金槐和歌集

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     序

 本書は、解說の項で委しく述べておいた如く、貞享本金槐集を底本として、類從本金槐集、定家所傳本金槐集を以てその出入異同を交合し、それらを一々下欄に註記して、三者の出入異同が一目瞭然とるやうに編纂したものである。それゆゑ、その出入異同を深くたづねる必要のない人は、上欄の歌だけを見て行けばよい訣である。元來貞享に於ける歌の記述法には、今日見ると、不完全と思はれるものが多いので、本書に於ては、謬と思はれるものは訂正し、假名を適當な漢字に書き改め、また讀み易いやうに送り假名を附けた個所も少くない。つぎに、歌の上の番號は、國歌大觀に倣つて私が特に附けたもので、主として語句索引の便宜を思つてのことである。また、附錄として、賀茂眞淵の『鎌倉右大臣家集の始にしるせる詞』及び源實朝小傳を添へたのは、この種の書物として是非必要だと考へたからである。

 最後に、この書の校訂を爲すに當り、佐佐木信綱博士の『校註金槐和歌集』、齋藤茂吉氏の『新訂金槐和歌集』を參考にしたことを斷つて、ここに兩氏に對し、深厚なる敬意を表する次第である。

     昭和十二年八月二十三日

                            半田良平

 

 

目次[編集]

     目  次

序   ………………………………………………………………解 說 ………………………………………………………………卷 之 上

 春 部(一────一三二)…………………………………… 一九
 夏 部(一三三──一七九)…………………………………… 四五
 秋 部(一八〇──三一一)…………………………………… 五四
 冬 部(三一二──四〇六)…………………………………… 八〇

卷 之 中

 戀 部(四〇七──五六一)…………………………………… 九八

卷 之 下

 雜 部(五六二──七一六)…………………………………… 一二三

附 錄
 
鎌倉右大臣家集の始にしるせる詞 ……………… 賀茂眞淵 … 一五七

金槐和歌集語句索引 ……………………………………………… 一六三

源實朝小傳 ………………………………………………………… 二二七

解説[編集]

     解  說

     (一)書名の由來

 きんくわいわかしふは、一に鎌倉右大臣家集ともいひ、鎌倉三代將軍さねともの家集である。金は、鎌倉の鎌の偏を取り、槐は周禮秋官朝志の條に、面三槐 三公位焉とあるによつて大臣の意味になるから、金槐和歌集は鎌倉右大臣家集といふことになる。

     (二)流布本に就て

 金槐集の流布本には、普通にぢやうきやうぼんと呼ばれるものと、るゐじゆうぼんと呼ばれるものとの二種がある。また流布本といふまでに至つてゐないが、最近佐佐木信綱博士が發見されたていかしよでんぼんがある。今、それらに就て、稍々詳細な解說を施しておきたい。

        (イ) 貞   享   本

 貞享本といふのは、貞享四年昭和十二年より數へて二百五十年以前)に京都の書肆から上梓されたものであるが、同本に二種あることは、その奧書によつて知ることが出來る。一本の奧書には、

  貞享四丁卯歲仲夏上浣 北村四郞兵衞板行

とあり、他本の奧書には、

  貞享四丁卯歲仲夏上浣 二條通寺町入 大森太右衞門刊行

とある。內容の殆んど同一の書が、どういふ理由で、同時に違つた書肆から出版されたものか、現在ではその間の事を解するのに苦しむ次第である。

 刊本貞享本の底本となつたものは、その奧書(本書百五十五頁參照)によつて知られる如く實朝薨後程なく編纂されたと思はれる家集に、柳營亞槐が部類の改訂を施したものの寫本であつたらしい。何故寫本と推定したかといふに、明かに筆寫の際の記と認められるものが卷中に散見するからである。因みに、柳營亞槐とは、將軍であつて大納言のことであるから、實朝の次に將軍となつた藤原賴經であらうと言はれてゐる[2]

 この貞享本は、三册から成り、卷之上には春夏秋冬の歌、卷之中には戀の歌、卷之下には雜の歌を收め、全部で歌數七百十九首あるが、そのうち、冬部の民部大夫行光の贈歌(本書九十三頁參照)、雜部のそせん法師の返歌(本書百三十二頁參照)、及び、つて編入された戀部のきぬがさ內府の歌(本書百十頁參照)を除くと、七百十六首となり、これが實朝の全作品である。今、之を細別すれば、春百三十二首、夏四十七首、秋百三十二首、冬九十五首、戀百五十五首、雜百五十五首となる。

 この原本を容易に見たいと思ふならば、上野の帝國圖書館藏本に就て見るがよい。同本は、故小中村義象博士の舊藏であつて、卷首に『陽春廬記』の藏書印がある。前記の大森太右衞門刊行のものである。

        (ロ) 類   從   本

 類從本といふのは、塙保己一が編纂した群書類從卷二三三に收められてゐるところから、その名がある。群書類從が完成したのは、天明二年昭和十二年より數へて百五十四年以前)のことであるから、類從本の出版は、貞享本の出版に遲るること、約百年と思へばよい。

 類從本は、後に述ぶる定家所傳本系統の寫本を底本とし、一本及び流布の印本(恐らく貞享本であらう)によつて校合したらしく思はれる。私が、類從本の底本を定家所傳本系統の寫本と推定した所以は、定家所傳本の語句と類從本の語句との間に、かなりの相似が存するからである。

 類從本の歌數は、貞享本と同じく七百十九首であるが、そのうち、重出の歌二首(本書三十六頁の九五と百五頁の四五九)と、先に貞享本で行つたやうに三首を除くと、全部で七百十四首となる。今、之を細別すれば、春百十一首、夏三十八首、秋百十八首、冬七十六首、賀十八首、戀百四十首(百四十一の內一首除)[3]旅二十四首、雜百八首、神祇十五首、述懷四首、一本及印本所載歌六十二首(六十六首の內贈歌返歌各一首、重出二首除)である。猶ほ、貞享本にあつて類從本に闕けた歌は、本書百十頁の四九三と百十五頁の五二五の二首である。

        (ハ) 定 家 所 傳 本

 定家所傳本といふのは、松岡忠良氏藏にかかはるものを、昭和四年、佐佐木信綱博士によつて發見報吿されたものである。一部は藤原定家の自筆で、他は別筆の由である。奧書に定家の筆で、『建曆三年十二月十八日』と記されてゐるが、これは、實朝が合點を乞ふ爲め定家に送つた歌を、定家が纏めたものだらうと考へられてゐる。この本は、昭和五年一月、岩波書店から寫眞版で複製發行されてゐるから、原本の體裁その他を見たいと思ふものは、同書に就て見るがよい。

     (三)明治以降の飜刻本

 從來刊本として世間に流布してゐた貞享本も類從本、その間互に出入異同があるのみでなく、字も少なくないので、兩者とも善本と稱することが出來ないことは、旣に佐佐木信綱博士も指摘された通りである。從つて明治以降の飜刻本が、それぞれ校訂者の意見に基づいて語句や假名遣などに相當の改訂を施してゐるのは、固よりそのところである。今、私の調查した範圍でいへば、先づ貞享本を底本としたものは、

  佐佐木信綱氏校訂鎌倉右大臣家集(明治四十年九月、すみや書店發行)

  國民文庫金槐集(明治四十三年三月、國民文庫刊行會發行)

  塚本哲三氏校訂有朋堂文庫金槐集(大正七年五月、有朋堂發行)

  佐佐木信綱博士編校註金槐和歌集(昭和二年一月、明治書院發行)

  日本文學叢書金槐集(新釋日本文學叢書第二輯第四卷所收)(昭和三年五月、日本文學叢書刊行會發行)

 右のうち、鎌倉右大臣家集は、北村四郞兵衞板行の貞享本を底本とし、校註金槐和歌集は大森太右衞門刊行の貞享本を底本としてゐる。

 次に類從本を底本としたものは、

  佐佐木弘綱同信綱校註金槐集(日本歌學全書第八編所收、明治二十四年九月、博文館發行)

  覆刻叢書金槐集(發行年月發行書肆不明)

  國歌大系本金槐集(校註國歌大系第十四卷近古諸歌集所收)(昭和三年六月、國民圖書株式會社發行)

 また、貞享本を底本とし、類從本の出入異同を記入したものは、

  半田良平校訂定本金槐和歌集(昭和二年五月、紅玉堂發行)

  齋藤茂吉氏校訂新訂金槐和歌集(昭和四年四月、岩波書店發行)

 私の校訂本に『定本』の名を冠したのは、今日から見れば甚だ僣越至極の沙汰であつて、顧みて衷心忸怩たるものがあるが、當時は、貞享類從兩本間の出入異同を一目でるやうに編纂した書物はなかつたのであるから、私のかういう氣負ひ方も許して貰へるかと思ふ。該書はその後程なく絕版になつたので、今囘その體裁を踏襲し、更にその後發見された定家所傳本の出入異同をも併せ記して、改造文庫の一篇として發行することになつたのである。

 齋藤氏の新訂金槐和歌集は、夙くから實朝の歌に特別の愛著をもち、屢々創見に富む硏究を發表して居られる同氏の校訂だけあつて、最も完備したものである。この書は、その後、『定家所傳本に據る校訂增補』二十六頁を巻末に附して、遺憾なきを期してゐる。

     (四)賀茂眞淵の評言その他

 實朝の歌の價値を最も早く認めて、それを稱揚したものは賀茂眞淵である。眞淵は、寶曆十年五月(昭和十二年より數へて百七十七年以前)に『鎌倉右大臣家集の始にしるせる詞』といふ文章を書いてゐる。この文章は、多少の異同を以て二三傳はつてゐるが、本書に採錄したものは、賀茂翁家集所載のものである。この文章は、夙く佐佐木信綱氏校訂鎌倉右大臣家集の卷頭に載せられ、私の定本金槐和歌集も、また齋藤茂吉氏の新訂金槐和歌集も、それを踏襲してゐるのであるが、本書にもまた採錄することにした。

 また、眞淵は、貞享本を校訂した際、自分が佳作と信じた歌の上に○印、○○印を附し、評語の短きものは歌の傍ら、長きものは歌の上部にかきいれをしたが、現在殘つてゐる數種の貞享本では、その書入れの寫しに多少の異同があるやうである。その中で、飯田魚淵天保三年正月に寫しておいたものが、佐佐木信綱氏校訂鎌倉右大臣家集中に採錄されてゐるが、本書もそれに基づいて、全部下欄に註記することにした。

     (五)勅撰集採錄歌に就て

 勅撰集に採錄された實朝の歌は、全部で八十三首ある。實朝の若さを以て、これだけ多くの歌が勅撰集に選ばれたことは、洵に異數の拔擢であつて、その作歌技倆の程を夙くから認められた證左である。それらは一々各首の右肩に註記してあるが、ここには、その勅撰集の名前と歌數とを知る便宜上、勅撰集の年代順に從つて、歌の番號を記しておくことにする[4]

  ママ(一首) 

  續後撰集(十二首) 三七一一一二四三三六四四三七四五七四九六五四二五九一六四一六五六

  新勅撰集(二十五首) 一一二〇三五四六一一五一八二一九四二〇八二〇九二二五二三七二七三二七五二九二三〇二三五六三六五三九九四四一五〇一五〇四五七〇六七七六八〇六八四

  續拾遺集(五首) 三二四一一一六一六〇六〇五

  續千載集(二首) 四九二八四

  新後撰集(五首) 五二一五九二一四二六三六四六

  玉 葉 集(八首) 一〇七二一二三五五四〇四五六五六四〇六六八六九一

  風 雅 集(六首) 一五〇二八九三六九三七〇四二〇五二〇

  續古今集(八首) 一八八三〇六三一二四七五五三九五六六六七二六七三

  新續古今集(四首) 一八〇二〇一三六三五三二

  新千載集(一首) 二三六

  新拾遺集(二首) 二七一四三〇

  新後拾遺集(二首) 二八八三二四

  續後拾遺集(二首) 三四七四八七

[入力者補足][編集]

  1. 入力者による追加。
  2. ウィキペディア『金槐和歌集』でも、諸説あるとのことだが、近年では足利義政とする説が有力視されているという。
  3. 底本“”欠。
  4. 以下、源実朝の歌を収める勅撰集の一覧だが、今日確定している年代順とは大きく異なっている。またどういう理由か不明だが、『新千載和歌集』所載歌2首が1首ずつ重出している。

ライセンス[編集]

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