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北条五代記/巻第一

北条五代記巻第一 目次

 
 
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北条五代記巻第一
 
 
 
聞しはむかし。いせ新九郎氏茂といふさふらひ遠国をんごくより来て。伊豆の国を切て取よし。いひ伝ふといへども多説有ていずれ知がたし。新九郎は京よりするがへ下り。今川氏親いまがはうぢちかをたのみ。牢人らうにんぶんにてありしが。武略ぶりやくの侍。ふねにて渡海とかいし伊豆の国を切て取よし老人らうじんがたりせり。此せつおぼつかなしさればわれこと江戸に有て。近辺きんぺんの町人のうはさをけふ聞あくる日は事をとへば虚言きよごんのみおほしいはんや江戸中の事をや其上年月ねんげつを過しさかひをへだてたる事をば。いひたきまゝにかたるはよのつねのならひ。聞人まこととをもひ。筆にもしるしをきぬれば。後世こうせいの人是を治定ちぢやうとす。とにもかくにもそら事おほき世なり。さ有とてことさら世のうはさいはじにもあらず右の新九郎をえたる。達人たつじんなれば。ふるき文に一ことつゝあまたに事のこしたるを老きんねん見出し。其おもむきをあらかじめ記す者也新九郎のちは。北条早雲宗瑞ほうでうさううんそうずゐ改号かいがうす。住国ぢうこくは山城うぢの人也。又一せつには大和やまとありはらともあり。此人の先祖をたづねるに。むかしいせの国に伊勢いせいせのかみ平氏貞たいらのうぢさだといふ侍あり。小松ないじん重盛公しげもりこうより。十五代の後胤たり。くにの名を。あざなの上にをく事。さふらひ名誉めいよといへり。其オープンアクセス NDLJP:442比京公方くぼう様に。御若君わかぎみあまた出来給ふといへども。短命たんめいにして十にもたらず。みな逝去せいきよし給ふ。是をなげき。おぼしめす所に。御むさうに。公ばうの御先祖せんぞ。平家をことくほろぼし給ふ。其むくひ御息ごそく。ちやうめいならず。天下にゆらいある平氏へいじを召よせ。からうとなし。まつりごとを。取をこなひ給ふに至候へば。御そく長命ちやうめいたるべしと。ゆめさめ御感悦かんゑつなゝめならず。天下に。平氏へいしさふらひたれと。たづねゑらび給ふといへ共いせ伊勢守に。しくはあらじと伊勢守を召のばせられいへさだめ。本人のまつもごと自由度。御子孫繁昌しそんはんじやうにさかへ給ふと云々中古にも去ためしあり。かまくらのかさいがやつは。北条時政ほうでうときまさのやしき。代々北条居住きよぢうとす。高時たかとき行行ときゆき。ぼつらく以後いご源尊氏公みなもとのたかうぢこうかまくらにおはしまして。御いくわういみしかりき。然所に御当家たうけに様々の怪異くわいい出来す。是たゞ事ならずとて。占方うらかたに尋給へばいにしへほろびし。平家へいけ亡魂ぼうこん共。うらみをなすよし申によりて。高時たかときがやしきのあとに。宝戒寺ほうかいじといふ寺を。建立こんりふしおほくの平家の亡霊ばうれいを。とふらひ高時を。徳崇権現とくそうごんげんと号し。此寺の鎮守ちんじゆにいはひ給ひければ。扨こそさとしもしずまりぬ。ていればいせ伊勢守うしろ見の時節じせつ。するがの国主こくしゆ。今川五郎氏親うぢちか。京へ上り。公方くぼうへ御礼申下国げこくに至て。いせの守殿の息女そくぢよを申うけ。我つまとなし。ともなひするがへ下り給ひぬ。然るにいせの守殿子息しそくするがのかみ照康てるやすと名付。照康の嫡男ちやくなん太郎貞次さだつぐ。じなん新九郎氏茂うぢしげと号し。二人の子息あり。いづれも京都の。公方くばう様へつかへり。然に御所様いつよりか。れいならずおはしまして。つゐには世をはやく御他界たかいなり。其後新九郎は。関東くわんとう下向げかう思慮しりよをめぐらす。されば今川氏親うぢちかは。新九郎ためにをばのおつとなれば。新九郎するがを心ざし。下る処に。朋友ほうゆう此よしを聞。同道どうだうせんと。荒木あらきひやうごのかみ。ため権兵衛。山中さい四郎。あら川又次郎。大道太郎。在竹兵衛ぜう。いせ新九郎と共に七人いひ合。とう国へ下向しするがの国につきたり。今川氏親うぢちか。と新九郎縁者えんじやたる故。するがにとゞまる。義元よしもと親父しんぷの時代也。其時分今川中に。むほんのさふらひおほく有しを早雲武略ぶりやくをもつて。こと退治たいぢし。七人の中にも早雲さううん文武ちぼうの人なる故に。今川の縁者えんじやとなる。是によつて。諸さふらひ早雲を。尊敬そんきやうす残る六人も後は。早雲の家老からうとなる。早雲は伊豆とするがのさかひ。高国寺かうこくじにさいじやう有。其比両上杉と云て。上州相じやうしうさう州に居城きよじやう有て。関東諸侍のとうりやうたり。然るに両人の中。不和出来たゝかひあり。扨又堀越の御所とがうし。伊豆の国北でうにまします外山とやま豊前ぶぜん守。秋山蔵人あきやまくらんどと云て二人のからう有侫人ねいじんざんにより此両しんをせつぷくせしめ給ふ。此義に付て伊豆の国さはぎ諸人の心しずかならず。早雲するが高国寺かうこくじに有て。此由を聞是天のあたふる所なりと。延徳ゑんとく年中に。人じゆをもよほし夜中に黄瀬川きせがはを取こし。北条ほうでうにみだれ入。御所はをもひのほかとおどろき。はるかに落行おちゆき。大もり山へにげ入給ぬ。早雲は北条に。はたをたて近辺きんぺん民屋みんおくを。放火はうくわしまういをふるひければ。此いきほひにをそれ。三の松下三郎左衛門尉。江梨えなし鈴木すゞきひやうごの助。大見の三人衆とがうして。梅原むめはらオープンアクセス NDLJP:443木工もくゑもん。さとう四郎兵衛。うへむら玄蕃げんばこれらの者。在々所々に有て名をえたるさふらひ。いそぎはせ来て。早雲幕下ばつかに付。時日をうつさず御所を。ほろばさんと。大もり山へ。せめのぼり御所は。山を下り。会下寺ゑけでらに入て。切服せつぷくし給ひぬ。此威勢にをそれ。肥の。富長とみなが三郎左衛門のぜう田子たごの山本太郎左衛門尉。雲見の高橋将監たかはししやうげん妻良めらの村田市之助などいふさふらひ共。ことく来て。かう人となる。伊豆一国は三十日の中に。相違さういなくおさめられたり。是によつて。右の侍共。氏直うぢなお時代じだい〈[#ルビ「じだい」は底本では「じだた」]〉まで其在所ざいしよを知行し居住きよぢうす。然るに新九郎。北条と名乗なのる事。北条のゆかり有て。系図けいづをわたす共いひ。三島大明神の霊夢れいむのつげともいふ。扨又早雲とは子細しさい有て。若年じやくねんより名付なづくといへり。明応めいおうの比ほひ。さがみををさめて後も。伊豆のにら山に。在城ざいじやうのゆへ伊豆の。早雲と。あまねくいひ伝へり。仁義じんぎもつはらとし。ひとへにたみをあわれみ給ふゆへ。人の国までも思ひふくせずと云事なし。むかし関東にをいて。早雲寺さううんじ殿。をしへの状とがうし。小札せうさつあり心。をろかなる者は。これをよみならひたりし。其文にいはく

早雲寺殿さううんじどの廿一ケ条

第一仏神ぶつじんしんじ申べき事

あしたはいかにも。はやくおくべし。をそくおきぬれば。めしつかふ者まで。由断ゆだんしつかはれず。公私こうしの用をかくなり。はたしては。かならず。主君しゆくんに見かぎられ申べしと。ふかくつゝしむべし

ゆふべには五ツ以前に。しづまるべし。夜盗やとうはかならず。子丑ねうしの刻に忍び入者也。よひ無用むようの。長雑談ながざうだん子丑ねうし寝入家財かざいをとられ。損毛そんもうす。外聞ぐわいぶん然るべからず。よひにいたづらに。たきすつる。薪灯たきゞともしびを取をき。とらの刻にをき。行水ぎやうずゐおがみし身の形儀をとゝのへ。其日の用所。妻子家来さいしけらいの者共に申付。さて六ツ以前いぜん出仕しゆつし申べし古語こごにはねにふし。とらにおきよと候へ共。それは人により候。すべてとらにおきて。得分とくぶん有べし。辰巳たつみこくまでふしては。主君しゆくんの出仕奉公ほうこうもならず。又自分じぶん用所ようしよをもかく。何のいゝかあらん。日果じつくわむなしかるべし。

手水てうずをつかはぬさきに。かはやよりむまや門外もんぐわいまで見まはり。先掃除さうじすべき所を。にあひの者にいひ付。手水をはやくつかふべし。水は有物なればとて。おほくうがひしすつべからず。いへの内なればとて。たかこはばらひする事も人にはゞからぬていにて聞にくし。ひそかにつかふべし。天にせぐゝまり地にぬきあしすと云事有

おがみをする事。身のをこなひ也。只心をすぐにやはらかに持。正直憲法しやうじきけんぱうにして。上たるをばうやまひ。下たるをばあはれみ。有をばあるとし。なきをばなきとし。ありのまゝなる心持。仏意冥慮ぶついみやうりよにも叶ふと見へたり。たとひいのらずとも。此心持あらば。神明しんめい加護かごこれ有べし。いのるとも心まがらば。天だうにはなされ申さんとつゝしむべし

オープンアクセス NDLJP:444刀衣裳かたないしやう。人のごとく結構けつかうに有べしと思ふべからず。見ぐるしくなくばと心得て。なき物をかりもとめ。無力ぶりよくかさなりなば。人のあざけり成べし

出仕しゆつしの時は申にをよばず。あるひは少きわづらひ所用有て。今日は宿所しゆくしよに有べしと思ふ共。かみをばはやくゆふべし。はふけたるていにて、人々に見ゆる事慮外りよぐあい又つたなき心也。我身に由断ゆだんがちなれば召仕めしつかふ者までも。其ふるまひ程にたしなむべし。同たけの人のたづね来るにも。とくつきまはりて見ぐるしき事也

仕出しゆつしの時御前へ参るべからず。御つぎ伺候しかうして。諸傍輩しよはうばいてい見つくろひ。扨御とをりへ罷出べし。左様になければ。むなづく事有べき也

仰出さるゝ事あらば。遠くに伺候しかう申たり共。まづはやくあつと御返事を申。やがて御前へ参。御そばへはひより。いかにもつゝしんで承べし。扨いそぎ罷出御用を申調とゝのへ御返事は有のまゝに申上べし。わたくし宏才こうさいを申べからず。但又事により此御返事は何と申さんと。口味こうみある人の内義ないぎを請て申上べし。我とする事なかれといふ事也

御とをりにて物語などする。人のあたりに居べからず。かたはらへよるべしいはんや。我身雑談虚笑ざうだんきよせうなどしては。上々の事は申にをよばず。傍輩はうばいにも心有人には。見かぎられべく候也

数多あまたまじはりて事なかれと云事あり。なにごも人にまかすべきなり

少のひまあらば。物の本文字もんじの有物をふところに入。つねに人目をしのび見べし。ねてもさめても。手なれざれば。文字もんじわするゝなり。かく事又同事

宿老しゆくらう方々かた。御ゑん伺候しこうの時。こし少々せうおりて。手をつきとをるべし。はゞからぬていにて。あたりをふみならし。通る事以外もつてのほか慮外りよぐわいなり。諸侍何れにも慇懃いんぎんにいたすべき也

上下万民ばんみんたいし。一言半句ごんはんくにても。虚言きよごんを申べからず。かりそめにも有のまゝたるべし。そらごと云付れば。くせに成てせゝらるゝ也。人にやがて見かぎらるべし。人にたゞされ申ては。一はぢと心得べき也

歌道かだうなき人は。無手むていやしき事也。まなぶべし常の出言しゆつごんにつゝしみ有べし。一ごんにても人の胸中けうちうしらるゝ者也

奉公ほうこうのすきには。むまをのりならふべし。下地したぢ達者たつしやのりならひて。ようのたづな以下は稽古けいこすべき也

よきともをもとめべきは。手習学文てならひがくもんの友也。悪友あくゆうをのぞくべきは。将棊しやうぎふえしやく八の友なり。是はしらずともはぢにはならず。ならひても悪事あくじにはならず。たゞしいたづらに光陰くわういんをくらんよりはと也。人の善悪ぜなくみなともによるといふ事也。三人行時かならずわがあり。其前者ぜんしやをえらんで。是にしたがふ。其よからざる者をば是をあらたむべし

オープンアクセス NDLJP:445すき有て宿やどに帰らばむまやおもてよりうらへまはり四へき垣根かきねいぬ〈[#ルビ「いぬ」は底本では「いき」]〉のくゞり所を。ふさぎこしらへさすべし下女つたなきは。のきぬき焼当座たきたうざの事をあがなひ。後の事をしらず。万事かくのごとく有べきと。ふかく心得べし

ゆふべには。六ツ時に門をはたとたて。人の出入により。あけさすべし。左様になくしては。未断みだんに有て。かならず悪事あくじ出来すべき也

夕には。台所だいどころ中居のまはり。我と見まはりかたく申つけ。其外類火るゐくわの用心を。くせになして。毎夜まいや申付べし。女ばうは高きもいやしも。左様の心持なく。家財衣裳かざいいしやうを取ちらし由断ゆだんおほき事也。人を召仕めしつかひ候共。万事を人にばかり申付べきと思はず。ばかり我と手づからして。様体やうだいを知りのちには人にさするも。よきと心得べき也

文武ぶんぶ弓馬きうばみちは常也。しるすに及ばず。ぶんを左にし。武を右にするは。いにしへはふかねそなへずんば有べからず

右の文を。愚老ぐらうなれし事なればすなはち是にしるし侍る者也ていれば相摸湯本さがみゆもとに。早雲さううん菩提寺ぼたいじを立をき給ふ。是を金湯山きんたうざん早雲寺さううんじがうす。早雲はゑい正十六年己卯つちのとのう八月十五日に逝去せきよ也。法名早雲寺殿。天岳瑞公てんがくずゐこう大居士だいこじと名付。此寺礼験れいけんあらたなるが故。綸旨りんしを被勅願寺ちよくぐわんじと号し。関東だい一のめいてら也。下万民ばんみんに至るまで偈仰かつがうのかうべを。かたぶけずと云事なし。勅書ちよくしよにいはく

当寺なす勅願浄刹ちよくぐわんのじようせついた仏法ぶつぽう紹隆せうりうよろしくいのり皇家くわうけ再興さいこうていれば天気ごとし此仍執達かくのよつてしつたつくだん

 天文十一年六月廿四日        左大弁さだいべん      早雲寺さううんじ大隆禅師だいりうぜんじ禅室せんしつ

かくのごときの霊寺れいじたりといへども末代にいたつて。破却はきやくしなきがごとし。皆是むかしがたりとなり。今は早雲さううん寺号じがうばかりぞ残りける

 
 
見しは。むかし老士有しが。源家のいにしへをよくおぼへて語る。予問ていはく。関東の公方古河の晴氏はるうぢ公。上杉憲政と一有て。北条氏康ほうでううぢやすと合戦し晴氏公うちまけ御滅亡めつぼうは。天文年中のよし云伝へり。源家には何れのこうゐんにておはしまし候。老士らうしこたへて。そのかみより源家の末流ばつりうあまたにわかれて分明ぶんみやうしがたし。され共あらかじめ聞つたふるに。頼朝公よりともこうより守邦公もりくこういたつて九代の間をせんだいと云。足利あしかゞ治部大輔ちぶたゆう尊氏公たかうぢこう以来このかた。義輝公まで十四代の間を。御当家と申。尊氏公は源家にても。八幡太郎義家公よしいえこうの三なん式部しきぶゆう義国公よしくにこう末孫ばつそん。其より相つゞき。左兵衛すけ満兼公みつかねこう関東くわんとう遺跡ゆうせき勝光院殿せうくわういんどのと申。満兼公の御そく。兵衛かみ持氏公もちうぢこう長春ちやうしゆん院殿是也。一なん賢王殿けんわうどの次男春王しゆんわう殿三男安王やすわう殿四男。永寿王ゑいじゆわう殿此永寿王殿は。持氏御生害しやうがい時節じせつ信濃しなのの国へ。落給ふを大井殿オープンアクセス NDLJP:446扶助ふぢよ御申有しを以後いごとして長尾ながを左衛門入道にうだう昌賢まさかた文武ぶんぶたつし。くわん八州にほまれを得たる。無双ぶさうの者なり。此人永寿王ゑいじゆわう殿を取たて公方くばうにあふぎ奉り。天をうかゞひ四位少ゐのせう成氏しげうぢ乾享院けんかういん殿と申是也。成氏公の一なん左馬頭さまのかみ政氏公まさうぢこう。政氏の嫡子ちやくし高基たかもとを。熊野御堂くまのゝみだう殿と申。高基公の長男ちやくなん晴氏はるうぢ公是は。高氏たかうぢ公より十代。持氏もちうぢ公より。五代是を。古河の公方くばうと申候。又とふていはく。上杉殿の系図けいづは。いつの時代じだいよりはじまり。源平藤橋げんぺいときついづれのうぢにてわたり候ぞ。老士らうしこたへて。上杉殿は藤原氏ふぢはらうぢなり御先祖せんぞたづぬるに。宗尊親王むねたかしんわうとせ鎌倉かまくらへ御下向げかうの時御介錯かいしやくとして。勧修寺くわんしゆじ重房公しげふさこうとも有て下向の時。丹州たんしう上杉のしやうを給はり。武家ぶけに下り。修理しゆり大夫を左衛門かみにんぜらる。此重房。足利治部あしかゞぢぶゆう頼氏よりうぢを。むこに取給ひぬ。伊予守いよのかみ家時いへときは。上杉はら修理大夫殿の子孫しそん也。重房の嫡男。掃部頭かもんのかみ頼重よりしげ法名ほうみやう座高じやうかうと申き。文武ぶんぶだうのほまれ有人なり。頼重の嫡子ちやくし兵庫頭ひやうごのかみ憲房のりふさ法名ほうみやう道忻だうきん道号だうがう雪渓せつけいと申。丹州たんしうにては。瑞光院殿ずゐくわうゐんどのと申。京都きやうとにては杉谷すぎたに殿と申。尊氏たかうぢこう親類しんるゐたるにより。御同心あり。四条河原の合戦かつせんにて討死うちじにし給ふ。かの嫡男ちやくなん民部大夫みんぶのたゆう受領じゆりやう安房守あはのかみあき法名ほうみやう道昌だうしやう。道号佳山かさんと申。此時代。上州じやうしうとう州。越後ゑちご三ケ国を知行ちぎやうし給ふ。関東官領職くわんとうくわんれいしよくのはじめなり。応安おうあん元年戊申つちのへさる九月。ぼだい所として。伊豆いづの国に国清寺こくしやうじを立給ふ。国清寺殿是なり。憲顕のりあきの嫡男。兵庫頭ひやうごのかみまさ。憲将の舎弟しやてい兵部少輔ひやうぶのせうゆう能憲よしのりへ。官領職をわたし給ふ。敬堂道謹きやうだうだうきん報恩寺殿ほうをんじどの是なり。其次舎弟しやてい安房守あはのかみ憲方のりかた康暦こうれき元年己未つちのとのひつじ四月廿日官領職を給はりはじめて。山内にまします。応永おうゑい元年甲戌きのへいぬ十月甘四日六十さいにて。逝去せいきよなり道号だうがう天椒てんじゆ法名ほうみやう道合だうかつ明月院殿めいげついんでん是なり。其次憲方のりかた嫡男ちやくなん安房守あはのかみさだ応永おうえい十二年八月十七日。官領職くわんれいしよくを給り同十九年壬辰みづのへたつ十二月十八日。三十八さいにして死去しきよ大全長基先照寺殿だいぜんちやうきせんせうじでん是也。其次右衛門すけ氏憲うじのり。三ケ年官領職たり。法名ほうみやう禅秀ぜんしう。其次安房守憲基のりもと。応永二十三年五月十八日。官領職を給はり。同二十五年正月四日。三十四歳にして逝去せいきよす。法名心無悔宗徳院殿しんむくわいそうとくゐんでん是也。其次安房守憲実のりざね。是は越中の民部大輔みんぶのたゆう房実ふさざね次男じなん憲基のりもと養子やうしなり。六さいの時関東くわんとう越山ゑつさんあり。其後持氏公もちうぢこう逆心ぎやくしんの人なり。子息しそく三人あり。三なん龍若丸たつわかまるをば伊豆いづのおくに。すてをき徳丹清蔵主とくたんせいざうず。両人を引つれ。上方かみかた行脚あんぎやし。応仁おうにん元年丁亥ひのとのい周防すはうくににをいて。逝去せいきよし給ふ。高岳長棟庵主かうがくちやうとうあんじゆ是なり。次に右京亮うきやうのすけ憲忠のりたゞ是は長棟ちやうとうの三なん享徳かうとく三年十二月廿七日。鎌倉かまくら西御門にしみかどにて。御生涯しやうがいなり。大韶長釣興雲院殿是たいていちやうきんこううんゐんでんなり。然に西御門にしみかど憲忠のりたゞちうし給ふ。根本こんぽんと申は。持氏もちうぢ生害しやうがいの御時。成氏しげうぢは。永寿丸ゑいじゆまるにて。信濃しなの落行おちゆき給ふ。憲忠のりたゞは。龍若丸たつわかまるにて。伊豆いづの国に有けるを。其比関東くわんとうぬしなくては有べからずと。入道にうだう昌賢まさかた永寿丸ゑいじゆまる殿を。取立御元服げんぷく有て。主君しゆくんにあふぎ奉り。同龍若丸たつわかまる憲忠をもひき出し。天下一とうにして。国家安泰こくかあんたい也。ていれば成氏公しげうぢこう。先年持氏公もちうぢこう生害しやうがい野心やしんをさしはさみ。憲忠をちうせらる。此時又上杉相わけて。日夜にちや朝暮合戦かつせんす。上杉の一長尾ながをるゐ調談てうだんし。綸旨りんしと日月の御はたを申下し。其いきほひますによつて。成氏公しげうぢこう。かなはずして。古河こがへ御馬を入オープンアクセス NDLJP:447給ふ。其後政氏公まさうぢこう関東くわんとう公方くばうがうす。越州ゑつしう上杉民部大輔みんぶのたゆう顕定あきさだ。かつは治国ちこくのため。かつは万民ばんみんをやすんぜんがため。和睦くわぼく〈[#ルビ「くわぼく」はママ。後文同じ]〉なすによつて。関東一とうになる。それ武家ぶけの大系図けいづは。神武じんむより以来このかたしるし。和漢合運わかんがううんは。慶長けいちやう十六歳までをしるせる。明鏡めいけい也。扨又。鎌倉かまくら持氏公もちうぢこう。御滅亡めつぼうより。関東くわんとう乱国らんごくの次第。上杉の事を。わたくししるをきたるふる小札せうさつ共を見るに。右の二文に相違さういおほし。され共見聞集けんもんしゆう題号だいがうに。おうしるはんべる。其比鎌倉かまくら内の顕定あきさだあふぎやつ定正さだまさ。此両上杉殿は関東諸侍しよさふらひ棟梁とうりやうたり。然に逆臣ぎやくしん有て。主従わかれてたゝかひ。其上両上杉殿の中。不和ふわにして。とう西南北ざいなんぼくに。さんを見だし合戦かつせんす。公方くばう政氏公まさうぢこうは。修理大夫しゆりのたいふ定正とさだまさ。一味し顕定あきさだとたゝかひ。やむ事なし。其時節じせつ駿州しゆんしう伊勢いせ新九郡氏茂うぢしげといひて。文武智謀ぶんぶちばうさふらひあり。のち北条早雲庵主ほうでうさううんあんしゆ改名かいみやうす。此人両上杉のたゝかひを聞及きゝをよび。是天のあたふる所とよろこび。延徳ゑんとく年中。軍兵ぐんひやうそつし。はせ来て。伊豆いづの国をきつとり明応めいおう時節じせつ相摸さがみの国に打入。たゝかひやまざりしが。定正さだまさびやう顕定あきさだ高梨たかなしうたれ。其後早雲さううん子息しそく氏綱うぢつな時代じだいいたつて。上杉朝定ともさだをほろぼし。武州ぶしう総州そうしうへ手をかけ。くわん八州に猛威まういをふるふ。其せつ氏綱うぢつな高基公たかもとこうの。一なん晴氏公はるうぢこう取立とりたて公方くばうにあふぎ。むこぎみになし。総州そうしう古河こが仕付しつけ申。氏綱下総しもふさくに小弓こゆみ御所ごしよ義明公よしあきこう父子ふしを。ほろぼし。氏綱うぢつなそく氏康うぢやす時代じだいに。上杉憲政のりまさと。たゝかひ。やむ事なし。然所に古河こが晴氏公はるうぢこう憲政のりまさと一有て。武州ぶしう河越かはごえじやうをせむる。氏康うぢやす武州へ。出馬しゆつばし。河越かはごえたちにをいて。天文十五年四月廿日。合戦かつせんし氏康討勝うちかち。ことくほろぼし。それより以来このかた関東公方くわんとうくばう。たえはて。上杉のいへも。滅亡めつばうす天文らんといひつたふるは是なりといへり
 
 
聞しはむかし。武州ぶしう河越かはごえたちにをいて。官領くわんれい上杉五郎朝定ともさだと。北条氏綱ほうでううぢつな合戦かつせんは天文六年七月十五日なり。朝定うちまけ。滅亡めつばうし給ひぬ。てき軍兵ぐんびやう。はいぼくする其中に。上杉左近大夫さこんのたゆう朝成の郎従らうじう。あまた取て返し討死うちじにす。其ひま朝成ともしげ。おほくのかたきを。のがれたまひぬ。後たゞ一に成て落行おちゆく所に。相模国さがみのくにの住人平岩隼人正重吉ひらいははやとのかみしげよし。是を見て。をひかけあはれ大将たいしやうと見へたり。てきにうしろをあやなくも見せ給ふ物哉。ひつ返し勝負せうぶを決せよと。名乗なのりかくる。朝成ともしげのがれがたく。こまひつ返す隼人正はやとのかみ馬上はじやうよりくんでおち。はじめは隼人正はやとのかみ下になりしが。えいやと。ねぢ返し上になりたり。味方みかたに山をか豊前守ぶぜんのかみ落合おちあい郎等らうどうあまた来て。てき生捕いけとり隼人正はやとのかみをば。をしへだてうばひ取て。氏綱うぢつなの御まへへ参じたり。又隼人正はやとのかみ来て。此敵をば。それがしくみふせ候処に。豊前守ぶぜんのかみあとより来て。うばひ取よし。相論さうろんをよ氏綱うぢつな其者の申言葉ことばならびに両人の馬よろひを。しるしをかれ。生捕いけどりをば。山かど信濃守しなのゝかみあづけらる。かの両人相論さうろん実否決じつぶけつしがたし。生捕いけどりにたゞいまたづぬるといふ共。あへてもて。こたふべからず。気色きしよくを見あはせたづぬべし。かの左近大夫朝成さこんのたゆうともしげは。上杉修理しゆりのオープンアクセス NDLJP:448大夫朝興ともおきのおとゝ。朝定ともさだのおぢなり。いたはり候へと給付られたり。合戦かつせんのち氏綱うぢつな河越かはごえじやうに入給ひぬ。信濃守朝成しなのゝかみともしげ居所きよしよへ参じ。折々むかしを語りなぐさめぬ。頼朝公よちろもこう奥州おうしうへはつかうの事をかたる所に。朝成いはく。頼朝よりともみちのくにて。合戦の事。古記こきにもくはしくは見へず。いかなる文にしるしをきたるやととふ。信濃守しなのゝかみいはく。或老士あるらうしの物語をきゝおぼへ候。かたりて御つれをなぐさめ申べし。頼朝公よりともこう奥州おうしう泰衡ひらやす退治たいぢとして。文治ぶんぢ五年七月十九日。鎌倉かまくらを打立八月十日。あづかし山の合戦かつせんに。頼朝公よりともこう討勝うちかちて。秀衡ひでひらが子どもことくちうばつし。所々のたゝかひに切かち。ぢんをか着御ちやくぎよし給ふ。九月七日に。宇佐美平次実政さみのへいじさねまさ泰衡ひらやす郎従らうじう由利りゆ八郎を。生捕いけどりして。ぢんが岡にさん上す。然に天野あまの右馬丞則景うまのぜうのりかげ是を生捕のよし相論さうろんす。二ほん行政ゆきまさにおほせ付られ。両人の馬并むまならびに。よろひの毛等けとうを。しるしをかるゝののち梶原平はぢはらへい景時かげとき由利ゆりつかつていはく。なんぢ泰衡ひらやすが。郎従らうじうの中に。有者也。なにいろの。よろひたる者の。なんぢいけどるやといふ由利ゆりこたへて。汝は兵衛すけ殿の家人けにんか。今の口状こうじやう過分くわぶんいたり。たとへをとるに物なし。故御舘こみたち秀郷ひでさと将軍しやうぐんの。ちやくりうの。正とうたり以上三だい鎮守府将軍ちんじゆふしやうぐんの。こうをくむ。なんぢ主人しゆじんなをかくのごときの言葉ことばをばつかふべからず。いはんや又なんじわれと。たいやうの所いづれか勝劣せうれつあらんや。うんつきて囚人めしうどとなるは勇士ゆうしつねなり。鎌倉殿かまくらどの家人けにんをもて。きくわいを。あらはすのでう。はなはだ。いはれなし。とふ所の事。さらに返答へんたうにをよばずと云々。景時かげときすこぶる。おもてをあかめ。御まへに参じ。申ていはく。此男悪口おとこあつこうほかべつ言語ごんごなきの間。糺明きうめいせんとするに所なし。ていれば仰にいはく。無礼ぶれいをあらはすによつて。囚人めしうど是をとがむるか。もつとも道理だうり也。はやく畠山はたけやま次郎重忠しげたゞに。是をめしとはすべし。ていればよつて重忠。手づからしきかはを取。由利ゆりまへ持来もちきたつて。せしめ。れいをたゞしうして。いざなつていはく。弓矢ゆみやに。たづさはるもの。をんできの。ためにとらはるゝは。漢家本朝かんかほんてうのつうぎなり。かならず耻辱ちじよくと。せうすべからず。中について。古左典厩永暦さてんきうゑいりやくに。横死おうしあり。二ほんも又囚人めしうどと成て。六はらにむかはしめ給ひ。結句けつく豆州とうしうに。配流はいるせられ給ふ。然共佳運かうんつゐに。むなしからず。天下を取給ふ。貴客生捕きかくいけどりの名をかうむらしむといふ共。始終しじうちんりんのうらみをのこすべからざるか。おく六ぐんの中に。貴客武将きかくぶしやうの。ほまれをそなふるのよし。かねてもて其をとゞむるの間。勇士等ゆうしら勲功くんこうを。たてんがために。かくをからめえるのむね。たがひに。相論さうろんをよぶによつて。よろひをいひ。むま毛付けつきをいひをはんぬ。かれらが浮沈ふちん此事をきはむべき者也。何いろのよろひをたるものに。いけどられ給ふぞや。分明ぶんみやうに是を申さるべしと。ていれば。由利ゆりがいはく。かく畠山殿はたけやまが。ことに礼法れいほうを存じ。前のおとこがわいにず。もつとも是を申べし。黒糸くろいとおどしのよろひ鹿毛かげの馬にのりたる者。先我まづわれを取て引おとす。其後をひ来る者は。かうとして其色目いろをわかずと云々重忠しげたゞ帰参きさんせしめ。つぶさに此おもむき披露ひろうす。くだんのよろひむまは。実政さねまさが也。すでに不しんをひらきをはんぬ。次におほせにいはく此おとこの申じやうオープンアクセス NDLJP:449を。もて心中のようかんをさつする者也。たづねしるべき事あり。御まへに召参らすべし。ていれば重忠しげたゞ又是を相具あいぐして。参上さんじやうす。御まくをあげられ是を見給ひ。おほせにいはく。をのが主人しゆじん泰衡ひらやすは。威勢いせい両国りやうごくの間にふるひ。けいをくはふるの条。難義なんぎのよしをおぼしめすの所に。よのつねの郎従らうじうなきかの故に。河田かはだ次郎一人が為に。ちうせられをはんぬ。をよそ両国を官領くわんれいし十七万官首くわんしゆたりながら。百日相さゝへず廿日がうちに。一ぞくみな滅亡めつばうす。いふにたらざる事也。由利ゆり申ていはく。尋常よのつね郎従らうじう少々せう相したがふといへ共。壮士さうしは所々のようがいにわかちつかはし。老軍らうぐん行歩ぎやうぶしん退たいならざるによつて。不意ふい自殺じせつす。がごとき不屑ふせうのやからは又。いけどられたるの間。最後さいごに相ともなふ者なし。抑故そも左馬頭さまのかみ殿は海道かいだう十五ケ国を。官領くわんれいせしめ給ふといへ共。平治へいぢ逆乱げきらんの時一日をさゝへ給はずして。零落れいらく数万騎すまんぎぬしたりといへ共。長田庄司をさだしやうじために。たやすくちうせられ給ふ。いにしへと今と甲乙かうをついかん。泰衡やすひら官領くわんれいせらるゝ所の物は。わづか両州りやうしう勇士ゆうしなり。十ケ日の間。けんりよ一ぺんをなやまし奉る。不覚ふかくにしよせしめ給ふべからずと申。二ほんかさねて仰なく。まくをたれ給ひぬ。由利ゆり重忠しげたゞあづけられ。はうせいをほどこすべきよし。仰付られ重て。由利ゆり八郎恩免をんめんあづかる。是ようかんのほまれ有によつてなり。たゞし兵具ひやうぐをゆるされずと云々。然ばよき郎等らうどうをば。もつべき事也。かの由利ゆり八郎。頼朝公よりともこう言葉の。あやまりをとがめ。至極しごく道理だうりをもて。主人しゆしんの名をあげ。いけどらるゝ身として。勇士ゆうしのほまれを。あらはし末代まつだいをとゞめ。希代きだい剛者がうのものに候。扨々そこつに。生捕いけどり沙汰さたを申出したり。御にかけ給ふべからずといふ。朝茂ともしげがいはく。生捕のむかしを聞に付ても。遺恨いこんやんごとなし。かたつゑきなしとおもへども。我運命うんめいつき。合戦かつせん勝利しやうりを。うしなひ落行おちゆく所に。あとより黒革威くろかはおどしの。よろひ。あしの馬にのつたる。しや名乗なのつて。をつかくるの間。こま引返し。馬上ばじやうにてくむ。かれはさしくゞりて。下手したでをとり。我は上手に有て馬上ばじやうよりおちたり。され共物の数ともせず。かれをくみふせ。かたなに手をかけしに。下よりえいやと。をし返し。朝茂ともしげしたになりぬ。其時あまた落合おちあひ。かさなつて。生捕いけどら耻辱ちじよくをさらす事。無念むねん口おしきといへり。信濃守しなのゝかみ氏綱公うぢつなこうへ。此よし言上ごんじやうす。氏綱うぢつな聞召。くだんのよろひむまは。平岩ひらいは隼人正はやとのかみなり。申つる言葉ことば始終しじうかはらずと。御感ぎよかん有て。けんしやうを。あてをこなはる。氏綱うぢつないはく。かれら生捕たる手がらを朝成ともしげに尋る共。かたきに。くみふせられ。こたへがたからんか。然るを。信濃守しなのゝかみむかしの生捕いけどりかたり出し。朝成ともしげを。なだめたる。智略ちりやくかんじ給へり
 
 
見しはむかし。北条氏直公うぢつなこう時代じだい。関八州の武士の旗。家々に伝ふる紋をあらはし。さし物は其身一代に。かはると見へたり。おもひのさし物。しな様々のもんあり。去程に我指わがさし物に。たる紋あれば。他の家中かちうたりといふ共。由来ゆらいを尋ね。とがむる其上。ほまれなくして。異様いやうを。このみオープンアクセス NDLJP:450分際ぶんざいに過たる。もんのさし物をば。見る人あざける故。身におうじたるを。さしたり然に。氏康うぢやすあか旗十ながれ。いろこがたの大四方一本あり。馬じるしは五しきに。段々だんの。大のぼりなり。氏政うぢまさは白地に。鑊湯無冷所くわくたうむれいしよと。五文字いつもじをかけり。氏直うぢなをは。金地こんちの一を。書れたり。されば氏直旗本はたもとの。弓大将だいしやうに。鈴木すゞき学頭がくのかみといふもの。ことには。精兵せいびやうの大づかを引。上手のを。えたりき。数度すど合戦かつせんに。先をかけ。ほまれをあらはす故にや白地しらぢのさし物に。やりと云二を。仮名かなかきたり。人是を見て。鈴木すゞき大学頭だいがくのかみ旗本はたものの弓大将だいしやう其上。くわんしう比類ひるいなき射手いてなり。かれといひ。是といひ。ゆみかきては。子細しさい有べからず。やりかく事。推参すいさんなりと。しかりしかども。あへてもてとがむる人なし。太田おほた十郎家中かちう武蔵国むさしのくに岩付いはつきぢう人に春日かすが左衛門すけといふもの。大がくむかつて。其方鑓は。旗本はたもとの鑓か。関東くわんとうやりかとたづぬる。大まな旗本の鑓とこたふ。春日かすが左衛門聞て。旗本はたもとやりにをいては。是非ぜひなし。いやしくも此春日かすが左衛門有て。関東くわんとうの鑓と名付なづくる人有べからずと。荒言くわんげんはきたり。みな人聞て大がくがやり。春日左衛門にとがめられ。関東くわんとうやりとこたへざるは。大がくやりをば銘矛せうばうとこそ名付べけれと。なんぜしが。小田原をだはら籠城ろうじやう時節じせつ。大がくはしぼとり口の。役所やくしよに有て。矢倉やぐらへ日々あがり。てきを目の下に見て。鈴木すゞき学頭がくのかみと矢じるしを書つけ。はなつにあだ矢は一ツもなし。人云それ大しやうたるは。ばん人にかつ事をもつぱらとす。敵の鉄炮てつぱうかけならべたる前へ出る事。飛蛾ひがの火に入がごとしと。いさめけれども大がくもちひざりしを。てき大学をうたんと心がけしが。つひには鉄炮てつぱうにあたつて。はてたり扨又北条ほうでう左衛門大夫家中かちうに。相州さうしう甘縄あまなはの住人。三好みよし孫太郎といふ勇士ゆうしあり。さし物に挑灯ちやうちんを七ツ付たり。孫太郎が七ツ挑灯といひて。かくれなし。然る処に松田まつだ肥後守ひごのかみよりきに。山下民部みんぶ左衛門尉がさし物は。六ちやうちんなり。天正十三年の秋。氏直うぢなを佐竹義宣さたけよしのぶ下野しもつけの国にをいて。対陣たいぢんをはり。たゝかひの時節じせつ民部みんぶ左衛門が六ツちやうちんのさし物を。孫太郎見て。馬をのりよせ其方さし物に。子細しさい有やととふ。民部みんぶ左衛門きゝて。挑灯ちやうちんに何の子細しさいあらん。わがこのみなりといふ。孫太郎いはく武功ぶこうを。つまずして六ツ挑灯さしがたし。それ天文十五年の比ほひ。上杉と氏康うぢやすと。武州ぶしうにをいて。合戦かつせんの見ぎり。それがしばんやりのほまれありて。氏康うぢやすよりほうびの。感状かんじやうあり。其節我一ツ挑灯ちやうちんをさしたり。其後又ちう有て二ツちやうちんをさす。三度こう有て三ツさし。四度五度六度七度忠勤ちうきんをぬきんで。重々ぢうの功によつて。七ツ挑灯をさす。かるがゆへに孫太郎が七挑灯と名付。くわん八州に其かくれ有ベからず。たがひに馬上ばじやうにて。問答もんだうしつるが其日のせりあひいくさに。佐竹さたけがたに。大いし八郎と名乗なのりて。つりがねのさし物をさし。諸人しよにん先立さきだち。われとおもはん者あらば。くんで勝負せうぶけつせよと。長刀なぎなたにて切てまはる所に。民部みんぶ左衛門はせあはせ。馬よりくんおち。民部左衛門大りきなれば。八郎をくみふせ。くびとつて其にて。てんじかへ。挑灯ちやうちんを五つ引きつすて一ツちやうちんをさしたり。みな人是を是て。民部みんぶ左衛門が問答もんだう時日しじつを。うつさず。はまれをあらはし。一ツ挑オープンアクセス NDLJP:451灯さす事。かへつてきどくなり。孫太郎が武勇ぶゆうにもをとるべからずおのほうびせり。其日のいくさ入見だれ。首をとつつ。とられつ半時はんじたゝかひしが。相引して。いきをつぎ。両陣りやうぢんそなへたり。北条ほうでうがた岡辺をかべごん太夫といふ者ゐのしゝのさし物をさし。あまたのてきとたゝかひ。くび一ツ取て帰陣きぢんしつるがさし物を取おとしたり。てきにとられ無念むねんにやおもひけん。首引くびひつさげ馬にむち打て又敵陣てきぢんへはせむかふ。味方みかた不審ふしんし。あれやといふ敵は是を見て。心がはりのさふらひかとまつ所に。敵陣間てきぢんまちかく馬をひかへ。大をんあげ。抑是そも下総国しもふさのくにの住人。岡部権をかべのごん太夫先陣せんぢんのかけにをいて。敵と馬上ばじやうよりくんで落首おちくび一ツ取たりしが。我さし物を取おとしたりもんいのしゝなり。此首いまだじつけんにあはせず。ねがはくばくびとさし物に。取かへてたべかしいふ。てき是を見てやさしき心ばせのさふらひかなと。ひろひたるいのしゝのさし物を手にもちて。武者むしや乗出のりいだし。返さんといふ。ごん太夫いはく。とてもの芳志はうしに。それがしさしづゝへさしてたべとて。馬のくちを引返し。うしろむきて。てきさし物をさゝせて首を敵に返し味方のぢんへしづと帰り入りをてきも味方もあつはれ代のがうのものかなとかんたんせり
 
 
見しはむかし北条氏直公ほうでううぢなをこうくわん八州に威をふるひ給ひし時はをそれぬてきもなし。なびかぬ草木くさきもなかりしが。武運ぶうんすゑになり。天正十八とらの年。北条家こと滅亡めつばうす。関東くわんとう諸侍しよさふらひ共に。うんつきはてのをき所なく。ゆくべき方もなしうさのあまり入道にうだういまは。われまろばにとげる。腰刀こしがたなにつかはれぬ身とぞ成けると。古歌こかなど口号くちずさみ。こつがひのていにて。こゝやかしこに。さまよひおもてをそばたて。かたをすぼめ。にもあらず。くさにもあらず。呉竹くれたけのはしに我身は。成ぬつらなりと。よめる古今こきんうたを。思ひ出侍りぬ。かなしき哉や。此等の人。いにしへは。智者ちしやにむつんで。其雲上くものうへにあげんとほつす。今はなさけある人のほそ言葉をしたひより。朝夕あさゆふ世路せいろわたらんとねがふ。中にも不便ふびんに見へけるは。相模さがみの国の住人朝倉能登守あさくらのとのかみいひて。関東くわんとう弓矢ゆみやの時せつ数度すど合戦かつせんに。さきをかけ武勇ぶゆうたつせしものあり。此人すてやらで。はさびはてぬふるがたな。さすがにをば。思ひたてどもと。よめる古歌こか珍吟ちんぎんしつるがいかなるおもはくにや。入道にうだう犬也けんや名付なづく。はふれにたるすがたを見て。けんやとをよぶ者もあり。いぬなりと云人もあり。乞食こつじきしてぞをくる。あはれなるかな身はうきくさの根をたえて。さそふみづあらば。いづくへもいなんとぞおもふ。ぜいなり有職ゆうしよくの人云けるは。此者犬也けんや名付なづくをいやしむべからず。いぬやしなひてもつて。ぬす人をふせぐ盗人なきをもつて。ほえざるのいぬかふべからずと。東坡とうばは云り。此者此言葉ことばを信じて名付なづけたるにや。是は逸物いちもついぬなり。かいをきなばゑき有べしといふ。然るに結城相宰秀康卿ゆうきのさいしやうひでやすきやう。おほせけるは。今弓矢ゆみやおさまり天下太平たいへいの御たり。然といへ共。晏子春秋あんししゆんじうなんのぞんで井をほると。愚人ぐにんのあざけオープンアクセス NDLJP:452りをしるせり。かるがゆへに。炎天ゑんてんに。水道すゐだうをはらひ。無事に武具ぶぐもとむるは。是君子くんしみちなり。いにしへ関東くわんとう弓矢の時節じせつのほまれ有者を。尋ね出し扶持ふちし給ふ清水しみづ太郎左衛門入道にうだう。大石四郎右衛門入道。山もと信濃しなの入道。松下まつした三郎左衛門入道。朝倉あさくら能登のと入道此人々は文武ぶんぶに達し。一人当千たうせんの。そのを得たりし勇士ゆうしとしは六十七十にをよべり。過分くわぶん智行ちぎやうせしめ。つねに御まへ近習きんじゆし。御自愛じあひあさからず。或老人あるらうじん申されけるは。むかし四皓しこうしんらんさつて。商山と云山に隠居す。八十有余ゆうよ鬢眉びんび皓白こうはくと。しろかりければ。四皓といへり。かん高祖かうそ太子たいし。けいてい此四人をめし出し。とし。まつりごとたゞしく。治世ちせい久しかりき。源氏げんじがたりなどにも。しろがみをはぢず出てつかふるといへるは是なり。と又秀康卿ひでやすきやう世にすてられたる。老士らうし召出めしいださるゝ事かんぜりと云り。秀康卿ひでやすきやうおほせけるは。関東侍くわんとうさふらひ馬上ばじやうにて。達者たつしやを。はたらくよし。聞及きゝうよびぬ。さぞつよ馬をこのみつらん。朝倉犬也あさくらけんやうけたまわつて。関東くわんとうさふらひ。あながちにつよき馬をも。このまず候。たゞ自力じりきかなひたる馬をもつはらとのり候。愚老ぐらう旧友きうゆう伊藤兵庫助いとうひやうごのすけと申て。馬鍛練たんれん勇士ゆうし有しが。あるくちずさひに。大ばたや。大たて物に。つよき馬。このまん人は不覚ふかくなるべしとよみ候。馬下手へたの。つよ馬このむをみては。馬にはのらで。馬にのらるゝと申候。むかし頼朝公よりともこうまへに。諸老しよらうこうするみぎりおほせによつて。をの徃事わうじかたる所に。大平太へいだ景能かげよし保元ほうげん合戦かつせんの事をかたる。其間に申ていはく。勇士ゆうしのしゞめもちゐべき物は。弓矢ゆみや寸尺すんしやく騎馬きばまなびなり。鎮西ちんぜい八郎は。我朝わがちよう無双ぶさうの弓矢の達者たつしやたり。然ども弓箭きうせん寸法すんぽうあんずるに。其涯分がいぶんすぎたるか其ゆへは。大炊御門をおひのみかど河原かはらにをいて。景能かげよし。八郎が弓手ゆんでにあふ。八郎ゆみをひかんとほつす。鎮西ちんぜいより出給ふの間騎馬きばの時。ゆみいさゝか心にまかせざるか。景能かげよし東国とうごくにをいてよく馬になるゝ也。ていればすなはち。八郎がに。はせめぐるの時。こと相ちがふ。ゆみしたをこゆるにをよんで身にあたるべきの。ひざにあたりをはんぬ。此故実こじつにをよばずんば。たちまち。いのちうしなふべきが。勇士ゆうしはたゞ騎馬きばたつすべき事也。壮士等そうしらみゝそこにとゞむべし。老翁らうおうせつ嘲哢ちようろうする事なかれといふ。当座たうざ見な甘心かんしんす。猶以なをもてかんおほせをかうふると云々。されば。治承ちせうの頃ほひ。足利あしかゞ又太郎忠綱たゞつな宇治うぢ川をわたす時。よはき馬をば。したてにたて。つよきにみづをふせがせよと。下知げちしたるも。さも有べき事也。扨又佐々木さゝき梶原かぢはら生食いけずき摺墨するすみとやらんといふ強馬つよむまにのり。宇治川うぢがは先陣せんぢんたるも。ゆゝしかるべし然共。大をわたすは。まれ事一どくをおもひて。多失たしつわするゝは。おろかに候。むかしの人も馬。たんれん仕たるにや。武者絵むしやゑなどに。馬をとばせはしる間に。ゆみひきをはなつこと見へたり。それ馬にのりて。遠路ゑんろゆくは。あしやすめんため。軍中ぐんちうにてのるは。馬上ばじやうにて弓鑓ゆみやりようたてんためなるがゆへに。むかし関東くわんとうにて戦場せんぢやうをも。いまだふまざるわかき者は。ひろ野原のはらへあまた。ともなひ出て。敵味方てきみかた人数にんじゆをわかち。はたをさし。弓鎗ゆみやり長刀なぎなた。をのれがえての道具だうぐもちて。馬にのり。馬のこゝろ見んため。鉄砲てつぱうをならし。さけびのこゑを。あげておめきさはぐ。オープンアクセス NDLJP:453時にいさんですゝむ馬あり。をくれて。しさりおどろきてよこへきるゝ馬あり。山へ乗上岨のりあげそはのかけ道をのりほりをとばせ自由じゆうを。はたらく様にと。鍛練たんれんいたし。先陣せんじんにぬきんで。懸引かけひき達者たつしやを。ふるまひ勝利せうりえん事を。もつぱらたしなみ候。早雲さううんをしえの二十一ケでうの内に。馬は下地したぢをば達者たつしやに。のりならひて。よう手綱たづなをば稽古けいこせよと。しるせり。さふらひたる者。馬のくちとらするは。一だい不覚ふかくかりそめ馬上ばじやうにも。名利みやうりわすれ。乗方のりかたを心がけ。大しやうたりといふ共。馬の口とらするをば。馬下手へたゆへか。弓馬きうばの心がけなき人かと。ゆびをさし候。永ろく七年甲子きのへね正月八日。下総しもふさくに高野台かうのだいにをいて。里見義弘さとみよしひろと。氏康うぢやす合戦かつせんみぎり氏康うぢやすうちはをあげてしゆうをいさめ。下知げちせられしが。すでに敵味方てきみかたみだれたゝかふ。時にいたつ氏康うぢやす賀美かみ名付なづけらる。くろの馬にのり。一そりそつたる。白柄しらえ長刀なぎなたにて。すゝむ剛敵がうてきを。三十余騎よききつておとし。猛威まうひをふるひ。合戦かつせん勝利せうりをえられ候。そうじて氏康うぢやす身に。鎗刀疵やりがたなきずケ所かしよ。ほうさきに。太刀疵たちきず有。かるがゆへに。さふらひのおもてきずをば人。ほうびして。氏康うぢやすきずと申候ひし。馬鍛練たんれんは。御前まへかうするいにしへの傍輩はうばい共よく存る事にて候。御たづねあるべしと申ければ。秀康卿ひでやすきやう聞召。犬也けんやわかころは。さぞ馬たんれんしつらん。むかしの面影おもかげを。そとまなんで見せよかしと仰なり。犬也けんやて。愚老ぐらう七十にをよび。馬上ばじやうのふるまひかなひがたく候。然ども貴命きめいし申に。かへつをそれあり。御遊興ゆうけうに。そといにしへをまなんで御目にかけ候べしと。用意よういために。私宅したくかへる。秀康卿ひでやすきやう見物けんぶつのため。馬場ばばにゆかをかゝせ。のぼらせ給ひ諸侍しよさふらひしばの上に。なみたり。犬也けんや鴾毛つきげこまに。黒糸威くろいとをどし鎧着よろひき星甲ほしかふとの上に。頭巾ときんあて。白袈装しろけさをかけ。いぶせき山ぶしのすがたに。出立矢いでたちやをひ弓持ゆみもつて。郎等らうどう一人めしぐし。やりさげさせ馬に打のつて。御前近まへちかくしづとあゆませ。軍陣ぐんぢんに候下馬げばめんと申もあへず。馬場ばばを二三返はせめぐり。馬場のむかふに築地つゐぢの有を。敵方てきかたとはるかににらんで。手綱たづなくら前輪まへわに打かけ。またにて馬をのりゆみに。をはげこゑをかけ。はしるうちに。矢を二ツ三ツはなち。さてゆみをすて。とんでおり。じうもちたるやりおつ取て。じう先立さきだつてにぐるを。をつかけじうがとつて返せばわれしりぞき。むまも心有にや。あとをしたひ来るを。又うちのつて。いつさんにはしらせ弓手妻手ゆんでめいてへ。やり自由自在じゆうじざいに。ちらしはせまはるを。秀康卿ひでやすきやうらん有て。をおどろかし。御感ぎよかんなゝめならず。犬也けんやめしにて有ぞとよびければ。馬をしづめ。ちかのりよせ。どんでおり。御まへかうす。当時たうじの御褒美ほうびとして。かたな長刀なぎなたをさしそへ。くださるゝ。老後らうごのおもひ。是にしかじとぞ申ける。犬也けんや入道にうだう老悴らうすゐをきななれ共。たんれんの道。達者をふるまふ事。わかきころさぞやと。諸人しよにんかんたんせずといふ事なし。此人まことに老たるいぬなりといへ共。諸侍しよさふらひ尊敬そんきやうし給ふ。弓馬きうば威徳いとくのべつくすべからず
 
北条五代記巻第一