浮世の有様/6/分冊2
娘道成寺の作替へ井伊掃部頭が事水戸侯水野越前守殿を諷諫高松侯家中の闇闘落首おみくじ作かへ落首落首矢部駿河守の横暴水野越前守の事出羽庄内と酒井侯松平大和守の所替川越候と大坂町人国替と豪農本間登野江酒井侯と大阪町人牧野侯国替の事作者国替の騒動を批評す酒井候出府延引庄内の百姓上京出訴えせんとす御殿御廻状御殿廻状倹約令役替の面々太田備後退役真田家財政困難の理由日蓮宗繁昌感応寺と奥女中の不義三諸侯所替のこと文化末の物価騰貴と不景気京都の倹約令大阪の倹約令享保寛政の触書寛政の倹約令天保十二年五月の倹約令十二月の倹約令絵本出版に就処刑所替の命令大阪大御番永井伊予守の貪欲
上に恨はかず〳〵ござる。初手の沙汰を聞く時は、寺中
四月十六日封廻状
奥御奉公御免、菊之間縁頬詰。 御側衆 高八千石 水野美濃守
右於㆑奥被㆓仰付㆒之
申渡之覚 高一万八千石 林肥後守
名代 深尾小源太
其方儀、兼々勤方思召に不㆑応候に付、御役御免、菊之間縁頬詰被㆓仰付㆒、御加増之内【 NDLJP:41】八千石被㆓召上㆒差控被㆓仰付㆒、居屋敷家作共被㆓召上㆒。
右越前守宅に於て、掃部頭老中列座、越前守申渡之。大目附跡部美濃守・御目附小出丹吾相越す。
申渡之覚
水野美濃守
名代 井上左太夫
其方儀、兼々勤方思召に不㆑応候に付、寄合被㆓仰付㆒、御加増之内五千石被㆓召上㆒差控被㆓仰付㆒、居屋敷家作共被㆓召上㆒。
新番頭格御小納戸 高七百十四石九斗 美濃部筑前守
名代 花房長左衛門
其方儀、思召に不㆑応候に付、御奉公御免。小普請入甲府勝手被㆓仰付㆒、知行之内三百石被㆓召上㆒、差控被㆑仰㆓付之㆒。
右堀大和守宅に於て、若年寄中出座、同人申渡。大目附初鹿野美濃守・御目附水野舎人・一色主水相越す。
四月十七日
右之外、奥女中二十余人、外にも大勢これある由、先年水野に楯突き、大坂へ御用金又金銀吹替の事など、相拒みし御勘定奉行を勤め、西の丸留守居に転役せし矢部駿河、同日に召出され町奉行となられしと云ふ。
井伊掃部頭
【井伊掃部頭が事】兼て願の通り御役御免被㆓仰付㆒となり。此人にも大老となりし始めよりして、至つて不評判なり。既に其節の悪口に、「世にいらぬ花橋が二本はへ」と云ひて、脇書に井伊感応寺と書記せしことありしが、此人大老となられてより、種々の大変限りなし。うか〳〵として勤め居なば、如何なる御咎めあらんも計り難き事なる故此度退役せられし事ならん。併自分の心付か、外より勧めし者有るか、又家来の中に其心得あつて之を諫めしものか、何にもせよ此度退役をなさずしてありなば、大変なるべし。之を遁れぬるは、全く大家のことにして、先祖の余徳によれるものと思はる。
【 NDLJP:42】【水戸侯水野越前守殿を諷諫】水戸侯、御老中水野越前守殿へ使者を以て申遣さるゝやう、「我等事近年多病にして、副将軍の大任勤め難ければ、何卒十年の間御暇を蒙り、国許に引取り養生致したし、此段宜しく執成給はるべし。又夫には別段御頼み申度き事あり。尾張殿・紀伊殿の両家は、何れも国富みて産物等も多分に出づる事なれども、三家の中にても、此方の領分は、至つて宜しからざる悪地にして、何一つの産物なく、勝手向も大に差支へぬる事なれば、其元の計ひを以て、何卒奥羽の間にて、二十万石下し置かるゝやうに取斗ひ給はるべし。さある時には、当時の領国速にさし上ぐべし。何事に寄らず賄賂さへ用ひて頼み込みぬる時は、其願相叶候由兼て承りぬ。先今日使者を以て此段御頼み申入れ候印とし、盲馬五匹之を進上致すなり。尚賄賂入用に候はゞ、何程にても御噂有るべし。跡よりして追々差出すべし」となり。右の如く申入れられ、越州より有無の返答を聞切候て引取るべし。其返事承るまでは決して引取るべからずと、申付けられて遣されしと云ふことなり。いかゞなり行くことにや、越州の世評甚だ宜しからざる噂なり。
【高松侯家中の闇闘】高松侯家中至つて不取締にて、江戸定府と国方の家中と思ひ〳〵に、銘々勝手次第に諸事取計らひぬる事故、物入等も至つて多く、侯にも大に貧乏せらるゝ様になりぬるにぞ、種々評定あつて、定府の家中一人も残らず国勝手申付けられ、国許より入替りて江戸勤をなすべしと、申附けられしにぞ、定府の者共是迄繁華なる江戸に住みて、何事も自由自在に侯命を戴きて、思ひの儘に働きしに、国勝手になりぬれば、何事も不自由なる故、何卒して此事相止みぬる様になさんと思ひぬれども、己等が力にては及び難き事なる故、公儀御役人へ取込み、此事止みぬるやうになし貰はんと、頻に賄ひせしことなりと云ふ。彼の五十端のぼた織・二万両の金子紛失せし事不審なれども、定府一統斯様のことなる故、同家に於て其吟味六ケ敷き故、水戸侯の御計ひとなり、夫よりして公儀御役人方、残らず高松家中の者共よりして、各々方へ何にても進上せしことありしや、其事承り度しと使者を以て、御用掛り夫々へ尋ねられしにぞ、何れも大困りにて、有体に云へるもあり。又少々の物貰ひしと云へるもあり。又何をも貰ひ申さずと、之を偽れるもありて、をかしき事なりと云ふ。ぼた織五【 NDLJP:43】十端・金子二万両等の紛失も、大方分りぬるやうになりしと云ふ噂なり。
【落首】水野越前 請つてもはげねは化の皮かぶり水乃の加減はよいかわるいか
水野脇坂 気のきいた親父は跡を追うて行ききかぬ親父は困つても居る
林肥後 馬鹿はやしばちも太鼓も投出し
千早振る卯月中ばは悪日よ金取る武士をせいばいぞする
美濃部 甲州に身延山とは聞きたれど美濃部さんとは山が違つた
林肥後 御偉止が明いて太鼓にばちあたり林どころか居る処もなし
ほとゝぎす此頃不得て飛びはやし八千石は鳴いてかへらぬ
美濃部 五月雨もまたふらぬのにさくら田も露にれがすは水の身の毒
雨降りに甲府に行けといはれては美濃部も笠も乾くまもなし
大和さまがおのが手桝で味噌をつけあぢがかはつて何と庄内
太田は天下の真中で、林と美濃部をしてやつた。こんな太い奴は滅多にはネエ、水野ら五十石たゞすてた。
水野林 肥後すひきなぜ越前を巻込ぬ遠州浜松ふといよふてほちい
【おみくじ作かへ】
第百年目凶 | 権門一時亡 | 望の如く高禄に昇ると雖もかゝるひどきめにあふ |
家内驚騒声 | 家財雑具を一時にはこび出し急の引越し大方ならず | |
雖有金銀多 | 諸侯諸士より金銀をつかみ取りし故有得になると雖も住所に迷ふなり | |
三人成無庵 | 金銀をちりばめた家を作ると雖も急に取上げられその尽置いて立去ること有るべし |
【落首】
林・水野美濃部等のことをいへる落首
肥後米と美濃筑前が下落して跡の相場は評議まち〳〵
林肥後守の紋は三ツ巴なるゆゑに
川柳 御停止があくと太鼓は破れけり
肥後ろから兼ねて覚悟はしたれどもかう林とは思はざりけり
おもだかは水乃上野の大細工林につれて高はせり上げ
聞書 中野播磨守隠居中野石翁 右於㆑奥家督人へ御書村を以て被㆓仰渡㆒候よし。〈但向島屋敷被召上候由、尤も屋敷計りなり。〉
御作事奉行 土岐信濃守
林肥後守居屋敷家作共被㆓召上㆒候間、引越等諸事可㆑致㆓世話㆒候。
右水野越前守宅にて、同人申㆓渡之㆒。
御小性組番頭 土屋伊賀守
水野美濃守居屋敷家作共被㆓召上㆒候間、引越等諸事可㆑致㆓世話㆒候。
右堀大和守宅に於て同人申㆓渡之㆒。
【落首】越前の奉書紙もいかならん美濃紙さへもやれる世のなか
筑前の博多の帯はしめきられ甲斐へ行くとは余り御無体
甲州の身延山とは聞いたれどみのべさんとは是生始めて
ぽん〳〵のばち当りしかばかはやし肥後の守の祭なり鳬
梅はちる桜田かるゝ世中に何とて肥後はつれなかるらん
小水出て美濃部林の流れけりまた大水の出るであらうぞ
沢潟は小さい方が先へかれ停止明けまつ御林が初めなり
筑前めそれ美濃肥後が目にあつた
田口加賀守改名狸かゞの蔭
田口の妻と水野越前守妾美濃守ならんかとは姉妹故、近年かゝの蔭にて大に立身せしと云ふ。此人嚊の蔭にて長崎奉行を勤め、帰府の上五百石の御加増にて、御勘定奉行となられしに、長崎にて頻に賄賂を取りし事相知れ候故、纔三十日計りを経て、五百石被㆓召上㆒、小普請入被㆓仰付㆒。始め五郎左衛門と云へる人なり。
四月十六日江戸表雨風大雷に付
天が下鳴渡りたる太鼓紋落つるもはやし肥後のかみなり
罰あたり太鼓の金も破れけりはやしどころか居処がない
飛ぶ鳥を落せし事はきのふけふ沈みきつたる水野美乃上
千早ふる卯月八日の二つ目に金取る虫をせいばいぞする
【 NDLJP:45】美濃いらぬそばはいやだと御意が出る
御停止がすんて太鼓にばちあたり
江戸南町奉行御免西の丸御留守居被㆓仰付㆒ 筒井紀伊守
江戸南町奉行被㆓仰付㆒ 矢部駿河守
御本丸御側被㆓仰付㆒ 新見伊賀守
【矢部駿河守の横暴】矢部駿州町奉行仰付けられし日直に頻に賄賂を貪り、権勢を振へる与力・同心数人暇を出せしと云ふ。
太田備後守殿、五月廿七日迄登城ありしが、廿八日に至り、急病差起りし中にて、退役の御願ありしに、直に御免にて、三日の内に御役屋舗立退候様被㆓仰渡㆒しと云ふ。是迄斯様の願出さること有りても、公儀御差止にて、篤と養生可㆑致由仰渡るゝ事にて、二三十日を経て、再び御退役の御願あつて、御聞済に相成り、御役屋敷も勝手に引払候様にとの事の由。然るに今度斯様なる故、種々の風説あり。昨日殿中に於て、水野越州と争論ありし故なりと云ふ噂なり。
【水野越前守の事】水野越前守殿には、右大将様御年頃に成せられ候故、右姫様と御婚礼の掛り仰付けられ御馬拝領にて、益々勢盛なり。水野家何れも沢潟の紋所なり。越州の紋計りは沢潟の根に水の模様あり。故に落首せしものありしとぞ。
おもだかのかれぬは水乃ある故か
跡部美濃守殿にも、大目付退役を願はれ隠居せられしと云ふ。此人も虎威によつて大に権勢を振ひ、至つて不評なりしにぞ、越州より之を勧め、事なき内に隠居なさしめしと云ふ噂なり。
元来往古は、奥羽一円に蝦夷と唱へ、王化にも服せざる程の荒夷なりし故、京よりして之を征伐し給へる事数多度の事なりしが、漸〻王化に服する様になりしにぞ、奥羽一円に之を陸奥と唱へしが、中古また之を分ちて二つとす。出羽の国これなり。其二つに分ちぬる所の陸奥さへも、他邦に於て之に比すべき国なし。出羽も亦これにて知るべし。斯くの如く大国なれば、古よりして英雄・豪傑又は叛逆人等数々蜂起し、何れも其翼を延べんとする事なる故、互に劒戟交へて合戦絶ゆる間なき国な【 NDLJP:46】るにぞ、神祖世を治め給ふと雖も、未だ乱後間もなき事なる故、御譜代多き中に於て、【出羽庄内と酒井侯】酒井左衛門尉を御選みにて、奥州を押への為めに庄内へ遣し給ふ。尤も其頃迄は、山林広野のみ多く、肝心なる田畑等は至つて少なく、領地広大なれども至つて悪しき所なりとぞ。上にも之を委しく知召しながら、左衛門尉に賜り、同人も其選に当りし事を深く辱として、早速に引移り、夫よりして山野を開き、田畑となし、河水を引きて田畑を潤し、二百余年の星霜を経て、他国に比すれば領地も広く、家富み国栄え、庄内は至つて宜しき土地なりと、世間にもよく知りて繁昌せるやうに成りしは、全く酒井家数代の功にして、政道正しく、能く百姓を撫育せし故なり。斯る由緒ある家筋なる故、御譜代の諸士大抵所替せざるはなき位のことなり。已に此度庄内へ所替仰蒙られし川越の松平大和守には、之迄所替せしこと九度に及ぶと云ふ。斯様の類少からざることなるに、庄内に於てはその事なし。これにて思ひ量るべし。
当時の大和守殿御養子〈大蔵少輔殿には〉大樹家斉公の御子にして、殿には此家を嗣がせ給ふと雖も、川越は領内も狭くして、【松平大和守の所替】収納至つて少く、借財至つて多くして、勝手向不如意なる所より、金子五十万両の拝借を公儀へ願ひ給ひ、此儀御聞済下置かれ候か、左なきに於ては、宜しき所へ国替仕りたき由、内々にて御願ひありしゆゑ、この段国替の台命ありしと云へる巷説を、もつぱら言ひ触らしぬ。いかなることにや、真実を知らず。
又一説に、庄内の領中に銀山有りしを、公儀へ御届申上げずして、年来私の徳分になせしと、又領中の者似せ金を拵へしを、公儀よりの隠目付これを見付け、直に踏込みて之を召捕へしと云ふ。〈隠目付等諸国を忍見し、斯様の事を見聞すると其儘、江戸表に帰へりし上、之を届けぬれば、公儀よりして夫々の地頭へ其御沙汰ありて、御役人入込となり、地頭より之を沼捕御手渡すること定法なるに、此人之を召捕り、其身の手柄にせんとて、かゝる事に及びしと云ふ。〉庄内にて評定有り、公儀の御役人ならば此方へ其御沙汰之あるべき事なるに、〈〔頭書〕御養子大蔵大輔には、五月十五日逝去せられしが、台命によりて六月五日上野へ葬らる。これ迄外に先例なき事なりと云ふ。されども公儀よりして、斯様に仰出さるゝ程の事なれば、葬礼も公儀へ対し麁末の計ひもなし難き故に、入用金子一万両余のことにして此金の工面に大に困り果てられしと云ふことなり。〉 其事もなく、かゝる有様は公儀を騙れる曲者なるべければ、其者召捕ふべしとて、直に其者を召捕へ、辛き目に合はせしことあり。斯様の事によりて、此度所替仰付【 NDLJP:47】けられしと云ふ風説もあり。如何なる事にや。
又小坂と云へるは、奥羽の国境に在る所の峠にして、若し叛逆人ありて、奥州より出来れることありぬる時は、此峠にて防ぎ止る要害の場所にして、至つて嶮難なる峠なり。百姓共の歌に、
奥の小坂も酒なら越すにあをい面して越されるものか
斯様に領中の者共謡ひぬる由、酒は酒井の事にしてあをひは葵のことにして、川越侯のことをいへるなるべし。
庄内百姓共の中にても、御国替のこと御免なくして、弥々川越と交代になるに於ては、川越の士一人も残らず之を打殺し、銘々一命を果すべし抔いへる者もこれ有る由。
簇の印に正一意居成大名じんと書記せしも有りと云ふ。総大将をば野田甚四郎有近と云ふものなるよし。
此度所替仰付けられしに就きて、三家共金子借入の役人、大坂に出来りて、夫々館入りする所の銀主を頼む。先づ川越侯に館入れる町人は、鴻池伊助・升屋平右工門・山家屋権兵衛を重立てる者にして、【川越候と大坂町人】銀主と唱へぬるもの凡五十人余りありと云ふ。此者共よりして此度国替の手当金として、五万両借用致したし迚、元〆元方用人・家老追々に立替り出来りて頼みぬれ共、これ迄何れへも不義理のみなしぬる故、これを心よく諾ふるものなく、漸々と二万五千両の金子を、五十軒余の者共調達すべきに定まりぬるにぞ、其金子早く受け取るべしと、頻に之を急ぎぬれ共、庄内の百姓江戸表に出でて駕訴訟をなし、領中大いに騒動をなすに依り、御所替も止みしなど種々の風説これあるにぞ、約せしまでにて其金子何れも出さゞれば、大差支にて困窮せらるゝと云ふ。
四月始めよりして五月迄には、三諸侯何れも一家中三度に交代して、御引払ひに相成る約定なりしに、庄内の騒動にて其事なり難く、最早苗の植ゑ付も済みぬるやうになりぬ。川越より軽き身分の者僅八人、何か談合のことにて庄内へ入込みしに、右騒動の折柄なれば、若しや百姓共不法の事もあらんかと、酒井候より多人数を以【 NDLJP:48】て旅宿の四方を固め、鉄砲十挺・弓十張・槍棒等を持たせて、昼夜廻り通しになし、用事にて出づるにも弓槍を以て之を警固するにぞ、何れも大いに困窮し、思ふ様には用談も弁じ難くて、囚人の如く、如何ともなり難しと云ふ。此八人の者共何がの下聞等をなし、其上にて重たるもの入込みて、交代せる者の屋敷割等をなすことなるに、五月下旬に至れども夫さへ未だ入込まずと云ふ。公儀に於ても、林・水野・美濃部等のしくじりも、国替の一件とも又御葬式の事なりとも、種々の取沙汰のみにして国替も止みしなど専らの風説なる故、之また音に聞えし貧乏の諸侯にて、銀主共の何れも手を置きぬる事なる故、無拠せふられて、此度調達する所の手当金、外の入用に遣かひ込まれなば、又々無理を云はれやせんと恐れて、金子手渡さゞるも尤もの事なるべし。
【国替と豪農本間登野江】庄内は領中酒田といへる湊に、本間登野江といへる富豪者あり。此度の国替止めになられるやう、種々心を尽せる事は、領中の百姓と同様なる事なれども、最早仰出されし上にして、今更詮方なきことならんには、長岡へ従ひ行ける覚悟なりと云ふ。此者国中一番の金持にて、田地計りも十八万石所持すと云ふ。余は之れにて思ひ計るべし。此者よりして、此度の入用として金六万両調達す。されども之れにては少々不足なる故、大坂にて金二万両借り入れんとて、勝手方の役人出来る。庄内屋敷の蔵元といへるは、米屋喜兵衛なり。銀主とて立入するものは、肥前屋徳兵衛外に両人計りありと云ふ。右二万両借り入れの事、此者共に相談せしに、言下に之れを諾ひ、【酒井侯と大阪町人】金三万両を調達せんと云へるにぞ、金子の儀大抵相調ひし上なれば、用心に借り入れ置ける事なり。三万両にては一万両多し、無用の金なればとて之を断りぬるに、何れも口を揃へて、「御尤の事なり。二万両御入用の由仰せられ候を、三万両調達せんといへるも、銘々共利を貪らんとて之を調達せんとにはあらず。故に左様の御心配少しも下されまじき事なり。此度御所替については、外様には過分の物入故、種々に工面をなして、金子を多く借入れんとし給へる事なるに、当家に於て余り聊の金子御借入にては、世間の聞え却て御為に宜しからぬ事もあるべし。御為悪くは計ふまじとて、強いて三万両用立てし」と云ふ。世間に云ふところ諸【 NDLJP:49】人の知るところにして、川越とは大いに異なる有様なり。いかに数代庄内を領せしとて、当時の君侯不仁の人ならば、一人も之を慕ふ者はあるべからず。彼の家代々政道正しく、当君また仁を施せしゆゑなり。この度其の徳顕れしものなり、感心すべし。
越後小知谷の帷子問屋、本町呉服仲買の方へ商に出来たり。長岡の話をなす。〈此人名を喜右衛門と云ふ。〉【牧野侯国替の事】牧野侯には勝手向宜しからざる上に、近年京都所司代を勤められ、別けて仙洞御所御崩御に大役をも首尾能く勤めらる。此所司代といへる役向は、至つて物入多くしてたゞさへ之に困りぬるなるに、斯る御大礼を勤められし事なれば、臨時の物入等少からず。斯様なる事の勤役中に、思ひ寄らざる所替仰付けられしことなれば、途方にくるゝ事なりと云ふ。斯様なる事なる故に、長岡に於ては一家中大いに狼狽愁傷し、屋敷内の植木を掘り大木竹藪の類は悉く伐払ひ、数代持ち伝ふ処の家財諸道具に至る迄、聊かにても金銭になる所の品をば残らず売り払ひ、何一つもなきあばらやに住居をなし、何れも在町等へ出行きて、逢ふ人毎に数代住み馴れし地を離れ先祖代々の墳墓を捨てゝ、他国へ移れることを愁傷するの外には、何の話もなし。実に気の毒なる有様なり。然るに庄内百姓共の愁訴によつて、交代のことも暫く延引し、世間にては所替も相止みぬるなど、専ら風説あるにぞ、若しや噂の如く所替止みぬる様にならば悦ばしき事なり。併し余り早まり過して、何も角も売払ひつまらざる事なりとて、皆一統に夢に夢みし如くにて、【作者国替の騒動を批評す】気抜の如くうつとりとなり、只さは〳〵はとする計りにて、只何事も手につくことなくて、さりとは気の毒千万なる有様なりと云へる事を、咄せしと云ふ。いかに貧乏に暮しぬればとて、所替は公の命にして私の事とに非ず。士の身にして樹木竹藪までを伐払ひ、大に家屋舗を荒し、此度交代に至る人は夫々に之を引渡しぬること、只私の恥のみにあらず、君侯の恥辱甚しと云ふべし。士にしてこれ程の心得なきこと、浅ましきことなり。 〈〔頭書〕所替に付、長岡領の内新潟二万石は公儀へ御引上げになると云ふ事なり、新潟と云へるは至つて繁昌の土地にしてよろしき所なりと云へり。〉
寛延元年、松平紀伊守殿丹州笹山より、同国亀山へ所替なりしに、笹山をば其儘にて立派に引渡し、亀山へ引移りしに、此度牧野家の如く家屋舗樹木藪に至るまで【 NDLJP:50】相互に其儘にて交代すべき約定をなし置きしに、笹山は堅く約を守りて引渡しぬるも。亀山に於ては何れも其約に背き、悉く之を売払ひ、あばら家にして引渡せるにぞ、笹山より引移りし者共之を憤りぬれども詮方なく、大に困りしと云ふ。
多くの家中此の如く、不法なる中に畳・建具も其儘にて床にかけ物をかけ、屋敷内の掃除をも行届かせ、立派に引渡せし者只一人有りしと云ふ。当年よりは九十四年の古なれども人心の卑劣なること斯くの如し。心有りては恥思ふべきことなり。
【酒井候出府延引】酒井侯には昨年出府被㆑致候筈之処、病気騒動等にて大に延引し、漸く当年三月に至り、庄内を発駕にて、同十八日江戸へ着致されしか共、道中より病気差起りし由にて、出府せし御礼さへ代人を以て仰上げられ、直に病気引にて籠居致され候由にて、御国替の御礼等は七月に至れども、未だなしと云ふことなり。
昨年来庄内の百姓共大勢度々出府せしこと故、往来筋は申すに及ばず、嶮阻にして道なき処まで、厳重に番人ありて、一人も出づることなり難きにぞ、詮方なくて密み居たりしが、五月に至り、三百六十六人の百姓、何れも申合せ、方角違のことなる故、【庄内の百姓上京出訴えせんとす】奥州境の方には番人の守りも、江戸・上方筋程には厳重にあらざる故、奥州路へ廻り、湯殿山を越え、岩手山を通り掛りしに、こゝには仙台の内取伊達弾正の陣屋あり。此有様を見て、早々訴へ出てしかば、弾正自ら出馬をなして、之を押止め、「訟訴の筋は何事によらず、此方より早速に公儀へ申上遣すべし。左様に大勢の者共出府をなし、これ迄も御取上なきことなるに、又々国中の関を被り掟に背き、出訴するに至らば、其方共の身の上に於ては、兼ねて覚悟をもなしぬることなるべけれども、大切に思ひぬる処の侯の御不首尾となりて、御仕くじりは眼前のことなるべし。さあるに於ては、何の詮なき事なり。願の筋は此方より、早速に公辺へ取次致し遣すべければ、重立つたる者の内にて五人、此方へ止り、其余は悉く引取るべし。右五人の者共は江戸表の便を聞きし上にて引取るべし。」と種々利害を申聞かせしかば、五人の者引残り、其余は庄内へ引取りしと云ふ。伊達家よりは此旨早速御老中へ御届に相成り、庄内へも御引合せに相成り、中村右門といへる代官、岩手山へ到り、同【 NDLJP:51】二十二日右五人の者共を受取り、引連れ帰りしと云ふ。
五月二十八日御殿御廻状之写
【御殿御廻状】上意の趣、御政事の儀御代々の思召は勿論の儀、取分け享保・寛政之御趣意に不㆑違様思召候に付、何れも厚く相心得可㆑被㆑勤旨、御老中方へ仰渡之趣、
寛政の度御初政の砌、向々相心得方之儀に付、厚き上意有㆑之候旨、其節達し置き候へば、一統相弁へ居り可㆑申儀に候処、年月押移り、場所々々古く相勤候者も残り少に相成候より、自然御趣意取失ひ候故、前々規定の心付薄く、当座は御用便のみ専務と心得候様に成行き候は、如何儀に思召候。自今以後、御代々様被㆓仰出㆒候儀は勿論、分ては享保・寛政之御政事向に相復し候様との御儀に付、仮令御沙汰の儀にても御規定に振候歟或は筋合の穏ならざる儀は不㆓差控㆒可㆓申上㆒様との御沙汰に付、誠に難㆑有恐悦の御事に候。乍㆑然是迄不行届御安心不㆑被㆑遊候御儀、深く恐入候事に候。右之御趣意各奉㆓承知㆒、享保・寛政度触達之書付熟慮致し、向々厚く相心得、是迄仕来り候事たり共、筋合に違ひ候儀は改革致し、何事も正路に御為第一に取計被㆑遊、御安心候様精々可㆑被㆓相励㆒候事。
但し享保・寛政之度を始め、総て度々被㆓仰出㆒候儀、当座同様相心得候輩も有㆑之、甚だ如何之事に候。殊に御役人之儀も表趣之手本にも相成候事故、別て厚く相心得、新役被㆓仰付㆒候節も、聊不㆑洩様に伝達可㆑有㆑之事。
前書之通り上意之趣并に御老中方被㆓仰渡㆒候趣共写し相達候。御勘定所支配之儀は、別て此度被㆓仰出㆒候御主意、厚く相心得、享保・寛政度之御書付類得と熟慮致し相守、一已の慎方は勿論、末々迄も御主意の趣申諭、向後違失無㆑之様致し、猶此上御奉公向精入相勤、御為第一に取斗候儀専一に候。右之趣可㆑得㆓其意㆒候。已上。
五月二十八日 中村両組外九軒
六月五日御殿御廻状之写
【御殿廻状倹約令】質素節倹其外心得方の儀、天保九戌年四月相達候趣、尚又去十二月相達置候間、万石以上以下共、奢りケ間敷儀無㆑之、衣服・飲食の儀は勿論、都て無益の費を省き、武備非常の手当専一に可㆑被㆓心掛㆒儀には候得共、此度厚き御沙汰も可㆑有㆑之候につき、弥【 NDLJP:52】々質素節倹を相守り、御主意不㆑違様可㆑被㆓心得㆒候。右之趣可㆑被㆓相触㆒候。
六月五日 中村両組外九軒
五月十日〔被㆓仰渡㆒〈脱カ〉〕
御役御免、今日中御暇。 右大将様御老女 浦尾
【役替の面々】右は増山弾正少弼殿へ被㆑仰候旨、御留主居松平内匠頭殿御演舌。御下東条権太夫。
五月十二日被㆓仰渡㆒
〈御本丸御小姓・三百石〉内藤中務少輔・〈同二千石〉織田図書頭・〈同八百石〉石谷市正・〈右大将様御小納戸・二千五百石〉村越若狭守・〈御本丸御小納戸・〉 〈五百石〉京極兵衛佐・〈同百〉・〈二石〉辻定右衛門・〈同百〉・〈四石〉戸田六郎右衛門。
右思召有㆑之、御役御免、寄合被㆓仰付㆒候。
五月十三日被㆓仰渡㆒
御刀美濃国兼元代金弐十枚 井伊掃部頭
是迄出精相勤候に付、御手自被㆑下㆑之、御役御免。
御勘定奉行土岐丹波守御作事奉行ゟ三千五百石 御作事奉行石河土佐守小普請奉行ゟ二千七百石 御勘定吟味役川村清兵衛〈御裏御門切手旧頭・二百俵〉
五月十四日被㆓仰渡㆒
〈御拝領之内二百石被㆓召上㆒小普請入〉田口加賀守〈御勘定奉行〉 〈寄合〉 同五郎左衛門 〈御領地被㆓召上㆒忰へ新規、〉吉田成方院〈右大将様付奥御医師三百俵〉 百俵被㆓下置㆒ 〈同〉同 頼庵
六月二日於㆓南御番所㆒
当人自殺〈矢部右近将監組同心〉佐久間源助 艮死 〈同〉堀口定治郎 手負 〈同〉 高木平次兵衛
右遺恨之筋有㆑之於㆓詰所㆒及㆓刄傷㆒騒動に付、当日依㆑之公事訴訟流に相成。
御老中太田備後守殿には、五月二十七日登城にて、諸侯の国替相止候様にと、水野越州と争論をなし、翌日直に病気の由にて、退役願差出されしにぞ、願の通仰付けらる。御老中の内にても此人と脇坂の両人は、別て評判も宜しかりしに、惜しき事なりと、諸人噂せし事なりと云ふ。
【太田備後退役】国替其外御政事の事など、厳しく申上げ引取りし上にて、直に剃髪し、病気願差出して退役せられしとも、又何か御政事の事に付、此人の計ひ宜しからぬ事有りて三【 NDLJP:53】ヶ条の御不審を蒙りしに其返答に行詰り、詮方なくして退役せられし共、云へる噂にして、其趣意一向に分り難しと云ふ。
御老中脇坂侯は逝去せられ、太田侯には役を退かれぬるゝこと故、差詰め京都御所司代牧野侯こそ御召出なるべしと、諸人思ひしに、思ひの外に之まで先例になき真田信濃守殿御連判の列仰付けらる。【真田家財政困難の理由】こは田沼の跡に出でて、能く天下を平定せられし松平越中侯の御末子にて、真田家へ養子となられしといふ。至つて学者にして賢明なる故、水野侯の御計ひにて召出されしと云ふ。真田家の太鼓の役者に、樋畑孫兵衛といへる者あり。侯にも兼ねて斯様の望之有る故、中野関翁へ取込み、数万両の賄賂を贈りて種々手入せられしに、関翁心易く之を諾ひ、頻に賄賂を取込みし上にて、種々様々に力心を尽しぬれども、外様より御老中へ直になりし先例なければとて、気の毒ながら詮方なしとて断られしにぞ、侯には御役を望まるゝ所より、不勝手なる身代なるに、多くの借財せられし事故、其年よりして家中へ渡せる手当もなく、御役につかば忽に賄賂せし物入をも取戻すべしと、思はれしも空しくなりし事ゆゑ、必至の差支へとなりて、一家中扶持米さへも渡ることなく、大困窮に及べる様になりぬ。之全く旦那の御役を望まれし故、関翁に騙され、始めよりしてならざる事は知れぬる事なるべき事なるに、賄賂を取る程取りて突放されしものなるべしと、予が知れる人、右孫兵衛より咄せしことありしが、関翁をはじめ賄賂を取れる人々皆々仕くじりし上なれども、此度此人世に出でられぬる様に成りしは、賄賂も不益にはならざりし。如何なる事をか仕出されぬることやらんと、其人笑ひながらに予に語りぬ。
【日蓮宗繁昌】太田侯の退役せられし噂、種々様々の事なれども、何分是迄まで評判も別て宜しかりしに、思ひよらず退役をせられしこと故、諸人不審しく思ひしに、外に仔細なし。法華宗感応寺建立の事を彼寺の住僧、林・水野・美濃部・中野等は云ふに及ばず、奥女中をも取込み種々姦智を振ひしが、七堂伽藍建立を許し賜ふ様になりて、七八年専ら其噂あり。将軍家の御眼病平癒し給ひ、又越前家へ養子に入らせられし君達の盲ひ給ひ、目明かになりしなど、種々に奇怪の説を申触らし、殿中に於て仏工に命ぜ【 NDLJP:54】られ、日蓮の木像を作らせ給ひ、殿中よりして池上本門寺へ寄進し給ひ、夫よりして感応寺へ納りしと云ふ。将軍より御寄附なることなれば、殿中よりして行列正し警固厳重にして、諸人の往来を止め、其勢諸人の目を驚かせしといふ。斯様に上の信仰し給へる事なる故、諸宗共に内には法華を信仰して、家毎に題目の声絶ゆる間もなく、平人は申すに及ばず、諸侯の中にも二人改宗して、法華宗となりしもありと云ふ。斯る有様なれば、奥向よりも女中大勢常に参詣せられしを、住寺を始め伴僧等申合せ、銘々に不義密通をなす。後に至りては女中互に申合せ、奥向よりして感応寺へ寄進の物なりとて、【感応寺と奥女中の不義】代る〳〵長持の内へ入れ、之に錠を卸し、寺へ持込み放に姦淫をなす様になりしとぞ。御老中の中にて、脇坂侯之れを怪しみ大目付へ御沙汰あつて、其長持を改めしにぞ、其事分りしと云ふ。其節これに拘はりし女中の向は、悉く罪せられしが、林を始め何れも勢を振へる事なれば、程能く事を済せしが、何分にも脇坂を其儘に生置きては、姦悪をなす邪魔になるべしとて、林・水野・美濃部等、感応寺奥女中と相謀り医者両人に命じ、脇坂を毒殺せりと云ふ。両人の医者此事を種々断りぬれども、之を諾はざれば、其場に於て忽ち命を失ひぬる事故、是非なく毒を用ひしと云ふ。感応寺は直に入牢、両人の医者も直に召捕られ、之は揚り屋、奥女中大勢何れも召捕れしと云ふ。感応寺は箇様の悪僧なる事を知らずして、寺社奉行よりして彼が願を申立てしが、容易ならざる大望故、早速には事ならで、年月の立つ内に寺社奉行も転役し、太田侯其跡に出でられしに、下地よりの手続なれば、斯様の悪僧とも思寄らず、其願へる儘を申立てられしに、此度斯ることに及びぬる故、はなはだ気の毒の事なりとて、或人予が知れる人に語りしと云ふ。
【三諸侯所替のこと】三諸侯所替の事も公儀よりして、兵部大輔どの川越に御養子に入らせられしにぞ、二万石の御加増有るべき御内意有りしに、川越領は至つて悪しき所にて、土地も至つて切り詰りし上に、収納も少くして勝手向大に難渋の事なる故、之を辞し、其代りに播州姫路に所替致し度き由を内々願はれしと云ふ。元来此侯下地姫路に居られしが、不首尾の事有りて、酒井侯と入替になりぬ。下地姫路に居られし事なれば、土地も収納も宜しきことを知らるゝが故なりと云ふ。内密のことなれ共、誰人か此【 NDLJP:55】事を知れる。密に姫路侯へ告げし者有りと見えて、其噂を聞き、大に驚き、水野越州へ数千両の賄賂をなして、其事止みぬるやうに頼まれし故、賄賂の奇特有つて、所替をば逃れしと云ふ。川越侯には姫路望みに叶ざれ共其余は何国にても御望に任せんといへることなる故、侯にも種々評定の上にて、此度は豊前の小倉を望まれしにぞ、其意に任せんとて、已にそれに極りし由を、小倉侯に告げし者有りしかば、侯には大に驚きて、之も亦水野越州を頼みて、数千両の賄賂をなせしにぞ、水野其賄賂を収めしが、之も亦止めぬるに、其趣意立たざれば如何にとも詮方なしと、種々工夫をこらし、此度は兵部大輔殿の御腹にて、花園〈【頭書】中野石翁が女なりと云ふ〉殿とやらん御妾に取込み、小倉は余りに遠き国なる故、之に御越あつては、婦人のこと故大に案じ奉れば、同じくは近き所に所替仕り給ふ様にと、頻りに申さるゝ様に仕組みしにぞ、夫よりして庄内といふ所になりぬと云ふ。されども庄内侯には、神君より賜りし急度したる御書物有りぬる事故、之も少しも気にかけずして、平気にてゐたりしが、弥々国替になれる由を聞きて、水野侯へ五百金の賄賂をなしぬれども、最早三度目の事なれば、之を止むるの手段なかりしにや、又賄賂の少なかりしにや其功能もあらはれずして、弥々庄内に極りて、三諸侯へ其事仰渡されしにぞ、庄内も大に仰天して、爰に於て金子千両を賄賂ひし、其止みなんことを願ひぬれども、もはや表向に至りし事なれば、賄賂の験もなく、いかにともなし難く、賄賂の仕損となりしにぞ、然らば領内の内、酒田をば其儘に下し置かれ候様にと願はれしにぞ、其儀は兎も角も計ひなんとて、長岡へ所替有つても、酒田をば其儘下し置かるゝ様になりぬ。此酒田と云へる所は、大なる湊にして、船掛りも至つて宜しく、至て繁昌の土地なる故、本城の外に此所にも一城を構へ、其備へ厳重なることにて、本間藤清といへる富豪を始めとして、有福の者共何れも此処へ集ひ住みぬと云ふ。然るに領内の百姓一統に数代の君恩・当君の仁政を蒙れる事なれば、其別れを歎き、当春已来御大老・御老中・水戸侯迄に愁訴をなして、大に騒動をなし、天下の人耳目を驚感せしむるに至る。斯る質直なる百姓共なるに、一端仰出されしことなれば、定めて御所替はありぬべし。斯る所へ強ひて川越の如き貧諸侯行かれしとて、酒井侯に上越す程の仁政を以て、【 NDLJP:56】民を撫けんとするとも、覚束なき事なるに、人の国に望みをかけ、其家を利せんとし、所替の手当さへも調ひ難き程なる事にして、如何して其領内を治めんとするや。一揆騒動大乱の端を開くことならんと、心有る輩々之を思はざる事なし。されど一端公儀よりして、四月中に双方引移れるやうに仰渡されしにぞ、四月初旬、川越よりして屋舗地下見分の為に、軽き身分の者共七人計り入込みしに、百姓大に騒動をなす折柄なれば、如何なる無礼あらんも計り艱し迚、此者共の旅宿をば酒井侯より鉄砲十挺・弓十張・槍・三ツ道具・棒等にて、数百人之を固め、此者共の出入毎に、厳重に警固せられぬる故、大に驚怖し、碌々に見分することさへなり難く、旅宿に慄ひ居りしと云ふ。此者共下見分せし上にて、屋舗割付の役人入込む積りなれ共、箇様の有様なれば、夫迄に至り難く、日を送る中に五月に至り、植ゑ付も相済み、又もや三百六十六人の百姓共、始めにいへる如く奥州路へ廻り、湯殿山越に岩手山へ出づ、仙台侯より其由を訴へらるゝ様になりぬ。七月に至りて、川越・長岡等総家中の荷物、南北海を経て追々に摂州の兵庫迄着船す。大層なることなりしと云ふ。然るに百姓共の愁訴を御取上げになりしにや、又騒動せん事を思召るゝにや、七月上旬に至り、三家共御召出しにて、酒井左衛門尉殿へ所替其儀及ばず、格別の由緒を以て、是迄の通り其儘永々之を下され候趣仰渡され、松平大和守殿へ所替申渡候処、其儀なく二万石御加増、都合十七万石下され候事。
牧野備前守殿へは、所替甲渡候処、其儀なく是迄の通り其儘下置かれ候趣仰渡されしと云ふ。庄内領の百姓共の愁訴することなくば、何事なく双方難渋ながらも、所替となるべきに、百姓共の領主を慕へる事、幼子の慈母に於けるが如くなるにて、酒井侯数代の仁政、当侯の徳も天下に顕れ、川越の慾心にて、斯様の大変を引き出せしと、之も亦天下に大なる耻を晒らしぬるに至る。何分にも神君世を治め給ひてより、二百廿七年の間に百姓の一揆して、騒動せし事其数多く、諸侯の所替も其数限りなしと雖も、未だ斯る目出たき騒動をきかず。天下の諸侯、此度の庄内の一件をよく〳〵心に留めて仁政を施し、領内の民をして如斯に上を慕ひ思へるやうになさば、自ら其国々も富めるやうになりて、自己の貧困するには至るまじきやうに思【 NDLJP:57】はる、慎むべぎ事なり。
【文化末の物価騰貴と不景気】文化の終れる頃かと覚えし。江府に於て石橋何某といへる町人、其外数人申合せ、公儀へ運上を差上げて総て何品に寄らず、商ひ物悉く此仲間へ買入れ、此仲間よりして諸商人夫々に己が商ふ品々を買ひ取りて、何れも商売をなさゞればならざる様に之を〆め括りぬ。此の如になして、十組の者共過分の利を貪りぬることなれば、諸商人も自ら高価に商はざれば、妻子をも養育なし難きにぞ、物の価次第々々に高価になれる計りにて、少しも下れることなければ、諸人之が為めに不益の金銀を費せるやうになりて、自ら金銀も不融通になりて、貧窮の者は愈々困苦するやうになり行きて、世間も年々に淋しくなり行きぬ。これ全く十組の者共が過分の利を貪れる故なり。此度此者共も厳しく御各を蒙りしと云ふ。心地よき事なり〈〔頭書〕矢部駿河守の計ひにて、十組の者共は之迄の通りに一端免るされし者なれば、其儘に差置かれて、諸商売とも十組の者に拘らず、勝手次第に物の買入をなし手広く商をなす様に言渡しありと云ふ。〉 金銀座共大に敖長じ、先年仰山に賄賂をなして、町人の身分にて有りながら、帯刀を免許せられ、其敖れること言語に言尽し難き程の事なりと云ふ。此者共も近来御咎を蒙りしと云ふ、さもあるべき事なり。
京都御触之写
【京都の倹約令】近来世上一統相馳み、修奢に押移候哉にも相聞え、右体の儀は無㆑之様、享保・寛政度の被仰出も有之、近くは寛政度、夫々商ひ物其外万端華美に無㆑之様、触書も追々差出有㆑之、其儀は一同に忘却致間敷事に有㆑之処、寛政分迚も年数相立ち、殊に其頃の事共可㆑存者も残少に相成候事にも可㆑有㆑之哉、自ら何も無㆑弁、心得違候儀有㆑之趣不当之事に候。右享保・寛政度触書等取調べ、町内限り人別に見せ候て、町役人共より得と申諭し、都ての商ひ物等華美に無㆑之は勿論、御制禁の品決而取扱不㆑申、質素第一に致し、奢超過不㆑致様取計ひ、新規之儀仕出し不㆑申、正路に諸商売可㆑致、其外共万事致㆓省略㆒、費無㆑之様質素倹約第一に心掛け、永久相続致候様可㆑致候。此上心得違者有㆑之候はゞ、急度可㆑及㆓沙汰㆒候。右之通洛中洛外可㆓相触㆒者也。
丑六月
別ニ町代ゟの添書
【 NDLJP:58】享保・寛政度々御触書之趣相守り、奢侈超過不㆑致。質素倹約第一に可㆑致旨、御触書御差出被㆑遊候。右享保・寛政度之御触書は数通之事に付、若し右御触書難㆓相分㆒御町分も有㆑之候はゞ、持場之者へ御聞合せ有㆑之候て、御触書之趣急度相守候様可㆑致旨、別段御役人様より御沙汰有㆑之候事。
但し女子髪餝り結面色切れを用ひ候儀致間敷旨、享和二戌年六月御触書之趣をも見合せ候様、御沙汰有㆑之候事。
大坂御触
【大阪の倹約令】近年一統花美の風儀に成行き候に付、自ら無用の費多く困窮に至り、日用の品却て高直に成り人々難儀候事に付、男女分限不相応の着用又は髪の飾・手道具・履物等迄質素倹約可㆑致旨、享保・寛政の度被㆓仰出㆒も有㆑之、当表市中之者共へは、其後追々触置候処、年月相立候につき、自然と御触面忘却致し。近来相弛み候趣相聞え。以ての外の事に候。右享保寛政之度、其後追々触書等も取調べ、町内限り人別に為㆑見候て、町役人共より得と申諭し、前々御禁制の品々、其外分限不相応結構の衣類品等、用ひ申間敷儀は勿論、万事致㆓省略㆒無益の費不㆑致、質素倹約第一に心掛け可㆑申候。鼈甲櫛笄簪等も、先年申渡置候通り、百目以上の品堅売買致間敷候。若し心得違ひの者有㆑之ば、急度令㆓沙汰㆒候。
右之通り、三郷町中不㆑洩様可㆓触知㆒者也。
天保十二年七月十日石見遠江 北組総年寄
口上
今日御触書之儀、厳敷被㆓仰出㆒之趣に相心得不㆑申、唯花美又は縫抔相用ひず、都て分限相応に致し、人気に不㆓相障㆒様可㆓申諭㆒旨、尚又総年寄中ゟ御口上にて、被㆓仰渡㆒候間、此段御承知可㆑被㆓相成㆒候。以上。
七月十日 玉水町年寄
各様
別に総年寄の口上にて、大家之儀は何れも平日ゟして、家格相定り、別段に奢りがましき事は無㆑之儀に候へば、此度の御触通りに依つて、尚又厳敷倹約等致し候【 NDLJP:59】様に相成候ては、出入其外小前の者共大に困窮に及び候事故、此段心得違無㆑之様可㆑致由、今橋筋一丁目・二丁目・玉水町其外豪家有㆑之候町計り、年寄を呼出申渡候由。
○享保寛政之御触書之写
覚
【享保寛政の触書】婦人の衣服縫・金糸等入り候ても、小袖一ツニ付代銭三百目、染模様の小袖表は一ツニ付代銀百五十匁を限り、夫ゟ高直之物一切拵出し申間敷候。尤惟子も右に准じ可㆑申候。若し違犯之輩有㆑之者、急度可㆑為㆓曲事㆒旨、町中へ可㆑被㆓相触㆒候。以上。
辰六月
右之通今度従㆓江戸㆒被㆓仰下㆒候条、三郷町中へ可㆓相触㆒者也。
享保九年辰七月十日飛騨日向 三郷総年寄中
御口上之覚
今般被㆓仰渡㆒候衣服之儀は、御所方・武家方御衣類之事。
右之類織出し候職人共へ、別て被㆓仰出㆒候事に候。町人妻子の衣服の儀は、前々ゟ被㆓仰出㆒候指紬之類着可㆑致候。此段町人へ心得違無㆑之様、町々年寄申渡候様被㆓仰渡㆒候事。
七月十日
寛政元酉年三月御触
【寛政の倹約令】近年一統花美之風儀に成行候間、自ら無用之費多く困窮に至り、日用の品は却て高直に成り、人々難儀致し候事に候。武家に於て質素に相守り候得ば、商売向も薄く可㆓相成㆒候。然る処下人共是迄の心得にては、此上取続様無㆑之候間、一統花美之儀無㆑之様可㆑致候。自今町人男女共、分限不相応結構之着用致し。又は髪飾等迄も大造なる品相用候者候はゞ、組の者見廻り次第、右居所・名前等相糺し、町役人差添へさせ、直に奉行所へ召連吟味致し候間、左様に可㆓相心得㆒候。
但し不相応之衣服又は髪飾結構に致し候者は、於㆓奉行所㆒に吟味の上、咎申付候事にて候。於㆓途中㆒着類并髪飾り等取上候儀は、前以無㆑之事に候間、不㆑紛様兼ねて其【 NDLJP:60】趣を可㆑存候事。
右触書之趣、借屋之者共へ不㆑洩様申聞、并家主之宅へは張置可㆑申事。
酉三月
右之趣従㆓江戸㆒被㆓仰下㆒候条、此旨三郷町中可㆓触知㆒者也。
酉三月石見土佐
覚
一、不益に手間掛り候高直之菓子類、向後無用に可㆑致候。是迄拵へ来候共相止可㆑申事。
一、火事羽織・頭巾結構之品可㆑致㆓無用㆒、并町方火事場纒錫箔之外用申間敷事。
一、能装束甚だ結構なるも相見え候間、向後軽く可㆑致候。并に女の着類も大造の織物・縫物無用に可㆑致事。
一、はま弓・菖蒲甲刀・はご板の類、金銀かな物并箔用ひ申間敷事。
一、雛并もてあそび人形之類、八寸以上可㆑為㆓無用㆒候。右以下の分は、鹿末の金銀・緞子類の装束は不㆑苦候事。
一、ひな道具梨子地は勿論、蒔絵に候共紋所之外無用の事。
一、櫛笄・髪さし等金は決して不㆓相成㆒候。銀・鼈甲も大造に無㆑之は不㆑苦候。并目立候飾細工入組み、高直之品は売買固停止之事。
一、きせる其外もてあそび同前の品、金銀遣申間敷候。并に蒔絵等結構に致間敷事。右之条々急度可㆓相守㆒候。総て奢りたる品拵へ申間敷旨、元禄・享保年中触候趣、尚又此度改て右之通り被㆓仰出㆒候。尤唯今迄商人仕入候分は、当年限りに売買致し、来戌年よりは書面之通り売買停止たるべく、停止之品自今誂候者有㆑之候はゞ、奉行所へ相伺差図を可㆑受候。
右之通従㆓江戸㆒被㆓仰下㆒候条、此旨三郷町中可㆓触知㆒者也。
酉三月石見土佐
同年五月六日御触
【天保十二年五月の倹約令】近年一統花美の風儀に成行き候に付、向後下人男女共、分限不相応結�〔之品脱カ〕着用致し、又【 NDLJP:61】は髪飾等迄も大造なる品相用候者、見廻り次第奉行所へ為㆓召連㆒候旨、江戸表ゟ仰越候趣、当三月相触置候間、町中一統令㆓承知㆒相慎み可㆑申儀は勿論の事に候。且又傾城町并に芝居役者共之衣類の儀は、結紬布、木綿着致し、遊女之衣類何地にても可㆑為㆓紺屋染㆒、芝居舞台之装束は、平縞羽二重・指紬可㆑為㆓紺屋染㆒、人形装束其外結構に致間敷旨、寛文八申年五月申渡。其後右定法可㆓相守㆒度々触置候通り、相心得可㆓罷在㆒儀に候得共、先年之申渡年久敷相成候事に付、尚又心得違無㆑之為め申渡候。弥々右之趣相守可㆑申候。尤も役者共儀、芝居外之儀は素人同様に致し、少々にても花美之風体にて往来致し候はゞ、是亦急度可㆓申得㆒候。
一、茶屋・風呂屋等に召抱へ候女共之儀も兼ねて相極置候通り、茶立女者二人宛・髪洗女者二三人宛に限候処、近来多人数召抱へ、売女同前商売致候者数多有㆑之趣相聞、不埓之至りに候。既に去春中厳重申渡候処、今以如何之事共在㆑之趣相聞、其上御城近辺其外場所柄も乍㆑憚、売女屋同様商売致し候者も有㆑之由に相聞え、別て不埒至極に候。此以後若し如何之商売致候者有㆑之候はゞ、召捕可㆓追て吟味㆒候条、其旨可㆑存候。
右之通、三郷町中不㆑洩様可㆓触知㆒者也。
丑五月石見土佐
右同年十二月御触
【十二月の倹約令】先達て奢たる品売買致間敷旨相触候趣弥々固相守可㆑申候。先達て触候内、
一、女の着類大造の織物・縫物無用可㆑致旨有之候。享保九辰年申渡候通り、小袖表代銀三百目、染模様小袖百五十目を限り、夫より適宜の物弥々以売買致間敷事。
一、櫛笄簪の類、金は勿論不㆓相成㆒、銀・鼈甲細工入組み、高値の品相止候の上は、櫛代銀百目を限り、笄・簪右に準じ、下直に仕立可㆑申事。
右の外はま弓・羽子板の品、金銀箔を用ひず、雛は遊び人形八寸を限り、結構の装束類雛道具梨地銀遣ひ、蒔絵結構に不㆑致儀等、弥々当三月相触候通り相心得、来年よりは決して売買不㆑致候。万一誂へ候者有㆑之候はゞ、早速訴出て候様可㆑致候若も相対を以て誂へ候品曲事たるべし。都て商ひ物改めとして、以後奉行所より組之者不【 NDLJP:62】時に相廻し、禁止の品有㆑之候節は、町役人共へ見届けさせ、封印附置き預け、追つて取上げ焼捨申付け、持主咎申付候間、兼ねて心得違無㆑之様可㆑致候。尤も万一紛敷致方致し候者有㆑之歟。或は途中にて往来之者捕へ改候儀等有之候はゞ、其者を留め置き早々訴出づべし。右体之儀者決して無㆑之事に候之条、其旨をも可㆑存候也。
十一〔二カ〕月
右之通り町中可㆑被㆓相触㆒候。
右之通従㆓江戸㆒被㆓仰下㆒候条。此旨三郷町中可㆓触知㆒者也。
酉十二月石見土佐
以上享保・寛政之御触書之写也。此度之御触書之内に、享保・寛政之御触通りといへる文言のみにて、其節の御触之趣不㆓相分㆒候故、これを取締候て、此所へ記置者也。
六月十日 小従人本田左京組 大野権之丞〈丑五十四歳〉
【絵本出版に就処刑】公方様日々御勤向之儀、并諸役人日記其外有りとあらゆる公辺取計らふ事、品々事記し有之本弐部、御買上げに相成申候。
其方儀御政筋に抱り候儀不容易事共彫判致し、絵本屋伊助へ相渡候段、不届の至りに候。依つて九鬼式部少輔へ御預け。
六月十八日
依㆓父料改易㆒ 元小従人本田左京組権之丞総領 大野鏃之助六〈丑十六歳〉
右於㆓評定所㆒岡村丹後守・遠山左衛門尉・桜井庄兵衛立会、丹後守申渡候。
七月三日
寄合水野美濃守名代 戸田久助
其方儀は、御咎後も慎み方不㆑宜趣相聞、不埒之至被㆓思召㆒候、依つて隠居被㆓仰付㆒候。蟄居可㆓罷在㆒候。
水野備前守名代 高井遠江守
父美濃守不埒之儀有㆑之候に付、隠居被㆓仰付㆒蟄居可㆓罷在㆒旨被㆓仰付㆒候。家督無㆓相違㆒其方へ被㆑下候。追て知行所之内、村替可㆑被㆓仰付㆒候。
【 NDLJP:63】 右本多豊後守宅に於て、若年寄中出座、同人申渡之。小目付佐々木三蔵罷越す。
水野備前守
【所替の命令】本所元柳原永御預地被㆓召上㆒候。借地之分弐ヶ所共、早々可㆑有㆓返地㆒候。
酒井左衛門尉
思召有㆑之に付、所替之儀不㆑被㆑及㆓御沙汰㆒候。其儘庄内領地可㆑被㆑致候。
右之趣於㆓黒書院㆒御老中列座にて被㆓仰渡㆒候。
松平大和守
思召有㆑之候に付、所替之儀不㆑被㆑及㆓御沙汰㆒候。其儘川越領地可㆑被㆑致候。兵部大輔願之筋も有㆑之候間、弐万石加増被㆓仰付㆒候。
牧野備前守
思召右同断、其儘長岡領知可㆑被㆑致候。
右之趣菊の間において、御老中列座にて被㆓仰渡㆒候。
水戸殿へ
国元制〔政カ〕事行届候趣、上聞に達し、御気色に思召候。右に付今六七年、於㆓国元㆒制事可㆑被㆑致候。
但是は当年迄三ヶ年御在国の所、当六月中又候来春迄年延べ御願之処、右之通被㆓仰付㆒候。是は余り我儘之故にての事、此上共余り儀有㆑之候はゞ、上にも重き思召有㆑之由に候。
【大阪大御番永井伊予守の貪欲】天保十二丑八月、大坂大御番永井信濃守・曽我伊予守之両人仰付けられ候処、永井には至つて慾深き人にて、是迄大御番を勤められしに、同役百騎等をぐづり、何事によらず事六ヶ敷こね廻して、頻に賄賂を貪りぬる故、何れも大いに困り果てしと云ふ。大御番には一万石余の小諸侯と、七八千石より万石に近き御旗本と、両人宛一年代りに交代なり。御役料は、諸侯は黄金一万五千両、知行聊の違ひなれども、御旗本は黄金六千両の御役料なり。同じ大名にても御加番などは、御役料の内にて、過半は御普請の手伝・御鉄砲筒浚へ、其外御役筋への附届等に費ゆることなるに、大御番は身分は軽き人々なれども、御本丸預りにて、其御役重き事なる故、御城代を始め【 NDLJP:64】として、之に附届をせらるゝことなりと云ふ。同役にても一方は御旗本なる故、斯様なる諸侯の同役にては、自ら其下風に立ちて、常に困らせらるゝ事なりと云ふ。斯様なる人と同役になりては難渋なること故、曽我には、病気の由にて引込まれしに、永井の不人柄なること、上聞に達せしにや、多くの物入をなして登坂の仕度せられしに、暴に之を免ぜられて、新に大岡紀伊守に仰付けられしにぞ、曽我にも出勤をなして、登坂せらるゝに至る。左もあるべき事なり。
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