浮世の有様/6/分冊5
唐国風説書
唐国表ヱキリス人立騒ぎ候風聞有㆑之、御尋ねの趣奉㆑畏候。当十一月□浦出船迄大略左に奉申上候。
【阿片戦争の風聞書】近年唐国所々、阿片にて製し候煙草相用ゐ、数多の人命を害するにより、去る亥年以来外国より阿片持参候て、商売仕り候儀停止に相成候処、ヱキリス国商船に限り不㆓相守㆒、又候去る亥年広東表へ多分持渡り候儀、京都上聞に達し候故、福建府に相詰め候官人林則徐を被㆓差越㆒、残らず差出させ焼捨てに相成り、已後持渡り停止の旨達し有㆑之候へ共、ヱキリス人共種々苦情申立て強訴致し候に付、数十人刑罪に取り行はれ、其末去る亥年秋九月八日に至り、帰帆の砌数船参り、石火矢を打掛け候故、広東表備場備船より同じく打出し、双方共手負・死人多く有㆑之候に付、尚厳重に備へ有㆑之、尤も唐国の掟を相守り候外国の分は、是迄の通り商売差免され候得共、ヱキリス国の商船に限り前条の次第故、其儀出来兼ね、之に依つて当子六月七日、寧【 NDLJP:120】波附近へヱキリス船四十八艘参り候。翌八日船山定海県へ船寄せ参り、此所の官兵と双方石火矢を以て打合ひ、互に手負・死人有㆑之、纔かに総官兵討死致し候に付、知県も恐怖の余り、余城の堀へ身を投じ死去仕り候儀故、居民共見聞致し、何れも相驚き四方へ散乱仕り候虚に乗じ、一県を奪取り申候。此県中に十五ヶ所の小湊有㆑之、一湊に二三艘づつ般分け、上陸致し所々の墳墓を発掘し、石碑等取集め、城外には一重高塀を築き添へ、今以て割拠仕り居り候。偖又当六月二十四日、□浦湊懸りヱキリス船一艘来り候に付、城内より石火矢を打出し、ヱキリス人九人打殺し申候処、同じく打出し城門を打崩し、居民十一人程打殺され候故、居住共相驚き、住家を明け捨て、残らず蘇州海辺所々へ逃げ移り申候。その後九月二十日頃、寧波府入内余妣県へ、同じく一艘寄せ来り、処々相伺ひ居り候内、此処の居民共数万馳寄り防禦いたし、双方戦ひ候半ばに、船中より石火矢二放程打出申候。此辺の海中至つて浅く、潮の満干に随ひ砂高に相成候儀を、ヱキリス人共相弁ぜず打ち出で候故、右の余勢にて船底を突破り相沈み候を、数万人の居民追詰め相戦候に付、多勢に敵せず、端船に乗り移り迯げ去り、漸く二十一人程生捕り申候。此内女一人有㆑之、至つて勇猛にて鎗刀を数十本打折り申候。此女ヱキリス第三の王女の由に付、ヱキリス人共不㆑得㆓止事㆒、定海県へ引き退き書札を以て申越候は、右の王女返し呉れ候はば、奪ひ取り候定海県早速相渡すべく、万一殺し候時は領国の軍船を出し押し寄せるとの事故、当時寧波府へ差越に相成り居り候満洲大将軍伊里布と申す者、二万余の兵卒を引き具し相集められ候、此伊里布より返書に、右王女受けとり度候はば、船々の諸軍器石火夫共残らず差出し、かつ定海県引払ひ広東表へ罷越し、若し願の筋有㆑之候はば、同所の官府へ申立て候様可㆑致、右王女は陸地差返し、同所にて相渡すべき旨申越され候得共、ヱキリス人相欺かれ候哉も難㆑計く惑ひ致候故哉、兎角の返答も致さず、今以て定海県に滞船仕り居り、昼は上陸致し、夜に入り候はゞ日々滞船仕り候。依つて寧波府は申すに及ばず、海辺所々津留ながらに相成り、出入を厳重に禁じ、備有㆑之、漸く当十月来より、商船出入免され候儀に御座候。当時も右戦争の半と申し、殊更僅の間双方にて、三船程も破船に及び、商業【 NDLJP:121】取り続くべき術に尽果て難渋仕り候得共、御取締り已来、専ら交易信義を不㆓取失㆒候事のみ肝胆を砕き候折柄、一乗にても仕出申さず候ては、貴国に於ても商情御憐恤下され候。重ねて御沙汰も蒙り、尚当時已来厚く御恩沢を戴き候儀に対し、相済ざる訳に付、ヱキリス船乱妨中を顧ず、押して二艘仕出し申候処、天運とは申しながら、逆風強風の難に及び、不㆑得㆓止事㆒乗戻り、莫大の損毛相立ち逃去り候、空しき手を束ね居り候ては、御定数御受け仕る詮も無㆑之儀に付、責めて為㆓御報恩㆒当冬大艘の辻仕出し、信義を顕はし度心得にて、興廃を天に任せ、双方荷主共差憤りを付候はゞ、速に被㆓仰出㆒候御主意を存じ候故、乍㆑恐御乗鑑可㆑被㆓成下㆒候、ヱキリス一条も、人質も有之候事故、只今の模様にては、来夏迄の内には、極めて平和に相成可㆑申候。然上は弥〻以て出精仕出し度く、相励候様可㆑仕候。此段御尋ねに付大略申上奉候以上。
子十二月 諸荷主 代副
和蘭暦数一千八百四十年天保十一子年二月十九日水曜日 アムステルタム中所載抄録一節
記近也魯西要国長寿人又外国所㆑無可㆑想㆓其地広大人民衆多㆒也
従百歳至百五歳人〈八百五十人〉従百十七歳至百二十歳人〈百三十人〉従百廿六歳至百四十歳 〈三人〉従百三十一歳至百四十歳〈五人〉百四十五歳人〈一人〉従百五十歳至百五十九歳人〈三人〉百六十歳人〈一人〉百六十五歳人〈一人〉通計一千百二人
唐国広東湊の外に、古来より渡商致し候外国人の内、インキリス共何れの頃よりか唐国の者共へ、阿片にて製し候煙草を勧達に相弘め置き、自分共には阿片持渡り商売致し来り候処、阿片煙草の儀は、元より高料の品にて、数年相用候へば、終には人命をも害し候に至り候故、近年一統に制禁に相成候得共、相止まず候に付、上意により、諸方より制禁の仕法奏問致し候内、山東の文官黄□と申者、申立て候通りを以て、改めて稠く制禁に相成恢処、去秋尚又大造に文官阿片持渡り候に付、福建の文官林則徐と申す者、上使として広東表へ罷越し、右持来候阿片二万余箱買上げ、残らず焼捨に相成り以来は、持渡方停止の趣稠しく申度候。種々苦情申立候へ共、許容無【 NDLJP:122】㆑之所、イギリス人を始め広東住居の外国人共、追つて本国へ引払候由、其後尚六月寧波府之内定海県と申す処へ、四十余艘のイギリス船渡り来り、同廿八日鉄砲打ち掛け、双方死傷有之、別して定海県の知県並に同所総兵官討死致し、終に定海の県をイギリス人に奪取られ候由、然る処六月廿四日、インキリス船、□浦表へ渡来、双方より鉄砲を以て打ち合ひ、死傷等有㆑之候へ共引汐に乗り行方不㆑知相成申候処、九月廿日頃、インキリス国第三の王女、精兵七八千人を率ゐ、端船に乗組み、寧波府の内余姚県の海岸に近寄り、大筒数挺打掛け候処、其処浅沼故、大筒余勢にて終にインキリス船裂け、自然乗懸け候故、地方土民共馳せ集り右王女並に兵卒二十人計り生捕し、其余は迯げ去り候よし。
風説書
一、当年来朝の阿蘭陀船一艘、六月九日咬唱巴出帆仕り、海上別条無く今日着岸仕り候。右一艘の外類御座なく候。一、去年御当地より帰帆仕り候船、十一月十日海上滞りなく咬唱巴着船仕り候。一、ロシヤ国嗣子アレキサンドルニコライツヽ和蘭国を通行し、其節和蘭国王の方へ見舞に立ち寄り申し候。一、ヱケレス国王の娘フノキトリヤトと云へるを女王に立て申候。一、和蘭国王の嗣子ウユルテンブユルク(国名)之王女ソブイヤと縁組仕り候。一、トルコ国帝辞世仕り、嗣子位に即き申候。一、テイネマタル(国名)王辞世仕り嗣子位に即き申候。一、右ヱケレス国の女王サクセンコーブユルダツター(国名)王子を聟に成し申候。一、和蘭国支配之東印度奉行ヱーレンス病死仕り、テンカラーヘフツホーケレトルブ跡役に相成り申候。一、イスツニヤ国一揆静り、其重立ち候荷担人共離散仕り、発頭人トンカルロスはフランス国へ追ひ去り申候。一、唐国にて、ヱケレス人無理非常の事共有㆑之候処より、ヱケレス国より唐国へ師を出し、ヱケレス国は勿論、カーブテクーホーフ〈ヱーフ州の内〉
及び印度ヱケレス国の領地にて、専ら兵を揃へ唐国に仇を報ぜん為めの仕組に御座候。一、右申上候外、印度辺相変儀無㆓御座㆒候。一、台湾辺に於て、唐国船七艘見掛け申候へども、御当地通商の船には無㆓御座㆒候。且又右の辺に於て、欧羅巴洲の船二艘見掛け申候。右はヱケレス船共には御座無く候哉に相察し申候。右之通船頭【 NDLJP:123】并にへとる阿蘭陀人申口承申上候。右之通和解差上申候。已上。
カヒタンシデユアルト カランテソン
当春入津の船より申上候ヱンケレス人共阿片交易の儀に付、唐国に於て騒動に及び候処平定仕らず候様有増左に申上候
一、寧波府定海県に罷在候イキリス人共、王女を捕へられ候後は、切りに和陸を乞ひ候故、当三月頃欽差伊里布若図にて、王女并に虜兵二十人余差し返し候処、イキリス人共定海の地を差し返し、和睦相整ひ出帆致し、当時寧波は以前広東より御呼戻し、官を被㆑削候。林則徐此節被㆓召出㆒新に四品京堂の官位に叙せられ、非常防禦の為め定海に出張致し居り候由、之れに依て□浦並に江蘇の地は、先づ以て穏に相成り、御地通商の船仕出等には、差支御座無候。其後イキリス船安々広東へ罷り越し、阿片商売の儀歎願致し候由、右広東にて欽差林則徐、先達つて京都に手越に相成り官職削られ候後、満洲の官人琦善と申す者罷り越し居り候処、阿片商売差し免し和睦致し度き段、奏問致し候故、帝逆鱗なり。右琦善を京都へ呼び登せられ、并に定海より罷帰り伊里布両人共、官職を削り居宅を収められ、右の代りに差遣さるべき者選ばれ候へ共、在京の官人共多分和睦を志し候趣上聞に達し、已に天子自ら六師を引ひて征伐可㆑有㆑之処、御第三親王錦壇是を諫め止め、其身大将として軍兵を率し、広東へ発行有㆑之由、其已前広東表にはイキリス人共、願ひの趣相叶はざるにより、数度戦争に及び、広東の外手奥山門の内に兼て外国人押への為め、文武の官人詰方致し居り候外城を放破し候に付、官兵共内城に逃げ入り候て、厳しく防禦致し居り候由、尤も親王錦灯に軍略兵の剛臆未だ承知仕らず候。
右之通り私共唐船出船の頃申伝承知仕候に付、此段書付を以て奉㆓申上㆒候。已上。
天保十二丑六月 丑ノ二番船 則剛沈藻香
阿片烟草(一名ホウランタバコと云ふ。)唐人共先年長崎へも持ち来りし事ありしかども、高金にして其性分らざる無用の物なる故、御買上にはならざりしと云ふ。原賀吉蔵と云へる長崎の人に逢ひて、委しく此事を聞けり。御製一向に分らず。黒砂糖のゆるき様なる物にて、とろりとせし物なれば、決して炭火にては吸ふ事【 NDLJP:124】なり難く、唐人共の之を吸ひつるを見るに、蠟燭に火を灯し烟管に之を詰めて、火皿を灯火に付け置きて、其沸立つるにつけて其気を吸ふ事なりと云ふ。斯様の物なる故、炭火などは烟草の湿りにて、直に火消えて吸ひ難しといふ。奇なる事には、此烟草を一度吸ひつる時は、其味ひ忘れ難くして、之を止むる事なり難しと云ふ事なり。然れども此の煙草を吸へる者は、漸々に痩衰へ、一身青草の如き色と変じて死失せると云ふ、恐るべさ煙草なり。又此煙草を生にて少にても飲みぬれば、直ちに舌を巻き詰めて即死すと云ふ。唐人共長崎にて金を遣ひ過し、帰国したりとも身上立行き難き者之を食して、死したる者ありしとなり。心得べき事なり。
寛永十二乙亥年六月廿二日将軍家光公御当家先例に准じて武家掟被㆑仰候書附の写
一、文武弓馬之道専可㆓相嗜㆒事。左文右武古之法也。兼備へずんば有るべからず、弓馬は是武家之要枢也。武器と申し用㆑之。
一、止事を得ず治に乱を不㆑忘、何ぞ条陳を不㆑働哉。
一、大名在江戸交替中相定也。毎年四月中参勤可㆑致、従者員数近来多し。且国郡之費は且人民之労也。向後相応を以減少すべし。但上洛之節は都合に任せ分限に可㆑随事。
一、新規之城郭構営禁㆓止之㆒、居城湟塁・石垣以下敗壊之の時、奉行に達し其旨を可㆑受、櫓・塀・門等之分は先規之如く可㆓修補㆒事。
一、於㆓江戸並何国㆒縦何遍之事有㆑之と雖も、新規を止め徒党を結び、誓約を成候儀制禁之事。
一、縦於㆓何所㆒刑罪に行といふ共、役者之外出向ふべからず。但検使之左右に可㆑任事。
一、諸国主并領主等、私之争論致すべからず。平日須㆑加㆓謹慎㆒也。若遅滞に可㆑及儀あらば、奉行所へ達し其旨を可㆑受事。
一、音信贈答・嫁要之儀、或は饗応或は家宅営作等、当時甚だ華麗也。自今已後簡略可㆑致。其外万事倹約を可㆑用事。
一、衣裳は料混乱たるべからず、白綾公卿以上、白小袖諸大夫以上聴㆑之、紫袷・紫裏練・無紋之小柚猥に著㆑之べからず。公諸家中郎徒諸輩、綾羅錦繍之服を飾事古法に非ず。全制禁之事
一、乗輿一明之歴々〈〔頭書〕一明の字解し難し本文の儘之を書記す。〉国主・城主一万石以上、国大名之息・城主及【 NDLJP:125】侍従以上之嫡子、或年五十以上医院之両道病人免㆑之、禁鑑吸但免許之輩者格別也。諸家中に至ては其国に於て其人を選み可㆑乗之。公卿・門跡・諸出家は可㆑為㆓制外㆒。
一、本玄障〈〔頭書〕玄源乎〉有之ば、不㆑可㆓相拘㆒。若叛逆人を殺害之告あらは可㆑通㆑之可㆓追出㆒之事。
一、陪臣人質所㆑虞之者、追放・死刑に可㆑及、右可㆑伺㆓上意㆒、若当座難㆑逃儀有ば、誅伐之者其仔細可㆓言上㆒事。
一、知行所務清廉に沙汰之非法を不㆑致、国郡不㆑可㆑令㆓衰弊㆒事。
一、道路・駅馬・舟梁等、断絶なく不㆑可㆑令㆓往還停滞㆒事。
一、私之関所・新法之津留制禁之事。
一、諸国散在寺社領、古より今に至り附来所は、向後不㆑可㆓取放㆒事。
一、万事江戸如㆓法度㆒国々所々不㆑可㆓過行㆒事。
右之条々准㆓当家先制之旨㆒今度潤色して定訖。堅可㆓相守㆒者也
寛永十二年己亥六月廿一日
右御掟書は、昔仰出されし事なれば、諸家に其写之ある事なれども、当時御政事改りぬる時節にして、質素倹約の事に付、種々の御触限りなく仰出さるゝ事故、其本源を知らしめんが為め、爰に之を記し置く者なり。公儀御政事、将軍御上洛、日光御社参、天草一揆、諸侯の興廃せるなど委細に書記せる処の元寛日記とて写本あり。其中に右掟書も書記せり。総て将軍家常住座臥の御日記なれば、之も一見なし置くべき写本なり。
一、問云ふ、乗輿の儀は以前も今時の如く、御吟味強くありたる事に候哉。答曰く、只今とてもと申す内に、我等抔若き時の儀は、乗輿の御制禁別て厳しく之あり候様に覚え申候。仔細を申すに、以前の儀は御直勤家の儀は格別、大名方は家来共五十有余に罷成り、乗輿の御願を致す事は大家・小家によらず、其家に於て家老職を申付け置くと之ある儀を、主人方より御断仰上げられ候へば、乗物を御免被㆑遊、其外にはたとへ高知行を取置き役儀を勤め候者たりとも、竹輿ならでは御免無㆑之に付、何れも竹興を渋塗りに仕て乗り申し候事有之、町人・職人の儀も五十以上に罷成り、【 NDLJP:126】又は法体など仕り候者、御願を申上げ候へば、右の竹輿を御免遊ばされ候へ共、一同に黒く塗り候て乗り申す儀は、外々の竹興に紛不㆑申様との儀に有㆑之候となり。右竹興の儀に付、御代々公儀の御用を相勧め候者に、橋本甚三郎とやらん中したる町人御願を申上げ、法体仕り、橋本源入と改名仕り候頃、御礼日の事に候処、渋張の竹輿に乗り下乗橋迄乗来り候に付、御徒目附中是を見咎め、其方は何者なれば竹輿にて是へ参りたるぞと尋ね候に付、私儀は御用を承り候橋本源入と申す者の由申候へば、御徒目附中衆被㆑聞、たとへ御用達にもあれ、下乗迄竹輿に乗り、御大法を背き候へば通し候事ならず。吟味を不㆓相遂㆒しては不㆑叶との儀に付、源入大に迷惑仕り、御堀端につくばひ罷在候処に、朽木民部少殿登城あられ、源入を御見掛け御徒目附衆へ、あの者は何故に爰もとに居候哉と御尋有㆑之候へば、総て町人類の者の儀は何れも御心外にて下乗仕り候筈の儀に御座候処に、此辺迄竹興に乗り罷越候に付、差控罷在候様に申付候由申候へば、民部殿御聞右られ、あの者の儀は近き頃御願申上げ、法体の身となり竹興に乗り候へば、いづく迄も乗りの事と心得、是迄も乗付けたると相見え候。近頃不調法なる事共に候。乍㆑然我等狂歌を一首詠み候間、此歌に免んじ、今日の儀は宥め被㆑致申し給へと申候に付、御目附衆の儀も民部殿の御申しの儀に候へば、何か扨と被㆑申候へば民部取あへず、
橋本でおりべきものが乗物で深入をしてとがめられたり
右落穂集〈友山といへる老人の聞書にして十巻の写本なり、外に霊教夜話といへる聞書候、此も此人の著述なり、〉にあつる処なり。前に寛永の御掟を記置きぬる故、筆のつひでに之をも心得てよろしきことなるにぞ、こゝに書記せる者なり。友山といへる九十歳計りの老人にして、此聞書は元禄の頃諸人の尋ねによりて、己が幼年の頃より聞覚えし事共を悉く答へしよしを書けるなり。悉く御当家の始め、神君御代を知召してより以来の事を委しく書記しあり。
浮世の有様巻之九下終
【 NDLJP:127】浮世の有様 巻之十天保十四年雑記天保十四癸卯年物の直の五八度を守り二三割下げ、霜正に九にの閏ひ、四海に天地を合せ、六の内に十二小十も七九治れる御代
【元日の天候】旧臘廿九日夜に入りて頻りに雨降出しかば、元朝の天気如何あらんと思ひしに、寅の刻に至りて雨止みぬ。され共巳の刻頃迄は曇り勝なりしが、夫より空晴れて風もなく、天気至つて穏なり。昨年御改革の仰を守り、何れも粗服を着て年礼を勤む、至つて物静なる事なりし。四日晴、今日例年の如く米の初相場立つ、其直段書を見るに、
初相場【米穀初相場】筑前米〈六十六匁〉 同古米〈六十七匁三分〉 肥後米〈七十一匁七分〉 同古米〈七十五匁〉 同餅米〈七十六匁〉 同小麦〈七十四匁〉 中国米〈六十七匁九分〉 同古米〈七十五匁〉 広島米〈六十八匁六分〉 同古米〈六十六匁〉 肥前米〈六十七匁七分〉 讃岐米〈六十一匁〉 備前米〈六十七匁〉 淡路米〈七十三匁〉 筑後米〈六十六匁五分〉 豊前米〈六十八匁五分〉 薩摩米〈七十五匁六分〉 岡米〈六十五匁六分〉 柳川米〈六十九匁五分〉 臼杵米〈五十三匁〉 伊予米〈五十五匁〉 加賀米〈五十七匁〉 米子米〈五十匁〉 出雲米〈五十匁〉 秋田米〈四十七匁〉 弘前米〈四十六匁〉 岡大豆〈七十五匁〉 大洲大豆〈七十七匁〉 南部大豆〈六十一匁〉 帳合寄附〈六十八匁八分〉 〈金六十四匁八分五厘九分五厘銭 九匁五六分〉
【今宮の蛭子祭】九日晴、今日八ツ過ぎに至りて琉球人到着す。十日晴、昨今今宮の蛭子へ参詣群をなす事、例年の如し。され共御制禁厳しき事故、遊女の駕籠に乗れる抔一人もなく、男女何れも粗服にして群集せる様、又商人共の商へる宝尽し、其外の品々至つて麁相にして、見世物等の小屋掛せしもなく、さながら遠国辺境なる神事祭礼を見るが如し。今宮北なる処の小溝に架かれる石橋の辺にて、大に群をなし、押倒されて怪我せし者其数を知らず。死せる者二三人も有りしと云ふ。斯る程の参詣なりし故、蛭子の賽銭は例年よりも至つて多く、千三百貫余ありしと云ふ事なりし。十三日晴、今日未の刻琉球人出帆す。見物群をなす。晦日晴、昨日より寒気少しく緩み、春色を【 NDLJP:128】【盛場移転を命ぜらる】催すに至る。当月七日、島の内堀江新屋敷其外の青楼の者共、明後九日迄に新町・幸町・北の新地・新堀等へ引取り候様仰付けらる。兼て当月廿五日迄の日延願は聞済み有りし事なる故、其心得にて居たりし処、思掛けなく火急に引越申付けられし事なる故、何れも大に狼狽し、幸町抔は家なき処へ暴に縄張をなし、名前を引取り、家内の者共は何れも家々を明けて、各々其しるべ又は親類等へ引移り、詮方なくて外商売をなしぬる者は、其儘にて矢張其家に有りて動く事なしと云ふ。早春よりして至つて騒々しき事なりし。九日琉球人到着し、十三日出帆す。道中に於て三人病死せしと云ふ、見物大に群集。廿三日美濃大垣城下二百軒余焼失す。夷中の小城下にしては至つて大火なりと云ふ。京摂共昨冬盗賊の手当厳しく、町毎に自身番昼夜共怠る事なき故、【盗賊減ず】賊の働き出来難きと見えて、少々宛の小盗の噂はありと雖も、格別の事はあらざりし。当月二十日過、丹州亀山の城下にて、矢田山と云へるに盗賊十二人にて籠り居しを、八人は召捕らる。残り四人は出奔せしと云ふ。直に亀山より京都へ差出しとなる。昨年専ら噂有りし大盗人の群れなりと云ふ事なりし。〈〔頭書〕琉球人胡尭が来朝して詠める歌。松積㆑年、年を経し子の日の祝ひ今日はまた君が八千代のためしにぞ引く無㆑風散花、おのづから風も吹かぬに散る花は心かろしと云ふべかりける 富士山にて、白雪の空しき空に積もるかと怪むばかり高き不二の根江戸出発立日、ふるさとを出でしにまさる涙かな又も問ふべき都ならねば 浪華にて、津国のなには思はず倭人君が代よしと月を見るらん伏見にて、今よりは鶉の床もうさからん初霜白し深草の里。以上中山王の調五つなり。〉
昨五日北組火消年番町年寄当郷総会所へ被㆓召呼㆒、総年寄永瀬幾代助より御達左之通
【火消年番年寄に覚す】市中も取締宜しく、冬向火事沙汰少く並に盗賊取締方も相付、畢竟精々世話行届き候故の儀と、一段の事に存じ候。此上無㆓油断㆒届き候様末々迄急度被㆔及㆓沙汰㆒候様に被㆑存候事。右の通り旧臘廿九日御城下ゟ御沙汰有㆑之候。右は兼々其方共初め、末末町役人共に於ても、世話行届き候故の儀にて、一同規模の事に候条、猶此上無㆓油断㆒行届き候様末々迄可㆓申達㆒候事。
卯正月
今日当郷総会所へ通達年番町々年寄被㆓召招㆒永瀬七三郎ゟ可㆓申聞㆒左之通衣類の事能く相心得、【衣服の驕奢を戒む】守居候内末々の者は行届きかね、用ひまじき品の帯又は裾廻【 NDLJP:129】し・袗或は髪の飾り等にも、稀には縮緬の類不㆓相除㆒、其儘相用ひ候も有㆑之由にて、今一際右等の処不行届き残念の事に候。此上小前の者へ篤と被㆓申諭㆒、聊にても右様の儀無㆑之様精々勘弁可㆑有㆑之候。
【女髪結厳禁】女髪結の儀、先達で職替へ致し候後、弟子の内等に今以て不㆓相止㆒者も有㆑之哉、左様の儀は無㆑之筈に候へ共、猶又不束の儀無㆑之様入念取調べ可㆑被㆑申候。右の通り可㆓相達㆒旨被㆓申㆒聞、尚乍㆑序左に被㆓申聞㆒候。
文恭院様御三囘忌御法事、明後廿八日ゟ来る晦日迄於㆓四天王寺㆒就㆓執行㆒、右御法事中於㆓三郷市中㆒、喧嘩・口論無㆑之様相慎み、火の元別て可㆑入㆑念事。右之通り被㆓仰出㆒候間、町々入念可被㆓相触㆒候。以上。
卯正月廿六日 北組総年寄
一、文恭院様三囘御忌之御法事、於㆓東叡山㆒御執行の事に候間、今廿六日ゟ廿八日迄町中致㆓穏便㆒諸事相慎み、別て火の元可㆑入㆑念事。一、御法事中公事訴訟は令裁許候事。一、御法事中、普請・鳴物・祭礼・法事等不㆑及㆓相止㆒候事。一、来る晦日は殺生の儀停止申付け候事。右の通り三郷町中可㆓触知㆒者也。
卯正月廿六日〈若狭遠江〉 北組 総年寄
【阿部遠江守出府】西町奉行阿部遠江守殿、御改革の儀に付、剪紙を以て被㆑為㆑召、当月晦日立にて出府ある。与力内山彦三郎供にて罷下りしと云ふ事なり。こは昨年御改革の儀に付、大坂表の儀は外々とは何か振合の違へる所なれば、余りに厳しくも申付け難し。其始末出府仕りて申上げたしとの願ひ有りしに、其儀に及ばずとて、御差留になりし由なりしが、当春に至り召さるゝ様になりぬ。町奉行の在役中に出府せらるる事、【久須美佐渡守大阪町奉行となる】昔よりして其例なき事なりと云ふ事なり。〈〔頭書〕阿部の召されしは、御改革の事に付、大坂御政事御取締りの事に付、御尋の筋ありて、急御召の由専ら取汰沙にて、又大坂へ帰り来られ候由の噂なりしが、直に江戸町奉行となられぬ。その代りには久須美佐渡守といへる人小普請より大坂町奉行仰付けられしなり。〉
御触
【女医の禁止】市中女医師と唱へ候者、血道の療治正しく致し候儀は不㆑苦候処、中には一通り妊娠の者を、頼みに応じ預り置き、為㆑致㆓堕胎㆒候類も有㆑之候哉に相聞え、不届の至りに候。向後右様の儀相聞き候に於ては、頼人迄も逐一致㆓穿鑿㆒急度可㆑申間、右の趣【 NDLJP:130】三郷町中端々迄不㆑洩様可㆓申聞㆒候事。
卯二月
二月朔日晴。二日雨、巳の刻より小雨。同下刻止む。午の刻又小雨にて時に止み降り不㆑定しが、暮過戌の方より酉の方へ向つて白気立つ、虹の如し。諸人怪しみ見る。十三日晴、今戌の刻御霊筋淡路町南東角より東南の方へ、小半(〈脱カ〉)計り焼失す。昨年来此辺焼失する事都合四度、其中には三度の火事毎に、近辺へ家を焼いて居を転じて、三度ながら火難を不㆑免して丸裸になりし者不㆑少。又火中の交りながらにして、灰屋九郎兵衛其隣家の売薬屋等、昔よりして七度まで近火を逃れ、此度も亦無事なりし。【独活筍の売買】幸不幸は之にて思ひ量るべき事なり。今月朔月より
覚
一、糸割職人数の外為㆓商売㆒、長崎へ罷下り候者共、於㆓彼地㆒御停止の品々堅く相守り抜荷物一図に買取るべからず、若し相背く者有㆑之ば、後日に相知れ候といふ共可㆑行㆓罪科㆒事。
一、長崎へ罷下り候節、大坂にて居年寄へ相断り、至㆓長崎㆒下着次第、下り年寄へ早速申届の面々、居処をも申聞可㆑受㆓指図㆒事。
一、西国筋へ商売に罷越し若し直に長崎へ罷下り候者、大坂にて居年寄へ不㆓相断㆒者有㆑之ば、於㆓長崎㆒下り年寄へは其旨申断り、借宅知らせ置き、尤御法度之趣不㆓相背㆒様諸商売人手代共迄急度可㆓申含㆒事。右の趣可㆓相守㆒旨三郷町中可㆓触知㆒者也。
卯二月三日若狭遠江 北組 総年寄 【高島四郎太夫等江戸に召さる】
昨年来於㆓長崎㆒囚人となりし科人共、当十五日大坂着にて江戸表へ罷越し、高島が【 NDLJP:131】罪の箇条二十余箇条有りと云ふ。其内二十箇条計りは、長崎に於て白状せしかどあ、其内にても重なる四箇条とやらんは、公辺に於て委細に申上ぐべしとて、之を白状せざる故とも、又重き科人なる故江戸へ引るゝ共云へる噂なりし。
〈黒網乗物 与力格会所相役〉高島四郎大夫・〈同七島造り網乗物 町年寄〉同忰浅五郎・〈黒網乗物唐大通嗣〉神代徳十郎・〈藤丸駕籠唐通事出奔報城事〉山田蘇作・〈榊清衛門と云ふ名をかへて、後藤に到りくじら漬をなせしと云〉・〈同四郎大夫手附〉城戸利八・〈同同飯野文太事〉猶林嘉平・〈白七島造駕籠唐方大通詞頭〉西村駿次郎・〈同長崎会所元方〉柘植長治郎・〈同同俵物方〉横瀬大助・〈同反物目利城戸御役仮親に付掛合〉石井簾平・〈同清人用蕩学合方女郎簾平母親〉遊女初紫・〈同遊女初紫親父貞助事〉山口屋政八。
御附添 御役所附〈船番町使〉廿四人・町年寄薬師寺〈四郎太夫親子附添〉・〈与力〉水野源太夫・同心二人・町乙名六人。都合八十人余、以上天満総会所へ着、重たる罪人の分は、直に松屋町牢屋敷へ遣し、軽き者共は総会所に止宿の由。〈長崎会所吟味役並払方役〉佐藤忠八郎・河竹伴次郎・村上宗十郎・春孫次郎・〈同払方〉岡田又左衛門・大津山善八郎・小沢弥平太・〈俵物掛り〉山本玄太郎・〈筆者〉工藤左十郎。以上押込。 〈長崎御勘役〉不林貞之助〈是も不埒にて其罪難㆑逃思へるにや 私に切腹〉〈同御普請役〉篠原官次郎〈平林が切腹せし翌日に出奔せしと云ふ未練の事なり〉
昨年召捕られ入牢せし、天満与力安部文蔵も牢死せしと云ふ。之も未だ御吟味中なれば、定めて塩漬となりしならん。近年は大罪人の塩漬至つて多く、礫に掛かれるも塩漬にせし死骸なれば、見苦しきのみにて何の詮なきものなり。文蔵が牢死せしも、余りに与方・同心共己れ同様に私欲にて、悪事多き事を頻りに言罵る故、何れも戦慄して恐れをなせる事なれば、此上如何なる事を申出さんも計り難き事故、態と牢死せしめしとも、亦牢中に羽交〆になして縛せられぬる故、寒気痛苦等に堪へ難くして死せしとも、種々の取沙汰なり。如何なる事にや知らず。
【江戸出火】正月廿六日夜丑の刻、常盤橋内松平越前守殿上屋敷残らず焼失、寅の刻に至りて火鎮まりし由、江戸より申来る。
【井上河内守退役】御老中井上河内守殿、旧冬退役仰付けられしが、今之を聞くに、此侯至つて貧窮にして暮し方むつかしく、当時御改革にて下地の如く賄賂を取る事も成難ければ、如何ともなし難き処よりして、家老用人、謀書・謀判をなして、大金を外方にて借入れし事露顕に及び、家来・用人共遠島仰付けられて、侯にも御役召上げられしと云ふ。【 NDLJP:132】素より斯くなるべきは、兼ねて覚悟にて謀られし事なり抔云へる風説にて、至て宜しからぬ取沙汰なり。
諸大名御改革に付、金紋先箱・虎皮鞍覆・朱爪折傘等相止め候様仰出され、外々は之に従ひしかども、肥後と高松とは家格を落す事相成難しとて、相変らず之を用ふるにぞ、又々御沙汰之ありしにぞ、両家共に夫より引込みて出勤せられざる由、三月には水戸侯御出府之ある事故、其上にて申立てんとの了簡なりと云ふ噂なり。【能役者に注意す】〈近来賄賂又は大御処御晶屓等にて御免蒙り、金紋唐皮の類相用ひし諸侯の分は、相止めしとぞ。〉四座の猿楽其外能役者共への仰渡されには、「其方共何れも能与行の節は謝礼を多く取り候上に、ならひ事などいひて、又其上にも余分に謝物を取り候事、金銀を貪るに当りて、甚だ宜からざる事なり。諸大名にて能を為さんと思へるも、過分の物入有る事故、之を厭ひ自らせざる様に成り行き、其方共の為に相成り難し。此故に已来は何程にても、其家々の振合に任せ、謝物の多少に拘らず、頼人ある時は之を勤むべし。又他流の者とは一処には、之迄立会せざる事なれども、之よりしては互に申合せ、打混りて能を勤むべし。これ家業繁昌の基なり」と仰渡され、其後諸侯方へも、「能役者共へ右の通り申渡しぬる事故、遠慮なく能を慰むべし」と御沙汰ありて、其よりしては御老中毎に月に二度づつ常例となつて、能の催し之ある故、能役者共何れも大に困り果つる事なりとて、当地にて其筋合の者へ申来りぬ。金春太夫より、「能御興行被㆓仰付㆒候節、謝物には無㆓頓着㆒謝礼下さるゝ事なくとも、已来相勤め申すべけれ共、他流と打混じて興行の事は、古来よりして流儀の掟にてなさゞる事故、此儀は御免蒙るべし」と申出しにぞ「追て沙汰に及ぶべし」との事にて、其儘に成行き御老中方にて頻に能興行せらるゝ事なりと云ふ。定めて謝物も聊の事なるべし、之等は世間の嘲りを免れ難き事也。
御触〈二月六日〉
【僧侶を取締】諸寺院の僧侶破戒不律の儀に付、天明・寛政・文政の度追々取締方申渡し、殊に先般流弊改革の御趣意厚く被㆓仰出㆒候後も、今以て不如法の僧侶多く有㆑之・〔・脱カ〕時々相聞え候。右は本寺触頭・法類師兄等厚く教諭に及び、宗祖の戒行、法義の軌範を研窮致し候はゞ、風俗も堅固可㆓相成㆒処、追々申達し候次第心得方等閑故に候。出家の儀は殊【 NDLJP:133】更貪欲の情を絶ち、学徳を相磨き寺務専一に可㆓相心掛㆒処、利欲の念深く放逸無慙の輩不㆑少、歎かはしき事に候。市中托鉢修業の僧徒行作不㆑宜、又は略服・美服を着、往来致し候類も今以て相見え、或は開帳・宗祖の法会・釈門に有㆑之まじき造り物等致し候段は、仏戒に背き候のみならず、自ら世上の風俗に推移り、質素・節倹の儀御改正の憲法に相響、以ての外に候。向後本寺触頭等修学は勿論、精々宗風興隆の儀厚く申合ひ、夫々末流の者如法質朴に勤学修業致し候様厳しく教戒を加へ、旧弊相去り候様可㆓取計㆒、一体不如法相聞え候輩、吟味の上夫々可㆑処㆓厳科㆒当然の儀に候得共、此度厚き御仁政の御改革に付、今一段教諭致し取締方念入れ申付け候はゞ、如法質朴に遷り候者も可㆑有㆑之。若不㆓取用㆒者於㆑有㆑之は、其段本寺触頭等ゟ可㆓申出㆒、向後何事に寄らず不如法の儀相聞ゆるに於ては、聊か無㆓用捨㆒厳重に可㆑及㆓吟味㆒間、其旨兼ねて心得可㆓罷在㆒候。右は今般御沙汰の趣を以て申渡し候。此上取締方不行届不如法の僧侶不㆑絶に於ては、本寺触頭の可㆑為㆓越度㆒間、精々無㆓油断㆒可㆓取計㆒候。右之通り従江戸被㆓仰下㆒候条、此旨三郷町中可㆓触知㆒者也。
卯二月若狭遠江
【衣類に対する触書】衣類の儀に付ては、先達て已来追々被㆓仰出㆒、猶又先月廿六日御逹有㆑之候。然る処身軽き者の内には、帯其外衿・袖口・裾廻り又は衫裏等に至る迄、今以て御法度の品々押して相用ひ居り候者も有㆑之哉にて、此間中於㆓途中㆒御見咎めに相或候者も有㆑之、是迄度々被㆓仰出㆒候趣は、逐一申諭し、自分限り能く相弁へ罷在りながら、右体用ふまじき品々不㆓相除㆒其儘相用ひ候は不埓の事に付、夫々御捕の上厳しく御咎被㆓仰付㆒候共致し方無㆑之、左様相成り候節は、自分の心得違を忘れ、却て迷惑抔と申す族も有㆑之、右に付ては家主・町役人迄も申付け方不行届の廉蒙㆓御察当㆒候次第、種々心配致し候詮無㆑之残念の事に候。兎角に末々の者、別て女抔は不㆓相用㆒趣相聞え候間最早此上申渡しを背き候者は、御上にも思召有㆑之趣御内沙汰有㆑之候事。右の通り被㆓仰渡㆒候間、銘々は不㆑及㆑申、召仕其外借家有㆑之向は末々迄篤と被㆓申聞㆒、聊心得違無㆑之様精々入念可㆓申聞㆒候。已上。
卯二月六日
【 NDLJP:134】【菓子売買の注意】荷ひ売致し候飴の鳥と唱へ候者、又餅にて
二月三日 直下げ掛り 総年寄
井上河内守殿病気に付、顧の通り御役御免被㆓仰付㆒候旨、従㆓江戸㆒被㆓仰下㆒候条、三郷市中可㆓触知㆒者也。
卯二月
【浜田侯所替と海防】石州浜田の城主松平左近将監は、先年御老中にて仙石道之助家来仙石左京といへる奸悪の者、主家を押領せんと工み事をなせし時賄賂を貪り、此者に荷磐し、御役柄の事故御威光を以て事を謀らんとせしに、其事忽ち露顕し、夫々に御仕置を蒙りしが、其時浜田の城を被㆓召上㆒奥州棚倉所替被㆓仰付㆒、這々の体にて引越しぬる松平周防守が跡へ、上州館林よりして浜田へ引移りて、当時の領主たり。〈此時棚倉城主井上河内守上州館林へ所替となる。〉然るに昨来異国船処々の沖を徘徊する由にて、浜手々々は申すに及ばず、深山幽谷と雖も其手当厳重に被㆓仰付㆒、今にも異国より攻来れる抔とて騒々しき世間の風聞なりし。浜田の領地といへるは外々の国に比すれば、知行高よりも至つて広うして、内分の所納余分なり。如㆑此なれば領中数十里の間に七浜有りと云ふ、〈所替被㆓仰付㆒しは、公儀よりして御養子に入らせられし君侯なり。此故に館林よりしてかゝる宜敷処へ御引越仰付けられしとなり。され共此候間もなく逝去なり。〉然るに家中至て少くして、二浜の備へも立ち難く、其上大砲は漸々四挺ならではあらざれば、一浜へ一挺づつ仕掛けても三挺足り難く、人は足らず武器はなし、其狼狽せし有様至て見苦しき事にして、大に世間の物笑となりぬ。周防守には大砲二百挺も所持し、家来も至て多く、かゝる備に事を欠かざる程の用意は兼ねて有りし事なりと云ふ。され共御役被㆓召上㆒押込隠居と成り、棚倉へ所替被㆓仰付㆒程の事故、大に困窮に及べる上、斯る有様に至れる事故、下地より出入する処の町人共も、誰有りて金銀を貸せる者なく、【 NDLJP:135】先祖代々持伝への家宝、其外書物類に至る迄之を売り代なして、漸々と奥州へ引越しぬ。斯る有様なる故家来の者共三分にして、二は暇を出されしにぞ、此者共今更流浪して他国へさまよふも覚束なく思へるにぞ、多くは所縁を求めて浜田領中にて百姓・町人となり、何れも哀れなる暮しをなして住居せる者共を悉く召出し、何れも不案なればとて、此者共の指図を受け、百姓・町人迄も其外に狩集め、纔なる家来を夫々に少々づつ交へてこれを割符し、大狼狽に狼狽へし様、余りに見苦しくして目もあてられぬ事なりしとて、或人予にこの事を委しく語りぬ。防州所持の大砲の内に、三百五十〆目の大砲一挺ありて、遠路の運送其費をなし難く、其儘にて浜田へ残し置き、此度借り用ひしと云ふ。差当り大砲に事欠きぬる故、暴に四挺拵へて、当時にては大砲八挺ありと云ふ。
【忍川越両侯の貧窮】武州忍・川越等は入海にて、江戸へ引続き里数も纔かなる処故、別て両侯へ厳重の備被㆓仰付㆒しにぞ、川越は別て貧乏の諸侯故大に困窮し、諸役人代る〴〵出来たり。大坂の町人共ゟ金借らんと種々肝胆を砕きぬれ共、下地よりして不実なる仕向故、誰有りて之を聞入るゝ事なし、浅ましき事なり。右手当として公儀より金子一万両被㆑下しと云ふ。忍も定めて同様の事なるべし。此先如何なる事にや。
二月九日、昨年来入牢せし専念寺・大長寺・不動寺等の悪僧共、何れも流罪となり、相手となりし女五人新町へ引渡され、一人は押込めとなりしと云ふ。
御触
疱瘡見舞に遣ひ候人形・鯛・馬等の形の類、全く手遊の訳に付、銀一匁・銭百文已下に限り可㆑申候。此旨心得違無㆑之様、其筋商人へは猶更可㆑被㆓申聞置㆒候。已上。
北組 総年寄
卯二月八日
口達
願人共作法近年猥に相成り、連立市中其外踊歩行き、三衣も不㆑着頭を包み、又裸にて家々門口へ立ち、押して施物を乞ひ往来の妨げをなし、其上婬奔戯論を唱へ、或は判じ物の札を配り、児女子の興に入り候事のみを心掛け、銭貰請け候段不行跡の上、仏門に有㆑之間敷儀、右故惰弱放蕩にて産業を嫌ひ候者、多く弟子に相成り乞食非人【 NDLJP:136】等に等しく、以の外の事に候。殊に半田稲荷勧進・住吉祭之類、近年の仕癖にて全く僧侶の体を失ひ、且つ新規之儀、以来右類之修行難㆓相成㆒、縦へ貧窮の者に候共、輪袈装計り或は裸にて勧進致し候儀は、僧形に背き候事に付、水行其外願人共作業頭を包まず、三衣を着し仏道を唱へ、乞食非人に不㆑紛様無㆓違失㆒鑑札処持致し、如法質朴に修行を可㆑致、且仕来りにて六十六部廻国順礼・千ヶ寺参等止宿為㆑致候趣相聞え、右体の儀は有㆑之間敷筋にて、既に奉行所より尋の者隠れ居り候次第にも至り不取締に付、以来他処の者決して止宿為㆑致間敷候。
右の通り配下の者共へ厳しく可㆓申渡㆒、向後三衣不㆑着不行作之者有㆑之候はゞ、厳重の可㆑及㆓沙汰㆒候間、無㆓等閑㆒精々取締可㆑致候。
【僧徒を取締る】右の通り於㆓江戸表㆒被㆓仰渡㆒候間、可㆑令㆓承知㆒。尤当表願人共儀も勧進修行の内、寒垢離と唱へ、施主人有㆑之節、町内空地・浜地等に於て、裸にて水をあび、火災除祈念を致し、其余にも頭を包み輪袈裟を不㆑拭法衣を不㆑着修行致し、或は児女子の興に入り候板行物の札を与へ、施物を乞ひ候族も有㆑之由相聞え候。僧侶の体を失ひ、風儀不㆑宜以の外の事に候。前々より仕癖に泥み候は全く心得違の至りに候。以来右体の処作は勿論、仮令水行たり共裸にて修行致し候儀は不㆓相成㆒候。総て頭を不㆑包勧進修行致し候節は、三衣を着僧体を不㆑失様相心得、其余先年より申渡し候御法度の次第并に文政元寅年申渡し候通り堅相守り、奉行所へ書出し有之行作の外、猥の儀致すまじく候。尤組入の者鑑札印紙等相渡し候儀、右文政度申渡しの節、差留め置き候得共御改革に付、江戸表同様鑑札所持致し、勧進修行致し、不行作無㆑之様願人共へ申付け、取締可㆑致候。自今申渡しの趣相背き候者有㆑之に於ては、厳しく可㆑被㆓沙汰㆒候。右の通り鞍馬大蔵院下願人組頭へ申渡し候間、為㆓心得㆒三郷町中へ不㆑洩様可㆓申通㆒候事。
卯二月九日
右之通り被㆓仰出㆒候間、町々入念可㆑被㆓相触㆒候。以上 北組 総年寄
日光御社参に付国司諸大名御役割
【日光御社参の役割】御城番安芸・御本丸〈大手〉姫路榊原式部・西御本丸〈追手〉松平大和守・御本丸〈留守居但西丸兼帯〉水戸・中【 NDLJP:137】山道より尾張・千住通りより紀州。御所様は中道より〈御三人様御同道若年寄衆御老中三八〉其外御老中方は日光并に東海道御通り、其外上目附以下の御役人衆数不㆑知、日光御山内の御人数凡三万八千人、御番代の面々大方御供奉様衆は三十六人〈目附共入れ〉
仙台、箱根固め、人数六千人・騎馬七百人・万石以上七人・番頭以上五人・先陣三島宿片倉小十郎、右日数十三日の間。〈信州上州堺〉碓井峠加賀・〈早州〉駒木根 細川・〈相州〉浦賀 薩摩・〈下総〉 銚子 小笠原・〈常州〉大津 備前・〈奥州〉玉川 毛利・〈下野〉高原峠 藤堂・〈日光〉中禅寺 酒井左衛門・ 〈常州〉関宿 丹波・〈東海道〉大井川 南部・〈同〉新井 佐竹・〈駿河府中〉御城番〈久能山兼帯〉上杉・有馬 上野宮土佐・芝官 出雲・御浜御殿 津軽・〈日光〉今市 阿波・〈宇都宮〉御城番 黒田・〈古河〉御城番 松平相模守。
昨年至て豊作なりし故、田舎は都会と違ひ物毎豊かなるにぞ、何れの国々も大勢連立ちて正月の半ば過より伊勢参宮せる者其限りなく、次第々々に多く出来り、参宮下向の道者行違ひ、市中を徘徊せる有様は、大坂の不景気なるに引替へて、何れも勇ましき有様に見ゆ。
【有賀湯】 感涙銘肝有賀湯〈ユミハ袋入一夕、一帖不㆑論折々御触出御用可㆑被㆑成㆑候〉
抑〻此御薬の儀は、往昔天照大神天津児屋根命に勅して、初て調合有りしより以来、聖代世に相伝の王法にして、剰へ中華は三皇・五帝より伝ふる孔老の名法、又四天釈氏の仏意合法の神丹にして、海内無双稀代の霊薬なり。故に享保・寛政の頃普く世に行はれしも、良星霜推移り、加減感応の良正なく、自然功能衰へ用ふる人稀にして、病の為に苦しむ者少からず。予之を歎く事数年、然るに或夜夢中に不思議の神霊忽然として現じ給ひ、善哉々々今より汝等が塗炭の苦みを救ひ得させんと、忽ち目覚めぬ。余りの難有さに感涙止まざりければ、頓て之を薬名に標し、広く世に弘まる者なり。第一、上下和し、国家を治め内をとゝへ、驕奢を止め職を勧め和らげ、心を安くし身を明かにするの良剤なり。一、時のはやりを止むるによし。一、分限を忘れ気の高ぶるによし。一、様々熱をふくによし。一、欲心にて眼闇み天窓の割るゝを不㆑知によし。一、義理を失ひ冥加に気の付かざるによし。一、銭金逼迫によし。一、一寸先の見えぬによし。一、貧にして食事ならざるによし。一、節季胸に支ふるによし。一、財布腹を下すによし。一、此薬を常に服する時は三理に通じ、借貸【 NDLJP:138】の滞りを解かし、物前・頭痛鉢巻どうせようの患ひなく、近所悪党ごろつきを退け、枕を高く寐らるゝ事妙なり。尤病により反て動じて万事差支へ融通止り、途方に暮れ、持ちたる物を取られたる様に覚ゆる事あり。或は泥水を吐き苦しむ者有り、是皆薬の的中したるにて、暫時堪ゆれば後目の覚めたる如く、本快する事神の如し。株仲間贅沢・疾け・邪淫・物好・勝負事・喧嘩口論・不実人の害に成る事、其外諸商売故障差合ひなし。
調合所 御免 三都御触通り立町行度り 道温世和呉海製 平均
同御侍町正銘戸西 尾神伍九郎 厳
南名一道安都 今仁伍郎治 万世
取次処 諸国内津〻喜豊年 泰平万作 福地
此節世上紛らはしき贋薬有㆑之由、御用心可㆑被㆑成候。
一、此御薬近頃諸人に与へて試むるに、薬力強厳なるに依り、瞑眩する者多し。斯くては角を直さん為に牛を殺すの害あり。病治する共命を失うては甲斐なく、是本法に非ず。体を養ひ元気を落さずして病を退けてこそ、古法の仁術共いふべけれなと誹る人有り。是等は病の為に本心を奪はれ、病本心に侵さるゝが如し。斯る人々は疾難症に成りて心づかず、是迄流行の外邪に三日薬を用ひ、頭上に蠅の留まらぬを心得、上は直にして済む故に、病根深く入つて一旦治する共再発自滅の外有るべからず。又良薬口に苦し共合点して、病動て苦むと雖も、後已前の無病に勝る壮健の身となるべしとのみ思ふ者有り、是又違へり。譬是迄三椀の常食満腹すと雖も、尚不足の心有り、当時此薬を服して当時一椀を凌ぎて病全く治す時は、已前三椀にて不足の処、二椀にて満腹の不足を思はざるは、是正法の良剤にて全快の験と思ふべし。偶五七椀も進む事あらば、是又病の萌しと知るべし。或人癰疽を病める者水に浸して快とせんより、疾まざるに如かずといへり。されども身を動しての大食はさのみ害なし。兎ても角ても一升の袋は一升なれば、分限の上を不㆑顧、八合にて事足る工夫をする事、服薬中の慎なり。養生悪るければ奇法の妙薬たりと雖も其功空しかるべし。尤薬性至て劇剤なりと雖も人を殺すの害なし。唯疾病を懲らし根元を助け、身命を堅固に保たしむるのみ。一、婦人身の廻り、及び天窓の上に時々望み【 NDLJP:139】出来る症には、五制湯絶えず用ひてよし。一、小児の倭左には、御趣意を能く噛砕き含ませてよし。
地獄御触之趣
【仏事の簡なるを諷す】一、娑婆世界以之外勘略に付、仏事等取扱方軽く相成り候間、地獄一統困窮に付、何卒御救被㆑遊度思召候へ共、時節柄故被㆑成方無㆑之候に付、向後は急度倹約為㆓相守㆒可㆑申条被㆓仰出㆒候。一、先年より善人成仏申付け方、其品々上中下の三段に分けて、九品の浄土を相立て有㆑之候へ共、法事の施物等軽く有㆑之、依て大概は下品・下生にて事相済み可㆑申事。一、菩薩の位に至り候善人及㆓往生㆒候節、只今迄三尊仏来迎に被㆑及候へ共、向後は夫に及び申間敷候。併観音勢至計りは迎に被㆓差出㆒候事勝手次第之事。但し霊香を薫じ、花を降らせ候儀にも、華美を不㆑用、虎屋の五種香並に花は神明前又は浅草辺に有㆑之候出来合の造花、随分手軽き方を相用ひ可㆑申事。一、観音勢至迎に被㆑出候節、天蓋又は蓮台等持参被㆑致候へ共、以来は堅く無用可㆑為候。蓮の葉一枚の上に亡者を乗せ、成仏の規式を相用ひ、余り目立ち不㆑申候様可㆓相済㆒候事。一、死人共致㆓持参㆒候六道銭の儀、是迄は牛頭・馬頭の鬼共致㆓配分㆒候へ共停止被㆓仰付㆒候、向後は集置き、月々切に致㆓算用㆒、急度相納可㆑申候。地獄・極楽諸色修復に相成り候事。但し地獄・極楽共両役所に一人宛元〆役人定置き取集め候上、追々利付に貸付可㆑申事。一、弘誓の船毎年修復入用夥しく候間、以後は亡者の分は陸を通し可㆑申候。廿五の菩薩の音楽堅く停止の事。一、地蔵菩薩毎度賽の河原に被㆑出候に付、衣の裾損じ迷惑の由相聞え候間、是も月に三度宛被㆑出子供のみ集め見訳等可㆑被㆑致候事。但し慈愛の子供たり共、毎度手土産持参の儀は可㆑被㆑致㆓無用㆒候。其内施主方賽銭等にても被㆑致候取納無㆑拠筋たり共、随分手軽の品等可㆑被㆑致㆓持参㆒候事。一、十王千体閻魔大王へ出仕の節、束帯にて相勤め来り候へ共、御時節柄の儀にも候間、五節句之外袴計りにて可㆑被㆓相勤㆒候、朔・望・廿八日は御目見え致し候事故、羽織・袴着用可㆑申事。一、三途川の姥只今迄は剥取り候帷子の類、致㆓所務㆒来り候へ共、向後は先方役人へ相渡し、太布の類は雑巾に相用ひ可㆑申事。一、極楽世界仏達の家造等随分致㆓手軽㆒、金銀瑠璃之□並に金銀砂子の類急度可㆑為㆓停止㆒候程は、【 NDLJP:140】杉丸太等胡粉にて塗り、金銀は石砂・浜砂等敷き可㆑申事。一、罪人御改の節、見る眼嚊鼻両人共罷出で、立合ひ相改め来り候へ共、一人宛罷出束帯相勤め可㆑申候。且又常破利の鏡の儀、磨き夥しく費え候間、仕廻置き重き科人計り写置き見せ可㆑申候。尤度々つや切れにて拭ひ曇り不㆑申様手入れ可㆑致候。一、鬼共儀是迄虎の皮の脚布致し来り候へ共、以後は令㆓停止㆒候。重ねては猫の皮・馬の皮等相用ひ可㆑申候。但し馬の皮は新規に取調へ候ては、却て費に相成り候間、持参の品破れ損じ候迄は、相用ひ可㆑申事。
右の条々急度相守り可㆑申候。支配向鬼共へは、其頭より能々申渡し、一百三十六地獄の末々迄心を付、倹約を相用ひ候様可㆑被㆑致候。別て無間地獄の釜の始末仕焚可㆑申候。鬼共私を以て薪等盗取り候趣相聞え候へば、早速召捕り於㆓六道の辻㆒三日晒の上、鉄棒にて五十たゝき、死出の山へ追放可申事。但修羅の太鼓度々張替の儀費に候間、成るたけ静に打ち可㆑申候。万端娑婆世界に准じ、其旨役々より巨細心付け、少も御益に相成り候儀は無㆓遠慮㆒可㆓申上㆒候事、右之趣向々へ可㆓相触㆒候。
倶生神
御触
【造酒の取締】一、諸国酒造取締方の儀、先達て申渡し候通り、箇条の内去る巳年已前迄造来る米高を以て、永々造高等相定め、諸国一統御料・私領・寺社共以後為㆓取締㆒、鑑札相渡し置き、酒造人身上衰へ酒造相止め候はゞ、鑑札取上げ候迄有㆑之候へ共、親所持の酒造稼高忰相続致し、或は親類身寄の者へ相譲り同様為㆑致相続の儀は勿論、譬へ親類身寄等の者に無㆑之迄も、勝手を以て余人へ譲渡し候儀も、其向々にで吟味の上聞届け候筈に有㆑之候。尤酒造人身上衰へ酒造稼ぎ相止め候分は、鑑札取上げ減切り申付候
一、酒造人居宅手狭に付、兼ねて他所に酒造場所持致し、右場処にて稼来り候分は、出造出稼等迄其訳も違ひ候間、是迄の通り取計り候ても不㆑苦候得共、右酒造□他支配他領有㆑之候分は不㆓相成㆒候。
右之通り猶又取締方申渡し候。其余の儀は先達て申渡し置き候定めの通り心得、正路に相稼ぎ可申候。右之趣被㆓仰渡㆒候間、此段御達し申上候。御承知の上無㆓御止置㆒【 NDLJP:141】刻付にて早々御順達可㆑被㆑下候。以上。
卯二月十九日午中刻
通達年番 江戸堀二丁目
御改正に付諸商人並に職人等正路に致し、其外節倹の儀厚く心掛け、御趣意を難㆑有奉㆑存相守、格別奇特成る者は可㆑被㆓申聞㆒候。且各より被㆑致㆓教諭㆒候ても不㆓相用㆒者有㆑之候はゞ、是又名前可㆑被㆓申聞㆒候。追て質素の儀も相心得、猶此上の処精々風儀宜様相成り候儀、専一に各方並に町内老分の町人等申合せ、平世に世話致し取締有㆑之候様取計らひ可㆑被㆑申候事。
卯二月
【人参の増殖を計る】朝鮮人参の儀、払底の品にて高値なる故、軽き者共及㆓大病㆒候ても、容易に用候事成難きに付、享保年中より朝鮮種を以て人参作殖の儀御世話有㆑之候処、次第に増長致し、当時は諸国にて作り覚え、世上差支に無㆑之趣に候間、公儀より作殖被㆓仰付㆒候儀以来被㆓差止㆒、製法所にて座売相止め候。是迄は朝鮮種人参作り候儀無㆑謂候ては不㆓相成㆒候処、以来は作候儀は勿論売買共可㆑為㆓勝手次第㆒候。右の通り寛政二戌年十二月相触れ候処、享和三亥年三月、当分の内野州一国の儀は不㆑残御用作被㆓申付㆒候旨相達し候。以来又々人参払底にて高価に相成り、下賤の者共及㆓難儀㆒旨相聞え候に付、猶又向後は寛政の度相触れ候通り相心得、作り候儀並に売買勝手次第に候間、可㆑成丈人参作増し候様可㆑被㆓申付㆒候。
右の趣下野・陸奥・出羽・信濃・越後国御料所は御代官、私領は領主・地頭より可㆓相達㆒旨可㆓相触㆒候。
十二月
右の通り従㆓江戸㆒被㆓仰下㆒候条、此旨三郷市中可㆓触知㆒者也。
卯二月廿八日若狭遠江
【大工等取締】京都御大工頭中井岡治郎支配五畿内・近江六箇国の大工・柚・木挽三職の者共、是迄
一、洛中・洛外三職之者共より差出し来り候、岡治郎方火消人足夫代銀並に見分大工の儀は、一通り無賃人足共訳違ひ候間、是迄の通り可㆓差出㆒候。右の通り今度申渡し候間、岡治郎支配三職の者共心得違ひ致すまじく候。若不㆓相守㆒者有㆑之候はゞ、急度可㆓申付㆒候。尤右三職之者共は、前々より御所方御造営並に御普請の節、役仕事等相勤め候事に候間、右体之節は岡治郎指図次第無㆓遅滞㆒可㆑被㆑出候。
右の趣五畿内・近江国中共不㆑洩様可㆓相触㆒者也。
右の通り従㆓江戸㆒被㆓仰下㆒候条、此旨三郷町中可㆓触知㆒者也。
卯二月若狭遠江
下げ紙に
かもじ髷の形に致し売出し候。儀不㆓相成㆒候旨、先日申渡し置候。有来りのかもじ計りを売り可㆑申様、其筋商人へ為㆓心得㆒可㆑申事。
昨二十八日町触の節通達年番町々へ総年寄永瀬幾代助ゟ口上にて、左の通り被㆓申渡㆒候
【風俗上善禁からざる錦絵類を禁ず】今日乍㆑序に候得共申達し置き候。町々の内かもじを髷の形に致し売出し候儀、女の嗜にも相背き不㆑宜候間、売買可㆓相止㆒旨則ち張出しに下げ紙致し置き候に付、承知にも之㆑有候得共、猶又序の砌組合町々へ通達可㆑被㆓致置㆒候、猶又町々商売体に寄り、看板の内には金銀の箔置き候も有㆑之、且襖・屏風其外品々に役者似顔・紋付抔書き絵・張絵等有㆑之、是等は先達て被㆓仰出㆒も有㆑之聊にても不㆓相成㆒候処、既に今以て不【 NDLJP:143】㆑用者有㆑之哉御察度受け候者不㆑少候間、町々に於て能々行き届取調べ聊にても看板に金銀の箔置き有㆑之類、又襖・屏風其外品物に役者似顔・紋・妓女姿絵抔有㆑之候はゞ早々取除けさせ可㆑被㆑申候、尤隣町相互に御趣意に相触候儀も見当り候はゞ互に心を付合ひ、御趣意厚く行届き候様可㆑被㆑致候、是又寄々組合町々へ申達し可㆑被㆑置候。【阿部遠江守大阪町奉行となる】
卯二月二十九日
二月九日、江戸大地震、箱根・小田原等尤も甚しく、人馬鶏犬多く死せしと云ふ。阿部遠江守町奉行被㆓仰付㆒候。此旨三郷町中可㆓触知㆒者也。
卯三月三日若狭
右之通り被㆓仰出㆒候間、町々入念可㆑被㆓相触㆒候。
大坂町奉行なりしが、御改革の儀に付、御用の筋有りて御召に相成候由なりしにぞ、此御奉行には仁慈の心有る人故、大坂の土風を申上げられ、何か緩かに相なるべしなどとて様々の取沙汰なりしが、直に江戸表に於て、遠山左衛門尉大目附に転役被㆓仰付㆒、其跡役に被㆓仰付㆒町奉行になられしと云ふ。
【白気出現す】二月上旬よりして、西方に白気立ちし事に付、種々の浮説有りて、世人大に恐怖せり。こは只水気のなせる業にして、少しも怪むに足らず。於㆓京都㆒陰陽寮よりして奏聞せし勘文左の如し。
勘申白気出現之事
【右に対する勘文】当月上旬以来昏白気出㆔現於㆓申酉之方㆒、其形如㆑布。長数十丈、戌刻後没。従㆓十日頃㆒晴陰不㆑定委難㆑測。十三日・十四日之夜所㆑見白気次第薄、従㆓婁宿之度㆒至㆓参星之南東㆒南指、非㆑雲慧星如㆓光芒㆒。天気者種々之気雖㆑多此度所㆑現、去秋已来晴寒暖、至㆓于今㆒不順而所㆑為也。但歴史挙其占兵草・疾病・喪亡・水火等之徴也。気出現之事和漢共徴有無者、因㆓時之治乱㆒無㆓定例㆒者也。此度気所㆑発分野当㆓西国㆒金気冐㆑陽、其所大風若有㆓洪水・失火・疾病之類㆒数。雖㆑有㆓其理㆒妖不㆑勝㆑徳、元来治㆑世聖徳遍㆓四方㆒、何有㆓変異之応㆒乎。白気漸薄、無㆑異而可㆓消散㆒、勤勘申如㆑件
天保十四年二月十八日 従五位下 幸徳井権暦博士加茂保行
従五位上 同陰陽権介播磨同 保源
【 NDLJP:144】 従五位下 同陰陽介兼暦博士同 保行
前にもいへる如く、怪しむに足らざる事なれども、何となりとも名目をつけて奏聞せざれば、陰陽博士の立ち難き故、斯る事を捧げしものなり。之に付博士は勿論諸社・寺々へ御祈祷の勅命下さるゝ事、古よりの定例なり。此度も同様の事なるべければ、何れも其徒の利益なるべし。
土御門様勘文
従㆓今月上旬㆒毎夜昏時見㆓白気㆒。長五許丈、自㆓西方㆒向㆓東南方㆒。其芒気所㆑指赤道以南二十五六度、夜々漸移北、指㆓赤道以南十一二度㆒也。因是推之有㆓慧星微働㆒似㆑移㆑座。
太陽天与㆓慧星㆒所㆑潤㆑天雖㆑有㆓高卑㆒、被㆑照㆓太陽㆒生㆓光芒㆒、又随㆓太陽㆒入㆓地下㆒者也。天経或問慧星之条云、慧者火気挟㆑土上舛、結聚而成㆑慧云々。又云、晨見㆓東方㆒芒則東指云云。又云、日久勢尽㆑力衰漸乃滅云云。近来時気不順、今春余寒難㆑去之故、上舛之気漸結成㆑慧者歟、又諸書挙㆓其占㆒者、或為㆓兵革・喪亡・水火・地震・流疫等之徴㆒、然而慧星出現古来毎度其応㆓徴有無㆒者、因㆓治乱之時世㆒無㆓定例㆒。今也聖徳遍㆓四方㆒恩光及㆓万民㆒之時也。何有㆓変異応㆒乎。況今度所㆓出現㆒不㆑近㆓紫微天市等之垣㆒、何有㆓其恐㆒乎。且追㆑日春暖舒暢、芒気自然可㆓消散㆒歟。
天保十四年二月廿一日 晴雄
勘申天変之事
当月上旬以来出㆓現白気申酉間㆒、如㆓一匹布㆒之長数丈、自㆓天困之辺㆒至㆓参南㆒。前漢建平元年十二月白気出㆓西南㆒従㆓地上㆒至㆑天出参、下貫㆓天厠㆒、皇天子有㆓疾病㆒。晋書云、凡白虹者百殃之本、衆乱所㆑基、霧者衆邪之気、陰来冐㆑陽、凡白虹霧者姦巨謀㆑君、同光熱元年十二月甲申有㆓白気㆒如㆑虹。中天北下至㆑地有㆓夜見㆒。五日乃滅、占云㆓大兵起㆒。
謹考此度之天変・疾病、或大風或大旱・大水状、不㆑勝㆑徳云々、依㆓御慎㆒災却為㆑慶。
天保十四年二月 陰陽助保救
御触
【金銭延商売の者にさとす】当表金銭延売買会所之儀、宝暦度より商致し来、南農人町一丁目茨木屋季兵衛年季請負致し候に付、延売買望の者は、右会所に於て売買可㆑致旨、去る子正月相触置き【 NDLJP:145】候処、今般御改革之御趣意に依て、右延売買は勿論、会所も以来差留め候段、其筋の者へ申渡し、会所為㆓引払㆒候。右の通り三郷町中へ可㆓触知㆒者也。
卯三月廿八日若狭佐渡 北組 総年寄
旧冬江戸の触の写
【非人を取締る】近年無宿並に野非人共多く御府内徘徊致し、右之内には品々不届きの及㆓所業㆒候類不㆑少。依㆑之今般御府内立廻り候分は、於㆓町奉行所㆒召捕り、糺の上男女共夫々旧里へ帰郷申付け、御料分其所の奉行所、又は御代官御預り所役人方、万石以上は領主家来、万石以下給知、且つ寺社領の分は、家来並に村役人等呼出し可㆓引渡遣㆒候間、全帳外迄の者、或は格別の罪科も無㆑之分は村役人並に身寄りの者共へ引渡し、可㆑成丈改心帰農為㆑致、又は山海の稼其外人夫に遣ひ候共勝手次第、都て旧里を不㆑離様取計らひ可㆑申候。尤右の内所役人共申付けても不㆓相用㆒、手余り候類並に旧里にて手放難㆓差置㆒悪党、或は度々出奔等致し候者は、公儀に於ても京・大坂其外奉行所有㆑之場処は勿論、御代官御預り処等へ新規寄場取建て差置き、夫々相応の手業為㆑致、又は荒地起返等其外夫役に遣ひ候共、是又勝手次第之旨申渡し候間、私領に於ても同様相心得、万石以上は一領毎に牢体之囲を補理ひ、万石以下知行給知の分は、最寄奉行或は御代官御預り所の寄場へ引渡し、其外寺社領之分は附属の有無に随ひ、其領主の囲又は右寄場へ入れ置き候様相心得、且私領に於て領分払・村払等に相成候者も、其品に寄り同様引渡し可㆑遣候間、万石以上の分は是又右囲へ入れ置き、不㆑断教諭致し、右の者共却て心底を改め帰農を遂げ候はゞ、囲外の住居差免し候儀は勿論、往々身分有付をも厚く世話致し遣し、若又右囲内逃去り候歟、又は盗其外悪事致し候類は罪の軽重に随ひ、罪刑其外仕置をも申付け其段兼て申諭し置き、右女は別囲に致し差置き候様取計らひ、且此度引渡し候者の内には、其以前牢抜顕然の者は直に入牢申付け、尚吟味の上夫々仕置き申付け候様可㆑被㆑致候。何れも其度に伺届けにも不㆑及候。但引渡の者の内、帰農致し候歟、又家業等有付き候か、或は出奔病罪等致し候者有㆑之候はゞ、急度申出で候様兼て村役人共等へ申渡し置き、一ヶ年限り奉行所へ可㆑被㆓相届㆒候。尤村役人等計り方行届き、本心に立帰り候者多く有㆑之候は【 NDLJP:146】ば、其品に応じ、夫々誉め置き、若心得違等閑にて度々出奔等為㆑致候類は、相当の咎をも可㆑被㆓申付㆒候。
【穢多の取締】一、穢多・非人の類は其処の頭穢多へ引渡し、手放し難㆓差置㆒分は別段囲補理ひ差置き、手業等為㆑致万石以下最寄奉行所又は御代官御預り所の寄場へ差遣し候儀、都て前条の通りたるべく候。右引渡し候無宿共可㆑成丈相応の百姓にも相成り、身分有付き出来候様との御趣意に候条、村役人共等平日厚く教諭を加へ、帰農の儀行届き候様精々可㆑被㆓申付㆒候事。右之趣万石以上以下領分知行所給知有㆑之面々、並に寺社の向々へ不㆑洩様可㆑被㆓相触㆒候。
寅十一月
右は水野越前守様御渡被㆑成候書付の写、江戸表ゟ申来り候故、爰に記置く者也。三月廿九日京都大雷鳴にて、仙洞御所御庭・勧修寺殿御門・富小路・二条・堀川其余三箇処、都合七箇処に落ちしと云ふ。中にも勧修寺殿は大典侍御局の御里なり近来御所労の故御所を御下りにて、勧修寺殿の御内に別に御殿を建て、御築地の内日野殿と並に新に御門を建てゝ当時御局をば建礼門院と称し奉る。然るに御養生叶はせられずして御逝去あり。廿九日御葬式にて出棺の時に当りて、右の通りなる大雷鳴なりしが、御門内の柳に落ちかゝり、御門焼失せしと云ふ。御局様には今上皇帝の御腹なりと云ふ。此局には至て嫉妬深く、飛鳥井殿の姫君を新典侍殿と称し、光格天皇の至て御寵愛にして、皇子御降誕ありしにぞ深く之を妬み、北野に於て祝子に命じて新典侍殿を呪咀し、藁人形を拵へて之に釘打等せられし事有り。又皇子をば年久しく京極宮御無位なる故、此宮をつがせ給ふ叡慮なりしに、大典侍殿手づから之を懐き庭へ取落し、誤て落せし様にもてなされしが、之より驚風となりて皇子も薨じ、新典侍殿にも逝去し給ひしが、其事余り甚しかりし故、御所を御下げとなりしが、今上帝の御腹なる故、御下げとなりし迄にて事済みしが、三年許りも立ちて後、御機嫌伺ひ申上げ度き由を願ひ奉りて勅許を蒙り、参内せられしが、其儘にて御下りなく禁中に留まられしと云ふ。斯る大変なりし事故、玉藻前などと云ひて其頃の世評甚しき事なりし。
【 NDLJP:147】其頃の噂には、此一件は宰相典侍殿なりと云ひしなり。此局は正親町殿の姫君なり。されども其節の噂に、勧修寺家の姫なりと専らいひし事なれば、大典侍殿の事なるが、大典侍といへるは昔勾当内侍といへる者にして、武家・寺社等の事共を取次げる御役にして、御局の頭なり。此故に御局方の取調べをなす。左右手役にして此局には天子の御手かゝりぬる事なきが御定法なり。之を思へば矢張宰相典侍どのなるべき様に思はる。勧修寺殿の姫君といひ、同家へ御下げ有りしには故ある事ならんと思はる。
この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。