとぞ。 此神の御事異説まします。外宮には の神と たり。されば皇太神の にて、此宮の祭を にせらる。 奉るも づ此宮を先とす。 の尊此宮の にまします。 の命・ の命も天孫につき申て相殿にます也。これより二所[の]太神宮と申。丹波より遷らせ ことは、昔 の命、天照太神を して、丹波の の宮にうつり給ける 、此神あまくだりて におはします。四年ありて天照太神は又大和にかへらせ 。それより此神は丹波にとまらせ給しを、 の命と云人いつき けり。 は此宮にて をとゝのへて、内宮へも毎日におくり しを、 年中より に をたてゝ、 のをも にて となん。かやうの事によりて、 の神と 説あれど、 と との両義あり。 の なれば、 の ・ の と 御名もあれば、猶さきの説を とすべしとぞ。 さへ にましませば、御饌の神と云説は がたき事にや。此天皇天下を治給こと二十三年。八十歳おまし〳〵き。
天皇は 第五[の]子、安康同母の弟也。 尊と申。安康ころされ給し時、眉輪の王 の大臣を せらる。あまさへ其の事にくみせられざりし 皇子をさへにころして位に 。ことし の年也。大和の泊瀬 の宮にまします。天皇 まし○第二十三代、〳〵き。
天皇は 第三の子。御母 、葛城の の大臣の女也。 の年即位。大倭の の宮にまします。 の 、 おはしければ、しらかの天皇とぞ申ける。御子なかりしかば、 のたえぬべき事を 給て、国々へ をつかはして皇胤を らる。 の の皇子、雄略にころされ給しとき、 、 ましけるが、丹波国にかくれ給けるを て、御子にしてやしなひ給けり。天下を治給こと五年。三十九歳おまし○第二十四代、〳〵しかば、同母の御姉 の尊しばらく に居給き。されどやがて りまし〳〵しによりて、 天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬ也。 の年即位。大和の の宮にまします。天下を治給こと三年。四十八歳おまし〳〵き。
天皇は市辺押羽の皇子第三の子、 天皇[の]孫也。御母 、 の 也。 天皇 て子とし給ふ。 位に べかりしを、相共に まし○第二十五代、〳〵しによりて、徳のおよばざることをはぢて、顕宗をさきだて給けり。 の年即位。大和の の宮にまします。天下を治給こと十一年。五十歳おまし〳〵き。
天皇は 同母の 也。 の 父の皇子をころし給しことをうらみて、「 をほりて をはづかしめん。」との給しを、顕宗いさめまし○第二十六代、〳〵しに、此 こゝにたえにき。「聖徳は 百代にまつらる。」〈とこそみえたれど、不徳の子孫あらば、其 にみゆ〉 を滅すべき おほし。されば の は、子なれども慈愛におぼれず、 にあらざれば ことなし。 の なりしかば、 にさづけ、舜の子 又 にして に られしが如し。堯舜よりこなたには猶天下を にする故にや、 子孫に ことになりにしが、 の 、 にして国を失ひ、 の 聖徳ありしかど、 が時 にして永くほろびにき。 にも仏 百年の後、 と云王あり。姓は 氏、王位につきし日、 る。 の をえて、 を す。あまさへ の をしたがへたり。 を以て天下ををさめ、仏理に通じて をあがむ。八万四千の を て、 を し、九十六億千の を て に する人なりき。其 孫 王の時、悪臣のすゝめによ[つ]て、 の たりし を せんと云 をおこし、もろ〳〵の寺をやぶり、 を す。阿育王のあがめし の の塔をこぼたんとせしに、 いかりをなし、 を して王 び の衆をおしころす。これより孔雀の にき。かゝれば先祖 なる徳ありとも、 の子孫 のまつりをたゝむことうたがひなし。此天皇天下を治給こと八年。五十八歳おまし〳〵き。
天皇は仁賢の太子。御母 の皇女、雄略の御女也。 の年即位。大和の の宮にまします。 さがなくまして、 としてなさずと云ことなし。 も からず。 さしも まし○第二十七代、第二十世、〈。大和の かくれ給て後、二年 をむなしくす〉 の宮にまします。 の御 の皇女を皇后とす。即位し給しより に にまし〳〵き。応神御子おほくきこえ給しに、 賢王にてまし〳〵しかど、 たえにき。 の御末、かく世をたもたせ こと、いかなる故にかおぼつかなし。仁徳をば の尊と 。第八の皇子をば と申。仁徳の に兄弟たはぶれて、 は 也、 は 也と 給ことありき。隼の名にかちて、末の世をうけつぎ給けるにや。もろこしにもかゝるためしあり〈。名をつくることもつゝしみおもくすべきことにや。それもおのづから にみゆ〉 なりといはゞ、 の べきにあらず。此天皇の 給しことぞ の とみえ る。 、 たえぬべかりし時、群臣 き。 によりて天位を へり。天照太神の にこそとみえたり。 に其人ましまさん時は、 おはすとも、 か をなし給べき。皇胤たえ給はんにとりては、 にて にそなはり給はんこと、 又天のゆるす所也。此天皇をば我国 の と ぎ るべきにや。天下を治給こと二十五年。八十歳おまし〳〵き。
天皇は 五世の御孫也。応神第八[の]御子 の皇子、其子 の王、其子 の王、其子 の王、其子 の王と は此天皇にまします。御母 、 七世の御孫也。 国にましける。 かくれ給て たえにしかば、群臣うれへなげきて国々にめぐり、ちかき皇胤を けるに、此天皇 の まして、 のいきほひ、世にきこえ給けるにや。群臣相 て 奉る。三たびまで し けれど、つひに位に 給ふ。ことし の年也○第二十八代、〳〵き。
天皇は継体の太子。御母は 姫、 の の の 也。 年即位。大和の の宮にまします。天下を治給こと二年。七十歳おまし○第二十九代、〳〵き。
天皇は継体第二の子、 同母の弟也。 の年即位。大和の の宮にまします。天下を治給こと四年。七十三歳おまし○第三十代、第二十一世、〳〵しかど、此天皇の御すゑ世をたもち 。御母 も のながれにてましませば、猶も其遺徳つきずしてかくさだまり給けるにや。 年即位。 の の宮にまします。十三年 に の国より仏・法・僧をわたしけり。此国に伝来の始なり。 一千十六年にあたる年、もろこしの の 十年に仏法はじめて 国につたはる。それより此 の年まで四百八十八年。もろこしには北朝の 即位三年、南朝の にも即位三年也。簡文帝の父をば と申き。 に仏法をあがめられき。此御代の初つかたは武帝同時也。仏法はじめて伝来せし時、他国の神をあがめ給はんこと、我国の神慮にたがふべきよし、群臣かたく けるによりてすてられにき。されど此国に の名をきくことは此時にはじまる。又、 にあがめつかへ奉る人もありき。天皇聖徳まし〳〵て三宝を ぜられけるにこそ。群臣の によりて、其法をたてられずといへども、天皇の にはあらざるにや。昔、 在世に、 の 、 たてまつりし の を へてわたし奉りける、 の にすてられたりしを、 と云者とり奉て、 の国に し申き。今の これ也。此御時 て しまします。天皇天下を こと三十二年。八十一歳おまし〳〵き。
天皇は 第三の子。御母皇后 の皇女、 天皇の女也。 まし○第三十一代、第二十二世、〴〵の あり。たゞ にましまさず。御手をにぎり給しが、二歳にて東方にむきて、 とてひらき給しかば、 の ありき。仏法 のために し給へること なし。此 は今に の にあがめ奉る。天皇天下を治給こと十四年。六十一歳おまし〳〵き。
天皇は欽明第二の子。御母 の皇女、 天皇の女也。 年即位。 の宮にまします。二年 年、天皇の御弟 皇子の 、御子を す。 の皇子にまします。 給しよりさま○第三十二代、〳〵き。
天皇は欽明第四の子。御母 、 の の女也。 の尊と申。厩戸の皇子の父におはします。 年即位。 の の宮にまします。仏法をあがめて、我国に せむとし給けるを、 の かたむけ 、つひに におよびぬ。厩戸の皇子、 の と心を にして せられ、すなはち仏法をひろめられにけり。天皇天下を治給こと二年。四十一歳おまし○第三十三代、〳〵き。或人の ふ。 の と御 あしくして、 大臣のためにころされ給きともいへり。
天皇は 第十二の子。御母 の 。これも の の女也。 年即位。大和の の宮にまします。天皇 の みえ 。つゝしみますべきよしを厩戸の皇子 給けりとぞ。天下を治給こと五年。七十二歳おまし○第三十四代、〈仁徳も異母の妹を妃とし給ことありき〉。崇峻かくれ給しかば、 年即位。 の の宮にまします。昔 六十余年天下を 給しかども、 と申て、天皇とは号したてまつらざるにや。此みかどは につき給にけるにこそ。 厩戸の皇子を皇太子として の をまかせ給。摂政と申き。太子の 国と云こともあれど、それはしばらくの事也。これはひとへに天下を治給けり。太子 まし〳〵しかば、天下の人つくこと日の如く、仰ぐこと雲の如し。太子いまだ皇子にてまし〳〵し時、 を し給しより、仏法 て しき。まして をしらせ給へば、 を 、 をひろめ給こと、 にもことならず。又 にまし〳〵き。御 づから法服を して、 を講じ給しかば、天より花をふらし、 の ありき。天皇・群臣、たふとびあがめ奉ること仏のごとし。 をたてらるゝ事四十余け所におよべり。又此国には昔より人すなほにして なんどもさだまらず。十二年 にはじめて と云ことをさだめ〈、十七年 のしなによりて、 をさだむるに十八階あり〉 に 十七け条をつくりて奏し給。 のふかき道をさぐりて、むねをつゞまやかにしてつくり給へる也。天皇 て天下に せしめ給き。此ころほひは、もろこしには の世也。南北朝 しが、南は正統をうけ、北は よりおこりしかども、中国をば北朝にぞをさめける。 は北朝の と云しがゆづりをうけたりき。 に南朝の をうちたひらげて、一統の世となれり。此天皇の元年 は 一統の 四年也。十三年 は の即位元年にあたれり。彼国よりはじめて使をおくり、よしみを通じけり。 の書に「皇帝恭問倭皇。」とありしを、これはもろこしの天子の につかはす なりとて、群臣あやしみ申けるを、太子の けるは、「皇の字はたやすく ざる なれば」とて、 をもかゝせ 、さま〴〵 をたまひて使をかへしつかはさる。是より此国よりもつねに使をつかはさる。其使を となむなづけられしに、二十七年 の年、隋 て の世にうつりぬ。二十九年 の年太子かくれ給。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申こと父母に するがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、 の御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御 を聖徳となづけ る。この天皇天下を治給こと三十六年。七十歳おまし〳〵き。
天皇は欽明の御女、 同母の御妹也。 姫の尊と 。敏達天皇々后とし○第三十五代、第二十四世、〳〵き。
天皇は の皇子の子、 の御孫也。御母 姫の皇女、これも敏達の 也。 天皇は聖徳太子の御子に へ給はんとおぼしめしけるにや。されどまさしき敏達の御孫、 の にまします。又太子御 にふし給し時、天皇此皇子を御使としてとぶらひましゝに、天下のことを太子の 給へりけるとぞ。 年即位。大倭の の宮にまします。此即位の年はもろこしの唐の太宗のはじめ、 三年にあたれり。天下を治給こと十三年。四十九歳おまし○第三十六代、〈ならびにその子 の大臣の子〉 、 を にして をないがしろにする心あり。其家を と 、諸子を王子となむ云ける。 よりの みな にはこびおきてけり。中にも入鹿 の心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくまし〳〵しをほろぼし奉る。こゝに皇子 の と は の御子、やがて此天皇 也。 の と云人と心を にして をころしつ。父 も家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみな にけり。蘇我の一門 く権をとれりしかども、 のゆゑにやみな ぬ。 と云人ぞ皇子と心をかよはし申ければ せざりける。此 の大臣は の命二十一世[の] 也。昔 あまくだり給し時、諸神の にて、此 、殊に天照太神の をうけて の神にまします。 と云ことも、 神の御中にて、神の御心をやはらげて申給けるゆゑ也とぞ。其 の命、神武の御代に をつかさどる。 は と と にまし〳〵しかば、 をつかさどるは をとれる也〈政の字の。其 にても知べし〉 天照太神、始て伊勢国にしづまりましゝ時、 の命のすゑ の命 になりて、 大臣の父〈 〉 までもその官にてつかへたり。鎌足にいたりて をたて、世に寵せられしによりて、 をおこし先烈をさかやかされける、 こと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえ れ。後に に任じ大臣に転じ、 となる〈正一位の名なり〉。又中臣をあらためて の を らる〈内臣に任ぜらるゝ事は此御代にはあらず。事の。此天皇天下を治給こと三年ありて、同母の御弟 にしるす〉 の に 給。御名を の尊とぞ申ける。
天皇は 王の女、 の皇子の孫、敏達の 也。御母 の女王と申き。舒明天皇々后とし給。 ・ の御母也。舒明かくれまして皇子をさなくおはしましゝかば、 の年即位。 の宮にまします。此時に の○第三十七代、〳〵き。
天皇は 同母の弟也。 年即位。摂 の宮にまします。此御時はじめて を にわかたる。 は成務の御時 の はじめてこれに任ず。 の御代に又 の官をゝかる。 ・ ならびて をしれり。此御時大連をやめて左右の大臣とす。又 をさだめらる。中臣の鎌足を内臣になし給。天下を治給こと十年。五十歳おまし○第三十八代、〳〵き。
天皇は の 也。重祚と云ことは本朝にはこれに れり。異朝には 不明なりしかば、 を にしりぞけて三年 をとれりき。されど帝位をすつるまではなきにや。大甲あやまちを て徳ををさめしかば、もとのごとく天子とす。 に と云し者、 の位をうばひて、八十日ありて、 の為にころされしかば、安帝位にかへり給。 の世となりて、 皇后世をみだられし時、 の子なりしかども、中宗をすてゝ 王とす。おなじ御子 をたてられしも又すてゝみづから位にゐ給。後に にかへりて唐の たえず。予王も又重祚あり。是を と ふ。これぞまさしき重祚なれど、二代にはたてず。中宗・睿宗とぞつらねたる。我朝に の重祚を と号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり。 をおもくするゆゑ 。先賢の議さだめてよしあるにや。 年即位。このたびは大和の にまします。 の岡本の宮と 。此御世はもろこしの の時にあたれり。 をせめしによりてすくひの を うけしかば、天皇・皇太子つくしまでむかはせ 。されど三韓つひに唐に属しゝかば、 をかへされぬ。其後も三韓よしみをわするゝまではなかりけり。皇太子と は の の皇子の御事也。孝徳の御代より太子に 、此御時は摂政し とみえたり。天皇天下を治給こと七年。六十八歳おまし○御三十九代、第二十五世、〈。 の御 なり〉 は時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治給こと十年。五十八歳おまし〳〵き。
天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。 年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年 に 鎌足を とす。又 の を 。昔の大勲を ければ、 ならびなし。 を こと一万五千 なり。 のあひだにも してとぶらひ給けるとぞ。此天皇中興の にまします○第四十代、〳〵き。天智は近江にまします。御 ありしに、太子をよび申給けるを近江の朝廷の の につげしらせ ありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子 の皇子にゆづりて、 宮に 給。天智かくれ給て後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、 をめして芳野をゝそはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、 の にいたりて太神宮を し、 へかゝりて東国の軍をめす。皇子 まゐり給しを大将軍として、美濃の をまぼらめし、天皇は 国にぞこえ給ける。国々したがひ申しゝかば、不破の関の に 勝ぬ。 にのぞみて あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣 は にふし、或は せらる。軍にしたがひ しな〴〵によりて其賞をおこなはる。 年即位。大倭の の宮にまします。朝廷の おほくさだめられにけり。 うるしぬりの をきることも此御時よりはじまる。天下を治給こと十五年。七十三歳おまし〳〵き。
天皇は天智同母の弟也。皇太子に て にまし○第四十一代、〳〵しより妃とし給。後に皇后とす。皇子 わかくまし〳〵しかば、皇后 にのぞみ給。 年也。 の春 即位。 の藤原の宮にまします。 の皇子は太子に 給しが、世をはやくし給。よりて其御子 の を皇太子とす。 にまします。 の太子は後に ありて 天皇と 。此天皇天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて 天皇と き。太上天皇と云ことは、異朝に、 高祖の父を と 、尊号ありて と号す。其 の 祖・ 高祖・ ・ 宗等也。本朝には昔は其 なし。皇極天皇位をのがれ給しも、 の と申き。此天皇よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おまし〳〵き。
天皇は天智の御 也。御母 、蘇我の 石川丸の大臣の女也。天武天皇、太子にまし○第四十二代、〈後に元明天皇と申〉。 年即位。 藤原の宮にまします。此御時 の礼をうつして、宮室のつくり、 の衣服の までもさだめられき。又即位五年 より て年号あり。 と ふ。これよりさきに、 の御代に ・ 、天智の御時 、天武の御代に ・ なんど ふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号の とする也。又皇子を と云こと此御時にはじまる。又藤原の 鎌足の子、 の大臣、 の にて なんどをもえらびさだめられき。藤原の 、此大臣よりいよ〳〵さかりになれり。四人の子おはしき。是を と ふ。 は の大臣の 、 と ふ。 は 大将 の流、 と ふ。いまの執政大臣およびさるべき藤原の人々みなこの末なるべし。 は の 、 と ふ。 は の流、 といひしがはやくたえにけり。 ・式家も にていまに相続すと ども、たゞ北家のみ す。房前の大将 にことなる こそおはしけめ。〔裏書[に] ふ。正一位左大臣武智丸。天平九年七月薨。天平宝字四年八月贈太政大臣。参議正三位中衛大将房前。天平九年四月薨。十月贈左大臣正一位。宝字四年八月贈太政大臣。天平宝字四年八月大師藤原恵美押勝奏。廻所帯大師之任、欲譲南北両大臣者。勅処分、依請南卿藤原武智丸贈太政大臣、北卿〈贈左大臣房前〉転贈太政大臣云々。〕又不比等の大臣は後に と申也。 を す。此寺は の建立にて の にありしを、このおとゞ にうつさる。 山階寺とも申也。後に と ふ 、 へわたりて を へて、此寺にひろめられしより、 の も殊に此宗を し給とぞ〈。此天皇天下を治給こと十一年。二十五歳おまし は の神を とす。 は の にます。春日にうつり給ことは のこと也。しからば、此大臣以後のこと也。又春日第一の 、 神、第二は の 神、三は平岡、四は と申。しかれば の は 御殿にまします〉〳〵き。
天皇は の太子第二の子、天武の 也。御母 の皇女、 御 也○第四十三代、〳〵しより、又七代の都になれりき。天下を治給こと七年。 ありて太上天皇と しが、六十一歳おまし〳〵き。
天皇は天智第四の女、持統 の妹。御母 。これも山田石川丸の大臣の女也。草壁の太子の妃、文武の御母にまします。 年即位。 に改元。三年 始て の に をさだめらる。 には ごとに都を 、すなはちそのみかどの によび奉りき。持統天皇藤原宮にましゝを文武はじめて改めたまはず。此元明天皇平城にうつりまし○第四十四代、〈五位以上。天下を治給こと九年。禅位の後二十年。六十五歳おまし 、六位は 〉〳〵き。
天皇は草壁の太子の御女。御母は元明天皇。文武同母の姉也。 年 に摂政、 に 、 即位、 に改元。平城宮にまします。此御時百官に をもたしむ○第四十五代、〈、 と ふ〉 の 、唐の 等 也。 の 、 天竺の も へりしが、 いまだ熟せずとてかへり にけりともいへり。此国にも 菩薩・ など 人也。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をば とぞ申 へたる。此御時 藤原 と云人〈 の子なり〉 のきこえあり、追討せらる〈。 僧正の によれりともいへり。 となる。今の の明神也云々〉 のために天平十二年 伊勢の神宮に行幸ありき。又〈太政大臣つみありて の子、天武の御孫なり〉 せらる。又 国より始て をたてまつる。此朝に ある始なり。国の の 、賞ありて三位に す。仏法 の なりとぞ。天下を治給こと二十五年。天位を御女 姫の皇女にゆづりて太上天皇と申す。後に出家せさせ給。天皇出家の 也。昔天武、東宮の位をのがれて御ぐしおろし給へりしかど、それはしばらくの事なりき。皇后 もおなじく出家せさせ給。此天皇五十六歳おまし〳〵き。
天皇は文武の太子。御母 藤原の 、 の大臣の女也。 の尊と 。をさなくましゝによりて、元明・元正まづ位にゐ給き。 年即位、改元。平城宮にまします。此御代 に仏法をあがめ給こと にこえたり。東大寺を建立し、 十六 の をつくらる。又諸国に を て、 のために ・ の を講ぜらる。又おほくの高僧他国より す。 の○第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等の大臣の女也。聖武の皇子〳〵ける。
親王世をはやくして後、男子ましまさず。 この皇女 給き。 年即位、改元。平城宮にまします。天下を治給こと十年。 の王を養子として皇太子とす。位をゆづりて太上天皇と申す。出家せさせ給て、平城宮の になむまし○第四十七代、〳〵き。
は 親王の子、天武の御孫也。御母 の が女也。舎人親王は皇子の中に御身の もましけるにや、 と云職をさづけられ、朝務を 給けり。日本紀もこの親王 をうけ玉は[つ]てえらび給。後に追号ありて 天皇と 。孝謙天皇御子ましまさず、又御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にしてゆづり給。たゞし、年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや。 年即位。天下を治給こと六年。事ありて 国にうつされ給き。三十三歳おまし○第四十八代、〈其時太政大臣を正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字をそへて藤原 て大師と云〉 の を き。天下の しかしながら せられにけり。後に と云〈又 の 也〉 ありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申て、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。 も淡路にうつされ給。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常の なりけんかし。 の 皇后は太宗の にて、 と ふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、 に て、 と云寺におはしける、高宗み給て せしめて皇后とす。 おほかりしかども られず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、 宗を られしを、又しりぞけて、 帝位につき、国を とあらたむ。唐の名をうしなはんと 給けるにや。中宗・睿宗もわが 給しかども、すてゝ諸王とし、みづからの のともがらをもちて、国を へしめむとさへし給き。其時にぞ法師も もあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。この道鏡はじめは大臣に じて〈 の准大臣のはじめにや〉 と しを太政大臣になし給。それによりてつぎ〳〵 ・ にも法師をまじへなされにき。道鏡世を心のまゝにしければ、あらそふ人のなかりしにや。大臣 の の公、 藤原の などありき。されど、ちからおよばざりけるにこそ。法師の官に任ずることは、もろこしより て、僧正・ など云事のありし、それすら出家の にはあらざるべし。いはんや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。されど、もろこしにも南朝の宋の世に と云し人、 にまじらひしを といひき〈。 これは官に とはみえず〉 の世に と云し僧、 の官になりき。北朝[の]魏の の代に と云僧、 公の をたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。 の に と云人、 と を にして が をたひらげし故に、 将軍になされにけり。 宗の時、天竺の をたふとび あまりにや、 をさづけらる。後に とす。 ありしかば の官をおくらる〈司空は大臣の官なり〉。 の朝よりこの の まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おまし〳〵き。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、 ましまさず。此 にてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば の になしてながしくだされにき。 此道鏡は法王の位をさづけられたりし、 あかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。女帝さすが わづらひ給けるにや、 と ふ人を にさして、 の八幡宮に されける。大菩薩さま〴〵 ありて更にゆるされず。清丸 してありのまゝに す。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、 国にながしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこち ければ、 てそのきずをいやしけり。 位につき給しかば、 めしかへさる。神威をたうとび申て、 国に寺を て、 と ふ。後に の山にうつし 。今の これなり。 のころまでは もかくいちじるきことなりき。かくて道鏡つひにのぞみをとげず。女帝も又程なくかくれ給。宗廟 をやすくすること、 の たりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原 の なりとぞ。
天皇は孝謙の 也。 年 更に即位、 七日改元。太上天皇ひそかに藤原 の大臣の第二の子 を し き。○第四十九代、第二十七世、〈皇子は第三の御子なり。追号ありて。御母贈皇太后 の天皇と 〉 、贈太政大臣 の女也。 の王と申き。 年中に御年二十九にて従四位 に叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言に き。 かくれましましゝかば、大臣 の をえらび申けるに、おの〳〵異議ありしかど、参議百川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。天武世をしり給しよりあらそひ 人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ をうけ給。そのかみ を誅し、国家をも し給へり。この君のかく継体にそなはり 、猶 にかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子に 、すなはち〈御年六十二〉。ことし 年なり。 に即位、 改元。 にまします。天下を治給こと十二年。七十三歳おまし〳〵き。
天皇は 皇子の子、天智天皇の御孫也○第五十代、第二十八世、〈をもて皇后とす。 御女〉 の皇子 の親王、太子に 給き。しかるを百川朝臣、此天皇にうけつがしめたてまつらんと心ざして、又はかりことをめぐらし、皇后および太子をすてゝ、つひに皇太子にすゑたてまつりき。その時しばらく なりければ、四十日まで の前に て申けりとぞ。たぐひなき忠烈の臣也けるにや。皇后・ 太子せめられてうせ給にき。 をやすめられんためにや、太子はのちに ありて 天皇と 。 の年即位、 に改元。はじめは平城にまします。 の長岡にうつり、十年ばかり都なりしが、又今の にうつさる。 の国をもあらためて と ふ。 にかはるまじくなんはからはせ給ける。昔聖徳太子 にのぼり給て〈いまの これなり〉 をみめぐらして、「 の 也。百七十余年ありて をうつされて、かはるまじき所なり。」との給けりとぞ たる。その もたがはず、又数十代 の となりぬる、 に 相応の たるにや。この天皇 に仏法をあがめ給。 二十三年 ・ をうけて唐へわたり 。其時すなはち唐朝へ をつかはさる。大使は参議 藤原 也。伝教は天台の にあひ、その宗をきはめて 二十四年に大使と共に せらる。弘法は猶かの国にとゞまりて 年中に 。この御時 しければ、 の を征東大将軍になしてつかはされしに、こと〴〵くたひらげてかへりまうでけり。この田村丸は 人にすぐれたりき。 は の になり、少将にうつり、中将に転じ、 の御時にや、大将にあがり、大納言をかけたり。 をもかねたればにや、納言の官にものぼりにける。子孫はいまに にてぞつたはれる。天皇天下を治給こと二十四年。七十歳おまし〳〵き。
天皇は 第一の子。御母皇太后 の 、贈太政大臣 の女也。光仁即位のはじめ の
巻四
○第五十一代、〈これより。天下を治給こと四年。太弟にゆづりて太上天皇と なきによりて をしるすべからず〉 。平城の旧都にかへりてすませ給けり。 藤原の を ましけるに、其弟参議 等 すゝめて の事ありき。 を として追討せられしに、 の やぶれて、上皇出家せさせ給。 の親王もすてられて、おなじく出家、 の になり、 親王と はこれなり。薬子・仲成等 にふしぬ。 五十一歳までおまし〳〵き。
天皇は 第一の子。御母皇太后藤原の 、贈太政大臣 の女也。 年即位、改元。 にまします○第五十二代、第二十九世、〳〵けるにこそ。 なども此御時よりえらびはじめられにき。又 仏法をあがめ給。 に 国 と云所にたふとき僧ありけり。 の先世にねむごろに しけるを感じて相共に ありとぞ。御 を神野と申けるも にかなへり。伝教〈御名弘法 〉〈御名両大師 〉 より へ給し天台・真言の両宗も、この御時よりひろまり侍ける。此両師 におはせず。伝教入唐以前より をひらきて せられけり。今の の地をひかれけるに、 の ある をもとめいでゝ唐までもたれたり。 にのぼりて 大師〈天台の宗おこりて四代の祖なり。天台大師とも云〉六代の正統 に して、その宗をならはれしに、 山に智者 より をうしなひてひらかざる ありき。心みに にてあけらるゝにとゞこほらず。 こぞりて しけり。 の のこる所なく伝られたりとぞ。其後慈覚・智証両大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、彼 いよ〳〵さかりになりて天下に せり。唐国みだれしより おほくうせぬ。 より四代にあたれる と云人まで、たゞ を へて宗義をあきらむることたえにけるにや。 の〈此宗のおとろへぬることをなげきて、使者十人をさして、我朝におくり、 は 、名は 、唐の末つかたより東南の呉越を領して の たり〉 をもとめしむ。こと〴〵くうつしをはりてかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしには の 、 の末ざまなりければ、我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。 よりかへしわたしたる宗なれば、此国の天台宗はかへりて となるなり。 伝教彼宗の秘密を へられたることも〈こと が の にあり〉〴〵く一宗の をうつし、国にかへれることも〈異朝の書にみえたり。弘法は母 が にのせたり〉 の 、夢に天竺の僧 りて をかり けりとぞ。 五年 十五日 。この日唐の 九年 十五日にあたれり。 す。 かの と 也。かつは の にも「我と汝と あり。 て を 。」とあるもそのゆゑにや。渡唐の時も或は の芸をほどこし、さま〴〵の ありしかば、唐の 、 皇帝ことに じ き。〈真言第六の祖、不空の弟子〉 六人の あり。 南の ・河北の〈金剛一界を、 〉 の ・ の〈、 一界を 〉 の ・日本の空海〈両部を。義明は唐朝におきて 〉 の師たるべかりしが世をはやくす。弘法は六人の中に たり〈恵果の俗弟子。しかれば、真言の宗には正統なりといふべきにや。これ又異朝の書にみえたる也。伝教も、不空の弟子 が の にあり〉 にあひて真言を へられしかど、在唐いくばくなかりしかば、ふかく学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にもとぶらはれけり。又いまこの流たえにけり。慈覚・智証は恵果の弟子義 ・法 ときこえしが弟子 にあひて へらる。 本朝 の 、今は 也。此中にも真言・天台の二宗は祖師の のためと心ざゝれけるにや。比叡山には〈比叡と云こと桓武・伝教心を顕密ならびて にして興隆せられしゆゑなづくと彼山の 也。しかれど に比叡の神の御ことみえたり〉 す。殊に天子 の道場をたてゝ を祈る地なり〈これは。又 につくべし〉 中堂を と ふ。 の につき、天台の宗義により、かた〴〵鎮護の ありとぞ。 は桓武 の初、皇城の のためにこれをたてらる。 の御時、弘法に てながく真言の寺とす。諸宗の をゆるさゞる地也。此宗を と ふ。 の法門にして諸教にこえたる とおもへり。 我国は神代よりの 、此宗の に せり。このゆゑにや唐朝に流布せしはしばらくのことにて、 日本にとゞまりぬ。又相応の宗なりと云もことわりにや。大唐の に じて宮中に真言院をたつ〈もとは。大師 の なり〉 して毎年 この所にて あり。国土 の祈祷、 の秘法也。又十八日の 、 の 等も宗によりて あるべし。三流の真言いづれと云べきならねど、真言をもて諸宗の第一とすることもむねと東寺によれり。 の に の を東寺の にあづけらる。 法務のことを して諸宗の一座たり。山門・寺門は天台をむねとするゆゑにや、顕密をかねたれど宗の長をも と云めり。此天皇諸宗を て ぜさせ けり。中にも伝教・弘法 ふかゝりき。伝教始て の をたつべきよし奏せられしを、 の諸宗 を てあらそひ ししかど、つひに戒壇の建立をゆるされ、本朝四け所の戒場となる。弘法はことさら の御 ありければ、おもくし給けるとぞ。此両宗の外、 ・ は東大寺にこれをひろめらる。彼華厳は唐の よりさかりになれりしを、日本の 僧正 へて東大寺に す。此寺は 此 によりて せられけるにや、大華厳寺と云名あり。三論は の同時に と云国に、 と云師 て、此宗をひらきて世に へたり。孝徳の御世に の僧 来朝して へ始ける。しからば 流布の にや。其後 律師 して にひろめき。今は華厳とならびて東大寺にあり。 は にあり。 三蔵天竺より へて国にひろめらる。日本の〈彼国にわたり玄弉の弟子たりしかど、帰朝の の子なり〉 世をはやくす。今の法相は 僧正と云人 して 州の 大師〈玄弉二世の弟子〉にあひてこれを へて流布しけるとぞ。 の神もことさら此宗を し給なるべし。此三宗に天台をくはへて の と ふ。 ・ なむど云は 也。道慈律師おなじく伝て流布せられけれども、 の宗にて、別に一宗を ことなし。我国大乗 の地なればにや、小乗を なき也。又律宗は大小に通ずる也。 来朝してひろめられしより東大寺および の 寺・ の観音寺に戒壇をたてゝ、此戒をうけぬものは僧 につらならぬ事になりにき。中古より 、其名ばかりにて をまぼることたえにけるを、 の 上人等 を見あきらめて となる。 には して の をうけ伝てこれをひろむ。南北の律 して彼宗に は威儀を することふるきがごとし。禅宗は とも ふ。仏の の宗なりとぞ。 の に天竺の 大師 てひろめられしに、武帝に かなはず。 を て北朝にいたる。 と云所にとゞまり、 して年をおくられける。後に これをつぐ。恵可より 、四世に ときこえし、 南北に る。 の をば伝教・慈覚伝て帰朝せられき。〈 〉 と云書に教理の を ずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、うけ なくてたえにき。近代となりて のながれおほくつたはる。異朝には南宗の に五 あり。その 宗の より又二流となる。これを と ふ。本朝には 僧正、 の をくみて伝来の後、 上人、 の つかた のながれ にうく。彼宗のひろまることは此両師よりのこと也。うちつゞき異朝の僧もあまた来朝し、此国よりもわたりて へしかば、 の禅おほく流布せり。五家七宗とはいへども、以前の ・ ・ ・ 等の不同には相 べからず。いづれも 、 の をばいでざる也。弘仁の御宇より真言・天台のさかりになることを しるし につきて、大方の宗々伝来のおもむきを たり。 てあやまりおほく らん。 君としてはいづれの宗をも しろしめして られざらんことぞ国家 の御はかりことなるべき。 ・ もつかさどる宗あり。我朝の もとりわき擁護し給ふ あり。一宗に ある人余宗をそしりいやしむ、 なるあやまり也。人の もしな〴〵なれば教法も なり。 わが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、 たる にや。われは此宗に すれども、人は又彼宗に心ざす。共に の あるべし。是皆 の にあらず。国の ともなり、 の人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして のひろからんことを べき也。 は仏教にかぎらず、 ・ の二教 もろ〳〵の道、いやしき芸までもおこしもちゐるを と云べき也。 は をつとめておのれも食し、人にもあたへて、 ざらしめ、女子は をことゝしてみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。 に似たれども の 也。天の時にしたがひ、地の利によれり。 の利を通ずるもあり、 のわざを もあり、仕官に心ざすもあり、是を四民と ふ。仕官するにとりて文武の の道あり。 て 道を論ずるは文士の道也。此道に ならば とするにたへたり。 て功を は のわざなり。此わざに れあらば とするにたれり。されば の はしばらくもすて給べからず。「世みだれたる時は武を右にし文を左にす。国をさまれる時は文を右にし武を左にす。」といへり〈古に右を。かくのごとくさま にす。 しかいふ也〉〴〵なる道をもちゐて、民のうれへをやすめ、おの〳〵あらそひなからしめん事を とすべし。民の をあつくしてみづからの心をほしきまゝにすることは乱世乱国のもとゐ也。我国は のかはることはなけれども、 みだれぬれば、 ひさしからず。継体もたがふためし、所々にしるし侍りぬ。いはんや、人臣として其職をまぼるべきにおきてをや。 民をみちびくにつきて諸道・諸芸みな 也。古には詩・書・礼・ をもて国を る とす。本朝は四術の学をたてらるゝことたしかならざれど、 ・ ・ の三道に詩・書・ を すべきにこそ。 を て四道と ふ。 にもちゐられ、其職を るゝことなればくはしくするにあたはず。医・ の両道又これ国の 也。 の は四学の一にて、もはら をする 也。今は芸能の如くに思へる、無念のこと也。「 を し俗をかふるには楽よりよきはなし。」といへり。一音より五 ・十二律に転じて、治乱をわきまへ、 を べき道とこそみえたれ。又 の もいまの人のこのむ所、詩学の にはことなり。しかれど一心よりおこりて、よろづのことの となり、末の世なれど人を感ぜしむる道也。これをよくせば をやめ邪をふせぐをしへなるべし。かゝればいづれか心の をあきらめ、 にかへる なからむ。 が をけづりて ををしへ、 が弓をつくりて唐の太宗をさとらしむるたぐひもあり。 の までもおろかなる心ををさめ、かろ〴〵しきわざをとゞめんがためなり。たゞし其 にもとづかずとも、一芸はまなぶべきことにや。 も「 て に心を 所なからんよりは をだにせよ。」と めり。まして一道をうけ、一芸にも らん人、 をあきらめ、 をさとる あらば、これより の要ともなり、 のはかりことゝもなりなむ。一気一心にもとづけ、五大五行により ・ をしり もさとり他にもさとらしめん事、よろづの道其 なるべし。此御門誠に顕密の両宗に 給しのみならず、儒学もあきらかに、文章もたくみに、書芸もすぐれ給へりし、 の の も御みづからかゝしめ給き。天下を治給こと十四年。皇太弟にゆづりて太上天皇と申。帝都の西、 と云所に離宮をしめてぞまし〳〵ける。一 国をゆづり給しのみならず、 までもさづけましまさんの御心ざしにや、新帝の御子、 の親王を太子に 給しを、親王又かたく辞退して世をそむき給けるこそありがたけれ。上皇ふかく しましけるに、親王又かくのがれ給ける、 までの にや。昔仁徳兄弟相 給し後にはきかざりしこと也。五十七歳おまし〳〵き。
天皇は 第二の子、 同母の弟也。 に 給へりしが、 年即位、 に改元。此天皇幼年より にして を 、諸芸を 。又 の もましましけり。桓武帝 の御子になんおはしける。 にゐ給けるも父のみかど継体のために しまし○第五十三代、〳〵ければ、嵯峨をば 太上天皇、此御門をば 太上天皇と申き。 御門の御おきてにや、東宮には又此帝の御子 親王 給しが、両上皇かくれましゝ後にゆゑありてすてられ給き。五十七歳おまし〳〵き。
天皇、 の とも申。桓武第三の子。御母贈皇太后藤原の 、贈太政大臣 の女也。 年即位、 に改元。天下を治給こと十年。太子にゆづりて太上天皇と申。此時両上皇まし○第五十四代、第三十世、〈これよりさき御諱たしかならず。おほくは、 の などを諱にもちゐられき。これより二字たゞしくましませばのせたてまつる〉 の とも申。嵯峨第二の子。御母皇太后 の 、贈太政大臣 也。 年即位、 に改元。此天皇は西院の御門の の まし〳〵ければ、 も にせさせ給。或時は両皇同所にして もありけりとぞ。我国のさかりなりしことはこの比ほひにやありけん。 もつねにあり。帰朝の後、 の前に、 のたから物の をたてゝ、群臣にたまはすることも有き。 は文武の御代よりさだめられしかど、此御代にぞえらびとゝのへられにける。天下を治給こと十七年。四十一歳おまし〳〵き。
天皇。 は○第五十五代、〈五条の、左大臣 と申〉 の女也。 年即位、 に改元。天下を治給こと八年。三十三歳おまし〳〵き。
天皇。諱は 、 の帝とも申。仁明第一の子。御母太皇太后藤原[の]○第五十六代、〈、摂政太政大臣良房の女也。我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位、 の后と申〉 年也。 に改元。 ありしかば、 良房の大臣はじめて せらる。摂政と云こと、もろこしには の時、 を て をまかせ給き。これを摂政と ふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。 の代に と云 あり。 を す。是は と云〈。其 とも ふ〉 は摂政也。周の世に 又 なりき。文王の子、武王の弟、成王の なり。武王の には三公につらなり、成王わかくて位につき給しかば、周公みづから して摂政す〈成王を。 て南面せられけりともみえたり〉 昭帝又幼にて即位。武帝の により と云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先 にも める。本朝には応神うまれ給て にまし〳〵しかば、神功皇后天位にゐ給。しかれど摂政と たり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時 皇太子摂政し給。これぞ帝は位に て天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。齊明天皇の御世に、御子 の の皇太子摂政し給。 の御世のすゑつかた、皇女 の尊〈元正天皇の御ことなり〉しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。 此藤原の一門神代よりゆゑありて国王をたすけ奉ることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議 大将 、其子大納言 、その子右大臣内麿、この三代は 二代のごとくさかえずやありけむ。内麿の子 の大臣〈藤氏の の左大臣と ふ。後に贈太政大臣〉 ぬることをなげきて、弘法大師に あはせて興福寺に 堂をたてゝ されけり。此時明神 にまじはりて、
天皇。諱は 、 の帝とも申。文徳第四の子。御母皇太后藤原のの南の岸に堂たてゝ今ぞさかえん北の
と〈太政大臣良房、左大臣。 、右大臣 〉 の左大臣をうしなひて、其闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門を しむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと す。天皇おどろき給て、 におよばず、右大臣に て、すでに誅せらるべきになりぬ。太政大臣このことをきゝ られけるあまりに、 をきながら、 に して、 じて申なだめられにけり。其後に善男が陰謀あらはれて に処せらる。此大臣の忠節まことに ことになん。天皇仏法に 給て、つねに の御志ありき。慈覚大師に受戒し給、法号を 奉らる。 と申。在位の帝、法号をつき給ことよのつねならぬにや。昔 の と云し時、天台の に受戒して と云名をつかれたりし、よからぬ君の なれど、智者の昔のあとなれば、なぞらへもちゐられにけるにや。又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、 にうつり給。天皇 て をつかはし、その所を じ、もろ〳〵のたくみにおほせて、新宮をつくりて宗廟に せらる〈鎮坐の次第は。天皇天下を治給こと十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給。中三とせばかりありて出家、慈覚の弟子にて潅頂うけさせ給。 にみえたり〉 の と云所にうつらせ給て、 しましゝが、ほどなくかくれ給。御年三十一歳おまし〳〵き。
給けるとぞ。此時源氏の人あまたうせにけりと申人あれど、大なるひがこと也。皇子皇孫の の を て高官高位にいたることは此後のことなれば、 かうせ侍べき。されど彼一門のさかえしこと、まことに にこたへたりとはみえたり。大方この大臣とほき おはしけるにこそ。子孫親族の学問をすゝめんために勧学院を建立す。大学寮に東西の あり。 ・ の二家これをつかさどりて、人を る所也。彼大学の南にこの院を られしかば、南曹とぞ申める。 たる人むねとこの院を管領して興福寺 氏の のことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど の心ふかく をこのみて、つねに などもせられざりけり。其比大納言 と云人 ありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公 なかりき○第五十七代、〈二条の后と申〉、贈太政大臣 の女也。 年即位、改元。右大臣基経摂政して太政大臣に任ず〈此大臣は良房の養子なり。。 は中納言長良の男。此天皇の 也〉 の故事のごとし。此天皇 にして人主の にたらずみえ ければ、摂政なげきて のことをさだめられにけり。昔漢の 、昭帝をたすけて摂政せしに、昭帝世をはやくし給しかば、 を て天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。 廃立をおこなひて を 奉りき。霍光が大功とこそしるし へはべるめれ。此大臣まさしき の臣にて をもはらにせられしに、天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける、いとめでたし。されば一家にも人こそおほくきこえしかど、摂政関白はこの大臣のすゑのみぞたえせぬことになりにける。つぎ〳〵大臣大将にのぼる藤原の人々もみなこの大臣の なり。 の なりとこそおぼえはべれ。天皇天下を治給こと八年にてしりぞけられ、八十一歳までおまし〳〵き。
天皇。諱は 、清和第一の子。御母皇太后藤原[の]○第五十八代、第三十一世、〳〵の皇子を 申されけり。此天皇 式部卿 太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にまし〳〵けるに、俄にまうでゝ見給ければ、人主の器量 の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはち をとゝのへてむかへ申されけり。 の服を着しながら に して にいらせ給にき。ことし 年なり。 に改元。践祚のはじめ摂政を て関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の 摂政たりしが、宣帝の時 をかへして けるを、「万機の 猶霍光に しめよ。」とありし、その名を取りてさづけられにけり。此天皇昭宣公のさだめによりて 給しかば御 もふかゝりしにや、其子を にめして元服せしめ、御みづから をあそばして正五位 になし給けりとぞ。 にける 川の などありて、ふるきあとをおこさるゝことゝもきこえき。天下を治給こと三年。五十七歳おまし〳〵き。
天皇。諱は 、 とも 。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の 、贈太政大臣 の女なり。陽成しりぞけられ給し時、摂政 公もろ大かた天皇の世つぎをしるせるふみ、昔より今に〴〵に、うくる所の おなじからず。 の にて天子とはなり給へども、代々の御 、善悪又まち〳〵也。かゝれば を本として にかへり、 をはじめとして をすてられんことぞ の にはかなはせ給べき。神武より景行まで十二代は御子孫そのまゝつがせ給へり。うたがはしからず。 の尊世をはやくしましゝによりて、御弟成務へだゝり給しかど、日本武の御子にて仲哀 へまし〳〵ぬ。仲哀・応神の に仁徳つたへ給へりし、武烈悪王にて たえましゝ時、応神五世の御孫にて、継体天皇えらばれ 給。これなむめづらしきためしに侍る。されど をならべてあらそふ時にこそ の もあれ、群臣皇胤なきことをうれへて 奉りしうへに、その御身 にして天の命をうけ、人の にかなひまし〳〵ければ、とかくの あるべからず。其後相 て天智・天武御兄弟立給しに、大友の皇子の によりて、天武の御ながれ へられしに、称徳女帝にて もなし。又 もみだりがはしくきこえしかば、たしかなる御 なくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれて 給。これなん又継体天皇の御ことに似玉へる。しかれども天智は正統にてまし〳〵き。第一の御子大友こそあやまりて天下をえ給はざりしかど、第二の皇子にて のみこ御とがなし。其御子なれば、此天皇の立給へること、 にかへるとぞ申侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびにて 給といへども、仁明の太子文徳の御ながれなりしかど、陽成悪王にてしりぞけられ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれまし〳〵ければ、うたがひなき天命とこそみえ侍し。かやうにかたはらより 給こと是まで三代なり。人のなせることゝは心えたてまつるまじき也。さきにしるし侍ることはりをよくわきまへらるべき者 。光孝より つかたは 也。よろづの を も より つかたをぞ申める。 すら猶かゝる にて天位を 。ましてすえの世にはまさしき御ゆづりならでは、たもたせ給まじきことゝ心えたてまつるべき也。此御代より藤氏の の家も他流にうつらず、昭宣公の のみぞたゞしくつたへられにける。 は光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、 は昭宣公の子孫、 の命の となり給へり。 の御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。
まで家々にあまたあり。かくしるし もさらにめづらしからぬことなれど、神代より継体正統のたがはせ給はぬ はしを申さんがためなり。我国は なれば、天照太神の にまかせられたるにや。されど其 に御あやまりあれば、 も からず。又つひには にかへれど、 もしづませ給ためしもあり。これはみなみづからなさせ 御とがなり。 のむなしきにはあらず。 も衆生をみちびきつくし、神も をすなほならしめんとこそし給へど、衆生の果報しな○第五十九代、第三十二世、〈桓武[の]御子〉の女也。 の 、 にて源氏の を らせまします。そのかみ、つねに をこのませ給けるに、ある時 大明神あらはれて皇位につかせ給べきよしをしめし申されけり。 の後、 の臨時の をはじめられしは、大神の申うけ給けるゆゑとぞ。 三年 の 、光孝御 ありしに、御兄の御子たちをゝきて をうけ給。 親王とし、皇太子にたち、 受禅。 年の冬即位。中一とせありて に改元。践祚の初より太政大臣 又関白せらる。此関白 て はしばらくその人なし。天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申。中一とせばかりありて出家せさせ給。御年三十三にや。わかくよりその御 ありきとぞ 給ける。弘法大師四代の弟子 僧正を御師にて東寺にして せさせ給。又 大師の弟子 にも〈于時法橋也。後謚云靜観〉比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、其御法流とて今にたえず、 に は是なり。およそ弘法の流に〈仁和寺〉・小野〈の二あり。広沢は法皇の御弟子 寺・ 〉 僧正、寛空の弟子 僧正〈。寛朝広沢にすまれしかば、かの 親王[の]子、法皇[の]御孫也〉 と ふ。そのゝち の 相 へてたゞ人はあひまじはらず〈法流をあづけられて師範となることは両度あり。されど御室は代々親王なり〉。小野の流は益信の に 僧正とて の人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれど おとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時は につらなりて と云ことをつとめられたりき。 の にて、ことに 給き。其弟子 僧正もあひついで護持 。おなじく崇重ありき。 の法務を東寺の につけられしもこの時より始る〈。此僧正は の法務はいつも東寺の の なり。諸寺になるはみな 法務なり。又仁和寺の御室、 の法務にて、 を るゝことは後白河 の事 〉 にまうでゝ、大師 の を て御髪を 、法服をきせかへ し人なり。其〈石山の相 と云〉 はれけれどもつゐに見奉らず。師の僧正、その手をとりて御身にふれしめけりとぞ。淳祐 の をなげきて の心ありければ、弟子 に〈 と云〉 ばかりにて をゆるさず。 によりて法皇の御弟子 にあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子 僧正又知法の人なりき。小野と云所にすまれけるより小野流と ふ。しかれば法皇は両流の にまします也。王位をさりて に ことは其 おほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれれば の御 なりけんとおしはかられ侍る。菅氏の によりて、大納言大将まで登用し しも此御時也。又 の時さま〴〵をしへ申されし、 の とて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳は より始る。」とみえたり。唐堯のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもて此御ことおしはかり奉るべし。御 も て の御代にぞかくれさせ給ける。七十六歳おまし〳〵き。
天皇。諱は 、光孝第三の子。御母 の女王、 親王○第六十代、第三十三世、〳〵しかど、 にきこえ給き。両大臣天下の をせられしが、右相は年もたけ才もかしこくて、天下のゝぞむ所なり。左相は の 也ければ、すてられがたし。或時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云さだめありて、すでに 玉ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。其事世にもれにけるにや、左相いきどほりをふくみ、さま〴〵の をまうけて、つひにかたぶけ奉りしことこそあさましけれ。此君の御一失と はべり。 菅氏 の御事なれば、 のためにやありけん、はかりがたし。 朝臣はこの事いまだきざゝざりしに、かねてさとりて菅氏に をのがれ給べきよしを申けれど、さたなくて此事 にき。さきにも申はべりし、我国には幼主の 給こと昔はなかりしこと也。 ・ の二代始て幼にて 玉ひしかば、 ・ 摂政にて天下を らる。此君ぞ十四にてうけつぎ給て、摂政もなく御みづから をしらせまし〳〵ける。猶御幼年のゆゑにや、左相の讒にもまよはせ給けん。聖も賢も一失はあるべきにこそ。 にみえたり。されば は、「 。」と 、 は「 。」とも ふ。聖徳のほまれましまさんにつけてもいよ〳〵つゝしみましますべきこと也。昔応神天皇も をきかせ玉ひて、武内の大臣を誅せられんとしき。彼はよくのがれてあきらめられたり。このたびのこと凡慮およびがたし。ほどなく神とあらはれて、今にいたるまで なり。 の をほどこさんためにや。讒を し大臣はのちなくなりぬ。同心ありけるたぐひもみな をかうぶりにき。此君 く世をたもたせ給て、 をこのみ行はせ玉ふこと上代にこえたり。天下 民間安穏にて、本朝仁徳のふるき跡にもなぞらへ、 堯舜のかしこき道にもたぐへ申き。延喜七年 年、もろこしの唐 て と云国にうつりにけり。うちつゞき ・晉・漢・周となん云五代ありき。此天皇天下を治給こと三十三年。四十四歳おまし〳〵き。
天皇。諱は 、宇多第一の子。御母贈皇太后藤原の 、内大臣 の女也。 年即位、 に改元。大納言左大将藤原 、大納言右大将菅氏、両人上皇の をうけて し申されき。後に左右の大臣に てともに万機を内覧せられけりとぞ。 御年十四にて位につき給。をさなくまし○第六十一代、〈早世、その御子 を と申〉 の太子もうちつゞきかくれましゝかば、保明 の御弟にて 給。 年即位、 に改元。 左大臣〈昭宣公の三男、摂政せらる。 と云〉 に昭宣公 てのちには、延喜御一代まで摂関なかりき。此君又幼主にて によりて、故事にまかせて万機を せられけるにこそ。此御時、 の と云物あり。 が 也〈高望は。 の親王[の] 、 を る。桓武四代の御 なりとぞ〉 の につかうまつりけるが、 の を 申けり。 なるによりいきどほりをなし、東国に して をおこしけり。まづ の をせめしかば、国香自殺しぬ。これより をゝしなびかし、 に居所をしめ、 となづけ、みづから 親王と称し、官爵をなしあたへけり。これによりて天下騒動す。 藤原 を征東大将軍とし、源〈清和の御すゑ六孫王と・藤原 ふ。 ・ 也〉〈忠文の弟也〉を副将軍としてさしつかはさる。平〈国香が子〉・藤原 等心を にして、将門をほろぼして其 を奉りしかば、諸将は道よりかへりまゐりにき〈将門、。藤原 五年 に事をおこし、 三年二月に滅ぬ。其 六年へたり〉 と云物、かの将門に同意して西国にて せしかば、少将 を て追討せらる〈天慶四年に純友はころさるとぞ〉。かくて天下しづまりにき。延喜の御代さしも なりしに、いつしか此 る。天皇もおだやかにまし〳〵けり。又貞信公の執政なりしかば、 たがふことははべらじ。時の災難にこそとおぼえ侍る。天皇御子ましまさず。 の御弟 の親王を にたてゝ、天位をゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。天下を治給こと十六年。三十歳おまし〳〵き。
天皇。諱は 、醍醐十一の子。御母皇太后藤原 、関白太政大臣基経の女也。 の太子○第六十二代、第三十四世、〈文王は正位につかず〉、漢には文・ なんどぞありがたきことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立給しに、うちつゞき明主の り給し、我国の中興すべきゆゑにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。すゑつかた 年中にや、はじめて に ありて も にしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「 損ずることなくして にあらはれ 給。見奉る人、 せずと云ことなし。」とぞ にみえ侍る。此時に神鏡 の にかゝらせ給けるを、 の のおとゞ袖にうけられたりと申ことあれど、ひが事をなん 也。 元年 年もろこしの後周 て宋の代にさだまる。唐の後、五代、五十五年のあひだ彼国 に て うつりかはりて国の たり。 とぞ云ける。宋の代に賢主うちつゞきて三百二十余年までたもてりき。此天皇天下を治給こと二十一年。四十二歳おまし〳〵き。御子おほくまし〳〵し に冷泉・円融は天位につき給しかば におよばず。親王の中に 親王〈六条の宮と申。賢才文芸のかた代々の御あとをよく に 給き。 に 親王名誉おはしき。 これをば 中書王と申〉 申玉ひけり。一条の御代に、よろづ昔をおこし、人を まし〳〵ければ、この親王昇殿し給し日、 にて ありしに〈中殿の作文と云ことこれよりはじまる〉「所貴是賢才」と云題にて をさぐらるゝことあり。此親王の御ためなるべし。 諸道にあきらかに、仏法の までくらからざりけるとぞ。昔より源氏おほかりしかども、此御すゑのみぞいまに まで大臣以上に至て相 侍る。源氏と云ことは、嵯峨の御門世のつひえをおぼしめして、皇子皇孫に を て人臣となし給。すなはち御子あまた源氏の姓を る。桓武の御子 親王の男、 の姓を給る。平城の御子 親王の男、 ・ 等 の姓を給ることも此後のことなれど、これはたま〳〵の儀也。弘仁以後代々の御 はみな 姓を しなり。親王の宣旨を る人は によらず、国々に など られて、世のつひえなりしかば、人臣につらね して にかなひ、 にしたがひ、昇進すべき御おきてなるべし。姓を給る人は に四位に叙す〈皇子皇孫にとりての事也〉。当君のは三位なるべしと云〈かゝれど其。かくて代々のあひだ姓を まれなり。嵯峨の御子大納言 卿三位に叙せしかども、当代にはあらず〉 し人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上にいたりて二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなるゆゑなるらん、おぼつかなけれ。嵯峨の御子姓を 人二十一人。この 、大臣にのぼる人、 の左大臣 大将、 の左大臣、 の左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、 の右大臣、 の右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。大臣にのぼる人、 の右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに の右大臣兼大将〈これは。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓を 親王の苗裔なり〉 て大臣にのぼる人、 の左大臣、 の左大臣〈ともに。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣にのぼる人、 親王の男なり〉 の左大臣兼大将、 の左大臣〈後には親王とす。中務卿に任ず。。この後は皇子の姓を 中書王これなり〉 ことはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣を としるすによりてこと〴〵くはのせず。ちかくは後三条の御孫に の左大臣兼大将〈二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたま 親王の男、白川院御猶子にて に三位せし人なり〉〳〵大臣に至てもいづれか二代と相 る。ほと〳〵 以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。 の より ぬる人、 をたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものに ずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりの にて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は の御流 をたすけ奉るべき となれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらば 神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なか〳〵上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にも ぜられ、 にも任ぜられき。崇神天皇十年に始て の将軍を任じて へつかはされしも皆これ皇族なり。景行天皇五十一年始て の臣を て武内の宿禰を任ず。成務天皇三年に とす〈我朝。六代の朝につかへて執政たり。此 これに始る〉 も孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠 をさかやかし、忠仁公 を せられしより、もはら の として、立かへり、神代の のまゝに成ぬるにや。閑院の 冬嗣 の たることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、其しるしも相くはゝり侍けんかし。此親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。其子 姓を て人臣に列せられし、才芸 にはぢず、名望世に あり。十七歳にて納言に任じ、数十年の 朝廷の に練じ、大臣大将にのぼりて、 の までつかうまつらる。親王の の女王は 関白の なり。 此大臣をば彼関白の子にし給て、 にかはらず、 にもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に せられしかば、子孫もみな 外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をば の如くに思へり。それよりこのかた和漢の をむねとし、報国の忠節をさきとする あるによりてや、此一流のみたえずして十余代におよべり。その中にも うたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづから てあとなきもあり。 と ふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉る に、藤氏のおこりは所々に申侍ぬ。 の も久くなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流 とほりにて十七代に しめ給。臣も此御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞ此君の徳すぐれ給けるゆゑに あるかとこそあふぎ申はべれ。
天皇。諱は 、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟也。 年即位、 に改元。兄弟 せ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。此天皇賢明の御ほまれ のあとを 申させ給ければ、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸を 給こともかはりまさゞりけり。よろづのためしには延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康○第六十三代、
。諱は 、村上第二の子。御母中宮藤原 、右大臣 の女也。 年即位、 に改元。この天皇 おはしければ、即位の時 に 給こともたやすかるまじかりけるにや、 にて其 ありき。に年ばかりして譲国。六十三歳おはしましき。此御門より天皇の号を申さず。又 より後、 をたてまつらず。 ありて ・ をゝかれざることは のかしこき道なれど、尊号をとゞめらるゝことは臣子の義にあらず。神武 の御号も皆後代の なり。持統・元明より 避位或[は]出家の君も謚をたてまつる。天皇とのみこそ申めれ。中古の先賢の議なれども心をえぬことに侍なり。○第六十四代、第三十五世、〳〵き。
。諱は 、村上第五の子、冷泉同母の弟也。 年即位、 に改元。天下を治給こと十五年。禅譲、尊号つねの如し。 年の程にや御出家。 の比、寛平の をおふて、 にて せさせ給。 はすなはち寛平の御孫 僧正なり。三十三歳おまし○第六十五代、〈太政大臣かくれて の女也〉 ましけるをりをえて、粟田関白 のおとゞのいまだ ときこえし比にや、そゝのかし申てけるとぞ。山々をめぐりて修行せさせましゝが、後には都にかへりてすませ給けり。是も御邪気ありとぞ申ける。四十一歳おまし〳〵き。
院。諱は 、冷泉第一の子。御母皇后藤原 、摂政太政大臣 の女也。 年即位、 に改元。天下を治給こと二年ありて、 に して にて出家し給。 の○第六十六代、第三十六世、〈後には東三条院と申。、摂政太政大臣 院号の始也〉 の女なり。花山の 神器をすてゝ宮を出給しかば、太子の外祖にて兼家の右大臣おはせしが、 にまゐり、諸門をかためて譲位の儀をおこなはれき。新主もをさなくまし〳〵しかば、摂政の儀ふるきがごとし。 年即位、 に改元。そのゝち摂政病により 内大臣 に て出家、猶 の を〈執政の人出家の始也。その比は出家の人なかりしかば、入道殿となん申。。此道隆始て大臣を 源の 出家したりしをはゞかりて とぞ云ける〉 て にて関白せられき〈前官の摂政もこれを始とす〉。 ありて其子内大臣 しばらく相かはりて せられしが、相続して関白たるべきよしを ぜられけるに、道隆かくれて、やがて弟右大臣道兼なられぬ。七日と云しにあへなくうせられにき。其弟にて 、大納言にておはせしが内覧の宣をかうぶりて左大臣までいたられしかど、延喜・天暦の昔をおぼしめしけるにや、関白はやめられにき。三条の御時にや、関白して、後一条の御世の初、外祖にて摂政せらる。兄弟おほくおはせしに、此大臣のながれ に摂政関白はし給ぞかし。昔もいかなるゆゑにか、昭宣公の三男にて貞信公、々々々の二男にて師輔の大臣のながれ、師輔の三男にて東三条のおとゞ、東三条の三男にて〈このおとゞ、みな父の 大将は一男歟。されど三弟にこされたり。 道長を三男としるす〉 たる嫡子ならで、 に家をつがれたり。 のはからはせ給へる道にこそ侍りけめ〈いづれも兄にこえて家をつたへらるべきゆゑありと申ことのあれど、ことしげければしるさず〉。此御代にはさるべき ・諸道の家々・顕密の僧までもすぐれたる人おほかりき。されば も「われ人を得たることは延喜・天暦にまされり。」とぞ ぜさせ給ける。天下を治給こと二十五年。御病の に譲位ありて出家せさせ給。三十三歳おまし〳
院。諱は 、円融第一の子。御母皇后藤原