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遺牘


     東上初年の消息


東湖訪問心中清淨・櫻任藏豪傑・丈夫と呼ばる・逸散駈付・江戸風に染まず

尚々藏方くらかた目付替御座候處、何となく被肝煎きもい候口氣、伊十院有之、誠に可笑事に御座候。

一筆啓上仕候。殘暑甚敷御座候得共、御祖母樣を奉初、御一統樣御機嫌能可御座、奉恐縮候。伏而不肖無異儀相勤申候間、乍恐御安慮御思召可下候。

扨、先間便びんに差下候字はいたみなく相屆候哉、自然御披見被下候半。其時共は餘程面白次第に而、東湖先生も至極丁寧成事なることにて、彼宅へ差越申候と、清水せいすゐに浴候鹽梅あんばいにて心中一點の雲霞なく、唯清淨なる心に相成、歸路をわすれ候次第に御座候。御遠察可下候。櫻にん藏(東湖に從游尤經濟に志す從四位追贈)にも追々差越候處、是も豪傑疑なく廉潔の人物、其上博識に御座候。彼方あのはうの學問は始終忠義を主とし、武士となるの仕立にて、學者風とは大いに違ひ申候。自畫自讚に而人には不申候得共、東湖も心に被にくまむきに而は無御座いつも丈夫と呼ばれ、過分の至に御座候。我ものに一義も被引受頼母敷たのもしく共、難有共不申、身にあまり國家の爲悦敷よろこばしき次第に御座候。若哉もしや老公むちを擧て異船へさきがけ御座候はゞ、逸散いつさん駈付かけつけむへ草(埋草)に成共罷成申度心醉仕申候。御一笑可下候。老公も此廿五日御軍制改正の御かゝり仰渡、御登城に相成申候。何樣の獻立こんだてに御座候哉、其後水府へ參不申候に付、模樣もやう相分不申候。追而細事申上候樣仕申候。刀の儀難有御厚禮申上候。何卒便宜べんぎを以て御遣し被下度奉合掌がつしやう候。かけ重疊かさね/″\〈[#「重疊かさね/″\」は底本では「重疊かさね/\」]〉自由の儀申上不都合千萬に御座候得共、御仁宥可下候。愈江戸風の浮氣うはきには相あたり申候に付、夫けは御安心可下候。一しよに參候人々の内、品川へ足ぶみ致は壹人にて御座候、是位に續人つゞくひとは無御座候得共、とろけは不仕候、御察可下候、かば直八、至極の御丁寧に而、定御供じやうおともに相加候處、勤向つとめむきも相分候に付、仕合の事に御座候。此廿二日には増上寺御豫參よさん之、御供に而御座候處、まこと賑々敷にぎ/\しき次第に御座候。とんと五社御參詣の時の如く、御衣冠御轅おんながえに被召、美を盡し候事に御座候。此旨御安否御伺迄奉尊意候。恐惶謹言。

  七月廿九日

西郷善兵衞(後吉兵衞又吉之助に更む

 椎原與右衞門樣

 椎原權兵衞樣

 追而十右衞門方へ申越候趣も御座候間、御高覽可下候。

(按)安政元年、翁二十八歳、中小姓を以て三月藩主齊彬公に扈從して始て江戸に出づ。四月樺山三圓と小石川水戸邸に赴き、始て藤田東湖に面見す。其後數々往て時事を談じ、大に其人物を推尊す。又同藩士櫻任藏にも推服する所あり。此書簡は、其當時母方の叔父椎原兄弟に寄せたものにて、椎原國雄所藏す。


     主家悲報


大變到來・太守父子一病一死・怒髮冠を衝く・不動祠祈願・奸女を倒す・身命塵埃・死の妙所・生の苦

尚々御賢父樣御元氣の筈、宜しく御傳へ可下候。

秋冷相催候處、愈以御壯剛奉慶賀候。隨而小弟にも無異かはりなく罷在、當分は宿替やどがへにて獨居いたし、間々まゝ夢中には貴丈あなたに御逢申上候。偖大變到來仕、誠に紅涙にまみれ、心氣絶々たえ/″\に罷成、悲憤の情御察可下候。もうは御聞及の筈と奉存候、先々月晦日みそかより、太守樣俄に御病氣不一と通わづらひ、大小用さへ御床之内にて、御やすみも不成、先年の御煩の樣に相成模樣にて、至極御世話被成候儀に御座候。若殿わかとの樣には去廿三日晝九ツ時より御くだしにて、晝の内十二度夜二十五度位の儀にて、八ツ時終に御卒去被遊候段、我々式は翌朝承候位にて、殘念如何とも申樣のあるものにて無御座候。思へば/\はつかむりき候。太守樣にも至極御氣張り被遊候御樣子も被伺申候。又此上御わづらひおもり候ては、誠にやみの世の中に罷成儀と、只身の置處を不知候。只今致方無御座、目黒の不動へ參詣致、命に替て祈願きぐわんをこらし、晝夜いのり入事に御座候。つら/\思慮しりよ仕候處、いづれなり奸女をたをし候外無望時と伺居申候。御存の通り、身命しんめいなき下拙わたくしに御座候へば、死する事は塵埃ぢんあいの如く、明日を頼まぬ儀に御座候間、いづれなり死の妙所を得て、天に飛揚致、御國家の災難を除き申度儀と堪兼候處より、相考居候儀に御座候。心中御察可下候。實に紙上に向て、此若殿樣の御儀申述難く、筆より先に涙にくれ、細事に不及候。眼前奉拜候故、尚更難忍、只生きて在るうちの難儀さ、却て生を怨み候胸に相成、憤怒にこがされ申候。恐惶謹言。

  八月二日

西郷善兵衞

 福島矢三太樣

(按)翁の始て江戸に出づるや、四月庭方役となり、屡々齊彬公に謁し意見を陳述す。六月公疾あり、閏七月世子虎壽丸夭折す、呪詛或は毒殺の風説あり。翁は樺山三圓・有村俊齋等と大に憤慨す。此書牘は其當時在藩の同志に寄せたるものなり。福島矢三太は翁が大久保・有村の諸士と伊東猛右衞門に從うて陽明學を修めし同志の一人なり。早く歿したるを以て名を成すに及ばざりき。


     東湖震死の報


杖とも柱とも・何事も此れ限り

一筆啓上仕候。時下寒氣相つのり申候處、御一同樣先以御機嫌能御暮被遊候由、幸賀之至り此事に奉存上候。隨而私事無異消光仕居候間、乍恐左樣御安心可成候。扨而さて此の二日の大地震は前古未曾有みぞうにて、御同樣杖とも又柱ともたよりに致居候水戸の藤田戸田之兩雄も搖打ゆりうちに被逢、黄泉よみぢの客と被成候始末、如何にも痛烈之至り、何事も此ぎりと旦暮あけくれ愀悒しういう嗟嘆さたん相極め居候、御深察可下候。不取敢御急報申上度荒々あら/\此御座候。恐々不盡。

  十月六日

西郷吉之助

 大久保一藏樣

尚々君公益御機嫌能、澁谷御屋敷へ被入候。上屋敷は迚も御居住出來兼申候。兎に角一大修理を要申候、御賢察可下候。

(按)安政二年十月二日江戸大地震あり。藤田東湖震死す。右は此時の書信に係る。鹿兒島市川上四郎兵衞所藏す。


     獄中の消息


英艦來襲・君を思ひ祖母を懷ふ・無鳥郷の蝙蝠・學者の鹽梅にて可笑し・學問は御蔭にて上る

尚々御煙草御惠投被成下、難有御厚禮申上候。

改年之御吉慶、御超歳被御座、恐悦之御儀奉存候。隨而私事無異儀獄中に消光仕申候間、乍恐御安慮被成下度奉合掌候。陳ば去年七月炮戰はうせん騷動さうどう御座候由、扨々大騷ぎの事に御座候半、想像仕に尚あまり有る事に御座候。御祖母樣如何ばかり之御驚嘆と、是而已のみ案勞あんらう仕候儀に御座候。京師邊にも一揆相起候由、いづれ天下之大亂近きに候半、可恐世上罷成候事に御座候。當島におひても、若哉もしや異國船共參申候はゞ、君臣之節不相失處迄は相盡つもりにて、政照など至極之決心にて、外兩人義民相募あひつのり、三人は必至に罷成居申候間、是等の事ども樂しみにて相暮居候事に御座候。書物讀み弟子二十人計に相成、至極の繁榮はんえいにて、鳥なきさと蝙蝠かうもりとやらにて、朝から晝迄は素讀そどく、夜は講釋ども仕而、學者之鹽梅あんばいにてひとりをかしく御座候。乍然學問は獄中之御蔭にて上り申候、御一笑可成下候。手ぬぐひ年頭之祝儀に段々もらひ申候間、御祖母樣え〈[#「え」は底本では変体仮名「江」]〉進上仕候間、御笑納可成下候、此旨荒々御祝儀迄如此御座候。恐惶謹言。

  正月二十日

大島吉之助

 椎原與三次樣

 椎原權兵衞樣

(按)右は元治元年正月、沖永良部島より、鹿兒島なる叔父椎原兄弟に贈りたる新年賀状にして、椎原國雄所藏す。


     亡父の借金返濟


陛下供奉鹿兒島着の翌日・舊恩感謝・貳百金返辨

酷暑之砌御座候へ共、彌以御堅固可御座、珍重奉存候。隨而小弟此節供奉ぐぶ仰付、昨日安著仕候間、乍憚御放意可下候。陳ば先年亡父拜借金いたし居、其後私共にも度々之災難に逢、一向御挨拶等も不致其儘打過居候次第、何とも無申譯仕合、亡父に對しても不すま事に御座候處、御承知も被下候半、昨年出京仕候處、不容易重職を蒙り、何とも恐入候次第に御座候。就而は過分くわぶん之重任を受候も、畢竟亡父御こん情を以、莫大ばくだい之金子拜借を得、是が爲に多くの子供を生育いたし候故に而、全右之御かげを以活動くわつどうを得候次第、折々亡父よりも申聞かせ候儀に而、何卒御返濟いたし度、色々手段を𢌞めぐらし候得共、頓と御返べん之道も不相付而已のみならず、利息さへもわづか一年ぐらゐ差上候而已のみにて、何とも無わけ仕合に御座候。就而は此度歸省に付而は、是非亡父の思ひ煩ひ居候義を相解あひとき念願ねんぐわんに御座候而、元利相そろへ差上候こそ相當の譯に御座候得共、只今とても多人數の家内を相抱あひかゝへ居候上、全無高むたか之事に候へば、十分之義も不調とゝのは候に付、何卒右へん之處御憐察被成下度奉希候。右に付而は、本金貳百兩之に、數十年の利息相掛り候得ば、過分の金高に及候義に御座候得共、右等之處宜敷御汲取くみとり下、纔に貳百金丈、只利息之心持を以御肴料に差上候に付、是を以返濟之御引結ひきむすび成下候へば、重疊かさね/″\大慶之仕合此事に御座候。然れば亡父之靈魂れいこんをも安ぜしめ申度御座候に付、其節差上置候證文しようもん、御返被下候はゞ、亡父へも右之首尾相濟候儀を申解まうしとき候半歟と相考候付、宜敷御了解ごれうげ成下候處、ひとへに希候。いづれ參上仕候とくと可申上筈御座候得共、纔なか兩日之御滯留に而、とても罷出候儀不相叶候に付、以書面申上候間、かた/″\御汲取可下候。頓首。

  六月廿三日

西郷吉之助

 板垣與三次樣

(按)右は明治四年上京して木戸孝允と共に參議に任ぜられ、翌五年明治天皇に供奉して二十二日鹿兒島に還る。其翌二十三日を以て亡父數十年前の舊借金を返辨したるものなり。板垣は北薩川内せんだいの富豪なり。此書鹿兒島倉内十介の所藏に係る。


     病中消息


持病不治・主上名醫御遣・兎狩劒術角力・獨逸強國

 はた又三月初より又々持病相起、幾度繰返し灸治きうちいたし候得共一向其しるしも不相見候間、自分は不治之しやうと明め居候處、不〈[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、94-4]〉も當月六日 主上より侍醫並獨逸醫ホフマンと申者御遣に相成候付、治療いたしくれ候處、肩並胸など之痛も少く相成、漸々快方に向候次第に御座候。療醫の見込も膏氣あぶらけ増長いたし血路けつろを塞循環じゆんくわん致候故、痛所も出來、もし脉路を塞ぎ脈路やぶれ候節は、即ち中風と申ものに候由。いまだ器械は不相損候故、療治之不出來段には至不申候得共、餘程臟腑ざうふも迷惑いたし居候に付、都而すべて膏氣を拔取ぬきとり申候而は不相濟との事に而、瀉藥くだしぐすりを用ひ、一日に五六度もくだし候事にて、少しも勞倦らうけんの覺無之、日に心持宜敷相成申候。最早廿日餘にも相成候得共、すこしも勞れ不申、朝暮は是非散歩いたし候樣承り候得共、小あみ町に而は始終相調あひかなひ申候處、青山之ごく田舍ゐなか信吾しんご之屋敷御座候間、其宅をかり養生中に御座候間、朝暮は駒場野はわづか四五町も有之候故、兎がりいたし候處、すぐれたる散歩に相叶、洋醫も大に悦び、雨ふりには劒術をいたし候、又は角力を取候、何右等の力事ちからごとをいたし候樣申きけ候得共、是は相調かなひ申段相答候へば、獨逸などは劒術不致者は決而無之、人の健康を助け候もの故、彼國に而は醫師中より相起り、劒術を初め候段申事に御座候。獨逸之強國たる樣想像被致申候。それ故雨中も堂社だうしやに而も其中に而散歩いたし候樣承り候間、勤而つとめて醫師の申す如く相勤申候。食は麥飯を少々づつ、其外とり等格別膏氣あぶらけ之なきものを食用にいたし、成丈なるたけ米抔は勿論五穀を不食樣との事に御座候。肉は却而かへつて膏には不相成候由。穀物が第一膏而已のみに相成候趣に御座候、今より二ヶ月も相立候得ば必病氣をのぞき可申と、口を極めて申居候。此度は決而きつと全快仕可申候間御安心可成候。此度荒々あら/\病氣の所行なりゆきも申上置候。恐々謹言。

  六月二十九日認

西郷吉之助

 椎原與右衞門樣

(按)此書簡は椎原國雄の所藏に係る。前文を逸す。思ふに明治六年ならんか。是歳は翁四十七歳にして、持病重かりしかば、特に陛下の思召に由り、獨醫の診察を受けたり。六月は、韓國問題漸く高潮せんとせる時期にして、十月には其議合はず、十一月には翁は彌々故山の人となりたり。

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。