聖詠講話上編/第十一聖詠講話

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第十一聖詠講話[編集]

はちげんがくもっうたはしむ。
しゅよ、われすくたまへ、けだしじんえたり、まことひとうちげんしょう』。やくしゃは『ひとうちちゅうしんものなし』〔アキラ[1]、一節二節〕となす。[2]

。 がんらいぜんおこなふことはこんなんにしておこなやすからざるも、ことこれおこなぜんにんすくなときしかりとなす。りょこうこんなんなるも、ことりょこうしゃただいちにんにしてどうはんしゃなきときしかるがごとく、ここにもまたどうようなり。けいていかんけいなぐさめとはじつじゅうだいなることなり。ればパウェルは『われたがいかえりみてあいおこないとをはげますべし』〔エウレイ(ヘブル)書十の二十四〕とへり。われらいにしえじんをもことたっとばざるべからず、ただかれぜんこうおこなひしがためのみならず、ぜんこうはなはとぼしきときいづこにもぜんこうしゃのあらざりしときぜんこうおこなひしがためにもたっとばざるべからず。せいしょに『ノエじんなり、そのまったものなりき』〔創世記四の九ママ[3]〕とあるはこのことあらはすなり。われらアウラアム ロト モイセイおどろく、かれあたかしんほしいばらあいだなるしょうおおかみあいだなるひつじごとかりき、かれしゅうじんはんたいなるみちあゆみてまざりき。ぐんしゅううちにありてぜんおこなふのこんなんにしてまたおほくのものはんたいほうこうくにさいしてぜんおこなふにこんなんならば、ひとぐんしゅうはんしてところものすうこんなんむかへん、こうかいさいしてはんたいほうこうなみはこばるるときなみさからひてふねすすむることのこんなんならんには、ましぜんこうおいてをや。よ、ものはんたいみちあゆむにさいして、ぜんこうみちあゆめるこのじんは、なにゆえかみしょうかんはしりてしゅよ、われすくたまへ』ふかを。かれいひあらはところのことにほかならず、いはわれにはじょうしゃみぎのててんたすけしんせいなるじょせいようす、われしゅうじんはんたいなるみちあゆみつつおほいなるしょうかんひつようゆうすればなり。かれわれすくたまへ、じんなければなり、とはずして、あくしゅけんり、しっぺいつよまりしにりて、りしところものほろびたるをあらはしつつけだしじんえたり』へり。パウェルまたこれよりかいして『あにらんや、わづかなるぱんだねことごとくのねりこくするを』〔コリンフ前書五の六〕といへり。またいはく『しきまじはりならはしやぶる』〔コリンフ前書十五の三十三〕と。まことげんしょうせり』とはなんなるか。まことおほし。いろおよぶつあいだにはまことのものといつわりのものとあり、たとへしんせいむらさきいろがんぞうむらさきいろとあり、またさふらん(薬草の名)・ほうせきこうりょうおよそののものにもしんあるがごとく、ぜんこうにもまたしんあり。まことじつところのことなり。ればまことへんじたることあり、おほはれたることあれども、そのほんしつおいがいされしにあらず、すなはひとびとによりてはいせきされたるなり、これりてげんしゃまことげんしょうせり』ひしのみならず、これいひあらはさんことをのぞみつつひとうちに』てふことばつけくはへたり。よ、まことかざりあり、いつわりかざりまたあることを。まことかざりとはいかなるものなるか。こころのかざりなり。いつわりかざりとはいかなるものなるか。にくのかざりなり。まこととみあり、いつわりとみまたあり。いつわりとみざいさんにあり、まこととみぜんこうにあり。よろこびにもしんあり、にも、けんにも、こうえいにも、またあり。しかれどもおほくのひとびとまことぶつてて、いつわりぶつついせきす。ひとみづからにもまことものいつわりものとあり――きてはたらものまことひとなれども、かいえがかるるはいつわりひとなり、くのごとぜんこうおいてもまたしかりとす。

。 ひとおのおのそのとなりいつわりひ、へつらくちにてふたごころよりふ』〔三節〕。やくしゃべつべつこころよりふ』〔アキラ〕となす。げんしゃしゅるいあくきてふなり、かれいつわりひしことと、そのとなりたいしてひしこととこれなり、しかしていつわりもといつわりなること、あるいぶんなること、あるいえきなることをいみす。パウェルまたたがひいつわりなかれ』〔コロサイ書三の九〕とひて、どういつのことをいひあらはせり。しかしてことおもきことはしゅうじんまどはさるることなり。かれかくかくひとはずしてひとおのおのへり。あくただがいのみならず、ないにもありき、すなはふたごころあるいやくしゃかれこころおほいなるひょうあることをあらはしつつべつべつこころへるごとく、しんないにありしなり。これすべてのてきよりもしし。あきらかなるおよあらはなるてきようかいしんすることをれども、がいあるじょうたいあらはしてないにはぶつかくところてきいたりては、これとらふることこんなんにして、こうぜんけんたづさふるひとびとよりもいっそうきけんなりとす。しゅことごとくのへつらくちほこたかぶるしたち、かれひて、したにてたん』〔四節五節〕。やくしゃわれらしゅさいせん』〔不明の訳者〕となす。くちわれともにあり、たれわれしゅたらん』やくしゃたれわれしゅさいせん』〔アキラ〕となす。なんじげんしゃいかかれのことをおもんばかるをるか。かれはんたいしてへるにあらずして、かれためなり。げんしゃかれほろびんとははずして、あくほろびんとひ、しゅかれつとははずしてへつらくちつとへり。

。 ここげんしゃたれおよほろぼされんことをぼうするは、かれじつざいたるるをふにあらず、すなはかれしたこうまんわるだくみおよごうまんほろぼさるることをふなり、またかれかれむちわらひてくちわれともにあり、たれわれしゅたらん』といへり。あくられたるものおよはつきょうしゃそうおうなることばなり。ゆえパウェルかれはんしてひつつ『なんぢおのれぞくするにあらず、あたいもっはれたり』〔コリンフ前書六の十九、二十〕とちゅういし、またおのれためせいかつせざるべきをめいず〔ロマ書十六の七ママ[4]〕。こころごとし、これくちなんぢぞくせずしてしゅぞくす、なんとなればしゅこれつくり、これととのへ、これいのちふきれたればなり。しかれどもなんぢくちゆうするか。われらゆうするところのものは、ことごとわれらのものならず、われらこれゆうするは、なおにんよりたくされしきんせんゆうするにひとしく、にんやとはれてまかせられたるりょうゆうするがごときものなりればかみくちなんぢあたへたるは、いばらしょうぜんためにあらず、すなはゆうえきなるたねこれもっこうまんおよいつはりにあらで、すなはけんそんしゅくさんあいとをぐふせしめんためなり。またかみなんぢあたへたるは、なんじもっしきよくおぼれんためにあらず、ていそうもっこれかざらんためなり、またなんぢあたへたるは、なんぢひとたんためにあらず、ほどこしあたへんためなり。なんぢくちもっつみおこなかんいんけつおこなふのぶきとなさば、いかくちわれともにあり』ふをんや。たれわれしゅたらん』あああくことばなり、あくこころなり。ひとよ、なんぢばんぶつなんぢしゅさいのうりょくえいはいりょおよしょうかんほうじ、なんぢからだたましいいのちおよおよゆるとえざるものは、ほとんみなぞうぶつしゅぜんのうつたふるをざるか――なんぢまたたれわれしゅたらん』ふ、れ、むちふんげきしんれいてきほうことばなり、すうあくおほこれよりしてしょうず。かかひとびとたれわれしゅたらん』ふ、しかるにひとびとしゅみとむるも、しんぱんおよちょうばつかんするきょうかいはいせきし、ざんかいらくためおほいなるくるしみまたかれごくのことをわすれておのれなぐさめんことをのぞみつつみとめずしてかかだいたんもっおのれほろびふちおしおとすなり。このゆえわれなんぢごくのことをおくし、ごくのことをせつし、くのごとうるはしきじょうたいもっおのたましいかざらんことをすすむ、なんとなればかかだんはなはゆうえきなればなり。かみごくもっわれらおどすはむなしきことにあらず、これもっごくうたがいなきものとなすのみならず、おそれもっわれらぜんりょうなるものとなさんためなり。ゆえあくつとめてごくきてのおくほろぼさんがためぜんりょくもちふ。ればごくのことをわすれずして、なんためわれときならずおのれわづらはすやとなかれ。このはんのうときならざるか。このはんのうなんぢごくおいくるしときときならざるものたらん、げんつうかいときにしてみらいそのときにあらず。ラザリときせいかつしたるふうしゃしごすうくるしみけしも、かれなんえきをもあたへざりしはこのことしょうするなり。れどかれよきときつうかいしたらんには、かかくるしみけざりしならん。しゅいはく、まづしきものくるしみとぼしきものなげきりて、われいまき、とらへられんとするものあやうからざるところかん』〔六節〕。やくしゃあきらかなるすくひをなさん』〔シムマフ[1]〕となす。

よ、けんそんちからいかなるものなるかを。まづしきものここまづしきものとはつうかいこころあるものふ〕のちからかれくるしみためあたふるかみほごなり。げんしゃここまづしきものせいかつおよぜんこうきてはず、ただかれくるしみかみかたむけてばつふくしゅうとにこぶするをふなり。いさみてはづかしめたえしのぶはなんこころなるか、よ、いかかみせいにしてはづかしめらるるものためおもんばかるかを。こうかんとはかれためだいなるほごとなる。しゅうたんちからだいなり、このちからじょうしゃたすけべばなり。なんぢまづしきものはづかしむるものおそるべし。なんぢけんざいほうきんせんおよさいばんしゃこんせつゆうするも、かれなにものよりもつよところぶき――しゅうたんているいおよはづかしめにんたいすることをゆうす、かれこのぶきもってんたすけおのれひきくるなり。このぶきいえはきし、こんていほうかいし、がいぜつめつし、ぜんじんみんできぼつせしめたり、せいにしてはづかしめらるるものなげきちからなり。ぜんりょうなるひんしゃくるしみけていつあくげんをもいださず、ただなげきておのれこうときは、かみみづかかれかえりたまふなり。とらへられんとするものあやうからざるところかん』とはなんなるか。こころは、われいさましくあらはに、あきらかかれほごせん、しゅうじんこれらんためなりと。しかれどもいつあきらかにすくはざることあるか。ときとしてはあきらかにすくはずしてひそかかにすくふことあり、かれひとほまれもとめざればなり。こころは、いましょてきげんぜんとしてかれこうげきし、あたかかみたすけゆうせざるものごとかれかなしましめ、かれざんぼうするにさいして、てきみづからもじっけんおいしゅたすけみとめ、これさとりてぜんりょうなるものとならんがために、われあきらかにかれすくいてんとなり。しゅことばきよことばなり、いろりおいつちよりきよめられたるぎんなり』これことばまえべたることばとのあいだいかなるつづきあるか。おほいなるしかちょくせつつづきあり。かれいはく、くうげんもしくはきょかつなりとおもなかれ、かみことばきよくしてあくとほざかればなり。とかされたるぎんの、ぶつこんぜざるがごとく、かみいかなることばぶるとも、そのことばかならなしげられざるべからず。ゆえいはいろりおいつちよりきよめられ、ななたびられたるぎんなり』〔七節〕と。

。 なんぢげんしゃいかぶったいもって、かみいつわりなきこと、すなはまこといひあらはすをるか。はんぷくちゅういしてようかいこうし、くしてきよめたるぎんの、ごうぶっしつこんぜざるがごとく、かみいひあらはしまたくのごとし。しゅよ、なんぢわれたもち、われまもりて、このよりえいえんいたらん』〔八節〕。やくしゃかれを』〔不明の訳者〕となし、だいさんやくしゃこれまもりて、このよりえいえんいたらん』〔アキラ及びフェオドチオン[1]〕となす。ひとうちしょうじんかかきにあれば、あくしゃほうめぐる』〔九節〕。やくしゃめぐるをあゆまん』〔アキラ、シムマフ、フェオドチオン〕となす。しゅよ、なんぢわれたもち、われまもりて』よ、げんしゃいかに『しばしばあるいこれなおへば『つねに』かみはしりきてかれよりたすけもとむるは、このたすけだいなるのうりょくにして、いかなるときにもかぎられざるにるなり。こころは、なんぢえずわれらしゅごするによりて、われらいかなるじんてきのことにもひつようゆうせずとなり。あくしゃほうめぐる』とはなんなるか。七十ほんやくしゃやくればごととくせざるべからず、いはく、たとあくにんわれらめぐるとも、われらごうくるしみけざらん、なんぢわれらまもり、われらたかめてこうえいなるものとなせばなりと。やくれば、ごととくせんことをようす、いはく、なんぢいやしきひとしょしたかむるときすなはなんぢけいべつせられ、およひびなるものかぞへられたるわれらえいし、あくにんとほざけ、これときあくにんとほざかると。たかきれば』とはなんなるか。これかんげんすれば、なんぢひとなんぢたるものとなりほどこれなんぢたるものせり。しゅへり『われらしょうぞうとによりてひとつくらん』〔創世記一の二十六〕と。かれてんりとは、われらることなり、またてんうえにはかれよりうえなにもののなきがごとく、じょうにはそのかちひとたるものなし。かれわれらに『てんいまなんぢちちごとれ』〔マトフェイ福音五の四十五、四十八〕といひ、われらに、われらみづからのをすらつたへて『われへり、なんぢかみなり、なんぢみなじょうしゃなり』〔聖詠八十一の六(詩篇八十二の六)〕といふ、またわれなんぢをしてファラオンにおけることかみごとくならしむ』〔出埃及記七の一〕といへり。ればモイセイあるてんねんぶつへんし、またあるものあるてんねんぶつへんせり、かみわれらおのれみづからをかみみやすことをめいじたり。たとなんぢてんつくらざるも、かみみやつくらん。てんこうあるは、そのうちかみすまいたまふにる、ましわれらハリストスによりててんじゅうするをや、しとへり『かれともふくかつせしめ、てんせしめたり』〔エフェス書二の六〕と。ハリストスわれらそのみづかししよりもおほすのけんわれらあたへたりいはく『おこなところことかれまたおこなはん、かつこれよりおほいなるものおこなはん』〔イオアン福音十四の十二〕と。きゅうやくおいてもあるものうみながれへんじ〔出埃及記十四の二十一あるものたいようささへ、つきとどまることをめいじ〔イイスス、ナウィン記[5]十の十三〕あるものたいようもどし〔第四列王記[6]二十の十一〕いろりにあるしょうねんしぜんりょくとどめ、げきれつなるほのおはたらきをもうしなはしめて、しばられたるもののごとしんぎんせしめ〔使徒行実三の二十三ママ[7]もうじゅうかみともたっとぶべきをりておのれいたたるにもかかはらず、これがいせざりき〔ダニイル書六の二十二〕。こうふくかいらくけるものは、もうじゅうかかせっせいづべし。ししダニイルさかしものとなれり、れどわれらかみわれらきたれるをさかしきものとはならざるなり。かれせいしゃからだれんよりは、むしえてなんとけっしんせり、れどわれらハリストスはだかとなり、またつかれたるをて、あまりあるものをすらこれわかたず、すなはゆたかせいかつしてしょせいじんべっしす。かみともたいして、こうらいかつてなかりしがごとほうなるおくりものおのれふところよりさんしゅつせり〔イオフ四十二の十〕。かれふくおよかげあくおよやまいためおそるべきものなりしときは、かれしんたっとばれたるやあやしむにらず〔使徒行傳五の十五、十九の十二〕。てんかかひとびとそんけいして、これとくべつなるそんけいあらはせり〔創世記十八の十五、十九の三〕。ればかれしゅみづかそんけいあらはししところものいかたっとばざるをんや。これきゅうやくにもしんやくにもありしことなり。ゆえげんしゃひとうちしょうじんたかきれば、あくしゃほうめぐる』ふ。ればわれらこのそんだいなるをおもひ、これためてきとうなるそんけいもっむくいん。ことなれるそんけいの、われらためばつほったんとならざらんためなり。これをしふるものおよをしへらるるところわれらは、みなこうえいそんこうはいよよするところわれらしゅイイスス ハリストスによりてすくはれん。アミン。

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 投稿者注:アキラ(アキュラ)、シムマフ(シュンマコス)、フェオドチオン(テオドティオン)はヘブライ語聖書のギリシャ語訳の翻訳者。w:ヘクサプラを参照。
  2. 投稿者注:第十一せいえいへん第十二篇に相当する。
  3. 投稿者注:原文は創世記四の九となっているが明らかに創世記六の九の誤りなので誤植と思われる。訂正はしていない。
  4. 投稿者注:原文はロマ書十六の七となっているが、この箇所は全く引証になっていないので、おそらくロマ書六章十三節の誤りだと思われる。訂正はしていない。
  5. 投稿者注:ヨシュア記のこと。
  6. 投稿者注:第四列王記は正教会での呼び方。一般の『列王記下』に相当する。
  7. 投稿者注:原文は使徒行実三の二十三となっているが、明らかにダニイル書三の二十三の誤りなので誤植と思われる。原文のまま訂正はしていない。

参考[編集]

第十一せいえい
1 れいちょうはちげんがくもっこれうたはしむ。ダワィドのえい

2 しゅよ、われすくたまへ、けだしじんへたり、ひとうちちゅうしんものなし。

3 ひとおのおのとなりいつわりをひ、へつらくちにてふたごころよりふ。

4 しゅことごくのへつらくちほこたかぶるしたち、

5 ひて、したたん。くちわれともにあり、たれわれしゅたらんとものたん。

6 しゅいはく、まづしきものくるしみとぼしきものなげきにりて、われいまき、とらへられんとするものあやふからざるところかん。

7 しゅことばきよことばなり。いろりおいつちよりきよめられて、ななたびられたるぎんなり。

8 しゅよ、なんぢわれたもち、まもりて、よりえいえんいたらん。

9 ひとうちしょうじんたかきにれば、あくしゃよもめぐる。

へん第12篇(文語訳旧約聖書)

やつのねにあはせてうたのかみにうたはしめたるダビデのうた

1 ああヱホバよたすけたまへ そはかみをうやまふひとはたえまことあるものはひとのなかよりきえうするなり

2 ひとはみないつはりをもてそのとなりとあひかたりなめらかなるくちびるとふたごころとをもてものいふ

3 ヱホバはすべてのなめらかなるくちびるとおほいなることをかたるしたとをほろぼしたまはん

4 かれらはいふ われらしたをもてかちをえん このくちびるはわがものなりたれかわれらにしゆたらんやと

5 ヱホバのたまはく くるしむものかすめられまづしきものなげくがゆゑにわれいまたちてこれをそのしたひもとむるやすきにおかん

6 ヱホバのことばはきよきことばなり にまうけたるにてねりななたびきよめたるしろかねのごとし

7 ヱホバよなんぢはかれらをまもりこれをたすけてとこしへにこのたぐひよりまぬかれしめたまはん

8 ひとのなかにけがしきことのあがめらるるときはあしきものここやかしこにあるくなり

(この節の出典:聖詠経 2版 国立国会図書館デジタルアーカイブ、旧新約聖書 : 引照附〔米国聖書協会〕 国立国会図書館デジタルアーカイブ)