<< イイスス ハリストス光栄にして地上に再臨の事。 >>
ひとりハリストスの第一の臨格を報ずるのみならず、前者よりは大に卓越なる再臨をも報ぜん。彼は容忍の実を表するものなれども、此は神の国の栄冠を自ら被らん[1]。けだし我等が主イイスス ハリストスに在てはすべて大概二倍するなり、まづ二の生誕なり、一は世々の先に父より生れ、二は季世に於て処女より生れたる是なり、又二の降臨なり、顕然ならざること、羊毛の上に降る雨の如く〔聖詠七十一の六(詩篇七十二の六)〕、二は顕然にして将来に属するものなり。第一の臨格に於て彼は布に包まれ、芻槽の中にあり、然れども第二の臨格に於ては光を袍の如く衣ん〔聖詠百三の二(詩篇百四の二)〕。第一に於ては耻を厭はずして十字架を忍び〔エウレイ十二の二〕第二に於ては神使の軍に擁され、光栄にして来らん。故に我等はひとり第一の臨格にとどまらず、第二の臨格をも待たん。そも第一に於て呼はりて『主の名によりて来る者は祝せられ給へ』〔マトフェイ二十一の九〕といひし如く、第二に於ても亦然らん、何故なれば神使らと共に出でて主宰を迎へて、彼に叩拝し、呼はりて『主の名によりて来る者は祝せられ給へ』といへばなり。救世主の来るは再び罰せられんが為にあらず、罰したる者を審判せんが為なり。先きに裁判の時に黙したりし者〔マトフェイ二十六の六十三〕は十字架の傍らにありて敢て不法をおこなひし者らに起想せしめていはん、曰く『汝既に此を行ひしに我れ黙せり』と〔聖詠四十九の二十一(詩篇五十の二十一)〕。当時彼は来りて、摂理により人々を切に開導したりしが、第二の臨格に於ては、たとへ願はざらんも、彼の国に必ず従はざるべからざるなり。
それ此の二つの臨格の事は預言者マラヒヤもいへり、曰く『汝等求むる所の主は忽ちにその殿に来らん』〔マラヒヤ三の一〕と。これ第一の臨格なり。さて第二の臨格の事は彼更に言を続けていへり、曰く『汝等願ふところの契約の使、視よ彼来らんと萬軍の主いひ給ふ。されども彼の来る日には誰か堪へんや。その顕著るる時には誰か立たんや。彼は金をふきわくるものの火の如く、布晒の灰汁の如くならん。かれは銀をふきわけてこれを潔むる者の如く座せん』[2]〔一、三〕此の後直ちに救世主は自ら預言者につぐ、曰く『我れ汝等に来りて審判をなし、巫術者にむかひ、姦淫を行ふ者にむかひ、偽の誓をなせし者にむかひ云々、速に證をなさん』〔五〕。故に使徒パウェルは我等を預戒し、告げて曰く『もし人この基礎の上に金、銀、宝石、木草、禾稿を以て建てなば、各人の工は明ならん、夫日これを顕すべければなり、此は火にて顕はれん』〔コリンフ前三の十二、十三〕。終にパウェルも二の臨格を示しティトに書して、曰く『夫れすべての人に救を賜ふ神〔救世主〕の恩あらはれ、我等を誡め、我等をして神を敬はざる事と世の中の慾を棄てて、自ら制し、正しく且虔みて今世に存へ、望むところの福と大なる神、すなはち我等が救主イイスス ハリストスの栄の顕れん事を望待たしむ』〔ティト二の十一、十三〕。見るべし彼は第一の臨格を称して我等にこれを感謝せしめ、而して第二の臨格を待たしむるを。故に今日我等が誦する信経に於ても左の如く信ずべきを教へらるるなり、曰く天に昇りて父の右に座し、生死者を審判するが為に光栄にして復来り、彼の国終りなからんを。
故に我等が主イイスス ハリストスは天より来らん。然れども此の世の終、末日に於ては光栄にして至らん、何となれば此の世界は終りあるべくして、此の造られたる世界は更に新にせらるべければなり。けだし敗壊、偸盗、姦淫及びもろもろの罪は地に溢れて世に血は血と混じたるにより、〔オシヤ十一の二〕此らの奇怪なる住者のみちみてる不法と共に存せざらんが為に、此の世は過ぎ去りて、更に善きものとならん。されどももしこれが実証を得んと欲せばイサイヤの言ふ所をきくべし、曰く『天は書巻の如くにまかれん、その万象のおつるは葡萄の葉のおつるが如く、無花果の枯れたる葉のおつるが如くならん』〔イサイヤ三十四の四〕。又福音経にもいへり、『日は晦く、月は光を失ひ、星は天よりおちん』〔マトフェイ二十四の二十九〕。我等独り死せんと、そを哀しむなかれ。もろもろの星も隕ちん、然れども新に建てられん。主は天を巻く、然れどもこれを滅ぼさんが為にあらず、新に高く起こして、最も善き形状となさんが為なり。預言者ダウィドの言ふところをきくべし、曰く『主や汝は初に地を基け、天も汝の手の造りし所なり、彼等は亡びん、ただ汝は永く存せん』〔聖詠百一の二十六(詩篇百二の二十六)〕。或は言ふ者あらん『視よ天は亡びんと明に言ふにあらずや』と。然れども預言者の亡びんといひしはいかなる意味にていひしや、よく注意してきくべし。こは次にいふ所によりて明に見ゆるなり、いふ『彼等は皆衣の如く古び、汝衣服の如く之を更ふれば彼等は易らんとす』〔二十七〕と。又いふ『視よ義者は亡ぶれども誰も心にとむるものなし』〔イサイヤ五十七の一〕と、これによれば人に亡びは帰す、然れども復活を待つなり、かくの如く天も復活の如きものを待たんとす。曰く『日は晦く月は血に変らん』云々〔約耳二の三十一〕。然れども天より雲に乗りて来らんとする主を待ちて彼を迎ふる準備をなさん。その時神使の箛は鳴り渡らん。先づハリストスの為に死せし者らは復活すべく、生者の中最も敬虔なる者は雲に携へられ、労のための報として人間より上なる栄をうけん、何となれば彼等は人力より上なる働をなしたればなり、使徒パウェルが書札に於ていふ所の如し、曰く『それ主は号令と、神使長の声と、神の箛とを以て自ら天より降らん、その時ハリストスに在て死せし者は先づ甦り、次に生きて在る我等は彼等と共に雲に携へられ、空中に於て主を迎ふべし。かくて我等はいつまでも主と共に居らん』〔ソルン(フェサロニカ前書)四の十六、十七〕。
神使長は大声を発し、万民につげて……『起ちて主を迎ふべし』といはん。そも主宰の臨格は恐るべきなり。ダウィドはいへり『我が神来る、彼は黙せず、その前に焼尽くす火あり、その四周に烈しき風あり』云々〔聖詠四十九の三(詩編五十の三)〕。聖書に依るに人の子の如きもの雲に乗りて〔ダニイル七の十三〕父に至り、人々を試みんが為に火の河流る。もし誰にか金の如き行あれば、そはいよいよ光るものとならん。されどもし誰にか葦の如く堅固ならざる行あれば、そは火にて焼かれん。父は座を占めて『その衣は雪の如く白く、その頭髪は漂潔めたる羊毛の如し』〔九節〕。これ人の形状に象りていへるなり。これ何を意味するか。これ彼は罪によりて汚されざる者らの王なりとの義を示すなり。けだし言ふあり『我れ汝等を白くすること雪の如くし、又羊毛の如くせん』〔イサイヤ一の十八〕と。是れ罪をゆるすの義を示し、又は無罪なることの義をあらはすなり。さて主の天より雲に乗りて来るは、雲に乗りて昇りしが如くならん。けだし主は自らいへり、曰く『人の子が大なる権能と威光とをもて天空の雲に乗りて来るを見ん』〔マトフェイ二十四の三十〕。
さりながら彼の臨格には反対の力の敢て倣ふことをなさざるいかなる徴候ありや。言ふあり曰く、『時に人の子の號標天空に現はれん』〔同三十〕。ハリストスの真実特別なる號標は十字架なり。光に似たる十字架の號標のあらはれて、先に釘せられたる王の来るに先だつは、これかならず先に害心を抱きて彼を刺したる猶太人らのこれを見、諸族相傳へて左の如くいはんが為なること論を俟たざるなり、曰く『視よや、頬を打たれたる者を、彼は我等その面に唾したる者、彼は我等鎖にて縛したる者、彼は我等先きに何に易へても十字架に釘したる者なり。我等今何処に汝怒りの面を逃れんや』と、彼等はかくの如くいはんとするなり。然れども天使の軍に囲まれたる彼等は何処にも逃るること能はざらん。十字架の號標は敵の為に恐れなり、されどもハリストスを信じたる諸友、又は伝教者、又は彼の為に苦をうけたる者らにとりては喜びなり。されば当時ハリストスの友となる程幸福なる者あらんや。天使らにめぐりかこまれ父と同じく宝座に座する此の光栄なる王はその僕をかろんじ給はざらん、その選びし者らを敵と混ぜしめざらんが為に大なる喇叭をもて『その使たちをつかはし、四方よりその選ばれたる者らを蒐集めしめん』〔同三十一〕。彼は一のロトをさへかろんじ給はざりき、いはんや多くの選ばれたる者をかろんぜんや。『我が父の祝する所の者や来れ』〔マトフェイ二十五の三十四〕とはこれ当時雲車に駕し、諸天使が集むる所の者らにつぐる言なり。
さりながら聴衆の中誰かいふ者あらん、我は貧し、恐らくはその時病者となりて牀上にあらんか、或は我婦は磨石より取去られんか、〔ルカ十七の三十四、五〕我等豈軽んぜられざらんやといふ者あらん。人々や厲めよ、審判者は偏視せざるなり、『言ふところによりて審判をなさず、語るところによりて責めざるなり』〔イサイヤ十一の三〕。ただ地頭のみを取りて汝農夫を遺すと思ふなかれ。汝は僕なりとも、汝は貧者なりとも、少しも哀しむことなかれ。自ら僕の貌〔フィリップ二の七〕をうけ給ひし者は僕をかろんぜざるべし。たとへ汝は病んで牀上にあらんも、聖書に左の如く録されたり、当時二人牀にあり一は取られ一は遺さると〔ルカ十七の三十四〕。もし汝、男或は婦は必要により磨ひきをらんも、もし己れに子女を有して、磨石より離れざらんも、汝を軽んぜざるべし。言ふあり『囚者の鎖を釋く』〔聖詠六十七の七(詩篇六十八の七)〕、約瑟を奴隷の地位より、又は獄舎より引出して、国家に長とならしめたる者は、汝をも患難より救ひて天国に入らしめん。ただ望を固うせよ、ただ為せよ、ただ熱心に力め行へよ。一も亡ぶるものあらざらん。汝がすべての祈祷とすべての唱詩とは録されん、すべての施済は録されん、すべての禁食は録されん、もし婚姻も正しく守らるるならばそれも録されん、神の為に守る所の節制も録されん、されども此のしるさるる記中に於て、第一の栄冠は童貞と潔浄とにゆるさるるなり、さらば汝は天使の如くに光り輝かん。さりながら汝は善なる事を楽んでききし如く、これと反対なるものをも忍耐して聴聞せよ。汝のすべての貪欲は録されん、汝のすべての淫行は録されん、汝のすべての背誓、すべての悪言、すべての蠱惑、妖術、殺人は録されん。もし今日領洗の後に同じくこれを為すときはそも皆終に録されん、何となれば以前の行は取消さるべければなり。聖書に『人の子己の威光を以て諸の聖使と共に来る時』〔マトフェイ二十五の三十一〕といへり。見よ、人々や、汝は幾多の證者の前に於て審判所に入らんとするか。彼の時全人間はあらはれん。されば算へよ、ローマの民はいか程多数なるか、算へよ、今日尚存する野蛮の民は幾許あるか、彼等は百年以前にいくばく死せしや、アダムより今日に至る迄悉くの者を算へよ。此の数は大なり、然りながらこれ尚小なり。何となれば天使の数は更に愈多ければなり。彼等は九十九の羊にして、人間は百羊の一なり。住者の夥多なることは場所の広さによりて決せらるべし。居るところの地は宛も此の一天の中にある小点の如し。されば地を囲むところの天はその広大なるに随つて住者を有すべし。されば諸天の天は比類なく大なる数にて居住せらるるなり。然れども録して『彼に事ふる者は千々、彼の前に立つ者は万々』〔ダニイル七の十〕といへるは、これその数のこれ丈に止まるをいふにあらず、預言者は更に大なる数を言ふ能はざるによりかくいへるなり。故に彼の時はあらゆる者の父たる神は同座するイイスス ハリストス及び同存なる聖神と共に審判に臨むべし。天使の箛は我等衆人の自ら己の行を負ふものを召ばん。されば此の一事は最早我等を戦慄せしむべきにあらずや。人々よ、苦しみの小ならざるの外罰も大にして、かやうなる證者の前に於て罪に定めらるるを思ふべし。さらば朋友の罪に定めらるるを見るよりも幾回か死せんは我等に猶甘んずべきにあらずや。
審判は実に恐るべし、告知をうくる者らは戦慄に堪へざらん。天国は前にありて永遠の火は備えらる。故に或る者は問ふていはん、いかんして我等は火を逃れんや、いかんして天国に入るべきやといはんか。言ふあり、曰く『我れ飢えしに汝等我に食せり』〔マトフェイ二十五の三十五〕と。汝等は此の一道を記憶して忘るるなかれ。今や他の喩言を借るの要はあらじ、ただ言ふところの者を終へん、曰く『我れ飢えしに汝等我に食せ、我渇きしに汝等我に飲ませ、我れ旅せしに汝等我を宿らせ、我裸なりしに汝等我に衣せ、我病みしに汝等我を訪ひ、我獄にありしに汝等我に来れり』〔マトフェイ二十五の三十六〕。もし此を為すときはハリストスと共に王たらん。さりながらもしこれをなさざるときは罪に定められん。故に此を為し行ひて信仰に止まるべし、愚なる童女の如く油を買はんとて、閉ざされたる戸の外に遺られざらんが為なり。汝に燈あり、とこれのみを頼とするなかれ、これを守りて煌々と輝すべし。『汝等の光を――善行の光を人々の前にかがやかすべし、』〔マトフェイ五の十六〕さらばハリストスは汝の為にそしられざらん。善行にて飾りて、不朽なる衣を被るべし。それ神の照覧に依り、汝が受けて己の管理に属するところの事はこれを整理して利益に向はしめよ。汝に財産をまかされたるか。よろしくこれを整理すべし。汝は教師たる言をまかされたるか。当然に此を授けよ。汝は聴衆の心を一致せしむべき地位に在るか。勉励して此を為すべし。善く整理を為さんが為に門は多し。ただ吾人中何人も罪に定められざるべく、又斥けられざるべし、ただ我等は健気にして世々に王たる永遠の王ハリストスを迎へん。けだし生者の為、又死者の為に自ら死して生死者を審判する者は世々に王たらん。パウェルの言ふが如し、曰く『ハリストスの死して甦りしは生者と死者とに王たらんが為なり』〔ローマ十四の九〕。
- ↑ 原文注1:主の地上に再臨するにより、人間の元始よりの敵なる魔鬼は終に征服せられ、衝き落とさるべく、地上に於て魔鬼と戦ひし者は天の賞を被らん、これ将来光栄の国の栄冠なり。
- ↑ 原文注2:福フェオドリトの説明によるに預言者のいふ所は聖神をもて潔むるの意を示す。けだし主は来る所の者を奥蜜に聖神をもて練り霊火をもて新たにするなり。けだし大イオアンもいへり『彼は聖神と火を以て汝等を洗せん』〔マトフェイ三の十一〕又彼は神なる恩寵をもて罪の汚れを潔むること灰汁を以てするが如くならん。