神皇正統記

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神皇正統記


巻一

おほやまとかみのくに也。あまつみおやはじめてもとゐをひらき、ひのかみながくとうつたへ給ふ。わが国のみ此事あり。いてうには其たぐひなし。此故にかみのくにふ也。かみよにはとよあしはらのちいほのあきのみづほの国とふ。てんちかいびやくはじめより此あり。あまつみおやくにのとこたちのみことをがみめがみにさづけ給しみことのりにきこえたり。あまてらすおほみかみあめみまの尊にゆづりまししにも、此名あればこんぼんなりとはしりぬべし。又はおほやしまのくにふ。是は陽神陰神、此国をうみ給しが、やつしまなりしによ[つ]てなづけられたり。又はやまとふ。是はおほやしまなかつくにの名也。第八にあたるたび、あめのみそらとよあきづねわけと云神をうみ給ふ。これをおほやまととよあきづしまとなづく。今は四十八け国にわかてり。なかつくにたりし上に、じんむ天皇とうせいよりよよくわうと也。よりて其名をとりて、ほかの七州をもすべて耶麻土と云なるべし。もろこしにも、しうの国よりいでたりしかば、てんかを周といひかんよりおこりたれば、かいだいを漢と名づけしが如し。やまとと云へることはやまあとと云也。昔あめつちわかれてでいのうるほひいまだかわかず、山をのみわうらいとして其あとおほかりければやまあとふ。あるひは古語に居住をふ。山に居住せしによりてやまとなりとも云へり。大日本とも大倭ともかくことは、此国に漢字つたはりて後、国の名をかくに字をば大日本とさだめてしかもやまととよませたるなり。をほひるめのしろしめす御国なれば、其義をもとれるか、はた日のいづる所にちかければしかいへるか。義はかゝれども字のまゝ日のもとゝはよまず。耶麻土とくんぜり。我国の漢字を訓ずること多くかくのごとし。おのづからもとなどいへるはもんじによれるなり。国の名とせるにあらず。〔うらがきにいふ。日のもとゝよめる哥、万葉[に]ふ。いざこどもはや日のもとへおほとものみつのはま松まちこひぬらん〕いにしへより大日本とももしは大の字をくはへず、日本ともかけり。しまの名を大日本豊秋津といふ。いとくかうれいかうげん等の御おくりなみな大日本の字あり。すゐにん天皇の御むすめやまとひめふ。これみな大の字あり。あまつかみにぎのはやひのみことあめいはふねにのりおほぞらをかけりて「そらみつやまとの国」とのたまふ。神武の御名かみやまといはれびこと号したてまつる。かうあんやまとたらしかいくわわか日本ともがうし、景行天皇の御子をうすみこやまとたけの尊となづけ奉る。是は大をくはへざるなり。かれこれおなじくやまとゝよませたれどおほひるめの義をとらば、おほやまとゝよみてもかなふべきか。其のちかんどよりじしよつたへける時、倭とかきて此国の名にもちゐたるを、すなはちりやうなふして、又此字を耶麻土と訓じて、日本のごとくに大を加へても又のぞきてもおなじ訓につうようしけり。漢土よりなづけゝる事は、昔此国の人はじめてかのどにいたれりしに、「なんぢが国の名をばいかゞふ。」と問けるを、「わがくには」と云をきゝて、すなはちと名づけたりとみゆ。かんじよに、「らくらうかのどの東北にらくらう郡あり〉海中にわじんあり。百余国をわかてり。」とふ。もしぜんかんの時すでにつうじけるかいつしよには、しんの代よりすでにつうずともみゆ。しもにしるせり〉ごかんじよに、「だいわ王は耶麻たいきよす。」とみえたり〈耶麻堆は山となり〉。これはもしすでに此国のしじんほんごくの例により大倭と称するによりてかくしるせるかじんぐうくわうごうしらぎくだらかうらいをしたがへ給しは後漢の末ざまにあたれり。すなはち漢地にも通ぜられたりとみえたれば、文字もさだめてつたはれるか。一説にはしんの時よりしよじやくつたふとも云〉。大倭と云ことは異朝にも領納してしよでんにのせたれば此国にのみほめてしようするにあらず〈異朝にだいかんだいたうなど云はおほきなりと称するこゝろなり〉たうじよにかうそうかんかう年中に倭国のつかひ始てあらためてにほんと号す。其国東にあり。日のいづるところちかきふ。」とのせたり。此事我国の古記にはたしかならず。すゐこ天皇の御時、もろこしのずゐてうより使ありて書をおくれりしに、わくわうとかく。聖徳太子みづからふでりて、へんでふかき給しには、「東天皇敬白西皇帝。」とありき。かの国よりは倭とかきたれど、返牒には日本とも倭とものせられず。是よりかみつよには牒ありともみえざる也。唐の咸亨のころてんぢの御代にあたりたれば、まことにはくだりころより日本とかきて送られけるにや。又此国をばあきづしまといふ。神武天皇国のかたちをめぐらしのぞみ給て、「あきづとなめの如くあるかな。」との給しより、此名ありきとぞ。しかれど、かみよとよあきづねと云名あれば、神武にはじめざるにや。このほかもあまた名あり。くはしほこちたるの国とも、しわかみほつまの国とも、たまかきうちつくにともいへり。又ふさう国と云名もあるか。「東海の中に扶桑の木あり。日のいづるところなり。」とみえたり。日本も東にあれば、よそへていへるか。此国にかの木ありと云事きこえねば、たしかなる名にはあらざるべし。およそないてんせつしゆみと云山あり。此山をめぐりてななつこんせんあり。其中間は皆かうすゐかいなり。金山のそとしだいかいあり。此海中に四大州あり。州ごとに又ふたつちゆうしうあり。南州をばせんぶと云〈又えんぶだいとふ。おなじことばのてん也〉。是はうゑきの名なり。南州の中心にあのくたつと云山あり。やまのいただきに池あり〈阿耨達こゝにはぶねつふ。げしよこんろんといへるは即この山なり〉。池のかたはらこの樹あり。めぐりゆじゆんたかさ百由旬なり〈一由旬とは四十里也。六尺をいちぶとす。三百六十歩を一とす。この里をもちて由旬をはかるべし〉。此樹、州の中心にありて最も高し。よりて州の名とす。あのくたつ山の南はだいせつせん、北はそうれいなり。葱嶺の北はここく、雪山の南はごてんぢく、東北によりてはしんだん国、西北にあたりてははし国也。此せんぶ州はじうわう七千由旬、里をもちてかぞふれば二十八万里。東海より西海にいたるまで九万里。南海より北海にいたるまで又九万里。天竺はたゞなかによれり。よ[つ]て贍部のちゆうごくとす也。地のめぐり又九万里。震旦ひろしと云へども五天にならぶればいちへんの小国なり。日本はかのどをはなれて海中にあり。ほくれいでんげうだいしなんとごみやうそうじやうちゆうしう也としるされたり。しからば南州と東州とのなかなるしやもらと云州なるべきにや。けごんきやうに「東北の海中に山あり。こんがうせんふ。」とあるはやまとの金剛山の事也とぞ。されば此国は天竺よりも震旦よりも東北の大海の中にあり。別州にしてしんめいの皇統をつたへ給へる国也。おなじ世界の中なれば、天地開闢の初はいづくもかはるべきならねど、三国の説おのおのことなり。天竺の説には、世の始りをこふしよと云ふこうじやうぢゆうくうよつあり。各二十の増減あり。一増一減を一小劫とふ。二十の増減を一中劫とふ。四十劫をあはせて一大劫と云〉くわうおんてんじゆ、空中にこんじきの雲をおこし、ぼんてんへんぷす。すなはちだいうをふらす。ふうりんの上につもりてすゐりんとなる。ぞうちやうして天上にいたれり。又大風ありてあわふきたてて空中になげおく。即大梵天の宮殿となる。其水次第にたいげしよく界の諸宮殿ないし須弥山・四大州・てちゐせんをなす。かくて万億の世界同時になる。是をじやうこふと云也〈此万億の世界を三千大千世界といふなり〉。光音の天衆げしやうして次第に住す。是をぢゆうこふふ。此住劫の間に二十の増減あるべしとぞ。其初には人の身くわうみやうとほく照してひぎやうじざい也。くわんぎもちてじきとす。なんによさうなし。後に地よりかんせんゆしゆつす。あぢはひそみつのごとし〈或はちみとも云〉。これをなめてみちやくを生ず。よりてじんづうを失ひ、くわうみやうもきえて、せけんおほきにくらくなる。しゆじやうむくいしからしめければ、黒風海をふきにちぐわち二輪をへうしゆつす。須弥の半腹におきて四てんげを照さしむ。是より始てちうやくわいさくしゆんじうあり。地味にふけりしよりがんしよくもかじけおとろへき。地味又うせてりんどうと云物あり〈或は地皮とも云〉。衆生又じきとす。林藤又うせてじねんかうたうあり。もろもろびみをそなへたり。あしたにかればゆふべじゆくす。此たうまいじきせしによりて、身にざんえいできぬ。此故に始てにだうあり。男女の相おのおの別にして、つひにいんよくのわざをなす。ふうふとなづけしやたくかまへて、共にすみき。光音の諸天、のちげしやうする者によにんたいちゆうにいりてたいしやうの衆生となる。そののち秔稲しやうぜず。衆生うれへなげきて、おのおのさかひをわかち、でんしゆほどこしうゑて食とす。他人の田種をさへうばひぬすむ者いできて互にうちあらそふ。是を決する人なかりしかば、衆ともにはからひてひとりびやうどうわうたてなづけせつていりと云でんしゆと云心なり〉

其始の王を民主王と号しき。十ぜんしやうぼふをおこなひて国ををさめしかば、にんみん是をきやうあいす。閻浮提のてんげぶらくあんをんにしてびやうげん及び大寒熱あることなし。じゆみやうきはめひさしくむりやうざいなりき。民主の子孫相続して久く君たりしが、やうやく正法もおとろへしより寿命もげんじて八万四千歳にいたる。身のたけはちぢやうなり。其あひだに王ありててんりんくわはうぐそくせり。づ天よりこんりんほうとびくだりて王の前に現在す。王たまふことあれば、此りんてんぎやうしてもろせうわうみなむかへて拝す。あへてたがふ者なし。すなはち四大州にあるじたり。又ざうしゆぎよくによこじしゆひやう等のたからあり。此七宝じやうじゆするを金輪王となづく。つぎつぎごんどうてちの転輪王あり。ふくりきふどうによりて果報も次第におとれる也。じゆりやうも百年に一年を減じ、身のたけも同く一尺をげんじてけり。百二十歳にあたれりし時、しやかぶつたまふ〈或は百才[の]時ともふ。是よりさきにさんぶつたまひき〉。十歳に至らんころほひに小三さいと云ことあるべし。じんしゆほとつきてたゞ一万人をあます。そのひと善をおこなひて、又寿命も増し、果報もすゝみて二万歳にいたらん時、鉄輪王いでなん一州を領すべし。四万歳の時、銅輪王出て東・南二州を領す。六万歳の時、ごんりん王出て東・西・南三州を領し、八万四千歳の時金輪王出て四天下をとう領す。其むくいかみいへるが如し。かの時又げんにむかひてみろくぶついで給べし〈八万才の時とも云〉。此後十八けの減増あるべし。かくて大火災と云ことおこりて、しきかいしよぜんぼんてんまでやけぬ。三千大千世界同時にめつじんする、これをゑこふふ。かくて世界こくうこくけつのごとくなるを空劫とふ。かくのごとくすること七けの火災をへて大水災あり。このたびは第二禅まです。七々の火・七々の水災をへて大風災ありて第三禅まで壊す。是を大の三災と云也。第四禅いじやうないげくわげんあることなし。此四禅のなかに五天あり。よつぼんふの住所、ひとつじやうごてんとてしようくわしやうじやぢゆうしよ也。此浄居をすぎてまけいしゆら天王の宮殿ありだいじざいてんとも云〉しきかいさいちやうきよして大千世界を統領す。其天のひろさかの世界にわたれりげてんも広狭にふどうあり。初禅の梵天はいちし天下のひろさなり〉。此上に無色界の天あり。又四地をわかてりといへり。此等の天は小大のさいにあはずといへども、ごふりきに際限ありてはうつきなば、たいもつすべしと見えたり。震旦はことにしよけいをことゝする国なれども、世界こんりふいへる事たしかならず。儒書にはふくき氏とふ王よりあなたをばいはず。ただし異書の説に、こんとんみぶんのかたち、天・地・人のはじめを云るは、かみよおこりに相似たり。或は又ばんこと云王あり。「目はじつげつとなり、毛髪はさうもくとなる。」と云る事もあり。それよりしもつかた、てんくわう・地皇・人皇・ごりよう等のもろもろの氏うちつゞきて多くの王あり。其間万歳をへたりとふ。我朝の初はあまつかみしゆをうけて世界を建立するすがたは、天竺の説に似たる方もあるにや。されどこれはあまつみおやよりこのかたけいたいたがはずして、たゞ一種ましますこと天竺にも其たぐひなし。かの国の初の民主王も衆のためにえらびたてられしより相続せり。又世くだりては、そのしゆしやうもおほくほろぼされて、せいりきあれば、下劣の種も国主となり、あまさへ五天竺を統領するやからも有き。震旦又ことさらみだりがはしき国なり。昔世すなほに道ただしかりし時も、賢をえらびてさづくるあとありしにより、一種をさだむる事なし。乱世になるまゝに、ちからをもちて国をあらそふ。かゝれば民間より出でゝ位に居たるもあり。じゆうてきよりおこりて国をうばへるもあり。或はるい世の臣として其君をしのぎ、つひにゆづりをえたるもあり。伏犠氏の後、天子のししやうをかへたる事三十六。みだれのはなはだしさ、云にたらざるものをや

ただ我国のみあめつちひらけし初より今の世のこんにちいたるまで、ひつぎをうけ給ことよこしまならず。いちしゆしやうの中におきてもおのづからかたはらよりつたへ給しすら猶せいにかへる道ありてぞたもちましける。是しかしながら神明の御誓あらたにして余国にことなるべきいはれなり。そもそも、神道のことはたやすくあらはさずと云ことあれば、根元をしらざればみだりがはしき始ともなりぬべし。其つひえをすくはんためにいさゝかろくし侍り。神代よりしやうりにてうけ伝へるいはれをのべむことをこころざして、常にきこゆる事をばのせず。しかればじんわうしやうとうきとやなづはべるべき。

それあめつちいまだわかれざりし時、こんとんとして、まろがれることとりのこの如し。くゝもりてきざしをふくめりき。これいんやうげんしよ未分のいちき也。其気始てわかれてきよくあきらかなるは、たなびきてあめと成り、おもくにごれるはつゞいてつちとなる。其中よりひとつのものいでたり。かたちあしかびの如し。すなはちして神となりぬ。くにのとこたちの尊と申。又は天の御中主の神とも号し奉つる。此神にもくくわごんすゐごぎやうの徳まします。まづ水徳の神にあらはれ給をくにのさつちの尊とふ。次に火徳の神をとよくむぬの尊とふ。あめみちひとりなす。ゆゑにじゆんなんにてます〈純男といへどもその相ありともさだめがたし〉つぎに木徳の神をうひぢ〈蒲鑒反〉にの尊・すひぢにの尊とふ。つぎにこん徳の神をおほとのぢの尊・おほとまべの尊とふ。次に土徳の神をおもたるの尊・かしこねの尊とふ。天地の道相まじはりて、おのおの陰陽のかたちあり。しかれどそのふるまひなしと云り。もろもろのかみまことには国常立のひとはしらの神にましますなるべし。五行の徳おのおの神とあらはれ給。是を六代ともかぞふる也。二世三世の次第をたつべきにあらざるにや。次にけしやうし給へる神をいざなぎの尊・いざなみの尊と申す。是はまさしく陰陽のふたつにわかれてざうくわはじめとなり給ふ。かみの五行はひとつづゝの徳也。此五徳をあはせて万物を生ずるはじめとす。こゝにあまつみおやくにのとこたちの尊、伊弉諾・伊弉冊のふたはしらの神にみことのりしての給はく、「豊葦原の千五百秋の瑞穂のくにあり。いましゆきてしらすべし。」とて、すなはちあまのぬぼこをさづけ給。此矛又は天のさかほことも、あまのさかほこともいへり。二神このほこをさづかりて、あまうきはしの上にたゝずみて、矛をさしおろしてかきさぐり給しかば、あをうなばらのみありき。そのほこのさきよりしたゝりおつるしほこりてひとつの嶋となる。これをおのごろじまふ。此名につきて秘説あり。神代、ぼんごにかよへるか。其ところもあきらかにしる人なし。やまとの国ほうせんなりと云くでんあり〉。二神此嶋にくだりまして、すなはち国の中のみはしらをたて、やひろとのけさくしてともにすみ給。さて陰陽わがふして夫婦の道あり。此矛はつたへて、天孫したがへてあまくだり給へりともふ。又すゐにん天皇のぎように、大和姫のくわうぢよ、天照太神の御をしへのまゝに国々をめぐり、いせの国にみやどころをもとめ給し時、おほたの命と云神まゐりあひて、いすずかはかみれいもつをまぼりおける所をしめしまをししに、かの天の逆矛・いすずあめのみやづぎやうありき。大和姫の命よろこびて、其所をさだめて、神宮をたてらる。霊物は五十鈴の宮のさかどのにをさめられきとも、又、たきまつりの神と申はりゆう神なり、その神あづかりて地中にをさめたりともふ。ひとつには大和のたつたの神はこの滝祭と同体にます、此神のあづかり給へる也、よりてあめのみはしらくにのみはしらふ御名ありともふ。昔磤馭盧嶋にもてくだり給しことはあきらか也。世につたふと云事はおぼつかなし。天孫のしたがへ給ならば、神代よりさんじゆじんぎのごとくつたへ給べし。さしはなれて、五十鈴[の]河上に有けんもおぼつかなし。ただし天孫も玉矛みづからしたがへたまふと云事みえたりこごしふゐの説なり〉。しかれど矛もおほなむちの神のたてまつらるゝ、国をたひらげし矛もあれば、いづれと云事をしりがたし。宝山にとゞまりて不動のしるしとなりけんことやしやうせつなるべからん。たつたも宝山ちかき所なれば、龍神をあめのみはしらくにのみはしらといへるも、じんぴの心あるべきにや〈凡しんしよにさまの異説あり〉にほんぎくじほんぎ・古語拾遺等にのせざらん事はまつがくともがらひとへに信用しがたかるべし。かの書のうち猶一決せざること多し。いはんや異書におきてはしやうとすべからず。かくて、此ふたはしらの神相はからひてやつしまをうみ給ふ。まづあはぢしまをうみます。あはぢのほのさわけふ。つぎにいよふたなしまをうみます。ひとつのみよつのおもあり。ひとつえひめと云、これは伊与也。ふたついひよりひめと云、是はさぬき也。みつおほげつひめと云、これはあは也。よつはやよりわけと云、是はとさ也。つぎにつくししまをうみます。又一身に四面あり。一をしらひわけと云、是はつくし也。後にちくぜんちくごふ。二をとよひわけと云、これはとよ国也。後にぶぜんぶごふ。三をひるひわけと云、是はの国也。後にひぜんひごふ。四をとよくじひねわけと云、是はひむか也。後にひうがおほすみさつまと云〈筑紫・豊国・肥の国・日向といへるも、二神の御代の始の名にはあらざつぎにいきの国をうみます。あめひとつはしらふ。つぎにつしましまをうみます。あまのさてよりひめふ。つぎにおきの州をうみます。あめのおしころわけふ。つぎにさどの州をうみます。たけひわけふ。つぎにおほやまととよあきづしまをうみます。あめのみそらとよあきづねわけふ。すべて是をおほやしまと云也。此外あまたの嶋をうみ給。後にうみやまの神、木のおや、草のおやまでことごとくうみましてけり。いづれも神にませば、うみ給へる神のしまをも山をもつくり給へるか。はたしまやまうみたまふに神のあらはれましけるか、かみよのわざなれば、まことにはかりがたし

ふたはしらの神又はからひてのたまはく、「我すでに大八州の国および山川草木をうめり。いかでかあめの下のきみたるものをうまざらむや。」とてまづひのかみうみます。此みこひかりうるはしくして国のうちにてりとほる。二神よろこびてあめにおくりあげて、天上の事をさづけ給。此時天地あひさることとほからず。天のみはしらをもてあげ給。これをおほひるめの尊とまをすれいの字は霊と通ずべきなり。陰気を霊と云とも云へり。めがみにましませばおのづかあひかなふにや〉。又天照太神ともまをす。女神にてまします也。つぎにつきのかみうみます。其光日につげり。あめにのぼせてよるまつりことをさづけ給。つぎに、ひるこを生ます。みとせになるまであしたゝず。あめいはくす船にのせて風のまゝはなちすつ。つぎにすさのをの尊をうみます。いさみたけくいぶりにしてかぞいろの御心にかなはず。「の国にいね。」との給ふ。このみはしらをがみにてまします。よりていちによさんなんと申也。すべてあらゆる神みな二神のしよしやうにましませど、国のあるじたるべしとてうみ給しかば、ことさらに此よはしらの神を申伝けるにこそ。其後ひのかみかくつちうみましし時、めがみやかれてかんさり給にき。をがみうらみいかりて、火神をみきだにきる。その三段おの神となる。血のしたゝりもそゝいで神となれり。ふつぬしの神いはひぬしの神とも申。今のかとりの神〉たけみかづちのたけみかづちの神とも申。今のかしまの神〉みおや也。陽神猶したひてよみのくにまでおはしましてさまざまのちかひありき。陰神うらみて「此国の人をひとひちがしらころすべし。」との給ければ、陽神は「ちいほがしらうむべし。」との給けり。よりてひやくしやうをばあめますびとともふ。しぬるものよりも生ずるものおほき也。陽神かへり給て、ひむかをどかはあはぎが原と云所にてみそぎし給。この時あまたの神けしやうし玉へり。ひつきの神もこゝにてうまれたまふと云説あり。伊弉諾尊かむことすでにをはりければ、天上にのぼり、天祖にかへりごと申て、すなはち天にとゞまり給けりとぞ。ある説に伊弉諾・伊弉冊はぼんごなり、いしやなてんいしやなくうなりとふ。

ちじん第一代、おほひるめの尊。是をあまてらすおほみかみと申。又はひのかみともすめみおやとも申也。此神のうまれ給ことみつの説あり。ひとつには伊弉諾・伊弉冊尊あひはからひて、あめのしたあるじをうまざらんやとて、まづ、日神をうみ、次に、つきのかみつぎにひるこつぎに、素戔烏尊をうみ給といへり。又は伊弉諾の尊、ひだりの御手にますみの鏡をとりて大日孁の尊をけしやうし、みぎの御手にとりてつきゆみの尊をうみみかうべをめぐらしてかへりみ給しあひだに、素戔烏尊をうむともいへり。又伊弉諾尊日向の小戸の川にてみそぎし給し時、左のみめをあらひて天照太神を化生し、右の御眼をあらひてつきよみの尊をしやうじ鼻をあらひて素戔烏尊をしやうじ給とも云ふ。ひつきの神のみなみつあり、化生の所もみつあれば、ぼんりよはかりがたし。又おはします所も、ひとつにはたかまの原といひふたつには日のわかみやいひみつにはわがやまとの国これ也。やたの御鏡をとらせまして、「われをみるが如くにせよ。」とみことのりし給けること、わくわうの御誓もあらはれて、ことさらにふかき道あるべければ、みところに勝劣の義をば存ずべからざるにや。

ここに、素戔烏尊、かぞいろふたはしらの神にやらはれてねの国にくだり給へりしが、天上にまうでゝ姉の尊にみえたてまつりて、「ひたぶるにいなん。」と申給ければ、「ゆるしつ。」との給。よりて天上にのぼります。大うみとゞろき、山をかなりほえき。此神のさがたけきがしからしむるになむ。天照太神おどろきまして、つはもののそなへをしてまち給。かの尊きたなき心なきよしをおこたり給ふ。「さらばうけひをなして、きよきか、きたなきかをしるべし。誓約のなかに女を生ぜば、きたなき心なるべし。男を生ぜば、きよき心ならん。」とて、素戔烏尊のたてまつられけるやさかにの玉をとり給へりしかば、其玉に感じてをがみ化生し給。すさのをの尊よろこびて、「まさやあれかちぬ。」との給ける。よりて御名をまさやあかつかつはやひあめおしほみみの尊と申〈これは古語拾遺の説〉。又の説には、素戔烏尊、天照太神の御くびにかけ給へるみすまるにのたまをこひとりて、あめまなゐにふりすゝぎ、これをかみ給しかば、まづあかつの尊うまれまします。其後猶四はしらの男神うまれ給。「物のさねわが物なれば我子なり。」とて天照太神の御子になし給といへり〈これは日本紀の一説〉この吾勝尊をば太神めぐしとおぼして、つねに御わきもとにすゑ給しかば、わきこふ。今の世にをさなき子をわかこと云はひが事也。かくて、すさのをの尊なほ天上にましけるが、さまのとがをゝかし給き。天照太神いかりて、天のいはやにこもり給。国のうちとこやみになりて、昼夜のわきまへなかりき。もろの神達うれへなげき給。其時しよじんじやうしゆにてたかみむすひの尊とふ神ましき。昔、あめのみなかぬしの尊、みはしらの御子おはします。をさを高皇産霊ともいひ、次をばかみむすひ、次をつはやむすひと云とみえたり。いんやうにじんこそはじめて諸神をしやうじ給しに、ぢきあめのみなかぬしの御子と云ことおぼつかなし。〈此みはしらを天御中主の御こと云事は日本紀にはみえず。古語拾遺にあり〉。此神、あめのやすかはのほとりにして、やほよろづの神をつどへて相し給。其御子におもひかねと云神のたばかりにより、いしこりどめと云神をして日神のみかたちの鏡を鋳せしむ。そのはじめなりたりし鏡、諸神の心にあはずきのひのくまの神にます〉。次に鋳給へる鏡うるはしくましければ、諸神よろこびあがめ給〈初は皇居にましき。今は伊勢国の五十鈴の宮にいつかれたまふ、これなり〉。又天のあかるたまの神をして、八坂瓊の玉をつくらしめ、天のひわしの神をして、あをにぎてしらにぎてをつくらしめ、たをきほをいひこさしりの二神をして、おほかいをかひをきりてみづみやらかをつくらしむ〈このほかくさあれどしるさず〉。其物すでにそなはりにしかば、天のかご山のいほつまさかきをねこじにして、かみつえには八坂瓊の玉をとりかけ、なかつえには八咫の鏡をとりかけ、しもつえには青和幣・白和幣をとりかけ、天の太玉の命〈高皇産霊神の子なり〉をしてさゝげもたらしむ。天のこやねの命〈津速産霊の子、或は孫とも。こことむすひの神の子也〉をしてきたうせしむ。天のうずめの命、まさきかづらをかづらにし、ひかげのかづらたすきにし、竹の葉、おけのきの葉をたぐさにし、さなぎの矛をもちて、いはやの前にしてわざをぎをして、相ともにうたひまふ。又にはひをあきらかにし、とこよながなきどりをつどへて、たがひにながなきせしむ〈これはみなかぐらおこりなり〉。天照太神きこしめして、われこのごろ石窟にかくれをり。あしはらなかつくにはとこやみならん。いか[ん]ぞ、天の鈿女の命かくゑらぐするやとおぼして、御手をもてほそめにあけてみ給。この時に、あめのたぢからをの命と云神〈思兼の神の子〉いはとのわきにたち給しが、其戸をひきあけてにひどのにうつしたてまつる。なかとみの神〈天児屋命なり〉いむべの神〈天の太玉の命也〉しりくへなはを〈日本紀には端出之縄とかけり。注にはひだり縄のはしいだせるとふ。古語拾遺にはひのみなはとかく。これひかげかたちなりといふ〉ひきめぐらして「なかへりましそ。」と申。しやうてんはじめてはれて、もろともにあひみるおもてみなあきらかにしろし。手をのべてうたひまひて、「あはれ〈天のあきらかなるなり〉。あな、おもしろ〈古語にいとせつなるをみなあなとふ。おもしろ、もろのおもてあきらかに白き也〉。あな、たのし。あな、さやけ〈竹のはのこゑ〉。おけ〈木の名也。そのはをふるこゑ也。天の鈿目の持給へる手草也〉。」かくて、つみを素戔烏の尊によせて、おほするにちくらをきどをもてかうべのかみ、手足のつめをぬきてあがはしめ、其罪をはらひて神やらひにやらはれき。かの尊あめよりくだりて、いづもかはかみと云所にいたり給。そのところひとりのおきなとうばとあり。ひとりのをとめをすゑてかきなでつゝなきけり。素戔烏尊「たそ。」とゝひ給ふ。「われはこれくにつかみ也。あしなつちたなつちふ。このをとめはわが子なり。くしいなだひめふ。さきに八けのをとめあり。としごとにやまたをろちのためにのまれき。今此をとめ又のまれなんとす。」と申ければ、尊、「我にくれんや。」との給。「みことのりのまゝにたてまつる。」と申ければ、此をとめをゆつのつまぐしにとりなし、みづらにさし、やしほをりの酒をやつふねにもりてまち給に、はたしてかの大蛇きたれり。かしらおのひとつの槽にいれてのみゑひてねぶりけるを、尊はかせるとつかつるぎをぬきてつだにきりつ。尾にいたりて剣のすこしかけぬ。さきてみ給へばひとつの剣あり。その上にうんきありければ、天のむらくもの剣となづやまとたけの尊にいたりてあらためて草なぎの剣とふ。それよりあつたのやしろにます〉。「これあやしきつるぎなり。われ、なぞ、あへて私におけらんや。」との給て、天照太神にたてまつりあげられにけり。其のち出雲のすがの地にいたり、宮をたてゝ、稲田姫とすみ給。あなむちの神をおほなむちとも云〉うましめて、素戔烏尊はつひに根の国にいでましぬ。大汝の神、此国にとゞまりて〈今の出雲の大神にます〉あめのしたけいえいし、あしはらの地をりやうじ給けり。よりてこれを大国主の神ともおほものぬしとも申。そのさきたまくし魂は大和のみわの神にます。

○第二代、まさやあかつはやひあまのをしほみみの尊。高皇産霊の尊のむすめたくはたちぢひめの命にあひて、にぎはやひの尊・ににぎの尊をうましめたまひて、吾勝尊あしはらのなかつくににくだりますべかりしを、御子うみ給しかば、「かれを下すべし。」と申給て、天上にとゞまります。まづ、饒速日の尊をくだし給し時、ぐわいそ高皇産霊尊、とくさみづたからさづけ給。をきつのひとつへつ鏡一、やつかの剣一、いくたま一、しにかへりの玉一、たるたま一、みちがへしの玉一、へみのひれ一、はちの比礼一、くさぐさものの比礼一、これなり。此みことはやく神さり給にけり。およそ国のあるじとてはくだし給はざりしにや。吾勝尊くだりたまふべかりし時、天照太神さんじゆじんぎつたへ給。のちに又瓊々杵尊にもさづけまししに、饒速日尊はこれをえ給はず。しかれば日嗣の神にはましまさぬなるべし〈此事旧事本紀の説也。日本紀にはみえず〉。天照太神・吾勝尊は天上にとどまり給へど、ちじんの第一、二にかぞへたてまつる。其はじめあめのしたあるじたるべしとてうまれ給しゆゑにや。

○第三代、あまつひこひこほににぎの尊。あめみまともすめみまとも申。すめみおや天照太神・高皇産霊尊いつきめぐみましき。葦原の中州のあるじとしてあまくだし給はんとす。こゝに其国あしきかみあれてたやすくくだり給ことかたかりければ、あめわかひこと云神をくだしてみせしめ給しに、おほなむちの神のむすめしたてるひめにとつぎて、かへりこと申さず。みとせになりぬ。よりて名なしきぎしをつかはしてみせられしを、天稚彦いころしつ。其矢天上にのぼりて太神の御まへにあり。血にぬれたりければ、あやめ給て、なげくだされしに、天稚彦にひなめしてふせりけるむねにあたりて死す。世に返し矢をいむは此故也。さらに又くださるべき神をえらばれし時、ふつぬしの命かとりの神にます〉たけみかづちの神かしまの神にます〉みことのりをうけてくだりましけり。いづもの国にいたり、はかせる剣をぬきて、地につきたて、其上にゐて、大汝の神に太神のみことのりをつげしらしむ。その子つみはやへことしろぬしの〈今かづらきかもにます〉あひともにしたがい申。又次の子たけみなかたとみの神〈今すはの神にます〉したがはずして、にげ給しを、すはのみづうみまでおひてせめられしかば、又したがひぬ。かくてもろあしき神をばつみなへ、まつろへるをばほめて、天上にのぼりてかへりこと申給。大物主の神〈大汝の神は此国をさり、やがてかくれ給と見ゆ。この大物主はさきに云所の三輪の神にますなるべし〉事代主の神、相共にやそよろづの神をひきゐて、あめにまうづ。太神ことにほめ給き。「よろしく八十万の神をりやうじて皇孫をまぼりまつれ。」とて、まづかへしくだし給けり。其後、天照太神、高皇産霊尊相はからひて皇孫をくだし給。やほよろづの神、みことのりうけたまはりて御供につかうまつる。諸神のじやうしゆ三十二神あり。其なかいつとものをの神と云は、あまのこやねの〈中臣のおやふとたまの〈忌部の祖〉うづめのさるめの祖〉いしこりどめの〈鏡つくりの祖〉たまのやのたまつくりの祖〉也。此中にも中臣・忌部のふたはしらの神はむねとしんちよくをうけて皇孫をたすけまぼり給。又みくさかむたからをさづけまします。まづあらかじめ、皇孫にみことのりしてのたまはく、「あしはらのちいほあきのみづほのくにはこれわがうみのこのきみたるべきところ也[なり]。いましすめみまついてしらすべし焉。さきくゆきたまへあまつひつぎのさかえまさむことまさにあめつちときはまりなかるべし。」又太神御手に宝鏡をもちたまひ、皇孫にさづけほきて、「わがここのたからのかがみをみることまさになをしわれをみるがごとくすべしともにゆかをおなじくしみあらかをひとつにしていはひのかがみとすべし。」との給。八坂瓊のまがたま・天の叢雲の剣をくはへて三種とす。又「此鏡のごとくふんみやうなるをもて、あめのしたせうりんし給へ。八坂瓊のひろがれるが如くたくみなるわざをもて天下をしろしめせ。神剣をひきさげてはまつろはざるものをたひらげたまへ。」とみことのりましけるとぞ。

此国のしんれいとして、くわうとう一種たゞしくまします事、まことにこれらのみことのりにみえたり。三種の神器世につたふること、ひつきほしあめにあるにおなじ。鏡は日のたいなり。玉は月のせい也。剣は星の也。ふかき習あるべきにや。そもそも、彼の宝鏡はさきにしるしはべるいしこりどめの命のつくり給へりし八咫の御鏡〈八咫に口伝あり〉、〔裏書[に]ふ。咫説文ふ。中婦人手長八寸謂之咫。周尺也。ただし、今の八咫の鏡[の]事はべつに口伝あり。〕玉は八坂瓊の曲玉、々屋の命あめのあかる玉とも云〉つくり給へるなり〈八坂にも口伝あり〉。剣はすさのをの命のえ給て、太神にたてまつられしむらくもの剣也。此三種につきたるしんちよくまさしく国をたもちますべき道なるべし。鏡はいちもつをたくはへず。わたくしの心なくして、ばんしやうをてらすに是非善悪のすがたあらはれずと云ことなし。其すがたにしたがひてかんおうするを徳とす。これしやうぢきの本源なり。玉はにうわぜんじゆんを徳とす。慈悲の本源也。剣は剛利決断を徳とす。ちゑの本源也。此三徳をあはせうけずしては、あめのしたのをさまらんことまことにかたかるべし。しんちよくあきらかにして、ことばつゞまやかにむねひろし。あまさへ神器にあらはれ給へり。いとかたじけなき事をや。なかにも鏡をもととし、そうべうしやうたいとあふがれ給。鏡はめいをかたちとせり。しんしやうあきらかなれば、慈悲決断は其うちにあり。又まさしみかげをうつし給しかば、ふかき御心をとゞめ給けんかし。あめにある物、ひつきよりあきらかなるはなし。よりてもんじを制するにも「日月を明とす。」と云へり。我神、だいにちみたまにましませば、明徳をもて照臨し給こと陰陽におきてはかりがたし。みやうけんにつきてたのみあり。君もしんも神明のくわういんをうけ、或はまさしくみことのりをうけし神達のべうえい也。誰か是をあふぎたてまつらざるべき。此ことわりをさとり、其道にたがはずは、ないげてんの学問もこゝにきはまるべきにこそ。されど、此道のひろまるべき事は内外典るふの力なりと云つべし。魚をうることはあみいちもくによるなれど、衆目の力なければ是をうることかたきが如し。おうじん天皇の御代より儒書をひろめられ、しやうとく太子の御時より、しやくけうをさかりにし給し、これごんげかみにましませば、天照太神の御心をうけて我国の道をひろめふかくし給なるべし。かくて此瓊々杵の尊、あまくだりましゝにさるだびこと云神まゐりあひき〈これはちまたの神也〉。てりかゝやきて目をあはする神なかりしに、天の鈿目の神ゆきあひぬ。又「皇孫いづくにかいたりましますべき。」と問しかば、「つくしの日向の高千穂のくしふるたけにましますべし。われは伊勢の五十鈴の川上にいたるべし。」とまをす。彼神のまをしのまゝに、槵触の峯にあまくだりて、しづまり給べき所をもとめられしに、ことかつくにかつと云神〈これも伊弉諾尊の御子、又はしほつちおきなと云〉まいりて、「わがゐたるあたながさみさきなんよろしかるべし。」と申ければ、その所にすませ給けり。こゝに山の神おほやまつみふたりむすめあり。姉をいわながひめと云〈こればんじやくの神なり〉、妹をはなのさくや姫と云〈これは花木の神なり〉。二人をめしみたまふ。あねはかたちみにくかりければ返しつ。いもうとをとどめ給しに、磐長姫うらみいかりて、「我をもめさましかば、世の人はいのちながくて磐石の如くあらまし。たゞ妹をめしたれば、うめらん子はの花の如くちりおちなむ。」ととこひけるによりて、人のいのちはみじかくなれりとぞ。木の花のさくやひめ、ゝされてひとよにはらみぬ。天孫のあやめ給ければ、はらたちてうつむろをつくりてこもりゐて、みづから火をはなちしに、みたりの御子うまれたまふ。ほのほのおこりける時、うまれますをほのすせりの命とふ。火のさかりなりしに生ますをほあかりの命とふ。のちに生ますをほほでみの尊とまをす。此三人の御子をば火もやかず、母の神もそこなはれ給はず。父の神よろこびましけり。此尊あめのしたをさめ給事三十万八千五百三十三年と云へり。これよりさき、天上にとゞまります神達の御事はねんじよはかりがたきにや。あめつちわかれしよりこのかたのこと、いくとせをへたりと云こともみえたるふみなし。そもそも、天竺の説に、にんじゆ無量なりしが八万四千歳になり、それより百年に一年を減じて百二十歳の時〈或百才とも〉釈迦仏たまふいへる、此仏出世はうがやふきあへずの尊のすゑざまの事なれば〈神武天皇元年かのととりぶつめつののち二百九十年にあたる。これより上はかぞふべき也〉、百年に一年を増してこれをはかるに、此瓊々杵の尊のはじめつかたはかせふぶついで給ける時にやあたり侍らん。人寿二万歳の時、此仏は出給けりとぞ。

○第四代、ひこほほでみの尊とまをすこのかみすせりの命、海のさちます。此尊は山のさちましけり。こゝろみに相かへ給しに、おのおのさちなかりき。おととの尊の、ゆみやに魚のつりばりをかえ給へりしを、弓箭をばかへしつ。おとゝのつりばりを魚にくはれて失ひ給けるを、あながちにせめ給しに、せんすべなくてうみべにさまよひ給き。塩土のおきな〈此神の事さきにみゆ〉まゐりあひて、あはれみ申て、はかりことをめぐらして、うみのかみわたつみのせうとうともかけり〉の所におくりつ。其むすめを豊玉姫とふ。あまつかみの御孫にめでたてまつりて、父の神につげてとゞめ申つ。つひに其むすめとあひすみたまふ。みとせばかりありてもとつくにをおぼすみけしきありければ、其女父にいひあはせてかへしたてまつる。おほきちひさきいろくづをつどへてとひけるに、くちめと云うを、やまひありとてみえず。しひてめしいづれば、そのくちはれたり。是をさぐりしに、うせにし鉤をさぐりいづひとつにはあかめふ。又此魚はなよしと云魚とみえたり〉うみのかみいましめて、「口女いまよりつりくふな。又あめみまおものにまゐるな。」となん云ふくめける。又海神ひる珠みつ珠をたてまつりて、このかみをしたがへ給べきかたちををしへ申けり。さてもとつくににかへりまして鉤をかへしつ。みつたまをいだしてねぎ給へば、塩みちきて、このかみおぼれぬ。なやまされて、「わざをぎたみとならん。」とちかひ給しかば、ひる珠をもちて塩をしりぞけ給き。これよりあまつひつぎをつたへましける。海中にて豊玉姫はらみ給しかば、「うみがつきにいたらば、うみべうぶやつくりて待給へ。」と申き。はたして其いもたまより姫をひきゐて、海辺にゆきあひぬ。を作てにてふかれしが、ふきもあへず、御子うまれ給によりてうがやふきあへずの尊と申す。又産屋をうぶやと云事もうのはをふけるゆゑなりとなん。さても「うみの時み給な。」とちぎりまをししを、のぞきて見ましければ、りようになりぬ。はぢうらみて、「われにはぢみせ給はずは、うみくがをして相かよはしへだつることなからまし。」とて、御子をすておきて海中へかへりぬ。後に御子のきらしくましますことをきゝて憐みあがめて、妹の玉依姫を奉て養ひまゐらせけるとぞ。此尊、天下を治給こと六十三万七千八百九十二年と云へり。震旦の世のはじめをいへるに、ばんぶつ混然としてあひはなれず。是をこんとんふ。其後かろくきよき物はてんとなり、をもくにごれる物はとなり、中くわのきじんとなる。これをさんさいと云〈これまでは我国のはじまりを云にかはらざる也〉。其はじめの君ばんこ氏、天下ををさむること一万八千年。てんくわう・地皇・人皇など云王あひつぎて、九十一代一百八万二千七百六十年。さきにあはせて一百十万七百六十年〈これ一説なり。まことにはあきらかならず〉くわうがと云書には、開闢よりくわくりんいたりて二百七十六万歳ともふ。獲麟とは孔子のざいせの哀公の時なり。日本のいとくにあたる。しからば、盤古のはじめは此尊の御代のすゑつかたにあたるべきにや。

○第五代、ひこなぎさたけうがやふきあへずの尊とまをす。御母豊玉姫の名づけ申ける御名なり。御をば玉依姫にとつぎてはしらの御子をうましめ給ふ。ひこゐつせの命、いなひの命、みけいりのゝ命、やまといわれひこの尊と申す。磐余彦尊を太子に立ててあまつひつぎをなんつがしめましける。此神の御代七十七万余年の程にや、もろこしの三皇の初、ふくきと云王あり。つぎにしんのう氏、つぎにけんゑん氏、三代あはせて五万八千四百四十年〈一説には一万六千八百二十七年。しからば此尊の八十万余の年にあたる也。ちかつねの中納言の新古今の序をかくに、伏犠の皇徳にもとゐして四十万年と云り。いづれの説によれるにか。おぼつかなきことなり。其後にせうこう氏、せんぎよく氏、かうしん氏、たうたう〈堯也〉いうぐ〈舜也〉と云五帝あり。あはせて四百三十二年。其つぎにいんしうの三代あり。夏には十七主、四百三十二年。殷には三十主、六百二十九年。周の代となりて第四代のしゆを昭王と云き。その二十六年きのえとらの年までは周おこりて一百二十年。このとしは葺不合尊の八十三万五千六百六十七年にあたれり。ことし天竺に釈迦仏出世しまします。おなじき八十三万五千七百五十三年に、ほとけ御年八十にてにふめつしましけり。もろこしには昭王の子、ぼく王の五十三年みづのえさるにあたれり。其後二百八十九年ありて、かのえさるにあたる年、此神かくれさせまします。すべて天下を治給こと八十三万六千四十三年と云り。これよりかみつかたをちじん五代とは申けり。二代は天上にとゞまりたまふしも三代は西のくにの宮にて多の年をおくりまします。神代のことなれば、其かうせきたしかならず。葺不合の尊八十三万余年まししに、その御子磐余彦尊の御代より、にはかににんわうとなりて、れきすうも短くなりにけること疑ふ人もあるべきにや。されど、神道の事おしてはかりがたし。まことに磐長姫のとこひけるまゝ寿命も短くなりしかば、神のふるまひにもかはりて、やがて人の代となりぬるか。天竺の説の如く次第ありてげんじたりとはみえず。又百王ましますべしと申める。十々の百にはあらざるべし。きはまりなきを百とも云り。ひやくくわんひやくしやうなど云にてしるべき也。昔、皇祖天照太神天孫の尊に御ことのりせしに、「あまつひつぎのさかんなることまさにあめつちときはまりなかるべし。」とあり。天地も昔にかはらず。日月も光をあらためず。いはんや三種の神器世に現在し給へり。きはまりあるべからざるは我国をつたふはうそ也。あふぎてた[つ]とびたてまつるべきは日嗣をうけ給すべらぎになんおはします。


巻二

にんわう第一代、神日本磐余彦すめらみことまをす。後にじんむとなづけたてまつる。ちじん鸕鶿草葺不合の尊の第四の子。御母玉依姫、うみのかみわたつみの第二[の]むすめ也。伊弉諾尊には六世、おほひるめの尊には五世の天孫にまします。神日本磐余彦と申は神代よりのやまとことばなり。神武は中古となりて、もろこしのことばによりてさだめたてまつる御名也。又此御代より代ごとにみやどころをうつされしかば、其ところを名づけて御名とす。此天皇をばかしはらの宮と申、是也。又神代よりいたりたふときみこといひ、其次をみことふ。人の代となりてはすめらみこととも号したてまつる。臣下にもあそむすくねおみなどと、いふ号いできにけり。神武の御時よりはじまれる事なり。しやうこには尊とも命ともかねしようしけるとみえたり。世くだりては天皇を尊と申こともみえず、しんを命と云事もなし。古語の耳なれずなれるゆゑにや。此てんわう御年十五にてたいしたち、五十一にてちちの神にかはりて皇位にはつかしめたまふ。ことしかのととりなり。つくしの日向の宮崎の宮におはしましけるが、このかみの神達およびわうじぐんしんみことのりして、東せいのことあり。此おほやしまは皆是王地也。かみよゆうまいなりしによりてにしのほとりの国にして、おほくのねんじよをおくられけるにこそ。天皇しうしふをとゝのへ、かふへいをあつめて、おほやまとのくににむかひ給。みちのついでの国々をたひらげ、大やまとにいりまさむとせしに、其国にあめの神にぎはやひの尊の御すゑうましまみの命と云神あり。はゝかたのをぢながすねひこと云、「あまつかみの御子両種有むや。」とて、いくさをおこしてふせぎたてまつる。其軍こはくしてみいくさしば利をうしなふ。又あしきかみどくきをはきしかば、しそつみなやみふせり。こゝに天照太神、たけみかづちの神をめして、「葦原の中つくににさわぐおとす。汝ゆきてたひらげよ。」とみことのりし給。健甕槌の神まをし給けるは、「昔国をたひらげし時[の]剣あり。かれをくださば、おのづからたひらぎなん。」と申て、きのなぐさの村にたかくらじの命と云神にしめして、此剣をたてまつりければ、天皇よろこび給て、士卒のやみふせりけるもみなおきぬ。又かみむすひの命のまごたけつのみの命大からすとなりて軍の御さきにつかうまつる。天皇ほめてやたからすと号し給。又こんじきとびくだりてみゆみのはずにゐたり。其光てりかゞやけり。これによりて皇軍おほきにかちぬ。うましまみの命其をぢのひがめる心をしりて、たばかりてころしつ。そのいくさをひきゐてしたがひ申にけり。天皇はなはだほめまして、あめよりくだれる神剣をさづけ、「其だいくんにこたふ。」とぞのたまはせける。此剣をとよふつの神と号す。はじめはやまといそのかみにましき。後にはひたちかしまの神宮にまします。かのうましまみの命又にぎはやひの尊あまくだりし時、ぐわいそたかみむすひの尊さづけ給しとくさみづたからつたへもたりけるを天皇に奉る。天皇みたましづめの瑞宝也しかば、其祭を始られにき。此宝をもすなはちうましまみにあづけ給て、やまとの石上にあんぢす。又はふるがうす。此瑞宝をひとつづゝよびて、じゆもんをして、ふる事あるによれるなるべし。かくてあめのしたたひらぎにしかば、大和国かしはらに都をさだめて、宮つくりす。其せいど天上の儀のごとし。天照太神より伝給へる三種の神器をみあらかに安置し、ゆかを同くしまします。皇宮・神宮ひとつなりしかば、国々のつき物をもいみくらにをさめてくわんもつじんもつのわきだめなかりき。あめのこやねの命の孫あめのたねこの命、あめのふとたまの命[の]孫あめのとみの命もはらしんじをつかさどる。神代のためしにことならず。又まつりのにはとみのやまなかにたてゝ、あまつかみくにつかみをまつらしめたまふ。此御代の始、かのととりの年、もろこしのしうの世、第十七代にあたる君、けい王の十七年也。五十七年ひのとみは周の二十一代の君、てい王の三年にあたれり。ことしらうしたんじやうす。是は道教の祖也。てんぢくしやかによらいにふめつし給しより元年辛酉までは二百九十年になれるか。此天皇てんかをさめ給こと七十六年。一百二十七歳おはしき。

○第二代、すゐぜい天皇[は]〈これよりわごの尊号をばのせず〉じんむ第二[の]御子。御母たたらいすずひめことしろぬしの神の女也。父の天皇かくれまして、みとせありて即位し給。かのえたつの年也。やまとのかづらきのたかをかの宮にまします。三十一年かのえいぬの年もろこしの周の二十三代[の]君、れい王の二十一年也。ことしこうし誕生す。これより七十三年までおはしけり。儒教をひろめらる。此道は昔の賢王、たうげうぐしゆんはじめいんのはじめのたうしうのはじめのぶん王・王・しう公の国を治め、民をなで給し道なれば、心をただしくし、身をなほくし、家を治め、国を治めて、天下におよぼすをむねとす。さればことなる道にはあらねども、まつだいとなりて、人不正になりしゆゑに、其道ををさめてじゆけうをたてらるゝ也。天皇天下ををさめ給こと三十三年。八十四歳おましき。

○第三代、あんねい天皇はすゐぜい第二の子。御母いすずよりひめことしろぬしの神のおとむすめ也。みづのとうしの年即位。やまとかたしほうきあなの宮にまします。天下を治給こと三十八年。五十七歳おましき。

○第四代、いとく天皇はあんねい第二の子。御母ぬなそこなかつひめことしろぬしの神の孫也。かのとうの年即位。大和のかるのまがりをの宮にまします。天下を治給こと三十四年。七十七歳おはしましき。

○第五代、かうせう天皇はいとく第一の子。御母あまのとよつ姫、おきしみみの命の女也。父の天皇かくれましてひととせありて、ひのえとらの年即位。大和のわきかみのいけこころの宮にまします。天下を治給こと八十三年。百十四歳おはしましき。

○第六代、かうあん天皇はかうせう第二の子。御母よそたらしの姫、をはりむらじとほつおやおきつよその女也。きのとうしの年即位。やまとのあきづしまの宮にまします。天下を治給こと一百二年。百二十歳おましき。

○第七代、かうれい天皇はかうあんたいし。御母おしひめあめたらしひこくにおしひとの命の女也。かのとひつじの年即位。大和のくろだいほとの宮にまします。三十六年ひのえうまにあたる年、もろこしの周の国めつしてしんにうつりき。四十五年きのとう、秦のしくわう即位。此の始皇仙ほうをこのみてちやうせいふしの薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇のゐしよかの国にもとめしに、始皇ことくこれをおくる。其後三十五年ありて、かの国、書をやき、儒をうづみにければ、孔子の全きやう日本にとゞまるといへり。此事異朝の書にのせたり。我国にはじんぐうくわうごう三韓をたひらげ給しより、異国に通じ、応神の御代よりけいしの学つたはれりとぞ申ならはせる。孝霊の御時より此国にもんじありとはきかぬ事なれど、しやうこのことはたしかしるしとゞめざるにや。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、きびのだいじんにふたうしてつたへたりける本こそるふしたれば、この御代より伝けん事もあながちにうたがふまじきにや。凡此国をば君子不死の国とも云也。孔子世のみだれたる事をなげきて、「きういにをらん。」との給ける。日本は九夷の其ひとつなるべし。異国には此国をば東夷とす。此国よりは又彼国をもせいばんと云るがごとし。しかいと云はとういなんばんせいきやうほくてき也。南はじやしゆなれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありていのちながし。よりてだいきうの字をしたがふと云へり。〔裏書[に]ふ。夷説文曰。東方之人也。从大从弓。徐氏曰。唯東夷从大从弓。仁而寿。有君子不死之国ふ。仁而寿、未合弓字之義。弓者以近窮遠也ふ。若取此義歟。〕孔子の時すらこなたのことをしり給ければ、秦の世に通じけんことあやしむにたらぬことにや。此天皇天下ををさめ給事七十六年。百十歳おはしましき。

○第八代、かうげん天皇は孝霊のたいし。御母くはしひめしきのあがたぬしの女也。ひのとゐの年即位。やまとかるのさかひはらの宮にまします。九年きのとひつじの年、もろこしのしんほろびかんにうつりき。此天皇天下を治給こと五十七年。百十七歳おましき。

○第九代、かいくわ天皇は孝元第二の子。御母うつしこめ姫、ほづみおみのとをつをやうつしこをのみことの妹也。きのえさるの年即位。大和のかすがのいさがはの宮にまします。天下を治給こと六十年。百十五歳おましき。

○第十代、すじん天皇は開化第二の子。御母いかがしこめ〈初は孝元のきさきとしてひこふとおしまことの命をうむ〉おほへそきの命の女也。きのえさるの歳即位。大和のしきみづかきの宮にまします。此御時神代をさる事、世は十つぎ、年は六百あまりになりぬ。やうやく神威をおそれ給て、即位六年つちのとうしの〈神武元年かのととりより此つちのとうしまでは六百二十九年〉神代のかがみつくりいしこりどめの神のはつこをめして鏡をうつしせしめ、あめのまひとつの神のはつこをして剣をつくらしむ。やまとのうだこほりにして、此両種をうつしあらためられて、ごしんしるしとしておなじとのに安置す。神代よりの宝鏡および霊剣をばくわうぢよとよすきいりひめの命につけて、大和のかさぬひむらと云所にひもろぎをたてゝあがめ奉らる。これより神宮・皇居おのおのべつになれりき。其後太神のをしへありて、豊鋤入姫の命、神体をちやうだいしところどころをめぐり給けり。十年の秋、おほひこの命をほくろくつかはし、たけぬなかはわけの命をとうかいに、吉備津彦命をさいだうに、たにはみちぬしの命をたんばに遣す。ともにいんじゆたまひて将軍とす〈将軍の名はじめてみゆ〉。天皇のしゆくふたけはにやすひこの命、朝廷をかたぶけんとはかりければ、将軍等をとどめて、まづ追討しつ。冬かんなづきに将軍みちたちす。十一年の夏、四道の将軍じゆういたひらげぬるよしかへりことす。六十五年秋みまなの国、つかひをさしてつきをたてまつる〈筑紫をさること二千余里と云〉。天皇天下を治給こと六十八年。百二十歳おましき。

○第十一代、すゐにん天皇はすじん第三の子。御母みまきひめおほひこみことの〈孝元の御子〉女也。みづのえたつの年即位。大和のまきむくたまきの宮にまします。此御時皇女大和姫の命、とよすきいり姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のをしへにより、なほ国々をめぐりて、二十六年ひのとみかんなづききのえねいせのわたらひのこほりいすずの川上にみやどころをしめ、たかまの原にちぎたかしりしたついはねに大宮柱ふとしきたててしづまりましぬ。此ところは昔あめみまあまくだり給し時、さるだびこの神まゐりあひて、「われは伊勢のさながたの五十鈴の川上にいたるべし。」と申ける所也。やまと姫の命、宮所をたづね給しに、大田の命と云人〈又おきたまとも云〉まゐりあひて、此所ををしへ申き。此命は昔の猨田彦の神のべうえいなりとぞ。彼川上にいすず・天上のづぎやうなどあり〈天のさかほこもこの所にありきと云一説あり〉。「八万歳のあひだまぼりあがめたてまつりき。」となん申ける。かくてなかとみおやおほかしまの命をさいしゆとす。又おほはたぬしと云人をおほかむぬしになしたまふ。これよりすめおほみかみとあがめ奉て、てんか第一のそうべうにまします。此天皇天下を治給こと九十九年。百四十歳おましき。

○第十二代、けいかう天皇は垂仁第三の子。御母ひはすひめ、丹波道主の王の女也。かのとひつじの年即位。大和のまきむくひしろの宮にまします。十二年秋、くまそ〈日向にあり〉そむきてみつき奉らず。はつきに天皇筑紫にみゆきして是をせいし給。十三年夏ことたひらぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫よりかへり給。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子をうすの尊御年十六、をさなくよりをゝしきけまして、ようばうすぐれたゝはし。身のたけ一丈、ちからよくかなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめたまふ。冬かんなづきひそかに彼国にいたり、きぼうをもて、たけるひとこのかみとりいしかやと云物をころしたまふ。梟帥ほめ奉て、やまとたけとなづけ申けり。ことごとく余党をたひらげて帰給。所々にしてあまたのあしきかみをころしつ。二十八年春かへりこと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。四十年の夏、とういおほくそむきて辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。きびたけひこおほともたけひを左右の将軍としてあひそへしめ給。十月によきりみちして伊勢の神宮にまうでゝ、大和姫の命にまかりまをし給。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ。」とをしへ給ける。するが〈駿河日本紀説、あるひはさがみ古語拾遺説〉いたるに、ぞくと野に火をつけてがいしたてまつらんことをはかりけり。火のいきほひまぬかれがたかりけるに、はかせるむらくもの剣をみづからぬきて、かたはらの草をなぎてはらふ。これより名をあらためてくさなぎの剣とふ。又火うちをもて火をいだして、むかひ火をつけて、賊徒をやきころされにき。これより船にのり給てかづさにいたり、転じてみちのおくの国にいり、ひたかみの国〈その所異説あり〉にいたり、ことえびすたひらげ給。かへりてひたちをへかひにこえ、又むさしかみつけをへて、うすひざかにいたり、おとたちばなひめと云しみめをしのび給〈上総へわたり給し時、ふうはあらかりしに、尊の御命をあがはんとて海にいりし人なり〉。東南のかたをのぞみて、「あづまはや。」との給しより、さんとうの諸国をあづまと云也。これより道をわけ、吉備の武彦をばゑちごの国につかはしてまつろはぬものたひらげしめ給。尊はしなのよりをはりにいで給。かの国にみやすひめと云をんなあり。をはりいなたねのすくねの妹也。此女をめしてひさしくとどまりたまふあひだ、いぶきの山にあらぶるかみありときこえければ、剣をば宮簀媛の家にとゞめて、かちよりいでます。やまのかみしてこへびになりて、御道によこたはれり。尊またこえてすぎ給しに、山神毒気をはきけるに、御心みだれにけり。それより伊勢にうつり給。のぼのと云所にて御やまひはなはだしくなりにければ、武彦の命をして天皇に事のよしをそうして、つひにかくれ給ぬ。御年三十也。天皇きこしめして、かなしみ給事かぎりなし。ぐんけいひやくれうおほせて、伊勢国能褒野にをさめたてまつる。しらとりなりて、大和国をさしてことひきの原にとゞまれり。其所に又みささぎをつくらしめられければ、又とびかはちのふるいちにとゞまる。その所に陵をさだめられしかば、白鳥又飛てあめにのぼりぬ。よりてみつの陵あり。かの草薙の剣は宮簀媛あがめたてまつりて、尾張にとゞまり給。今のあつたの神にまします。五十一年秋はつきたけうちすくねとうりやうの臣とす。五十三年秋、をうすの命のことむけし国をめぐりみざらんやとて、東国にみゆきし給。しはすあづまよりかへりて、伊勢のかむばたの宮にまします。五十四年秋、伊勢より大和にうつり、まきむくの宮にかへり給。天下を治給こと六十年。百四十歳おましき。

○第十三代、せいむ天皇は景行第三[の]子。御母やさかいりひめ、八坂入彦の皇子[の]〈崇神の御子〉女也。やまとたけのひつぎをうけ給ふべかりしに、世をはやくしまししかば、此みかどたち給。かのとひつじの歳即位。近江のしがのたかあなほの宮にまします。神武より十二代、大和国にまし〈景行天皇のすゑつかた、此高穴穂にまししかどもさだまれる皇都にはあらず〉。此時はじめて他国にうつり給。三年の春、武内の宿禰をおほおみとす〈大臣の号これにはじまる〉。四十八年の春、をひなかたらしひこの尊〈日本武の尊の御子〉をたてゝ皇太子とす。天下を治給こと六十一年。百七歳おましき。

○第十四代、第十四世、ちゆうあい天皇はやまとたけの尊第二の子、けいかうの御孫也。御母ふたちいりひめすゐにん天皇[の]女也。たいそ神武より第十二代景行まではのまゝにけいたいし給。日本武尊世をはやくし給しによりて、せいむ是をつぎ給。此天皇を太子としてゆづりまししより、だいせいとかはれる初也。これよりは世をもととしるしたてまつるべき也〈代と世とは常の義しやべつなし。しかれおよそしよううんとまことの継体とをぶんべつせん為にかきわけたり。ただし字書にもそのいはれなきにあらず。代はかうの義也。世はしゆらいの註に、父しして子たつを世と云とあり〉。此天皇御かたちいときらしく、御たけ一丈ましける。みづのえさるの年即位。此御時熊襲又ほんらんして朝こうせず。天皇いくさをめしてみづからせいばつをいたし、つくしにむかひ給。皇后おきながたらしひめの尊はゑちぜんの国けいの神にまうでゝ、それより北海をめぐりて行あひ給ぬ。こゝに神ありて皇后にかたり奉る。「これより西にたからの国あり。うちてしたがへ給へ。熊襲は小国也。又伊弉諾・伊弉冊のうみ給へりし国なれば、うたずともつひにしたがひたてまつりなん。」とありしを、天皇うけがひ給はず。事ならずしてかしひかりみやにしてかくれたまふながとにをさめ奉る。是をあなとのとよらの宮と申す。天下を治給こと九年。五十二歳おましき。

○第十五代、じんぐう皇后はおきながすくねの女、かいくわ天皇四世の御孫也。おきながたらし姫の尊と申す。仲哀たてゝ皇后とす。仲哀神のをしへによらず、世を早くし給しかば、皇后いきどほりまして、七日あ[つ]てべつでんを作り、いもほりこもらせ給。此時応神天皇はらまれましけり。神がゝりてさま道ををしへ給ふ。此神は「うはつつのをなか筒男・そこ筒男なり。」となんなのり給けり。是は伊弉諾尊日向のをどあはぎが原にてみそぎし給し時、けしやうしましける神也。後にはつのすみよしにいつかれ給神これなり。かくてしらぎくだらかうらい〈此三け国をさんかんふ。ただしくは新羅にかぎるべきか。しんかんばかんべんかんをすべて新羅と云也。しかれどふるくより百済・高麗をくはへて三韓といひならはせり〉うちしたがへ給き。うみのかみかたちをあらはし、御船をはさみまぼり申しかば、おもひの如く彼国をたひらげ給。神代より年序久くつもれりしに、かくしんゐをあらはし給ける、はからざる御ことなるべし。海中にしてによいたま給へりき。さてつくしにかへりて皇子を誕生す。応神天皇にまします。神のまをし給しによりて、是をたいちゆうの天皇とも申。皇后せつしやうしてかのとみの年より天下をしらせ給。皇后いまだ筑紫にましし時、皇子のいぼこのかみおしくまの王むほんをおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、みなとにつけ、皇后はすぐになにはにつき給て、程なく其みだれを平げられにき。皇子おとなび給しかば皇太子とす。武内[の]大臣もはら朝政をふさし申けり。大和のいはれわかさくらの宮にまします。是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国にちんじゆのつかさをおかれしかば、せいばんつうじて国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「わこくの女王つかひをつかはして来朝す。」とごかんじよにみえたり。元年かのとみの年は漢のかうけんてい二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王まうと云しんくらゐをうばひて十四年ありき。其のち漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢はめつして此御代の十九年つちのとゐに献帝位をさりて、ぶんていにゆづる。是より天下みつにわかれて、しよくとなる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづつうじけるにや。ごの国よりみちみちのたくみなどまでわたされき。又ぎの国にも通ぜられけるかとみえたり。四十九年きのととりと云し年、魏又ほろびしんの代にうつりにき〈蜀の国は三十年みづのとひつじに魏のためにほろぼされ、呉は魏より後までありしが、応神十七年かのとうし晉のためにほろぼさる〉。此皇后天下を治給こと六十九年。一百歳おましき。

○第十六代、第十五世、おうじん天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。たいちゆうの天皇とも、又はほむだの天皇ともなづけたてまつる。かのえとらの年即位。大和のかるしまとよあかりの宮にまします。此時くだらよりはかせをめし、けいしをつたへられ、太子いげこれをまなびならひき。此国に経史および文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。いてうの一書の中に、「日本は呉のたいはくのち也とふ。」といへり。かへすがへすあたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、くわんむの御代にやきすてられしなり。あめつちひらけて後、すさのをの尊かんの地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神のべうえいならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。あめつちのかみの御すゑなれば、なにしにかくだれるごの太伯が後にあるべき。さんかんしんだんに通じてよりこのかた、異国の人おほく此国にきくわしき。秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬばんじんの子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せしによりて、しやうじろくと云ふみをつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。異朝にも人の心まちなれば、異学のともがらいひいだせる事ごかんじよよりぞ此国のことをばあらしるせる。ふがふしたることもあり、又心えぬこともあるにや。たうじよには、日本のくわうだいきかみよよりくわうかうの御代まであきらかにのせたり。さても此御時、たけうちの大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされけるころ、おとゝのざんによりて、すでに追討せられしを、大臣のやつこまねこと云人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりてちゆうせらる。大臣はしのびて都にまうでゝ、とがなきよしをあきらめられにき。上古しんれいあるじ猶かゝるあやまちまししかば、まつだいいかでかつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治給こと四十一年。百十一歳おましき。きんめい天皇の御代に始て神とあらはれて、筑紫のひごのひしかたの池と云所にあらはれたまひ、「われはにんわう十六代ほむだやはたまろなり。」との給き。誉田はもとの御名、八幡はすゐじやくの号也。後にぶぜんの国うさの宮にしづまり給しかば、しやうむ天皇東大寺こんりふの後、じゆんれいし給べきよしたくせんありき。よりてゐぎをとゝのへてむかへ申さる。又神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼寺にくわんじやうたてまつらる。されどちよくしなどは宇佐にまゐりき。清和の御時、だいあんじの僧、ぎやうけう宇佐にまうでたりしに、れいかうありて、今のをとこやまいはしみづにうつりまします。しかしよりこのかた行幸もほうへいも石清水にあり。いちだいいちど宇佐へもちよくしをたてまつらる。昔あめみまあまくだり給し時、御ともの神やほよろづありき。おほものぬしの神したがへてあめへのぼりしも、やそよろづの神と云り。今までもへいはくたてまつらるゝ神、三千よざ也。しかるにあまてらすおほみかみの宮にならびて、ふたところそうべうとて八幡をあふぎ申さるゝこと、いとたふとき御事也。八幡と申御名は御たくせんに「みちをえてよりしてこのかたほつしやうをうごかさずはちしやうだうをしめしてごんじやくをたるみなくのしゆじやうをげだつすることをえたりこのゆゑにはちまんだいぼさつとがうす。」とあり。はちしやうとは、ないてんに、しやうけんしやうしゆゐしやうごしやうごふしやうみやうしやうしやうじんしやうぢやうしやうゑ、是を八正道とふ。およそこころしやうなればしんくはおのづからきよまる。さんごふよこしまなくして、ないげしんしやうなるをしよぶつ出世のほんくわいとす。神明のすゐじやくも又これがためなるべし。又八方にやいろはたたつることあり。密教のならひさいはうあみださんまやぎやう也。其故にや行教くわしやうにはみださんぞんの形にてみえさせ給けり。くわうみやうけさの上にうつらせましけるをちやうだいして、男山には安置し申けりとぞ。神明のほんぢを云ことはたしかならぬたぐひおほけれど、だいぼさつおうじやくは昔よりあきらかなるしようこおはしますにや。或は又、「昔りやうじゆせんにおいてめうほけきやうをとく。」とも、或はみろくなりとも、だいじざいわうぼさつなりとも託宣し給。なかにも八正の幡をたてゝ、八方の衆生をさいどたまふほんぜいを、よくよくおもひいれてつかうまつるべきにや。天照太神もたゞしやうぢきをのみ御心とし給へる。神鏡をつたへまししことのおこりは、さきにもしるしはべりぬ。又ゆうりやく天皇二十二年の冬しもつきに、伊勢の神宮のにひなめのまつり、夜ふけてかたへの人々まかりいでのちかむぬしものいみらばかりとどまりたりしに、すめおほみかみとようけの太神、やまとひめの命にかゝりて託宣したまひしに、「人はすなはち天下のじんもつなり。心神をやぶることなかれ。神はたるゝにきたうを以てさきとし、みやうはくはふるに正直を以てもととす。」とあり。おなじき二十三年きさらぎ、かさねて託宣し給しに、「じつげつは四州をめぐり、りくがふを照すといへども正直のいただきを照すべし。」とあり。さればふたところの宗廟の御心をしらんと思はゞ、ただ正直を先とすべき也。おほかたあめつちの間ありとある人、陰陽の気をうけたり。不正にしてはたつべからず。こと更に此国は神国なれば、神道にたがひては一日も日月をいたゞくまじきいはれなり。倭姫の命人にをしへ給けるは「きたなき心なくしてきよき心をもて、きよくいさぎよくいもほりつつしめ。左の物を右にうつさず、右の物を左にうつさずして、左を左とし右を右とし、左にかへり右にめぐることもよろづのことたがふことなくして、おほみかみにつかうまつれ。はじめをはじめとしもとをもとゝす故なり。」となむ。まことに、君につかへ、神につかへ、国ををさめ、人ををしへんことも、かゝるべしとぞおぼえはべる。すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本となる。しうやくに、「霜をふんでかたきこほりいたる。」と云ことを、孔子釈しての給はく、「しやくぜんの家によきやうあり、積不善の家によあうあり。君をしいし父を弑すること一朝一夕の故にあらず。」といへり。がうりも君をいるかせにする心をきざすものは、かならず乱臣となる。かいたいも親をおろそかにするかたちあるものは、はたして賊子となる。此故に古の聖人、「道はしゆゆもはなるべからず。はなるべきは道にあらず。」と云けり。ただし其のすゑを学びてみなもとあきらめざれば、ことにのぞみておぼえざるあやまちあり。其源と云は、心にいちもつをたくはへざるをふ。しかもきよむうちとどまるべからず。天地あり、君臣あり。善悪のむくいかげひびきの如し。おのが欲をすて、人を利するを先として、さかひさかひに対すること、鏡の物を照すが如く、めいめいとして迷はざらんを、まことの正道と云べきにや。代くだれりとてみづかいやしむべからず。天地の始は今日を始とする理なり。しかのみならず、君も臣も神をさること遠からず。常にみやうちけんをかへりみ、神のほんぜいをさとりて、しやうきよせんことを心ざし、よこしまなからんことをおもひたまふべし。

○第十七代、にんとく天皇は応神第一の御子。御母なかつひめの命、いほきいりひこのみこのむすめ也。大さゞきの尊とまをす。応神の御時、うぢのわかのみこと申はさいまつの御子にてまししをうつくしみ給て、太子にたてむとおぼしめしけり。このかみの御子達うけがひ給はざりしを、此天皇ひとりうけがひ給しによりて、応神よろこびまして、菟道稚を太子とし、此尊をふさになん定め給ける。応神かくれまししかば、このかみ達太子を失はんとせられしを、此尊さとりて太子と心をひとつにして彼をちゆうせられき。ここに太子天位を尊にゆづりたまふ。尊かたくいなみ給、みとせになるまでたがひゆづりて位をむなしくす。太子はやましろの宇治にます。尊は摂なにはにましけり。国々のつぎ物もあなたかなたにうけとらずして、民のうれへとなりしかば、太子みづからうせ給ぬ。尊おどろきなげきたまふことかぎりなし。されどのがれますべきみちならねば、みづのととりの年即位。摂つのくに難波たかつの宮にまします。日嗣をうけ給ひしより国をしづめ民をあはれみたまふこと、ためしもまれなりし御事にや。民間のまづしきことをおぼして、三年のみつきとどめられき。たかどのにのぼりてみ給へば、にぎはゝしくみえけるによりて、

 たかきやにのぼりてみればけぶりたつたみのかまどはにぎはひにけり

とぞよませ給ける。さて猶三年を許されければ、宮の中やぶれあめつゆもたまらず。みやびところもやぶれて其よそほひまたからず。みかどは是をたのしみとなむおぼしける。かくてむとせと云に、国々の民おのおのまゐりあつまりて大宮づくりし、いろ[の]御調をそなへけるとぞ。ありがたかりし御まつりことなるべし。天下を治給こと八十七年。百十歳おましき。

○第十八代、りちゆう天皇は仁徳の太子。御母いはのひめの命、かづらきそつひこの女也。かのえねの年即位。又大和のいはれのわかさくらの宮にまします。のちの稚桜の宮とまをす。天下を治給こと六年。六十七歳おましき。

○第十九代、はんぜい天皇は仁徳第三の子、りちゆう同母の弟也。ひのえうまの年即位。河内のたぢひしばがきの宮にまします。天下を治給こと六年。六十歳おましき。

○第二十代、いんぎよう天皇は仁徳第四[の]子、履中反正同母[の]弟也。みづのえねの年即位。大和のとをつあすかの宮にまします。此御時までは三韓の御調としどしにかはらざりしに、これより後はつねにおこたりけりとなん。八年つちのとひつじにあたりて、もろこしのしんほろびて南北朝となる。そうせいりやうちんあひつぎておこる。是をなんてうふ。こうぎほくせいこうしうつぎにおこれりしをほくてうふ。百七十余年はならびてたちたりき。此天皇天下を治給こと四十二年。八十歳おましき。


巻三

○第二十一代、あんかう天皇は允恭第二の子。御母をしさかのおほなかつ姫、わかぬけふたまたみこの〈応神の御子〉女也。きのえうまの年即位。やまとのあなほの宮にまします。おほくさかの皇子をにんとくの御子〉ころして其をとりて皇后とす。かの皇子の子まゆわの王をさなくて、母にしたがひて宮中にしゆつにふしけり。天皇たかどのの上にゑひふし給けるをうかゞひて、さしころして、おほおみかづらきつぶらが家ににげこもりぬ。此天皇天上を治給こと三年。五十六歳おましき。

○第二十二代、ゆうりやく天皇はいんぎよう第五[の]子、安康同母の弟也。おほはつせの尊と申。安康ころされ給し時、眉輪の王およびつぶらの大臣をちゆうせらる。あまさへ其の事にくみせられざりしいちべのをしはの皇子をさへにころして位につきたまふ。ことしひのととりの年也。大和の泊瀬あさくらの宮にまします。天皇せいたけくましけれども、神に通じ給へりとぞ。二十一年ひのとみかんなづきに、伊勢のすめおほみかみ大和姫の命にをしへて、たんばのよさまなゐの原よりしてとようけの太神を迎へ奉らる。大和姫の命そうもんし給しによりて、みやうねんつちのえうまの秋ふみづきちよくしをさしてむかへたてまつる。ながつきわたらひこほり山田の原のしんぐうにしづまり給。垂仁天皇の御代に、皇太神いすずの宮にうつらしめ給しより、四百八十四年になむなりにける。神武のはじめよりすでに千百余年に成ぬるにや。又これまでやまとひめの命ぞんしやうし給しかば、ないげくうのつくりも、日のわかみやづぎやうもんぎやうによりてなさせ給けりとぞ。そもそも此神の御事異説まします。外宮にはあまつみおやあめのみなかぬしの神とまをしつたへたり。されば皇太神のたくせんにて、此宮の祭をさきにせらる。かみをがみ奉るもづ此宮を先とす。あめみまににぎの尊此宮のあひどのにまします。よりてあめのこやねの命・あめのふとたまの命も天孫につき申て相殿にます也。これより二所[の]太神宮と申。丹波より遷らせたまふことは、昔とよすきいりひめの命、天照太神をちやうだいして、丹波のよさの宮にうつり給けるころ、此神あまくだりてひとつところにおはします。四年ありて天照太神は又大和にかへらせたまふ。それより此神は丹波にとまらせ給しを、みちぬしの命と云人いつきまをしけり。いにしへは此宮にてみけをとゝのへて、内宮へも毎日におくりたてまつりしを、じんき年中よりげくうみけどのをたてゝ、ないくうのをもひとつところにてたてまつるとなん。かやうの事によりて、みけの神とまをす説あれど、みけみけとの両義あり。いんやうげんしよみけなれば、あめさぎりくにさぎりまをす御名もあれば、猶さきの説をしやうとすべしとぞ。あめみまさへあひどのにましませば、御饌の神と云説はもちゐがたき事にや。此天皇天下を治給こと二十三年。八十歳おましき。

○第二十三代、せいねい天皇はゆうりやく第三の子。御母からひめ、葛城のつぶらの大臣の女也。かのえさるの年即位。大倭のいはれのみかくりの宮にまします。たんじやうはじめはくはつおはしければ、しらかの天皇とぞ申ける。御子なかりしかば、くわういんのたえぬべき事をなげき給て、国々へちよくしをつかはして皇胤をもとめらる。いちべおしはの皇子、雄略にころされ給しとき、くわうぢよひとりわうじふたりましけるが、丹波国にかくれ給けるをもとめいでて、御子にしてやしなひ給けり。天下を治給こと五年。三十九歳おましき。

○第二十四代、けんそう天皇は市辺押羽の皇子第三の子、りちゆう天皇[の]孫也。御母はえひめありおみのむすめ也。しらかの天皇やしなひて子とし給ふ。このかみにんけんまづ位につきたまふべかりしを、相共にゆづりまししかば、同母の御姉いゝとよの尊しばらくくらゐに居給き。されどやがてけんそうさだまりまししによりて、いひとよ天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬ也。きのとうしの年即位。大和のちかつあすかやつりの宮にまします。天下を治給こと三年。四十八歳おましき。

○第二十五代、にんけん天皇はけんそう同母のこのかみ也。ゆうりやくわが父の皇子をころし給しことをうらみて、「みさゝぎをほりてかばねをはづかしめん。」との給しを、顕宗いさめまししによりて、徳のおよばざることをはぢて、顕宗をさきだて給けり。つちのえさるの年即位。大和のいそのかみひろたかの宮にまします。天下を治給こと十一年。五十歳おましき。

○第二十六代、ぶれつ天皇は仁賢の太子。御母おほいらつめの皇女、雄略の御女也。つちのとうの年即位。大和のはつせなみきの宮にまします。せいさがなくまして、あくとしてなさずと云ことなし。よりてあまつひつぎひさしからず。にんとくさしもせいとくまししに、此くわういんこゝにたえにき。「聖徳はかならず百代にまつらる。」しゆんじうにみゆ〉とこそみえたれど、不徳の子孫あらば、其そうを滅すべきせんしようはなはだおほし。さればしやうこせいけんは、子なれども慈愛におぼれず、うつはにあらざればつたふることなし。げうたんしゆふせうなりしかば、しゆんにさづけ、舜の子しやうきんふせうにしてかのうゆづられしが如し。堯舜よりこなたには猶天下をわたくしにする故にや、かならず子孫につたふることになりにしが、のちけつぼうぎやくにして国を失ひ、いんたう聖徳ありしかど、ちうが時ぶだうにして永くほろびにき。てんぢくにも仏めつど百年の後、あいくと云王あり。姓はくじやく氏、王位につきし日、てちりんとびくだる。てんりんゐとくをえて、えんぶだいとうりやうす。あまさへもろもろきじんをしたがへたり。しやうぼふを以て天下ををさめ、仏理に通じてさんぼうをあがむ。八万四千のたふたてて、しやりあんぢし、九十六億千のこがねすてくどくする人なりき。其さんせいのふしやみつたら王の時、悪臣のすゝめによ[つ]て、そわうたてたりしたふばはゑせんと云あくねんをおこし、もろの寺をやぶり、びくせつがいす。阿育王のあがめしけいじやくじぶつげしの塔をこぼたんとせしに、ごほふじんいかりをなし、たいせんして王およしひやうの衆をおしころす。これより孔雀のしゆながくたえにき。かゝれば先祖おほきなる徳ありとも、ふとくの子孫そうべうのまつりをたゝむことうたがひなし。此天皇天下を治給こと八年。五十八歳おましき。

○第二十七代、第二十世、けいたい天皇はおうじん五世の御孫也。応神第八[の]御子はやぶさわけの皇子、其子おほとの王、其子しいの王、其子ひこぬしの王、其子をほとの王とまをすは此天皇にまします。御母ふるひめすゐにん七世の御孫也。ゑちぜんの国にましける。ぶれつかくれ給てくわういんたえにしかば、群臣うれへなげきて国々にめぐり、ちかき皇胤をもとめたてまつりけるに、此天皇わうしやたいどまして、せんりようのいきほひ、世にきこえ給けるにや。群臣相はからひむかへ奉る。三たびまでけんじやうたまひけれど、つひに位につき給ふ。ことしひのとゐの年也ぶれつかくれ給て後、二年くらゐをむなしくす〉。大和のいはれたまほの宮にまします。にんけんの御むすめたしらかの皇女を皇后とす。即位し給しよりまことけんわうにましき。応神御子おほくきこえ給しに、にんとく賢王にてまししかど、みすゑたえにき。はやぶさわけの御末、かく世をたもたせたまふこと、いかなる故にかおぼつかなし。仁徳をばおほさざきの尊とまをす。第八の皇子をばはやぶさわけと申。仁徳のみよに兄弟たはぶれて、さざきことり也、はやぶさおほとり也とあらそひ給ことありき。隼の名にかちて、末の世をうけつぎ給けるにや。もろこしにもかゝるためしありさでんにみゆ〉。名をつくることもつゝしみおもくすべきことにや。それもおのづからてんめいなりといはゞ、ぼんりよおよぶべきにあらず。此天皇のたち給しことぞおもひのほかごうんとみえはべる。ただしくわういんたえぬべかりし時、群臣えらびもとめたてまつりき。けんめいによりて天位をつたへたまへり。天照太神のごほんいにこそとみえたり。くわうとうに其人ましまさん時は、かしこきしよわうおはすとも、いかでのぞみをなし給べき。皇胤たえ給はんにとりては、けんにてあまつひつぎにそなはり給はんこと、すなはち又天のゆるす所也。此天皇をば我国ちゆうこうそそうあふたてまつるべきにや。天下を治給こと二十五年。八十歳おましき。

○第二十八代、あんかん天皇は継体の太子。御母はめのこ姫、をはりくさかむらじむすめ也。きのえとらの年即位。大和のまがりのかなはしの宮にまします。天下を治給こと二年。七十歳おましき。

○第二十九代、せんくわ天皇は継体第二の子、あんかん同母の弟也。ひのえたつの年即位。大和のひのくまのいほりのの宮にまします。天下を治給こと四年。七十三歳おましき。

○第三十代、第二十一世、きんめい天皇はけいたい第三の子。御母皇后たしらかの皇女、にんけん天皇の女也。りやうけいまししかど、此天皇の御すゑ世をたもちたまふ。御母がたにんとくのながれにてましませば、猶も其遺徳つきずしてかくさだまり給けるにや。かのえさるの年即位。やまとのしきしまかなさしの宮にまします。十三年みづのえさるかんなづきくだらの国より仏・法・僧をわたしけり。此国に伝来の始なり。しやかによらいめつご一千十六年にあたる年、もろこしのごかんめいていえいへい十年に仏法はじめてかの国につたはる。それより此みづのえさるの年まで四百八十八年。もろこしには北朝のせいのぶんせんてい即位三年、南朝のりやうのかんぶんていにも即位三年也。簡文帝の父をばぶていと申き。おほきに仏法をあがめられき。此御代の初つかたは武帝同時也。仏法はじめて伝来せし時、他国の神をあがめ給はんこと、我国の神慮にたがふべきよし、群臣かたくいさめまをしけるによりてすてられにき。されど此国にさんぼうの名をきくことは此時にはじまる。又、わたくしにあがめつかへ奉る人もありき。天皇聖徳まして三宝をかんぜられけるにこそ。群臣のいさめによりて、其法をたてられずといへども、天皇のえいしにはあらざるにや。昔、ぶつ在世に、てんぢくぐわつがいちやうじやたてまつりしみださんぞんこんざうつたへてわたし奉りける、なにはほりえにすてられたりしを、ぜんくわうと云者とり奉て、しなのの国にあんぢし申き。今のぜんくわうじこれ也。此御時はちまんだいぼさつはじめすゐじやくしまします。天皇天下ををさめたまふこと三十二年。八十一歳おましき。

○第三十一代、第二十二世、びだつ天皇は欽明第二の子。御母いしひめの皇女、せんくわ天皇の女也。みづのえたつの年即位。やまとのいはれおさだの宮にまします。二年みづのとみの年、天皇の御弟とよひ皇子の、御子をたんじやうす。うまやどの皇子にまします。うまれ給しよりさまきずゐあり。たゞびとにましまさず。御手をにぎり給しが、二歳にて東方にむきて、なむぶつとてひらき給しかば、ひとつしやりありき。仏法るふのためにごんげし給へることうたがひなし。此ぶつしやりは今にやまとほふりゆうじにあがめ奉る。天皇天下を治給こと十四年。六十一歳おましき。

○第三十二代、ようめい天皇は欽明第四の子。御母きたしひめそがいなめのおほおみの女也。とよひの尊と申。厩戸の皇子の父におはします。ひのえうまの年即位。やまといけのへのなみつきの宮にまします。仏法をあがめて、我国にるふせむとし給けるを、ゆげのもりやをほむらじかたむけまをし、つひにほんぎやくにおよびぬ。厩戸の皇子、そがおほおみと心をひとつにしてちゆうりくせられ、すなはち仏法をひろめられにけり。天皇天下を治給こと二年。四十一歳おましき。

○第三十三代、すしゆん天皇はきんめい第十二の子。御母こあねきみいらつめ。これもいなめおほおみの女也。つちのえさるの年即位。大和のくらはしの宮にまします。天皇わうしさうみえたまふ。つゝしみますべきよしを厩戸の皇子そうし給けりとぞ。天下を治給こと五年。七十二歳おましき。或人のふ。ははかたのをぢそがうまこのおほおみと御なかあしくして、かの大臣のためにころされ給きともいへり。

○第三十四代、すゐこ天皇は欽明の御女、ようめい同母の御妹也。みけしかや姫の尊とまをす。敏達天皇々后としたまふ〈仁徳も異母の妹を妃とし給ことありき〉。崇峻かくれ給しかば、みづのとうしの年即位。やまとをはりたの宮にまします。昔じんぐうくわうごう六十余年天下ををさめ給しかども、せつしやうと申て、天皇とは号したてまつらざるにや。此みかどはしやうゐにつき給にけるにこそ。すなはち厩戸の皇子を皇太子としてばんきまつりことをまかせ給。摂政と申き。太子のけん国と云こともあれど、それはしばらくの事也。これはひとへに天下を治給けり。太子せいとくまししかば、天下の人つくこと日の如く、仰ぐこと雲の如し。太子いまだ皇子にてましし時、ぎやくしんもりやちゆうし給しより、仏法はじめるふしき。ましてまつりことをしらせ給へば、さんぼううやまひしやうぼふをひろめ給こと、ぶつせにもことならず。又じんづうじざいにましき。御づから法服をちやくして、きやうを講じ給しかば、天より花をふらし、はうくわうどうちずゐありき。天皇・群臣、たふとびあがめ奉ること仏のごとし。がらんをたてらるゝ事四十余け所におよべり。又此国には昔より人すなほにしてほふりやうなんどもさだまらず。十二年きのえねにはじめてくわんゐと云ことをさだめかうぶりのしなによりて、かみしもをさだむるに十八階あり〉、十七年つちのとみけんはふ十七け条をつくりて奏し給。ないげてんのふかき道をさぐりて、むねをつゞまやかにしてつくり給へる也。天皇よろこびて天下にしかうせしめ給き。此ころほひは、もろこしにはずいの世也。南北朝あひわかれしが、南は正統をうけ、北はじゆうてきよりおこりしかども、中国をば北朝にぞをさめける。ずゐは北朝のこうしうと云しがゆづりをうけたりき。のちに南朝のちんをうちたひらげて、一統の世となれり。此天皇の元年みづのとうしぶんてい一統ののち四年也。十三年きのとうしやうだいの即位元年にあたれり。彼国よりはじめて使をおくり、よしみを通じけり。ずゐていの書に「皇帝恭問倭皇。」とありしを、これはもろこしの天子のしよこうわうにつかはすれいぎなりとて、群臣あやしみ申けるを、太子のゝたまひけるは、「皇の字はたやすくもちゐざることばなれば」とて、へんはうをもかゝせたまひ、さまきやうろくをたまひて使をかへしつかはさる。是より此国よりもつねに使をつかはさる。其使をけんずゐたいしとなむなづけられしに、二十七年つちのとうの年、隋ほろびたうの世にうつりぬ。二十九年かのとみの年太子かくれ給。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申こと父母にするがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、ごんげの御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御いみなを聖徳となづけたてまつる。この天皇天下を治給こと三十六年。七十歳おましき。

○第三十五代、第二十四世、じよめい天皇はおしさかおほえの皇子の子、びだつの御孫也。御母ぬかて姫の皇女、これも敏達のむすめ也。すゐこ天皇は聖徳太子の御子につたへ給はんとおぼしめしけるにや。されどまさしき敏達の御孫、きんめいちやくそうそんにまします。又太子御やまひにふし給し時、天皇此皇子を御使としてとぶらひましゝに、天下のことを太子のまをしつけ給へりけるとぞ。みづのとうしの年即位。大倭のたけちのこほりをかもとの宮にまします。此即位の年はもろこしの唐の太宗のはじめ、ぢやうぐわん三年にあたれり。天下を治給こと十三年。四十九歳おましき。

○第三十六代、くわうぎよく天皇はちぬの王の女、をしさかおほえの皇子の孫、敏達のそうそん也。御母きびひめの女王と申き。舒明天皇々后とし給。てんぢてんむの御母也。舒明かくれまして皇子をさなくおはしましゝかば、みづのえとらの年即位。やまとのあすかのかはらの宮にまします。此時にそがのえみしおほおみうまこの大臣の子〉ならびにその子いるかてうけんもはらにしてくわうかをないがしろにする心あり。其家をみかどいひ、諸子を王子となむ云ける。しやうこよりのこくきちようほうみなわたくしのいへにはこびおきてけり。中にも入鹿はいげきの心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくまししをほろぼし奉る。こゝに皇子なかおほえまをすじよめいの御子、やがて此天皇ごしよしやう也。なかとみのかまたりむらじと云人と心をひとつにしているかをころしつ。父えみしも家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみなやけにけり。蘇我の一門ひさしく権をとれりしかども、しやくあくのゆゑにやみなほろびぬ。やまだのいしかはまろと云人ぞ皇子と心をかよはし申ければめつせざりける。此かまたりの大臣はあめのこやねの命二十一世[の]そん也。昔あめみまあまくだり給し時、諸神のじやうしゆにて、此みこと、殊に天照太神のみことのりをうけてふさの神にまします。なかとみと云ことも、ふたはしらの神の御中にて、神の御心をやはらげて申給けるゆゑ也とぞ。其まごあめのたねこの命、神武の御代にまつりことをつかさどる。しやうこかみきみひとつにまししかば、まつりをつかさどるはすなはちまつりことをとれる也〈政の字のくんにても知べし〉。其のち天照太神、始て伊勢国にしづまりましゝ時、たねこの命のすゑおほかしまの命さいくわんになりて、かまたりの大臣の父せうとくくわんみけこまでもその官にてつかへたり。鎌足にいたりてたいくんをたて、世に寵せられしによりて、そげふをおこし先烈をさかやかされける、やんごとなきこと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえはんべれ。後にうちつおみに任じ大臣に転じ、たいしよくくわんとなる〈正一位の名なり〉。又中臣をあらためてふぢはらしやうたまはらる〈内臣に任ぜらるゝ事は此御代にはあらず。事のついでにしるす〉。此天皇天下を治給こと三年ありて、同母の御弟かるわうゆづり給。御名をすめみおやの尊とぞ申ける。

○第三十七代、かうとく天皇はくわうぎよく同母の弟也。きのとみの年即位。摂つのくにながらのとよさきの宮にまします。此御時はじめてだいじんさいうにわかたる。おほおみは成務の御時たけうちすくねはじめてこれに任ず。ちゆうあいの御代に又おほむらじの官をゝかる。おほおみおほむらじならびてまつりことをしれり。此御時大連をやめて左右の大臣とす。又はちしやうひやくくわんをさだめらる。中臣の鎌足を内臣になし給。天下を治給こと十年。五十歳おましき。

○第三十八代、さいめい天皇はくわうぎよくちようそ也。重祚と云ことは本朝にはこれにはじまれり。異朝にはいんのたいかふ不明なりしかば、いいんこれとうきゆうにしりぞけて三年まつりことをとれりき。されど帝位をすつるまではなきにや。大甲あやまちをくいて徳ををさめしかば、もとのごとく天子とす。しんのよくわんげんと云し者、あんていの位をうばひて、八十日ありて、ぎへいの為にころされしかば、安帝位にかへり給。たうの世となりて、そくてん皇后世をみだられし時、わがしよしやうの子なりしかども、中宗をすてゝろりやう王とす。おなじ御子よわうをたてられしも又すてゝみづから位にゐ給。後にちゆうそうくらゐにかへりて唐のたえず。予王も又重祚あり。是をえいそうふ。これぞまさしき重祚なれど、二代にはたてず。中宗・睿宗とぞつらねたる。我朝にくわうぎよくの重祚をさいめいと号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり。あまつひつぎをおもくするゆゑ。先賢の議さだめてよしあるにや。きのとうの年即位。このたびは大和のをかもとにまします。のちの岡本の宮とまをす。此御世はもろこしのたうのかうそうの時にあたれり。かうらいをせめしによりてすくひのつはものまをしうけしかば、天皇・皇太子つくしまでむかはせたまふ。されど三韓つひに唐に属しゝかば、いくさをかへされぬ。其後も三韓よしみをわするゝまではなかりけり。皇太子とまをすなかおほえの皇子の御事也。孝徳の御代より太子にたちたまひ、此御時は摂政したまふとみえたり。天皇天下を治給こと七年。六十八歳おましき。

○御三十九代、第二十五世、てんぢ天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。みづのえいぬの年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年はつきうちつおみ鎌足をないだいじんたいしよくくわんとす。又ふぢはらのあそんしやうたまふ。昔の大勲をしやうしたまひければ、てうしやうならびなし。せんこうふうたまふこと一万五千なり。やまひのあひだにもみゆきしてとぶらひ給けるとぞ。此天皇中興のにましますくわうにんの御おやなり〉こくきは時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治給こと十年。五十八歳おましき。

○第四十代、てんむ天皇は天智同母の弟也。皇太子にたちやまとにましき。天智は近江にまします。御やまひありしに、太子をよび申給けるを近江の朝廷のしんなかにつげしらせまをすひとありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子だいじやうだいじんおほともの皇子にゆづりて、よしのの宮にいり給。天智かくれ給て後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、いくさをめして芳野をゝそはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、いひたかこほりにいたりて太神宮をえうはいし、みのへかゝりて東国の軍をめす。皇子たけちまゐり給しを大将軍として、美濃のふはをまぼらめし、天皇はをはりの国にぞこえ給ける。国々したがひ申しゝかば、不破の関のいくさうち勝ぬ。すなはちせたにのぞみてかつせんあり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣いげあるひちゆうにふし、或はをんるせらる。軍にしたがひまをすともがらしなによりて其賞をおこなはる。みづのえさるの年即位。大倭のあすかのきよみはらの宮にまします。朝廷のはふとおほくさだめられにけり。かみしもうるしぬりのかぶりをきることも此御時よりはじまる。天下を治給こと十五年。七十三歳おましき。

○第四十一代、ぢとう天皇は天智の御むすめ也。御母をちのいらつめ、蘇我のやまだの石川丸の大臣の女也。天武天皇、太子にまししより妃とし給。後に皇后とす。皇子くさかべわかくまししかば、皇后てうにのぞみ給。つちのえねの年也。かのえとらの春むつきついたち即位。やまとの藤原の宮にまします。くさかべの皇子は太子にたち給しが、世をはやくし給。よりて其御子かるわうを皇太子とす。もんむにまします。さきの太子は後につゐがうありてながをかの天皇とまをす。此天皇天下を治給こと十年。位を太子にゆづりてたいしやう天皇とまをしき。太上天皇と云ことは、異朝に、かんの高祖の父をたいこういひ、尊号ありてたいしやうくわうと号す。其のちこうぎけん祖・たうの高祖・げんそうえい宗等也。本朝には昔は其ためしなし。皇極天皇位をのがれ給しも、すめみおやみことと申き。此天皇よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おましき。

○第四十二代、もんむ天皇はくさかべの太子第二の子、天武のちやくそん也。御母あへの皇女、てんぢのむすめ〈後に元明天皇と申〉ひのととりの年即位。なほ藤原の宮にまします。此御時たうこくの礼をうつして、宮室のつくり、ぶんぶくわんの衣服のいろまでもさだめられき。又即位五年かのとうしよりはじめて年号あり。たいはうふ。これよりさきに、かうとくの御代にたいくわはくち、天智の御時はくほう、天武の御代にしゆじやくしゆてうなんどふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号のはじめとする也。又皇子をしんわうと云こと此御時にはじまる。又藤原のないだいじん鎌足の子、ふひとの大臣、しつせいしんにてりつりやうなんどをもえらびさだめられき。藤原のうぢ、此大臣よりいよさかりになれり。四人の子おはしき。是をしもんふ。いちもんむちまろの大臣のながれなんけふ。にもんさんぎちゆうゑの大将ふささきの流、ほくけふ。いまの執政大臣およびさるべき藤原の人々みなこの末なるべし。さんもんしきぶきやううまかひながれしきけふ。しもんさきやうのだいぶまろの流、きやうけといひしがはやくたえにけり。なんけ・式家もじゆいんにていまに相続すといへども、たゞ北家のみはんじやうす。房前の大将ひとにことなるいんとくこそおはしけめ。〔裏書[に]ふ。正一位左大臣武智丸。天平九年七月薨。天平宝字四年八月贈太政大臣。参議正三位中衛大将房前。天平九年四月薨。十月贈左大臣正一位。宝字四年八月贈太政大臣。天平宝字四年八月大師藤原恵美押勝奏。廻所帯大師之任、欲譲南北両大臣者。勅処分、依請南卿藤原武智丸贈太政大臣、北卿〈贈左大臣房前〉転贈太政大臣云々。〕又不比等の大臣は後にたんかいこうと申也。こうぶくじこんりふす。此寺はたいしよくくわんの建立にてやましろやましなにありしを、このおとゞへいせいにうつさる。よりて山階寺とも申也。後にげんばうそうたうへわたりてほつさうしゆうつたへて、此寺にひろめられしより、うぢのかみかすがみやうじんも殊に此宗をおうごし給とぞかすがのかみあめのこやねの神をもととす。ほんしやかはちひらをかにます。春日にうつり給ことはじんごけいうんねんちゆうのこと也。しからば、此大臣以後のこと也。又春日第一のごてんひたちのかしまの神、第二はしもふさかとりの神、三は平岡、四はひめおんかみと申。しかればとうじうぢのかみさんの御殿にまします〉。此天皇天下を治給こと十一年。二十五歳おましき。

○第四十三代、げんめい天皇は天智第四の女、持統いぼの妹。御母そがのひめ。これも山田石川丸の大臣の女也。草壁の太子の妃、文武の御母にまします。ひのとひつじの年即位。つちのえさるに改元。三年かのえいぬ始てやまとへいせいのみやみやこをさだめらる。いにしへにはごとに都をあらため、すなはちそのみかどのみなによび奉りき。持統天皇藤原宮にましゝを文武はじめて改めたまはず。此元明天皇平城にうつりまししより、又七代の都になれりき。天下を治給こと七年。ぜんゐありて太上天皇とまをししが、六十一歳おましき。

○第四十四代、げんしやう天皇は草壁の太子の御女。御母は元明天皇。文武同母の姉也。きのとうのむつきに摂政、ながつきじゆぜんそくじつ即位、しもつきに改元。平城宮にまします。此御時百官にしやくをもたしむ〈五位以上げしやく、六位はもくしやく。天下を治給こと九年。禅位の後二十年。六十五歳おましき。

○第四十五代、しやうむ天皇は文武の太子。御母くわうたいぶにん藤原のみやこたんかいこうふひとの大臣の女也。とよさくらひこの尊とまをす。をさなくましゝによりて、元明・元正まづ位にゐ給き。きのえねの年即位、改元。平城宮にまします。此御代おほきに仏法をあがめ給ことせんだいにこえたり。東大寺を建立し、こんどう十六ぢやうほとけをつくらる。又諸国にこくぶんじおよびこくぶんにじて、こくどあんをんのためにほつけさいしようりやうぶきやうを講ぜらる。又おほくの高僧他国よりらいてうす。なんてんぢくばらもんそうじやうぼだいふ〉りんをうぶつてち、唐のがんじんわじやうこれ也。しんごんそしちゆう天竺のぜんむいさんざうきたりたまへりしが、みつきいまだ熟せずとてかへりたまひにけりともいへり。此国にもぎやうぎ菩薩・らうべんそうじやうなどごんげの人也。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をばししやうとぞ申つたへたる。此御時だざいのせうに藤原ひろつぐと云人しきぶきやううまかひの子なり〉むほんのきこえあり、追討せらるげんばう僧正のざんによれりともいへり。よりてりやうとなる。今のまつらの明神也云々〉きたうのために天平十二年かんなづき伊勢の神宮に行幸ありき。又さだいじんながやのわう〈太政大臣たけちのわうの子、天武の御孫なり〉つみありてちゆうせらる。又みちのおくの国より始てわうごんをたてまつる。此朝にこがねある始なり。国のつかさわう、賞ありて三位にじよす。仏法はんじやうかんおうなりとぞ。天下を治給こと二十五年。天位を御女たかの姫の皇女にゆづりて太上天皇と申す。後に出家せさせ給。天皇出家のはじめ也。昔天武、東宮の位をのがれて御ぐしおろし給へりしかど、それはしばらくの事なりき。皇后くわうみやうしもおなじく出家せさせ給。此天皇五十六歳おましき。

○第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等の大臣の女也。聖武の皇子あさかの親王世をはやくして後、男子ましまさず。よりてこの皇女たち給き。つちのとうしの年即位、改元。平城宮にまします。天下を治給こと十年。おほひの王を養子として皇太子とす。位をゆづりて太上天皇と申す。出家せさせ給て、平城宮のにしのみやになむましける。

○第四十七代、あはぢのはいたいいちほんとねりの親王の子、天武の御孫也。御母かづさのすけたぎまをきなが女也。舎人親王は皇子の中に御身のさいもましけるにや、ちだいじやうくわんじと云職をさづけられ、朝務をたすけ給けり。日本紀もこの親王みことのりをうけ玉は[つ]てえらび給。後に追号ありてじんけい天皇とまをす。孝謙天皇御子ましまさず、又御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にしてゆづり給。たゞし、年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや。つちのえいぬの年即位。天下を治給こと六年。事ありてあはぢの国にうつされ給き。三十三歳おましき。

○第四十八代、しようとく天皇は孝謙のちようそ也。かのえいぬのむつきついたち更に即位、おなじき七日改元。太上天皇ひそかに藤原むちまろの大臣の第二の子をしかつかうたまひき。たいし〈其時太政大臣をあらためて大師と云〉正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字をそへて藤原えみしやうたまひき。天下のまつりことしかしながらゐにんせられにけり。後にだうきやうと云ほふしゆげうぢびと也〉ちようかうありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申て、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。みかども淡路にうつされ給。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常のきはみなりけんかし。たうそくてん皇后は太宗のぢよぎよにて、さいじんふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、あまなりて、かんげふと云寺におはしける、高宗み給てちやうはつせしめて皇后とす。いさめまをすひとおほかりしかどももちゐられず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、えい宗をたてられしを、又しりぞけて、みづから帝位につき、国をたいしうとあらたむ。唐の名をうしなはんとおもひ給けるにや。中宗・睿宗もわがうみ給しかども、すてゝ諸王とし、みづからのやからぶしのともがらをもちて、国をつたへしめむとさへし給き。其時にぞ法師もくわんじやもあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。この道鏡はじめは大臣にじゆんじてにほんの准大臣のはじめにや〉だいじんぜんじいひしを太政大臣になし給。それによりてつぎなふごんさんぎにも法師をまじへなされにき。道鏡世を心のまゝにしければ、あらそふ人のなかりしにや。大臣きびまきびの公、さちゆうべん藤原のももかはなどありき。されど、ちからおよばざりけるにこそ。法師の官に任ずることは、もろこしよりはじめて、僧正・そうとうなど云事のありし、それすら出家のほんいにはあらざるべし。いはんや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。されど、もろこしにも南朝の宋の世にゑりんと云し人、まつりことにまじらひしをこくいさいしやうといひきただしこれは官ににんずとはみえず〉りやうの世にゑてうと云し僧、がくしの官になりき。北朝[の]魏のめいげんていの代にほふくわと云僧、あんじやう公のしやくをたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。しゆくそうてうだうへいと云人、みかどこころひとつにしてあんろくさんらんをたひらげし故に、きんご将軍になされにけり。だい宗の時、天竺のふくうさんぞうをたふとびたまふあまりにや、とうしんこうろけいをさづけらる。後にかいふぎどうさんししゆくこくこうとす。きじやくありしかばしこうの官をおくらる〈司空は大臣の官なり〉そくてんの朝よりこのによたいみよまで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おましき。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、くわういんましまさず。此によたいにてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をばしもつけかうじになしてながしくだされにき。そもそも此道鏡は法王の位をさづけられたりし、なほあかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。女帝さすがおもひわづらひ給けるにや、わけのきよまろふ人をちよくしにさして、うさの八幡宮にまをされける。大菩薩さまたくせんありて更にゆるされず。清丸きさんしてありのまゝにそうもんす。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、とさの国にながしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこちまをしければ、こへびいできてそのきずをいやしけり。くわうにん位につき給しかば、すなはちめしかへさる。神威をたうとび申て、かはちの国に寺をて、じんぐわんじふ。後にたかをの山にうつしたつ。今のじんごじこれなり。くだりのころまではじんゐもかくいちじるきことなりき。かくて道鏡つひにのぞみをとげず。女帝も又程なくかくれ給。宗廟しやしよくをやすくすること、やはたみやうりよたりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原ももかはのあそんこうなりとぞ。

○第四十九代、第二十七世、くわうにん天皇はしきの皇子の子、天智天皇の御孫也〈皇子は第三の御子なり。追号ありてたはらの天皇とまをす。御母贈皇太后きのもろこ、贈太政大臣もろひとの女也。しらかべの王と申き。てんぴやう年中に御年二十九にて従四位に叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言にいたりたまひき。しようとくかくれましましゝかば、大臣いげくわういんうちをえらび申けるに、おの異議ありしかど、参議百川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。天武世をしり給しよりあらそひまをす人なかりき。しかれど天智御兄にてまづひつぎをうけ給。そのかみぎやくしんを誅し、国家をもやすくし給へり。この君のかく継体にそなはりたまふ、猶ただしきにかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子にたち、すなはちじゆぜん〈御年六十二〉。ことしかのえいぬの年なり。かんなづきに即位、しもつき改元。へいせいのみやにまします。天下を治給こと十二年。七十三歳おましき。

○第五十代、第二十八世、くわんむ天皇はくわうにん第一の子。御母皇太后たかのにゐかさ、贈太政大臣おとつぐの女也。光仁即位のはじめゐのへないしんわうしやうむの御女〉をもて皇后とす。かのしよしやうの皇子さはらの親王、太子にたち給き。しかるを百川朝臣、此天皇にうけつがしめたてまつらんと心ざして、又はかりことをめぐらし、皇后および太子をすてゝ、つひに皇太子にすゑたてまつりき。その時しばらくふきよなりければ、四十日まででんの前にたちて申けりとぞ。たぐひなき忠烈の臣也けるにや。皇后・さきの太子せめられてうせ給にき。をんりやうをやすめられんためにや、太子はのちにつゐがうありてすだう天皇とまをすかのととりの年即位、みづのえいぬに改元。はじめは平城にまします。やましろの長岡にうつり、十年ばかり都なりしが、又今のへいあんじやうにうつさる。やましろの国をもあらためてやましろふ。えいたいにかはるまじくなんはからはせ給ける。昔聖徳太子はちをかにのぼり給てうづまさこれなり〉いまのじやうをみめぐらして、「しじんさうおう也。百七十余年ありてみやこをうつされて、かはるまじき所なり。」との給けりとぞまをしつたへたる。そのねんきもたがはず、又数十代ふえきみやことなりぬる、まことわうき相応のふくちたるにや。この天皇おほきに仏法をあがめ給。えんりやく二十三年でんげうこうぼふみことのりをうけて唐へわたりたまふ。其時すなはち唐朝へつかひをつかはさる。大使は参議さだいべんけんゑちぜんのかみ藤原かどのまろのあそん也。伝教は天台のだうすいくわしやうにあひ、その宗をきはめておなじき二十四年に大使と共にきてうせらる。弘法は猶かの国にとゞまりてだいどう年中にかへりたまふ。この御時とういほんらんしければ、さかのうへたむらまろを征東大将軍になしてつかはされしに、ことくたひらげてかへりまうでけり。この田村丸はぶよう人にすぐれたりき。はじめこんゑしやうげんになり、少将にうつり、中将に転じ、こうにんの御時にや、大将にあがり、大納言をかけたり。ぶんをもかねたればにや、納言の官にものぼりにける。子孫はいまにぶんしにてぞつたはれる。天皇天下を治給こと二十四年。七十歳おましき。


巻四

○第五十一代、へいせい天皇はくわんむ第一の子。御母皇太后藤原のをとむろ、贈太政大臣よしつぐの女也。ひのえいぬの年即位、改元。へいあんのみやにまします〈これよりせんとなきによりてございしよをしるすべからず〉。天下を治給こと四年。太弟にゆづりて太上天皇とまをす。平城の旧都にかへりてすませ給けり。ないしのかみ藤原のくすりこちようしましけるに、其弟参議うひやうゑのかみなかなりまをしすゝめてげきらんの事ありき。たむらまろたいしやうぐんとして追討せられしに、へいせいいくさやぶれて、上皇出家せさせ給。みことうぐうたかをかの親王もすてられて、おなじく出家、こうぼふだいしでしになり、しんによ親王とまをすはこれなり。薬子・仲成等ちゆうにふしぬ。しやうくわう五十一歳までおましき。

○第五十二代、第二十九世、さが天皇はくわんむ第二の子、へいせい同母の弟也。たいていたち給へりしが、つちのとうしの年即位、かのえとらに改元。此天皇幼年よりそうめいにしてとくしよこのみ、諸芸をならひたまふ。又けんじやうたいどもましましけり。桓武帝しようあいぶさうの御子になんおはしける。ちよくんにゐ給けるも父のみかど継体のためにこめいしましけるにこそ。きやくしきなども此御時よりえらびはじめられにき。又ふかく仏法をあがめ給。さきのよみののかむのと云所にたふとき僧ありけり。きつたいこうの先世にねむごろにきふじしけるを感じて相共にさいたんありとぞ。御いみなを神野と申けるもじねんにかなへり。伝教〈御名さいちよう弘法〈御名くうかい両大師たうよりつたへ給し天台・真言の両宗も、この御時よりひろまり侍ける。此両師ただなるひとにおはせず。伝教入唐以前よりひえいざんをひらきてれんぎやうせられけり。今のこんぼんちゆうだうの地をひかれけるに、やつしたあるかぎをもとめいでゝ唐までもたれたり。てんだいさんにのぼりてちしや大師〈天台の宗おこりて四代の祖なり。天台大師とも云〉六代の正統だうすいくわしやうえつして、その宗をならはれしに、かの山に智者きじやくよりこのかたかぎをうしなひてひらかざるひとつのくらありき。心みにかぎにてあけらるゝにとゞこほらず。いつさんこぞりてかつがうしけり。よりていつしゆうあうぎのこる所なく伝られたりとぞ。其後慈覚・智証両大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、彼もんふういよさかりになりて天下にるふせり。唐国みだれしよりきやうけうおほくうせぬ。だうすゐより四代にあたれるぎじやくと云人まで、たゞくわんじんつたへて宗義をあきらむることたえにけるにや。ごゑつこくちゆういわうせいせん、名はりう、唐の末つかたより東南の呉越を領してへんばしゆたり〉此宗のおとろへぬることをなげきて、使者十人をさして、我朝におくり、けうてんをもとめしむ。ことくうつしをはりてかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしにはごだいうちこうたうの末ざまなりければ、我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。にほんよりかへしわたしたる宗なれば、此国の天台宗はかへりてほんとなるなり。およそ伝教彼宗の秘密をつたへられたることもたうのたいしうししりくじゆんいんきもんにあり〉ことく一宗のろんしよをうつし、国にかへれることもしやくしばんぶつそとうきにのせたり〉異朝の書にみえたり。弘法は母くわいたいはじめ、夢に天竺の僧きたりてやどをかりたまひけりとぞ。はうき五年きのえとらみなづき十五日たんじやう。この日唐のたいれき九年ろくぐわつ十五日にあたれり。ふくうさんざうにふめつす。よりてかのこうしんまをす也。かつはけいくわわしやうつげにも「我と汝とひさしきけいやくあり。ちかひみつざうひろめん。」とあるもそのゆゑにや。渡唐の時も或はごひつの芸をほどこし、さましんいありしかば、唐のしゆじゆんそう皇帝ことにあふぎしんたまひき。かのけいくわ〈真言第六の祖、不空の弟子〉わしやう六人のふほふあり。けん南のゆいしやう・河北のぎゑん〈金剛一界をつたふしらぎゑにちかりようべんこうたいざう一界をつたふせいりようぎめい・日本の空海〈両部をつたふ。義明は唐朝におきてくわんぢやうの師たるべかりしが世をはやくす。弘法は六人の中にしやびやうたり〈恵果の俗弟子ごいんさんことばにあり〉。しかれば、真言の宗には正統なりといふべきにや。これ又異朝の書にみえたる也。伝教も、不空の弟子じゆんげうにあひて真言をつたへられしかど、在唐いくばくなかりしかば、ふかく学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にもとぶらはれけり。又いまこの流たえにけり。慈覚・智証は恵果の弟子義さう・法じゆんときこえしが弟子はつせんにあひてつたへらる。およそ本朝るふしゆう、今はしちしゆう也。此中にも真言・天台の二宗は祖師のいげうもはらちんごこくかのためと心ざゝれけるにや。比叡山には〈比叡と云こと桓武・伝教心をひとつにして興隆せられしゆゑなづくと彼山のともがらしようする也。しかれどくじほんぎに比叡の神の御ことみえたり〉顕密ならびてせうりうす。殊に天子ほんみやうの道場をたてゝごぐわんを祈る地なり〈これはみつにつくべし〉。又こんぼん中堂をしくわんゐんふ。ほつけきやうもんにつき、天台の宗義により、かた鎮護のじんぎありとぞ。とうじは桓武せんとの初、皇城のしづめのためにこれをたてらる。こうにんの御時、弘法にたまひてながく真言の寺とす。諸宗のざうぢゆうをゆるさゞる地也。此宗をじんづうじようふ。によらいくわしやうの法門にして諸教にこえたるごくひみつとおもへり。なかんづく我国は神代よりのえんぎ、此宗のしよせつふがふせり。このゆゑにや唐朝に流布せしはしばらくのことにて、すなはち日本にとゞまりぬ。又相応の宗なりと云もことわりにや。大唐のないだうぢやうじゆんじて宮中に真言院をたつ〈もとはかげゆしちやうなり〉。大師そうもんして毎年むつきこの所にてみしほあり。国土あんをんの祈祷、かしよくぶねうの秘法也。又十八日のくわんおんくつごもりみねんじゆ等も宗によりてじんいあるべし。三流の真言いづれと云べきならねど、真言をもて諸宗の第一とすることもむねと東寺によれり。えんぎぎようかうしよいんやくを東寺のいちのあじやりにあづけらる。よりて法務のことをちぎやうして諸宗の一座たり。山門・寺門は天台をむねとするゆゑにや、顕密をかねたれど宗の長をもてんだいざすと云めり。此天皇諸宗をならべこうぜさせたまひけり。中にも伝教・弘法ごきえふかゝりき。伝教始てゑんとんかいだんをたつべきよし奏せられしを、なんきやうの諸宗へうたてまつりてあらそひまをししかど、つひに戒壇の建立をゆるされ、本朝四け所の戒場となる。弘法はことさらししの御やくありければ、おもくし給けるとぞ。此両宗の外、けごんさんろんは東大寺にこれをひろめらる。彼華厳は唐のとじゆんくわしやうよりさかりになれりしを、日本のらうべん僧正つたへて東大寺にこうりゆうす。此寺はすなはちしゆうによりてこんりふせられけるにや、大華厳寺と云名あり。三論はとうしんの同時にこうしんと云国に、らじふさんざうと云師きたりて、此宗をひらきて世につたへたり。孝徳の御世にかうらいの僧ゑくわん来朝してつたへ始ける。しからばさいぜん流布のをしへにや。其後だうじ律師しやうらいしてだいあんじにひろめき。今は華厳とならびて東大寺にあり。ほつさうこうふくじにあり。たうのげんじやう三蔵天竺よりつたへて国にひろめらる。日本のぢやうゑわじやうたいしよくくわんの子なり〉彼国にわたり玄弉の弟子たりしかど、帰朝ののち世をはやくす。今の法相はげんばう僧正と云人にふたうして州のちしう大師〈玄弉二世の弟子〉にあひてこれをつたへて流布しけるとぞ。かすがの神もことさら此宗をおうごし給なるべし。此三宗に天台をくはへてしけだいじようふ。ぐしやじやうじつなむど云はせうじよう也。道慈律師おなじく伝て流布せられけれども、えがくの宗にて、別に一宗をたつることなし。我国大乗じゆんじゆくの地なればにや、小乗をならふひとなき也。又律宗は大小に通ずる也。がんじんわじやう来朝してひろめられしより東大寺およびしもつけやくし寺・つくしの観音寺に戒壇をたてゝ、此戒をうけぬものは僧せきにつらならぬ事になりにき。中古よりこのかた、其名ばかりにてかいたいをまぼることたえにけるを、なんとしゑん上人等しやうしよを見あきらめてかいしとなる。ほくきやうにはがぜんしやうにんにふそうしてかのどりつほふをうけ伝てこれをひろむ。南北の律さいこうして彼宗にいるともがらは威儀をすることふるきがごとし。禅宗はぶつしんしゆうともふ。仏のけうげべつでんの宗なりとぞ。りやうに天竺のだるま大師きたりてひろめられしに、武帝にかなはず。かうわたりて北朝にいたる。すうざんと云所にとゞまり、めんぺきして年をおくられける。後にゑかこれをつぐ。恵可よりしも、四世にくにんぜんじときこえし、しほふ南北にあひわかる。ほくしゆうながれをば伝教・慈覚伝て帰朝せられき。あんねんくわしやうじかくのそんていけうじさうろんと云書に教理のせんじんはんずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、うけつたふるひとなくてたえにき。近代となりてなんしゆうのながれおほくつたはる。異朝には南宗のしもに五あり。そのうちりんざい宗のしもより又二流となる。これをごけしちしゆうふ。本朝にはやうせい僧正、わうりようながれをくみて伝来の後、しやういち上人、せきさうしもつかたくきうのながれぶしゆんにうく。彼宗のひろまることは此両師よりのこと也。うちつゞき異朝の僧もあまた来朝し、此国よりもわたりてつたへしかば、しよけの禅おほく流布せり。五家七宗とはいへども、以前のけんみつごんじつ等の不同には相にるべからず。いづれもぢきしにんしんけんしやうじやうぶつもんをばいでざる也。弘仁の御宇より真言・天台のさかりになることをいささかしるしはべるにつきて、大方の宗々伝来のおもむきをのせたり。きはめてあやまりおほくはべらん。ただし君としてはいづれの宗をもたいがいしろしめしてすてられざらんことぞ国家じやうさいの御はかりことなるべき。ぼさつだいしもつかさどる宗あり。我朝のしんめいもとりわき擁護し給ふをしへあり。一宗にこころざしある人余宗をそしりいやしむ、おほきなるあやまり也。人のきこんもしななれば教法もむじんなり。いはんやわが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、きはめたるざいごふにや。われは此宗にすれども、人は又彼宗に心ざす。共にずゐぶんやくあるべし。是皆こんじやういちせちぐにあらず。国のあるじともなり、ふせいの人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずしてとくやくのひろからんことをおもひたまふべき也。かつは仏教にかぎらず、じゆだうの二教ないしもろの道、いやしき芸までもおこしもちゐるをせいだいと云べき也。およそなんぷかしよくをつとめておのれも食し、人にもあたへて、うゑざらしめ、女子ははうせきをことゝしてみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。いやしきに似たれどもじんりんたいほん也。天の時にしたがひ、地の利によれり。このほかしやうこの利を通ずるもあり、くげうのわざをこのむもあり、仕官に心ざすもあり、是を四民とふ。仕官するにとりて文武のふたつの道あり。ざしもつて道を論ずるは文士の道也。此道にあきらかならばしやうとするにたへたり。ゆきて功をたつるぶじんのわざなり。此わざにほまれあらばしやうとするにたれり。さればぶんぶふたつはしばらくもすて給べからず。「世みだれたる時は武を右にし文を左にす。国をさまれる時は文を右にし武を左にす。」といへり〈古に右をかみにす。よりてしかいふ也〉。かくのごとくさまなる道をもちゐて、民のうれへをやすめ、おのあらそひなからしめん事をもととすべし。民のふれんをあつくしてみづからの心をほしきまゝにすることは乱世乱国のもとゐ也。我国はわうしゆのかはることはなけれども、まつりことみだれぬれば、れきすうひさしからず。継体もたがふためし、所々にしるし侍りぬ。いはんや、人臣として其職をまぼるべきにおきてをや。そもそも民をみちびくにつきて諸道・諸芸みなえうすう也。古には詩・書・礼・がくをもて国ををさむしじゆつとす。本朝は四術の学をたてらるゝことたしかならざれど、きでんみやうぎやうみやうばふの三道に詩・書・れいせつすべきにこそ。さんだうくはへて四道とふ。よよにもちゐられ、其職をおかるゝことなればくはしくするにあたはず。医・おんやうの両道又これ国のしえう也。きんせきしちくがくは四学の一にて、もはらまつりことをするもと也。今は芸能の如くに思へる、無念のこと也。「ふううつし俗をかふるには楽よりよきはなし。」といへり。一音より五せい・十二律に転じて、治乱をわきまへ、こうすいしるべき道とこそみえたれ。又しふかえいふうもいまの人のこのむ所、詩学のもとにはことなり。しかれど一心よりおこりて、よろづのことのとなり、末の世なれど人を感ぜしむる道也。これをよくせばへきをやめ邪をふせぐをしへなるべし。かゝればいづれか心のみなもとをあきらめ、しやうにかへるじゆつなからむ。りんへんをけづりてせいのくわんこうををしへ、きゆうこうが弓をつくりて唐の太宗をさとらしむるたぐひもあり。ないしゐごたんきたはぶれまでもおろかなる心ををさめ、かろしきわざをとゞめんがためなり。たゞし其みなもとにもとづかずとも、一芸はまなぶべきことにや。こうしも「あくまでにくうひねもすに心をもちゐる所なからんよりはばくえきをだにせよ。」とはべるめり。まして一道をうけ、一芸にもたづさはらん人、もとをあきらめ、ことわりをさとるこころざしあらば、これよりりせいの要ともなり、しゆつりのはかりことゝもなりなむ。一気一心にもとづけ、五大五行によりさうこくさうしやうをしりみづからもさとり他にもさとらしめん事、よろづの道其ことわりひとつなるべし。此御門誠に顕密の両宗にきし給しのみならず、儒学もあきらかに、文章もたくみに、書芸もすぐれ給へりし、きゆうじやうひがしおもてがくも御みづからかゝしめ給き。天下を治給こと十四年。皇太弟にゆづりて太上天皇と申。帝都の西、さがやまと云所に離宮をしめてぞましける。一たん国をゆづり給しのみならず、ゆくすゑまでもさづけましまさんの御心ざしにや、新帝の御子、つねよの親王を太子にたて給しを、親王又かたく辞退して世をそむき給けるこそありがたけれ。上皇ふかくけんじやうしましけるに、親王又かくのがれ給ける、まつだいまでのびだんにや。昔仁徳兄弟相ゆづり給し後にはきかざりしこと也。五十七歳おましき。

○第五十三代、じゆんな天皇、さいゐんみかどとも申。桓武第三の子。御母贈皇太后藤原のもろこ、贈太政大臣ももかはの女也。みづのとうの年即位、きのえたつに改元。天下を治給こと十年。太子にゆづりて太上天皇と申。此時両上皇ましければ、嵯峨をばさきの太上天皇、此御門をばのちの太上天皇と申き。さがの御門の御おきてにや、東宮には又此帝の御子つねさだ親王たち給しが、両上皇かくれましゝ後にゆゑありてすてられ給き。五十七歳おましき。

○第五十四代、第三十世、にんみやう天皇。いみなまさら〈これよりさき御諱たしかならず。おほくはめのとしやうなどを諱にもちゐられき。これより二字たゞしくましませばのせたてまつる〉ふかくさみかどとも申。嵯峨第二の子。御母皇太后たちばなかちこ、贈太政大臣きよとものむすめ也。みづのとうしの年即位、きのえとらに改元。此天皇は西院の御門のいうしましければ、てうきんりやうくわうにせさせ給。或時は両皇同所にしてきんれいもありけりとぞ。我国のさかりなりしことはこの比ほひにやありけん。けんたうしもつねにあり。帰朝の後、けんれいもんの前に、かのくにのたから物のいちをたてゝ、群臣にたまはすることも有き。りつりやうは文武の御代よりさだめられしかど、此御代にぞえらびとゝのへられにける。天下を治給こと十七年。四十一歳おましき。

○第五十五代、もんとく天皇。諱はみちやすたむらの帝とも申。仁明第一の子。御母太皇太后藤原[の]じゆんし〈五条のきさきと申〉、左大臣ふゆつぐの女也。かのえうまの年即位、かのとひつじに改元。天下を治給こと八年。三十三歳おましき。

○第五十六代、せいわ天皇。諱はこれひとみづのをの帝とも申。文徳第四の子。御母皇太后藤原のあきらけいこそめどのの后と申〉、摂政太政大臣良房の女也。我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位、つちのえとらの年也。つちのとうに改元。せんそありしかば、ぐわいそ良房の大臣はじめてせつしやうせらる。摂政と云こと、もろこしにはたうげうの時、ぐしゆんあげもちゐまつりことをまかせ給き。これを摂政とふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。いんの代にいいんと云せいしんあり。たうおよびたいかうふさす。是はほうかうと云あかうともふ〉。其こころは摂政也。周の世にしうこうたんたいせいなりき。文王の子、武王の弟、成王のしゆくふなり。武王のには三公につらなり、成王わかくて位につき給しかば、周公みづからなんめんして摂政す〈成王をおひて南面せられけりともみえたり〉かんの昭帝又幼にて即位。武帝のゆゐぜうによりはくりくくわくくわうと云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先せうにもまをすめる。本朝には応神うまれ給てきやうほうにまししかば、神功皇后天位にゐ給。しかれど摂政とまをしつたへたり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時うまやどの皇太子摂政し給。これぞ帝は位にそなはりて天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。齊明天皇の御世に、御子なかおほえの皇太子摂政し給。げんめいの御世のすゑつかた、皇女きよたらしひめの尊〈元正天皇の御ことなり〉しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。ただし此藤原の一門神代よりゆゑありて国王をたすけ奉ることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議ちゆうゑの大将ふささき、其子大納言またて、その子右大臣内麿、この三代はかみ二代のごとくさかえずやありけむ。内麿の子ふゆつぐの大臣かんゐんの左大臣とふ。後に贈太政大臣〉藤氏のおとろへぬることをなげきて、弘法大師にまをしあはせて興福寺になんゑん堂をたてゝいのりまをされけり。此時明神やくぶにまじはりて、

 ふだらくの南の岸に堂たてゝ今ぞさかえん北のふじなみ

えいじ給けるとぞ。此時源氏の人あまたうせにけりと申人あれど、大なるひがこと也。皇子皇孫のみなもとしやうたまはりて高官高位にいたることは此後のことなれば、たれひとかうせ侍べき。されど彼一門のさかえしこと、まことにきせいにこたへたりとはみえたり。大方この大臣とほきおもひはかりおはしけるにこそ。子孫親族の学問をすゝめんために勧学院を建立す。大学寮に東西のさうじあり。くわんがうの二家これをつかさどりて、人ををしふる所也。彼大学の南にこの院をたてられしかば、南曹とぞ申める。うぢのちやうじやたる人むねとこの院を管領して興福寺および氏のやしろのことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されどけんたいの心ふかくかんてきをこのみて、つねにてうさんなどもせられざりけり。其比大納言とものよしをと云人ちようありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公けつなかりき〈太政大臣良房、左大臣まこと、右大臣よしすけまことの左大臣をうしなひて、其闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門をやかしむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりとざんそうす。天皇おどろき給て、きうめいにおよばず、右大臣にめしおほせて、すでに誅せらるべきになりぬ。太政大臣このことをきゝおどろきあはてられけるあまりに、えぼしなほしをきながら、はくちうきばして、はせさんじて申なだめられにけり。其後に善男が陰謀あらはれてるけいに処せらる。此大臣の忠節まことにやんごとなきことになん。天皇仏法にきし給て、つねにだつしの御志ありき。慈覚大師に受戒し給、法号をさづけ奉らる。そしんと申。在位の帝、法号をつき給ことよのつねならぬにや。昔ずゐのやうだいしんわうと云し時、天台のちしやに受戒してそうぢと云名をつかれたりし、よからぬ君のためしなれど、智者の昔のあとなれば、なぞらへもちゐられにけるにや。又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、をとこやまいはしみづにうつり給。天皇きこしめしちよくしをつかはし、その所をてんじ、もろのたくみにおほせて、新宮をつくりて宗廟にせらる〈鎮坐の次第はかみにみえたり〉。天皇天下を治給こと十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給。中三とせばかりありて出家、慈覚の弟子にて潅頂うけさせ給。たんばみづのをと云所にうつらせ給て、れんぎやうしましゝが、ほどなくかくれ給。御年三十一歳おましき。

○第五十七代、やうぜい天皇。諱はさだあきら、清和第一の子。御母皇太后藤原[の]たかきこ〈二条の后と申〉、贈太政大臣ながらの女也。ひのととりの年即位、改元。右大臣基経摂政して太政大臣に任ず〈此大臣は良房の養子なり。まことは中納言長良の男。此天皇のははかたのをぢ也〉ちゆうじんこうの故事のごとし。此天皇せいあくにして人主のうつはにたらずみえたまひければ、摂政なげきてはいりふのことをさだめられにけり。昔漢のくわくくわう、昭帝をたすけて摂政せしに、昭帝世をはやくし給しかば、しやうゆうわうたてて天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。すなはち廃立をおこなひてせんていたて奉りき。霍光が大功とこそしるしつたへはべるめれ。此大臣まさしきぐわいせきの臣にてまつりことをもはらにせられしに、天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける、いとめでたし。されば一家にも人こそおほくきこえしかど、摂政関白はこの大臣のすゑのみぞたえせぬことになりにける。つぎ大臣大将にのぼる藤原の人々もみなこの大臣のべうえいなり。しやくぜんよきやうなりとこそおぼえはべれ。天皇天下を治給こと八年にてしりぞけられ、八十一歳までおましき。

○第五十八代、第三十一世、くわうかう天皇。諱はときやすこまつのみかどともまをす。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原のさはこ、贈太政大臣ふさつぐの女なり。陽成しりぞけられ給し時、摂政せうせん公もろの皇子をさうし申されけり。此天皇いちほん式部卿けんひたちの太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にましけるに、俄にまうでゝ見給ければ、人主の器量の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはちぎゑいをとゝのへてむかへ申されけり。ほんゐの服を着しながららんよしてだいだいにいらせ給にき。ことしきのえたつの年なり。きのとみに改元。践祚のはじめ摂政をあらためて関白とす。これ我朝関白の始なり。漢のくわくくわう摂政たりしが、宣帝の時まつりことをかへしてしりぞきけるを、「万機のまつりこと猶霍光にあづかりまうさしめよ。」とありし、その名を取りてさづけられにけり。此天皇昭宣公のさだめによりてたち給しかば御こころざしもふかゝりしにや、其子をてんじやうにめして元服せしめ、御みづからゐきをあそばして正五位になし給けりとぞ。ひさしくたえにけるせり川のごかうなどありて、ふるきあとをおこさるゝことゝもきこえき。天下を治給こと三年。五十七歳おましき。

大かた天皇の世つぎをしるせるふみ、昔より今にいたるまで家々にあまたあり。かくしるしはべるもさらにめづらしからぬことなれど、神代より継体正統のたがはせ給はぬひとはしを申さんがためなり。我国はかみのくになれば、天照太神のおんはからひにまかせられたるにや。されど其なかに御あやまりあれば、れきすうひさしからず。又つひにはしやうろにかへれど、いつたんもしづませ給ためしもあり。これはみなみづからなさせたまふ御とがなり。みやうじよのむなしきにはあらず。ほとけも衆生をみちびきつくし、神もばんしやうをすなほならしめんとこそし給へど、衆生の果報しなに、うくる所のしやうおなじからず。じふぜんかいりきにて天子とはなり給へども、代々の御かうせき、善悪又まち也。かゝればもとを本としてしやうにかへり、はじめをはじめとしてじやをすてられんことぞそじんみこころにはかなはせ給べき。神武より景行まで十二代は御子孫そのまゝつがせ給へり。うたがはしからず。やまとたけの尊世をはやくしましゝによりて、御弟成務へだゝり給しかど、日本武の御子にて仲哀つたへましぬ。仲哀・応神のおんのちに仁徳つたへ給へりし、武烈悪王にてひつぎたえましゝ時、応神五世の御孫にて、継体天皇えらばれたち給。これなむめづらしきためしに侍る。されどふたつをならべてあらそふ時にこそばうしやううたがひもあれ、群臣皇胤なきことをうれへてもとめいだし奉りしうへに、その御身けんにして天の命をうけ、人ののぞみにかなひましければ、とかくのうたがひあるべからず。其後相つぎて天智・天武御兄弟立給しに、大友の皇子のみだれによりて、天武の御ながれひさしくつたへられしに、称徳女帝にておんつぎもなし。又まつりこともみだりがはしくきこえしかば、たしかなる御ゆずりなくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれてたち給。これなん又継体天皇の御ことに似玉へる。しかれども天智は正統にてましき。第一の御子大友こそあやまりて天下をえ給はざりしかど、第二の皇子にてしきのみこ御とがなし。其御子なれば、此天皇の立給へること、しやうりにかへるとぞ申侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびにてたち給といへども、仁明の太子文徳の御ながれなりしかど、陽成悪王にてしりぞけられ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれましければ、うたがひなき天命とこそみえ侍し。かやうにかたはらよりいで給こと是まで三代なり。人のなせることゝは心えたてまつるまじき也。さきにしるし侍ることはりをよくわきまへらるべき者をや。光孝よりかみつかたはいつかうしやうこ也。よろづのためしかんがふるにんなよりしもつかたをぞ申める。いにしへすら猶かゝることわりにて天位をつぎたまふ。ましてすえの世にはまさしき御ゆづりならでは、たもたせ給まじきことゝ心えたてまつるべき也。此御代より藤氏のせふろくの家も他流にうつらず、昭宣公のべうえいのみぞたゞしくつたへられにける。かみは光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、しもは昭宣公の子孫、あめのこやねの命のちやくりうとなり給へり。ふたはしらのかみの御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。

○第五十九代、第三十二世、うた天皇。諱はさだみ、光孝第三の子。御母くわうたいこうはんしの女王、なかの親王〈桓武[の]御子〉の女也。ぐわんぎやうころそんわうにて源氏のしやうたまはらせまします。そのかみ、つねにたかがりをこのませ給けるに、ある時かもの大明神あらはれて皇位につかせ給べきよしをしめし申されけり。せんその後、かのやしろの臨時のまつりをはじめられしは、大神の申うけ給けるゆゑとぞ。にんな三年ひのとひつじあき、光孝御やまひありしに、御兄の御子たちをゝきてゆづりをうけ給。まづ親王とし、皇太子にたち、すなはち受禅。おなじき年の冬即位。中一とせありてつちのととりに改元。践祚の初より太政大臣もとつね又関白せらる。此関白こうじのちはしばらくその人なし。天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申。中一とせばかりありて出家せさせ給。御年三十三にや。わかくよりその御こころざしありきとぞおほせ給ける。弘法大師四代の弟子やくしん僧正を御師にて東寺にしてくわんぢやうせさせ給。又ちしよう大師の弟子ぞうみやうそうじやうにも〈于時法橋也。後謚云靜観〉比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、其御法流とて今にたえず、にんなじつたへはべるは是なり。およそ弘法の流にひろさは〈仁和寺〉・小野だいご寺・くわんじゆじの二あり。広沢は法皇の御弟子くわんぐう僧正、寛空の弟子くわんでう僧正あつみ親王[の]子、法皇[の]御孫也〉。寛朝広沢にすまれしかば、かのながれふ。そのゝちだいだいおむろつたへてたゞ人はあひまじはらず〈法流をあづけられて師範となることは両度あり。されど御室は代々親王なり〉。小野の流は益信のあひでししやうぼう僧正とてちほふぶさうの人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれどねんかいおとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時はしきしゆにつらなりてたんどくと云ことをつとめられたりき。えんぎごぢそうにて、ことにそうちようし給き。其弟子くわんげん僧正もあひついで護持まをす。おなじく崇重ありき。かうちゆうの法務を東寺のいちのあじやりにつけられしもこの時より始るしやうの法務はいつも東寺のいちちやうじやなり。諸寺になるはみなごんの法務なり。又仁和寺の御室、そうの法務にて、かうしよめしつかはるゝことは後白河このかたの事。此僧正はかうやにまうでゝ、大師にふぢやうくつひらきて御髪をそり、法服をきせかへまをしし人なり。其でしじゆんいう〈石山のないくと云〉ともなはれけれどもつゐに見奉らず。師の僧正、その手をとりて御身にふれしめけりとぞ。淳祐ざいしやういたりをなげきてひげの心ありければ、弟子げんがうそうづえんみやうゐんと云〉こかばかりにてじゆしよくをゆるさず。ちよくぢやうによりて法皇の御弟子くわんぐうにあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子にんかい僧正又知法の人なりき。小野と云所にすまれけるより小野流とふ。しかれば法皇は両流のほふしゆにまします也。王位をさりてしやくもんいることは其ためしおほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれればぶゐの御まつりことなりけんとおしはかられ侍る。菅氏のさいめいによりて、大納言大将まで登用したまひしも此御時也。又じやうこくの時さまをしへ申されし、くわんべいぎよかいとて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳はぐしゆんより始る。」とみえたり。唐堯のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもて此御ことおしはかり奉るべし。御いのちながくすざくの御代にぞかくれさせ給ける。七十六歳おましき。

○第六十代、第三十三世、だいご天皇。諱はあつひと、宇多第一の子。御母贈皇太后藤原のたねこ、内大臣たかふぢの女也。ひのとみの年即位、つちのえうまに改元。大納言左大将藤原ときひら、大納言右大将菅氏、両人上皇のみことのりをうけてふさし申されき。後に左右の大臣ににんじてともに万機を内覧せられけりとぞ。みかど御年十四にて位につき給。をさなくまししかど、そうめいえいてつにきこえ給き。両大臣天下のまつりことをせられしが、右相は年もたけ才もかしこくて、天下のゝぞむ所なり。左相はふだいうつは也ければ、すてられがたし。或時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云さだめありて、すでにめしおほせ玉ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。其事世にもれにけるにや、左相いきどほりをふくみ、さまざんをまうけて、つひにかたぶけ奉りしことこそあさましけれ。此君の御一失とまをしつたへはべり。ただし菅氏ごんげの御事なれば、まつせのためにやありけん、はかりがたし。ぜんしやうこうきよつら朝臣はこの事いまだきざゝざりしに、かねてさとりて菅氏にわざはひをのがれ給べきよしを申けれど、さたなくて此事いできにき。さきにも申はべりし、我国には幼主のたち給こと昔はなかりしこと也。ぢやうぐわんぐわんぎやうの二代始て幼にてたち玉ひしかば、ちゆうじんこうせうせんこう摂政にて天下ををさめらる。此君ぞ十四にてうけつぎ給て、摂政もなく御みづからまつりことをしらせましける。猶御幼年のゆゑにや、左相の讒にもまよはせ給けん。聖も賢も一失はあるべきにこそ。おもむきけいしよにみえたり。さればそうしは、「われひにみたびわがみをかへりみる。」といひきぶんしは「みたびおもふ。」ともふ。聖徳のほまれましまさんにつけてもいよつゝしみましますべきこと也。昔応神天皇もざんをきかせ玉ひて、武内の大臣を誅せられんとしき。彼はよくのがれてあきらめられたり。このたびのこと凡慮およびがたし。ほどなく神とあらはれて、今にいたるまでれいげんぶさうなり。まつせやくをほどこさんためにや。讒をいれし大臣はのちなくなりぬ。同心ありけるたぐひもみなしんばちをかうぶりにき。此君ひさしく世をたもたせ給て、とくせいをこのみ行はせ玉ふこと上代にこえたり。天下たいへい民間安穏にて、本朝仁徳のふるき跡にもなぞらへ、いいき堯舜のかしこき道にもたぐへ申き。延喜七年ひのとうの年、もろこしの唐ほろびりやうと云国にうつりにけり。うちつゞきこうたう・晉・漢・周となん云五代ありき。此天皇天下を治給こと三十三年。四十四歳おましき。

○第六十一代、すざく天皇。諱はひろあきら、醍醐十一の子。御母皇太后藤原をんし、関白太政大臣基経の女也。やすあきらの太子おくりなぶんげんと申〉早世、その御子よしよりの太子もうちつゞきかくれましゝかば、保明ひとつはらの御弟にてたち給。かのえとらの年即位、かのとうに改元。ははかたのをぢ左大臣ただひら〈昭宣公の三男、のちにていしんこうと云〉摂政せらる。くわんべいに昭宣公こうじてのちには、延喜御一代まで摂関なかりき。此君又幼主にてたちたまふによりて、故事にまかせて万機をせつかうせられけるにこそ。此御時、たひらまさかどと云物あり。かづさのすけたかもちまご〈高望はかづらはらの親王[の]まごたひらのしやうたまはる。桓武四代の御べうえいなりとぞ〉しつせいいへにつかうまつりけるが、せんじのぞみ申けり。ふきよなるによりいきどほりをなし、東国にげかうしてほんぎやくをおこしけり。まづをぢひたちたいじようくにかをせめしかば、国香自殺しぬ。これよりばんどうをゝしなびかし、しもふさのくにさうまのこほりに居所をしめ、みやことなづけ、みづからへい親王と称し、官爵をなしあたへけり。これによりて天下騒動す。さんぎみんぶきやうけんうゑもんのかみ藤原ただふんのあそんを征東大将軍とし、源つねもと〈清和の御すゑ六孫王とふ。よりよしよしいへのせんぞ也〉・藤原なかのぶ〈忠文の弟也〉を副将軍としてさしつかはさる。平さだもり〈国香が子〉・藤原ひでさと等心をひとつにして、将門をほろぼして其かうべを奉りしかば、諸将は道よりかへりまゐりにき〈将門、じようへい五年きさらぎに事をおこし、てんぎやう三年二月に滅ぬ。其あひだ六年へたり〉。藤原すみともと云物、かの将門に同意して西国にてほんらんせしかば、少将をののよしふるつかはして追討せらる〈天慶四年に純友はころさるとぞ〉。かくて天下しづまりにき。延喜の御代さしもあんねいなりしに、いつしか此みだれいできたる。天皇もおだやかにましけり。又貞信公の執政なりしかば、まつりことたがふことははべらじ。時の災難にこそとおぼえ侍る。天皇御子ましまさず。ひとつはらの御弟だざいのそつの親王をたいていにたてゝ、天位をゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。天下を治給こと十六年。三十歳おましき。

○第六十二代、第三十四世、むらかみ天皇。諱はなりあきら、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟也。ひのえうまの年即位、ひのとひつじに改元。兄弟ゆづらせ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。此天皇賢明の御ほまれせんくわうのあとをつぎ申させ給ければ、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸をこのみ給こともかはりまさゞりけり。よろづのためしには延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康〈文王は正位につかず〉、漢には文・けいなんどぞありがたきことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立給しに、うちつゞき明主のつたはり給し、我国の中興すべきゆゑにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。すゑつかたてんとく年中にや、はじめてだいりえんしやうありてないしどころやけにしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「ゑんき損ずることなくしてふんみやうにあらはれいで給。見奉る人、きやうかんせずと云ことなし。」とぞぎよきにみえ侍る。此時に神鏡なでんさくらにかゝらせ給けるを、をののみやさねよりのおとゞ袖にうけられたりと申ことあれど、ひが事をなんいひつたへはべる也。おうわ元年かのととりの年もろこしの後周ほろびて宋の代にさだまる。唐の後、五代、五十五年のあひだ彼国おほきみだれごしやううつりかはりて国のしゆたり。ごきとぞ云ける。宋の代に賢主うちつゞきて三百二十余年までたもてりき。此天皇天下を治給こと二十一年。四十二歳おましき。御子おほくましなかに冷泉・円融は天位につき給しかばまをすにおよばず。親王の中にともひらの親王〈六条の宮と申。なかつかさきやうにんじ給き。さきかねあきら親王名誉おはしき。よりてこれをばのちの中書王と申〉賢才文芸のかた代々の御あとをよくあひつぎ申玉ひけり。一条の御代に、よろづ昔をおこし、人をもちゐましければ、この親王昇殿し給し日、せいりやうでんにてさくもんありしに〈中殿の作文と云ことこれよりはじまる〉「所貴是賢才」と云題にてゐんをさぐらるゝことあり。此親王の御ためなるべし。およそ諸道にあきらかに、仏法のかたまでくらからざりけるとぞ。昔より源氏おほかりしかども、此御すゑのみぞいまにいたるまで大臣以上に至て相つぎ侍る。源氏と云ことは、嵯峨の御門世のつひえをおぼしめして、皇子皇孫にしやうたまひて人臣となし給。すなはち御子あまた源氏の姓をたまはる。桓武の御子かづらはらの親王の男、たかむねたひらの姓を給る。平城の御子あほの親王の男、ゆきひらなりひらありはらの姓を給ることも此後のことなれど、これはたまの儀也。弘仁以後代々の御のちはみなみなもとの姓をたまひしなり。親王の宣旨をかうぶる人はさいふさいによらず、国々にふこなどたてられて、世のつひえなりしかば、人臣につらねみやづかへしものまなびしててうえうにかなひ、うつはにしたがひ、昇進すべき御おきてなるべし。姓を給る人はぢきに四位に叙す〈皇子皇孫にとりての事也〉。当君のは三位なるべしと云〈かゝれど其ためしまれなり。嵯峨の御子大納言さだむの卿三位に叙せしかども、当代にはあらず〉。かくて代々のあひだ姓をたまはりし人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上にいたりて二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなるゆゑなるらん、おぼつかなけれ。嵯峨の御子姓をたまはる人二十一人。このうち、大臣にのぼる人、ときはの左大臣けん大将、まことの左大臣、とほるの左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、まさるの右大臣、ひかるの右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。大臣にのぼる人、よしありの右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑにさねともの右大臣兼大将〈これはさだすみ親王の苗裔なり〉。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓をたまはりて大臣にのぼる人、まさのぶの左大臣、しげのぶの左大臣〈ともにあつみ親王の男なり〉。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣にのぼる人、たかあきらの左大臣兼大将、かねあきらの左大臣〈後には親王とす。中務卿に任ず。さきの中書王これなり〉。この後は皇子の姓をたまはることはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣をほんとしるすによりてことくはのせず。ちかくは後三条の御孫にありひとの左大臣兼大将すけひと親王の男、白川院御猶子にてぢきに三位せし人なり〉二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたま大臣に至てもいづれか二代と相つげる。ほとなふごん以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。くわういんきしゆよりいでぬる人、おんをたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものにまんずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりのちかひにて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣はあめのこやねの御流きみをたすけ奉るべきうつはとなれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらばふたはしらの神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なか上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にもふうぜられ、しやうしやうにも任ぜられき。崇神天皇十年に始てよにんの将軍を任じてしだうへつかはされしも皆これ皇族なり。景行天皇五十一年始てとうりやうの臣をおきて武内の宿禰を任ず。成務天皇三年におほおみとす〈我朝だいじんこれに始る〉。六代の朝につかへて執政たり。此おほおみも孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠うぢをさかやかし、忠仁公まつりことせつせられしより、もはらふさうつはとして、立かへり、神代のいうけいのまゝに成ぬるにや。閑院のおとど冬嗣うぢおとろへたることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、其しるしも相くはゝり侍けんかし。此親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。其子もろふさ姓をたまはりて人臣に列せられし、才芸いにしへにはぢず、名望世にきこえあり。十七歳にて納言に任じ、数十年のあいだ朝廷のこじつに練じ、大臣大将にのぼりて、けんしやよはひまでつかうまつらる。親王のむすめきしの女王はうぢの関白のしつなり。よりて此大臣をば彼関白の子にし給て、とうじにかはらず、かすがのやしろにもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女にあひかせられしかば、子孫もみなかの外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をばとほつおやの如くに思へり。それよりこのかた和漢のけいこをむねとし、報国の忠節をさきとするまことあるによりてや、此一流のみたえずして十余代におよべり。その中にもかうせきうたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづからおとろへてあとなきもあり。きやうこうふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉るなかに、藤氏のおこりは所々に申侍ぬ。みなもとながれも久くなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流ひととほりにて十七代にならしめ給。臣も此御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞ此君の徳すぐれ給けるゆゑによきやうあるかとこそあふぎ申はべれ。

○第六十三代、れいぜんゐん。諱はのりひら、村上第二の子。御母中宮藤原やすこ、右大臣もろすけの女也。ひのとうの年即位、つちのえたつに改元。この天皇じやきおはしければ、即位の時だいごくでんいで給こともたやすかるまじかりけるにや、ししんでんにて其れいありき。に年ばかりして譲国。六十三歳おはしましき。此御門より天皇の号を申さず。又うだより後、おくりなをたてまつらず。ゆゐぜうありてこくきさんりようをゝかれざることはくんふのかしこき道なれど、尊号をとゞめらるゝことは臣子の義にあらず。神武このかたの御号も皆後代のさだめなり。持統・元明よりこのかた避位或[は]出家の君も謚をたてまつる。天皇とのみこそ申めれ。中古の先賢の議なれども心をえぬことに侍なり。

○第六十四代、第三十五世、ゑんゆうゐん。諱はもりひら、村上第五の子、冷泉同母の弟也。つちのとみの年即位、かのえうまに改元。天下を治給こと十五年。禅譲、尊号つねの如し。つぎの年の程にや御出家。えいえんの比、寛平のれいをおふて、とうじにてくわんぢやうせさせ給。おんしはすなはち寛平の御孫でしくわんでう僧正なり。三十三歳おましき。

○第六十五代、くわさん院。諱はもろさだ、冷泉第一の子。御母皇后藤原かねこ、摂政太政大臣これまさの女也。きのえさるの年即位、きのととりに改元。天下を治給こと二年ありて、にはかほつしんしてくわざんじにて出家し給。こきでんにようご〈太政大臣ためみつの女也〉かくれてかなしみなげきましけるをりをえて、粟田関白みちかねのおとゞのいまだくらうどのべんときこえし比にや、そゝのかし申てけるとぞ。山々をめぐりて修行せさせましゝが、後には都にかへりてすませ給けり。是も御邪気ありとぞ申ける。四十一歳おましき。

○第六十六代、第三十六世、いちでう院。諱はかねひと、円融第一の子。御母皇后藤原せんし〈後には東三条院と申。こうぐう院号の始也〉、摂政太政大臣かねいへの女なり。花山のみかど神器をすてゝ宮を出給しかば、太子の外祖にて兼家の右大臣おはせしが、うちにまゐり、諸門をかためて譲位の儀をおこなはれき。新主もをさなくまししかば、摂政の儀ふるきがごとし。ひのえいぬの年即位、ひのとゐに改元。そのゝち摂政病によりちやくし内大臣みちたかゆづりて出家、猶じゆさんぐうせんかうぶる〈執政の人出家の始也。その比は出家の人なかりしかば、入道殿となん申。よりて源のまんぢゆう出家したりしをはゞかりてしんぼちとぞ云ける〉。此道隆始て大臣をじしぜんくわんにて関白せられき〈前官の摂政もこれを始とす〉やまひありて其子内大臣これかたしばらく相かはりてないらんせられしが、相続して関白たるべきよしをぞんぜられけるに、道隆かくれて、やがて弟右大臣道兼なられぬ。七日と云しにあへなくうせられにき。其弟にてみちなが、大納言にておはせしが内覧の宣をかうぶりて左大臣までいたられしかど、延喜・天暦の昔をおぼしめしけるにや、関白はやめられにき。三条の御時にや、関白して、後一条の御世の初、外祖にて摂政せらる。兄弟おほくおはせしに、此大臣のながれひとつに摂政関白はし給ぞかし。昔もいかなるゆゑにか、昭宣公の三男にて貞信公、々々々の二男にて師輔の大臣のながれ、師輔の三男にて東三条のおとゞ、東三条の三男にてみちつなの大将は一男歟。されど三弟にこされたり。よりて道長を三男としるす〉このおとゞ、みな父のたてたる嫡子ならで、じねんに家をつがれたり。そじんのはからはせ給へる道にこそ侍りけめ〈いづれも兄にこえて家をつたへらるべきゆゑありと申ことのあれど、ことしげければしるさず〉。此御代にはさるべきかんだちめ・諸道の家々・顕密の僧までもすぐれたる人おほかりき。さればみかども「われ人を得たることは延喜・天暦にまされり。」とぞみづからたんぜさせ給ける。天下を治給こと二十五年。御病のほどに譲位ありて出家せさせ給。三十三歳おましき。

○第六十七代、さんでう院。諱はゐやさだ、冷泉第二の子。御母皇太后藤原[の]てうし、これも摂政兼家の女也。花山院世をのがれ給しかば、太子に立給しが、御邪気のゆゑにや、をり御目のくらくおはしけるとぞ。かのとゐの年即位、みづのえねに改元。天下を治給こと五年。尊号ありき。四十二歳おまし