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半七捕物帳 第六巻/青山の仇討

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青山(あおやま)の仇討(かたきうち)

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読者もすでにご承知の通り、半七老人の話はとかくに芝居がかりである。もっとも昔の探索は、幾らか芝居つけが無くては出来なかったのかも知れない。したがって、この老人が芝居好きでることもしばしば紹介した。
日清戦争が突発するふた月ほど前、明治二十七年五月の二十日過ぎである。例のごとく日曜日の朝から赤坂(あかさか)の宅へ推参すると、老人はきのう新富座(しんとみざ)を見物したと云った。
「新富は佐倉宗吾(さくらそうご)でしたね」
「そうです、そうです。九蔵(くぞう)の宗吾が評判がいいので見に行きましたよ。九蔵の宗吾と光善(こうぜん)、訥子(とっし)の甚兵衛と幻長吉(まぼろしちょうきち)、みんな好(よ)うござんしたよ。芝鶴(しかく)が加役で宗吾の女房を勤めていましたが、これも案外の出来で、なるほど達者な役者だと思いましたよ。中幕に嵯峨(さが)や御室(おむろ)の浄瑠璃(じょうるり)がありましたが、九蔵の光圀(みつくに)はほんのお付合いという料簡(りょうけん)で出ている。多賀之丞(たがのじょう)の滝夜叉(たきやしゃ)は不出来、散ざんでしたよ。なにしろ光圀が肝腎(かんじん)の物語りをしないで、喜猿(きえん)の鷲沼太郎(わしぬまたろう)というのが名代(みょうだい)を勤めるという始末ですから、まじめに見てはいられません」
老人が得意の劇評は滔々(とうとう)として容易に尽くるところを知らざる勢いであったが、それがひとしきり済むと、老人はさらに話し出した。
「あの佐倉宗吾の芝居は三代目瀬川如皐(せがわじょこう)の作で、嘉永(かえい)四年、猿若町(さるわかちょう)の中村座(なかむらざ)の八月興行で、外題(げだい)は『東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)』と云いました。その時代のことですから、本当の佐倉の事件として上演するわけには行きません。世界をかえて足利(あしかが)時代の芝居にしてあるのですが、渡守(わたしもり)甚兵衛と幻長吉が彦三郎(ひこさぶろう)、宗吾が小団次(こだんじ)、宗吾の女房おみねが菊次郎(きくじろう)、いずれも嵌(はま)り役で大評判、八月から九月、十月と三月(みつき)も続いて打通しました。そこで、表向きは足利時代の事になっていますが、下総(しもうさ)の佐倉の一件を仕組んだのは誰(だれ)でも知っているので、佐倉領のお百姓たちも見物のために江戸へ続々出て来るというわけで、芝居はいよいよ繁昌しました。もちろん芝居の方でも抜け目がなく、今度の宗吾を上演するに就いては、座方の者がわざわざ佐倉まで参詣(さんけい)に出かけ、大いに芝居の広告をして来たのでした。こんなことは昔も今も変りはありません。
その佐倉領のうちで、村の名は忘れましたが、金右衛門(きねもん)、為吉(ためきち)という二人の百姓が江戸へ出て来ました。これも中村座見物の連中で、十五づれで馬喰町(ばくろちょう)の下総屋(しもうさや)に宿を取っていたのです。金右衛門は娘のおさん、為吉は妹のお種(たね)を連れていましたが、江戸へ着いた翌日はまず中村座見物、あとの二日は思い思いに江戸見物をして、それからみんな一緒に帰国するという約束。そこで、第一日の中村座では、宗吾の子別れで泣かされ、宗吾の幽霊で嚇(おど)かされ、無事に見物を済ませたので、二日目からは勝手に出あるくことになる。金右衛門と為吉は四谷(よつや)と青山(あおやま)に親類があるので、江戸へ出た以上、そこを尋ねなければならないと、二人は他の一行に別れて馬喰町の宿を出ました。九月末の晴れた日で、おさんとお種の女たちも勿論(もちろん)連れ立って行きました。
お話の判(わか)り易いように、ここで少し戸籍調べをいたして置きますが、金右衛門も為吉も土地では相当の農家で、金衛門は三十八、娘のおさんは十六、為吉は二十一で、妹のお種は十七、双方は何かの遠縁にあたっていて、来年はおさんを為吉の嫁にやるという約束も出来ていたのですから、云わば一家も同然の間柄で、金右衛門が自分の親類をたずねると云えば、為吉兄妹(きょうだい)も付いて行くことになったのです。
金右衛門の一行四人はまず四谷塩町(しおちょう)の親類をたずねて、ここで午飯(ひるめし)の馳走(ちそう)などになって、それから千駄ヶ谷谷町(せんだがやたにまち)に住んでいる親類をたずねることになりました。その親類もやはり下総屋といって、米屋をしているのです。その頃(ころ)はどこへ行くにも徒歩(かちある)きですから埒(らち)は明きません、おまけに江戸の勝手をよく知らない人たちが道を訊(き)きながら歩くのですから、いよいよ捗取(はかど)らない。その日の八ツ半(午後三時)頃に青山六道(ろくどう)の辻(つじ)にさしかかりました。
六道の辻なぞと云うと、なんだか幽霊でも出そうな、凄(すご)い所のようにも思われますが、道の都合で四辻が二つある。それが続いているので、東から来る道がふた筋、西から来る道がふた筋、それに南北の大通りを加えると、道が六筋になる勘定で、誰が云い出したか知りませんが、六道の辻という名になってしまったのです。ここらは小役人や御先手(おさきて)の組屋敷のあるところで、辻の片側には少しばかりの店屋があります。その荒物屋の前に荷をおろして、近在の百姓らしい男が柿を売っていました。
そこへ大小、袴(はかま)、武家の若党風の男が来かかって、その柿の実を買うつもりらしく、売り手の百姓をつかまえて何か値段の掛引きをしていました。すると、そこへ又ひとりの浪人風の男が来かかって、前の侍をひと目見ると、たちまちに気色(けしき)をかえて大音に叫びました。
「おのれ盗賊、見付けたぞ」
見付けられた若党もおどろいた様子で、なにか返答をしたようでしたが、それはよく聞えませんでした。一方の浪人は腰刀をぬいて飛びかかる。若党はいよいよ慌てて逃げかかる。そのうしろから右の肩先へ斬(き)りつける。倒れたところを又斬るという騒ぎ。斬られた若党はその場で息が絶えてしまいました。
金右衛門の一行は丁度そこへ通り合わせて、自分たちの眼の前でこの活劇が突然に始まったのですから、きのう見物した中村座の芝居どころではない、四人は蒼(あお)くなって立竦(たちすく)んでいると、浪人は血刀を鞘(さや)に納(おさ)めて四人をみかえりました。
「おまえたちには気の毒だが、ここへ来合せたのが時の不祥(ふしょう)だ。この場の証人になってくれ」
忌(いや)も応も云われないので、四人はその侍のあとに付いて行く事になりました。柿を売っていた男、荒物屋の女房、これも一緒に連れて行かれました。元来が往来の少ない片側町、ほかの店の者はあわてて奥へ逃げ込んでしまったので、これだけの人間が係り合いになったわけです。以上六人を連れて浪人はその近所にある水野和泉守(みずのいずみのかみ)屋敷の辻番所へ出頭しました。
その浪人の申立てによると、自分は中国(ちゅうごく)なにがし藩の伊沢千右衛門(いざわせんえもん)という者で、父の兵太夫(へいだゆう)は御金蔵番を勤めていた。然(しか)るにある夜、その金蔵を破って金箱をかかえ出した者がある。兵太夫が取押えてみると、それは相役の山路郡蔵(やまじぐんぞう)であった。郡蔵は自分の不心得を深く詫(わ)びて、どうぞ内分にしてくれと頻(しき)りに頼むので、兵太夫も承知して、そんならその金箱を元のところへ戻して置けと、二人が金蔵の方へ引っ返そうとする時、郡蔵は不意に兵太夫を斬り倒して、金箱をかかえて逃げてしまった。兵太夫は深手ながら息があったので、その始末を云い残して死にました。こうなると、山路郡蔵は重々の悪人で、御家に取っては金蔵破りの盗賊、千右衛門に取っては親のかたきと云うことになります。そこで千右衛門は上(かみ)に願って暇(いとま)を貰(もら)い、仇(かたき)のゆくえを探しに出ました。
千右衛門はまず京大坂を探索しましたが、さらに手がかりが無いので、東海道の宿々を探しながら江戸へ下って来て、去年の夏から一年あまりも江戸市中を徘徊(はいかい)しているうちに、こんにち測(はか)らずもこの六道の辻で郡蔵のすがたを見つけたので、すぐに名乗りかけて討ち果したと云うのです。普通の喧嘩(けんか)口論とは違って、千右衛門の申立ては立派に筋道が立っています。主家の盗賊を仕留め、あわせて自分の親のかたきを討ったのですから、辻番所でも疎略には取扱いません。それはお手柄でござったと云うので、湯などを飲ませてくれる。金右衛門の一行四人と、荒物屋の女房と柿売りと、みなひと通りの取調べを受けただけで帰されました。
これでまずほっとして、金右衛門の一行は千駄ヶ谷谷町の下総屋へ尋ねて行って、今の話などをしていると、やがてこんな噂󠄀(うわさ)が耳にはいりました。六道の辻で仇討をした伊沢千右衛門という浪人者は、水野家の辻番所から姿をかくしたと云うのです。この時代の法として、こういう事件のあった場合には、ひとまずその本人を辻番所または自身番所に留め置いて、その主人の屋敷へ通知すると、主人の方から衣服の𧘕𧘔(かみしも)を持たせて迎えの者をよこす事になっている。そうして、辻番の者にむかって、これは自分の屋敷の者に相違ないことを証明した上で、本人を受取って行くのです。そこで、千右衛門の申立てによると、自分は備中松山(びっちゅうまつやま)五万石板倉周防守(いたくらすおうのかみ)の藩中であると云うので、辻番所からはすぐに外桜田(そとさくらだ)の板倉家へ使を出しました。
その使の帰るのを待つあいだに、千右衛門は失礼ながら便所を拝借したいと云う。油断して出してやると、それぎり帰らない。いずれ屋敷内に忍んでいるに相違ないと、そこらを隈(くま)なく詮議(せんぎ)したが、遂にその姿は見あたらない。なにしろ場末の屋敷で、その横手は大きな竹藪(たけやぶ)になっているから、それを潜(くぐ)って逃げ去ったのではないかと云う。そのうちに使が帰って来て、板倉家ではそんな者を知らないという返事です。さては偽物かと云うことになったのですが、偽物ならば随分ずうずうしい奴(やつ)、白昼人殺しをして置いて、かたき討だなぞといつわって、自分から辻番所へ届けて出るとは、あまりに人を喰(く)った仕方です。
しかし、それが通りがかりの喧嘩でなく、いきなりに声をかけて斬り付けたのを見ると、斬った者と斬られた者と、両方が見識(みし)り合いであるに相違ない。検視の役人が出張って、斬られた若党をあらためると、年の頃は三十四五で、どこの屋敷の者か、別に手がかりになるような物もありません。ふところの紙入れには二両ばかりの金がはいっていました。その当時、二両という金はなかなか馬鹿になりません。軽輩の若党らにしては懐中(ふところ)が重過ぎると思われたのですが、ほかに詮議の仕様もないので、まずそのままに済みました。
この噂󠄀を聴いて、金右衛門の一行もおどろいて、成程お江戸は恐ろしい所だと舌を巻きました。いや、これだけで済めばよいのですが、まだ恐ろしいことが続々出来(しゅったい)したのです。まあ、お聴きください」


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金右衛門らの一行は下総屋で夕食の馳走になって、土産物をもらったりして、暮れ六ツを過ぎたころにここを出た。
今夜は一泊しろと頻りに勧められたのであるが、あしたは他の一行と共に浅草(あさくさ)辺を見物する約束になっているので、今夜のうちに馬喰町の宿へ帰らなければならないと云って、四人は暇乞い(いとまご)いをして出た。この頃の秋の日は短いので、もうすっかり暮れ切った。ここらは場末のさびしい土地で、途中には人家の絶えたところもあり、竹藪などの生い茂っているところもある。下総屋では小僧に提灯(ちょうちん)を持たせて、青山の大通りまで送って行かせた。
江戸の人たちはさびしいと云うが、佐倉の在所に住み馴(な)れた金右衛門らは、このくらいの所をさのみ珍らしいとも思わなかった。しかし、きょうの昼間の出来事に脅(おびや)かされているので、なんとなく薄気味の悪い四人は小僧のあとに付いて黙って歩いた。谷町を出て、例の六道の辻を通りぬけて、やがて青山の大通りに出ようとすると、そこらは道幅が一間半に足らない狭い往来で、片側畑地、片側は竹藪になっている。その竹藪ががさりと云うかと思うと、何者か突然にあらわれて小僧の持っている提灯をばっさりと切り落した。
あっと云う間に、金右衛門も一太刀斬られて倒れた。おさんもお種も思わず悲鳴をあげた。なにを云うにも真っ暗であるから見当が付かない。大通りへ出る方が近いと思ったので、土地の勝手を知っている小僧はまっすぐに逃げた。ほかの者も夢中で続いて逃げた。
相手は追って来ないらしいので、大通りまで逃げ延びてまずほっとしたが、無事に逃げおおせたのは下総屋の小僧と、為吉とお種の二人で、金右衛門とおさんが見えない。金右衛門は斬り倒されたらしいが、娘はどうしたか判らないので、三人が心配した。小僧はすぐに青山下野守(しもつけのかみ)屋敷の辻番所へ訴えると、辻番の者もふだんから小僧の顔を識っているので、現場まで一緒に来てくれた。その提灯によって照らして見ると、金右衛門は右の肩を斬られて、朱(あけ)に染(し)みて倒れていたが、おさんの姿はそこらに見いだされなかった。
曲者(くせもの)は藪から出て来たらしいと云うのであるが、その竹藪は間口四、五間の浅いもので、うしろは畑地になっているのであるから、曲者はふたたび藪をくぐって畑を越えて逃げ去ったものであろう。金右衛門はまだ息が通っていたが、その懐中の財布は紛失していた。大事の路用は胴巻に入れて肌に着けていたので、これは無難であった。財布には小出しの銭を入れて置いたに過ぎないので、その損害は知れたものであったが、娘ひとりの紛失が大問題である。未来の女房を失った為吉は蒼くなって騒いだが、どこを探すという的(あて)はなかった。取りあえず金右衛門を辻番所へ担(かつ)ぎ込んで、近所の医者を呼んで手当てを加えると、傷は案外の浅手で一名にかかわるような事はあるまいと云うので、これはまず少しく安心した。
小僧はさらに主人方へ注進したので、下総屋からは主人の茂兵衛(もへえ)と若い者二人が駈(か)け着けて来て、手負いの金右衛門を引取って帰ったが、おさんのゆくえは遂に知れなかった。おさんは今年十六で、色の小白い、いわゆる渋皮の剝(む)けた娘であるから、昼間から付狙(つけねら)っていて拐引(かどわか)したのであろうという説が多数を占めたが、所詮(しょせん)は一種の想像にとどまって、その真相は判らなかった。
「半七。青山辺が又なんだか騒々しいそうだ。この前の唐人飴(とうじんあめ)の係り合いもある。おまえが行って、なんとか埒を明けてくれ」と、八丁堀(はっちょうぼり)同心の坂部治助(さかべじすけ)が云った。
「かしこまりました」
半七はすぐに子分の庄太(しょうた)を連れて青山へ出張った。云うまでもなく、この事件は六道の辻の若党殺しと、金右衛門親子の一件とが、ほとんど同時に起ったのである。勿論、それが同じ者の仕業か、あるいは別人か、まったく見当が付かないのであった。
二人は赤坂の方から行きむかったので、まず道順として青山下野守屋敷の辻番所に着いて、金右衛門の一件の顛末(てんまつ)を訊きただした。それから六道の辻にさしかかって、かの荒物屋の前に立った。ここの店先で、真偽不明の怪しい仇討が行なわれたのである。
「おかみさん。きのうは飛んだ騒ぎだったね。さぞ驚いたろう」と、半七は云った。
「おどろきましたよ」と、店にいた三十前後の女房が答えた。「お侍さんが柿を買っていなさる処(ところ)へ、又ひとりのお侍が来て、いきなりに斬ってしまったのです。かたき討だと云うことでしたが、それが嘘(うそ)だともいう噂󠄀で、どっちが本当ですかねえ」
「斬る方は何と声をかけたね」
「おのれ盗賊、見付けたぞと、大きい声で云いました」
「斬られた方はどんな返事をしたね」
「それがはっきり聞こえなかったのです。なんでも野口とか吞口とか云ったようでしたが……」
「野口とか吞口とか……」と、半七は口のうちで繰返した。「それで、逃げるところを斬られたのだね」
「そうですよ」
斬った侍は、三十四五の浪人らしい男で、斬られた男も同じ年配の屋敷者らしい風俗であったと、女房を話した。半七はさらにその人相や身装(みなり)をくわしく訊きだして、ここを出た。それから水野和泉守屋敷の辻番所へ行って、やはりこの一件について前後の模様を聞きあわせたが、かたき討と称する浪人者は屋敷の大竹藪をくぐって逃げたに相違ないと云うのである。半七もおそらくそうであろうと鑑定した。
それから千駄ヶ谷の谷町へ引返して、米屋の下総屋をたずねると、手負いの金右衛門は奥の間に寝かされていた。為吉とお種の兄妹も暗い顔をして控えていた。下総屋は五年ほど前からここに開業したもので、土地では新店の方ではあるが、商売の仕方が手堅いというので、近所の評判は悪くなかった。主人の茂兵衛は金右衛門と同年配の三十九で、おととしの暮に女房に死に別れ、その後はまだ独り身である。店には米搗(こめつき)の安兵衛(やすべえ)、藤助(とうすけ)のほかに、銀八(ぎんぱち)、熊吉(くまきち)という若い者二人と、利太郎(りたとう)という小僧ひとりを使っている。台所働きの女中はお捨(すて)といって、金右衛門らと同村の生れである。
これだけのことを調べた上で、半七は店先で茂兵衛と立ち話をはじめた。
「金右衛門は別に他人から恨みを受けるような心あたりはねえかね」
「ございません」と、茂兵衛ははっきり答えた。「八年ほど前に一度、江戸へ出て来たことがありまして、今度が二度目でございます。そんなわけで、江戸には碌々(ろくろく)に知りびともないくらいでございますから、恨みを受けるなぞという事がある筈(はず)がございません」
「そこで、お前さんはどう思うね」と、半七は探るように訊いた。
「それですから、何が何だか一向に見当が付きません」と、茂兵衛は眉をよせた。
「じゃあ、その金右衛門に逢(あ)わせて貰おう」
店の次に茶の間があって、そこから縁側伝いで六畳の奥座敷へ通うようになっている。そこへ案内されて、半七は怪我人(けがにん)の枕もとに坐(すわ)った。
金右衛門は見るからに頑丈そうな男で、傷が案外に浅かったためでもあろう、顔の色は蒼ざめているが、気は確かであった。彼も茂兵衛と同様に、江戸にはほとんど知りびともないくらいであるから、恨みをうける覚えなどはさらに無いと答えた。枕もとに控えている為吉兄妹もおなじ返事であった。殊に為吉らは生れて初めて江戸へ出たと云うのであるから、何が何やらほとんど夢中で、この不意の出来事についてはただ茫然(ぼうぜん)としているばかりであった。
ここで詮議しても埒が明かないと見て、半七はいい加減に切上げて店を出ると、表に待っていた庄太が小声で訊いた。
「なにか当りがありましたかえ」
「いけねえ、みんなぼんやりしているばかりだ」と、半七は苦笑いしながら云った。「おめえも知っている通り、この春はここらで唐人飴屋の一件があった。あいつは飛んだお茶番で済んでしまって、本当の奴はまだ挙がらねえ。今度の一件も何かそれに係り合いがあるのじゃあねえかと思う。ここらにゃあ安御家人がいくらも巣を組んでいるから、その次男三男の厄介者なんぞが悪い事をするのじゃあねえかな」
「そうかも知れませんね」と、庄太もうなずいた。「そうすると、その娘を引っさらって宿場へでも売るのでしょうか」
「まあ、そんなことだろうな」
二人は話しながら六道の辻へ引返して来ると、三人連れの男に出逢った。かれらは庄太にむかって、ここらに下総屋という米屋はないかと訊いた。その風俗をみて、庄太はすぐに覚(さと)った。
「おまえさんたちは馬喰町の下総屋に泊っている佐倉の人たちじゃあねえかね」
「そうでございますよ」
かれらは果して金右衛門らの一行で、その遭難の通知におどろいて、これから様子を見とどけに行く途中であった。丁度いい人たちに逢ったと喜んで、半七は三人を路ばたの大榎(おおえのき)の下へ呼び込んだ。
「わたしはお上(かみ)の御用聞きで、この一件を調べに来たのだ。米屋の下総屋の亭主は金右衛門と従弟(いとこ)同士だというが、全くそうかね」
「いえ、亭主ではございません。女房が従妹(いとこ)同士なのでございます」と、三人のうちで年長(としかさ)の益蔵(ますぞう)という男が答えた。
「米屋の茂兵衛はいつ頃から江戸へ出て来たのだね」
「十年ほど前に江戸へ出まして、最初は深川(ふかがわ)で米屋をしておりました。それから唯今(ただいま)の千駄ヶ谷へ引っ越したのでございます」
「茂兵衛の女房はおととしの暮に死んだそうだが、名はなんと云うね」
「お稲(いね)と申しました」
「子供は無いのだね」
「無いように聞いております」
「金右衛門は八年ほど前に、江戸へ出たことがあるそうだね」
「はい。茂兵衛がまだ深川にいる時でございまして」
「金右衛門は茂兵衛に金の貸しでもあるかえ」
「そんなことは一向に聞いて居りません」
半七はさらに為吉兄妹について訊きただしたが、いずれも年の若い正直者であると云うだけで、別に注意をひくような聞き込みもなかった。金右衛門の娘おさんが来年は為吉の嫁になることを、益蔵も知っていた。


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六道の辻で斬られた男の身許(みもと)は遂に判らなかった。誰もたずねて来る者もなかった。金右衛門を斬ったのは土地の悪御家人の仕業であるとしても、かの若党と浪人は土地の者ではない。土地の者ならば、誰かがかれらの顔を見て識っている筈である。そうなると、この二つの事件はまったく別種のものと認めるのが正しいように思われて、半七もその分別に迷った。
宗吾の芝居見物に出て来た佐倉の人びとは、為吉兄妹を金右衛門の看護に残して、いずれも本国の下総へ帰った。
それから二日目の朝である。青山へ見張りに出してある庄太が神田の家へ駈け込んで来た。
「親分。またひと騒ぎだ」
「なんだ。なにが出来(しゅったい)した」
「米屋に逗留(とうりゅう)している娘が見えなくなった」
「為吉の妹か」
「そうです。お種という女です。きのうの夕方、と云ってもまだ七ツ半(午後五時)ごろ、近所の銭湯へ行ったが、その帰りに姿が見えなくなったと云うのです。湯屋は一町ほど距(はな)れている山(やま)の湯(ゆ)という家(うち)で、番台のかみさんの話では確かに帰って行ったと云うのですが、それぎり米屋へは帰らない。そこでまた、大騒ぎになっているのです」
「仕様がねえな」と、半七は舌打ちした。「土地馴れねえ者が独りで出歩くからいけねえ。だが、庄太。同じことを二度するものじゃあねえな。自然に人に感付かれるようになる」
「お前さんは感付きましたかえ」
「少し胸に泛(う)かんだことがある。このあいだ米屋に行った時の、おれの眼についたのは藤助という奴だ。越後(えちご)か信州者(しんしゅうもの)だろうが、米搗にしちゃあ垢抜(あかぬ)けのした野郎だ。あいつの身許や行状を洗ってみろ」
「あいつが曲者ですか」
「曲者とも決まらないが、なんだか気に喰わねえ野郎だ。あいつは道楽者に違えねえ。まあ、調べてみろ」
「かしこまりました」
「もう一人、あの米屋の若い者に銀八という奴がいる。あいつも変だから気をつけろ。それから如才もあるめえが、亀吉(かめきち)とでも相談して、新宿(しんじゅく)あたりの山女衒(やまぜげん)をあさってみろ。このごろ宿場の玉を売込みに行った奴があるかも知れねえ」
「成程、わかりました」
庄太は怱々(そうそう)に出て行った。その日はほかによんどころない義理があって、半七は午頃から日本橋(にほんばし)辺へ出かけたが、例の一件が気になるので、その帰り道に青山へ足を向けた。なんと云ってもこの事件は、六道の辻のあたりが中心であるので、半七はそこらを一巡うろついた後に、烏茶屋(からすぢゃや)に腰をかけた。
江戸時代の人は口が悪い。この茶店の女房の色が黒く、まるで烏のようであるというので、烏茶屋という綽名(あだな)を付けてしまったのである。色は黒いが世辞のいい女房は、半七を笑顔で迎えた。
「いらっしゃいまし。朝晩は急に冬らしくなりました」
「もう店を片付けるのじゃあねえか」
「いえ、まだでございます。どうぞごゆっくりお休みください」
女房の云う通り、秋と冬との変り目の十月にはいって、朝夕は急に寒くなった。殊に権田原(ごんだわら)の広い野原を近所に控えているここらは、木枯しと云いそうな西北の風が身にしみた。
「寒いのは時候で仕方もねえが、この頃はなんだか物騒だと云うじゃあねえか」と、半七は茶を飲みながら云った。
「本当でございます。なんだか忌な噂󠄀ばかり続くので、気味が悪くってなりません。ゆうべも化物屋敷に何かありましたそうで……」
「化物屋敷……。そりゃあどこだね」
「すぐそこの空屋敷でございます」
「化物でも出るのかえ」
女房の話によると、その屋敷には小池(こいけ)という御家人が住んでいた。屋敷は小さいが、地所は四五百坪ある。その主人は道楽者で、歳(とし)の暮れの鐘に困った結果、懸取(かけと)りに来た呉服屋の手代を締め殺して、懸先から取りあつめた十両ほどの金を奪い取った。そうして、その死骸を裏手の畑に埋めて置いたことが露顕して、本人は死罪となったが、屋敷はそのまま残っている。こういう空屋敷には怪談が付き物で、殺された手代の幽霊が出るとか、鬼火が燃えるとかいう噂󠄀がある。その化物屋敷の前を、ゆうべ近所の者が通りかかると、屋敷の奥で女の泣き声が微(かす)かにきこえたので、それを聞いた者は蒼くなって逃げ出したと云うのであった。
「ゆうべの何どきだね」
「まだ五ツ(午後八時)を少し過ぎた頃だそうですが、ここらは何分にも寂しゅうございますので……」
「いくら日が詰まっても、幽霊の出ようがちっと早いね」と、半七は笑った。「その屋敷はよっぽど前から空いているのかね」
「もう三年ぐらいになりましょう」
「屋敷のなかは荒れているだろう」
「ええ、もう、荒れ放題で、家は毀(こわ)れる。庭には草が茫々(ぼうぼう)と生えている。あんな無気味な屋敷は早く立ち腐れになってしまえばいいと、近所でも噂󠄀をして居ります」
「そうだ。幽霊に貸して置いたのじゃあ店賃(たなちん)も取れず、早く毀れてしまった方がいいな」
半七は茶代を置いて烏茶屋を出ると、この頃は日ももう傾きかかって、どこからか飛んで来る落葉がばらばらと顔を撲(う)った。半七は肩をすくめながら歩いた。女房に教えられた化物屋敷の前に立つと、もとより小さい御家人の住居であるから、屋敷といってもおそらく五間(いつま)か六間(むま)ぐらいであろうと思われる古家で、表の門はもう傾いていた。生垣の杉も枯れていた。
裏口へ廻って木戸を押すと、錠も卸されていないと見えて、すぐに明いた。成程そこらは一面の草叢(くさむら)であったが、注意して見ると、その草のあいだには人の踏んだ跡がある。この化物屋敷には幽霊のほかに出入りをする者があるらしいと、半七は肚(はら)のなかで笑った。閾(しきい)のきしむ雨戸をこじ明けて、水口から踏み込むと、半七はまず第一の獲物を発見した。それは野暮な赤い櫛(くし)で、土間に落ちていた。
それを拾って袂(たもと)に入れて、半七は台所にあがった。家内はもう薄暗いので、雨戸を明け払って、さらに引き窓をあけた。久しく掃除をしないので、板の間は一面のほこりに埋められている。その埃(ほこり)に幾つもの足跡が乱れて残っているのを透かして視(み)ると、それは男と女の足跡であるらしかった。何者かが忍んでいるかも知れないと、用心しながら奥へ入り込んだが、ただ一度、大きい鼠(ねずみ)に驚かされただけで、鎮まり返った空家のうちには火の気配もなかった。
奥には茶の間らしい六畳の間がある。つづいて八畳の座敷である。茶の間へはいって、押入れの破(や)れ襖(ぶすま)をあけると、押入れのなかも埃だらけになっていたが、下の板の間には隅ずみだけを残して、他に埃のあとが見えない。誰かが掃き出したのではなく、そこに人間が這(は)い込んでいたのではないかと想像された。
半七は湿っぽい畳の上に俯伏(うつぶ)して、犬のように嗅(か)ぎまわると、そこには微かに糠(ぬか)の匂いがあった。糠がこぼれているらしいと、半七はひとりでうなずいた。米屋の奴らが、おさんかお種をここに連れ込んで、押入れの中に監禁して、その泣き声が表へ洩(も)れたのであろう。土間に落ちていた赤い櫛と云い、その証拠は明白である。彼は更に家内を見まわったが、ほかにはこれぞという獲物もなかった。そのうちに日はだんだんに暮れて来たので、あかりを持たない半七は思い切ってここを出ると、表はもう暗くなっていた。
谷町の下総屋を目ざして行くと、途中で二人連れの男に逢った。店屋の灯のあかりに透かしてみると、それはかの為吉と米搗の藤助であるらしい。この二人が連れ立って湯屋へでも行くのかと見送っていると、不意に自分の袂をひく者がある。見かえると、庄太であった。
「親分」と、庄太はささやいた。「為吉と藤吉がどこへか出かけます。尾(つ)けて見ましょうか」
「むむ。おれも行こう。悪くすると、為吉を誘い出して殺(ば)らすのかも知れねえ」
「そりゃあ油断が出来ねえ」


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半七と庄太は見えがくれに、かの二人のあとを慕ってゆくと、二人は権田原の方へむかった。風が寒いせいでもあろう。二人は黙って俯向いて歩いていた。藤助は提灯を持っていた。米屋商売であるから下総屋としるした提灯を持つべきであるのに、今夜の藤助は無じるしの提灯を持っている。それが半七の注意をひいて、彼は庄太に何事かささやくと、庄太はうなずいた。
「成程、こりゃあいよいよ油断が出来ねえ」
その頃の権田原は広い野原で、まだ枯れ切らない冬草が、武蔵野(むさしの)の名残をとどめたように生い茂って、そのあいだには細い溝川(どぶがわ)が流れていた。月は無いが、空は高く晴れた宵で、無数の星が青白く光っていた。時どきに吹きおろして来る寒い風におどろかされて、広い原一面の草や芒(すすき)が波を打つようにざあざあと鳴った。それが跫音(あしおと)をぬすむには都合がいいので、半七と庄太は相当の距離を取って二人のあとに続いた。
原のまん中には何百年の歴史を知っているような大きい榛(はん)の木が突っ立っている。それは夜目にも窺(うかが)われるので、為吉と藤助はその大樹を目あてに細い道を急いで行くらしかったが、やがてそれも眼の前に近づいた時に、たちまちに帛(きぬ)を裂くような女の悲鳴がきこえた。
「あれ、人殺し……」
つづいて男の叫ぶ声もきこえて、男と女が暗い草原を転げるように逃げて来るらしい。こうなると、半七と庄太も聞き捨てにはならないので、ともかくも声のする方角へ駈けてゆくと、ひとりの男が庄太に突きあたった。ひとりの女は半七に突きあたって倒れた。榛の木の下では男の笑う声がきこえた。
この不意の出来事におどろかされて、藤助と為吉はしばらくそこに立停まっているらしいので、半七は見かえって声をかけた。
「おい、おい。その提灯を貸してくれ」
藤助はまだ躊躇(ちゅうちょ)しているので、庄太は焦(じ)れて又呼んだ。「おい、下総屋の奉公人。早く提灯を持って来い」
下総屋の名を呼ばれて、藤助ももう逃げることも出来なくなったらしく、提燈を持って近寄って来た。その灯に照らし出されたのは、二十一二の町人風の男と、新宿あたりの女郎らしい二十歳前後の仇(あだ)めいた女であった。「駈落(かけお)ち者だな」と、庄太は云った。「それにしても人殺しとはどうしたのだ」
「あすこに……」と、男は榛の木のあたりを指さした。「不意に出て来て……斬るぞと云いまして……」
半七は、藤助の提灯を取って、すぐに木の下へ駈けて行ったが、そこにはもう人の影も見せなかった。事面倒と見て、早くも姿を隠したらしい。面倒は彼ばかりでなく、半七も同様であった。折角尾けて来た為吉と藤助の二人を差し置いて、差しあたりはこの新しい二人を詮議しなければならない事になったのである。彼は男と女をまねいて、榛の木の下まで連れてゆくと、庄太も他の二人も付いて来た。
「おめえたちはまったく駈落ち者か」と、半七は二人に訊いた。「おれは御用聞きの半七だ。正直に云え」
御用聞きと名乗られて、二人は顫(ふる)えた。抱えの遊女や芸妓(げいぎ)を連れ出した場合、悪く間違えば拐引(かどわかし)ということになる。かどわかしは重罪である。それが御用聞きに出逢ったのであるから、かれらが恐怖に囚(とら)われたのも無理はなかった。それを察して、半七は徐徐(しず)かに云い聞かせた。
「いくら商売でも、おれも邪慳(じゃけん)な事はしたくねえ。なんとか穏便に内済の法もあろうと云うものだ。なにしろおめえたちはどこの何と云う者だ」
かれらが恐るおそる申立てるところによると、男は代々木(よよぎ)の多聞院(たもんいん)門前に住む経師屋のせがれ徳次郎(とくじろう)、女は内藤新宿(ないとうしんじゅく)甲州屋(こうしゅうや)の駈け女お若(わか)で、ままならぬ恋の果ては死神に誘われて、お若は勤め先をぬけ出した。二人はこの権田原の榛の木を死に場所と定めて、闇(やみ)にまぎれて忍んで来ると、かれらよりもひと足先に来ている人があった。その人は突然にかれらを脅かして、斬るぞと呶鳴(どな)った。死に行く身にも恐ろしい犬の声――突然に斬ると云われて、かれらはやはり恐ろしくなった。その一刹那(せつな)、死ぬ覚悟などは忘れてしまって、二人は思わず人殺しの悲鳴をあげて逃げた。
その話を聴き終って、半七はうなずいた。
「うむ、判った、判った。だがまあ、死んじゃあいけねえ。おれもここへ来合せたのが係り合いだ、なんとか話を付けてやるから、今夜はおとなしく帰れ。といって、無分別者をこのまま追っ放すわけにゃあ行かねえ。庄太、ご苦労でもこの二人を甲州屋へ送ってくれ」
「だが、こっちはようござんすかえ」と、庄太は不安らしく云った。
「まあ、こっちは何とかする。なにしろこの二人を無事に帰さなけりゃあならねえ」
「ようがす。じゃあ、行って来ます。さあ、親分がああ仰(おっ)しゃるのだから、二人ともぐずぐず云わねえで早く来ねえ。世話を焼かせると縛っちまうぞ」
嚇されて、二人も争う術(すべ)がなかった。かれらは権田原心中の浮名を流す機会を失って、おめおめと庄太に追い立てられて行った。
これでまず一方の埒は明いたので、半七は更に為吉と藤助の詮議に取りかかろうとして、持っている提灯をこちらへ振り向ける途端に、今度は為吉が悲鳴をあげて倒れた。はっと思って透かして視(み)ると、抜身を引っさげた男が芒をかき分けて一散に逃げ去った。それを追っても間に合わないと見て、半七はそこに突っ立っている藤助の腕をつかんだ。
「親分。わたしをどうするのです」と、藤助は慌てたように云った。
「どうするものか。さあ、白状しろ」
「わたしはなんにも知りません」
「空っとぼけるな。この野郎……」と、半七は叱(しか)り付けた。「貴様は今夜この為吉を殺(ば)らすつもりでここへ連れ出したのだろう」
「飛んでもねえことを……。わたしはただ、旦那(だんな)の指図でこの為さんをここまで案内して来たのです」
「なんのために案内して来た」
「この大きい木の下に待っている人があるから、その人に逢わせてやれと云うのです」
「待っている人と云うのは誰だ」
「知りません。逢えば判ると云いました」
「子供のようなことを云うな。狐(きつね)に化かされやしめえし、大の男二人が鼻をそろえて、訳もわからずに野原のまん中へうろうろ出て来る奴があるものか。出たらめもいい加減にしろ」
腕を捻(ね)じあげられて、藤助は意気地(いくじ)も無しに泣き叫んだ。
「堪忍して下さい。堪忍して下さい」
相手が案外に弱いので、半七はすこし躊躇した。こいつは本当に弱いのか、それとも油断をさせるのか、その正体を見定めかねて、思わず摑(つか)んだ手をゆるめると、藤助は草の上にぐたぐたと坐った。
「親分。わたしは全くなんにも知らないのです。ご承知かも知れませんが、この為さんの妹がゆうべ見えなくなってしまいました。家の旦那も心配して、けさから方々を探し歩いていましたが、午過ぎになって帰って来まして、お種さんの居どころは知れたと云うのです。だが、相手が悪い奴でただでは渡さない。拐引(かどわかし)で訴えれば、一文もいらずに取戻すことが出来るかも知れないが、そんなことに暇取っているうちに、お種さんのからだに何かの間違いがあっては取返しが付かない。これも災難と諦(あきら)めて、いくらかのお金を渡して無事に取戻した方がよかろう。そこで向うでは十両出せと云う、わたしは五両に負けてくれと云う、押問答の末に六両に負けさせて来たから、それを持って早く取戻して来たら好かろうと云うことでした。そこで、為さんは金右衛門さんと相談して、ともかくもお種さんを取戻しに行くことになりましたが、二人の路銀をあわせても六両の金がありません。胴巻の金まで振るい出しても、四両二分ばかりしか無いので、不足の一両二分は旦那が足してやることにして、今夜ここへ出て来たのです」
「主人がなぜ一緒に来ねえのだ」
「主人が一緒に来る筈でしたが、夕方から持病の疝癪(せんき)の差込みがおこって、身動きが出来なくなりました。朝早くから出歩いて、冷えたのだろうと云うのです。そこで、主人の代りにわたくしが出て来ることになりました。権田原のまん中に大きい榛の木がある。そこへ行けば、相手がお種さんを連れて来ているから、六両の金と引っ換えに、お種さんを受取って来いと云われたので、為さんを案内して出て来ると、途中でこんな騒ぎが出来(しゅったい)したのです」
「それにしても、無じるしの提灯をなぜ持って来た」
「旦那の云うには、こんなことが世間へ知れると、おたがいに迷惑する。下総屋のしるしのない提灯を持って行けと云うので……」
「むむ。まあ、大抵は判った。じゃあ、おれに手伝って、この怪我人を運んで行け」
さっきから手負いのことが気にかかっているので、半七は藤助に指図して、そこに倒れている為吉を扶(たす)け起そうとする時、うしろの枯れすすきががさがさと響いた。
それが風の音ばかりでないと早くも覚って、半七が屹(きっ)と見かえる途端に、何者かがまた斬ってかかった。油断のない半七はあやうく身をかわして、すぐにその手もとへ飛び込んだ。提灯は投げ出されて消えてしまった。素早く手もとへ飛び込まれて、刀を振りまわす余地がないので、相手も得物をすてて引っ組んだ。こうなると双方が五分五分である。殊に岡(おか)っ引(ぴき)や手先は手捕りに馴れているので、相手もやや怯(ひる)んだ。
こういう野原の習いとして、誰が掘ったとでも云うでも無しに、自然に崩れ落ちた穴のようなものがある。暗がりで組打ちの二人は、足を滑らせて二、三尺の穴に落ちた。


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「取押えましたか」と、私は中途から喙(くち)をいれた。それを話す半七老人が眼の前にいる以上、仕損じの無かったことは知れているのであるが、それでも人情、なんだか一種の不安を感じたからであった。
「捕損じちゃあ事こわしです」と、半七老人は笑った。「まあ、ご安心ください」
「そいつはいったい何者です」
「こいつが六道の辻で仇討をした奴ですよ。かたき討をした時に、水野家の辻番へ行って、自分は備中松山藩五万石板倉周防守の藩中と名乗りましたが、それは出たらめで、実はその近所の一万石ばかりの小さい大名の家来です。自分は伊沢千右衛門、かたきは山路郡蔵、この姓名も出たらめで、本人は野口武助(のぐちぶすけ)、相手は森山郡兵衛(もりやまぐんべえ)というのが実名でした」
「じゃあ、かたき討も嘘ですか」
「まあ、こういうわけです。野口武助の親父は武右衛門(ぶえもん)といって、屋敷の金蔵番であったのは本当です。せがれの武助は放蕩者(ほうとうもの)、同藩中の森山郡兵衛と共謀して、自分のおやじが鍵(かぎ)預かりをしている金蔵へ忍び込み、五百両の金をぬすみ出して出奔した。こんな事をすれば親父に難儀のかかるのは知れ切っているのに、実に呆(あき)れた不忠不孝の曲者です。果してそれが為に、親父の武右衛門は切腹したそうです。ところで、本街道を行くと追っ手のかかる虞(おそ)れがあるので、武助と郡兵衛は廻り道をして丹波路(たんばじ)へ落ちて来ると、群兵衛は武助を途中で撒(ま)いて、どこへか逃げてしまいました。勿論、例の五百両は郡兵衛が持ち逃げをしたわけです。
これには武助もおどろいたが、表向きに訴えることも出来ません。なにしろ江戸へ出る約束になっていたのですから、群兵衛もおおかた江戸へ行ったろうという想像で、武助はそのあとを追って江戸へ出て来ましたが、一万石の故郷とは違って江戸は広い。いかに根よく探し歩いたところで、容易に知れる筈はありません。そのうちにふところは乏しくなる。根が悪い奴ですから、お定まりの浪人ごろつきとなって、強請(ゆすり)や追剥(おいはぎ)を商売にするようになりました。
そうしているうちに、国を出てから足かけ五年目、測らずも青山六道の辻で、かたきの森山郡兵衛にめぐり逢いました。主人のかたきでも無く、親のかたきでも無いが、自分にとっては年ごろ尋ねる仇(あだ)がたきです。そこで、おのれ盗賊……。実を云えば、自分も盗賊の同類ですが、まあ相手だけを盗賊にして、ここでかたき討をしてしまいました。しかし往来のなかで人殺しをした以上、そのままに済ませることは出来ませんから、ずうずうしく度胸を据えて、自分の方から辻番へ名乗って出て、真実空言(まことそらごと)とりまぜて、かたき討の講釈をならべ立てた次第です。
かたき討も嘘、姓名も身許も嘘ですから、板倉家へ問合されれば、すぐに露顕するのは判っています。そこで辻番をうまくごまかして、捕手の大竹藪へもぐり込んで、首尾よく逃げおおせたのです。殺された郡兵衛は悪銭身に着かずで、持ち逃げの金はみんな道楽に使ってしまい、今では本郷(ほんごう)辺の旗本屋敷の若党に住み込んでいて、その日は千駄ヶ谷の知りびとのところへ尋ねて行く途中、子供のみやげに柿を買っている処を、おのれ盗賊とばっさりやられたのですが、まったく盗賊に相違ないのですから仕方がありません。一年三両二分の給金を取る若党が、ふところに二両足らずの金を持っていたのは少し不審で、こいつも相変らず悪い事をしていたのじゃないかと思われますが、死人に口無しで判りませんでした。
これで六道の辻の一件は説明されたが、佐倉の一行に関する秘密は不明である。しかも半七老人の話を聴いているうちに、誰でも疑いを懐(いだ)くのは下総屋という米屋の主人であろう。彼がこの事件の重大の関係を有するのは、どんな素人にも想像されることである。わたしがそれを云い出すと、老人はうなずいた。
「そうです、そうです。金右衛門を斬って、娘のおさんをかどわかしたのは、下総屋の茂兵衛の仕業です。この茂兵衛という奴はなかなかの悪党で、店の若い者銀八というのを手先に使って、方々で盗みを働いていたのですが、商売は手堅く、うわべは飽くまでもまじめに取り澄ましていたので、近所は勿論、家内の者にも覚られなかったと云いますから、よっぽど抜け目なく立廻っていたに相違ありません。いつぞやお話をした唐人飴の一件、あの唐人飴屋が泥坊のぬれぎぬを着せられたのですが、あの辺を荒した賊の正体を洗ってみると、実はこの茂兵衛の仕業だということが判って、青山辺ではみんな案外に思ったそうです。人は見掛けには因(よ)らないと云いますが、この米屋の奴らなぞはすこぶる上手にごまかしていたと見えます」
「金右衛門を斬ったのは、娘をかどわかす為ですか」
「こんな奴らですから、慾心も無論に手伝っていたでしょうが、これこそ本当のかたき討のつもりなんですよ」
「これもかたき討ですか」と、わたしはすこし意外に感じた。
「まあ、かたき討ですね。さっきもお話し申した通り、八年前に金右衛門は江戸見物に来たことがあります。そのころ茂兵衛は深川に住んでいて、やはり米屋をしていました。金右衛門は一人で出て来たので、馬喰町に宿を取らず、茂兵衛の家に小半月ほども泊って、ゆっくり江戸見物をして帰りましたが、ここに一つの面倒がおこった。と云うのは、茂兵衛の女房のお稲と金右衛門は従妹同士で、子供のときから仲がいい。今度も金右衛門が逗留している間、お稲が親切に世話をしてやった。それが亭主の茂兵衛の眼には怪しく見えたというわけで、金右衛門が帰国した後に、夫婦喧嘩が起りました。
従妹同士の金右衛門とお稲とのあいだに、本当に不義密通の事実があったのか、但しは茂兵衛ひとりの邪推か、そこははっきり判りかねますが、その以来、夫婦仲がとかくにまるく納まらないで、何かにつけて茂兵衛は女房につらく当ったそうです。そのためか、お稲はだんだん体が弱くなって、おととしの暮れに三十三で死にました。死ぬ三日ほど前にも激しい夫婦喧嘩をしたと云いますから、お稲の死因も怪しいと思われないこともありません。
江戸と佐倉と距(はな)れていますから、そんな捫着(もんちゃく)のおこったことを金右衛門はちっとも知らないで、今度の芝居見物に出て来たついでに、八年振りで下総屋へ尋ねて来ました。その金右衛門の顔をみると、茂兵衛はむかしの恨みがむらむらと湧(わ)き出して……。昔はこういうのを女仇討(めがたきうち)と云いましたが、何分にも無証拠ですから、表立ってかれこれ云うことは出来ません。しかし相手の顔を見ると、茂兵衛は口惜(くやし)くって堪(た)まらない。こういう奴に限って、嫉妬心(しっとしん)も深い、復讐心(ふくしゅうしん)も強い。無理に金右衛門等を一泊させて、なにかひと趣向しようと思ったのですが、どうしても馬喰町の宿へ帰ると云うので、急に思い付いたのが前の一件です。
金右衛門ら四人を小僧に送らせて、自分は近道を先廻りして、藪のなかに待っていて、金右衛門に斬り付ける。若い者の銀八はおさんを引っ担いで逃げる。銀八は重い米をかついで毎日得意先へ配っているのですから、十六の小娘を引っ担いで逃げるのには骨は折れません。勿論、手拭(てぬぐい)をおさんの口へ捻じ込んで、例の化物屋敷へ連れ込んで、茶の間の押入れへ投げ込んでしまいました。
これで万事思い通りに運んだのですが、茂兵衛の刃物は脇指(わきざし)で、おまけに腕が利かない。一方の野口武助はともかくも侍ですから、かたきの森山郡兵衛を首尾よく仕留めましたが、こっちは町人の悲しさにどうもうまく行かないで、斬るには斬ったが案外の浅手でした。まあこう云ったわけで、茂兵衛としては女仇討の積りだったのですよ」
これで金右衛門の一件の輪郭は判った。


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理窟の善悪はしばらく措(お)いて、武助もかたき討であると云い、茂兵衛もかたき討であると云う。この二様のかたき討が同じ日の昼と夜に起ったと云うだけで、双方のあいだに何の連絡も無いのであろうか。私はそれを訊きただすと、半七老人はにやにや笑った。
「あなたには判りませんかな。権田原で取押えたのが野口武助だと云ったじゃあありませんか。武助だって酔狂に抜身をふり廻したのじゃあない。下総屋の茂兵衛と糸を引いているのですよ」
「そうすると、この二人は前から懇意なんですね」
「茂兵衛も女房に死に別れて、当時は独り身ですから、新宿なぞへ遊びに行く。しかし多くは昼遊びで、決して家を明けたことが無いので、誰も気がつかなかったそうです。その遊び先で武助と知合いになって、悪い奴同士が仲よくなってしまったのです。茂兵衛の方が役者は一枚上なので総大将格、内では若い者の銀八、外では浪人の武助、この二人を両手のように働かせて、いろいろの悪事を重ねていたので、その凶状がだんだん明白になるに付けて、近所の者はいよいよ驚いたそうです」
「為吉の妹をかどわかしたのは誰です」
「お種をかどわかしたのも、やっぱり銀八です」と、老人は説明した。「わたくしは米搗の藤助に眼を着けていたんですが、これは案外の善人で、銀八の方が案外の曲者でした。銀八は、茂兵衛の指図を受けて、化物屋敷の空家に監禁してあるおさんの処へ、食い物をそっと運んでいたのですが、こんな奴がただそれだけで帰る筈がありません。定めて好き勝手な真似(まね)をして、年の行かない娘を苛(いじ)めたのでしょう。おさんがどうぞ家(うち)へ帰してくれと泣いて頼むと、それじゃあ明日の夕がたに連れて行ってやると約束して帰りました。
そこで、あしたの午後、お種が近所の湯屋へ出て行ったのを見とどけて、化物屋敷へおさんを迎えに行きました。おさんは喜んで出て来ると、途中で往来のないのを窺って、銀八は不意に匕首(あいくち)をおさんに突き付けて、これからお種に逢っても、おれの許すまでは決して口を利いてはならないと嚇かして連れて行きました。そうして、湯屋の近所に待っていて、お種の出て来るのをそっと呼びました。
おさんの姿をみて、お種はおどろいて駆け寄ると、銀八がここでは話が出来ないから、ちょいとそこまで来てくれと云う。つまりはおさんを囮(おとり)にして、お種を誘い出したのです。おさんは嚇かされているので、迂闊(うかつ)に口を利くことが出来ない。お種はおさんに引かれて、うかうか付いて行く。なにしろ十六と十七の田舎娘ですから、こんな悪い奴に出逢っては赤児も同然、どうにも仕様がありません。こうして、おさんは化物屋敷へ逆戻り、お種も一緒に生捕られてしまいました」
「成程ひどい奴ですね」と、わたしも思わず溜息をついた。
「ひどい奴ですよ。茂兵衛や銀八の肚では、こうして生捕って置いて、二人の女を宿場女郎に売り飛ばす目算でしたが、金右衛門と為吉がいては何かの邪魔になる。殊に為吉は血気ざかりの若い者で、自分の女房と思っているおさんが行くえ不明になったので、気が気でない。たとい金右衛門の傷どころが癒(なお)っても、おさんやお種の行くえが知れないうちは決して国へ帰らないなどと云っているので、これも何とか押片付けてしまわなければならない。そこで、茂兵衛と銀八は相談して、為吉を権田原へ誘い出すことになったのです。こう云えば大抵お察しが付くでしょうが、榛の木の下に待っていたのはかの野口武助で、ここで為吉をばっさりと云う段取りでした」
「案内者の藤助は全くなんにも知らなかったんですか」
「米搗の藤助、見かけは商売柄に似合わない小粋(こいき)な奴で、ちっとは道楽もするのですが、案外にぼんやりした人間で、なんにも知らずに茂兵衛の手先に使われていたのです。いや、それでも運のよかったのは、自分の命の助かったことで……。茂兵衛や武助の料簡(りょうけん)じゃあ、為吉ひとりを殺すと世間の疑いを受けるので、刷毛(はけ)ついでに藤助も冥途(めいど)へ送るつもりだったそうです。どう考えてもひどい奴らです。
そこで、おかしいのは武助という奴で、なんぼ何でも人間ふたり殺すのですから心持が酒の勢いを借りて威勢よくやる積りで、新宿あたりで一杯のんで来て、榛の木の下の暗闇に待っていると、そこへかのお若と徳次郎のひと組が来ました。道行(みちゆき)の二人連れ、さしずめ清元か常磐津(ときわず)の出語りで『落人(おちうど)の為かや今は冬枯れて』とか云いそうな場面です。誰の考えも同じことで、この榛の木を目当てに『辿(たど)り辿りて来たりけり』という次第。何しろここで心中するのだから、それだけじゃ済みますまい。お芝居の紋切型で『抑(そも)や初会のその日より』なぞと、口説き文句も十分になった事と察せられます。
お若と徳次郎はそこらに人が忍んでいようとは夢にも知らないで、色模様よろしくあったのですが、暗闇でその口説き文句を聴かされている武助はやりきれません。すっかり気を悪くして癪(しゃく)にさわった。おまけに一杯機嫌ですからなお堪まりません。もう一つには、ここで二人にごたごたされていては、自分の仕事の邪魔になる。かたがた不意に飛び出して、斬るぞと嚇かしたので、二人は驚いて逃げる。そこへ為吉と藤助が来る、庄太とわたくしが来る。いや、もう、大騒ぎで、何もかもめちゃくちゃになってしまいました。
武助は事面倒と見て、いったんは姿を隠したのですが、なんだか不安心でもあるので、そっと引っ返して来て窺っていると、お若と徳次郎は送り還(かえ)されて、これから為吉と藤助の詮議が始まりそうになったので、為吉の口から詰まらないことを喋(しゃべ)られては大事露顕の基と、だしぬけに斬って逃げたのです。それで逃げてしまえばいいのに、また引っ返して来て今度はわたくしを斬ろうとした。本人は藤助を切るつもりだったと云っていましたが、どっちにしてもまた出直して来たのが不覚で、とうとう運の尽きになりました」
「茂兵衛と銀八はすぐに召捕られましたか」
「召捕りました。庄太はまだ帰って来ず、わたくし一人では手に余るかと思ったのですが、うかうかしていて高飛びをされると困るので、まあどうにかなるだろうと、多寡をくくって、わたくし一人でむかいました。夜の商売でありませんから、下総屋はもう大戸をおろして、潜(くぐ)り戸(ど)に障子に灯のかげが映(さ)しているので、わたくしは藤助を指図して、外から唯今と声をかけさせました。冥途の道連れにされた筈の藤助が、無事に帰って来たので、内でも驚いたのでしょう。銀八がすぐに潜り戸をあけて表を覗(のぞ)く。そこへわたくしが飛び込んで、有無を云わさずに縄をかけてしまいました。
その物音を聞きつけて、奥から亭主の茂兵衛が出て来ましたから、これもすぐに押えました。相手が二人ですから、一度に召捕るのはむずかしいと思っていましたから、都合よく順々に出て来たので、案外にばたばたと片付きました。案じるよりは産むが易いとはこの事です」
最後に残ったのは女二人の始末である。それについて、老人は少しく顔をしかめた。
「おさんとお種が銀八に引摺(ひきず)られて、例の化物屋敷へ封じ込められたのは、ご承知の通りです。もちろん手足をくくって押入れに投げ込んで置いたのですが、今度は二人になったので、その翌日の夕方、ひとりの縄の結び目をほかの一人が噛(か)んで解(ほど)いて、どうにかこうにか二人とも自由のからだになって、そこを抜け出しました。時刻を測ると、わたくしが踏み込んだ少し前のようです。ひと足ちがいで残念でした」
「それにしても無事に逃げたんですね」
「ところが、無事でもない。ともかくもそこを抜けだしたのですが、夕方ではあり、土地の勝手を知らないので、どこをどう歩いたのか、迷い迷って品川から大森の海岸へ出てしまったのです。もう夜は更けて、眼の前に暗い大きい海がある。そこらの漁師町へでも行って、なんとか相談すればいいのですが、年の若い娘二人、いろいろのひどい目に逢って、少しは気も変になっていたのでしょう。こんな難儀をするくらいなら、いっそ死んだ方がましだと云うので、二人は一緒に海に飛び込みました。幸いに夜網の船が出ていたので、二人ともに引揚げられましたが、息を吹き返したのはお種だけで、おさんは可哀そうに助かりませんでした。佐倉宗吾の芝居が飛んだ災難の基で、江戸へ死にに来たようなものでした。
しかし金右衛門は浅手のために早く癒(なお)りました。これは茂兵衛のかたきですから、うかうかしていたら二度のかたき討をされて、おそらく無事には済まなかったのでしょうが、茂兵衛や銀八が早く召捕られたので命拾いをしました。為吉の傷は一時はどうだかと危ぶまれましたが、これもふた月あまりで全快、国許(くにもと)から迎えの者が来て、金右衛門と為吉兄妹を引取って帰りました」
「それから、道行の方はどうなりました」
わたしが笑いながら訊くと、老人も笑った。
「この方はなんと云っても芝居がかりの粋事(いきごと)です。男も女も借金と云ったところで知れたものですから、わたくしが口を利いて、甲州屋の方は親許身請(おやもとみうけ)と云うことにして、お若のからだを抜いてやりましたよ」
「めでたく徳次郎と夫婦になったのですね。そこで、その親許身請の金は……」
「乗りかかった船で仕方がありません。半七の腹切りです。しかしわたくしの顔を立てて、甲州屋でも思い切って負けてくれたから、さしたる痛みでもありませんでした。そりゃあなた、わたくしだって、人を縛るばかりが能じゃあない。時にはこういう立役(たちやく)にもなりますよ。はははははは」
おそらくその当時、半七老人は幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)の二代目にでもなったような涼しい顔をして、いい心持ちそうに反返ったのであろうと察せられた。

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。