<<悪言>>
悪言する者は兄弟の体を呑み、近者の肉を噬ふなり。故にパウェルも威して曰く『汝等慎めよ、もし互に呑噬はゞ互に滅されん』〔ガラティヤ五の十五〕。汝は歯を肉に〈近者の〉刺さずといへども、悪しき言を霊に刺し、あしき風説を以てこれを傷つけ、自己にも他の衆人にも千百の害をなさん、何となれば汝は近者を非議して、汝に聞く所の者をもあしき者となせばなり。もし聞く者は罪人ならば、罪の同類を己れに得て、顧みざる者とならん、されどもし義人ならば、自分を高く思ふの端緒を得て、驕傲に陥り、他人の罪の為に自ら誇らん。次に汝は此と共に全教会をも害はん、何となれば凡て聞く所の者は罪人を非難せずして、却てハリストス教の全民を罵倒さんとすればなり。不信者等、某々は放蕩者なり、不行状者なりといふをばきかず、かへりて過失ある者に代へて、悉くの「ハリステアニン」を誣ひんとす。第三に汝は神の栄を貶しむるの源由とならん、なんとなれば神の名は我等善く身を持する時は讃美せらるれど、罪を行ふ時は非り且汚さるればなり。第四に汝はあしき風説を為して彼を辱かしめ、彼をしてこれが為にいよ〳〵耻なき者とならしめ、彼を己の敵となし又は仇となさん。第五に汝は少しも汝も属せざる事に立入りて、自ら己を厳責と罰とをうくべきものとなさん。誰もいふなかれ、もし不義をいひしならば其時にこそ我は悪言したるなれ、もし真実を言ふならば、最早悪言するに非ずといふなかれ。たとへ汝の悪言は真実をいふも、さる場合に於ても悪言は罪を犯せるなり。ファリセイ人は税吏を悪言して真実をいへり、然れどもこれ彼に何の利益もあたへざりき。我につげよ、実に税吏は税吏にして罪人たりしにあらずや。人皆彼の税吏たるを見ん、さりながらすべてこれにも拘はらず、ファリセイ人は彼を非難したるが為にすべてをうしなへり、汝は兄弟を改めしめんことを欲す、泣けよ、神に祷れよ、密に彼に勧訓をせよ、忠告せよ、願へよ……。
汝に勧む、悪言する者の為に耳を塞ぐべきのみならず、悪言するを聞く者の為にもこれをふさぎて、預言者のいふ所に效ふべし、曰く『隠に己の隣を誹る者は我これを逐はん』〔聖詠百の五〕。隣につげて左の如く言ふべし、汝は誰をか誉め且嘉みせんと欲するか。我は汝の言に耳を開て此の良香をきかん。されどもし悪言せんと欲するならば、我は汝の言の入口を塞がん、何となれば我は糞土と汚穢とをうくること能はざればなりと。誰彼の悪しき人たることをきくは我が為に何の益やある。反つて此によりて大なる害と、甚しき損とを生ぜん。彼につげていふべし、我等は自己の事と又自己の罪の為に陳訴すべき所以とに苦心するなり、されば此の穿鑿と此の安んぜずして探訪することとを自からおのれの身に向はしめんと。もし我等自分の事を思はず、却て他人の事を好で探るならば、如何なる宥恕と如何なる弁解とを期すべけんや。ゆき過ぎて人の家を覗き、家中にある所のものを認むるは礼に非ず、最恥づべきなり、此の如く人の身事を好んで探るは、極て陋しかるべし。かゝる生活をなして己の行を顧みざる者が、何か秘密を洩しつゝ、これを聞く所の者に願ひ、其口を閉ぢて誰にもこれを他言せしめざらんとするは更に笑ふべきなり、これ彼等非難をうくべきことをなしたるを自ら証するなり。もし汝は誰にも他言せざらんことを人に願ふならば、先づ此事を人につげざるのまされるにしかざるなり。言は全く汝の権にあり、然るを汝はすでにこれを他にうつして、今やこれを守らんことに苦心す。もし言の他にうつらざらんことを欲せば、自らこれをいふなかれ。然れども最早汝は言の守りをうしなひ、これを他にうつしたる時に及んで、約束し且は誓願をなして、我がいひし所を他に守らしめんとするは無用無益の事なり。されど悪言するは愉快しきにや。否、悪言せざるこそ愉快しかるべけれ。悪言する者は其心安んぜず、疑ひ且懼れん、多くの人々の間に蒔散らしたる言は其の悪言せられたる者をして大なる危きにかゝらしめざるか、又は無益なる且は有害なる怨を生ぜざるかと大に懼れ且戦き、後悔して己が舌を咬まんとするなり。然れども言を己れに守る者は全く安然に、且大に楽んで生活せん。智者いふ『汝言をきけり、言は汝と共に死すべし、おそるゝことなかれ、言は汝を破裂せしめざるなり』〔シラフ十五の十〕[1]。汝と共に死すべしとは如何なる義か。これを礙へて、これに出づることをゆるすなかれ、如何なる事情ありともこれに動くだもゆるすなかれとなり。さりながら汝はまづ人々をして他の事をあしざまに言はしめざらんことをもつとめよ。然れどももし汝は何時何事をかきくあるときは、これを圧潰し、これを殺し、且これを忘れて恰も曾てきかざりしが如くせよ、然る時は最平安にして無難に現生を送らん。
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他の過をきびしく穿鑿する者は、自己の過にも決して宥免をうけざらん。何となれば神が審判をなし給ふは我等の犯罪の性質に相応するのみならず、他を議する汝の議にも相応すべければなり。故に主は教へて曰く『人を議するなかれ、議せられざるを致せ』〔マトフェイ七の一〕。けだし罪はたゞそのありしまゝにて彼処にあらはるゝのみならず、他の僕のことをいひし汝の議によりても必ずいよ〳〵加はるべければなり。仁慈なる者、温柔なる者、及び寛容なる者は罪の重きを著く減ずるが如く、残忍なる者、無情なる者、及び赦さゞる者は己の罪を大に加へん。さらばたとへば灰を食ふあらんか、かゝるきびしき行によりても悪言を禁ぜざるときは何の益もあらざるべきを知りて、我等が口よりすべての悪言を扭奪らん、何となれば口より入る者は人をけがさず、口より出づる者はけがせばなり………〔マトフェイ十五の十一〕。ゆゑに悪言猥褻の談及び、誹謗を禁ぜん、然らば隣の事も神の事も決して誹謗せざらん………。
- ↑ 投稿者註:原文は「シラフ十五の十」となっているが「シラフ十九の十」の誤りと思われる。