初等科國史/下/第八 御代のしづめ

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第八 御代のしづめ[編集]

一 安土城[編集]

寒風すさぶ戰亂の世も、やつと終りに近づいて、暖い春日がさし始めました。正親町天皇は、雲居はるかに織田信長の武名を聞し召し、永祿七年、おそれ多くも、勅使を尾張へおつかはしになつて、一日も早く國々の亂れをしづめるやう、お命じになりました。信長は、仰せを受けて感激の淚にむせび、命をささげて大御心にそひ奉らうと、堅く心に誓ひました。

織田氏代々の根城は尾張の淸洲で、信長も、初めはここにゐました。永祿三年、駿河の今川義元が、大群を率ゐて、尾張に攻め入りました。義元は、遠江・三河を從へた勢に乘じ、更に織田氏を破つて、一氣に京都へのぼらうとしたのです。信長は、淸洲の城で、家來たちと夜話に興じてゐましたが、このしらせを受けても、顏色ひとつかへず、そのまま話を續けました。翌朝、みかたのとりでが危いとの第二報で、すぐさま得意の馬を走らせて、打つて出ました。時に義元は、次々の勝軍に心がおごり、桶狹間に陣取つて酒盛の眞最中でした。信長は、折からの雷雨をさいはひ、わづかの兵で、不意にその本陣を突き、敵兵のうろたへさわいでゐる間に、大將義元を討ち取りました。この一戰で、信長の武名は一時にあがり、天下の形勢もまた、大いに變りました。やがて信長は、美濃の齋藤氏をほろぼし、その城を收めて、岐阜に移りました。

信長が皇居を御修理申しあげる
信長が皇居を御修理申しあげる
このころ幕府は、すつかり衰へて、將軍義輝が部下に殺されるといふ有樣です。弟の義昭も、危いと見て京都をのがれ、浮草のやうに流れ步いて、最後に信長をたよつて來ました。信長は、永祿十年ふたたび勅命を拜して、上洛の準備を整へたところでしたが、こころよくその求めに應じ、同十一年、ともに京都に入り、朝廷にお願ひ申しあげて、義昭を將軍職につけました。

信長はまた、皇居を御修理申しあげ、御料を奉つて、ひたすら勤皇の眞心をあらはしました。ここに、久しくすたれてゐた御儀式も復興され、地方にくだつてゐた公家も歸つて、京都は、しだいに元の姿にもどりました。

更に信長は、近畿の諸國を次々にしづめて、人々の苦しみを取り除きました。かうして、信長の評判は、ますます高くなるばかりでした。義昭は、自分の地位をうばはれはしないかと心配し、ひそかに信長を除かうとはかつて、つひに京都から追ひ出されてしまひました。時に紀元二千二百三十三年、天正元年で、義滿以來細々と百八十年ばかり續いた室町の幕府も、ここに、まつたくほろびてしまひました。

上杉謙信・武田信玄・毛利元就らの諸雄もまた、信長の成功をうらやみました。しかし、これらの諸雄は、ただあせるばかりで、地の利や機會に惠まれず、幕府がほろびる前後數年の間に、ことごとく病死して、つひに、上洛の望みをはたすことができませんでした。

安土城

安土城

信長は、國内をしづめる根城として、近江の安土に城を築き、天正四年、ここに移りました。この城は、京都に近く、國々との往來が便利な上に、風光にも惠まれてゐました。琵琶湖の眺めの美しい岡の上に、御代のしづめとうち建てられた七重の天守閣が、松のみどりをちりばめて、中空高くそびえ立ち、内部のかざりも、目のさめるほど、はなやかでした。守るに堅く住んでよく、今までにない、りつぱな城でした。信長をしたつて、集る人も日ごとにふえ、安土の里は、見る見るにぎやかな町になりました。信長は、得意の馬術をみせるなど、士民の心をひきたてました。しかも信長は、ここにおちつくひまもなく、海内平定の步みを進めたのであります。

天正十年、信長は、德川家康らと結んで、東に武田氏を討ち、西へは武將羽柴秀吉をつかはして、毛利氏を攻めさせました。武田氏は信玄の死後しだいに衰へ、今また信長・家康に攻めたてられて、これを防ぐに由なく、天目山の戰を最後に、つひにほろびました。しかし、毛利氏は、元就の死後も、一族が力を合はせて、孫の輝元をもり立て、あなどりがたい勢を示しました。さしもの秀吉が、備中高松城一つを攻めあぐんで、信長に援軍を求める有樣でした。

戰の跡

戰の跡

信長は安土へ歸ると、すぐに西征の準備を整へ、明智光秀らを先發させ、自分は京都にはいつて、本能寺に宿をとりました。そこへ光秀が、にはかに反旗をひるがへして、攻め寄せたのです。思ひがけない夜明けの不意討ちではあるし、わづかの兵では、とても防ぎ切れません。弓は折れ矢玉もつきて、信長は、兵火にもえる寺の一室で、しづかに自害しました。まだ四十九歳といふ働きざかりでありました。世に、これを本能寺の變といひます。

豪華をほこつた安土の城も、その後まもなく、兵火のために燒け落ちて、今はその城石に、昔をしのぶばかりであります。思へば信長が、勅命を奉じて海内の平定に乘り出してから、ちやうど十五年、その偉業もやがて成らうといふ時、かうした最期をとげたのは、まことに惜しいことでありました。朝廷では、その功に對して、從一位・太政大臣をお授けになり、また人々からもうやまはれて、京都の建勳神社にまつられてゐるのであります。

二 聚樂第じゆらくてい[編集]

織田信長のあとをうけて、海内平定の遺業をはたし、更に世界の形勢に目を放つて、國威を海外にかがやかしたのは、豐臣秀吉であります。

秀吉は、尾張の貧しい農家に生まれました。八歳の時、父をなくして寺で養はれながら、りつぱな武將になりたいものと、つねづね武術に心がけ、勇ましい軍物語を聞くことが、何よりすきでした。十六歳の時、遠江の松下氏のしもべとなり、やがて信長に仕へました。賢くてまじめで、かげひなたなく働くので、しだいに重く用ひられ、つひに武將の列に入りました。その後も、てがらを重ねて、ますます信長の信賴を深め、やがて中國平定の大任をまかされるまでになつたのであります。

豐臣秀吉
豐臣秀吉
秀吉は本能寺の變のしらせを受けて大いに驚き、信長の死を深く悲しみました。しかし少しも色にあらはさず、すばやく毛利氏との和議をまとめると、ただちに兵をかへして、光秀を山城の山﨑に攻めほろぼしました。本能寺の變からこの時まで、わづかに十一日です。ほかの家來が、京都の近くで、うろたへさわいでゐる間に、秀吉は、かうもあざやかに、主の仇を討つたばかりか、てあつく信長の葬儀までとりおこなひました。人々は目をみはつて驚き、秀吉の評判は、にはかに高くなりました。

柴田勝家・瀧川一益らの武將は、これをねたんで、秀吉を除かうとたくらみました。秀吉は、敵の大軍をまづ近江の賤嶽に擊ち破り、更に勝家を越前の北庄に追ひつめて、これをほろぼしました。一益は、かなはないと見て、早くも降參しました。賤嶽の戰では、秀吉の部下、加藤淸正・福島正則・片桐勝元ら七勇姿が、槍を振るつてめざましく戰ひ、七本槍の有名をとどろかしました。かうして、信長のあとをつぐものは秀吉であると、だれも認めるやうになりました。

やがて秀吉は、堅固な城を大阪に築きました。この地は、東と北に大川をひかへ、西は海にのぞんで、天然の要害をなし、交通もまた便利です。しかも、鐵壁の構へに二重の堀をめぐらし、城内の美しさも、安土城の生まれかはりかと思はせました。秀吉は、ここを根城にして、西に東に軍を進め、四國の長宗我部元親、越中の佐々成政を降し、德川家康・上杉景勝をみかたにつけて、海内平定の業も、あますところは、東國と九州ばかりになりました。しかも、この間に、石田三成らの人材を選んで、政治の立て直しにも着手させました。

朝廷では、秀吉の功をおほめになり、正親町天皇は、藤原氏のほかに例のない關白の職を仰せつけられ、ついで第百七代後陽成天皇は、太政大臣をお命じになり、豐臣の姓までたまはつたのであります。まことに、武人として最上の面目でありました。

天正十五年、秀吉は威風堂々、軍を九州へ進めました。みちみち、瀨戸内海の風景をめでるほどの餘裕を示し、たちまち島津氏を從へました。しかも、九州のやうすを調べて、天主敎を禁止するなど、政治のことにも、心を配りました。歸るとまもなく、住居を京都の聚樂第に移しました。この邸もまた、秀吉の氣性さながらに、豪華をきはめたものでありました。

天正十六年、都の花も咲きそろつたころ、秀吉は、聚樂第に後陽成天皇の行幸を仰ぎました。この時秀吉は、文武百官とともに御供を申しあげ、國民もまた、御盛儀を拜觀しようと國々から集り、御道筋は、民草で埋まるばかりでありました。しかも人々は、かがやかしい御代のしるしを、まのあたりに拜し、あまりのうれしさに、夢ではないかとさへ思ひました。戰亂の世をふりかへつて淚ぐむ老人もあれば、御代の萬歳を祈る若者もゐました。天皇は御きげんうるはしく、ここに五日間おとどまりになりました。秀吉はつつしんで御料を奉り、また公家にも領地を分ち、更に武將たちに命じて、いつまでも眞心こめて天皇にお仕へ申しあげるやう、誓はせました。また、工夫をこらした催しを、次から次へとお目にかけて、お慰め申しあげました。

そののちも、秀吉は皇居を御增築申しあげ、都の町なみをもよく整へましたので、朝廷の御有樣も、京都のやうすも、見違へるほど、りつぱになりました。

やがて天正十八年、軍を關東へ進めて北條氏を平げ、奧羽の伊達氏らも、秀吉の威風になびいて、こころよく從ひました。ここに、全國平定の業が完成し、應仁の亂以來約百年のさわぎも、すつかりしづまりました。時に、紀元二千二百五十年でありました。

秀吉は、信長と同じやうに、戰のひまひまに政治の方針を立て、よいと思ふことは、どんどん實行しました。日本が神國であることを示して、天主敎を取りしまり、全國の土地を調べて、税の取り立て方を一定し、貨幣を造らせて、商業の便をはかり、また貿易に保護を加へるなど、いろいろ政治の工夫をしました。しかも、つねに士民をいたはり、京都の北野で盛大な茶の湯を催して、人々と喜びをともにしたこともあります。國民の心は、おのづからのびのびとして、元氣が國に滿ちあふれました。かうして、信長が御代のしづめになるやうにとまいた種は、秀吉によつて、みごとな花と咲いたのであります。

三 扇面の地圖[編集]

秀吉は、海内平定の軍を進めながら、早くも、その次のことを考へてゐました。それは、朝鮮・支那はもちろん、フィリピンやインドまでも從へて、日本を中心とする大東亞を建設しようといふ、大きな望みでありました。九州から歸る途中、對馬の宋氏に命じて、朝鮮に朝賀の使節をよこすやう交涉させたのも、そのためであります。

國内がしづまると、秀吉は、いよいよ朝鮮を仲だちとして、明との交涉を始めようとしました。また天正十九年には、フィリピンやインドに書を送つて、入貢をすすめました。ところが朝鮮は、明の威勢をはばかつて、わが申し入れに應じません。そこで秀吉は、關白を退いて太閤となり、まづ朝鮮に出兵し、進んで明を討たうと考へました。沿海の諸國に軍船を造らせ、水夫を集め、肥前の名護屋に本陣を構へるなど、用意もすつかり整ひました。

文祿元年、宇喜多秀家が總大將となり、小西行長・加藤淸正らが先手となつて、總勢十五萬餘の大軍が、名護屋を出發しました。幾千とも數知れぬ軍船に、それぞれ家紋のついた幕を張りめぐらし、思ひ思ひの旗を勇ましく潮風になびかせ、海をおほつて進みました。
軍船の出發
軍船の出發
釜山に上陸したわが軍は連戰連勝、北進また北進して、たちまち京城をおとしいれ、明の援軍を破り、わづか四箇月たらずで、ほとんど朝鮮全土を從へてしまひました。この間、淸正はたびたびの戰に、槍のほまれ高く拔群のてがらをあらはし、また、全軍よく軍紀を守つて、人民をあはれみ、日本武士の面目を示しました。ただ、水軍の力が十分でないため、軍隊や兵糧の補給がはかどらず、占領地の守備には、たいそう苦心しました。
朝鮮の要地
朝鮮の要地
明は、大いに驚き、小西行長について講和の交涉を始める一方、卑怯にも、大軍をさし向けて、行長を平壤に破り、一氣に京城へせまらうとしました。これを碧蹄館に迎へ擊つたのが、小早川隆景・立花宗茂らでありました。日ごろの手なみを見せるのは今と、出陣のことばもををしく、六七倍の明軍をさんざんに擊ち破つて、勇名をとどろかしたのでありあります。

武力戰ではかなはないと見たか、明は、ふたたび行長を通して、たくみに講和を申し出ました。秀吉は、これを許し、ひとまづ全軍に引きあげを命じました。ところが、明の使節が持つて來た國書の中には「特に爾を封じて日本國王と爲す」といふ、無禮きはまる文句がありました。秀吉は大いに怒つて、その使ひを追ひかへし、再征の命令をくだしました。

慶長二年、ふたたび行長・淸正らが先手となつて朝鮮へ渡り、たちまち南部の各地を從へました。そのうち、秀吉は病にかかり、慶長三年八月、つひに六十三歳でなくなりました。遺言によつて、出征の諸將は、それぞれ兵をまとめて歸還しました。この時、島津義弘は、泗川の戰で、數十倍の明軍を擊ち破り、前後七年にわたる朝鮮の役の最後をかざりました。

かうして、秀吉の大望は、惜しくもくじけましたが、これを機會に、國民の海外發展心は一だんと高まりました。また、わが軍の示したりつぱなふるまひは、朝鮮の人々に深い感銘を與へました。一方明は、この役で、多くの兵力と軍費をつひやし、すつかり衰へてしまひました。これが、やがて滿州から淸が興るもとになるのです。

朝鮮の役に際して秀吉の用ひた扇面が、今に傳はつてゐます。一面には、日本と明との日常のことばが、いくつか書き並べてあり、他の一面は、日本・朝鮮・支那の三國をゑがいた東亞地圖になつてゐます。しかもこの地圖は、このころのものとして、かなり正確です。かうした扇を用ひたことは、秀吉が老の身をいとはず、みづから大陸へ渡らうとしたしるしで、これによつても、その大望と日ごろの心構へが、しのばれるのであります。

しかも、このころ東亞の海には、南蠻船がはびこつてゐました。秀吉は、これに負けないやうに、日本の貿易を盛んにしなければならないと考へました。ちやうどわが國は、戰亂もすでにしづまつて、產業がいちじるしく進み、國民の貿易熱がぐつと高まつて來てゐました。そこで秀吉は、わが商船に、一々貿易の免許狀を與へて、これを保護する方針を立てました。かうした船を、世に朱印船といひます。その活躍ぶりは、八幡船の行動が、勇ましくても、まちまちであつたのに比べると、ずつと大がかりでもあり、はなやかでもありました。行先も、明などには、あまり目もくれず、黑潮にそつて南へ南へと進みました。さうして、南蠻船とせり合ひながら、國民の海外發展心を、ますます盛んにしたのであります。

御稜威のもとに、大東亞をしづめようとした秀吉は、一面きはめて孝心に厚い人でありました。へいぜい母に仕へて、なにくれと孝養をつくし、その死目にあへなかつた時など、あたりをかまはず泣き叫んだといふことです。また、つねに恩を忘れず、始めて仕へた松下氏に、多くの領地をおくり、てあつくこれをもてなしました。

朝廷では、秀吉の功を賞して、死後、豐國大明神の神號をたまはり、正一位をお授けになりました。京都の豐國神社に參拜し、また數數の遺物や遺跡によつて、秀吉の志をしのぶと、今更のやうに、その偉大さに心を打たれるのであります。