北条五代記/巻第九

リンクを追加
75%（校正済み）
提供：Wikisource

北条五代記巻第九　目次

 
 
挿絵　　※サーバーの状態により挿絵が表示されない場合があります。


 
【オープンアクセス NDLJP:551】
 
北条五代記巻第九
 
 
 
聞しは昔（むかし）。相州（さうしう）の住（ぢう）人三浦介。受領（じゆりやう）陸奥守（むつのかみ）従（じう）四位下（ゐげ）平義同（たいらのよしあつ）。法名（ほうみやう）道寸と号（がう）す。子息（しそく）荒（あら）次郎。弾正少弼（だんじやうせうひつ）義意（もと）と云て。父子名（な）をえたる侍（さふらひ）あり。是は大介義明（あきら）の後胤（こういん）なり。平治（へいぢ）の合戦にをいて。三浦荒次郎義澄（すみ）は。源氏（げんじ）にくはゝり。軍（いくさ）せし事。古記（こき）に見えたり。然に伊豆（いづ）の国に。伊勢新九郎平氏茂（うぢしげ）と云武士（ぶし）あり。後は入道し。北条早雲（さうゝん）と号（がう）す。此早雲相摸（さがみ）小田原の城を。明応（めいおう）の比ほひ。のつとり上杉朝良（ともよし）居城（ゐじやう）。同園大庭（ば）の城をも責（せめ）おとす。永正元年九月。早雲（さうゝん）と官領（くわんれい）上杉明定（あきさだ）と。大合戦（かつせん）あり。三浦（うら）介道寸（だうすん）は。さがみ岡崎（をかざき）の城に有て。早雲とたゝかひしが。叶（かな）はずして。同九年八月十三日。城を開退（かいたい）し。同きすみよしの城にうつり。年久しく論敵（ろんてき）たりしが。鎌倉（かまくら）合戦に道寸討負（うちまけ）。敗北（はいぼく）す。されどる秋尾の大くづれにてきゝへたり。此道（みち）は高山（かうざん）くづれて海（うみ）に入。片岸（かたきし）に道有て。一騎（き）うちなれば。幾（いく）万騎（ぎ）むかうといへ共叶（かな）ひがたし。然共早雲大軍（ぐん）にて。小坪（つぼ）。秋屋。長坂（さか）。黒石（くろいし）。佐原（さはら）山を打越（こゑ）みだれ入。道寸（だうすん）かなはず。父子（ふし）一所に。雑兵（ざいひやう）二千ほどにて。三浦（うら）。新井（あらゐ）の城（しろ）にたて籠（こも）る。此城南西北（なんさいぼく）は入海（うみ）。白波（しらなみ）立て。岸（きし）をあらひ。山高（たか）く巌（いはほ）けんそにし【オープンアクセス NDLJP:552】て。獣（けだもの）もかけりがたし。城の広（ひろ）さは二十町四方。東（とう）一方わづか。二十間（けん）程。陸（くが）つゞき。是に堀をほり。門（もん）一ツ立をきぬれば。百万騎（き）むかふといふ共。力ぜめには成がたし。たゞ是島城（しまじろ）也。道寸は至剛（しがう）智謀（ちぼう）兼備（けんび）せし。大将たりといへ其。かまくら合戦（かつせん）に。人数（にんじゆ）こと〴〵く討（うた）れ。小勢なれば。叶（かな）はずして。三年籠城（ろうじやう）す。然に千駄矢倉（だやぐら）と号（がう）し。大きなる岩穴（いはあな）有。是に常（つね）に米穀（べいこく）を。千駄（だ）つみをく。此穴の内も皆（みな）はらつて。兵粮（ひやうらう）米つきはてぬれば。すでに城中（じやうちう）の者共。難儀（なんぎ）にをよぶ。其比むさしの国司（こくし）として上杉修理（しゆり）太夫朝興（ともおき）は。江戸の城（しろ）を居住（ゐぢう）とす。新井（あらゐ）の城中。兵粮つくる由を聞。武州（ぶしう）勢（せい）を率（そつ）し。道寸（だうすん）後詰（ごづめ）と有て。さがみの国。中ごほりまで打越（こし）陣取。早雲（さううん）此よしを聞。新井（あらゐ）の城おさへとして。二千騎（き）残しをき。四五千の人数（にんじゆ）。新井を退（しりぞ）て。甘縄（たまなは）〈［＃「甘縄」はママ］〉の近辺（きんへん）に陣取（ぢんとり）。合戦（かつせん）し。討（うつ）つうたれつ。たゝかふといへ共。叶（かな）はずして。上杉人数武州（ぶしう）へ皆（みな）引（ひつ）返す。新井（あらゐ）城中の者ども。力（ちから）をうしなひ。門をひらき。切て出。討死（うちじに）すべきか。腹（はら）を切（きる）べきかと。せんぎしける所に。大森（もり）ゑちごの守をはじめ。佐保田（さほだ）河内（かはち）同彦四郎。三次参河守（みかはのかみ）申けるは。総州（そうしう）の摩呂谷（まろやと）上総（かづさ）介殿は。荒（あら）次郎殿のしうと。親子（しんし）の契縁（けいえん）也。岸根（きしね）に。つなぎをく。おほくの舟に取乗（のり）。上総（かづさ）の国へ移（うつ）り。下総（しもふさ）。武州（ぶしう）上州（じやうしう）の勢（せい）をもよほし。上杉殿を先立申。さがみの国へ乱（みだれ）入て。早雲を退治（たいぢ）し。会稽（くわいけい）の耻（はぢ）をすゝぐべしとぞせんぎする。道寸（だうすん）是を聞。暫（しばら）く有て涙（なみだ）をおさへ。をの〳〵しさるゝ所神妙（しんべう）也。然にそれがしは。上杉高（たか）救が男（なん）なり。時高（ときたか）養子（やうし）と成（なつ）て。三浦へ移（うつ）る。其後継母（けいぼ）に弟（おとゝ）一人いできたり。継母の讒言（ざんげん）により。弟（おとゝ）を世にたてんため。われを害（がい）せんはかりごとあり。我心うくおもひ。出家（しゆつけ）し世を遁（のが）れ。小田原総世（そうせい）寺に有し所に。家老（からう）の者おほくしたひ来て。みかたとなる。小田原の城主（しろぬし）。大森（もり）筑前（ちくぜん）守加勢（かせい）をこひ。父（ちゝ）此城（しろ）にましますを。明応（めいおう）三年九月廿三夜（や）にせめおとし。中村（むら）民部（みんぶ）をはじめ。こと〳〵くほろぼしたり其因果（ゐんぐわ）を身にむくひ。かゝるうき目にあふ事。敵（てき）のせめにあらず。.是ひとへに養父（やうふ）の罰（ばつ）をあたり天の責（せめ）をかうふる也。世をも人をもうらむまじ。さあらんにをいては。縦（たとへ）いづくへ落（おち）たり共。行末（ゆくすゑ）も頼（たのみ）がたし。高（たか）きもいやしきも。死（しす）べき所にて死（しな）ざれば。後代（こうだい）の耻辱（ちじよく）たり。いにしへを伝聞（つたへきゝ）しに。東方朔（とうほうさく）が九千歳。うつゝらが八万歳（ざい）浦島（うらしま）が七百歳も限（かぎり）有命（いのち）にて。終（つゐ）にはむなしくなるぞかし。我六十歳（さい）を。たもちぬるも。たゞ一炊（すい）の夢（ゆめ）。生者（しやうじや）必滅（ひつめつ）の世のならひ。歎（なげき）てかひなかるべし。今生（こんじやう）の名残（なごり）たゞ今なり。酒（さけ）をくまんと道寸（だうすん）盃（さかづき）をひかへ給ひければ。河内守（かわちのかみ）君（ぎみ）が代は。千世（ちよ）にや千代（ちよ）とうたふ。荒（あら）次郎扇（あふぎ）を取て

君（きみ）が代は。千世にや千代もよしやたゞ。うつゝのうちの。夢（ゆめ）のたはふれ

と舞（まひ）給へば。彦四郎も同（おなじ）く立（たつ）て。つれてまふ。実（ぜに）あはれなる一曲（きよく）かなで。いつの世にかは立帰（たちかへ）り又もあひ見ん事ならねば。おもひ切（きる）とはいひながら。今を最期（さいご）の舞（まひ）の袖（そで）。思ひやられてあはれなり。道寸（だうすん）諸侍に向（むかつ）ていはく。君臣（くんしん）の礼義（れいぎ）。年来（ねんらい）の忠功（ちうこう）あさからず、然といへ共。予（よ）が【オープンアクセス NDLJP:553】運命（うんめい）もつきはて。三年の籠城（ろうじやう）に兵粮（ひやうろう）つきぬれば。力なし。此中（なか）にも落（おち）んと思ふ人あらば降人（かうにん）と成（なつ）て出城（しゆつじやう）すべし。道寸少も恨（うら）みなし。死（し）せんと志ふ人は。討死（うちじに）し。後代（こうだい）に名（な）をとゞめよ。道寸（だうすん）父子（ふし）は腹切べし。生涯（しやうがい）の対面（たいめん）是までなり。越後守が云。こは口惜（くちをし）き仰哉。それ人の一大事といふは。一期（ご）の終（をは）りをもてせり。年頃（としごろ）日来（ひごろ）恩禄（をんろく）を請（うけ）。かゝる時にひるがへらば。豈（あに）仁（じん）の道ならん。白氏文集（はくしぶんしう）に。君恩雨露（くんをんうろ）のごとしといへり。旧君（きうくん）の深恩（しんをん）を忘（わす）れ。此一大事を遁（のがれ）。世に生（いき）残りて。耻（はじ）をさらす者や候べき。主従（しうぐ）ともに討死（うちじに）し。名（な）を後代（こうだい）にとゞめんは。弓矢（ゆみや）とる身の本懐（ほうぐわい）なりと申ければ。諸卒（そつ）是を聞。御返答（へんたう）よく申たりと。をの〳〵心ざしを一ツにし。時刻（じこく）うつさず門をひらき切て出る。道寸（だうすん）うちわを取て。諸卒（しよそつ）をいさめ。けふを最期（さいご）の合戦（かつせん）なれば。父（ちゝ）討（うた）るれ共。子助（たす）けず。主（しゆう）うたるれ共。従者（じゆうしや）おち合ず。刀（かたな）のつかのくだけるを限（かぎ）り。死（し）を限りに。天地をひゞかしたゝかふ有様。修羅道（しゆらだう）もかくやらん。道寸（だうすん）うちわを取て。下知（げぢ）し給ふ所に。神谷雅楽頭（かんやうたのかみ）と名乗（なのつ）て。道寸を目がけ馳参（はせさん）じ。馬土にてをしならべてむずとくむ。道寸は聞ゆる大力（ちから）にて。物ともせず。汝（なんじ）やさしき心ばせや。我手（て）にかゝり。くわうせんにて。焔魔（ゑんま）の帳（ちやう）の。うつたへにせよと。鞍（くら）の前輪（まへわ）にをし付。ほそ首（くび）ねぢ切捨（すて）られたり。討死おほき其中に神谷雅楽頭（かんやうたのかみ）は心ももうなりけるが。道寸の手にかゝり。五十三を一期とし。死（しゝ）て名誉（めいよ）をとゞめたりと。ほめぬ人こそなかりけれ。荒（あら）次郎は。家につたはる重代（ぢうだい）。五尺八寸の正宗（まさむね）の。大太刀（たち）をぬき持（もつ）て。大声（こゑ）を立（たて）。切てまはる有様。鬼神（きじん）のごとし爰（こゝ）へをつゝめ。かしこへせめよせ。はらひぎり。をひかけぎりけさがけ。瓜切（うりぎり）。よこ手切（ぎり）から竹わりと云ものに。散々（さん〴〵）に切（きつ）てまはれば。かたきの勢（せい）は。四方（はう）八方へにげ行（ゆき）て。むかふ敵（てき）こそなかりけれ。敵みかたの死（し）がいは。原上（げんじやう）に塚（つか）をつき。血（ち）は野草（やさう）をそめ。みかたもおほく討死（うちじに）す。生（いき）残る輩（ともがら）は。友々（とも〴〵）さしちがへ。腹（はら）を切（きつ）てぞ死（しゝ）たりける。わづかに残る人々は。心しづかに腹きらんと。主従（しう〴〵）ともに。城に帰り。七十五人おもひ〳〵に腹（はら）切て。一人も生残（いきのこ）らず同じ枕（まくら）にふしにけり。荒（あら）次郎いはく。父（ちゝ）も自害（じがい）有べし。荒次郎は一人跡（あと）に残（のこ）りとゞまりとふらひ合戦仕り。かたきを思ふまゝに亡（ほろぼ）して。尸（かばね）はせんぢやうにさらし。苔（こけ）の下に埋（うづ）む共。名（な）を万天（ばんてん）にあぐべしとを申けり。扨又道寸（だうすん）は常（つね）に和歌（わか）をこのましめ給ひしが。すきの道とて生害（しやうがい）に至て

うつものも討（うた）るゝ者（もの）もかはらけよくだけて後（のち）は。もとのつちくれ

とよみ切腹（せつぷく）し給ひぬ。荒（あら）次郎は廿一歳（さい）。器量（きりやう）こつがら人にすぐれ。長七尺五寸。黒髭（くろひげ）有て。血眼（ちまなこ）なり。手足の筋骨（すぢほね）あら〳〵しく八十五人が力（ちから）をもてり。さいごの合戦のため。おどし立たる甲冑（かつちう）は鉄（くろがね）をきたひ。あつさ二分にのべ。是を帯（たい）しあらかしの丸木（き）を。一丈（ぢやう）二尺につゝぎり。八角にけづり。筋（すぢ）がねをわたし。此棒（ぼう）を引さげ。一人門外（もんぐわい）へゆるぎ出たる有様。やしやらせつのごとし。おめきさけぶこゑ。大山もくづれて。海（うみ）に入。こんちくもおれて。忽（たちまち）に沈（しづむ）がごとし。四【オープンアクセス NDLJP:554】方八方へ迯（にぐ）る者を。をつ詰（つめ）。甲の頭上（づじやう）をうてばみぢんにくだけて。胴（どう）へにえ入。よこ手にうてば。一払（はらひ）に。五人十人打ひしぐ。棒（ぼう）にあたりて死（し）する者。五百余人。其尸（かばね）は地（ち）にみちて。足（あし）のふみ所（ど）もなし。たゞ是らせつこくの鬼王（きわう）が。いかりもかくやらん。此威（いきほひ）に皆敗北（はいぼく）して。敵（てき）もなければ。みづから首（くび）をかき落（おと）し。死（しゝ）たりけり。され共首は死（し）せず。眼はさかさまにさけ。鬼髭（きし）は針（はり）をすりたるがごとく。牙（きば）をくいしばり。にらみつめたる眼のひかり。百れんの鏡（かゞみ）に。血（ち）をそゝぎたるがごとく。さもおそろしさを一目見たる者。なうれつすれば。此頸（くび）又も見る人なし是によつて。有験（うげん）の貴僧（きそう）高僧（かうそう）に仰て。さま〳〵の大法秘法（ほうひほう）。呪（しゆ）せられけれ共其しるしなし。三年此首死せず。小田原久野（くの）の。総世寺（そうせいじ）の禅師（せんじ）来て。一首（しゆ）の歌を詠（ゑい）じ給ふ

うつゝとも。夢（ゆめ）ともしらぬ一ねぶり。浮世（うきよ）のひまを。あけぼのゝ空（そら）

とよみて手向（たむけ）給へば。眼（まなこ）ふさがり。たちまち。肉（にく）くちて。白（しら）かうべと成ぬ。此荒（あら）次郎死所のあたり。百間四方は。今にをいて。田畠（てんはく）にも作らず。草をもからず。牛馬（ぎうば）其中に入て草をはめばたちまちに死す。故に獣（けだもの）までもそく知（しつ）て其中へ入事なし常（つね）に青草（せいさう）ばう〳〵と生（をひ）たり。当代（たうだい）の侍衆。新井（あらゐ）の城（しろ）を見物（けんぶつ）せしに。道寸（だうすん）父子（ふし）は。名誉（めいよ）の武士（ぶし）。一礼とて。城の大手古堀（ふるぼり）の外（そと）にて下馬（げば）し。礼敬（れいきやう）す此合戦と申は。七月十一日なり。今も七月十一日には。毎（まい）年新（あら）井の城に。雲霧（くもきり）おほひて。日の光（ひかり）もさだかならず。丑寅（うしとら）の方と。未申（ひつじさる）の方（かた）より電（いなびかり）かゞやきいでて。両方の光入乱（みだ）れ。風猛火（みやうくわ）を吹（ふき）上。光（ひかり）の中に。兵（ひやう）馬は虗空（こくう）にたゝかふ有様。天地をひゞかしおそろしきとも云ばかりなし。かるがゆへに此古塚（ふるつか）のあたりには。人家（じんか）もなし。一里（り）ばかりはなれて。村里（そんり）見えたり。扨又不思儀の事有。道寸（だうすん）父子の討死（うちじに）は。永（ゑい）正十五年戊寅（つちのへとら）の年。七月十一日の寅（とら）の刻（こく）也。然所に北条氏（うぢ）政の切腹（せつぷく）も。天正十八庚寅（かのへとら）の年。七月十一日寅の刻なり。七十三年に当（あたつ）て。年月（ねんげつ）日刻（こく）。たがはず果（はて）給ひたる。因果（ゐんぐわ）のことわりこそ。おそろしかりけれ。父祖（ふそ）の善悪（ぜんあく）は。かならず子孫（しそん）にをよぶといへる古人の言葉（ことば）。おもひしられたり

 
 
聞しはむかし。関東北条左京（さきやう）​（の）大夫。平朝臣（たひらのあそん）氏康公（うぢやすこう）は。伊豆（いづ）。相模（さがみ）。武蔵（むさし）。上総（かづさ）。下総（しもふさ）。上野（かうづけ）を治（おさ）め。常陸（ひたち）。下野（しもつけ）。駿河（するが）。信濃（しなの）へ手をかけ。関（くわん）八州に威（い）をふるひ。文武（ぶんぶ）至剛（しがう）の名将（めいしやう）たり。其比氏康（うぢやす）に敵対（てきたい）の人々。安房（あは）に里見（さとみ）左馬頭（さまのかみ）義弘（よしひろ）。常陸（ひたち）に佐竹（さたけ）太郎義重（よしゝげ）。下野（しもつけ）に宇都宮（うつのみや）​（の）弥（や）三郎国綱（くにつな）。越後（ゑちご）に長尾景虎（ながをかげとら）。甲斐（かひ）に武田源信玄（たけだみなもとのしんげん）。駿河（するが）に今川義元（いまがわよしもと）。東西南北（とうざいなんぼく）に敵（てき）有て。たゝかふ諸（しよ）さぶらひ義（ぎ）を守（まも）り。節（せつ）ををもくし。名（な）をおしみ。命（いのち）を軽（かろん）じ。いさみすゝんで。死（し）をあらそひ。討（うつ）つ。討（うた）れつ。敵（てき）味方（みかた）の骸骨（がいこつ）地（ち）にしき。血（ち）は野草（やさう）をそめ。鯨波（ときのこゑ）矢（や）さけびのをと。震動（しんどう）し。やむとなし。然所に。弘治（こうぢ）二丙辰（ひのへたつ）の年。あつかひ有て。氏康（うぢやす）信玄（しんげん）義元（よしもと）三人の中。無事に成ぬ。其上氏【オープンアクセス NDLJP:555】康の子息（しそく）氏政（まさ）は。信玄（しんげん）の聟（むこ）になり。義元子息氏真（うぢざね）は。氏康の聟にさだめ。信玄息（そく）義信（のぶ）は。義元の聟に定め。三方へ御こし入て。北条今川武田（だけだ）の。三家（け）一味になりぬ。此無事の子細（しさい）。三人の大将。言葉（ことば）に出（いだ）さずといへ共。心底（しんてい）にはいづれも。天下に望（のぞ）みをかけ。無事になるとしられたり。関東（くわんとう）侍（さふらひ）は。先例（せんれい）をおもふゆへにや。小身（せうしん）たる人も。天下に望みをかくる。然に義元（よしもと）。駿（しゆん）。遠（ゑん）。参（さん）の軍兵（ぐんびやう）。二万五千を引率（いんそつ）し。駿府（すんぷ）を打立。京都（と）へせめ上る。尾州（びしう）に入。諸勢（しよせい）打散（ちつ）て。乱妨取（らんばうどり）す。義元は。松原（まつばら）にて酒（さか）もりし給ふ所に。織田（をだ）三郎信長（のぶなが）。六七百の人数（にんじゆ）にて。はせむかひ。味方（みかた）にまなんでをしよせ。尾張国（おわりのくに）でんがくがくぼと云（いふ）所にて。永禄（ゑいろく）三年庚甲（かのへさる）。五月十九日義元は。信長（のぶなが）のためにほろび。同八年五月十九日。公方（くばう）光源院（くわうげんゐん）義輝公（よしてるこう）は。三好（みよし）がために御生害（ごしやうがい）也。三好修理亮（みよししゆりのすけ）子息（しそく）左京大夫。天下を二代持（だいもつ）。然に信長。美濃（みの）。尾張（をはり）。伊勢（いせ）三ケ国の勢（せい）を引率（いんそつ）し。京都へせめ上り。同十一年十月十五日入洛（じゆらく）す。其以後公方義昭（よしあき）公。二たび帰（き）洛し給ふ。同十二年に。三好は信長に誅（ちう）せられ。氏康（やす）は元亀（げんき）元（ぐわん）年十月三日病死（びやうし）。氏真（ざね）は伯父（はくふ）信玄（しんげん）に。追出（ついじゆつ）せられて。後（のち）卒（そつ）す。太郎義信（のぶ）は。父（ちゝ）信玄（しんげん）にころされ。信玄は天正元年四月十二日に病死（びやうし）す。輝虎（てるとら）は同六年三月十三日に頓死（とんし）す。同年の春。上杉三郎景虎（かげとら）は。長尾（ながを）喜平次景勝（かげかつ）のために害（がい）せられぬ。されば氏康（やす）。信玄（しんげん）。輝虎（てるとら）此三人の内。一人存命（ぞんめい）にをいては。信長（のぶなが）滅亡（めつばう）たるべきに。信長天運（てんうん）つよき故なりと。諸人（しよにん）沙汰（さた）せり。同十年三月十一日。武田勝頼（たけだかつより）同太郎信勝（のぶかつ）父子（ふし）は。信長公のためにほろび。同年六月二日。信長公三位（ゐ）中将（しやう）信忠（のぶたゞ）父子（ふし）は。明智日向守（あけちひうがのかみ）〈［＃ルビ「あけちひうがのかみ」は底本では「あけちひうかのがみ」］〉光秀（みつひで）がために滅亡（めつばう）し。同月十三日光秀（みつひで）は。羽柴筑前守（はしばちくぜんのかみ）秀吉（ひでよし）に討（うち）れ。柴田修理亮勝家（しばたしゆりのすけかついへ）。織田（をだ）三七信高（のぶたか）両人は。秀吉（ひでよし）のために誅（ちう）せられ。其後京乱（らん）しづまりぬ。同十八年七月十一日。氏政（まさ）は秀吉（ひでよし）公のために切腹（せつぷく）し。氏直（なを）は高野山（かうやさん）に入。文禄（ぶんろく）元年十一月四日卒逝（そつせい）す。関白（くわんぱく）秀次（ひでつぐ）公は。文禄四年七月十五日。高野山にをいて。大閤（たいかう）のために切腹し。義昭（としあき）公は慶長（けいちやう）二年八月廿八日薨（こう）じ給ひぬ。秀吉公は同三年八月十八日に他界（たかい）也。愚老（ぐらう）永禄年中に生れてよりこのかた。天下に望（のぞ）みをかけ給ふ大名（みやう）。右に記（しる）すごとく。二十二人。此内十五人は。弓箭（きうせん）にて卒（そつ）し。七人は病死（びやうし）なり。扨又右の内八人は。果報（くわほう）めでたふ天下に義兵（ぎへい）をあげ。武将（ぶしやう）の位（くらゐ）に付給へり。され共内六人は弓箭にて果（はて）給ひぬとかたれば。老人（らうじん）聞て。申されけるは。論語（ろんご）に。人遠（とほ）きおもんぱかりなきときんば。かならずちかき愁（うれ）へありといへり。一生（しやう）の間。身終（をは）るまで。思慮（しりよ）なき時は。かならず一日片（へん）​（し）時の内にも。わざはひ有べし。人間はかなき有様。たとへば夏（なつ）の蝉（せみ）。時しりがほになくを。うしろに蟷螂（たうらう）。犯（をか）さんとす。雀（すゞめ）又いぼじりを守（まも）る。其木の下に。わらは弓（ゆみ）を彎（ひい）て射（い）んとよる。足（あし）もとに深（ふか）き谷（たに）有をしらず。身をあやまてり。みな是まへの理（り）をおもひて。後（のち）の害（がい）をかへりみずとおんせうけうが云をきしも。今おもひしられたり【オープンアクセス NDLJP:556】
 
 
見しは昔（むかし）。関東諸国（しよこく）みだれ。弓箭（ゆみや）を取てやむ事なし。然ば其頃。らつはと云。くせ者おほく有し。是らの者。盗（ぬす）人にて。又盗人にもあらざる。心かしこく。けなげにて。横道（わうだう）なる者共なり。或文（あるふび）に。乱波と記（しる）せり。但（たゞし）正字（じ）おぼつかなし。俗（ぞく）にはらつはといふ。され共此者を。国大名（みやう）衆（しゆ）扶持（ふち）し給ひぬ。是はいかなる子細（しさい）ぞといへば。此乱波（らつは）。我国に有盗人を。よく穿鑿（せんさく）し。尋（たづね）出して首（くび）を切。をのれ。他国（たこく）へ忍（しの）び入。山賊（さんぞく）海（かい）賊夜討強盗（がうたう）して。物取事が上手（ず）なり。才智（さいち）に有て。謀計（ぼうけい）調略（てうりやく）をめぐらす事。凡慮（ぶんりよ）に及（をよ）ばず古語（ご）に。偽（いつはつ）ても賢（かしこき）をまなばんを。賢とすといへり。されば智者（ちしや）と。盗人の相（さう）おなじ事なり。舎利弗（しやりほつ）も。智慧（ちゑ）をもつて。ぬすみをよくせられけると。古（ふる）き文に見えたり。乱波（らつは）と号（がう）す。道（みち）の品（しな）こそかはれ。武土（ぶし）の智謀（ちぼう）計策（けいさく）をめぐらし。他国（たこく）を切（きつ）て取も又おなじ。扨又戴淵（たいえん）と云者盗人也。陸機（りくき）と云者（もの）船（ふね）に乗（のり）。長安（ちやうあん）へ参る時。淵（ゑん）はかりことをめぐらし。陸機（りくき）が船のうちを。盗（ぬす）みとらんとす。陸（りく）がいはく汝（なんぢ）が器用（きよう）才覚（さいかく）にては。高位（かうゐ）にもすゝむべき人なり。何とて盗みするやと云時。淵つるぎをなげすて。盗の心をあらためける。帝（てい）聞（きこし）めし志（こゝろざし）をひるがへす事切（せつ）也と。ほうび有て。めしあげて。将軍（しやうぐん）になし給ひぬ。是をおもふに。誠（まこと）に関東のらつはが智慧（ちゑ）にては。神仏（かみほとけ）とならんも。安（やす）かるべし。大人にもならず。財宝（さいほう）をもたくはへず。盗人業（わざ）をえたるこそ。をろかなれ。然に北条左京大夫。平氏（たひらのなを）直は。関（くわん）八州に威（い）をふるひ。隣国（りんごく）皆敵（てき）たるによて。たゝかひやむ事なし。武田（たけだ）四郎源勝頼（みなもとかつより）。同太郎信勝（のぶかつ）父子（ふし）。天正九年の秋（あき）。信濃（しなの）。甲斐（かひ）。駿河（するが）三ケ国の勢（せい）をもよほし。駿河（するが）三枚（まい）ばしへ打出。黄瀬川（きせがは）の難所（なんじよ）をへだて。諸勢（しよせい）は浮島（うきしま）が原（はら）に陣（ぢん）どる。氏直（なほ）も関八州の軍兵（ぐんびやう）を率（そつ）し。伊豆（いづ）のはつねが原。三島に陣をはる。氏直（なほ）乱波（らつは）。二百人扶持（ふち）し給ふ中に。一の悪者（あくもの）有。かれが名（な）を。風摩（かざま）と云。たとへば西天竺（さいてんぢく）。九十六人の中。一のくせ者を。外道（げだう）といへるがごとし。此風摩（かざま）が同類（どうるい）の中。四頭（かしら）あり。山海（さんかい）の両賊（ぞく）。強窃（がうせう）の二盗（じとう）是なり。山海の両賊は。山川に達（たつ）し。強盗（がうどう）は。かたき所を押破（をしやぶつ）て入。窃盗（せつとう）はほそる盗（ぬす）人と名付（なづけ）。忍（しの）びが上手（ず）。此四盗ら。夜討をもて第一とす。此二百人の徒党（つたおう）。四手に分（わけ）て。雨の降（ふる）夜も。ふらぬ夜も。風の吹（ふく）よも吹ぬ夜も。黄瀬（きせ）川の大河（が）を。物ともせず打渡（わたつ）て。勝頼（かつより）の陣場（ぢんば）へ。夜々（よる〳〵）に忍び入て。人を生捕（いけどり）。つなぎ馬の綱（つな）を切（きり）。はだせにて乗（のり）。かたはらへ夜討（ようち）して。分捕（ぶんどり）乱（ら）捕し。あまつさへ。爰（こゝ）かしこへ火（ひ）をかけ。四方八方へ。味方（みかた）にまなんで。紛（まぎ）れ入て。鬨声（ときのこゑ）をあぐれば。惣陣（そうぢん）さはぎ動揺（どうよう）し。ものゝぐ一りやうに。二三人取付。わがよ人よと引（ひき）あひ。あはてふためきはしり出るといへ共。前後（ぜんご）にまよひ。味方のむかふを敵（てき）ぞとおもひ。討（うつ）つうたれつ。火（ひ）をちらし。算（さん）をみだして。半死半生（はんしはんしやう）にたゝかひ。夜明（よあけ）て首（くび）を実検（じつけん）すれば。皆（みな）同士（どうし）軍（いくさ）して。被官（ひくわん）が主（しゆう）をうち。子（こ）が親（おや）の首を取。あまりの面目（めんぼく）なきに。髻（もとゞり）をきりさまをかへ。高野（かうや）の嶺（みね）【オープンアクセス NDLJP:557】にのぼる人こそおほかりけれ。扨又其外に。もとゆい切。十人計（ばかり）かたはらにかくれ。こぞり居（ゐ）たりしが。かくても生（いき）がひ有べからず。腹（はら）をきらんといふ所に。一人すゝみて云けるは。我々死（しゝ）たり共。主（しゆう）をうち。親（おや）を殺（ころ）す其むくひを謝（しや）せずんば。五逆（ぎやく）八逆の罪（つみ）のがるべからず。二百人の悪盗（あくとう）を。いづれを分て。かたきとせんや。風摩（かざま）は乱波（らつは）の大将なり。命（いのち）を捨（すて）ば。かれを討（うつ）共安（やす）かるべし。今宵（こよい）も夜（よ）うちに来るべし。かれらが来る道（みち）に待（まち）て。ちり〴〵に成（なつ）て。にぐる時。其中へまぎれ入。行末（ゆくすゑ）は。皆一所に集（あつま）るべし。それ風摩（かざま）は二百人の中に有て。かくれなき大男（おとこ）。長（たけ）七尺二寸。手足（てあし）の筋骨（すぢほね）あら〳〵敷。爰（こゝ）かしこにむらこぶ有て。眼（まなこ）はさかさまにさけ。黒髭（くろひげ）にて。口脇（わき）まへ広（ひろ）くさけ。きば四ツ外（そと）へ出たり。かしらは福禄寿（ふくろくじゆ）に似（に）て。鼻（はな）たかし。声（こゑ）を高（たか）く出せば。五十町聞へ。ひきくいだせば。からびたる声（こゑ）にて幽（かすか）なり。見まがふ事はなきぞとよ。其時風摩を見出し。むずとくんで。さしちがへ。今生（こんじやう）の本望（ほんまう）を達（たつ）し。会稽（ぐわいけい）の耻辱（ちじよく）すゝぎ。亡君（ばうくん）亡親（しん）へ。黄泉（くわうせん）のうつたいにせんと。かれらが来る道筋（みちすぢ）に。十人心ざしを一ツにして。草にふしてぞ待（まち）にける。風摩（かざま）例（れい）の夜討（ようち）して。散々（ちり〳〵）に成（なつ）てにぐる時。十人の者共其中へまぎれ入。行末（ゆくすゑ）は二百人みな一所に集（あつまり）たり。然ば夜討強盗（がうだう）して帰（かへ）る時。立（たち）すぐり。居（ゐ）すぐりといふ事あり。明松（たいまつ）をともし。約束（やくそく）の声（こゑ）を出し。諸（しよ）人同時（どうじ）にざつと立（たち）。颯（さつ）と居（ゐ）る。是は敵（てき）。まぎれ入たるをえり出さんための謀（はかりごと）なり。然に件（くだん）の立すぐり。居すぐりをしける所に。紛（まぎ）れ入たる十人の者。あへて此義をしらず。えり出され。みなうたれけるこそふびんなれ。夜々の事なれば。勝頼（かつより）の諸勢（しよせい）。是にくたびれ。夜明（よあけ）ければ。よろひをぬぎすて。昼（ひる）ねしける所に。なま才覚（さいかく）なるものいひけるは。いかにや人々。兵野（ひやうの）にふせば。とふ鴈（かり）つらを見だすといへる。兵書（ひやうしよ）の言葉（ことば）をしり給はずや。爰（こゝ）の山陰（かげ）。かげかしこの野辺（のべ）に。鴈（かり）の飛（とび）みたるゝをば。見給はぬか。風摩（かざま）が忍（しの）び。乱波（らつは）が草に臥たるよと。よびめぐれば。すはや心得たり。のがすなうちとれとて。惣陣（そうぢん）さはぎ動乱（どうらん）しける。馳向（はせむかつ）て是を見るに。人一人もなし。くるれば馬にくらをきひかへ。弓（ゆみ）に矢（や）をはげ。鉄炮（てつぱう）に火（ひ）なわをはさみ。干戈（かんくは）を枕（まくら）とし。甲冑（かつちう）をしとねとし。秋三月（みづき）長夜（ちやうや）を明（あか）しかね。うらめしの風摩（かざま）が忍（しの）びや。あらつらの。らつばが夜討（ようち）やといひし事。天正十八寅（とら）の年まで有つるが。今は国おさまり。目出度御代なれば。風摩がうはさ。乱波（らつは）が名さへ。関東にうせはてたり
 
 
見しはむかし。北条氏直（なを）と。里見義頼（さとみよしより）。弓矢（ゆみや）の時節（じせつ）。相模（さがみ）。安房（あは）両国の間に入海（いりうみ）有て。舟の渡海（とかい）近（ちか）し。故に敵（てき）も味方（みかた）も兵船（ひやうせん）おほく有て。たゝかひやむ事なし。夜るになれば。或（ある）時は小船（せうせん）一艘（そう）二艘にてぬすみに来て。浜辺（はまべ）の里（さと）をさはがし。或時は五十艘三十艘渡海（とかい）し。浦里（うらさと）を放火（はうくは）し。女わらはへを生捕（いけどり）。即刻（そくこく）夜中に帰海（きかい）す。島崎（しまざき）などの在所（ざいしよ）の者は。わたくしにくわぼくし。敵方（てきがた）【オープンアクセス NDLJP:558】へ貢米（ぐまい）を運送（うんさう）して。半手（はんて）と号（がう）し。夜を心やすく居住（きよぢう）す。故に生（いけ）どりの男女（なんによ）をば。是等の者。敵（てき）方（はう）へ内通（ないつう）して。買（かい）返す。去程に夜にいたれば。敵も味方（みかた）も。海賊（かいぞく）や渡海（とかい）せんと。浦里（うらさと）の者。れまはつて用心（ようじん）をなし。海賊の沙汰（さた）日夜（にちや）いひ。やむ事なし。今は諸国（しよこく）おさまり。天下泰平（たいへい）四海（かい）遠浪（ゑんらう）の上までも。をだやかにして。静（しづか）なる御時代（じだい）なり。然共兵船（ひやうせん）おほく江戸川につなぎをき給ふ。ある人いくさ舟（ぶね）の侍衆（さふらひしゆ）を。海賊の者と云ければ。其中に一人此言葉（ことば）をとがめていはく。むかしより山賊（さんぞく）海賊（かいぞく）といふ事。山に有て盗（ぬすみ）をなし。舟にてぬすみするを名付たり。文字（もんじ）よみもしるなし。侍（さふらひ）たるものゝ盗（ぬすみ）をする者や有。海賊（かいぞく）とは言語道断（ごんごだうだん）非（くせ）事かな。物をもしらぬ木石（ぼくせき）なりといかる。此者聞て。我文盲（もんまう）ゆへ。文字（もじ）よみもしらず。扨舟乗（ふなのり）の侍の名（な）をば何とか申べき。をしへ給へと云時。此侍の返答（へんたう）につまり無言（むごん）す。愚老（ぐらう）是を聞。文字よみをきけば。侍（さふらひ）とがめ給へるもことはりなり。又いにしへより。海賊（かいぞく）と俗（ぞく）にいひ伝（つた）へければ、いふもしかなり。今おもひあたつて。此名（な）をうかゞふに。舟乗にはそれ〴〵のなすわざによて。異名（いみやう）有。商船人（しやうせにん）。廻船人（くわいせんにん）。海士人（あまひと）。渡守（わたしもり）。水主（すゐしゆ）。梶取（かんどり）。などゝいふ。然どもいくさ舟の侍をば。兵船（ひやうせん）武者（むしや）共。戦船（せんせん）侍（さふらひ）共。いひ伝（つた）へを。いまだ聞ず。ほとんど。海賊（かいぞく）の諍論（じやうろん）分明（ぶんみやう）ならずといへば。人聞て兵船を。海賊と云本説（ほんせつ）おぼつかなし。われ此賊（ぞく）の字（じ）の心を察（さつ）するに。盗（ぬす）みとは。あながちに。物取ばかりに限（かぎ）るべからず。万（よろづ）悪事（あくじ）をさして。いへる惣名（そうみやう）なるべし。正路簾直（しやうろれんちよく）なる事をば。仏（ほとけ）といへるがごとし。いにしへ源平（ぐねぺい）のたゝかひを。しるしをきたるふみに。平家（へいけ）の凶賊（けうぞく）等（ら）を討（うち）ほろぼし。源家（げんけ）の賊徒（ぞくと）を追討（ついたう）しなどゝ。敵（てき）がたをさして。賊と名付（なづけ）たり。それぬすむといふ詞（ことば）は。やさしき物にたくへて。歌（うた）にもおほく詠（よみ）たり。すべて弓（きう）馬のみちは。武略（ぶりやく）を専（もつぱら）とす。此心をもて了簡（れうけん）するに。盗賊（とうぞく）と武略（りやく）は。文字（もじ）かはり。みちことなれ共。心はおなじ。それいかにといふに。よく盗（ぬす）みするも。武略もみなはかりごとをもて肝要（かねう）とせり。すこぶる戦場（せんぢやう）にをいて。或（あるひ）は相刻（さうこく）相生（さうしやう）の。五行をかんがへ勝（かつ）かたより向（むか）ひ。或は孤虚（こきよ）王相（わうさう）とて。日をえらび時を取て。馳来（はせきたつ）てしゆうを。决（けつ）せんとほつする時は。味方（みかた）敵（てき）の大将（しやう）の。てだてをはかつて。其行（てだて）のならぬ様（やう）に。こなたより調略（てうりやく）す。是を心をせむる共。謀（はかりごと）を伐（うつ）ともいへり。交（まじはり）を伐（うつ）。兵を伐。城（しろ）をせむる。其品々（しな〳〵）の計策（けいさく）皆（みな）順道（じゆんだう）の外（ほか）の武略（ぶりやく）なり。故に第一に謀（はかりごと）をうつといへるは。たゝかはずして。勝（かつ）事をはかり。敵（てき）の兵の屈（くつ）するやうに。智計（ちけい）をめぐらし。横道（わうだう）にて利（り）をうるを。善（ぜん）の善なりとす。是孫子（そんし）が心なり。扨又御成敗式目（せいばいのしきもく）に。山賊（さんぞく）海（かい）賊等の事を記（しる）せり。これらは人を殺（ころ）す者なりと計（ばかり）有て。罪科（ざいくわ）の軽重（けいぢう）たしかに注（しる）さず。又強窃（がうせつ）二盗（たう）の沙汰（さた）あり。強盗は日中の盗（ぬす）人。威力（いりき）をもて人の財宝（ざいほう）をうばひ取。ぜつたうは夜（よる）の盗（ぬす）人なり。是は威力（いりき）なく。ひそかに人の物を盗故。名付てほそる共。忍（しの）びともいふと記（しる）せり。窃盗（せつとう）の二字（じ）を。忍びとよみ。ひそかにぬすむともよみたり。さす所はおなじ名なれども。盗人といへば。悪逆無道（あくぎやくぶだう）に聞へ。ほそる忍びといへば。やさしかりき。又花鳥（くわてう）【オープンアクセス NDLJP:559】風月（ふうけつ）によそへて。ぬすみのこととばを詠（ゑい）ぜり。風花（かぜはな）の香（か）をさそふは。風賊（ふうぞく）也。露（つゆ）月影（かげ）をうつすは。露（ろ）賊なり。鳥（とり）は鷹（たか）にかくれて立ば。鳥（てう）賊いづれも。和歌（わか）に詠ぜり。其上仏（ほとけ）は。眼（げん）​（に）耳鼻（び）舌身意（ぜつしんい）是を六賊（ぞく）と説（とか）れたり。見聞鼻（みきくはな）にかぎ。舌（した）に味（あじは）ひ。身にふれ。心におもふ事。皆賊（ぞく）なり。六根（こん）六塵（ぢん）六識（しき）三六十八の境界（きやうがい）。是を仏（ほとけ）は盗（ぬす）人妄相（まうざう）煩悩（ぼなう）などゝ。様々に異名（いみやう）を付給へり。此欲賊（よくぞく）は。人間に付そひ。はなれがたし。爰をあきらむるは心なり。故に古人（こじん）は万法（まんはふ）一心にしかじと云々。禅家（ぜんけ）にをいて。一千七百の。公案（こうあん）といふも。さとりあきらむるをもてせり。故に禅（ぜん）の一法（はふ）は。一切（さい）諸法（しよはふ）を備（そな）へり。すべて生死（しやうじ）の去来（きよらい）を知（しる）が肝要（かねう）なり。生（しやう）は不可得（ふかとく）の生（しやう）なり。死（し）又不可得の死（し）なり。然れば生（しやう）にまかせ。死（し）は死にまかせ。生死（しやうじ）にをいて。わづらはざる。是一念不生（ねんふしやう）の所なり。たゞ即心即仏（そくしんそくぶつ）にして。外（ほか）に仏（ほとけ）をもとむべからず。色に形賊（ぎやうぞく）あり。心に形賊なし。此色空（しきくう）の二相（さう）を分明（ぶんみやう）すべし。一切の境界（きやうがい）。心の外になし。まよへるは妄賊（まうぞく）。さとる時は万事。空（くう）にして一物（もつ）なし。人間一生涯（しやうがい）色欲（しきよく）に着（ぢやく）して。生死（しやうじ）のきづな。はなれがたし。かくのごときのいましめ。釈儒（しやくじゆ）の二文にくはしく記（しる）せり。程子（ていし）の説（せつ）に。人のかなうずしも。おぼれ迷（まよ）ふ所のみにあらず。心のむかふ所。すなはち欲（よく）なりといへり。儒（じゆ）者のをしへを。仁義（じんぎ）と云も。仏（ほとけ）のいましめも。心はことならず。たゞ我が有（いう）を有にして。他（た）の有をむさぶらざらんこそ。本意（ほんい）なるべけれ。殆（ほとんど）君上（きみうへ）に有てまつりごとたがふ時は。国乱（みだ）れ。民（たみ）くるしめりほしいまゝに。国位（こくゐ）をうばゝんがため。天下を乱し。黎民（れいみん）是によて愁（うれ）ふ。そのかみ天神（てんしん）七代（だい）地（ぢ）神五代去（さつ）て。神武帝（じんむてい）よりこのかた。日本国は王土（わうど）なり。民は子（こ）たり。王位の政（まつりごと）。をこたらざる時は。国民安穏（あんをん）にして。風枝（かぜえだ）をならさず。雨（あめ）つちくれを。うごかさず。是天よりあたふる所の聖人（せいじん）なるが故也。荘士（さうし）に云君（きみ）は民（たみ）をもて子とし。民は君をもつて父（ちゝ）とすと云々。然に神功皇后（じんぐうくわごう）女体（によたい）の御身とし。ひとの国を。うばひとらむと欲賊（よくぞく）にまよひ。海賊（かいぞく）舟（ぶね）おほくもて。異国（いこく）へ渡海（とかい）し。修羅（しゆら）の戦（たゝか）ひをなし給ふ時に。御きせながをめされしに。たま〳〵懐姙（くはいにん）にあたらせ給ふ玉体（ぎよくたい）。はなはだ大にして。御よろひのかこみ。其脇（わき）にをよばず。是によて則（すなはち）。楯（たて）をもつて脇をかくし給ふ。此例（れい）により。日本の武士（ぶし）。脇楯（だて）するは此いはれなり。万里（ばんり）遠浪（ゑんらう）の上。馬（むま）にかふべき。まぐさなし。海中の藻（も）を取て。馬（むま）にかふ。故に。神馬草（じんばさう）と名付たり。神馬藻と書（かき）て。なのりぞとよむも。此時よりと云々。皇后（くはうごう）三韓（かん）をしたがへ。ひとり御心を。なぐさみ給ひけれ共。万里（ばんり）の道（みち）。兵粮米（ひやうらうまい）運送（うんさう）するは。日本国の民（たみ）百姓（しやう）なり。是によてなげきかなしみ。其ついへあげて尽（つく）べからず。元暦（げんりやく）二年安徳天皇（あんとくてんわう）同女院（にようゐん）も。海賊（かいぞく）し給ひぬ。長門（ながと）の国赤間（あかま）が関（せき）の海上（かいじやう）にをいて。源氏（げんじ）は八百余艘（よそう）。平家（へいけ）は五百余艘をうかめ合戦（かつせん）す。平氏討（うち）まけ。先帝（せんてい）も二位尼上（ゐのあまうえ）も。こと〴〵く海底（てい）にしづみ給ふ。此源（みなもと）を尋（たづぬ）るに。上（かみ）一人の欲（よく）賊故（ゆへ）。下万民（ばんみん）うれふ。爰（こゝ）をもて史記（しき）にいはく。鈎（つり）をぬすむ者は誅（ちう）せられ。国を窃（ぬす）む者は佚（いつ）たりと云々。鈎は帯（おび）に付る少（ちいさ）き金（かね）なり。此心は小盗（ぬすみ）は罪（つみ）にをこなはれ。大盗は国をぬすめ共。【オープンアクセス NDLJP:560】罪科（ざいくわ）にあはぬといへり。いにしへ。三皇（くわう）五帝（てい）世を治（おさ）め給ふ事。天地の道に叶（かな）ひ。政（まつりごと）すなほなるが故なり。尭王（げうわう）位（くらゐ）に即（つき）給ひて。民のついへをいたみ。さいてんけづらず。ばうしきらずと云々。家をかやにてふき。材木（ざいもく）をけづらず。黒木（くろき）なり。いしやうをそめず。紋（もん）をも付ず。是民（たみ）を憐（あはれ）み。国土（こくど）ゆたかにとの。政事なりされば今の世までも。尭（げう）をば聖君（せいくん）と申伝（つた）へり。天下を治る君（きみ）。かくこそ有べけれ。世は仁義（じんぎ）をもつてたもてり。それ人として。仁義（じんぎ）の道にたがふは。本（ほん）意にあらず。まして大将（しやう）にをいてをや。たとひ生涯（しやうがい）に望（のぞ）む共。義（ぎ）の道守（まも）るを大将とす。然ば古語（こゞ）に。敵（てき）のいばりを呑でも。本意を達（たつ）すと云々。此詞用（ことばもち）ひがたし。越王会稽（ゑつわうくわいけい）の耻（はぢ）をすゝぎしは。一眼（がん）の亀（かめ）の浮木（ふぼく）にあへるがごとし。此詞残りとゞまつて。越王（ゑつわう）の口辺（こうへん）。尿（いばり）の臭香末代（しうかうまつだい）までも失（うす）べからず。ほとんど国を守護（しゆご）するも。滅国（めつこく）となるも。大将の武運（ぶうん）にこたへ。天命（めい）のなす所なり。故に合戦の勝負（しようぶ）はまけたりとても耻辱（ちじよく）に有べからず。たゞ運を天にまかせ。義を義（ぎ）とし。後代（こうだい）に名誉（めいよ）を残（のこ）さんこそ。大将の本懐（ほんぐはい）なるべけれ。右は海賊（かいぞく）の二字（じ）に付ての子細（しさい）なり。字面（じめん）にあふ事あり。ちがふ事あり一様に定（さだめ）がたし。筑紫宰府（つくしさいふ）の栗（くり）は名物（めいぶつ）なり。是を御門（みかど）へさゝげ奉る。一年（とせ）に二度（ぢ）なる柴栗（しばぐり）なり。され共さゝ栗（ぐり）と名付（なづく）。歌（うた）に

つくし人。わらことしけりさゝ栗（ぐり）の。篠（さゝ）にはならで。柴（しば）にこそなれ

と。能因法師（のふゐんほつし）よめり。すべて人はあへてもつて。すこしきに。かすかなる事を。我心に常（つね）に。やしなへば。大きなるにあたりても。まどはす。いにしへより俗（ぞく）にいひつたふる。そゞろごとおほし。徃事（わうじ）をば。とがめて益（ゑき）なしといへり

 
北条五代記巻第九終
 
 
「https://ja.wikisource.org/w/index.php?title=北条五代記/巻第九&oldid=214097」から取得