検索結果
表示
このウィキでページ「江戸村のとくぞう」を新規作成しましょう。検索で見つかった他のページも参照してください。
- 「お磯(いそ)と申しまして、おなじ村の者ではございますが、家が離れて居りますのと、わたくしどもは久しい以前に村を出ましたのでよくは存じません。親の名を云われて、初めて気がついたくらいでございます。これも江戸へ奉公に出て来て、浅草の方にいるとばかりで、詳しいことを申しませんでした」 「これも浅草か」 「これもやはり弟に逢わせてくれと…71キロバイト (14,226 語) - 2019年2月27日 (水) 14:47
- とかんだ)の相模屋(さがみや)という家でございます。江戸へ出ますと、まずわたくしのところの姉を頼って来まして、その相模屋へは姉が連れて行ったのでございました。しますと、その相模屋の申しますには、丁度ここにいい奉公口がある。江戸者ではいけない、なんでも親許(おやもと)は江戸…39キロバイト (8,057 語) - 2019年2月27日 (水) 14:49
- 虚無僧の話をしるついでに、半七老人は虚無僧と普通の僧とに絡(から)んだ一場の探偵物語を聞かせてくれたことがある。老人はまず本所(ほんじょう)押上村(おしあげむら)について説明した。 「この頃は押上町とか向島(むこうじま)押上町とかいろいろに分れたようですが、江戸時代はすべて押上村で、柳島(やなぎしま)と…66キロバイト (13,394 語) - 2019年2月27日 (水) 14:49
- 安井夫人 (カテゴリ 日本の小説)仲平の父は日向国(ひゅうがのくに)宮崎郡清武村に二段(たん)八畝(せ)ほどの宅地があって、そこに三棟の家を建てて住んでいる。財産としては、宅地を少し離れた所に田畑を持っていて、年来家で漢学を人の子弟に教えるかたわら、耕作をやめずにいたのである。しかし仲平の父は、三十八のとき江戸…38キロバイト (7,673 語) - 2020年6月18日 (木) 15:54
- との間には、いろいろな話が出る。以前に比べると、なんとなくあの半蔵が磊落(らいらく)になったというものもあるが、半蔵は決して磊落な人ではないという話が出る。初めて一緒に江戸への旅をして横須賀(よこすか)在の公郷村(くごうむら)に遠い先祖の遺族を訪(たず)ねた青年の日から、今はすでに四十二歳の…622キロバイト (119,815 語) - 2019年9月29日 (日) 05:04
- の二十日過ぎである。例のごとく日曜日の朝から赤坂(あかさか)の宅へ推参すると、老人はきのう新富座(しんとみざ)を見物したと云った。 「新富は佐倉宗吾(さくらそうご)でしたね」 「そうです、そうです。九蔵(くぞう)の宗吾が評判がいいので見に行きましたよ。九蔵の宗吾と光善(こうぜん)、訥子(とっし)の…69キロバイト (14,020 語) - 2019年2月27日 (水) 14:48
- )に逢って無事に帰って来たという噂を聞きました。 菊村の店では番頭の清次郎を娘の聟にして、相変らず商売をしていましたが、いくら老舗(しにせ)でも一旦ケチが付くとどうもいけないものと見えて、それから後は商売も思わしくないようで、江戸の末に芝(しば)の方へ引っ越してしまいましたが、今はどうなったか知りません。…51キロバイト (10,308 語) - 2021年8月31日 (火) 23:11
- ぞう)、京都から江戸への御通行としても未曾有のことであろうと言わるる。今度の御道筋にあたる宿々村々のものがこの御通行を拝しうるというは非常な光栄に相違なかった。 木曾谷(きそだに)、下(しも)四宿の宿役人としては、しかしただそれだけでは済まされなかった。彼らは一度は恐縮し、一度は当惑した。多年の…704キロバイト (133,425 語) - 2019年9月29日 (日) 05:04
- のお書付が宿々村々へ渡っていた。 江戸へ出る途中、半蔵は以前の旅を思い出して、二人の連れと一緒に追分宿(おいわけじゅく)の名主(なぬし)文太夫(ぶんだゆう)の家へも寄って来た。あの地方では取締役なるものができ、村民は七名ずつ交替で御影(みかげ)の陣屋を護(まも)り、強賊や乱暴者の…648キロバイト (123,779 語) - 2019年9月29日 (日) 05:04
- 御仕置例書にはいずれも国名と村名とを記してあるだけで、今日のように郡名を記していないので、ちょっと調べるのに面倒であるばかりでなく、その当時とは村の名の変っているのもあるので、その方角を見定めるのはいよいよ困難であるが、ともかくも『御仕置例書】には下総国(しもうさのくに)新石下村(しんいしげむら)と…53キロバイト (10,824 語) - 2019年2月27日 (水) 14:40
- 江戸の板橋(いたばし)に送り込まれるのが普通の路順で、途中の村々の若い百姓たちはみなその人足に挑発されて、宿々の問屋場に詰めるのが習いであった。安吉もやはりその一人で他の人足仲間と一緒に宿(しゅく)の問屋場に詰めていたが、横着者の彼はあとの方に引きさがって悠々と煙草をのんでいた。やがて松茸の…55キロバイト (11,345 語) - 2019年9月3日 (火) 12:02
- の松之助(まつのすけ)、本石町(ほんこくちょう)無宿の金蔵(きんぞう)、矢場村無宿の勝五郎(かつごろう)の六人で、そのなかで藤吉、兼吉、松之助は入墨者です。地方は京都と二本松だけで、そのほかは江戸近在の者でしたが、たった一人、チャキチャキの江戸っ子がある。本石町無宿の金蔵、これは日本橋の本石町の…67キロバイト (13,580 語) - 2019年2月27日 (水) 14:39
- とく)の近所だと思えばいいのだ。そこに浦安(うらやす)という村がある。その村のうちに堀江や猫実(ねこざね)……」 「判りました。堀江、猫実……。江戸から遠出の釣りや汐干狩(しおひがり)に行く人があります」 「そうだ、そうだ。つまり江戸川(えどがわ)の末の…72キロバイト (14,531 語) - 2019年2月27日 (水) 14:47
- 渋江抽斎 (カテゴリ 日本の小説)江戸を発する時、三男三蔵(さんぞう)は江戸に留(とど)まった。前に小田原(おだわら)へ往った長男周碩(しゅうせき)と、この三蔵とは、後にカトリック教の宣教師になったそうである。弘前へ往った周禎は表医者奥通(おくどおり)に進み、その次男で嗣子にせられた周策(しゅうさく)もまた目見(めみえ)の後(のち)表医者を命ぜられた。…642キロバイト (126,753 語) - 2022年3月23日 (水) 18:11
- の手柄話をするようですが、まあ、お聴きください」 嘉永(かえい)四年は春寒く、正月十四日から十七日まで四日つづきの大雪が降ったので、江戸じゅうは雪どけの泥濘(ぬかるみ)になってしまった。こんにちと違って、これほどの雪が降れば、その後の半月ぐらいは往来に悩むものと…59キロバイト (11,846 語) - 2019年2月27日 (水) 14:45
- 遺牘 作者:西郷隆盛 1939年 書誌情報 書誌情報の詳細は議論ページをご覧ください。 東上初年の消息 東湖訪問心中清淨・櫻任藏豪傑・丈夫と呼ばる・逸散駈付・江戸風に染まず 尚々藏方(くらかた)目付替御座候處、何となく被二肝煎(きもい)一候口氣、伊十院有レ之、誠に可レ笑事に御座候。…25キロバイト (3,945 語) - 2019年9月29日 (日) 05:31
- と、わたくしは云った。 「まったく気の毒です」と、老人は顔をしかめた。「どうも吉原の廓(くるわ)は昔から火に祟(たた)られるところで、江戸時代にもたびたび火事を出して、廓内全焼という記録がたくさん残っています。なにしろ狭い場所に大きい建物が続いている上に、こんにちと違って江戸時代の…82キロバイト (16,562 語) - 2019年2月27日 (水) 14:45
- 浦のちとりも瀬々や問らむ 開聞暮雪開聞は、頴娃の山 名にはいへど空にそびへしひらきゝの たかねのみゆき暮ぞいそがぬ 洲崎浮鷗洲崎は、武村の海邊、鹽屋の濱の洲尾なり ここかしこかもめぞうかふおきつ風 なきたる朝のすさきはるかに 隣村夕照 くれちかくにぎはひけりなゆふづく日 てらす隣のむらの往來は 青屋晴嵐青屋は、下に出せる青屋松原を指せり…957バイト (10,545 語) - 2018年4月17日 (火) 15:51
- の村々で鷹を見つけ、又は鷹を捕えたものは、その村名主へ届け出るにきまっている。足に緒をつけている鳥であるから、あるいは遠く飛ばないでここらの村の者に捕われまいとも限らない。こう思って、半七はまず名主の宅をたずねようとしたのである。 堤を降りた川の縁(ふち)で、二人の…60キロバイト (12,073 語) - 2021年8月31日 (火) 23:12
- の方が十手(じって)を持っているようですね。はははははは。いや、冗談はおいて話しましょう。ご承知の通り、両国(りょうごく)の川開きは毎年五月の二十八日ときまっていたんですが、慶応(けいおう)元年の五月には花火の催しがありませんでした。つまり世の中がそうぞうしくなったせいで、もうその頃から江戸も末になりましたよ」…50キロバイト (10,195 語) - 2019年2月27日 (水) 14:48