浮世の有様/6/分冊4
国替の諸候酒井左衛門尉所替に付家中への触書酒井侯と庄内酒井摂津守室おてつの書翰酒井左衛門の願書庄内百姓の訴状庄内百姓の願書庄内百姓駕籠訴の人々川北大庄屋の書翰平田村牧曽根村の建札川北村百姓の願書山口五四郎の書翰所々建札の写庄内江戸屋敷より公儀へ届書庄内より江戸表への書状酒井左衛門の聞置書松平陸奥守より庄内百姓の事聞届出の書所替中止庄内百姓の献納金庄内百姓歎願書
天保十一庚子年十一月、松平大和守・酒井左衛門尉・牧野備前守所替仰付けられしかども、【国替の諸候】故有りて其事止みぬ。是迄種々の風説ありしが、其実を篤と聞き正しぬる故、委しくこゝに記置くもの也。
松平大和守名代 山内遠江守
出羽国庄内へ所替
右被㆓仰付㆒之旨、於㆓御黒書院御縁頬㆒、掃部頭殿御老中列座、越前守殿被㆑仰㆓渡之㆒。
酒井左衛門尉名代 酒井摂津守
越後国長岡へ所替
右被㆓仰付㆒之旨、於㆓御黒書院溜㆒、列座同前、御同人被㆑仰㆓渡之㆒。
【 NDLJP:96】 武蔵国川越へ所替 牧野備前守名代 牧野遠江守
右被㆓仰付㆒之旨、於㆓芙蓉之間㆒、列座同前、御同人被㆑仰㆓渡之㆒。
但し大和守左衛門尉在邑中、備前守在京中之事、庄内・長岡共に被㆓仰渡㆒、当朝迄御所替の儀は実以て不㆓相知㆒、不㆑計儀之由風聞有㆑之。
【酒井左衛門尉所替に付家中への触書】酒井左衛門尉出羽国庄内ゟ越後国長岡へ所替被㆓仰蒙㆒候に付、在所御家中への御触書之写。
今度御転領の儀は軽からざる事に付、一同心力を尽し、御家の為め専一に相心得、諸事油断無㆑之様可㆑致は勿論之儀、心付之事も有㆑之候はゞ、無㆓遠慮㆒可㆓申出㆒候。
一、面々家屋敷不㆓取乱㆒、樹木に至る迄猥に伐り取り申間敷候。
一、弐百年前ゟの御領地を離れ候儀に付、残多く存じ候儀人情に候得共、自然申間敷事を口外致し、公儀へ対し不敬の筋有㆑之候由は、以ての外の事に候、万端相慎み穏便に可㆑致候。召仕下々に至る迄、無用之雑談等致し不㆑申様能々可㆑被㆓申含㆒候。
一、在町へ対し候ても、猥ケ間敷事無㆑之様申附方可㆑被㆑有㆑之候間、各〻右趣意之所等之致勘弁可被申付置候事。
十一月
右之趣、支配有㆑之面々は支配下へも可㆑被㆓申達㆒候。
御家中御給人へ
天保十一庚子年十一月朔日、所替之儀被㆓仰出㆒候処、酒井左衛門尉には在国の事故子息摂津守為㆓名代㆒登城有㆑之候処、御老中御列座にて被㆓仰渡㆒候趣難㆑有奉㆑存候左衛門尉帰国中、追て御受可㆑奉㆓申上㆒候旨にて、下城有㆑之。則刻病気の御披露被㆑致、御老中御礼廻り名代にて勤められ候由。
【酒井侯と庄内】一、酒井家庄内御拝領之有増承㆑之候処、元祖左衛門尉には、東照神君御伯母聟にて、織田・武田之頃、常に先陣を勤められ候事は世の知れる所なり。三代目に至り、宮内大輔忠勝信州松代より、元和八年庄内御拝領仰出され候。同日出羽山形鳥居右京亮忠政、山形拝領の儀被㆓仰出㆒候処、左衛門尉忠勝申条には、出羽山形は最上源五郎義俊百万石の本城にて、庄内は枝城にも有㆑之候故、山形にても被㆓下置㆒候はゞ、難㆑有【 NDLJP:97】存じ候旨申上げ、庄内は御受も之なく候処、台徳院殿御上意の旨を以て、土井大炊頭利勝を以て、庄内二郡一円に被㆓下置㆒候者、鶴ケ岡・亀ケ崎両城も有㆑之、要害の場所にも有㆑之、出州〔羽カ〕・奥州・蝦夷地迄締の為、家柄・戦功を見立て差置かれ候旨被㆓仰渡㆒候に付、忠勝御受を申上げ、家之面目と松代より引移り申候。
出羽国庄内田川郡鶴ケ岡〈八万石余、外に丸岡余目とて、御預り所二万八千石。〉同飽海郡亀ケ崎〈六万石余、外に分家酒井岩児守城地八千石。〉
内高十九万六千石
田川郡五郷〈中川 京田 山浜 狩川 櫛引〉飽海郡三郷〈遊佐 荒瀬 御原田〉 両郡総物成三十年平均、米凡三十八万俵余。〈五斗入〉
同 同 金二万両計〈酒田運上 賀茂運上 浮組諸株運上〉
鶴ケ岡本城之内、三の丸に大督寺院有㆑之、右之内二代家次公より、代々埋葬有㆑之候。江戸表にて逝去有㆑之候共、棺国送り埋葬に相成り候。先例家格也。幼年家督の節は、御目付とて国本へ御旗本御下向にて、国政御聞糺有㆑之候。先例之家格也。
一、牧野家領越後長岡は、是又元和四年御拝領の土地にて、高十一万石余。米にて〆十六万俵計〈四斗五升入〉、新潟其外運上金一万余有㆑之候由。
同十二月上旬、御用番御老中御内願の写
庄内二郡一円、鶴ケ岡・亀ヶ崎両条拝領仕候儀は、二百十九年以来の事にて、奥羽蝦夷地迄の御締の為めに御座候へば、家柄・戦功・御由緒迄も思召候ての儀に御座候。今度無㆑故所替被㆓仰付㆒、右御趣意も無に相成り、其上久敷扱来り候百姓の親みを捨て、代々の墓所に相離れ候事抔に至候ては、誠に不㆑堪㆑悲事共、筆紙に尽し難き次第に御座候。仍ては此上牧野家領し来候地所は勿論、庄内二郡の内飽海郡酒田は、是迄の通り被㆓下置㆒度、若又飽海郡御居置被㆑下度候事不㆓相成㆒候はゞ、牧野家領し候新潟等は不㆑及㆑申、魚沼郡にても御添地に被㆓成下〔度脱カ〕㆒候。爾右之通故なく二郡両城差上候筋合、何分御立被㆓成下㆒、規模首尾合に相成候御沙汰、偏に奉㆓歎願㆒候事に御座候。左も無㆑之、其廉相立ち不㆑申候ては、先祖・子孫・家来共并世間にも、面目無㆓御座㆒候次第を深く御憐察被㆓成下㆒、領地首尾合共前文之通り被㆓成下㆒候様奉㆑存候。
十二月 酒井左衛門尉
【 NDLJP:98】魚沼郡は会津松平肥後守御預り所、高六万石余。小千谷・十日町抔宣敷場所有㆑之信州境迄一円の由。
摂津守殿御内室おてつ殿ゟ、御父田安一位様へ被㆑進候文の写。
【酒井摂津守室おてつの書翰】今度所替の仰蒙り、難㆑有存上まいらせ候へ共、一同の歎の様子にて承り候へば、何の弁へなき心にも、只途方に暮れ居候処、庄内ゟも別紙の通り御歎申上候。猶承り候へば、庄内拝領の事は、台徳院様厚き思召もあらせられ候事にて、家の面目と家来共まで難㆑有存まいらせ候。此度の所替仰付られ候て、左衛門尉・摂津守の心中も察入り、いか計か痛はしさ、私も安き心も致し申さず、歎はしく存ho~。其上此度の仰渡され、此儘にては先祖へ対し、後の世迄も恥辱、世上に面目も欠け、何か不調法の筋にても御座候様に聞え候はんと、左衛門尉申越せる事は、御縁続きも御座候へ共、両人へ対し候ては面目なく、何共気の毒、殊に庄内は二百余年の地に御座候へば、百姓をも親子の恩も同じ様になつき親み候処、俄に所替被㆓仰付㆒候ては、嘸々歎に堪へず、長岡へ引移り候事、家中下々の家居も不足の由にて候へば、末々はいか計り難儀の事と痛ましさ不便に存ぜられ、此頃は夜もふせりかね、朝夕の食事も通りかね候様に存ぜられまいらせ候差出がましき御願にて、何共恐入候得共、何卒左衛門尉・摂津守の心中も深く御察し遊ばし、面目欠け申さず、下々迄難㆑有候歎に及び申さず候やう、偏に〳〵御厚う御慈悲を以て御取なし、憚ながら上様御聴にも入れ、御歎き遊ばし下され候はゞ、いか計り〳〵難㆑有、此上の御恩に存上まいらせ候。此節不快中筆。末略
同十二丑年正月
庄内両郡田川・飽海百姓罷登り、御老中へ駕籠訴。酒井家永城の愁訴仕候事、追々百姓百姓〔衍カ〕罷登り駕籠訴仕り候。同閏正月、水野越前守殿御家老ゟ為㆓御内意㆒、飽海郡田の城は御残しに相成候積り被㆑申候由。田安一位様より、右坂田城の儀御残に相成り候御内意有㆑之候。同二月六日、御用番太田備後守へ御墓地一件、御願ひ被㆓差出㆒候。
願出之写
私儀今般所替被㆓仰付㆒候につき、代々の遺骸改葬の儀可㆑奉㆑願の処、年久敷数代の古【 NDLJP:99】【酒井左衛門の願書】墓朽敗の程難㆑計、何分掘発候儀難㆑忍、又持運方甚だ以て心許なく、当惑至極仕候に付、無㆑拠奉㆑願候。右改葬候難渋の次第は、元和八年庄内拝領の砌、鶴ケ岡・亀ヶ崎両城の儀は、外藩警守の尊慮にて、家柄を為㆓思召㆒候て被㆓下置㆒候に付、永々守護可㆑有㆑之旨被㆓御渡㆒候条、家に申伝へ書き留めも有㆑之、専ら右の御趣意を相守り、永久守護の儀に付、入部の節、鶴ケ岡三の丸西南の隅へ菩提所建立仕り、大督寺引移し、二百二十年来代々の父祖、江戸にて死去候共、毎度奉㆑願棺を庄内へ差下、右大督寺へ致㆓理葬㆒来り候に付、子弟並に家族の墳墓数多罷成申候。且又幼年家督の折、在所へ御目付御差下し、政事并に警衛向等、毎度御尋ね被㆓成下㆒候儀、庄内拝領の砌、台徳院様御深慮あらせられ候続きにも可㆑有㆓御座㆒、又前条の通り帰葬被㆓仰付㆒来候儀も、家柄御由緒の儀、思召他に異なる御趣意を被㆑為㆑含、格別の御恩遇をも御表被㆓成下㆒候の御儀共可㆑有㆑之歟、家の規模無㆓此上㆒、累代冥加の至りに奉㆑存、永久不易安堵の領地と心得、墓所の儀無㆓意念㆒罷在候処、所替被㆓仰付㆒候に付、右代々数多之墳墓、今更如何共致方無㆑之、前段の改葬難渋の次第に有㆑之、今度他領に其儘に差置き候事は勿論父㆓相成㆒、去りなから二百二十年来、土中に腐朽致し居り候・堀発〔・屍脱カ〕の儀も、且又難㆑忍、数多の棺槨嶮難遠路の持運、危殆の変不㆑堪㆓痛心㆒進退相窮、当惑至極仕り候。依つて奉㆓恐入㆒何共難㆓申上㆒儀とは奉㆑存候へ共、格別の御憐愍を以て、右大督寺地面永々被㆓下置㆒、是迄の通り御居置被㆓成下㆒度、此段無㆓余儀㆒奉㆓願上㆒候。右願の通り被㆓仰付㆒被㆓下置㆒候はゞ、三の丸要害の儀は松平大和守へも申談、如何様にも取直候儀、猶又奉㆑願城戸外ゟ墓所へ出入仕候事に致度候。右様罷成候上は、忌日年忌等の節、代参申付候ても差支無㆑之、尤墓所荒癈に至り不㆑申、難㆑有仕合にて、此上の安心に奉㆑存候。何分哀歎当惑の情実、深御扱取被㆓成下㆒、奉㆑願候通被㆓仰付㆒被㆓下置㆒度奉㆑存候。以上。
二月 酒井左衛門尉
右の外歎願書数通并に百姓関訴数状有㆑之候得共、長き文言にて、今便手間取得写不㆑申候、後便入㆓御覧㆒可㆑申候。
水野越前守様太田備後守様へ差上候書付の写
【 NDLJP:100】乍㆑恐以㆓書付㆒御歎訴奉㆓申上㆒候。
【庄内百姓の訴状】一、出羽国庄内田川郡百姓・飽海郡百姓共一同奉㆓申上㆒候。此度酒井左衛門尉様所替被㆓仰付㆒候事、御沙汰御座候処、右二郡の百姓共、老若男女・子供迄皆々歎き沈み居申候。二百年前ゟ住居の殿様にて、御代々様ゟ預㆓御厚恩㆒、昔ゟの凶事には不㆑及㆑申、八年以前の年は前代未聞の凶作にて、庄内の外に、御国にて餓死人其外数不㆑知候様承及申候。又他所よりは御国へ袖乞に参候者大層に夥敷御座候得共、庄内殿様は御米・御金共沢山にて、在・町の者共へ被㆓下置㆒、其外にも沢山御拝借被㆓仰付㆒、諸国ゟ米穀大層に御買入被㆑成御救被㆑下候間、庄内は一人も袖乞・非人抔出候者無㆓御座㆒候間、御恩沢の程難㆑有仕合なる御事、皆々泪を流し居申候。然る処年々の凶作に相成り、殿様には御金も尽き果て候て、殊の外御難儀に候て、諸国金持より金銀・米穀共借入れ成され候て、御救ひ被㆓下置㆒候て、其上昔ゟの拝借の御米・金共、夫々に下切に被㆓下置㆒候へ共、御時節大層に御損失奉㆑掛候間、皆々涙を流し、此上は有間敷き殿様と難㆑有仕合に奉㆑存候処、不㆓思寄㆒御国替被㆓仰付㆒候て、長岡へ御入国遊され候ては、是迄莫大の御恩沢を蒙り奉㆑報候期も無之、一同泣騒ぎ、殿様御留り候ゟ外無㆓御座㆒候と、精心に湯殿山・金峯山・羽黒山・鳥海山、其外共城下在々神仏様へ参詣も、何卒殿様是迄の通りに御出被㆑遊候所新眼なきすかし居申候。乍㆑恐右の通りに御座候間、御歎き申上候。庄内数代の百姓共、只今御高恩の可㆑報〔期脱カ〕無㆓御座㆒候間、百姓共格別の御慈悲を以て、殿様永く庄内へ御在住被㆑成候様、宜しく御沙汰被㆓成下㆒度、百姓共一同御歎き申上候。右は田川郡・飽海郡村々之者共不㆑残罷出 御歎訴奉㆓申上㆒候心組の処、極内々にて談合候得共、ふと御領主の御耳に入候哉、皆々御差留厳敷御叱りを蒙り候に付、私共計り致㆓夜抜㆒、乍㆓差越㆒奉㆓申上㆒候。何卒格別の御慈悲を以て、殿様永く庄内へ被㆑遊㆓御座㆒候様、百姓共一同
天保十子年十二月 出羽庄内田川郡村々百姓共
御公儀様御役所
庄内ゟ江戸同家中へ文通の写
【 NDLJP:101】飛脚立て候に付、啓上仕候。殿様当廿一日弥々被㆑遊㆓御発駕㆒候積り、扨て此節川北百姓大勢打寄り、願筋有㆑之趣にて、最初は五丁野各地三千人程打寄り、紅白の織押立て、のぼりの内稲荷大明神と有㆑之外の幟へは、願筋の訳記し、其外田畑踏荒申間敷く、或は萱乳等取散し申間敷くなどと相認め候趣に付、御代官其外色々の御役人罷出申含め候得共、其後酒田山王山西北大浜と申す処へ、川北三組之百姓二万三千人程打寄り、殿様御登を差留め申候積りの由、右に付御郡代の内阿部孫太夫殿、御郡奉行の内相良文左衛門殿出役、漸く申含為㆓引取㆒候趣、乍㆑去是切にて相止事にも無㆑之様相聞え、右打寄候大将と申すは、何れも有徳なる者の件にて、年は何れも二十代の者と相聞え申候。勿論米金等は何方より差出候哉と申す事も不㆓相知㆒候得共、沢山に集り候趣に相聞え申候。然る処、当十一日の夜所々へ建札致し候趣注進申出て候。其文言別紙の通りに御座候処、今日ゟ中川通其外の百姓、中川谷地へ貝吹立て打寄り、人数の次第未だ相知れ不㆑申候。扨て此節に相成り候ては、御所替之儀も相止み候と申す事に、御殿向迄専ら取沙汰の趣に相聞え候。何卒風聞の通り相止候方に仕度心願に御座候。右可㆓申上㆒如㆑此に御座候、以上。
二月十二日 平瀬林左衛門
磯部立玄様
皆々様
庄内にて認め差上候書付之写
【庄内百姓の願書】乍恐以㆓書付㆒御申上候事。私共庄内の百姓共に御座候。此度御殿様御所替被㆓仰付㆒候御逹御座候旨、誠に以て驚き入り奉㆑存候。扨て御殿様の儀は、御代々様ゟ蒙㆓御高恩㆒、昔よりの凶作又は変事の年柄は不㆑及㆓申上㆒、既に八ケ年已前巳年は、前代未聞の凶作にて、庄内の外の御国々にては、餓死人其数不㆑知様に承り候折柄、他所ゟ国許へ袖乞の者多く参候に付、驚転仕り候。其節庄内の御殿様には、在町之者へ御米大造に被㆓下置㆒、其外にも色々御拝借等被㆓仰付㆒、諸国ゟ米穀大造に御買入御救被㆓成下㆒候間、於㆓庄内㆒は袖乞・非人抔は一人も出候者無㆓御座㆒候間、老若男女弥々御国恩難㆑有迚、感涙を流し、此国恩奉㆑報度由、日々心掛罷在候へ共、引続き年々凶作【 NDLJP:102】にて、庄内二郡の百姓共、町人に至る迄所持の品物売払ひ、或は質物に置き尽し、此上親妻子ちり〴〵に相成候ゟ外無㆑之体に相成候仕合に付、御殿様にも御不便に被㆓思召㆒、以前の御救其外御物入等被㆑為㆑在候。御金も尽き果て候て、以ての外御難儀被㆑遊㆓御成㆒候上にも、諸国の金持衆ゟ大造に御借入被㆑成候て、御救被㆓成下㆒、其上昔ゟ御拝借米・金夫々に被㆑下切に被㆓成下㆒候得共、御年貢御取立は不足に相成り候上、其外年々窮民救米等迄莫大に被㆓下置㆒候へば、御時節大造の御損失奉㆑懸候へ共、先は町在の者共再生の心地にて、如㆑此難㆑有御殿様は有間敷く、夜は縄をなひ筵を織り、又は商の土地にては品物売数の内ゟ、一文・二文の溜銭致し差上げ、少しも御苦労薄に成行候はゞ、夫々御国報之気差にも可㆓相成㆒と奉㆑存候処、此度思召不㆑寄御所替と承り候へば、庄内二郡の百姓老幼男女共、上を下へと驚き騒ぎ、或は悲歎の誠を以て、目も当られぬ風情にて、其上国中の御扶持頂戴候程の金持は、皆々御供仕り度と奉㆓願上㆒候由、三年ゟ続いての凶作にて、皆々労れ居候処に、当年は作合も宜敷くと悦び居り候得共、稲刈入合取仕候処、考へ候ゟは劣り候作合にて、御年貢上納仕り候共、此節ゟ□食薩張り無㆑之に付、色々御救方被㆑下米等を奉㆑願、人々の親方衆へも、夫々食并に金銀等借り入れ可㆑申処、夫等のねだりも不㆓相成㆒事にて、途方にくれ、どう考へ候ても難㆑立体に奉㆑存候。今度御所替に相成り候はゞ、御跡へは猶々難㆑有候御殿様被㆑仰御越候て、結構に御手段被㆓成下㆒候ても、在町の金持衆皆々長岡に参り候事に御座候へば、前条申上候通り極窮の我々計り相残候迚、是迄とは違ひ大造淋敷き御国と相成可㆑申と、
子十二月 庄内百姓
御役所様
天保十一子十二月廿三日、庄内出立、翌丑正月廿日江戸着。
【庄内百姓駕籠訴の人々】御老中太田備中守様御駕籠人 飽海郡遊佐郷八日時村 四郎吉・長五郎
同水野越前守様同 上ノ新田館中村 善三郎・藤七
同脇坂中務大輔様同 鹿沢村・中島村 治右衛門・三郎左衛門
同井伊掃部頭様同 手島村・丁坪村 信左衛門・彦四郎
閏正月廿八日、川北大庄屋ゟ来状之写
【川北大庄屋の書翰】以㆓飛札㆒得㆓御意㆒候。昨日も一通り善作ゟ申上候通り、川北三郷之御百姓、五丁野谷地へ相詰め、私共不㆑及㆓申扱㆒、佐平田之仲間共、私共役人召連右場所へ罷越し見届候処、追々駆集り候人数凡八九百計も可㆑有㆑之哉、集居候に付、何等の趣と糺し候処、去年中西松組之者江戸表へ罷登り候得共、願空敷く御下げに相成り、其後川北ゟ罷登御駕籠訴訟願書差出候処、御取受無㆑之、書付御返に相成り、残念至極に奉㆑存候迚、被㆑遊㆓御引移㆒候へば、二百年余の御恩沢を蒙り候儀、深難㆑有奉㆑存候間、一同に被㆓召連㆒被㆓下置㆒候様、鶴ケ岡御城下へ罷登御願申上度段申聞候間、兼々御達之通り、大勢打寄候儀御停止之上、御城下へ罷登候儀甚だ不㆑宜候間、罷登申間敷候。人々歎願之儀は、早速殿様へ御重役ゟ被㆓申上㆒候間、別払申候様、様々申諭候処、昨廿七日七ツ時過ぎ、皆々罷帰り候処見届け、私共引返申候。馳付候者途中にて行逢候者も、前段之趣申聞候。相詰め候者共、手道具等持参の者一人も無㆑之、外に異変の次第無㆓御座㆒候に付、今日郡御奉行へも御届如㆑斯に御座候。急々御上へ被㆓仰上㆒可㆑被㆑下度㆑奉㆓願上㆒候。以上。
閏正月廿八日
【 NDLJP:104】 荒下郷大庄屋 相馬東助
堀善右衛門
佐藤八右衛門
佐藤仁惣治様
渡辺儀兵衛様
村上伊之助様
平田村・牧曽根村建札之写
【平田村牧曽根村の建札】兼ねて及㆓相談㆒候江戸表へ御歎に罷登候儀、西郷の衆と相願ひ、空しく御返しに相成候に付、二の手川北衆は艱難を致し、御訴訟首尾能く致し、願書を差上候得共、御取上不㆓相成㆒候。寝ても起きても歎かは敷く奉㆑存候。依ては迚も人少々にては、御国中我々は歎き候処も御取上不㆓相成㆒候に付、此上は最早御談に及び候通り、二郡の総百姓罷登り、御すがり付、御歎可㆑奉㆓申上㆒事に可㆑仕候間、皆々様左様御承知可㆑被㆑下候。以上。
一、黒の丸印の簇筵にて拵立て、村々半鐘打ち相集り候由。
一、先頃御下しに相成候者、公事場へ相願候積にて、又々罷登り候哉之旨相聞ゆ。
一、先達て罷登り候十一人の者共、江戸小塚原を通り候節、晒首二ツ有りしを見て、我々も定めて如㆑斯に可㆓相成㆒間、此内に不同心の者あらば、是ゟ国元へ可㆑被㆑帰、弥々同心に候はゞ、血判可㆑被㆑致候と申し、一同同心にて血判致し、江戸へ被㆑致㆑着候由。夫より旅宿へも我々御成敗にも相成候はゞ、跡々の儀宜敷御取計ひ可㆑被㆑下、又庄内へも其段早速に為㆓御知㆒被㆑遣可㆑被㆑下と呉々相願ひ、取置料の金子遣置候との事の由。
一、二月朔日又々庄内大浜千余人相寄り、願書差出候て、二日には三千人計り鶴ケ岡御城下へ罷出で、願書持参之由、朔日差出候願書は、大庄屋へ留置候由に相聞え候。
一、同三日心珠院様御法事にて、大督寺へ御参詣可㆑有㆑之旨、昨日被㆓仰出㆒に御座候に付、早朝より坂上と申す町へ人数集り居り候由、爰に願の趣も可㆑有㆑之趣取沙汰致し候処、此日殿様御病気にて、御参詣相止み候。但御供揃申上げ、御召替も【 NDLJP:105】相済候上御延引、八郎右衛門殿御名代相勤め申され候。昨中〔日カ〕夜中、御家老始不㆑寐に所々御固め、御下知有㆑之候哉之由。
乍㆑恐以㆓書付㆒奉願上候。【川北村百姓の願書】私共儀は川北百姓共に御座候。此度御殿様御所替被㆑為㆑蒙仰候段、一同奉㆓驚入㆒候。元来私先祖ゟ蒙㆓御高恩㆒、当国に永久相続罷在候処、如何成凶作、又は往昔ゟ種々の変御座候年柄は不㆑及㆓申上㆒、莫大之御米・金等迄被㆑下切被㆓仰付㆒、誠に以て無借財同様に罷成候間、右御高恩を荷ひ、昼夜一同農業出精仕り、民之竈も賑敷時節に相成り悦び居り候処、此度不㆓存寄㆒御所替被㆑為㆑蒙㆑仰、何共苦々敷く、一同歎悲之不㆑得㆓止事㆒、先達てゟ乍㆑恐追々江戸へ委細以㆓書付㆒愁訴罷登候者も御座候に付、又々一統罷登り申度奉㆑存候へ共、夫にては却て御為筋に不㆓相成㆒趣にて、村々日々夜々に御役元ゟ厳重に被㆓仰含㆒候儀共、御尤も承知乍㆓仕居㆒、江戸表御左右相待罷在候処、此節御雑説には御座候へ共、御所替日延に相成り、又は川北御添地にも可㆓相成㆒抔、専ら風聞御座候に付、少々は猶予仕り居候処、当月中御発駕にて、御殿様江戸へ被㆑遊㆓御登㆒候趣奉㆓承知㆒、再び驚転を仕候て、願上候筋も御座候へ共、差掛り候儀、今度被㆑遊㆓御登㆒候て、又々御下り遊され候儀難㆑斗奉存候へば、二百余年の憂歎悲之愁傷罷在候仕合に付、此度御登の儀は御延引被㆓成下㆒、庄内に永久被㆑為㆑在㆓御在城㆒候様、御止め申上候外無㆓御座㆒候事と、一同打寄り評議仕り候間、此段御取上げ無㆓御座㆒候事にては、農業植付出精行届かせ候て、跡ゟ江戸表へ御迎に罷登り申すべく候より外無㆓御座㆒候間、此段得と被㆓聞召訳㆒、左様可㆓相成㆒様、此度の御登り御延引被㆓成下㆒候はゞ、大小の百姓一同難㆑有仕合に奉㆑存候。為㆑其乍㆑恐御書付を以て、奉㆓願上㆒候。以上。
丑二月 川北総百姓
御役所様
〈右書付、二月二日庄内御家老松平甚三郎殿へ、川北総百姓共の内、重立候者大勢にて持参。若又御取用無㆑之候はゞ、同三日殿様大督寺へ御参詣之節、御駕籠訴可㆑仕心組の処、甚三郎殿速に被㆓留置㆒、右百姓へ酒肴大造に被㆑下罷帰候由。〉
被㆓仰渡㆒書
其方共二百廿年来、先祖代々蒙御恩沢候百姓共の事に候へば、此度御所替御残り多く奉㆓存上㆒候儀は、尤も至極之事、亦殿様にも其方共先祖ゟ、代々農業出精致し、御年貢諸役も、畢竟其方共本務不㆑怠故と常々御悦びの所、思召候は、地に付居候其方共の心中も同様の事にて、其方共心中も深く察入り候は同じ道、其方共殿様を大切に奉㆓存上㆒候はゞ、殿様、公儀を大切に被㆓思召㆒候も御同様の御事にて、御由緒の被㆑為㆑在候御家柄に候へ共、無㆓他事㆒御一筋被㆑遊㆓御恭敬㆒候儀には、如㆑此公儀を被㆑遊㆓御尊敬㆒候に付ては、万一其方共儀、殿様の御事斗は奉㆓存上㆒手前勝手の心得違よりして、御違背らしき筋仕出候はゞ、却て殊の外被㆑遊㆓御心配㆒度々被㆓仰出㆒も有㆑之事に候。其方にも能々御尊慮を奉㆓勘弁㆒、殿様御為めと奉㆓存上㆒候はゞ、御為めに不㆓相成㆒様之事仕出不㆑申様に、此所は肝要に心得可㆑申。此筋合能々勘弁仕候て、如㆑斯物々敷き振舞いはれなき願ひまでは有るまじき事にて、是併し其方共の心にしては、公儀への御勤筋被㆑遊㆓御立㆒候処には、心付く場も無㆑之、ひたすら殿様の御恩沢をしたひ奉りし心よりして、深雪嶮敷難路を忍びて、江戸へ出訴をも致し候へ共不㆓相叶㆒。外には手段もなく、兎に角も御発駕候旨聞き伝へ、前後の弁なく、今度被㆑遊㆓御登㆒候て、再度此地へ被㆑遊㆓御下㆒間敷と一途に及〔思カ〕び迫り、御留め申上げ、又は御跡ゟ江戸へ一同可㆓罷登㆒と存付候は、愚昧の誠心無㆓余儀㆒次第、不便至極に心中一同感涙に及び候事共に候。此心入の次第、神仏も加護可㆑有。尤も殿様にも深く御不便に被㆓思召㆒候に付、被㆑為㆑在㆓御尊慮㆒、大和守様へも御願方も可㆑被㆑為㆑在事、尤も是迄の御振合を以て、夫食御貸渡等の次第迄、委しく不㆑遊㆓御申送㆒候事故、相談方の儀不㆓心掛㆒、此已後別て農業等出精致し、貢物・納物遅滞無㆑之様、総て御役人中ゟ被㆓仰出㆒候事相守り、御思沢蒙り候殿様への御恩送りと可㆑奉㆑存候。然らば後来安栄にも可㆑有㆑之と被㆑遊㆓安心㆒候御事に候。此段厚く申合候様にとの御沙汰に候。尚委細御上にて可㆓申聞㆒候。
丑二月
【 NDLJP:107】 酒田御足軽目付山口五四郎殿ゟ来状之写
【山口五四郎の書翰】先月廿八日、川北御百姓六七百人五丁野谷地へ打寄申候。只長岡へ御供被㆓仰付㆒被㆑下度旨、鶴ヶ岡へ願出申度き相談にて、打寄り候者三四千人、所々村々にて差留め申候由に相聞き、右に付難㆓捨置㆒、御頭中へ申上候処、御在番所御差図にて被㆓仰付㆒候者、角次郎太・金太夫・久太外一人、五丁野谷地へ罷越候処、大庄屋其外肝煎も相詰め居り候由、木綿一反の幟差立。〈下写なし。〉
所々建札之写
覚
【所々建札の写】一、此度御所替被㆑為㆑蒙候段、両郡中一同愁傷難㆑忍、已に十一月中両郷組中十二人、江戸表へ御歎訴に罷登候処、空しく御下げ被㆑成、続いて川北ゟ十一人罷登り首尾能く為㆓仕課㆒候へ共、願書御下げ戻に相成り候段、川北一同心外に存じ、又々二の手先月中出立、猶三の手も差出候哉に相決候。人数は乍㆑恐、御殿様御発駕御留め奉㆓申上㆒度くと、五丁野谷地・大浜其外へ一万余人打寄り候儀、全く以て二百余年蒙㆓御恩沢㆒候儀につき、御郡中一同の人情勿論に可㆑有㆑之、差控ては対㆓川北㆒恥入候。乍㆑去大勢騒立候ては、対㆓公儀㆒難㆑被㆑為㆓御済㆒、却て御為筋に不㆑宜。尚此上にも不㆑得㆑止事候はゞ、厳しく御仕置可㆑被㆓仰付㆒御旨、御重役之御方ゟ度々御廻符にて被㆓仰達㆒、尚組々へ御役元ゟ、日々夜々厳重に御達有㆑之、川南郷中の儀は、御膝元近く別て恐入、無㆓余儀㆒差控罷在候へ共、心外不㆑得㆓止事㆒、田川郡組の内ゟ投㆓身命㆒密に申合ひ、尚又便にも兼々申合通り山浜・横川両組は東山、狩川・中川・原田三組は中川各地へ打寄り候趣致㆓約定㆒候処、今般御中陰被㆓仰達㆒候間、一先差控可㆓罷在㆒候。若其内弥々御転領御日限被㆓仰逹㆒御詰候はゞ、右人数の内江戸へ罷登り、乍㆑恐御訴訟可㆑奉㆓申上㆒と存候。於㆑然は御跡御領主様へ御敵対に罷成候に付、御仕置可㆑被㆓仰付㆒と覚悟に候。右訴訟人共御引渡に相成候はゞ、相残候組々一同為㆓打寄㆒評定之通り、長岡へ御慕ひ申上度旨可㆑奉㆑願。若御取上げ無㆓御座㆒候はゞ、無拠御跡に残り、組々手分を定め、御境目口々場所見立、一同餓死可㆑仕所存相聞え候間、相図次第組々村々御一同片時も猶予なく、早速場所へ相詰可㆑被㆑申候。右は往古の変難、近くは十【 NDLJP:108】年已来莫大の蒙御救、一同無㆑難助命罷在候。弐百余年の可㆑奉㆑報㆓御高恩㆒は此時也。若し身命を惜み不参の輩は、人面獣心に候。右為㆓承知㆒致㆓建札㆒候。以上。
丑二月 川田統一郎
川南組々村々惣中
黒瀬橋東へ〈大小札二枚〉 押江村へ〈大札一枚〉 加藤村へ〈小札一枚〉 地方長沼海道へ〈同断〉 藤島村大橋詰〈大札一枚〉 押江村・対馬村〈同断〉 長沼村〈小札一枚〉 〆
庄内江戸御屋敷ゟ公儀へ御届書之写
【庄内江戸屋敷より公儀へ届書】左衛門尉只今迄の領分出羽国庄内、田川・飽海両郡百姓共数百人、或は数千人、或は一万人余打群立ち、最寄々々騒がしく相集り候段、郷方役人共ゟ訴出候に付、早速郡奉行代官并目附役の者等、右場所へ差出し、打寄候趣意為㆑承候処、今度左衛門尉所替被㆓仰付㆒、永く引離れ候儀相歎き、祈祷等の為め打寄り候趣、或は長岡へ供致し度く、或は江戸へ供致し度き旨可㆓申立㆒為めに打寄趣申聞無㆑謂無㆑筋の願ひ心得違ひの趣、精々為㆓申諭㆒候処、孰れ致㆓承知㆒退散候趣、在所表ゟ申越候。全く愚昧の百姓共、一途に久来の離別を惜み候ゟの事のみ。外に子細無㆓御座㆒候得共、多人数物騒しく相集り候事に御座候間、此段御届申上候。以上。
三月 酒井左衛門尉内 関茂太夫
庄内ゟ江戸表へ御届書
【庄内より江戸表への書状】此間家来の者ゟ御届申上候通り、唯今迄の恩誼を相慕ひ、所替被㆓仰付㆒候に付、永々引離候儀相歎き、大勢所々へ打寄り、長岡へ供致し度抔、無㆑謂申立候に付、役人共差出し、心得違の趣達て利害為㆓申諭㆒候処、孰も致㆓承伏㆒一旦は引取候へ共、其後又々大勢の百姓共度々相集り、既に昨廿日には凡三四万人に及び候て、兎角同様無㆑謂申立は、対㆓公儀㆒候ても恐入り候筋故、尚其内役人共差出し、心得違不埓之旨、精々申含め相宥め悉く致㆓従腹退散㆒候得共、多人数度々群立候儀に付、尚此段御届申上候。已上。
二月廿一日 酒井左衛門尉
此書付、江戸へ三月七日御届に相成候由。右之通に御座候。
【 NDLJP:109】 丑六月廿一日、御差出の御聞置書写
【酒井左衛門の聞置書】私是迄の領分田川・飽海両郡の百姓共、兎角愁訴之一念相止不㆑申、最前ゟ夫々急度申諭し、手当向無㆓油断㆒申付置候者勿論に御座候得共、不㆑惜㆓身命㆒忍出、度々及㆓御駕籠訴訟㆒、既に越前守殿ゟ御沙汰向御座候に付ては、猶又厳く密に為㆑致㆓手当㆒、役人共土着同様差出し、厳しく制止置候処、誰魁首と申すも無㆑之、夜中等五人・七人・八九人宛密に忍出て、無㆑路深山を抜出で、又は小船に取乗り風波を侵し、先々月末ゟ先月上旬迄、余程多人数罷登候の由相聞え、其向役人共不取敢致手分追駆つれど、中途ゟ為㆓引返㆒候者も有之、兼て最上越後筋へ足軽共差出置候手にて差戻候も有㆑之、又右役人共差留候を恐れ、何方へ潜居候哉、一向不㆓相知㆒者も多分にて、役人共無㆑拠此表迄致㆓参着㆒、御府内口々は不㆓申及㆒四方其最寄に無㆑之所迄手当相増し、船路等も悉く致㆓穿鑿㆒押捕、屋敷へ引取候人数為㆓相改㆒候処、庄内抜出候人別に相違無㆑之、尤追々罷登候次第、具に遂糺明候処、別に子細無㆑之、全く引離候を悲み、永城歎訴之心掛、又は長岡へ是非罷越度抔無㆑謂事のみ申聞候。且又右抜出候者共の内、彼此人数追々三百余人、仙台領通り候処、松平陸奥守役人致㆓出張㆒、多人数の儀に付通行差留め、逐一承㆑糺候上、再三利害為㆓申聞㆒、右之内五人引留め、其余は不㆑残引返し右之趣同人役人ゟ、在京家来共へ及㆓掛合㆒、差留置候五人の者も引渡受取候段申越候。私庄内発足前、丁寧懇志に申諭し致㆓承服㆒、其後も無㆓油断㆒役人共為㆑致㆓出張㆒、増㆓手当㆒厳重に致置候得共、表向は農稼出精の様為㆓相見㆒、夜分等忍々抜出で、無㆑路深山を越え或は小船にて海上相廻り、剰へ仙台領相通り、被㆓差留㆒候砌、彼是愁訴等、愚昧の者共不埒至極の致方、於㆑私迷惑至極存じ候間、夫々急度咎申付置候。道中ゟ引戻し候者も余程有㆑之候得共、此表にて押捕へ候人数も二百人に余り及び申候。近々手分け為㆑致警固差下可㆑申、此節柄少人数にも無㆑之、御関所罷通り、其上於㆓仙台領の始末㆒、他に引合にも相成り、尤も最初ゟ無㆓油断㆒手当者致置候処、御沙汰向も有㆑之、猶又厳密申付置候得共、前段之次第にて、何分無㆑拠恐入奉㆑存候。依て猶取締方精々沙汰致し置き候。此段御聞置被㆑成可㆑被㆑下候。以上。
六月 酒井左衛門尉
【 NDLJP:110】同五月中、庄内二郡百姓、仙台領通行三百人余有㆑之、伊達弾正殿御出馬御利解、三百人余庄内へ御返し、五人五月末酒井家代官中村右門へ御引渡し候始末、御評議の上公儀御届書之写
【松平陸奥守より庄内百姓の事聞届出の書】松平陸奥守国許玉造郡の内、尿前と申処へ、去月五日、羽州庄内田川郡・飽海郡の百姓共、松島一見の由にて、五人・七人と申様、追々三百余人相成候に付、怪しき儀と通行差留め、先以て右最寄り駅場々々に止宿為㆑仕置、其筋役人差出、尚承届候得共、委細別紙書取之通り、数百年来御高恩を受け、今更離散不㆑堪㆓悲歎㆒、方々ゟ身命を抛候ても、御所替御沙汰止みに相成候様仕り方願の旨、無㆓幾応㆒申出、右様の事は不㆓容易㆒恐入候事に御座候間、再三利害申諭候得共、落涙一言之申開無㆑之、尚又種々相諭候に及㆓納得仕㆒、依ては外に子細も無㆑之候に付、右人数の内五人相残し、外者共帰村為㆑仕、右之趣酒井左衛門尉役人へ、其筋役人共ゟ及㆓掛合㆒、役人出張の上、右五人の者も引渡申候。尤も右百姓共願書可㆓受取㆒儀に無㆓御座㆒候間、其儘差戻候之旨、国許役人共ゟ申聞候。如㆓前文㆒大勢挙て領内へ相越し、悲歎恋慕の状、不㆓容易㆒儀に御座候間、此段御聞置被㆓下度㆒候。以上。
六月 松平陸奥守
同六月廿一日大御目附へ御届書之写
今般左衛門尉所替被㆓仰付㆒候に付、庄内領の百姓共、去冬已来度��府仕り、御老中様方を始め、其外御役向へも御駕籠訴仕り候段、左衛門尉儀は不㆑及㆑申、於㆓家来共㆒も深く奉㆓恐入㆒、在所表取締の儀は、兼々無㆓油断㆒申付置候へ共、猶又在々・村々へ役人共差出し能々利解為㆓申聞㆒取鎮め、領内境口々へ其番人相増し厳重為㆓相守㆒、於㆓御当地㆒は当春巳来、諸方往還筋千住・松戸・板橋・新宿・品川等の宿々へ目附役・足軽中間四五人宛止宿為㆑致置、庄内百姓共見当次第取押へ候手当仕り、御府内旅籠屋へも右百姓共致㆓止宿㆒候はゞ、早速致㆓注進㆒候様申付置き、其外両下馬御役屋敷辺へも、日々目附役下座見足軽等差出置き、其後追々罷登り候百姓共、旅籠ゟ注進申越し、又は下馬にて取押へ候者共、是迄庄内表へ差下し候。右百姓共、其節に相糺候共、領内往還出口々々は厳敷警固有㆑之通行難㆓相成㆒、鳥海山・月山等の深山幽谷を相越え、【 NDLJP:111】険岨の艱難を不㆑厭、道も無㆑之山路を抜出で、海辺の者共は漁船又は手船等にて、他領へ罷出候趣申聞候、尤も路用に貯へ無㆑之者は、田畑・家財等を売払ひ、中には妻子を奉公に差出し、路銀調達之者も有㆑之由に御座候。一体辺鄙愚昧の百姓共、一図に凝固り無㆑謂歎願申立候条、不埒至極にて御座候へ共、何分両郡百姓共一致の儀には、農業に相障り、厳しく各申付候事も相成り兼ね、誠に当惑仕候。既に先達て水野越前守様ゟ御逹之趣も御座候間、左衛門尉儀は不㆑及㆑申、家来共一同奉㆓恐入㆒、領内手当向猶又厳重申付置候。然る処今度又々百姓共多人数領内罷出候趣相聞候に付、郷方掛り役人郡奉行・郷目附・代官手代の者召連れ、近国往還筋諸方へ手分致し、見当り次第引戻し候手当には罷出候処、中途ゟ引戻も有㆑之、最上越後筋へ兼て足軽共差出置候手にて、引戻も有㆑之候得共、右様役人共罷登り候を承伝へ、弥々間道に潜居候哉、往還筋にては其後見当り不㆑申候。段々罷登り御府内近辺宿々へ右役人共罷出居り、追々罷登り候百姓共、品川・松戸・板橋は勿論、向寄に無㆑之口々船路迄悉く致㆓手当㆒、見当り取押へ、屋敷へ引入候者共、此節迄都合二百廿三人に相成申候。右の者共夫々相糺候処、庄内両郡の百姓其申合せ、左衛門尉永城之儀、猶又歎願の為、密々四五人或は七八人宛忍出で候処前条の通り領内口には不㆓申及㆒、間道迄も厳重手当有㆑之候間山詣道者に相紛れ、他領へ罷越し、或は漁船にて越後路へ罷出で、其外御大名様方領内御通行の節、夫役に出候者直様罷登候由に有㆑之、右何れも往還筋不㆓罷通㆒、野道・畑道を撰み通行致し、止宿等不㆑仕、行当次第野宿致し罷登り候内、途中にて落合ひ、一群十人・廿人と相成り出府仕候趣、段々遂㆓糺明㆒候処、別に子細無㆑之、兎角引離れ候を悲み、永城歎訴之心掛、又は長岡へ是非召連呉候様存詰候外無㆑之候旨、種々愚昧の不弁より無㆑謂事申聞候。右の外に三百人余り仙台領通行致候処、多人数無㆑謂通行の儀に付被㆓差留㆒、精々預㆓利解㆒漸致㆓納得㆒、領分へ引戻し、其内五人被㆓差留㆒、在所役人彼方御役人引合之上、是又引戻し候趣、右に付於㆓在所㆒、夫々役人共猶又精々取調の上捕押へ、前文中途より為㆓引戻㆒候者も彼是弐百人余に相聞え申候。尚又取押への為め、近国へ追々役人共差出し、境目口には申すに及ばず、海辺・山路厳しく手当中付置き候得共、何分庄内二郡の百姓共、一同【 NDLJP:112】一図に死を相極め存詰め候事に相聞え候付ては、自然制止方行届兼候姿にも相聞え可㆑申哉と、一統甚以て心配当惑仕候。此段幾重にも厚く御含被㆓成下㆒候様仕り度奉㆑存候。已上。
六月 酒井左衛門尉内 関茂太夫
丑七月十七日御老中御連名、御奉書到来、明十二日四ツ時可㆑令㆓登城㆒之旨、御不快故為㆓御名代㆒、本田隼人正様〈江州膳所若殿也〉御登城之処、御老中列座之上、水野越前守様被㆓仰渡㆒。
【所替中止】思召有㆑立、今度所替不㆑被㆑及㆓御沙汰㆒、其儘庄内領被㆓下置㆒候。
酒井左衛門尉名代 本田隼人正
思召有㆑之、不㆑及㆓所替㆒長岡領被㆓下置㆒候。
牧野備前守名代 牧野玄蕃頭若殿
不㆑及㆓所替㆒、大蔵大輔願置候次第有㆑之、二万石御加増被㆓付仰㆒候。
松平大和守名代 山内遠江守土佐之分家
右恐悦被㆓仰出㆒候。本田隼人正様御下城は、八ツ時少し過にも相成候得共、江戸中評判は昼時頃より致し候哉、同日着六ツ時止、庄内両郡の百姓何れも隠居り候哉、又何方にて相図仕り候哉、五人組・十人組として、西瓜一宛献上とて、相集り候人数凡三四百も可㆑有㆑之候歟、右の者御役家又は外御大名様方へ入込み奉公致し、或は乞食又は其日過ぎの商ひ、色々姿変へ入込み有㆑之候哉、前段御召捕の余りに御座候。右之趣態々飛脚之者申居り候事。
早追にて恐悦庄内へ被㆓仰下㆒候御使者、
御使番三百石 奥津弥伝次
右神田橋十二日八ツ時出立、庄内十六日夜六ツ時着。道中追々人足定式十二人之処、五六十人駕に付、庄内着の頃は百姓共も駕につき、追々六七百人に相成申候。
一、庄内其夜市中夜通にて往来ばた向□て酒宴開き候由、誠に賑々しき儀に御座候。
天保十二丑七月十七日ゟ同八月朔迄庄内御郡中恐悦献上 左之通
【 NDLJP:113】【庄内百姓の献納金】一 田川山浜郡加茂金貮千両 秋野茂右衛門 、一金七百両 酒田二の町中 、一 酒田金千両 伊藤四郎右衛門 、
一 鶴ヶ岡金三百両 金屋幸右衛門 、一 同別家金二十両 金屋富治郎 、一金五十両 脈屋大策、一金百両 肴屋大八木、一金三百両 西海三郎右衛門、一金二百両 村井千右衛門、一金百両西海有次、一金三百両 鷲田長兵衛、一 長兵衛別家金二百両 鷲田仁兵衛 、一金百五十両 西海五兵衛、一金百両 西海順吉、一金二百両 三井、一金五十両 大山御領酒屋中、一金百両 田林半九郎、一金十五両三日町問屋中、一銭百貫文、八日町旅宿屋中、一金百両 永井喜兵衛、一金十両 三日町与助、一金三両一歩・銭八貫三百五十文 八日町小前者共、一金五十両三日町帯屋、一御□五ヶ年献上、 御家中足軽外に金三十両 三浦菊三郎 、一金五十両 柴田慶蔵、一 新堀村金三百両 孫右衛門 、一金二百両 同村勘蔵、一金百両 添川村鈴木弥一右衛門 、一 羽根田金五十両 喜右衛門 、一金二十両 金子民弥、一米百俵 新奥屋弥右衛門、一金二百俵 田中徳右衛門、一金百俵 小野田吉右衛門、一餅五重(〈差渡五尺〉)美濃藤島 組、一同五重・同こんぶ細切長沼組、一弐斗入十樽・鰹節二連 田沢組、一御樽五荷・鰹節昆布 添川組、一上々白搗十俵・鰹節二連 黒川組、一昆布二十・御肴代金子五十両・御樽一荷 京田組、一御樽一荷・御肴代 御預り所下余目金五十両 御田組 、一てんこ一台・たなご四台由良組一餅二重・するめ 黒川一把 能役者中 、一餅二重狩川組、一三斗入酒二樽・しほ鮎二桶本郷組、一長芋五十本・昆布二把・酒一樽・肴代金五十両京田組、一御酒一荷・鰹節五連 跡組、一御樽肴・鰹節 田沢組、一五重三俵餅・白木五斗入之酒銘鶴命亀の寿石持かじか青龍寺百姓、
鶴亀の齢も永く御城持猶も石持添へ奉るなり
日本に御名のかゞやく鏡餅御国たもちて民のしり餅
庄内ぶし飽海郡中川北の踊歌
かけごゑ 御所替もおやめになりました。 やれ〳〵おめでたう存じます。
万代の君をとゞめて我等まで豊なる世に大泉
養老の滝のようたのそして大浜焼腹合せて婚礼のさいたようたの〳〵
汲むとも尽せぬ亀ヶ崎草木もなびく時津風
目出度ひ酒井そのはやりうたで一ツおとろて〳〵
【 NDLJP:114】 はや船錠で留る君の御船は国のつなよい〳〵。松も色増す時なれや。
右の外酒田金持衆献上金未不㆓相定㆒、第一本間家一統、矢橋・大屋酒田郡中追々献上、鶴ヶ岡にては地方林其外未定に候由。
大坂御舘入御永城恐悦献上
〈御扇子料〉一白銀五枚 上田三郎右衛門、〈御馬具料〉同五百枚〈御蔵元〉米屋喜兵衛、〈御肴料〉同五十枚肥前屋篤兵衛、〈御扇子料〉同二枚 大津屋新助、〈同〉金一両〈篤兵衛手代〉肥前屋十兵衛、〈御酒料〉白銀五十枚〈摂州神戸〉俵屋利三郎、同五十枚、〈同二つ茶台〉木屋藤左衛門。
八月廿日於㆓大阪㆒、御蔵屋敷・大阪御舘入・神戸其外船掛り口入迄御料理下され候事。
酒井左衛門尉家来留守居 関茂太夫
右之者儀、去子十一月朔日、主人領分替被㆓仰付㆒候上は、歎願致迚相戻り候筋は無㆑之処、主家の為めと存じ迷ひ、一己の取斗ひを以て、元御側衆水野美濃守家来西川滝之進其外へも歎願いたし候段、聢と音物等相贈候儀は無㆑之共、右始末不埓につき、押込申付け候。
同人家来郡代役 石川権兵衛
右之者儀、主人領分替於㆓在所表㆒、同役共領内の者へ申渡し候処、領主の離別を歎き、去る子十一月已来、追々百姓共御当地へ出で、重き御役人方へ御駕訴致し、主人方へ引渡しに相成、在所表へ差出候者有㆑之、不便に存じ候迚、自分心得を以て、聊かながら手当金差遣し候段、既に外百姓共賞美受け候儀と心得違ひ致し、尚又駕訴致し候仕儀に至り候段、麁忽の取計ひ、右始末不埒につき押込申付け候。
八月十二日
右矢部左近将監宅に於て申渡。
以上庄内大坂蔵屋敷ゟ、右館入上田三郎右衛門が借り得て写せる所也。
一、先達て庄内の沙汰申上候。全く実説と被㆑存候、漸く右所替止み候に付、相分り申候。先達ての儀も申出候風説申触す訳も有㆑之候。此節川越不取沙汰にて、誠に大和守様にも面目無㆑之次第也。
【 NDLJP:115】一、大和守様御家来小熊小仲太・鈴木宗蔵其外八人計り、四月朔日立にて川越ゟ庄内へ罷越し、何角の取調に罷下り候由。此人々庄内家中の内、両三人并当時浪人者、御領分高持百姓の内、数多大和守様方に相成り、右役人へ□を以て附従ひ、江戸表へも罷越、大和守様へ入込み、或は家来になりし者も有㆑之。大和守様引移の上にて、何れも夫々に役付度き趣を願ひ、追従致し、金子五百金も差上げ、御紋付をも拝領せし者も有㆑之候由。多くの農商何れも一統に信義を尽せる中にも、又斯様なる不埒者も有㆑之故、此者共は追つて取締の上、欠所・追放等相成候由に承り申候。是迄にも庄内の悪説を申触し候も、川越の不評言語に絶したる事故、是を妨げんとて、一是等の悪徒等川越の役人共と申合せて、跡形もなき事を事々しく言触せし者なるべし。酒井家の由緒歎願の趣、悉く道理に当り、領中一統の愁訴投㆓身命㆒の鉄石心、天下の人をして大いに感動せしむるに至ること、全く数代仁政を施し、民を撫育せられしに、当侯又至りて仁君なる事顕然たる事也。又川越の不評なることは、言語同断なることなり。
右庄内の一件の如きは、神君世を知召してより、元和已来、天下に無類の事にして、酒井家代々仁政を施せし積善顕れ、当侯の仁慈諸人の知る所なり。此故に国人幼子の慈母を慕ふが如くなるに至る。実に諸侯の亀鑑となるべき事なり。
牧野備前守様御所替に付、在江戸御家中へ被㆑遣候書付之写
此度所替仰せ蒙り難㆑有き事に候。乍㆑去宝性院殿御武功を以て、拝領以来二百廿四年苦楽を共に致し候地所、自分代に至り他所へ引移り候条悲歎の至り、家中の者共同様に可㆑有㆑之、殊に銘々先祖よりの墓所に離れ、其外万事幾許の哀愁深く察入り痛心の事に候。然れ共公命に依つては水火をも辞すべからざる家柄の儀、殊更大家の跡へ移転命蒙り候はゞ難㆑有可㆑存之処、万一不心得之眼中唱へ、又は不慎の次第等有㆑之候ては、公儀に対し恐れ多く、家に対し不孝之事に候。唯々勝手向差支の時節、当惑之至りに候得共、含も有㆑之候間、一統艱難を忍び平穏其事に引移相済し、家中風説の外聞宜しき様致し方也□心掛け候儀、第一之誠忠に候条、急々末々の者【 NDLJP:116】迄希ふ所に候。猶自分心中委細頼母へ申含め、不㆑遠差し下し候。
〈牧野侯は先年より京都諸司代を勤め、仙洞様御崩御等の御大礼等を相勧め、過分の物入等これありし事は、諸人の能く知れる所にして、勝手向の困窮なるは左もあるべき事に覚ゆ。所替の入用、京都町人を頼みて手当せられしが、其事止みし故、之を断られしと云ふ噂なりし。 〉
乍㆑恐以㆓書付㆒御歎願奉㆓申上㆒候
【庄内百姓歎願書】酒井左衛門尉領分、羽州庄内田川・飽海両郡十八ヶ村百姓総代三十三人の者共、一同奉㆓申上㆒候。去る子年十一月中領主所替仰せ蒙られ候趣承知仕り、一同驚入り奉り悲歎愁傷に堪ず罷在候。元来当御領主の儀は、二百二十ヶ年已前御出国、初めて鶴ヶ岡御再興有㆑之候程の儀と承知仕り候。元来右両郡之儀は、湿地多□□にて、最上川其外川々数多有㆑之、荒地同様にて全く御高丈け無㆑之程の場所、多年御丹誠遣され御手元御入用にて、右川々屈曲水吐等宜しらざる場所は、夫々堀割或は海辺へ切落し、種々御手入在らせられ、水損等の災害無㆑之様罷成、其上追々新田畑開墾等遊され、近年御高並に罷成り候趣、然る処往古より変難有㆑之候年柄は、莫大の御高恩を蒙り領内の者共一同安堵に相続仕り、就中近年に相成り、去る巳年当領の儀は、前代未聞の大凶作にて、餓死にも可㆑及候処、領主役場に於て、総家中へ格外の省略仰付られ、右余米を以て領内百姓共へ御救被㆓成下㆒、其上精力衰へざる様にとの御趣意を以て、鮭塩引・鰹節等迄、村々家々人別にて下し置かれ、在町の分は日日米穀御手当又は拝借等仰付けられ、諸国より米穀莫大に御買ひ入れ、御撫育被㆓成下㆒候に付、孤独の者に至る迄餓死仕らず候段、誠に以て広大無辺の御恩沢、重々難㆑有一同感涙を流し、右御高恩九牛の一毛も奉㆑報度く心掛け、農業出精罷在候へ共、兎角連年凶作相続き、別して去る申年迄は当領内冷気強く、村々諸作共皆無にて、
天保十二丑年六月 酒井左衛門尉領分 羽州庄内田川飽海両郡百姓惣代
菅野村 永蔵
外三十二人
久保田御領主様
右書面丑六月廿二日、佐竹侯於㆓御領分㆒御川狩に御出張の処へ願ひ出で候に付、川狩延引、直に御城内へ御引取り御評定の上、七月二日於㆓江戸㆒、御屋敷留主居田代新左衛門取扱ひ、公辺へ進達、同十二日願済に相成。
此書面天保十四癸卯年三月廿一日江戸住人
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