北条五代記巻第四 目次
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北条五代記巻第四
見しは
昔。北条氏政は関八州に
武威をふるひ。をそれざる
敵なし。りんごくみな敵たるにより。
諸国のさかひめに
城有て
日夜朝暮に
戦ひあり。然に東西南北の敵。氏政に
年来遺恨有により。
終に
和平の
義なし。其
意趣は
房州。
里見義弘は
前代より
安房かづきの
国司たり。
先年北条氏康。かづさの国を
切てとる。
佐竹義重はいにしへより相つたはり。ひたちの国の
押領使たり。天文年中に氏康に
半国切てとられぬ。ゑちごの
平の
景虎は。
上杉憲政武州河越にをいて。氏康と合戦し。憲政うちまけ。ゑちごへ
落行。景虎をたのみ其上。上杉の
家を。
譲次によつて也。
武田信玄は。
甲斐するが両国の
主たりといへ共。
長久保。いつみがしら。とくら。しし
浜此四ケ城は。するがの国中に有て。
氏政持国也。信玄するが一国にきずを付る事。口をしきと矢じりをかむか故也。然に氏政四
方八方の敵と。
数年たゝかひ。
他国のかたはしを
切て取。城をおほくせめおとすといへ共。氏政
領国に
至てつゐに。一城も敵にせめ
落されたる
証跡なし。関東に
出生して。今四十
歳五十歳の人々は。其
時節の合戦
淵底存義也。
氏政武略智謀の大将とは。爰をもつて後世の人も
察し申さるゝ義也。
古へ
頼朝公。
尊氏公永久に世をおさめ
家督さうぞくすといへ共。其内にもさゝはる義ありて。
嫡々は
家をつぎ給はずと聞えたり。
北条家は五代つゝがなく。嫡子家をつぎ来り。百
余ケ年関八州を
静謐におさめ。
希代の
武家なり。氏政かねて
軍法に。東西南北の
敵に
向て。
出馬するに至ては。其
敵国近隣のさふらひ大将。
何時も
前陣たるべし。
味方の
先陣戦場にのぞんで
勝とも
負共下知なくして。
他のそなへを
散すべからず。たとひぬきんで。
高名せしむといふ共。
法度をそむくの上は。
誅罸すべき者也と云々。
老士有しが此
旨を
感じ申されけるは。かくのごときの
法度なくむば。
誰か
前登の心がけなからん。しからば
軍陣入
乱れ。
散在し
軍法兵略も定かたかるべし。さればむかし
頼朝公奥州泰衡退治として。文治五年七月十九日。かまくらを打立
発向し給ふ処に。
国衡大
将軍として。数万
騎を
率し。大木戸に陣取。
伊達郡あづかし由を前にへだてゝたゝかふ。
頼朝公八月九日夜に入
明且に。あづかし山の合戦を。すぐべきよし相
定らるゝ。
先陣は
畠山次郎
重忠なり。爰に
三浦平太
義村。
葛西三郎
清重。工藤小次郎行光。同三郎
祐光。
狩野五郎
親光。ふぢさわの次郎
清近。かはむらの
鶴丸。(年十三)以上七
騎ひそかに。
畠山次郎が
陣をはせ
過る。此山を
越前登にすゝまんとす。是明ぼのゝ後大軍と
同時に。けんそをしのぐ故也。重忠が
郎従なりきよ。此事をうかゞひえて
主人にいさめていはく。今度の合戦に先陣を承る事。
抜群の
眉目也。然るに
傍輩のあらそふ所。さしを
【 NDLJP:488】きがたし。はやく
先途をふさぐべし。しからずんば事のよしを
訴へ。
上命にまかすべしと云。
重忠いはく。其義然るべからず。たとひ
他人の
力をもて
敵をしりぞくといふ共。すでに
先陣を承る上はむかはざる
以前に。合戦する者もみな重忠が一身の
勲功たるべし。
且は
前登にすゝまんとするともがらの事。
妨申の条
本意にあらずと云々。然に彼七
騎の
輩は。
重忠におとらぬ大将たりといへ共。
後陣に有故此望みあり。
親子兄弟の
中にも
先陣を。あらそうは
武士のならひ。然ば
件の七人。
前登のほまれ有て。其名あぐる。重忠
傍人に
語ていはく。今度重忠
前陣を承るといへ共。大木戸の合戦に
先登を
他人にうばはれをはんぬ。時に
子細を
知といへども。
重忠敢もつて。かくしうせず。是
賞を
傍輩に。あまねくせんが
為也。今是を見れば。
果てみな。数ケ所。くすうはくの御恩に
預る。をそらくは。重忠が
芳志といふべきかと云々。ていれば
重忠先陣を承て。心はやき他人にうばゝれぬ
後悔ききにたゝぎる
放言ともいふべし。昔はかくのごときの義有共。
今以随ひがたし。扨又右の七人尤高名をあらはすといへども。
後世大人の
学ぶべき
行にあらず。大将一
騎先をかけば。
郎従等跡にのこり。誰が下知に随て。合戦をとぐへき。主一人のわざはひ。
万郎勝利を
失ふに
非ずや。され共
泰衡は
頼朝公たなごゝろにある
敵をそるゝにたらず。
独歩の先立。
武略のなす所なるべし。
夫軍は
勝てまくる事あり。
負てかつ事有引くべき所を引。かけべき所をかけざるは。
大将の
不覚。是みな。
武略智謀のなす所也。
軍法兵略も。
後代に
至ていよ
〳〵厳重なりと云り。北条の侍に大石平次兵衛と云者一
首を
詠ず
樊噲をあざむく武者をあつめても下知につかずば餓鬼にをとれり
とよみけるを。氏政聞及び給ひかれは一方の大将すべき者也と。御感有てあしがるを百人。あづけ給ひければ。いよ〳〵此法度を諸侍信じき。扨又亡父氏康公。上杉を追討し。其威遠近にふるひしかば。信濃。かうづけ。下野。ひたちの国にをいて。一城持程の士は皆降人と成て。氏康幕下に属し。恐れうやまふといへ共。上杉殿ゑちごへ落行。景虎をたのみ。一度帰国をねがひ給ふによつて。関東侍共旧君上杉殿へ心ざし。つかへるものおほかりき。然に先年氏政と。里見義弘。下総国高野の台にをいて。対陣の時節。敵夜中に引しりぞく由。告来によつて。遠山丹波守。とみなが三郎左衛門尉。前陣にあり。敵のてだてを。わきまへず。卒爾に高野台へ取あがる所に。敵待うけ。多勢をもつて切かち。遠山。富長討死し悉もて背北す。味方是を見るといへ共。かつてもてさはがずして。備をみださず。一手〳〵にいちじるしく。よせ太皷をうつて。しづ〳〵とせめかくる有様。威敵もおもてを恥ぬべし。然に氏政旗本二陣につゞく所に。味方の士卒算をみだし。すでにはたもとへくずれかゝる。氏政下知していはく。敵かつに乗て。長途を過。労して功なしと云り。是を討べしと団を上給へば。命は義によて軽じ。討死し名を後記に留んと。責懸りはた本計。一勢をもて既に。切勝敵をうちとる事。永録【 NDLJP:489】七年甲子。正月八日辰の刻なり。同き日申の刻に至て。又大合戦有。氏政鑓をつ取て。真先にすゝみ。まういをふるひ。切勝て五千余騎討取。其いきほひに。下総。上総を治められたり。一日に二度合戦あり。二度ながら氏政はたもとをもて切勝。希代の名大将の。ほまれをえ給ふ。其上民をなて。国の政道ただしく。仁義もつはらとし給ふ故。関東諸さふらひ二心なく。二代の主君とあふぎ。忠をいたさんとす。ていれば。氏政は関八州を治め。合戦の砌忠ある侍には。其浅深にしたがつて。国郡一郷一村太刀かたな。金銀小袖を出し。其上はうびの感状を出せり。それかし親。三浦五郎左衛門尉茂信。相州三浦の住人。北条家譜代の侍なり。高野台一戦の刻。先陣にすゝみ。おほくの敵をほろぼし首取て。ほまれ有又。永録二年の冬。義弘三浦へ舟にて渡海し。合戦のみぎり。万人にぬきんで。しゆうを决し。くみ討し。数ケ所のきずを負といへ共。首取て威名をあぐる。同十三年の春。武田信玄と氏政対陣の時節。するがの海にをいて。敵船と一戦し。うち勝て。敵船をかんばら浦へ追あげ。もういをふるひ。数度のちうきんをはげまし。軍功をぬきんで。氏政ほうびの感状。数通是あり。誠に旧君の厚恩。亡父残名のかたみを。此物語の次ぐに。思ひ出で書加侍る。かく我家の美をあらはす事。他人のあざけりをかへり見ざるか。され共戦国策に。其善をば賞すべし。その悪をばかたるべからずと云り。扨又穀梁伝に孝子は父の美をあげて。父の悪をあげずと云々。父は子の為にかくし。子は父のためにかくす。直なる事其中に有と諭語にも見えたり。然に氏政は。文武の達人とには常に。和語をこのましめ給ふ天正十五年の立春に。松契㆓多春㆒といふ題の下に。氏政と書て
いくはるをちぎりをきたるすみよしのはままつかえのみさほなるらんうつしうへし二葉の松のことしよりみどりにこもる春はいくはる
此二首の自詠を。自筆に書をき。はの。てにはを。うたがはしくやおほすらん。やかとそばに書そへ給けるを愚老持つたふる。今の能筆衆是を披覧有て。筆勢のいつくしさ。たぐひあらじと。皆人感ぜり。身はこけの下に埋ても。もしほ草書をき給へる言の葉は。後の世までも朽やらず誠に水ぐきの跡は。千代も有らんとは。是やらんと思ひけるにも。いとゝ涙をもよほせり。此二詠を是に残しをき予がごとくいにしへを。忍草のゆかりの人。若あらば思ひ出やせんと記し侍る也。氏政公は。天文七戊戌の年誕生なり。小田原籠城は。天正十八庚寅の年。七月十一日生涯に望んで。すけるみちとて
ふきとふく風なうらみぞ花のはるもみぢの残る秋あらばこそ
と詠じ五十三歳にして。
秀吉公のために。
切腹し給ひぬ。
法名慈雲院殿勝岩傑公大居士と
号し奉る。
盛者必衰の世のならひ
歎てもかひなかるべし
【 NDLJP:490】
見しは昔。関東北条
氏直時代まで。長柄刀とて人
毎に。刀の柄をながくこしらへ。うでぬきをうて。つかにて人をきるべく
体たらくをなせり。当世はかぎ
鑓とて。くろがねを長くのべ。かぎをして。鑓の柄に十文
字に入。其
先に小じるしを付。柄にて人をつくべき
威風をなし給ふ物すきも
時代によりて。
替と見えたりといへば。人聞て其むかしの
長柄刀。当世さす人あらば。目はなのさきにさしつかへ見ぐるしくも。おかしくも。あらめとわらひ給ふ所に。昔関東にてわかき
輩。みな長柄刀をさしたりし。
老士の有けるが。此よしを聞。
耳にやかゝりけん。申されけるは。いかにや若きかた
〳〵。さのみむかしをわらひ給ひぞ。
古今となれ共。其心ざしは。おなじ
得のみ有て。
失なく。失のみ有て。得なき事有べからずと。
先賢のつくれる。
内外の
文にも見えたり。それ人をそしりては。我身の失をかへり見る。是人を
鏡とすと云々。それ
鎌鑓は。むかしより用る。此鎌にも失あれ共。四寸のまがり。身の
楯となる。
深得をかしこき人。たくみ出せり。
片鎌にさへ。
利あり十
文字に
猶益有とて。
後出来ぬ。
当代の人。十文字も。みじかきとて。かぎ鑓と名付て用ひ給ふ。是長きを益とせざるや。され共是にも失有べし。たゝかひは所をきらはず。
藪せこ。
篠原。あし原。
森林に入て此かぎ
鑓捨るより
外の事有まじ。然ども
古語に我うけぬ事には。
得の有を。かんがへて。あながちにそしるべからず。是
達人の心也といへるなれば。是をとがめて
益なし。それ
兵法のおこりを尋るに。
唐国にては
孫子呉子。日本にては
鹿島大明神。つかひはじめ給ふゆへに。兵法とうぜんに有といひ
伝へり。鹿島は
武家護持の神にてまします。それをいかにと申に。むかし
神功皇后新羅を。したがへ給はんと思食立。
軍評定のため。日本国中大小の
神祇。
冥道をこと
〴〵く。
勅諚にしたがつて。常陸の国
鹿島に来給ひ。評定有て後。三
韓をしたがへ給ふ事。
古記に見えたり扨又右大
将頼朝公。
別して
鹿島を
信仰候ひし其比
木曽よしなか。寿水三年
甲辰正月十日
征夷将軍に
任ず然共京都にをいて
逆威をほしいまゝにふるひしかば。是を
退治の
為蒲冠者のりより。九郎
判官よしつね両大将として京都へさしむかはしめ給ふ所に。おなじき正月十九日。鹿島の明神は。
義仲ならびに
平家ついばつの為。京都におもむき給ふと。其御つげ有と鹿島の
禰宜。かまくらへ
使者を立る。同廿日の
戌の
刻。鹿島の御殿。しんどうし。明神は雲に乗じ。西国に渡り給ふを諸人の目に見えつる由。頼朝も
聞召誠に有
難く。おぼしめす所に。同廿一日によしなかを
討取。其後
平氏をたいらげ給ふ事。ひとへに鹿島の神力なりと。頼朝公いよ
〳〵信仰有しと。ふるき文にくはしく見えたり。鹿島は
勇士を
守り給ふ御神。
末代とても
誰かあふがざらん。然にかしまの住人。
飯篠山城守
家直。兵法のじゆつを伝へしよりこのかた。世上にひろまりぬ。此人
中古の
【 NDLJP:491】開山也。さて又
長柄刀のはじまる
子細は。明神
老翁に
現じ。長柄の
益有を
林崎かん介
勝吉と云人に伝へ給ふゆへに。かつとし長柄刀をさしはじめ田宮平兵衛
成政という者に。是を伝ふる。成政長柄刀をさし
諸国兵法
修行し。柄に八寸の
徳。みこしにさんぢうの
利。其外
神妙秘術を伝へしより
以後。長柄刀を皆人さし給へり。然に成政が兵法第一の
神秘奥義といつは。手に
叶ひなば。いか程も長きを用ひべし。
勝事一寸にして
伝たり。其上
文選に。末大なればかならず
折。尾大なればうごかしがたしと云々。
若又かたき長きを用るときんば。大敵をばあざむき。小敵をば。をそれよと云をきし。
光武のいさめを。用ゆべしと云りむかしの
武士も。長きに益有にや。
太刀をはき給へり。
長刀は
古今用ひ来れり。扨又長柄の益といつは。太刀はみじかし。長刀は
長過たりとて。是中を取たる益なり。又刀太刀長刀を
略して。一
腰につゝめ。
常にさしたるに徳有べしそれ関東の
長柄刀。めはなのさきのさし合は。すこしき
失なり。敵をほろぼし我命を
助けんは。大益なるべし
聞しは昔北条
早雲入道氏茂。伊豆の国を切て取事。しなすこしかはり
説おほし
或老士語りけるは。早雲は
民百姓をれんみんし。
慈悲ふかき
故に。伊豆の国を治められたり。仲のいせ新九郎氏茂は京都より
唯一人するがの国へ下り。
今川五郎
氏親をたのみ
堪忍し給ふが
文武の侍たるにより。今川殿の
縁者となりてするがの
高国寺辺を知行し
居住す。其比
郎従二三百人程
扶持す。此人じひの心ふかくして。百姓をあはれみ
毎年の年貢をゆうめんせらる。是によつて百姓共。かくじひなる地頭殿にあひぬる物かなとよろこび此君の
情に。
後の
用にもたつべし。あはれ世に久しくさかへ給へかしと。心ざしをはこばずといふ者なし。誠に
慈悲あらん人をば
親踈をいはず。
親のごとく思ひ。
恩あらん
輩には
貴賤を
論せず。
主従の礼をいたす。是
仁の
道也。然に新九郎いれいとなぞらへ。
伊豆の
国修禅寺の
湯にしばらく入て伊豆の国の
様子をつぶさに
聞届。伊豆の国を
切てとらんと。
思慮をめぐらさるといへ共。伊豆は上杉
民部大夫
顕定の
領国其上両上杉殿と
号し。さがみ
上野に有て。諸侍の
統領。
奥州までも
彼下知にしたがふなれば。わたくしの
計策にて
及びがたし。然所に両上杉の中
不和出来。
諸国みだれ
算を
散し合戦す。是によて伊豆のさふらひ共
悉上州へはせ
参じたり新九郎此よしを聞。
願ふに
幸かな是天のあたふる所時をえたりと。百姓共をまねき。此内
武の用に立べき者どもを
近付ていはく。さがみ。上野両国に弓矢おこつて。伊豆の
侍ども皆上野へ参じ。伊豆には百姓斗也。我伊豆の国を切て取べし。我に同心
合力せよ。其
忠恩いかでか
報ぜざらんやと申されければ。百姓共聞て
累年の御あはれみ
忘がたし。御
扶持人も我等も
同意なり。あはれ
地頭殿を一国の
主になし申さんとこそ願ひつ
【 NDLJP:492】れ。たとへ
命を
捨る共。
露散おしからじはや思ひ立給へと。
衆口一
同に
返答す。新九郎
喜悦なゝめならず。その上
近里他郷の者までも。此よしを聞新九郎殿へ
与力せんと
参集す。新九郎云伊豆の国北条に。
堀越の御所。
成就院殿と
号し
名高き人あり。
軍のはじめに先是を
討亡すべしと
延徳年中の秋。百姓共を引つれ。夜中に北条へをしよせ。御所の
舘を取きき。
鯨波をどつとあげ
家屋へ火をかけ
焼立る。御所は
肝をけし。ふせぎたゝかふべき事を忘れ。
火災をのがれ
落行けるを
追かけ。
郎従共に
皆討亡したり。新九郎北条に
旗を立る。伊豆の国の百姓ども是を見て。するがの大
将軍として。いせ新九郎
働くぞと。山
嶺をさしてにげ行たり。然に新九郎
高札を立る其こと
葉にいはく。伊豆の国中の
侍百姓。皆もつて
味方に
候すべ
本知行相違有べからず。
若出ざるにをいては。
作毛をこと
〴〵くちらし。
在家を
放火すべしと。
在々所々に立をきたり。是を見て百姓共。我先にとはせ来て。是はそんじよう其所の百姓又は
郷のおさといへば。其所
相違なしと。
印判をとらせ皆々
安堵せり。扨又
佐藤四郎兵衛といふ侍一人。
降人と成て出る。新九郎いはく。伊豆国中
田方の
郡。大みのえは佐藤四郎兵衛。
先祖の
相伝也然に
最前に身方に候するの条
神妙なり。此度あらためて地頭職にふせらる。
子々孫々永代他のさまたげ有べからず。百姓等
承知すべし。あへて
違失有べからずと。
印判を出す。上州へ
参じたる伊豆の
侍共。此由を聞
急ぎ
絶帰て
降人と成て出る
本地皆
領納すべき
旨。印判を出されければ。一人も
残らず。伊豆の侍新九郎
被官に
候す。三十日の
中に伊豆一国
治りぬ。新九郎
収納する所は。御所の
知行一つか有
計を
台所領に
納。みな本の侍領知す。其上新九郎
高札を立る。前々の侍
年貢過分の故。百姓つかるゝ由聞及びぬ。
以来は年貢五ツ取所をば。一ツゆるし四ツ地頭おさむべし。此外一
銭にあたる義なり共。
公役かけべからず。もし
法度を
背くともがらあらば。百姓等申出べし。地頭職を取はなさるべき者也と云々。是によて百姓共よろこぶこと
限りなし。
他国の百姓此由を聞。おはれ義等が国も稍九郎殿の国に。なるばやとねがふと云々。
早雲諸侍をいさめていはく。
国主の為に
民は子也。民の為には
地頭は親なり。是わたくしにあらず。
往昔より
定れる道也。いかでか
憐みをたれざらん。世
澆末にをよび。
武欲ふかふして百姓年中の
耕作を
検地し。四ツもなき所をば。五ツ有といひかけて取。此外
夫銭棟別野山の
役をかけ。あらゆる程の物を押て取。
分際に
過たる
振舞をなし。
花麗に心をつくし。
米穀を
徒についやす故に。百姓苦しみ
餓死に及ぶ是によて。早雲は
定〈[#ルビ「さかむ」はママ]〉る所。年中
収納する
穀物の外に。一
銭にあたる義なり共。百姓にいひかけすべからず。
諸役宥免せしむるにをいては。
地頭と百姓
和合し。
水魚の思ひをなすべし。早雲
守護する国の百姓。
前世の
因縁なくして
生れあひがたしねがはくは
民ゆたかにあれかしと申されければ。
民家聞て此
君の
時代永久にあれかしと
仏神へきせいし。
喜悦の外
他なしと云々。其後新九郎。さがみ小田原
大森筑前守。
居城をのつ取。三浦介
陸奥守義同。
法名道寸かれを
亡【 NDLJP:493】し。さがみを
治ても伊豆のごとくの
掟なれば。百姓よろこびあへり。此新九郎
文武の
侍。
慈悲の
政道を
専としはかりごとを
旨とする故。
国家けんごにおさまりぬ。
孟子に
鎡基ありといへ共時を待にはしかじと云々。
君子のまつりごとは
民をやしなふを本とす。早雲伊豆の国に
望みをかくるは。
蟷螂が
斧といへ共
能時を待て一国を切て収。
諸侍民百姓をなびかす事。
智謀故也。去程に小敵といへどもあなどらず。
勝軍にほこらず。
昼夜をむなしくせずして。
大功のみ心にかけ。
武を
右に。
文を
左のつばさとし。千
里をかけんとほつす。
故に
武勇さかんにして。
飛龍の天にかけるにことならず。
早雲子息氏綱時代に至ても。
父の
掟に
相替らず。
氏康時代も猶しかなり。氏康
河越一戦に
討勝。
公方晴氏官領上杉
憲政を
追出し。河越にはたを立。
猛勢をふるひしかば。
武蔵。
上野。
下野の
侍共こと
〴〵く
降人と成て。氏康
旗下に
候す。其後公方は
配所へうつり
流罪せられ。上杉は
越後へにげゆき。
景虎をたのみ。
帰国を一
度とねがふによつて。関東
侍氏康
被官に
属すといへ共其中に一人
野心をさしはさみ。文をめぐらせば。皆それに一
同し。
或時は
景虎を大
将軍とし。或時は
信玄に一
味し。小田原へ
働といへ共。国中へをし入たるを。一身の
手柄におもひ。一時もさゝへずして。両
将我国へ引て入。其
節に至て氏康かれらを
討亡ぼさんため。
出陣すれば。
彼関東侍
先非を
悔。手をつかね
偏に
降参す。皆もつて
罪をゆるし。
却て
芳情をくはへらるゝ。其後四方に
敵有てたゝかふといへ共。
数度の
厚恩を
忘れざるが故。一度も
変ぜず。氏
政氏直まで
主君にあふぎ。永久に関八州を
治められたり。然ば
頼朝公ぬしの
手柄をもつて。六十六ケ国を切て取給ひけれ共。国を
所領する事。
私意にはかりがたくや。
勅定をうけ五十八ケ国をば
忠臣等にさきあたへ。頼朝は東八国を
収納し給ひぬ京都へ申上らるゝ其
詞に云。東八ケ国の
分は頼朝が
知行仕候。是をば
別紙に
注しのせ下さるべく候。
閑院の御
修理といひ。六条殿の
経営といひ。
朝家の御
大事といひ御所中の
雑事と云。
何ケ
度も頼朝こそ
勤仕すべき事にて候へば。
愚力の及びけん程は。
奔走せしめべく候と。
東かゞみ九の
巻に
記し見へたれば。日本国
領知おほしといへ共中にも東八ケ国は。
弓矢をつかさどる
名誉の
武国也。然るを北条氏
康東八ケ国を
静謐に
治しは。
希代の
武家なりといへば。
若き衆聞て。北条
家の弓矢は大様にしてはげしき事なし。
管子が云
儒弱の君は内の乱をまぬかれずと云々。
軍法をやはらかに。ぬるくをこなへば。内の
男女の間より見だれ。国に
逆臣出来す。
関東侍一
同し
景虎にくみする
以後縦降参すといふとも。其
節の
張本人。せめてひとり
討果すに至ては。
重て
信玄に一
味すべからず。一
悪罸すれば。
衆悪をそるゝならひ也。
昔北条
家の弓矢はぬるく。
池のたまり
水。ながるゝがごとし。
近代信長。
秀吉などの弓矢は。
堤きれて大
水をながすにことならず。いさぎよく
凉しといふ。
老士聞てをろかなる
若殿原達のいひ事かな。それ国を
治る
君子の心。
古今かはるべからず。氏康
諸侍の
科をなだめられたるは。是はかりごと也。氏康は
【 NDLJP:494】大功をおもひ。関八州をおさめん
智略有により。はたして。関東
諸侍こと
〳〵く。
旗下に
属す。
荀子にいはく。
川淵ふかふして
魚鼈帰す。
山林茂して
鳥獣帰す。
刑政平かにして百姓帰すと云々。大将の道は
善を
賞する事は
厚く。
悪を
咎る事は
薄しよろづ申付ても心。おほやけに
慈愛あれば。上下の心おなじくして。
背かざるをたいらかなりといへり。又
古語に云。
君臣一
体なれば
政おさまる。
君民一心なれば
国家おさまると。
先哲も申されしなり
と云前句に
と兼裁といへる連歌師付たりしも。今爰におもひ出けり。然に治承四年の比ほひ。頼朝公伊豆の国にをいて。義兵をあげ。相模の国石橋山のかつせんに討まけ。安房の国へ落行給ふといへ共。かづさ。下総。武蔵の侍味方に候す。頼朝相模鎗倉〈[#「鎗倉」はママ]〉へ打入給ひて後。石ばし山にて源氏へ弓を引者共。或はからめ或は降人と成て出る者おほし。大かた罪をゆるさるゝ。中にも其節の張本人。科もなき者共をば。諸侍に預けをかるゝ大庭三郎景親をば。上総介広常に預けらる。長尾新五郎為景は。岡崎四郎義実にあづけらる。おなじき新六定宗は。三浦介義澄に預けらる。河村三郎義秀は。景義に預け。滝口三郎経俊は。土肥次郎実平に取預け置。後ざんさいせらるゝ。爰に山内の滝口三郎経俊を。誅せらるべきよし其沙汰有。滝口が老母の尼此よしを聞。子の命を助けんがため。頼朝公の御前に参上し。直に申ていはく。資通入道八幡殿につかへてより以来。代々忠功を源家につくす事。あげてかぞふべからず。中に付て俊通。平治の戦場を望んで。六条河原にかばねをさらし畢ぬ。然るに経俊大庭三郎景親に。くみせしむるの条其科。あまりありといへども。是一旦平家の後聞をはゞかる所也。をよそ軍陣を。石橋辺に張の者おほく恩赦に預る乎。経俊も又なんぞ先祖の功に宥ぜられざるものをや。頼朝御旨なし。土肥次郎実平をめされ。預けをく所のよろひを。参らすべきの由仰らる。実平是を持参し。ひつのふたをひらき。是を取出し。老母の尼が前にをき。是石橋合戦の日。君のめされたる御よろひ。経俊が矢。此御よろひの袖に立所也。件の矢の口巻の上に。滝口三郎藤原経俊と注す。此字のきはより箟を切て。御よろひの袖に立ながら。今に是を置るゝはなはだもつていちじるしき者也。よつて頼朝公直に。是をよみ聞しめ給ふ。尼かさねて子細を申にあたはず。双涙を拭ひ。退出す。兼て後事をかゞみ給ふによつて。此矢を残さるゝと云々。経俊が罪科にをいては。刑法に。のがれがたしといへ共。老母の悲歎に。宥し。先祖の忠功をしたひて。忽凶罪をなだめらるゝと云々。上にかく慈悲有故。下万士又しが也。件の石橋合戦にをいて。真田与市義忠。うつとられぬ。是は頼朝公。義兵をあげらるゝ最前に。御味方になる忠の者也。頼朝【 NDLJP:495】公なげきおぼしめす事。きはまりなし。其後長尾新六定景をからめ来る。此者与市を討取たり。頼朝公此者を。御前に召よせ御覧有て。数月の欝望散じたり。せめてかれを害し与一が恩を報ずべし。おなじくは。父岡崎四郎義実に遣され。是を誅すべき旨仰らる。義実は本より。慈悲を専とする者也。よて誅するにあたはず。囚人として日を送るの所に。定景法花経を持して。毎日転読して。あへてをこたらず。然に義実武衛へ申て云。定景は愚息敵たるの間。誅戮を。くはへずんば欝陶を。さんじかたしといへ共。法花の持者として。読誦の声をきく毎に。怨念やうやく尽畢ぬ。若是を誅せられば。却て義忠が。冥途のあだたるべきか。是を申なだめんとほつすと。ていれば仰にいはく。義実が欝をやすめんが為に。下し給はり畢ぬ。法花経にゆうじ奉るの条尤同心なり。はやく請によるべき者と。すなはち免許すと云々。早雲まつりごとよければ。士も民もおもひよりて。北条家へ帰服す。然に我物おぼしてより。近き年迄。関八州の国主。其下々の侍までのおもはく。我領納する。一所懸命の地は。そのかみ八幡殿よりゆづりつたはりて。子々孫々までも。我所領。我百姓なれば。民ゆたかに。さかふるやうにと。あはれみをたれ。政道なせるは唯親が。子を愛するがごとし。又百姓も我地頭殿は。おやおうぢよりつたはり。孫ひこやしや子の末までも。はなれぬ地頭なれば。永久に栄へおはしませと。神仏へいのり。子がおやをおもふごとし。是に付て思ひ出せり。永正七年上杉顕定と。越後の長尾太郎為景と。鉾楯有て為景たゝかひに討まけ。越中西浜まではいぼくし。顕定武威をふるふといへば百姓地頭をおもふが故。一揆おこつて。顕定滅亡し。為景本国に帰る。是百姓と地頭一味の故なり。今の時代国郡を持侍は。来年にも国がへやあらん。今年の年貢をば。妻子をうらせても。残りなく取はらはんと百姓の妻子を籠にいれ水に入て呵責す。又百姓はことしにも国がへあれかし。別の地頭にあひなば。よも是程からき目にはあはじ物をと。明暮のろひごとして。仏神へ。いのる是身にそふかたきならずや。いかでかつゝしみなからん。天正十年の春。信長甲州へ発向の風聞あり。甲州の百姓共此よしを聞。累年信玄勝頼に。非道の年貢を責とられ。其外非分の法度にあひつるを。此度取返し。其報ひを知せんとのゝしりあへりければ。信長のはたさきも。いまだ見へねども。百姓共のいきほひにをそれ。勝頼も郎従等も我先にと東西南北へにげゆき。勝頼つゐには。天目山の郷人に害せられ給ひぬ。是百姓と地頭別心の故にあらずや。それ苛政といふは。からきまつりごと。上のきびしき事也。孔子門人を引具し。道を過給ふに。或山中に老女の。子を一人かゝへ泣居たり。孔子なにゆへに爰にて泣ぞと問ければ。答て云我夫を虎にくらはれぬ。子一人もくらはれぬ。又けふあす此子も我も。くらはれん事の悲しさに。是を愁へてなくといふ。孔子のたまはく。さらばなど家にはかへらざる。女答て家には苛政ありといふ。孔子是を聞て子路と云者をめして。苛政は虎より。はげし【 NDLJP:496】といふ事を。記させて帰り給ひぬ。誠に上のきびしくからきは。虎よりつらかりけるにや。家語と云文は。孔氏一生涯の事をあつめたる物なり。其中に此事もありと云々。はげしき心。虎はものかはと云前句に
と宗祇付られたり。康誥に赤子をあひするがごとし。心誠に是を求れば遠からずと云々。君は民のこのむ所。にくむ所をよく知て。民をおさむるが肝要也。君として民をめぐむ所を。おしひろぐる時は。大小高下不同あれ共。真実の道理は不同なし。君は民を思ふ事子のごとくすれば。民は君を父母のごとくおもふ。然る時は大事にのぞめども。君を捨る民なく。君にそむく臣なし。慈悲の政道には。国家大平なるべし。むかしを聞て今をおもふに。君子の守る所の道はかはらず。管子が云。猛毅の君は外の難をまぬかれずと云々。たけくあらき君には。臣をそれしたしまず。法度きつき君には。遠国したがはず。いにしへより今に至るまで。誰かしかならん。北条早雲入道は。仁義を専とし。政道ただしく民をなで。あはれみふかし。其子々孫々に至るまで。其法をまなぶ故。法をもちゆるは是家のさかふる道なり。故に幸慶たちまちに純熟して。関八州を永久におさめ。世に秀たる武家なりと申されし
聞しは今。江戸
神田明神の
由来を。
当所の
古老物がたりせられしは。
桓武天皇六代
孫。
陸奥鎮守府。
前将軍従五
位下。
平朝臣良将次男。
相馬小次郎
将門といふ人。
朱雀院御宇承平二。
壬辰。
東国にをいて
叛逆をくわだて。
伯父鎮守府の
将軍良望。
後は
常陸大
椽平国香と
改名す。かれを
亡し
関八州をしたがへ。
下総の国
相馬の
郡に京を立。百
官を
召仕逆威をふるひ。
平親王とみづから
称す。身はくろかねにて
矢石もたゝず。
鬼神の
来現したると。見る人聞人。をそれざるはなかりけり。
御門此よしきこしめし。
下野国の住人。
俵藤太藤原秀郷は。
無双のつはもの。
多勢の者也とて。
将門が
討手を仰付られたり。又
翌年
参議右衛門
督藤原
忠文。
征夷大
将軍の
宣旨をかうふり。
節刀を給はつて。同き三年
癸巳。正月十八日京都を打立。東国へ
下向す。
漸駿河の国
清見関に
着ぬ。
忠文当浦の
景風のたへなるに心をとむるとかや。是に付ておもひ出せり鴨の長明
海道路次の
記に云。清身が
関も
過うくて。しばしやすらへば。
沖の
石むら
〳〵しほひにあらはれて。
煙なびきにけり。
東路のおもひでとも成ぬべきわたり也。むかし
朱雀院天皇の御時。
将門と云者
東にて
謀叛おこしたりけり。是をたいらげん
為に。
宇治民部卿忠文をつかはしける。此
関に至りてとゞまりたりけるが。
清原滋藤といふ者。
民部に
伴ひて
【 NDLJP:497】軍艦と云つかさにて行けるが。
漁船の火のかげはさむくして
浪をやく
駅路の
鈴の
声は。夜山をすぐと云。
唐の歌をながめければ。
民部卿涙をながしけりと。聞にもあはれなりと書て。きよみがた。せきとはしらでゆく人も。心ばかりはとゞめをくらんと。
長明詠ぜり。然所に
忠文下らざる以前。
秀郷貞盛と同意し。
武略をめぐらし。同二月廿四日
将門は秀郷が
為に
討れぬ。又
或説に将門
悪逆無道ゆへ。天より
白羽の矢一
筋降て。将門がみけんに立。
秀郷に
誅せらるともあり。扨又
延暦寺調伏の
祈誓にこたへて。将門がいたゞきに。
神鉾あたつてほろぶともいへり。然間
忠文は。
益なく
途中より
帰落す。同三月九日に。将門が
首都へのぼり。大
路をわたし。ひだりの
獄門の木にかけられたり。
秀郷貞盛は上路し。
勧賞にあづかり。天下にほまれをえたる所に。
忠文もおなじく。
賞をかうふるべしと。是を申に付て。
小野宮殿申て云。
賞のうたがはしきをばおこなはれずと云々。次に九条殿申されていはく。
下着以前逆徒滅亡せしむといへども。
勅定の
功にしたがつて。なんぞをこなはれざらんや。
賞のうたがはしきは。をこなはる。
刑のうたがはしきは。ゆるすと云々。然ども先の
意見に付ては沙汰なし。
忠文九条殿御
恩言をよろこび。
富貴の
願券契状を。九条殿へ
送進上す。
卒逝の期に至て。
小野の宮殿を
恨みたてまつる其故にや。九条殿御家はいよ
〳〵さかへ。
小野宮殿の
跡は
絶たると云々。然ば其後世にさとし様々有て。天地
変異し。やむ事なし。是
将門が
怨念によりてなりと。
世上に
沙汰しければ。さあらば神にまつり
将門が心をなぐさめよとの
宣旨によつて。
武蔵国
豊島の
郡江戸
神田明神にいはひ給ふ。それより天下の
怪異もしづまり
国土安全に。
民もさかへたり。
中古にもさるためしあり。
後鳥羽院隠岐国へながされ給ひて
後彼怨念光物と成て。
人民をなやまし
都鄙しづかならず。かるがゆへに
鎌倉雪下にをいて。後鳥羽院を
新宮大
権現といはひ奉りて
後天下をだやかなるとかや。それ
相坂より
西に
霊神おほくまします
毎年
神祭あり。
大和国奈良の
都にをいて。
聖武天皇東大
寺を
造立し給ひ。
金銅十六
丈の。ましやなぶつを
安置し
行基菩薩を
導師に
請じ。
供養をとげられ。
供仏施仏の
作善。
残る所もなし其上毎年二月六日。かすが
祭の能あり。四座の
猿楽あつまりて。今にたへず此
能をつとむる。扨又坂より東に国おほし
在々所々にをいて。
神をまつる。
天照太
神は扨をき。
鹿島大明神を
始奉り。
霊神其
数あげて
記しがたし。然所に
能の
祭は江戸
神田明神に
限りたり。それいかにとなれば。神田明神の御
詫宣に我
朝に能はじまる事
地神五代。あまてる御
神の時。
天の
岩戸の
前にて。
八百万神あそひ
朝倉返し
神楽歌を。そうし給ひしよりこのかた。はじまれり是により。
能。
式三番といふ事出来たり。
翁太夫は
天照太神。
千歳暦は
春日大明神。三
番申雅久は
住吉大明神にてまします。是神代のまなびなりわが
氏子ども。いかなる
祭祈祷をなすとも。
能の
舞楽にはしかじと有しより。
毎年九月十六日に。
神事能あり。然る所に上杉
修理大夫
藤原朝興は。
武蔵の
国主として。江戸の城にまします。大
【 NDLJP:498】永四甲
申の年北条左京大夫氏綱。
江城をせめ落し。上杉を
亡し。武州を
治め給ふ是によて
申の年
神事能なくして
次の年に。神事能あり。是
吉例なりと。氏綱仰有てより
以来。中一年へだて三年目ごとに神事能あり。京の
八幡に
暮松といふ
舞楽堪能の者あり。此人下て江戸を
居住とし。三年に一度の神事能をつとめ。今にたへず。ていれば当誠の
根源を。
或老人に尋れば。
翁語ていはく。
文安の比ほひ。
鎗倉〈[#「鎗倉」はママ]〉山内に
官領上杉右京
亮憲忠は。十
州に及び
受領す。其家の子に
太田道真と云者。江戸をはじめて
城郭をきづきぬ。
子息道灌二代
居城とす。然に
享徳三年
甲戌〈[#「甲戌」は底本では「甲戍」]〉。十二月廿七日
公方西御門成氏公。
鎌倉御所にをいて。
憲忠を
誅し給ひぬ。其後道灌は上杉
修理大夫
定正の
長臣。此
父子は
文武に名をえたる者なり。其比官領上杉
民部太輔
顕定と。
定正弓矢を取て
止事なし。然る所に
寄栖庵主顕定へ
遣す文に。太田
真灌ふしぎの
着用をもて。名を天下にあげほまれを八州にふるひ。
諸家心をよせ
万民かうべをうなたれ。
饗をなす事。しかしながら天道のいたりか。又は其身の
果報か。なに様両条に過べからずと書たり。されば
真灌のあざ名。此文の外に見ず聞も
伝へず。此名おぼつかなきゆへ。我
老人に
尋れば。
道真道灌父子の二
名を一名に
記したり。人のあらそふべき事なりと申されし。
道灌叛逆の義有て。
文明十八
丙午のとし。
定政のために
誅せられぬ。其後此
城定政主たり。
定政は
明応二年に
逝去。
子息五郎
朝良。
永正年中まで二代
在城す。
朝良そつして後。
官領上杉
修理大夫
朝興持り。大
永年中
氏綱此
城をせめ落し。
再興有て
居城とす。氏
康。氏
政氏
直まで四代
守護たり。此城はじまつて
名大
将。合九代もてり。天正年中まで北条
治部少輔。
遠山左衛門
城代とす。氏直
没落このかた天下
大平にして。
武州江城に
将軍おはします。
繁昌言葉にのべつくすべからず。日本国の人の
集りなり。
四座の太夫は諸国より毎年江戸へ上て。御
城にをいて
能を御
覧ぜらるゝ。
諸大名は家々に一
座の太夫
役者を
扶持し。能をこたる事なし。
町には
西は
志波口。
東は
浅草口。両所に
舞台をたてをき。毎月毎日
勧進能有て。諸人
見物し。
万歳楽の
遊舞に。
寿命延年をよろこびあへり。是ひとへに
神田明神
能をこのましめ給ふ御
威光としられたり。
誠に
有難神明の御
慈悲なり。あふぐべしたつとぶべし
北条五代記巻第四終