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夜明け前/第二部下


     第八章


       一


  はは刀自とじ枕屏風まくらびょうぶ

いやしきもたかきもなべて夢の世をうら安くこそ過ぐべかりけれ

花紅葉はなもみじあはれと見つつはるあきを心のどけくたちかさねませ

おやのよもわがよもおいをさそへども待たるるものは春にぞありける

 新しく造った小屏風がある。娘おくめがいる。長男の宗太そうたがいる。継母おまんは屏風の出来をほめながら、半蔵の書いたものにながめ入っている。そこいらには、いたずらざかりな三男の森夫もりおまでが物めずらしそうにのぞきに来ている。

 そこは馬籠まごめの半蔵の家だ。ただの住宅としてはもはや彼の家も広過ぎて、いたずらに修繕にのみ手がかかるところから、ふるい屋敷の一部は妻籠つまご本陣同様取りくずして桑畠くわばたけにしたが、その際にもき父吉左衛門きちざえもんの隠居所だけはそっくり残して置いてある。おまんはその裏二階から桑畠のわきの細道を歩いて、食事のたびごとに母屋もやの方へとかよって来ている。その年、明治六年の春はおまんもすでに六十五歳の老婦人であるが、吉左衛門を見送ってからは髪も切って、さびしい日を隠居所に送っているので、この継母を慰めるために半蔵は自作の歌を紙に書きつけ、それを自意匠じいしょうの屏風に造らせたのであった。高さ二尺あまりほどのものである。杉柾すぎまさの緑と白い紙の色との調和も、簡素を愛する彼の好みをあらわしていた。これを裏二階のすみにでも置いて戸障子のすきまから来る風のふせぎとしてもよし、風邪かぜにでも冒された日の枕もとに置いておとなう人もない時の友としてもよし、こんな彼の言葉も継母をよろこばせるのであった。

 ちょうど、お民も妻籠つまご生家さとの方へ出かけてまだ帰って来ない時である。半蔵のそばへ来て祖母たちと一緒に屏風の出来をいろいろに言って見るお粂も、もはや物に感じやすい娘ざかりの年ごろに達している。彼女は、母よりも父を多くうけついだ方で、その風俗なりなぞも嫁入り前の若さとしてはひどく地味づくりであるが、えりのところには娘らしい紅梅の色をのぞかせ、それがまた彼女によく似合って見えた。彼女はまた、こうした父の意匠したものなぞにことのほかのおもしろみを見つける娘で、これを父が書く時にも、そのそばに来て墨をすろうと言い、紙にむかって筆を持った父の手から彼女の目を放さなかったくらいだ。もともとこの娘の幼い時分から親の取りきめて置いた許嫁いいなずけを破約に導いたのも、一切のものを根からくつがえすような時節の到来したためであり、これまでどおりの家と家との交際もおぼつかないからというのであって、ふるい約束事なぞは大小となく皆押し流された。小さな彼女の生命いのちが言いあらわしがたい打撃をこうむったのも、その時であった。でも、彼女はそうしおれてばかりいるわけでもない。祖母のためにと父の造った屏風なぞができて見ると、彼女はその深傷ふかでの底からたち直ろうとして努めるもののごとく平素の調子に帰って、娘らしい笑い声で父の心までも軽くさせる。

 実に久しぶりで、半蔵は家のものと一緒にこんな時を送った。かねて長いこと心がけたあげくにできた隠居所向きの小屏風のそばなぞにわずかの休息の時を見つけるすら、彼にはめずらしいことであった。二月のはじめ以来、彼がそのふところ筑摩ちくま県庁あての嘆願書の草稿を入れた時から、あちこちの奔走をつづけていて、ほとんど家をかえりみるいとまもなかったような人である。この奔走が半蔵にとって容易でなかったというは、戸長(旧庄屋しょうやの改称)としての彼が遠からずやって来る地租改正を眼前に見て、助役相手にとかくはかの行かない地券調べのようなめんどうな仕事を控えているからであった。一方にはまた、学事掛りとしても、村の万福寺の横手に仮校舎の普請の落成するまで、さしあたり寺内を仮教場にあて、従来寺小屋を開いていた松雲和尚しょううんおしょうを相手にして、できるだけ村の子供の世話もしなければならないからであった。子弟の教育は年来の彼のこころざしであったが、まだ設備万端整わなかった。そういう彼は事を好んでこんな奔走をはじめたわけではない。これまで庄屋で本陣問屋を兼ねるくらいのところは荒蕪こうぶを切り開いた先祖からの歴史のある旧家に相違なく、三百年の宿村しゅくそんの世話と街道の維持とに任じて来たのも、そういう彼らである。いよいよ従来の旧習を葬り去るような大きな革新の波が上にも下にも押し寄せて来た時、彼らもまた父祖伝来の家業から離れねばならなかったが、その際、報いらるることの少ない彼らの中には、もっと強く出てもいいと言い出したものがあり、この改革に不平をいだいて、謹慎閉門の厳罰に処せられた庄屋問屋も少なくなかったくらいであるが、しかし半蔵なぞはそういう古い事に拘泥こうでいすべき場合でないとして、いさぎよく自分らをあと回しにしたというのも、決してほかではない。あの東征軍が江戸城に達する前日を期して、陛下が全国人民に五つのお言葉を誓われたことは、まだ半蔵らの記憶に新しい。あのお言葉こそすべてであった。ところが、地方の官吏にその人を得ないため、せっかくの御誓文ごせいもんの趣旨にも添いがたいようなことが、こんな山の中に住むものの目の前にまで起こって来た。それは木曾川きそがわ上流の沿岸から奥筋へかけての多数の住民の死活にもかかわり、ただ一地方の問題としてのみ片づけてしまえないことであった。それが山林事件だ。


       二


「海辺の住民は今日漁業と採塩とによって衣食すると同じように、山間居住の小民にもまた樹木鳥獣の利をもって渡世を営ませたい。いずこの海辺にも漁業と採塩とに御停止と申すことはない。もっとも、海辺に殺生禁断の場処があるように、山中にも留山とめやまというものは立て置かれてある。しかし、それ以外の明山あきやまにも、この山中には御停止木おとめぎととなえて、伐採を禁じられて来た無数の樹木のあるのは、恐れながら庶民を子とする御政道にもあるまじき儀と察したてまつる。」

 これは木曾谷三十三か村の総代十五名のものが連署して、過ぐる明治四年の十二月に名古屋県の福島出張所に差し出した最初の嘆願書の中の一節の意味である。山林事件とは、この海辺との比較にも言って見せてあるように、最初は割合に単純な性質のものであった。従来尾州びしゅう領であったこの地方では、すべてにわたり同藩保護の下に発達して来たようなもので、各村とも榑木御切替くれきおきりかえととなえて、年々の補助金を同藩より受け、なお、補助の目的で隣国美濃みのの大井村その他の尾州藩管下の村々から輸入されて来る米の代価も、金壱両につき年貢金納ねんぐきんのう値段よりも五升安の割合で、それも翌年の十二月中に代金を返済すればいいほどの格別な取り扱いを受けて来た。いよいよ廃藩置県が実現され、一藩かぎりで立てて置いた制度もすべて改革される日が来て見ると、明治四年を最後としてこれらの補助を廃止する旨の名古屋県からの通知があり、おまけに簡易省略の西洋流儀に移った交通事情の深い影響をうけて、木曾路を往来する旅人からも以前のようには土地を潤してもらえなくなった。この事情を当局者にくんでもらって、今度の改革を機会に享保きょうほう以前のいにしえに復し、木曾谷中の御停止木おとめぎを解き、山林なしには生きられないこの地方の人民を救い出してほしい。これが最初の嘆願書の趣意であった。その起草にも半蔵が当たった。彼らがこれを持ち出したのは、木曾地方もまさに名古屋県の手を離れようとしたころで、当時は民政権判事ごんはんじとしての土屋総蔵もまだ在職したが、ちょうど名古屋へ出かけた留守の時であった。そこでこの願書は磯部弥五六いそべやごろくが取り次ぎ、岩田市右衛門いわたいちえもんお預かりということになった。いずれ土屋権大属ごんだいぞく帰庁の上で評議にも及ぶであろう、それまではまずまず預かり置く、そんな話で、王滝おうたき贄川にえがわ藪原やぶはらの三か村から出た総代と共に、半蔵は福島出張所から引き取って来た。もし土屋総蔵のような理解のある人に今すこしその職にとどまる時を与えたらと、谷中の戸長仲間でそれを言わないものはなかった。不幸にも、総蔵は筑摩県の官吏らに一切を引き渡し、前途百年の計をあとから来るものに託して置いて、多くの村民に惜しまれながらこの谷を去った。

 木曾地方が筑摩県の管轄に移されたのは、それから間もなくであった。明治五年の二月には松本を所在地とする新しい県庁からの申し渡し、ならびに布令書ふれがきなるものが、早くもこの谷中へ伝達されるようになった。とりあえず半蔵らはその請書うけしょしたため、ついでにこの地方の人民が松本辺の豊饒ほうじょうな地とも異なり深山幽谷の間に居住するもののみであることを断わり、宿場しゅくば全盛の時代を過ぎた今日となっては、茶屋、旅籠屋はたごやをはじめ、小商人こあきんど、近在のすみまき等をまかなうものまでが必至の困窮に陥るから、この上は山林の利をもって渡世を営む助けとしたいものであると、その請書を出す時には御停止木のことに触れ置いてあった。当時の信濃しなのの国は長野県と筑摩県との二つに分かれ、筑摩県の管轄区域は伊那いなの谷から飛騨ひだ地方にまで及んでいた。本庁所在地松本以外の支庁も飯田いいだ高山たかやまとにしか取り設けてなかったほどの草創の時で、てんで木曾福島あたりにはまだ支庁も置かれなかった。遠い村々から松本までは二十里、三十里である。何事を本庁に届けるにもその道を踏まねばならぬ。それだけでも人民疾苦の種である。半蔵らの請書はその事にも言い及んであった。東北戦争以来、すでにそのころは四年の月日を過ぎ、一藩かぎりの制度も改革されて、徳川旧幕府の人たちですら心あるものは皆待ち受けていた新たな郡県の時代が来た。これは山間居住の民にとっても見のがせない機会であったのだ。

 もともとこの山林事件は明治初年にはじまった問題でもなく、実は旧領主と人民との間に続いた長い紛争の種で、御停止木のことは木曾谷第一の苦痛であるとされていた。こんなに明治になってまたき返って来たというのも決して偶然ではない。それは宿村の行き詰まりによることはもちろんであるが、一つには明治もまだその早いころで、あらゆるものに復古の機運が動いていたからであった。当時、深い草叢くさむらの中にあるものまでが時節の到来を感じ、よりよい世の中を約束するような新しい政治を待ち受けた。従来の陋習ろうしゅうを破って天地の公道に基づくべしと仰せ出された御誓文の深さは、どれほどの希望を多くの民にいだかせたことか。半蔵らが山林に目をつけ、今さらのように豊富な檜木ひのきさわら明檜あすひ高野槇こうやまき、それからねずこ〈[#「木+鑞のつくり」、13-1]〉などの繁茂する森林地帯の深さに驚き、それらのみずみずしい五木がみな享保年代からの御停止木であるにも驚き、そこに疲弊した宿村の救いを見いだそうとしたことは無理だったろうか。彼らが復古のできると思った証拠には、最初の嘆願書にも御誓文の中の言葉を引いて、厚い慈悲を請う意味のことを書き出したのでもわかる。やがて、筑摩県の支庁も木曾福島の方に設けられ、権中属ごんちゅうぞくの本山盛徳が主任の官吏として木曾の村々へ派出される日を迎えて見ると、この人はまた以前の土屋総蔵なぞとは打って変わった態度をとった。もしも人民の請いをいれ、木曾山を解き放ち、制度を享保以前の古に復し、これまで明山あきやまととなえて来た分は諸木何品に限らず百姓どもの必要に応じてり採ることを許したなら、せっかく尾州藩で保護して来た鬱蒼うっそうとした森林はたちまち禿山はげやまに変わるであろうとの先入主となった疑念にでもとらわれたものか、本山盛徳は御停止木の解禁なぞはもってのほかであるとなし、木曾谷諸村の山地はもとより、五種の禁止木のあるところは官木のあるところだとの理由の下に、それらの土地をもあわせすべて官有地と心得よとのむねを口達した。この福島支庁の主任が言うようにすれば、五木という五木の生長するところはことごとく官有地なりとされ、従来の慣例いかんにかかわらず、官有林に編入せられることになる。これには人民一同狼狽ろうばいしてしまった。



 過ぐる月日の間、半蔵はあちこちの村々から腰縄付こしなわつきで引き立てられて行く不幸な百姓どもを見て暮らした。人民入るべからずの官有林にはいって、盗伐の厳禁を犯すものが続出した。これをその筋の人に言わせたら、規則の何たるをわきまえない無知と魯鈍ろどんとから、村民自ら犯したことであって、さらに寛恕かんじょすべきでないとされたであろう。

 それにつけても、まだ半蔵には忘れることのできないずっと年若な時分の一つの記憶がある。馬籠村じゅうのものが吟味のかどで、かつて福島から来た役人に調べられたことがある。それは彼の本陣の家の門内で行なわれた。広い玄関の上段には、役人の年寄としより用人ようにん書役かきやくなどが居並び、式台のそばには足軽あしがるが四人も控えた。村じゅうのものがそこへ呼び出された。六十一人もの村民が腰縄手錠で宿役人へ預けられることになったのも、その時だ。七十歳以上の老年は手錠を免ぜられ、すでに死亡したものは遺族の「おしかり」ということにとどめられたが、それも特別の憐憫れんびんをもってと言われたのも、またその時だ。そのころの半蔵はまだ十八歳の若さで、庭のすみのなしの木のかげに隠れながらのぞき見をしていたために、父吉左衛門からしかられたことがある。そんなにたくさんなけが人を出したことも、村の歴史としてはかつて聞かなかったことだと父も言っていた。彼はあの役人たちが吟味のために村に入り込むといううわさでも伝わると、あわてて不用の材木を焼き捨てた村の人のあったことをおもい起こすことができる。「昔はこの木曾山の木一本ると、首一つなかったものだぞ」なぞと言って、陣屋の役人からおどされたのもあの時代だ。それほど暗いと言わるる過去ですら、明山あきやまは五木の伐採を禁じられていたにとどまる。その厳禁を犯さないかぎり、村民は意のままに山中を跋渉ばっしょうして、雑木を伐採したり薪炭しんたんの材料を集めたりすることができた。今になって見ると、御停止木の解禁はおろか、尾州藩時代に許されたほどの自由もない。家を出ればすぐ官有林のあるような村もある。寒い地方に必要な薪炭ややせた土をつちかうための芝草を得たいにも、近傍付近は皆官有地であるような場所もある。木曾谷の人民は最初からの嘆願を中止したわけでは、もとよりない。いかに本山盛徳の鼻息が荒くとも、こんな過酷な山林規則のお請けはできかねるというのが人民一同の言い分であった。耕地も少なく、農業も難渋で、生活の資本もとでを森林に仰ぎ、檜木笠ひのきがさ、めんぱ(割籠わりご)、お六櫛ろくぐしたぐいを造って渡世とするよりほかに今日暮らしようのない山村なぞでは、ほとんど毎戸かわるがわる腰縄付きで引き立てられて行くけが人を出すようなありさまになって来た。半蔵らが今一度嘆願書の提出を思い立ち、三十三か村の総代として直接に本県へとこころざすようになったのも、この郷里のありさまを見かねたからである。

 この再度の奔走をはじめる前、半蔵のしたくはいろいろなことに費やされた。明治五年の二月に、彼は早くも筑摩県庁あて嘆願書の下書きを用意したが、いかに言っても郡県の政治は始まったばかりの時で、種々さまざまな事情から差し出すことを果たさなかった。それからちょうど一年待った。明治六年の二月まで、彼は古来の沿革をたずねることや、古書類をさがすことに自分のしたくを向けた。ある村の惣百姓そうひゃくしょう中から他村の衆にあてた証文とか、ある村の庄屋組頭くみがしらから御奉行所に出した一札とか、あるいは四か村の五人組総代から隣村の百姓衆に与えた取り替え証文とかいうふうに。さがせばさがすほど、彼の手に入る材料は、この古い木曾山が自由林であったことを裏書きしないものはなかった。言って見れば、この地方の遠いいにしえは山にたよって樵務きこりを業とする杣人そまびと、切り畑焼き畑を開いてひえ蕎麦そば等の雑穀を植える山賤やまがつ、あるいは馬を山林に放牧する人たちなぞが、あちこちの谷間たにあいに煙を立てて住む世界であったろう。追い追いと人口も繁殖する中古のころになって、犬山の石川備前守いしかわびぜんのかみがこの地方の管領であった時に、谷中村方むらかたの宅地と開墾地とには定見取米じょうみとりまい、山地には木租ぼくそというものを課せられた。もとより米麦に乏しい土地だから、その定見取米も大豆や蕎麦やひえなどで納めさせられたが、年々おびただしい木租を運搬したり、川出ししたりする費用として、貢納の雑穀も春秋二度に人民へ給与せられたものである。さて、徳川治世のはじめになって、この谷では幕府直轄の代官を新しい主人公に迎えて見ると、それが山村氏の祖先であったが、諸事石川備前守の旧例によることには変わりはなかった。慶長けいちょう年代のころには定見取米を御物成おものなりといい、木租を御役榑おやくくれという。名はどうあろうとも、その実は同じだ。この貢納の旧例こそは、何よりも雄弁に木曾谷山地の歴史を語り、一般人民が伐木と開墾とに制限のなかったことを証拠立てるものであった。もっとも、幕府では木租の中をいて、白木しらき六千を木曾の人民に与え、白木五千駄を山村氏に与え、別に山村氏には東美濃地方に領地をも与えて、幕府に代わって東山道中要害の地たる木曾谷と福島の関所とをまもらせた。それより後、この谷はさらに尾州の大領主の手に移り、山村氏が幕府直轄を離れて名古屋の代官を承るようになって、尾州藩では山中の区域を定める方針を立てた。巣山すやま留山とめやま明山あきやまの区別は初めてその時にできた。巣山と留山とは絶対に人民のはいることを許さない。しかし明山は慶長年間より享保八年まで連綿として人民が木租を納め来たった場所であるからと言って、自由に入山いりやま伐木を許し、なお、木租の上納を免ずる代償として、許可なしに五木を伐採することを禁じたのである。

 こんな動かせない歴史がある。半蔵はそれらの事実から、さらにこの地方の真相を探り求めて、いわゆる木曾谷中の御免檜物荷物ごめんひのきものにもつなるものに突き当たった。父吉左衛門が彼に残して行った青山家の古帳にも、そのことは出ている。それは尾州藩でも幕府直轄時代からの意志を重んじ、年々山から伐り出す檜類のうち白木六千駄を谷中の百姓どもに与えるのをさす。それを御免荷物という。そのうちの三千駄は檜物御手形ひのきものおてがたととなえて人民の用材に与え、残る三千駄は御切替おきりかえととなえて、この分は追い追いと金に替えて与えた。彼が先祖の一人ひとりの筆で、材木通用の跡をしるしつけた御免荷物の明細書によると、毎年二百駄ずつの檜、さわらの類は馬籠村民にも許されて来たことが、その古帳の中に明記してある。尾州藩ですらこのとおり、山間居住の容易でないことを察し、人民にわかち与えることを忘れなかった。郡県とも言わるる時代の上に立つものが改革の実をあげようとするなら、深くこの谷を注目し、もっと地方の事情にも通じて、生民の期待に添わねばなるまいと彼には思われた。

 嘆願書はできた。二月はじめから四月まで、半蔵はあちこちの村をたずね回って、戸長らの意見をまとめることに砕心した。草稿の修正を求める。清書する。手を分けて十五人の総代の署名と調印とを求めに回る。いよいよ来たる五月十二日を期して、贄川にえがわ藪原やぶはら王滝おうたき馬籠まごめの四か村から出るものが一同に代わって本庁の方へ出頭するまでの大体の手はずをきめる。彼も心から汗が出た。この上は、御嶽山麓おんたけさんろくの奥にある王滝村を訪ねさえすれば、それで一切の打ち合わせを終わるまでにこぎつけた。彼はそれを早く済まして来るつもりで、自分の村方の用事を取りかたづけ、学校の子供の世話は松雲和尚に頼み、今は妻の帰りを待って王滝の方へ出かけられるばかりになった。

 こういう中で、彼は自分のそばへ来る娘の口から、ちょっと思いがけないことを聞きつけないでもなかった。

「おとっさん、おねがいですから、わたしもお供させて。」

 そのこころは、父の行く寂しい奥山の方へ娘の足でもついて行かれないことはあるまいというにあるらしい。

 これには半蔵も返事にこまった。いろいろにおくめを言いなだめた。娘も妙なことを言うと彼は思ったが、あれもこれもと昼夜心を砕いた山林の問題が胸に繰り返されていて、お粂の方で言い出したことはあまり気にも留めなかった。


       三


 お民は妻籠つまご生家さとの話を持って、和助やお徳を連れながらそこへ帰って来た。

「お民、寿平次さんはなんと言っていたい。」

「木曾山のことですか。兄さんはなんですとさ、支庁のお役人がかわりでもしないうちはまずだめですとさ。」

「へえ、寿平次さんはそんなことを言っていたかい。」

 半蔵夫婦はこんな言葉をかわしたぎり、ゆっくり話し合う時も持たない。妻籠土産みやげ風呂敷包ふろしきづつみが解かれ、これは宗太に、これは森夫にと、留守居していた子供たちをよろこばせるような物が取り出されると、一時家じゅうのものは妻籠の方のうわさで持ち切る。妻籠のおばあさんからお粂にと言って、お民は紙に包んだ美しい染め糸なぞを娘の前にも取り出す。お徳の背中からおろされた四男の和助はその皆の間をはい回った。

 半蔵はすでに村の髪結い直次を呼び寄せ、伸びたひげまでらせて妻を待ち受けているところであった。すずおきな以来、ゆかりの色の古代紫は平田派の国学者の間にもてはやされ、先師の著書もすべてその色の糸でじられてあるくらいだが、彼半蔵もまたその色を愛して、直次のいてくれたのを総髪そうがみにゆわせ、好きな色のひもを後ろの方に結びさげていた。吉左衛門の時代から出入りする直次は下女のお徳の父親に当たる。

「お民、おれは王滝の方へ出かけるんだぜ。」

 それをみんなまで言わせないうちに、お民は夫の様子をみて取った。妻籠の兄を見て来た目で、まったく気質のちがった夫の顔をながめるのも彼女だ。その時、半蔵は店座敷の方へ行きかけて、

「おれは、いつでも出かけられるばかりにして、お前の帰りを待っていたところさ。お前の留守に、おっかさんの枕屏風まくらびょうぶもできた。」

 そういう彼とても、娘の縁談のことでわざわざ妻籠まで相談に行って来たお民と同じ心配を分けないではない。年ごろの娘を持つ母親の苦労はだれだって同じだと言いたげなお民の顔色を読まないでもない。まだお粂にあわない人は、うわさにだけ聞いて、どんなやせぎすな、きゃしゃな子かと想像するが、あって見て色白なふとったからだつきの娘であるには、思いのほかだとよく人に言われる。そのからだにも似合わないようないたみやすい小さなたましいが彼女の内部なかには宿っていた。お粂はそういう子だ。父祖伝来の問屋役廃止以来、本陣役廃止、庄屋役廃止と、あの三役の廃止がしきりに青山の家へ襲って来る時を迎えて見ると、女一生の大事ともいうべき親のさだめた許嫁いいなずけまでが消えてゆくのを見た彼女は、年取った祖母たちのように平気でこの破壊の中にすわってはいられなかった子だ。伊那の南殿村、稲葉の家との今度の縁談がおまんの世話であるだけに、その祖母に対しても、お粂は一言ひとこと口出ししたこともない。半蔵らの目に映るお粂はただただひとり物思いに沈んでいる娘である。

 ふと、半蔵は歩きながら思い出したように、店座敷の方へ通う廊下の板をった。机の上にも、床の間にも、古書類が積み重ねてある自分の部屋へやへ行ってから、また彼は山林の問題を考えた。

「あれはああと、これはこうと。」

 半蔵のひとり言だ。



 隣家からは陰ながら今度の嘆願書提出のことを心配してたずねて来る伏見屋の伊之助があり、妻籠までお民が相談に行った話の様子も聞きたくて、その日の午後のうちには半蔵も馬籠を立てそうもなかった。伊之助は福島支庁の主任のやり口がどうもに落ちないと言って、いろいろな質問を半蔵に出して見せた。たとえば、この村々にひのき類のあるところは人民の私有地たりともことごとく官有地に編み入れるとは。また、たとえば、しいてそれを人民が言い立てるなら山林から税を取るが、官有地にして置けばその税も出さずに済むとはのたぐいだ。

 廃藩置県以来、一村一人ずつの山守やまもり、および留山とめやま見回りも廃されてから、伊之助もその役から離れて帯刀と雑用金とを返上し、今では自家の商業に隠れている。この人は支庁主任の処置を苦々にがにがしく思うと言い、木曾谷三十三か村の人民が命脈にもかかわることを黙って見ていられるはずもないが、自分一個としてはまずまず忍耐していたいと言って帰って行く。やがて、夕飯にはまだすこし間のあるころに、半蔵は妻と二人ふたりぎりで店座敷に話すことのできる時を見つけた。

「いや、お粂のやつが妙なことを言い出した。」

 とその時、半蔵は娘のことをお民の前に持ち出した。彼はその言葉をついで、

「何さ。おれが王滝へ行くなら、あれも一緒に供をさせてくれと言うんさ。」

「まあ。」

御嶽里宮おんたけさとみやのことはあれも聞いて知ってるからね、何かお参りでもしたいようなあれの口ぶりさ。」

「そんな話はわたしにはしませんよ。」

「あれも思い直したんだろう。なんと言ってもお粂もまだ若いなあ。おれがあのおとっさんの病気をいのりに行った時にも、勝重かつしげさんが一緒について行くと言って困った。あの時もおれは清助さんに止められて、あんな若い人を一緒に参籠さんろうに連れて行かれますかッて言われた。それでも勝重さんは行きたいと言うもんだから、しかたなしに連れて行った。懲りた。今度はおれ一人だ。それに娘なぞを連れて行く場合じゃない。ごらんな、十八やそこいらで、しかも女の足で、あんなお宮の方へ行かれるものかね。ばかなッて、おれはしかって置いたが。」

「まあ、嫁入り前のからだで、どうしてそんな気になるんでしょう。」

 夫婦の間にはこんな話が出る。お民はわざわざ妻籠まで行って来た娘の縁談のことをそこへ言い出そうとして、幾度となく口ごもった。相談らしい相談もまとまらずじまいに帰って来たからであった。半蔵の方で聞きたいと思っていたことも、それについての妻籠の人たちの意見であるが、お民はまず生家さとに着いた時のことから、あの妻籠旧本陣の表庭に手造りの染め糸をしていたおばあさんやお里を久しぶりに見た時のことからその話を始める。着いた日の晩に、和助を早く寝かしつけて置いて、それからおばあさんや兄やあによめと集まったが、お粂のようすを生家さとの人たちの耳に入れただけで、その晩はまだ何も言い出せなかったという話になる。「フム、フム。」と言って聞いていた半蔵は話の途中でお民の言葉をさえぎった。

「つまり、おばあさんたちはどう言うのかい。」

「まあ、兄さんの意見じゃ、この縁談はすこし時がかかり過ぎたと言うんですよ。もっとずんずん運んでしまうとよかったと言うんですよ。」

「いや、おれは今、そんなことを聞いてるんじゃない。つまり、どうすればいいかッて聞いてるんさ。」

「ですから、お里さんの言うには、まだ御祝言ごしゅうげんには間もあることだし、そのうちにはお粂の気も変わるだろうから、もうすこし様子を見るがいいと言うんですよ。そうはっきりした考えがお粂の年ごろにあるもんじゃない。お里さんはその意見です。気に入った小袖こそででも造ってくれてごらん、それが娘には何よりだッて、おばあさんも言っていました。」

 そんな話から、お民は娘のためにどんな着物を選ぼうかの相談に移って行った。幸い京都麩屋町ふやまち伊勢久いせきゅうは年来懇意にする染め物屋であり、あそこの養子も注文取りに美濃路みのじを上って来るころであるから、それまでにあつらえる品をそろえて置きたいと言った。どんな染め模様を選んだら、娘にも似合って、すでに結納ゆいのうの品々まで送って来ている南殿村の人たちによろこんでもらえるだろうかなぞの相談も出た。

「そういうこまかいことは、おっかさんやお前によろしく頼む。」

「あなたはそれだもの。なんにもあなたは相談してくださらない。」

「そんなお前のようなことを言ったって、おれだって、今――」

「そりゃ、あなたのいそがしいぐらい、知ってますよ。あなたのように一つ事に夢中になる人を責めたってしかたない。まあ、する事をしてください。お粂のしたくはお母さんと二人でよく相談します。あなたはいったい、わたしの話すことを聞いているんですか……」

 それぎりお民は口をつぐんでしまって、半蔵のそばに畳を見つめたぎり、身動きもしなかった。長いこと夫婦は沈黙のままで相対していた。奥の部屋へやの方に森夫らのけんかする声を聞きつけて、やっとお民はその座を立ち、自分の子供を見に行った。いつものように夕飯の時が来ると、家のもの一同広い囲炉裏ばたに集まったが、旧本陣時代からの習慣としてその囲炉裏ばたには家長から下男までの定められた席がある。子供らの食事する席にも年齢としの順がある。やがて隠居所からかよって来るおまんをはじめ、一日の小屋仕事を終わった下男の佐吉までがめいめいの箱膳はこぜんを前に控えると、あちらからもこちらからも味噌汁みそしるわんなぞを給仕するお徳の方へ差し出す。お民は和助をそばに置いて、黙って食った。半蔵は継母の顔をながめ、姉娘のお粂が弟たちと並んでいる顔をながめ、それからお民の顔をながめて、これも黙って食った。その晩、彼は店座敷の方にいて、翌朝王滝へ出かけるしたくなぞしたが、ろくろく口もきかないでいるお民をどうすることもできなかった。実に些細ささいなことが人をいたませる。彼に言わせると、享保以前までの彼の先祖はみな無給で庄屋を勤めて来たくらいで、村の肝煎きもいりとも百姓の親方とも呼ばれたものである。その家に生まれた甲斐かいには、せめてこういう時の役に立ちたいものだとは、日ごろの彼の願いであって、あえておろそかにするつもりで妻子を顧みないではないのにと、彼はこれまで用意した嘆願書を筑摩県本庁の方へ持ち出しうる日のことを考えて、わずかに心を慰めようとした。木曾谷中に留山と明山との区別もなかった時分の木租のことを万一本庁の官吏から尋ねられた場合にはと、自分で自分に問うて見る。それに答えることは、そう困難でもなかった。ずっと以前の山地に檜榑ひのきくれ二十六万八千余ちょう土居どい四千三百余の木租を課せられた昔もあるが、しかもその木租のおびただしい運搬川出し等の費用として、人民の宅地その他の課税は差し引かれたも同様に給与せられたと答えることができた。その晩は、彼は香蔵からもらった手紙をもまくらもとに取り出し、あの同門の友人が書いてよこした東京の便たよりを繰り返し読んで見たりなぞして、きげんの悪い妻のそばに寝た。

 王滝行きの日は半蔵は早く起きて、きかえるような四月の朝の空気を吸った。お民もまたきげんを直しながら夫が出発のしたくを手伝うので、半蔵はそれに力を得た。彼は好きで読む歌書なぞを自分の懐中ふところへねじ込んだ。というは、戸長の勤めの身にもわずかのひまを盗み、風雅に事寄せ、歌の友だちをたずねながら、この総代仲間の打ち合わせを果たそうとしたからであった。

「どうだ、お民。だれかに途中であって、どちらへなんて聞かれたら、おれはこの懐中ふところをたたいて見せる。」

 と彼は妻に言って見せた。そういう彼ははかまを着け、筆を携え、腰に笛もさしていた。

「まあ、おもしろい格好だこと。」とお民は言って、そこへ飛んで来た娘にも軽々とした夫のみなりをさして見せて、「お粂、御覧な、おとっさんは笛を腰にさしてお出かけだよ。」

「はッ、はッ、はッ、はッ。」

 半蔵は妻の手からかさを受け取りながら笑った。

「お粂、王滝のお宮の方へ行ったら、お前の分もお参りして来てやるよ。」

 との言葉を彼は娘にも残した。

 したくはできた。そこで半蔵は飄然ひょうぜんと出かけた。戸長の旅費、一日十三銭の定めとは、ちょっと後世から見当もつかない諸物価のかけ離れていた時代だ。それも戸敷割でなしに、今度は彼が自分まかないの小さな旅だった。馬籠から妻籠まで行って、彼はお民の生家さとへ顔を出し、王滝行きの用件を寿平次にも含んで置いてもらって、さらに踏み慣れた街道を奥筋へと取った。妻籠あたりで見る木曾谷は山から伐り出す材木をいかだに組んで流す冬期の作業のための大切な場所の一つにも当たる。その辺まで行くと、薄濁りのした日も緑色にうつくしい木曾川の水が白い花崗みかげの岩に激したり、石を越えたりして、大森林の多い川上の方から瀬の音を立てながら渦巻うずまき流れて来ている。


       四


「老先生へも久しくお便たよりしない。」

 野尻のじり泊まりでまた街道を進んで行くうちに、半蔵はそんなことを胸に浮かべた。馬籠を立ってから二日目の午後のこと、街道を通る旅人もすくなくない。さるを背中にのせた旅の芸人なぞは彼のそばを行き過ぎつつある。あくせくとしたその奔走の途中にふと彼は同門の人たちの方へ思いをせ、師平田鉄胤かねたねの周囲にある先輩らをも振り返って見た。木と木と重なり合う対岸の森の深さが、こちらの街道から見られるようなところだ。

「及ばずながら、自分も復古のために働いている。」

 その考えが彼を励ました。彼も、師を忘れてはいなかった。

 家に置いて来た娘お粂のことも心にかかりながら、半蔵はその足で木曾のかけはし近くまで行った。そこは妻籠あたりのような河原かわらの広い地勢から見ると、ずっと谷のせばまったところである。木曾路での水に近いところである。西よりする旅人は道路に迫ったがけに添い、湿っぽい坂を降りて行って、めずらしい草やこけなどのはえている岩壁の下の位置に一軒の休み茶屋を見いだす。半蔵もそこまで行って汗をふいた。偶然にも、通弁の男を連れ、荷物をつけた馬を茶屋の前にめて、半蔵のそばへ来て足を休める一人の旅の西洋人があった。それ異人が来たと言って、そこいらに腰掛けながら休んでいた旅人までが目をまるくする。前からも後ろからものぞきに行くものがある。もはや、以前のような外人殺傷ざたもあまり聞こえなくなったが、まだそれでも西洋人を扱いつけないものはどんな間違いを引き起こさまいものでもないと言われ、外人が旅行する際の内地人の心得書なるものが土屋総蔵時代に馬籠の村へも回って来ている。それを半蔵も読んで見たことはある。しかし彼の覚えているところでは、この木曾路にまだ外人の通行者のあったためしを聞かない。試みに彼は通弁の方へ行って、自分がこの地方の戸長の一人であることを告げ、初めて見る西洋人の国籍、出発地、それから行く先などを尋ねた。生まれはイギリスの人で、香港ホンコンから横浜の方に渡来したが、十月には名古屋の方に開かれるはずの愛知県英語学校の準備をするため、教師として雇われて行く途中にあるという。東海道回りで赴任しないのは、日本内地の旅が試みたいためであるともいう。そのイギリス人は何を思ったか、いきなり上衣のかくしにいれている日本政府の旅行免状を出して示そうとするから、彼はその必要のないことを告げた。そのイギリス人はまた、彼の職業を通弁から聞いて、この先の村は馬をめるステーションのあるところかと尋ねる。彼は言葉も通じないから、先方で言おうとすることをどう解していいかわからなかったが、人馬継立つぎたての駅ならこの山間に十一か所あると答え、かつては彼もその駅長の一人であったことを告げた。

 通弁を勤める男も慣れたものだ。異人の言葉を取り次ぐことも、旅の案内をすることも、すべて通弁がした。その男は外国人を連れて内地を旅することのまだまだ困難な時であることを半蔵に話し、人家の並んだ宿場風の町を通るごとに多勢ぞろぞろついて来るそのわずらわしさを訴えた。

「へえ、名物あんころもちでございます。」

 と言って休み茶屋のばあさんが手造りにしたやつを客の間へ配りに来た。おしの旅行者のような異人は通弁からその説明を聞いたぎり、試食しようともしなかった。

 間もなく半蔵はこの御休処おやすみどころとした看板のかかったところを出た。その日の泊まりと定めた福島にはいって懇意な旅籠屋はたごや草鞋わらじをぬいでからも、かけはしの方で初めて近く行って見た思いがけない旅の西洋人の印象は容易に彼から離れなかった。過ぐる嘉永かえい六年の夏に、東海道浦賀の宿、久里くりはまの沖合いにあらわれたもの――その黒船の形を変えたものは、下田しもだへも着き、横浜へも着き、三百年の鎖国の事情も顧みないで進み来るような侮りがたい力でもって、今は早瀬を上るあゆのようにこんな深い山間までも入り込んで来た。昨日の黒船は、今日の愛知県の教師だ。これには彼も驚かされた。

 福島から王滝まで、翌日もまた半蔵は道をつづけ、行人橋ぎょうにんばしから御嶽山道について常磐ときわの渡しへと取り、三沢というところで登山者のために備えてあるいかだを待ち、その渡しをも渡って、以前にも泊めてもらった王滝の禰宜ねぎの家の人たちの声を久しぶりで聞いた。

「お客さまだぞい。馬籠の本陣からおいでたげな。」

「おゝ、青山さんか。これはおめずらしい。」



 王滝の戸長遠山五平は禰宜の家からそう遠くない住居すまいの方で、この半蔵が自分の村に到着するのを今日か明日かと心待ちに待ちうけているところであった。山林事件の嘆願書提出については、五平は最初から半蔵の協力者で、谷中総代十五名の中でも贄川にえがわ藪原やぶはら二か村の戸長を語らい合わせ、半蔵と共に名古屋県時代の福島出張所へも訴え出た仲間である。今度二度目の嘆願がこれまでにしたくの整ったというのも、上松あげまつから奥筋の方を受け持った五平の奔走の力によることが多かった。それもいわれのないことではない。この人は先祖代々御嶽の山麓さんろくに住み、王滝川のほとりに散在するあちこちの山村から御嶽裏山へかけての地方じかたの世話を一手に引き受けて、木曾山の大部分を失いかけた人民の苦痛を最も直接に感ずるものの一人もこのふるい庄屋だからであった。王滝は馬籠あたりのように木曾街道に添う位置にないから、五平の家も本陣問屋は兼ねず、したがって諸街道の交通輸送の事業には参加しなかったが、人民と土地とのことを扱う庄屋としては尾州代官の山村氏から絶えず気兼ねをされて来たほどの旧い家柄でもある。

 半蔵が禰宜ねぎの家にかさ草鞋わらじをぬいで置いて、それからたずねて行った時、五平の言葉には、

「青山さん、わたしのように毎日山にむかい合ってるものは、見ちゃいられませんな。これじゃ、木曾の人民も全くひどい。まるで水に離れた魚のようなものです。」

 というと、いかにもこの人は適切なたとえを言い当てたように聞こえるが、その実、魚にはあまり縁がない。水に住むと言えば、この人に親しみのあるのは、池に飼うこいか、王滝川まで上って来る河魚かわうおぐらいに限られている。たまにこの山里へかつがれて来る塩辛い青串魚さんまなぞは骨まで捨てることを惜しみ、炉の火にこんがりとあぶったやつを味わって見るほど魚に縁が遠い。そのかわり、谷へ来る野鳥の類なら、そのなき声をきいただけでもすぐに言い当てるほど多くの鳥の名を諳記そらんじていて、山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどのことには精通していた。

 いったい、こんな山林事件を引き起こした木曾谷に、これまで尾州藩で置いた上松の陣屋があり、白木番所があり、山奉行があり、山守やまもりがあり、留山見回りなぞがあって、これほど森林の保護されて来たというはなんのためか。そこまで話を持って行くと、五平にも半蔵にもそう一口には物が言えなかった。尾州藩にして見ると、年々木曾山から切り出す良い材木はおびただしい数に上り、同藩の財源としてもこの森林地帯を重くみていたように世間から思われがちであるが、その実、河水を利用する檜材の輸送には莫大ばくだいな人手と費用とを要し、小谷狩こたにがり、大谷狩から美濃の綱場を経て遠い市場に送り出されるまで、これが十露盤そろばんずくでできる仕事ではないという。それでもなおかつ尾州藩が多くの努力を惜しまなかったというは、山林保護の精神から出たことは明らかであるが、一つには木曾川下流の氾濫はんらんに備えるためで、同藩が治水事業に苦しんで来た長い歴史は何よりもその辺の消息を語っているとも言わるる。もっとも、これは川下の事情にくわしい人の側から言えることで、遠く川上の方の山の中に住み慣れた地方じかたの人民の多くはそこまでは気づかなかった。ただ、この深い木曾谷が昼でも暗いような森林におおわれた天然の嶮岨けんそ難場なんばであり、木曾福島に関所を置いた昔は鉄砲を改め女を改めるまでに一切の通行者の監視を必要としたほどの封建組織のためにも、徳川直属の代官によってまもられ、尾州大藩によっても護られて来た東山道中の特別な要害地域であったろうとは、半蔵らにも考えられることであった。

 五平は半蔵の方を見て、

「さあ、これが尾州の方へ聞こえたら、旧藩の人たちもどう言いますかさ。支庁のやり口が本当で、木曾の人民の方が無理だと言いますかさ。なんでもわたしの聞いたところじゃ、版籍奉還ということはだいぶ話が違う。版地民籍の奉還と言いましたら、土地も人民も朝廷へ返上することだと、わたしは承知してます。万民を王化に浴させたい。あの尾州あたりが他藩に率先して朝廷へ返上したのも、その趣意から出たことじゃありませんか。こんなにけが人を出してもかまわないつもりで、旧領の山地を返上したわけじゃありますまいに。」

 こんな話の出た後、五平は半蔵の方から預かって置いた山林事件用の書類をそこへ取り出した。半蔵の起草した筑摩県庁あての嘆願書は十五人の総代の手を回って、五平の手もとまで返って来ている。藪原村の戸長を筆頭にして、一同の署名と調印とを済ましたものがそこにある。嘆願書とした文字の上には、うやうやしく「上」と記し「恐れながら書付をもって願い上げ奉りそうろう御事」の書き出しが読まれる。従来木曾谷山地の処置については享保年度からの名古屋一藩かぎりの御制度であるから、今般の御改革で郡県の政治を行なわれるについては本県の管下も他郷一般の処置を下し置かれたいと述べてある。別に年来の情実を本庁の官吏によく知ってもらうため、谷中の人民から旧領主に訴えたことのある古い三通の願書の写しをも添えることにしてある。

「この古い願書の写しを添えて出すことが大切です。」

「さようだ。今日にはじまった問題でもないことがわかりますで。」

 二人ふたりはこんな言葉をかわした。いよいよ来たる五月の十二日を期して再度の嘆願書を差し出すことから、その前日までに贄川にえがわに集まって、四人の総代だけが一同に代わり松本へ出頭するまでの手はずもまった。もし本庁の官吏から今日人民の難渋する事情を問いただされたら、四人のもの各自に口頭をもって答えよう、支庁主任のさしずによる山林規則には谷中の苦情が百出して、総代においても今もってお請けのできかねる事情を述べようと申し合わせた。

 五平は言った。

「この嘆願書の趣意は、官有林を立て置かれることに異存はない。御用材り出し等の備え場も置かねばなるまいから、それらの官有林にはきびしくお取り締まりの制度を立てて、申し渡されるなら、きっと相守る。そのかわり明山あきやまは人民に任せてくれ。新規則以来、人民私有の山地まで官有にあわせられた場処も多くあるが、これも元々どおりに解かれたい。大体にこういうことになりましょう。つまり――一般公平の御処置を仰ぎたい。今のうちに官民協力して、前途百年の方針を打ち建てて置きたい。享保以前のいにしえに復したいということですな。」



 ここへ来るまで、半蔵は野尻のじり旅籠屋はたごやでよく眠らず、福島でもよく眠らずで、遠山五平方から引き返して禰宜ねぎの家に一晩泊まった翌朝になって、ひどく疲れが出た。禰宜宮下の主人が里宮の社殿のあるところまで朝勤めにかよって行って、大太鼓を打ち鳴らしてからまた数町ほどの山道を帰るころでも、彼はゆっくり休んでいた。家の人の雨戸を繰りに来る音を聞くようになって、ようやく彼は寝床からはい出した。

「だいぶごゆっくりでございますな。」

 と言って、宮下の細君が熱い茶に塩漬しおづけの小梅を添えて置いて行ってくれるころが、彼には朝だった。

 里宮の神職と講中こうじゅうの宿とを兼ねたこの禰宜の古い家は、木曾福島から四里半も奥へはいった山麓さんろくの位置にある。木曾山のことを相談する必要が生じてから、過ぐる年も半蔵は王滝へ足を運び、遠山の家をうおりには必ずこの禰宜のところへ来て泊まったが、来て見るたびに変わって行く行者ぎょうじゃ宿の光景が目につく。ここはもはや両部神道の支配するところでもない。部屋へやの壁の上に昔ながらの注連縄しめなわなぞは飾ってあるが、御嶽山おんたけさん座王大権現ざおうだいごんげんとした床の間の軸は取り除かれて、御嶽三社をまつったものがそれに掛けかわっている。

「青山さん、まあきょうは一日ゆっくりなすってください。お宮の方へ御案内すると言って、せがれのやつもしたくしています。」

 と禰宜も彼を見に来て言った。過ぐる文久ぶんきゅう三年、旧暦四月に、彼が父の病をいのるためここへ参籠さんろうにやって来た日のことは、山里の梅が香と共にまた彼の胸に帰って来た。あの時同伴した落合の勝重なぞはまだ前髪をとって、浅黄色あさぎいろ襦袢じゅばんえりのよく似合うほどの少年だった。

「あれからもう十一年にもなりますか。そうでしょうな、あの時青山さんにお清書なぞを見ていただいた忰がことし十八になりますもの。」

 こんな話も出た。

 やがて半蔵は身をきよめ、かさ草鞋わらじなどを宿に預けて置いて、禰宜の子息むすこと連れだちながら里宮参詣さんけいの山道を踏んだ。

「これで春先の雉子きじの飛び出す時分、あの時分はこのお山もわるくありませんよ。」

 十年の月日を置いて来て見ると、ほんの子供のように思われていた禰宜の子息が、もはやこんなことを半蔵に言って見せる若者だ。

 宗教改革の機運が動いた跡はここにも深いものがある。半蔵らが登って行く細道は石の大鳥居の前へ続いているが、路傍に両部時代の遺物で、全く神仏を混淆こんこうしてしまったような、いかがわしい仏体銅像なぞのすでに打ち倒されてあるのを見る。その辺の石碑やほこらの多くは、あるものは嘉永、あるものは弘化こうか、あるものは文久年代の諸国講社の名の彫り刻まれてあるものだ。さすがに多くの門弟を引き連れて来て峻嶮しゅんけんを平らげ、山道を開き、各国に信徒を募ったり、講中を組織したりして、この山のために心血をささげた普寛、神山、一徳の行者らの石碑銅像には手も触れてない。そこに立つ両部時代の遺物の中にはまた、十二権現とか、不動尊とか、三面六を有しいのししの上に踊る三宝荒神とかのわずかに破壊を免れたもののあるのも目につく。

 さらに二人は石の大鳥居から、十六階、二十階より成る二町ほどの石段を登った。左右にすぎとちの林のもれを見て、その長い石段を登って行くだけでも、なんとなくおとなうものの心を澄ませる。何十丈からの大岩石をめぐって、高山の植物の間から清水しみずのしたたり落ちるあたりは、古い社殿のあるところだ。大己貴おおなむち少彦名すくなびこな二柱ふたはしらの神の住居すまいがそこにあった。

 里宮の内部に行なわれた革新は一層半蔵を驚かす。この社殿を今見る形に改めた造営者であり木曾福島の名君としても知られた山村蘇門そもんの寄進にかかる記念の額でも、例の二つの天狗てんぐの面でも、ことに口は耳まで裂け延びた鼻は獣のそれのようで、金胎こんたい両部の信仰のいかに神秘であるかを語って見せているようなその天狗の女性の方の白粉しろいものをほどこした面でも、そこに残存するものはもはや過去の形見だ。一切のからが今はかなぐり捨てられた。護摩ごまの儀式も廃されて、白膠木ぬるでの皮の燃える香気もしない。本殿の奥の厨子ずしの中に長いこと光った大日如来だいにちにょらいの仏像もない。神前の御簾みすのかげに置いてあった経机もない。高山をその中心にし、難行苦行をその修業地にして、あらゆる寒さひもじさに耐えるための中世的な道場であったようなところも、全く面目を一新した。過去何百年の山王を誇った御嶽大権現の山座はくつがえされて、二柱の神のいにしえに帰って行った。杉と檜の枝葉を通して望まれる周囲の森と山の空気、岩づたいに落ちる細い清水の音なぞは、社殿の奥を物静かにする。しばらく半蔵はそこに時を送って、自分の娘のためにもいのった。

 禰宜のもとにもどってから、半蔵は山でもながめながらその日一日王滝の宿に寝ころんで行くことにきめた。宮下の主人は馳走ちそうぶりに、風呂ふろでも沸かそうから、寒詣かんもうでや山開きの季節の客のために昔から用意してある行者宿の湯槽ゆぶねにも身を浸して、疲れを忘れて行けと言ってくれた。

 午後には五平の方から半蔵をたずねて来て、短冊たんざくを取り寄せたり、互いに歌をよみかわしたりするような、ささやかな席が開けた。そこへあか毛氈もうせんを持ち込み、半折はんせつ画箋紙がせんしなぞをひろげ、たまにしか見えない半蔵に何か山へ来た形見を残して置いて行けと言い出すのは禰宜だ。子息も来て、そのそばで墨をった。そこいらには半蔵が馬籠から持って来た歌書なども取り散らしてある。簀巻すまきにして携えて来た筆も置いてある。求めらるるままに、彼は自作のふるい歌の一つをその紙の上に書きつけた。

おもふどちあそぶ春日はるひ青柳あおやぎ千条ちすじの糸の長くとぞおもふ    半蔵

 五平はそのそばにいて、

「これはおもしろく書けた。」

「でも、この下の句がわたしはすこし気に入らん。」と半蔵は自分で自分の書いたものをながめながら、「思うという言葉が二つ重なって、どうも落ちつかない。」

「そんなことはない。」

 と五平は言っていた。

 時には、半蔵は席を離れて、ながめを自由にするためにその座敷の廊下のところへ出た。山里の中の山里ともいうべき御嶽のすその谷がその位置から望まれる。そこへも五平が立って来て、谷の下の方に遠く光る王滝川を半蔵と一緒にながめた。木と木のこずえの重なり合った原生林の感じも深く目につくところで、今はほとんど自由に入山いりやま伐木の許さるる場処もない。しかし、半蔵は、他に客のあるけはいもするこの禰宜の家で五平と一緒になってからは、総代仲間の話なぞを一切口にしなかった。五平はまた五平で、そこの山、ここの谷を半蔵にさして見せ、ただ風景としてのみ、生まれ故郷を語るだけであった。

 もはや、温暖あたたかい雨は幾たびとなく木曾の奥地をも通り過ぎて行ったころである。山鶯やまうぐいすもしきりになく。五平が贄川にえがわでの再会を約して別れて行った後、半蔵はひとり歌書などを読みちらした。夕方からはことに春先のような陽気で、川の流れを中心にわき立つもやが谷をこめた。そろそろ燈火あかりのつく遠い農家をながめながら、馬籠を出しなに腰にさして来た笛なぞを取り出した時は、しばらく彼もさみしく楽しい徒然つれづれに身をまかせていた。

 翌朝は早く山をたつ人もある。遠い国からの参詣者さんけいしゃの中には、薄暗いうちから起きて帰りじたくをはじめる講中仲間もある。着物も白、帯も白、鉢巻はちまきも白、すべて白ずくめな山の巡礼者と前後して、やがて半蔵も禰宜の家の人たちに別れを告げて出た。彼が帰って行く山道の行く先には、手にする金剛杖こんごうづえもめずらしそうな人々の腰に着けた鈴の音が起こった。王政第六の春もその四月ころには、御嶽のふもとから王滝川について木曾福島の町まで出ると、おそらく地方の発行としては先駆と言ってよい名古屋本町通りの文明社から出る木版彫刻半紙六枚の名古屋新聞が週報ながらに到着するころである。時事の報道を主とする伝聞雑誌のごとき体裁しかそなえていないものではあるが、それらの週報は欧米教育事業の視察の途に上った旧名古屋藩士、田中不二麿ふじまろが消息を伝えるころである。過ぐる四年の十一月十日、特命全権の重大な任務を帯びて日本を出発した岩倉大使の一行がどんな土産みやげをもたらして欧米から帰朝するかは、これまた多く人の注意のまととなっていた時だ。その一行、随員従者留学生等総員百七名の中に、佐賀県人の久米邦武くめくにたけがある。この人は、ただ文書のことを受け持つために大使の随行を命ぜられたばかりでなく、特に政府の神祇省じんぎしょうから選抜されて一行に加わった一人の国学者としても、よろしくその立場から欧米の文明を観察せよとの内意を受け、新興日本の基礎を作る上に国学をもってする意気込みであるとのうわさは、ことに平田一門の人たちに強い衝動を与えずにはおかなかった。地方一戸長としての半蔵なぞが隠れた草叢くさむらの間に奔走をつづけていて、西をさして木曾路を帰って行くころは、あの本居もとおり平田諸大人の流れをくむもののおそかれ早かれ直面しなければならないようなある時が彼のような後輩をも待っていたのである。


       五


 五月十二日も近づいたころ、福島支庁からの召喚状が馬籠にある戸長役場の方に届いた。戸長青山半蔵あてで。

 半蔵は役場で一通り読んで見た。それには、五月十二日の午前十時までに当支庁に出頭せよとある。ただし代人を許さない。言い渡すべき件があるから、この召喚状持参の上、自身出頭のこととある。彼は自宅の方に持ち帰って、さらによく読んで見た。この呼び出しに応ずると、遠山五平らに約束して置いたことが果たせない。その日を期し、総代四人のものが勢ぞろいして本庁の方へ同行することもおぼつかない。のみならず、彼はこの召喚状を手にして、ある予感に打たれずにはいられなかった。

 とりあえず、彼は福島へ呼び出されて行くことを隣家の伊之助に告げ、王滝の方へも使いを出して置いて、戸長らしいはかまを着けるのもそこそこに、また西のはずれから木曾路をたどった。この福島行きには、彼は心も進まなかった。

 筑摩県支庁。そこは名古屋県時代の出張所にあててあった本営のまま、まだ福島興禅寺に置いてある。街道について福島の町にはいると、大手橋から向かって右に当たる。指定の刻限までに半蔵はその仮の役所に着いた。待つこと三十分ばかりで、彼は支庁の官吏や下役などの前に呼び出された。やがて、掛りの役人が一通の書付を取り出し、左の意味のものを半蔵に読み聞かせた。

「今日限り、戸長免職と心得よ。」

 とある。

 はたして、半蔵の呼び出されたのは他の用事でもなかった。もっとも、免職は戸長にとどまり、学事掛りは従前のとおりとあったが、彼は支庁の人たちを相手にするのは到底むだだと知っていた。実に瞬間に、彼も物を見定めねばならなかった。一礼して、そのまま引き下がった。

 興禅寺の門を出て、支庁から引き取って行こうとした時、半蔵はその辺の屋敷町に住む旧士族に行きあい、わずかの挨拶あいさつの言葉をかわした。その人は、福島にある彼の歌の友だちで、香川景樹かがわかげきの流れをくむものの一人ひとりで、何か用達ようたしに町を出歩いているところであったが、彼の顔色の青ざめていることが先方を驚かした。歩けば歩くほど彼は支庁の役人から戸長免職を言い渡された時のぐっとこたえたこころもちを引き出された。言うまでもなく、村方むらかた総代仲間が山林規則を過酷であるとして、まさに筑摩県庁あての嘆願書を提出するばかりにしたくをととのえたことが、支庁の人たちの探るところとなったのだ。彼はその主唱者とにらまれたのだ。たとえようのないこころもちで、彼は山村氏が代官屋敷の跡に出た。瓦解がかいの跡にはもう新しい草が見られる。ここが三むねの高い鱗葺こけらぶきの建物の跡か、そこが広間や書院の跡かと歩き回った。その足で彼は大手橋を渡った。橋の上から見うる木曾川の早い流れ、光る瀬、その河底かわぞこの石までが妙に彼の目に映った。

 かさ草鞋わらじのしたくもそこそこに帰路につこうとしたころの彼は、福島での知人の家などをたずねる心も持たなかった人である。街道へは、ぽつぽつ五月の雨が来る。行く先に残った花やさわやかな若葉に来る雨は彼のほおにも耳にも来たが、彼はそれを意にも留めずに、季節がら吹き降りの中をすたすた上松あげまつまで歩いた。さらに野尻のじりまで歩いた。その晩の野尻泊まりの旅籠屋はたごやでも、彼はよく眠らなかった。

 翌日の帰り道には、朝から晴れた。青々とした空の下へ出て行って、ようやく彼も心の憤りを沈めることができた。いろいろ思い出すことがまとまって彼の胸に帰って来た。

「御一新がこんなことでいいのか。」

 とひとり言って見た。時には彼は路傍の石の上に笠を敷き、枝も細く緑も柔らかななつめの木の陰から木曾川の光って見えるところに腰掛けながら考えた。

 消えうせべくもない感銘の忘れがたさから、彼はあの新時代の先駆のような東山道軍が岩倉公子を総督にして西からこの木曾街道を進んで来た時の方に思いをせた。当時は新政府の信用もまだ一般に薄かった。沿道諸藩の向背こうはいのほども測りがたかった。何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならないとして、あの東山道総督執事が地方人民に応援を求める意味の布告を発したことは一度や二度にとどまらなかった。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨えいしであるぞと触れ出されたのもあの時であった。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来苛政かせいに苦しめられて来たもの、その他子細あるものなどは、遠慮なくそのむねを本陣に届けいでよと言われ、彼も本陣役の一人として直接その衝に当たったことはまだ彼には昨日のことのようでもある。彼半蔵のような愚直なものが忘れようとして忘れられないのは、民意の尊重を約束して出発したあの新政府の意気込みであった。彼が多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てたというのは、新政府の代理人ともいうべき官吏にこの約束を行なってもらいたいからであった。

 小松の影を落とした川の中淵なかぶちを右手に望みながら、また彼は歩き出した。彼の心は、日ごろから嘆願書提出のことに同意してくれているが、しかし福島支庁の権判事ごんはんじがかわりでもしないうちはだめだというらしいあの寿平次の方へ行った。

 彼は言って見た。

「相変わらず、寿平次さんは高見の見物だろうか。」

 彼の心は隣家伏見屋の伊之助の方へも行った。

「伊之助さんか。あの人は目をつぶっておれと言う。このおれにも――見るなと言う。」

 彼の心はまた、村の万福寺の松雲和尚の方へも行った。

「和尚さまと来たら、用はないと言うそうな。」

 しかし、彼はあの松雲たりとも禅僧らしく戦おうとはしていることを知っていた。

 五月の森の光景は行く先にひらけた。ひのきけやきにまじる雑木のさわやかな緑がまたよみがえって、その間には木曾路らしいむらさきいろの山つつじが咲き乱れていた。全山の面積およそ三十八万町歩あまりのうち、その十分の九にわたるほどの大部分が官有地に編入され、民有地としての耕地、宅地、山林、それに原野をあわせてわずかにその十分の一に過ぎなくなった。新しい木曾谷の統治者が旧尾州領の山地を没取するのに不思議はないというような理屈からこれは来ているのか、郡県政治の当局者が人民を信じないことにかけては封建時代からまだ一歩も踏み出していない証拠であるのか、いずれとも言えないことであった。ともあれ、いかに支庁の役人が督促しようとも、このまま山林規則のお請けをして、泣き寝入りにすべきこととは彼には思われなかった。父にできなければ子に伝えても、旧領主時代から紛争の絶えないようなこの長い山林事件をなんらかの良い解決に導かないのはうそだとも思われた。須原すはらから三留野みどの、三留野から妻籠へと近づくにつれて、山にもたよることのできないこの地方の前途のことがいろいろに考えられて来た。家をさして帰って行くころの彼はもはや戸長ででもなかった。

〈[#改頁]〉


     第九章


       一


 八月の来るころには、娘おくめが結婚の日取りも近づきつつあった。例の木曾谷きそだにの山林事件もそのころになれば一段落を告げるであろうし、半蔵のからだもいくらかひまになろうとは、春以来おまんやお民の言い合わせていたことである。かねてこの縁談の仲にはいってくれた人が伊那いなの谷から見えて、吉辰良日きっしんりょうじつのことにつき前もって相談のあったおりに、青山の家としては来たる九月のうちを選んだのもそのためであった。さて、その日取りも次第に近づいて見ると、三十三か村の人民総代として半蔵らが寝食も忘れるばかりに周旋奔走した山林事件は意外にもつれた形のものとなって行った。

 もとより、福島支庁から言い渡された半蔵の戸長免職はきびしい督責を意味する。彼が旧庄屋しょうや(戸長はその改称)としての生涯しょうがいもその時を終わりとする。彼も御一新の成就じょうじゅということを心がけて、せめてこういう時の役に立ちたいと願ったばっかりに、その職を失わねばならなかった。親代々から一村の長として、百姓どもへ伝達の事件をはじめ、平生種々さまざまな村方の世話駈引かけひき等を励んで来たその役目もすでに過去のものとなった。今は学事掛りとしての仕事だけが彼の手に残った。彼の継母や妻にとっても、これは思いがけない山林事件の結果である。娘お粂が結婚の日取りの近づいて来たのは、この青山一家にふるい背景の消えて行く際だ。



 仲人なこうど参上の節は供一人ひとり、右へ御料理がましいことは御無用に願いたし。もっとも、神酒みき二汁にじゅう、三菜、それに一泊を願いたし。これはその年の二月に伊那南殿村の稲葉家から届いた吉辰申し合わせの書付の中の文句である。お民はそれを先方から望まれるとおりにした上、すでに結納ゆいのうのしるしまでも受け取ってある。それは帯地一巻持参したいところであるが、間に合いかねるからと言って、白無垢しろむく一反、それに酒の差樽さしだるを祝って来てある。これまでにお粂の縁談をまとめてくれたのもほかならぬしゅうとめおまんであり、その人は半蔵にとっても義理ある母であるのに、かんじんのお粂はとかく結婚に心も進まなかった。のみならず、この娘を懇望する稲葉家の人たちに、半蔵の戸長免職がどう響くかということすら、お民には気づかわれた。そういうお民の目に映る娘は、ますます父半蔵に似て行くような子である。弟の宗太そうたなぞ、明治四年のころはまだ十四歳のうら若さに当時名古屋県の福島出張所から名主なぬし見習いを申し付けられたほどで、この子にこそ父のおもかげの伝わりそうなものであるが、そのことがなく、かえって姉娘の方にそれがあらわれた。お民は、成長したお粂の後ろ姿を見るたびに、ほんとに父親にそっくりなような娘ができたと思わずにいられない。半蔵は熱心な子女の教育者だから、いつのまにかお粂も父の深い感化を受け、日ごろ父の尊信する本居もとおり平田ひらた諸大人をありがたい人たちに思うような心を養われて来ている。お粂は性来の感じやすさから、父が戸長の職をがれ青ざめた顔をして木曾福島から家に帰って来た時なぞも、彼女の小さな胸をいためたことは一通りでなかった。彼女は、かずかずの数奇すきな運命に娘心を打たれたというふうで、

「わたしはこうしちゃいられないような気がする。」

 と言って、母のそばによく眠らなかったほどの娘だ。

 しかし、お民はお民なりに、この娘を励まし、一方には強い個性をもった姑との間にも立って、戸長免職後の半蔵を助けながら精いっぱい働こうと思い立っていた。以前にお民が妻籠つまご旧本陣をたずねたおり、おばあさんや兄夫婦のいるあの生家さとの方で見て来たことは、自給自足の生活がそこにも始まっていることであった。お民はそれを夫の家にも応用しようとした。彼女は周囲を見回した。もっと養蚕を励もうとさえ思えば、広い玄関の次の間から、仲の間、奥の間まで、そこには蚕のたなを置くこともできるような旧本陣の部屋へや部屋が彼女を待っていた。髪につける油を自分で絞ろうとさえ思えば、毎年表庭の片すみに実を結ぶ古い椿つばきを役に立てることもできた。四人の子を控えた母親として、ことにまだ幼い二人ふたりのものを無事に育てたいとの心願から、お民もその決心に至ったのである。彼女はまた持って生まれた快活さで、からだもよく動く。ほおの色なぞはつやつやと熟した林檎りんごのようにあかい。

 ある日、お民は娘が嫁入りじたくのために注文して置いた染め物の中にまだ間に合わないもののあるのをもどかしく思いながら、取り出す器物の用があって裏の土蔵の方へ行った。入り口の石段の上には夫の履物はきものが脱いである。赤くびた金網張りの重い戸にも大きな錠がはずしてある。ごとごと二階の方で音がするので、何げなくお民は梯子段はしごだんを登って行って見た。青山の家に伝わる古刀、古い書画の軸、そのほか吉左衛門が生前に蒐集しゅうしゅうして置いたような古い茶器の類なぞを取り出して思案顔でいる半蔵をそこに見つけた。そこは板敷きになった階上で、おまんの古い長持ながもちや、お民が妻籠から持って来た長持なぞの中央に置き並べてあるところだ。何十年もかかって半蔵の集めた和漢の蔵書も壁によせて積み重ねてあるところだ。その時、お民は諸方の旧家に始まっている売り立てのうわさに結びつけて、そんな隠れたところに夫が弱味をのぞいて見た時は、胸が迫った。


       二


 土蔵の建物と裏二階の隠居所とは井戸の方へ通う細道一つへだてて、目と鼻の間にある。お民はその足で裏二階の方に姑を見に行った。娘を伊那へ送り出すまで、何かにつけてお民が相談相手と頼んでいるのは、おまんのほかになかったからで。

「おっかさん。」

 と声をかけると、ちょうどおまんは小用でもしに立って行った時と見えて、日ごろ姑がかわいがっている毛並みの白いねこだけが麻の座蒲団ざぶとんの上に背をまるくして、うずくまっていた。二間を仕切る二階の部屋へやふすまも取りはずしてあるころで、すべて吉左衛門が隠居時代の形見らしく、そっくり形もくずさずに住みなしてある。そこいらには、針仕事の好きな姑が孫娘のために縫いかけた長襦袢ながじゅばんのきれなぞも取りちらしてあって、そこにもお粂が結婚の日取りの近づいたことを語っている。古い針箱のそばによせて、小さな味醂みりんかめの片づけずに置いてあるのもお民をほほえませた。姑のような年取った女の飲む甘いお酒が押入れの中に隠してあることをお民も知っているからであった。

 そのうちに、おまんはお民のいるところへもどって来て、

「お民か。お前はちょうどよいところへ来てくれた。稲葉のおそのさん(おまんが里方の夫人)へはわたしから返事を出して置いたよ。あのおそのさんもお前、いろいろ心配していてくれると見えてね、馬籠まごめから上伊那の南殿村まで女の足では三日路というくらいのところだから、わざわざ諸道具なぞ持ち運ぶには及ばん、お粂の箪笥たんす、長持、針箱の類はこちらで取りそろえて置くと言ってよこしたさ。手洗いおけ、足洗い桶なぞもね。ごらんな、なんとかこちらからも言ってやらなけりゃ悪いから、御承知のとおりな遠路とおみちなことじゃあるし、お民も不調法者で、したくも行き届かないが、まあ万事よろしく頼む――そうわたしは返事を書いてやったよ。」

「どうでしょう、おっかさん、今度の山林事件が稲葉へは響きますまいか。うちじゃ、もう庄屋でも、戸長でもありませんよ。」とお民が言って見る。

「そんな稲葉の家じゃあらすかい。いったん結納の品まで取りかわして、改めて親類のさかずきでもかわそうと約束したものが、家の事情でそれを反古ほごにするような水臭い人たちなら、最初からわたしはお粂の世話なんぞしないよ。あのおそのさんはじめ、それは義理堅い、正しい人だからね。」

 おまんはその調子だ。



 ここですこしこの半蔵が継母のことを語って置くのも、山国の婦人というものを知る上にむだなわざではないだろう。おまんも年は取って、切りさげた髪はもはや半ば白かったが、あの水戸みと浪士の同勢がおのおの手にして来た鋭い抜き身のやりや抜刀をも恐れずにひとりで本陣の玄関のところへ応接に出たような、その気象はまだ失わずにある。そういうおまんの教養は、まったく彼女の母から来ている。母は、高遠たかとお内藤大和守ないとうやまとのかみの藩中で、坂本流砲術の創始者として知られた坂本孫四郎の娘にあたる。ゆえあって母は初婚の夫の家を去り、その母と共に南殿村の稲葉の家に養われたのがおまんだ。婦人ながらに漢籍にも通じ、読み書きの道をお粂に教え、時には『古今集』の序を諳誦あんしょうさせたり、『源氏物語』を読ませたりして、おさを持つことや庖丁ほうちょうを持つことを教えるお民とは別の意味で孫娘を導いて来たのもまたおまんだ。年をとればとるほど、彼女は祖父孫四郎の武士気質かたぎをなつかしむような人である。

 このおまんは継母として、もう長いこと義理ある半蔵をみまもって来た。半蔵があの中津川の景蔵や同じ町の香蔵などの学友と共に、若い時分から勤王家の運動に心を寄せていることを家中のだれよりも先に看破みやぶったくらいのおまんだから、今さら半蔵がなすべきことをなして、そのために福島支庁からきびしい督責をこうむったと聞かされても、そんなことには驚かない。ただただおまんは、吉左衛門や金兵衛が生前によく語り合ったことを思い出して、半蔵にこの青山の家がやりおおせるか、どうかと危ぶんでいる。

 お民を前に置いて、おまんは縫いかけた長襦袢ながじゅばんのきれを取り上げながら、また話しつづけた。目のさめるような京染めの紅絹もみの色は、これからとついで行こうとする子に着せるものにふさわしい。

「そう言えば、お民、半蔵が吾家うちの地所や竹藪たけやぶを伏見屋へ譲ったげなが、お前もお聞きかい。」

 おまんの言う地所の譲り渡しとは、旧本陣屋敷裏の地続きにあたる竹藪の一部と、青山家所有のある屋敷地二とを隣家の伊之助に売却したのをさす。藪五両、地所二十五両である。その時の親戚請人しんせきうけにんには栄吉、保証人は峠の旧組頭くみがしら平兵衛である。相変わらず半蔵のもとへ手伝いにかよって来る清助からおまんはくわしいことを聞き知った。それがお粂の嫁入りじたくの料に当てられるであろうことは、おまんにもお民にも想像がつく。

「たぶん、こんなことになるだろうとは、わたしも思っていたよ。」とまたおまんは言葉をついで、「そりゃ、本陣から娘を送り出すのに、七通りの晴衣はれぎもそろえてやれないようなことじゃ、お粂だって肩身が狭かろうからね。七通りと言えば、地白、地赤、地黒、総模様、腰模様、すそ模様、それに紋付ときまったものさ。古式の御祝言ごしゅうげんでは、そのたびにお吸物も変わるからね。しかし、今度のような場合は特別さ。今度だけはお前、しかたがないとしても、旦那だんな(吉左衛門)が半蔵にのこして置いて行った先祖代々からの山や田地はまだ相応にあるはずだ。あれがかじの取りよう一つで、この家がやれないことはないとわたしは思うよ。無器用に生まれついて来たのは性分しょうぶんでしかたがないとしても、もうすこし半蔵には経済の才をくれたいッて、旦那が達者たっしゃでいる時分にはよくそのお話さ。」

 そういうおまんは何かにつけて自分の旦那の時代を恋しく思い出している。この宿場の全盛なころには街道を通る大名という大名、公役という公役、その他、世に時めく人たちで、青山の家の上段の間に寝泊まりしたり休息したりして行かないものはなかった。過ぐる年月の間の意味ある通行を数えて見ても、彦根ひこねよりする井伊掃部頭かもんのかみ、名古屋よりする成瀬隼人之正なるせはやとのしょう、江戸よりする長崎奉行水野筑後守ちくごのかみ、老中間部下総守まなべしもうさのかみ、林大学頭だいがくのかみ、監察岩瀬肥後守ひごのかみから、水戸の武田耕雲斎たけだこううんさい、旧幕府の大目付おおめつけで外国奉行を兼ねた山口駿河守するがのかみなぞまで――御一新以前だけでも、それらの歴史の上の人物はいずれもこの旧本陣に時を送って行った。それを記念する意味からも、おまんは自分の忘れがたい旦那と生涯しょうがいを共にしたこの青山の家をそう粗末には考えられないとしていた。たとい、城をまくらにするような日がやって来ても、旧本陣の格式はくずしたくないというのがおまんであった。

 お民は母屋もやの方へもどりかける時に言った。

「おっかさん、あなたのようにそう心配したらきりがない。見ていてくださいよ。わたしもこれから精いっぱい働きますからね。そう言えば、稲葉の家の方からは、来月の二十二日か、二十三日が、日が良いと言って来てありますよ。まあ、わたしもぐずぐずしちゃいられない。」


       三


 その月の末、平田同門の先輩の中でもことに半蔵には親しみの深い暮田正香くれたまさかの東京方面から木曾路きそじを下って来るという通知が彼のもとへ届いた。

 半蔵は久しぶりであの先輩を見うるよろこびを妻に分け、お民と共にその日を待ち受けた。今は半蔵も村方一同の希望をいれ、自ら進んで教師の職につき、万福寺を仮教場にあてた学校の名も自ら「敬義学校」というのを選んで、毎日子供たちを教えに行く村夫子そんふうしの身に甘んじている。彼も教えてむことを知らないような人だ。正香の着くという日の午後、彼は寺の方から引き返して来て、早速さっそく家の店座敷に珍客を待つ用意をはじめた。お民が来て見るたびに、彼は部屋へやを片づけていた。

 旧宿場三役の廃止以来、青山の家ももはや以前のような本陣ではなかったが、それでも新たにかれた徴兵令の初めての検査を受けに福島まで行くという村の若者なぞは改まった顔つきで、一人ひとり村方惣代むらかたそうだいに付き添われながらわざわざ門口まで挨拶あいさつに来る。街道には八月の日のあたったころである。その草いきれのする道を踏んで遠くやって来る旅人を親切にもてなそうとすることは、半蔵夫婦のような古い街道筋に住むものが長い間に養い得た気風だ。

 お民は待ち受ける客人のためにして置いた唐草からくさ模様の蒲団ふとんを取り込みに、西側の廊下の方へ行った。その廊下は母屋もやの西北にめぐらしてあって、客でも泊める時のほかは使わない奥の間、今は神殿にして産土神うぶすなさまを祭ってある上段の間の方まで続いて行っている。北の坪庭も静かな時だ。何げなくお民はその庭の見える廊下のところへ出てながめると人気ひとけのないのをよいことにして近所のねこがそこに入り込んで来ている。ひところはしゅうとめおまんの手飼いの白でも慕って来るかして、人の赤児あかごのようにく近所の三毛や黒のなき声がうるさいほどお民の耳についたが、今はそんな声もしないかわりに、庭のなしの葉の深い陰を落としているあたりは小さな獣の集まる場所に変わっている。思わずお民は時を送った。生まれて半歳はんとしばかりにしかならないような若い猫の愛らしさに気を取られて、しばらく彼女も客人のことなぞを忘れていた。彼女の目に映るは、一息に延びて行くものの若々しさであった。その動作にはなんのこだわりもなく、その毛並みにはすこしの汚れもない。生長あるのみ。しかも、小さな獣としてはまれに見る美しさだ。目にある幾匹かの若い猫はまた食うことも忘れているかのように、そこに軽やかな空気をつくる。走る。ころげ回る。その一つ一つが示すしなやかな姿態は、まるで、草と花のことだけしか思わない娘たちか何かを見るように。

 その辺はりゅうひげなぞの深い草叢くさむらをなして、青い中に点々とした濃い緑が一層あたりを憂鬱ゆううつなくらいに見せているところである。あちこちに集まる猫はこの苔蒸こけむしてひっそりとした坪庭の内を彼らが戯れの場所と化した。一方の草の茂みに隠れて、寄り添う二匹の見慣れない猫もあった。ふと、お民が気がついた時は、下女のお徳まで台所の方から来た。その庭にばかり近所の猫が入り込むのを見ると、お徳は縁先にある手洗鉢ちょうずばちの水でもぶッかけてやりたいほど、「うるさい、うるさい。」と言っていながら、やっぱり猫のような動物の世界にも好いた同志というものはあると知った時は、廊下の柱のそばに立って動かなかった。ちょうど、おくめも表玄関に近い板敷きの方で織りかけていたはたを早じまいにして、その廊下つづきの方へ通って来た。そこはお民やお粂が髪をとかす時に使う小さな座敷である。その時、お民は廊下の離れた位置から娘の様子をよく見ようとしたが、それはかなわなかった。というのは、お粂は見るまじきものをその納戸なんどの窓の下に見たというふうで、また急いで西側の廊下の方へ行って隠れたからで。



「あなた、ようやくわたしにはお粂の見通しがつきましたよ。」

 と言って、お民が店座敷へ顔を出した時は、半蔵は客の待ちどおしさに部屋へやのなかを静かに歩き回っていた。お民に言わせると、女の男にあうみちは教えられるまでもないのに、あれほど家のおばあさんから女はとつぐべきものと言い聞かせられながら、とかくお粂が心の進まないらしいのは、全くその方の知恵があの子に遅れているのであろうというのであった。もっとも、その他の事にかけては、お粂は年寄りのようによく気のつく娘で、母親の彼女よりも弟たちの世話を焼くくらいであるが、とも付け添えた。

「何を言い出すやら。」

 半蔵は笑って取り合わなかった。

 どうして半蔵がこんなに先輩の正香を待ったかというに、過ぐる版籍奉還のころを一期とし、また廃藩置県のころを一期とする地方の空気のあわただしさに妨げられて、心ならずも同門の人たちとの往来から遠ざかっていたからで。そればかりではない。復古の道、平田一門の前途――彼にはかずかずの心にかかることがあるからであった。

 正香は一人の供を連れて、その日の夕方に馬で着いた。明荷葛籠あきにつづら蒲団ふとんの上なぞよりも、馬のしりの軽い方を選び、小付こづけ荷物と共に馬からおりて、檜笠ひのきがさひもを解いたところは、いかにもこの人の旅姿にふさわしい。

「やあ。」

 正香と半蔵とが久々の顔を合わせた時は、どっちが先とも言えないようなその「やあ」が二人ふたりの口をついて出た。客を迎えるお民のうしろについて、いそいそと茶道具なぞ店座敷の方へ持ち運ぶ娘までが、日ごろ沈みがちなお粂とは別人のようである。子供本位のお民はうれしさのあまり、勝手のいそがしさの中にもなおよく注意して見ると、娘はすぐ下の十六歳になる弟に、

「宗太、きょうのお客さまは平田先生の御門人だよ。」

 と言って見せるばかりでなく、五歳になる弟まで呼んで、

森夫もりおもおいで。さあ、おベベを着かえましょうね。」

 と、よろこぶ様子である。まるで、父の先輩が彼女のところへでも訪れて来てくれたかのように。これにはお民も驚いて、さっぱりとした涼しそうなものに着かえている自分の娘を見直したくらいだ。そこへ下男の佐吉も、山家らしい風呂ふろの用意がすでにできていることを店座敷の方へ告げに行く。

 半蔵は正香に言った。

「暮田さん、お風呂ふろが沸いてます。まず汗でもお流しになったら。」

「じゃ、一ぱいごちそうになるかな。木曾まで来ると、なんとなく旅の気分がちがいますね。ここは山郭公やまほととぎすの声でも聞かれそうなところですね」


       四


 やがて半蔵の前に来てくつろいだ先輩は、明治二年に皇学所監察に進み、同じく三年には学制取調御用掛り、同じく四年にはさらに大学出仕を仰せ付けられたほどの閲歴をもつ人であるが、あまりに昇進の早いのをねたむ同輩のためにざんせられて、山口藩和歌山藩等にお預けの身となったような境涯きょうがいをも踏んで来ている。今度、賀茂かも神社の少宮司しょうぐうじに任ぜられて、これから西の方へ下る旅の途中にあるという。

 半蔵は日ごろの無沙汰ぶさたのわびから始めて、多事な街道と村方の世話に今日まであくせくとした月日を送って来たことを正香に語った。木曾福島の廃関に。本陣、わき本陣、問屋、庄屋、組頭の廃止に。一切の宿場の改変に。引きつづく木曾谷の山林事件に。彼は一日も忘れることのない師鉄胤かねたねのもとにすら久しいこと便たよりもしないくらいであったと語った。彼はまた、師のあとを追って東京に出た中津川の友人香蔵のことを正香の前に言い出し、師が参与と神祇官じんぎかん判事とを兼ねて後には内国局判事と侍講との重い位置にあったころは、(ちなみに、鉄胤は大学大博士ででもあった)、あの友人も神祇権少史ごんしょうしにまで進んだが、今は客舎に病むと聞くと語った。彼らは互いに執る道こそ異なれ、同じ御一新の成就を期待して来たとも語った。香蔵からは、いつぞやも便りがあって、「同門の人たちは皆祭葬の事にまで復古を実行しているのに、君の家ではまだ神葬祭にもしないのか」と言ってよこしたが、木曾山のために当時奔走最中の彼が暗い行燈あんどんのかげにその手紙を読んだ時は、思わず涙をそそった。そんな話も出た。

「暮田さん、あなたにお目にかけるものがある。」

 と言って、半蔵は一幅の軸を袋戸棚ふくろとだなから取り出した。それを部屋へやの壁に掛けて正香に見せた。

 すず屋翁やのおきな画詠、柿本大人かきのもとのうし像、師岡正胤主もろおかまさたねぬし恵贈としたものがそこにあった。それはやはり同門の人たちの動静を語るもので、今は松尾大宮司だいぐうじとして京都と東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤を中津川の方に迎え、その人を中心に東濃地方同門の四、五人の旧知のものが小集を催した時の記念である。その時の正胤から半蔵に贈られたものである。本居宣長もとおりのりながの筆になった人麿ひとまろの画像もなつかしいものではあったが、それにもまして正香をよろこばせたのは、画像の上に書きつけてある柿本大人のさんだ。宣長と署名した書体にも特色があった。あだかも、三十五年にわたる古事記の研究をのこした大先輩がその部屋に語り合う正香と半蔵との前にいて、古代の万葉人をさし示し、和魂にぎみたま荒魂あらみたま兼ねそなわる健全な人の姿を今の正眼まさめよとも言い、あの歌に耳を傾けよとも言って、そこにいる弟子でしの弟子たちを励ますかのようにも見えた。



 半蔵の継母が孫たちを連れてそこへ挨拶あいさつに来たので、しばらく二人の話は途切れた。これは半蔵の長男、これは三男とおまんに言われて、宗太や森夫も改まった顔つきをしながら客の前へお辞儀に出る。

「暮田さんは信州岩村田の御出身でいらっしゃるそうですね。そういえば、どっか山国のおかたらしい。」とおまんは客に言って、勝手の方からぜんを運ぶお粂を顧みながら、「こんな山家で何もおかまいはできませんが、まあ、ごゆっくりなすってください。」

 お粂が持って来て客と父との前に置いた膳の上には、季節がらの胡瓜きゅうりもみ、青紫蘇あおじそ、枝豆、それにきざみずるめなぞを酒のさかなに、猪口ちょく割箸わりばしもそろった。おまんがそれを見て部屋から退くころには、正香はもうあぐらにやる。

「どれ、あの記念の扇子を暮田さんにお目にかけるか。」

 と半蔵は言って、師岡正胤らと共に中津川の方で書いたものを正香の前にひろげて見せた。平田篤胤あつたね没後の門人らの思い思いにしるしつけた述懐の歌がその扇子の両面にある。からい、甘い、限り知られない味わいをふくみ持った世のありさまではあるぞとした意味のものもある。こうして互いにつつがなくめぐりあって見ると、八年は夢のような気がするとした意味のものもある。おくれまいと思ったことは昔であって、今は人のあとにも立ち得ないというような、そんな思いを寄せてあるのは師岡正胤だ。

「へえ、師岡がこんな歌を置いて行きましたかい。」

 と言いながら、正香はその扇面に見入った。過ぐる文久三年、例の等持院にある足利あしかが将軍らの木像の首を抜き取って京都三条河原がわらさらし物にした血気さかんなころの正香の相手は、この正胤だ。その後、正香が伊那いなの谷へ来て隠れていた時代は、正胤は上田藩の方に六年お預けの身で、最初の一年間は紋付を着ることも許されず、ただ白無垢しろむくのみを許され、日のめも見ることのできない北向きの一室にすわらせられ、わずかに食事ごとの箸先を食い削ってそれを筆に代えながら、襦袢じゅばん袖口そでぐちから絞るあいのしずくで鼻紙にしるしつける歌日記を幽閉中唯一の慰めとしていたという。先帝崩御ほうぎょのおりの大赦がなかったら、正胤もどうなっていたかわからなかった。この人のことは正香もくわしい。

 その時、半蔵は先輩に酒をすすめながら、旧庄屋の職を失うまでの自分のにがい経験を、山林事件のあらましを語り出した。彼に言わせると、もしこの木曾谷が今しばらく尾州藩の手を離れずにあって、年来の情実にも明るい人が名古屋県出張所の官吏として在職していてくれたら、もっと良い解決も望めたであろう。今のうちに官民一致して前途百年の方針を打ち建てて置きたいという村民総代一同の訴えもきかれたであろう。この谷が山間の一僻地へきちで、舟楫しゅうしゅう運輸の便があるでもなく、田野耕作の得があるでもなく、村々の大部分が高い米や塩を他の地方に仰ぎながらも、今日までに人口の繁殖するに至ったというのは山林あるがためであったのに、この山地を官有にして人民一切入るべからずとしたら、どうして多くのものが生きられる地方でないぐらいのことは、あの尾州藩の人たちには認められたであろう。いかんせん、筑摩ちくま県の派出官は土地の事情に暗い。廃藩置県以来、諸国の多額な藩債も政府においてそれを肩がわりする以上、旧藩諸財産の没取は当然であるとの考えにでも支配されたものか、木曾谷山地従来の慣例いかんなぞは、てんで福島支庁官吏が問うところでない。言うところは、官有林規則のお請けをせよとの一点張りである。その過酷を嘆いて、ひたすら寛大な処分を嘆願しようとすれば、半蔵ごときは戸長を免職せられ、それにも屈しないで進み出る他の総代のものがあっても、さらに御採用がない。しいて懇願すれば官吏の怒りに触れ、むちで打たるるに至ったものがあり、それでも服従しないようなものは本県聴訟課へ引き渡しきっと吟味に及ぶであろうとの厳重な口達をうけて引き下がって来る。その権威に恐怖するあまり、人民一同前後を熟考するいとまもなく、いったんは心ならずも官有林のお請けをしたのであった。

「一の山林事件は、百の山林事件さ。」

 と正香は半蔵の語ることを聞いたあとで、嘆息するように言った。



「暮田さん、せっかくおいでくだすっても、ほんとに、何もございませんよ。」

 と言いながら、お民も客のいるところへ酒をすすめに来た。彼女は客や主人のぜんの上にあるはし休めのさらをさげて、娘お粂が順に勝手の方から運んで来るものをそのかわりに載せた。遠来の客にもめずらしく思ってもらえそうなものといえば、木曾川の方でとれた「たなびら」ぐらいのもの。それを彼女は魚田ぎょでんにして出した。でも、こんな山家料理がかえって正香をよろこばせる。

「奥さんの前ですが、」と正香は一口飲みかけた盃を膳の上に置いて、「いつぞや、お宅の土蔵のなかに隠していただいた時、青山君が瓢箪ふくべに酒を入れて持って来て、わたしに飲ませてくれました。あの時の酒の味はよほど身にしみたと見えて、伊那の方でも思い出し、京都や東京の方に行ってる時も思い出しました。おそらく、わたしは一生あの酒の味を忘れますまい。」

「あれから、十年にもなりますものね。」と半蔵も言った。

 お粂がその時、吸い物の向こうけになるようなものを盆にのせて持って来た。お民はそれを客にすすめながら、

わらびでございますよ。」

「今時分、蕨とはめずらしい。」正香が言う。

「これは春先の若い蕨を塩漬しおづけにして置いたものですが、塩をもどして、薄味で煮て見ました。御酒の好きな方には、お口に合うかもしれません。一つ召し上がって見てください。」

「奥さん、この前もわたしは中津川の連中と一緒に一度おたずねしましたが、しかしお宅の皆さんにしみじみお目にかかるのは、今度初めてです。よいお嬢さんもおありなさる。」

 正香の口から聞けば、木曾のような水の清いところにい育つものは違うというようなことも、そうわざとらしくない。お民は自分の娘のことを客の方から言い出されたうれしさに、

「おかげさまで、あれも近いうちに伊那の方へ縁づくことになりました。」

 と言って見せた。

 正香も伊那の放浪時代と違い、もはや御一新の大きな波にもまれぬいて来たような人である。お民が店座敷から出て行くのを見送った後、半蔵は日ごろ心にかかる平田一門の前途のことなぞをこの先輩の前に持ち出した。

「青山君、あれで老先生(平田鉄胤かねたねのこと)も、もう十年若くして置きたかったね。」と正香は盃を重ねながら言った。「明治御一新の声を聞いた時に、先生は六十七歳の老年だからね。先生を中心にした時代は――まあ、実際の話が、明治の三年までだね。」

「あの年の六月には、先生も大学の方をおめになったように聞いていますが。」と半蔵も言って見る。

「見たまえ。」という正香の目はかがやいて来た。「われわれはお互いに十年の後を期した。こんなに早く国学者の認められる時が来ようとも思わなかった。そりゃ、この大政の復古が建武中興の昔に帰るようなことであっちゃならない、神武じんむの創業にまで帰って行くことでなくちゃならない――ああいうことを唱え出したのも、あの玉松あたりさ。復古はお互いの信条だからね。しかし君、復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあるのさ。そう無造作にできるものが、復古じゃない。ところが世間の人はそうは思いませんね。あの明治三年あたりまでの勢いと来たら、本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言い出した。それこそ、ねこも、杓子しゃくしもですよ。篤胤先生の著述なぞはずいぶん広く行なわれましたね。ところが君、その結果は、というと、何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ。いくら、昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい。」

「暮田さん、」と半蔵はほんのりいい色になって来た正香の顔をながめながら、さらに話しつづけた。「わたしなぞは、これからだと思っていますよ。」

「それさ。」

「われわれはまだ、踏み出したばかりじゃありませんかね。」

「君の言うとおりさ。今になってよく考えて見ると、何十年かかったらこの御一新がほんとうに成就されるものか、ちょいと見当がつかない。あれで鉄胤先生なぞの意志も、政治を高めるというところにあったろうし、同門には越前えちぜん中根雪江なかねゆきえのような人もあって、ずいぶん先生を助けもしたろうがね、いかな先生も年には勝てない。この御一新の序幕の中で、先生も老いて行かれたようなものさね。まだそれでも、明治四年あたりまではよかった。版籍を奉還した諸侯が知事でいて、その下に立つ旧藩の人たちが民政をやった時分には、すくなくも御一新の成就するまではと言ったものだし、また実際それを心がけた藩もあった。いよいよ廃藩の実行となると、こいつがやかましい。江戸大城の明け渡しには異議なしでも、自分らの城まで明け渡せとなると、中には考えてしまった藩もあるからね。一方には郡県の政治が始まる。官吏の就職運動が激しくなる。成り上がり者の官吏の中にはむやみといばりたがるような乱暴なやつが出て来る。さっきも君の話のように、なかなか地方の官吏にはその人も得られないのさ。国家の事業は窮屈な官業に混同されてしまって、この調子で行ったらますます官僚万能の世の中さ。まあ、青山君、君だって、こんなはずじゃなかったと思うでしょう。見たまえ、この際、力をかつぎ出そうとする連中なぞが士族仲間から頭を持ち上げて来ましたぜ。征韓せいかん、征韓――あの声はどうです。もとより膺懲ようちょうのことは忘れてはならない。たとい外国と和親を結んでも、曲直は明らかにせねばならない。国内の不正もまたたださねばならない。それはもう当然なことです。しかし全国人民の後ろだてなしに、そんな力がかつぎ出せるものか、どうか。なるほど、不平のやりどころのない士族はそれで納まるかもしれないが、百姓や町人はどうなろう。御一新の成就もまだおぼつかないところへ持って来て、また中世を造るようなことがあっちゃならない。早く中世をのがれよというのが、あの本居先生なぞの教えたことじゃなかったですか……」

 酒の酔いが回るにつれて、正香は日ごろ愛誦あいしょうする杜詩としでも読んで見たいと言い出し、半蔵がそこへ取り出して来た幾冊かの和本の集注を手に取って見た。正香はそれを半蔵に聞かせようとして、何か自身に気に入ったものをというふうに、浣花渓かんかけいの草堂の詩を読もうか、秋興八首を読もうかと言いながら、しきりにあれかこれかと繰りひろげていた。

「ある。ある。」

 その時、正香は行燈あんどんの方へすこし身を寄せ、一語一句にもゆっくりと心をこめて、杜詩の一つを静かに声を出して読んだ。

紈袴不餓死、儒冠多誤

丈人試静聴、賤子請具陳

甫昔少年日、早充観国賓

書破万巻、 下筆如

賦料楊雄敵、詩看子建親

李邕求面、王翰願

自謂頗挺出、立登要路津

君堯舜上、再使風俗淳

此意竟蕭条、……………

 そこまで読みかけると、正香はその先を読めなかった。「このこころつい蕭条しょうじょう」というくだりを繰り返し半蔵に読み聞かせるうちに、熱い涙がその男らしいほおを伝って止め度もなく流れ落ちた。


       五


 正香は一晩しか半蔵の家に逗留とうりゅうしなかった。

「青山君、わたしも賀茂の方へ行って、深いため息でもついて来ますよ。」

 との言葉を残して、翌朝早く正香は馬籠まごめを立とうとしていた。頼んで置いた軽尻馬からじりうまも来た。馬の口をとる村の男はそれを半蔵の家の門内まで引き入れ、表玄関の式台の前で小付け荷物なぞをくらに結びつけた。

「おっかさん、暮田さんのお立ちですよ。」

 と娘に呼ばれて、お民も和助(半蔵の四男)を抱きながらそこへ飛んで出て来る。

「オヤ、もうお立ちでございますか。中津川へお寄りでしたら、浅見の奥さん(景蔵の妻)へもよろしくおっしゃってください。」

 とお民は言った。

 半蔵はじめ、お民、お粂から下男の佐吉まで門の外に出て馬上の正香を見送った。動いて行く檜笠ひのきがさが坂になった馬籠の町の下の方に隠れるまで見送った。旧本陣の習慣として、青山の家のものがこんなに門の前に集まることもめったになかったのである。その時、半蔵は正香の仕えに行く賀茂両社の方のことを娘に語り聞かせた。その神社が伊勢いせ神宮に次ぐ高い格式のものと聞くことなぞを語り聞かせた。平安朝と言った昔は、歴代の内親王ないしんのう一人ひとりは伊勢のいつきみやとなられ、一人は賀茂の斎の宮となられる風習となっていたと聞くことなぞをも語り聞かせた。

 正香も行ってしまった。例のように半蔵はその日も万福寺内の敬義学校の方へ村の子供たちを教えに出かけて、相手と頼む松雲和尚しょううんおしょうにも前夜の客のことを話したが、午後にそこから引き返して見ると、正香の立って行ったあとには名状しがたい空虚が残った。半蔵はそこにいない先輩の前へ復古の道を持って行って考えて見た。彼のふるい学友、中津川の景蔵や香蔵などが寝食も忘れるばかりに競い合って、互いに突き入ったのもその道だ。そこには四つの像がある。彼は自分の心も柔らかく物にも感じやすい年ごろに受けた影響がこんなにも深く自分の半生を支配するかと思って見て、心ひそかに驚くことさえある。彼はまた平田一門の前途についても考えて見た。

 その時になって見ると、先師没後の門人が全国で四千人にも達した明治元年あたりを平田派全盛時代の頂上とする。伊那の谷あたりの最も篤胤研究のさかんであった地方では、あの年の平田入門者なるものは一年間百二十人の多くに上ったが、明治三年には十九人にガタ落ちがして、同四年にはわずかに四人の入門者を数える。北には倉沢義髄くらさわよしゆきを出し、南には片桐春一かたぎりしゅんいち、北原稲雄、原信好のぶよしを出し、先師遺著『古史伝』三十一巻の上木頒布じょうぼくはんぷに、山吹社中発起の条山じょうざん神社の創設に、ほとんど平田研発者の苗床ともいうべき谷間たにあいであった伊那ですらそれだ。これを中央に見ても、正香のいわゆる「政治を高めようとする」祭政一致の理想は、やがて太政官だじょうかん中の神祇官を生み、鉄胤先生を中心にする神祇官はほとんど一代の文教を指導する位置にすらあった。大政復古の当時、みかどには国是の確定を列祖神霊に告ぐるため、わざわざ神祇官へ行幸したもうたほどであったが、やがて明治四年八月には神祇官も神祇省と改められ、同五年三月にはその神祇省も廃せられて教部省の設置を見、同じ年の十月にはついに教部文部両省の合併を見るほどに推し移って来る。今は師も老い、正香のような先輩ですら余生を賀茂の方に送ろうとしている。そういう半蔵が同門の友人仲間でも、香蔵は病み、景蔵は隠れた。これには彼も腕を組んでしまった。


       六


 王政第六の秋立つころを迎えながら、山里へは新時代の来ることもおそい。いよいよ享保きょうほう以前への復古もむなしく、木曾川上流の沿岸から奥地へかけての多数の住民は山にもたよれなかった。山林規則の何たるをわきまえないものが窮迫のあまり、官有林にはいって、盗伐の罪を犯し処刑をこうむるものは増すばかり。そのたびに徴せらるる贖罪しょくざいの金だけでも谷中ではすくなからぬ高に上ろうとのうわささえある。

 世は革新の声で満たされている中で、半蔵が踏み出して見た世界の実際すらこのとおり薄暗い。まして娘お粂なぞの住んでいるところは、長いこと彼女らのこもり暮らして来た深い窓の下だ。そこにある空気はまだ重かった。

 こころみに、十五代将軍としての徳川慶喜とくがわよしのぶが置き土産みやげとも言うべき改革の結果がこの街道にもあらわれて来る前までは、女は手形なしに関所も通れなかった時代のあったことを想像して見るがいい。従来、「出女でおんな、入り鉄砲」などと言われ、女の旅は関所関所で食い留められ、髪長かみなが、尼、比丘尼びくに髪切かみきり少女おとめなどと一々その風俗を区別され、乳まで探られなければ通行することも許されなかったほどの封建時代が過去に長く続いたことを想像して見るがいい。高山霊場の女人禁制は言うまでもなく、普通民家の造り酒屋にある酒蔵のようなところにまで女は遠ざけられていたことを想像して見るがいい。幾時代かの伝習はその抗しがたい手枷てかせ足枷あしかせで女をとらえた。そして、この国の女を変えた。遠い日本古代の婦人に見るような、あの幸福で自己をたのむことが厚い、種々さまざまな美しい性質の多くは隠れてしまった。こころみにまた、それらの不自由さの中にも生きなければならない当時の娘たちが、全く家に閉じこめられ、すべての外界から絶縁されていたことを想像して見るがいい。しかもこの外界との無交渉ということは、彼女らが一生涯の定めとされ、歯を染めまゆを落としてかしずく彼女らが配偶者となる人の以外にはほとんど何の交渉をも持てなかったことを想像して見るがいい。こんなに深くこもり暮らして来た窓の下にいて、長い鎖国にもたとえて見たいようなその境涯から当時の若い娘たちが養い得た気風とは、いったい、どんなものか。言って見れば、早熟だ。

 馬籠旧本陣の娘とてもこの例にはもれない。祖母おまんのような厳格な監督者からお粂のやかましく言われて来たことは、夜のまくらにまで及んでいた。それはきぬたともいい御守殿ごしゅでんともいう木造りの形のものに限られ、その上でも守らねばならない教訓があった。固い小枕の紙の上で髪をこわさないように眠ることはもとより、目をつぶったまま寝返りは打つまいぞとさえ戒められて来たほどである。この娘が早く知恵のついた証拠には、「おゝ、耳がかゆい」と母親のそばに寄って、何かよい事を母親にきかせてくれと言ったのは、まだ彼女が十四、五の年ごろのことであった。この早熟は、ひとりお粂のような娘のみにかぎらない。彼女の周囲にある娘たちは十六ぐらいでも皆おとなだった。

 しかし、こんな娘たちの深い窓のところへも、この国全体としての覚醒かくせいを促すような御一新がいつのまにかこっそり戸をたたきに来た。あだかも燃ゆるがごとき熱望にみち、あたたかい情感にあふれ、あの昂然こうぜんとした独立独歩の足どりで、早くこの戸を明け放てと告げに来る人のように。過ぐる明治四年の十一月、岩倉大使一行にしたがって洋学修業のためはるばる米国へ旅立った五名の女子があるなぞはその一つだ。それは北海道開拓使から送られた日本最初の女子留学生であると言われ、十五歳の吉益亮子よしますあきこ嬢、十二歳の山川捨松やまかわすてまつ嬢なぞのいたいけな年ごろの娘たちで、中にはようやく八歳になる津田梅子つだうめこ嬢のような娘もまじっていたとか。大変な評判で、いずれも前もって渡された洋行心得書を懐中ふところにし、成業帰朝の上は婦女の模範ともなれとの声に励まされ、稚児髷ちごまげに紋付振袖ふりそでの風俗で踏み出したとのことであるが、横浜港の方にある第一の美麗な飛脚船、太平洋汽船会社のアメリカ号、四千五百トンからの大船がこの娘たちを乗せて動いて行ったという夢のような光景は、街道筋にいて伝え聞くものにすら、新世界の舞台に向かってかけ出そうとするこの国のあがきを感じさせずには置かなかった。追い追いと女学もお取り建ての時勢に向かって、欧米教育事業の視察の旅から帰って来た尾州藩出身の田中不二麿ふじまろが中部地方最初の女学校を近く名古屋に打ち建てるとのうわさもある。一方には文明開化の波が押し寄せ、一方には朝鮮征伐の声が激し、ふるい物と新しい物とが入れまじって、何がこの先見えて来るやかもわからないような暗い動揺の空気の中で、どうして娘たちの心ばかりそう静かにしていられたろう。



 九月にはいると、お粂が結婚のしたくのことについて、南殿村の稲葉の方からはすでにいろいろと打ち合わせがある。嫁女よめじょ道中も三日がかりとして、飯田いいだ泊まりの日は伝馬町屋てんまちょうや。二日目には飯島いいじま扇屋おうぎや泊まり。三日目に南殿村着。もっとも、馬籠から飯田まで宿継ぎの送り人足を出してくれるなら、そこへ迎えの人足を差し出そうというようなことまで、先方からは打ち合わせが来ている。

「お粂、よい晴れ着ができましたよ。どれ、おとっさんにもお目にかけて。」

 お民は娘のために新調した結婚の衣裳いしょうを家の女衆に見せて、よろこんでもらおうとしたばかりでなく、それを店座敷にまで抱きかかえて行って、夫のいる部屋へやふすまに掛けて見せた。

 男の目にも好ましい純白な晴れ着がその襖にかかった。二尺あまりの振袖からは、紅梅のような裏地の色がこぼれて、白と紅とのうつりも悪くなかったが、それにもまして半蔵の心を引いたのは衣裳全体の長さから受ける娘らしい感じであった。まんじくずしの紗綾形さやがた模様のついた白綾子しろりんずなぞに比べると、彼の目にあるものはそれほど特色がきわだたないかわりに、いかにも旧庄屋風情ふぜいの娘にふさわしい。色は清楚せいそに、情は青春をしのばせる。

 不幸にも、これほどお民の母親らしい心づかいからできた新調の晴れ着も、さほど娘を楽しませなかった。余すところはもはや二十日ばかり、結婚の日取りが近づけば近づくほど、ほとほとお粂は「笑い」を失った。


       七


 青山の家の表玄関に近いところではおさの音もしない。弟宗太のためにお粂が織りかけていた帯は仕上げに近かったが、はたの道具だけが板敷きのところに休ませてある。お粂も織ることにんだかして、そこに姿を見せない時だ。

 お民は囲炉裏いろりばたからこの機のそばを通って、廊下つづきの店座敷の方に夫を見に来た。ちょうど半蔵は部屋へやにいないで、前庭の牡丹ぼたんの下あたりを余念もなく掃いているところであった。

「お民、お粂の吾家うちにいるのも、もうわずかになったね。」

 と半蔵が竹箒たけぼうきを手にしながら言った。

 なんと言っても、人一人ひとりの動きだ。娘を無事に送り出すまでの親たちの心づかいも、容易ではなかった。ことに半蔵としては眼前の事にばかり心を奪われている場合でもなく、同門の先輩正香ですらややもすれば押し流されそうに見えるほど、進むにかたい時勢に際会している。この半蔵は庭下駄げたのまま店座敷の縁先に来て腰掛けながら、

「おれもまあ、考えてばかりいたところでしかたがない。あの暮田さんを見送ってからというもの、毎日毎日学校から帰ると腕ばかり組んでいたぞ。」

 と妻に言って見せる。

 お民の方でもそれはみて取った。彼女は山林事件当時の夫に懲りている。娘の嫁入りじたくもここまで来た上は、男に相談してもしかたのないようなことまでそう話しかけようとはしていない。それよりも、どんな着物を造ってくれても楽しそうな顔も見せないお粂の様子を話しに来ている。

「でも、あの稲葉の家も、行き届いたものじゃありませんか。」とお民が言い出した。「ごらんなさい、お粂がかたづいて行く当日に、鉄漿親かねおやへ出す土産みやげの事まで先方から気をつけてよこして、反物たんもので一円くらいのことにしたいと言って来ましたよ。お粂に付き添いの女中もなるべくは省いてもらいたいが、もし付けてよこすなら、その人だけ四日前によこしてもらいたい、そんなことまで言って来ましたよ。」

「四日前とはどういうつもりだい。」

「そりゃ、あなた、式の当日となってまごつかないように、部屋に慣れて置くことでしょうに。よほどの親切がなけりゃ、そんなことまで先方から気をつけてよこすもんじゃありません。ありがたいと思っていい。あなたからもそのことをお粂によく言ってください。」

「待ってくれ。そりゃおれからも言って置こうがね、いったい、この縁談はお粂だっていやじゃないんだろう。ただ娘ごころに決心がつきかねているだけのことなんだろう。おれの家じゃお前、おっかさん(おまんのこと)は神聖な人さ。その人があれならばと言って、見立ててくだすったお婿さんだもの、悪かろうはずもなかろうじゃないか。」

「何にしても、ああ、お粂のように黙ってしまったんじゃ、どうしようもありませんよ。何を造ってくれても、よろこびもしない。わたしも一つあの子に言って聞かせるつもりで、このお嫁入りのしたくが少しぐらいのお金でできると思ったら、それこそ大違いだよ。こんなに皆が心配してあげる。お前だってよっぽど本気になってもらわにゃならないッて、ね。その時のあれの返事に、そうおっかさんのように心配してくださるな、わたしもおとっさんの娘です、そう言うんです。」

「……」

「そうかと思うと、神霊みたまさまと一緒にいれば寂しくない、どうぞ神霊さま、わたしをお守りくださいなんて、そんなことを言い出すんです。」

「……」

「まあ、あれでお粂も、お父さん思いだ。あなたの言うことならよく聞きますね。あなたからもよく言って聞かせてください。」

「そうお民のように、心配したものでもなかろうとおれは思うよ。いざとなってごらん、お粂だって決心がつこうじゃないか。」

 半蔵は下駄げたを脱ぎ捨てて、その時、店座敷の畳の上を歩き回った。庭の牡丹ぼたんへ来る風の音までがなんとなく秋めいて、娘が家のものと一緒に暮らす日の残りすくなになったことを思わせる。とかく物言いのたどたどしいあのお粂とても、彼女をこの世に育ててくれた周囲の人々に対する感謝を忘れるような娘でないことは、半蔵にもそれが感じられていた。それらの人々に対する彼女の愛情は平素のことがよくそれを語っていた。十八歳のその日まで、ただただいつくしみをもってめぐってくれる周囲の人々の心を落胆させてこころよしとするような、そんな娘でないことは半蔵もよく知って、その点にかけては彼も娘に心を許していたのである。



 今さら、朝鮮あたりの娘のことをここに引き合いに出すのもすこし突然ではあるが、両班ヤンパンという階級の娘の嫁に行く夜を見たという人の話にはこんなことがある。赤、青、黄の原色美しい綾衣あやぎぬに、人形のように飾り立てられた彼女は、そこに生けるものとは思われなかったとか。飽くまで厚く塗り込められた白粉おしろいは、夜の光にむしろ青く、その目は固く眠って、その睫毛まつげがいたずらに長いように思われたとか。彼女は全く歩行する能力をも失ったかのようにして人々の肩にかつがれ、輿こしに乗せられて生贄いけにえを送るというふうに、親たちに泣かれてとついだのであった。きけば、彼女はその夜から三日の間は昼夜をわかたず、その目を開くことができないのであるという。それは開こうとしても開き得ないのであった。彼女の目は、上下の睫毛まつげを全くのりに塗り固められ(またある地方ではきわめて濃い、固いびんつけ油を用う)、閉じられているのであったという。これは何を意味するかなら、要するに「見るな」だ。風俗も異なり習慣も異なる朝鮮の両班ヤンパンと、木曾のふるい本陣とは一緒にはならないが、しかし青山の家でもやはりその「見るな」で、娘お粂に白無垢しろむくをまとわせ、白の綿帽子をかぶらせることにして、その一生に一度の晴れの儀式に臨ませる日を待った。すでに隣家伏見屋の伊之助夫婦からは、お粂のために心をこめた贈り物がある。桝田屋ますだやからは何を祝ってくれ、蓬莱屋ほうらいやからも何を祝ってくれたというたびに、めずらしいもの好きの弟たちまで大はしゃぎだ。しかし、かんじんのお粂はどうかすると寝たりなぞする。彼女は、北の上段のに人を避け、産土神うぶすなさまの祭ってある神殿に隠れて、うす暗くなるまでひとりでそこにすわっていることもある。行くものはさっさと行け。それを半蔵はいろいろなことで娘に教えて見せていたし、お民はまたお民で、土蔵のなかにしまってある古いひなまで娘に持たせてやりたいと言って、早くお粂の身を堅めさせ、自分も安心したいというよりほかの念慮も持たないのであった。

 こういう時の半蔵夫婦の相談相手は、栄吉(半蔵の従兄いとこ)と清助とであった。例の囲炉裏ばたに続いたくつろぎのにはそれらの人たちが集まって、嫁女の同伴人はだれとだれ、供の男はだれにするかなぞとの前もっての相談があった。妻籠の寿平次の言い草ではないが、娘が泣いてもなんでも皆で寄って祝ってしまえ、したく万端手落ちのないように取りはからえというのが、栄吉らの意見だった。

「半蔵さま、お粂さまの荷物はどうなさるなし。」

 そんなことを言って、峠村の平兵衛も半蔵を見にやって来る。周旋奔走を得意にするこの平兵衛は、旧組頭の廃止になった今でも、峠のおかしらで通る。

「荷物か。荷物は式のある四、五日前に送り届ければいい。当日は混雑しないようにッて、先方から言って来た。荷回し人はおぼしめし次第だ、そんなことも言って来たが、中牛馬ちゅうぎゅうば会社に頼んで、飯田まで継立つぎたてにするのが便利かもしれないな。」

 半蔵の挨拶あいさつだ。

 九月四日は西が吹いて、風当たりの強いこの峠の上を通り過ぎた。払暁あけがたはことに強く当てた。青山の家の裏にある稲荷いなりのそばのくりもだいぶ落ちた。お粂は一日はたに取りついて、ただただ表情のない器械のようなおさの音を響かせていたが、弟宗太のためにと丹精たんせいした帯地をその夕方までに織り終わった。そこへお民が見に来た。お粂も織ることは好きで、こういうことはかなり巧者にやってのける娘だ。まだあいの香のするようなその帯地の出来をお民もほめて、やがて勝手の方へ行ったあとでも、お粂はそこを動かずにいた。仕上げた機のそばに立つ彼女の娘らしいひたいつきは父半蔵そのままである。黒目がちな大きな目は何をみるでもない。じっとそこに立ったまましばらく動かずにいるこの娘の容貌ようぼうには、一日織った疲れに抵抗しようとする表情のほかに浮かぶものもない。涙一滴流れるでもない。しかもその自分で自分のたもとをつかむ手は堅く握りしめて、震えるほど力を入れていた。無言の悲しみをおさえるかのように。

 その晩はもはやよいから月のあるころではなかった。店座敷の障子にあの松の影の映って見えたころは、毎晩のようにお粂もよく裏庭の方へ歩きに出て、月の光のさし入った木の下なぞをあちこちあちこちとさまよった。それは四、五日前のことでお民も別に気にもとめずにいた。その晩のように月の上るのもおそいころになって、また娘が勝手口の木戸から屋外そとへ歩きに出るのを見ると、お民は嫁入り前のからだに風でも引かせてはとの心配から、土間にある庭下駄もそこそこに娘を呼びもどしに出た。底青く光る夜の空よりほかにお民の目に映るものもない。勝手の流しもとの外あたりでは、しきりに虫がなく。

「お粂。」

 その母親の呼び声を聞きつけて、娘は暗い土蔵の前のかきの木の下あたりから引き返して来た。

 その翌日も青山の家のものは事のない一日を送った。夕飯後のことであった。下男の佐吉は裏の木小屋に忘れ物をしたと言って、それを取りに囲炉裏ばたを離れたぎり容易に帰って来ない。そのうちに引き返して来て、彼がめて置いたはずの土蔵の戸が閉まっていないことを半蔵にもお民にも告げた。その時は裏の隠居所から食事に通うおまんもまだ囲炉裏ばたに話し込んでいた。見ると、お粂がいない。それから家のものが騒ぎ出して、半蔵と佐吉とは提灯ちょうちんつけながら土蔵の方へ急いだ。おまんも、お民もそのあとに続いた。暗い土蔵の二階、二つ並べた古い長持のそばに倒れていたのは他のものでもなかった。自害を企てた娘お粂がそこに見いだされた。

〈[#改頁]〉


     第十章


       一


 青山の家に起こった悲劇は狭い馬籠まごめの町内へ知れ渡らずにはいなかった。馬籠は飲用水に乏しい土地柄であるが、そのかわり、奥山の方にはこうした山地でなければ得られないような、たまやかな水がわく。といを通して呼んである水は共同の水槽すいそうのところでくめる。そこにあふれる山の泉のすずしさ。深い掘り井戸でも家に持たないかぎりのものは、女でも天秤棒てんびんぼうを肩にかけ、手桶ておけをかついで、そこから水を運ばねばならぬ。南側の町裏に当たる崖下がけしたの位置に、静かな細道に添い、すぎえのきの木の影を落としているあたりは、水くみの女どもが集まる場所で、町内の出来事はその隠れた位置で手に取るようにわかった。

 うわさは実にとりどりであった。あるものは旧本陣の娘のことをその夜のうちに知ったと言い、あるものは翌朝になって知ったと言う。寄るとさわると、そこへ水くみに集まるもののうわさはお粂のことで持ち切った。あの娘が絶命するまでに至らなかったのは、全く家のものが早く見つけて手当てのよかったためであるが、何しろ重態で、助かる生命いのちであるかどうかはだれも知らない。変事を聞いて夜中に駕籠かごでかけつけて来た山口村の医者杏庵きょうあん老人ですら、それは知らないとのこと。この山里に住むものの中には、青山の家の昔を知っていて、先代吉左衛門の祖父に当たる七郎兵衛のことを引き合いに出し、その人は二、三の同僚と共に木曾川へ魚をりに行って、隣村山口の八重島やえじま字龍あざたつというところで、ついにかわの水におぼれたことを言って、今度の悲劇もそれを何かのたたりに結びつけるものもあった。

 門外のもののうわさがこんなに娘お粂の身に集まったのも不思議はない。青山の家のものにすら、お粂が企てた自害のなぞは解けなかった。ともあれ、この出来事があってからの四、五日というものは、家のものにはそれが四十日にも五十日にも当たった。その間、お粂が生死の境をさまよっていて、飲食するものものどに下りかねるからであった。



 にわかに半蔵も年取った。一晩の心配は彼を十年もけさした。父としての彼がいろいろな人の見舞いを受けるたびに答えうることは、このとおり自分はまだ取り乱していると言うのほかはなかったのである。その彼が言うことには、この際、自分はまだ何もよく考えられない。しかし、治療のかいあって、追い追いと娘も快い方に向かって来ているから、どうやら一命を取りとめそうに見える。娘のことから皆にこんな心配をかけて済まなかった。これを機会に、自分としても過去を清算し、もっと新しい生涯しょうがいにはいりたいと思い立つようになった。そんなふうに彼は見舞いの人々に言って見せた。時には彼は村の子供たちを教えることから帰って来て、はかまも着けたままお粂の様子を見に行くことがある。母屋もやの奥座敷には屏風びょうぶをかこい、土蔵の方から移された娘のからだがそこに安静にさせてある。娘はまだ顔もれ、短刀で刺した喉の傷口に巻いてある白い布も目について、見るからに胸もふさがるばかり。変わり果てたこの娘の相貌そうぼうには、お民が驚きも一通りではない。彼女は悲しがって、娘を助けたさの母の一心から、裏の稲荷いなりへお百度なぞを踏みはじめている。

 木曾谷でも最も古い家族の一つと言わるる青山のような家に生まれながら、しかもはなやかな結婚の日を前に控えて、どうしてお粂がそんな了簡りょうけん違いをしたろうということは、彼女の周囲にある親しい人たちの間にもいろいろと問題になった。寿平次の妻お里は妻籠つまごから、半蔵がふる弟子でし勝重かつしげ落合おちあいから、いずれも驚き顔に半蔵のところへ見舞いに来て、隣家の主人伊之助と落ち合った時にも、その話が出る。娘心に、この世をはかなんだものだろうか、と言って見るのは勝重だ。もっと学問の道にでも進みたかったものか、と言って見るのはお里だ。十八やそこいらのうら若さで、そうはっきりした考えから動いたことでもないのであろう、おそらく当人もそこまで行くつもりはなかったのであろう、それにしてもだれかあの利発な娘を導く良い案内者をほしかった、と言って見るのは伊之助だ。いや、たまたまこれはお粂の生娘きむすめであった証拠で、おとこおんなの契りを一大事のように思い込み、その一生に一度の晴れの儀式の前に目がくらんだものであろう、と言って見るものもある。お粂の平常を考えても、あの生先おいさきこもる望み多いからだで、そんな悪い鬼にさいなまれていようとは思いがけなかったと言って、感じやすいもののみが知るようなさみしいこころのありさまにまでお粂の行為おこないを持って行って見るものもある。

 その時になると、半蔵は伊那南殿村の稲葉家へあててありのままにこの出来事を書き送り、結婚の約束を解いてもらうよりほかに娘を救う方法も見当たらなかった。しかし、すでに結納ゆいのうの品を取りかわし、箪笥たんす、長持から、針箱のたぐいまで取りそろえてお粂を待っていてくれるという先方の厚意に対しても、いったん親として約諾したことを破るという手紙は容易に書けなかった。せめて仲人なこうどのもとまでと思いながら、かねて吉辰きっしん良日として申し合わせのあった日に当たる九月二十二日が来ても、彼にはその手紙が書けない。月の末にも書けない。とうとう十月の半ばまで延引して、彼は書くべき断わり手紙の下書きまで用意しながら、いざとなると筆が進まなかった。



「拝啓。冷気相増しそうろうところ、皆々様おそろいますます御清適に渡らせられ、敬寿たてまつり候。のぶれば、昨冬以来だんだん御懇情なし下されし娘粂儀、南殿村稲葉氏へ縁談御約諾申し上げ置き候ところ、図らずも心得違いにて去月五日土蔵二階にて自刃に及び、母妻ら早速さっそく見つけて押しとどめ、親類うち寄り種々申しさとし、医療を加え候ところ、四、五日は飲食ものどに下りかねよほどの難治に相見え申し候。幸い療養のかいありて、追い追いと快方におもむき、この節は食事もさわりなく、きずは日に増しえ候方に向かいたれども、気分いまだ平静に相成らざる容体にて、心配の至りに御座候。実もって、家内一同へすこしもその様子は見せ申さず、皆々心付け申さず、かかる挙動に及び候儀、言語に絶し、女心とは申しながら遺憾すくなからず、定めし稲葉氏には御用意等も追い追い遊ばされ候儀と推察たてまつり、南殿村へ対しなんとも申し上げようも御座なく候。右につき、御契約の儀は縁なきこととおあきらめ下され、お解き下され候よう、尊公様より厚く御詫おんわびを願いたく候。気随の娘、首切って御渡し申すべきか、いかようとも謝罪の儀は貴命に従い申すべく候。かねて御引き取りの御約束にこれあり候ことゆえ、定めて諸事御支度したくあらせられ候ことと推察たてまつり、早速にもこの儀、人をもって申し上ぐべきはずに候えども、種々取り込みまかりあり、不本意ながらも今日まで延引相成り申し候。縁談の儀は旧好をぎ、しんを厚うし候ことにて、双方よかれと存じ候事に候えども、当人種々娘ごころを案じめぐらせし上にもこれあり候か、了簡りょうけん違いつかまつり、いかんとも両親の心底にも任せがたく候間、この段厚く御海恕ごかいじょなし下され候よう願い上げたてまつり候。遠からず人をもって御詫び申し上ぐべく候えども、まずまず尊公様までこの段申し上げ候。何卒なにとぞ、南殿村へはくれぐれも厚く御詫び下さるよう、小生よりは申し上ぐべき言葉も御座なく候。まずは右、御願いまで、かくのごとくに御座候。

よかれとて契りしことも今ははたうらみらるべきはしとなりにき

尚々なおなお、老母はじめ、家内のものどもよりも、本文の次第厚く御詫び申し上げ候よう、申しいで候。」

 ようやく十月の二十三日に、半蔵は仲人あてのこの書きにくい手紙を書いた。書いて見ると、最初からこの縁談を取りまとめるためにすくなからず骨折ってくれた継母おまんのことがそこへ浮かんで来る。目上のものの言うことは実に絶対で、親子たりとも主従の関係に近く、ほとほと個人の自由の認めらるべくもない封建道徳の世の中に鍛えられて来たおまんのような婦人が、はたしてほんとうに不幸な孫娘を許すか、どうかも彼には気づかわれる。

「お民。」

 半蔵は妻を呼んで、当時にはまだ目新しい一銭の郵便切手を二枚って出す前に、この手紙を彼女にも読み聞かせた。

「あなたが、もっと自分の娘のことを考えてくれたら、こんなことにはならなかった。」

 お民はそれを言い出しながら、夫のそばにいてすすり泣いた。

 これには半蔵も返す言葉がない。山林事件の当時、彼は木曾山を失おうとする地方人民のために日夜の奔走を続けていて、その方に心を奪われ、ほとんど家をも妻子をも顧みるいとまがなかった。彼は義理堅い継母からも、すすり泣く妻からも、傷ついた娘からも、自分で自分のしたことのつらい復讐ふくしゅうを受けねばならなかった。

 ある日、彼は奥座敷に娘を見に行った。お粂が顔のれも次第に引いて来たころだ。彼はうれしさのあまり、そこに眠っている娘の額やほおに自分のてのひらを当てたりなぞして、めっきり回復したそのようすを見直した。その時、お粂は例の大きな黒目がちな目を見開きながら、

「おとっさん、申しわけがありません。わたしが悪うございました。もう一度――もう一度わたしも生まれかわったつもりになってやりますから、今度のことは堪忍かんにんしてください。」

「おゝ、お粂もそこへ気がついたか。」

 と彼は言って見せた。



 十一月にはいって、峠のおかしら平兵衛は伊那南殿村への訪問先から引き返して来た。その用向きは、半蔵の意をうけて稲葉家の人々にあい、ありのままにお粂の様子を伝え、縁談解約のことを申し入れるためであった。平兵衛が先方の返事を持ち帰って見ると、稲葉の主人をはじめ先方では非常に残念がり、そういう娘こそ見どころがあると言って、改めてこの縁談をまとめたいと言って来た。

 この稲葉家の厚意は一層事をめんどうにした。そこには、どこまでも生家さとと青山の家との旧好を続けたいという継母おまんが強い意志も働き、それほどの先方の厚意を押し切るということは、半蔵としても容易でなかったからである。

 武士としてもすぐれた坂本孫四郎(号天山)のような人を祖父に持つおまんの心底をたたくなら、半蔵なぞはほとんど彼女の眼中にない。彼女に言わせると、これというのも実は半蔵が行き届かないからだ。彼半蔵が平常も人並みではなくて、おかしい事ばかり。そのために彼女まで人でなしにされて、全く生家さとの人たちには合わせる顔がない。彼女はその調子だ。このおまんは傷口の直ったばかりのような孫娘を自分の前に置いて、まだ顔色も青ざめているお粂に、いろいろとありがたい稲葉家の厚意を言い聞かせた。なお、あまりに義理が重なるからとおまんは言って、栄吉その他のものまで頼み、それらの親戚しんせきの口からも、さまざまに理解するよう娘に言いさとした。お粂はそこへ手をついて、ただただ恥ずかしいまま、お許しくだされたいとばかり。別に委細を語らない。これにはおまんも嘆息してしまった。

 半蔵は、血と血の苦しい抗争が沈黙の形であらわれているのをそこに見た。いろいろと生家さとに掛けた費用のことを思い、世間の評議をも懸念けねんして、これがもし実の孫子まごこであったら、いかようにも分別があると言いたげな飽くまで義理堅い継母の様子は、ありありとその顔色にあらわれていた。お粂は、と見ると、これはわずかにき返ったばかりの娘だ。せっかく立て直ろうとしている小さな胸に同じ事を苦しませるとしたら、またまた何をしでかすやも測りがたかった。この際、彼の取るべき方法は、妻のお民と共に継母をなだめて、目に見えない手枷てかせ足枷あしかせから娘を救い出すのほかはなかった。

「ますます単純に。」

 その声を彼は耳の底にききつけた。そして、あとからあとから彼の身辺にまといついて来る幾多の情実を払いのけて、新たなみちを開きたいとの心を深くした。今は躊躇ちゅうちょすべき時でもなかった。彼としては、事を単純にするの一手だ。

 そこで彼は稲葉氏あてに、さらに手紙を書いた。それを南殿村への最後の断わりの言葉にかえようとした。

尊翰そんかん拝見つかまつり候。小春の節に御座候ところ、御渾家ごこんかそろい遊ばされ、ますます御機嫌ごきげんよく渡らせられ、恭賀たてまつり候。くだって弊宅異儀なくまかりあり候間、はばかりながら御放念下されたく候。のぶれば、愚娘儀につき、先ごろ峠村の平兵衛参上いたさせ候ところ、重々ありがたき御厚情のほど、同人よりうけたまわり、まことにもって申すべき謝辞も御座なき次第、小生ら夫妻は申すに及ばず、老母ならびに近親のものまでも御懇情のほど数度説諭に及び候ところ、当人においても段々御慈悲をもって万端御配慮なし下され候儀、浅からず存じ入り、参上を否み候儀は毛頭これなく候えども、不了簡ふりょうけんの挙動、自業自悔じごうじかい、親類のほかは町内にても他人への面会は憚り多く、今もって隣家へ浴湯にも至り申さざるほどに御座候。右の次第、そのもとへ参り候儀、おおかた恥ずかしく、御家族様方を初め御親類衆様方へ対し奉り、女心の慚愧ざんき耐えがたき儀につき、なにぶんにも参上つかまつりかね候よし申しいで候。小生らにおいても御厚意を奉体つかまつらざる場合に落ち行き、苦慮一方ひとかたならず、この段御宥恕ごゆうじょなし下されたく、尊君様より皆々様へ厚く御詫び申し上げ候よう幾重いくえにも願いたてまつり候。右貴答早速申し上ぐべきところ、愚娘説諭方数度に及び、存外の遅延、かさねがさねの多罪、ひたすら御海恕下されたく候。尚々なおなお、老母はじめ、家内のものどもよりも、本文の次第厚く御詫び申し上げ候よう、申しいで候。」


       二


 とうとう、半蔵もこんな風雨をしのいで一生の旅の峠にさしかかった。人が四十三歳にもなれば、この世に経験することの多くがあこがれることと失望することとで満たされているのを知らないものもまれである。平田門人としての彼は、復古の夢の成りがたさにも、同門の人たちの蹉跌つまずきにも、つくづくそれを知って来た。ただほんとうに心配する人たちのみがこの世に残して行くような誠実の感じられるものがあって、それを何ものにも換えがたく思う心から、彼のような人間でも行き倒れずにどうやらその年まで諸先輩の足跡をたどりつづけて来た。過去を振り返ると、彼が父吉左衛門の許しを得て、最初の江戸の旅に平田鉄胤かねたねの門をたたき、誓詞、酒魚料、それに扇子せんす壱箱を持参し、平田門人の台帳に彼の名をも書き入れてもらったのは安政三年の昔であって、浅い師弟の契りとも彼には思われなかった。その師にすら、「ここまではお前たちを案内して来たが、ここから先の旅はお前たち各自に思い思いの道をたどれ」と言わるるような時節が到来した。これは全く自然の暇乞いとまごいで、その年、明治六年には師ももはや七十二歳の老齢を迎えられたからである。この心ぼそさに加えて、前年の正月には彼は平田延胤のぶたね若先生の死をも見送った。平田派中心の人物として一門の人たちから前途に多くの望みをかけられたあの延胤が四十五歳で没したことは、なんと言っても国学者仲間にとっての大きな損失である。追い追いの冷たい風は半蔵の身にもしみて来た。そこへ彼の娘まで深傷ふかでを負った。感じられはしても、説き明かせないこの世の深さ。あの稲妻いなずまのひらめきさえもが、時としては人に徹する。生きることのはかなさ、苦しさ、あるいは恐ろしさが人に徹するのは、こういう時かと疑われるほど、彼も取り乱した日を送って来た。この彼が過去を清算し、もっと彼自身を新しくしたいとの願いから、ようやく起こし得た心というは、ほかでもない。それは平田篤胤没後の門人として、どこまでも国学者諸先輩を見失うまいとする心であった。

 半蔵も動いて来た。時にはこのまま村夫子そんふうしの身に甘んじて無学な百姓の子供たちを教えたいと思い、時にはこんな山の中に引き込んでいてふるい宿場の運命をのみ見まもるべき世の中ではないと思い、是非胸中にたたかって、精神の動揺はやまない。多くの悲哀かなしみが神に仕える人を起こすように、この世にはまだいにしえをあらわす道が残っていると感づくのも、その彼であった。復古につまずいた平田篤胤没後の門人らがいずれも言い合わせたように古い神社へとこころざし、そこに進路を開拓しようとしていることも、いわれのあることのように彼には考えられて来た。松尾の大宮司となった師岡正胤もろおかまさたね、賀茂の少宮司となった暮田正香くれたまさかなぞを引き合いに出すまでもなく、伊那の谷にある同門の人たちの中にもその方向を取ろうとする有志のものはすくなくない。

山窓やままどにねざめの夜はの明けやらで風に吹かるる雨の音かな

おやおやのそのいにしへは神なれば人は神にぞいつくべらなる

 この述懐の歌は、半蔵がいつきの道を踏みたいと思い立つ心から生まれた。すくなくも、その心を起こすことは、先師のおぼし召しにもかなうことであろうと考えられたからで。

 新しいみちをひらく手始めに、まず半蔵は自家の祭葬のことから改めてかかろうと思い立った。元来神葬祭のことは中世否定の気運と共に生まれた復古運動のあらわれの一つで、最も早くその根本問題に目を着け、またその許しをおおやけに得たものは、士籍にあっては豊後岡藩ぶんごおかはんの小川弥右衛門やえもん地下人じげにん(平民)にあっては伊那小野村の庄屋倉沢義髄よしゆきをはじめとする。ことに、義髄は一日も人身の大礼を仏門にゆだねるの不可なるを唱え、中世以来宗門仏葬等のことを菩提寺ぼだいじ任せにしているのはこの国の風俗として恐れ入るとなし、信州全国曹洞宗そうとうしゅう四百三か寺に対抗して宗門人別帳にんべつちょう離脱の運動を開始したのは慶応元年のころに当たる。義髄はそのために庄屋の職を辞し、京都寺社奉行所と飯田千村役所との間を往復し、初志を貫徹するために前後四年を費やして、その資産を蕩尽とうじんしてもなお屈しないほどの熱心さであった。徳川幕府より僧侶そうりょに与えた宗門権の破棄と、神葬復礼との奥には、こんな人の動きがある。しかし世の中は変わった。その年、明治六年の十一月には、筑摩ちくま権令ごんれい永山盛輝ながやまもりてるの名で、神葬仏葬共に人民の信仰に任せて聞き届けるむねはかねて触れ置いたとおりであるが、今後はその願い出にも及ばない、各自の望み次第、葬儀改典勝手たるべしの布告が出るほどの時節が到来した。木曾福島取締所の意をうけて三大区の区長らからそれを人民に通達するほどの世の中になって来た。これは半蔵にとっても見のがせない機会である。彼は改典の事を共にするため、何かにつけての日ごろの相談相手なる隣家の主人、伊之助を誘った。

 菩提寺任せにしてあった父祖の位牌いはいを持ち帰る。その塵埃ほこりを払って家に迎え入れる。墓地の掃除も寺任せにしないで家のものの手でそれをする。今の寺院の境内はもと青山家の寄付にかかる土地であるから、神葬の儀式でも行なう必要のあるおりは当分寺の広庭を借り用いる。まったく神仏を混淆こんこうしてしまったような、いかがわしい仏像なぞの家にあるものはこの際焼き捨てる――この半蔵の考えが伊之助を驚かした。しかし、伊之助は平素の慎み深さにも似ず、これは自分らの子供たちを教育する上からもゆるがせにすべき問題でないと言い、これまで親しいものの死後をあまり人任せにし過ぎたと言い、旧宿役人時代から彼は彼なりに在家ざいけと寺方との関係を考えて来たとも言って、もし旧本陣でこの事を断行するなら、伏見屋でもこれを機会に祭葬の礼を改めて、古式に復したいと同意した。

 半蔵は言って見た。

「やっぱり伊之助さんは、わたしのよい友だちだ。」

 今は彼も意を決した。この上は、伊之助と連れだって、今度の布告の趣意を万福寺住職に告げ断わるため、馬籠の北側の位置にある田圃たんぼの間の寺道を踏むばかりになった。



 万福寺の松雲和尚おしょうはもとの名を智現ちげんという。行脚あんぎゃ六年の修業の旅を終わり、京都本山の許しを得て名も松雲と改め、新住職として馬籠の寺に落ちついたのは、もはや足掛け二十年の前に当たる。

 あれは安政元年のことで、半蔵が父吉左衛門も、伊之助が養父金兵衛も、共にまだ現役の宿役人としてこの駅路一切の世話に任じていたころだ。旧暦二月末の雨の来る日、美濃路みのじよりする松雲の一行が中津川宗泉寺老和尚の付き添いで、国境くにざかい十曲峠じっきょくとうげを上って来た時、父の名代として百姓総代らと共に峠の上の新茶屋まで新住職の一行を出迎えたのもまだ若いころの半蔵だった。旅姿の松雲はそのまま山門をくぐらずに、まず本陣の玄関に着き、半蔵が家の一室で法衣装束しょうぞくに着かえ、それから乗り物、先箱さきばこ台傘だいがさで万福寺にはいったのであった。

 二十年の月日は半蔵を変えたばかりでなく、松雲をも変え、その周囲をも変えた。和尚もすでに五十の坂を越した。過ぐる月日の間、どんなさかんな行列が木曾街道に続こうと、どんな血眼ちまなこになった人たちが馬籠峠の上を往復しようと、日々の雲が変わるか、あるいは陰陽の移りかわるかぐらいにながめ暮らして、ただただ古い方丈の壁にかかる達磨だるまの画像を友として来たような人が松雲だ。毎朝早くの洗面さえもが、この人には道を修めることで、法鼓ほうこ諷経ふうぎん等の朝課の勤めも、払暁ふつぎょうに自ら鐘楼に上って大鐘をつき鳴らすことも、その日その日をみたして行こうとする修道の心からであった。一日成さなければ一日食うまい、とは百丈禅師のような古大徳がこの人に教えた言葉だ。仏餉ぶっしょう献鉢けんばち、献燈、献花、位牌堂いはいどう回向えこう大般若だいはんにゃの修行、徒弟僧の養成、墓掃除そうじ、皆そのとおり、長い経験から、ずいぶんこまかいところまでこの人も気を配って来た。たとえば、毎年正月の八日には馬籠仲町にある檀家だんか姉様あねさまたちが仏参を兼ねての年玉に来る、その時寺では十人あまりへ胡桃餅くるみもちを出す、早朝から風呂ふろく、あとで出す茶漬ちゃづけのさいには煮豆に冬菜のひたしぐらいでよろしのたぐいだ。寺は精舎しょうじゃとも、清浄地とも言わるるところから思いついて、明治二年のころよりぽつぽつ万福寺の裏山を庭に取り入れ、そこに石を運んだり、躑躅つつじを植えたりして、本堂や客殿からのながめをよくしたのもまた和尚だ。奥山の方から導いた清水しみずがこの庭に落ちる音は、一層寺の境内を街道筋の混雑から遠くした。

 こんな静かな禅僧の生活も、よく見れば動いていないではない。大は将軍家、諸侯から、小は本陣、問屋といや、庄屋、組頭くみがしらの末に至るまでことごとく廃された中で、僧侶そうりょのみ従前どおりであるのは、むしろ不思議なくらいの時である。御一新以前からやかましい廃仏の声と共に、神道葬祭が復興することとなると、寺院は徳川幕府の初期以来保証されて来た戸籍公証の権利を侵さるるのみならず、宗門人別離脱者の増加は寺院の死活問題にも関する。これには各宗の僧籍に身を置くものはもとより、全国何百万からの寺院に寄宿するものまで、いずれも皆強い衝動を受けた。この趨勢すうせいかんがみ、中年から皇国古典の道を聞いて、大いに松雲も省みるところがあった。和尚がことに心をひかれたのは、人皇三十一代用明天皇第二の皇子、すなわち厩戸皇子うまやどのおうじののこした言葉と言い伝えられるものであった。この国未曾有みぞうの仏法を興隆した聖徳太子とは、厩戸皇子の諡号しごうにほかならない。その言葉に、神道はわが国の根本である、儒仏はその枝葉である、根本さかんなる時は枝葉も従って繁茂する、故に根本をゆるかせにしてはならないぞよとある。これだ。この根本に帰入するのが、いくらかでも仏法の守られる秘訣ひけつだと松雲は考えた。ところがこれには反対があって、仏徒が神道を基とするのは狭い偏した説だとの意見が出た。その声は隣村同宗の僧侶仲間からも聞こえ、隣国美濃にある寺々からも聞こえて来た。そしてしきりにその片手落ちを攻撃する手紙が松雲のもとへ舞い込んで来たのは十通や十三、四通にとどまらない。そのたびに松雲は自己の立ち場を弁解する意見書を作って置いて、それを同宗の人々に示した。かく根本に帰入するのは、すなわち枝葉を繁茂せしめる一つではなかろうか。その根本が堅固であっても、霜雪時に従って葉の枯れ落ちることはある。枝の朽ちることもある。また、新芽を生ずるがある。新しい枝を延ばすもある。皆、天然自然のしからしめるところであって、その根本たりとも衰えることはないと言えない。大根おおねの枯れさえなければ、また蔓延まんえんの時もあろう。この大根を切断する時は、枝葉もまた従って朽ちることは言葉を待たない。根本を根本とし、枝葉を枝葉とするに、どうしてこれが片手落ちであろう。そもそも仏法がこの国土に弘まったのは欽明帝きんめいてい十三年仏僧入朝の時であって、以来、大寺の諸国に充満し、王公貴人の信仰したことは言葉に尽くせない。過去数百年間、仏徒の横肆おうしもまた言葉には尽くせない。その徒も一様ではない。よいものもあれば、害のあったものもある。一得あれば一失を生ずる。ほまれそしりはそこから起こって来るが、仏徒たりとも神国の神民である以上、神孫の義務を尽くして根本を保全しなければならぬ。その義務を尽くすために神道教導職の一端に加わるのは、だれがこれを片手落ちと言えよう。今や御一新と言い、社会の大変革と言って、自分らごときはあだかも旧習を脱せざるもののように見なさるるのもやむを得ない。ただ仏祖の旧恩を守って、道を道とするに、どうして片手落ちの異見を受くべきであろうぞ。朝旨にもとらず、三条の教憲をしかと踏まえて、正を行ない、邪をしりぞけ、権衡けんこうの狂わないところに心底を落着せしめるなら、しいて天理に戻るということもあるまい。自分らごときは他人の異見を待たずに、不羈ふき独立して大和魂やまとだましいを堅め、善悪邪正と是非得失とをおのが狭い胸中に弁別し、根本の衰えないのを護念して、なお枝葉の隆盛に懸念けねんする。もとより神仏を敬する法は、みな報恩と謝徳とをもってする。これを信心と言う。自分の身に利得を求めようとするのは、皆欲情である。報恩謝徳の厚志があらば、神明の加護もあろう。仏といえども、道理にたごうことのあるべきはずがない。自分らには現世げんせを安穏にする欲情もなければ、後生ごせに善処する欲情もない。天賦の身は天に任せ、正を行ない邪に組せず、現世後生は敵なく、神理を常として真心を尽くすを楽しみとするのみだから、すこしも片手落ちなどの欲念邪意があることはない。これが松雲和尚の包み隠しのないところであった。

 禅僧としての松雲は動かないように見えて、その実、こんなに静かに動いていた。この人にして見ると、時が移り世態があらたまるのは春夏秋冬のごとくであって、雲起こる時は日月もかくれ、その収まる時は輝くように、聖賢たりとも世の乱れる時には隠れ、世の治まる時には道を行なうというふうに考えた。というのは、遠い昔にあのあしを折る江上の客となって遠く西より東方に渡って来た祖師の遺訓というものがあるからであった。大意(理想)は人おのおのにある、しかもむなしくこれ徒労の心でないものはないと教えてあるのだ。さてこそ、明治の御一新も、この人には必ずしも驚くべきことではなかった。たといその態度をあまりに高踏であるとし、他から歯がゆいように言われても、松雲としては日常刻々の修道に思いを潜め、遠く長い目で世界の変革に対するの一手があるのみであった。



 半蔵と伊之助の二人ふたりが連れだって万福寺をたずねた時は、ちょうど村の髪結い直次が和尚の頭をりに来ていて、間もなく剃り終わるであろうというところへ行き合わせた。髪長くして僧貌そうぼう醜しと日ごろ言っている松雲のことだから、剃髪ていはつも怠らない。そこで半蔵らは勝手を知った寺の囲炉裏ばたに回って、直次が剃刀かみそりをしまうまで待った。

 十二、三年も寺に暮らして和尚の身のまわりの世話をしていた人がくなってからは、なんとなく広い囲炉裏ばたもさびしかった。生まれは三留野みどので、お島というのがその女の名だった。宿役人一同承知の上で寺にいれたくらいだから、その人とて肩身の狭かろうはずもなかったが、それでも周囲との不調和を思うかして、生前は本堂へも出なかった。世をいといながら三時の勤行ごんぎょうを怠らない和尚を助けて、お島は檀家だんかのものの受けもよく、台所からたすきをはずして来てはその囲炉裏で茶をもてなしてくれたことを半蔵らも覚えている。い人の数に入ったその女のために、和尚が形見の品を旧本陣や伏見屋にまで配ったことは、まだ半蔵らの記憶に新しい。

 髪結い直次のような老練な職人の腕にも、和尚の頭は剃りにくいかして、半蔵らはかなり待たされた。それを待つ間、彼は伊之助と共にその囲炉裏ばたを離れて、和尚の造った庭を歩き回りに出た。やがて十三、四ばかりになる歯の黄色い徒弟僧の案内で、半蔵は和尚の方丈に導かれた。

「これは。これは。」

 相変わらずの調子で半蔵らを迎えるのは松雲だ。客に親疎を問わず、好悪こうおを選ばずとはこの人のことだ。ことに頭は剃りたてで、僧貌も一層柔和に見える。本堂の一部を仮の教場にあててから、半蔵を助けて村の子供たちを教えているのもこの和尚だが、そういう仕事の上でかつていやな顔を彼に見せたこともない。しばらく半蔵はその日の来意を告げることを躊躇ちゅうちょした。というのは、対坐たいざする和尚の沈着な様子が容易にそれを切り出させないからであった。それに、彼はこの人が仏弟子ぶつでしながら氏神をも粗末にしないで毎月朔日ついたち十五日には荒町あらまちにある村社への参詣さんけいを怠らないことを知っていたし、とても憎むことのできないような善良な感じのする心の持ち主であることをも知っていたからで。

 しかし、半蔵の思い立って来たことは種々さまざまな情実やこれまでの行きがかりにのみ拘泥こうでいすべきことではなかった。彼は伊之助と共に、筑摩ちくま県からの布告の趣意を和尚に告げ、青山小竹両家の改典のことを断わった。なお、これまで青山の家では忌日供物の料として年々斎米ときまい二斗ずつを寺に納め来たったもので、それもこの際、廃止すべきところであるが、旧義を存して明年からは米一斗ずつを贈るとも付け添えた。この改典は廃仏を意味する。これはさすがの松雲をも驚かした。なぜかなら、この万福寺を建立こんりゅうしたそもそもの人は、そういう半蔵が祖先の青山道斎どうさいだからである。また、かつて松雲がまだ僧智現ちげんと言ったころから一方ならぬ世話になり、六年行脚あんぎゃの旅の途中で京都にわずらった時にも着物や路銀を送ってもらったことがあり、本堂の屋根のき替えから大太鼓の寄付まで何くれとめんどうを見てくれたことのあるのも、伊之助の養父金兵衛だからである。

「いや、御趣意のほどはわかりました。よくわかりました。わたしは他の僧家とも違いまして、神道を基とするのが自分の本意ですから、すこしもこれに異存はありません。これと申すも皆、前世の悪報です。やむを得ないことです。まあ、お話はお話として、お茶を一つ差し上げたい。」

 そう言いながら、松雲は座を立った。ぐらぐら煮立った鉄瓶てつびんのふたを取って水をさすことも、煎茶茶碗せんちゃぢゃわんなぞをそこへ取り出すことも、寺で製した古茶を入れて慇懃いんぎんに客をもてなすことも、和尚はそれを細心な注意でやった。娑婆しゃば生涯しょうがいを寄せる和尚はその方丈を幻の住居すまいともしているので、必ずしもひとりをのみ楽しもうとばかりしている人ではない。でも、冷たく無関心になったこの世の人の心をどうかして揺り起こしたいと考えるような平田門人なぞの気分とはあまりにも掛け離れていた。

「どれ、位牌堂いはいどうの方へ御案内しましょう。おそかれ早かれ、こういう日の来ることはわたしも思っておりました。神葬祭のことは、あれは和宮かずのみやさまが御通行のころからの問題ですからな。」

 という和尚は珠数じゅずを手にしながら、先に立って、廊下づたいに本堂の裏手へと半蔵らを導いた。霊膳れいぜん、茶、香花こうげ、それに燭台しょくだいのそなえにも和尚の注意の行き届いた薄暗い部屋へやがそこにあった。

 青山家代々の位牌は皆そこに集まっている。恵那山えなさんのふもとに馬籠の村を開拓したり、万福寺を建立したりしたという青山の先祖は、その生涯にふさわしい万福寺殿昌屋常久禅定門まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもんの戒名で、位牌堂の中央に高く光っているのも目につく。黒くうるしを塗った大小の古い位牌には、丸に三つ引きの定紋を配したのがあり、あるいはそれの省いたのもある。そのおもてに刻した戒名にも、皆それぞれの性格がある。これは僧侶の賦与したものであるが、一面には故人らが人となりをも語っている。鉄巌宗寿庵主てつがんそうじゅあんしゅのいかめしいのもあれば、黙翁宗樹居士もくおうそうじゅこじのやさしげなのもある。その中にまじって、明真慈徳居士みょうしんじとくこじ、行年七十二歳とあるは半蔵の父だ。清心妙浄大姉せいしんみょうじょうだいし、行年三十二歳とは、それが彼の実母だ。彼は伊之助と共に、それらの位牌の並んでいる前をったり来たりした。

 松雲は言った。

「時に、青山さん、わたしは折り入ってあなたにお願いがあります。御先祖の万福寺殿、それに徳翁了寿居士とくおうりょうじゅこじ御夫婦――お一人ひとりは万福寺の開基、お一人は中興の開基でもありますから、この二本の位牌だけはぜひとも寺にお残しを願いたい。」

 これには半蔵もうなずいた。


       三


 明治七年は半蔵が松本から東京へかけての旅を思い立った年である。いよいよ継母おまんも例の生家さとへ世話しようとしたおくめの縁談を断念し、残念ながら結納品ゆいのうひんをお返し申すとの手紙を添え、染め物も人に持たせてやって、稲葉家との交渉を打ち切った。お粂はもとより、文字どおりの復活を期待さるる身だ。彼が暮田正香の言葉なぞを娘の前に持ち出して見せ、多くの国学諸先輩が求めようとしたのも「再び生きる」ということだと語り聞かせた時、お粂は目にいっぱい涙をためながら父の励ましに耳を傾けるほどで、一日は一日よりその気力を回復して来ている。妻のお民は、と見ると、泣いたあとでもすぐ心の空の晴れるようなのがこの人の持ち前だ。あれほど不幸な娘の出来事からも、母としてのお民は父としての彼が受けたほどの深い打撃を受けていない。それに長男の宗太も十七歳の春を迎えていて、もはやこれも子供ではない。今は留守中のことを家のものに頼んで置いて、自己の進路を開拓するために、しばらく郷里を離れてもいい時が来たように彼には思われた。

 半蔵が旅に出る前のこと。ある易者が来て馬籠まごめ旅籠屋はたごや逗留とうりゅうしていた。めずらしく半蔵は隣家の伊之助にそそのかされて、その旅やつれのした易者を見に行った。古い袋から筮竹ぜいちくを取り出して押しいただくこと、法のごとくにそれを数えること、残った数から陰陽を割り出して算木さんぎをならべること、すべて型どおりに行なったあとで、易者はまず伊之助のためにその年の運勢を占ったが、にあらわれたところは至極しごく良い。砕いて言えば、願う事の成就じょうじゅするかたちである。商売をすれば当たるし、尋ね物は出るし、待ち人は来るし、縁談はまとまるという。ところが、半蔵の順番になって、易者はまた彼のためにも占ったが、好運な隣人のような卦は出なかった。

 その時の半蔵を前に置いて、首をひねりながらの易者の挨拶あいさつに、

「どうも、あなたが顔色のつやから言っても、こんなはずはないと思われるのですが。易のおもてで言いますると、この卦に当たった人は運勢いまだ開けずとあきらめて、年回りをおそれ、随分身をつつしみ、時節の到来を待てとありますな。これはよいと申し上げたいが、どうもそう行きません。まあ、本年いっぱいはお動きにならない方がよろしい。」

 とある。

 半蔵はこの易者を笑えなかった。家にもどって旅のしたくを心がける間にも、彼は易者に言われたことから名状しがたい不安を引き出された。そういう彼が踏んで行くところは、歩けば歩くほどみちも狭く細かったが、なお、先師没後の門人に残されたものは古い神社の方角にあると考えて、一歩たりともその方に近づく手がかりの与えらるることを念じた。神社に至るの道はまず階段を踏まねばならないと同じ道理で、彼とてもその手段を尽くさねばならなかった。これは万福寺の住職なぞが言うところの出家の道に似て、非なるものである。彼の願いは神から守られることばかりでなく、神を守りに行くことであった。しかし、この事はまだ家のものにも話さずにある。彼は見ず知らずの易者なぞに自分の運勢を占ってもらったことを悔いた。

 五月中旬のはじめに彼は郷里を出発したが、親しい人たちの見送りも断わり、供も連れずであった。過ぐる年、彼が木曾十一宿総代の一人として江戸の道中奉行所から呼び出されたのは、あれは元治げんじ元年六月のことであったが、今度はあの時のような庄屋仲間の連れもない。新しい郡県の政治もまだようやく端緒についたばかりのような時で、木曾谷は三大区にわかたれ、大小の区長のほかに学区取り締まりなるものもでき、谷中村々の併合もそこここに行なわれていた。その後の山林事件の成り行きも心にかかって、鳥居峠まで行った時、彼はあの御嶽遙拝所おんたけようはいじょの立つ峠の上の高い位置から木曾谷の方を振り返って見た。松本まで彼が動いた時は、ちょうどこの時勢に応ずる教育者のための講習会が筑摩ちくま県主催のもとに開かれているおりからであった。松本宮村町瑞昌寺ずいしょうじ、それが師範学科の講習所にあてられたところで、いずれも相応な年配の人たちが県庁の募集に応じて集まって来ていた。半蔵が自分の村の敬義学校のために一人の訓導を見つけたのも、その松本であった。早速さっそく彼はその人を推薦することにした。今こそ馬籠でも万福寺を仮教場にあてているが、寺の付近に普請中の仮校舎も近く落成の運びであることなぞをもその人に告げた。小倉啓助がその人の名で、もと禰宜ねぎの出身であるという。至極ちょくな人物である。このよさそうな教師を村に得ただけでも、彼は安心して東京の方に向かうことができるわけだ。もともと彼は年若な時分から独学の苦心を積み、山里に生まれて良師のないのを悲しみ、未熟な自分を育てようとしたばかりでなく、同時に無知な村の子供を教えることから出発したような男で、子弟教育のことにかけては人一倍の関心をいだいているのである。

 新時代の教育はこの半蔵の前にひらけつつあった。松本までやって来て見て、彼は一層その事を確かめた。それは全く在来の寺小屋式を改め、欧米の学風を取りいれようとしたもので、師範の講習もその趣意のもとに行なわれていた。その教育法によると、小学は上下二等にわかたれる。高等を上とし、尋常を下とする。上下共に在学四か年である。下等小学生徒の学齢は六歳に始まり九歳に終わる。その課程を八級にわかち、毎級六か月の修業と定め、初めて学に入るものは第八級生とするの順序である。教師の心べきことは何よりもまず世界の知識を児童に与えることで、啓蒙けいもうということに重きを置き、その教則まで従来の寺小屋にはないものであった。単語図を教えよ。石盤を用いてまず片仮名の字形を教え、それより習字本を授けよ。地図を示せ。地球儀を示せ。日本史略および万国地誌略を問答せよのたぐいだ。試みに半蔵は新刊の小学読本を開いて見ると、世界人種のことから始めてある。そこに書かれてあることの多くはまだ不消化な新知識であった。なお、和算と洋算とを学校にあわせ用いたいとの彼の意見にひきかえ、筑摩県の当局者は洋算一点張りの鼻息の荒さだ。いろいろ彼はおもしろくなく思い、長居は無用と知って、そこそこに松本を去ることにした。ただ小倉啓助のような人を自分の村に得ただけにも満足しようとした。彼も心身の過労には苦しんでいた。しばらく休暇を与えられたいとの言葉をそこに残し、東京の新しい都を見うる日のことを想像して、やがて彼は塩尻しおじり下諏訪しもすわから追分おいわけ軽井沢かるいざわへと取り、遠く郷里の方まで続いて行っている同じ街道を踏んで碓氷峠うすいとうげを下った。



 半蔵が多くの望みをかけてこの旅に出たころは、あだかも前年十月に全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き戊辰ぼしん以来の政府内部に分裂の行なわれた後に当たる。場合によっては武力に訴えても朝鮮問題を解決しようとする西郷隆盛さいごうたかもりら、欧米の大に屈して朝鮮の小をとうとするのは何事ぞとする岩倉大使および大久保利通おおくぼとしみちらの帰朝者仲間、かつては共に手を携えて徳川幕府打倒の運動に進み、共同の敵たる慶喜よしのぶを倒し、新国家建設の大業に向かった人たちも、六年の後にはやかましい征韓論せいかんろんをめぐって、互いにその正反対をかつての朋友ほうゆうに見いだしたのであった。

 明治御一新の理想と現実――この二つのものの複雑微妙なひらきは決してそう順調に成しげられて行ったものではなかった。その理想のみを見て現実を見ないものの多くはつまずいた。その現実のみを見て理想を見ないものの多くもまたつまずいた。ともあれ、千八百六十六年以来諸外国政府の代表者と日本国委員との間に取り結ばれた条約の改正も、朝鮮問題も、共にこの国発展の途上に横たわる難関であったことは争われない。岩倉大使が欧米歴訪の目的は、朝廷御新政以来の最初の使節として諸外国との修好にあったらしく、条約改正のことはその期するところでなかったとも言わるる。むしろ大使はその問題に触れないことを約して国を出発せられたともいう。その方針が遠い旅の途中で変更せられなかったら、この国のものはもっと早く大使一行の帰朝を迎え得たであろう。明治五年の五月には、大使らは条約改正の日本全権ででもあって、ついに前後三年にまたがる月日を海の外に費やされた。外国交渉の不結果、随員の不和、言語の困難――これを一行総員百七名からの従者留学生をげて国を離れたことに思い比べ、品川の沖には花火まで揚げて見送るもののあった出発当時の花やかさに思い比べると、おそらく旅の末はさびしく、しかもにがい経験であったろう。たとい大使らの欧米訪問が、近代国家の形態を視察することに役立ち、諸外国に対する新政府の位置を強固にすることに役立ち、率先奮励して開明の域に突進する海外留学の気象を誘導することにも役立ったとしても、その長い月日の間、岩倉、大久保、木戸らのごとき柱石たる人々が廃藩置県直後のこの国を留守にしたことは、容易ならぬ結果を招いた。郡県の政治は多くの人民の期待にそむき、高松、敦賀つるが大分おおいた名東みょうとう北条ほうじょう、その他福岡ふくおか鳥取とっとり、島根諸県には新政をよろこばない土民が蜂起ほうきして、斬罪ざんざい、絞首、懲役等の刑に処せられた不幸なものが万をもって数うるほどの驚くべき多数に上ったのも、それらは皆大使一行が留守中にあらわれて来た現象であった。のみならず、時局の不安に刺激され、大使らの留守中を好機として、武力による改革を企つるものが生まれた。

 いったい、薩長土さっちょうと三藩が朝廷に献じた兵は皆、東北戦争当時の輝かしい戦功の兵である。彼らが位置よりすれば、それらの兵をもって朝廷の基礎を固め、廃藩を断行し、長く徳川氏の旗本八万騎のごときものとなって、すこぶる優待さるるもののように考えた者が多かったとのことである。高知藩の谷干城たにたてきのような正直な人はそのことを言って、飛鳥尽きて良弓収まるのたとえを引き、彼ら戦功の兵も少々厄介視やっかいしせらるる姿になって行ったと評した。当時軍隊統御の困難は後世から想像も及ばないほどで、時事を慨し、種々さまざまな議論を起こし、陸軍省に迫り、山県近衛都督やまがたこのえととくですらそのためにしばしば辞職を申しいで、後には山県もその職を辞して西郷隆盛が都督になったほどであったとか。近衛兵の年限も定まって一般徴兵の制による事と決してからは、長州以外の二藩の兵は非常に不快の念をいだいた。ことに徴兵主義に最も不満なものは桐野利秋きりのとしあきであったという。西の勝利者、ないし征服者の不平不満は、朝鮮問題を待つまでもなく、早くも東北戦争以後の社会に胚胎はいたいしていた。

 そこへ外国交渉のたどたどしさと、当時の朝鮮方面よりする東洋の不安だ。いわゆる壮兵主義を抱く豪傑連の中には、あわただしい世態風俗の移り変わりを見て、追い追いの文明開化の風の吹き回しから人心うたた浮薄に流れて来たとのなげきを抱き、はなはだしきは楠公なんこう権助ごんすけに比するほどの偶像破壊者があらわれるに至ったと考え、かかる天下柔弱軽佻けいちょうの気風を一変して、国勢の衰えを回復し諸外国の覬覦きゆを絶たねばならないとの意見を持つものがあるようになった。古今内外の歴史を見渡して、外は外国に侮られ、内は敵愾てきがいの気を失い、人心は惰弱に風俗は日々頽廃たいはいしつつあるような危殆きたいきわまる国家は、これを救うに武の道をもってするのほか、決して他の術がないとは、それらの人たちが抱いて来た社会改革の意見であった。それには文武共に今日改造の途上にあることを一応考慮しないではないが、ひとまず文教をあと回しにする、この際は断然武政をいて国家の独立をまっとうするためには外国と一戦するの覚悟を取る、それが国を興すの早道だというのである。そして事は早いがいい、今のうちにこの大計を定め国家の進路を改めるがいい、これを決行する時機は大使帰朝前にあるというのである。なぜかなら、大使帰朝の後はおのずから大使一行の意見があって、必ずこの反対にづるであろうと予測せられたからであった。その武政を立つる方案によると、全国の租税を三分して、その二分を陸海軍に費やす事、すでに士族の常職を解いた者は従前に引きもどす事、全国の士族を配してことごとく六管鎮台の直轄とする事、丁年以上四十五歳までの男子は残らず常備予備の両軍に編成する事、平民たりとも武事を好む者はその才芸器量に応じすべて士族となす事、全国男子の風教はいわゆる武士道をもって陶冶とうやする事、左右大臣中の一人ひとりは必ず大将をもってこれに任じ親しく陛下の命を受けて海陸の大権を収める事、これをつづめて言えば武政をもって全国を統一する事である。この意見をふところにして西郷に迫るものがあったが、隆盛は容易に動かなかった。彼は大使出発の際に大臣参議のおのおのが誓った言葉をそこへ持ち出して見せ、大使帰朝に至るまではやむを得ない事件のほかは決して改革しないとの誓言のあることを言い、今この誓言にそむいて、かかる大事を決行するの不可なるを説き、大使帰朝の後を待てと言いさとした。隆盛は寡言かげんの人である。彼は利秋のように言い争わなかった。しかしもともと彼の武人気質かたぎ戊辰ぼしん当時の京都において慶喜の処分問題につき勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た時にも、剣あるのみの英断に出、徳川氏に対する最後の解決をそこに求めて行った人である。その彼は容易ならぬ周囲の形勢を見、部下の要求のおさえがたいことを知り、後には自ら進んで遣韓大使ともなり朝鮮問題の解決者たることを志すようになった。岩倉大使一行の帰朝、征韓論の破裂、政府の分裂、西郷以下多くの薩人の帰国、参議副島そえじま後藤ごとう板垣いたがき江藤えとうらの辞表奉呈はその結果であった。上書してすこぶる政府を威嚇いかくするの意を含めたものもある。旗勢をさかんにし風靡ふうびするの徒が辞表を奉呈するものは続きに続いた。近衛兵このえへいはほとんど瓦解がかいし、三藩の兵のうちで動かないものは長州兵のみであった。明治七年一月には、ついに征韓派たる高知県士族武市熊吉たけちくまきち以下八人のものの手によって東京赤坂あかさかの途上に右大臣岩倉具視ともみを要撃し、その身を傷つくるまでに及んで行った。そればかりではない。この勢いの激するところは翌二月における佐賀県愛国党の暴動と化し、公然と反旗をひるがえす第一の烽火のろしが同地方に揚がった。やがてそれは元参議江藤新平らの位階褫奪ちだつとなり、百三十六人の処刑ともなって、やみの空を貫く光のように消えて行ったが、この内争の影響がどこまで及んで行くとも測り知られなかった。

 時には馬、時には徒歩の旅人姿で、半蔵が東京への道をたどった木曾街道の五月は、この騒ぎのうわさがややしずまって、さながら中央の舞台は大荒れに荒れた風雨のあとのようだと言わるるころである。


       四


「塩、まいて、おくれ。

 塩、まいて、おくれ。」

 木曾街道の終点とも言うべき板橋から、半蔵が巣鴨すがも本郷ほんごう通りへと取って、やがて神田明神かんだみょうじんの横手にさしかかった時、まず彼の聞きつけたのもその子供らの声であった。町々へは祭りの季節が来ているころに、彼も東京にはいったのだ。

 時節がら、人気を引き立てようとする市民が意気込みのあらわれか、町の空に響く太鼓、軒並みに連なり続く祭礼の提灯ちょうちんなぞは思いのほかのにぎわいであった。時には肩に掛けたたすきの鈴を鳴らし、黄色い団扇うちわを額のところに差して、後ろ鉢巻はちまき姿で俵天王たわらてんのうを押して行く子供の群れが彼の行く手をさえぎった。時には鼻の先の金色に光る獅子ししの後ろへ同じそろいの衣裳いしょうを着けた人たちが幾十人となくしたがって、手に手に扇を動かしながら町を通り過ぎる列が彼の行く手をうずめた。彼は右を見、左を見して、新規にかかった石造りの目鏡橋めがねばしを渡った。筋違見附すじかいみつけももうない。その辺は広小路ひろこうじに変わって、柳原やなぎわらの土手につづく青々とした柳の色が往時を語り顔に彼の目に映った。この彼が落ち着く先は例の両国の十一屋でもなかった。両国広小路は変わらずにあっても、十一屋はなかった。そこでは彼の懇意にした隠居もくなったあとで、年のちがったかみさんは旅人宿をたたみ、浅草あさくさの方に甲子飯きのえねめしの小料理屋を出しているとのことである。足のついでに、かねて世話になった多吉夫婦の住む本所相生町ほんじょあいおいちょうの家までたずねて行って見た。そこの家族はまた、浅草左衛門町さえもんちょうの方へ引き移っている。そうこうするうちに日暮れに近かったので、浪花講なにわこうの看板を出した旅人宿を両国に見つけ、ひとまず彼はそこに草鞋わらじひもを解いた。

 東京はまず無事。その考えに半蔵はやや心を安んじて、翌日はとりあえず、京都以来の平田鉄胤かねたね老先生をその隠棲いんせいたずねた。彼が延胤のぶたね若先生のくやみを言い入れると、師もひどく力を落としていた。その日は尾州藩出身の田中不二麿ふじまろを文部省に訪ねることなぞの用事を済まし、上京三日目の午後にようやく彼は多吉夫婦が新しい住居すまいを左衛門橋の近くに見つけることができた。

 多吉、かみさんのおすみ、共に半蔵には久しぶりにあう人たちである。よくそれでも昔を忘れずに訪ねて来てくれたと夫婦は言って、早速荷物と共に両国の宿屋を引き揚げて来るよう勧めてくれたことは、何よりも彼をよろこばせた。

「お隅、青山さんは十年ぶりで出ていらしったとよ。」

 そういう多吉も変われば、お隅も変わった。以前半蔵が木曾下四宿きそしもししゅく総代の庄屋として江戸の道中奉行から呼び出されたおり、五か月も共に暮らして見たのもこの夫婦だ。その江戸を去る時、紺木綿こんもめんの切れの編みまぜてある二足の草鞋わらじをわざわざ餞別せんべつとして彼に贈ってくれたのもこの夫婦だ。

 もとより今度の半蔵が上京はただの東京見物ではない。彼が田中不二麿を訪ねた用事というもほかではない。不二麿は尾州藩士の田中寅三郎とらさぶろうと言ったころからの知り合いの間がらで、この人に彼は自己の志望を打ちあけ、その力添えを依頼した。旧領主慶勝よしかつ公時代から半蔵父子とは縁故の深い尾州家と、名古屋藩の人々とは、なんと言っても彼にとって一番親しみが深いからであった。名古屋の藩黌はんこう明倫堂めいりんどうに学んだ人たちの中から、不二麿のような教育の方面に心を砕く人物を出したことも、彼には偶然とは思われない。今は文部教部両省合併で、不二麿も文部大丞だいじょうの位置にあるから、この省務一切を管理する人に引き受けてもらったことは、半蔵としても心強い。もっとも、不二麿は民知の開発ということに重きを置き、欧米の教育事業を視察して帰ってからはアメリカ風の自由な教育法をこの国に採り入れようとしていて、すべてがまだ端緒についたばかりの試みの時代だとする考え方の人であったが。

 多吉はまた半蔵を見に来て言った。

「どうです、青山さん。江戸のころから見ると、町の様子も変わりましたろう。去年の春から、敵打かたきうちの厳禁――そうです、敵打ちの厳禁でさ。政府も大きな仕事をやったもんさね。親兄弟きょうだいあだを勝手にかえすようなことは、講釈師の昔話になってしまいました。それだけでも世の中は変わって来ましたね。でも、江戸に長く住み慣れたものから見ると、徳川さまは実にかあいそうです。徳川さまの御恩を忘れちゃならない、皆それを言ってます。お隅のやつなぞもね、あおいの御紋を見ると涙がこぼれるなんて、そう言ってますよ。」



 東京まで半蔵が動いて見ると、昔気質かたぎの多吉の家ではまだ行燈あんどんだが、近所ではすでにランプを使っているところがある。夕方になると、その明るい光が町へもれる。あそこでも、ここでもというふうに。燈火ともしびすらこんなに変わりつつあった。

 今さら、極東への道をあけるために進んで来た黒船の力が神戸こうべ大坂の開港開市を促した慶応三、四年度のことを引き合いに出すまでもなく、また、日本紀元二千五百余年来、未曾有みぞうの珍事であるとされたあの外国公使らが京都参内当時のことを引き合いに出すまでもなく、世界に向かってこの国を開いた影響はいよいよ日本人各自の生活にまであらわれて来るようになった。ことに、東京のようなところがそうだ。半蔵はそれを都会の人たちの風俗の好みにも、衣裳いしょうの色の移り変わりにもみて取ることができた。うす暗い行燈や蝋燭ろうそくをつけて夜を送る世界には、それによく映る衣裳の色もあるのに、その行燈や蝋燭にかわる明るいランプの時が来て見ると、今までうす暗いところで美しく見えたものも、もはや見られない。多吉の女房お隅はそういうことによく気のつく女で、近ごろの婦人が夜の席に着る衣裳の色の変わって来たことなぞを半蔵に言って見せ、世の中の流行が変わる前に、すでに燈火が変わって来ていると言って見せる。

 多吉夫婦は久しぶりで上京した半蔵をつかまえて、いろいろと東京の話をして聞かせるが、寄席よせの芸人が口に上る都々逸どどいつたぐいまで、英語まじりのものが流行して来たと言って半蔵を笑わせた。お隅は、一鵬斎芳藤いちほうさいよしふじえがくとした浮世絵なぞをそこへ取り出して来る。舶来と和物との道具くらべがそれぞれの人物になぞらえて、時代のすがたを描き出してある。その時になって見ると、遠い昔に漢土の文物を採り入れようとした初めのころのこの国の社会もこんなであったろうかと疑わるるばかり。海を渡って来るものは皆文明開化と言われて、散切ざんぎり頭をたたいて見ただけでも開化した音がするとうたわれるほどの世の中に変わって来た。夏は素裸、ふんどし一つ、冬はどてら一枚で、客があると、どんな寒中でも丸裸になって、ホイかごホイ籠とかけ出す駕籠屋かごやなぞはもはや顔色がない。年じゅう素股すまたの魚屋から、裸商売のつくだから来るあさり売りまで、異国の人に対しては、おのれらの風俗を赤面するかに見える。

 旅の身の半蔵は、用達ようたしのついで、あるいは同門の旧知なぞをたずねるためあちこちと出歩くおりごとに、町々の深さにはいって見る機会を持った。東京は、どれほどの広さに伸びている大きな都会とも、ちょっと見当のつけられないことは、以前の彼が江戸出府のおりに得た最初の印象とそう変わりがないくらいであった。ここに住む老若男女の数も、彼にはおよそどれほどと言って見ることもできない。あるいは江戸時代よりはずっと減少していると言うものもあるし、あるいはこの新しい都の人口の増加は将来測り知りがたいものがあろうと言うものもある。元治年度の江戸を見た目で、東京を見ると、今は町々のかどに自身番もなく、番太郎小屋もない。わずかに封建時代の形見のような木戸のみの残ったところもある。旧城郭の関門とも言うべき十五、六の見附みつけ、その外郭にめぐらしてあった十か所の関門も多く破壊された。彼は多吉夫婦と共に以前の本所相生町の方にいて、日比谷ひびやにある長州屋敷の打ちこわしに出あったことを覚えているが、今度上京して見ると、その辺は一面の原だ。大小の武家屋敷の跡は桑園茶園に変わったところもある。彼が行く先に見つけるものは、かつて武家六分町人四分と言われたこの都会に大きな破壊の動いた跡を語って見せていないものはなかった。

 でも、東京は発展の最中だ。旧本陣問屋時代に宿場と街道の世話をした経験のある半蔵は、評判な銀座の方まで歩いて行って見て、そこに広げられた道路をおよそ何間なんげんと数え、めずらしい煉瓦れんが建築の並んだ二階建ての家々の窓と丸柱とがいずれも同じ意匠から成るのをながめた。そこは明治五年の大火以来、木造の建物を建てることを禁じられてからできた新市街で、最初はだれ一人ひとりその煉瓦の家屋にはいる市民もなく、もし住めば必ず青ぶくれにふくれて、死ぬと言いはやされたという話も残っている。言って見れば、そのころの銀座は香具師やしの巣である。二丁目のくま相撲すもう、竹川町の犬の踊り、四丁目の角の貝細工、その他、砂書き、阿呆陀羅あほだら活惚かっぽれ軽業かるわざなぞのいろいろな興行で東京見物の客を引きつけているところは、浅草六区のにぎわいに近い。目ざましい繁昌はんじょうを約束するようなその界隈かいわいは新しいものとふるいものとの入れまじりで雑然紛然としていた。

 今は旅そのものが半蔵の身にしみて、見るもの聞くものの感じが深い。もはや駕籠かごもすたれかけて、一人乗り、二人乗りの人力車じんりきしゃ、ないし乗合馬車がそれにかわりつつある。行き過ぎる人の中には洋服姿のものを見かけるが、多くはまだ身についていない。中には洋服の上に羽織はおりを着るものがあり、切り下げ髪に洋服で下駄げたをはくものもある。長髪に月代さかやきをのばして仕合い道具を携えるもの、和服に白い兵児帯へこおびを巻きつけてくつをはくもの、散髪で書生羽織を着るもの、思い思いだ。うわさに聞く婦人の断髪こそやや下火になったが、深い窓から出て来たような少女のはかまを着け、洋書と洋傘ようがさとを携えるのも目につく。まったく、十人十色の風俗をした人たちが彼の右をも左をもったり来たりしていた。



 不思議な縁故から、上京後の半蔵は、教部省御雇いとして一時奉職する身となった。ちょうど教部省は、文部省と一緒に、馬場先ばばさきの地から常磐橋ときわばし内へ引き移ったばかりで、いろいろな役所の仕事に、国学の畑の人を求めている時であった。この思いがけない奉職は、田中不二麿の勧めによる。彼半蔵の本意はそういうところにあるではなく、どこか古い神社へ行って仕えたい、そこに新生涯を開きたいとの願いから、その手がかりを得たいばかりに、わざわざ今度の上京となったのであるが、しばらく教部省に奉職して時機を待てとの不二麿の言葉もあり、それにむなしい旅食りょしょくも心苦しいからであった。教部省は神祇局じんぎきょくの後身である。平田一派の仕事は、そこに残っている。そんな関係からも、半蔵の心は動いて、師鉄胤をはじめ、同門諸先輩が残した仕事のあとをも見たいと考え、彼も不二麿の勧めに従った。

 とりあえず、彼はこのことを国もとの妻子に知らせ、多吉方を仮の寓居ぐうきょとするよしを書き送り、旅の心もやや定まったことを告げてやった。そういう彼はまだいつきの道の途上にはあったが、しかしあの碓氷峠うすいとうげを越して来て、両国りょうごくの旅人宿に草鞋わらじを脱いだ晩から、さらに神田川かんだがわに近い町中の空気の濃いところに身を置き得て、町人多吉夫婦のような気の置けない人たちのそばに自分を見つけた日から、ほとんど別の人のような心を起こした。彼はうす暗い中に起きて、台所の裏手にある井戸のそばで、すがすがしい朝の空気を胸いっぱいに吸い、まず自分の身をきよめることを始めた。そして毎朝水垢離みずごりを取る習慣をつけはじめた。

 今は親しいもののだれからも遠い。一、六と定められた役所の休日に、半蔵は多吉方の二階の部屋へやにいて、そろそろ梅雨の季節に近づいて行く六月の町の空をながめながら、家を思い、妻を思い、子を思った。その時になると、外には台湾生蕃たいわんせいばん征討の事が起こり、内には西南地方の結社組織のうわさなぞがしきりに伝わって来て、息苦しい時代の雲行きはどうしてそうたやすく言えるわけのものでもなかったが、しかしなんとなく彼の胸にまとまって浮かんで来るものはある。うっかりすると御一新の改革も逆に流れそうで、心あるものの多くが期待したこの世の建て直しも、四民平等の新機運も、実際どうなろうかとさえ危ぶまれた。

 いったん時代から沈んで行った水戸みとのことが、またしきりに彼の胸に浮かぶ。彼はあの水戸の苦しい党派争いがほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあったことを思い出した。あの水戸人の持つたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられ、井伊大老もしくは安藤老中あんどうろうじゅうのような要路の大官にまで向けられたことを思い出した。彼はそれを眼前に生起する幾多の現象に結びつけて見て、かつて水戸から起こったものが筑波つくばの旗上げとなり、尊攘そんじょうの意志の表示ともなって、きた歴史を流れたように、今またそれの形を変えたものが佐賀にも、土佐にも、薩摩さつまにも活き返りつつあるのかと疑った。

 彼は自分で自分に尋ねて見た。

「これでも復古と言えるのか。」

 その彼の眼前にひらけつつあったものは、帰り来る古代でもなくて、実に思いがけないちかであった。

〈[#改頁]〉


     第十一章


       一


 東京の町々はやがてその年の十月末を迎えた。常磐橋ときわばし内にある教部省では役所のひける時刻である。短い羽織にはかまをつけ、それに白足袋しろたび雪駄せったばきで、懐中にはいっぱいに書物をねじ込みながら橋を渡って行く人は、一日の勤めを終わった役所帰りの半蔵である。

 その日かぎり、半蔵は再び役所の門をくぐるまい、そこに集まる同僚の人たちをも見まいと思うほどのいらいらした心持ちで、鎌倉河岸かまくらがしのところに黄ばみ落ちている柳の葉を踏みながら、大股おおまたに歩いて行った。もともと今度の上京を思い立って国を出た時から、都会での流浪るろう生活を覚悟して来た彼である。半年の奉職はまことに短かったとは言え、とにもかくにも彼は神祇局の後身ともいうべき教部省に身を置いて見て、平田一派の諸先輩がそこに残した仕事のあとを見ただけにも満足しようとした。例の浅草左衛門町さえもんちょうにある多吉の家をさして帰って行くと、上京以来のことが彼の胸に浮かんで来た。ふと、ある町のかどで、彼は足をとめて、ホッと深いため息をついた。そのみちは半年ばかり彼が役所へ往復した路である。がらにもない教部省御雇いとしての位置なぞについたのは、そもそも自分のあやまりであったか、そんな考えがしきりに彼の胸をったり来たりした。

「これはおれのべき路ではなかったのかしらん。」

 そう考えて、また彼は歩き出した。

 仮の寓居ぐうきょと定めている多吉の家に近づけば近づくほど、名のつけようのない寂しさが彼の胸にわいた。彼は泣いていいか笑っていいかわからないような心持ちで、教部省の門を出て来たのである。



 左衛門橋に近い多吉夫婦が家にもどって二階の部屋へやに袴をぬいでからも、まだ半蔵はあの常磐橋内の方に身を置くような気がしている。役所がひける前の室内の光景はまだ彼の目にある。そこには担当する課事を終わって、机の上を片づけるものがある。風呂敷包ふろしきづつみを小脇こわきにかかえながら雑談にふけるものもある。そのそばには手でおとがいをささえて同僚の話に耳を傾けるのもある。さかんな笑い声も起こっている。日ごろ半蔵が尊信する本居宣長もとおりのりなが翁のことについて、又聴またぎきにした話を語り出した一人ひとりの同僚がそこにある。それは本居翁の弟子でし斎藤彦麿さいとうひこまろの日記の中に見いだされたことだというのである。ある日、彦麿はじめ二、三の内弟子が翁の家に集まって、「先生は実に活神様いきがみさまだ」と話しながら食事していると、給仕の下女がにわかに泣き出したというのである。子細をたずねると、その女の答えるには、実はその活神様が毎晩のように自分の寝部屋へ見える、うるささのあまり、昨夜は足でってやったが、そんな立派な活神様では罰が当たって、この足が曲がりはしないかと、それで泣いたのだと言われて、彦麿もあいた口がふさがらなかったというのである。それを聞くと、そこにいたものは皆笑った。その話をはじめた同僚はますます得意になって、「いったい、下女の寝部屋へはいり込むようなものにかぎって、人格者だ」とやり出す。この「人格者」がまた一同を笑わせた。半蔵は顔色も青ざめて、その同僚の口から出たような話がどこまで本当であるやもわからなかったし、また、斎藤彦麿の日記なるものがどこまで信用のできるものかもわからなかったから、それをくどく言い争う気にはならなかったが、しかしそこに集まる人たちが鬼の首でも取ったようにそんな話をして楽しむということに愛想あいそをつかした。前に本居宣長がなかったら、平田篤胤あつたねでも古人の糟粕そうはくをなめて終わったかもしれない。平田篤胤がなければ、平田鉄胤かねたねもない。平田鉄胤がなければ、結局今の教部省というものもなかったかもしれない。そのことがとっさの間に彼の胸へ来た。思わず彼はその同僚の背中を目のさめるほど一つどやしつけて置いて、それぎり役所を出て来てしまった。それほど彼もいらいらとしていた。

 十月末のことで、一日は一日より深くなって行く秋が旅にある半蔵の身にひしひしと感じられた。神田川はその二階の位置から隠れて見えないまでも、ごちゃごちゃとした建物の屋根の向こうに沈んだ町の空が障子の開いたところから彼の目に映る。長いこと彼はひとりですわっていて、あたりの町のすべてが湿った空気に包まれて行くのをながめながら、自分で自分のしたことを考えた。

「いくら人の欠点を知ったところで、そんなことが何になろう。」

 と考えて、彼はそれを役所の同僚の話に結びつけて見た。

 彼はある人の所蔵にかかる本居翁の肖像というものを見たことがある。それは翁が名古屋の吉川義信という画工にえがかせ、その上に和歌など自書して門人に与えたものの一つである。その清いまゆにも涼しい目もとにも老いの迫ったという痕跡こんせきがなく、まだみずみずしい髪のもとどりを古代紫のひも茶筅風ちゃせんふうに結び、その先を前額の方になでつけたところは、これが六十一歳の翁かと思われるほどの人がその画像の中にいた。翁は自意匠よりなる服を造り、紗綾形さやがたの地紋のある黒縮緬くろちりめんでそれを製し、鈴屋衣すずのやごろもととなえて歌会あるいは講書の席上などの式服に着用した人であるが、その袖口そでぐちには紫縮緬の裏を付けて、それがまたおかしくなかったと言わるるほどの若々しさだ。早くけやすいこの国の人たちの中にあって、どうしてそれほどの若さを持ち続け得たろうかと疑われるばかり。こんな人が誤解されやすいとしたら、それこそ翁の短所からでなくて、むしろ晩年に至るまでも衰えず若葉してやまなかったような、その長い春にこもる翁の長所からであったろうと彼には思われる。彼の心に描く本居宣長とは、あの先師平田篤胤に想像するような凜々りりしい容貌ようぼうの人ともちがって、多分に女性的なところを持っていた心深い感じのする大先輩であった。そして、いかにもゆったりとその生涯しょうがいを発展させ、天明てんめいの昔を歩いて行ったちかの人の中でも、最も高く見、最も遠く見たものの一人ひとりであった。そのかわり、先師篤胤は万事明け放しで、丸裸になって物を言った。そこが多くの平田門人らにとって親しみやすくもあったところだ。本居翁にはそれはない。ひろいふところに、ありあまるほどの情意を包みながら、言説以外にはそれも打ち出さずに、終生つつましく暮らして行かれたようなその人柄は、内弟子にすら近づきがたく思われたふしもあったであろう。ともあれ、日ごろ彼なぞが力と頼む本居翁も口さがない人たちにかかっては、滑稽こっけいな戯画の中の人物と化した。先輩を活神様にして祭り上げる人たちは、また道化役者どうけやくしゃにして笑いたがる人たちである。そんな態度が頼みがいなく思われる上に、又聞またぎきにしたくらいの人の秘密をおもしろ半分に振り回し、下世話げせわにいう肘鉄ひじてつを食わせたはしたない女の話なぞに興がって、さも活神様の裏面に隠れた陰性な放蕩ほうとうをそこへさらけ出したという顔つきでいるそういう同僚を彼は片腹痛く思った。きく人もまたすこぶる満足したもののごとく、それを笑い楽しむような空気の中で、国学の権威もあったものではない。そのことがすでに彼にはえ忍べなかった。


       二


「なんだか、ぼんやりした。あのおくめのことがあってから、おれもどうかしてしまった。はて、おれもみちに迷ったかしらん……」

 新生涯を開拓するために郷里の家を離れ、どうかしていつきの道を踏みたいと思い立って来た半蔵は、またその途上にあって、早くもこんな考えを起こすようになった。

 すこしく感ずるところがあって、常磐橋の役所も退くつもりだ。そのことを彼は多吉夫婦に話し、わびしい旅の日を左衛門町に送っていた。彼は神田明神の境内へ出かけて行って、そこの社殿の片すみにすわり、静粛な時を送って来ることを何よりの心やりとする。時に亭主ていしゅ多吉に誘われれば、名高い講釈師のかかるという両国の席亭の方へ一緒に足を向けることもある。そこへ新乗物町に住む医師の金丸恭順かなまるきょうじゅんたずねて来た。恭順はやはり平田門人の一人である。同門のよしみから、この人はなにくれとなく彼の相談相手になってくれる。その時、彼は過ぐる日のいきさつを恭順の前に持ち出し、実はこれこれでおもしろくなくて、役所へも出ずに引きこもっているが、本居翁の門人で斎藤彦麿のことを聞いたことがあるかと尋ねた。恭順はその話を聞くと腹をかかえて笑い出した。江戸の人、斎藤彦麿は本居大平おおひら翁の教え子である、藤垣内ふじのかきつ社中の一人である、宣長翁とは時代が違うというのである。

「して見ると、人違いですかい。」

「まずそんなところだろうね。」

「これは、どうも。」

「そりゃ君、本居と言ったって、宣長翁ばかりじゃない、大平翁も本居だし、春庭はるにわ先生だっても本居だ。」

 二人ふたりはこんな言葉をかわしながら、互いに顔を見合わせた。

 恭順に言わせると、宣長の高弟で後に本居姓を継いだ大平翁は早く細君を失われた人であったと聞く。そこからあの篤学な大平翁もひとの知らないさびしい思いを経験されたかもしれない。それにしても、内弟子として朝夕その人に親しんで見た彦麿がそんな調子で日記をつけるかどうかも疑わしい上に、もしあの弟子の驚きが今さらのように好色の心を自分の師翁に見つけたということであったら、それこそ彦麿もにぶい人のそしりをまぬかれまい。まこと国学に心を寄せるほどのものは恋をとがめないはずである。よい人は恋を許すが、そうでない人は恋をとがめるとは、あの宣長翁の書きのこしたものにも見える。

 こんな話をしたあとで、

「いやはや、宣長翁も飛んだ濡衣ぬれぎぬを着たものさね。」

 恭順は大笑いして帰って行った。そのあとにはいくらか心の軽くなった半蔵が残った。「よい人は恋を許すが、そうでない人は恋をとがめる」とは恭順もよい言葉を彼のところに残して置いて行った。彼はそう思った。もし先輩が道化役者なら、それをおもしろがって見物する後輩の同僚は一層の道化役者ではなかろうかと。まったく、男の女にあう路は思いのほかの路で、へたな理屈にあてはまらない。この路ばかりは、どんな先輩にもあやまちのないとは言えないことであった。あながちに深く思いかえしても、なおしずめがたく、みずからの心にもしたがわない力に誘われて、よくない事とは知りながらなお忍ぶに忍ばれない場合は世に多い。あの彦麿が日記の中にあるというように、大平翁ほどの人がそんな情熱に身を任せたろうとは、彼には信じられもしなかったが、仮にそんな時代があって、蒸し暑く光の多い夏の夜なぞは眠られずに、幾度か寝所を替えられたようなことがあったとしても、あれほどひとにおもねることをしなかった宣長翁の後継者としては、おのれにおもねることをもされなかったであろう。おそらく、自分はこのとおり愚かしいと言われたであろうと彼には思われた。それにしても、本居父子の本領は別にある。宣長翁にあっては、深い精神にみちたものから単なる動物的なものに至るまで――さては、源氏物語の中にあるあの薄雲女院うすぐもにょういんに見るような不義に至るまでも、あらゆるすがたにおいて好色はあわれ深いものであった。いわゆる善悪の観念でそれを律することはできないと力説したのが宣長翁だ。彼なぞの最も知りたく思うことは、いかにしてあの大先輩がそれほどの彼岸ひがんに達することができたろうかというところにある。その心から彼はあの『たま小櫛おぐし』を書いた翁を想像し、歴代の歌集に多い恋歌、または好色のことを書いた伊勢いせ、源氏などの物語に対する翁が読みの深さを想像し、その古代探求の深さをも想像して、あれほど儒者の教えのやかましく男女は七歳で席を同じくするなと厳重に戒めたような封建社会の空気の中に立ちながら、実に大胆に恋というものを肯定した本居宣長その人の生涯に隠れている婦人にまでその想像を持って行って見た。



 しかし、半蔵が教部省を去ろうとしたのは、こんな同僚とのいきさつによるばかりではない。なんと言っても、以前の神祇局は師平田鉄胤をはじめ、樹下茂国じゅげしげくに六人部雅楽むとべうた福羽美静ふくばよしきよらの平田派の諸先輩が御一新の文教あるいは神社行政の上に重要な役割をつとめた中心の舞台である。師の周囲には平田延胤のぶたね師岡正胤もろおかまさたね権田直助ごんだなおすけ、丸山作楽さらく、矢野玄道げんどう、それから半蔵にはことに親しみの深い暮田正香くれたまさからの人たちが集まって、直接に間接に復古のために働いた。半蔵の学友、蜂谷香蔵はちやこうぞう、今こそあの同門の道づれも郷里中津川の旧廬きゅうろ帰臥きがしているが、これも神祇局時代には権少史ごんしょうしとして師の仕事を助けたものである。田中不二麿ふじまろの世話で、半蔵がこんな縁故の深いところに来て見たころは、追い追いと役所も改まり、人もかわりしていたが、それでも鉄胤老先生が神祇官判事として在職した当時の記録は、いろいろと役所に残っていた。ちょうど草の香でいっぱいな故園をおとなう心は、半蔵が教部省内の一隅いちぐうに身を置いた時の心であった。彼はそれらの諸記録をくりひろげるたびに、あそこにだれの名があった、ここにだれの名があったと言って見て、平田一門の諸先輩によって代表された中世否定の運動をそこに見渡すことができるように思った。別当社僧の復飾に、仏像を神体とするものの取り除きに、大菩薩たいぼさつの称号の廃止に、神職にして仏葬を執り行なうものの禁止に――それらはすべて神仏分離の運動にまであふれて行った国学者の情熱を語らないものはない。ある人も言ったように、従来僧侶そうりょでさえあれば善男善女に随喜渇仰かつごうされて、一生食うに困らず、葬礼、法事、会式えしきに専念して、作善さぜんの道を講ずるでもなく、転迷開悟を勧めるでもなく、真宗以外におおぴらで肉食妻帯する者はなかったが、だいこく、般若湯はんにゃとう、天がい等の何をさす名か、知らない者はなかったのが一般のありさまであった。「されば由緒ゆいしよもなき無格の小寺も、本山への献金によつて寺格を進めらるることのあれば、昨日にび色の法衣着たる身の今日は緋色ひいろを飾るも、また黄金の力たり。堂塔の新築改造には、勧進かんじん奉化ほうげ奉加ほうがとて、浄財の寄進を俗界に求むれども、実は強請に異ならず。その堂内に通夜するやからも風俗壊乱のなかだちたり。」とはすでに元禄の昔からである。全国寺院の過多なること、寺院の富用無益のこと、僧侶の驕奢きょうしゃ淫逸いんいつ乱行懶惰らんだなること、罪人の多く出ること、田地境界訴訟の多きこと等は、第三者の声を待つまでもなく、仏徒自身ですら心あるものはそれを認めるほどの過去の世相であったのだ。

 大きな破壊の動いた跡はそこにも驚かれるほどのものがある。利にさとい寺方が宮公卿みやくげの名目で民間に金を貸し付け、百姓どもから利息を取り立てる行為なぞはまッ先に鎗玉やりだまにあげられた。仁和寺にんなじ、大覚寺をはじめ、諸門跡もんぜき比丘尼御所びくにごしょ、院家、院室等の名称は廃され、諸家の執奏、御撫物おさすりもの祈祷巻数きとうかんじゅならびに諸献上物もことごとく廃されて、自今僧尼となるものは地方官庁の免許を受けなければならないこととなった。虚無僧こむそうの廃止、天社神道の廃止、修験宗しゅげんしゅうの廃止に続いて、神社仏閣の地における女人結界の場処も廃止された。この勢いのおもむくところは社寺領上地の命令となり、表面ばかりの禁欲生活から僧侶は解放され、比丘尼の蓄髪と縁付きと肉食と還俗げんぞくもまた勝手たるべしということになった。従来、祇園ぎおんの社も牛頭ごず天王と呼ばれ、八幡宮はちまんぐうも大菩薩と称され、大社小祠しょうしは事実上仏教の一付属たるに過ぎなかったが、天海僧正てんかいそうじょう以来の僧侶の勢力も神仏混淆こんこう禁止令によって根からくつがえされたのである。

 半蔵が教部省に出て仕えたのは、こんな一大変革のあとをうけて神社寺院の整理もやや端緒についたばかりのころであった。かねて神祇官時代には最も重要な地位に置かれてあった祭祀さいしの式典すら、彼の来て見たころにはすでに式部寮の所管に移されて、その一事だけでも役所の仕事が平田派諸先輩によってはじめられた出発当時の意気込みを失ったことを語っていた。すべてが試みの時であったとは言え、各自に信仰を異にし意見を異にし気質を異にする神官僧侶を合同し、これを教導職に補任して、広く国民の教化を行なおうと企てたことは、言わば教部省第一の使命ではあったが、この企ての失敗に終わるべきことは教部省内の役人たちですら次第にそれを感づいていた。初めから一致しがたいものに一致を求め、協和しがたいものに協和を求めたことも、おそらく新政府当局者の弱点の一つであったろう。ともかくもその国民的教化組織の輪郭だけは大きい。中央に神仏合同の大教院があり、地方にはその分院とも見るべき中教院、小教院、あるいは教導職を中心にする無数の教会と講社とがあった。いわゆる三条の教則なるものを定めて国民教導の規準を示したのも教部省である。けれども全国の神官と共に各宗の僧侶をして布教に従事せしめるようなことは長く続かなかった。専断偏頗へんぱの訴えはそこから起こって来て、教義の紛乱も絶えることがない。外には布教の功もあがらないし、内には協和の実も立たない。真宗五派のごときは早くも合同大教院から分離して、独立して布教に従事したいと申し出るような状態にある。半蔵はこんな内部の動揺しているところへ飛び込んで行ったのであった。役所での彼の仕事は主として考証の方面で、大教院から回して来るたくさんな書類を整理したり、そこで編集された教書に目を通したり、地方の教会や講社から来るさまざまな質疑に答えたりなぞすることであった。彼も幾度か躊躇ちゅうちょしたあとで、全く無経験な事に当たった。いかんせん、役所の空気はもはや事を企つるという時代でなく、ただただ不平の多い各派の教導職を相手にして妥協に妥協を重ねるというふうであった。同僚との交際にしても底に触れるものがない。今の教部省が神祇省と言った一つの時代を中間に置いて、以前の神祇局に集まった諸先輩の意気込みを想像するたびに、彼は自分の机を並べる同僚が互いのい立ちや趣味をえて、何一つ与えようともせず、また与えられようともしないと気がついた時に失望した。のみならず、地方の教会や講社から集まって来る書類は机の上に堆高うずだかいほどあって、そこにも彼は無数のばからしくくだらない質疑の矢面やおもてに立たせられた。たとえば、僧侶たりとも従前の服を脱いで文明開化の新服をまといたいが、仏事のほかは洋服を着用しても苦しくないか。神社仏寺とも古来所伝の什物じゅうもつ、衆庶寄付の諸器物、並びに祠堂金しどうきん等はこれまで自儘じままに処分し来たったが、これも一々教部省へ具状すべき筋のものであるか。従来あった梓巫あずさみこ市子いちこ祈祷きとう狐下きつねさげなぞの玉占たまうら、口よせ等は一切禁止せらるるか。寺住職の家族はその寺院に居住のまま商業を営んでも苦しくないか。もしかつらを着けるなら、寺住職者の伊勢参宮も許されるかのたぐいだ。国学の権威、一代の先駆者、あの本居翁が滑稽こっけいな戯画中の人物と化したのも、この調子の低い空気から出たことだ。

「教部省のことはもはや言うに足りない。」

 とは半蔵の嘆息だ。

 今は彼も再び役所の同僚の方へ帰って行く気はないし、また帰れもしない。いよいよ役所の仕事からも離れて、辞職の手続きをする心に至って見ると、彼なぞのそう長く身を置くべき場所でないこともはっきりした。


       三


 半蔵が教部省御雇いとしての日はこんなふうに終わりを告げた。半年の奉職は短かったが、しかし彼はいろいろなことを学んで来た。平田派諸先輩の学者たちが祭政一致の企てに手を焼いたことをも、それに代わって組織された神仏合同大教院のような政府の教化事業が結局失敗に終わるべき運命のものであることを知って来たのも、その短い月日の間であった。ここまで御一新にみちけたあの本居翁のような人さえもが多くの俗吏によってどんなふうに取り扱われているかを知って来たのも、またその間であった。

 この彼も、行き疲れ、思い疲れた日なぞには、さすがに昨日のことを心細く思い出す。十一月にはいってからは旅寝の朝夕もめっきりとはだ寒い。どうかすると彼は多吉夫婦が家の二階の仮住居かりずまいらしいところに長い夜を思い明かし、行燈あんどんも暗いまくらもとで、不思議な心地ここちをたどることもある……いつのまにか彼はこの世の旅の半ばに正路を失った人である。そして行っても行っても思うところへ出られないようないらいらした心地で町を歩いている……ふと、途中で、文部大輔たいふに昇進したという田中不二麿に行きあう。そうかと思うと、同門の医者、金丸恭順も歩いている。彼は自分で自分の歩いているところすらわからないような気がして来る。途方に暮れているうちに、ある町のかどなぞで、彼は平素それほど気にも留めないような見知らぬ人の目を見つける。その目は鋭く彼の方を見つつあるもののようで、

「あそこへ行くのは、あれはなんだ――うん、総髪そうがみか」とでも言うように彼には感じられる。彼はまだ散切ざんぎりにもしないで、総髪を後方うしろにたれ、紫のひもでそれを堅く結び束ねているからであった。そういう彼はまた、しいてそんな風俗を固守しているでもないが、日ごろの願いとする古い神社の方へ行かれる日でも来たら、総髪こそその神に仕える身にはふさわしいと思われるからでもあった。不思議にも、鋭く光った目は彼の行く先にある。どう見てもそれは恐ろしい目だ。こちらの肩をすくめたくなるような目だ。彼はそんな物言う目を洋服姿の諸官員なぞが通行の多い新市街の中に見つけるばかりでなく、半分まだ江戸の町を見るような唐物とうぶつ店、荒物店、下駄げた店、針店、その他紺の暖簾のれんを掛けた大きな問屋が黒光りのする土蔵の軒を並べた商家の空気の濃いところにすら見つける。どうかすると、そんな恐ろしい目はある橋の上を通う人力車の中にまで隠れている。こういうのが夢かしらん。そう思いながら、なおその心地をたどりつづけるうちに、大きなかわの流れているところへ出た。そこは郷里の木曾川きそがわのようでもあれば、東京の隅田川すみだがわのようでもある。水にさおさして流れを下って来る人がある。だんだんこちらの岸に近づいたのを見ると、その小舟をあやつるのは他の人でもない。それが彼の父吉左衛門だ。父はしきりに彼をさし招く。舟の中には手ぬぐいで髪をつつんだ一人ひとりのうしろ向きの婦人もある。彼は岸から父に声をかけて見ると、その婦人こそ彼を生んだ実の母おそでと聞かされて驚く。その時は彼も一生懸命に母を呼ぼうとしたが、あいにく声が咽喉のどのところへからびついたようになって、どうしてもその「おっかさん」が出て来ない。はるかに川上から橋の下の方へ渦巻うずまき流れて来る薄濁りのした水の勢いは矢のような早さで、見るまに舟も遠ざかって行く。思わず彼は自分で自分の揚げたうなり声にびっくりして、目をさました。



 こんなに父母が夢にはいったのは、半蔵としてはめずらしいことだった。半年の旅の末にはこんな夢を見ることもあるものか。そう彼は考えて、まだ寝床からはい出すべき時でもない早暁の枕の上で残った夢のこころもちに浸っていた。いつでも寝返りの一つも打つと、からだを動かすたびにそんなこころもちの消えて行くのは彼の癖であったが、その明けがたにかぎって、何がなしに恐ろしかった夢の筋から、父母の面影までが、はっきりと彼の胸に残った。これまで彼がき父を夢に見た覚えは、ただの一度しかない。青山の家に伝わる馬籠まごめ本陣、問屋といや庄屋しょうやの三役がしきりに廃止になった後、父吉左衛門の百か日を迎えたころに見たのがその夢の記憶だ。その時にできた歌もまだ彼には忘れられずにある。

き人に言問こととひもしつ幽界かくりよに通ふ夢路ゆめじはうれしくもあるか

 こんな自作の歌までも思い出しているうちに、耳に入る冷たい秋雨の音、それにまじってどこからともなく聞こえて来る蟋蟀こおろぎの次第に弱って行くような鳴き声が、いつのまにか木曾の郷里の方へ彼の心を誘った。彼は枕の上で、恋しい親たちの葬ってある馬籠万福寺の墓地を思い出した。妻のお民や四人の子の留守居する家の囲炉裏ばたを思い出した。平田同門の先輩も多くある中で、彼にはことに親しみの深い暮田正香をめずらしく迎え入れたことのある家の店座敷を思い出した。木曾路通過の正香は賀茂の方へ赴任して行く旅の途中で、古い神社へとこころざす手本を彼に示したのもあの先輩だが、彼と共にくみかわした酒の上で平田一門の前途を語り、御一新の成就のおぼつかないことを語り、復古が復古であるというのはそれの達成せられないところにあると語り、しまいには熱い暗い涙があの先輩の男らしい顔を流れたことを思い出した。彼はまた、松尾大宮司だいぐうじとして京都と東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤もろおかまさたね美濃みのの中津川の方に迎えた時のことを思い出し、その小集の席上で同門の人たちが思い思いに歌をしるしつけた扇を思い出し、あるものはこうして互いにつつがなくめぐりあって見ると八年は夢のような気がするとした意味の歌を書いたことを思い出し、あるものはからいとも甘いとも言って見ようのない無限の味わいをふくみ持った世のありさまではあるぞとした意味のものであったことを思い出した。その時の師岡正胤が扇面に書いて彼に与えたものは、この人にしてこの歌があるかと思われるほどの述懐で、おくれまいと思ったことは昔であるが、今は人のあとにも立ち得ないというような、そんな思いの寄せてあったことをも思い出した。

 やがて彼は床を離れて、自分で二階の雨戸をくった。二つある西と北との小さな窓の戸をもあけて見たが、まだそこいらは薄暗いくらいだった。階下の台所に近い井戸のそばで水垢離みずごりを取り身をきよめることは、上京以来ずっと欠かさずに続けている彼が日課の一つである。その時が来ても、おそろしくみちに迷った夢の中のこころもちが容易に彼から離れなかった。そのくせ気分ははっきりとして来て、何を見ても次第に目がさめるような早い朝であった。雨も通り過ぎて行った。



「ゆうべは多吉さんもおそかったようですね。」

「青山さん、さぞおやかましゅうございましたろう。吾夫うちじゃあんなにおそく帰って来て、戸をたたきましたよ。」

 問う人は半蔵、答える人は彼に二階の部屋へやを貸している多吉の妻だ。その時のおすみ挨拶あいさつに、

「まあ聞いてください。吾夫うちでも好きな道と見えましてね、運座でもありますとよくその方の選者に頼まれてまいりますよ。昨晩の催しは吉原よしわらの方でございました。御連中が御連中で、御弁当に酒さかななぞは重詰じゅうづめにして出しましたそうですが、なんでも百韻とかの付合つけあいがあって、たいへんくたぶれたなんて、そんなことを言っておそく帰ってまいりました。でも、あなた、男の人のようでもない。吉原まで行って、泊まりもしないで帰って来る――意気地いくじがないねえ、なんて、そう言って、わたしは笑っちまいましたよ。」

「どうも、おかみさんのような人にあっちゃかないません。」

「ところが、青山さん、吾夫うちの言い草がいいじゃありませんか。おそく夜道を帰って来るところが、おれの俳諧はいかいですとさ。」

 多吉夫婦はそういう人たちだ。

 十年一日のように、多吉は深川米問屋の帳付けとか、あるいは茶を海外に輸出する貿易商の書役かきやくとかに甘んじていて、町人の家に生まれながら全く物欲に執着を持たない。どこへ行くにも矢立てを腰にさして胸に浮かぶ発句ほっくを書き留めることを忘れないようなところは、風狂を生命とする奇人伝中の人である。その寡欲かよくと、正直と、おまけに客を愛するかみさんの侠気きょうきとから、半蔵のような旅の者でもこの家を離れる気にならない。

 この亭主ていしゅに教えられて半蔵がおりおりあさりに行く古本屋が両国薬研堀やげんぼりの花屋敷という界隈かいわいの方にある。そこにも変わり者の隠居がいて、江戸の時代から残った俳書、浮世草紙うきよぞうしから古いあずま錦絵にしきえの類を店にそろえて置いている。半蔵は亭主多吉が蔵書の大部分もその隠居の店で求めたことを聞いて知っていた。そういう彼も旅で集めた書物はいろいろあって、その中の不用なものを売り払いたいと思い立ち、午後から薬研堀をおとなうつもりで多吉の家を出た。

 偶然にも半蔵の足は古本屋まで行かないうちに懇意な医者の金丸恭順がもとに向いた。例の新乗物町という方へたずねて行って見ると、ちょうど恭順も病家の見回りから帰っている時で、よろこんで彼を迎えたばかりでなく、思いがけないことまでも彼の前に持ち出した。その時の恭順の話で、彼はあの田中不二麿が陰ながら自分のために心配していてくれたことを知った。飛騨ひだ水無みなし神社の宮司に半蔵を推薦する話の出ているということをも知った。これはすべて不二麿が斡旋あっせんによるという。

 恭順は言った。

「どうです、青山君、君も役不足かもしれないが、一つ飛騨の山の中へ出かけて行くことにしては。」

 どうして役不足どころではない。それこそ半蔵にとっては、願ったりかなったりの話のように聞こえた。この飛騨行きについては、恭順はただ不二麿の話を取り次ぐだけの人だと言っているが、それでも半蔵のために心配して、飛騨の水無神社は思ったより寂しく不便なところにあるが、これは決して左遷の意味ではないから、その辺も誤解のないように半蔵によく伝えくれとの不二麿の話であったと語ったりした。

「いや、いろいろありがとうございました。」と半蔵は恭順の前に手をついて言った。「わたしもよく考えて見ます。その上で田中さんの方へ御返事します。」

「そう君に言ってもらうと、わたしもうれしい。時に、青山君、君におめにかけるものがある。」

 と恭順は言いながら、黒く塗った艶消つやけしの色も好ましい大きな文箱ふばこを奥座敷の小襖こぶすまから取り出して来た。その中にある半紙四つ折りの二冊の手帳を半蔵の前に置いて見せた。

「さあ、これだ。」

 恭順がそこへ取り出したのは、半蔵の旧友蜂谷はちや香蔵がこの同門の医者のもとに残して置いて行ったものである。恭順は久しいことそれをしまい込んで置いて、どうしても見当たらなかったが、最近に本箱の抽斗ひきだしの中から出て来たと半蔵に語り、あの香蔵が老師鉄胤のあとを追って上京したのは明治二年の五月であったが、惜しいことに東京の客舎でわずらいついたと語った末に言った。

「でも、青山君、世の中は広いようで狭い。君の友だちのからだをわたしがてあげたなんて、まったく回り回っているもんですわい。」

 こんな話も出た。

 飛騨行きのことを勧めてくれたこの医者にも、恭順を通じてその話を伝えさせた不二麿にも、また、半蔵が平田篤胤没後の門人であり多年勤王のこころざしも深かった人と聞いてぜひ水無神社の宮司にと懇望するという飛騨地方の有志者にも、これらの人たちの厚意に対しては、よほど半蔵は感謝していいと思った。やがて彼は旧友の日記を借り受けて、恭順が家の門を出たが、古い神社の方へ行って仕えられる日の来たことは、それを考えたばかりでも彼には夢のような気さえした。

 飛騨の山とは、遠い。しかし日ごろの願いとするいつきの道が踏める。それに心を動かされて半蔵は多吉の家に引き返した。動揺して定まりのなかった彼も大いに心を安んずる時がありそうにも思われて来た。とりあえず、その話を簡単に多吉の耳に入れて置いて、やがてその足で彼は二階の梯子段はしごだんを上って行って見た。夕日は部屋へやに満ちていた。何はともあれ、というふうに、彼は恭順から借りて来た友人の日記を机の上にひろげて、一通りざっと目を通した。「東行日記、五月、蜂谷香蔵」とある。鉄胤先生もまだ元気いっぱいであった明治二年のことがその中に出て来た。同門の故人野城広助のしろひろすけのために霊祭をすると言って、若菜基助わかなもとすけの主催で、二十余人のものが集まった記事なぞも出て来た。その席に参列した先輩師岡正胤は当時弾正大巡察だんじょうだいじゅんさつであり、権田直助は大学中博士ちゅうはかせであり、三輪田元綱みわたもとつなは大学少丞しょうじょうであった。婦人ながらに国学者の運動に加わって文久年代から王事に奔走した伊那伴野いなともの村出身の松尾多勢子まつおたせこの名もその参列者の中に見いだされた。香蔵の筆はそうこまかくはないが、きのうはだれにあった、きょうはだれを訪ねたという記事なぞが、平田派全盛の往時を語らないものはない。

 医者の文箱ふばこに入れてあったせいかして、なんとなく香蔵の日記に移った薬のにおいまでが半蔵にはなつかしまれた。彼は友人と対坐たいざでもするように、香蔵の日記を繰り返してそこにいない友人の前へ自分を持って行って見た。今は伊勢宇治いせうじの今北山に眠る旧師から、生前よく戯れに三蔵と呼ばれた三人の学友のうち、その日記を書いた香蔵のように郷里中津川に病むものもある。同じ中津川に隠れたぎり、御一新後はずっと民間に沈黙をまもる景蔵のようなものもある。これからさらに踏み出そうとして、人生覊旅きりょの別れみちに立つ彼半蔵のようなものもある。


       四


 飛騨ひだ国大野郡、国幣小社、水無みなし神社、俗に一の宮はこの半蔵を待ち受けているところだ。東京から中仙道なかせんどうを通り、木曾路きそじを経て、美濃みのの中津川まで八十六里余。さらに中津川から二十三里も奥へはいらなければ、その水無神社に達することができない。旅行はまだまだ不便な当時にあって、それだけも容易でない上に、美濃の加子母村かしもむらあたりからはいる高山路たかやまみちと来ては、これがまた一通りの険しさではない。あの木曾谷から伊那の方へぬける山道ですら、昼でも暗い森に、木から落ちる山蛭やまびるに、往来ゆききの人に取りつくぶよに、つよい風に鳴る熊笹くまざさに、旅するものの行き悩むのもあの山間やまあいであるが、音に聞こえた高山路はそれ以上の険しさと知られている。

 この飛騨行きは、これを伝えてくれた恭順を通して田中不二麿からも注意のあったように、左遷なぞとは半蔵の思いもよらないことであった。たとい教部省あたりの同僚から邪魔にされて、よろしくあんな男は敬して遠ざけろぐらいのことは言われるにしても、それをこころにかける彼ではもとよりない。ただ、そんな山間に行って身をうずめるか、埋めないかが彼には先決の問題で、容易に決心がつきかねていた。

 その時になると、多くの国学者はみな進むに難い時勢に際会した。半蔵が同門の諸先輩ですら、ややもすれば激しい潮流のために押し流されそうに見えて来た。いったい、幕末から御一新のころにかけて、あれほどの新機運をよび起こしたというのも、その一つは大義名分の声の高まったことであり、その声は水戸藩にも尾州藩にも京都儒者の間にも起こって来た修史の事業に根ざしたことであった。そういう中で、最も古いところに着眼して、しかも最も新しい路をあとから来るものに教えたのは国学者仲間の先達せんだつであった。あの賀茂真淵かものまぶちあたりまでは、まだそれでもおもに万葉を探ることであった。その遺志をついだ本居宣長が終生の事業として古事記を探るようになって、はじめて古代の全きすがたを明るみへ持ち出すことができた。そこから、一つの精神が生まれた。この精神は多くの夢想の人の胸に宿った。後の平田篤胤、および平田派諸門人が次第に実行を思う心はまずそこに胚胎はいたいした。なんと言っても「言葉」から歴史にはいったことは彼らの強味で、そこから彼らは懐古でなしに、復古ということをつかんで来た。彼らは健全な国民性を遠い古代に発見することによって、その可能を信じた。それにはまずこの世の虚偽を排することから始めようとしたのも本居宣長であった。情をもめず欲をもいとわない生の肯定はこの先達があとから歩いて来るものにのこして置いて行った宿題である。その意味から言っても、国学はちかの学問の一つで、何もそうにわかに時世おくれとされるいわれはないのであった。

 もともと平田篤胤が後継者としての鉄胤は決して思いあがった人ではない。故篤胤翁の祖述者をもって任ずる鉄胤は、一切の門人をみな平田篤胤没後の門人として取り扱い、決しておのれの門人とは見なさなかったのが、何よりの証拠だ。多くの門人らもまたこの師の気風を受け継がないではない。ただ復古の夢を実顕するためには、まっしぐらに駆けり出そうとするような物を企つる心から、時には師の引いた線をえてらちの外へ飛び出したものもあった。けれども、その単純さから、門人同志の親しみも生まれ、団結も生まれることを知ったのであった。あの王政復古の日が来ると同時に、同門の人たちの中には武器を執って東征軍に従うものがあり、軍の嚮導者きょうどうしゃたることを志すものがあり、あるいは徳川幕府より僧侶そうりょに与えた宗門権の破棄と神葬復礼との方向に突き進むものがあって、過去数百年にわたる武家と僧侶との二つの大きな勢力をくつがえすことに力を尽くしたというのも、みなその単純な、しかし偽りも飾りもない心から出たことであった。ことに神仏分離の運動を起こして、この国の根本と枝葉との関係を明らかにしたのは、国学者の力によることが多いのであり、宗教廓清かくせいの一新時代はそこから開けて来た。暗い寺院に肉食妻帯の厳禁を廃し、多くの僧尼の生活から人間を解き放ったというのも、虚偽を捨てて自然おのずからに帰れとの教えから出たことである。すくなくもこの国学者の運動はまことの仏教徒を刺激し、その覚醒かくせいと奮起とを促すようになった。いかんせん、多勢寄ってたかってすることは勢いを生む。しまいには、地方官の中にすら廃仏の急先鋒きゅうせんぽうとなったものがあり、従来の社人、復飾の僧侶から、一般の人民まで、それこそねこ杓子しゃくしもというふうにこの勢いを押し進めてしまった。廃寺はこぼたれ、かきは破られ、墳墓は移され、残ったいしずえや欠けたつちくれが人をしてさながら古戦場を過ぐるの思いをいだかしめた時は、やがて国学者諸先輩の真意も見失われて行った時であった。言って見れば、国学全盛の時代を招いたのは廃仏運動のためであった。しかも、廃仏が国学の全部と考えられるようになって、かえって国学は衰えた。

 いかに平田門人としての半蔵なぞがやきもきしても、この頽勢たいせいをどうすることもできない。大きな自然おのずからふところの中にあるもので、盛りがあって衰えのないものはないように、一代の学問もまたこの例にはもれないのか。その考えが彼を悲しませた。彼には心にかかるかずかずのことがあって、このまま都を立ち去るには忍びなかった。



 まだ半蔵の飛騨行きは確定したわけではない。彼は東京にある知人の誰彼たれかれが意見をもそれとなく聞いて見るために町を出歩いた。何も飛騨の山まで行かなくとも他に働く道はあろうと言って彼を引き止めようとしてくれる人もない。今はそんな時ではないぞと言ってくれるような人はなおさらない。久しくたずねない鉄胤老先生の隠栖いんせいへも、御無沙汰ごぶさたのおわびをかねてその相談に訪ねて行って見ると、師には引き止められるかと思いのほか、一生に一度はそういう旅をして来るのもよかろうとの老先生らしい挨拶あいさつであった。

 その時になっても、まだ半蔵は右すべきか左すべきかの別れ路に迷っていた。彼は自分で自分に尋ねて見た。一筋の新しい進路は開けかかって来た、神の住居すまいも見えて来た、今は迷うところなくまッすぐにたどりさえすればいい、このに臨んで何を自分は躊躇ちゅうちょするのか、と。それに答えることはたやすそうで、たやすくない。彼が本陣問屋と庄屋を兼ねた時代には、とにもかくにも京都と江戸の間をつなぐ木曾街道中央の位置に住んで、山の中ながらに東西交通の要路に立っていた。この世の動きは、否でも応でも馬籠駅長としての彼の目の前を通り過ぎた。どうして、新旧の激しい争いがさまざまの形をとってあふれて来ている今の時に、そんなことは一切おかまいなしで、ただ神を守りにさえ行けばそれでいいというものではなかった上に、いったん飛騨の山のような奥地に引ッ込んでしまえば容易に出て来られる境涯きょうがいとも思われなかったからで。

 こういう時に馬籠隣家の伊之助でもそばにいたら、とそう半蔵は思わないではなかった。いかんせん、親しくあの隣人の意見をたたいて見ることもかなわない。この飛騨行きについては、多吉夫婦も実際どう思っていてくれるかと彼は考えた。男まさりな宿のかみさんは婦人としての教養もろくろく受ける機会のなかったような名もない町人の妻ではあるが、だんだん彼も付き合って見て、盤根錯節ばんこんさくせつを物ともしないそのまれな気質を彼も知っていた。人は物を見定めることが大切で、捨つべきことは思い切りよく捨てねばならない、それのできないようなものは一生ウダツが揚がらないと、日ごろ口癖のように言っているのもおすみだ。遠い親類より近い他人の言うこともよく聞いて見ようとして、やがて彼は町から引き返した。

 多吉の家では、ちょうど亭主も今の勤め先にあたる茅場町かやばちょうの店からもどって来ている時であった。そこへ半蔵が帰って行くと、多吉は彼を下座敷に迎え入れて言った。

「青山さん、いよいよ高山行きときまりましたかい。」

「いえ。」と半蔵は答えた。「わたしはまだお請けしたわけじゃありませんがね、まあ、行って働いて来るなら、今のうちでしょう。ずっと年を取ってから、行かれるような山の中じゃありませんからね。なかなか。」

 その時、多吉はお隅の方を見て言った。「お隅、青山さんが今度いらっしゃるところは、東京からだと、お前、百何里というから驚くね。お国からまだ二十里あまりもある。そうさ、二十里あまりさ。それがまた大変な山道で、馬も通わないところだそうだ。青山さんも、えらい奮発さね。」

 そういう多吉はもう半蔵が行くことにめてしまっている。お隅は、と見ると、このかみさんもまたしいて彼を止めようとはしなかった。ちょうど師の鉄胤が彼に言ったと同じようなことを言って、これから神職を奉じに行く彼のために、遠く不自由な旅のしたくのことなぞを心配してくれる。

「多吉さん夫婦だけはおれを止めるかと思った。」

 間もなく二階に上がって行ってからの半蔵のひとりごとだ。

 実のところ、彼はだれかに引き止めてもらいたかった。そして一人ひとりでも引き止めるものがあったら、自分でも思い直して見ようと考えていたくらいだ。いかに言っても、これから彼が踏もうとするみちは遠く寂しく険しい上に、そこいらはもはや見るもの聞くもの文明開化の風の吹き回しだ。何よりもまず中世のからを脱ぎ捨てよと教えたあの本居翁あたりが開こうとしたものこそ、まことのちかであると信ずる彼なぞにとっては、このいわゆる文明開化がまことの文明開化であるかどうかも疑問であった。物学びするわざに心を寄せ、神にも仕え、人をも導こうとするほどのものが、おのれを知らないではかなわないことであった。それにはヨーロッパからはいって来るものをも見定めねばならない。辺鄙へんぴな飛騨の山の方へ行って、それのできるかどうか、これまたすこぶる疑問であった。


       五


 長い鎖国の歴史をたどると、寛永年代以来世界交通の道も絶え果てていたことは二百二十年もの間にわたったのである。奉書船以外の渡航禁止の高札が長崎に建てられ、五百石以上の大船を造ることをも許されなかったのは徳川幕府の方針であって、諸外国に対する一切の門戸は全くとざされたようであるが、それでも一つの窓だけは開かれていた。

 はじめて唐船からふねがあの長崎の港に来たのは永禄えいろく年代のことであり、南蛮船の来たのは元亀げんき元年の昔にあたる。それから年々来るようになって、ある年は唐船三、四十そうを数え、ある年は蘭船らんせん四、五艘を数えたが、ついに貞享じょうきょう元禄げんろく年代の盛時に達した。元禄元年には、実に唐船百十七艘、高麗こうらい船三十三艘、蘭船三艘である。過去の徳川時代において、唐船が長崎に来たのは、貞享元禄のころを最も多い時とする。正保しょうほう元年、明朝みんちょうほろびて清朝しんちょうとなったころから、明末の志士、儒者なぞのこの国に来て隠れるものもすくなくはなく、その後のシナより長崎に渡来する僧侶そうりょで本国の方に名を知られたほどのものも年々絶えないくらいであった。寛延かんえん年代には幕府は長崎入港の唐船を十五艘に制限し、さらに寛政三年よりは一か年十艘以上の入港を許さなかった。これらは何を意味するかなら、海の外にあるものがさまざまな形でこの国に流れ込んで来たことを語るものであり、荷田春満かだのあずままろあたりを先駆とする国学たりとも、言わば外来の刺激を受けて発展したにほかならない。あの本居宣長が儒仏や老荘の道までもその荒い砥石といしとして、あれほど日本的なものをみがきあげたのを見ても、思い半ばに過ぐるものがあろう。日本の国運循環して、昨日まで読むことを禁じられてあった蕃書ばんしょも訳され、昨日まで遠ざけられた洋学者も世に出られることとなると、かつて儒仏の道の栄えたように、にわかに洋学のひろまって行くようになったことも不思議はない。この国にはすでに蘭学というものを通し、あるいは漢訳の外国書を通して、長いしたくがあったのだ。天文、地理の学にも、数学、医学、農学、化学にも、また兵学にもというふうに。外国の歴史や語学のことは言うまでもない。まったく、新奇を好むこの国の人たちは、ヨーロッパ人が物の理を考えきわめることのはなはだ賢いのに驚き、発明の新説を出すのに驚き、器械の巧みなのに驚き、医薬製煉せいれんの道のことにくわしいのにも驚いてしまった。

 当時、外国の事情もまだ充分には究められなかったような社会に、西洋は実にすばらしいものだという人をそう遠いところに求めるまでもなく、率先して新しい風俗に移るくらいのものは半蔵が宿の亭主多吉のすぐそばにもいた。その人は多吉の主人筋に当たり、東京にも横浜にも店を持ち、海外へ東海道辺の茶、椎茸しいたけ、それから生糸等を輸出する賢易商であった。そのくせ、多吉は西洋のことなぞに一向無頓着むとんちゃくで、主人が西洋人から手に入れて珍重するという寒暖計の性質も知らず、その気候温度ののぼり降りを毎日の日記につけ込むほどの主人が燃えるような好奇心をもよそに、暇さえあれば好きな俳諧はいかいの道に思いを潜めるような人ではあったが。実際、気の早い手合いの中には、今に日本の言葉もなくなって、皆英語の世の中になると考えるものもある。皮膚の色も白く鼻筋もよくとおった西洋人と結婚してこそ、より優秀な人種を生み出すことができると考えるものもある。こうなると、芝居しばいの役者まで舞台の上から見物に呼びかけて、

「文明開化を知らないものは、愚かでござる。」

 と言う。五代目音羽屋おとわやのごときは英語の勉強を始めたと言って、俳優ながら気の鋭いものだと当時の新聞紙上に書き立てられるほどの世の中になって来ていた。

 かくも大きな洪水こうずいが来たように、慶応四年開国以来のこの国のものは学問のしかたから風俗の末に至るまでも新規まき直しの必要に迫られた。日本の中世的な封建制度が内からも外からもくずれて行って、新社会の構成を急ぐ混沌こんとんとした空気の中に立つものは、眼前に生まれ起こる数多くの現象を目撃しつつも、そうはっきりした説を立てうるものはなかった。というのは、いずれもその空気の中に動いていて、一切があまりに身に近いからであった。半蔵にしてからが、そうだ。ただ馬籠駅長として実際その道に当たって見た経験から、彼の争えないとおもっていることは、一つある。交通の持ち来たす変革は水のように、あらゆる変革の中の最も弱く柔らかなもので、しかも最も根深く強いものと感ぜらるることだ。その力は貴賤きせん貧富を貫く。人間社会の盛衰を左右する。歴史を織り、地図をも変える。そこには勢い一切のものの交換ということが起こる。あの横浜開港の当時、彼は馬籠本陣の方にいて、幾多の小判こばん買いが木曾街道にまで入り込んだことを記憶する。国内に流通する小判、一判なぞがどんどん海の外へ流れ出して行き、そのかわりとして輸入せらるるものの多くは悪質な洋銀であった。古二朱金、保字ほうじ小判なぞの当時に残存した良質の古い金貨はあの時に地を払ってしまったことを覚えている。もしそれと同じようなことが東西文物の上に起こって来て、自分らの持つ古い金貨が流れ出して行き、そのかわりにはいって来る新しい文明開化が案外な洋銀のようなものであるとしたら、それこそ大変な話だと思われて来た。

 月の中旬が来るころには、いよいよ半蔵が水無神社宮司の拝命もおもてむきの沙汰さたとなった。もはや彼の東京にとどまるのも数日を余すのみとなった。



 朝が来た。例のように半蔵が薄暗い空気の中で水垢離みずごりを執り、からだをきよめ終わるころは、まだ多吉方の下女も起き出さないで、井戸ばたに近い勝手口の戸障子もまっていた。そこいらには、町中ながらに鶏の鳴き声が朝霧の中に聞こえていた。

 その日、半蔵はみかどの行幸のあることを聞き、神田橋かんだばしまで行けばその御道筋に出られることを知り、せめて都を去る前に御通輦ごつうれんを拝して行こうとしていた。彼はそのことを多吉夫婦に告げ、朝の食事をすますとすぐ羽織袴はおりはかまに改めて、茅場町かやばちょうの店へ勤めに通う亭主より一歩ひとあし早く宿を出た。神田川について、朝じめりのした道路の土を踏んで行くと、次第に町々の空も晴れて、なんとなく改まった心持ちが彼の胸にわいた。今は彼も水無神社の宮司であるばかりでなく、中講義を兼ねていた。

 神田橋見附跡の外には、ぽつぽつ奉拝の人々が集まりつつあった。待つこと二時間ばかり。そのうちに半蔵の周囲は、欄干の支柱にからかねの擬宝珠ぎぼしのついた古ぼけた橋のたもとから、当時「青い戸袋」と呼びなされた屋敷長屋のペンキ塗りの窓の下の方へかけて、いっぱいの人で、どうかすると先着の彼なぞはうしろにいるものから前の方へ押し出されるほどになった。そのたびに、棒を携えた巡査が前列にあるものを制しに来た。

 明治七年十一月十七日のことで、過ぐる年の征韓論せいかんろん破裂の大争いの記憶が眼前に落ち尽くした霜葉と共にまた多くの人の胸に帰って来るころだ。半蔵はそう思った。かくも多勢のものが行幸を拝しようとして、御道筋に群がり集まるというのも、内には政府の分裂し外には諸外国に侮らるる国歩艱難かんなんの時に当たって、万民をべさせらるる帝に同情を寄せ奉るものの多い証拠であろうと。彼は自分の今お待ち受けする帝が日本紀元二千五百余年来の慣習を破ってかつて異国人のために前例のない京都建春門を開かせたもうたことを思い、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよとの誓いを立てて多くのものと共に出発したもうたことを思い、御東行以来侍講としての平田鉄胤にも師事したもうた日のあることを思い、その帝がようやく御歳二十二、三のうら若さであることを思って、なんとなく涙が迫った。彼の腰には、宿を出る時にさして来た一本の新しい扇子がある。その扇面には自作の歌一首書きつけてある。それは人に示すためにしるしたものでもなかったが、深い草叢くさむらの中にある名もない民の一人ひとりでも、この国の前途を憂うる小さなこころざしにかけては、あえて人に劣らないとの思いが寄せてある。東漸するヨーロッパ人の氾濫はんらんを自分らの子孫のためにもこのままに放任すべき時ではなかろうとの意味のものである。その歌、


かにの穴ふせぎとめずは高堤たかづつみやがてくゆべき時なからめや     半蔵


 この扇子を手にして、彼は御通輦を待ち受けた。

 さらに三十分ほど待った。もはや町々をかために来る近衛このえ騎兵の一隊が勇ましい馬蹄ばていの音も聞こえようかというころになった。その鎗先やりさきにかざす紅白の小旗を今か今かと待ち受け顔な人々は彼の右にも左にもあった。その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどのやむにやまれない熱いこころが一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗おさきのりと心得、前後を顧みるいとまもなく群集の中から進み出て、そのお馬車の中に扇子を投進した。そして急ぎ引きさがって、ひたいを大地につけ、はかまのままそこにひざまずいた。

訴人そにんだ、訴人だ。」

 その声は混雑する多勢の中から起こる。何か不敬漢でもあらわれたかのように、互いに呼びかわすものがある。その時の半蔵はいち早くかけ寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれていた。大衆は争ってほとんど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。

〈[#改頁]〉


     第十二章


       一


 五日も半蔵は多吉の家へ帰らない。飛騨ひだ水無みなし神社宮司ぐうじを拝命すると間もなく、十一月十七日の行幸の朝に神田橋外まで御通輦ごつうれんを拝しに行くと言って、浅草左衛門町さえもんちょうを出たぎりだ。

 左衛門町の家のものは音沙汰おとさたのない半蔵の身の上を案じ暮らした。彼が献扇事件は早くも町々の人の口に上って、多吉夫婦の耳にもはいらないではない。それにつけてもうわさとりどりである。主人持ちの多吉は茅場町かやばちょうの店からもいろいろなことを聞いて来て、ただただ妻のおすみと共に心配する。第一、あの半蔵がそんな行為に出たということすら、夫婦のものはまだ半信半疑でいた。

 そこへ巡査だ。ちょうど多吉は不在の時であったので、お隅が出て挨拶あいさつすると、その巡査は区内の屯所とんしょのものであるが、東京裁判所からの通知を伝えに来たことを告げ、青山半蔵がここの家の寄留人であるかどうかをまず確かめるような口ぶりである。さてはとばかり、お隅はそれを聞いただけでも人のうわさに思い当たった。巡査は格子戸口こうしどぐちに立ったまま、言葉をついで、入檻にゅうかん中の半蔵が帰宅を許されるからと言って、身柄を引き取りに来るようとの通知のあったことを告げた。

 お隅はすこし息をはずませながら、

「まあ、どういうおとがめの筋かぞんじませんが、青山さんにかぎって悪い事をするような人じゃ決してございません。宅で本所ほんじょ相生町あいおいちょうの方におりました時分に、あの人は江戸の道中奉行のお呼び出しで国から出てまいりまして、しばらく宅に置いてくれと申されたこともございました。そんな縁故で、今度もたよってまいりまして、つい先ごろまでは教部省の考証課という方に宅からかよっておりました。まあ、手前どもじゃ、あの人の平素ふだんの行ないもよくぞんじておりますが、それは正しい人でございます。」

 突然巡査のたずねて来たことすら気になるというふうで、お隅は二階の客のためにこんな言いわけをした。それを聞くと、巡査はかみさんの言葉をさえぎって、ただ職掌がらこの通知を伝えるために来ただけのことを断わり、多吉なりその代理人なりが認印持参の上で早く本人を引き取れと告げて置いて、立ち去った。

 ともかくも半蔵が帰宅のかなうことを知って、さらに心配一つふえたように思うのはお隅である。というは、亭主多吉が町人の家に生まれた人のようでなく、世間に無頓着むとんちゃくで、巡査の言い置いて行ったような実際の事を運ぶには全く不向きにできているからであった。多吉の俳諧三昧はいかいざんまいと、その放心さと来たら、かつて注文して置いた道具の催促に日ごろ自分の家へ出入りする道具屋源兵衛げんべえを訪ねるため向島むこうじままで出向いた時、ふと途中の今戸いまどの渡しでその源兵衛と同じ舟に乗り合わせながら、「旦那だんな、どちらへ」と聞かれてもまだ目の前にその人がいるとは気づかなかったというほどだ。「旦那、その源兵衛はおれのことじゃありませんか」と言われて、はじめて気がついたというほどの人だ。お隅はこの亭主の気質をのみ込んでいる。場合によっては、彼女自身に夫の代理として、半蔵が身柄を引き取りに行こうと決心し、帯なぞ締め直して亭主の帰りを待っていた。はたして、多吉が屋外そとからもどって来た時は、お隅以上のあわてかたであった。

「お前さん、いずれこれにはわけのあることですよ。あの青山さんのことですもの、何か考えがあってしたことですよ。」

 お隅はそれを多吉に言って見せて、慣れない夫をそういう場所へ出してやるのを案じられると言う。背も高く体格も立派な多吉は首を振って、自身出頭すると言う。幸い半蔵の懇意にする医者、金丸恭順がちょうどそこへ訪ねて来た。この同門の医者も半蔵が身の上を案じながらやって来たところであったので、早速さっそく多吉と同行することになった。

「待ってくださいよ。」

 と言いながら、お隅は半蔵が着がえのためと、自分の亭主の着物をそこへ取り出した。町人多吉の好んで着る唐桟とうざんの羽織は箪笥たんすの中にしまってあっても、そんなものは半蔵には向きそうもなかった。

 そこでお隅は無地の羽織を選び、藍微塵あいみじんの綿入れ、襦袢じゅばん、それにさらし肌着はだぎまでもそろえて手ばしこく風呂敷ふろしきに包んだ。彼女は新しい紺足袋こんたびをも添えてやることを忘れていなかった。

「いずれ先方には待合所がありましょうからね、そっくりこれを着かえさせてくださいよ。青山さんの身につけたものは残らずこの風呂敷包みにして帰って来てくださいよ。」

 そういうお隅に送られて、多吉は恭順と一緒に左衛門町のかどを出た。お隅はまた、パッチ尻端折しりはしょりの亭主の後ろ姿を見送りながら、飛騨行きの話の矢先にこんな事件の突発した半蔵が無事の帰宅を見るまでは安心しなかった。



 多吉と恭順とは半蔵に付き添いながら、午後の四時ごろには左衛門町へ引き取って来た。お隅はこの三人を格子戸口に待たせて置き、下女に言いつけてひうち石とひうちがねとを台所から取り寄せ、切り火を打ちかけるまでは半蔵らを家に入れなかった。

 時ならぬきよめの火花を浴びた後、ようやくの思いでこの屋根の下に帰り着いたのは半蔵である。青ざめもしよごれもしているその容貌ようぼう、すこし延びたひげ、五日もくしを入れない髪までが、いかにも暗いところから出て来た人で、多吉の着物を拝借という顔つきでいる彼がしょんぼりとした様子はお隅らの目にいたいたしく映る。彼は礼を言っても言い足りないというふうに、こんなに赤の他人のことを心配してくれるお隅の前にも手をついたまま、しばらく頭をあげ得なかったが、やがて入檻中肌身に着けていたよごれ物を風呂敷包みのままそこへ差し出した。この中はしらみだらけだからよろしく頼むとの意味を通わせた。

「まずまあ、これで安心した。」と言って下座敷の内を歩き回るのは多吉だ。「お隅、おれは青山さんを連れて風呂ふろに行って来る。金丸先生には、ここにいて待っていただく。」

「それがいい。青山君も行って、さっぱりとしていらっしゃい。わたしは一服やっていますからね。」と恭順も言葉を添える。

 半蔵はまだ借り着のままだ。彼は着物を改めに自分の柳行李やなぎごうりの置いてある二階の方へ行こうとしたが、お隅がそれをおしとどめて、そのままからだを洗いきよめて来てもらいたいと言うので、彼も言われるままにした。

「どれ、御一緒に行って、一ぱいはいって来ようか――お話はあとで伺うとして。」

 そういう多吉は先に立って、お隅から受け取った手ぬぐいを肩にかけ、格子戸口を出ようとした。

「お隅、番傘ばんがさを出してくんな。ぽつぽつ降って来たぞ。」

 多吉夫婦はその調子だ。半蔵も亭主と同じように傘をひろげ、二人ふたりそろって、見るもの聞くもの彼には身にしみるような町の銭湯への道を踏んだ。

 多吉が住む町のあたりは古くからある数軒の石屋で知られている。家の前は石切河岸いしきりがしと呼び来たったところで、左衛門橋の通り一つへだてて鞍地河岸くらちがしにつづき、柳原の土手と向かい合った位置にある。砂利じゃり、土砂、海土などを扱う店の側について細い路地ろじをぬければ、神田川のすぐそばへも出られる。こんな倉庫と物揚げ場との多いごちゃごちゃした界隈かいわいではあるが、旧両国広小路ひろこうじ辺へもそう遠くなく、割合に閑静で、しかも町の響きも聞こえて来るような土地柄は、多吉の性に適すると言っているところだ。

 江戸の名ごりのような石榴口ざくろぐちの残った湯屋はこの町からほど遠くないところにある。朱塗りの漆戸うるしど箔絵はくえを描いた欄間らんまなぞの目につくその石榴口ざくろぐちをくぐり、狭い足がかりの板を踏んで、暗くはあるが、しかし暖かい湯気のこもった浴槽よくそうの中に身を浸した時は、ようやく半蔵もき返ったようになった。やがて、一風呂あびたあとのさっぱりした心持ちで、彼が多吉と共にまた同じ道を帰りかけるころは、そこいらはもう薄暗い。町ではチラチラ燈火あかりがつく。宿にもどって見ると、下座敷の行燈あんどんのかげに恭順が二人を待ちうけていた。

「金丸先生、今夜はお隅のやつが手打ち蕎麦そばをあげたいなんて、そんなことを申しています。青山さんの御相伴ごしょうばんに、先生もごゆっくりなすってください。」

「手打ち蕎麦、結構。」

 亭主と客とがこんな言葉をかわしているところへ、お隅も勝手の方からたすきをはずして来て、下女にぜんをはこばせ、半蔵が身祝いにと銚子ちょうしをつけて出した。

「まったく、こういう時はお酒にかぎりますな。どうもほかの物じゃ納まりがつかない。」と恭順が言う。

 半蔵も着物を改めて来て簡素なのしめぜんの前にかしこまった。焼き海苔のり柚味噌ゆずみそ、それに牡蠣かき三杯酢さんばいずぐらいのはし休めで、さかずきのやりとりもはじまった。さびしい時雨しぐれの音を聞きながら、酒にありついて、今度の事件のあらましを多吉の前に語り出したのもその半蔵だ。彼の献扇は、まったく第一のお車を御先乗おさきのりと心得たことであって、御輦ぎょれんに触れ奉ろうとは思いもかけなかったという。あとになってそれを知った時は実に彼も恐縮した。彼の述懐はそこから始まる。何しろ民間有志のものの建白は当時そうめずらしいことでもなかったが、行幸の途中にお車をめがけて扇子を投進するようなことは例のない話で、そのために彼は供奉ぐぶ警衛の人々の手から巡査をもって四大区十二小区の屯所とんしょへ送られ、さらに屯所から警視庁送りとなって、警視庁で一応の訊問じんもんを受けた。入檻にゅうかんを命ぜられたのはその夜のことであった。翌十八日は、彼はある医者の前に引き出された。その医者はまず彼の姓名、年齢、職業なぞを尋ねたが、その間には彼の精神状態を鑑定するというふうで、幾度か小首をかしげ、彼の挙動に注意することを怠らなかった。それから一応彼を診察したあとで、さて種々さまざまなことを問い試みた。神田橋前まで行幸を拝しに家を出たのは朝の何時で、その日の朝飯には何を食ったかのたぐいだ。医者の診断がつくと彼は東京裁判所へ送られることとなって、同夜も入檻、十九日には裁判所において警視庁より差し送った書面を読み聞かせられ、逐一事実のお尋ねがあったから、彼はそれに相違ないむねを答えた。入檻は二十二日の朝まで続いた。ようやくその時になって、寄留先の戸主をお呼び出しになり宿預けの身となったことを知ったという。

「でも、わたしもばかな男じゃありませんか。裁判所の方で事実を問い詰められた時、いくらも方法があろうのに、どうしてその方はそんな行為おこないに出たかと言われても、わたしには自分の思うことの十が一も答えられませんでした。」

 半蔵の嘆息だ。それを聞くと多吉は半蔵が無事な帰宅を何よりのよろこびにして、自分らはそんな野暮やぼは言わないという顔つきでいる。

 多吉は言った。

「青山さん、あなただって今度の事件は、御国のためと思ってしたことなんでしょう。まあ、そのさかずきをおしなさるさ。」

 今一度裁判所へ呼び出される日を待てということで、ともかくも半蔵は帰宅を許されて来た人である。彼にはすでに旧庄屋しょうやとしても、また、旧本陣問屋としても、あの郷里の街道に働いた人たちと共に長い武家の奉公を忍耐して来た過去の背景があった。実際、あるものをめがけて、まっしぐらに駆けり出そうとするような熱い思いはありながら、家を捨て妻子を顧みるいとまもなしにかつて東奔西走した同門の友人らがすることをもじっとながめたまま、交通要路の激しい務めに一切を我慢して来た彼である。その彼のこらえに耐えた激情が一時にせきを切って、日ごろ慕い奉るみかどが行幸の御道筋にあふれてしまった。こうすればこうなるぞと考えてしたことではなく、また、考えてできるような行ないではもとよりない。ほとばしり出る自分がそこにあるのみだった。


       二


 身祝いにと多吉夫婦が勧めてくれた酒に入檻中の疲労を引き出されて、翌朝半蔵はおそくまで二階に休んでいた。上京以来早朝の水垢離みずごりを執ることを怠らなかった彼も、その朝ばかりはぐっすり寝てしまって、宿の亭主が茅場町かやばちょうの店へ勤めに通う時の来たことも知らなかった。ゆうべの雨は揚がって、町のほこりも洗われ、向かい側にある家々の戸袋もかわきかけるころに、下女が二階の雨戸を繰ろうとして階下したから登って来て見る時になっても、まだ彼は大いびきだ。この彼がようやく寝床からはい出して、五日ばかりも留守にした部屋へやのなかを見回した時は、もはや日が畳の上までさして来ていた。

「お前の内部なかには、いったい、何事が起こったのか。」

 ある人はそう言って半蔵に尋ねるかもしれない。入檻に、裁判所送りに、宿預けに、その日からの謹慎に――これらはみな彼の献扇から生じて来た思いがけない光景である。あの行幸の当日、彼のささげた扇子があやまって御輦ぎょれんに触れたとは、なんとしても恐縮するほかはない。慕い奉る帝の御道筋をさまたげたことに対しても、彼は甘んじてその罰を受けねばならない。

「まったく、粗忽そこつな挙動ではあった。」

 彼の言いうることは、それだけだ。その時になって見ると、彼は郷里の家の方に留守居する自分の娘おくめを笑えなかった。過ぐる年の九月五日の夜、馬籠本陣の土蔵二階であの娘の自害を企てたことは、いまだに村のもののなぞとして残っている。父としての彼が今度のような事件を引き起こして見ると、おのれの内部なかにあふれて来た感動すら彼はそれを説き明かすことができない。

 午後から、半蔵は宿のかみさんに自分の出先を断わって置いて、柳原の方にある床屋をさして髭剃ひげそりに出かけた。そこは多吉がひいきにする床屋で、老練な職人のいることを半蔵にも教えてくれたところである。多吉が親しくする俳諧はいかい友だちのいずれもは皆その床屋の定連じょうれんである。柳床やなぎどこと言って、わざわざ芝の増上寺ぞうじょうじあたりから頭を剃らせに来る和尚おしょうもあるというほど、剃刀かみそりを持たせてはまず名人だと日ごろ多吉が半蔵にほめて聞かせるのも、そこに働いている亭主のことである。

「これは、いらっしゃい。」

 その柳床の亭主が声を聞いて、半蔵は二、三の先着の客のそばに腰掛けた。まげのあるもの、散髪のもの、彼のように総髪そうがみにしているもの、そこに集まる客の頭も思い思いだ。一方にはそこに置いてある新版物を見つけて当時評判な作者仮名垣魯文かながきろぶんの著わしたものなぞに読みふける客もあれば、一方には将棋をさしかけて置いて床屋の弟子でしに顔をやらせる客もある。なんと言っても、まだまだ世の中には悠長ゆうちょうなところがあった。やがて半蔵の順番に回って来ると、床屋の亭主が砥石といしの方へ行ってぴったり剃刀をあてる音にも、力を入れてそれをぐ音にも、彼は言いあらわしがたい快感を覚えた。むさくるしく延びたひげが水にしめされながら剃られるたびに、それが亭主の手の甲の上にもあり、彼の方で受けている小さな板の上にも落ちた。

 いつのまにか彼の心は、あとからはいって来た客の話し声の方へ行った。過ぐる日、帝の行幸のあったおり、神田橋外で御通輦を待ち受けた話をはじめた客がそこにある。客は当日の御道筋に人の出たことから、一人ひとり直訴じきそをしたもののあったことを言い出し、自身でその現場を目撃したわけではないが、往来ゆききの人のうわさにそれを聞いて気狂いと思って逃げ帰ったという。思わず半蔵はハッとした。でも、彼は自分ながら不思議なくらいおちついたこころもちに帰って、まるで他人のことのように自分のうわさ話を聞きながら、床屋の亭主がするままに身を任せていた。親譲りの大きく肉厚にくあつな本陣鼻から、耳の掃除そうじまでしてもらった。



 何げなく半蔵は床屋を出た。上手じょうずな亭主が丁寧に逆剃さかぞりまでしてくれてほとんどその剃刀を感じなかったほどの仕事を味わったあとで、いささかほおは冷たいというふうに。

 その足で半蔵は左衛門町の二階へ引き返して行った。静かな西向きの下窓がそこに彼を待っている。そこは彼が一夏の間、慣れない東京の暑さに苦しんで、よく涼しい風を入れに行ったところだ。部屋へやは南に開けて、その外が町の見える縁側になっているが、きれい好きな宿のかみさんは彼の入檻中に障子を張り替えて置いてある。上京以来すでに半年あまりも寝起きをして見れば、亭主多吉の好みで壁の上に掛けて置く小額までが彼には親しみのあるものとなっている。

 過ぐる五日の暗さ。彼は部屋にもどっていろいろと片づけ物なぞしながら、檻房かんぼうの方に孤坐こざした時の自分のこころもちを思いかえした。彼の行為が罪に問われようとして東京裁判所の役人の前に立たせられた時、彼のわずかに申し立てたのは、かねて耶蘇教ヤソきょう蔓延まんえんを憂い、そのための献言もつかまつりたい所存であったところ、たまたま御通輦を拝して憂国の情が一時に胸に差し迫ったということであった。ちょうど所持の扇子に自作の和歌一首しるしつけてまかったから、御先乗おさきのりとのみ心得た第一のお車をめがけて直ちにその扇子をささげたなら、自然と帝のお目にもとまり、国民教化の規準を打ち建てる上に一層の御英断も相立つべきかと心得たということであった。

 すくなくもこの国の前途をおのが狭い胸中に心配するところから、彼もこんな行為に出た。ただただそれがかたくなな心のあらわれのように見られることはいかにも残念であるとするのが、彼の包み隠しのないところである。開国以前のものは皆、一面に西洋を受けいれながら、一面には西洋と戦った。不幸にも、この国のものがヨーロッパそのものを静かによく見うるような機会を失ったことは、二度や三度にとどまらない。かく内に動揺して、外を顧みるいとまもないような時に、歴史も異なり風土も異なり言葉も異なる西洋文明の皮相を模倣するのみで、それと戦うことをしなかったら、末ははたしてどうなろう。そのことがすでに彼には耐えられなかった。そういう彼とても、ただ漫然と異宗教の蔓延まんえんを憂いているというではない。もともと切支丹宗キリシタンしゅう取り扱いの困難は織田信長おだのぶなが時代からのこの国のものの悩みであって、元和げんな年代における宗門人別帳にんべつちょうの作製も実はその結果にほかならない。長い鎖国が何のためかは、宗門のことをヌキにしては考えられないことであった。いよいよこの国を開くに当たって、新時代が到来した時、あの厩戸皇子うまやどのおうじが遠い昔にのこした言葉と言い伝えらるるものは、また新時代に役立つことともなった。すなわち、神道をわが国の根本とし、儒仏をその枝葉とすることは、神祇局じんぎきょく以来の一大方針で、耶蘇ヤソ教徒たりともこの根本を保全するが道であるというふうに半蔵らは考えた。ところが外国宣教師は種々さまざまな異議を申し立て、容易にこの方針に従わない。それに力を得た真宗の僧侶そうりょまでが勝手を主張しはじめ、独立で布教に従事するものを生じて来た。半蔵は教部省に出仕して見てこのことを痛感した。外国宣教師の抗議に対して今日のような妥協に妥協をのみ重ねるとしたら、各派教導職の不平もおさえがたくなって、この国の教化事業はただただ荒れるに任せ、一切を建て直そうとする御一新の大きな気象もついには失われて行くであろう。神祇局は神祇省となり、神祇省は教部省となった。結局、教部省というものも今に廃されるであろう。このことが彼を悲しませる。

 二百余年前、この国において、ホルトガル人、イスパニア人を追放したころの昔と、明治七年の今とでは、もとより外国の風習も大いに異なっているかもしれない。今の西洋は昔ほど宗門のことを皆願っているというふうではないかもしれない。それはすでに最初の米国領事ハリスがこの国のものに教えたことである。あのハリスが言うように、今のアメリカあたりでは宗門なぞは皆、人々の望みに任せ、それこれを禁じまたは勧めるようなことはさらにないかもしれない。何を信仰しようとも人々の心次第であるかもしれない。今のヨーロッパで見いだした信仰の基本とは、人々銘々の心に任せるよりほかにいたし方もないと決着したとある。半蔵とても一応そのことを考慮しないではなかったが、しかし自分らの子孫のためにもこれはゆるがせにすべきでないと思って来た。宗教の事ほどその源の清く、その末の濁りやすいものもすくない。わが国神仏混淆こんこうの歴史は何よりも雄弁にそれを語っている。この先、神耶しんヤ混淆のような事が起こって来ないとは決して言えなかった。どんな耶蘇の宣教師が渡来して、根気もありさとりも深くて、人をなつけ、新奇を好むこの国のものに根本と枝葉との区別をすら忘れさせるようなことが起こって来ないとは、これまた決して言えなかった。御一新もまだ成就しない今のうちに、国民教化の基準をしっかりと打ち建てて置きたい。それが半蔵らの願いであった。

 静かなところでおもい起こして見ると、あだかも目に見えない細い糸筋のように、いろいろな思いがそれからそれと引き出される。郷里の方に留守居する継母や妻子のこともしきりに彼の胸に浮かんで来た。彼は今度の事件がどんなふうに村の人たちのうわさに上るだろうかと思い、これがまた彼の飛騨行きにどう響くかということも心にかかった。


       三


 十一月二十九日に、半蔵は東京裁判所の大白洲おおしらすへ呼び出された。その時、彼は掛りの役人から口書くちがきを読み聞かせられたので、それに相違ないむねを答えると、さらに判事庁において先刻の陳述は筆記書面のとおりに相違ないかと再応の訊問じんもんがあった。彼が相違ない旨を答えると、それなら調印いたせとの言葉に、即刻調印を差し上げた。追って裁断に及ぶべき旨を言い聞かせられて、彼はその場を退いて来た。

 とりあえず半蔵はこのことを多吉夫婦の耳に入れ、郷里の留守宅あてにもありのままを書いて、自分の粗忽そこつから継母にまで心配をかけることはまことに申し訳がないと言い送った。のみならず、このために帰国の日もおくれ、飛騨行きまで延び、いろいろ心にかかることばかりであるがこれもやむを得ない、このまま帰国は許されないから裁断申し渡しの日が来るまでよろしく留守居を頼むとも言い送った。なお、彼は裁判所での模様を新乗物町の方へ手紙で知らせてやると、月を越してからわざわざ彼を見に来てくれたのも金丸恭順であった。

「青山君、いくら御謹慎中だって、そう引っ込んでばかりいなくてもいいでしょう。せめて両国辺まで出てごらんなさい。台湾の征蕃兵せいばんへいがぽつぽつ帰って来るようになりましたぜ。」

 恭順はこんな話を持って左衛門町の二階へ上がって来た。征蕃兵が凱旋がいせんを迎えようとする市内のにぎわいも、半蔵はそれを想像するにとどめて、わびしくこもり暮らしている時である。恭順の顔を見ると、半蔵は裁断申し渡しの日の待ちどおしいことを言い、その結果いかんではせっかく彼を懇望する飛騨地方の人たちが思惑おもわくもどうあろうかと言い出す。その時、恭順は首を振って、これが他の動機から出た行為なら格別、一点の私心もない憂国の過慮からであって見れば、飛騨の方は心配するほどのことはあるまい、なお、田中不二麿からも飛騨有志あてに一筆書き送ってもらうことにしようと語った末に、言った。

「どうです、青山君、君も新乗物町の方へ越して来ては。」

 それを勧めるための恭順が来訪であったのだ。この医者はなおも言葉をついで、

「そうすれば、わたしも話し相手ができていい。まあ、君一人ひとりぐらい居候いそうろうに置いたって、食わせるに困るようなことはしませんぜ。部屋へやも貸しますぜ。」

 恭順は真実を顔にあらわして言った。その言葉のはしにまじる冗談もなかなかにあたたかい。同門のよしみとは言え、よっぽど半蔵もこの人に感謝してよかった。しかし、謹慎中の身として寄留先を変えることもどうかと思うと言って、彼は恭順のこころざしだけを受け、やはりこのままの仮寓かぐうを続けることにしたいと断わった。むなしい旅食は彼とても心苦しかったが、この滞在が長引くようならばと郷里の伏見屋伊之助のもとへ頼んでやったこともあり、それに今になって左衛門町の宿を去るには忍びなかった。



 十二月中旬まで半蔵は裁判所からの沙汰さたを待った。そのころにでもなったら裁断も言い渡されるだろうと心待ちに待っていたが、裁判所も繁務のためか、十二月下旬が来るころになってもまだ何の沙汰もない。

 東京の町々はすでに初雪を見る。もっとも、浅々と白く降り積もった上へ、夜の雨でも来ると、それが一晩のうちに溶けて行く。木曾路きそじあたりとは比較にもならないこの都会の雪空は、遠く山の方へと半蔵の心を誘う。彼も飛騨行きのおくれるのを案じている矢先で、それが延びれば延びるほど、あの険阻けんそで聞こえた山間の高山路が深い降雪のためにうずめられるのを恐れた。

独居ひとりいのねぶり覚ますと松がにあまりて落つる雪の音かな

さよしぐれ今は外山とやまやこえつらむ軒端のきばに残る音もまばらに

山里は日にけに雪のつもるかな踏みわけてふ人もこなくに

しら雪のうづみ残せる煙こそ遠山里のしるしなりけれ

 これらの冬の歌は、半蔵が郷里の方に残して来た旧作である。彼は左衛門町の二階にいてこれらの旧作を思い出し、もはや雪道かと思われる木曾の方のふるい街道を想像し、そこを往来する旅人を想像し、かわのむなび、麻のはえはらい、紋のついた腹掛けから、たてがみ尻尾しっぽまで雪にぬれて行く荷馬の姿を想像した。彼はまた、わずかにつがの実なぞのあかたまのように枝に残った郷里の家の庭を想像し、木小屋の裏につづく竹藪たけやぶを想像し、その想像を毎年の雪に隠れひそむ恵那山えなさん連峰の谿谷けいこくにまで持って行って見た。

 とうとう、半蔵は東京で年を越した。一年に一度のもちつき、やれ福茶だ、小梅だ、ちょろげだと、除夜からして町家は町家らしく、明けては屠蘇とそを祝え、雑煮ぞうにを祝え、かちぐり、ごまめ、数の子を祝えと言う多吉夫婦と共に、明治八年の新しい正月を迎えた。

 暮れのうちに出したらしい郷里の家のものからの便たよりがこの半蔵のもとに届いた。それは継母おまんと、娘おくめとからで。娘の方の手紙は父の身を案じ暮らしていることから、留守宅一同の変わりのないこと、母お民から末の弟和助まで毎日のように父の帰国を待ちわびていることなぞが、まだ若々しい女文字でしたためてある。継母から来た便りはそうなまやさしいものでもない。それには半蔵の引き起こした今度の事件がいつのまにか国もとへも聞こえて来て、種々さまざまなうわさを生んでいるとある。その中にはお粂のようすも伝えてあって、その後はめっきり元気を回復し、例の疵口きずぐちも日に増し目立たないほどにえ、最近に木曾福島の植松家から懇望のある新しい縁談に耳を傾けるほどになったとある。継母の手紙は半蔵の酒癖のことにまで言い及んであって、近ごろは彼もことのほか大酒をするようになったと聞き伝えるが、朝夕継母の身として案じてやるとある。その手紙のつづきには、男の大厄たいやくと言わるる前後の年ごろに達した時は、とりわけその勘弁がなくてはあぶないとは、あの吉左衛門が生前の話にもよく出た。大事の吉左衛門を立てるなら、酒を飲むたびにき父親のことを思い出して、かたくかたくつつしめとも言ってよこしてある。



「青山さん、まだ裁判所からはなんとも申してまいりませんか。」

 新しい正月もよそに、謹慎中の日を送っている半蔵のところへ、おすみは下座敷から茶を入れて来て勧めた。到来物の茶ではあるがと言って、多吉の好きな物を客にも分けに階下したから持って来るところなぞ、このかみさんも届いたものだ。

 旅の空で、半蔵もこんな情けのある人を知った。彼の境涯きょうがいとしては、とりわけ人の心の奥も知らるるというものであった。お隅はりんとした犯しがたいようなところのある人で、うっかりすると一切女房任せな多吉の方がかえって女房であり、むしろお隅はこの家の亭主である。

「お国から、お便たよりがございましたか。」

「ええ、皆無事で暮らしてるようです。こちらへも御厄介ごやっかいになったろうッて、吾家うちのものからよろしくと言って来ました。」

「さぞ、奥さんも御心配なすって――」

「お隅さん、あなたの前ですが、国からの便りと言うといつでも娘が代筆です。あれも手はよく書きますからね。わたしの家内はまた、自分で手紙を書いたことがありませんよ。」

 こんな話も旅らしい。お隅の調子がいかにもさっぱりとしているので、半蔵は男とでもむかい合ったように、継母から来た手紙のことをそこへ言い出して、彼の酒をとがめてよこしたと言って見せる。彼が賢い継母をはばかって来たことは幼年時代からで、「おっかさんほどこわいものはない」と思う心を人にも話したことがあるほどだが、成人して家督を継ぎ、旧宿場や街道の世話をするようになってからは、その継母にすら隠れて飲むことはやめられなかったと白状する。

「でも、青山さん。お酒ぐらい飲まなくて、やりきれるものですかね。」

 お隅はお隅らしいことを言った。

 松の内のことで、このかみさんも改まった顔つきではいるが、さすがに気のゆるみを見せながら、平素めったに半蔵にはしない自分の女友だちのうわさなぞをも語り聞かせる。おとらと言って清元きよもとようの高弟にあたり、たぐいまれな美音の持ち主で、柳橋やなぎばし辺の芸者衆に歌沢うたざわを教えているという。放縦ではあるが、おもしろい女で、かみさんとは正反対な性格でいながら、しかも一番仲よしだともいう。その人の芸人はだと来たら、米櫃こめびつに米がなくなっても、やわらか物は着通し、かりん胴の大切な三味線しゃみせんを質に入れて置いて、貸本屋の持って来る草双紙くさぞうしを読みながら畳の上に寝ころんでいるという底の抜け方とか。お隅は女の書く手紙というものをその女友だちのうわさに結びつけて、お寅もやはり手紙はむつかしいものと思い込んでいた女の一人であると半蔵に話した。何も、型のように、「一筆しめしあげ参らせそろ」から書きはじめなくとも、談話はなしをするように書けば、それで手紙になると知った時のお寅の驚きと喜びとはなかったとか。早速さっそくお寅は左衛門町へあてて書いてよこした。今だにそれはお隅の家のものの一つ話になっているという。その手紙、

「はい、お隅さん、今晩は。暑いねえ。その後、亭主あるやら、ないじゃやら――ですとさ。」

 お隅はこんな話をも半蔵のところに置いて行った。

 騒がしく、楽しい町の空の物音は注連しめを引きわたした竹のそよぎにまじって、二階の障子に伝わって来ていた。その中には、多吉夫婦の娘お三輪みわが下女を相手にしての追羽子おいばねの音も起こる。お三輪は半蔵が郷里に残して置いて来たお粂を思い出させる年ごろで、以前の本所相生町の小娘時代に比べると、今は裏千家うらせんけとして名高い茶の師匠松雨庵しょううあん内弟子うちでしに住み込んでいるという変わり方だ。平素は左衛門町に姿を見せない娘が両親のもとへ帰って来ているだけでも、家の内の空気は違う。多吉夫婦は三人の子の親たちで、お三輪の兄量一郎は横浜貿易商の店へ、弟利助は日本橋辺の穀問屋こくどんやへ、共に年期奉公の身であるが、いずれこの二人ふたりの若者も喜び勇んで藪入やぶいりの日を送りに帰って来るだろうとのうわさで持ち切る騒ぎだ。

 町へ来るにぎやかな三河万歳みかわまんざいまでが、めでたい正月の気分を置いて行く中で、半蔵は謹慎の意を表しながらひとり部屋にすわりつづけた。お三輪は結いたてのうつくしい島田で彼のところへも挨拶あいさつに来て、紅白の紙に載せた野村の村雨むらさめを置いて行った。



 七草過ぎになっても裁判所からは何の沙汰もない。毎日のように半蔵はそれを待ち暮らした。亭主多吉は風雅のたしなみのある人だけに、所蔵の書画なぞを取り出して来ては、彼にも見よと言って置いて行ってくれる。腰張りのしてある黄ばんだ部屋の壁も半蔵には慰みの一つであった。

 ふと、半蔵は町を呼んで来る物売りの声を聞きつけた。新版物のうたを売りに、深山の小鳥のような鋭くさびた声を出して、左衛門町の通りを読み読み歩いて来る。びっくりするほどよくとおるその読売りの声は町の空気に響き渡る。半蔵は聞くともなしにそれを聞いて、新しいものとふるいものとが入れまじるまッ最中を行ったようなその新作の唄の文句に心を誘われた。

洋服すがたに

ズボンとほれて、

そでないおかたで苦労する。

 激しい移り変わりの時を告げ顔なものは、ひとりこんな俗謡にのみかぎらない。過ぐる七年の月日はすべてのものを変えつつあった。燃えるような冒険心をいだいて江戸の征服を夢み、遠く西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑連ですら、追い追いのいきな風に吹かれては、都の女の俘虜とりことなるものも多かった。一方には当時諷刺ふうし諧謔かいぎゃくとで聞こえた仮名垣魯文かながきろぶんのような作者があって、すこぶるトボケた調子で、この世相をたくみな戯文に描き出して見せていた。多吉が半蔵にも読んで見よと言って、下座敷から持って来て貸してくれた『阿愚楽鍋あぐらなべ』、一名牛店雑談にはこんな一節もある。

「方今の形勢では、洋学でなけりゃア、夜は明けねえヨ。」

 これは開化のさきがけたる牛店を背景に、作者が作中人物の一人ひとりをして言わせた会話の中の文句である。どんな人物の口からこんな文句が出るかというに、にわか散切ざんぎりの西洋ごしらえ、フランスじこみのマンテルにイギリスのチョッキを着け、しかもそれは柳原あたりの朝市で買い集めた洋服であり、時計はくさりばかりぶらさげて、外見をつくろおうとする男とある。おのれ一人が文明人という顔つきで、『世界国尽くにづくし』などをちょっと口元ばかりのぞいて見た知識を振り回し、西洋のことならなんでも来いと言い触らすこまりものだともある。おもてはなやかに、うらの貧しいこんな文明人はついそこいらの牛店にもすわり込んで、肉鍋と冷酒ひやざけとを前に、気焔きえんをあげているという時だ。寄席よせの高座で、芸人の口をついて出る流行唄はやりうたまでが変わって、それがまた英語まじりでなければ納まらない世の中になって来た。「待つ夜の長き」では、もはや因循で旧弊な都々逸どどいつの文句と言われる。どうしてもそれは「待つ夜のロング」と言わねばならない。「猫撫ねこなで声」というような文句ももはや眠たいとされるようになった。どうしてもそれは「キャット撫で声」と言わねば人を驚かさない。すべてこのたぐいだ。

 半蔵は腕を組んでしまって、渦巻うずまく世相を夢のようにながめながら、照りのつよい日のあたった南向きの障子のわきにすわりつづけた。まだ春も浅く心も柔らかな少女たちが、今にこの日本の国も英語でなければ通じなくなる時が来ると信じて、洋書と洋傘ようがさとを携え、いそいそと語学の教師のもとへ通うものもあるというような、そんな人のうわさを左衛門町の家のものから聞くだけでも、彼は胸がいっぱいになった。



 終日読書。

 青年時代から半蔵が見まもって来たまぼろしは、また彼の胸に浮かぶ。そのまぼろしの正体を彼は容易に突きとめることができなかった。彼の心に描く「黒船」とは、およそ三つのものを載せて来る。耶蘇教ヤソきょうはその一つ、格物究理の洋学はその一つ、交易による世界一統もまたその一つである。彼なぞの考えるところによると、西洋の学問するものも一様ではない、すくなくも開国以前と以後とでは、洋学者の態度にもかなりな相違がある。今さら、「東洋は道徳、西洋は芸術(技術の意)」と言ったあの佐久間象山さくましょうざんを引き合いに出すまでもなく、開港以前の洋学者はいずれもこの国に高い運命の潜むことを信じて行ったようである。前の高橋作左衛門、土生玄磧はぶげんせき、後の渡辺崋山わたなべかざん、高野長英、皆そういう人たちである。農園と経済学との知識をもつ洋学者で、同時に本居平田の学説を深く体得した秋田の佐藤信淵さとうのぶひろのごとき人すらある。六十歳の声を聞いて家督を弟に譲り、隠居して、それから洋学にこころざしたような人は決してめずらしくない。その学問は藩のおおやけに許すところであらねばならぬ。洋学者としての重い責めをも果たさねばならぬ。彼らが境涯きょうがいの困難であればあるだけ、そのこころざしも堅く、学問も確かに、著述も残し、天文、地理、歴史、語学、数学、医学、農学、化学、または兵学のいずれにも後の時代のためにしたくをなし得たわけである。そこへ行くと開国以後の洋学者というものはその境涯からして変わって来た。今は洋学することも割合に困難でなくなった。わざわざ長崎まで遠く学びに行くものは、かえって名古屋あたりの方にもっとよい英語教師のあることを知るという世の中になって来た。彼の目の前にひらけているのは、実に浅く普及して来た洋学の洪水こうずいだ。

 もとよりその中には、開国以前からの洋学者ののこしたこころざしをけ継ぐ少数の人たちもないではない。しかし、ここに本も読めば筆も立つ旧幕の人の一群というものがある。それらの人たちが西洋を求める態度はすこし違う。彼らは早く西洋の事情に通じる境涯にも置かれてあって、幕府の洋書取調所(蕃書ばんしょ取調所の後身)に関係のあったものもあり、横浜開港場の空気に触れる機会の多かったものもある。それらの人たちはまた、閲歴も同じくはないし、旧幕時代の役の位もちがい、ろくも多かったものとすくなかったものとあるが、大きな瓦解がかいの悲惨に直面したことは似ていた。江戸をなつかしむ心も似ていた。幕末の遺臣として知られた山口泉処せんしょ向山黄村むこうやまこうそん、あの人たちもどうなったろうと思われる中で、瓦解以前に徳川政府の使命を帯びフランスにおもむいた喜多村瑞見なぞはその広い見聞の知識を携え帰って来て、本所北二葉町の旧廬きゅうろから身を起こし、民間に有力なある新聞の創立者として言論と報道との舞台に上って来た。もっとも、瑞見はその出発が幕府奥詰おくづめの医師であり、本草ほんぞう学者であって、かならずしも西洋をのみ鼓吹こすいする人ではなかったが、後進で筆も立つ人たちが皆瑞見のような立場にあるのではない。中には、自国に失望するあまりに、その心を見ぬヨーロッパの思慕へとかえるものがある。戯文に隠れて、一般の異国趣味をあおぎ立てるものもある。「なるほど、世の中は変わりもしよう。しかし、よりよい世の中は――決して。」――とは、不平不満のやりどころのないようなそれらの人たちより陰に陽に聞こえて来る強い非難の声だ。半蔵なぞにして見ると、今の時はちょうど遠い昔に漢土の文物を受けいれはじめたその同じ大切な時にあたる。中世のからもまだ脱ぎ切らないうちに、かつてこの国のものが漢土に傾けたその同じ心で、今また西洋にのみあこがれるとしたら。かつては漢意をもってし、今は洋意をもってする。模倣の点にかけては同じことだ。どうしてもこれは一方に西洋を受けいれながら、一方には西洋と戦わねばならぬ。その意味から言っても、平田篤胤没後の門人としてはこうした世の風潮からも自分らの内にあるものをまもらねばならなかった。すくなくも、荷田大人かだうし以来国学諸先輩の過去に開いた道が外来の学問に圧倒せられて、無用なものとなって行こうとは、彼には考えられもしなかった。


       四


  裁断申し渡し番付の写し

信濃国しなののくに筑摩ちくま神坂みさか村平民
当時水無みなし神社宮司兼中講義
青山半蔵

その方儀、憂国の過慮より、自作の和歌一首録し置きたる扇面を行幸の途上において叡覧えいらんに備わらんことを欲し、みだりに供奉ぐぶの乗車と誤認し、投進せしに、ぎょ車駕しゃがに触る。右は衝突儀仗ぎじょうの条をもって論じ、情を酌量しゃくりょうして五等を減じ、懲役五十日のところ、過誤につき贖罪金しょくざいきん三円七十五銭申し付くる。

  明治八年一月十三日

東京裁判所

 ここに半蔵の本籍地を神坂村とあるは、彼の郷里馬籠と隣村湯舟沢とを合わせて一か村とした新しい名称をさす。言いかえれば、筑摩県管下、筑摩郡、神坂村、字馬籠である。最も古い交通路として知られた木曾の御坂みさかは今では恵那山につづく深い山間やまあいの方にうずもれているが、それにちなんでこの神坂村の名がある。郡県政治のあらわれの一つとして、宿村の併合が彼の郷里にも行なわれていたのである。

 待ちに待った日はようやく半蔵のところへ来た。この申し渡しの書付にあるように、いよいよ裁判も決定した。夕方から、彼は多吉夫婦と共に左衛門町の下座敷に集まった。思わず出るため息と共に、自由な身となったことを語り合おうとするためであった。そこへ多吉をたずねて門口からはいって来た客がある。多吉には川越かわごえ時代からのふるいなじみにあたる青物問屋の大将だ。多吉が俳諧はいかい友だちだ。こちらは一段落ついた半蔵の事件で、宿のものまで一同重荷をおろしたような心持ちでいるところであったから、偶然にもその客がはいって来た時、玄関まで出迎える亭主を見るといきなり向こうから声をかけたが、まるでその声がわざわざ見舞いにでも来てくれたように多吉の耳には響いた。

「まずまあ、多吉さん。」

 これは半蔵にも、時にとってのよい見舞いの言葉であった。ところが、この「まずまあ」は、実は客の口癖で、お隅は日ごろの心やすだてからそれをその人のあだ名にして、下女までそう呼び慣れていたほどだから、ちょうど客がその声をかけてはいって来たのは、自身であだ名を呼びながら来たようなものであった。お隅はそれを聞くと座にもいたたまれない。下女なぞは裏口まで逃げ出して隠れた。

 ともあれ、半蔵の引き起こした献扇事件は、暗い入檻にゅうかん中の五日と、五十日近い謹慎の日とを送ったあとで、こんなふうにその結末を告げた。五十日の懲役には行かずに済んだものの、贖罪しょくざいの金は科せられた。どうして、半蔵としては笑い事どころではない。押し寄せて来る時代の大波を突き切ろうとして、かえって彼は身に深い打撃を受けた。前途には、幾度か躊躇ちゅうちょした飛騨ひだの山への一筋の道と、神の住居すまいとが見えているのみであった。

 夜が来た。左衛門町の二階の暗い行燈あんどんのかげで、めずらしくも先輩暮田正香くれたまさかがこの半蔵の夢に入った。多くの篤胤没後の門人中で彼にはことに親しみの深く忘れがたいあの正香も、賀茂かもの少宮司から熱田あつたの少宮司に転じ、今は熱田の大宮司として働いている人である。その夜の旅寝の夢の中に、彼は正式の装束しょうぞくを着けた正香が来て、手にする白木しらきしゃくで自分を打つと見て、涙をそそぎ、すすり泣いて目をさました。



 正月の末まで半蔵は東京に滞在して、飛騨行きのしたくをととのえた。いつきの道は遠く寂しく険しくとも、それの踏めるということに彼は心を励まされて一日も早く東京を立ち、木曾街道経由の順路としてもいったんは国に帰り、それから美濃みのの中津川を経て飛騨へ向かいたいと願っていたが、種々さまざまな事情のためにこの出発はおくれた。みずから引き起こした献扇事件には彼もひどく恐縮して、その責めを負おうとする心から、教部省内の当局者あてに奏進始末を届け出て、進退を伺うということも起こって来た。彼の任地なる飛騨高山地方は当時筑摩県の管下にあったが、水無神社は県社ともちがい、国幣小社の社格のある関係からも、一切は本省の指令を待たねばならなかった。一方にはまた、かく東京滞在の日も長引き、費用もかさむばかりで、金子きんす調達のことを郷里の伏見屋伊之助あてに依頼してあったから、その返事を待たねばならないということも起こって来た。幸い本省からはその儀に及ばないとの沙汰さたがあり、郷里の方からは伊之助のさしずで、峠村の平兵衛に金子を持たせ、東京まで半蔵を迎えによこすとの通知もあった。今は彼も心ぜわしい。再び東京を見うるの日は、どんなにこの都も変わっているだろう。そんなことを思いうかべながら、あちこちの暇乞いとまごいにも出歩いた。旧組頭くみがしら廃止後も峠のおかしらで通る平兵衛は二月にはいって、寒いかわき切った日の夕方に左衛門町の宿へ着いた。

 半蔵と平兵衛とは旧宿場時代以来、ほとんど主従にもひとしい関係にあった。どんなに時と場所とを変えても、この男が半蔵を「本陣の旦那だんな」と考えることには変わりはなかった。慶応四年の五月から六月へかけて、伊勢路いせじより京都への長道中を半蔵と共にしたその同じ思い出につながれているのも、この男である。平兵衛は伊之助から預かって来た金子ばかりでなく、半蔵が留守宅からの言伝ことづて、その後の山林事件の成り行き、半蔵の推薦にかかる訓導小倉啓助の評判など、いろいろな村の話を彼のところへ持って来た。東京から伝わる半蔵のうわさ――ことに例の神田橋外での出来事から入檻を申し付けられたとのうわさの村に伝わった時は、意外な思いに打たれないものはなかった。中にも半蔵のために最も心を痛めたものは伏見屋の主人であったという話をも持って来た。

 平兵衛は言った。

「そりゃ、お前さま、何もわけを知らないものが聞いたら、たまげるわなし。」

「……」

「ほんとに、人のうわさにろくなことはあらすか。半蔵さまが気が違ったという評判よなし。お民さまなぞはそれを聞いた時は泣き出さっせる。皆のものが言うには、本陣の旦那はあんまり学問に凝らっせるで、まんざら世間の評判もうそではなからず、なんて――村じゃ、そのうわささ。そんなばかなことがあるもんかッて、お前さまの肩を持つものは、伏見屋の旦那ぐらいのものだった。まあ、おれも、今度出て来て見て、これで安心した。」

「……」



 飛騨を知らない半蔵が音に聞く嶮岨けんそ加子母峠かしもとうげの雪を想像し、美濃と飛騨との国境くにざかいの方にある深い山間の寂寞せきばくを想像して、冬期には行く人もないかと思ったほど途中の激寒を恐れたことは、平兵衛の上京でやや薄らぎもした。というのは、飛騨高山地方から美濃の中津川まで用しに出て来た人があったとかで、伊之助は中津川でその人から聞き得たことをくわしい書付にして、それを平兵衛に託してよこしくれたからであった。その書付によると、水無神社は高山にあるのではなくて、高山から一里半ほどへだてた位置にある。水無川は神社の前を流れる川である。神通川じんずうがわの上流である。神社を中心に発達したところを宮村と言って、四方から集まって来る飛騨の参詣者さんけいしゃは常に絶えないという。大祭、九月二十五日。ことにめずらしいのは十二月三十一日の年越えもうでで、盛装した男女の群れが神前に新しい春を迎えようとする古い風俗はちょっと他の地方に見られないものであるとか。美濃方面から冬期にこの神社の位置に達するためには、藁沓わらぐつを用意し、その上に「かんじき」をあてて、難場中の難場と聞こえた国境の加子母峠かしもとうげを越えねばならない。それでも旅人の姿が全く絶えるほどの日はなく、雪もさほど深くはない。中津川より下呂げろまで十二里である。その間の道が困難で、峠にかかれば馬も通わないし、牛の背によるのほかはないが、下呂まで行けばよい温泉がわく。旅するものはそこにからだをあたためることができる。下呂から先は歩行も困難でなく、萩原はぎわら小坂おさかを経て、宮峠にかかると、その山麓さんろくに水無神社を望むこともできる。なお、高山地方は本居宣長の高弟として聞こえた田中大秀おおひでのごとき早く目のさめた国学者を出したところだから、半蔵が任地におもむいたら、その道の話相手や歌の友だちなぞを見つけることもあろうと書き添えてある。

 出発の前日には、平兵衛が荷ごしらえなどするそばで、半蔵は多吉と共に互いに記念の短冊たんざくを書きかわした。多吉はそれを好める道の発句ほっくで書き、半蔵は和歌で書いた。左衛門町の夫婦は別れを惜しんで、餞別せんべつのしるしにと半蔵の前にさし出したのは、いずれも旅の荷物にならないような、しかも心をこめたものばかりであった。多吉からは黄色な紙に包んである唐墨からすみ。お隅からは半蔵の妻へと言って、木曾の山家では手に入りそうもない名物さくらの油。それに、元結もとゆい

「まったく、不思議な御縁です。」

 翌朝早く半蔵はその多吉夫婦の声を聞いて、別れを告げた。頼んで置いた馬も来た。以前彼が江戸を去る時と同じように、引きまとめた旅の荷物は琉球りゅうきゅう菰包こもづつみにして、平兵衛と共に馬荷に付き添いながら左衛門町のかどを離れた。

「どれ、そこまでわたしも御一緒に。」

 という多吉はあわただしく履物はきものを突ッかけながら、左衛門橋の上まで半蔵らを追って来た。上京以来、半蔵が教部省への勤め通いに、町への用達しに、よく往復したその橋のほとりも、左衛門町の二階と引き離しては彼には考えられないようなものであった。その朝の河岸かしに近くもやってある船、黒ずんで流れない神田川の水、さては石垣いしがきの上の倉庫の裏手にしてある小さな鳥かごまでが妙に彼の目に映った。



 王政復古以来、すでに足掛け八年にもなる。下から見上げる諸般の制度は追い追いとそなわりつつあったようであるが、一度大きく深い地滑じすべりが社会の底に起こって見ると、何度も何度も余りの震動が繰り返され、その影響は各自の生活に浸って来ていた。こんな際に、西洋文物の輸入を機会として、種々雑多の外国人はその本国からも東洋植民地からも入り込みつつあった。それらのヨーロッパ人の中には先着の客の意見を受け継ぎ、日本人をして西洋文明を採用せしめるのみちは、強力によって圧倒するか、さなくば説諭し勧奨するか、そのいずれかをでないとの尊大な考えをいだいて来るものがある。衰余の国民が文明国の干渉によって勃興ぼっこうした例は少ないが、今は商業も著しく発達し、利益と人道とが手を取って行く世の中となって来たから、よろしく日本を良導して東洋諸衰残国の師たる位置に達せしめるがいいというような、比較的同情と親愛とをもって進んで来るものもある。ヨーロッパの文明はひとり日本の政治制度に限らず、国民性それ自身をも滅亡せしめる危険なくして、はたして日本の国内にひろめうるか、どうか。この問いに答えなければならなかったものが日本人のすべてであった。当時はすでに民選議院建白の声を聞き、一方には旧士族回復の主張も流れていた。目に見えない瓦解がかいはまだ続いて、失業した士族から、店の戸をおろした町人までが互いに必死の叫びを揚げていた。だれもが何かに取りすがらずにはいられなかったような時だ。半蔵は多くの思いをこの東京に残して、やがて板橋経由で木曾街道の空に向かった。


       五


「お師匠さま。」

 その呼び声は、雪道を凍らせてすべる子供らの間に起こっている。坂になった町の片側をたくみにすべって行くものがある。ころんで起き上がるものがある。子供らしい笑い声も起こっている。

 山家やまが育ちの子供らは手に手に鳶口とびぐちを携え、その手のかじかむのも忘れ、降り積もった雪道の遊戯に余念がない。いずれも元の敬義学校の生徒だ。名も神坂村みさかむら小学校と改められた新校舎の方へかよっている馬籠まごめの子供らだ。二月上旬の末に半蔵は平兵衛と連れだちながら郷里に着いて、伏見屋の前あたりまで帰って行くと、自分を呼ぶその教え子らの声を聞いた。

「おとっさん。」

 と呼びながら、氷すべりの仲間から離れて半蔵の方へ走って来るのは、腕白わんぱくざかりな年ごろになった三男の森夫であった。そこには四男の和助までが、近所の年長としうえの子供らの仲間にはいりながら、ほっペたをあかくし、軽袗かるさんすそのぬれるのも忘れて、雪の中を歩き回るほど大きくなっていた。

 新しい春とは言っても山里はまだ冬ごもりのまっ最中である。半蔵の留守宅には、継母のおまんをはじめ、妻のお民、娘おくめ、長男宗太から下男佐吉らまで、いずれも雪の間に石のあらわれた板屋根の下で主人の帰りを待ち受けていた。東京を立ってからの半蔵はすでに八十余里の道を踏んで来て、凍えもし、くたぶれもしていたが、そう長く自分の家にとどまることもできない人であった。三日ばかりの後にはまた馬籠を立って、任地の方へ向かわねばならなかった。あまりに飛騨行きの遅れることは彼の事情が許さなかったからで。馬につけて来た荷もおろされ、集まって来る子供の前に旅の土産みやげも取り出され、長い留守中の話や東京の方のうわさがそこへ始まると、早くも予定の日取りを聞きつけた村の衆が無事で帰って来た半蔵を見にあとからあとからと詰めかけて来る。松本以来の訓導小倉啓助は神坂村小学校の報告を持って、馬籠町内の旧組頭笹屋庄助ささやしょうすけはその後の山林事件の成り行きと村方養蚕奨励の話なぞを持って、荒町あらまち禰宜ねぎ松下千里は村社諏訪社すわしゃの祭礼復興の話を持ってというふうに。

 わずか三日ばかりの半蔵が帰宅は家のものにとっても実にあわただしかった。炉の火を大きな十能じゅうのうに取ってくつろぎのへ運び、山家らしい炬燵こたつに夫のからだをあたためさせながら、木曾福島の植松家からあった娘お粂の縁談を語り出すのはお民だ。そこへ手のついた古風な煙草盆たばこぼんをさげて来て、ふるさとにあるものがこのままの留守居を続けることはいかにも心もとないと言い出すのはおまんだ。宗太もまだ十八歳の若者ではあるが、村では評判の親孝行者であり、半蔵の従兄いとこに当たる栄吉にその後見をさせ、旧本陣時代からの番頭格清助にも手伝わせたら、青山の家がやれないことはあるまい、半蔵の水無神社宮司として赴任するのを機会にこの際よろしく家督を跡目相続の宗太に譲り、それから自分の思うところをなせ――そう言うおまんは髪こそ白さを加えたが、そこへ手をついて頭を上げ得ないでいる半蔵を前に置いて、この英断に出た。たとい城をまくら討死うちじにするような日が来ても旧本陣の格はくずしたくないと言いたげな継母の口から、日ごろの経済のうとさを一々指摘された時は、まったく半蔵も返す言葉がなかった。

 今度の帰国の日は、半蔵が自分の生涯しょうがいの中でもおそらく忘れることのできなかろうと思った日である。彼が四十四歳で隠居の身となることを決心したのもその間であった。これは先代の吉左衛門が六十四歳まで馬籠の宿役人を勤め、それから家督を譲って、隠居したのに比べると二十年早い。また、先々代半六が六十六歳のおりの引退に比べると二十二年も早い。

 このさみしさ、あわただしさの中で、半蔵はすこしの暇でも見つけるごとに隣家の伏見屋へ走って行った。無事な伊之助の顔を見て、いろいろ世話になった礼を述べ、東京浅草左衛門町までの旅先で届けてもらった金子のことも言い、継母にはまたしかられるかもしれないがき吉左衛門が彼にのこして行った本陣林のうちをいてその返済方にあてたいと頼んだ。彼の長男があの年齢としのうら若さで、はたしてやり切れるかどうかもおぼつかなくはあるが、お民も付いているし、それに自分はもはや古い青山の家に用のないような人間であるから、継母の言葉に従ったとも告げた。そして彼が伊之助にその話をして家に引き返して来て見ると、長いこと独身で働いていた下男の佐吉があかぎれだらけの大きな手をもみもみ彼の前へ来た。この男も、今度いよいよ長いいとまを告げ、隣村山口に帰り、かかをもらってかまどを持ちたいと言う。

旦那だんな、お前さまに折り入ってお願いがある。」

「なんだい、佐吉。言って見ろ。」

「お前さまも知ってるとおり、おれには苗字みょうじがない。」

「おゝ、佐吉にはまだ苗字がなかったか。」

「見さっせれ。皆と同じように、おれもその苗字がほしいわなし。お前さまのような人にそれをつけてもらえたら、おれもこうして長く御奉公したかいがあるで。」

 この男の言うようにすると、自分の姓はどんなものでもいい。半蔵の方で思ったようにつけてくれれば、それでいい。多くの無筆なものと同じように、この男の親も手の荒れるはたけ仕事に追われ通して、何一つ書いたものがあとに残っていない。小使い帳一冊残っていない。家に伝わるはっきりした系図というようなものもない。黙って働いて、黙って死んで行った仲間だ。ついては、格別やかましい姓を名乗りたいではないが、自分の代から始めることであるから、何か自分に縁故のあるものをほしい。日ごろ本陣の北に当たる松林で働いて来た縁故から、北林の苗字はどうあろうかと言い出したので、半蔵は求めらるるままに北林佐吉としてやった。山口へ帰ったら早速さっそくそのむねを村役場へ届けいでよとも勧めた。この男には半蔵は家に伝わる田地を分け、下男奉公のかたわら耕させ、それを給金の代わりに当ててあった。女ぎらいかと言われたほどの変わり者で、夜遊びなぞには目もくれず、昼は木小屋、夜は母屋もやの囲炉裏ばたをおのれの働く場所として、主人らの食膳しょくぜんに上る野菜という野菜は皆この男の手造りにして来たものであった。

 青山氏系図、木曾谷中御免荷物材木通用帳、御年貢おねんぐ皆済目録、馬籠宿駅印鑑、田畑家屋敷反別帳たんべつちょう、その他、青山の家に伝わる古い書類から、遠い先祖の記念として残った二本のやり、相州三浦にある山上家から贈られた家宝の軸――一切それらのものの引き渡しの時も迫った。ほとほと半蔵には席の暖まるいとまもない。彼は店座敷の障子のわきにある自分のふるきりの机の前にすわって見る間もなく、またその座を立って、宗太へ譲るべき帳面のたぐいなぞ取りまとめにかかった。何げなくお粂はその部屋へやをのぞきに来て、本陣、問屋、庄屋の三役がしきりに廃された当時のことを思い出し顔であった。家の女衆の中で最も深く瓦解がかいふちをのぞいて見たものも、この早熟な娘だ。

「おゝ、お粂か。」

 と半蔵は声をかけながら、いっぱいに古い書類のちらかった部屋の内を歩き回っていた。お粂ももはや二十歳の春を迎えている。死をもって自分の運命を争おうとしたほどの娘のところへも、新規な結婚話が、しかも思いがけない木曾福島の植松家の方から進められて来て、不思議な縁の、偶然の力に結ばれて行こうとしている。

「おとっさん。やっとわたしも決心がつきました。」

 お粂はそれを言って見せたぎり、堅くぢりめんの半襟はんえりをかき合わせ、あだかも一昨年おととし古疵ふるきずあとをおおうかのようにして、店座敷から西の廊下へ通う薄暗い板敷きの方へ行って隠れた。



 三日過ぎには半蔵は中津川まで動いた。この飛騨行きに彼は妻を同伴したいと思わないではなく、今すぐにと言わないまでも、先へ行って落ち着いたら妻を呼び迎えたいと思わないではなかったが、どうしてお民というものが宗太の背後うしろにいなかったら、馬籠の家は立ち行きそうもなかった。下男佐吉も今度は別れを惜しんで、せめて飛騨の宮村までは彼の供をしたいと言い出したが、それも連れずであった。旅の荷物は馬につけ、出入りの百姓兼吉に引かせ、新茶屋の村はずれから馬籠の地にも別れて、信濃しなの美濃みの国境くにざかいにあたる十曲峠じっきょくとうげの雪道を下って来た。

 中津川では、半蔵は東京の平田鉄胤かねたね老先生や同門の医者金丸恭順などの話を持って、その町に住む二人ふたりの旧友をたずねた。長く病床にある香蔵は惜しいことにもはや再びてそうもない。景蔵はずっと沈黙をまもる人であるが、しかしあって見ると、相変わらずの景蔵であった。

 険しい前途の思いは半蔵の胸に満ちて来た。彼は宮村まで供をするという兼吉を見て、ともかくも馬で行かれるところまで行き、それから先は牛の背に荷物をつけ替えようと語り合った。というのは、岩石のそそり立つ山坂を平地と同じように踏めるのは、牛のような短くつよあしをもったものに限ると聞くからであった。雪をついて飛騨の山の方へ落ちて行く前に、半蔵は中津川旧本陣にあたる景蔵の家の部屋を借り、馬籠の伏見屋あてに次ぎのような意味の手紙を残した。

「小竹伊之助君――しばらくのお別れにこれを書く。自分はこの飛騨行きを天の命とも考えて、高地の方に住む人々に、満足するような道を伝えたいため、馬籠をあとにして中津川まで来た。飛騨の人々が首を長くして自分のくのを待ちわびているような気がしてならない。二年、三年の後、自分はむなしく帰るかもしれない。あるいは骨となって帰るかもしれないが、ただただ天の命を果たしうればそれでいいと思う。東京の旅以来、格別お世話になったことは、心から感謝する。ただお粂のことは、今後も何卒なにとぞお力添えあるようお願いする。いよいよ娘の縁づいて行くまでに話が進んだら、そのおりは自分も一度帰村する心組みであるが、これが自分の残して行く唯一のお願いである。自分は今、すこぶる元気でいる。心も平素よりおちついているような気がする。君も御無事に。」

〈[#改頁]〉


     第十三章


       一


 四年あまり過ぎた。東京から東山道経由で木曾を西へ下って来て、馬籠まごめ旅籠屋はたごや三浦屋の前で馬をめた英国人がある。夫人同伴で、食料から簡単な寝具食器のたぐいまで携えて来ている。一人ひとりの通弁と、そこへ来て大きなトランクの荷をおろす供の料理人をも連れている。

 この英国人は明治六年に渡来したグレゴリイ・ホルサムというもので、鉄道建築師として日本政府に雇われ、前の建築師長エングランドのあとをけて当時新橋横浜間の鉄道を主管する人である。明治の七年から十年あたりへかけてはこの国も多事で、佐賀の変に、征台の役に、西南戦争に、政府の支出もおびただしく、鉄道建築のごときはなかなか最初の意気込みどおりに進行しなかった。東京と京都の間をつなぐ幹線の計画すら、東海道を採るべきか、または東山道をえらぶべきかについても、政府の方針はまだ定まらなかった時である。種々さまざまな事情に余儀なくされて、各地の測量も休止したままになっているところすらある。当時の鉄道と言えば、支線として早く完成せられた東京横浜間を除いては、神戸こうべ京都間、それに前年ようやく起工の緒についた京都大津おおつ間を数えるに過ぎなかった。ホルサムはこの閑散な時を利用し、しばらくの休暇を請い、横浜方面の鉄道管理を分担する副役に自分の代理を頼んで置いて、西の神戸京都間を主管する同国人の建築師長をたずねるために、内地を旅する機会をとらえたのであった。

 木曾路きそじは明治十二年の初夏を迎えたころで、ホルサムのような内地の旅に慣れないものにとっても快い季節であった。ただこのふるい街道筋を通過した西洋人もこれまでごくまれであったために、異国の風俗はとかく山家の人たちの目をひきやすくて、その点にかけては旅のわずらいとなることも多かった。これほど万国交際の時勢になっても、木曾あたりにはまだ婦人同伴の西洋人というものを初めて見るという人もある。それ異人の夫婦が来たと言って、ぞろぞろついて来る村の子供らはホルサムが行く先にあった。この彼が馬籠の旅籠屋の前で馬からおりて、ここは木曾路の西のはずれに当たると聞き、信濃と美濃の国境にも近いと聞き、ながめをほしいままにするために双眼鏡なぞを取り出して、恵那山えなさん裾野すそのの方にひらけた高原を望もうとした時は、顔をのぞきに来るもの、うわさし合うもの、異国の風俗をめずらしがるもの、周囲は目をまるくしたおとなや子供でとりまかれてしまった。あまりのうるささに、彼は街道風な出格子でごうしの二階の見える旅籠屋の入り口をさして逃げ込んだくらいだ。

 ホルサムが思い立って来た内地の旅は、ただの観光のためばかりではなかった。彼が日本に渡来した時は、すでに先着の同国人ヴィカアス・ボイルがあって、建築師首長として日本政府の依頼をうけ、この国鉄道の基礎計画を立てたことを知った。そのボイルが二回にもわたって東山道を踏査したのは、明治も七年五月と八年九月との早いころであった。ホルサムが今度の思い立ちはその先着の英国人が測量した跡を視察して、他日の参考にそなえたいためであった。さてこそ、三留野みどの泊まり、妻籠つまご昼食、それからこの馬籠泊まりのゆっくりした旅となったのである。



 もともとこの国の鉄道敷設を勧誘したのは極東をめがけて来たヨーロッパ人仲間で、彼らがそこに目をつけたのも早く開国以前に当たる。江戸横浜間の鉄道建築を請願し来たるもの、鉄道敷設の免許権を得ようとするもの、測量方や建築方の採用を求めたり材料器具の売り込みに応じようとしたりするもの、いったん幕府時代に免許した敷設の権利を新政府において取り消すとは何事ぞと抗議し来たるもの、これらの外国人の続出はいかに彼ら自身が互いに激しい競争者であったかを語っている。そのうちに英国公使パアクスのような人があって、明治二年の東北および九州地方の飢饉ききんの例を引き、これを救うためにも鉄道敷設の急務であることをのべたところから、政府もその勧告に力を得て鉄道起業の議を決したのであった。たまたまわが政府のため鉄道に要する資金を提供しようという英国の有力者なぞがそこへあらわれて来て、いよいよこの機運を押し進めた。英国の鉄道建築師らが相前後してこの国に渡来するようになったのも不思議ではない。

 当時、この国では初めて二隻の新艦を製し、清輝せいき筑波つくばと名づけ、明治十二年の春にその処女航海を試みて大変な評判を取ったころである。なにしろ、大洋の航海術を伝習してからまだ二十年も出ないのに、自国人の手をもって船を造り、自国の航海者をもってこれを運用し、日本人のいまだかつて知らなかった地方を訪れ、これまで日本人を見たこともない者の目にこれを示し得たと言って、この国のものはいずれも大いに意を強くしたほどの時である。海の方面すらこのとおりだ。まだ創業の際にある鉄道の計画なぞは一切の技術をヨーロッパから習得しなければならなかった。幸いこの国に傭聘ようへいせられて来た最初の鉄道技術者にはエドモンド・モレルのような英国人があって、この人は組織の才をもつばかりでなく、言うことも時務に適し、日本は将来ヨーロッパ人の手を仮りないで事を執る準備がなければならない、それには教導局を置き俊秀な少年を養い百般の建築製造に要する技術者を造るに努めねばならないと言うような、遠い先のことまでも考える意見の持ち主であったという。

 その後に来たのがボイルだ。この建築師首長はまたモレルの仕事を幾倍にかひろげた。そして日本国内部を通過すべき鉄道線路を計画するのは経国の主眼であって、おもしろい一大事業には相違ないが、また容易でないと言って、その見地から国内に有利な鉄道を敷こうとするについては必ずまずその基本線の道筋を定むべきである、その後の支線は皆これを基として連合せしめることの肝要なのは万国一般の実況で、日本においてもそのとおりであるとの上申書を政府に差し出した。それには鉄道幹線は東山道を適当とするの意見を立てたのも、またこのボイルである。その理由とするところは、東海道は全国最良の地であって、海浜に接近し、水運の便がある、これに反して東山道は道路も嶮悪けんあくに、運輸も不便であるから、ここに鉄道を敷設するなら産物運送と山国開拓の一端となるばかりでなく、東西両京および南北両海の交通を容易ならしめるであろうということであった。ボイルが測量隊を率いて二回にもわたり東山道を踏査し、早くも東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線の基礎計画を立て、その測量に関する結果を政府に報告し、東山道線および尾張線おわりせんの径路、建築方法、建築用材および人夫、運輸、地質検査、運賃計算等を明細にあげ示したのも、この趣意にもとづく。

 今度のホルサムが内地の旅は、大体においてこの先着の英国人が測量標ぐいを残したところであった。ボイルの計画した線は東京より高崎に至り、高崎より松本に至り、さらに松本より加納に至るので、松本加納間を百二十五マイルと算してある。それには松本から、洗馬せば奈良井ならいを経て、鳥居峠の南方に隧道トンネル穿うがつの方針で、藪原やぶはらの裏側にあたる山麓さんろくのところで鉄道線は隧道より現われることになる。それから追い追いと木曾川のほとりに近づき、藪原とみやこし駅の間でその岸に移り、徳音寺村に出、さらに岸に沿うて木曾福島、上松あげまつ須原すはら野尻のじり、および三留野みどの駅を通り、また田立村ただちむらを過ぎてさかいの川で美濃の国の方にはいる方針である。

 木曾路にはいって見たホルサムはいたるところの谷の美しさに驚き、また、あのボイルがいかに冷静な意志と組織的な頭脳とをもってこの大きな森林地帯をよく観察したかをも知った。ボイルの書き残したものによると、奈良井と藪原の間に存在する鳥居峠一帯の山脈は日本の西北ならびに東南の両海浜に流出する流水を分界するものだと言ってある。またこの近傍において地質の急に変革したところもある、すなわちその北方犀川さいがわ筋の地方はおもに破砕した翠増すいぞう岩石から成り立っていて、そしてその南方木曾川の谷は数マイルの間おもに大口火性石の谷側に連なるのを見るし、また、河底は一面に大きなかたまりの丸石でおおわれていると言ってある。木曾川は藪原辺ではただの小さな流れであるが、木曾福島の近くに至って御嶽山おんたけさんから流れ出るいちじるしい水流とその他の支流とを合併して、急に水量を増し、東山道太田駅からおよそ九マイルを隔てた上流にある錦織村にしこうりむらに至って、はじめて海浜往復の舟絡を開くと言ってある。御嶽山より流れ出る川(王滝川おうたきがわ)においては、冬の季節に当たって数多あまたの材木をり出す作業というものがある、それはおもにひのきすぎつが、および松の種類であるが、それらの材木を河中に投げ入れ、それから木曾川の岩石のとがり立った河底を洪水こうずいの勢力によって押し下し、これを錦織村において集合する、そこでいかだに組んで、それから尾州湾に送り出すとも言ってある。ボイルの観察はそれだけにとどまらない。この川の上流においては槻材つきざいもまたたくさんに産出するが、それが重量であって水運の便もきかず、また陸送するにはその費用の莫大ばくだいなために、かつてこれを輸出することがないと言って、もし東山道幹線の計画が実現されるなら、この山国開発の将来に驚くべきものがあろうことをも暗示してある。

 馬籠まで来て、ホルサムはこれらのことを胸にまとめて見た。隣村の妻籠からこの馬籠峠あたりはボイルが設計の内にははいっていない。それは山丘の多い地勢であるために、三留野駅から木曾川の対岸に鉄道線を移すがいいとのボイルの意見によるものであった。それにしてもこの計画は大きい。内部地方の開発をめがけ、都会と海浜との往復を便宜ならしめるの主意で、ことさら国内一般の利益を図ろうとするところから来ている。いずれは鉄道線通過のはじめにありがちな、頑固がんこな反対説と、自然その築造を妨げようとする手合いの輩出することをも覚悟せねばならなかった。山家の旅籠屋らしい三浦屋の一室で、ホルサムはそんなことを考えて、来たるべき交通の一大変革がどんな盛衰をこの美しい谷々に持ち来たすであろうかと想像した。


       二


 翌朝ホルサムの一行は三浦屋を立って、西の美濃路をさして視察に向かって行った。このふるい街道筋と運命を共にする土地の人たちはまだ何も知らない。将来の交通計画について政府がどんな意向であるやも知らない。まして、開国の結果がここまで来たとは知りようもない。あの宿駕籠しゅくかご二十五ちょう、山駕籠五挺、駕籠桐油とうゆ二十五枚、馬桐油二十五枚、駕籠蒲団ぶとん小五十枚、中二十枚、提灯ちょうちんはりと言ったはもはや宿場全盛の昔のことで、伝馬所にかわる中牛馬会社の事業も過渡期の現象たるにとどまり、将来この東山道を変えるものが各自の生活にまで浸って来ようとはなおなお知りようもない。

 伏見屋の伊之助は自宅の方に病んでいた。彼は、馬籠泊まりで通り過ぎて行った英国人のうわさを聞きながら、二十余年の街道生活を床の上に思い出すような人であった。馬籠の年寄役、兼問屋後見として、彼が街道の世話をしたのも一昔以前のことになった。彼の知っている狭い範囲から言っても、嘉永かえい年代以来、黒船の到着は海岸防備の必要となり、海岸防備の必要は徳川幕府および諸藩の経費節約となり、その経費節約は参覲交代さんきんこうたい制度の廃止となり、参覲交代制度の廃止はまたこれまですでに東山道を変えてしまった。

 もはや明治のはじめをも御一新とは呼ばないで、多くのものがそれを明治維新と呼ぶようになった。ひとり馬籠峠の上にかぎらず、この街道筋に働いた人たちのことにおもいいたると、彼伊之助には心に驚かれることばかりであった。事実、町人と百姓とを兼ねたような街道人の心理は他から想像さるるほど単純なものではない。長い武家の奉公を忍び、あごで使われる器械のような生活に屈伏して来たほどのものは、一人ひとりとして新時代の楽しかれと願わぬはなかろう。宿場の廃止、本陣の廃止、問屋の廃止、御伝馬の廃止、宿人足の廃止、それから七里飛脚の廃止のあとにおいて、実際彼らが経験するものははたして何であったろうか。激しい神経衰弱にかかるものがある。強度に精神の沮喪そそうするものがある。種々さまざまな病をわずらうものがある。突然の死に襲われるものがある、驚かれることばかりであった。これはそもそも、長い街道生活の結果か。内にはくずれ行く封建制度があり、外には東漸するヨーロッパ人の勢力があり、かくのごとき社会の大変態は、開闢かいびゃく以来いまだかつてないことだと言わるるほどの急激なうずの中にあった証拠なのか。張り詰めた神経と、肉身との過労によるのか。いずれとも、彼には言って見ることができない。過去を振り返ると、まるで夢のような気がするとは、同じ馬籠の宿役人仲間の一人が彼に話したことだ。彼は、その茫然ぼうぜん自失したような人の言葉の意味を聞き流せなかったことを覚えている。

 これらのことを伊之助がしみじみ語り合いたいと思う人は、なんと言っても青年時代から同じ駅路の記憶につながれている半蔵のほかになかった。あの半蔵のような動揺した精神とも違い、伊之助はなんとかして平常の心でこのむずかしい時を歩みたいと考えつづけて来たもので、それほど二人ふたりは正反対な気質でいながら、しかも一番仲がよい。病苦はもとより説くもせんなきことで、そんなことのために彼も半蔵を見たいとは願わなかったが、もしあの隣人が飛騨ひだから帰っていたなら、気分のよいおりにでもたずねて来てもらって、先々代から伏見屋に残った美濃派の俳人らが寄せ書きの軸なりと壁にかけ、八人のものが集まって馬籠風景の八つのながめを思い思いの句と画の中に取り入れてある意匠を一緒にながめながら、この街道のうつりかわりを語り合いたいと思った。そうしたら彼はき養父金兵衛のことをもそこへ持ち出すであろう、七十四歳まで生きて三十一番の日記を残した金兵衛の筆は「明治三年九月四日、雨降り、本陣にて吉左衛門どの一周忌、御仏事御興行」のところで止めてあることをも持ち出すであろう、そして「このおれの目の黒いうちは」という顔つきで死ぬまで伊之助の世話を焼いて行ったほどのやかまし屋ではあるが、亡くなったあとになって、何かにつけてあの隠居のことを思い出すところを見ると、やはり人と異なったところがあったと見えると、言って見るであろうと思った。その半蔵は飛騨の水無みなし神社宮司として赴任して行ってから、二度ほど馬籠へ顔を見せたぎりだ。一度は娘お粂が木曾福島の植松家へとついで行った時。一度は跡目相続の宗太のために飯田いいだから娵女よめじょのおまきを迎えた時。任期四年あまりにもなるが、半蔵が帰国のほどもまだ判然しない。

 伊之助が長煩いの床の敷いてあるところは、先代金兵衛の晩年に持病のたんで寝たり起きたりしたその同じ二階の部屋へやである。山家は柴刈しばかりだ田植えだと聞く新緑のころで、たださえ季節に敏感な伊之助にはしきりに友恋しかった。彼は半蔵からもらったおりおりの便たよりまで大切にしていて、病床で読んで見てくれと言って飛騨から送ってよこした旧作新作とりまぜの半蔵が歌稿なぞをもまくらもとに取り出した。そのしたためてある生紙きがみ二つ折り横じの帳面からしていかにもその人らしく、紙の色のすこし黄ばんだ中に、どこかかぞの青みを見つけるさえ彼にはうれしかった。

ふるさとの世にある人もなき人も夜な夜な夢に見ゆるころかな

秋きぬと虫ぞなくなるふるさとの庭の真萩まはぎも今や咲くらむ

おもひやれ旅のやどりのひとり寝の朝けのそでの露のふかさを

あはれとや月もとふらむ草枕くさまくらさびしき秋の袖の上の露

独りある旅寝の床になくむしのねさへあはれをそへてけるかな

長き夜をひとりあらむと草枕かけてぞわぶる秋はきにけり

ありし世をかけて思へば夢なれや四十よそじの秋も長くしもあらず

 秋の歌。これは飛騨高山中教地にてめるとして、半蔵から寄せた歌稿の中にある。伊之助はこれを読みさして、水無川みなしがわともいい水無瀬川みなせがわともいう河原の方に思いをはせ、宮峠のふもとから位山くらいやまを望む位置にあるという山里の深さにも思いをはせた。半蔵は水無神社から一町ほど隔てたところにある民家の別宅を借りうけ、食事や洗濯せんたくの世話などしてくれる家族の隣りに住み、池を前に、違いだな、床の間のついた部屋から、毎日宮司のつとめにかよっているらしい。

「それにしても、この歌のさびしさはどうだ。」

 と伊之助はひとり言って見た。



 春、夏、秋、冬、恋、雑というふうに分けてある半蔵の歌稿を読んで行くうちに、ことに伊之助が心をひかれたのはその恋歌であった。もっとも、それは飛騨でできたものではないらしいが。

もろともに夢もむすばぬうき世にはふるもくるしき世にこそありけれ

おろかにもおもふ君かなもろともにむすべる夢の世とはしらずて

月をだにもらさぬ雲のおほほしく独りかもあらむ長きこの夜を

今ぞ知る世はうきものとおもひつつあひみぬなかの長き月日を

相おもふこころのかよふ道もがなかたみにふかきほどもしるべく

年月をあひ見ぬはしに中たえておもひながらに遠ざかりぬる

かすみたつ春の日数をしのぶれば花さへ色にいでにけるかな

もろともにかざしてましを梅の花うつろふまでにあはぬ君かも

年月のちりもつもりぬもろともに夢むすばむとまけしまくら

うたたねの夢のあふせをあらたまの年月ながくこひわたるかな

年月のたえて久しき恋路こいじにはわすれ草のみしげりあふめり

このごろは夏野の草のうらぶれて風の音だにきかずもあるかな

たまさかの言の葉草もつまなくにたまるはそでの露にぞありける

しげりあふ夏山のまにゆく水のかくれてのみやこひわたりなむ

「あなた、そんなにつめていいんですか。」

 階下したから箱梯子はこばしごを登って、二間つづきの二階に寝ている伊之助を見に来たのは、妻のおとみだ。

「おれか、」と伊之助は答えた。「さっきからおれは半蔵さんの歌に凝ってしまった。こういうもので見ると、実にやさしい人がよく出ているね。」

「あの中津川のお友だちと、半蔵さんとでは、どっちが歌はうまいんでしょう。」

「お前たちはすぐそういうことを言いたがるから困る。すぐに、どっちがうまいかなんて。」

「こりゃ、うっかり口もきけない。」

「だって、まるで行き方の違ったものだよ。別の物だよ。」

「そういうものですかねえ。」

「おれも好きな道だから言うが、半蔵さんの歌は出来不出来がある。そのかわり、どれを見ても真情は打ち出してあるナ。言葉なぞは飾ろうとしない。あのつたないところが作者のよいところだね。こう一口にかじりついたなしのような味が、半蔵さんのものだわい。」

 伊之助に言わせると、それが半蔵だ。これらの歌にあらわれたものは、実は深い片思いの一語に尽きる。そしてこれまで長く付き合って見た半蔵のしたこと、言ったこと、考えたことは、すべてその深い片思いでないものはない。あの献扇事件の場合にしても、半蔵の方で思うことはただただ多くの人に誤解された。土地のものなぞはそれを伝え聞いた時は気狂きちがいの沙汰さたとしてしまった。

「まあ、こちらでいくら思っても、人からそれほど思われないのが半蔵さんだね。ごらんな、あれほどの百姓思いでも、百姓からはそう思われない。」

「半蔵さんは、そういう人ですかねえ。」

「ここに便たよりを待つ恋という歌があるよ。隠れてのみやこひわたりなむ、としてあるよ。」

「まあ。」

「あの人はすべてこの調子なんだね。」

 伊之助夫婦はこんなふうに語り合った後、半蔵が馬籠に残して置いて行った家族のうわさに移った。石垣いしがき一つさかいにして隣家に留守居する人たちのことは絶えず伊之助の心にかかっていたからで。半蔵の妻お民が峠のおかしらを供に連れて一度飛騨までたずねて行ったのは、あれは前年の秋九月の下旬あたりに当たる。しばらく飛騨からの便りも絶え、きっと半蔵は病気でもしているに相違ないと言われたころのことだ。馬も通わないという嶮岨けんそ加子母峠かしもとうげを越して、か弱い足で二十余里の深い山道を踏んで行ったことは、夫を思う女の一心なればこそそれができた。よくよくあの旅は骨が折れたと見えて、あとになってお民が風呂ふろでももらいに伏見屋へかよって来るおりにはよくその話が出る。久津八幡くづはちまんは飛騨の宮村から八里ほど手前にあるところだという。その辺までお民がたどり着いた時、向こうから益田ましだ街道をやって来る一人の若者にあった。その若者が近づいて、ちょっとお尋ねしますが、もしやあなたさまは水無神社の宮司さまのところへ行かれる奥さまではありませんか、と声をかけたという。いかにも、そうです、と答えた時のお民は、自分を待ち受けていてくれる夫の仮寓かぐうの遠くないことを知り、わざわざ彼女を迎えに来てくれた土地の若者であることをも知った。それはそれは御苦労さま、というお民の言葉をうけて、わしは宮司さまから頼まれて迎えにまいった近所のものでございます、空身からみですから荷物を持って行きましょう、とその若者が言ってくれる、お民の方ではそれを断わって、主人も待って心配していようから、これからすぐ引き返して、「無事に来よるが」と伝えてください、と答えたとのことである。それからお民は八里ほど進んで、いかにも山深い宮峠のふもとの位置に、東北には木曾の御嶽山のいただきも遠く望まれるようなところに、うわさにのみ聞く水無川の河原を見つけたという。お民はそう長くも夫のそばにいなかったが、ちょうど飛騨の宮祭りのころであったことが一層彼女の旅を忘れがたいものにしているとか。

「なあ、お富。」とまた伊之助が枕の上で言い出した。「四年は長過ぎたなあ。」

「半蔵さんの飛騨がですか。」

「そうさ。」

「わたしに言わせると、はじめからあのお民さんを連れて行かなかったのは、うそでしたよ。」

「うん、それもあるナ。まあいい加減に切り揚げて、早く馬籠へお帰りなさるがいい。あの半蔵さんが四十代で隠居して、青山の家を子に譲って、それから水無神社の宮司をこころざして行ったと思ってごらん。忘れもしない――あの人がおれのところへ暇乞いとまごいに来て、自分はもう古い青山の家に用のないような人間だから、お袋(おまん)の言葉に従ったッて、そう言ったよ。あの時は、お粂さんもまだ植松のお嫁さんに行かない前で、あれほど物を思い詰めるくらいの娘だから、こう顔を伏せて、目のふちあかれるほど泣きながら、飛騨行きのおとっさんを見送ったッけが、お粂さんにはその同情があったのだね。あれから半蔵さんが途中の中津川からおれのところへ手紙をよこした。自分はこの飛騨行きを天の命とも考えるなんて。ああいうところが半蔵さんらしい。二年、三年の後、自分はむなしく帰るかもしれない、あるいは骨となって帰るかもしれないが、ただただ天の命を果たしうればそれでいいなんて書いてよこしたことを覚えている。えらい意気込みさね。なんでも飛騨の方から出て来た人の話には、今度の水無神社の宮司さまのなさるものは、それは弘大な御説教で、この国の歴史のことや神さまのことを村の者に説いて聞かせるうちに、いつでもしまいには自分で泣いておしまいなさる。社殿の方で祝詞のりとなぞをあげる時にも、泣いておいでなさることがある。村の若い衆なぞはまた、そんな宮司さまの顔を見ると、子供のようにふき出したくなるそうだ。でも、あの半蔵さんのことを敬神の念につよい人だとは皆思うらしいね。そういう熱心で四年も神主かんぬしを勤めたと考えてごらんな、とてもからだが続くもんじゃない。もうお帰りなさるがいい、お帰りなさるがいい――そりゃ平田門人というものはこれまですでになすべきことはなしたのさ、この維新が来るまでにあの人たちが心配したり奔走したりしたことだけでもたくさんだ、だれがなんと言ってもあの骨折りがうずめられるはずもないからナ。」

 こんなうわさが尽きなかった。

 山里もほおとち、すいかずらの花のころはすでに過ぎ去り、山百合やまゆりにはやや早く、今は藪陰やぶかげなどに顔を見せる蕺草どくだみや谷いっぱいに香気をただよわす空木うつぎなどの季節になって来ている。木の実で熟するものには青梅、あんずなどある中に、ことに伊之助に時を感じさせるのは、もはや畦塗あぜぬりのできたと聞く田圃たんぼ道から幼い子供らの見つけて来る木いちごであった。

 お富や子供らのこと考えるたびに、伊之助のわきの下には冷たいねばりけのある汗がわく。その汗は病と戦おうとする彼の精神こころから出る。隣村山口から薬箱をさげてかよって来る医者杏庵きょうあん老も多くを語らないから、病勢の進みについては彼は何も知らない。ただ、はっきりとした意識にすこしの変わりもなく、足ることを知り分に安んぜよとの教えを町人の信条とすることにも変わりなく、親しい半蔵と相見うるの日を心頼みにした。もはや日に日に日も長く、それだけまた夜は短い。どうして彼はその夏を越そうと考えて、まくらもとに置く扇なぞを見るにつけても、明けやすい六月の夜を惜しんだ。


       三


 十月下旬になって、半蔵は飛騨ひだから帰国の旅を急いで来た。彼は四年あまりの一の宮(水無神社)を辞し、神社でつかっていた小使いのせがれに当たる六三郎を供に連れ、位山くらいやまをもあとに見て飛騨と美濃みの国境くにざかいを越して来た。供の男は二十三、四歳の屈強な若者で、飛騨風な背板せいた背子せいごともいう)を背中に負い、その上に行李こうり大風呂敷おおぶろしきとを載せていたが、何しろ半蔵の荷物はほとんど書物ばかりで重かったから、けわしい山坂にかかるたびに力を足に入れ、腰をかがめ気味に道を踏んでは彼について来た。木曾きそあたりと同じように、加子母峠かしもとうげは小鳥で名高い。おりから、つぐみのとれる季節で、半蔵は途中の加子母というところでたくさんに鶫を買い、六三郎と共にそれを旅の中食に焼いてもらって食ったが、余りの小鳥まで荷物になって、六三郎の足はよけいに重かった。

 美濃と信濃しなのの国境に当たる十曲峠へかかるまでに、半蔵らは三晩泊まりもかかった。そこまで帰って来れば、松の並み木の続いた木曾街道を踏んで行くことができる。東美濃の盆地を流れる青い木曾川の川筋を遠く見渡すこともできる。光る木の葉、その葉の色づいて重なり合った影は、半蔵らが行く先にあった。路傍に古い黒ずんだ山石の押し出して来ているのを見つけると、供の六三郎は荷物を背負ったままそこへ腰掛け、ひたいの汗をふいて、しばらく足を休めてはまた半蔵と一緒に歩いた。

「おゝ、半蔵さまが帰って来た。」

 その久しぶりの平兵衛の声を半蔵は峠の新茶屋まで行った時に聞きつけた。このおかしらは、諸講中の下げ札や御休処おやすみどころとした古い看板のかかった茶屋の軒下を出たりはいったりして、そこに彼を出迎えていてくれたのだ。伏見屋金兵衛の記念として残った芭蕉ばしょう句塚くづかまでが、その木曾路の西の入り口に、旅人の目につく路傍の位置に彼を迎えるように見えている。

 伏見屋と言えば、伊之助はその時もはやこの世にいない人であった。半蔵が飛騨の山の方で伊之助のくなったのを聞いて来たのはその年の暑いさかりのころに当たる。彼は伏見屋からの通知を受け取って見て、かねて病床にあった伊之助が養生もかなわず、にわかに病勢の募ったための惜しい最期であったことを知った。享年四十五歳。遺骸いがいは故人の遺志により神葬にして万福寺境内の墓地に葬る。なお、長男一郎は二代目伊之助を襲名するともその通知にあった。とうとう、半蔵は伊之助の死に目にもあわずじまいだ。馬籠荒町の村社諏訪すわ分社の前まで帰って来た時、彼は無事な帰村を告げに参詣さんけいしたり、禰宜ねぎ松下千里の家へも言葉をかけに立ち寄ったりすることを忘れなかったが、かつて駅路一切の奔走を共にしたあの伊之助が草葉の陰にあるとは、どうしても彼にはまことのように思われもしなかった。

 馬籠の仲町近くまで帰ると、彼はもう幾人かの成人したふるい教え子にあった。

「お師匠さま。」

 と呼んでいち早く彼の姿を見つけながら走り寄る梅屋の三男益穂ますほがあり、伏見屋の三男三郎がある。その辺は仮の戸長役場にも近く、筑摩ちくま県と長野県とに分かれた信濃の国の管轄区域を合併して郡県の名までが彼の留守中に改まった。これは馬籠というところかの顔つきで、背中に荷物をつけながら坂になった町を登って来る供の六三郎は、どうかすると彼におくれた。彼は途中で六三郎の追いつくのを待ちうけて、戸長役場の前を往還側に建てられてある標柱のところへ行って一緒に立った。

 その高さ九尺ばかり。表面には改正になった郡県の名が筆太に記されてあり、側面にやや小さな文字で東西への里程を旅人に教えているのも、その柱だ。

長野県西筑摩郡神坂みさか



 馬籠のふるい宿場も建て直ろうとする最中の時である。二十五人、二十五匹の宿人足と御伝馬とは必ず用意して置くはずの宿場にも、その必要がなくなってからは、一匹の御伝馬につき買い入れ金十八両ほどずつ、一人ひとりの宿人足につき手当て七両二分ほどずつ受けて来た人たちも、勢い生活の方法を替えないわけには行かない。伊勢いせへ、津島へ、金毘羅こんぴらへ、御嶽おんたけへ、あるいは善光寺への参詣者さんけいしゃの群れは一新講とか真誠講とかの講中を組んで相変わらずこの街道にやって来る。ここを通商路とする中津川方面の商人、飯田いいだ行きの塩荷その他を積んだ馬、それらの通行にも変わりはない。しかし旧宿場に衣食して来た御伝馬役や宿人足、ないし馬差うまざし人足差にんそくざしの人たちはもはやそれのみにたよれない。目証めあかしもとくに土地を去り、雲助もいつのまにか離散して見ると、中牛馬会社の輸送に従事する以外のものは開墾、殖林、耕作、養蚕、その他の道についた。切り畑焼き畑を開いてひえ蕎麦そば等の雑穀を植えるもの、新田を開いて柴草しばくさを運ぶもの、皆元気いっぱいだ。馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、傾斜の多い地勢で水利の便もすくなく、荒い笹刈ささがりにはぶよ藪蚊やぶかを防ぐための火繩ひなわを要し、それも恵那山のすその谷間の方へ一里も二里もの山道を踏まねばならないほど骨の折れる土地柄であるが、多くのものはそれすらいとわなかった。宿場の行き詰まりは、かえってこの回生の活気を生んだ。そこへ行くと、新規まき直しの困難はむしろ従来宿役人として上に立った人たち、その分家、その出店でみせなぞの家柄を誇るものの方に多い。というのは、今までの生活ぶりも一様ではなく、心がけもまちまちで、それになんと言っても長い間の旦那衆気質かたぎから抜け切ることも容易でないからであった。そういう中で、梅屋のように思い切って染め物屋を開業したところもある。旧のごとく街道に沿うた軒先にすぎの葉のまるく束にしたものを掛け、それを清酒の看板に代えているのは、二代目伊之助の相続する伏見屋のみである。

 半蔵が帰り着いたのはこうしたふるさとだ。彼が飛騨からの若者と共に、変わらずにある青山の家の屋根の下に草鞋わらじひもを解いたのは午後の三時ごろであった。もとより新しい進路を開きたいとの思い立ちからとは言いながら、国を出てからの長い流浪るろう、東京での教部省奉職の日から数えると、足掛け六年ぶりで彼も妻子のところへ帰って来ることができた。当主としての長男宗太はようやく二十二歳の若さで、よめのおまきとてもまだ半分娘のような初々ういういしい年ごろであり、これまでにひなの夫婦を助けて長い留守を預かったお民がいくらか老いはしても相変わらずの元気を持ちつづけ、うどんなど打って彼を待ち受けていてくれたと聞いた時は、まず彼も胸が迫った。そのうちに、おまんもつえをついて裏二階の方からかよって来た。いよいよ輝きを加えたこの継母の髪の白さにも彼の頭はさがる。そばへ集まって来た三男の森夫はすでに十一歳、末の和助は八歳にもなる。これにも彼は驚かされた。

 帰国後の半蔵はいろいろ応接にいとまがないくらいであった。以前彼の飛騨行きを機会に長の暇乞いとまごいを告げて行った下男の佐吉は、かみさんとも別れたと言って、また山口村から帰って来て身を寄せている。旧本陣問屋庄屋時代から長いこと彼の家に通った清助は、と聞くと、今は隣家伏見屋の手伝いにかわって、造り酒屋の番頭格として働くかたわら、事あるごとにお民や宗太の相談相手となりに来てくれるという。村の髪結い直次の娘で、幼い和助が子守時代からずっと奉公に来ているお徳は、これも水仕事にぬれた手をきふき、台所の流しもとから彼のところへお辞儀に来る。その時は飛騨から供の六三郎も重い荷物を背中からおろし、足を洗って上がった。この飛騨の若者はまた、ひどくくたぶれたらしい足を引きずりながらも家のものに案内されて、青山の昔を語る広い玄関先から、古いやりのかかった長押なげし、次の間、仲の間、奥の間、諸大名諸公役らが宿場時代に休息したり寝泊まりしたりして行った上段の間までも、めずらしそうに見て回るほど元気づいた。

 六三郎はお民に言った。

「奥さま、もうお忘れになったかもしれませんが、あなたさまが飛騨の方へお越しの節に宮司さまに頼まれまして、久津八幡までお迎えに出ました六三郎でございます。」

 日の暮れるころから、旧知親戚しんせきのものは半蔵を見に集まって来た。赤々とした炉の火はさかんに燃えた。串差くしざしにしてあぶる小鳥のにおいは広い囲炉裏ばたにみちあふれたが、その中には半蔵が土産みやげの一つの加子母峠かしもとうげつぐみもまじっていると知られた。その晩、うどん振舞ぶるまいに招かれて来た人たちは半蔵のことを語り合うにも、これまでのように「本陣の旦那だんな」と呼ぶものはない。いずれも「お師匠さま」と呼ぶようになった。

「あい、お師匠さまがお帰りだげなで、お好きな山のいもを掘ってさげて来た。」

 尋ねて来る近所のばあさんまでが、その調子だ。やがて客人らはくつろぎのに集まって、いろいろなことを半蔵に問い試みた。飛騨の国幣小社水無神社はどのくらいの古さか。神門と拝殿とは諏訪すわの大社ぐらいあるか。御神馬の彫刻はだれの作か。そこには舞殿まいどのがあり絵馬殿えまでんがあり回廊があるか。御神木のねじの木とは何百年ぐらいたっているか。一の宮に特殊な神事という鶏毛打とりげうちの古楽にはどのくらいの氏子が出て、どんな衣裳いしょうをつけて、どんなかねと太鼓を打ち鳴らすかのたぐいだ。六三郎はおのが郷里の方のうわさをもれききながら、御相伴ごしょうばんのうどんを味わった後、玄関の次の間の炬燵こたつに寝た。

 翌朝、飛騨の若者も別れを告げて行った。家に帰って来た半蔵はもはや青山の主人ではない。でも、彼は母屋もやの周囲を見て回ることを久しぶりの楽しみにして、思い出の多い旧会所跡の桑畠くわばたけから土蔵の前につづく裏庭のかきの下へ出た。そこに手ぬぐいをかぶった妻がいた。

「お民、吾家うち周囲まわりも変わったなあ。新宅(下隣にある青山の分家、半蔵が異母妹お喜佐の旧居)も貸すことにしたね。変わった人が下隣にできたぞ。あの洒落しゃれものの婆さんは村の旦那衆を相手に、小料理屋なぞをはじめてるそうじゃないか。」

「お雪婆さんですか。あの人は中津川から越して来ましたよ。」

「だれがああいう人を引ッぱって来たものかなあ。それに、この土地に不似合いな小女こおんななぞも置いてるような話だ。そりゃ目立たないように遊びに行く旦那衆は勝手だが、宗太だっても誘われれば、いやとは言えない。まあ、おれももう隠居の身だ。一切口を出すまいがね、ああいう隣の女が出入りしても、お前は気にならないかい。」

「そんなことを言うだけ、あなたも年を取りましたね。」

 お民は快活に笑って、夫の留守中に苦心して築き上げたことの方にその時の立ち話をかえた。過ぐる年月の間、彼女の絶え間なき心づかいは、いかにして夫から預かったこの旧家を安らかに持ちこたえて行こうかということであった。それには一切を手造りにして、茶も自分の家で造り、蚕も自分で飼い、糸も自分で染め、髪につける油まで庭の椿つばきの実から自分で絞って、塩と砂糖とあいよりほかになるべく物を買わない方針を取って来たという。森夫や和助のはく草履ぞうりすら、今は下男の夜なべ仕事に家で手造りにしているともいう。これはすでに妻籠つまごの旧本陣でも始めている自給自足のやり方で、彼女はその生家さとで見て来たことを馬籠の家に応用したのであった。

 間もなくお民は古い味噌納屋みそなやの方へ夫を連れて行って見せた。その納屋はおまんが住む隠居所のすぐ下に当たる。半蔵から言えば、先々代半六をはじめ、先代吉左衛門が余生を送った裏二階の下でもある。冬季のために野菜をたくわえようとする山家らしい営みの光景がそこに開けた。若いよめのおまき母屋もやから、下女のお徳は井戸ばたから、下男佐吉は木小屋の方から集まって来て、洗いたての芋殻いもがら(ずいき)が半蔵の眼前に山と積まれた。梅酢うめず唐辛子とうがらしとを入れて漬ける四斗樽しとだるもそこへ持ち運ばれた。色もあかく新鮮な芋殻を樽のなかに並べて塩を振る手つきなぞは、お民も慣れたものだ。

 母屋の周囲を一回りして来て、おのれの書斎とも寝部屋ともする店座敷の方へ引き返して行こうとした時、半蔵は妻に言った。

「お民、お前ばかりそう働かしちゃ置かない。」

 そう言う彼は、子弟の教育に余生を送ろうとして、この古里に帰って来たことを妻に告げた。彼もいささか感ずるところがあってその決心に至ったのであった。


       四


 飛騨ひだの四年あまりは、半蔵にとって生涯しょうがいの旅の中の最も高い峠というべき時であった。在職二年にして彼は飛騨の人たちと共に西南戦争に際会した。遠く戦地から離れた山の上にありながらも、迫り来る戦時の空気と地方の動揺とをも経験した。王政復古以来、「この維新の成就するまでは」とは、心あるものが皆言い合って来たことで、彼のような旧庄屋風情ふぜいでもそのために一切を忍びつづけたようなものである。多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てた時。報いらるるのすくない戸長の職にも甘んじた時。あの郡県政治が始まって木曾谷山林事件のために彼なぞは戸長の職をがれる時になっても、まだまだ多くの深い草叢くさむらの中にあるものと共に時節の到来を信じ、新しい太陽の輝く時を待ち受けた。やかましい朝鮮問題をめぐって全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き戊辰ぼしん以来の政府内部に分裂の行なわれたと聞く時になっても、まだそれでも彼なぞは心を許していた。内争の影響するところは、岩倉右大臣の要撃となり、佐賀、熊本くまもとの暴動となり、かつては維新の大業をめがけて進んだ桐野利秋きりのとしあきらのごとき人物が自ら参加した維新に反して、さらに新政の旗をあげ、強い武力をもってするよりほかに今日を救う道がないとすると聞くようになって、つくづく彼はこの維新の成就さるる日の遠いことを感じた。

 西南戦争を引き起こした実際の中心人物の一人ひとりとも目すべき桐野利秋とはどんな人であったろう。伝うるところによれば、利秋は陸軍少将として明治六年五月ごろまで熊本鎮台の司令長官であった。熊本鎮台は九州各藩の兵より成り、当時やや一定の法規の下にはあったが、多くは各藩混交のわがまま兵であるところから、その統御もすこぶる困難とされていた。古英雄のふうある利秋はまた、区々たる規則をもって兵隊を拘束することを好まない人で、多くは放任し、陸軍省の法規なぞには従わなかった。もとより本省の命令が鎮台兵の間に行なわるべくもない。この桐野流をよろこばない本省では、谷干城たにたてきに司令長官を命じ、利秋は干城と位置を換え陸軍裁判長となったことがある。その時の利秋の不平は絶頂に達して、干城に対し山県大輔やまがたたいふをののしった。その言葉に、彼山県は土百姓らを集めて人形を造る、はたして何の益があろうかと。大輔をののしるのはすなわち干城をののしるのであった。元来利秋は農兵を忌みきらって、兵は士族に限るものと考えた人であった。これが干城と利秋とのながの別れであったともいう。全国徴兵の新制度を是認し大阪鎮台兵の一部を熊本に移してまでも訓練と規律とに重きを置こうとする干城と、その正反対に立った利秋とは、ついに明治十年には互いに兵火の間に相見あいまみゆる人たちであった。

 この戦争は東北戦争よりもっと不幸であった。なぜかなら、これはそのそもそもの起こりにおいて味方同志の戦争であるのだから。体内の血が逆に流れ、総身の毛筋が逆立さかだつような内部の苦しい抗争であるのだから。そして、かつての官武一途も上下一和も徳川幕府を向こうに回しての一途一和であって、いったん共同の敵たる慶喜よしのぶの倒れた上は味方同志の排斥と暗闘もまたやむを得ないとする国内の不一致を世界万国に向かって示したようなものであるから。よもやつまいと言われた西郷隆盛さいごうたかもりのような人までがたって、一万五千人からの血気にはやる子弟と運命を共にするようになった。長州の木戸孝允きどたかよしのごとき人はそれを言って、西郷ありてこそ自分らも薩摩さつま合力ごうりきし、いささか維新の盛時にも遭遇したものであるのに、と地団駄じだんだを踏んだ。この隆盛の進退はよくよく孝允にも惜しまれたと見えて、人は短所よりむしろ長所で身を誤る、西郷老人もまた長ずるところをもって一朝の憤りに迷い末路を誤るのは実に残念千万であると言ったという。開戦は十年二月晦日みそかであった。薩摩方も予想外に強く、官軍は始終大苦戦で、開戦後四十日の間にわずかに三、四里の進軍と聞いて、孝允なぞはこれを明治のみかどが中興に大関係ある白骨勝負と見た。そして、今度の隆盛らの動きは無名の暴発であるから、天下の方向も幸いに迷うことはあるまいが、もともと明治維新と言われるものがまるで手品か何かのようにうまくととのったところから、行政の官吏らがすこしも人世の艱苦かんくをなめないのにただただその手品のようなところのみをまねて、容易に一本の筆頭で数百年にもわたる人民の生活や慣習を破り去り、功名の一方にのみ注目する時弊は言葉にも尽くせない、天下の人心はまだまだ決して楽しんではいない、このありさまを目撃しては血涙のほかはないと言って、時代を憂い憂い戦時の空気の中に病み倒れて行ったのも孝允であった。

 これくらいの艱難がこの国維新の途上に沸いて来るのは当然であったかもしれない。飛騨の辺鄙へんぴな山の中でこの戦争を聞いていた半蔵ごときものでも、西からの戦報を手にするたびに安い心はなかった。戦争が長引けば長引くほど山の中にはいろいろなことを言う者が出て来て、土州因州あたりは旧士族ばかりでなく一般の人々の気受けも薩摩の捷報しょうほうをよろこぶ色がある、あだかも長州征伐の時のようだなど言い触らすものさえある。きのうはよいの空に西郷星が出たとか、きょうは熊本との連絡も絶えて官軍の籠城ろうじょうもおぼつかないとか聞くたびに、ただただ彼は地方の人たちと共に心配をわかつのほかはなかった。

 試みに、この戦争に参加した陸軍軍人およそ五万二百余人、屯田兵とんでんへい六百余、巡査隊一万千余人、軍艦十四隻、海軍兵員およそ二千百余人と想像して見るがいい。もしこれが徳川氏の末のような時代の出来事で、一切が国内かぎりの世の中であるなら、おそらくこの戦争の影響は長州征伐のたぐいではなかったであろう。これほどの出来事も過ぎ去った後になって見れば、維新途上の一小波瀾はらんであったと考えるものもあるほど、押し寄せる世界の波は大きかった。戦争も終わりを告げるころには、西郷隆盛らは皆戦死し、その余波は当時政府の大立者おおだてものたる大久保利通おおくぼとしみちの身にまで及んで行った。

 この西南戦争が全国統一の機運を導いたことは、せめて不幸中の幸いであった。人民の疾苦、下のものの難渋迷惑はもとより言うまでもない。明治の歴史にもこれほどばかばかしく外聞の悪い事はあるまいと言い、惜しげもなく将軍職を辞し江戸城を投げ出した慶喜に対しても恥ずかしいと言って、昨日の国家の元勲が今日の賊臣とは何の事かと嘆息しながら死んで行った人もある。多くの薩摩隼人はやとらが政府の要路に立つものに詰問の筋があると唱えて、ついに挙兵東上の非常手段に訴えたために、谷干城のごときは決死の敵を熊本城にくいとめ、身をもって先輩西郷氏の軍に当たった。この人にして見たら、敵将らの素志がこの社会の皮相なヨーロッパ化をきとめ、武士道を再興して人心を一新したいと願うところにあったとしても、四民平等の徴兵制度を無視して今さら封建的な旧士族制を回復するとは何事ぞとなし、たとい武力をもって国家の進路を改めようとする百の豪傑が生まれて来るとも、自分らは迷うところなく進もうと言ったであろう。ともあれ、この戦争はいろいろなことを教えた。政府が士族の救済も多く失敗に帰し、戊辰ぼしん当時の戦功兵もまた報いらるるところの少なかったために、ついに悲惨な結果を生むに至ったことを教えたのもこの戦争であった。西郷隆盛らは古武士の最後のもののように時代から沈んで行ったが、しかし武の道のゆるがせにすべきでないことを教えたのもこの戦争であった。もし政府が人民の政府であることを反省しないで威と名の一方にのみ注目するなら、その結果は測りがたいものがあろうことを教えたのもまたこの戦争であった。まったく、一時はどんな形勢に陥らないとも知りがたかった。どうやら時勢はあともどりし、物情は恟々きょうきょうとして、半蔵なぞはその間、宮司の職も手につかなかった。



 しかし、半蔵が飛騨での経験はこんな西南戦争の空気の中に行き悩んだというばかりではない。

 飛騨の位山くらいやまは、平安朝の婦人が書き残したものにも「山は位山」とあるように、昔から歌枕うたまくらとしても知られたところである。大野郡、久具野くぐのさとが位山のあるところで、この郷は南は美濃の国境へおよそ十六里、北は越中えっちゅうの国境へ十八里、東は信濃の国境へ十一里、西は美濃の国境へ十里あまり。まずこの山が飛騨の国の中央の位置にある。古来帝都に奉り、御笏おんしゃくの料とした一位いちいの木(あららぎ)を産するのでも名高い。この山のふもとに置いて考えるのにふさわしいような人を半蔵は四年あまりの飛騨生活の間に見つけた。もっとも、それは現存の人ではなく、深い足跡をのこして行った故人で、しかもかなりの老年まで生きた一人のおきなではあったが。

 まだ半蔵は狩野永岳かのうえいがくの筆になったというこの翁の画像の前に身を置くような気がしている。この人の建立こんりゅうした神社の内部に安置してあった木像のそばにも身を置くような気がしている。彼の胸に描く飛騨の翁とは、いかにも山人やまびとらしい風貌ふうぼうをそなえ、すぎの葉の長くたれ下がったような白いあらひげをたくわえ、その広い額や円味まるみのある肉厚にくあつな鼻から光った目まで、言って見れば顔の道具の大きい異相の人物であるが、それでいて口もとはやさしい。うすのようにどっしりしたところもある。この人が田中大秀おおひでだ。

 田中大秀は千種園ちぐさえんのあるじといい、晩年の号を荏野じんや翁、または荏野老人ともいう。本居宣長の高弟で、宣長の嗣子本居大平おおひらの親しい学友であり、橘曙覧たちばなあけみの師に当たる。その青年時代には尾張熱田の社司粟田知周あわたともちかについて歌道を修め、京都に上って冷泉れいぜい殿の歌会に列したこともあり、その後しばらく伴蒿蹊ばんこうけいに師事したこともあるという閲歴を持つ人である。半蔵がこの人に心をひかれるようになったのは、自分の先師平田篤胤と同時代にこんなに早く古道の真髄に目のさめた人が飛騨あたりの奥山に隠れていたのかと思ったばかりでなく、幾多の古書の校訂をはじめ物語類解釈の模範とも言うべき『竹取翁物語解』のごときよい著述をのこしたと知ったばかりでもなく、あの篤胤大人に見るような熱烈必死な態度で実行に迫って行った生き方とも違って、実にこの人がめずらしい「笑い」の国学者であったからで。

 荏野の翁が事蹟じせきも多い。飛騨の国内にある古社の頽廃たいはいしたのを再興したり、自らも荏野神社というものを建ててその神主となり郷民に敬神の念をよび起こすことに努めたりした。あるいは美濃の養老のたき由緒ゆいしょを明らかにした碑を建て、あるいは美濃垂井清水たるいしみず倭建命やまとたけるのみことの旧蹟を考証して、そこに居寤清水いさめのしみずの碑を建て、あるいはまた、継体天皇の御旧居の地を明らかにして、その碑文をえらみ、越前えちぜん足羽あすは神社の境内に碑を建てたのも、この翁だ。そうした敬神家の大秀はもとより仏法の崇拝とは相いれないのを知りながらも、金胎こんたい両部、あるいは神仏同体がこの国人の長い信仰で、人心を導くにはそれもよい方法とされたものか、翁が菩提寺ぼだいじはもちろん、郷里にある寺々の由緒をことごとく調査して仏を大切に取り扱い、頽廃したものは興し、衰微したものは助け、各檀家だんかのものをして祖先の霊を祭る誠意をいたすべきことをさとらしめた。思いがけないような滑稽こっけいがこの老翁の優しい口もとから飛び出す。郷里に盆踊りでもある晩は、にわか芸づくし拝見と出かける。四番盆、結構、随分おもしろく派手にやれやれと言った調子であったらしい。翁のトボケた口ぶりは、ある村の人にあてた手紙の中の文句にもよく残っている。

オドレヤオドレヤ。オドルガ盆ジャ。マケナヨマケナヨ、アスノ夜ハナイゾ。オドレヤオドレヤ。

 半蔵が聞きつけたのも、この声だ。かなしみの奥のほほえみ、涙の奥の笑いだ。おそらく新時代に先立つほど早くこの世を歩いて行った人で、その周囲と戦わなかったものはあるまい。そうおもって見ると、翁がかずかずの著書は、いずれも明日のしたくを怠らなかったもので、まだ肩揚げのとれないような郷里の子弟のために縫い残した裄丈ゆきたけの長い着物でないものはない。

 田中大秀のごとき先輩の国学者の笑った生涯にすら、よく探れば涙の隠れたものがある。まして後輩の半蔵風情ふぜいだ。水無神社宮司としての彼は、神仏分離の行なわれた直後の時に行き合わせた。人も知るごとく飛騨の高山地方は京都風に寺院の多いところで、神仏混淆こんこうの長い旧習は容易に脱けがたく、神社はまだまだ事実において仏教の一付属たるがごとき観を有し、五、六十年前までは神官と婚姻を結ぶなら地獄じごくちるなど言われて、相応身分の者は神官と婚姻を結ぶことさえ忌み避けるほどの土地柄であった。国幣小社なる水無神社ですら、往時は一の宮八幡とも一の宮大明神とも言い、法師別当らの水無大菩薩だいぼさつなど申していつき奉った両部の跡であった。彼が赴任して行って見たころの神社の内部は、そこのすだれのかげにも、ここのはらにも、仏教経巻などの置かれた跡でないものはなかった。なんという不思議な教えが長いことこの国人の信仰の的となっていたろう。そこにあったものは、肉体を苦しめる難行苦行と、肉体的なよろこびの崇拝と、その両極端の不思議に結びついたもので、これは明らかに仏教の変遷の歴史を語り、奈良朝以後に唐土とうどから伝えられた密教そのものがインド教に影響された証拠だと言った人もある。多くの偶像と、神秘と、そして末の世になればなるほど多い迷信と。一方にやすく行ける浄土の道を説く僧侶そうりょもまた多かったが、それはまた深く入って浅く出る宗祖の熱情を失い、いたずらに弥陀みだの名をとなえ、念仏に夢中になることを教えるようなものばかりで、古代仏教徒の純粋で厳粛な男性的の鍛錬たんれんからはすこぶる遠かった。そういうものの支配する世界へ飛び込んで行って、一の宮宮司としての半蔵がどれほどの耳を傾ける里人を集め、どれほどの神性を明らかにし得たろう。愚かに生まれついた彼のようなものでも、神に召され、高地に住む人々に満足するような道を伝えたいと考え、この世にはまだいにしえをあらわす道が残っていると考え、それを天の命とも考えて行った彼ではあるが、どうして彼は自ら思うことの十が一をも果たせなかった。維新以来、一切のものの建て直しとはまだまだ名ばかり、朝に晩に彼のたたずみながめた神社の回廊の前には石燈籠いしどうろうの立つ斎庭ゆにわがひらけ、よく行った神門のそばには冬青そよぎの赤い実をたれたのが目についたが、薄暗い過去はまだそんなところにも残って、彼の目の前に息づいているように見えた。

 四年あまりの旅の末には教部省の方針も移り変わって行った。おそらく祭政一致の行なわれがたいことを知った政府は、諸外国の例なぞにかんがみて、政教分離の方針を執るに至ったのであろう。この現状に平らかでない神官は任意辞職を申しいでよとあって、全国大半の諸神官が一大交代も行なわれた。元来高山中教地は筑摩ちくま県の管轄区域であったが、たまたまそれが岐阜ぎふ県の管轄に改められる時を迎えて見ると、多くの神官は世襲で土着する僧侶とも違い、その境涯きょうがいに安穏な日も送れなかった。高山町にある神道事務支局から支給せらるる水無神社神官らが月給の割り当ても心細いものになって行った。半蔵としては、本教を振るい興したいにも資力が足らず、宮司の重任をこうむりながらも事があがらない。しまいには、名のつけようのない寂寞せきばくが彼の腰や肩に上るばかりでなく、彼の全身に上って来た。

きのふけふしぐれの雨ともみぢ葉とあらそひふれる山もとの里

 こんな歌が宮村の仮寓かぐうでできたのも前年の冬のことであり、同じ年の夏には次ぎのようなものもできた。

おのがうたにさやなぐさむさみだれの雨の日ぐらし早苗さなえとるなり

 梅雨期の農夫をあわれむ心は、やがて彼自ら憐む心であった。平田篤胤没後の門人として、どこまでも国学者諸先輩を見失うまいとの願いから、彼も細い一筋道をたどって、日ごろの願いとする神の住居すまいにまでいたり着いたが、あの木曾の名所図絵にもある園原の里の「帚木ははきぎ」のように、彼の求めるものは追っても追っても遠くなるばかり。半生の間、たまりにたまっていたような涙が飛騨の山奥の旅に行って彼のかたくなな胸の底からほとばしり出るように流れて来た。この涙は人を打ち砕く涙である。どうかすると、彼は六三郎親子のものの住居すまいの隣にあった仮寓に隠れ、そこの部屋へやの畳の上に額を押しつけ、平田門人としての誇りをも打ち砕かれたようになって、いくら泣いても足りないほどの涙をそそいだこともあった。



 まだ半蔵は半分旅にあるような気もしていたが、ふと、恵那山の方で鳴る風の音を聞きつけてわれに帰った。十月下旬のことで、恵那山へはすでに雪が来、里にも霜が来ていた。母屋もやの西側の廊下の方へ行って望むと、ふるさとの山はまた彼の目にある。過ぐる四年あまり、彼が飛騨の方でながめ暮らして来た位山くらいやまは、あの田中大秀おおひでがほめてもほめてもほめ足りないような調子で書いた物の中にも形容してあるように、大きやかではあってもはなはだしく高くなく、みねのさまは穏やかでけわしくなく、木立ちもしげり栄えてはあるが、しかも物すごくなかった。実に威あってたけからずと言うべき山の容儀かたちであるとした飛騨の翁の形容も決してほめ過ぎではなかった。あの位山を見た目で恵那山を見ると、ここにはまた別の山嶽さんがくの趣がある。遠く美濃の平野の方へ落ちている大きな傾斜、北側に山のふところをひろげて見せているような高く深い谷、山腹にあたって俗に「なべづる」の名称のある半円状を描いた地形、蕨平わらびだいら、霧ヶ原の高原などから、裾野すそのつづきに重なり合った幾つかの丘の層まで、遠過ぎもせず近過ぎもしない位置からこんなにおもしろくながめられる山麓さんろくは、ちょっと他の里にないものであった。木立ちのしげり栄えて、しかも物すごくないという形容は、そのままこの山にもあてはまる。山が曇れば里は晴れ、山が晴れれば里は降るような変化の多い夏のころともちがって、物象の明らかな季節もやって来ている。

「おとっさん。」

 と声をかけて森夫と和助がそこへ飛んで来た。まだ二人ふたりとも父のそばへ寄るのは飛騨臭いという顔つきだ。半蔵は子供らの頭をなでながら、

「御覧、恵那山はよい山だねえ。」

 と言って見せた。どうしてこの子供らは久しぶりに旅から帰って来た父の心なぞを知りようもない。学校通いの余暇には、兄は山歩きに、木登りに。弟はまた弟で、えのきの実の落ちた裏の竹藪たけやぶのそばの細道を遊び回るやら、橿鳥かしどりの落としてよこす青いの入った小さな羽なぞをさがし回るやら。ちょうど村の子供の間にはおけたがを回して遊び戯れることが流行はやって来たが、森夫も和助もその箍回しに余念のないような頑是がんぜない年ごろである。

 いつきの道を踏もうとするものとして行き、牙城ねじろと頼むものも破壊されたような人として帰って来た。それが半蔵の幼い子供らのそばに見いだした悄然しょうぜんとした自分だ。

「復古の道は絶えて、平田一門すでに破滅した。」

 それを考えると、深い悲しみが彼の胸にわき上がる。古代の人に見るようなあの素直な心はもう一度この世に求められないものか、どうかして自分らはあの出発点に帰りたい、もう一度この世を見直したいとは、篤胤没後の門人一同が願いであって、そこから国学者らの一切の運動ともなったのであるが、過ぐる年月の間の種々さまざまにがい経験は彼一個の失敗にとどまらないように見えて来た。いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の付き物であるのか、そのためにかえって維新は成就しがたいのであるか、いずれとも彼には言って見ることはできなかったが、これまで国家のために功労も少なくなかった主要な人物の多くでさえ西南戦争を一期とする長い大争いの舞台の上で、あるいは傷つき、あるいは病み、あるいは自刃し、あるいは無慙むざんな非命の最期を遂げた。思わず出るため息と共に、彼は身にこたえるような冷たい山の空気を胸いっぱいに呼吸した。



 き伊之助の百か日に当たる日も来た。今さら、人の亡くなった跡ばかり悲しいものはなく、月日の早く過ぐるのも似る物がないと言った昔の人の言葉を取り出すまでもなく、三十日過ぎた四十日過ぎたと半蔵が飛騨の山の方で数えた日もすでに過ぎ去って、いつのまにかその百か日を迎えた。

「お民、人に惜しまれるくらいのものは、早く亡くなるね。おれのようなばかな人間はかえってあとにのこる。」

「あのお富さんもお気の毒ですよ。早くおよめに来て、早く世の中を済ましてしまったなんて、そう言っていましたよ。あの人も、もう後家ごけさんですからねえ――あの女ざかりで。」

 こんな言葉を妻とかわした後、半蔵は神祭の古式で行なわれるという上隣への坂になった往還を夢のように踏んだ。

 伏見屋へはその日の通知を受けた人たちが、美濃の落合からも中津川からも集まりつつあった。板敷きになった酒店の方から酒の香気かおりの通って来る広い囲炉裏ばたのところで、しばらく半蔵は遺族の人たちと共に時を送った。にいるお富は半蔵の顔を見るにつけても亡き夫のことを思い出すというふうで、襦袢じゅばん袖口そでぐちなぞでしきりに涙をふいていたが、どうして酒も強いと聞くこの人が包み切れないほどの残りの色香を喪服に包んでいる風情ふぜいもなかなかにあわれであった。その時、半蔵は二代目伊之助のところへとついで来ているお須賀すがという若いおよめさんにもあった。伊之助は四人の子をのこしたが、それらの忘れ形見がいずれも父親似である中にも、ことに二代目が色白で面長おもながおもかげをよく伝えていて、起居動作にまであの寛厚な長者の風のあった人をしのばせる。故人が生前に、自分の子供をまくらもとに呼び集め、次郎は目をわずらっているからいたし方もないが、三郎とお末とは半蔵を師と頼み、何かと教えを受けて勉強せよ、これからの時世は学問なしにはかなわないと、くれぐれも言いのこしたという話も出た。臨終の日も近かったおりに、あの世へ旅立って帰って来たもののあったためしのないことを思えば、自分とてもこの命が惜しまれると言ったという話も出た。

「あれで、先の旦那だんなも、『半蔵さんが帰ればいい、半蔵さんが帰ればいい』と言わっせいて、どのくらいお前さまにあいたがっていたか知れすかなし。」

 手伝いに来ている近所の婆さんまでが、それを半蔵に言って見せた。

 そのうちに村の旦那衆の顔もそろい、その日の祭りをつかさどる村社諏訪すわ分社の禰宜ねぎ松下千里も荒町からやって来た。妻籠つまごの寿平次、実蔵(得右衛門の養子)、落合の勝重かつしげ、山口の杏庵きょうあん老、いずれも半蔵には久しぶりに合わせる顔である。伏見屋の二階はこれらの人々の集まるために用意してあった二間つづきの広い部屋で、中央の唐紙からかみなぞも取りはずしてあり、一方の壁の上には故人が遺愛の軸なぞも掛けてあった。集まって来た客の中に万福寺の松雲和尚しょううんおしょうの顔も見える。当日は和尚には宗旨違いでも、伏見屋の先祖たちから受けた恩顧は忘れられないと言って、和尚は和尚だけの回向えこうをささげに禅家風な茶色の袈裟けさがけなどで来ているところは、いかにもその人らしい。当日の主人側には、長いこと隣家旧本陣に働いた清助が今は造り酒屋の番頭として、羽織袴はおりはかまの改まった顔つきで、二代目を助けながらあちこちの客を取り持っているのも人々の目をひいた。やがて質素な式がはじまり、神酒みき、白米、野菜などが型のように故人の霊前に供えられると、禰宜の鳴らす柏手かしわでの音は何がなしに半蔵の心をそそった。そこに読まれる千里の祭詞に耳を傾けるうちに、半生を通じてのよい道づれを失った思いが先に立って、その衆人の集まっている中で彼は周囲あたりかまわず男泣きに泣いた。


       五


 休息。休息。帰国後の半蔵が願いは何よりもまずその休息よりほかになかった。飛騨生活の形見として残った烏帽子えぼし〈[#「烏帽子」は底本では「鳥帽子」]〉を片づけたり無紋で袖のくくってある直衣のうしなぞを手に取って打ちかえしながめたりするお民と一緒になって見ると、長く別れていたあとの尽きない寝物語はよけいに彼のからだから疲れを引き出すようなものであった。彼は久しぶりにたずねたいと思う人も多く、無沙汰ぶさたになった家々をもおとずれたく、日ごろ彼の家に出入りする百姓らの住居すまいをも見て回りたく、自らはじめて立てた敬義学校の後身なる神坂みさか村小学校のことも心にかかって、現訓導の職にある小倉啓助の仕事をも助けたいとは思っていたが、一切をあと回しにしてまず休むことにした。万福寺境内に眠っている先祖道斎をはじめ先代吉左衛門の墓、それから伏見屋の金兵衛と伊之助とが新旧の墓なぞの並ぶ墓地の方で感慨の多い時でも送って帰って来ると、彼は自分の部屋の畳の上に倒れて死んだようになっていることもあった。

 店座敷の障子のそばに置いてある彼のきりの机もふるくなった。その部屋は表庭つづきの前栽せんざいを前に、押入れ、床の間のついた六畳ほどの広さで、障子の外に見える古い松の枝が塀越へいごしに高く街道の方へ延びているのは、それも旧本陣としての特色の一つである。くつろぎのを宗太若夫婦に譲ってからは、彼はその部屋に退くともなく退いた形で、客でもあればそこへ通し、夜は末の和助だけをお民と自分とのそばに寝かした。

 この半蔵はすでに妻に話したように、子弟の教育に余生を送ろうと決心した人で、それにはまず自分の子供から始めようとしていた。彼が普通の父親以上に森夫や和助の教育に熱心であるのは、いささか飛騨の山の方で感じて来たこともあるからであった。ひどく肩でも凝る晩に、彼は森夫や和助を部屋へ呼びよせてたたかせることを楽しみにするが、それもただはたたかせない。歴代の年号なぞを諳誦あんしょうさせながらたたかせた。

「その調子、その調子。」

 と彼が言うと、二人ふたりの子供はかわるがわる父親のうしろに回って、その肩に取りつきながら、

貞享じょうきょう元禄げんろく宝永ほうえい正徳しょうとく……」

 お経でもあげるように、子供らはそれをやった。

 こうした休息の日を送りながらも、半蔵はその後の木曾地方の人民が山に離れた生活に注意することを忘れなかった。もはや山林にもたよれなくなった人民の中には木曾谷に見切りをつけ、ふるい宿場をあきらめ、追い追いと離村するものがある。長く住み慣れた墳墓の地も捨て、都会をめがけて運命の開拓をこころざす木曾人もなかなかに多い。そうでないまでも、竹も成長しない奥地の方に住むもので、耕地も少なく、農業も難渋に、山の林にでもすがるよりほかに立つ瀬のないものは勢い盗伐に流れる。中には全村こぞって厳重な山林規則に触れ、毎戸かわるがわる一人ずつの犠牲者を長野裁判所の方へ送り出すことにしているような不幸な村もある。こんなに土地の事情に暗く、生民の期待に添おうとしないで、地租改正のおりにも大いに暴威を振るった筑摩県時代の権中属ごんちゅうぞく本山盛徳とはどんな人かなら、その後に下伊那しもいな郡の方で涜職とくしょくの行為があって終身懲役に処せられ、佐賀の事変後にわずかに特赦の恩典に浴したとのうわさがあるくらいだ。政府は人民の政府ではないかと言いながらも、こんな行政の官吏が下にある間は、いかんともしがたかった。地方の人民がいかによい政治を慕い、良吏を得た時代の幸福な日を忘れないでいるかは、この木曾谷の支配が尾州藩の手から筑摩県の管轄に移るまでの間に民政権判事ごんはんじとして在任した土屋総蔵の名がいまだに人民の口に上るのでもわかる。

 この郷里のありさまを見かねて、今一度山林事件のために奔走しようとする木曾谷十六か村(三十三か村の併合による)の総代のものが半蔵の前にあらわれて来た。これは新任の長野県令あてに、木曾谷山地官民有の区別の再調査を請願する趣意で、その請願書を作るための参考に、明治四年十二月と同五年二月との二度にわたって半蔵らの作成した嘆願書、および彼の集めた材料の古書類を借り受けたいとの話が今度の発起者側からあった。もとより彼は王滝の旧戸長遠山五平と前に力をあわせ、互いに寝食を忘れるほどの奔走をつづけ、あちこちの村をたずね回って旧戸長らの意見をまとめることに心を砕き、そのために主唱者とにらまれて戸長を免職させられたくらいだから、今度の発起者側からの頼みに異存のあろうはずもなかった。



 請願書の草稿はできた。翌明治十三年の二月にはいるころには、各村戸長の意見もまとまって、その草稿の写しが半蔵のもとにも回って来るほどに運んだ。それは十六、七枚からの長い請願書で、木曾谷山地古来の歴史から、維新以来の沿革、今回請願に及ぶまでのことが述べてあるが、筋もよく通り、古来人民の自由になし来たった場所はさらに民有に引き直して明治維新の徳沢に浴するよう寛大の御沙汰ごさたをたまわりたいとしたものであった。旧筑摩県の本山盛徳が権中属時代に調査済みの実際を見ると、全山三十八万町歩あまりのうち、その大部分は官有地となり、余すところの民有地はわずかにその十分の一に過ぎなくなった。そのため、困窮のあまり、官林にはいって罪を犯し処刑をこうむるものは明治六、七年以来数えがたく、そのたびに徴せらるる贖罪金しょくざいきんもまた驚くべき額に上った。これではどうしても山地の人民が立ち行きかねるから、各村に存在する旧記古書類をもっと精密に再調査ありたいとの意味もしたためてある。この請願書の趣意はいかにも時宜に適したものだとして、半蔵なぞもひどくよろこんだ。

 ところが、これには異論が出て、いよいよ県庁へ差し出すまでにはところどころに草稿の訂正が加えられた。半蔵はそれを聞いてその訂正されたものを見たいと思い、宗太を通してさらに発起者側から写しの書類を送ってもらった。

「おとっさん、この請願書にはだいぶがみがしてありますよ。」

 そういう宗太ももはや一人前の若者で、木曾山の前途には関心を持つらしい。半蔵は宗太と一緒にその書類に見入った。享保きょうほう検地以来のことをしるしたあたりはことに省いてあって、そのかわり原案の草稿にない文句が半蔵の目についた。

 彼は宗太に言った。

「ホ、ここにも民有の権を継続してとあるナ。この書類はしばらくおれが借りて置く。よく読んで見る。」

 ひとりになってからの半蔵は繰り返しその請願書に目を通した。木曾のような辺鄙へんぴな山の中に住んで、万事がおくれがちな人たちの中にも、いつのまにか世の新しい風潮を受け入れて、こんな山林事件にまで不十分ながらも民有の権利を持ち出すようになったことをおもって見た。これが官尊民卑の旧習に気づいた上のことであるなら、とにもかくにも進歩と言わねばならなかった。最初彼が王滝の遠山五平らを語らい合わせて出発した当時の山林事件は、今のうちに官民協力して前途百年の方針を打ち建てて置きたいという趣意にもとづいた。というのは、従来木曾谷山地の処置については享保年度からの名古屋一藩かぎりの御制度であるから、郡県政治の時代となっては本県の管下も他郷一般の処置を下し置かれたい、それには享保以前のいにしえに復したいと願ったからであった。言って見れば、木曾谷の沿革には、およそ三期ある。第一期は享保以前で、山地には御役榑おやくくれすなわち木租を納めさえすればその余は自由に伐木売買を許された時代、人民が山木と共にあった時代である。第二期は享保以後から明治維新に至るまで。この時代に巣山すやま留山とめやま明山あきやまの区別ができ、入山いりやま伐木を人民の自由に許した明山たりとも五種の禁止木の制を立て、そのかわりに木租の上納は廃された。旧領主と人民との間に紛争の絶えなかった時代、人民がおもな山木に離れた時代である。それでもなお、五木以外の雑木と下草とは人民の自由で、切り畑焼き畑等の開墾もまた自由になし得た証拠は、諸村山論済口さんろんすみくちの古証文、旧尾州領主よりの公認を証すべき山地の古文書、一村また数村の公約と見るべき書類等に残っている。のみならず幕府恩賜の白木六千は追い追い切り換えの方法をもって代金二百三十一両三分銀十匁五分ずつ毎年谷中へ下げ渡されたことは、維新の際まで続いた。第三期は明治以来、木曾山の大部分は官有地と定められた時代、人民は明山の雑木と下草にも離れた時代である。半蔵らが享保以前の古に復したいとの最初の嘆願は、一部の禁止林を立て置かるるには異存がないから、その他の明山の開放をい、山地住民の義務を堅く約束して今一度山木と共にありたいとの趣意にほかならなかった。もっとも、多年人民の苦痛とする五木の禁止が何のためにあったのか。それほどまでにして尾州藩が木曾山を監視したのはどういう趣意にもとづいたのか。それが当時は十露盤そろばんずくで引き合う山でもなく、結局尾州家の財源にもならなかったとすれば、万一の用材に応ずる森林の保護のためにあったのか。それとも東山道中の特別な要害地域を守る封建組織のためにあったのか。あるいはまた、木曾川下流の大きな氾濫はんらんに備えるためにあったのか。そこまでは半蔵らも知るよしがなかった。

 明治の御世みよも、西南戦争あたりまでの十年間というものは半蔵には実に混沌こんとんとして暗かった。あれから社会の空気も一転し、これまで諸方に蜂起ほうきしつつあった種々さまざまな性質の暴動もしずまり、だれが言うともない標語は彼の耳にも聞こえて来るようになった。この国のものはもっと強くならねばならない、もっと富まねばならないというのがそれだ。言いかえれば、富国と強兵とだ。しかしよく見れば、地方の人心はまだまだ決して楽しんではいない。日ごろ半蔵らの慕い奉るみかどが新時代の前途を祝福して万民と共に出発したもうたころのことが、また彼の胸に浮かぶ。あの時に帝の誓われた五つのお言葉と、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよと宣せられたその庶民との間には、いつのまにかあめ磐戸いわとにたとえたいものができた。その磐戸は目にも見えず、説き明かすこともできないが、しかし深い草叢くさむらの中にあるものはそれを感ずることはできた。それあるがために日の光もあらわれず、大地もほほえまず、君と民とも交わることができなかった。どうして彼がそんな想像を胸に描いて見るかというに、あの東山道軍が江戸をさして街道を進んで来た維新のはじめの際、どんな社会の変革でも人民の支持なしにげられたためしのないように、新政府としては何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならないとして、東山道総督の執事がそのために幾度も布告を発し、堅く民意の尊重を約束したころは、そんな磐戸はまだ存在しなかったからであった。たまたまここに磐戸を開こうとしてあらわれて来た手力男たぢからおみことにたとえたいような人もあった。その人の徳望と威力とは天下衆人に卓絶するものとも言われた。けれども、磐屋の前の暗さに変わりはない。力だけでは磐戸も開かれなかったのだ。

 こんな想像は、飛騨の旅の思い出と共に帰って来る半蔵の夢でしかないが、それほど彼の心はまだ暗かった。幾多の欠陥の社会に伏在すればこそ、天賦人権の新説も頭を持ち上げ、ヨーロッパ人の中に生まれた自由の理も喧伝けんでんせられ、民約論のたぐいまで紹介せられて、福沢諭吉ふくざわゆきち板垣退助いたがきたいすけ、植木枝盛えもり、馬場辰猪たつい、中江篤介とくすけらの人たちが思い思いに、あるいは文明の急務を説き、あるいは民権の思想を鼓吹こすいし、あるいは国会開設の必要を唱うるに至った。真知なしには権利の説の是非も定めがたく、海の東西にある諸理想の区別をも見きわめがたい。ただただわけもなしに付和雷同する人たちの声は啓蒙けいもうの時にはまぬがれがたいことかもしれないが、それが郷里の山林事件にまで響いて来るので、半蔵なぞはハラハラした。物を教える人がめっきり多くなって、しかも学ぶに難い世の中になって来た。良心あるものはその声にきいて道をたどるのほかはなかったのである。

 この空気の中だ。今度木曾山を争おうとする人たちに言わせると、

「平田門人は復古を約束しながら、そんないにしえはどこにも帰って来ないではないか。」

 というにあるらしい。

 これには半蔵は返す言葉もない。復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあると言ったあの暮田正香くれたまさかの言葉なぞを思い出して彼は暗然とした。ともあれ、県庁あての請願書はすでに差し出されたが、その結果もおぼつかなかった。たとい木曾谷の山林事件そのものがどう推し移ろうとも、旧領主時代からの長い紛争の種がこのままにして置けるはずもないから、自分らの代にできなければ子の代に伝えても、なんらかの良い解決を見いだしたいと彼は切に願った。



 その年は木曾地方の人民にとって記念すべき年であった。帝には東山道の御巡幸を仰せ出され、木曾路の御通過は来たる六月下旬の若葉のころと定められたからであった。

 この御巡幸は、帝としては地方をめぐらせたもう最初の時でもなかったが、これまで信濃しなのの国の山々も親しくは叡覧えいらんのなかったのに、初めて木曾川の流るるのを御覧になったら、西南戦争当時なぞの御心労は言うまでもなく、時の難さにさまざまのことをおぼし召されるであろうと、まずそれが半蔵の胸に来る。あの山城やましろの皇居を海に近い武蔵むさしの東京にうつし、新しい都を建てられた当初の御志おんこころざしに変わりなく、従来深い玉簾ぎょくれんの内にのみこもらせられた旧習をも打ち破られ、帝自らかく国々に御幸みゆきしたまい、簡易軽便を本として万民を撫育ぶいくせられることは、彼にはありがたかった。封建君主のごときものと聞くヨーロッパの帝王が行なうところとは違って、この国の君道のゆかしさも彼にはおもい当たった。今度の御巡幸について地方官にさとされた趣意も、親しく地方の民情をしろし召されたいのであって、百般の事務が形容虚飾にわたっては聖旨にもとるから、厚く人民の迷惑にならないよう取り計らうことが肝要であると仰せられ、道路橋梁きょうりょう等のやむを得ない部分はあるいは補修を加うることがあろうとも、もとより官費に属すべきことで決して人民に難儀をかけまいぞと仰せられ、大臣以下供奉ぐぶの官員が旅宿はことさらに補修を加うるに及ばず、需要の物品もなるべく有り合わせを用いよと仰せ出されたほどであった。

 五月の来るころには、長野県の御用掛りが道路見分に奥筋から出張して来るようになった。馬籠の戸長役場のものはその人を村境まで案内し、絵図の仕立て方なぞを用意することになった。いよいよ御巡幸の御道筋も定まって見ると、馬籠駅御昼食とのことである。西筑摩ちくまの郡長、郡書記も出張して来て、行在所あんざいしょとなるべき家は馬籠では旧本陣青山方と指定された。これには半蔵はひどく恐縮し、御駐蹕ごちゅうひつを願いたいのは山々であるが、こんな山家にお迎えするのは恐れ多いとして、当主宗太を通して一応は御辞退するむね申し上げた。それにはわき本陣桝田屋ますだや方こそ、二代目惣右衛門そうえもんのような名古屋地方にまで知られた町人の残した家のあとであるから、今の住居すまいは先年の馬籠の大火に焼けかわったものであるにしても、まだしも屋造りに見どころがあるとも申し上げたが、やはり青山の家の方が古い歴史もあり、西にひらけた眺望ちょうぼうのある位置としても木曾にはめずらしく、座敷の外に見える遠近の山々も、ごちそうの一つということになった。半蔵としては、日ごろ慕い奉る帝が木曾路の御巡幸と聞くさえあるに、彼ら親子のものの住居すまいにお迎えすることができようなぞとは、まったく夢のようであった。

「お民、妻籠つまごの方でも皆目を回しているだろうね。寿平次さんの家じゃどうするか。」

「それがですよ。妻籠のお小休みは実蔵さん(得右衛門養子)の家ときまったそうですよ。」

「やっぱり、そうか。寿平次さんも御遠慮申し上げたと見える。」

 半蔵夫婦の言葉だ。

 そのうちに、御先発としての山岡鉄舟やまおかてっしゅうの一行も到着する。道路の修繕もはじまって、この地方では最初の電信線路建設の工事も施された。御膳水ごぜんすいは伏見屋二代目伊之助方の井戸を用うることに決定したなどと聞くにつけても、半蔵はあのき旧友を思い出し、もし自分が駅長なり里長なりとして在職していて先代伊之助もまだ達者たっしゃでいてくれたら、共に手を携えて率先奔走するであろうにと残念がった。亡き吉左衛門や金兵衛らと共にあの和宮様かずのみやさま御降嫁のおりの御通行を経験した彼は、あれほど街道の混雑を見ようとはもとより思わなかったが、それでも多数にお入り込みの場合を予想し、こんなことで人足や馬が足りようかと案じつづけた。

 六月二十四日はすでに上諏訪かみすわ御発輿ごはつよの電報の来るころである。その時になると、木曾谷山地の請願事件も、何もかも、この街道の空気の中にうずめ去られたようになった。帝行幸のおうわさがあるのみだった。

 この御巡幸の諸準備には、本県より出張した書記官や御用掛りの見分がある上に、御厩おうまや課、内匠たくみ課の人々も追い追い到着して、御道筋警衛の任に当たる警部や巡査の往来も日に日に多くなった。馬籠でも戸長をはじめとして、それぞれの御用取扱人というものを定めた。だれとだれは調度掛り、だれは御宿掛り、だれは人馬継立つぎたて掛り、だれは御厩掛り、だれは土木掛りというふうに。半蔵は宗太を通して、その役割をしるした帳面を見せてもらうと、旧宿役人の名はほとんどその中に出ている。戊辰ぼしんの際に宿役人に進んだ亀屋かめや栄吉をはじめ、旧問屋九郎兵衛、旧年寄役桝田屋小左衛門ますだやこざえもん、同役蓬莱屋ほうらいや新助、同じく梅屋五助、旧組頭くみがしら笹屋ささや庄助、旧五人組の重立った人々、それに年若ではあるがふるい家柄として伏見屋の二代目伊之助からその補助役清助の名まである。しかし、半蔵には何の沙汰さたもない。彼も今は隠居の身で、何かにつけてそう口出しもならなかった。ただ宗太が旧本陣の相続者として今度御奉公申し上げるのは、彼にはせめてものなぐさめであった。

 御巡幸に先立って、臣民はだれでも詩歌の類を献上することは差し許された。その詠進者は県下だけでもかなりの多数で、中には八十余歳の老人もあり、十一歳ぐらいの少年少女もあると聞こえた。半蔵もまたその中に加わって、心からなる奉祝のまことをわずかに左の一編の長歌に寄せた。

 八隅やすみししわが大君、かむながらおもほし召して、大八洲国おおやしまくに八十国やそくに、よりによりにめぐらし、いちじろき神のやしろに、ぬさまつりをろがみまし、御世御世のみおやの御陵みはか、きよまはりをろがみまして、西の海東の山路、かなたこなた巡りましつつ、あきらけくおさまる御世の、今年はも十あまり三とせ、瑞枝みずえさす若葉の夏に、ももしきの大宮人の、人さはに御供みともつかへて、ひんがしみやこをたたし、なまよみの甲斐かいの国、山梨やまなしあがたを過ぎて、信濃路しなのじに巡りいでまし、諏訪すわのうみを見渡したまひ、松本の深志ふかしの里に、大御輿おおみこしめぐらしたまひ、真木まき立つ木曾のみ山路、岩が根のこごしき道を、かしこくも越えいでますは、いにしえにたぐひもあらじ。

 谷川の川辺のいわお、かむさぶる木々の叢立むらだち、めづらしと見したまはむ、くすしともめでたまはむ。

 我里は木曾の谷の、名に負ふ神坂みさかの村の、さかしき里にはあれど、見霽みはらしのよろしき里、美濃の山近江おうみの山、はろばろに見えくる里、恵那えなの山近くそびえて、胆吹山いぶきやま髣髴ほのかにも見ゆ。

 ももしきの美濃にかさば、山をおり国きかれば、かくばかり遠くは見えじ。しかあらばここの御憩みいこひ、つねよりも長くいまさな。

 春ならば花さかましを、秋ならば紅葉もみじしてむを、花紅葉今は見がてに、常葉木とこわぎも冬木もなべて、緑なる時にしあれば、遠近おちこちたたなづく山、茂り合ふ八十樹やそき嫩葉わかば、あはれともしたまはな。

かしこくもわが大君、山深き岐岨きそにはあれど、ふたたびもいでましあらな。

あなたふと、わが大君、しまらくも長閑のどにいまして、見霽みはるかしませ。

    反歌

大君の御世とこしへによろづよも南の山と立ち重ねませ

夏山の若葉立ちくぐ霍公鳥ほととぎすなれもなのらな君が御幸みゆき

山のまの家居る民のやからまで御幸をろがむことのかしこさ



 御順路の日割によると、六月二十六日鳥居峠お野立のだて、藪原やぶはらおよびみやこしお小休み、木曾福島御一泊。二十七日かけはしお野立て、寝覚ねざめお小休み、三留野みどの御一泊。二十八日妻籠お小休み、峠お野立て、それから馬籠御昼食とある。帝が群臣を従えてこの辺鄙へんぴな山里をも歴訪せらるるすずしい光景は、街道を通して手に取るように伝わって来た。輦路れんろ嶮難けんなんなるところから木曾路は多く御板輿おんいたごしで、近衛このえ騎兵に前後をまもられ、供奉ぐぶの同勢の中には伏見二品宮にほんのみや徳大寺宮内卿とくだいじくないきょう、三条太政だじょう大臣、寺島山田らの参議、三浦陸軍中将、その他伊東岩佐らの侍医、池原文学御用掛りなぞの人々があると言わるる。福島の行在所あんざいしょにおいて木曾の産馬を御覧になったことなぞ聞き伝えて、その話を半蔵のところへ持って来るのは伏見屋の三郎と梅屋の益穂ますほとであった。この二人の少年は帰国後の半蔵について漢籍を学びはじめ「お師匠さま、お師匠さま」と言っては慕って来て、物心づく年ごろにも達しているので、何か奥筋の方から聞きつけたうわさでもあると、早速さっそく半蔵を見にやって来る。き伏見屋の金兵衛にでも言わせたら、それこそ前代未聞の今度の御巡幸には、以前に領主や奉行が通行の際にも人民の土下座したふるい慣例は廃せられ、すべて直礼のかたちに改めさせたというようなことまでが二少年の心を動かすに充分であった。

 いよいよ馬籠御通行という日が来ると、四、五百人からの人足が朝から詰めて御通輦ごつうれんを待ち受けた。半蔵は裏の井戸ばたで水垢離みずごりを執り、からだをきよめ終わって、神前にその日のことを告げた後、家の周囲を見て回ると、高さ一丈ばかりの木札に行在所としるしたのが門前に建ててあり、青竹のかきも清げにめぐらしてある。

 家内一同朝の食事を済ますころには、もう御用掛りの人たちが家へ入り込んで来た。お民は森夫や和助を呼んで羽織袴はおりはかまに着かえさせ、内膳ないぜん課の料理方へ渡す前にわざわざ西から取り寄せたという鮮魚のさらに載せたのを子供らにも取り出して見せた。季節がら食膳に上るものと言えば、石斑魚うぐいか、たなびらか、それに木ささげ、竹の子、菊豆腐のたぐいであるが、山家にいてはめずらしくもない河魚や新鮮な野菜よりもやはり遠くから来る海のものを差し上げたら、あるいは都の料理方にもよろこばれようかと彼女は考えたのである。

「御覧、これはサヨリというおさかなだよ。禁庭さまに差し上げるんだよ。」

 幼い和助なぞは半分夢のように母の言葉を聞いて、その心は国旗や提灯ちょうちんを掲げつらねた旧い宿場のにぎやかさや、神坂みさか村小学校生徒一同でお出迎えする村はずれの方へ行っていた。

 やがて青山の家のものは母屋もやの全部を御用掛りに明け渡すべき時が来た。往時、諸大名が通行のおりには、本陣ではそれらの人たちのために屋敷を用意し、部屋部屋を貸し与え、供の衆何十人前の膳部の用意をも忘れてはならないばかりでなく、家のものが直接に客人をもてなすことに多くの心づかいをしたもので、それでも供の衆には苦情は多く、弊害百出のありさまであったが、今度は人民に迷惑をかけまいとの御趣意から、ただ部屋部屋をお貸し申すだけで事は足りた。御膳水、御膳米の用意にも、それぞれ御用取扱人があった。半蔵は羽織袴で、準備のできた古い屋根の下をあちこちと見て回った。上段の間は、と見ると、そこは御便殿ごびんでんに当てるところで、純白な紙で四方を張り改め、床の間には相州三浦の山上家から贈られた光琳こうりん筆の記念の軸がかかった。御次ぎの奥の間は侍従室、仲の間は大臣参議の室というふうで、すべてくつでも歩まれるように畳の上には敷き物を敷きつめ、玉座、および見晴らしのある西向きの廊下、玄関などは宮内省よりお持ち越しの調度で鋪設ほせつすることにしてあった。どこを内廷課の人たちの部屋に、どこを供進所に、またどこを内膳課の調理場にと思う〈[#「思う」は底本では「思ふ」]〉と、ただただ半蔵は恐縮するばかり。そのうちにお民も改まった顔つきで来て、彼のそでを引きながら一緒に裏二階の方にこもるべき時の迫ったことを告げた。

 継母おまんをはじめ、よめのおまき、下男佐吉、下女お徳らはいずれも着物を改めて、すでに裏の土蔵の前あたりに集まっていた。そこは井戸の方へ通う細道をへだてて、斜めに裏二階と向かい合った位置にある。土蔵の前に茂るかきの若葉は今をさかりの生気を呼吸している。その時は、馬籠の村でも各戸供奉の客人を引き受ける茶のしたくにいそがしいころであったが、そういう中でもうるわしい龍顔を拝しに東の村はずれをさして出かけるものは多く、山口村からも飯田いいだ方面からも入り込んで来るものは街道の両側に群れ集まるころであった。しかし、青山の家のものとしては、とどこおりなく御昼食も済んだと聞くまでは、いつ何時なんどきどういう御用がないともかぎらなかったから、いずれも皆その裏二階に近い位置を離れられなかった。その辺から旧本陣の二つの裏木戸の方へかけては巡査も来て立って、静粛に屋後の警備についていた。

 過ぐる年、東京神田橋かんだばし外での献扇けんせん事件は思いがけないところで半蔵の身に響いて来た。千載一遇とも言うべきこの機会に、村のものはまたまた彼が強い衝動にでも駆られることを恐れるからであった。かつては憂国の過慮から献扇事件までひき起こし、一時は村でもとかくの評判が立った彼のことであるから、どんな粗忽そこつな挙動を繰り返さないものでもあるまいと、ただただわけもなしに気づかうものばかり。先代伊之助がくなったあとの馬籠では、その点にかけて彼の真意をくむものもない。村で読み書きのできるものはほとんど彼の弟子でしでないものはなく、これまで無知な子供を教え導こうとした彼の熱心を認めないものもなかったから、その人を軽く扱うではないが、しかしこの際の彼は静かに家族と共にいて、陰ながら奉迎の意を表してほしいというのが村のものの希望らしい。古い歴史のあるこの地方のことを供奉の人々にも説き明かすような役割は何一つ彼には振り当てられなかった。その相談もなければ、沙汰さたもない。彼は土蔵の前の石垣いしがきのそばに柿の花の落ちている方へ行って、ひとりですすり泣きの声をのむこともあった。

 恵那山のふもとのことで、もはやお着きを知らせるようなめずらしいラッパの音が遠くから谷の空気に響けて来た。当日一千人分の名物栗強飯くりこわめしをお買い上げになり、随輦ずいれんの臣下のものに賜わるしたくのできていたという峠でのお野立ての時もすでに済まされたらしい。半蔵はあの路傍のすぎの木立ちの多い街道を進んで来る御先導を想像し、山坂に響く近衛このえ騎兵の馬蹄ばていの音を想像し、美しい天皇旗を想像して、長途の旅の御無事を念じながらしばらくそこに立ち尽くした。


       六


 明治十四年の来るころには半蔵も五十一歳の声を聞いた。その年の四月には、青山の家では森夫と和助を東京の方へ送り出したので、にわかに家の内もさみしくなった。

 二人ふたりの子供は東京に遊学させる、木曾谷でも最も古い家族の一つに数えらるるところから「本陣の子供」と言って自然と村の人の敬うにつけてもとかく人目にあまることが多い、二人とも親の膝下ひざもとに置いては将来ろくなことがない、今のうちに先代吉左衛門が残した田畑や本陣林のうちをいて二人の教育費にあてる、幸い東京の方には今子供たちの姉の家がある、おくめはその夫植松弓夫ゆみおと共に木曾福島を出て東京京橋区鎗屋町やりやちょうというところに家を持っているからその方に二人の幼いものを託する、あのお粂ならきっと弟たちのめんどうを見てくれる、この半蔵の考えが宗太をよろこばせた。子供本位のお民もこれには異存がなく、彼女から離れて行く森夫や和助のために東京の方へ持たせてやる羽織を織り、帯を織った。継母のおまんはおまんで、孫たちが東京へ立つ前日の朝は裏二階から母屋もやの囲炉裏ばたへ通って来て、自分のぜんの前に二人ふたりを並べて置きながら、子供心にわかってもわからなくても青山の家の昔を懇々と語り聞かせた。ひょっとするとこれが孫たちの見納めにでもなるかのように、七十三歳の春を迎えたおまんはしきりに襦袢じゅばんそでで老いのまぶたをおしぬぐっていたが、いよいよ兄弟きょうだいの子供が東京への初旅に踏み出すという朝は涙も見せなかった。

 当時は旅もまだ容易でなかった。木曾の山の中から東京へ出るには、どうしても峠四つは越さねばならない。宗太も大奮発で、二人の弟の遊学には自ら進んで東京まで連れて行くと言い出したばかりでなく、隣家伏見屋二代目のすぐ下の弟に当たる二郎が目の治療のために同行したいというのをも一緒に引き受けて行った。

 子供ながらも二人の兄弟の動きは、そのあとにいろいろなものを残した。兄の森夫は、十三歳にもなってそんな頭をして行ったら東京へ出て笑われると言われ、宗太に手鋏てばさみでジョキジョキ髪を短くしてもらい、そのあとがすこしぐらい虎斑とらふになっても頓着とんちゃくなしに出かけるという子供だし、弟の和助も兄たちについて東京の方へ勉強に行かれることを何よりのよろこびにして、お河童頭かっぱあたまを振りながら勇んで踏み出すという子供だ。この弟の方はことに幼くて、街道を通る旅の商人からお民が買ってあてがったおもちゃのかばん金米糖こんぺいとうを入れ、それをさげるのを楽しみにして行ったほどの年ごろであった。小さなひものついた足袋たび。小さな草鞋わらじ。その幼いものの旅姿がまだ半蔵夫婦の目にある。下隣のお雪婆さんの家には、兄弟の子供が預けて置いて行ったショクノ(地方によりネッキともいう)が残っているというような話も聞こえて来る。

 初代伊之助を見送ったあとのお富ももはや若夫婦を相手の後家であるが、この人は東京行きの二郎を宗太に託してやった関係からも、風呂ふろなぞもらいながら隣家からかよって来て、よく青山の家に顔を見せる。お富が言うことには、

「そりゃ、まあ、かわいい子には旅をさせろということもありますがね、よくそれでもお民さんがあんなちいさなものを手離す気におなりなすった。なんですか、わたしはオヤゲナイ(いたいたしい)ような気がする。」

 囲炉裏ばたにはこんな話が尽きない。やれ竹馬だなんだかだと言って森夫や和助が家の周囲まわりを遊び戯れたのも、きのうのことになった。

「でも、妙なものですね。まだわたしは子供がそこいらに遊んでるような気がしますよ。塩の握飯むすびをくれとでも言って、今にも屋外そとから帰って来るような気がしますよ――わたしはあの塩の握飯の熱いやつを朴葉ほおばに包んで、よく子供にくれましたからね。」

 寄ると触るとお民はそのうわさだ。

「まだお前はそんなことを言ってるのかい。」

 口にこそ半蔵はそう答えたが、その実、この妻を笑えなかった。手離してやった子供はどこにでもいた。夕方にでもなると街道から遠く望まれる恵那山の裾野すそのの方によく火が燃えて、それが狐火きつねびだと村のものは言ったものだが、そんな街道に蝙蝠こうもりなぞの飛び回る空の下にも子供がいた。家の裏の木小屋の前から稲荷いなりほこらのある方へ通うところには古い池があって、石垣いしがきの間には雪の下が毎年のように可憐かれんな花をつけるところだが、そんなおとなでもちょっと背の立たないほど深いよどんだ水をたたえた池のほとりにも子供がいた。そればかりではない、子供は彼の部屋へや座蒲団ざぶとんの上にもいたし、彼のふところの中にもいた。彼のたもとの中にもいた。

「この野郎、この野郎。」

 と彼が言いかけて、いくら教えても本のきらいな森夫の耳のあたりへ、握りこぶしの一つもくらわせようとすると、いつのまにか本をかかえて逃げ出すような子供は彼の目の前にいた。

「オイ、蝋燭ろうそく、蝋燭。」

 と彼が注意でもしてやらなければ、たまに夜おそくまで紙をひろげ、燭台しょくだいを和助に持たせ、そのかげに和歌の一つも大きく書いて見ようとすると、蝋燭もろともそこへころげかかるほど眠がっているような子供は彼のすぐそばにもいた。

 山のものとも海のものともまだわからないような兄弟の子供の前途にも半蔵は多くの望みをかけた。彼は読み書きの好きな和助のために座右の銘ともなるべき格言を選び、心をこめた数よう短冊たんざくを書き、それを紙に包んで初旅のはなむけともした。

やよ和助読み書き数へいそしみて心静かに物学びせよ

 飛騨にいるころから半蔵はすでにこんな歌を作って子を思うこころを寄せていた。



 宗太は弟たちの旅の話を持って無事に東京から帰って来た。一行四人のものが、みさやま峠にかかった時は、さすが山歩きに慣れた子供の足も進みかねたと見え、峠で日が暮れかかったこともあったという。余儀なく彼は和助の帯に手ぬぐいを結びつけ、それで歩けない弟を引きあげたとか。追分おいわけまで行くと、そこにはもう東京行きの乗合馬車があった。彼も初めてその馬車に乗って見た。同乗の客の中にはやはり東京行きの四十格好の婦人もあったが、弟たちを引率した彼に同情して、和助を引き取り、菓子なぞを与えたりしたが、昼夜の旅に疲れた子供はその見知らぬ婦人のひざの上に眠ることもあった。馬車に揺られながら鶏の鳴き声を聞いて行って松井田まで出たころに消防夫梯子はしご乗りの試演にあった時は子供の夢を驚かした。上州じょうしゅうを過ぎ、烏川からすがわをも渡った。四月の日の光はいたるところの平野にみちあふれていた。馬車は東京万世橋まんせいばし広小路ひろこうじまで行って、馬丁が柳並み木のかげのところに馬をめたが、それがあの大都会の幼いものの目に映る最初の時であった。この道中に、彼は郷里から追分まで子供の足に歩かせ、それからはずっと木曾街道を通しの馬車であったが、それでも東京へはいるまでに七日かかった。植松夫婦は、名古屋生まれの鼻のたかいお婆さんや都育ちの男の子と共に、京橋鎗屋町やりやちょう住居すまいの方で宗太らを待ち受けていてくれたという。

 おまんをはじめ、半蔵夫婦、よめのおまきらは宗太のまわりを取りまいて、帰りみちにもまた追分までは乗合馬車で来たとめずらしそうに言う顔をながめながら、この子供らの旅の話を聞いた。下隣に住むお雪婆さんまでそれを聞きにやって来た。下男の佐吉と下女のお徳とが二人ふたりともそれを聞きのがすはずもない。お徳は和助のちいさい時分からあの子供を抱いたり背中にのせて子守唄こもりうたをきかせたりした長いなじみで、勝手の水仕事をするあかぎれの切れた手を出しては家のものの飯を盛ると、そればかりはあの子供にいやがられた仲だ。毎晩の囲炉裏ばたを夜業よなべの仕事場とする佐吉はまた、百姓らしい大きな手につばをつけてゴシゴシとわらいながら、たぬきの人を化かした話、はたけに出るむじなの話、おそろしい山犬の話、その他無邪気でおもしろい山の中のお伽噺とぎばなしから、畠の中に赤い舌をぶらさげているものは何なぞの謎々なぞなぞを語り聞かせることを楽しみにした子供の友だちだ。

「そう言えば、今度わたしは東京へ行って見て、姉さん(おくめ)のふとったには驚きましたよ。あの姉さんも、いい細君になりましたぜ。」

 宗太が思い出したように、そんな話を家のものにして聞かせると、

「ねえ、おっかさん、色の白い人が肥ったのも、わるかありませんね。」

 飯田いいだ育ちのおまきもお民のそばにいて言葉を添える。

 その晩、半蔵は子供らが上京の模様にやや心を安んじて、お民と共に例の店座敷でおそくまで話した。過ぐる一年ばかりは和助もその部屋へやには寝ないで、年老いた祖母と共に提灯ちょうちんつけて裏二階の方へ泊まりに行ったことを彼は思い出し、とにもかくにもその末の子までが都会へ遊学する時を迎えたことを思い出し、先代吉左衛門も彼の年になってはよくまくらもとへ古風な手さげのついた煙草盆たばこぼんを引きよせたことなぞを思い出して、お民と二人の寝物語にまで東京の方のうわさで持ち切った。

「お民、お粂が結婚してから、もう何年になろう。植松のお婆さんでおれは思い出した。あの人の連れ合い(植松菖助しょうすけ、木曾福島旧関所番)は、お前、維新間ぎわのごたごたの中でさ、よその家中衆から名古屋臭いとにらまれて、あの福島の祭りの晩にられた武士さ。世の中も暗かったね。さすがにあのお婆さんは尾州藩でも学問の指南役をする宮谷家から後妻に来たくらいの人だから、自分の旦那だんなの首を夜中に拾いに行って、木曾川の水でそれを洗って、風呂敷包ふろしきづつみにして持って帰ったという話がある。植松のお婆さんはそういう人だ。琴もひけば、歌の話もする。あの人をしゅうとめに持つんだから、お粂もなかなか気骨きぼねが折れようぜ。」

 半蔵夫婦のうわさが総領娘のことに落ちて行くころは、やがて夜も深かった。

「ホ、隣の人は返事しなくなった。きょうはお民もくたぶれたと見える。」

 と半蔵はひとり言って見て、枕もとの角行燈かくあんどんのかげにちょっと妻の寝顔をのぞいた。四十四歳まで彼と生涯をともにして来たこの気さくで働くことの好きな人は、夜の眠りまでなるがままに任せている。いつのまにか安らかな高いびきも聞こえて来る。その声が耳について、よけいに彼は目がさえた。

「酒。」

 そんなことを夜中に彼が言い出したところで、答える人もない。眠りがたいあまりに、彼は寝床からはい出して、手燭てしょくをとぼしながら囲炉裏ばたの勝手の方へ忍んだ。



 二合ばかりの酒、冷たくなった焼き味噌みそ、そんなものが勝手口の戸棚とだなに残ったのを半蔵はさがし出して、それを店座敷に持ち帰った。彼が火鉢ひばちだ炭取りだ鉄瓶てつびんだと妻の枕もとを歩き回るたびに、深夜の壁に映るひとりぼっちの影法師は一緒になって動いた。

 物を学ばせに子供を上京させたことから、半蔵はいろいろな心持ちを引き出されていた。お民が何も知らずにいる間に、彼は火鉢の火をおこしたり、鉄瓶をかけたりなぞしながら、そのことを考えた。つまり、それは彼自身に物を学びたいと思う心が熱いからであった。あの『勧学篇かんがくへん』などを子供に書いてくれて、和助が七つ八つのころから諳誦あんしょうさせたのも、その半蔵だ。学芸の思慕は彼の天性に近かった。それはまた親譲りと言ってもよかった。彼が平田入門を志した青年の日、父吉左衛門にその望みを打ち明けたところ、父は馬籠の本陣を継ぐべき彼が寝食も忘れるばかりに平田派の学問に心を傾けて行くのを案じながらも、

「お前の学問好きは、そこまで来たか。」

 と言って、結局彼の願いをいれてくれたというのも、やはり吉左衛門自身にその心があつかったからであった。かくも学ぶに難い時になって来て、何から何まで西洋の影響を受け、今日の形勢では西洋でなければ夜が明けないとまで言う人間が飛び出す世の中に立っては、彼とても何を自分の子供に学ばせ、自らもまた何を学ぼうと考えずにはいられなかった。どうして国学に心を寄せるほどのものが枕を高くして眠られる時ではないのだ。

 先師平田篤胤の遺著『しず岩屋いわや』をあの王滝の宿で読んだ日のことは、また彼の心に帰って来た。あれは文久三年四月のことで、彼が父の病をいのるための御嶽おんたけ参籠さんろうを思い立ち、弟子でし勝重かつしげをも伴い、あの山里の中の山里ともいうべきところに身を置いて、さびしくきこえて来る王滝川の夜の河音かわおとを耳にした時だった。先師と言えば、外国よりはいって来るものを異端邪説として蛇蝎だかつのように憎みきらった人のように普通に思われながら、「そもそもかく外国々とつくにぐによりよろづの事物ものごとの我が大御国おおみくにに参り来ることは、皇神すめらみかみたちの大御心おおみこころにて、その御神徳の広大なるゆえに、しきの選みなく、森羅万象しんらばんしょうのことごとく皇国すめらみくにに御引寄せあそばさるる趣をく考へわきまへて、外国とつくにより来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すもかしこきことなれども、これすなはち大神等おおみかみたち御心掟みこころおきてと思い奉られるでござる、」とあるような、あんな広い見方のしてあるのに、彼が心から驚いたのも『静の岩屋』を開いた時だった。先師はあの遺著の中で、天保てんぽう年代の昔に、すでに今日あることを予言している。こんなに欧米諸国の事物がはいって来て、この国のものの長い眠りを許さないというのも、これも測りがたい神の心であるやも知れなかった。

 言葉もまた重要な交通の機関である。かく万国交際の世の中になって、一切の学術、工芸、政治、教育から軍隊の組織まで西洋に学ばねばならないものの多いこの過渡時代に、まず外国の言葉を習得して、自由に彼と我との事情を通じうるものは、その知識があるだけでも今日の役者として立てられる。今や維新と言い、日進月歩の時と言って、国学にとどまる平田門人ごときはあだかも旧習を脱せざるもののように見なさるるのもやむを得なかった。ただ半蔵としては、たといこの過渡時代がどれほど長く続くとも、これまで大和言葉やまとことばのために戦って来た国学諸先輩の骨折りがこのまま水泡すいほうに帰するとは彼には考えられもしなかった。いつか先の方には再び国学の役に立つ時が来ると信じないかぎり、彼なぞの立つ瀬はなかったのであった。

 先師の書いたものによく引き合いに出る本居宣長の言葉にもいわく、

われにしたがひて物学ばむともがらも、わが後に、またよき考へのきたらむには、かならずわが説にななづみそ。わがあしきゆえを言ひて、よき考へをひろめよ。すべておのが人を教ふるは、道を明らかにせむとなれば、とにもかくにも道を明らかにせむぞ、吾を用ふるにはありける。道を思はで、いたづらに吾をとうとまんは、わが心にあらざるぞかし。」

 ここにいくらでも国学を新しくすることのできる後進の者のみちがある。物学びするほどのともがらは、そう師の説にのみ拘泥こうでいするなと教えてある。道を明らかにすることがすなわち師を用うることだとも教えてある。日に日に新しい道をさらに明らかにせねばならない。そして国学諸先輩の発見した新しいいにしえをさらに発見して行かねばならない。古を新しくすることは、半蔵らにとっては歴史を新しくすることであった。

 そこまで考えて行くうちに、鉄瓶てつびんの湯もちんちん音がして来た。その中に徳利とくりを差し入れて酒を暖めることもできるほどに沸き立って来た。冷たくなった焼き味噌もあぶり直せば、それでも夜の酒のさかなになった。やがて半蔵は好きなものにありついて、だれに遠慮もなく手酌てじゃくはいを重ねながら、また平田門人の生くべき道を思いつづけた。仮に、もしあの本居宣長のような人がこの明治の御代みよを歩まれるとしたら、かつてシナインドの思想をその砥石といしとせられたように、今また新しい「知識」としてこの国にはいって来た西洋思想をもその砥石として、さらに日本的なものをみがきあげられるであろう。深くも、柔らかくも、新しくもはいって行かれるあの宣長翁が学者としての素質としたら、洋学にはいって行くこともさほどの困難を感ぜられないであろう。おおよそ今の洋学者が説くところは、理に合うということである。あの宣長翁であったら、おそらく理を知り、理を忘れるところまで行って、言挙ことあげということもさらにない自然おのずからながらの古の道を一層明らかにされるであろう。

 思いつづけて行くと、半蔵は大きないわおのような堅いとびらに突き当たる。先師篤胤たりとも、西洋の方から起こって来た学風が物の理を考えきわめるのに賢いことは充分に認めていた。その先師があれほどの博学でも、ついに西洋の学風を受けいれることはできなかった。彼はそう深く学問にもはいれない。これは宣長翁のようなまことの学者らしい学者にして初めて成しうることで、先師ですらそこへ行くとはたして学問に適した素質の人であったかどうかは疑問になって来た。まして後輩の彼のようなものだ。彼は五十年の生涯と、努力と、不断の思慕とをもってしても、力にも及ばないこの堅い扉をどうすることもできない。

 彼が子弟の教育に余生を送ろうとしているのも、一つはこの生涯の無才無能を感づくからであった。彼は自分の生涯に成しげ得ないものをあげて、あとから歩いて来るものにその熱いさびしい思いを寄せたいと願った。それにしても、全国四千人を数えた平田篤胤没後の門人の中に、この時代の大波を乗り越えるものはあらわれないのか、と彼は嘆息した。所詮しょせん、復古は含蓄で、事物に働きかける実際の力にはならないと聞くのもつらく、ひとりで酒を飲めば飲むほど、かえって彼は寝られなかった。

〈[#改頁]〉


     第十四章


       一


 馬籠まごめにある青山のような旧家の屋台骨が揺るぎかけて来たことは、いつのまにか美濃みの落合おちあいの方まで知れて行った。その古さから言えば永禄えいろく天正てんしょう年代からの長い伝統と正しい系図とが残っていて、馬籠旧本陣と言えば美濃路にまで聞こえた家に、もはやささえきれないほどの強いあらしの襲って来たことが、同じ街道筋につながる峠の下へ知られずにいるはずもなかった。馬籠を木曾路の西のはずれとするなら、落合は美濃路の東の入り口に当たる。落合から馬籠までは、朝荷物をつけて国境くにざかい十曲峠じっきょくとうげを越して行く馬が茶漬ちゃづけまでにはもどって来るほどの距離にしかない。

 落合に住む稲葉屋いなばや勝重かつしげはすでに明治十七年の三月あたりからその事のあるのを知り、あの半蔵が跡目相続の宗太夫婦とも別居して、一小隠宅の方に移り住むようになった事情をもうすうす知っていた。勝重はかつて半蔵の内弟子うちでしとして馬籠旧本陣に三年の月日を送ったことを忘れない。明治十九年の春が来るころには、彼も四十歳に近い分別盛りの年ごろの人である。いよいよあの古い歴史のある青山の家も傾いて来て、没落の運命は避けがたいかもしれないということは、彼にとって他事ひとごととも思われなかった。実は彼は他の落合在住者とも語り合い、半蔵の世話になったものだけが集まって、なんらかの方法で師匠を慰めたいと、おりおりその相談もしていた時であった。これまで半蔵の教えを受けた人たちの中で一番末頼もしく思われていたものも勝重である。今は彼も父祖の家業を継いで醤油しょうゆ醸造に従事する美濃衆の一人であり、先代儀十郎まで落合の宿役人を勤めた関係からも何かにつけて村方の相談に引き出される多忙な身ではあるが、久しく見ない師匠のこともしきりに心にかかって、他に用事を兼ねながら、にわかに馬籠訪問を思い立った。家を出る時の彼は手にさげられるだけの酒を入れた細長いたるをもさげていた。かねて大酒のうわさのある師匠のために、陰ながら健康を案じ続けていた彼ではあるが、いざたずねて行こうとして、何か手土産てみやげをとさがす時になると、やっぱり良い酒を持って行って勧めたかった。これは落合の酒だが、馬籠の伏見屋あたりで造る酒と飲みくらべて見てもらいたいとでも言って、それをたしなむ半蔵のよろこぶ顔が見たいと思いながら彼は出かけた。勝重から見ると、元来本陣といい問屋といやといい庄屋しょうやといった人たちは祖先以来の習慣によって諸街道交通の要路に当たり、村民の上に立って地方自治の主脳の位置にもあり、もっぱら公共の事業に従って来たために、一家の経済を処理する上には欠点の多かったことは争われない。旧藩士族の人たちのためにはとにもかくにも救済の方法が立てられ、禄券ろくけんの恩典というものも定められたが、庄屋本陣問屋は何のうるところもない。明治維新の彼らを遇することは薄かった。今や庄屋の仕事は戸長役場に移り、問屋の仕事は中牛馬会社に変わって、ことに本陣をも兼ねた青山のような家があの往時の武家と公役とのためにあったような大きな屋敷の修繕にすら苦しむようになって来たことは当然の話であった。この際、半蔵の弟子でしとしては、傾いて行く青山の家運をどうすることもできないが、せめて師匠だけは、そのあわれな境涯きょうがいの中にも静かな晩年の日を送ってもらいたいと願うのであった。というのは、飛騨ひだの寂しい旅以来の半蔵の内部なかには精神にも肉体にも何かが起こっているに相違ないとは、もっぱら狭い土地での取りざたで、それが勝重の耳にもはいるからであった。

 四月上旬の美濃路ともちがい、馬籠峠の上へはまだ春の来ることもおそいような日の午後に、勝重は霜の溶けた道を踏んで行ったのであるが、半蔵の隠宅を訪ねることは彼にとってそれが初めての時でもない。そこはしずと名づけてある二階建ての小楼で、青山の本家からもすこし離れた馬籠の裏側の位置にある。落合方面から馬籠の町にはいるものは、旧本陣の門前まで出ないうちに街道を右に折れ曲がって行くと、共同の水槽すいそうの方からはしって来る細い流れの近くに、その静の屋を見いだすことができる。ちょうど半蔵も隠宅にある時で心ゆくばかり師匠の読書する声が二階から屋外そとまで聞こえて来ているところへ勝重は訪ねて行った。入り口の壁の外には張り物板も立てかけてあるが、お民のすがたは見えなかった。しばらく勝重はあががまちのところに腰掛けて、読書の声のやむまで待った。その間に彼は師匠が余生を送ろうとする栖家すみかの壁、柱なぞにも目をとめて見る時を持った。階下は一部屋と台所としかないような小楼であるが、木材には事を欠かない木曾の山の中のことで木口もがっしりしている上に、すでにほどのいい古びと落ちつきとができて、すべて簡素に住みなしてある。入り口の壁の内側には半蓑はんみののかかっているのも山家らしいようなところだ。やがて半蔵は驚いたように二階から降りて来て勝重を下座敷へ迎え入れた。半蔵ももはや以前のような総髪そうがみを捨てて髪も短かめに、さっぱりと刈っている人である。いつでも勝重が訪ねて来るたびに、同じ顔色と同じ表情とでいたためしのないのも半蔵である。ひどく青ざめた顔をしていることもあれば、また、逆上のぼせたようにあかい顔をしていることもある。その骨格のたくましいところは先代吉左衛門に似て、ひざの上に置いた手なぞの大きいことは、対坐たいざするたびに勝重の心を打つ。その日、半蔵はあいにく妻が本家の方へ手伝いに行っている留守の時であると言って見せ、手ずから茶などをいれてふるい弟子をもてなそうとした。そこへ勝重が落合からさげて来たものを取り出すと、半蔵は目をまるくして、

「ホウ、勝重さんは酒を下さるか。」

 まるで子供のようなよろこび方だ。そう言う半蔵の周囲には、継母はじめ、宗太夫妻から親戚しんせき一同まで、隠居は隠居らしく飲みたい酒もつつしめと言うものばかり。わざわざそれをさげて来て、日ごろのうれいを忘れよとでも言うような人は、昔を忘れない弟子のほかになかった。

「勝重さん、君の前ですが、この節吾家うちのものは皆で寄ってたかって、わたしに年を取らせるくふうばかりしていますよ。」

「そりゃ、お家の方がお師匠さまのためを思うからでしょうに。」

「しかし、勝重さん、こうしてわたしのように、日がな一日山にむかって黙っていますとね、半生の間のことがだんだん姿を見せて来ましてね、そう静かにばかりしてはいられませんよ。」

 半蔵は勝重から何よりのものを贈られたというふうに座を離れて、台所の方へその土産を置きに行ったが、やがてまたニヤニヤ笑いながら勝重のいるところへもどって来た。

 その静の屋に半蔵が二度目の春を迎えるころは、東京の平田鉄胤かねたね老先生ももはやとっくに故人であった。そればかりではない、彼は中津川の友人香蔵の死をも見送った。追い追いと旧知のくなって行くさびしさにつけても、彼は久しぶりの勝重をつかまえて、容易に放そうともしない。他に用事を兼ねて日ごろ無沙汰ぶさたのわびばかりに来たという勝重が師匠の顔を見るだけに満足し、落合の酒を置いて行くだけにも満足して、やがて気軽な調子で辞し去ろうとした時、半蔵はその人を屋外そとまで追いかけた。それほど彼は人なつかしくばかりあった。

 半蔵は勝重に言った。

「そう言えば、勝重さん、文久三年に君と二人ふたり御嶽参籠おんたけさんろうに出かけた時さ。あれは、ちょうど今時分じゃありませんか。でも、いい陽気になって来ましたね。この谷へも、うぐいすが来るようになりましたよ。」

 こんな声を聞いて勝重は師匠のそばから離れて行った。そして、ひとりになってから言った。

「どうして、お師匠さまはまだまだ年寄りの仲間じゃない。」


       二


 静の屋は別に観山楼とも名づけてある。晴れにもよく雨にもよい恵那山えなさんに連なり続く山々、古代の旅人が越えて行ったという御坂みさかの峠などは東南にそびえて、山の静かさを愛するほどのものは楼にいながらでもそのながめに親しむことができる。緩慢なだらかではあるが、しかし深い谷が楼のすぐ前にひらけていて、半蔵はそこいらを歩き回るには事を欠かなかった。清い水草の目を楽しませるものは行く先にある。日あたりのよい田圃たんぼわきの土手は谷間のいたるところに彼を待っている。その谷底まで下って行けば、土地の人にしか知られていない下坂川おりさかがわのような谿流けいりゅうが馬籠の男垂山おたるやま方面から音を立てて流れて来ている。さらにすこし遠く行こうとさえ思えば、谷の向こうにある林の中の深さにはいって見ることもでき、あるいは山かげを耕して住む懇意な百姓の一軒家まで歩いてそこに時を送って来ることもできる。もういい加減に、枯れてもいい年ごろだと言われる半蔵が生涯しょうがいの奥に見つけたのは、こんな位置にあるところだ。一方は馬籠裏側の細い流れに接して、そこへはなべを洗いに来る村の女もある。鶏の声も遠く近く聞こえて来ている。

 もし半蔵があの落合の勝重の言うように余生の送れる人であったら、いかに彼はこの閑居を楽しんだであろう。本家の方のことはもはや彼には言うにも忍びなかった。しかし隠居の身として口出しもならない。世にいうぎょしょうこうぼくの四隠のうち、彼のはそのいずれでもない。老い衰えて安楽に隠れむつもりのない彼は、寂しく、悲しく、血のわく思いで、ただただ黙然とおのれら一族の運命に対していた。これがついの栖家すみかか、と考えて、あたりを見回すたびに、彼は無量の感慨に打たれずにはいられなかった――たとい、お民のような多年連れ添う妻がそばにいて、共に余生を送るとしても。なんと言ってもふるい馬籠の宿場の跡には彼の少年時代からの記憶が残っている。夕方にでもなると、彼は街道に出て往来ゆききの人にまじりたいと思うような時を迎えることが多かった。

 ある日の午後、彼は突然な狂気にとらえられた。まっしぐらに馬籠の裏道を東の村はずれの岩田というところまで走って行って、そこに水車小屋を営む遠縁のものの家へ寄った。すずりを出させ、墨をらせた。紙をひろげて自作の和歌一首を大きく書いて見た。そしてよろこんだ。その彼の姿は、自分ながらも笑止と言うべきであった。そこからまた同じ裏道づたいに、共同の水槽すいそうのところに集まる水くみの女どもには、目もくれずに、急いで隠宅へ引き返して来た。

「まあ、きょうはどうなすったか。」

 とお民はあきれた。

 半蔵に言わせると、彼も不具ではない。不具でない以上、時にはこうした狂気も許さるべきであると。

「これがお前、生きているしるしなのさ。」

 半蔵の言い草だ。

 梅から山ざくら、山ざくらから紫つつじと、春を急ぐ木曾路きそじの季節もあわただしい。静の屋の周囲にある雑木なぞが遠い谷々の草木と呼吸を合わせるように芽を吹きはじめると、日の色からしてなんとなく違って来るさわやかな明るさが一層半蔵の目には悩ましく映った。彼は二部屋ある二階の六畳の方に古いきりの机を置いて、青年時代から書きためた自作の『まつ』、それに飛騨ひだ時代以来の『常葉集とこわしゅう』なぞの整理を思い立った時であるが、それらの歌稿を書き改めているうちに、自分の生涯に成しげ得ないもののいかに多いかにつくづくおもいいたった。傾きかけた青山の家の運命を見まもるにつけても、いつのまにか彼の心は五人の子の方へ行った。それぞれの道をたどりはじめている五人の姉弟きょうだいのことは絶えず彼の心にかかっていたからで。



 姉娘のおくめがその旦那だんなと連れだって馬籠へたずねて来たのは、あれは半蔵らのまだ本家の方に暮らしていた明治十六年の夏に当たる。ちょうどお粂夫婦は東京の京橋区鎗屋町やりやちょうの方にあった世帯しょたいたたみ、半蔵から預かった二人ふたりの弟たちをも東京に残して置いて、一家をあげて郷里の方へ引き揚げて来たころのことであったが、夫婦の間に生まれた二番目の女の子を供の男に背負おぶわせながら妻籠つまごの方から着いた。お粂は旦那と同年で、年齢の相違したものが知らないような心づかいからか、二十八の年ごろの細君にしては彼女はいくらか若造りに見えた。でも、お粂はお粂らしく、瀟洒こざっぱりとした感じを失ってはいなかった。たまの里帰りらしい手土産てみやげをそこへ取り出すにも、祖母のおまんをはじめ宗太夫婦に話しかけるにも、彼女は都会生活の間に慣れて来た言葉づかいと郷里のなまりとをほどよくまぜてそれをした。背は高く、面長おもながで、風采ふうさいの立派なことは先代菖助しょうすけに似、起居振舞たちいふるまいゆるやかな感じのする働き盛りの人が半蔵らの前に来てくつろいだ。その人がお粂の旦那だ。その青年時代には同郷の学友から木曾谷第一の才子として許された植松弓夫だ。

 弓夫は半蔵のことを呼ぶにも、「おとっさん」と言い、義理ある弟へ話しかけるにも「宗太君、宗太君」と言って、地方のことが話頭はなしに上れば長崎まで英語を修めに行ったずっと年少としわかなころの話もするし、名古屋で創立当時の師範学校に学んだころの話もする。弓夫は早く志を立てて郷里の家を飛び出し、都会に運命を開拓しようとしたものの一人ひとりであった。これは先代菖助が横死の刺激によることも、その家出の原因の一つであったであろう。弓夫は何もかも早かった。郷党に先んじて文明開化の空気を呼吸することも早かった。年若な訓導として東京の小学校に教えたこともあり、大蔵省の収税吏として官員生活を送ったこともあり、政治に興味を持って改進党に加盟したこともあり、民間に下ってからは植松家伝の処方によって謹製する薬を郷里より取り寄せ、その取次販売のみちをひろげることを思い立ち、一時は東京いけはた守田宝丹もりたほうたんにも対抗するほどの意気込みで、みごとな薬の看板まで造らせたが、結局それも士族の商法に終わり、郷里をさして引き揚げて来ることもまた早かった。かつては木曾福島山村氏の家中の武士として関所を預かるおもな給人であり砲術の指南役ででもあった先代菖助がのこして置いて行った大きな屋敷と、家伝製薬の業とは、郷里の方にその彼を待っていた。しかし、そこに長い留守居を預かって来た士族出の大番頭たちは彼がいきなりの帰参をがえんじない。毎年福島に立つ毛付け(馬市)のために用意する製薬の心づかいは言うまでもなく、西は美濃みの尾張おわりから北は越後えちご辺まで行商に出て、数十里の路を往復することもいとわずに、植松の薬というものをまもって来たのもその大番頭たちであった。文明開化の今日、武家の内職として先祖の始めた時勢おくれの製薬なぞが明日の役に立とうかと言い、もっと気のきいたことをやって見せると言って家を飛び出して行った弓夫にも、とうとう辛抱強い薬方くすりかたの前にかぶとを脱ぐ時がやって来た。その帰参のかなうまで、当時妻籠の方に家を借りて、そこから吾妻村あずまむら小学校へ教えにかよっているというのも弓夫だ。

「やっぱり先祖の仕事は根深い。」

 とは、弓夫が高い声を出して笑いながらの述懐だ。

 旧本陣奥の間の風通しのよいところに横になって連れて来た女の子に乳房ちぶさをふくませることも、先年東山道御巡幸のおりには馬籠行在所あんざいしょ御便殿ごびんでんにまで当てられた記念の上段の間の方まで母のお民と共に見て回ることも、お粂には久しぶりで味わう生家さとの気安さでないものはなかったようである。東京の方にお粂夫婦が残して置いて来たという二人の弟たちのことは半蔵もお民も聞きたくていた。弓夫らの話によると、半蔵の預けた子供は二人ともあの京橋鎗屋町の家から数寄屋橋すきやばしわきの小学校へ通わせて見たが、兄の森夫の方は学問もそう好きでないらしいところから、いっそ商業で身を立てろと勧めて見たところ、当人もその気になり、日本橋本町の紙問屋に奉公する道が開けて来たのも、かえってあの子の将来のためであろうという。弟の和助の方は、と言うと、これは引き続き学校へ通わせるかたわら、弓夫みずから『詩経』の素読そどくをも授けて来た。幸い美濃岩村の旧藩士で、鎗屋町の跡に碁会所を開きたいという多芸多才な日向照之進ひゅうがてるのしんは弓夫が遠縁のものに当たるから、和助はその日向の家族の手に託して置いて来たともいう。

「和助は学問の好きなやつだで。あれはおれの子だで。」

 と半蔵が弓夫らに言ったのもその時だった。

 弓夫は一晩しか馬籠に泊まらなかった。家内と乳呑児ちのみごとを置いて一足ひとあし先に妻籠の方へ帰って行った。そのあとには一層半蔵やお民のそばへ近く来るお粂が残った。お粂は義理ある妹のおまきにも古疵ふるきずあとを見られるのを気にしてか、すずしそうな単衣ひとえの下に重ねている半襟はんえりをかき合わせることを忘れないような女だ。でも娘時分とは大違いに、からだからしてしまって来た。さばけた快活な声を出して笑うようにもなった。彼女は物に興じるたちで、たまの里帰りの間にもお槇のために髪を直してやったり、お民が家のものを呼び集めて季節がらの真桑瓜まくわうりでも切ろうと言えば皆まで母親には切らせずに自分でも庖丁ほうちょうを執って見たりして、東京の方で一年ばかりも弟和助の世話をした時のことなぞをそこへ語り出す。あの山家やまが育ちの小学生も生まれて初めて東京魚河岸うおがしの鮮魚を味わい、これがオサシミだとお粂に言われた〈[#「言われた」は底本では「言はれた」となっている]〉時は目をまるくして、やっぱり馬籠の家の囲炉裏ばたで食い慣れた塩辛いさんまやいわしの方が口に合うような顔つきでいたが、その和助がいつのまにか都の空気に慣れ、「君、僕」などという言葉を使うようになったという。遠く修業に出した子供のうわさとなると、半蔵もお民も飽きなかった。もっともっと聞きたかった。よく見ればお粂はそういう調子で母親のそばに笑いころげてばかりいるでもない。自分の女の子を抱いて庭でも見せに奥の廊下を歩いている時の彼女はまるで別人のようであった。彼女は若い日のことを思い出したように、そんなところにいつまでも隠れて、娘時代の記憶のある草木の深い坪庭をながめていたから、思わずもらす低い声がなかったら、半蔵なぞはそこに人があるとも気づかなかったくらいだった。その晩、彼女は両親のそばに寝て話したいと言うから、店座敷の狭いところに三人まくらを並べたが、おそくまで母親に話しかける彼女の声は尽きることを知らないかのよう。半蔵が一眠りして、目をさますと、ぼそ/\ぼそ/\語り合う女の声がまだ隣から聞こえていた。

 お粂のいう「寝てからでなければ話せない話」を通して、半蔵が自分の娘の身の上を知るようになったのも、そんな明けやすい夏の一夜からであった。もしお粂が旦那の酒の相手でもしてうたの一つも歌うような女であったらとは、彼女自身の小さな胸の中によく思い浮かべることであるとか。旦那は植松のような家に生まれながら、どうしてそんなひそかな戯れ事の秘密を知ったろうと思われるほどの人で、そのお粂の驚きは彼女がささげようとする身を無慙むざんにも踏みにじるようなものであり、ただ旦那が情にもろいとかなんとかの言葉で片づけてしまえないものであったという。しかし彼女はそのために旦那一人ひとりを責められなかった。旦那の友だちは皆、当時流行の猟虎らっこの帽子をかぶり、ぶりのよい官員や実業家と肩をならべて、権妻ごんさいでもたくわえることを男の見栄みえのように競い合う人たちだからであった。東京の方に暮らした間、旦那はよく名高い作者の手に成った政治小説や柳橋新誌りゅうきょうしんしなどを懐中ふところにして、恋しい風の吹く柳橋やなぎばしの方へと足を向けた。しまいにはお粂はそれを旦那の病気とさえ考えるようになった。あだかも夏の夜のをめがけて飛ぶ虫のように、たのしみを追うことに打ちこむ旦那のたましいの前には、なにものもそれをさえぎる力はなかった。旦那も金につまった時は、お粂の着物を質屋に預けさせてまでそれをやめなかった。彼女はやかましいしゅうとめには内証で、旦那があるなじみの芸者に生ませた子の始末をしたこともある。その時になってもまだ彼女は男というものを信じ、その誠実を信じ、やさしい言葉の一つも旦那からかけられれば昨日までのことは忘れて、またながい遠い夫を心あてに尽くす気になった。ひとりのねやに夜ふけて目をさますおりおりなぞは、彼女は枕の上で旦那の物に誘われやすい気質を考えて、それを旦那の情のもろさというよりも、むしろ少年時代に早く生みの母親に死に別れたというその気の毒ない立ちにまで持って行って見ることもある。今の姑は武家育ちの教養に欠けたところのないような婦人で、琴もひけば、うたいもうたい、歌の話もするが、なにしろ尾州藩の宮谷家から先代菖助の後妻に来た鼻のたかい人で、その厳格さがかえって旦那を放縦ほしいままな世界へと追いやったかとおもって見ることもある。あるいはまた、妻としての彼女にもないものは、その旦那が生みの母親のふところかともおもって見ることもある。この世に一人しかない生みの母親のうつくしいおもかげに立つものが、びを売る水商売の人たちの中なぞに見いだされようか。そんなことは、考えて見ただけでもばからしいことであった。けれども旦那の前で煙草たばこをふかして見せる手つきのよかったというだけでも、旦那はもうそれらの女の方へ心を誘われて行くようである。一家をあげて東京から郷里へ引き揚げて来てからも、茶屋酒の味の忘れられないその旦那に変わりはない。ふつつかな彼女のようなものでも旦那の妻に選ばれ、植松の家のやれるものは彼女のほかにないとまで言ってくれた薬方くすりかたの大番頭が意気にも感じ、これまで祖母や両親にさんざん心配をかけたことをも考えて、せめて父半蔵の娘として生きがいある結婚生活をと心がけながらとついで行ったお粂ではあるが、その彼女が踏み出して見た知らない世界は娘時代に深い窓で思ったようなものではなかった。なぜかなら、彼女の新生涯というものは、旦那と彼女とだけの二人きりの世界に限られたものではなくて、実に幾千万の人の生きもし死にもする広い世の中につながっているからであった。彼女はし方行く末を考えて、ひとりでさんざんいたこともある。そのたびに彼女の心は幼いものの方へ帰って行った。今の彼女には、旦那との間に生まれた二人の愛児をよく守り育てて、せめて自分の子供らには旦那の弱いところに似ない生涯を開かせたいと願うより他の念慮も持たないという。旦那もよい人には相違なく、彼女にもやさしく、どこへ出してもはずかしくない器量に生まれ、木曾ぶしの一つも歌わせたらそれはすずしい声の持ち主で、あの病気さえなかったらと、ただただそれを旦那のために気の毒に思うともいう。

「お民、お粂はまだ二十八じゃないか。今からそんなことで、どうなろう。」

 妻籠をさして帰って行く娘のうしろ姿を見送った後、半蔵はそれをお民に言って見た。お民も同じ思いで、その時、彼に言った。

「ほんとに、おとっさん(半蔵)にそっくりなような娘ができてしまいました。あれのすることは、あなたに似てますよ。」



 長男の宗太がいよいよ青山の家を整理しなければいけないと言い出したのも、その翌年(明治十七年)三月のことである。例の飛騨ひだ行き以来、半蔵は家政一切を宗太に任せ、平素くわしいことも知らない隠居の身であったが、それから十年の後になって見ると、青山の家にできた大借は元利がんりおよそ三千六百円ばかりの惣高そうだかに上った。ついては、所有の耕地、宅地、山林、家財の大部分を売り払ってそれぞれ弁償すると言い出したのも宗太であった。

 実に急激に青山のような旧家の傾きかけて行ったのもその時からである。いろいろなことが起こって来た。旧本陣の母屋もや、土蔵を添えて、小島拙斎せっさいという医者に月二円半の屋賃で貸し渡すという相談も起こって来た。家族のものは継母おまんをはじめ、宗太夫婦は裏二階に住み込み、野菜畑作りのために下男の佐吉一人を残して、下女お徳に暇を出すという相談も起こって来た。半蔵夫婦は隠宅の方に別居させるということもまたその時に起こって来た。青山所有の田畑屋敷地なぞを手放す相談も引き続きはじまった。井の平畠は桝田屋ますだやへ、寺の上畠は伏見屋へ、陣場掲示場跡は戸長役場へというふうに。従来吉左衛門時代からの慣習として本陣所有の土地は、他の金利を見るような地主とは比較にもならないほどゆるやかな年貢ねんぐを米で受け取ることになっていたが、どこの裏畠とか、どこの割畠とか、あるいはどこの屋敷地とかも、借財仕法立しほうだてのためにそれぞれ安く百姓たちに買ってもらうという話も始まった。そればかりでなく、馬籠旧本陣をこんな状態に導いたものは年来国事その他公共の事業にのみ奔走して家を顧みない半蔵であるとの非難さえ、家の内にも外にも起こって来た。これには半蔵は驚いてしまった。

 宗太は、妻籠の正己まさみ(寿平次養子、半蔵の次男)および親戚しんせき旧知のものを保証人に立てて、父子別居についての一通の誓約書の草稿なるものを半蔵の前に持ち出した時のことであった。宗太が相談役と頼む栄吉、清助とも合議の上の立案である。それには今後家政上の重大な事について父に異見のある時は親戚からそれを承ろう、父子各自の身上しんしょうについてはすべてかれこれと互いに異議をいれずに適宜に処置するであろう、神葬墓地の修繕を怠るまじきことはもとより庭園にある記念の古松等はみだりに伐採しないであろう、衣食住の三は寒暑に応じ適当の調進を欠くまいしかつ雑費として毎月一円ずつ必ず差し上げるであろうともしてある。これは必ずしも宗太の意志から出たことではなく、むしろその周囲にいていろいろと助言をしたがる親戚のために動かされた結果であるとしても、しかし半蔵はこんな誓約書の草稿を持ち出されたことすら水臭く思って、母屋もやくつろぎのの方へ行って見た。宗太もおまきもいた。見ると、その部屋へやの古い床の間には青光りのする美しい孔雀くじゃくの羽なぞが飾ってある。それは家政を改革して維持の方法でも立てようとする宗太にはふさわしからぬほどのむなしい飾りと半蔵には思われた。塩と砂糖とあいよりほかになるべく物を買わない方針を執って来た自給自足の生活の中で、三千六百円もの大借がどうしてできたろうと思い、先代吉左衛門から譲られた記念の屋敷もどうなって行こうと思って、もしこの家政維持の方法が一歩をあやまるならせっかく東京まで修業に出した子供にも苦学させねばなるまいと思うと、かずかずの残念なことが一緒になって半蔵の胸にさし迫った。もともと青山の家督を跡目相続の宗太に早く譲らせたのも継母おまんの英断に出たことであるが、こんな結果を招いて見ると、義理ある子の半蔵よりも孫の宗太のかわいいおまんまでが、これには一言もない。

「先祖に対しても何の面目がある。」

 言おうとして、それを言い得ない半蔵は、顔色も青ざめながら、前後を顧みるいとまもなく腰にした扇子を執って、父の前に手をついた宗太を打ち励まそうとした。あわてて囲炉裏ばたからそこへ飛んで来たのはお民だ。先祖のむちを意味するその半蔵が扇子は宗太に当たらないで、身をもって子をかばおうとするお民の眉間みけんを打った。

「お前たちは、なんでもおれがむやみと金をつかいからかすようなことを言う。ない、ないと言ったって、おれが宗太にこの家を譲る時には、七十俵の米ははいったはずだ。みんなくしてしまうのはだれだ。たわけめ。」

 かつて宗太を責めたことのない半蔵も、その時ばかりは癇癪かんしゃくを破裂させてしまった。ひらめき発する金色な物のかたちはとらえがたい火花のように、その彼の目の前に入り乱れた。

 どうしたはずみからか、と言って見ることもできなかったが、留め役にはいったお民のさしている細い銀のかんざしが飛んで、彼女が左のまゆの下を傷つけたのもその際である。彼女の顔からは血が流れた。何かの消えないしるしのように、小さなあざのような黒い斑点はんてんが彼女の顔に残ったのも、またその際である。やがて宗太の部屋を出てからも、半蔵が興奮は容易にやまなかった。彼は自分ながら、自分とも思われないような声の出たのにもあきれた。そういう一時の憤りや悲しみの沈まって行く時を迎えて見ると、彼は子ばかりをそう責められない。十八歳の若者でしかなかった宗太に跡目相続させたほどの、古い青山の家には用のないような人間であったその彼自身のつたなさ、愚かさを責めねばならない。彼は妻の前に手をついて、あやまって彼女を傷つけたことのわびを言い、自分で自分の性質をじなければならないようなことも起こって来た。

 父子別居の話が追い追いと具体化して来ると、一層隠居のわびしさが半蔵の身にしみた。親戚旧知一同の協議の上、彼の方から宗太あてに差し出すべき誓約書とは、次のような文面のものである。それもまた栄吉や清助の立案によるものである。

    誓約書
一、今回大借につき家政改革、永遠維持の方法を設くるについては、左の件々を確守すべき事。
一、家法改革につき隠宅に居住いたすべき事。
一、衣食住のほか、毎月金一円ずつ小使金として相渡さるべき事。
一、隠宅居住の上は、本家家務上につき万事決して助言等申すまじき事。そのもとの存念よりづる儀につき、かれこれ異議なきはもちろんの事。
一、隠宅居住の上は、他より金銭借り入れ本家に迷惑相かけそうろうようの儀、決していたすまじき事。
一、家のために親戚のいさめを用い我意を主張すべからざる事。
一、飲酒五勺に限る事。

 右親族決議によって我ら隠宅へ居住の上は前記の件々を確守し、後日に至り異議あるまじく候なり

本人

   明治十七年三月三日

半蔵
保証人
正己
省三
栄吉
又三郎
清助
小左衛門
伊之助
新助
庄助

     宗太殿

「お民、これじゃ手も足も出ないじゃないか。酒は五勺以上飲むな、本家への助言もするな、入り用な金も決してよそから借りるなということになって来た。おれも、どうして年を取ろう。」

 半蔵が妻に言って見せたのも、その時である。



 次男正己は妻籠の養家先からたずねて来て、木曾谷山林事件の大長咄おおながばなしを半蔵のもとに置いて行ったことがある。正己の政治熱はお粂のおっと弓夫とおッつ、かッつで、弓夫が改進党びいきならこれは自由党びいきであり、二十四歳の身空みそらで正己が日義村ひよしむら河合定義かわいさだよしと語らい合わせ山林事件なぞを買って出たのも、その志士もどきの熱情にもとづく。もとよりこの事件は半蔵が生涯の中のある一時期を画したほどであるから、その素志を継続してくれる子があるなら、彼とても心からよろこばないはずはなかった。ただ正己らが地方人民を代表する戸長の位置にあるでもないのに、木曾谷十六か村(旧三十三か村)の総代としてったことには、まずすくなからぬ懸念けねんを誘われた。

 長男の宗太も次男の正己も共に若い男ざかりで、気を負うところは似ていた、公共の事業に尽力しようとするところも似ていた。宗太の方は、もしその性格の弱さを除いたら、すなわち温和勤勉であるが、それに比べると正己は何事にも手強く手強くと出る方で、争い戦う心にみち、てきぱきしたことをよろこび、長兄のやり方なぞはとかく手ぬるいとした。この正己が山林事件に関係し始めたのは、第二回目の人民の請願も「書面の趣、聞き届けがたく候事」として、山林局木曾出張所から却下されたと聞いた明治十四年七月のころからである。そこで正己は日義村の河合定義と共に、当時の農商務卿西郷従道さいごうつぐみちあてに今一度この事件を提出することを思い立ち、「木曾谷山地官民有区別の儀につき嘆願書」なるものをふところにして、最初に上京したのは明治十五年の九月であった。

 正己らが用意して行ったその第三回目の嘆願書も、趣意は以前と大同小異で、要するに木曾谷山地の大部分を官有地と改められては人民の生活も立ち行きかねるから従来明山あきやまの分は人民に下げ渡されたいとの意味にほかならない。もっとも第二回目に十六か村の戸長らが連署してこの事件を持ち出した時は、あだかも全国に沸騰する自由民権の議論の最高潮に達したころであるから、したがって木曾谷人民の総代らも「民有の権」ということを強調したものであったが、今度はそれを言い立てずに、わざわざ「権利のいかんにかかわらず」と書き添えた言葉も目立った。なお、いったん官有地として処分済みの山林も古来の証跡にかんがみ、人民の声にもきいて、さらに民有地に引き直された場合は他地方にも聞き及ぶむねを申し立て、その例として飛騨国、大野、吉城よしき益田ましだの三郡共有地、および美濃国は恵那えな郡、付知つけち、川上、加子母かしもの三か村が山地の方のことをも引き合いに出したものであった。農商務省まで持ち出して見た今度の嘆願も、結局は聞き届けられなかった。正己らは当局者の説諭を受けてむなしく引き下がって来た。その理由とするところは、以前の筑摩ちくま県時代に権中属ごんちゅうぞくとしての本山盛徳が行なった失政は政府当局者もそれを認めないではないが、なにぶんにも旧尾州領時代からの長い紛争の続いた木曾山であり、全山三十八万町歩にもわたる名高い大森林地帯をいかに処分すべきかについては、実は政府においてもその方針を定めかねているところであるという。

 正己は言葉を改めて心機の一転を半蔵の前に語り出したのもその時であった。彼はこれまで人民が執り来たった請願の方法のむだであることを知って来たという。木曾山林支局を主管する官吏は衷心においてはあの本山盛徳が定めたような山林規則の過酷なのを知り、人民の盗伐にも苦しみ、前途百年の計を立てたいと欲しているが、ただ自分らを一平民に過ぎないとし、不平の徒として軽んじているのである。これは不信にもとづくことであろうから、よろしく適当な縁故を求めて彼らと友誼ゆうぎを結び、それと親通するのが第一である。彼はそう考えて来たが、当時朝鮮方面に大いに風雲の動きつつあることを聞いて、有志のものと共にかの地に渡ることを約束し、遠からず郷里を辞するはずであるという。この朝鮮行きには彼はどれほどの年月を費やすとも言いがたいが、いずれ帰国の上はまた山林事件を取りあげて、新規な方針で素志を貫きたいとの願いであるとか。

 半蔵には正己の言うことが一層気にかかって来た。

「まあ、こういう事はとかく横道へそれたがりがちだ。これから先、どういう方針になって行こうと、山林事件の出発を忘れないようにしてくれ。おれがお前に言って置くことは、ただそれだけだ。」

 それぎり半蔵は山林事件について口をつぐんでしまった。彼が王滝の戸長遠山五平らと共に出発した最初の単純な心から言えば、水と魚との深い関係にある木曾谷の山林と住民の生活は決して引き放しては考えられないものであった。郡県政治の始まった際に、新しい木曾谷の統治者として来た本山盛徳は深くこの山地に注目することもなく、地方発達のあとを尋ねることもなく、容易に一本の筆先で数百年にもわたる慣習を破り去り、ただただ旧尾州領の山地を官有にする功名の一方にのみ心を向けて、山林と住民の生活とを切り離してしまった。まことの林政と申すものは、この二つを結びつけて行くところにあろうとの半蔵の意見からも、よりよい世の中を約束する明治維新の改革の趣意が徹底したものとは言いがたく、谷の前途はまだまだ暗かった。



 三男の森夫と四男の和助が東京でった写真は、時をおいて、二枚ばかり半蔵の手にはいったこともある。遠く都会へ修業に出してやった子供たちのこととて、それを見た時は家じゅう大騒ぎした。一枚は正己が例の山林事件で上京のおりに、弟たちと一緒に撮って携え帰ったもの。ちょうど正己の養父寿平次も入れ歯の治療に同行したという時で、その写真には長いまばらなひげをはやした寿平次が妻籠の郵便局長らしく中央に腰掛けて写っている。寿平次も年を取った。その後方うしろに当時流行の襟巻えりまきを首に巻きつけ目を光らせながら立つ正己、髪を五刈りにして前垂まえだれ掛けの森夫、すこし首をかしげ物に驚いたような目つきをして寿平次の隣に腰掛ける和助――皆、よくとれている。伏見屋未亡人みぼうじんのお富から、下隣の新宅(青山所有の分家)を借りて住むお雪婆さんまでがその写真を見に来て、森夫はもうすっかり東京日本橋本町辺のおたなものになりすましていることの、和助の方にはまだ幼顔おさながおが残っていることのと、兄弟の子供のうわさが出た。今一枚の写真は、妻籠の扇屋得右衛門おうぎやとくえもんの孫がその父実蔵について上京したおりの土産みやげである。浅草あさくさ公園での早取り写真で、それには実蔵の一人子息ひとりむすこと和助とだけ、いたいけな二少年の姿が箱入りのガラス板の中に映っている。

「アレ、これが和助さまかなし。まあこんなに大きくならっせいたか。」

 またしても伏見屋未亡人なぞはそのうわさだ。

 半蔵は飛騨の旅から帰って幼いものの頭をなでて見た時のこころもちを忘れない。こんな二枚の写真を見るにつけても、彼は都会の方にいる子供らの成長を何よりの楽しみに思った。お粂夫婦の話によると、あの和助のことは旧岩村藩士で碁会所でも開こうという日向照之進方によく頼んで置いて来たと言うが、正己が東京に日向家をたずねて見た時の様子では長く弟を託して置くべき家庭とも思われなかったという。その力量は立派に二、三段級の棋客の相手になれるが、長く独身でいて、三度三度の食事のしたくするにも物の煮えるのを待てないほど気がせわしく、早く煮て、早く食って、早く片づけて、さらにまた食い直したいと考えるような、せかせかした婦人が弟の世話をしていた。この人が日向の「姉さん」だ。見ると和助は青くなっている。この日向家から弟にいとまを告げさせ、銀座四丁目の裏通りに住む木曾福島出身の旧士族野口寛の家族のもとに少年の身を寄せさせることにしたのも、正己の計らいからであった。半蔵の耳に入る子供の話はしきりに東京の方の空恋しく思わせるようなことばかり。下隣のお雪婆さんも一度上京のついでに、和助を見た土産話をさげて帰って来た。山家やまが育ちの和助も今は野口家の玄関番で、訪ねて行ったお雪婆さんが帰りがけに見た時は、彼女の下駄げたまで他の訪問客のと同じように庭の敷石の上に直してあったと言って、あのいたずらの好きな子がと思うと、婆さんも涙が出たとか。

 明治十七年の四月には半蔵は子供を見にちょっと上京を思い立った。万事倹約の際ではあったが、父兄に代わって子供の世話をしてくれる野口家の人たちが厚意に対しても、それを頼み放しにして置くことは彼の心が許さないからであった。この東京行きには、彼は中仙道なかせんどうの方を回らないで美濃路から東海道筋へと取り、名古屋まで出て行った時にあの城下町の床屋で髪を切った。多年古代紫の色のひもでうしろに結びさげていた総髪の風俗を捨てたのもその時であった。彼は当時の旅人と同じように、黒い天鵞絨びろうどで造った頭陀袋ずだぶくろなぞをくびにかけ、青毛布あおげっとを身にまとい、それを合羽かっぱの代わりとしたようなおもしろい姿であったが、短い散髪になっただけでもなんとなく心は改まって、足も軽かった。当時は西の京都神戸こうべ方面よりする鉄道工事も関ヶ原辺までしか延びて来ていない。東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線も政府の方針は東山道に置いてあったから、東海道筋にはまだその支線の起工も見ない。時には徒歩、時には人力車や乗合馬車などで旅して行って、もう一度彼は以前の東京の新市街とは思われないほど繁華になった町中に彼自身を見いだした。天金てんきんの横町と聞いて行って銀座四丁目の裏通りもすぐにわかった。周囲には時計の修繕をする店、大小のほうきたぐいを売る店、あるいは鼈甲屋べっこうやの看板を掛けた店なぞの軒を並べた横町に、土蔵造りではあるが見付きの窓や格子戸こうしども「しもたや」らしい家の前には、一人の少年がせっせと手桶ておけの水をかわいた往来にまいていた。それが和助だった。

 この上京には半蔵も多くの望みをかけて行った。野口の人たちにあって、そこに修業時代を始めたような和助の様子を聞き、今後の世話をもよく依頼したいと思うことはその一つであった。国を出てもはや足掛け四年にもなる子を見たいと思うことはその一つであった。明治八年以来見る機会のなかった東京を再び見たいと思うこともまたその一つであった。野口の家の奥の部屋へやで、書生を愛する心の深い主人の寛、その養母のお婆さん、お婆さんの実の娘にあたる細君なぞの気心の置けない人たちが半蔵を迎えてくれた。主人の寛は植松弓夫と同郷で、代言人(今の弁護士)として立とうとする旧士族の一人であり、細君やお婆さんはこの人を助けて都会に運命を開拓しようとする健気けなげな婦人たちであった。その時この家族の人たちはかわるがわる心やすい調子で、和助を引き取ってからこのかたのことを半蔵に話した。なにしろ木曾の山の中の木登りや山歩きに慣れた子供を狭苦しい都会の町中に置いて見ると、いたずらもはげしくて、最初のうちは近所の家々からしりの来るのにも困ったという。和助の世話をし始めたばかりのころは、お婆さん霜焼けが痛いと言って泣き出すほどの子供で、そのたびにそばに寝ているお婆さんが夜中でも起きて、蒲団ふとんの上から寒さにれた足をたたいてやったこともあるとか。でも、日に日に延びて行く子供の生長は驚くばかり、主人はじめ末頼もしく思っているから、そんなに心配してくれるなという話も出た。そこは普通の住宅としても間取りの具合なぞは割合に奥行き深く造られてある。中央に廊下がある。高い明り窓は土蔵造りの屋内へ光線を導くようになっている。飼われている一匹のちんもあって、田舎いなかからの珍客をさもめずらしがるかのように、ちいさなからだと滑稽こっけい面貌かおつきとで廊下のところをあちこちと走り回っている。それも和助の友だちかとみて取りながら、半蔵は導かれて奥の二階の部屋に上がり、数日の間、野口方に滞在する旅の身ともなった。半蔵のそばへ来る和助は父が顔の形の変わったことにも驚かされたというふうで、どこでそんなに髪を短くしたかと尋ね、お父さんも開けて来たと言わないばかりの生意気なまいきざかりな年ごろになっていた。子供はおかしなもので、半蔵が外出でもしようとする前に旅行用の小さな鏡のきりの箱にはいったのを取り出すと、すぐそれに目をつけ、お父さん、男が鏡を見るんですかと尋ねるから、そりゃ男だって見る、ことに旅に来ては鏡を見て容儀を正しくしなければならないと彼が答えたこともある。彼は和助の通う学校も見たく、その学校友だちをも見たい。子弟の教育に熱心な彼は邪魔にならない程度にその学窓の周囲をも見て行きたい。そこで、ある日、彼は和助に案内させてうわさにのみ聞く数寄屋橋すきやばしわきの小学校へと足を向けた。ちょうど休日で、当時どの校舎でも高く掲げた校旗も見られず、先生方にもあえず、余念もなく庭に遊び戯るる男女の生徒らが声をも聞かれなかったが、卒業に近い課程を和助が学び修めているという教場の窓を赤煉瓦あかれんがの建物の二階の一角に望むことはできた。思い出の深い常磐橋ときわばしの下の方まで続いて行っているほりの水は彼の目にある。彼はその河岸かしを往復する生徒らがつまずきそうな石のあるのに気づき、それを堀のなかに捨てなどしながら、しばらく校舎の付近を立ち去りかねた。和助に聞くと、親しい学校友だちの一人が通って来る三十間堀さんじっけんぼりもそこからそう遠くない。その足で彼はそちらの方へも和助に案内させて行って見た。春先の日のあたった三十間堀に面して、こぢんまりとした家がある。き夫の忘れ形見に当たる少年を相手に、寂しい日を送るという一人の未亡人がそこに住む。おりから和助の学校友だちは家に見えなかったが、半蔵親子のものがたずね寄った時はその未亡人をよろこばせた。彼は和助の見ている前で、手土産がわりに町で買い求めた九年母くねんぼを取り出し、未亡人から盆を借りうけて、いきなりツカツカと座をたちながら、そこに見える仏壇の前へ訪問のしるしを供えたというものだ。その時の彼の振る舞いほど和助の顔をあからめさせたこともなかった。父のすることはこの子には、率直というよりも奇異に、飄逸ひょういつというよりもとっぴに、いかにも変わった人だという感じをいだかせたらしい。彼にして見ればかつて飛騨ひだ宮司ぐうじをもつとめたことのある身で、このくらいの敬意を不幸な家族に表するのは当然で、それに顔を紅らめる和助の子供らしさがむしろ不思議なくらいだった。彼は都会に遊学する和助の身のたよりなさを思って、東京在住の彼が知人の家々をも子に教えて置きたいと考える。そこで、ある日また、両国方面へと和助を誘い出した。本所横網ほんじょよこあみには隅田川すみだがわを前にして別荘風な西洋造りの建物がある。そこには吉左衛門時代から特別に縁故の深い尾州家の老公(徳川慶勝よしかつ)が晩年の日を送っている。老公と半蔵との関係は、ふるい木曾谷の大領主と馬籠の本陣問屋庄屋との関係である。半蔵は日ごろ無沙汰ぶさたのわびをかねて老公を訪ね、その人の前へ和助を連れて出た。彼は戊辰ぼしん前後の国事に尽力したことにかけては薩長さっちょう諸侯に劣らない老公のような人をも自分の子に見て置けというつもりで、当時和助が東京の小学校に在学するよしを老公に告げた。老公が和助の年齢を尋ねるから、半蔵は十三歳と答えながら、和助の鉛筆で写生した築地つきじ辺の図なぞを老公の笑い草にそなえた。その時も和助は父のそばにいて、ただただありがた迷惑なような顔ばかり。本所横網の屋敷を辞してから、半蔵が和助を案内して行ったのは旧両国広小路を通りぬけて左衛門橋さえもんばしを渡ったところだ。ふるいなじみの多吉夫婦が住む左衛門町の家だ。和助はどうして父がそんな下町風したまちふうの家の人たちと親しくするのか何も知らないから、一別以来の話が出たり、飛騨の山の話が出たり、郷里の方の話まで出たりするのをさも不思議そうにしていた。久しぶりの半蔵が子まで連れて訪ねて行ったことは、亭主ていしゅの多吉やかみさんのおすみをよろこばせたばかりでなく、ちょうどそこへ来合わせている多吉夫婦の娘お三輪みわをも驚かした。お三輪ももううつくしい丸髷姿まるまげすがたのよく似合うような人だ。

「へえ。青山さんには、こんなお子さんがおありなさるの。」

 と言いながら、お三輪はひざを突き合わせないばかり和助の前にすわって、何かこの子をよろこばせるようなものはないかと母親に尋ね、そこへお隅が紙に載せた微塵棒みじんぼうを持って来ると、お三輪はそれを和助のそばに置いて、これは駄菓子だがしのたぐいとは言いながら、いい味の品で、両親の好物であるからと言って見せたりした。

 父と共にある時の和助が窮屈にのみ思うらしい様子は、これらの訪問で半蔵にも感じられて来るようになった。この上京には、どんなにか和助もよろこぶであろうと思いながら出て来た半蔵ではあるが、さて、足掛け四年ばかりもそばに置かない子と一緒になって見ると、和助はあまり話しもしない。父子の間にはほとほと言葉もない。ただただ父は尊敬すべきもの、おそるべきもの、そして頑固がんこなものとしか子の目には映らないかのよう。この少年には、父のような人を都会に置いて考えることすら何か耐えがたい不調和ででもあるかのようで、やはり父は木曾の山の中の方に置いて考えたいもの――あのふるさとの家の囲炉裏ばたに、祖母や、母や、あるいは下男の佐吉なぞを相手にして静かな日を送っていてほしいとは、それがこの子の注文らしい。どうやら和助は、半蔵が求めるような子でもなく、彼の首ッ玉にかじりついて来るような子でもなく、追っても追っても遠くなるばかりのような子であった。これには彼は嘆息してしまった。どれほどの頼みをかけて、彼もこの子を見に都の空まではるばると尋ねて来たことか。

 再び見る東京の雑然紛然ごたごたとした過渡期の空気に包まれていたことも、半蔵の想像以上であった。彼も二、三日野口の家から離れてひとりであちこちの旧知を尋ねたり、森夫の奉公する日本橋本町の紙問屋へ礼に寄ったりしたから、その都度つど、大きな都会の深さにはいって見る時をも持った。漆絵うるしええがいてある一人乗りないし二人乗りの人力車がどれほど町にふえて来たと言って見ることもできないくらいで、四、五人ずつ隊を組んだ千金丹売せんきんたんうりの白い洋傘こうもりが動いて行くのも彼の目についた。新旧の移動が各自の生活にまで浸って来たこともはなはだしい。彼は故人となった師鉄胤のくやみを言い入れに平田家を訪ねようとして、柳原の長い土手を通ったこともある。そこには糊口ここうみちを失った琴の師匠が恥も外聞も思っていられないように、大道に出て琴をひくものすらあった。同門の医師金丸恭順のもとに一夜を語り明かして、その翌日今一度ふるいなじみの多吉夫婦を見に左衛門町の家の格子戸こうしどをくぐったこともある。そこには樋口十郎左衛門ひぐちじゅうろうざえもんのような真庭流まにわりゅうの剣客ですらしばらく居候いそうろうとして来て、世が世ならと嘆き顔に身を寄せていたという話も出た。剣道はすたれ、刀剣も用うるところなく、良心ある刀鍛冶かたなかじは偽作以外に身の立てられないのを恥じて百姓のくわかまを打つという変わり方だ。一流の家元と言われた能役者が都落ちをして、旅の芸人の中にまじるということも不思議はなかった。これらが何を意味するかは、知る人は知る。幾世紀をかけて積み上げ積み上げした自国にある物はすべて価値なき物とされ、かえってこの国にもすぐれた物のあることを外国人より教えられるような世の中になって来た。しかし、これには拍車をかける力の追い追いと加わって来たのを半蔵も見のがすことはできなかった。外来の強い刺激がそれだ。当時この国のはじとする治外法権を撤廃して東洋に独立する近代国家の形態をそなえたいにも、諸外国公使はわが法律と法廷組織の不備を疑い、容易に条約改正の希望に同意しないと聞くころである。まったく条約改正のことは、欧米諸国のことはおろか、東洋最近の事情にすらうとかった過去の失策のあとをけて、この国の前途に横たわる最大の難関であるとは、上下をあげてそれを感じないものもない。岩倉、大久保、木戸らの柱石たる人々が廃藩置県直後の国を留守にし三年の月日を海の外に送っても成し遂げることのできなかったこの難関を突き破るために、時の政治家はあらゆる手段を取りはじめたとも言わるる。法律と法廷組織の改正、法律専攻の人士の養成、調査委員の設置、法律専門の外国人の雇聘こへい、法律研究生の海外留学、外国法律書の翻訳なぞは、皆この気運を語らないものはない。もとより条約改正の成否は内閣の死活にもかかわるところから、勢力のある政治家はいかなる代償を払ってもこの国家の大事業に当たろうとし、従前司法省にあった法律編纂局へんさんきょくを外務省に移し、外人を特に優遇し、外人に無礼不法の挙があってもなるべくそれを問わないような時が、多くのものの目の前にやって来ていた。その修正案の主要な項目なるものも、外人に対して実に譲りに譲ったものであった。第一、日本法廷の裁判官中に三十人ないし四十人の外国人判事を入れ、また十一人の外国人検事を入るる事。第二、法律を改正し、法廷用語は日英両国の国語となす事。第三、外国人に選挙権を与うる事。これほどの譲歩をしてまでも諸外国公使の同意を得ようとした当局者の焦躁しょうそうから、欧風に模した舞踏会を開き、男女交際法の東西大差ないのをよそおおうとすることも起こって来た。仮装も国家のため、舞踏も国家のため、夜会も国家のため、その他あらゆる文明開化の模倣もまた国家のためであると言われた。交易による世界一統が彼の勇猛な目的を決定するものであるとすれば、我もまた勢いそれを迎えざるを得ない。かつては金銭を卑しみ、今は金銭を崇拝する、それは同じことであった。この気運に促されて、多くの気の鋭いものは駆け足してもヨーロッパに追いつかねばならなかった。あわれな世ではある、と半蔵は考えた。過ぐる十五、六年の間この国ははたして何を生むことができたろう。遠い昔に漢土の文物を受けいれはじめたころには、人はこれほど無力ではなかったとも考えた。まことのちかを開くために生まれて来たような本居宣長の生涯なぞがこんな時に顧みられようはずもなかった。橋本雅邦がほうは海軍省の製図に通うといい、狩野芳崖かのうほうがいも荒物屋の店に隠れた。

 おそらくもう一度来て見る機会はあるまいと思いながら、やがて悄然しょうぜんとした半蔵が東京を去ったのもこの旅である。とにもかくにも彼は二人の子にあい、その世話になる人々に礼を述べ、知人の家々をたずねて旧交をあたためただけにも満足しようとした。帰路には彼はやはり歩き慣れた木曾街道をえらんで、板橋経由で郷里の方に向かった。旅するものには、いずこの宿場の変遷も時の歩みを思わせるころである。道すがらの彼の心はよく四人の男の子の方へ行った。庄屋風情しょうやふぜいながらに物を学ぶ心のあつかった先代吉左衛門が彼に呼びかけた心は、やがて彼が宗太にも正己にも森夫にも和助にも呼びかける心で、後の代を待つ熱いさびしい思いをその四人に伝えたいと願うからであった。ことに彼が未熟な和助を頼みにするというのも、それは彼とお民との間に生まれた末の子というばかりでなく、「和助は学問の好きなやつだで、あれはおれの子だで」とおくめ夫婦の前でも言って見せたくらいだからであった。せめて末の子だけには学ばせたい、とは彼が心からの願いであったのだ。どうだろう、その子もまた父の心を知らないとしたら。子は母親本位のもので、父としての彼はただ子の内部なかを通る赤の他人のような旅人に過ぎないとしたら。

「もうもう東京へ子供を見に行くことは懲りた。」

 とは彼が郷里に帰り着いてから家のものに言って見せた言葉だ。

 その年の夏は、いよいよ宗太夫婦との別居の履行された時であった。半蔵が和助を見に行って深く落胆して帰って来たというのも、子を思う心が深ければこそだ。隠宅の方へお民と共に引き移る日を迎えてからも、彼は郷里の消息を遠く離れている子にあてて書き送ることを忘れなかった。彼はその小楼を和助にも見せたいと書き、二階から見える山々のかたちの雲に霧に変化して朝夕のながめの尽きないことを書き、伏見屋の三郎と梅屋の益穂ますほとが本を読みに彼のもとへかよって来るたびによく和助のうわさが出ることを書き、以前に伊那南殿村の稲葉家(おまんの生家さと)からもらい受けて来たあんずがその年も本家の庭に花をつけたが、あの樹はまだ和助の記憶にあるだろうかと書いた。時にはまた、本家の宗太も西筑摩ちくまの郡書記を拝命して木曾福島の方へ行くようになったが交際交際で十円の月給ではなかなか足りそうもないと書き、しかし家の整理も追い追いと目鼻がついて来たことを書き、この家計の骨の折れる中でも和助には修業させたい一同の希望であるからそのつもりで身を立ててくれよと書き、どうかすると娵女よめじょのおまきが懐妊したから和助もよろこべというようなことまで書いてそばにいるお民に笑われた。

「そんな、あなたのような、お槇の懐妊したことまで東京へ知らせてやるやつがあるもんですかね。」

 これには彼も一本参った。しかし古い家族の血統を重く考える彼としては、青山の血を伝えにこれから生まれて来るもののあるその新しいよろこびを和助にまで分けずにはいられなかった。そんなおとなの世界をのぞいて見るようなことが、どう少年の心を誘うであろうなぞとおもって見る暇もないのであった。和助もあれで手紙を書くことはきらいでないと見えて、追い追いと父のもとへ便たよりをしてよこす。それが学校の作文でも書くように半紙に書いてあるのを彼は何度も繰り返し読み、お民にもまた読み聞かせるのを何よりの心やりとする。彼は遠く離れていながらも、いろいろと和助を教えることを怠らなかった。手紙はどういうふうに書くものだとか、本はどういうものを読むがいいとかいうふうに。

 やがて成長ひとなりざかりの子が東京の方で小学の課程を終わるころのことであった。半蔵は和助からの長い手紙を受け取った。それには少年らしい志望がしたためてあり、築地つきじに住む教師について英学をはじめたいにより父の許しを得たいということがしたためてある。かねてそんな日の来ることを憂い、もし来たらどう自分の子を導いたものかと思いわずらってもいた矢先だ。とうとう、和助もそこへ出て来た。これまで国学に志して来た彼としては、これは容易ならぬ話で、彼自身にはいれなかった洋学を子にやらせて見たいは山々ではあったが、いかに言っても子はあわれむべき未熟なもので、まだ学問の何たるを解しない。彼が東京の旅で驚いて来た過渡期の空気、維新以来ほとほと絶頂に達したかと思われるほど上下の人の心を酔わせるような西洋流行ばやりを考えると、心も柔らかく感じやすい年ごろの和助に洋学させることは、彼にとっては大きな冒険であった。この子もまた時代の激しいなみに押し流されて行くであろうか。それを思うと、彼は幾晩も腕組みして考えてしまった。もっとも、結局和助の願いをいれたが。

 本家土蔵の二階の上、あの静かな光線が鉄格子を通して西の窓からさし入るところは、中央に置き並べた継母と妻との二つの古い長持を除いたら、名実共に青山文庫であった。先代吉左衛門と半蔵と父子二代かかって集めた和漢の書籍は皆そこに置いてある。吉左衛門の残した俳書、岐岨古道記きそこどうきをはじめこの駅路に関する記録も多い。半蔵の代になって苦心して書物を集めることは、何十年来の彼の仕事の一つと言ってもよかったが、ことに万葉は彼の愛する古い歌集で、それに関する文献は彼の手の届くかぎり集められるだけ集めてある。階上の壁面によせて積み重ねてあるそれらの本箱の前をあちこちと歩き回る時ばかり、彼のたましいの落ちつくこともない。また、古人のいう夏の炉か冬の扇のような、今は顧みるものもなく、用うるところもなく、子にすら読まれないそれらの書物に対する時ばかり、後の代を待つ心を深くすることもない。家法改革のため、土蔵の階下したまでも明け渡さねばならない時がやって来てからは、それに気がさして、彼はめったにあの梯子段はしごだんを登って行って見ることもない。


       三


「おいで。」

 呼ぶものは半蔵。呼ばれるものは馬籠まごめの村の子供。もはやふるい街道へも六月下旬の午後の日のあたって来ているころである。

「さあ、いいものあげるから、おいで。」

 とまた半蔵が呼んでも、子供は輪回しの遊びに夢中な年ごろで、容易に彼の方へ飛んで来ようともしない。おもちゃというおもちゃは多く手造りにしたもので間に合わせる馬籠の子供のあいだには、おけたがを回して遊び戯れることがまた流行はやって来た。この子供も手に竹の輪をさげている。

「こんなに呼んでも、来ないところを見ると、あれは賢いものじゃないと見える。」

 この「賢いものじゃないと見える」が子供をった。子供は彼のそばへ走り寄った。その時、彼は自分のたもとに入れていた巴旦杏はたんきょうを取り出して、青い光沢のある色も甘そうに熟したやつを子供の手に握らせた。そして彼の隠宅の方へとその子供を連れて行った。

 こんな調子で、半蔵は『童蒙入学門どうもうにゅうがくもん』や『論語』なぞを読ませに村の子供らを誘い誘いした。その時になっても彼は無知な百姓の子供を相手にして、教えてむことを知らなかった。普通教育の義務年限も定められずにあるころで、村には読み書きすることのきらいな少年も多く、彼の周囲はまだまだ多くの迷信にみたされていた。どうかするとにわかに顔色も青ざめ、口からあわを出す子供なぞがあると、それが幼いものの病気とは見られずに、きつねのついた証拠だと村の人から騒がれるくらいの時だ。

 しずかよって来る半蔵が教え子はひとり馬籠生まれのものに限らなかった。一里も二里もある山道を草鞋わらじばきでやって来るような近村の少年もめずらしくない。湯舟沢からも、山口からも、あるいは妻籠つまごからも、馬籠には彼を師と頼んで何かと教えを受けに来る二、三の女の子もある。そういう中に置いて見ると、さすがは伏見屋の三郎と梅屋の益穂との進み方は目立った。この二人ふたりはすでに漢籍も『通鑑つがん』を読む。いつのまにか少年期から青年期に移る年ごろにも達している。三郎らに次いでは、村社諏訪すわ分社の禰宜ねぎ松下千里の子息にあたる千春が荒町から通って来る。和助と同年の千春もすでに十五歳だ。「お師匠さま、お師匠さま」と言って慕って来るこれらの教え子の書体までが自分のに似通うのを見るたびに、半蔵は東京の方にある和助のことをよく思い出すのであった。

 彼はお民に言った。

「妙なものだなあ。おれなぞはおまえ、明日を待つような量見じゃだめだというところから出発した。明日は、明日はと言って見たところで、そんな明日はいつまで待っても来やしない。今日はまた、またたくに通り過ぎる。過去こそまことだ――それがおまえ、篤胤あつたね先生のおれに教えてくだすったことさ。だんだんこの世の旅をして、いろいろな目にあううちに、いつのまにかおれも遠く来てしまったような気がするね。こうして子供のことなぞをよく思い出すところを見ると、やっぱりおれというばかな人間は明日を待ってると見える。」

 こんな寝言もちんぷん、かんぷんとしか聞こえないお民の耳には、めずらしくも禁酒を思い立ったという夫の言葉の方が彼女にはうれしかった。

「なあ、お民。どうも酒はよくない。飲み過ぎるとおれは眠られない。こないだは、宗太や親類には内証で堅い誓約を破ってしまった。おれも我慢がしきれなかったからさ。さあ、それから眠られない。五晩も六晩もそんな眠られないことが続くうちに、しまいにはおれも書き置きを書こうかとまで思ったくらい苦しかった。ほんとに、冗談じゃない。いろはにほへとと同じことをまくらの上で繰り返して見たり、一二三四と何べんとなく数えて見たりして、どうかしておれは眠りたいと思った。そのうちに眠られた。もうあんなことは懲り懲りした。ここまで来ないと、酒はやめられないものかもしれないナ。」

「そりゃ、あなた、できればここでふッつりお断ちなさるがいい。そう思って、わたしはもうお酒の道具を片づけてしまいましたよ。」

「まあ、晩酌ばんしゃくに五勺ばかりやって見たところでまるで、すずめが水を浴びるようなものさ。なかなか節酒ということが行なわれるもんじゃない。飲むなら飲む、飲まないなら全く飲まない――この二つだ。」



 九月の来るころまで、とにもかくにも半蔵の禁酒が続いた。その一夏の間、静の屋の二階からは澄んだ笛の音が屋外そとまでもれてよく聞こえた。ひとりいる時の半蔵が吹き鳴らした音だ。木曾特有な深い緑の憂鬱ゆううつが谷や林の間を暗くしたころに、思い屈した彼の胸からは次ぎのような言葉もほとばしり流れて来た。

国、思君、思家、思郷、思親、思朋友妻子親族。百思千慮胸中鬱結不憂嘆。起望西南諸峯。山蒼々。壑悠々。皆各有自得之趣。頼斯観以得慰。彼百憂者、真天公之錫也哉。

思ひ草しげき夏野に置く露の千々ちぢにこころをくだくころかな


 半蔵ももはや五十六歳だ。人がその年ごろにもなれば、顔の形からして変わらないものもまれである。一人ひとりの人の中に二人ぐらいの人の住んでいない場合もまれである。半蔵とてもそのとおり、彼の中に住む二人の人は入れかわり立ちかわり動いて出て来るようになった。あの森夫がまだ上京しない前、お民はいたずらのはげしい森夫にあきれて本家の表玄関のところに子をねじ伏せ、懲らしめのためにきゅうをすえると言い出し、その加勢におまきを呼んで、お槇お前も手伝っておくれ、この子の足を押えていておくれと言った時、じたばたもがき苦しむ子のすがたを見ていられなくて、灸をすえることを許してやってくれとお民に頼んだ人も彼であるし、かつて宗太を責めたことのない彼が扇子を取り出して子のかおを打ち励まそうとまでした人も彼である。ある時は静の屋に隠れていて、静かに見れば物皆自得すと言った古人の言葉を味わおうと思い、ある時は平田篤胤没後の門人がこんなことでいいのかと考え、まだ革新が足りないのだ、破壊も足りないのだと考えるのも、その同じ彼だ。

 やがて残った暑さの中にも秋気が通って来て、朝夕はそこいらの石垣いしがきや草土手で鳴く蟋蟀こおろぎの声を聞くようになった。ある夜の明けがた、半蔵は隠宅の下座敷にお民とまくらをならべていて不思議な心地ここちをたどった。その時の彼は妻にも見られないように家を抜けて、こっそり町へ酒を買いに出た人である。大戸がある。くぐがある。すぎの葉のまるく束にしたのが街道に添うた軒先にかかっている。戸をたたくと内には人が起きていて、彼のために潜り戸をあけてくれる。そこは伏見屋の店先で、二代目伊之助がみずからたるの前に立ち、飲み口のせんを抜いて、流れ出る酒をますに受け、彼の方から差し出した徳利にそれを移して売ってくれる。それまではよかったが、彼は隠し持つ酒を携え帰る途中でさまざまな恐ろしい思いをした。そして、家まで帰り着かないうちに、目がさめた。

 しばらくさかずきを手にしない結果が、こんな夢だ。彼の内部なかにはいろいろなことも起こって来るようになった。妙に気の沈む時は、部屋へやにあるふすま唐草からくさ模様なぞのこころのないものまでが生き動く物の形に見えて来た。男女両性のあろうはずもない器物までが、どうかすると陰と陽との姿になって彼の目に映って来た。小半日暮らした。その彼が周囲を見回したころは夕方に近い。お民は本家の手伝いから帰って来て、隠宅の台所で夕飯のしたくを始める。とにもかくにも一夏の間、自ら思い立って守りつづけて来た飲酒の戒も、妙な夢を見たために捨てたくなったことを彼はお民に話し、これでは無理だと思って来たのもその夢からであったと彼女の前に白状した。その時、お民はたすきがけのまま、実はしばらく見えなかった落合の勝重かつしげが最近にまたたずねて来てくれた時に置いて行った酒のあることを夫に告げた。彼女はそれを夫に隠して置いたことをも告げた。

「ホ、落合の酒をくれたか。勝重さんはこの四月にもおれのところへさげて来てくれたッけが。」

「なんでも、あの人はあなたの禁酒したことを知らなかったんですとさ。どうも失礼した、お師匠さまには内証にしてくれなんて、そう言って、これは煮ものにでも使うようにッて置いて行きましたよ。」

 こんな言葉をかわした後、間もなくお民はしたくのできたぜんを台所から運んで来た。憔悴しょうすいした夫のためにつけた一本の銚子ちょうしをその膳の上に置いた。

「こりゃ、めずらしい。お民はほんとうにおれに飲ましてくれるのかい。」

 半蔵はまるでうそのように好きな物にありついて、盃にあふれるその香気かおりをかいだ。そして元気づいた。お民はその夫の顔をながめながら、

「そう言えば、こないだというこないだは、わたしもびッくりしましたよ。」

「うん、あの話か。あんなことは、めったにないやね。なにしろ、お前、変なやつが来てこの庭のすみに隠れているんだろう。あいつは恐ろしいやつさ。このおれをねらっているようなやつさ。おれもたまらんから、古い杉ッ葉に火をつけて、ほうりつけてくれた。もうあんなものはいないから安心するがいい。」

「ほんとに、あなたも気をつけてくださらなけりゃ……」

 実際、半蔵にはそんなことも起こって来ていた。

 つましくはあるが、しかし楽しい山家風な食事のうちに日は暮れて行った。街道筋に近く住むころともちがい、本家の方ではまだよいの口の時刻に、隠宅の周囲まわりはまことにひっそりとしたものだ。谷の深さを思わせるようなものが、ここには数知れずある。どうかすると里に近く来てきつねの声もする。食後に、半蔵は二階へも登らずに、燈火あかりのかげで夜業よなべを始めたお民を相手に書見なぞしていたが、ふと夜の空気を通して伝わって来る遠い人声を聞きつけて、両方の耳に手をあてがった。

「あ――だれかおれを呼ぶような声がする。」

 と彼はお民に言ったが、妻には聞こえないというものも彼には聞こえる。彼はまた耳を澄ましながら、じっとその夜の声に聞き入った。



 十五夜には、半蔵も村の万福寺の松雲和尚しょううんおしょうから月見の客の一人ひとりに招かれた。今さらここにことわるまでもなく、青山の家と万福寺との関係は開山のそもそもからで、それほど縁故の深い寺ではあるが、例の神葬改典以来は父祖の位牌いはいも多く持ち帰り、わずかに万福寺の開基と中興の開基との二本の位牌を残したのみで、あの先祖道斎が建立こんりゅうした菩提寺ぼだいじも青山の家からは遠くなった。こんな事情があるにもかかわらず住持の松雲はわざわざ半蔵の隠宅まで案内の徒弟僧をよこすほどのむかしを忘れない人である。

 招かれて行く時刻が来た。半蔵は隠宅を出た。まだ日も暮れきらないうちであったが、空には一点の雲もなく、その夜の月はさぞと、小集の楽しさも思われないではない。しかし、彼の足は進まなかった。妙に心も寒かった。ためらいがちに、彼はその寺道を踏んで行った。そして、しばらくぶりで山門の外の石段を登った。数体の観音かんのんの石像の並ぶ小高い石垣いしがきの斜面に沿うて、万福寺の境内へ出た。そこにひらける本堂の前の表庭は、かつて彼の発起で、この寺に仮の教場を開いたころの記憶の残る場所である。経王石書塔の文字の刻してある石碑が立つあたり、古い銀杏いちょうのそばにある鐘つき堂の辺、いずれも最初の敬義学校の児童が遊び戯れた当時を語らないものはない。

「おゝ、お師匠さまが見えた。」

 という寺男の声を聞いて、勝手を知った半蔵は庫裡くりの囲炉裏ばたの方から上がった。彼は松雲が禅僧らしい服装みなりでわざわざその囲炉裏ばたまで出て迎えてくれるのにもあった。やがて導かれて行ったところは住持の居間である。古い壁に達磨だるまの画像なぞのかかった方丈である。そこにはすでに招かれて来ている二、三の先着の客もある。旧組頭くみがしら笹屋庄助ささやしょうすけ、それから小笹屋こざさや勝七の跡を相続した勝之助の手合いだ。馬籠町内でもことに半蔵には気に入りの人たちだ。こんな顔ぶれを集めての催しである上に、主人の松雲は相変わらずの温顔で、客に親疎を問わず、好悪こうおを選ばずと言ったふうの人だ。

 まず寺にも異状はない。そのことに、半蔵はやや心を安んじた。かきくり葡萄ぶどう枝豆えだまめ里芋さといもなぞと共に、大いさ三寸ぐらいの大団子おおだんご三方さんぼうに盛り、尾花おばな女郎花おみなえしたぐいを生けて、そして一夕を共に送ろうとするこんな風雅な席に招かれながら、どうして彼は滑稽こっけいな、しかもまじめな心配に息をはずませ、危害でも加えに来るものを用心するかのようなばからしくくだらないことを考えて、この寺道を踏んで来たろうと、自分ながらも笑止に思った。松雲は茶菓なぞを徒弟僧に運ばせ、慇懃いんぎんに彼をももてなした。ふと彼が気づいて見ると、この寺で出す菓子の類にも陰と陽とがある。彼もほほえまずにいられなかった。まだ客の顔はすっかりそろわなかったから、そこに集まったものの中には、庭の見える縁側にすべり出、和尚の意匠になる築山つきやま泉水の趣をながめるものがある。夕やみにほのかな庭のすみの秋萩あきはぎに目をとめるものもある。その間、半蔵は座を離れて、寺男から手燭てしょくを借りうけ、それに火をとぼし、廊下づたいに暗い本堂の方へ行って見た。位牌堂に残してある遠い先祖が二本の位牌を拝するためであった。

 間もなく方丈では主客うちくつろいでの四方山よもやまの話がはじまった。点火あかりもわざと暗くした風情ふぜいの中に、おのおのぜんについた。いずれも草庵そうあん相応な黒漆くろうるしを塗った折敷おしきである。夕顔ゆうがお、豆腐の寺料理も山家は山家らしく、それに香味を添えるものがあれば、それでもよい酒のさかなになった。同じ大根おろしでも甘酢あまずにして、すりゆずの入れ加減まで、和尚の注意も行き届いたものであった。塩ゆでの枝豆、串刺くしざしにした里芋の味噌焼みそやきなぞは半蔵が膳の上にもついた。庄助は半蔵の隣の席にいて、

「へえ、お師匠さまは酒はおやめになったように聞いていましたが、またおはじめになりましたかい。」

 これには半蔵もちょっと挨拶あいさつに困った。正直者で聞こえた庄助は、飲めばすこししつこくなる方で、半蔵が様子を黙って見てはいなかった。

 一同の待ち受ける秋の夜の光が寺の庭に満ちて来たころ、半蔵はまだ盃を重ねていた。いったん、やめて見た酒も、口あたりのよいやつを鼻の先へ持って来ると、まんざらでもない。それに和尚の款待もてなしぶりもうれしくて、思わず彼はいい心持ちになるほど酔った。でも、彼のはそう顔へは発しなかった。やがて彼は人々と共に席を離れて縁側へ出て見たが、もはやすこし肌寒はださむいくらいの冷えびえとした空気がかえって彼に快感を覚えさせた。そこここの柱のそばには、あるいはうずくまり、あるいは立ちして、水のように澄み渡った空をながめるものもある。そこは方丈から客殿へ続く回り縁になっていて、さらに本堂の裏手、位牌堂までも続いて行っている。客殿と位牌堂との間には渡れる橋もある。彼はそんな方までも歩いて行って、昼間のように明るい夜の光の照らしている橋の上にも立って見た。ふと、庭の暗いすみにうずくまる黒いものの動きが彼の目に映った。そんなところに隠れながら彼を待ち伏せしているようなやつだ。彼はその怪しい人の影をありありと見た。にわかに酒の酔いのさめたのもその時であった。顔色も青ざめながら方丈へ引き返した。

「わたしは失礼する。」

 と松雲に断わりを言って置いて、他の客より一足先に寺を辞し去ろうとしたのも、その半蔵だ。

 庄助は半蔵が飲み過ぎからとでも思ったかして、囲炉裏いろりばたまでついて来て、土間に下駄げたをさがす時の彼に言った。

「お師匠さま、お前さまはもうお帰りか。お一人ひとりで大丈夫かなし。門前の石段は暗いで、お寺で提灯ちょうちんでも借りてあげずか。」

「なあに、こんな月夜に提灯なぞはいらん。」



「もうお師匠さまも帰りそうなものだ。」

 隠宅では、半蔵の留守に伏見屋の三郎と梅屋の益穂とが遊びに来て、お民と共に主人の帰りを待っている。お民は古い将棋盤なぞを出して来て三郎らにあてがったので、二人の弟子でしこまの勝負に余念もない。その古い将棋盤は故吉左衛門の形見として静の屋に残ッているものだ。

「さあ、早くさしたり。」

「待った。」

「いつまでそんなに考え込むんだ。」

「手には。」

かくけいに、が六枚。」

 下座敷の縁側に近く盤を置いて、二人の弟子はそんなことを言い合っている。しばらく縁側に出て月を見ていたお民が二人のいる方へ来て見ると、三郎は相手の長い「待った」に気を腐らして、半分ひとり言のようにお民に言った。

「お師匠さまも、あれで将棋でもなさると、いいがなあ。」

「いいがなあのようなことだ。」とお民は笑って、思わず三郎の言葉にり込まれながら、「ほんとに、うちは道楽というもののすくない人ですね。弓をやるじゃなし、鳥屋とやに凝るじゃなし、暇さえあれば机に向かって本を読んでばかり。この節は気がふさいでしかたがないと言いますから、どんなふうに気分が悪いんですかッて、わたしは聞いて見ました。なんでも、こうすわっていますと、そこいらが暗くなって来るらしい――暗い、暗いッて、よくそんなことを言いましてね。」

 お民は夫の健康が気にかかるというふうに、それを三郎に言って見せた。じっと盤をにらんだ益穂の長考はまだ続いていた。そこへ月を踏んで来る人の足音がした。お民はその足音で、すぐそれが夫であることを聞き知った。師匠の帰りと聞いて、益穂も今はこれまでと、手に持つこまを盤の上に投げてしまった。

 何げなく半蔵は隠宅に帰って来て二人の弟子にも挨拶あいさつしたが、心の興奮は隠せなかった。お民は夫に近く寄ってまず酒くさい息を感じた。

「お民、二階へ燈火あかりをつけてくれ。それから、毛氈もうせんを敷いてくれ。まだそんなにおそくもないんだろう。こんな晩には何か書いて遊びたい。」

 半蔵はその足で二階の梯子段はしごだんを登った。三郎や益穂をも呼んで、すずりふでの類を取り出し、紙をひろげることなぞ手伝わせた。墨も二人の弟子にらせた。

「どれ、一つ三郎さんたちにお目にかけるか。」

 と言いながら、半蔵がそこへ取り出したのは、平素めったに人にも見せたことのない壮年時代の自筆の所感だ。それは、水戸浪士みとろうしがこの木曾街道を通り過ぎて行ったあとあたり、彼が東美濃みの伊那いなの谷の平田同門の人たちとよく相往来したころにできたものだ。さすがに筆の跡も若々しく、書いてあることもまた若々しい。それを彼は二人の弟子に読み聞かせた。

天地生万物、人為最霊也。人之能為霊、以其有一レ心也。凡物多類。野有千艸、山有万木。一視則均是艸木也。然艸有蘭菊之芳、而木有松柏之操焉。人亦猶如此也。人之能超群者、其霊之能勝衆霊也。尋常之物、雖千百、同此一様、而猶艸木之無芳操者也。卓出之物、有一則一、十則十、皆有益於国家也、猶艸木之於松菊也。惟菊也、松也、一視則直知其為秀英也。人之賢愚以心、不形、故不遽見也。蓋心之霊在思。其霊最覚者、思弥遠矣。而愚也非敢也。然人心不思。而吾性所思最多常鬱陶于心胸也。陳之、列之、以熟思其所思、其有得乎。吾素微躯、惟守其業、仰以事親、俯以養妻子、則能事畢焉。何其媚世求之為也。雖然、如此而生、如此而死、焉在其為万物之霊也。竊観昔人之所一レ為。有文鳴者。有武知者。有直諫而死者。有忠亮而終始一如者。有信義以自守者。有私淑而自修者。有危致命者。有良図建功者。有英断果決見過則能改者。有苟喪其人則失千載之伝。有常思四方之遠民之細故。有善察百世之後国家之憂。有暴戡乱能畏服四方。有記百世之事以伝将来。凡事如此。則非一身之所能為也。然則従吾所好者乎。

 読みかけて、「しからばすなわち、わが好むところのものに従わんか」の最後のくだりになると、五十余年の数奇な生涯しょうがいが半蔵の胸に浮かんで来た。見るもの聞くもの涙の種でないものはなかったようなところすら通り越して、今は涙も流れなかった。



 その晩、半蔵は弟子を相手にして、しきりに物を書いた。静の屋ではまだ行燈あんどんしか用いなかったが、その燈火あかりでは暗かったから、彼は三郎らに手燭てしょくを持たせ、蝋燭ろうそくに映る紙の上に和歌なぞを大きく、しかもいろいろに書いて遊んだ。あるものは仮名かな文字、あるものは真名まな文字というふうに。それを三郎にも益穂にも分けると、二人は大よろこびで持ち帰ったころは夜もおそかった。そのあとにはむさぼるようにまだ何か書きたい半蔵が残った。その興奮には止め度がなかったので、しまいには彼は二階の燈火を吹き消して階下へ休みに降りたくらいだ。

「あなた、また眠られないといけませんよ。すこし召し上がり過ぎたんじゃありませんか。あなたのお酒は顔色に出ないんだから、はたのものにはわからない。」

 と言って、そばへ寄ったのはお民だ。半蔵は下座敷の内を静かに歩き回ったり、また妻のいるところへ近く行ったりして、

「お民、もう何時なんじだろう。お前にはまだ話さなかったが、さっきお寺から帰って来る時のおれの心持ちはなかった。後方うしろから何かに襲われるような気がして、実に気持ちが悪かった。さっさとおれは逃げて帰った。」

「そりゃ、あなたの気のせいです。あなたはよくそこいらが暗い、暗いなんておっしゃるが、みんな気のせいですよ……平田先生は、こういう時の力にはなりませんかねえ。」

 このお民の「平田先生」が半蔵をほほえませた。彼は思いがけないことを妻の口から聞いたように思っていると、お民は言葉をついで、

「でも、あの先生はありがたい人だって、そのお話がよく出るじゃありませんか。」

「それさ。おれもこれで、どうかすると篤胤先生を見失うことがある。篤胤先生ばかりじゃないや、あの本居宣長翁でも、おれの目には見えなくなってしまうこともある。そのたびに、おれは精神こころの力を奮い起こして、ようやくここまでたどりついたようなものさ。そうだ、おくめの言い草じゃないが、神霊みたまさまと一緒にいれば寂しくない。こりゃ、おれもみちに迷ったかしらん。もう一度おれは勇気を出して神を守りに行かにゃならん。しかし、今夜は――お前もよいことを言ってくれた。」

 その時、お民は思いついたように、下座敷の小襖こぶすまから薬箱を取り出して来た。その中には医師の小島拙斎せっさいが調合して置いて行ってくれた薬がある。本家の母屋もやを借りて住む拙斎もちょうど名古屋へ出張中のころであったが、あの拙斎が馬籠を留守にする前に、もしお師匠さまに眠られないようなことがあったらあげてくれと言って、お民のもとに残して置いて行ったのがそれだ。彼女は台所の流しもとへくみ置きの清水や湯のみなぞをも取りに行って来て、その薬を夫に勧めた。

 翌日からの半蔵は一層不思議な心持ちをたどるようになった。彼は床の上に目をさまして見て、およそ何時間ぐらい眠ったということも知らなかった。夢に夢見る心地ここちで彼があたりを見回した時は、本家の裏二階の方に日を暮らしている継母やおまきはもとより、朝夕連れ添う妻のお民までがなんとなく遠くの方にいる人のような気がして来た。

 秋の日のあたった部屋へやの障子には、木曾らしいはえの残ったのが彼の目についた。彼はその光をめがけながら飛びかう虫の群れをつくづくとながめているうちに、久しく音信たよりもしない同門の先輩暮田正香くれたまさかのことを胸に浮かべた。彼はあの正香がそう無造作にできるものが復古ではないと言った言葉なぞを思い出した。ところが世間の人はそうは思わないから、何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ、いくら昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい、とあの正香の言ったことをも思い出した。本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言われた昨日の勢いは間違いであったのか、一切の国学者の考えたこともあやまった熱心からだとされる今日の時が本当であるのか、このはなはだしい変わり方に面とむかっては、ただただ彼なぞは目もくらむばかり。かつての神仏分離の運動が過ぎて行ったあとになって見ると、昨日まで宗教廓清かくせい急先鋒きゅうせんぽうと目された平田門人らも今日は頑執がんしゅう盲排のともがら扱いである。ことに、愚かな彼のようなものは、する事、なす事、周囲のものに誤解されるばかりでなく、ややもすると「あんな狂人きちがいはやッつけろ」ぐらいのことは言いかねないような、そんなあざけりの声さえ耳の底に聞きつけることがある。この周囲のものの誤解から来る敵意ほど、彼の心を悲しませるものもなかった。

「おれには敵がある。」

 彼はその考えに落ちて行った。さてこそ、妻の耳に聞こえないものも彼の耳に聞こえ、妻の目に見えないものも彼の目に見えるのはそのためであった。

 過ぐる年の献扇けんせん事件の日、大衆は実に圧倒するような勢いで彼の方へ押し寄せて来た。彼はあの東京神田橋かんだばし見附跡みつけあとの外での多勢の混雑を今だに忘れることができない。「訴人だ、訴人だ」と言って互いに呼びかわした人たちの声はまだ彼の耳にある。何か不敬漢でもあらわれたかのように、争って彼の方へ押し寄せて来た人たちの目つきはまだ彼の記憶に新しい。けれどもそういう大衆も彼の敵ではなかった。暗い中世の墓場から飛び出して大衆の中に隠れている幽霊こそ彼の敵だ。明治維新の大きな破壊の中からあらわれて来た仮装者の多くは、彼にとっては百鬼夜行の行列を見るごときものであった。皆、化け物だ、と彼は考えた。

 この世の戦いに疲れた半蔵にも、まだひるまないだけの老いた骨はある。彼はわき上がる深い悲しみをしのごうとして、たち上がった。ひらめき発する金色な眼花の光彩は、あだかも空際くうさいを縫って通る火花のように、また彼の前に入り乱れた。彼は何ものかを待ち受けるような態度をとって震えた。

「さあ、攻めるなら攻めて来い。」



 もはや、二百十日もすでに過ぎ去り、彼岸ひがんを前にして、急にはげしい夕立があるかと思うと、それの谷々を通り過ぎたあとには一層恵那山えなさんも近くあざやかに見えるような日が来た。農家では草刈りや田圃たんぼ稗取ひえとりなぞにいそがしいころである。午後に一人の百姓が改まった顔つきで半蔵を見に来た。旧本陣時代には青山の家に出入りした十三人の百姓の中の一人だ。

「お師匠さまや先の大旦那おおだんなには、格別ひいきにしていただいたで。」

 とその百姓は前置きをして、ある別れの心を告げに来た。聞いて見ると、その男は年貢米ねんぐまい三斗七升に当たる宅地を二年前に宗太から買い取る約束をしたもので、代金二十五円九十銭も一時には支払えないところから、内金としてまず五円九十銭だけを納め、残り二十円も追い追いと支払って、その年の九月で宅地も完全にその男の所有に帰し、売券をも請け取ったとのこと。隠居の半蔵にそれをことわるのも異なものだが、一言の挨拶あいさつなしに旧主人と手をわかつには忍びかねるという。

「何か用があったら、いつでもそう言ってよこしておくれなんしょや。兼吉や桑作同様に、おれも手伝いに来てあげる。はい、長々お世話さまになりました。」

 との言葉をも残した。その男のいう兼吉や桑作も、薬師道の上の畑とか、あるいは裏畑とかを宗太から買い取った百姓仲間だ。その時になって見ると、青山家親類会議の結果として永遠維持の方法を設けた家法改革とは名ばかり、挨拶に来る出入りの百姓が置いて行く言葉まで、半蔵の身に迫らないものはない。

 夕方に、半蔵は静の屋の周囲を一回りして帰って来た。夕飯後、二階に上がって行って見ると、空には星がある。月の出もややおそくなったころであったが、青く底光りのするような涼しい光がよいの空を流れている。その時の彼は秋らしく澄み渡って来た物象の威厳に打たれて、長い時の流れの方に心を誘われた。先師篤胤ののこした忘れがたい言葉も、また彼の胸に浮かんで来た。

「一切は神の心であろうでござる。」

 彼はおのれら一族の運命をもそこへ持って行って見た。空の奥の空、天の奥の天、そこにはあらわれたり隠れたりする星の姿があだかも人間歴史の運行を語るかのように高くかかっている。あそこに梅田雲浜うめだうんぴんがあり、橋本左内さないがあり、頼鴨崖らいおうがいがあり、藤田東湖ふじたとうこがあり、真木和泉まきいずみがあり、ここに岩瀬肥後いわせひごがあり、吉田松陰があり、高橋作左衛門さくざえもんがあり、土生玄磧はぶげんせきがあり、渡辺崋山わたなべかざんがあり、高野長英があるとして数えることができた。攘夷じょういと言い開港と言って時代の悩みを悩んで行ったそれらの諸天にかかる星も、いずれもこの国に高い運命の潜むことを信じないものはなく、一方には西洋を受けいれながら一方には西洋と戦わなかったものもない。この国維新の途上に倒れて行った幾多の惜しい犠牲者のことにおもいくらべたら、彼半蔵なぞの前に横たわる困難は物の数でもなかった。彼はよく若い時分に、お民の兄の寿平次から、夢の多い人だと言ってからかわれたものだが、どうして〈[#「どうして」は底本では「どうし」]〉こんなことで夢が多いどころか、まだまだそれが足りないのだ、と彼には思われて来た。

 月も上った。虫の声は暗い谷に満ちていた。かくよろずの物がしみとおるような力で彼の内部なかまでもはいって来るのに、彼は五十余年の生涯をかけても、何一つ本当につかむこともできないそのおのれの愚かさつたなさを思って、明るい月の前にしばらくしょんぼりと立ち尽くした。


       四


「お師匠さま、どちらへ。」

 そこは馬籠まごめの町内から万福寺の方へ通う田圃たんぼの間の寺道だ。笹屋ささや庄助しょうすけと小笹屋の勝之助の二人が半蔵を見かけて、声をかけた。

「おれか。おれはこれからお寺へ行くところさ。」

「お寺へなし。」

「お前さまもまた、おもしろい格好をして行かっせるなし。」

 こんな言葉も半蔵と庄助らの間にかわされた。半蔵は以前の敬義学校へ児童こどもを教えに通った時と同じようなはかまを着け、村夫子そんふうしらしい草履ぞうりばきで、それに青いふきの葉を頭にかぶっている。

「今、ここへ来る途中で、おれは村の子供たちにあった。その子供たちがふきの葉をかぶって遊んでいたんで、おれも一つもらって、頭へ載せて来たさ。」

 と半蔵は至極しごく大まじめだ。さびしさに浮かれる風狂の士か。はすの葉をかぶって吟じ歩いたという渡辺方壺ほうこ(木曾福島の故代官山村良由が師事した人)のたぐいか。半蔵のは、そうでもなかった。そんなトボけた格好でもしなければ、寺なぞへ行かれるものではないという調子だった。庄助と勝之助とはふき出さないばかりにおかしさをこらえて、何のための万福寺訪問かと尋ねる。

「ええ、うるさく物をききたがる人たちだ。そんなら言って聞かせるが、おれはこれから行って寺を焼き捨てる。あんな寺なぞは無用の物だ。」

 との半蔵の答えだ。これには庄助も勝之助も、半蔵が戯れているとしか思えなかった。九月も下旬になったころのことで、ちょうど馬籠は秋の祭りの前日にあたる。荒町にある村社諏訪すわ分社の禰宜ねぎ松下千里はもとより、この祭りを盛んにすることにかけては神坂みさか村小学校の訓導小倉啓助が大いに力瘤ちからこぶを入れている。というのは、この訓導はもともと禰宜の出身だからであった。子供にはそろいの半被はっぴを着せよ、囃子はやし仲間は町を練り歩け、村芝居むらしばい結構、随分おもしろくやれやれと言い出したのも啓助だ。こんな熱心家がある上に、一年に一度の祭りの日を迎えようとする氏子うじこ連中の意気込みと来たら、その楽しさは祭礼当日よりも、むしろそれを待ち受ける日にあるかのよう。笛だ三味線しゃみせんだと町内の若者は囃子のけいこに夢中になっている時で、騒がしくにぎやかな太鼓の音が寺道までも聞こえて来ている。

 庄助や勝之助はこんな祭りのしたくを世話するからだではあったが、しかし半蔵の言葉が気にかかって、まさか彼が先祖青山道斎のこの村のために建立した由緒ゆいしょの深い万福寺を焼き捨てに行くとはに受けもしなかったが、なお二人ふたりしてそのあとをつけた。馬籠言葉でいう小山の「そんで」(背後)まで行くと、寺道はそこで折れ曲がって、傾斜の地勢を登るようになる。ふきの葉をかぶった半蔵の後ろ姿は、いつのまにか古いすぎの木立ちのかげに隠れた。

 山門の前の石段を踏んで寺の境内へ出て見た時の庄助らの驚きはなかった。本堂の正面にある障子の前に立ってたもとからマッチを取り出す半蔵をそこに見つけた。

気狂きちがい。」

 思わず見合わせた庄助らの目がそれを言った。その時、半蔵の放った火が障子に燃え上がったので、驚きあわてた勝之助はそれを消し止めようとして急いで羽織はおりを脱いだ。人を呼ぶ声、手桶ておけの水を運ぶ音、走り回る寺男や徒弟僧などのにわかな騒ぎの中で、半蔵はいちはやくかけ寄る庄助の手に後方うしろから抱き止められていた。放火も大事には至らなかったが、半焼けになった障子は見るかげもなく破られ、本堂の前あたりは水だらけになった。この混雑が静まった時になっても、まだ庄助は半蔵の腕を堅くつかんだまま、その手をゆるめようとはしなかった。

〈[#改頁]〉


   終の章


       一


 とりあえず、笹屋庄助ささやしょうすけ小笹屋勝之助こざさやかつのすけ二人ふたりは青山の本家まで半蔵を連れもどった。ちょうど旧本陣の母屋もやを借りて住む医師小島拙斎せっさいは名古屋へ出張中の時であり、青山の当主宗太も木曾きそ福島の勤め先の方で馬籠まごめには留守居の家族ばかり残る時であったが、これは捨て置くべき場合ではないとして、親戚しんせき旧知のものがにわかな評定ひょうじょうのために旧本陣に集まった。とにもかくにも宗太に来てもらおうと言って、木曾福島へ向け夜通しの飛脚に立つものがある。一同は相談の上、半蔵その人をば旧本陣の店座敷に押しとどめ、小用に立つ時でも見張りのものをつけることにした。

 西筑摩ちくまの郡書記として勤め先にあった宗太はこの通知に接し、取るものも取りあえず木曾路を急いで来て、祭りの日の午後に馬籠に着いた。彼は栄吉や清助らの意見に聞き、一方には興奮する半蔵をなだめ、一方にはこれ以上の迷惑を村のものにかけまいとした。一村の父というべき半蔵にも万福寺の本堂へ火を放とうとするような行ないがあって見ると、周囲にあるものは皆驚いてしまって、早速さっそく山口村の医師杏庵きょうあん老人を呼び迎えその意見を求めることに一致した。一同のおそれは、献扇けんせん事件以来とかくの評判のある半蔵が平常ふだんの様子から推して、いよいよお師匠さまもホンモノかということであった。



 こんな取り込みの中で、秋の祭礼は進行した。青山の家に縁故の深い清助などは半蔵のことを心配して、祭りの前夜は旧本陣に詰めきり、自宅に帰って寝るころに一番どりの声をきいたと言っていたが、その清助も祭りの世話人の一人ひとりであるところから、町の子供たちが村社の鳥居前から動き出すころには自分で拍子木ひょうしぎをさげて行って行列の音頭おんどをとった。羽織袴はおりはかまの役人衆の後ろには大太鼓が続き、禰宜ねぎの松下千里も烏帽子えぼし〈[#「烏帽子」は底本では「鳥帽子」]〉直垂ひたたれの礼装で馬にまたがりながらその行列の中にあった。

 馬籠での祭礼復興と聞いて、泊まりがけで近村から入り込んで来る農家の男女もすくなくない。一里二里の山路を通って来る娘たちなぞは、いずれも一年に一度の祭礼狂言を見ることを楽しみにしないものはない。あのいたいけな馬籠の子供たちがそろいの黒い半被はっぴに、白くあらわした大きな定紋じょうもんを背中に着け、黄色な火の用心の巾着きんちゃくを腰にぶらさげながら町を練り歩くなぞは、近年にはないことだと言われた。ふるい街道の空には笛や三味線の音も起こり、伏見屋の前あたりでは木曾ぶしにつれて踊りの輪を描く若者の群れの「なかのりさん」もはじまるというにぎやかさだ。これで旧本陣のお師匠さまが引き起こしたような思いがけない出来事もなくて、一緒にこの祭りの日を楽しむことができたならと、それを言わないものもなかった。

 どうして半蔵のような人が青山の家に縁故の深い万福寺を焼き捨てようと思い立ったろう。多くの村民にはどこにもその理由が見いだせなかった。なぜかなら、遠い昔に禅宗に帰依きえした青山の先祖道斎が村民のために建立こんりゅうしたのも万福寺であり、今日の住持松雲和尚しょううんおしょうはまたこんな山村に過ぎたほどの人で、その性質の善良なことや、人を待つのに厚いことなぞは半蔵自身ですら日ごろ感謝していいと言っていたくらいだからである。たとえば、彼岸の来るころには中日までに村じゅうを托鉢たくはつして回り、仏前には団子だんご菓子を供えて厚く各戸の霊をまつり、払暁ふつぎょう十八声の大鐘、朝課の読経どきょう、同じく法鼓なぞを欠かしたことのないのもあの和尚である。またたとえば、観音堂かんのんどうへ念仏に見える町内のばばたちのためには茶や菓子を出し、稲荷大明神いなりだいみょうじんを祭りたいという若い衆のためには寺の地所を貸し与え、檀家だんかの重立ったところへは礼ごころまでの般若札はんにゃふだ納豆なっとう、あるいは竹の子なぞを配ることを忘れないで、およそ村民との親しみを深くすることは何事にかぎらずそれを寺の年中行事のようにして来たのもあの和尚である。こんなに勤行ごんぎょうをおこたらない松雲のよくまもっている寺を無用な物として、それを焼き捨てねばならないというは、ほとほとだれにも考えられないことであった。

 山口村の杏庵老人は祭りの最中にも旧本陣へ駕籠かごを急がせて来た。半蔵のことを心配して前日以来かわるがわる店座敷に付ききりでいる親類仲間のまちまちな意見も、老人の診断一つで決するはずであった。万事のみ込み顔な杏庵は早速半蔵の居間へ通り、脈を取ってしらべて見たが、一度や二度の診察ぐらいでそうはっきりしたことも医師には言えないものだとの挨拶あいさつである。ただ杏庵は日ごろ好酒家の半蔵が飲み過ぎの癖をよく承知していたし、それにその人の不眠の症状や顔のようすなぞから推して、すくなくも精神に異状のあるものと認め、病人の手当てを怠らないようにとの注意を与えた。眠り薬を調合して届けるから、それを茶の中へ入れて本人には気づかれないように勧めて見てくれよとの言葉をも残した。ところが、かんじんの本人は一向病気だとも思っていない様子で、まるできつねにでもつままれるような顔をしながら医師の診察を受けたということが知れわたると、村のものが騒ぎ出した。もしお師匠さまが看護のものの目を盗んで部屋へやから逃げ出しでもしようものなら、この先どんなむちゃをやり出すかしれたものではないと言うものがある。あの万福寺での放火の時、もしだれもお師匠さまを抱きとめるものがいなかったとしたら、火はたちまち本堂の障子に燃え上がったであろう、万一その火が五百二十からのかやをのせた屋根へでも燃え抜けたが最後、仏壇や位牌堂いはいどうはもとより、故伏見屋金兵衛が記念として本堂の廊下に残った大太鼓も、故蘭渓らんけいの苦心をとどめた絵襖えぶすまも、ことごとく火となったであろう、そうなれば客殿、方丈、庫裏くりの台所も危ない、ひょっとすると寺の土蔵まで焼け落ちたかもしれない、こんな事が公然と真昼間に行なわれて、しかもキじるしのする事でないとしたら、自分なぞは首をくくって死んでしまいたいと言うものがある。幸いこの放火は大事に至らなかったようなものの、警察の分署へ聞こえたら必ずやかましかろう、もし青山の親戚しんせき一同にこの事を内済にする意向があるなら、なぜ早くお師匠さまを安全な場所に移し、厳重な見張りをつけ、村のもの一同もまた安心して眠られるような適当な方法を取らないのかと息まくものもある。

 半蔵の従兄いとこ、栄吉は親類仲間でも決断のある人である。事ここに至っては栄吉も余儀ない場合であるとして、翌朝は早くから下男の佐吉に命じ裏の木小屋の一部を片づけさせ、そこを半蔵が座敷牢ざしきろうの位置と定めた。早速村の大工をも呼びよせて、急ごしらえの高い窓、湿気を防ぐための床張ゆかばりから、その部屋に続いて看護するものが寝泊まりする別室の設備まで、万端手落ちのないように工事を急がせた。栄吉はまた、町の重立った人々にも検分に来てもらって、木小屋のなかの西のはずれを座敷牢とし、用心よくすべきところにはかぎをかけるようにしたことなぞを説き明かした。なにしろ背は高く、足袋たびなしと言われるほど大きなものをはき、腕の力とても相応にある半蔵のような人をいれる場処とあって、障子を立てる部分には特にその外側に堅牢な荒い格子こうしを造りつけることにした。


       二


 座敷牢ざしきろうはできた。そこで栄吉は親戚しんせき旧知のものを旧本陣の一室に呼び集めてそのことを告げ、造り改めた裏の木小屋の一部にはすでに畳を入れるまでの準備もととのったことを語り、さてそちらの方へ半蔵を導くには、どう彼を説得したものかの難題を一同の前に持ち出した。この説得役には笹屋庄助ささやしょうすけが選ばれた。庄助なら半蔵の気に入りで、万福寺境内からも彼を連れもどって来たように、この場合とても彼を言いなだめることができようということで。

 いかな旧組頭くみがしらの庄助もこの役回りには当惑した。庄助が店座敷の方へ行って見ると、ちょうど半蔵はひとりいる時で、円形まるがたの鏡なぞを取り出し、それに息を吹きかけ、しきりに鏡の面をふいているところであった。それはずっと以前に彼の手に入れた古鏡で、裏面には雲形の彫刻などがしてあり、携帯用のひもの付いたものである。このふるい屋敷の母屋もやを医師小島拙斎に貸し渡すようになってからも、上段の間だけは神殿として手をつけずにあって、その床柱の上に掛けてあったものである。長いこと磨師とぎしの手にもかけないで、うっちゃらかしてあったのもその鏡である。

「庄助さ、お互いに年を取ると顔の形も変わるものさね。なんだかこの節は自分の顔が自分じゃないような気がする。」

 半蔵はあまり周囲のものが自分を病人扱いにするので、古い鏡なぞを取り出して見る気になったというふうに、それを庄助に言って見せた。彼はよくも映らない自分の姿を見ようとして、しきりにその曇った鏡に見入っていた。そして、言葉をついで、

「そう言えば、この二、三日はおれも弱ったぞ。恐ろしいやつに襲われるような気がして、夜もろくろく休めなかった。」

「お師匠さま、お前さまはよく敵が来るなんて言わっせるが、そんなものがどこにおらすか。」と庄助は言う。

「そりゃ、お前たちに見えなくても、おれの目には見える。あいつはいろいろな仮面めんをかぶって来るやつだ。化けて来るやつだ。どうして、油断もすきもあったもんじゃないぞ。恐ろしい、恐ろしい――庄助さ、大きな声じゃ言えないが、この古い家の縁の下にだってあの化け物は隠れているよ。」

 そう言って、半蔵はなおも鏡の面を根気にふきながら、相手の庄助に身をすくめて見せた。

 その時まで庄助は栄吉らから頼まれて来たことをそこへ切り出そうとして、しかもそれを言い得ないでいた。庄助は正直一徹で聞こえた男で、こんな場合に一策を案じるというふうの人ではなかったから、うまいことを言って半蔵を連れ出すつもりはもとよりなかったが、しかし裏の木小屋の方に彼を待ち受けるものが座敷牢とは言いじょう、一面にはそれは病室に相違ないから、その病室での養生ようじょうを言いたてて、それによって半蔵を動かそうとした。この庄助としては、ただただ半蔵の健康状態について村のもの一同心配していることを告げ、すでに病室の用意のできていることを語り、皆の行けというところへ半蔵にもおとなしく行ってもらったら、薬には事を欠かさせまいし、日ごろお師匠さまの世話になったものがかわるがわる看護に当たろうからと、頼むようにするほかの手はなかった。庄助は幾度か躊躇ちゅうちょしたあとで、そのことを半蔵の前に言い出した。

「ふうん。庄助さ、お前までこのおれを病人扱いにするのかい。そんな話をきくとおれは可笑おかしくなる。」とは半蔵の返事だ。

「でも、お師匠さまは御自分だって、気分が悪いぐらいのことは思わっせるずら。」

「いや、おれはそんな病気じゃないぞ。」

 と答えて、半蔵は聞き入れなかった。



 実に急激に、半蔵の運命は窮まって行った。栄吉らは別室で庄助の返事を待っていたが、その庄助が店座敷からむなしく引き返して行って、容易には親類仲間の意見に服しそうもない半蔵の様子を伝えると、いずれも顔を見合わせて、ほとほと彼一人ひとりの処置にこまってしまった。旧問屋といやの九郎兵衛をはじめ、町内の重立った旦那衆にも集まってもらって、広い囲炉裏ばたに続いたくつろぎのではまたまた一同の評定があった。何しろ旧い漢法の医術はすたれ、新しい治療の方法もまだ進まなかった当時で、ことに馬籠のような土地柄では良医の助言も求められないままに、この際半蔵のからだになわをかけるほどの非常手段に訴えてまでも座敷牢に引き立て、一方には彼の脱出を防ぎ、一方には狼狽ろうばいする村の人たちを取りしずめねばならないということになった。これは勢いであって、その座に集まる人々にはもはや避けがたく思われたことである。ところが、だれもお師匠さまを縛るものがない。その時、旧宿役人仲間でも一番年下に当たる蓬莱屋ほうらいやの新助が進み出て、これは宗太を出すにかぎる、宗太なら現に青山の当主であるからその人にさせるがいい、お師匠さまも自分の相続者までが病気と認めると聞いたら我を折るようになるだろうと言い出した。以前から旧本陣に出入りの百姓らにも手伝わせること、日ごろ二十何貫の大兵だいひょう肥満を誇り腕力のたくましいことにかけては町内に並ぶもののない問屋九郎兵衛のごとき人にはことに見張りに働いてもらうこと、それらはすべて馬籠での知恵者と聞こえた新助が考案に出た。

 いよいよ一同の評議は一決した。そのうちに秋の日も暮れかかった。栄吉らの勧めとあって、青山の家族の人々も仲の間に立ち会えという。このことを聞いたお民などは腰を抜かさないばかりに驚いて、よめのおまきに助けられながらかろうじて足を運んだ。そこへ半蔵が店座敷から清助に連れられて来た。

「おとっさん、子が親を縛るというはないはずですが、御病気ですから堪忍かんにんしてください。」

 と半蔵の前にひざまずいて言ったのは宗太だ。

 今や半蔵を縛りに来たものは現在のわが子、血につながる親戚、かつて彼が学問の手引きした同郷の人々、さもなければ半生を通じて彼の望みをかけた百姓たちである。彼はハッとした。

「お前たちは、おれを狂人きちがいと思ってくれるか。」

 彼は皆の前にそれを言って、思わずハラハラと涙を落とした。その時、栄吉の手から縄を受け取った宗太が自分の前に来てうやうやしく一礼するのを見ると、彼はなんらの抵抗なしに、自分の手を後方うしろに回した。そして子の縄を受けた。

 九月末の夕やみが迫って来ている中を母屋もやから木小屋へと引き立てられて行ったのも、この半蔵である。裏の土蔵の前あたりには彼を待ち受ける下男の佐吉もいた。佐吉は暗いかきの木の下にしゃがみ、土の上に片膝かたひざをついて、変わり果てた旧主人が通り過ぎるまではそこに頭をあげ得なかった。


       三


 植松の家にかたづいて行っているおくめがこの報知しらせに接して、父の見舞いに急いで来たのは、やがて十月の十日過ぎであった。彼女が夫の弓夫もすでに木曾福島への帰参のかなったころで、長い留守居を預かって来た大番頭をはじめ小僧たちにまで迎え入れられ、先代菖助しょうすけがのこした屋敷の大黒柱の下にすわり、大いに心を入れ替えて家伝製薬の業に従事するという時であった。この馬籠訪問には、彼女はめったに離れたことのない木曾福島の家を離れ、子供も連れずであった。ただ商用で美濃路みのじまで行くという薬方くすりかたの手代に途中を見送ってもらうことにした。

「あゝ、おとっさんもとうとう狂っておしまいなすったか。」

 その考えは、こまヶ嶽たけ後方うしろに見て木曾路を西へ急いで来る時の彼女の胸をったり来たりした。彼女はおまきが代筆した母お民からの手紙でも読み、弟宗太も西筑摩ちくま郡書記の身でそう馬籠での長逗留ながとうりゅうは許されないとあって、木曾福島の勤め先へ引き返した時のじきじきの話にも聞いて、ほぼ父のようすを知っていた。五人ある姉弟きょうだいの中でも、彼女は父のそばに一番長く暮らして見たし、父の感化を受けることも一番多かったから、父のさびしさも彼女にはよくわかった。彼女は父のことを考えるたびに、歩きながらでもときどき涙ぐましくなることがあった。

 三留野みどの泊まりで、お粂は妻籠つまごに近づいた。ちょうどその村の入り口に当たる木曾川のほとりに一軒の休み茶屋が見えるところまで行くと、賤母しずもの森林地帯に沿うてかわづたいに新しい県道を開鑿かいさくしようとする工事も始まっているころであった。遠くの方で岩壁を爆破させる火薬の音は山々谷々に響き渡った。ふるい街道筋をも変えずには置かないようなその岩石の裂ける音は恐ろしげにお粂の耳を打つ。その時、木曾風俗の軽袗かるさんばきでお粂らの方へ河岸を走って来る二人ふたりづれの旦那衆がある。見ると二人とも跣足はだしで土を踏んでいる。両手を振りながら歓呼をもあげている。その一人が伯父おじの寿平次だった。長い痔疾じしつの全治した喜びのあまりに、同病相憐あいあわれんで来た伯父たちは夢中になって河岸をかけ回り、互いに祝意を表し合っているというところだった。

 お粂と供の手代が着いたのを見ると、寿平次は長い病苦も忘れたように両手をひろげて見せ、大事な入れ歯も吹き出さないばかりに笑って、付近の休み茶屋の方へお粂らを誘った。

「お粂はこれから馬籠へ行く人か。お前も御苦労さまだ。まあ、おれの家へ寄って休んで行くさ。」

「伯父さん、宗太も福島の方へもどってまいりましてね、馬籠のおとっさんのことはいろいろあれから聞きましたよ。」

「そうかい。宗太は吾家うちへも寄って行った。正己まさみもね、あれからずっと朝鮮の方だが、おれの出した手紙を見たらあれも驚くだろう。二、三日前に、おれも半蔵さんの見舞いに行って来た。」

「なんですか、伯父さんの御覧なすったところじゃ、お父さんのようすはどんなでしょうか。」

「それがね、もうすこし模様を見ないと、おれにはなんとも言えん。ホイ、おれはこんなおもしろい格好で話ばかりしていて、まだ足も洗わなかった。お粂、お前はそこに腰掛けていておくれ。」

 寿平次は勝手を知った休み茶屋の奥の方へ足を洗いに行った。やがて下駄げたばきになって、お粂らのいるところへもどって来て、

「やれやれ、おれもこれでき返ったというものだ。きょうは久しぶりで木曾の山猿やまざるに帰った。お前のおっかさん(お民)もあれで痔持ちだが、このおれの清々せいせいしたこころもちを分けてやりたいようだ。どうも痔持ちというやつは、自分ながらむつかしい顔ばかりしていて、養子(正己のこと)にはきらわれどおしさ。」

 こんなことを言って戯れる寿平次も、お粂らと連れだって休み茶屋を離れるころはしんみりとした調子になる。その位置から寿平次の家族が住む妻籠の町まではまだ数町ほどの距離にある。大河の勢いで奥筋の方角から流れて来ている木曾川にも別れて、山や丘の多い地勢を次第に登るようになるのも、妻籠からである。

 寿平次は言った。

「まったく、半蔵さんがあんなことになろうとはだれも思わなかった。一寸先のことはわからんね。あれで医者から見ると、気の違った人というものはいくらこちらから呼びかけても反応のないようなものだそうだね。世離れたもの――医者にはそういう感じがするそうだね。そうだろうなあ、全く世の中とは交渉がなくなってしまうからなあ。医者がああいう患者を置いて来るのは、墓場に置いて来るような気がするという話だが、それが本当のところだろうね。」



 父のことが心にかかって、お粂はそう長いこと妻籠の伯父の家にも時を送らなかった。三、四年ぶりで彼女は妻籠から馬籠への峠道を踏んだ。そこは同じふるい街道筋ではあるが、白木しらきの番所の跡があるような深い森林の間で、場処によっては追剥おいはぎの出たといううわさの残った寂しいところをも通り過ぎなければ、馬籠峠の上に出られない。けれども木曾山らしいのもまたその峠道で、行く先にくりの多い林なぞがお粂にいろいろなことを思い出させた。旦那だんなが木曾福島への帰参のかなったころ、彼女は旦那と共に植松の旧い家の方で一度父半蔵を迎えたこともある。彼女はその時の父がいっぱいにねじ込んだ書物でそのふところをふくらませながらたずねて来たことを覚えている。あれからの彼女は旦那を助けて家を整理するかたわら、日夜兄妹きょうだい二人ふたりの子供の養育に心を砕いたが、その兄の方の子がもはや数えどしの十二にもなった。朝に晩に彼女の言い暮らしたのは、これまで丹精たんせいして来た植松の家にゆっくり父を迎えたいことであった。今となっては残念ながらそれもかなわない。五十余年の涙の多い生涯しょうがいを送った父が最後に行きついたところは、そんな座敷牢ざしきろうであるかと思うと、彼女は何かこう自分の内にもある親譲りのさわりたくないものにいやでも応でもさわるような気がして、その心から言いあらわしがたい恐怖を誘われた。

 馬籠にある彼女の生家さとも変わった。彼女はふるい屋敷の内の裏二階まで行って、久しぶりで祖母のおまんやあによめのおまきと一緒になることができた。父の看護に余念のないという母お民も、彼女の着いたことを聞いて、木小屋の方から飛んでやって来た。ちょうど父はよく眠っているところだと言って、木小屋に働いている下男佐吉に気をつけてもらうよう言い置いて来たと語り聞かせるのもお民だ。父の病室が造られる前後の騒ぎの夢のようであったことから、村の人がそれぞれ手分けをして看護に来てくれるというのは、これもお師匠さまと言われた徳であろうかと語り聞かせるのもまたお民だ。お粂の見舞いに来たことは、だれよりもこの母を力づけた。というのは、おまんもすでに七十八歳の老婦人ではあるが、日ごろから思ったことを口にするような人ではないから、半蔵の乱心についてはどうあさましく考えているやも測りがたく、お槇はまた前掛けをかけたぐらいでは隠し切れないほどの身重になっていて、肩で息をしているような人にそう働かせることもならないからであった。そういう中で、半蔵を看護するお民の苦心も一通りではなかった。

 お民は娘に言った。

「でも、お粂、あれでおとっさんもそうあばれるようなことはなさらない。最初のうちは村の衆も心配して、二人ぐらいずつ交代で夜も昼も詰め切りに詰めていましたよ。この節だって、お前、毎日のようにだれかしら来てはくれますがね、最初のうちのようなことはなくなりました。おとっさんは本を入れてくれろというから、入れてあげると、半日すわって読んでいて、口もおききなさらないことがある。」

「まあ、半蔵さんがあんなことになろうとはだれも思わなかったッて、妻籠の伯父おじさんもそう言っておいででした。お酒がすこしいき過ぎましたねえ。」

 とお粂も答えて、母と共に嘆息した。

 隣家伏見屋の酒店に番頭格として働いている清助がそこへ顔を見せた。新酒売り出しのころにもかかわらず、昔を忘れない清助はそのいそがしいなかにわずかの間を見つけ、裏づたいに酒蔵を回っては青山方の木小屋へ見回りに来る。お粂の着いたことも清助は佐吉から聞いて来たという。

「いやはや、今度という今度はわたしも弱りました。粂さまは何も御存じないでしょうが、亀屋かめや(栄吉のこと)と二人で憎まれ役でさ。お師匠さまにはあの隠宅もありますし、これがただの気鬱症きうつしょうか何かなら、だれもあんな暗いところへお師匠さまを入れたかありません。お寺へ火をつけるようなことがあったものですから、それからおおやかまし。おまけに、ちょうど馬籠の祭礼の最中で、皆あわててしまいましたわい。」

 清助は清助らしいことをかき口説くどいた。薬の力で父がぐっすり眠っているという間、お粂は裏二階に足を休めたが、やがて母や清助に伴われながら木小屋の方への降り口にある深い井戸について、土蔵のそばの石段を降りた。



 北と西は木戸だ。三棟みむねある建物のうしろには竹の大藪おおやぶがめぐらしてあって、東南の方角にあたる石垣いしがきの上には母屋もやの屋根が見上げるほど高い位置にある。これが馬籠旧本陣の裏側にあたるところで、石垣のすぐ下に掘ってある池も深い。武家と公役との宿泊や休息の場処に当てられた昔は、いざと言えば裏口へ抜けられる後方の設備の用心深さを語るかのような、古い陣屋風の意匠がそこに残っている。

 三棟ある建物のうち、その二棟は米倉として使用し来たったところであり、それに連なる一棟が木小屋である。小屋とは言いながら、そこは二階建ての古い建物で、間口も広く造ってある。中央の土間もかなり広く取ってある。下男の佐吉が長いこと自分の世界として働いて来たのもそこで、山から背負って来るまき、松葉の類は皆その小屋に積まれ、わらもそこにたくわえられた。父半蔵の座敷牢はそんな竹の大藪を背後うしろにしたところに隠れていた。

 お粂は母と共に、清助が隣家の方へ裏づたいに帰って行くのにも別れ、小屋の入り口にかまいでいた佐吉にも声をかけて置いて、まず付き添いのもののいる別室の方に父が目をさますまで待った。持って生まれた濃情が半蔵のからだからこんな気のうっする病を引き出したのか、あるいは病ゆえにこんなに人恋しく思うのであるか、いずれともお民には言えないとのことであったが、彼女は夫が遠く離れている子にもしきりにあいたがって、東京の和助のうわさの出ない日もないことなぞを娘に語り聞かせる。お民はまた、この木小屋に移ってからの半蔵に部屋のなかを人知れず歩き回る癖のついたことを言って、あちこち、あちこちとったり来たりする夫の姿を見かけるのは実に気の毒だと語るから、それは父の運動不足からであろうとお粂が母に答えて見せた。そのうちに裏の竹藪へ来る風の音にでも目をさましたかして、半蔵の呼ぶ声がする。お粂は母について父のたり起きたりする部屋にはいった。親子のものが久しぶりでの対面はその座敷牢の内であった。

 その時、お粂は考えて、言葉にも挙動にもなるべく父を病人扱いにしないようにした。それが半蔵の心をよろこばせた。彼は物憂ものうい幽閉の身を忘れたかのように、お民やお粂に向かって何か物を書いて見たいと言い、筆紙のたぐいを入れてくれと頼んだ。

「それがいい。」とお粂も言った。「何か書いてごらんなさるがいい。紙や筆ぐらいは入れてあげますよ。おとっさんの気が晴れるようになさるのが何よりですからね。」

 お粂は人手を借りるまでもなく、自分自身に父の頼むものを整えようとして木小屋を出た。彼女は祖母たちのいる裏二階へ行ってそのことを話して見ると、そういうたぐいのものは皆隠宅(しず)の方にしまい込んであった。その足で彼女は隣家の伏見屋まで頼みに行って、父の気に入りそうな紙の類を分けてもらうことにした。伏見屋には未亡人みぼうじんのおとみがある。この人は先代伊之助が生前に愛用したという形見の筆なぞをもさがし出して貸してくれたので、お粂はそれらの筆紙を小脇こわきにかかえながら木小屋へ引き返して来た。すずりや墨は裏二階にあるもので間に合わせた。彼女は父のためにその墨をって、次第に濃くなって行く墨のにおいをかぎながら、多くの楽しい日を父と共に送った娘の昔をお民のそばに思い出していた。

 半蔵がそのさびしい境涯きょうがいの中で、古歌なぞを紙の上に書きつけ、忍ぶにあまる昔の人の述懐を忍んでわずかに幽閉中の慰めとするようになったのも、その時からであった。お粂が伏見屋から分けてもらって来た紙の中には、めずらしいものもある。越前えちぜん産の大高檀紙おおたかだんしと呼ぶものである。先代伊之助あたりののこして置いて行ったものと見えて、ちょっとこの山家で手に入りそうもない品であるが、ほどのよい古びと共に、しぼの手ざわりとてもなかなかにゆかしい料紙である。半蔵は思うところをその紙の上に書きつけたのであった。

憂国之情慷慨之涙之士

発狂之人。豈其不悲乎。無識人之

眼亦已甚矣。

観斎

 観斎とは、静の屋あるいは観山楼にちなんだ彼が晩年の号である。お粂の目には、父が筆のはこびにすこしの狂いも見いだされなかった。墨痕淋漓ぼっこんりんりとしたその真剣さはかえって彼女の胸に迫った。

 お粂も実はそう長く馬籠にとどまれないで、二、三日の予定で父を見舞いに来た人であった。めったにひとりで家を離れたためしのない彼女はその方のことも心にかかり、それに馬籠と木曾福島との間は途中一晩は泊まらねばならなかったから、この往復だけでも女の足には四日かかった。そこで生家さとに着いた三日目の午後には彼女は父にも暇乞いとまごいして、せめて妻籠泊まりで帰りのみちにつこうとしたが、この暇乞いする機会をとらえることがまた容易でなかった。というのは、父の見舞いに来る人も、来る人も、しまいには皆隠れるように消えて行くというふうで、その父のさびしがりようがお粂にも暇を告げさせないからであった。

 結局、お粂もまた隠れるようにして父から隠れて行くのほかはなかったのである。彼女はそれとなく暇乞いのつもりで、しばらく座敷牢の外に時を送った。秋はもはや木小屋の周囲にも深い。父の回復をいのろうとして裏の稲荷いなりへ願掛けした母お民は露にぬれたお百度の道を踏むに余念もなく、はたけへ通う下男の佐吉も病める旧主人を思い顔である。その辺はお粂が弟たちにとっても幼い時分のよい隠れ場処であったところで、木小屋の前の空地あきち、池をおおう葡萄棚ぶどうだな、玉すだれや雪の下なぞの葉をたれる苔蒸こけむした石垣いしがきから、熟したくりの落ちる西の木戸の外の稲荷のほこらのあたりへかけて、かつて森夫や和助の遊び戯れた少年の日の姿をお粂の胸によび起こさないものはないくらいのところである。まったく外界との交渉を絶たれた父が閉じこもった座敷牢からつくづくときき入るのは、この古い池へ来る村雨むらさめの音であろうかなぞと彼女は思いやった。彼女は木小屋の内にある中央の土間を通り抜けて裏口の方へも出て見た。そこに薄日のもれた竹藪たけやぶは父の心をしずめるところを通り越して、北側の窓へおおいかぶさったような陰気なところだ。どうかするとはげしい風雨にねて木小屋の屋根板ぐらいははね飛ばすほどの力を持った青々とした竹の幹が近くにすくすくと群がり茂っているところだ。彼女はそこいらに落ち重なる竹の枯れ葉にも目をやって、父のいる座敷牢の南側の前まで引き返した。その時だ。半蔵は大きく紙に書いた一文字を出して、荒い格子越しにそれをお粂に示した。

くま。」

 現在の境涯をたとえて見せたその滑稽こっけいに、半蔵は自分ながらもおかしく言い当てたというふうで、やがておのれを笑おうとするのか、それとも世をあざけろうとするのか、ほとんどその区別もつけられないような声で笑い出した。笑った。笑った。彼は娘の見ている前で、さんざん腹をかかえて笑った。驚くべきことには、その笑いがいつのまにか深い悲しみに変わって行った。

きりぎりすくや霜夜のさむしろにころも片敷きひとりかも寝む

 この古歌を口ずさむ時の彼が青ざめたほおからは留め度のない涙が流れて来た。彼は暗い座敷牢の格子に取りすがりながら、さめざめと泣いた。お粂はただただその周囲をめぐりにめぐって、そこを立ち去るに忍びなかったのである。


       四


 十一月にはいって、美濃落合みのおちあい勝重かつしげふるい師匠を見舞うため西から十曲峠じっきょくとうげを登って来た。駅路時代のなごりともいうべき石を敷きつめた坂道を踏んで、美濃と信濃しなの国境くにざかいにあたる木曾路きそじの西の入り口に出た。路傍の両側に立つ一里づかえのきも、それを見返らずには通り過ぎられないほど彼には親しみの深いものになっていた。

 半蔵乱心のうわさが美濃路の方へも知れて行った時、だれよりも先に馬籠へかけつけたのは勝重であったが、その後の半蔵が容体も心にかかって、また彼はこの道を踏んで来たのであった。その彼が峠の上の新茶屋で足を休めて行こうとするころはかれこれもう昼時分に近い。彼は茶屋の軒をくぐって、何か有り合わせのもので茶漬ちゃづけを出してもらおうとすると、亭主ていしゅが季節がらの老茸ろうじでも焼こうと言っているところへ、ちょうど馬籠の方からやって来る中津川の浅見老人(半蔵の旧友、景蔵のこと)にあった。この人も半蔵の病んでいると聞くのに心を痛めて、久しぶりで馬籠旧本陣をたずね来たその帰りがけであるとのこと。

 勝重は景蔵を茶屋に誘い入れて、さしむかいに腰掛けた。景蔵ももはやつえをそこに置いて馬籠の方のことを語り出すほどの年配である。さすがに景蔵はあの木小屋のわびしいところに旧友を見る気にはなれなかったと言って、裏二階に住む青山の家の人たちに見舞いを言い入れ、病人の容体を尋ねるだけにとどめて来たという。そういう景蔵は中津川をさして帰って行く人、勝重は落合からやって来た人であるが、この二人ふたりは美濃の方で顔を合わせる機会もすくなくはなく、そのたびに半蔵のうわさの出ないこともなかったくらいの間がらだ。発狂の人として片づけてしまえばそれまでだが、どうしてあの半蔵が馬籠にも由緒のある万福寺のようなところを焼き捨てる心になったろうとは、これまでとても二人の間に語られ来たなぞであった。

 勝重は今さらのように心の驚きを繰り返すというふうで、やがて茶屋の亭主がそこへ持ち運んで来た焼きたての老茸ろうじを景蔵にすすめ、自分でも昼じたくをしながら話した。勝重にして見ると、あの「馬籠のお師匠さまが」と思うと、そんなところへ落ちて行った半蔵が運命の激しさを考えるたびに、まるでうそのような気もすると思うのであった。まったく思いがけないことが彼の目の前に起こって来たのだ。彼は少年期から青年期へかけての三年をあの馬籠旧本陣に送った日のことを思い出し、そこの旧主人を暗い座敷牢にすわらせるまでの家人の驚きを思いやって、おそらくその中でも一番驚いたのはお師匠さまの奥さんであったろうと想像するのであった。彼も、日ごろの多忙にかまけて、たまにしかあのしずたずねることもしなかった。でも、半蔵の顔を見るたびに、旧師も年を取れば取るほどよいところへ出て行ったようにおもい見ていた。こんな乱心が青山半蔵の最期とは彼には考えられもしなかった。

 勝重は言った。

「浅見さん、あなたの前ですが、あなたがたがあの平田先生のあとを追いかけたようには、あたしどもはお師匠さまのあとを追いかけることもしませんでしたね。その熱心がわたしどもには欠けていたんです。もっとわたしどもがお師匠さまと一緒に歩いたら、こんなあやまちはさせずに済んだかもしれません。」

 そういう彼はさも残念なというこころもちを顔に表わしていたが、しかも衷心の狼狽ろうばいは隠そうとして隠せなかった。岩崎長世、あるいは宮川寛斎なぞの先輩について、はじめて国学というものに目をあけた半蔵がふるい学友のうち、中津川の香蔵もすでに故人となって、今は半蔵より十年ほども早く生まれた景蔵だけが残った。この平田門人は代々中津川の本陣で、もっぱら人馬郵伝の事を管掌し、東山道中十七駅の元締もとじめに任じて来た人で、維新間ぎわまでは同郷の香蔵と相携えて国事に奔走し、あるいは京都まで出て幾多の政変のうずの中にも立ち、あるいは長州人士を引いていわゆる中津川会議を自宅に開かせ、あるいはまた幕府の注意人物であった多くの志士を自宅にかばい置くなど、百方周旋していたらないところのないくらいであったが、いよいよ王政復古の日を迎えると共に全く草叢くさむらの中に身を隠してしまったのもこの景蔵である。当年の手記、奏議、書翰しょかん等の類に至るまで深くしまい込んでしまって、かつてそれを人に示したこともない。明治元年に権令ごんれい林左門が笠松かさまつ県出仕を命じたが、景蔵は病ととなえて固く辞退した。それでも許されなかったので、三日事をみたぎり、ぶらりと京都の方へ出かけて行って、また仕えなかった。同じく二年に太政官だじょうかんは彼を弾正台内監察だんじょうだいないかんさつに任じた。それもおのれの志ではないとして、拝命後数か月で辞し去ってしまった。明治九年から十二年まで、彼は特に選ばれて岐阜ぎふごん区長の職にあったが、その時ばかりは郷党子弟のためであるとして大いに努めることをいとわなかった。すべてこのたぐいだ。この人から見ると、故寛斎老人が生前によく半蔵のことを言って、半蔵の一本気と正直さと来たら、一度これが自分らの行く道だと見さだめをつけたら、それを改めることも変えることもできないのがあの半蔵だと評した言葉もおもい当たる。景蔵、半蔵、この二人は維新後互いに取るみちも異なっていた、あれほど祖先を大切にする半蔵がその祖先の形見とも言うべき万福寺本堂に火を放とうとしたというは、その実、何を焼こうとしたのか、平田同門のふるい友人にすらこのなぞばかりは解けなかった。



 しかし、座敷牢へ落ちて行くまでの半蔵が心持ちをたどって見ようとするものも、この旧い友人のほかにない。景蔵は勝重のような後進の者を前に置いて、何もおおい隠そうとする人ではなかった。彼に言わせると、古代復帰の夢想を抱いて明治維新の成就じょうじゅを期した国学者仲間の動き――平田鉄胤かねたね翁をはじめ、篤胤あつたね没後の門人と言わるる多くの同門の人たちがなしたこと考えたことも、結局大きな失敗に終わったのであった。半蔵のような純情の人が狂いもするはずではなかろうかと。

 平素まことに言葉もすくなく、口に往時を語ろうともせず、ただただあわれ深くこの世を見まもって来たような景蔵からこんなに胸をひろげて見せられたことは、ちょっと勝重には意外なくらいだった。年老いたとは言いながらもまだ記憶の確かなのも景蔵だ。勝重はこの老人をつかまえて種々さまざまなことを問い試みようとした。たとえば、民間にいて維新に直面した景蔵のような人は実際この大きな変革をどう思っているかのたぐいだ。その時の景蔵の答えに、維新の見方も人々の立場立場によっていろいろに分かれるが、多くの同時代の人たちが手本となったものはなんと言っても大化たいかいにしえであった。王政復古の日を迎えると共に太政官を置き、その上に神祇官じんぎかんを置いたのも、大化の古制に帰ろうとしたものである。人も知るごとく、この国のものが維新早々まッ先に聞きつけたのは武家の領土返上という声であったが、そればかりでなく、僧侶そうりょの勢力もまたくつがえさなければならないと言われた。この二つの声はほとんど同時に起こった。というのは、彼ら僧侶が遠く藤原ふじわら氏時代以来の朝野の保護に慣れて、不相応な寺領を所有するに至ったためである。廃藩といい、廃仏ということも、その真相は土地と人民との問題であった。この景蔵の見地よりすれば、維新の成就をめがけ新国家建設の大業に向かおうとした人たちが互いに呼吸を合わせながら出発した当時の人の心はすくなくも純粋であった。彼景蔵のような草叢くさむらの中にあるものでも平田一門の有志と合力し、いささかこの盛時に遭遇したものであるが、しかし維新の純粋性はそう長く続かなかった。きびしい意味から言えば、それが三年とは続かなかった。武家と僧侶との二つの大きな勢力がくつがえされて行くころは、やがて出発当時の新鮮な気象もまた失われて行く時であった。そこには勝利があるだけだった。

 それぎり景蔵は口をつぐんで、同門の人たちのことについてもあまり多くを語ろうとはしなかった。勝重は思い出したように、

「そう言えば、浅見さん、わたしどもが明治維新の成り立ったことを知ったのは、馬籠のお師匠さまより一日ほど早かったんです。今になってわたしもいろいろなことを考えますが、あの時分はまだ子供でした。一晩寝て、目がさめて見たら、もう王政復古が来ていた――そんなことを言って、あの蜂谷はちやさん(故香蔵のこと)には笑われるくらいの子供でした。蜂谷さんはあんたからの手紙を受け取って、まだ馬籠じゃこんな復古の来たことも知らずにいるんじゃないか、この手紙は早く半蔵さんにも読ませたいと言って、その途中にわたしをも誘ってくだすったんです。忘れもしません、あれは慶応二年の十二月でした。街道は雪でまッ白でした。わたしは蜂谷さんと二人でさくさく音のする雪を踏んで、この峠を登って来たものでした。」

「そうでしたよ。ちょうど、わたしは京都の方でしたよ。あの手紙は伊勢久いせきゅうの店のものに頼んで、飛脚で出したように覚えています。」と景蔵が言う。

「まあ、聞いてください。馬籠のお師匠さまも虫が知らせたと見えて、荒町の方からやっておいでなさる。行きあって尋ねて見ますと、これから中津川へ京都の方の様子をききに行くつもりで家を出て来たところだとおっしゃる。そんならちょうどいい、お師匠さまも中津川まで行かずに済むし、わたしどもも馬籠まで行かずに済む、峠の上で話そうじゃないかということになりまして、それから三人で大いに話したのも、この茶屋でした。」

「あれから足掛け二十年の月日がたちますものね。」

 御休処おやすみどころとした古い看板、あるものは青くあるものは茶色に諸講中こうじゅうのしるしを染め出した下げ札、それらのものの軒にかかった新茶屋で、美濃から来たもの同志こんなことを語り合った。気まぐれな秋風は来て旧い街道を吹きぬけて行った。

 中津川をさして帰って行く景蔵にもその十曲峠の上で別れて、やがて勝重は新茶屋を出た。路傍の右側に立つ芭蕉ばしょうの句碑の前あたりには、石に腰掛け、さるを背中からおろして休んで行く旅の渡り者なぞもある。もはや木曾路経由で東京と京都の間を往復する普通の旅客も至ってすくなかったが、中央の交通路としてはこの深い森林地帯を貫く一筋道のほかにない。勝重は中のかやから、荒町の出はずれまで歩いて行って、飯田いいだ通いの塩の俵をつけた荷馬の群れに追いついた。

 その辺まで行くと、かなたの山腹にるこんもりとしたすぎの木立ちの光景が勝重の目の前にひらけて来る。万福寺はそこに隠れているのだ。本堂の屋根ももりのかげになって見ることはかなわなかったが、しかし彼は馬籠の村社諏訪すわ分社のみすぼらしさに思い比べて、山腹に墳墓の地をいだくあの古い寺が長い間の村の中心の一つであったことを容易に想像することはできた。あだかも、遠い中世の昔はまだそんなところにも残って、朝晩の鐘に響きを伝えているかのように。

 馬籠峠の上は幾層かの丘より成る順登りの地勢で、美濃よりする勝重には一つの坂を越したかと思うと、また一つの坂を登らねばならないようなところだ。浅い谷がある。土橋がある。谷川も走り流れて来ている。その水を渡って、岩石の多い耕地が道の左右に見られるところへ出ると、彼は新茶屋での景蔵の話を思い出して深いため息をついた。さらに石を敷きつめた坂を登って馬籠の町はずれへ出ると、彼はこれから見舞おうとする旧い師匠が前途のことをおもい見て、これにもまた深いため息をついた。



 その日、勝重はかねて懇意にする伏見屋に一晩泊めてもらうつもりであったから、旧本陣をあと回しにして、まず二代目伊之助の家族をたずねた。そこには先代の遺志をついでなにくれとなくお民らの力になる二代目夫婦があり、これまで半蔵の教えを受けて来た三郎やお末のような師匠思いの兄妹きょうだいがあり、今となって見れば先代伊之助を先立ててよかったと言って、もしあの先代がいまだに達者たっしゃでいたら、どんなに今ごろは心をいためたろうと言って見る未亡人のお富があり、日に一度は必ず隣家の木小屋を見回ることを怠らない番頭格の清助もある。季節がら、木曾の焼き米でも造ったおりは、まずお師匠さまへと言って、日ごろその青い香のするやつを好物にする半蔵がもとへ重詰めにして届けることを忘れないのもこの家族だ。

 その足で勝重は旧本陣の方に見舞いを言い入れに行った。裏の木小屋まで行かないうちに、彼はお民にあって、師匠のことをたずねると、お民の答えには、この二、三日ひどくかんの起こっているようすであるとのこと。彼女は病人の看護も容易でないと言って、村の人たちへは気の毒でならないとの意味を通わせる。

「奥さん、」と勝重は言った。「酒はお師匠さまには禁物きんもつでしょうが、ああして置いたら自然とおからだが弱りはしまいますまいか。いくら御謹慎中でも、すこしはお勧めした方がいい。そう思いましてね、今日はほんのすこしばかり落合の酒を持参して見ました。これは人には話さずに置いてください。あとで奥さんにお預けしてまいりますから、すこしずつ内証であげて見ていただきたい。」

 そういう勝重が羽織のかげに隠し腰に着けている一つの瓢箪ふくべをお民に出して見せ、それから勝手を知った木小屋の方へ行こうとしたので、お民はちょっと勝重のそでを引きとめて言った。

「勝重さん、うっかりうちのそばへは行かれません。ほんとに病人というものは油断がならないとわたしも思いましたよ。こないだも、うちがしきりに呼ぶものですから、何の気なしにわたしは格子の前へ行って立ったことがありました。お民、ちょっとおいで、ちょっとおいで、そんなことを言って、あの格子の内から手招きするじゃありませんか。どうでしょう、そのわたしの手をつかまえて力任せになかへ引きずり込もうとしました。あの時は、もうすこしでこの腕がちぎれるかと思いました。勝重さん、あなたも気をつけてくださいよ。」

 座敷牢での朝夕はこんなに半蔵をさびしがらせるのだ。勝重は、さもあろうというふうにお民の話をきいた後、やがて木小屋の周囲まわりに人のないのを見すまして、例の荒い格子の前まで近づいた。

「敵が来る。」

 師匠の声だ。それは全く外界との交渉も絶え果てたような人の声だ。その声がまず勝重の胸を騒がせる。

「お師匠さま、わたしでございます。勝重でございます。」

 思いがけない弟子でしの訪れに、格子の内の半蔵もややわれに帰ったというふうではあった。苦髪楽爪くがみらくづめとやら、先の日に勝重が見に来た時よりも師匠がひげの延び、髪はうずらのようになって、めっきり顔色も青ざめていることは驚かれるばかり。でも、師匠は全く本性を失ってはいない。ややしばらく沈黙のつづいた後、

「勝重さん、わたしもこんなところへ来てしまった。わたしは、おてんとうさまも見ずに死ぬ。」

 半蔵は荒い格子につかまりながらそれを言って、愛する弟子の顔をつくづくとながめた。

「そんなお師匠さまのようなことを言わないで……御気分が治まりさえすれば、いつでもあの静の屋の方へお帰りになれますぞ。その時は勝重がまたお迎えにあがります。みんな首を長くしてその日の来るのをお待ち申しています。時に、お師匠さま、ちょうど昔で言えば菊の酒を祝う季節もまいっておりますから、実は瓢箪ふくべにお好きな落合の酒を入れまして、腰にさげてまいりました。しばらくお師匠さまもさかずきを手にはなさいますまい。」

 勝重が半蔵の見ている前で、腰につけて来た瓢箪のせんを抜いて、小さな木盃に酒をつごうとした時、半蔵はじっと耳を澄ましながら細い口から流れ出る酒の音をきいていた。そして、コッ、コッ、コッ、コッというその音を聞いただけでも口中につばを感ずるかのような喜び方だ。弟子の勧めるまま、半蔵は格子越しにそれをうけて、ほんの一、二こんしか盃を重ねなかったが、しかし彼はさもうまそうにそのわずかな冷酒を飲みほした。甘露かんろ、甘露というふうに。かつてこんなうまい酒を味わったことはないというふうにも。

 看護するものが詰める別室の方には人の来るけはいもしたので、それぎり勝重は半蔵のそばを離れた。師匠と二人ふたりぎりの時でもなければ、こんな話も勝重にはかわされなかったのである。しばらく別室に時を送った後、また勝重は半蔵を見に行こうとして、思わず師匠がひとり言を聞いた。

「勝重さんはどうした。勝重さんはいないか。いや、もういない……こんなところにおれを置き去りにして、落合の方へ帰って行った……師匠の気も知らないで、体裁のよいことばかり言って、あの男も化け物かもしれんぞ。」

 その声を聞きつけると、勝重は木小屋の土間にもいたたまれなかった。彼は裏の竹藪たけやぶの方に出て、ひとりで激しく泣いた。


       五


 恵那山えなさんへは雪の来ることも早い。十月下旬のはじめには山にはすでに初雪を見る。十一月にはいってからは山家の子供の中には早くも猿羽織さるばおりを着るものがある。百姓が手につかむ霜にも、水仕事するものが皮膚に切れるひびあかぎれにも、やがて来る長い冬を思わせないものはない。

 落合の勝重が帰って行ったあとの木小屋には、一層の寂しさが残った。朝晩もまさに寒かった。木小屋の位置は裏山を背にする方が北に当たったから、水の底にでも見るような薄日しか深い竹藪たけやぶをもれて来ない。夜なぞ、ことにそちらの方面は暗く、物すごかった。こんな日の続いて行く中で、座敷牢にいる人が火いじりのあぶなさを考えると、炬燵こたつ一つ入れてやって凍えたからだをあたためさせるすべもないとしたら。そう思って震えるものは、ひとり夫の看護に余念のないお民ばかりではなかった。

 しかし、もうそろそろ半蔵にその部屋へやから出て来てもらってもよかろうと言い出すものは一人ひとりもない。お師匠さまには、できるだけ長くその部屋にいてもらいたいと言うものばかり。木小屋の戸締まりは一層厳重になり、見張りのものは交代で別室に詰め、夜番は火の用心の拍子木ひょうしぎを鳴らして、伏見屋寄りの木戸の方から裏の稲荷いなりの辺までも回って歩いた。

 ある日の午後、馬籠峠の上へはまれにしか来ないような猛烈なひょうが来た。にわかにかき曇った晩秋の空からは重い灰色の雲がたれさがって、雷雨の時などに降るあられよりも大粒なやつを木小屋の板屋根の上へも落とした。やがて氷雨ひさめの通り過ぎて空も明るくなったころ、笹屋庄助ささやしょうすけと小笹屋勝之助の両名が連れだってそこいらの見回りに出たが、二人の足は何かにつけて気にかかる半蔵の座敷牢の方へ向いた。途中で二人の行きあう百姓仲間のものに驚き顔でないものはない。あるものは牛蒡ごぼうを掘りに行ってこの雹にあったといい、あるものは桑畠くわばたけを掘る最中であったといい、あるものは引きかけた大根の始末をするいとまもなく馬だけ連れて逃げ帰ったという。すこしの天変地異でもすぐそれを何かの暗示に結びつけて言いたがるのは昔からの村の人たちの癖だ。

 こんな空気の中で、庄助らが半蔵を見に行くと、どうもお師匠さまのようすがよくないという清助と落ち合った。半蔵の方でもだえればもだえるほど、今ここでそんな人に木小屋から飛び出されては困るという腹は庄助らにだってある。近年まれなものが降って陽気もまた非常に寒くなったが、お師匠さまもどうしているか、その見舞いを言い入れに来た庄助らは何よりもまず半蔵が格子の内から呼ぶ荒々しい声に驚かされた。

「さあ、攻めるなら攻めて来い。矢でも鉄砲でも持って来い。」

 血相を変えている半蔵がようすの尋常でないことは、ひょうどころの騒ぎではなかった。もはや半蔵は敵と敵でないものとの区別をすら見定めかぬるかのよう。そして、この世の戦いに力は尽き矢は折れてもなおも屈せずに最後の抵抗を試みようとするかのように、自分で自分のくそをつかんでいて、それを格子の内から投げてよこした。庄助の方へも、勝之助の方へも、清助の方へも。

「お師匠さま、何をなさる。」

 庄助はあさましく思うというよりも、仰天してしまった。その時、声を励まして、半蔵を制するように言ったのも庄助だ。

「や、また敵が襲って来るそうな。おれは楠正成くすのきまさしげの故知を学んでいるんだ。屎合戦くそがっせんだ。」

 旧組頭なぞの制することも半蔵の耳に入らばこそだ。これまで幽閉の苦しみを忍びに忍んで来た彼は手をすり足をすりして泣いても足りなかったというふうで、なおも残りの屎を投げてよこそうとする。木小屋の土間にいてあちこちと避け惑うものの中には、どうかするとそこへすべってころびそうになった。ぷんとした臭気は激しく庄助らの鼻をついた。

「これはたまらん。」

 と言い出した清助をはじめ、庄助も、勝之助も、その土間の片すみに壁によせて置いてあるむしろの類を見つけ、あり合うものを引きかぶって逃げた。


       六


 万事終わった。半蔵がわびしい木小屋に病み倒れて行ったのはそれから数日の後であったが、月の末にはついに再びたてなかった。旧本陣の母屋もやを借りうけている医師小島拙斎も名古屋の出張先から帰って来ていて、最後まで半蔵の病床に付き添い、脚気衝心かっけしょうしんの診断を下した。夜のひき明けに半蔵が息を引き取る前、一度大きく目を見開いたが、その時はもはや物を見る力もなかった。もとよりお民らに呼ばれても答える人ではなかった。享年五十六。五人もある子の中で彼のまくらもとにいたものは長男の宗太ばかり。おくめですら父の臨終には間に合わなかった。

 その暁から降り出した雨はやみそうもない。裏藪うらやぶの竹の葉にそそぐ音だけでも、一雨ごとにこの山里へ冬のやって来ることを思わせる。お民らが半蔵の枕もとに付いていてほのかな鶏の声をきいたころに、彼はすでにこの世の人ではなかったのであるが、時を置いて彼の顔をのぞきに行くたびに、雨に暗い空も明けて行き、青白い光線は東南の間にあたる高い窓からその部屋へやへさし入って来た。やがて皆のものがうち寄って半蔵のからだをぬぐいきよめるころは、そこいらはもう朝だ。遺骸いがいは青いござの上に横たわり、枕の位置も変わって見ると、病床もすでに死の床ではあったが、しかしお民らの目にはまだ半蔵がそこに眠っているかのようであった。

 栄吉、清助、庄助、勝之助らは前後して木小屋に集まりつつあった。隣家からは二代目伊之助の顔も見えた。半蔵が二人の若い弟子、伏見屋の三郎と梅屋の益穂ますほとがこんな時の役に立とうとして皆の間に立ちまじっているさまも可憐かれんであった。一刻も早く遺骸はよそへ移したい、こんな忌まわしい座敷牢ざしきろうの中には置きたくない、とは一同のものの願いであったが、さて母屋もやの方へ移すべきか、隠宅の静の屋の方へ移すべきかの話になると、各自意見もまちまちで相談は容易にまとまらなかった。母屋をえらびたいのは山々だが、現在医師の開業しているところを明け渡させるのはたとい二、三日でも故人の本意ではなかろうと言うものがある。そうかと言って、あの静の屋のような狭い小楼からお師匠さまの葬式が出せるかと言うものがある。この事は、拙斎自身の申し出で母屋と一決した。馬籠の庄屋と本陣問屋とを兼ねた最後の人を見送る意味からも、古い歴史のある記念の家をこころよく使用してもらいたいとは、拙斎が申し出であった。

 雨は降ったりやんだりしているような日であったが、すこし小降りになった時を見て、半蔵の遺骸いがいにはみのをかけ、やがて木小屋から運び出されることになった。多感な光景がそこにひらけた。生前古い青山の家にはもはや用のないような人間だとよく言い言いしたその半蔵も変わり果てた姿となって、もう一度旧本陣の屋根の下へと帰って行ったのである。その旧主人の死体を蒲団ふとんぐるみ抱きかかえながら木小屋から母屋もやへと持ち運んだのは、おもに下男佐吉の力であった。それには以前に出入りした百姓仲間の兼吉や桑作の手伝いもあった。宗太はじめ、三郎、益穂らはいずれも雨傘あまがさをさしかけて、その前後をまもって行った。



 半蔵の死が馬籠以外の土地へも通知されて行くころには、近在からくやみを言い入れに集まるふるい弟子たちもすくなくなかったが、その中でだれよりも先に急いで来たものは落合の勝重であった。

 勝重が思い出の深い本陣屋敷に来て見た時は、師匠の遺骸はすでに奥の上段の間の隣り座敷に安置してあった。彼はまず青山の家族にあって、長い看護に疲れ顔なお民にも、七十八歳の高齢で義理ある子を先立てたおまんにも、それから宗太夫婦にも厚く弔みを述べた。奥座敷の方へも進んで行って、神葬の古式による清げな白木の壇の前にひざまずき、畳の上にひたいをすりつけて、もはやこの世の一切の悲しいや苦しいも越えているように厳粛おごそかな師匠の死顔を拝した。まだ棺もできては来ず、荒町の禰宜ねぎの顔も見えなかったが、そこいらには馬籠町内の重立った人たちも集まっていた。埋葬の場処は、と勝重が宗太に尋ねると、家政改革後は倹約第一の場合ででもあるから、万福寺山腹に古くからある墓地の片すみをえらむことにして、そのことはすでに寺へも通じてあるという。これには勝重はひどく残念がって、なんとかしてもっと適当な場処を求めなるべく手厚く師匠を葬りたいと言い、墓地続きの寺のはたけでも譲り受けられるなら、及ばずながらその費用等は自分ら弟子仲間で心配するとの意見をそこへ持ち出した。というのは、青山家の墓地も先祖代々のたくさんな墓石でうずめられ、ほとほと割り込むすきもないことを勝重もよく知っていたからであった。

「どうも、お弟子が来て厄介やっかいなことを言い出したぞ。」

 宗太の目がそれを言った。でも、こんなに父の死を惜しんでくれる人たちもあるというその熱いこころに動かされて、宗太も倹約一方の説をくつがえし、結局勝重の意見をいれた。栄吉や清助は宗太の意を受けて、改めて埋葬の地を相するため雨の中を出かけた。

 悲しい夜が来た。霊前には親戚しんせき旧知のものが集まったが、一同待ち受ける妻籠つまごからの寿平次、実蔵、それに木曾福島からのおくめ夫婦はまだ見えなかった。なんと言っても旧本陣のことで、以前から縁故の深かった十三人の百姓の家のもの、大工、畳屋から髪結いまでがそこへ来て、半蔵生前の話が尽きない。あるものは子供の時分、本陣の裏庭へ巴旦杏はたんきょうを盗みに忍び入って、うしろからうんと一つどやしつけられたが、その人がお師匠さまであったことは今だに忘れられないとの話をはじめる。その話をはじめたものはまた、半蔵がたもとの中にいっぱい蜜柑みかんを入れていてよく村の児童こどもに分け与えるような幼いものの友だちであったと言い、自分もまたその蜜柑に誘われてお師匠さまの家に通いはじめ、その時から読み書きの道を覚えたことも忘れられないなぞと語り出す。

 明治十九年十一月二十九日の夜のことで、戸の外へはまた深い山の雨が来た。勝重はその初冬らしい雨の音をききながら、互いにひざをまじえている村の人たちの思い出に耳を傾けて、そんな些細ささいな巴旦杏や蜜柑の話に残る師匠が人柄のゆかしさを思った。



 翌日の午後、勝重は伏見屋の主人(二代目伊之助)と連れだって万福寺の門前に出た。寺より譲り受ける墓地の交渉もまとまったので、勝重らはその挨拶あいさつを兼ね、ついでに師匠を葬るべき場所を見回りたいためであった。なお、師匠の葬儀は十二月朔日ついたちまったので、寺の境内を式場に借りうけるため、宗太から頼まれて来た打ち合わせの用事もあった。この事は青山小竹両家が神葬改典の当時に、半蔵や初代伊之助と松雲和尚との間にかわされた口約束による。勝重もほとんど不眠の一夜を師匠の霊前に送ったあとなので、懇意な伏見屋方で二時間ばかり寝かしてもらったが、またその日には妻籠の連中やお粂夫婦を迎えて今一夜師匠の棺の前に語り明かすはずである。おまけに、次ぎの日の葬儀を控えている。でも、男ざかりの彼は、どんな無理してもこの激しい疲労に打ち勝ち、生前格別の世話になった師匠の温情にむくいようとした。

 ちょうど松雲和尚は、万福寺建立以来の青山家代々が恩誼おんぎを思い、ことに半蔵とは敬義学校時代のよしみもあるので、和尚は和尚だけのこころざしを受けてもらいに、旧本陣まで今々行って来たというところであった。松雲は勝重らを方丈に迎え入れ、寺の境内を今度の式場にあてるための準備もすでにほぼ整えてあること、墓地の譲り渡し等にも寺としてはできるだけの便宜を払ったことを勝重らに告げ、茶菓なぞ取り出していんぎんに二人の客をもてなした。そして、例の禅僧らしい沈着な調子で、勝重らに聞いてもらいたいことがあると言い出した。半蔵があんな放火を企てたのは全くの狂気きちがいざたと考えるかと二人に尋ね、和尚にはそうばかりとも思われないと言うのであった。どうして松雲がそんな疑いをいだくかというに、平田門人としての半蔵が寺院ももはや無用な物であるとの口吻こうふんをもらしたのは晩年にはじまったことでもなく、上は諸大名から下は本陣、問屋、庄屋、組頭、それから五人組の廃された当時、すでにすでに半蔵はその考えを起こしていて、僧侶そうりょもまた同じように廃さるべきものとしたろうと松雲にはおもい当たるからであった。松雲は半蔵の創立した敬義学校に事を共にして見て、この寺の本堂を児童教育の仮教場にあてた際に、早くも半蔵の意のあるところを感知したのであったという。これは全く廃仏を意味する。また、全くの白紙に帰って行くことを意味する。信教自由の認められて来た今日、こんな山の上の寺を焼き払うような挙動は、子供らしいと言えばそれまでだが、しかしその道徳上の効果はちいさいとは言いがたい。半蔵のはそれをねらったものではなかろうか。もともと心ある仏徒が今日目をさますようになったというのも、平田諸門人が復古運動の刺激によることであって、もしあの強い衝動を受けることがなかったなら、おそらく多くの仏徒は徳川時代の末と同じような頽廃たいはいと堕落とのどん底に沈んでいたであろう。半蔵は例の持ち前の凝り性と感情とに駆られて、教部省のやり口に安んじられず、信教自由をも不徹底なりとして、ついにこんな結果を招いたものとしか思われない。これが松雲一流のにらみ方であった。そういう和尚は半蔵のために、もうすこしでこの寺の本堂を焼かれようとした当面の人であるだけに、半蔵の不思議な行為をなぞとしてのみ看過みすごすことはできなかったと訴えるのであった。もっとも、松雲は今までだれにもこんなことを口外する人ではなかった。半蔵の死にあって見て、勝重らにこれを告げるのであるという。その時、勝重はまゆの白い和尚の顔をしげしげと見つめて、

「和尚さま、そういうあなたのお考えでしたら、なぜもっと早くそれを言い出して、お師匠さまを救ってはくださらなかったんです。」

 と言った。松雲にして見ると、一切は勢いであって、和尚の力にもどうすることもできなかった。もし半蔵が勢いに逆らおうとしなかったなら、あんなに衆のために圧倒されるようなことはなかったであろう。松雲はそれを勝重らに言って、見殺しにするつもりもなく半蔵を見殺しにしたと嘆息した。

「しかし、お二人の前ですが、今度という今度はつくづくわたしも世の無常を思い知りました。」

 とまた松雲は静かに言い添えて、小さな葛籠つづら風呂敷包ふろしきづつみにしてあるのを取り出して来た。あだかも、和尚の本心はその中にこめてあるというふうに。驚くべきことには、遠からず和尚にやって来る七十のよわいを期して、長途の旅に上る心じたくがそこにしてあった。

 松雲には日ごろからたたかうまいとしていたことが四つある。命とたたかわず、法とたたかわず、理とたたかわず、勢とたたかわずというのがそれだ。その時、和尚は半蔵が焼こうとした寺にも決してなんらの執着を持たないおのれの立場を明らかにして、それをもって故人への回向えこうに替えようとしていた。ただ法務と寺用とをこのままに放棄するのは師恩に報ゆべき道でないとなし、それには安心して住持の職を譲って行けるまでにもっと跡目相続の弟子を養い、雨漏りのする本堂の屋根の修繕をも成し遂げ、一切心残りのないようにして置いて、七十の声を聞いたならばその時こそは全国行脚あんぎゃをこころざし、一本の錫杖しゃくじょうを力に、風雲に身を任せ、古聖も何人なんぴとぞと発憤して、戦場に向かうがごとくに住み慣れた馬籠の地を離れて行きたいことなぞを勝重らの前に打ち明けた。和尚はあとの住持のために万福寺年中行事なるものの草稿を作り、弟子の心得となるべき禅門の教訓をもいろいろとしたためて、仏世のいがたく、正法の聞きがたく、善心の起こしがたく、人身の得がたく、諸根のそなえがたいことを教えて置いて行こうとしてあった。手回しのいいこの和尚はすでに旅の守り袋を用意したと言って、青地のにしき切地きれじで造ったものをそこへ取り出して見せた。梵文ぼんぶんの経の一節を刻んであるインド渡来の貝陀羅樹葉ばいだらじゅよう、それを二つ折りにして水天宮すいてんぐうの守り札と合わせたものがその袋の中から出て来た。古人も多く旅に死せるありとやら。いずこに露命は果てるとも測りがたいおもんぱかりから、この寺に残し置くべき辞世までも和尚は用意してある。それには紙の上に一つの円が力をこめて書きあらわしてあり、その奥には禅家らしいも書き添えてある。前途幾百里、もしその老年の出発の日が来て、西は長崎の果てまでも道をたどりうるようであったら、遠く故郷の空を振り返って見る一人の雲水僧うんすいそうのあることを記憶して置いてくれよとの話も出た。

 やがて勝重は伏見屋主人と共に和尚のもとを辞した。万福寺の山門を出てから、彼は連れを顧みて言った。

「まあ、お師匠さまもあんな最後をなすったんじゃ、だれだって寝ざめがよかありません。厚く葬ってあげるんですね。」

 二代目もうなずいた。



 幸い雨もあがって、どうかと天候の気づかわれた次ぎの日の葬儀もまずこの調子では無事に済まされそうであった。勝重らは半蔵埋葬の場所を見回るため万福寺の山腹について古い墓石の並び立つ墓地の間の細道を進んで行った。そこは杉の木立ちの間である。半蔵の祖父半六、父吉左衛門、それから今の伏見屋主人には祖父に当たる金兵衛、先代伊之助、それらの故人となった人たちがながく眠っているところである。ゆうべの雨にぬれて、ある墓石はまだ湿り、ある墓石はかわきかけていたが、そのそばを通り過ぎて杉の木立ちも尽きたところまで行くと、新開の墓地から立ちのぼる焚火たきびけむりが目につく。旧本陣の下男佐吉は百姓の兼吉や桑作を墓掘りの相手にして、そこに働いていた。

 ちょうど勝重らがその位置に行って立って見た時は、一歩ひとあし先に見回りに来ている清助とも一緒になった。寺から譲られたその畠の地所もすでにあらかた地ならしを済まし、周囲のやぶも切り開いてあって、なだらかな傾斜の地勢から谷の向こうに恵那山麓えなさんろくの馬籠の村を望むこともできる。この眺望ちょうぼうのある位置はいかにも師匠にふさわしいと言って、よい場所が手に入ったとよろこぶものは、ひとり勝重ばかりではなかった。兼吉や桑作までときどきくわを休めに焚火のそばへ来て、お師匠さまの墓掃除そうじにはまた皆で来てあげるなぞと語り合うのであった。饅頭まんじゅうのかたちに土を盛り上げた新しいつか、「青山半蔵之奥津城おくつき」とでもした平田門人らしい白木の墓標なぞが、もはやそこに集まるものの胸に浮かんだ。時が来れば、その塚の上をおおう青い芝草の想像までも。

「清助さ、遠方の通知はもうすっかり出したろうか。」

「さあ、もれたところはないつもりですがね。」

「東京の平田家へは。」

「それを落とすようなことはしません。熱田あつた暮田正香くれたまさか先生のところへも。」

「そう言えば、森夫さまや和助さまはどうなさるだろう。おとっさんのお葬式に、お二人ともお帰りにはなるまいか。」

「それがです。中津川から父上死去の電報は打ちましたがね、お帰りになるがいいともなんとも言ってあげたわけじゃない。宗太さまからもその話はありません。たぶん、和助さまたちは、お見えにはなりますまい。」

 清助と伏見屋主人や勝重との間には、しばらくこんな立ち話がはずんだ。そこへ三郎と益穂の二人も勝重らをさがしに杉の枯れ葉の落ちた細道を踏んで、お粂夫婦が妻籠の連中と共に旧本陣の方へ着いたことを告げ知らせに来た。

 こうして一同が集まって見ると、いずれもようやく重荷をおろしたような顔ばかり。その人の晩年にはとかくの評判のあった青山半蔵ではあるが、しかしくなった後になって見ると、やっぱりお師匠さまはお師匠さまであったという話が出る。星移り、街道は変わって、今後お師匠さまのような人はこの山の中には生まれて来まいとの話も出る。お粂らの到着と聞いても、一同はすぐ墓地を離れようとしなかった。その中でも清助は深いため息をついて、

「あのお師匠さまも、しまいにはずいぶん人をてこずらせた。楠正成の屎合戦くそがっせんだなんて言い出して――からだを洗ってあげたいにも、手のつけようもない。あんな困ったこともなかった。よくあれでなんともなかったものだと思う……今になっておれも考えて見ると、あのお師匠さまのかんの起こってる時には、何をなすってもからだにさわらなかった。すこし気分も静まって来たかと思うと、今度はからだの方が弱っていらしった……」

 と清助は清助らしいことを言い出す。年若な三郎はその話を引き取って、

「でも、お師匠さまも惜しいことをした。もうすこしからだが続いたら、あんな木小屋から出してあげられたんだ。そりゃだれがなんと言ったって、お師匠さまのような清い人はめったにない――あんな人をおれは見たことがない。」

「そうだ、三郎さんの言うとおりだ。せめてもう十年お師匠さまを生かして置きたかったよ。」

 勝重の嘆息だ。

 その日には奥筋の方から着いたお粂らを迎えて半蔵の霊前に今一夜語り明かそうという手はずもめてある。やがて墓地には一人去り、二人去りして、伏見屋主人や清助から若い弟子たちまでもと来た細道を引き返して行ったが、勝重のみはまだそこに残って、佐吉らが墓穴を掘るさまをながめたたずんだ。

 その時になって見ると、旧庄屋として、また旧本陣問屋としての半蔵が生涯もすべて後方うしろになった。すべて、すべて後方になった。ひとり彼の生涯が終わりを告げたばかりでなく、維新以来の明治の舞台もその十九年あたりまでを一つの過渡期として大きく回りかけていた。人々は進歩をはらんだ昨日の保守に疲れ、保守をはらんだ昨日の進歩にも疲れた。新しい日本を求める心はようやく多くの若者の胸にきざして来たが、しかし封建時代を葬ることばかりを知って、まだまことの維新の成就する日を望むこともできないような不幸な薄暗さがあたりを支配していた。その間にあって、東山道工事中の鉄道幹線建設に対する政府の方針はにわかに東海道に改められ、私設鉄道の計画も各地に興り、時間と距離とを短縮する交通の変革は、あだかも押し寄せて来る世紀の洪水こうずいのように、各自の生活に浸ろうとしていた。勝重は師匠の口からわずかにもれて来た忘れがたい言葉、「わたしはおてんとうさまも見ずに死ぬ」というあの言葉を思い出して悲しく思った。

「さあ、もう一息だ。」

 その声が墓掘りの男たちの間に起こる。続いて「フム、ヨウ」の掛け声も起こる。半蔵を葬るためには、寝棺を横たえるだけのかなりの広さ深さもいるとあって、掘り起こされる土はそのあたりに山と積まれる。強いにおいを放つ土中をめがけて佐吉らがくわを打ち込むたびに、その鍬の響きが重く勝重のはらわたにこたえた。一つの音のあとには、また他の音が続いた。

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