浮世の有様/6/分冊3
江戸より申来り候書付之写
大目附へ
近来御大礼御慶事等にて、御入用も莫大に候上、別て去年・当年抔、臨時の御入用差添候のみならず、【大目附への布達】引続き当時の御普請場も其数多く、都て御入途大造に候処、此度関東筋川々の御普請御入用も不㆑少儀に付、御手伝をも可㆑被㆓仰付㆒候得共、右体非常之御入用御備之為、兼々御倹約等の被㆓仰出㆒も有㆑之候と雖も、猶又去る戌年以来、厳敷御倹約の御沙汰にも被㆑及候儀にて、近来打続き、御手伝被㆓仰付㆒候上之事に候間、此度は思召を以て、右川々御普請は、皆御入用被㆓仰付㆒間敷旨、被㆓仰出㆒候。必竟右之御趣意も相届候儀も、諸向き御倹約も相立候故と、御機嫌に思召候。此趣御入用携候向々へ申聞候様にとの御沙汰に候。猶御倹約等の儀出精心を可㆑被㆑配候。
大目附へ
別紙被㆓仰出㆒候趣、向々へ達の儀、一御入用携候向の儀には候得共、心得の為諸役不㆑洩候様に申通も可㆑被㆑致候。
万石以上の面々より御礼後抔に無㆓急度㆒為㆓心得㆒、席限りに写一通之覚被㆑為㆑見候様可㆑被㆑致候。并に御三家御城附よりも同様に可㆑被㆑致候事。
大目附へ
万石以上の御役人供立行装、是迄は元席等の仕来を以区々に候処、以来御役相勤候内は諸事質素専一に相心得、前々乗物・腰懸并化粧劒・塗簾等相用ひ来候共、莫蓙巻下ケ被㆑致、化粧劒・塗簾其外日覆も毛類・木綿等者相止、夏中計り莫蓙日覆相用可㆑被㆑申候、只陸尺手廻り目立候印附之看板類無用に致し、陸尺人数可㆑成丈減少致し、陸尺并【 NDLJP:65】手廻り迄も手人を相用候、尤も在所人にて不案内之分者、聊不㆑苦候。長柄の傘も袋は相止、鞍覆御紋付虎の皮・白羅紗切付紋・天鵞絨、其外都て目立候品は無用に可㆑被㆑致候。先挟箱も駕籠之跡へ引下げ、対箱・簑箱と三ツ持、尤も化粧劒は相止め、徒之先へ立て候鑓も駕籠の前後へ引付け、羽織為㆑着来候者も無用に致し、牽馬も乗馬一疋口付草履取帯刀被㆓致来㆒候向も脇差計に致し、押足軽に絹羽織為㆑着候向も、紬布・木綿を相用候様可㆑被㆑致候。都て御役中は質素に行粧相改め、徒士も互に手の届候様に供立いたし、場広に無㆑之様可㆑被㆓心懸㆒候。
右之趣向々へ可㆑被㆑触候、
八月
諸大名へ御触書
【諸大名への倹約令】一、此度厳敷御倹約被㆓仰出㆒候上は、公儀のみにも無㆑之、諸大名迪も万端入用少く、各致㆓安心㆒相勤候様有㆑之度候。勤向とは乍㆑申、御武事に付候へば、譬存外之散財有㆑之候共、元来銘々覚悟之儀に付、別段可㆑達品も無㆑之候得共、平常の勤向并献上物等無益の費用は、成文相省候様有㆑之度候。献上物之儀に付ては、享保・寛政度追て手軽之方に被㆓仰出㆒候得共、古今同種の価の、時勢に寄りては高下有㆑之事に候得共、仕来献上物之内にも、江戸表にて調達之品を土産に引替へ、右土産之品も江戸表の調達に替候方、勝手の向きも候はゞ、聊無㆓斟酌㆒可㆓相調㆒候。御用向差支無㆑之分は、申立候通にも可㆓相成㆒候。且又年中定式・臨時御祝儀事に付、鮮鯛献上之砌、暑中或は連日風雨等之砌、品物調心配、其上不相当之入用有㆑之趣相聞、且又炎暑之時分柄は、猶又厚く心配可㆑有㆑之候得共、差上候以後時刻も移り候儀に付、御用に相立兼ね候儀も有㆑之、旁々諸家無益の失費に候間、御樽代・鯖代等准例を以、向後鮮鯛献上之節、十万石以上者金弐千疋、五万石以上は金千疋、五万石以下者金五百疋、代金を以て相調候様可㆑被㆑致候。
右之通可㆓相触㆒候。
丑九月十八日
右之通り御触被㆓仰出㆒、誠に難㆑有御事に御座候。是迄御祝儀事有㆑之、鮮鯛惣献之折柄【 NDLJP:66】御大名方御留主居并に若殿より
公方様へ 一折内府様へ 一折 大御所様へ 一折 〆六折つゝ
右之通り御銘々献上に相成り、是迄鮮鯛一折に付、御鯛屋より諸家様方へ相調へ候直段価之節にても、一折金五十両位、風雨・暑気之節は、一折金百五十両・弐百両宛も散財有㆑之、諸家方大心配の所、右様の御触有㆑之、右に携らざる町人迄も、実に難㆑有御触と感涙仕候。尚又此後追々諸事御改正被㆓仰出㆒可㆑有㆑之と、難㆑有御事に御座候。
八月御譜代の諸侯不㆑残被㆓召出㆒、馬術御上覧ありしに、柳沢伊勢守・本庄伊勢守の両人落馬して、晴なる場所に於て大に恥を晒せしと云ふ。其中一人は別ても見苦敷事にて、差控仰付けられしといへり。
【破戒僧の処刑】水戸屋敷の裏手にて、何とやらんいへる寺の住職不如法甚しく、女犯其数限なきことなりしにぞ、此坊主召捕へられしに、将軍家直に之が吟味を聞召さんとて、吹屋御門より呼出され、寺社奉行・町奉行・大目附立会にて吟味せらるゝを、障子の内にて聞召されしに、此坊主女犯多き中にも、吉原へ通ひ、金山屋の金山太夫といへるに深く馴染みし事など白状せしにぞ、将軍の仰に、「傾城といへるものは噂に聞きしのみにて終に是迄見し事なし。之をも召出し吟味すべし」との上意なりし故、直に明る日是をも召出され、奉行より吟味せしに、有りの儘に答へしにぞ、又「如何なる事にて遊女とはなりしや」と女の身の上を御尋ねありしに、親困窮・病気等にて、必至と貧に迫りて、親の為に身を売られて、苦界に沈みし由審に答へしにぞ、将軍の仰せに「彼は親への孝なる者なり。客なくては渡世なり難し。色を売れるは彼が渡世なり、客なき時は身過ぎもなり難し。渡世のことなれば苦しからず。気を付けて遣すべし。」との上意にて、其儘に御下げなりしと云ふ。
〔御触〈脱カ〉〕
【十月の倹約令】一、不益に手間懸り候高直の菓子類・料理等、向後無用に候。是迄拵へ来候とも相止め可㆑申事。一、能装束甚だ結構なるも相見え候間、向後手軽之品相用可㆑申候事。
一、破魔弓・菖蒲甲刀・羽子板の類、金銀かな物并に箔用ひ申間敷事。
【 NDLJP:67】一、雛并もてあそび人形之類、八寸以上可㆑為㆓無用㆒候。右以下之分は、麁末の金入緞子の装束は不㆑苦候。一、雛道具梨地は勿論、蒔絵に候とも紋所の外無用の事。
一、高直の鉢植物売買停止せしめ候事。
一、烟管其外もてあそび物同前の品に金銀遣候儀は勿論、彫物・象眼の類并に蒔絵等結構に致間敷事。
一、女之衣類大造の織物・縫物無用に可㆑致候。縫金糸等入候ても、小袖一つに付代銀三百目、染模様小袖表一つに付代銀百五十目を限り、夫より高値の品売買致間敷候。尤も帷子も右に准じ可㆑申事。
一、町人共一統に華美の儀に無㆑之様致し、自今町人男女共、分限不相応結構之品著用致し、又は髪飾等迄も大造なる品相用候者候はゞ組之者見掛け次第右居所・名前等相糺し、町役人差添へさせ直に奉行所へ召連れ、吟味致候問、左様に可㆓相心得㆒候事。
一、櫛・笄・髪さしの類、金は勿論不相成、鼈甲細工入組み、高直の品相止め、櫛代銀百目を限り、笄髪さし右に准じ下直に仕廻可㆑申事。
但し髷結に縮緬の色切を拵へ、又は女用ひ候履物の鼻緒等、高直の品売買致間敷事。
右之趣、享保・寛政之度并其後も相触候趣も有㆑之候処、累年世上華美に相成り、銘々身分をも不㆑弁立派を競ひ、且又外見は不㆓目立㆒様にても、内実高金なる品々猥に売買致候者共も有㆑之候由に候。譬へ翫びの品に無㆑之候ても、度々触渡置候儀、当座の事の様に相心得、畢竟等閑に成行き、法度背き候段不届の至りに候。併是迄の儀は格別の御宥免を以、先御咎め不㆑被㆑及㆓御沙汰㆒候条、難㆑有奉㆑存儀、今般厚く御主意を以、風俗改候様被㆓仰出㆒候に付、不㆑軽相心得可㆑申候。尤も是迄仕込み置候品も可㆑有㆑之候に付、来寅年より急度停止たるべく候条、触面之趣相背き候者有㆑之に於ては、遂㆓穿鑿㆒無㆓用捨㆒厳敷咎可㆓申付㆒候。尤も紛敷改方致し候者、或は途中にて往来の者於㆓捕致候改等㆒、決て無之事に候。若右体之者有㆑之候はゞ、其者を留置き品々可㆓訴出㆒候。自今奢侈高価の品、武家方に候共、誂へ候者有㆑之候はゞ、奉行所へ相伺可㆑任㆓差【 NDLJP:68】図㆒候、
右之通町々へ相触候条、被㆑得㆓其意㆒、総て華美高価の品誂申間敷、此度之御主意弥々厚く相心得、諸事奢ケ間敷儀無㆑之様可㆑被㆑致候。右之趣可㆓相触㆒候。
十月
右之通従㆓江戸㆒被㆓仰下㆒候条、此旨三郷町中可㆓触知㆒者也、
丑十一月十二日石見遠江 北組総年寄
在々に於て神事祭礼之節、或は作り物・虫送・風祭抔と名附け、芝居・見せ物同様の事を催し、衣裳道具等□□□見物人を集め、金銭を費し候儀有㆑之由相聞、不埒の事に候。右様の事企て渡世に致す者は勿論、其外にも風儀悪しき旅商人或は河原者抔、決して村々へ為㆓立入㆒申間敷く候。遊興惰弱よからぬ事を見習ひ、自然と耕作にも怠り候よりして、荒地多く困窮に至り、終に其果は離散之基にも成候事に候間、右の次第を能く弁へ候様に可㆓心掛㆒候。仍ては自今以後、遊稽〔芸カ〕・歌舞伎・浄瑠理・踊の類、総て芝居同様の人集堅く制禁たるべく候。此度右之通り相触候上にも、若し不㆓相止㆒に於ては、無㆓用捨㆒急度咎可㆑有㆑之者也。
右之通寛政十一未年相触候処、近来猥に相成候趣相聞え、不埒之事に候。以来触面之趣急度相守り、人集箇間敷儀一切不㆑致、惰弱の風儀相改め耕作に専一に心掛可㆑申候。若し相背者於㆓有㆑之㆒は、吟味の上急度咎可㆓申付㆒候者也。
右之趣御領は御代官、并其所の奉行、御預り所主領は地頭・寺社領共不㆑洩様相触、無㆓油断㆒遂㆓吟味㆒、小給所の分は最寄御代官よりも常々心付候様可㆑致候。
十月
右之通り可㆓相触㆒候、右之趣従㆓江戸㆒被㆓仰下㆒候条、此旨三郷町中可㆓触知㆒者也。
丑十一月十二日石見遠江
奥儒者成島邦之丞上書の写
【成島邦之丞の上書】慶長の昔より、権現様駿河におはしましける時、御厨方の軽き者存付候儀、数ヶ条認取りて差上候を御覧遊ばし、其者を御前に召給ひ、汝の申す処一々尤と思召給ふとて、御褒美有りとかや。本多佐渡守御側に有りて、「彼者申上げたる箇条少しも御【 NDLJP:69】用立事は無㆓御座㆒候」と申上げしかば、「夫は其方存慮宜しからず、彼者の書面は不用の事計りなれども、【家康と下賤者】箇様に存付候事を、我等の聴に入れたく存込みたる志を、称美せずしては叶はぬ事なり。都て主人へ対し存慮を申立つ者は、戦場にて一番槍を致すよりも猶仕憎きものなり。」と仰せられければ、佐渡守も上の御寛仁御大度を殊の外感じ奉りけるとぞ。
文昭院様には、町奉行共市中にて、町人等の内に上の御政事を取沙汰致し、狂歌・落首抔にも仕り、申触らし候事以ての外不届なれば、厳敷吟味仕るべしと言上せしに、聞召して、「夫は少しも苦しからず。左様の狂歌・落首抔あらば、何程も写し取つて差上ぐべし。下々取沙汰聞きてこそ、政事の得失も心付く事有るべし」と、仰せられしかば、斯く申上げたる者、感服し奉りける。
有徳院様御代、山下幸内と申す浪人者、御政事を批判し存慮を申上げし時、年寄共は一統「浪人の身にて斯様なる無礼の儀、申上げ候事不届なれば、御咎仰付けらるべきや。」と申上げけれは、「譬へ下賤の身にて不用の事申上げたり共、上の為と存じ申上げたる志を、称美すべし」と仰せ有つて、御褒美に白銀を下さる。是等は皆夏の禹王善言を聞く度に拝されしと、聖人の振舞と千古同轍の思召にて、難㆑有御事に奉㆑存候。尭舜抔と申す大聖列聖の上にても、猶諫の鼓を設置きて下々の言葉を承はられ候後の世にも漢の文帝・唐の太宗抔と申す名高き大賢・英王達は、皆下々の詞を能く聞れてこそ、今の世まで美名芳蹟を顕され候。恐れながら当御代御仁心厚くおはしまし候事、土民町人其外浪臣共、皆々御噂申上候事は、聖人の感格と申す所にて、自然と御徳義の下に通り候、神明不思議の場にて候。是全く御美覧申上ぐる迄もなく、数十年来聖人の道を御耳に留められ、御心に熟し遊ばし候御光の、外へ顕れ候儀と難㆑有存上げ候。然る処昔禁中にても、白河院・鳥羽院など、仙洞にて御政事の御世話まし〳〵、武家にても足利義満・義政など隠居して後、専ら政務を指図致されし其間は、下々も隠居の政事とのみ心得候処、其隠居終られて後英家の威光俄に衰ふる事、まゝ御座候。是は当主其時の心得宜しからぬ故にて候。
権現様・台徳院様、何れも御隠居の後、万事御世話遊ばされ候。是は御当主様御孝心【 NDLJP:70】の厚く候故、万事御指図を受けさせられ候事にて、当御代も亦此御模様に候得共、天下の人今日までも、万事西の丸より出候御政事とのみ存候処、当上の御仁慮感格の生にて、いつとなく下々恐れ察し、あはれ当上御自身の御政事とならば、いか計りか難有からんと、大旱に雨を待つ心にて囁き居申候。縦令へば只今よりの御政事を、天下万人目を付けて罷在候処故、こゝの御手始めにて、是非一度の御仁政施され候て、困窮雑儀の事を御救ひ遊ばされずしては、叶はぬ御場合に御座候。其御仁政の遊ばし方は、年寄共始め、夫々其筋の役人より仰付けられ候はゞ、何程も是有るべく候。宮室を卑くし、力を溝洫に尽すは仁政の第一に候。然るに当御代には、前により御一身の御栄耀を少しも御好みなく、只御慈悲を第一と遊ばし候へば、早自然と聖人の御徳御身に備り給ひ、此上もなき御事と天下一統難有がり罷在候。併しながら余りに細かに御世話御座候へば、差支多く相成り、万事滞りて政務の害に罷成候。古人も天下を治むるは、小鮮を烹るが如く例へ申し、小魚を鍋に入れ置きて、其煮加減を試み致し度候て、度々鍋の中へ箸を入れ動かし候へば、其魚皆潰れ申候。天下は広き者に候へば、自身一人にて瑣細の事迄行届き世話せんとすれば、心計り疲労し、果には精神尽きて、大病を引起し候。其節は先祖両親へ不孝に相成候。其辛政に苦み兵乱を致し候秦の始皇・隋の文帝抔、皆其才智に任せ、大臣等を疑ひ、瑣細の事まで自身骨を折りて、終に病を起し子孫また衰へ申候。天下の事は寛仁大度を体に備へ、英明独行の用なくては、一日も安く経べからず。寛仁とは広く慈悲を施し、大度とは小事に拘はらず、夫々役人に申付け手をおろさず。英明とは臣下の善悪を見分くる事、独行とは決断の場に至つて、衆人の詞に迷はずと定め申候事に候。此四徳備はらざれば、慈悲も仁政も姑息と申す者に成つて、婦女の小児を哀憐する如く罷成候て、広く及び申さず候。又晋の世には兄弟多く、大国の大名に取立て置き候此大名共、何れも我等は先帝の御子なりと申して、兄弟の為に乱れ申候。是全く天子の権威薄く相成候故の事に候。
台徳院様には能く此所を御心得遊ばし、越前・越後両家を始め、恩を以て御撫け、威を以て御服し遊ばし候。一門は他家の手本にて、一門乱れ候ては法令も立ち申さず、【 NDLJP:71】又三年の間父の道を改めずと申候。衆人の難儀にも天下の害にもならざる事、成べき程父が致置たるは、先づ其儘に差置候かと申す事にて、天下衆人の害になる事、即日にも改めけるが孝道に御座候。
文昭院様にはよく此所を御心得も存せられ候故、常憲院様御棺前に於て、御自身御断りを仰上げられ、殺生禁断を許仰付けられ候。誠に斯程なる処が英明独行に御座候。兎角上の権下へ移り、下威強く相成候へば、擁蔽と申候て、下々の事中途に留り候て上へ通ぜず、権臣権を専に仕候へば、上の思召下へ届かず、天下逆乱の基等御座候へば、権下へ移らざる様に政事執行申すべき事に御座候。畢竟箇様の事上には能く、元来御心得の事に候得共、此節分けて大切の御時節と存じ候へば、恐れをも省ず御傍まで申上候。老の繰言に御座候。あらましなり。〈〔頭書〕九巻目上に書記せし文昭院様御遺之写以下市中風俗改候様の触迄此所に入れて見るべし。〉
天保十二丑年九月
此度節倹の御触は、前にもいへる如く、享保・寛政の御触之御趣意なり。寛政の御触は、松平越中守殿執政にて触出されし書付なり。則前に記す。又同侯執政となられしに付、心得書有り、左の通也。
某身不肖に候得共、御代の御選みに預り、天下の政道を司り、未だ御幼稚に在す将軍家を輔佐し奉る。【松平越中守心得書】誠に任に能はず、中々天下の御為に可㆓相成㆒共不㆓存寄㆒、各〻申談の上にて、事を取捌き、津々浦々迄も安国と極りなく治り、靡き従ふ御政道猶又大切に存候。玆に因つて某が存じ候処を無㆓腹蔵㆒申聞け候。不所存之事於㆑有㆑之は、各〻存念を不㆑残可㆓申聞㆒候。国主・城主総て万石以上共申輩は、譜代恩顧の家臣を数名召仕へ、就中家長としたる者は、其主人に非道有㆑之時は諫を入れ、家の仕置を正し申候故、其家治り国民も安く候。御旗本万石以下の輩は、譜代の家臣と申も稀にて、新規に召抱へたる家来にて候へば、自身に家を治むる事にて候。其身心正しからざれば忽家とゝのはず、能く考へ見らるべく候。銘々の先祖たる者は、多くは東照宮に仕へ奉り、数多の戦場に身を砕き、骨を粉にして相働き、其勲功に依つて、知行を被㆑宛㆓行之㆒候。今に至つて、其身々々安楽に妻子を扶助し、諸人に御旗本と敬はれ候。是皆【 NDLJP:72】先祖の勲功に寄る所なり。然る所其先祖の恩を忘れ、宛行はれたる知行所を自分の物と心得、百姓を虐げ、聊かも撫恵心なく、良もすれば課役を申付けなど致す輩、是皆心正しからず、不行跡より事起り候。其不行跡といふは、若年より不学にして、何事をも弁へず、育ち候よりの事に候。父母に孝を尽し、兄弟の仲睦しく、夫婦別有る事存じ、傍輩に信を以て附合ひ、君臣の間義理を主とし、此五つの道を取外さず相守る時は、其身人に恥づる事なく、御奉公を勤に力有㆑之、御用に相立候なり。人倫の本は夫婦に始まる所、本妻の外に妾を寵愛し、是が為めに本妻の仲を隔て、或は離縁の沙汰に至り、又は妾腹に生ぜる庶子を愛し、本妻に生ぜる長子を疎み、妾の計ひに依つて長子を廃し、一一子を立つる程の事に至るも、まゝ多く候。是妾に溺れて其身の心暗らみ候より事起り候。其妻といふは、元傍輩の娘を迎へ取り候事。仮〔故脱か〕初の事にては無㆑之、上へ申上げ御許を蒙りたる上の事にて候へば、如何様の事有㆑之候とも、輙すく離縁の沙汰に可㆑及と雖も、我朝に於ては夫婦の和順を第一と致せば、是等に於て唐土の風に習ふべきにても無㆑之候。離縁不㆑致共、夫の心次第にて、如何様にも事の静まらざるといふ事不㆑可㆑有。直に離別致すは、傍輩の娘に瑾を付くるにて、其親・兄弟の間ひま出来、殿中に於て面会致すと雖も、相互に言葉をも交へず、憤を含み候事、是御奉公の妨げにも相成候へば、不忠の筋にては無㆑之候哉。此等の所を相考可㆑申事にこそ候。又一旦妻を持ち、其妻死去致さば、幾度も再縁のことを取結ぶべき事に候。近来は再縁致さず、多く召仕ひ候女にて事を済候故、其人柄自ら損じ候て、軽々敷く下様の真似を致し、譬へば楽みと致すこと古来よりの翫び和歌を詠じ、蹴鞠の会・茶道或は連歌・俳諸・碁・将棊等の遊び業有㆑之処、今にては御旗本に不㆓似合㆒三味線・浄瑠璃を語り、かうしては河原者の真似を致す族も、まゝ有㆑之由、是皆本妻と云ふ者なく、召仕女にて家内を納め候故、物軽々敷く相成り、不相応なる者を奥深く出入を許し、不取締りにて其身の恥を思はず、我儘なる行跡に成行候。爰に於ては自ら勝手不如意に相成り、嗜む可き武具をも嗜まず、益もなき事に金銀を費し、是を償はんが為め、多く筋目なき者の子を金銀の持参に愛でて貰ひ、軽き者の子をも縁金によつて養女とし、娘と致すより学起り、自然と家風を取乱し【 NDLJP:73】候。天和の法制に有㆑之養子は、同姓より致す共、筋目を糺すべきの法制にて、某が存ずるには、以後養子致す共、娘取り致す共、縁金と申す事停止せしめ、姓を糺し婚姻すべき時節を延さず、相互に可㆓取結㆒事に候。不勝手なる族娘を片付くるに金銀の用意なく、自然と其時節を遅れ候時は、男女の道自ら正しからず〔ざるカ〕事に至り候。此所を深く考ふべき事に候。頭たる者、よく〳〵心を用ひ、最初縁辺願ひ出で候時、吟味を遂ぐべき事に候。婚姻の時節を外れ候に付、年若き面々遊所へ入り込み、不相応の遊事致し、風俗を乱り衣類に付候紋を略し、夜行の時挑灯の印を替へ、衣服の紋は元は家々に定めし事にて、すでに総領家にては何、庶流にては何と差別ある事に候。幕の紋より衣服に至り、聊も人に紛ざる様に致すことに候。夫れを心得違ひ、其時々に至り紋ご改め付け候時は、末代に至り残る時に家の紋かと紛しく相成候。挑灯の印は猶更、夜行の時人と見違へざる為めに候へば、急度其印を顕はすべき事に候。衣服の事は我朝往古より其制これあり。官位の高下に依つて定まれる法有㆑之候。地下に至りても上中下の差別これある事に候。然る処享保の頃、上より御倹約と申すことを仰出され候に付、衣類の制し仰出され候。諸国にて心得違ひ、衣類土中下の無㆓差別㆒、万に布木綿を相用ひ候へば、倹約と相成ると心得違ひ、士も町人も同じなり形に成り候事、我朝の風儀を取失ひたるにて候。同じ武士といふ中にも、格式これあり候て、衣服を着する事に候。上に立つ者は、下に居る者と同じ衣類体にて何を以てか出立ち候に、容体の違ひ申す可き哉。高知を取り候者、小知を取り候者、又重き役を勤候者、軽き奉公を致す者、面々相応の衣類を着用致す可き事に候。依つて此度仰出され候も節倹を相用ひ候様の事に候。倹約を衣服の事とのみ心得違ひ、分限不相応の体たらくに成行き候。身を正しく致すことは衣服を以て致す事と計り、相心得候ては違ひ候。我朝上古の風に倣ひ、冠婚・喪祭に礼式を取失はず、其身不相応に取計らひ候事に御座候。何もかも手軽く事を略し候は、質素にては無㆑之、今様の事にて候。質素の二字、物知れる人に尋ね候て、能々可㆓心得㆒候。御政道を司り候者、近来御記録を亀鑑と心得、本朝政事の本、律令格式ある事を怠らず、さるに依つて、享保の頃神尾若狭守・細田丹後守の如き者に御政道に預り、御倹【 NDLJP:74】約と申す事を表に致し、天領へ縄を入れて民を困窮せしめ、御領を虐げ、下の痛を顧ず、是を御為めと心得候は、不調法の至りに候。治平久しく候へば、世の乱るゝといふ処に遠き慮りなく、目前の利用を以て御為めと存じ候事、古を考へざるより事起り候。有徳院様御代知召し候時、専ら倹約の事を仰出されたるは、常憲院様・文昭院様御代、共に天下華美にして、御実庫も空しく、不慮の御備へ有余り無㆑之故、専ら御倹約と申すことを仰出されたるにて候。且諸家の風公家めかしく成候につき、弓馬の道を御励しなされ候故、諸家共武辺を大に心掛け候へば事済み候様、是又心得違ひ、孝悌忠臣の道を学び、心を正しう致し、家を整ふべきを脇に致し候故、自然と風儀を乱し候。於㆓殿中㆒月次の講釈被㆓仰付㆒、聖堂に於ても日々講釈有之候間、年若き面々無㆓惰怠㆒日参致し、志を正しく可㆓相整㆒事と存候。節倹・質素を心得違候儀に至つては、我朝の古法は不㆑及㆑申、東照宮の神慮にも不㆓相叶㆒候。外国通信の事重き事に候へば、年々入津の唐物、我朝に於て価と交易致す事に候。倹約のことのみに拘はり候へば、唐土の織物・其外毛類など、士已上の着用不㆑致時は、自ら入津致す唐物も致し難くなり、其品商売致す天下の町人等に至る迄も、自ら衰微致すに至り候。然れば共に天下の御為めとは不㆓相成㆒候。士は諸候より以下に至る迄、勤を致すを以て夫々に知行取り、其知行の収納にて身分を賄ひ候に、是はならぬ
御諸家御譜代上意之趣
【諸家譜代への上意】一、参観之節、従者多く召連れ申間敷事。従者多く召連候事、何の謂ぞや。家来計り召連候にてはあらず、町より手振今様風流なる者を雇ひ、分限不相応の人を召連れ、身の美を飾り、他人の見分を悦ばしむる事、無益の体、向後相慎可㆑然候。
一、雇人仕間敷事。面々当時軍役の人を不㆑揃、手前家来町の長者を相交へ、軍役勤候段、言語同断、武士の上に此体の品可㆑有㆑之儀にても無㆑之事。向後道中は不㆑及㆑言、在江戸中にも急度其の高に応じ、軍役の人数所持可㆓相勤㆒候。人不足も有㆑之面々の領地より召仕へがたく相慎可㆑申候。世上静謐は権現様御神徳の事、某を始め面々安閑に住する事、偏に東照宮様の御神徳難㆑有事にあらずや。且又面々も先祖の武功に寄り、今安閑に住する事、父祖の武恩の過分の御事何ぞや。おろそかに思ふべきや。治平安康に任せ、物多く結構になり行く故、武備を忘れ軍役の人をも不㆓扶助㆒、武道不㆓心掛㆒候族有㆑之様子及㆑聞候。就ては天下の用に達し難く、東照宮様への御神徳をも不㆑威、其家父祖に対し孝も立ち難く、某天下の執権を取り、民百姓の歎を救はんと政事を行ふと雖も、邪智佞行の政事共多し。向後相慎み、武恩を不㆑忘様可㆓心懸㆒候。
一、面々静謐の御代安泰に住する事。権現様御神徳の武功をわすれ、一身の栄華に誇り、軍慮武備の嗜なくして、従者・民百姓を貪り取り、政道を疎かにする事、国主・城主に至る迄、武士の本意を忘るゝなり。斯様なる者の従者・民百姓、天下に不㆑図の事ありとも、何の用にか立つや。是己々が先祖の武名を汚し、功をよごし、忘るる者も口なり。向後深く慎み、武を嗜み、諸民を愍れむべし。
【 NDLJP:76】一、領地より江戸へ出づる者、悪事致す事。面々領地より江戸へ出づる民百姓は、領主に仕置邪多く、民百姓に辛く当る故、貧窮の身となり、所を退き浪人となり、身の業なき故、悪事をなし、身のすぎはひをなす。只領主の仕置悪しき故なり。向後心を附け、領主より左様の者出でざる様心掛け可㆑申事。
一、譜代近習仕置能く仕る儀、外様へ通達成事。面々邪路に不㆑抱従者・民百姓を扶助し、諸民安泰に治め、面々先祖の武備益々輝すは、対㆓子孫㆒戒むる教なるべし。不孝邪義にして身を失ひ家を忘れば、先祖への不孝天下への不義、不㆑慎べからず。
一、面々身持不㆑宜従者は云ふに及ばず候事。前々より今迄安楽に有る事。権現様御神徳、面々先祖の厚恩也。弥々武を忘れず相慎み可㆑勤候、今日外様大名を召寄せ可㆓申聞㆒事なれ共、別て面々は心易き故申聞す也。外大名の手本にも相成候様心掛くべし。一人慎む時は十人、百より千、千より万への鑑慎教也。国主一人の慎み、其家一国の慎みなるべし。其身を慎み従者に至る迄安泰に住させ、軍事公役を勤むるに苦しまざる様に厚く政道をなすべし。近年静鑑〔証カ〕にて奢り遊山話計りの趣各〻武芸油断の様に相聞え候。又は家中の者少しの科を以て、暇を遣はし候段、相聞え候。殊に譜代の者など少々の科を以て、暇を遣し候族も有㆑之由、不便の儀に候。依て右浪人江戸表徘徊致候儀、内外共急度相聞及候。重ねて何れも了簡有㆑之儀に候。奢長じ罷在候故、家来侍分の者、軽き者には平生詞をもかけ不㆑申候。若し万一の時節、俄に用事に立兼ね可㆑申候。先代不便を加へ召遣ひたる者も、後代に至り心に合はざると申し、暇遣し候儀相聞え候。是等の趣き相慎み候様思召候。
天明八年申六月
右は前にもいへる如く、此度の御触書に、越中侯執政の節の御触を被㆓仰出㆒候事故、之を書記す者は御老中の駕の縁悉く木綿縁になりし抔、云ふ噂をも聞きぬ。又大坂に於ても、油高直なるに、夜店に費しぬる油仰山なる事故、夜店も停止になるなど、種々しみたれたる風聞あり。都会の都会たる所以は、かゝる事の他邦に異なれる故に、自ら繁昌をなすことなり。殊に公儀よりして御許を蒙り、数年来出し来れる夜店を、今又暴に停止仰付けらるゝことあらんや。余りに浮説騒々敷故に【 NDLJP:77】此心得書を書き記して、其の惑いを説く者也。
天保十二丑年十二月廿三日御触
【廻船問屋の布達】菱垣廻船積問屋共より、是迄年々冥加金致し来り候処、問屋共不正の趣も相聞え候に付、以来上納に不㆑及候。尤も向後仲間株札は勿論、此外共都て問屋仲間并に組合抔と唱へ候儀不㆓相成㆒候。右に付ては、是迄右船に積み来り候諸品は勿論、都て何国より出候何品にても、素人直売買勝手次第たるべく候。且又諸家国産類、総て江戸表へ相廻し候品にても、問屋に不㆑限銘々出入の者共、直引受売捌候儀も是又勝手次第に候。
於㆓江戸表㆒被㆓仰渡㆒候。右は諸商売手広く相成候様、格別の御趣意を以て、被㆓仰渡㆒候儀に候間、厚く相心得、江戸積致候者は、危踏みなく諸品積廻候様可㆓相触㆒者也。
右之通三郷町中可㆓触知㆒者也。
右は十組と唱へ仲間を結び、公儀へ此者共ゟ、一万二千両の冥加金を差上候にて、何に寄らず諸品此者共引受候て、其品を締め置き高直に致し、諸商人へ売付候故、商人も買元高く候上に、銘々是に准じ、利を掛けて相商ふ事故、諸品高価に相成るのみにて、少しも下落する事なし。此度十組の株潰れ候に付ては、此者共七百人計りの難渋となりて、数万人の大小悦べる事なり。年来諸品を〆囲ひ、大に利益を貪り、諸人を困窮せし報い、此節の御仁政にて斯く成行きぬる事、心地よき事と云ふべし。
江戸ゟ申来り候書状書添之写
此表矢部駿河守様御事、御評判宜しく、種々御取計ひ、御捌にも面白き事御座候。本郷三丁目八百屋久助と申す者の女房と、近所の伝七と申す者と密通致し候処、久助申聞け候は、女房御好に候はゞ進上可㆑致候間、少々計印被㆑遣候へば、宜敷と申候に付、金五両肴代として、密夫より久助へ遣す。近所に被㆑居候は外聞あしく候に付、外町へ引越し呉れ候様約定にて事相済み候処、密夫能き事に存じ、引越不㆑致、日々酒宴にて大騒計り致し、余り踏付けに相成候間、約束の通り近所に居らず外方へ引越候様、申聞け候事度々に候得共、承知致さず候につき、無拠矢部様へ訴へ出で候処、密【 NDLJP:78】夫呼び出しにて一通り御尋有㆑之候上、何故約束の通りに引越不㆑申候哉と御尋ね有㆑之候処、引越候ても宜敷候へ共、引越料手当無㆑之候趣申立候処、然らば引越料は公儀より御貸し下され候間引越候様被㆓仰渡㆒、直に鳥目五貫文被㆑下候て、密夫には女房は取るし、引越料は公儀より戴き、無㆓此上㆒難㆑有事と大悦び引取り候処、自分宅には封印付にて這入り候事相成り難く候故、家主へ参り承り候処、今日公儀より引越料頂戴し引越被㆓仰付㆒候上は、密夫伝七宅には無㆑之被㆓召上㆒候旨、被㆓仰付㆒、有物欠所被㆓仰付㆒候。家財は久助へ被㆑下候旨、町役人へ被㆓仰渡㆒、伝七儀は五〆文戴き、着類其外皆被㆓召上㆒何れへも引方無㆑之、途方に暮れ候由、大評判に御座候。
一、当九月赤坂氷川祭礼に付、町内若者共酒興の上口論致し、少々疵付も有㆑之、矢部様へ訴へ出候処、何故酒を飲み候哉と御尋ね有㆑之候間、例年祭には、町内店々家々貧福により無心申聞け金子を集め、少々檀尻様なる物拵へ、其後にて酒盛致し候間、当年も其通りに仕り候旨申上候処、町人を無心申し貰ひ歩行き候は、非人乞食同様の振舞に付、已後非人頭松右衛門手下へ被㆓仰付㆒候と御戴許相済、訴人一同非人に被㆓仰付㆒候間、其後町々祭礼も多く候へ共、若者共、町内を一文たりとも集銭致し候者無㆑之、町々にては大悦に御座候由。
一、当時の江戸表何も差て相変る儀無㆑之、御目見以下御家人御賄役、其外に多分流罪又は御改易、又は下席被㆓仰付㆒候向も夥しく御座候。是は以下の事故、余り評判も無㆓御座㆒候。
一、当時当表米は両九斗位仕候処、一昨日より俄に八斗一二升位に引き上げ申候。一石に付七十二三匁位也。右之外相変る儀無㆓御座㆒候間、尚追々可㆓申上㆒候。
甚五右衛門
友助様
下総国中山村日蓮宗法華経寺地中智泉院持八幡別当
守玄院日啓
智泉院日尚
同田尻村百姓文蔵後家りも事
尼妙栄
同国船橋九日市村百姓仁助女房
まつ
智泉院家来 関留平次郎
馬喰町三丁目弥兵衛店 又七
【日蓮宗の処刑】一同申渡之旨可㆑承。日啓其方事、智泉院住職中、同国田尻村百姓文蔵後家りも事、妙栄院内へ為㆓止宿㆒密通之上、度々及㆓女犯㆒之次第、御祈祷・御法用御用取扱候節之儀には無㆑之候得共、清僧一寺住職の身分に有㆑之間敷儀、殊に露顕を恐れ、一旦立退候始末、旁〻不届に付遠島申付る。
一、五日より七日迄晒、日尚(丑二十四)。其方事、清僧殊に御祈祷御法用手代りをも可㆓相勤㆒身分、下総国船橋九日市村旅籠屋長兵衛方へ罷越し、同人下女まつ儀を酒の相手に致し密通候上、度々女犯に及び候段、住職以前の儀には候へ共、右始末不届に付、晒の上触頭へ引渡し遣し候間、寺法の通り取斗ひ可㆑受。
一、尼妙栄。其方儀、中山村法華経寺地中智泉院持八幡別当守玄院日啓・智泉院住職中より年来立入り罷在、同人を清僧と乍㆑弁度々及㆓密通㆒、殊に旧悪露顕を恐れ、一旦立退候始末不埒に付、押込申付る。
一、文蔵女房まつ。其方事、村内籠旅屋長兵衛方へ酌取奉公致し、中山法華経寺地中智泉院日尚儀、右長兵衛方へ止宿の節、酒の相手に罷在、清僧と乍㆑弁度々及㆓密通㆒候始末、不埒に付押入申付る。
一、日導。其方儀、地中智泉院持八幡別当守玄院日啓儀、右智泉院住職中、同国田尻村文蔵後家りも事尼妙栄と密通におよび候儀、不㆓相弁㆒候共、引続同人を院内へ為㆓立入㆒、又は智泉当住日尚儀、舟橋九日市村旅籠屋長兵衛方へ罷越し、同人下女まつと密通におよび候をも不㆑存罷在候段、不埒に付逼塞申付る。
一、珍山・珍世・珍勇・新右衛門・小太郎・長蔵・徳次郎・利助・与八・佐兵衛・関留半次郎・又七。其方儀、不埓之筋も不㆓相聞㆒候間無㆑構。右之外吟味に付先達て呼出候者、同様に無㆑構。右申渡之趣、一同証文申付る。
触頭谷中 妙法寺 御代官羽倉外記手代 秋山二郎
右之通り申渡候間、得㆓其意㆒御代官へ可㆓申聞㆒候。
十月十七日 谷中 妙法寺
右中山法華経寺儀、先達て御祈祷被㆓仰付㆒、地中智泉院御法用取扱被㆓仰付㆒候処、向後一切不㆑被㆓仰付㆒候間、御祈祷并御法用所等の儀は、決して相唱間敷く、且智泉院持八幡儀、今般思召有㆑之に付、取払被㆓仰付㆒、社領被㆓召上㆒候間、其旨相心得、先達て被㆓下置㆒候御朱印一同、早々可㆓差上㆒。尤も別当守玄院に附有㆑之本尊又は什物類も有㆑之ならば、法華経寺へ引渡し遣し候間、其旨可㆑存。右申渡之趣、証文申付る。
池上 本門寺
右雑司ヶ谷感応寺儀、先達て一寺御取建被㆓成下㆒なれども、今般思召有㆑之に付、廃寺被㆓仰付㆒寺社被㆓召上㆒候。且堂社取毀之儀は、小普請方にて取払ひ、御払代金本門寺へ被㆑下候間、其旨相心得、感応寺当住は別段御構無㆑之候間、一宗之内相応の寺院へ住職致す儀は、勝手次第可㆓相心得㆒。本尊其外什物類は、本門寺へ引渡遣候間、其旨可㆑し存。右申渡之趣、証文申付る。
触頭
有教寺
朗埋寺
右之通り申渡候間、可㆑得㆓其意㆒証文奥印申付る。
右之通り寺社奉行於㆓阿部伊勢守宅に㆒申渡す。
増上寺坊中貞松院ニ罷在候
観月丑三十六
其方儀、清僧之身分にて、増上寺坊中安養院に所化にて罷在候節、元三田通り新町新八店後家きわ娘てつへ密通之上、度々及㆓女犯㆒候始末不届に付、晒之上、役者へ引渡遣し、寺法可㆓取計㆒旨申渡し遣し候者也。
十月十三日
四ツ谷北寺町浄土宗西迎寺所化にて欠落致候
智道丑三十
此者儀、清僧之身分にて、牛込原町三丁目亀次郎店幸吉娘みやへ密通之上、度々女【 NDLJP:81】犯に及び、折々院内へ呼寄せ候趣も相聞え、先達吟味之上、相違無㆑之旨申立、口上書差出置ながら、預け中の身分をも顧ず、御仕置可㆑逢旨隙を見合逃れ去り候始末、旁不届に付、晒之上江戸十里四方追放申付候者也。
十月十六日
右の外女犯姦悪の賊僧多く有㆑之、夫々御仕置有㆑之候趣承り候得共、被㆓仰渡㆒御仕置等之書付を見しはこれ斗なる故、こゝに記し置者也。
諸人不㆓相蔵㆒ 享保仁政年 謾莫㆑愁禁㆑奢 嚢中自有㆑銭 奢侈錦繍服
停止天下伝 君送還㆓享保㆒ 明政満㆓眼前㆒ 悪党閉口日 已見伝㆓同心㆒
盗心正所㆑絶 君憶那免㆑身 此度権門止、 忠士髪衝㆑冠 昔時奢已止、
今日青楼寒、 去㆑奢酒盃遠 競㆑芸文武春 傷心遊興客 是不㆓享保人㆒
詠敗風
豈斗縮緬木綿変 通人近頃不㆑登㆑楼 権門上進皆已敗 富札中買共相休
頭巾有㆑障各顕㆑面 髪結被㆑留不㆑堪㆑愁 大仏首落苦㆓炎天㆒ 高祖堂廃参詣幽
小譜請小川力九郎知行所武州豊島郡西ヶ原村
百姓 治郎吉丑四十三
同人妻 きく同三十五
伜 幸太郎同十二
娘 とめ同九
同 ちか同五
右者天保十二丑年十一月、王子筋御延気御成候節、御膳所王子金輪寺ゟ還御掛け、西ヶ原村熊野坂辺にて、俄に御小用に可㆑被㆑為㆑入間、御道筋ゟ少々隔て候人家へ、御先立申立候様、御小納戸頭取格御場掛伊奈左衛門談に付、右治郎吉方へ御先立仕候処、御用相済、同人居宅裏辺迄も御入込上覧の上、御腰可㆑被㆑為㆑掛旨にて、新敷筵御用之処、治郎吉方には有合無㆑之に付、同所徳右衛門方に有㆑之候筵、御用に相成り、暫く御猶予之内、御側向より家内人別等御尋有㆑之、御途中に於て、御用掛新見伊賀【 NDLJP:82】守殿へ、極窮人に被㆓思召㆒候旨御沙汰有㆑之、伊奈半左衛門より、右困窮の儀は素よりに候哉、又は当人不心掛の儀に候哉取調べ申聞候様談に付、同村名主喜右衛門へ篤と相糺し候処、右治郎吉儀幼少の砌より、至つて病身にて、農業の手伝等も相成兼ね候に付、十一歳の節隣村王子村油渡世致し候市兵衛と申す者方へ、年季奉公に差遣し、同人弟松治郎と申す者農業相続可㆑為㆑致、父長治郎心持の処、松治郎儀病死致し候に付、二十五歳の節取戻し、農業見習のため旧縁も有㆑之候に付、名主喜右衛門方へ差置き候処、長治郎儀追々老衰にも及び候に付、二十九歳の砌宿元へ引取り小作為㆑致候。然る処父長治郎より引続き困窮の儀に付、住居地面の外、田畑等一切所持不㆑仕候得共、少々づつ小作等仕り候儀に付、十四ヶ年以前子年八月中、武州足立郡本木村百姓孫右衛門娘きくと申す者妻に貰ひ受け、出生三人有㆑之候処、治郎吉儀病身の上、近年脚気にて足痛致し、別て荷物等骨折之儀出来不㆑致故、農業相成兼ね、無㆓余儀㆒二同相談の上、六ヶ年以前去る申年・酉年引続き両親共死去致し候に付、尚又困窮相迫り候処、治郎吉儀一年極の奉公住の儀に付、僅の給分漸く自分一己の賄のみにて、妻子養育の足合も出来兼ね候処、妻きく儀嫁に来り候砌より、随分両親を労はり、夫婦睦敷相暮罷在候得共、夫治郎吉前書の始末、殊に厄介多きに付、小作等も手廻りかね候故、近辺農業手間に罷出で、右間合には王子往還端へ持出し餅菓子商ひ、暮方足合に致し候得共、厄介多く候儀に付、女の手業に行き届き兼ね候間、近辺身より其外よりも相雇ひ候節、子供迄の食物等の手当等も致遣候儀は、全く日々暮方差支候を見兼ね、少々にても見続遣候心得にて相雇候者も御座候。右はきく儀、一体是迄の始末、不身持等の風聞も有㆑之候はゞ、右様心付候ものも有㆑之間敷き処、貞節に相弁へ、家跡取失はざる様、平日相心掛心労致し候趣及承候旨、村役人共申聞候間、其段伊奈左衛門へ相達候処、右趣翌日五日書面に認め、御城へ差出候様談有㆑之、染井蔵屋茂右衛門方より還御四五丁も被㆑為㆑入候頃、左衛門立戻り申渡す儀有㆑之候間、きく儀呼出候様談に付、則村役人同道呼出し、同所蔵屋由五郎方にて、其方平生貞実に相心掛候得共、無㆑拠困窮の趣入御聴に候付、思召を以て白銀三枚被㆑下候間、尚又貞実に相守候様申渡し有㆑之、左衛門より金百疋心添有㆑之。依つて翌【 NDLJP:83】五日奥向御場掛竹田伊豆守・伊奈左衛門・御鳥見頭後藤与兵衛・杉浦五作より、きく名代にて村役人差添為㆓御礼㆒罷出候様申渡候処、きく儀御冥加の程も恐入候儀に付、自身御礼に罷出度き旨にて村役人同道御礼廻致し候。然る処同名伊奈左衛門より、御本丸御用掛衆へも村役人差添ひ、御礼に罷出候様可㆓申渡㆒。尤も渡世相休み急に罷出にも不㆑可㆑及候間、不日之内都合次第罷出可㆑申。其節は通用門より中之口へ罷出、御礼申上候様可㆓申渡㆒旨申来候に付、其段申渡候処、きく儀是迄江戸へ罷出候事無㆑之、其上今五日御礼廻之節、末女脊負罷出候儀に付、痛所も出来、歩行致し兼ね候間、一日休息為㆑致、明後七日同道可㆑致旨、村役人申す間、翌々七日御用掛衆五軒へ罷出候処、通用門番所にても兼て心得候哉、中之口迄案内致し呉れ候方も有㆑之、内にも新見伊賀守ゟ金百疋心添有㆑之候由。且御立入御猶予に相成候に付ての被㆑下銀二枚は、十一月十六日別段被㆑下候。右様御仁恵に付、身分〔寄カ〕勿論村内にても打寄り、きく住居向大破之場所取結ひ遣候。地頭山川力五郎ゟも米三俵手当有㆑之由。治郎吉儀病身には候得共、主人方暇貰受け忰幸太郎追々年輩にも相成候に付、農業為㆓手当㆒相続方之儀専要に相心掛け、永久御仁恩を忘却不㆑仕心底に付、来秋穀物取上候迄之内、日々食類にも差支候間、身寄之者打寄り、見続并に作道具等の手当も致し遣候趣に示談致し候由、治郎吉父長治郎迄は、高二石余所持致し候処、追々困窮に相迫り、右二石余も田畑流地に相成候趣に付、当時は何方誰へ流地に相成居り候哉、金高并に反別等巨細に取調可㆓申出㆒旨、元御代官中村八太夫役所より、同村名主忠兵衛へ談有㆑之、取調べ候処、治郎吉先祖次郎兵衛と申す者、延宝二寅年四月西ヶ原村御検地入之節、高七石五斗余所持罷在候百姓に候処、其後追々微禄致し、治郎吉父長治郎迄は高二石六斗二升四合九勺所持致し罷在候処、右之内高七斗五升九合三勺は、文政六未年中、同村同領百姓武右衛門方へ、金四両一歩弐朱にて質流に相渡候処、追々借財等も相嵩み候間、無㆑拠右の外所持の田畑を以て、諸借財相片付可㆑申心得にて、天保三辰年二月中、居屋敷三畝八歩相残り、中畑一反七畝三分は親類・組合・村役人、一同相談の上、質地に差出可㆑申と、心当り所々掛合ひ候へ共、一体地所悪地にて、引受け候者無㆑之候に付、名主喜右衛門儀旧縁も有㆑之候事故、同人達て相頼み候に付、無㆑拠辰【 NDLJP:84】より未まで年季に相究め、証文之通にて金七両二歩借受け、質地に相渡し、右金子を以て評借財等相片付け、右地所之儀は治郎吉小作引受け罷在候処、無㆑拠年季明け候へ共、受戻候手段無㆑之に付、去申年二月中、喜右衛門方へ流地に相渡申候処、父長治郎儀追々老衰致し、治郎吉病身にて前書の始末に付、日々の暮方にも差支候処、此度出格の御仁恵の儀に付、名主喜右衛門方流地に受取り置き候。中畑一反七畝三歩此金七両二歩之地所、此度喜右衛門より治郎吉へ無代にて差戻し遣候外、上田三畝一歩・中田二畝二十七歩・林五畝六歩、合一反一畝四歩。高合七斗五升九合三勺八厘、四両一歩二朱にて流地に相成り、当時同領同村武右衛門方に所持罷在候段、名主忠兵衛より中村八太夫元役所へ書上げ候由。然る処同年十二月二十七日、御勝手掛御勘定奉行土岐丹波守より、名主喜右衛門并治郎吉・きくとも、明二十八日、同人宅へ可㆓罷出㆒旨差紙に付、右三人并村役人差添ひ罷出候処、地頭小川力五郎家来へも呼出候に付、罷出で、丹波守退出相待候内、喜右衛門・治郎吉・きく三人も外公事人控とは別段の由にて、長屋内へ案内有㆑之、茶・火鉢・強飯・夜食等の手当有㆑之、夜に入り退出之上、白洲に於て、治郎吉病身にて奉公稼致し、きくは僅いたし年来窮困の中、子供養育貞実に相暮し、殊勝の事にて、困窮の体御見留相成候に付、両人へ生涯御扶持方二人扶持被㆓下置㆒候上、質流に相成候高の内七斗余の代金御下げ、地面御取戻被㆑下、喜右衛門儀、治郎吉よりの質流地高一石余所持罷在候処、今般御仁恵の御沙汰を承り伝へ、同人続柄の故を以て為㆓取続㆒、無代にて地面差戻候段、奇特之旨御誉の由、丹波守申渡す。御金四両一歩二朱相渡し、治郎吉には別段農業出精永続の儀厚く教諭有㆑之。其砌力五郎家来鑓田量左衛門も白洲へ罷出で候。右申渡し相済み、中之口へ用役之者罷出で、質流地無代にて治郎吉へ差戻し候段、奇特の旨にて、丹波守より喜右衛門へ金二百疋、治郎吉・きくへ丹波守より金百疋、同人妻より金百疋、同長屋中より金百疋、奥召仕の者より金一朱心添へ有㆑之由。翌廿九日、名主忠兵衛・喜右衛門、中村八太夫元役所へ可㆓罷出㆒旨差紙に付罷出候処、質地に入置候治郎吉元所持七斗余の地面取戻し、永く同人所持為㆑致候様可㆓取計㆒旨申渡有㆑之。依て同日為㆓御礼㆒御本丸御用掛御側白洲、甲斐守殿・松平筑後守殿・本郷丹後守殿・新見伊賀【 NDLJP:85】守殿、御勘定奉行梶野士佐守殿・土岐丹波守殿、奥向御場掛竹田伊豆守殿・伊奈半左衛門改名遠江守元御代官中村八太夫役所・御鳥見組頭後藤与兵衛方へ、喜右衛門・治郎吉菊外村役人差添ひ罷出候由、右様厚き御仁恵の程、往古以来より承及び不㆑申候儀に付、後年に至り申伝誤候程も難㆑計候間、及㆓見聞㆒候趣記置候荒増也。
天保十二五年十一月
○肥後下り藩中武士かなし軽業
太夫 尾役御免太
林方 水野美濃助
美濃部筑前
乍憚口上
【水野林等の軽業口上】当代々々、御評判高うはござり升れど、是から口上を以て申下し升。此度所々御改正に付、何哉珍敷物御覧に入度存じ升れども、向島石翁坊を始め倭人達の芸等は、中々当時の御意に叶ひ升まひ。夫に付兼ねて心得ました肥後下り尾役御免太、家中かなし軽業残らず、馬鹿林にて御覧に入れます。先御免太御目通迄差控させ升。最初の芸当は些かなる旗本より、段々に経上りました四品の竹の上へ飛移り升。此儀を名けて権家の一足飛び〳〵。是より益々勢強く、諸方の金銀を追々手元に取込み升。かやうに仕ますれば中段を勤めまする美濃共手合致し、自然に横島に成升。是より直に上り升れば、林につれまして賄ひ多き族は、次第々々に立身の体にござります。此儀を名附けて運の月・慾の川波、此儀が御目に止りますれば、四方の縁の綱一度につんと切れ、一万八千石を引繰返し、一万石に替る、誠に此度御役に離れわざの儀にござりますれば、若しくじり閉門等の節は、幾重にも御用拾の程願上げ升此儀いよ〳〵相済みますれば、御先代の御方は先づ御入替り〳〵。
成島が上書の中に、浪人山下幸内が存意を申上げ候事を書載せぬ。彼が存意書といへるは、右の如き事をかける物なり。筆のついでにこゝに書き記すもの也。
乍恐奉言上事
【山下幸内言上の事】恭白。天下の武将に備らせ給ふ御大将は、古より悉く将器を撰び奉り、判断の明衡を【 NDLJP:86】以て名将・愚将の境を明かに記録して、武門の家々に止り、末世の鏡となし、尤も異国へも事に触れては渡り候なれば、至つて御身持御政道御恥しき御事に御座候。然るに権現様此方珍敷くも当将軍様、自然と御名将に御器備らせられ、先以て天下の万民歓の色をなすは、此時に御座候。依て乍㆑恐一書を奉㆓献上㆒、猶当時世上の風聞を詳かに奉㆓言上㆒、御心得の端にも罷成候得ば、少々の儀にて一天下の響に成る事に御座候。尤も隠御目附等数多御出し被㆑遊、世上の風聞上聞に達候と、是又風聞仕候得共、有之儘には不㆑被㆓申上㆒候故、又は面々の身を大切に固め候故に、細かなる事共目附衆不㆑被㆑存候と相見申候。恐多き申上げ候事に御座候得共、下拙申上候趣は、一度御耳にだに奉㆑達候得ば、天然自然の道理を以て、天下国家の御為とは其儘罷成り候事、具に御感味可㆑被㆑遊候。
衆人奉誉品
【衆人奉誉品】一、紀州より御供之面々へ過分の御加増不㆑被㆑下候事。一、法外の御物入御停止、并御役人私慾不㆑被㆑成候事。一、猥に人を御殺不㆑遊㆑候事。賄賂軽薄御嫌の事。一、下々奉公人槍判御停止之事。一、諸国水損にて田畑永否場、国主・地頭力難㆑及㆓普請㆒之場合有㆑之、訴出候はゞ、上より御力御添へ可㆑被㆑遊趣之事、一、御目見へ以下の御家人与力迄、金銀を以て家督渡し入代り難㆑成事。一、今度新に御定被㆑遊候御高札之事。一、近代相絶候日本之武機御見付被㆑遊候事。
右之趣当御代之珍宝と称し奉候。扨て此上にも御為に成筋可㆓申上㆒候。無我之御思只万々世に難有御事に御座候。御為と申すは、天下国家之為をさして、御為とは可㆑申候。当時通言に成り候御為と申すは、金銀の徳用被㆑成候を、御為と存込み罷在候者も多く御座候。至つて下賤の口すさみにて、大夫以上の御耳にも不㆑入御事に御座候。下拙言上の御為めと申上げ候は、曽て金銀の御為に非ず候。天下の万民・国家の御為め、万代不易の御宝を奉㆑献候間、彼金玉の御為とは御競べ御感味被㆑遊のみ、他事無㆓御座㆒候。
一、右程の御器量に渡らせられ候へ共、乍㆑恐武門大道の御守〔修カ〕行、未だ得と御熟得不㆑被㆑遊候歟、御政道思召之儘に行届きかね、是のみ御苦労被㆑遊㆓御工夫㆒、御思案止む時【 NDLJP:87】なく、是全く天下を掌に治め給ふに非ず。先初に御心を安んじ、能々御心の修りたる以後ならでは、天下は全く治まらざるものと承り申候。当時泰平の御代に御座候へば、事不㆑勧はよく治りたる御代と可㆑被㆓思召㆒候得其、四海泰平と申すは、天下の万民海内外服し奉りたるを、全く御代の治りたると申候。上辺は御威勢に恐れ服し顔にもてなし、底心に服し奉らず。仮令ば竹を撓て我に随ふと雖も、撓の戻る時、之一倍に戻るが如く、何の用にも不㆑立のもにて御座候。
一、慮知・思弁を以て御治可㆑被㆑遊と被㆑為㆑量候は、御守〔修記〕行御不足なる証拠にて御座候。人才の智恵を離れ、生得正銘の儘にて、全く天下国家治り、万民毳を脱いで服し奉るの徳、其道路〔理カ〕御座候。則ち武門の大道と申与にあら〳〵申上候。此儀は不㆑及㆓申上㆒被㆑為㆓御存㆒候御事に御座候得共、御守行の厚薄と、又其流の善悪御座候へば、盲蛇に不㆑恐の所、只天下国家の御為、万民を安からしめん事の大願、方寸の中に満ち、賤しき文筆を奉㆑捧㆓公聞㆒候其罪不㆑少奉㆑存候得共、万士万民之為めに、一途に分別を離れ、正銘の御下知に任せ、憚をも不㆑顧奉㆓言上㆒、良薬口に苦き習にて御座候へ共、尊意に当り奉る処、則ち御為に御座候得ば、深恐を不㆑顧申上候。依つて只今迄、御政道の衆評を可㆓申上㆒候。総て慮智思弁・方便・謀を以て成せる事には、是非の差別御座候。御一人の非は天下の困、日本の慙は御門への御不恐、大切至極の御事に御座候。
衆人奉拝品
【衆人奉拝品】一、金銀出入之公事御取上無㆓御座㆒事を、天下徳政被㆓仰出㆒候と心得、一切借り方の者共、大名・小名乃至下々に至る迄、返弁不㆑仕候に付、追て徳政にては無㆑之と被㆓仰出㆒之様に被㆑遊候事、天下の御触書に間違之儀、少しも御座候はゞ、御役人徳なきと可㆑申哉。自ら上の御慙に成候事。
一、右之被㆓仰分㆒にても、金銀の公事御取上げ無㆓御座㆒上は、曽て返弁金は不㆑仕、依つて新に貸金仕候者無㆓御座㆒候。日本の宝すくみと成り、困窮の種と罷成候。仮令ば流に大木を横たふる如くに、妖の端と可㆑成御事に御座候。金銀は通ずるを以て宝と仕候。悪敷き道には移り易き世の習ひに御座候へば、当時大名の借金、京・大坂は不㆑及㆑申、江戸の町人共への借り金、京大坂は不㆓申及㆒、江戸之町人共へ買掛等ま【 NDLJP:88】で、先年切金に成るをも曽て不㆑遣輩多し。古には無㆓御座㆒、大名の門に妻子連れたる町人共付参り、或は駕籠の尾に取付き願ひ悲み候と雖も、甚恥をも曽て恥とせず。名より利を取るといふ賤敷き心の移候は、上に御始末多く、下より過料等多く御取被㆑遊候。其御心有るに依つて、自然と下へ御風儀移り申す事、日月の光世界を照す如く、善悪共に上より下へ移る事は、雷の坤軸に響くに同じ。疑ふべきにあらず。扨て一旦借人共徳を甘なふと雖も、終には又貸人の無きに困窮し、或は国主・郡主も悪事の報ひは、くびすをめぐらさゞる習に御座候得ば、国々風雨・早損の難儀、年月を経ずして大損を仕る事、最早御心当り可㆑有㆓御座㆒候。結句天下徳政の被㆓仰出㆒にも御座候はゞ、跡は金銀の通用自由なるものに御座候。又重て徳政と申す迄は、大分の年数御座候事故、徳政の跡は心易き者と承伝候。只早晩となくに、金銀出入の公事、御取上無㆑之と御極め被㆑遊候はゞ、日本困窮の元と可㆑成候。かゝる事を委細申上ぐる御役人も無㆓御座㆒候は、真有る人を御好み不㆑被㆑遊と、世以て愚察仕る処に御座候。当分金銀に御徳付候事を申上るが御為と存じ、又は上にも夫を尤と思召候は大なる御違にて御座候。
将軍様御始末被㆑遊、金銀御溜め被㆑遊候得ば、一天下の万民、皆々困窮仕り候。僅かの問屋商売物を〆めたるさへ、其儘其物の高直になり、世上のつまり申すにて、御賢察可㆑被㆑遊候。況や公儀に於て宝を〆被㆑遊、下々の立可㆑申哉。果して此以後に五穀打続き不作仕り、火災・水難等可㆑有㆓御座㆒候儀、是天性の化育と申す者にて御座候。只大切なる物は米穀に極り申候。当時の御風儀は米穀を軽く、金銀を重く被㆑遊候と相見え、乍㆑恐紀州を御治め被㆑遊候御災失せ不㆑申候。一国・二国の主を治め、乃至一郷一村の地頭より下つ方の願には、金銀だに沢山に御座候得ば、米穀を次に仕り候ても済み申候。夫さへ国主共備り候者の心には、賤敷き意地と心有る武士は可㆑笑事に御座候。まして況や一天下を治あ給ふ御身に於ては、金銀は有生不滅の世宝にて、何迄も不㆑滅して天下を融通し環るものにて御座候へば、大名以下の心とは格別の違ひ、是第一の御事に御座候。米穀は一年切の物にて、悪年打続き候へば、何方よりも入る事なく、扨て一日半日にても無㆑之て不㆑叶は御【 NDLJP:89】百姓にて御座候。別て可㆑貴は武門の源なれば、上の善悪・田畑の善悪に移ること、雷の如く、然れば国主以下の心と天下一統の御大将の御心とは、大に違ひ御座候。此境をもあきらめず、只銘々の分限を規矩として、天下国家の御政道の御助言申上ぐるは、御役人衆こそいとほひなき事に奉㆑存候へ共、諸の悪事の起るは、朕が咎なりと、今日を送り、諸の悪事は起る者なりと、嵯峨天皇仰せられしかや。今武家一統の御代にて、将軍様御心より諸々の善悪出で候。能く御思案被㆑遊、乍㆑恐御守行に赴かせられ候はゞ、国土豊に水火の難漸々に絶え可㆑申候。此守行と申すは奥に荒々申上候。総て人困り候はゞ、天地の徳薄く成り申候。天地の徳薄けれは、五穀は不㆑及申、千草・万木共に育ち不㆑申候。然れば重ぜらるゝ事とは相見え不㆑申候。
昔太閤秀吉公、天下を知召して以後、両度迄御蔵払被㆑成候由、金銀を大分蔵に納め置くは、能士を蔭に押込め置くに等しきとて、金銀不㆑残明けられ、天下の四民四道へ悉く下され候事、二度に及び候由、太閤の御代には、朝鮮攻、其外金銀入用多き時節すら如㆑此。大勇を備へ給ふと語り伝へ申候。尤成る哉、天下の金銀は皆将軍様の物にて、古より武将の金銀に御手問被㆑遊たる事を聞かず。さらば御大事有らん時は、海内の宝自ら集まる事的然也。縦へば不足に候へ共、由井・丸橋如きが大望にさへ、金銀には手をつかずと承り候。況んや治国太平の御代に於て、金銀を〆め万民を困らしめ給ふ御小機は、そもいかなる事ぞや。当時諸大名の困窮は如何なる故と被㆓思召㆒候や。日本の金銀は不易に日本に御座候へば、只すくむと能く通ずるとの違ひにて、全く此源を御考へ可㆑被㆑遊候御事。
一、御家人の御切米、金子にて当年は御渡し、大分の難儀申す計りも無㆓御座㆒候。米にて定め候御切米は何迄も米、金にて定り候御給金は、何迄も金子にて御渡し被㆑遊候へば、如何程損益御座候とも、上を恨み奉る事無㆓御座㆒候。仮令上に御損被㆑遊金子にて御渡し被㆑遊候ても、不足の事は天下の御仕置にも御座有間敷奉㆑存候。殊更当年の被㆑遊方、上に御徳眼前に御座候へば、御家人下心には恨み奉る色にこそ出ず共、人情の習ひ御賢察可㆑被㆑遊候。上に御徳と申すは、当春御張紙の直段より【 NDLJP:90】町の相場は高く、当冬御張紙直段高く被㆑遊候へば、其内を御借り被㆑遊候に付、明かに御徳用に相見え申候。斯様なる御儀は、能き御仕置とて、日本の万民服し奉るべき哉、服せざる時は四海掌に御治め被㆑遊候と申す者にて無㆓御座㆒候。第一御大切の御家人、纔の事にて御責被㆑遊候へば、況や下万民の事に於て、御憐愍のなき処、乍㆑恐下々の察し奉る事に御座候、御家人の難儀は、御鉾先の鈍にて御座候へば、此一条に至つて御為に重き御事にて御座候を、御厚恩の蒙り奉りたる御家人あはれ心は付ながら、御諫めも申奉らずば、甲斐無とや可㆓申上㆒。本意なきとや可㆓申上㆒。下の了簡に落ち申さず候事。
一、四季の御狩は武将の御役目にて御座候。其外は御遊興一通にて御座候へば、御用捨被㆑遊べき御事。第一江戸近在殊の外困窮仕り候事、逐一に御存じの御事。是は御遊を妨げ申すに似候へ共御鷹野より外に御楽被㆑成候御事、余にも可㆑有㆓御座㆒と奉㆑存候。只真を御慰に被㆑遊候はゞ、是より外の御遊興は有間敷候。御遊山の為めに人民を苦しめ給ひ、御楽には被㆑為㆑成間敷御事に奉㆑存候。人間の歓は天の御歓と承り候へば、富めるも奢らず、貧しきも恨まず、千々の事草まで、武門の美景を照し給はんは、無㆑上御楽と乍㆑恐奉㆑存候。頃日世俗の風説に、御鷹野は仮令の御事、備立人数扱ひ等遊され、采配を以て人数御遣ひ御馴らし被㆑遊候由、専ら風聞仕り候。尤も四季の御狩は、軍馴らしに御座候へば、御尤も千万に奉㆑存候。然れども今の御采配にて、御自由に御人数御遣ひ被㆑遊候は、業の采配にて、生死の場に於て誠の御用に立ち申さず候。前に申上候人を撓めて、御遣ひ遊され候にて御座候。真採に非れば真服の人を使ふ事不㆑成ものに御座候。則ち献三ツの采配を余流と御競べ御感味可㆑被㆑遊事。
一、神仏を疎に被㆑遊候様に申候。乍㆑恐国家を御保ち被㆑遊候道具の一部を以て、国の機となし。神仏儒医の四道を以て、国の緯とし。天下は治まるものにて御座候。其真理は御守行の上にて、明らかに知れ申す事に御座候。機慣に全く甲乙なく、揃はざれば国病治し難し。片荷を附くる馬の如く、釣合はざるものにて御座候。
一、金銀は片付き安きものにて、多くある処へは段々集まり、少々乏しき所は間もな【 NDLJP:91】く減する物にて御座候へば、上より随分融通自由なる様に御心を不㆑被㆑為㆑付候へば、兎角すくみ易きものにて御座候。是困窮と豊成との元にて御座候。只今新金・新銀・四宝銀等の御引替にても、大分位の高下出来、其位違ひの所皆々上の御徳用と罷成候。旁以て金銀の通用不自由なる折から、又々金銀の公事御取上無㆓御座㆒、弥々すくみと成り候故、別けて銀子のみ通用仕り候国々は、大名・小名悉く手詰まりに罷成り申候。近年御奉公向の事に付いて、困窮仕りたる大名は及㆑見不㆑申候。殊更大名・小名の困難程、公儀の御損は御座なく候は、先近き事を申上ぐ可きなれば、江戸総門所々の御番所、或は京・大坂・臨時御番所等の番人士列の者は、大概家来にて、徒士已下の者は皆々当分の日雇を以て、番人に拵へ置く事、万一少々の御急変も御座候時、何の御用に不㆑立、士計りにて四具の羽翼調ひたれば、羽脱鳥の如くにて、一虎口も持たるゝ物にて無㆓御座㆒候。如何に御静謐の御代とは乍㆑申、平生戦場と御座候へば、余り御油断千万不心掛の至り、奉㆑恐奉㆑存候。一を見て万を知るにて御座候へば、此外に武備のうすくなる事、御賢察可㆑被㆑遊候。歴々の武士たる者、近年は少し身を持たる町人方へ文通仕候に、大方用付候書通にて御座候、或は出会の節の挨拶等を承り候に、互に取付の口上にて、武士・町人の界も難㆓見分㆒、一座の族間御座候。是全く余の儀にて無㆓御座㆒候。武威薄く成り候証拠に御座候。何とやらむ町人の蔭にて、武士も立ち候様に覚え、町人も我等の用を達する故に、武家方も立ち候抔と申す族多く、扨々見苦しき事共に奉存候。斯様の儀皆金銀を重く覚え被㆑存候と、武家困窮との二つにて御座候。
一、金銀箔停止、扨て又子供手遊びの大人形・雛の道具等、結構なる物の類御停止被㆑遊候趣、乍㆑恐御器量狭く、相次日本の衰微にて御座候。乍㆑恐御兵儀を察し奉るに、世上奢り申す故、困窮仕りたると被㆓思召㆒、無益の子供手遊び等に箔を遣ひ候儀、金銀を費し候と一途に御了簡被㆑遊候と奉㆑存候。斯様なる無益の物を高価に調へ申し候者は、貧賤の者の調ふるものにては御㆓無座㆒候。何れも大身か内福の者の翫び事にて御座候間、溜り有る所の金銀を出させ、小身なる細工人等へ金銀を省を以て、宝の通用と罷成り候。仮令ば、水道を浚ふが如し。全く費の様にて、【 NDLJP:92】曽て費とは成不㆑申候。取るも遣るも同じ日本の内を巡る金銀に御座候。更々無益にはあらず。箔になり失ひ候金銀は、惜しき事の様に御座候へ共、天運は是に限らず、西へ〳〵と行く月日と覚え候。東に出づる月日死失る人間と覚えば、人が人を産み夜昼分らず流れ捨れども、河水の尽くる事もなく、一秋の五穀は一年に喰仕廻うても不足もなく、余りて捨てし事もなく、金銀又こちらへ落捨れ共、又土より出づる。兎角世間は車の輪の如く、行くを止むれば出づる方弱し。是天道の御運び御律儀なる御粧ひにて御座候。然るに右の被㆓仰出㆒に付いて、諸職人諸商人、何を仕り候ても売れ不㆑申と、其日を過し兼ね申候。扨てこそ内福なる者の金銀動き不㆑申すくみ申候故に、自ら世上困窮仕り候。奢と申すは下を苦しめ、上たる者の淫逸・遊興を悉く仕るこそ、奢る者とは申候。金銀沢山に持ちたる者の、高直なる物を調ふをば、奢とは申さず。貧なる者の其日を暮しかね、歎き悲しむは莫大の事にて、有福なる者の手遊び類、結構なるもの無㆓御座㆒とて、苦しむこと曽て無㆓御座㆒候。然れば何れ成り共珍らしき事を仕出し、内福なる者のすくめ置き候金銀出させ候が、通用自在の元にて、御静謐の御代の美景・武門の御手柄にて御座候。世上斯様に次第々々覚成候は、全く宝のすくみに相極り申候。人は小天地にて、天地を全く備へたる者にて、天地を以て人の上にたとへ候に、毫厘も違ひ不㆑申候。宝のすくみたるを、人の上に於て申す時は、気血不順にして滞りたるに御座候。気血環らざれば、腫物出来るが、軽き分にて煩はしき者にて御座候。まづ其如く、世上煩はしく罷成り候前方に、養生御加へ不㆑被㆑遊候はゞ、腫物となり候て、身の内に疵付癒兼可㆑申候。中々細かなる費等に御心を付けなされ候て、天下の困窮止むものには無㆓御座㆒候。却つて夫れに付いて困窮仕り候。如㆑此なるを武門の小乗と申候。格子の内にかゞまり、自由自在曽て不㆑成者にて御座候。武門の大乗ならずしては、一天下掌を見るが如くには不㆑被㆑為㆑成候。御守行の上にて、明日にても相知れ申す御事に御座候。兎角大乗の御身に於ては、米穀を以て世界の本心と被㆑遊、金銀を以て手足と被㆑遊候へば、其末は同国も安く可㆑有㆓御座㆒候。当時御風儀乍㆑恐奉㆑窺に、金銀を以て本心と被㆑遊、米穀を以て支体と被㆑遊候。【 NDLJP:93】此前後黒白にして、大切至極の御事に御座候。只今其前後に依には、金銀の手足余程不㆑叶に相見え申候。然し、只今療治の真最中と奉㆑存候。
一、近年井沢と申す者の書に、明君家訓と申して、上下二巻の書御座候。世俗専らに当将軍様御述作の書迚、或は誉或は誹り、其評区々にて、当時専ら
山下幸内
右幸内は如何なる者ともしらざれども、浪人の身にして、其存意を上書せること大丈夫と云ふべし。本文中の趣を見るに、こは定めて謙信流の軍学者のやうに思はる。
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