イェルサリム大主教聖キリール教訓/第六講話

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正教のおもなる定理[編集]

<< せいしんの事。 >>

いつなるはただせいしんほけいしなり、かみちちいつにしてちちなきがごとく、またどくせいかみことばいつにしてかれけいていなきがごとく、せいしんゆいいつにしてかれどうそんなるしんはあらざるなり。ゆえせいしんいたりておおいなるのうりょくなり、かれしんみょうにしてきわめしからざるものなり、なんとなればかれれいかつそうめいにして、ハリストスによりてかみつくられたるいっさいのものをせいにすればなり[1]かれぎじんらのれいらす、かれげんしゃらにありき、かれまたしんやくおいてはしとらにありき。せいしんのうりょくあえわかつをものながきらはるべきものとならん。きゅうしんやくしゅさいたるかみちちいつなり、げんしゃらがきゅうやくおいよげんし、しんやくおいきたたまへるしゅイイスス ハリストスいつなり、げんしゃらによりてハリストスことつたへ、ハリストスきたりしのちこうりんしてハリストスしめしたまひしせいしんいつなり……。

ばんぶつかれによりてぜんなることおよすくいことむかはしめらるるなり。まづだいいちかれこうりんおんわにしてそのかんずるはこうばしくそのくびきはなはかろ[2]かれきたるはひかりげんしょうこうせんありてあらかじらさん。かれせいじつなるはいりょしゃいためるがごとしんじょうもつきたらん、なんとなればかれすくひ、いやし、おしへ、さとし、かため、なぐさめてちしきらさんがためきたればなり。かれかれをうけたるものきたるべし。ついでそのものによりてものにもきたらん。きにくらがりにありて、そののちにわかたいようひとはこれによりにくがんらされて、きにざりしものをあきらかん、かくごとく、せいしんをうくるをたまはりしものもこれによりれいこんらされて、いまらざりしもの、およひとよりうえなるものをさとらん。かれたいにあれどもこころてんん、かれイサイヤごとく『たかくあがれるみくらしゅしたまふ』をん〔イサイヤ六の一〕、イエゼキリごとヘルウィムうえにあらはるるものん〔イェゼキリ十の一〕、ダニイルごとく千々万々のししゃん〔ダニイル七の十〕。しょうなるひとはじめをも、おわりをも、またそのちゅうかんなるだいつづきをもすべてん、いまだかんがへいたらざるしょおうけいしらん、なんとなればしんじつなるしょうこうしゃかれともればなり。ひとへきちゅうこもれどもそのしりょくとおおよびて、ひとびとすところをん。

イサイヤたいていせんねんいぜんにありしも、シオンることしょうしゃごとくなりき[3]しろなおぎがとしてそびえ、しじょうかざられ、きわめはんせいなりしも、げんしゃかれおよんで『シオンでんぽごとたがやされん』〔ミヘイ三の十二〕といへり、これこんにちわれらがじだいげんじつになりしものをよげんしたるなり。さればよげんせいかくなるにちゅういすべし。ふあり『シオンむすめぶどうえんちゅうにあるしょうしゃごとく、またえんちゅうにあるそさいちょぞうこごとのこされん』〔イサイヤ一の八〕。なんじせいしんせいしゃてらすをる。こんにちすべてのちしょさいけいとなりおわれり。ゆえにかくのごとめいしょうゆえによりのいかなることにもまよはされずしてせいかくまもるべし。

もしなんじして、けつじょうことおよどうていことねんりょしょうずるあらば、これすなはちせいしんおしふるなり。しょじょこんいんくることしばしばこれあるにあらずや、なんとなればせいしんかれどうていおしふればなり。おうきゅうつかへてめいせいかくかくたるひとせいしんにをしへられて、とみくらいとをかろんずることしばしばこれあるにあらずや。しょうねんびじょて、まなこじ、さらかれるのきかいけ、おかいよりとうそうすることしばしばこれあるにあらずや。なんじはん、これなにによりてしょうずるかと。これせいしんしょうねんれいおしへしによるなり。にはどんよくひとおおし、しかれども「ハリステアニン」はむさぼらず。なにゆえなるか。せいしんくんかいによるなり。じつきちょうなるたまものはこれすなはちせいなるかつしぜんなるしんなり。ちちせいしんによりてとうぜんせんをうけん。ひとなおおのれにたいゆうすれどもおおくのもうれつなるまきたたかふ。さりながらあまたひとてつさもつても、ささざるまきを、かれひときとうことばもつおのれけんぞくせしむることしばしばこれあるは、れにとどまるせいしんちからによるなり。さればのろものいっぺんこきゅうえざるものためとならんとす。これすなはちわれらはおおいなるきゅうえんしゃおよほごしゃきょうかいおおいなるきょうしわれらのためおおいなるだいほうしゃかみによりてゆうするなり。われらはまきをもおそれざらんなんとなればわれらがかんえいしゃまきよりだいなればなり。かれきてかんのうなるものたづね、たまものさづくべきところものたづぬるなり。

かれぶじゅつしゃづけらる、なんとなれば、われらをなぐさめ、はげましてわれらのよわきをたすくればなり。『われらはいのるべきところをらざれども、せいしんみづかひがたきがいたんもつて、われらのために〔あきらかかみまえに〕だいきゅうするなり』〔ローマ八の二十六〕。ものハリストスためはずかしめられ、ふせいののしらるることしばしばこれあらん。ちめいしゃごとさんこくなるくるしみはまえのぞみ、ごうもんと、つるぎと、もうじゅうと、きょえんとははっぽうよりきたるあらん、しかれどもせいしんかれきょうししていへらく、ひとや『しゅたのめよ、』〔聖詠二十六の十四なんじおよぶところのものはかろく、なんじたまふところのものはおおいなり、ざんじあいだくしんせよ、さらばながてんしともにあらん。『こんにちくるしみわれらにあらはるるさかえくらぶべきにあらず』〔ローマ八の十八〕。せいしんひとてんごくをあらはし、またらくえんをもしめす〔創世記二の十五〕。ちめいしゃらもしんたいもつさいばんしゃまえたんことはかならずまぬかるるあたはずといへども、せいしんちからもつてはもはやらくえんにありて、ゆるところざんにんをかろんずるなり。

そもちめいしゃらがせいしんのうりょくもつていかにおのれくぎょうしとぐるをらんとほっするか。きゅうせいしゅもんとらにぐるをるべし、いはく『ひとびとなんぢらをかいどうまたそうとくおよけんぺいまえかんときには、いかかつなにこたへ、またなにはんかとおもんばかるなかれ。なんじらがふべきことは、そのときもつて、せいしんはこれをなんじらにおしふべければなり』〔ルカ十二の十一、十二〕。ハリストスためしょうしゃとならんことは、もしたれせいしんもつしょうするなくんば、あたはざるなり。けだしもし『たれせいしんかんぜざればイイスス ハリストスしゅといふことあたはず』〔コリンフ前十二の三〕さればもしたれせいしんもつかためられずんば、いかにしてイイススためおのれせいめいいたさんや。

せいしんたまところだいなり、ぜんのうなり、かつきいなり。なんじら今ここにれいこんかずのいくばくあるをかぞへよ。せいしんはおのおのそれにかんじてえきをなし、われらのうちりてかくじんせいしつまたしねんをもりょうしんをもところをもんとす。われらがところじつだいなり、さりながらこれなおしょうなり。けだしなんじあきらかにせよ、たれちしきすでせいしんしょうめいせられたるか、ぜんぼくちる「ハリステアニン」のかずはいくばくあるか、ぜんパレステナかれはいくばくあるかをあきらかにせよ、しこうしてはんいよりローマぜんこくおもいいたり、それよりまなこてんじてぜんせかいけ、ペルシヤ人、インデヤみんゴトフ人、サウロマト人、ガルル人、イスパニヤ人、マウル人、リビヤ人、エフィオピヤ人、およびそのわれらのをだにらざるところじんしゅけよ、けだしかれらのうちにはわれらにしょうすべきさへなくしてそんするものおほし。またかくみんあいだおいてもしゅきょうしさいほさいしゅうどうしどうていおよびそのぞくじんちゅういして、そのだいなるほごしゃおんしきょうきゅうしゃとをそうぞうせよ、かれぜんせかいおいあるものにはけつじょうあたへ、あるものにはふだんどうていを、あるものにはじんしんを、あるものにはむよくを、あるものにはてきたいするまきふのちからあたふるなり。ひかりは一のこうせんもつすべててらごとく、せいしんゆうするものらをしょうめいするなり。けだしたれもうもくになりておんちょうをうくるにへざるあらんか、そのめはせいしんにあらずして、おのれふしんにあり。

なんじぜんせかいおけせいしんのうりょくたり、さらばもはやとどまるをやめて、じょうてんのぼるべし。かつだいいちてんのぼり、かしこおいてかくもかぞふべからざるいくまんしんしよ。しかれどもあたふべくはおもいにてさらにいよいよたかのぼるべし。しんしちょうよ、しょれいよ、のうりょくよ、さえきしゅよ、けんぺいよ、ほうざよ、しゅせいよ。かみよりかれらにあたへられたるきょうどうしゃかれらがすべてのきょうしせいせいしゃとはこれぞすなはちぶじゅつしゃなる。ひとびとあいだにありてはイリヤエリセイイサイヤかれひつようゆうし、またしんしらのあいだりてはミハイルガウリイルかれひつようゆうするなり。つくられたるものは一もかれどうそんなるはなし。もろもろしんしとそのしゅうてんぐんとをみなあはするもせいしんとはひかくにもなるべからず。ぶじゅつしゃしぜんなるのうりょくみづかのすべてをおほふなり。しんしふくじためつかはさるる、しかれどもせいしんかみふかきをきわめしることしとふがごとし、いはく『せいしんばんじきわめしり、またかみふかきをきわめしるなり、それひとじょうはそのうちにあるれいほかたれかこれをらんや、かくごとかみじょうかみれいほかものなし』〔コリンフ前二の十、十一〕。

せいしんよげんしゃらによりてハリストスことつたへ、しとらによりてはたらきをなせり。かれこんにちいたまでせんれいによりひとびとしんれいいんするなり。そもちちあたへて、せいしんさづく。これげんあらず、しゅみづかのたまへるなり、いはく『すべてのものはちちよりわれたまはれり』〔マトフェイ十一の二十七〕。またせいしんことしゅへることつぎごとし、いはく『しかれどもかれしんりれいきたるときは、すべてしんりなんじらにおしへんうんぬんかれわれえいせん、すなはちかれわれよりうけてなんじらにしめさん』〔イオアン十六の十三、十四〕。ちちせいしんによりすべてのものをたまふ。ちちたまところのものはにあらず、たまところのものはにあらず、せいしんたまところのものはにあらず、けだし一のすくいと、一ののうりょくと、一のしんこうとなり。かみちちは一なり、そのどくせいたるしゅは一なり、ぶじゅつしゃたるせいしんは一なり。われらがためにはこれりてれり、しかれどもほんせいことあるいイポスタスことこのんでせんさくするなかれ。しるされし所のものはすでへり、さりながらいまだしるされざることは、ふをあえてせざらん。われらがすくいためにはちちせいしんのあるをりてれり。

脚注[編集]

  1. 原文注1:せいしんしんみょうにしてほんたいおいてはかみちちおよおなじく、そのむきゅうなるによればきわめしるべからざるなり。かれれいかつにしていのちながいだぜんちにしてちしきあたへ、ハリストスによりかみつくられたるすべてのものをせいにするなり。
  2. 原文注2:せいしんしづかにかつおんわにしてきよたましいくだらん、そのかれをうくるにそうとうせるたましいくだるはぜんひょうとしてこうばしきかんあらん、すなはきわめてゆかいにしてもいはれざるよろこばしきかんあらん、かれおんちょうをもてみちびるるせいなるくぎょうくびきたましいためいとかろからん。
  3. 原文注3:イサイヤシオンすなはイェルサリムることなばたけなかにあるかりごやごとくなりき。イェルサリムがローマ人にはかいせらるるやそのそうれいなるかおくかわりまづしきこやあらはれたりき。