イェルサリム大主教聖キリール教訓/第五講話

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正教のおもなる定理[編集]

<< イイスス ハリストスこうえいにしてちじょうさいりんこと。 >>

ひとりハリストスの第一のりんかくほうずるのみならず、ぜんしゃよりはおおいたくえつなるさいりんをもほうぜん。かれようにんじつひょうするものなれども、これかみくにえいかんみづかこうむらん[1]。けだしわれしゅイイスス ハリストスありてはすべてたいがいにばいするなり、まづふたつせいたんなり、一はよよさきちちよりうまれ、二はきせいおいしょじょよりうまれたるこれなり、またふたつこうりんなり、けんぜんならざること、ひつじのけうえあめごとく〔聖詠七十一の六(詩篇七十二の六)〕、二はけんぜんにして将来にぞくするものなり。だいいちりんかくおいかれぬのつつまれ、かいばおけうちにあり、しかれどもだいにりんかくおいてはひかりころもごと〔聖詠百三の二(詩篇百四の二)〕。だいいちおいてははぢいとはずしてじゅうじかしのエウレイ十二の二だいにおいてはしんしぐんようされ、こうえいにしてきたらん。ゆえわれらはひとりだいいちりんかくにとどまらず、だいにりんかくをもたん。そもだいいちおいよばはりて『しゅによりてきたものしゅせられたまへ』〔マトフェイ二十一の九〕といひしごとく、第二においてもまたしからん、なにゆえなればしんしらとともでてしゅさいむかへて、かれこうはいし、よばはりて『しゅによりてきたものしゅくせられたまへ』といへばなり。きゅうせいしゅきたるはふたたばっせられんがためにあらず、ばっしたるものしんぱんせんがためなり。きにさいばんときもくしたりしもの〔マトフェイ二十六の六十三〕はじゅうじかかたわらにありてあえふほうをおこなひしものらにそうきせしめていはん、いはく『なんじすでこれおこなひしにもくせり』と〔聖詠四十九の二十一(詩篇五十の二十一)〕。とうかれきたりて、せつりによりひとびとせつかいどうしたりしが、だいにりんかくおいては、たとへねがはざらんも、かれくにかならしたがはざるべからざるなり。

それの二つのりんかくことよげんしゃマラヒヤもいへり、いはく『なんじもとむるところしゅたちまちにそのでんきたらん』〔マラヒヤ三の一〕と。これだいいちりんかくなり。さてだいにりんかくことかれさらげんつづけていへり、いはく『なんじねがふところのけいやくつかいよ彼きたらんとばんぐんしゅいひたまふ。されどもかれきたにはたれへんや。そのあらわるるときにはたれたんや。かれきんをふきわくるもののごとく、ぬのさらしあくごとくならん。かれはぎんをふきわけてこれをきよむるものごとせん』[2]〔一、三〕のちただちにきゅうせいしゅみづかよげんしゃにつぐ、いはく『なんじらにきたりてしんぱんをなし、ぶじゅつしゃにむかひ、かんいんおこなものにむかひ、いつわりちかいをなせしものにむかひうんぬんすみやかあかしをなさん』〔五〕。ゆえに使徒パウェルは我らをよかいし、げていはく『もしひとこのきそうえに金、銀、宝石、きくさわらもつてなば、かくじんわざあきらかならん、かのこれをあらわすべければなり、これにてあらはれん』〔コリンフ前三の十二、十三〕。ついパウェルも二のりんかくしめティトしょして、いはく『れすべてのひとすくいたまかみ〔救世主〕のおんあらはれ、われらをいましめ、われらをしてかみうやまはざることと世の中のよくてて、みづかせいし、ただしくかつつつしみていまのよながらへ、のぞむところのさいわいおおいなるかみ、すなはちわれらがきゅうしゅイイスス ハリストスさかえあらはれんことのぞみたしむ』〔ティト二の十一、十三〕。るべしかれだいいちりんかくしょうしてわれらにこれをかんしゃせしめ、しこうしてだいにりんかくたしむるを。ゆえこんにちわれらがしょうするしんきょうおいてもごとしんずべきをおしへらるるなり、いはてんのぼりてちちみぎし、せいししゃしんぱんするがためこうえいにしてまたきたり、くにおわりなからんを。

ゆえわれらがしゅイイスス ハリストスてんよりきたらん。しかれどもおわりまつじつおいてはこうえいにしていたらん、なんとなればせかいおわりあるべくして、つくられたるせかいさらあらたにせらるべければなり。けだしはいかいとうとうかんいんおよびもろもろのつみあふれてこんじたるにより、〔オシヤ十一の二これらのきかいなるじゅうしゃのみちみてるふほうともそんせざらんがために、りて、さらきものとならん。されどももしこれがじっしょうんとほっせばイサイヤところをきくべし、いはく『てんしょかんごとくにまかれん、そのばんしょうのおつるはぶどうのおつるがごとく、いちじくれたるのおつるがごとくならん』〔イサイヤ三十四の四〕。またふくいんきょうにもいへり、『くらく、つきひかりうしなひ、ほしてんよりおちん』〔マトフェイ二十四の二十九〕。われひとせんと、そをかなしむなかれ。もろもろのほしちん、しかれどもあらたてられん。しゅてんく、しかれどもこれをほろぼさんがためにあらず、あらたたかこして、もっとけいじょうとなさんがためなり。よげんしゃダウィドふところをきくべし、いはく『しゅなんじはじめもとづけ、てんなんじつくりしところなり、かれらはほろびん、ただなんじながそんせん』〔聖詠百一の二十六(詩篇百二の二十六)〕。あるいものあらん『てんほろびんとあきらかふにあらずや』と。しかれどもよげんしゃほろびんといひしはいかなる意味にていひしや、よく注意してきくべし。こはつぎにいふところによりてあきらかゆるなり、いふ『かれらはみなころもごとふるび、なんじいふくごとこれふればかれらはかわらんとす』〔二十七〕と。またいふ『ぎしゃほろぶれどもたれこころにとむるものなし』〔イサイヤ五十七の一〕と、これによればひとほろびはす、しかれどもふっかつつなり、かくのごとてんふっかつごときものをたんとす。いはく『くらつきかはらん』うんぬんイオイリ二の三十一〕。しかれどもてんよりくもりてきたらんとするしゅちてかれむかふるじゅんびをなさん。その時しんしらっぱわたらん。ハリストスためせしものらはふっかつすべく、せいしゃうちもっとけいけんなるものくもたずさへられ、ろうのためのむくいとしてにんげんよりうえなるさかえをうけん、なんとなればかれらはじんりょくよりうえなるはたらきをなしたればなり、使徒パウェルしょさつおいていふところごとし、いはく『それしゅごうれいと、しんしちょうこえと、かみらっぱとをもつみづかてんよりくだらん、そのときハリストスあつせしものよみがえり、次に生きてのこわれらはかれらとともくもたずさへられ、くうちゅうおいしゅむかふべし。かくてわれらはいつまでもしゅともらん』〔ソルン(フェサロニカ前書)四の十六、十七〕。

しんしちょうたいせいはつし、ばんみんにつげて……『ちてしゅむかふべし』といはん。そもしゅさいりんかくおそるべきなり。ダウィドはいへり『我がかみきたる、かれもくせず、そのまえやきつくくすあり、そのまわりはげしきかぜあり』うんぬん〔聖詠四十九の三(詩編五十の三)〕。せいしょるにひとごときものくもりてダニイル七の十三ちちいたり、ひとびとこころみんがためかわながる。もしたれにかきんごとおこないあれば、そはいよいよひかるものとならん。されどもしたれにかあしごとけんごならざるおこないあれば、そはにてかれん。ちちめて『そのころもゆきごとしろく、そのとうはつさらしきよめたるひつじのけごとし』〔九節〕。これひとかたちかたどりていへるなり。これなにいみするか。これかれつみによりてけがされざるものらのおうなりとのしめすなり。けだしふあり『なんじらをしろくすることゆきごとくし、またひつじのけごとくせん』〔イサイヤ一の十八〕と。つみをゆるすのしめし、またむざいなることのをあらはすなり。さてしゅてんよりくもりてきたるは、くもりてのぼりしがごとくならん。けだししゅみづからいへり、いはく『ひとおおいなるけんのういこうとをもててんくうくもりてきたるをん』〔マトフェイ二十四の三十〕。

さりながらかれりんかくにははんたいちからあえならふことをなさざるいかなるちょうこうありや。ふありいはく、『ときひとしるしそらあらはれん』〔同三十〕。ハリストスしんじつとくべつなるしるしじゅうじかなり。ひかりたるじゅうじかしるしのあらはれて、さきくぎせられたるおうきたるにさきだつは、これかならずさきがいしんいだきてかれしたるイウデヤじんらのこれをしょぞくあいつたへてごとくいはんがためなることろんたざるなり、いはく『よや、ほおたれたるものを、かれわれらそのかおつばきしたるものかれわれくさりにてばくしたるものかれわれきになにへてもじゅうじかくぎしたるものなり。われいまいづこなんじいかりのおもてのがれんや』と、かれらはかくのごとくいはんとするなり。しかれどもてんしぐんかこまれたるかれらはいづこにものがるることあたはざらん。じゅうじかしるしてきためおそれなり、されどもハリストスしんじたるしょゆうまたでんきゅしゃまたかれためくるしみをうけたるものらにとりてはよろこびなり。さればとうじハリストスともとなるほどこうふくなるものあらんや。てんしらにめぐりかこまれちちおなじくほうざするこうえいなるおうはそのぼくをかろんじたまはざらん、そのえらびしものらをてきこんぜしめざらんがためおおいなるらっぱをもて『そのつかいたちをつかはし、しほうよりそのえらばれたるものらをかりあつめしめん』〔同三十一〕。かれは一のロトをさへかろんじたまはざりき、いはんやおほくのえらばれたるものをかろんぜんや。『ちちしゅくするところものきたれ』〔マトフェイ二十五の三十四〕とはこれとうじうんしゃし、しょてんしあつむるところものらにつぐることばなり。

さりながらちょうしゅううちたれかいふものあらん、われまづし、おそらくはそのときびょうしゃとなりてとこのうえにあらんか、あるいわれおんなひきうすよりとりられんか、〔ルカ十七の三十四、五われあにかろんぜられざらんやといふものあらん。ひとびとはげめよ、しんぱんしゃへんしせざるなり、『ふところによりてさばきをなさず、かたるところによりてめざるなり』〔イサイヤ十一の三〕。ただぢとうのみをりてなんじのうふのこすとおもふなかれ。なんじぼくなりとも、なんじひんしゃなりとも、すこしもかなしむことなかれ。みづかぼくかたちフィリップ二の七〕をうけたまひしものぼくをかろんぜざるべし。たとへなんじんでとこのうえにあらんも、せいしょごとしるされたり、とうふたりとこにあり一はられ一はのこさると〔ルカ十七の三十四〕。もしなんじおとこあるいおんなひつようによりうすひきをらんも、もしおのれにしじょゆうして、ひきうすよりはなれざらんも、なんじかろんぜざるべし。ふあり『めしうどくさりく』〔聖詠六十七の七(詩篇六十八の七)〕、イオシフどれいちいより、またごくやよりひきいだして、こっかちょうとならしめたるものは、なんじをもかんなんよりすくひててんごくらしめん。ただのぞみかとうせよ、ただせよ、ただねっしんつとおこなへよ。一もほろぶるものあらざらん。なんじがすべてのきとうとすべてのしょうしとはしるされん、すべてのほどこししるされん、すべてのきんしょくしるされん、もしこんいんただしくまもらるるならばそれもしるされん、かみためまもところせっせいしるされん、されどものしるさるるきちゅうおいて、第一のえいかんどうていけつじょうとにゆるさるるなり、さらばなんじてんしごとくにひかかがやかん。さりながらなんじぜんなることたのしんでききしごとく、これとはんたいなるものをもにんたいしてちょうもんせよ。なんじのすべてのどんよくしるされん、なんじのすべてのいんこうしるされん、なんじのすべてのはいせい、すべてのあくげん、すべてのこわくようじゅつさつじんしるされん。もしこんにちりょうせんのちおなじくこれをすときはそもみなついしるされん、なんとなればいぜんおこないとりけさるべければなり。せいしょに『ひとおのれいこうもつもろもろせいしともきたとき』〔マトフェイ二十五の三十一〕といへり。よ、ひとびとや、なんじいくたしょうしゃまえおいしんぱんしょらんとするか。ときぜんにんげんはあらはれん。さればかぞへよ、ローマたみはいかほどすうなるか、かぞへよ、今日なおそんするやばんたみいくばくあるか、かれらは百年以前にいくばくせしや、アダムよりこんにちいたまでことごとくのものかぞへよ。かずおおいなり、しかりながらこれなおしょうなり。なんとなればてんしかずさらいよいよおおければなり。かれらは九十九のひつじにして、にんげんひゃくようの一なり。じゅうしゃたくさんなることはばしょひろさによりてけっせらるべし。るところのあたかいってんうちにあるしょうてんごとし。さればかこむところのてんはそのこうだいなるにしたがつてじゅうしゃゆうすべし。さればしょてんてんひるいなくおおいなるかずにてきょじゅうせらるるなり。しかれどもしるして『かれつかふるものせんせんかれまえものばんばん』〔ダニイル七の十〕といへるは、これそのかずのこれだけとどまるをいふにあらず、よげんしゃさらだいなるかずあたはざるによりかくいへるなり。ゆえときはあらゆるものちちたるかみどうざするイイスス ハリストスおよどうそんなるせいしんともしんぱんのぞむべし。てんしらっぱわれしゅうじんにずかおのれおこないふものをばん。さればいちじもはやわれらをせんりつせしむべきにあらずや。ひとびとよ、くるしみのしょうならざるのほかばつおおいにして、かやうなるしょうしゃまえおいつみさだめらるるをおもふべし。さらばほうゆうつみさだめらるるをるよりもいくたびせんはわれらになおあまんずべきにあらずや。

しんぱんじつおそるべし、こくちをうくるものらはせんりつへざらん。てんごくまえにありてえいえんそなえらる。ゆえものふていはん、いかんしてわれらはのがれんや、いかんしててんごくるべきやといはんか。ふあり、いはく『えしになんじわれくわせり』〔マトフェイ二十五の三十五〕と。なんじらはいちどうきおくしてわするるなかれ。いまゆげんるのようはあらじ、ただふところのものへん、いはく『えしになんじわれくわせ、われかわきしになんじわれませ、たびせしになんじわれやどらせ、われはだかなりしになんじわれせ、われみしになんじわれひ、われごくにありしになんじわれきたれり』〔マトフェイ二十五の三十六〕。もしこれすときはハリストスともおうたらん。さりながらもしこれをなさざるときはつみさだめられん。ゆえこれおこなひてしんこうとどまるべし、おろかなるどうじょごとあぶらはんとて、ざされたるそとすてられざらんがためなり。なんじともしびあり、とこれのみをたのみとするなかれ、これをまもりてこうこうかがやかすべし。『なんじらのひかりを――ぜんこうひかりひとびとまえにかがやかすべし、』〔マトフェイ五の十六〕さらばハリストスなんじためにそしられざらん。ぜんこうにてかざりて、ふきゅうなるころもるべし。それかみしょうらんり、なんじけておのれかんりぞくするところのことはこれをせいりしてりえきむかはしめよ。なんじざいさんをまかされたるか。よろしくこれをせいりすべし。なんじきょうしたることばをまかされたるか。とうぜんこれさづけよ。なんじちょうしゅうこころいっちせしむべきちいるか。べんれいしてこれすべし。せいりさんがためもんおおし。ただごじんちゅうなんびとつみさだめられざるべく、またしりぞけられざるべし、ただわれらはけなげにしてよよおうたるえいえんおうハリストスむかへん。けだしせいしゃためまたししゃためみづかしてせいししゃしんぱんするものよよおうたらん。パウェルふがごとし、いはく『ハリストスしてよみがえりしはせいしゃししゃとにおうたらんがためなり』〔ローマ十四の九〕。

脚注[編集]

  1. 原文注1:しゅちじょうさいりんするにより、にんげんはじめよりのてきなるまきついせいふくせられ、とさるべく、ちじょうおいまきたたかひしものてんしょうこうむらん、これしょうらいこうえいくにえいかんなり。
  2. 原文注2:ふくフェオドリトの説明によるに預言者のいふ所はせいしんをもてきよむるのしめす。けだししゅきたる所のものおうみつせいしんをもてれいかをもてあらたにするなり。けだし大イオアンもいへり『かれせいしんもつなんじらをせんせん』〔マトフェイ三の十一〕また彼はかみなるおんちょうをもてつみけがれをきよむることあくもつてするがごとくならん。