聖金口イオアン教訓下/第45講話

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第45講話[編集]

<<悪言あくげん>>


悪言あくげんするもの兄弟きょうだいからだみ、近者きんしゃにくくらふなり。ゆえパウェルおどしていはく『なんぢつゝしめよ、もしたがひ呑噬のみくらはゞたがひほろぼされん』〔ガラティヤ五の十五〕。なんぢにく近者きんしゃの〉さずといへども、しきことばたましひし、あしき風説ふうせつもつてこれをきずつけ、自己じこにも衆人しゅうじんにもせんひゃくがいをなさん、なんとなればなんぢ近者きんしゃ非議ひぎして、なんぢところものをもあしきものとなせばなり。もしもの罪人ざいにんならば、つみ同類どうるいおのれにて、かへりみざるものとならん、されどもしじんならば、ぶんかたおもふの端緒いとぐちて、驕傲きょうごうおちいり、にんつみためみづかほこらん。つぎなんぢこれともぜん教会きょうかいをもそこなはん、なんとなればすべところもの罪人ざいにんなんせずして、かへつハリストスきょう全民ぜんみんのゝしりたふさんとすればなり。信者しんじゃ某々ぼうぼう放蕩者ほうとうしゃなり、行状ぎょうじょうしゃなりといふをばきかず、かへりてしつあるものへて、ことごとくの「ハリステアニン」をひんとす。第三だいさんなんぢかみさかえおとしむるのげんとならん、なんとなればかみわれするときさんせらるれど、つみおこなときそしかつけがさるればなり。だいなんぢはあしき風説ふうせつしてかれはづかしめ、かれをしてこれがためにいよ〳〵はぢなきものとならしめ、かれおのれてきとなしまたあだとなさん。だいなんぢすこしもなんぢぞくせざることたちりて、みづかおのれ厳責げんせきばつとをうくべきものとなさん。たれもいふなかれ、もし不義ふぎをいひしならば其時そのときにこそわれ悪言あくげんしたるなれ、もし真実しんじつふならば、最早もはや悪言あくげんするにあらずといふなかれ。たとへなんぢ悪言あくげん真実しんじつをいふも、さるあいおいても悪言あくげんつみおかせるなり。ファリセイじんぜい悪言あくげんして真実しんじつをいへり、しかれどもこれかれなんえきもあたへざりき。われにつげよ、じつぜいぜいにして罪人ざいにんたりしにあらずや。人皆ひとみなかれぜいたるをん、さりながらすべてこれにもかかはらず、ファリセイじんかれなんしたるがためにすべてをうしなへり、なんぢ兄弟きょうだいあらためしめんことをほつす、けよ、かみいのれよ、ひそかかれ勧訓かんくんをせよ、忠告ちゅうこくせよ、ねがへよ……。


なんぢすすむ、悪言あくげんするものためみみふさぐべきのみならず、悪言あくげんするをものためにもこれをふさぎて、言者げんしゃのいふところならふべし、いはく『ひそかおのれとなりそしものわれこれをはん』〔聖詠百の五〕。となりにつげてごとふべし、なんぢたれをかかつみせんとほつするか。われなんぢことばみみひらきよきかおりをきかん。されどもし悪言あくげんせんとほつするならば、われなんぢことば入口いりぐちふさがん、なんとなればわれふんかいとをうくることあたはざればなりと。誰彼たれかれしきひとたることをきくはためなんえきやある。かへつてこれによりておほいなるがいと、はなはだしきそんとをしょうぜん。かれにつげていふべし、われ自己じこことまた自己じこつみためちんすべき所以ゆえんとにしんするなり、されば穿鑿せんさくやすんぜずして探訪たんほうすることとをみづからおのれのむかはしめんと。もしわれぶんことおもはず、かへつにんことこのんさぐるならば、如何いかなる宥恕ゆうじょ如何いかなる弁解べんかいとをすべけんや。ゆきぎてひといへのぞき、ちゅうにあるところのものをみとむるはれいあらず、いとづべきなり、かくごとひとしんこのんでさぐるは、きはめいやしかるべし。かゝる生活せいかつをなしておのれおこなひかへりみざるものが、なにみつもらしつゝ、これをところものねがひ、其口そのくちぢてたれにもこれをごんせしめざらんとするはさらわらふべきなり、これかれなんをうくべきことをなしたるをみづかしょうするなり。もしなんぢたれにもごんせざらんことをひとねがふならば、此事このことひとにつげざるのまされるにしかざるなり。ことばまったなんぢけんにあり、しかるをなんぢはすでにこれをにうつして、いまやこれをまもらんことにしんす。もしことばにうつらざらんことをほつせば、みづからこれをいふなかれ。しかれども最早もはやなんぢことばまもりをうしなひ、これをにうつしたるときおよんで、約束やくそくかつ誓願せいがんをなして、がいひしところまもらしめんとするはようえきことなり。されど悪言あくげんするは愉快たのしきにや。いな悪言あくげんせざるこそ愉快たのしかるべけれ。悪言あくげんするものそのこころやすんぜず、うたがかつおそれん、おほくの人々ひとびとあいだまきらしたることば悪言あくげんせられたるものをしておほいなるあやふきにかゝらしめざるか、またえきなるかつ有害ゆうがいなるうらみしょうぜざるかとおほいおそかつおののき、後悔こうかいしておのしたまんとするなり。しかれどもことばおのれにまもものまった安然あんぜんに、かつおほいたのしんで生活せいかつせん。智者ちしゃいふ『なんぢことばをきけり、ことばなんぢともすべし、おそるゝことなかれ、ことばなんぢれつせしめざるなり』〔シラフ十五の十〕[1]なんぢともすべしとは如何いかなるか。これをさゝへて、これにづることをゆるすなかれ、如何いかなる事情じじょうありともこれにうごくだもゆるすなかれとなり。さりながらなんぢはまづ人々ひとびとをしてことをあしざまにはしめざらんことをもつとめよ。しかれどももしなんぢ何時いつ何事なにごとをかきくあるときは、これを圧潰おしつぶし、これをころし、かつこれをわすれてあたかかつてきかざりしがごとくせよ、しかときもっとも平安へいあんにしてなん現生げんせいを送らん。

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あやまちをきびしく穿鑿せんさくするものは、自己じこあやまちにもけつして宥免ゆうめんをうけざらん。なんとなればかみ審判しんぱんをなしたまふはわれ犯罪はんざい性質せいしつ相応そうおうするのみならず、するなんぢにも相応そうおうすべければなり。ゆえしゅおしへていはく『ひとするなかれ、せられざるをいたせ』〔マトフェイ七の一〕。けだしつみはたゞそのありしまゝにて彼処かしこにあらはるゝのみならず、ぼくのことをいひしなんぢによりてもかならずいよ〳〵くははるべければなり。じんなるもの温柔おんじゅうなるものおよ寛容かんようなるものつみおもきをしるげんずるがごとく、残忍ざんにんなるもの無情むじょうなるものおよゆるさゞるものおのれつみおほいくはへん。さらばたとへばはいくらふあらんか、かゝるきびしきおこなひによりても悪言あくげんきんぜざるときはなんえきもあらざるべきをりて、われくちよりすべての悪言あくげんもぎらん、なんとなればくちよりものひとをけがさず、くちよりづるものはけがせばなり………〔マトフェイ十五の十一〕。ゆゑに悪言あくげん猥褻わいせつだんおよび、ぼうきんぜん、しからばとなりことかみことけつしてぼうせざらん………。

脚注[編集]

  1. 投稿者註:原文は「シラフ十五の十」となっているが「シラフ十九の十」の誤りと思われる。