渋江抽斎

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その一[編集]

 さんじゅうしちねんいっしゅんのごとしいをまなびぎょうをつたえてはくさいのぶえいこきゅうたつはてんめいにまかすあんらくぜににかえひんをうれえず。これはしぶえちゅうさいの述志の詩である。おもうにてんぽう十二年の暮に作ったものであろう。ひろさきの城主つがるゆきつぐじょうふの医官で、当時きんじゅづめになっていた。しかし隠居づきにせられて、おもやなぎしまにあったのぶゆきやかたへ出仕することになっていた。父ただしげちしして、家督相続をしてから十九年、母いわたうじぬいうしなってから十二年、父を失ってから四年になっている。三度目の妻おかにしうじとくと長男つねよし、長女いと、二男やすよしとが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。やしきかんだべんけいばしにあった。ちぎょうは三百石である。しかし抽斎は心を潜めて古代の医書を読むことがすきで、わざろうという念がないから、知行よりほかの収入はほとんどなかっただろう。ただ津軽家のひほういちりゅうきんたんというものを製して売ることを許されていたので、そこばくの利益はあった。

 抽斎はみずから奉ずること極めて薄い人であった。酒は全く飲まなかったが、四年前に先代の藩主信順にこずいして弘前にって、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。タバコは終生まなかった。ゆさんなどもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしばでいりしたが、それも同好の人々と一しょにひらどまを買って行くことにめていた。この連中をしゅうもしゅくれんとなえたのは、廉を愛するという意味であったそうである。

 抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書をあがなうとかくを養うとの二つの外にでなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、父祖のしゅたくを存じている書籍がすくなくなかっただろうが、現に『けいせきほうこし』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うためにおしまなかったことは想いられる。

 抽斎の家にはしょっかくが絶えなかった。少いときは二、三人、多いときは十余人だったそうである。大抵諸生の中で、こころざしがあり才があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。

 抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩をべっけんすれば、抽斎はその貧に安んじて、じかさいのうを父祖伝来の医業の上に施していたかとも思われよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはいられない。試みにるがい。一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才のぶもっおだやかけられるはずがない。のぶるというのは反語でなくてはならない。ろうきれきふくすれども、志千里にありという意がこのうちに蔵せられている。第三もまた同じ事である。作者は天命に任せるとはいっているが、意を栄達に絶っているのではなさそうである。さて第四に至って、作者はその貧をうれえずに、安楽を得ているといっている。これも反語であろうか。いや。そうではない。久しく修養を積んで、内にたのむ所のある作者は、身を困苦のうちに屈していて、志はいまだ伸びないでもそこに安楽を得ていたのであろう。



その二[編集]

 抽斎はこの詩を作ってから三年ののちこうか元年にせいじゅかんの講師になった。躋寿館はめいわ二年にたきぎょくちさくまちょうの天文台あとに立てた医学校で、かんせい三年に幕府のかんかつに移されたものである。抽斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子らんけい、孫けいざん、曾孫りゅうはんが死に、玄孫ぎょうこの代になっていた。抽斎と親しかった桂山の二男さいていは、分家して館に勤めていたのである。今の制度にくらべて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたようなものである。これと同時に抽斎はしきじつとじょうすることになり、次いでかえい二年に将軍いえよしに謁見して、いわゆるめみえ以上の身分になった。これは抽斎の四十五歳の時で、その才が伸びたということは、この時に至ってはじめて言うことが出来たであろう。しかし貧窮は旧にっていたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人ふち出ることになり、あんせい元年にまた職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これをもって償うことは出来なかった。謁見の年には、当時の抽斎のさいやまのうちうじいおが、衣類や装飾品を売って費用にてたそうである。五百は徳が亡くなったのちに抽斎のれた四人目のさいである。

 抽斎の述志の詩は、今わたくしがなかむらふせつさんに書いてもらって、居間に懸けている。わたくしはこの頃抽斎を敬慕する余りに、このふくを作らせたのである。

 抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。たまたま少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者のいちにんとして知っているのである。多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものをはじめとして、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、あまたの著述がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなるまでに、脱稿しなかったものもある。また既に成った書も、当時は書籍を刊行するということが容易でなかったので、世におおやけにせられなかった。

 抽斎のあらわした書で、存命中にいんこうせられたのは、ただ『ごとうようほう』一部のみである。これは種痘術のまだ広く行われなかった当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作った数種の書の一つで、抽斎は術をいけだけいすいに受けて記述したのである。これを除いては、ここに数え挙げるのもおかしいほどの『つの海』というながうたの本があるに過ぎない。ただしこれは当時作者が自家のていめんをいたわって、ひいきにしているふじたせんぞうの名で公にしたのだが、今ははばかるには及ぶまい。『四つの海』は今なおきねやの一派では用いているうたいものの一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作である。

 しからば世に多少知られている『経籍訪古志』はどうであるか。これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、もりきえんと分担して書いたものであるが、これをじょうしすることは出来なかった。そのうち支那公使館にいたようしゅけいがその写本を手に入れ、それをようしりょうが公使じょしょうそに見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになった。その時さいわいに森がまだ生存していて、校正したのである。

 世間に多少抽斎を知っている人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた『経籍訪古志』があるからである。しかしわたくしはこれに依って抽斎を知ったのではない。

 わたくしはわかい時から多読の癖があって、随分多く書を買う。わたくしの俸銭の大部分は内地のしょしと、ベルリン、パリイのしょことの手にってしまう。しかしわたくしはかつて珍本を求めたことがない。る時ドイツのバルテルスの『文学史』の序を読むと、バルテルスが多く書を読もうとして、廉価の本をしょうりょうし、『文学史』に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないといってあった。わたくしはこれを読んでひそかにしゅいきどうしの人をたと思った。それゆえわたくしは漢籍においてもそうざんほんとかげんざんほんとかいうものを顧みない。『経籍訪古志』は余りわたくしの用に立たない。わたくしはその著者が渋江と森とであったことをも忘れていたのである。



その三[編集]

 わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。しかるにわかい時から文を作ることを好んでいたので、いつの間にやら文士の列に加えられることになった。その文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるようになってから、わたくしは徳川時代の事蹟をさぐった。そこに「ぶかん」を検する必要が生じた。

「武鑑」は、わたくしの見る所によれば、徳川史をきわむるにくべからざる史料である。然るに公開せられている図書館では、年をって発行せられた「武鑑」を集めていない。これは「武鑑」、ことかんぶん頃より古い類書は、諸侯の事をするにごびゅうが多くて、信じがたいので、いて顧みないのかも知れない。しかし「武鑑」のなりたちを考えて見れば、この誤謬の多いのは当然で、それはまた他書によってただすことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これにまさる史料はない。そこでわたくしは自ら「武鑑」をしゅうしゅうすることに着手した。

 この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江うじ蔵書記」という朱印のある本にたびたびであって、中には買い入れたのもある。わたくしはこれによって弘前の官医で渋江という人が、多く「武鑑」を蔵していたということを、ず知った。

 そのうち「武鑑」というものは、いつから始まって、最も古いもので現存しているのはいつの本かという問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を「武鑑」のうちに数えるかという、「武鑑」のデフィニションをめて掛からなくてはならない。

 それにはわたくしは『あしかが武鑑』、『おだ武鑑』、『とよとみ武鑑』というような、後の人のレコンストリュクションによって作られた書を最初に除く。次に『ぐんしょるいじゅう』にあるようなぶんげんちょうの類を除く。そうすると跡に、時代の古いものでは、「おんうまじるしぞろえ」、「ごもんづくし」、「おんやしきづけ」の類が残って、それがやや形を整えた「えどかがみ」となり、「江戸鑑」は直ちに後のいわゆる「武鑑」に接続するのである。

 わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの「武鑑」に対する知識はにちにち変って行く。しかし今知っているかぎりを言えば、馬印揃や紋尽はかんえい中からあったが、当時のものは今そんじていない。その存じているのは後にかいはんしたものである。ただ一つここにしばらく問題外として置きたいものがある。それはぬまたらいすけさんが最古の「武鑑」として報告した、かまだうじの『ちたいふけんき』中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられているエラルヂックを、我国に興そうとしているものと見えて、紋章を研究している。そしてこの目的を以て「武鑑」をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。すなわち『治代普顕記』の一節である。沼田さんは幸にわたくしにとうしゃを許したから、わたくしは近いうちにこの記載を精検しようと思っている。

 そんなら今にいたるまでに、わたくしの見た最古の「武鑑」ないしその類書は何かというと、それはしょうほう二年に作った江戸の「屋敷附」である。これはほとんど完全に保存せられたはんぽんで、すえに正保四年と刻してある。ただ題号を刻した紙が失われたので、ほしいままに命じた名が表紙に書いてある。この本が正保四年と刻してあっても、実は正保二年に作ったものだという証拠は、巻中に数カ条あるが、試みにその一つを言えば、正保二年十二月二日にぼっしたほそかわさんさいが三斎老として挙げてあって、またそのやしきを諸邸宅のオリアンタションのためにひきあいに出してある事である。この本は東京帝国大学図書館にある。



その四[編集]

 わたくしはこの正保二年に出来て、四年にじょうしせられた「屋敷附」より古い「武鑑」の類書を見たことがない。くだってけいあん中の「もんづくし」になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかしおかしい事には、げだいに慶安としてあるものは、後にかんぶん中に作ったもので、真に慶安中に作ったものは、内容を改めずに、後の年号を附していんこうしたものである。それからめいれき中の本になると、世間にちらほら残っている。大学にある「紋尽」には、ばんのぶともの自筆の序がある。伴はぶんせい三年にこの本をて、最古の「武鑑」として蔵していたのだそうである。それから寛文中の「えどかがみ」になると、世間にやや多い。

 これはわたくしが数年間「武鑑」を捜索して得た断案である。しかるにわたくしに先んじて、はやく同じ断案を得た人がある。それは上野の図書館にある『えどかんずもくろく』という写本を見て知ることが出来る。この書は古い「武鑑」類と江戸図との目録で、著者は自己のぐうもくした本と、買い得て蔵していた本とを挙げている。この書に正保二年の「屋敷附」を以て当時存じていた最古の「武鑑」類書だとして、巻首に載せていて、二年の二の字のかたわらに四とちゅうしている。著者は四年と刻してあるこの書の内容が二年の事実だということにも心附いていたものと見える。著者はわたくしと同じような蒐集をして、同じ断案を得ていたと見える。ついでだから言うが、わたくしは古い江戸図をも集めている。

 然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中にしょしょ考証をしるすに当って抽斎いわくとしてあるだけである。そしてわたくしの度々見た「弘前医官渋江うじ蔵書記」の朱印がこの写本にもある。

 わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれをたしかめようと思い立った。

 わたくしは友人、なかんずく東北地方から出た友人にうごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状をって問い合せた。

 或る日ながいきんぷうさんに会って問うと、長井さんがいった。「弘前の渋江なら蔵書家で『経籍訪古志』を書いた人だ」といった。しかし抽斎と号していたかどうだかは長井さんも知らなかった。『経籍訪古志』には抽斎の号は載せてないからである。

 そのうち弘前に勤めている同僚の書状がすつう届いた。わたくしはそれによってこれだけの事を知った。渋江氏はげんろくの頃に津軽家に召し抱えられた医者の家で、代々勤めていた。しかしじょうふであったので、弘前には深くまじわった人が少く、また渋江氏の墓所もなければ子孫もない。今とうけいにいる人で、渋江氏と交ったかと思われるのは、いいだたつみという人である。また郷土史家として渋江氏の事蹟を知っていようかと思われるのは、とのさきかくという人であるという事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事にくわしいさとうやろくさんという老人で、当時たいしょう四年に七十四歳になるといってあった。

 わたくしは直接に渋江氏と交ったらしいという飯田巽さんを、先ず訪ねようと思って、とうとつではあったが、飯田さんのにしえどがわちょうやしきった。飯田さんはと宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしているのだそうである。西江戸川町の大きい邸はすぐに知れた。わたくしはたれの紹介をも求めずに往ったのに、飯田さんはこころよいんけんして、わたくしの問に答えた。飯田さんは渋江どうじゅんっていた。それは飯田さんのしんせきに医者があって、その人が何か医学上にむずかしい事があると、渋江に問いにくことになっていたからである。道純はほんじょおだいどころちょうに住んでいた。しかし子孫はどうなったか知らぬというのである。



その五[編集]

 わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかった。

 せっかく道純をっていた人に会ったのに、子孫のいるかいないかもわからず、墓所を問うたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしはいとまごいをしようとした。その時飯田さんが、「ちょいとおまち下さい、念のためにさいにきいて見ますから」といった。

 さいくんが席に呼び入れられた。そしてもし渋江道純の跡がどうなっているか知らぬかと問われて答えた。「道純さんの娘さんが本所まついちょうきねやかつひささんでございます。」

『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。それを本所に訪ねて、「おうさんに抽斎という別号がありましたか」とか、「お父うさんは「武鑑」を集めておいででしたか」とかいうのは、余りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。

 わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問い合わせてもらうことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。

 二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江しゅうきちというおいがあって、しもしぶやに住んでいるというのである。杵屋さんの甥といえば、道純から見れば、孫でなくてはならない。そうして見れば、道純には娘があり孫があって現存しているのである。

 わたくしはすぐに終吉さんに手紙を出して、いつどこへ往ったらわれようかと問うた。返事は直に来た。今ふうじゃで寝ているが、なおったらこっちから往ってもいというのである。しゅせきはまだわかい人らしい。

 わたくしはむなしく終吉さんのやまいえるのを待たなくてはならぬことになった。探索はここにいちとんざきたさなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思って、このひまに弘前から、歴史家として道純の事を知っていそうだと知らせて来たとのさきかくという人を訪ねることにした。

 外崎さんは官吏で、籍がしょりょうりょうにある。わたくしは宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れたかすみせきさんねんざかうえにあることを教えられた。常に宮内省にはゆききしても、諸陵寮がどこにあるということは知らなかったのである。

 諸陵寮の小さいおうせつじょで、わたくしは初めて外崎さんに会った。飯田さんの先輩であったとは違って、この人はわたくしとよわいあいしくという位で、しかも史学を以て仕えている人である。わたくしはけいがいふるきが如きおもいをした。

 初対面のあいさつが済んで、わたくしは来意をべた。「武鑑」を蒐集している事、「武鑑」に精通していた無名の人の著述が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と渋江とがもしや同人ではあるまいかと思っている事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。



その六[編集]

 とのさきさんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」

 わたくしは釈然とした。

 抽斎渋江道純はけいしししゅうや医籍を渉猟して考証の書をあらわしたばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証のあとを手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』はすなわち「古武鑑」古江戸図の訪古志である。ただ経史子集は世の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一のじょしょうそを得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力なこうずかたまたま一顧するに過ぎないから、その目録はわずかに存して人がらずにいるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館のほうごを受けているのを、せめてものぎょうこうとしなくてはならない。

 わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そしてけいしょや諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹がすこぶるわたくしと相似ている。ただそのあいことなる所は、古今ときことにして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きいしゃべつがある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしはざっぱくなるヂレッタンチスムのきょうがいを脱することが出来ない。わたくしは抽斎にじくじたらざることを得ない。

 抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしのたぐいではなかった。はるかにわたくしにまさったせいしょうの具を有していた。抽斎はわたくしのためにはいけいすべき人である。

 しかるに奇とすべきは、その人がこうくつうきをばかり歩いていずに、往々こみちって行くことをもしたという事である。抽斎はそうざんの経子をもとめたばかりでなく、古い「武鑑」や江戸図をももてあそんだ。もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人のそでよこちょうどぶいたの上でれ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間になじみが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。

 わたくしはこう思う心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎のなんひとなるかを知らずに、漫然抽斎のマニュスクリイのぞうきょしゃたる渋江氏の事蹟を訪ね、そこに先ず『経籍訪古志』をあらわした渋江道純の名を知り、その道純を識っていた人に由って、道純の子孫の現存していることを聞き、ようようこんにち道純と抽斎とが同人であることを知ったというみちゆきを語った。

 外崎さんも事の奇なるに驚いていった。「抽斎の子なら、わたくしは識っています。」

「そうですか。長唄のお師匠さんだそうですね。」

「いいえ。それは知りません。わたくしの知っているのは抽斎の跡を継いだ子で、たもつという人です。」

「はあ。それでは渋江保という人が、抽斎のししであったのですか。今保さんはどこに住んでいますか。」

「さあ。だいぶ久しく逢いませんから、ちょっと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知っているものがありましょうから、近日聞き合せて上げましょう。」



その七[編集]

 わたくしはすぐに保さんの住所をたずねることを外崎さんに頼んだ。保という名は、わたくしは始めて聞いたのではない。これより先、弘前から来た書状のうちに、こういうことを報じて来たのがあった。津軽家に仕えた渋江氏の当主は渋江保である。保は広島の師範学校の教員になっているというのであった。わたくしは職員録を検した。しかし渋江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長しではらたんさんに書をって問うた。しかし学校にはこの名の人はいない。またかつていたこともなかったらしい。わたくしは多くの人に渋江保の名を挙げて問うて見た。中にははくぶんかんの発行した書籍に、この名の著者があったという人が二、三あった。しかし広島にそうせきがなかったので、わたくしはこの報道を疑って追跡を中絶していたのである。

 ここに至ってわたくしは抽斎の子がふたりと、孫がひとりと現存していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかった。

 わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟をつまびらかにしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽のぶまさに召し抱えられた。抽斎はそのすせいそんで、ぶんか中に生れ、あんせい中にぼっした。その徳川いえよしに謁したのはかえい中の事である。墓誌銘は友人かいほぎょそんえらんだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語って、追っててぢかにある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈ろうと約した。わたくしは保さんのありかを捜すことと、このばっすいを作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。

 外崎さんの書状は間もなく来た。それに『まえだぶんせい筆記』、『津軽日記』、『きつめいざつわ』の三書から、抽斎に関する事蹟を抄出して添えてあった。中にも『喫茗雑話』から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしはそのうちに「道純いみな全善、号抽斎、道純そのあざななり」という文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしとませたのだそうである。

 これとほとんど同時に、終吉さんのやや長い書状が来た。終吉さんはふうじゃが急にえぬので、わたくしと会見するにさきだって、渋江氏に関する数件を書いて送るといって、祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をしたおじの住所等を報じてくれた。墓はやなか斎場の向いの横町を西へって、北側のかんのうじにある。そこへけば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけである。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人のはらからの間におさむという人があって、亡くなって、その子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家はすこぶる生計の方向をことにしている。そこで早くを失った終吉さんはおばをたよってゆききをしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。そのうち丁度わたくしが渋江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんのむすめふゆこさんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟のありかを知った。終吉さんが住所を告げてくれた叔父というのが即ち保さんである。ここにおいてわたくしは、外崎さんの捜索をわずらわすまでもなく、保さんの今のうしごめふながわらちょうの住所を知って、すぐにそれを外崎さんに告げた。



その八[編集]

 わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓はたやすく見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立っている。「抽斎渋江君ぼけつめい」というてんがくも墓誌銘も、皆こじませいさいの書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛してさんじょしたものだそうである。『きつめいざつわ』の載する所は三分の一にも足りない。わたくしはまた後にごきゅうせっそうがこの文を『じじつぶんぺんけんの七十二に収めているのを知った。国書刊行会本をけみするに、誤脱はないようである。ただ「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志をうとませてあるのにあきたらなかった。『経籍訪古志』の書名であることは論ずるまでもなく、あれはたきさいていの命じた名だということが、抽斎ともりきえんとの作った序に見えており、訪古のじめんは、『そうしていしょうの伝に、めいざんたいせんあそび、奇を捜しいにしえを訪い、書を蔵する家にえば、必ずしゃくりゅうし、読み尽してすなわち去るとあるのに出たということが、枳園の書後に見えておる。

 墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女ひらのうじしゅつ」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事だそうである。また平野うじの生んだむすめというのは、ひらのぶんぞうむすめいのが、抽斎のににん目のさいになって生んだいとである。勝久さんや終吉さんの亡父おさむはこの文に載せてないのである。

 抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。その一には「性如院宗是日体信士、こうしんげんぶん五年閏七月十七日」と、向って右のかたわらってある。抽斎の高祖父ほしである。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月廿六日」と彫ってある。抽斎の父ただしげである。その間と左とに高祖父と父との配偶、ようせつした允成のむすめふたりほうしが彫ってある。「松峰院妙実日相信女、きちゅう明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、こうじゅつ寛政二年四月十三日」とあるのは、ただしげはじめの妻田中うじ、「寿松院妙遠日量信女、文政十二きちゅう六月十四日」とあるのは、抽斎の生母いわたうじぬい、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年こういん三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「どんげすいし、文化八年しんびじゅん二月十四日」とあるのも、ならびに皆允成のむすめである。その二には「至善院格誠日在、寛保二年じんじゅつ七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年こういん三月十日」と彫ってある。至善院は抽斎の曾祖父いりんで、終事院は抽斎が五十歳の時父にさきだって死んだ長男つねよしである。その三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、てんめいこうしん二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父ほんこうである。「智照院妙道日修信女、寛政四じんし八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻とせである。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、あんえい六年ていゆう五月三日しす、享年十九、俗名千代、りんじゅううたをつくりていわくうんぬんとしてあるのは、登勢の生んだ本皓のむすめである。抽斎の高祖父輔之は男子がなくて歿したので、十歳になるむすめ登勢にむこを取ったのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに歿した。そこへ本皓が養子に来て、登勢の配偶になって、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、渋江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成は本皓の養子である。次にぼうぼうがいしと二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子だそうである。その四には「渋江脩之墓」と刻してあって、これは石が新しい。終吉さんの父である。

 後に聞けば墓は今一基あって、それには抽斎の六せいの祖しんしょうが「寂而院宗貞日岸居士」とし、その妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖しんせいが「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、その妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻ひらのうじが「徧照院妙浄日法大姉」とし、おなじくおかにし氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまったあとに、今の終吉さんの父の墓が建てられたのだそうである。

 わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、こうげたむけて置いて感応寺を出た。

 いでわたくしは保さんをおうと思っていると、たまたまむすめあんぬが病気になった。にちにちかんがにはかよったが、公退の時には家路を急いだ。それゆえ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。

 三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るためにくべからざる資料があった。それのみではない。終吉さんはそのひまに全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語ってもらいたいと頼んだのである。おじ甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。また外崎さんも一度わたくしに代って保さんをおとずれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしがふながわらちょうくに先だって、とうとう保さんが官衙に来てくれて、わたくしは抽斎の嗣子と相見ることを得た。



その九[編集]

 気候は寒くても、まだ炉をく季節にらぬので、火ののない官衙の一室で、卓を隔てて保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎の事を語ってむことを知らなかった。

 今残っている勝久さんと保さんとのあねおとうと、それから終吉さんの父おさむ、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、やまのうちいおの生んだのである。勝久さんは名をくがという。抽斎が四十三、五百が三十二になったこうか四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年にほんじょへ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。

 終吉さんの父脩は安改元年に本所で生れた。なか三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、脩も四歳になっていたのである。

 抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。さいわいに母五百は明治十七年までながらえていて、保さんは二十八歳でうしなったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口からせんこうへいぜいを聞くことを得たのである。

 抽斎は保さんを学医にしようと思っていたと見える。亡くなる前にしたゆいごんによれば、けいかいほぎょそんに、医をたきあんたくに、書をこじませいさいに学ばせるようにいってある。それから洋学については、折を見てらんごを教えるがいといってある。抽斎は友人多紀さいていなどと同じように、すこぶるオランダ嫌いであった。学殖の深かった抽斎が、新奇をう世俗とすうしゃを同じくしなかったのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中にいちかわこだんじの芸を「西洋」だといってある。これはめたのではない。しかるにその抽斎が晩年に至って、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教えることを遺言したのは、あさかごんさいにその著述の写本を借りて読んだ時、翻然として悟ったからだそうである。おもうにその著述というのは『ようがいきりゃく』などであっただろう。保さんは後に蘭語を学ばずに英語を学ぶことになったが、それは時代の変遷のためである。

 わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、わずかに二歳であった保さんが、父に「武鑑」をもらってもてあそんだということを聞いた。それはいずもじばんの「だいみょう武鑑」で、ろぼの道具類に彩色を施したものであったそうである。それのみではない。保さんは父が大きい本箱に「えどかがみ」とはりふだをして、その中に一ぱい古い「武鑑」を収めていたことを記憶している。このコルレクションは保さんの五、六歳の時までさんいつせずにいたそうである。「江戸鑑」の箱があったなら、江戸図の箱もあっただろう。わたくしはここに『えどかんずもくろく』の作られたえんぎを知ることを得たのである。

 わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を、かじょうがきにしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで『独立評論』に追憶談を載せているから、それを見せようと約した。

 保さんと会見してから間もなく、わたくしはたいれいに参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、すぐに保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんからた材料に拠るのである。



その十[編集]

 渋江氏の祖先はしもつけおおたわら家の臣であった。抽斎六世の祖をこざえもんしんしょうという。大田原せいけいせいそうの二代に仕えて、しょうとく元年七月二日に歿した。辰勝の嫡子ちょうこうは家を継いで、大田原政増、せいしょうに仕え、二男しょうちょうは去ってひぜんおおむら家に仕え、三男しんせいおうしゅうの津軽家に仕え、四男しょうきょうは兵学者となった。大村には勝重のく前に、みなもとのよりとも時代から続いている渋江こうぎょうこうえいがある。それと下野から往った渋江氏との関係のゆうむは、なお講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。

 渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国なすごおり大田原の城主たるそうかではなく、そのしほうであろう。宗家は渋江辰勝の仕えたという頃、きよのぶすけきよともきよなどの世であったはずである。大田原家はもと一万二千四百石であったのに、寛文五年にびぜんのかみまさきよしゅぜんたかきよに宗家をがせ、千石をいてばつけを立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今てもとに末家の系譜がないから検することが出来ない。

 辰盛は通称をたひとといって、後こさぶろうと改め、またきろくと改めた。どうりくていはつしてからの称である。医をいまおおじ侍従どうさんげんえんに学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽えっちゅうのかみのぶまさに召し抱えられて、ぎさくきん三枚十人扶持を受けた。元禄十七年はほうえいと改元せられた年である。師道三は故土佐守のぶよしの五女をめとって、信政の姉壻になっていたのである。辰盛は宝永三年に信政にしたがって津軽に往き、四年正月二十八日にちぎょう二百石になり、宝永七年には二度目、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守のぶしげの世になっていた。辰盛はきょうほう十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。でわのかみのぶあきの家をいだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年をくること七十一歳である。この人は三男で他家に仕えたのに、その父母は宗家から来て奉養を受けていたそうである。

 辰盛は兄重光の二男ほしを下野から迎え、養子としてげんさとなえさせ、これに医学を授けた。すなわち抽斎の高祖父である。輔之は享保十四年九月十九日に家を継いで、すぐに三百石をみ、信寿に仕うること二年余の後、信著に仕え、改称して二世道陸となり、元文五年閏七月十七日に歿した。元禄七年のうまれであるから、四十七歳で歿したのである。

 輔之にはとせというむすめひとりしかなかった。そこでやまいすみやかなるとき、しなのの人それがしの子を養ってとなし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であったから、名のみの夫婦である。この女壻がいりんで、抽斎の曾祖父である。為隣はかんぽう元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称のげんしゅんを二世げんさと改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳のびぼうじんとしてのこされた。

 寛保二年に十五歳で、この登勢ににゅうぜいしたのは、むさしのくにおしの人たけのうちさくざえもんの子で、抽斎の祖父ほんこうが即ちこれである。津軽家は越中守のぶやすの世になっていた。ほうれき九年に登勢が二十九歳でむすめちよを生んだ。千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅につなぐべき子で、あまつさえそうけいなので、父母はこれをひとつぶだねと称してしょうあいしていると、十九歳になった安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があって、名をれいとといったが、渋江氏をぐには特に学芸に長じた人が欲しいというので、本皓は令図を同藩の医おのどうしゅうもとへ養子にって、別にけいしを求めた。

 この時ねづみょうがやというりょてんがあった。その主人いながきせいぞうとば稲垣家の重臣で、きみいさめてむねさかい、のがれて商人となったのである。清蔵に明和元年五月十二日生れの嫡男せんのすけというのがあって、六歳にしてしふを善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願っていたので、こころよく許諾した。そこで下野の宗家をかりおやにして、大田原たのも家来ようにん八十石渋江かんざえもん次男という名義で引き取った。専之助名はただしげあざなしれいていしょと号し、おる所のしつようあんといった。通称ははじめげんあんといったが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。儒学はしばのりつざん、医術はよだしょうじゅんの門人で、著述には『ようあんしつぶんこう』、『定所詩集』、『定所雑録』等がある。これが抽斎の父である。



その十一[編集]

 ただしげは才子でびじょうふであった。安永七年三月さくに十五歳で渋江氏に養われて、当時ちょくんであった、二つの年上の出羽守のぶあきらに愛せられた。養父ほんこうの五十八歳で亡くなったのが、天明四年二月二十九日で、信明のしゅうほうと同日である。信明はもう土佐守と称していた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。

 寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日にわさぶろうやすちかが支封からって宗家を継いだ。後に越中守と称した人である。寧親は時に二十七歳で、允成は一つ上の二十八歳である。允成は寧親にもしんじつして、ほとんけいていの如くに遇せられた。へいぜいきだけ四尺のて、体重が二十貫目あったというから、その堂々たるそうぼうが思い遣られる。

 当時津軽家にしずえというおんなごしょうが勤めていた。それが年老いての後に剃髪してみょうりょうにと号した。妙了尼が渋江家にきぐうしていた頃、おかしい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中たちが争ってそのちゃわんの底のよれきを指にけてねぶるので、自分も舐ったというのである。

 しかし允成は謹厳な人で、じょしょくなどは顧みなかった。最初の妻田中氏は寛政元年八月二十二日にめとったが、これには子がなくて、翌年四月十三日に亡くなった。次に寛政三年六月四日に、よりあいとだまさごろう家来なんどやく金七両十二人扶持かわさきじょうすけむすめを迎えたが、これは四年二月にいつというむすめを生んで、逸が三歳でようせつした翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成のれたしつは、しもうさのくにさくらの城主ほったさがみのかみまさよりの臣、いわたちゅうじの妹ぬいで、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。

 縫は享和二年に始めてすまというむすめを生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、るすいとしよりさのぶぜんのかみまさちかいいだしろうざえもんよしきよに嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これからのちには文化八年じゅん二月十四日にむすめが生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなった。かんのうじの墓にどんげすいしと刻してあるのがこのむすめほうしである。

 ただしげは寧親の侍医で、津軽藩邸に催されるつきなみ講釈の教官を兼ね、けいがくと医学とを藩の子弟に授けていた。三百石十人扶持のせいろくの外に、寛政十二年からつとめりょう五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加え、八年にまた五人扶持を加えられて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。なか二年置いて文化十一年にいちりゅうきんたんを調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で、まいげつ百両以上の所得になったのである。

 允成はおもてむき侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任をこうむることが厚かったので、人のあえて言わざる事をも言うようになっていて、しばしばいさめてしばしばかれた。寧親は文化元年五月連年えぞちの防備に任じたというかどを以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。いわゆる津軽家のおんのりだしがこれである。五年十二月にはなんぶ家と共に永く東西蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、じゅ四位に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当って、允成がけいよくの功も少くなかったらしい。

 允成は文政五年八月さくに、五十九歳で致仕した。抽斎が十八歳の時である。次いで寧親も八年四月に退隠して、詩歌はいかいしょうけんの具とし、歌会にはなるしましちょくなどを召し、詩会には允成を召すことになっていた。允成はてんぽう二年六月からは、出羽国かめだの城主いわきいよのかみたかひろに嫁したのぶゆきの姉もと姫に伺候し、同年八月からはまた信順の室かねひめづきを兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになったのは、これらのためであろう。中一年置いて四年四月朔に、隠居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。

 允成は天保八年〈[#「天保八年」は底本では「天保八月」]〉十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻ぬいは、文政七年七月朔に剃髪してじゅしょうといい、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなった。夫にさきだつこと八年である。



その十二[編集]

 抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたとたもつさんがいう。これは母いおの話を記憶しているのであろう。父ただしげは四十二歳、母ぬいは三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋というのは橋の名ではなくて町名である。当時のえどぶんけんおおえずというものをけみするに、いずみばしあたらしばしとの間のやなぎはらどおりの少し南に寄って、西から東へ、おたまいけまつえだちょう、弁慶橋、もとやなぎはらちょうさくまちょうしけんちょうやまとちょうとしまちょうという順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡って、少し東へかたよって行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になっている。この通のひがしどなりの筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。わたくしがふじかわゆうさんに借りた津軽家の医官の宿直日記によるに、ただしげは天明六年八月十九日に豊島町どおりよこちょうかまくら横町いえぬしいえもんたなを借りた。この鎌倉横町というのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、きたかたかしに寄った所にある。允成がこのたなを借りたのは、その年正月二十二日に従来住んでいた家が焼けたので、しばらたきけいざんもとに寄宿していて、八月に至って移転したのである。その従来住んでいた家も、余り隔たっていぬ和泉橋附近であったことは、日記の文から推することが出来る。次に文政八年三月みそかに、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したということが、日記に見えている。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、ただ東西りょうそくが名を異にしているに過ぎない。おもうに渋江うじは久しく和泉橋附近に住んでいて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移ったのであろう。この元柳原町六丁目の家は、拍斎の生れた弁慶橋の家と同じであるかも知れぬが、あるいは抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にいて、その後文政八年に至るまでの間に、むかいがわの元柳原町に移ったものと考えられぬでもない。

 抽斎はおさななつねきちといった。故越中守のぶやすの夫人しんじゅいんがこの子を愛して、当歳の時から五歳になった頃まで、ほとんど日ごとに召し寄せて、そばきぎするのを見てたのしんだそうである。美丈夫允成にかれんじであったものと想われる。

 しまの稲垣氏のかせいは今つまびらかにすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくはそうぼうの立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。この身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じていなくてはならない。わたくしはここに清蔵が主を諫めて去った人だという事実に注目する。次にのち允成になった神童専之助をいだす清蔵の家庭が、尋常の家庭でないという推測を顧慮する。彼は意志の方面、これちのうの方面で、この両方面における遺伝的系統をたずぬるに、抽斎の前途は有望であったといってもかろう。

 さてその抽斎が生れて来たきょうがいはどうであるか。允成のにわおしえが信頼するに足るものであったことは、言をたぬであろう。オロスコピイは人の生れた時のせいしょうを観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界のれっしゅくを数えて見たい。しかし観察がいたずらひろきに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察することとしたい。即ち抽斎の師となり、また年上の友となる人物である。抽斎から見てのたいこである。

 抽斎の経学の師には、先ずいちのめいあんがある。次はかりやえきさいである。医学の師にはいさわらんけんがある。次は抽斎が特に痘科を学んだいけだけいすいである。それから抽斎がまじわった年長者は随分多い。儒者または国学者にはあさかごんさいこじませいさいおかもときょうさいかいほぎょそん、医家にはたきほんばつ両家、なかんずくさいてい、伊沢蘭軒の長子しんけんがいる。それから芸術家および芸術批評家にたにぶんちょうながしまごろさくいしづかじゅうべえがいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世にづるを待ち受けていたようなものである。



その十三[編集]

 他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々のうちには、現にあまねく世に知れわたっているものが少くない。それゆえわたくしはここに一々その伝記をさしはさもうとは思わない。ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるにあずかって力ある長者のルヴュウをして見たいというに過ぎない。

 市野迷庵、名をこうげん、字をしゅんけいまたしほうといい、初めうんそう、後迷庵と号した。その他すいどうふにんちぎょ等の別号がある。抽斎の父允成がすいどうのせつを作ったのが、『ようあんしつぶんこう』に出ている。通称はさんえもんである。六せいの祖ちょうこうが伊勢国しろこから江戸に出て、神田佐久間町にしちみせを開き、屋号をみかわやといった。当時の店は弁慶橋であった。迷庵の父こうきが、かづきうじめとって迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になっていた。

 迷庵は考証学者である。即ち経籍のこはんぼん、古抄本をさぐもとめて、そのテクストをけみし、比較考勘する学派、クリチックをする学派である。この学は源をみとよしだこうとんに発し、棭斎がそののちけて発展させた。篁墩は抽斎の生れる七年前に歿している。迷庵が棭斎らと共に研究した果実が、後に至って成熟して抽斎らの『ほうこし』となったのである。この人が晩年に『ろうし』を好んだので、抽斎もどうしの人となった。

 狩谷棭斎、名はぼうしあざなけいうん、棭斎はその号である。通称をさんえもんという。家はゆしまにあった。今の一丁目である。棭斎の家は津軽のようたしで、津軽屋と称し、棭斎は津軽家の禄千石をみ、めみえしょしばっせきに列せられていた。先祖はみかわのくにかりやの人で、江戸に移ってから狩谷氏を称した。しかし棭斎は狩谷ほうこの代にこの家に養子に来たもので、実父はたかはしこうびん、母は佐藤氏である。安永四年のうまれで、抽斎の母ぬいと同年であったらしい。果してそうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵よりはとおわかかったのだろう。抽斎の棭斎に師事したのは二十余歳の時だというから、恐らくは迷庵をうしなって棭斎にいたのであろう。迷庵の六十二歳で亡くなった文政九年八月十四日は、抽斎が二十二歳、棭斎が五十二歳になっていた年である。迷庵も棭斎も古書を集めたが、棭斎は古銭をも集めた。かんだいごぶつを蔵してろっかんどうじんと号したので、人がいちぶつ足らぬではないかとなじった時、今一つは漢学だと答えたという話がある。抽斎も古書や「古武鑑」を蔵していたばかりでなく、やはりこせんへきがあったそうである。

 迷庵と棭斎とは、ねんしもって論ずれば、彼が兄、これが弟であるが、考証学の学統から見ると、棭斎が先で、迷庵がのちである。そしてこの二人の通称がどちらも三右衛門であった。世にこれを文政の六右衛門と称する。抽斎は六右衛門のどちらにも師事したわけである。

 六右衛門の称はすこぶる妙である。しかるに世の人は更にひとりの三右衛門を加えて、三三右衛門などともいう。この今一人の三右衛門はきたうじ、名はしんげん、字はゆうわばいえんまたせいろと号し、る所をしとうしょおくと名づけた。その氏の喜多を修してほく慎言とも署した。しんばしこんぱる屋敷に住んだ屋根ふきで、屋根屋三右衛門が通称である。もとしばの料理店すずきせがれさだじろうで、屋根屋へは養子に来た。わかい時狂歌を作ってあみのはそんはりがねといっていたのが、後はくしょうを以て聞えた。嘉永元年三月二十五日に、八十三歳で亡くなったというから、抽斎の生れた時には、その師となるべき迷庵と同じく四十一歳になっていたはずである。この三右衛門が殆ど毎日往来したおやまだともきよの『ようしょろう日記』を見れば、文化十二年に五十一歳だとしてあるから、この推算は誤っていないつもりである。しかしこの人を迷庵棭斎とあわせ論ずるのは、少しくせいじんのいわゆる髪をつかんで引き寄せた趣がある。屋根屋三右衛門と抽斎との間には、交際がなかったらしい。



その十四[編集]

 後に抽斎に医学を授ける人は伊沢蘭軒である。名はしんてん、通称はじあんという。伊沢うじそうかちくぜんのくにふくおかの城主くろだけの臣であるが、蘭軒はその分家で、びんごのくに福山の城主あべいせのかみまさともの臣である。文政十二年三月十七日に歿して、享年五十三であったというから、抽斎の生れた時二十九歳で、ほんごうまさごちょうに住んでいた。阿部家は既にびっちゅうのかみまさきよの世になっていた。蘭軒が本郷丸山の阿部家の中屋敷に移ったのは後の事である。

 阿部家はついで文政九年八月にだいがわりとなって、伊予守まさやすほういだから、蘭軒は正寧の世になったのちあしかけ四年阿部家のやかたいでいりした。その頃抽斎の四人目の妻いおの姉が、正寧のしつなべしまうじの女小姓を勤めてきんごと呼ばれていた。この金吾の話に、蘭軒はあしなえであったので、かんないれんに乗ることを許されていた。さて輦から降りて、ほふくしてくんそくに進むと、阿部家の奥女中が目を見合せて笑った。あるひ正寧がたまたまこの事を聞き知って、「辞安は足はなくても、腹がににんまえあるぞ」といって、女中を戒めさせたということである。

 次は抽斎のとうかの師となるべき人である。池田氏、名はいんあざなかちょう、通称はずいえいけいすいと号した。

 がんらいほうそうを治療する法は、久しく我国には行われずにいた。病が少しく重くなると、尋常の医家は手をつかねてぼうかんした。そこへじょうおう二年にたいまんこうが支那から渡って来て、不治の病をし始めた。きょうていけんそうとする治法を施したのである。曼公、名はりつこうしゅうじんわけんの人で、曼公とはそのあざなである。みんばんれき二十四年のうまれであるから、長崎に来た時は五十八歳であった。曼公がすおうのくにいわくにに足を留めていた時、池田すうざんというものが治痘の法を受けた。嵩山はきっかわ家の医官で、名をせいちょくという。せんそかばのかんじゃのりよりから出て、よよいずもにおり、いくた氏を称した。正直のすせいの祖しんちょうが出雲から岩国にうつって、はじめて池田氏にあらためたのである。正直の子がしんし、信之の養子がせいめいで、皆曼公の遺法を伝えていた。

 然るに寛保二年に正明が病んでまさに歿せんとする時、その子どくびわずかに九歳であった。正明は法を弟まきもとぼうせんおうに伝えて置いてめいした。そのうち独美は人と成って、詮応に学んで父祖の法を得た。宝暦十二年独美は母を奉じてあきのくにいつくしまに遷った。厳島に疱瘡がさかんに流行したからである。安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪にき、にしほりえりゅうへいばしほとりに住んだ。この時独美は四十四歳であった。

 独美は寛政四年に京都に出て、ひがしのとういんに住んだ。この時五十九歳であった。八年に徳川いえなりされて、九年に江戸にり、するがだいに住んだ。この年三月独美はせいじゅかんで痘科を講ずることになって、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。

 抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。いがいむこうじまこうめむられいしょうじに葬られた。

 独美、字はぜんけい、通称はずいせんきんきょうまたせんおうと号した。その蟾翁と号したには面白い話がある。独美は或時大きいがまを夢に見た。それから『ほうぼくし』を読んで、その夢をしょうずいだと思って、蝦蟇のをかき、蝦蟇の彫刻をして人に贈った。これが蟾翁の号の由来である。



その十五[編集]

 池田独美には前後三人の妻があった。安永八年に歿したみょうせん、寛政二年に歿したじゅけい、それから嘉永元年まで生存していたほうしょういんりょくほうである。緑峰はひしたにうじさい氏に養われて独美に嫁したのが、独美の京都にいた時の事である。三人とも子はなかったらしい。

 独美が厳島から大阪にうつった頃しょうがあって、一男二女を生んだ。だんは名をぜんちょくといったが、多病で業を継ぐことが出来なかったそうである。二女はちょうちしゅうおくりなした。寛政二年に歿している。次はちずいと諡した。寛政九年に夭折している。この外に今一人独美の子があって、鹿児島に住んで、その子孫が現存しているらしいが、この家の事はまだこれをつまびらかにすることが出来ない。

 独美の家は門人の一人が養子になっていで、二世瑞仙と称した。これはこうずけのくにきりゅうの人むらおかぜんざえもんじょうしんの二男である。名はしんあざなじゅうこう、またちょくけいむけいと号した。せいじゅかんの講座をもこの人が継承した。

 初め独美はまんこうの遺法を尊重するあまりに、これを一子相伝にとどめ、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にいた時、人がいさめていうには、いちにんく救う所にはかぎりがある、良法があるのにこれを秘して伝えぬのは不仁であるといった。そこで独美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取った。それから門人が次第にえて、歿するまでには五百人をえた。二世瑞仙はその中から簡抜せられてめいれいしとなったのである。

 独美の初代瑞仙はもとげんけの名閥だとはいうが、すおうの岩国から起って幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となった。それに業を継ぐべき子がなかったので、門下の俊才がってのちを襲った。にわかに見れば、なんのあやしむべき所もない。

 しかしここに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田けいすいである。

 京水は独美の子であったか、おいであったか不明である。向島嶺松寺に立っていた墓に刻してあった誌銘には子としてあったらしい。然るに二世瑞仙しんの子ちょくおんの撰んだかこちょうには、独美の弟げんしゅんの子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ、独美の血族たる京水は宗家をぐことが出来ないで、自立してまちいになり、したやかちまちもんこを張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立していたのである。

 種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、ろうを恐れ、がんを恐れ、らいを恐るるよりも甚だしく、その流行のさかんなるに当っては、社会は一種のパニックに襲われた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般医学を蘭軒に受けたのち、特に痘科を京水に学ぶことになった。丁度近時の医が細菌学や原虫学や生物化学を特修すると同じ事である。

 池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであったか。従来痘は胎毒だとか、えけつだとか、こうてんしどくだとかいって、諸家はおのおのその見る所に従って、諸証を攻むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、いわゆる八証四節三項を分ち、へんぺきの治法をしりぞけた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。



その十六[編集]

 わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えてけいすいに及ぶに当って、ここに京水のしんしょうに関するうたがいしるして、世の人のおしえを受けたい。

 わたくしは今これを筆にのぼするに至るまでには、文書を捜り寺院をい、また幾多の先輩知友をわずらわして解決を求めた。しかしそれはおおむね皆いたずらごとであった。なかんずくうらみとすべきは京水の墓のしっそうした事である。

 最初にわたくしに京水の墓の事を語ったのはたもつさんである。保さんは幼い時京水の墓にもうでたことがある。しかし寺の名は記憶していない。ただ向島であったというだけである。そのうちわたくしは富士川ゆうさんに種々の事を問いにった。富士川さんがこれに答えた中に、京水の墓は常泉寺のかたわらにあるという事があった。

 わたくしは幼い時むこうじま小梅村に住んでいた。はじめの家は今すさきちょうになり、のちの家は今小梅町になっている。そののちの家から土手へくには、いつも常泉寺の裏からみとやしきの北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。

 わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。まくらばしを北へ渡って、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内のまつじの庭にある墓をも一つ一つ検した。にちれんしゅうの事だから、江戸のいちびとの墓が多い。知名の学者では、あさかわぜんあんいっけの墓が、本堂の西にあるだけである。本堂の東南にある末寺に、池田氏の墓が一基あったが、これは例の市人らしく、しかも無縁同様のものと見えた。

 そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作ったもので、いろは順にだんかうじが列記してある。いの部には池田氏がない。末寺の墓地にある池田氏の墓は果して無縁であった。

 わたくしはむなしくかえって、先ずきょうじんみやさきさきまろさんを介して、とうけいの墓の事にくわしいたけだしんけんさんに問うてもらったが、武田さんは知らなかった。

 そのうちわたくしは『事実文編』四十五にむけいの撰んだ池田行状のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、その墓が向島嶺松寺にあることをしるしてある。もと嶺松寺にはたいまんこうひょうせきがあって、瑞仙はそのかたわらに葬られたというのである。向島にいたわたくしも嶺松寺という寺は知らなかった。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水もあるいはそこに葬られたのではあるまいかと推量した。

 わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間をはいかいして捜索したが、嶺松寺という寺はない。わたくしは絶望してくびすめぐらしたが、道のついでなので、須崎町こうふくじにある先考の墓に詣でた。さて住職おくだぼくじゅう師をとぶらってきゅうかつじょした。対談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にもふたつながらこれを知っていた。

 墨汁師はいった。嶺松寺は常泉寺の近傍にあった。そのしんいき内に池田氏の墓が数基並んで立っていたことを記憶している。墓には多く誌銘が刻してあった。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になったというのである。わたくしはこれを聞いて、先ず池田氏の墓を目撃した人をふたりまでたのを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。

「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。

「墓は檀家がそれぞれ引き取って、外の寺へ持って行きます。」

「檀家がなかったらどうなりますか。」

「無縁の墓は共同墓地へうつす例になっています。」

「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家ののちは今どうなっているかわかりませんか。」こういってわたくしはぶぜんとした。



その十七[編集]

 わたくしは墨汁師にいった。池田瑞仙の一族は当年の名医である。その墓のゆくえは探討したいものである。それにたいまんこうの表石というものも、もし存していたら、名蹟の一に算すべきものであろう。嶺松寺にあった無縁の墓は、どこの共同墓地へうつされたか知らぬが、もしそれがわかったなら、尋ねにきたいものであるといった。

 墨汁師も首肯していった。戴氏どくりゅうの表石の事ははじめて聞いた。池田氏の上のみではない。自分もおうばくいはつを伝えた身であって見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはいられない。想うに独立は寛文中九州から師いんげんを黄檗山にせいしにのぼる途中でじゃくしたらしいから、江戸には墓はなかっただろう。嶺松寺の表石とはどんな物であったか知らぬが、あるいはがはつとうたぐいででもあったか。それはともかくも、その石の行方も知りたい。心当りのむきむきへ問い合せて見ようといった。

 わたくしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年のはじめになった。墨汁師の新年の書信に問合せの結果がしるしてあったが、それはすこぶおぼつかないこうふんであった。嶺松寺の廃せられた時、その事にあずかった寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家がなかったらしい。当時無縁の墓を遷した所は、そめい共同墓地であった。独立の表石というものはたれも知らないというのである。

 これでは捜索の前途には、殆どすこしの光明をも認めることが出来ない。しかしわたくしはねんばらしのために、染井へ尋ねにった。そして墓地の世話をしているという家を訪うた。

 墓にまいる人にしきみせんこうを売り、また足を休めさせて茶をも飲ませる家で、三十ばかりのかしこそうなおかみさんがいた。わたくしはこの女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名にはいうが、その地面にはせいぜんたる区画があって、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家のうちには池田という家はない。池田という檀家がないから、池田という人の墓のありようがないというのである。

「それでも新聞に、ゆきだおれがあったのを共同墓地に埋めたということがあるではありませんか。そうして見れば檀家のない仏のく所があるはずです。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあった寺がとりはらいになって、こっちへ持って来られた仏です。そういう時、石塔があれば石塔も運んで来るでしょう。それをわたくしは尋ねるのです。」こういってわたくしは女の毎区有主説にはんばくを試みた。

「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建ててる人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たということは、聞いたこともございません。つまりそんな所には石塔なんぞは一つもないのでございます。」

「でもわたくしはせっかく尋ねに来たものですから、そこへ往って見ましょう。」

「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがおうけあい申しますから。」こういって女は笑った。

 わたくしもげにもと思ったので、墓地には足をれずに引き返した。

 女のことには疑うべき余地はない。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいような気がした。そこで帰途に町役場に立ち寄って問うた。町役場の人は、墓地の事は扱わぬから、本郷区役所へ往けといった。

 町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かっていた。そこでわたくしは思い直した。廃寺になった嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかったことは明白である。それを区役所に問うのは余りにおろかであろう。むしろ行政上無縁の墓のとりしまりがあるか、もしあるなら、どう取り締まることになっているかということを問うにくはない。その上今から区役所に往った所で、当直の人に墓地の事を問うのはかいのない事であろう。わたくしはこう考えて家にかえった。



その十八[編集]

 わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だということを知った。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、また警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになっているかということを問うてもらった。

 府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳ともいうべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺という寺は載せてないらしかった。その廃絶に関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のためにぼけつを搬出するときには警官を立ち会わせる。しかしそれはうえんのものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したということを届けでさせるにとどまるそうである。

 そうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地にうつされたというのは、遷したという一紙のとどけしょが官庁に呈せられたに過ぎぬかも知れない。しょせん今になってたいまんこうの表石や池田氏の墓碣のそうせきを発見することは出来ぬであろう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。

 とかくするうちに、わたくしが池田けいすいの墓を捜し求めているということ、池田氏の墓のあった嶺松寺が廃絶したということなどが『東京朝日新聞』の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知ったものであろう。雑報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を掛けていった。自分はかつて府庁にいたものである。その頃無税地たんべつちょうという帳簿があった。もしそれがなお存しているなら、嶺松寺の事が載せてあるかも知れないというのである。わたくしは無名の人のことに従って、人に託して府庁にただしてもらったが、そういう帳簿はないそうであった。

 この事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教をうた人はすこぶる多い。はじめにはわたくしは墓誌を読まんがために、墓の所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齢だけなりとも知ろうとした。わたくしは抽斎の生れた年に、いちのめいあんが何歳、かりやえきさいが何歳、いさわらんけんが何歳ということを推算したと同じく、京水の年齢をも推算して見たく、もしまた数字を以て示すことが出来ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれをそんたくして見たかったのである。

 諸家のうちでも、とがわざんかさんはわたくしのためにたけだしんけんさんに問うたり、なんき文庫所蔵の書籍を検したりしてくれ、くれしゅうぞうさんは医史の資料について捜索してくれ、おおつきふみひこさんはにょでんさんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によって知ったが、恐らくは郷土史のしこうあるがために、踏査の労をさえいとわなかったのであろう。ただうらむらくもわたくしはいたずらにこれらの諸家を煩わしたに過ぎなかった。

 これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあったのは、富士川游さんと墨汁師とのおかげである。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家をうた。そしてこういうことを聞いた。富士川さんはせきねん日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓にもうでた。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓について親しく抄記したものだというのである。おしむらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写して置かなかった。また嶺松寺という寺号をも忘れていた。それゆえわたくしに答えた書に常泉寺のかたわらしるしたのである。ここにおいてかつて親しく嶺松寺ちゅうひけつた人が三人になった。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんはいんめつの期にせまっていた墓誌銘の幾句を、図らずも救抜してくれたのである。



その十九[編集]

 こうふくじの現住墨汁師は大正五年にってからも、捜索の手をとどめずにいた。そしてとうとうしもめぐろかいふくじ所蔵の池田氏かこちょうというものを借り出して、わたくしに見せてくれた。帖は表紙を除いて十五枚のものである。表紙にはいくたうじ中興池田氏過去帖慶応紀元季秋の十七字が四行に書してある。ばつぶんを読むに、この書は二世ずいせんしんの子ちょくおんあざなしとくが、慶応元年九月六日に、初代瑞仙独美の五十年きしんあたって、あらたに歴代のいはいを作り、あわせてこれをさんきして、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。

 この書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、その墓所はあるいは注してあり、あるいは注してない。ぶんみょうに嶺松寺に葬る、または嶺寺に葬ると注してあるのは初代瑞仙、その妻さいうじ、二代瑞仙、その二男こうのすけ、二代瑞仙の兄しんいちの五人に過ぎない。しかし既にけいすいの墓が同じ寺にあったとすると、かちまちの池田氏の人々の墓もこの寺にあっただろう。要するに嶺松寺にあったという確証のある墓は、この書に注してあるするがだいの池田氏の墓五基と、京水の墓とで、合計六基である。

 この書のする所は、わたくしのためにそうぶんに属するものがすこぶる多い。なかんずくとすべきは、独美にげんしゅんという弟があって、それが宇野氏をめとって、二人の間に出来た子が京水だといういちじである。この書にれば、独美はいったんてつ京水を養って子として置きながら、それに家をがせず、更に門人むらおかしんを養って子とし、それに業を継がせたことになる。

 然るに富士川さんの抄した墓誌には、京水は独美の子で廃せられたと書してあったらしい。しかもその廃せられたゆえんを書して放縦ふきにして人にれられず、ついに多病を以て廃せらるといってあったらしい。

 両説は必ずしも矛盾してはいない。独美は弟玄俊の子京水を養って子とした。京水がほうとうであった。そこで京水を離縁して門人晋を養子に入れたとすれば、その説通ぜずというでもない。

 しかし京水がのちく自ら樹立して、その文章事業が晋に比してごうそんしょくのないのを見るに、この人の凡庸でなかったことは、推測するにかたくない。著述の考うべきものにも、『とうかきょよう』二巻、『痘科けんかいつう』一巻、『痘科けんしこう』五巻、抽斎をして筆授せしめた『ごとうようほう』一巻がある。養父独美がること尋常とうしの如くにして、これをうことをおしまなかったのは、恩少きに過ぐというものではあるまいか。

 かつわたくしは京水の墓誌がなにひとせんぶんに係るかを知らない。しかし京水が果して独美のてつであったなら、たとい独美が一時養って子となしたにもせよ、ただちに瑞仙の子なりと書したのはいかがのものであろうか。富士川さんの如きも、『日本医学史』に、墓誌に拠って瑞仙の子なりと書しているのである。また放縦だとか廃嗣だとかいうことも、かくの如くに書したのが、墓誌としてたいを得たものであろうか。わたくしは大いにこれを疑うのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、その撰者をつまびらかにすることを得ざるのをうらみとする。

 わたくしはひとり撰者不詳の京水墓誌を疑うのみではない。また二世瑞仙晋の撰んだ池田行状をも疑わざることを得ない。文は載せて『事実文編』四十五にある。

 行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年いつぼう五月二十二日に生れ、文化十三年へいし九月六日に歿した。然るに安永六年ていゆうに四十、寛政四年じんしに五十五、同九年ていしに六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。よわいするごとに、ほとんど必ずたがっているのはなにゆえであろうか。ちなみにいうが過去帖にもまた齢八十三としてある。そこでわたくしはこの八十三より逆算することにした。



その二十[編集]

 しんの撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子ぜんちょくというものを挙げて、「やまいおおくぎょうをつぐあたわず」と書してある。その前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四げんの多きに及んである。瑞仙は痘をすることの難きを説いて、「数百之でしよくじゅくとくせるものなし」といい、晋を賞して、「しこうしてなんじよくわがぎょうをつぐ」といっている。

 わたくしはいまだ過去帖を獲ざる前にこれを読んで、善直は京水のはじめの名であろうと思った。京水の墓誌に多病を以てを廃せらるというように書してあったというのと、符節はあわするようだからである。過去帖に従えば、庶子善直とてつ京水とは別人でなくてはならない。しかし善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかといううたがいが、今にいたるまでいまだ全くわたくしのかいを去らない。特にかの過去帖に遠近のしんせき百八人が挙げてあるのに、初代瑞仙のただ一人の実子善直というものがこんせきをだにとどめずに消滅しているという一事は、この疑を助長するなかだちとなるのである。

 そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水がそしってあるのを見ては、きたんなきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語をして、一の抑損の句をもけぬのを見ては、かんごうもまた甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、京水の三人の間に或るドラアムが蔵せられているように思われてならない。わたくしの世の人に教を乞いたいというのはこれである。

 わたくしは抽斎の誕生を語るに当って、のちにその師となるべき人々を数えた。それは抽斎の生れた時、四十一歳であった迷庵、三十一歳であったえきさい、二十九歳であった蘭軒の三人と、京水とであって、独り京水は過去帖を獲るまでそのよわいを算することが出来なかった。なぜというに、京水の歿年が天保七年だということは、保さんが知っていたが、ねんしに至っては全く所見がなかったからである。

 過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、あざなしんけいといって寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。ほうししてそうけいけん京水ずいえいこじという。

 これに由ってれば、京水は天明六年のうまれで、抽斎の生れた文化二年には二十歳になっていた。抽斎の四人の師のうちでは最年少者であった。

 後に抽斎とまじわる人々の中、抽斎にさきだって生れた学者は、あさかごんさい、小島成斎、岡本きょうさい、海保漁村である。

 安積艮斎は抽斎とのまじわりが深くなかったらしいが、抽斎をしてせいがくを忌む念をひるがえさしめたのはこの人の力である。艮斎、名はしげのぶ、修してしんという。通称はゆうすけである。奥州こおりやまはちまんぐうしかんあんどうちくぜんちかしげの子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村のりせいいまいずみうじの壻になって、妻に嫌われ、翌年江戸にはしった。しかしたれにたよろうというあてもないので、うろうろしているのを、日蓮宗の僧にちみょうが見附けて、ほんじょばんばちょうみょうげんじへ連れて帰って、すうげつめて置いた。そして世話をしてさとういっさいの家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立っている寺である。それから二十一歳にしてはやしじゅっさいの門にった。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。そうして見ると、抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であった。これは艮斎がまんえん元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。

 小島成斎名はちそくあざなしせつ、初め静斎と号した。通称は五一である。棭斎の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表にぶんきゅう二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年にははじめて十歳である。父しんぞうが福山侯あべ備中守まさきよに仕えていたので、成斎も江戸の藩邸に住んでいた。



その二十一[編集]

 岡本况斎、名はほうこう、通称は初めかんえもん、後ぬいのすけであった。せつせいどうの別号がある。幕府の儒員に列せられた。『じゅんし』、『かんぴし』、『えなんじ』等の考証を作り、かたわら国典にも通じていた。明治十一年四月までながらえて、八十二歳で歿した。寛政九年のうまれで、抽斎の生れた文化二年にはわずかに九歳になっていたはずである。

 海保漁村、名はげんびあざなじゅんけい、また名はきし、字はしゅんのうともいった。通称はしょうのすけでんけいろの別号がある。寛政十年にかずさのくにむさごおりきたしみずむらに生れた。老年に及んでけいせいじゅかんに講ずることになった。慶応二年九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽斎の生れた文化二年には八歳だから、郷里にあって、父きょうさいくとうを授けられていたのである。

 即ち学者の先輩は艮斎が十六、成斎がとお、况斎が九つ、漁村が八つになった時、抽斎は生れたことになる。

 次に医者の年長者には先ずたきの本家、ばつけを数える。本家ではけいざん、名は元かん、字はれんふが、抽斎の生れた文化二年には五十一歳、その子りゅうはん、名はいん、字はえききが十七歳、末家ではさいてい、名はげんけん、字はえきじゅうが十一歳になっていた。桂山は文化七年十二月二日に五十六歳で歿し、柳沜は文政十年六月三日に三十九歳で歿し、茝庭は安政四年二月十四日に六十三歳で歿したのである。

 このうち抽斎の最も親しくなったのは茝庭である。それから師伊沢蘭軒の長男しんけんもほぼ同じ親しさの友となった。榛軒、通称はちょうあん、後いちあんと改めた。文化元年に生れて、抽斎にはただ一つの年上である。榛軒は嘉永五年十一月十七日に、四十九歳で歿した。

 年上の友となるべき医者は、抽斎の生れた時十一歳であった茝庭と、二歳であった榛軒とであったといってもい。

 次は芸術家および芸術批評家である。芸術家としてここに挙ぐべきものはたにぶんちょういちにんに過ぎない。文晁、もと文朝に作る、通称はぶんごろうちはつしてぶんあみといった。しゃざんろうががくさい、その他の号は人の皆知る所である。初めかのう派のかとうぶんれいを師とし、後きたやまかんがんに従学して別に機軸をいだした。天保十一年十二月十四日に、七十八歳で歿したのだから、抽斎の生れた文化二年には四十三歳になっていた。ににんねんしの懸隔は、おおむね迷庵におけると同じく、抽斎はをも少しく学んだから、この人は抽斎の師のうちに列する方が妥当であったかも知れない。

 わたくしはここにましやごろさくいしづかじゅうべえとを数えんがために、芸術批評家のもくを立てた。二人は皆劇通であったから、かくの如くに名づけたのである。あるいはおもうに、批評家といわんよりは、むしろアマトヨオルというべきであったかも知れない。

 抽斎がのち劇を愛するに至ったのは、当時の人のまなこよりれば、一のへきこうであった。どうらくであった。ただに当時においてしかるのみではない。かくの如くに物を観るまなこは、今もなお教育家等の間に、前代の遺物として伝えられている。わたくしはかつて歴史の教科書に、ちかまつたけだの脚本、ばきんきょうでんの小説が出て、風俗のたいはいを致したと書いてあるのを見た。

 しかし詩の変体としてこれをれば、脚本、小説の価値も認めずには置かれず、脚本にって演じいだす劇も、高級芸術として尊重しなくてはならなくなる。わたくしが抽斎の心胸を開発して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを学者、医者、画家の次に数えるのは、好む所におもねるのではない。



その二十二[編集]

 真志屋五郎作は神田しんこくちょうの菓子商であった。みとけまかないかたを勤めた家で、ある時代からゆえあってせいろく三百俵を給せられていた。こうせつには水戸侯と血縁があるなどといったそうであるが、どうしてそんな説がるふせられたものか、今考えることが出来ない。わたくしはただふうさいかったということを知っているのみである。保さんの母いおの話に、五郎作はにがみばしったい男であったということであった。菓子商、ようたしの外、この人は幕府のれんがしの執筆をも勤めていた。

 五郎作は実家がえまうじで、一時ながしま氏をおかし、真志屋の西村氏をぐに至った。名はしゅうほうあざなとくにゅうくうげげっしょにょぜえんあん等と号した。へいぜい用いたかおうは邦の字であった。ていはつして五郎作しんぼっちとうよういんじゅあみだぶつどんちょうと称した。曇奝とは好劇家たる五郎作が、おんにかよった劇場のどんちょうと、にゅうそうちょうねんの名などとを配合して作ったげごうではなかろうか。

 五郎作はげきしんせんの号をたからだじゅらいけて、後にこれを抽斎に伝えた人だそうである。

 宝田寿来、通称はきんのすけ、一にかんがと号した。『作者たなおろし』という書に、宝田とはもと神田よりでたる名と書いてあるのを見れば、まことうじではなかったであろう。じょうるりせき』はこの人の作だそうである。寛政六年八月に、五十七歳で歿した。五郎作が二十六歳の時で、抽斎の生れる十一年前である。これが初代劇神仙である。

 五郎作は歿年から推算するに、明和六年のうまれで、抽斎の生れた文化二年には三十七歳になっていた。抽斎から見ての長幼の関係は、師迷庵や文晁におけると大差はない。嘉永元年八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽斎がこの二世劇神仙ののちいで三世劇神仙となったのは、四十四歳の時である。初め五郎作は抽斎の父ただしげと親しくまじわっていたが、允成は五郎作にさきだつこと十一年にして歿した。

 五郎作は独り劇をることを好んだばかりではなく、舞台のために製作をしたこともある。四世ひこさぶろうひいきにして、しょさごとを書いて遣ったと、自分でいっている。レシタションがじょうずであったことは、同情のないきたむらいんていが、台帳を読むのが寿阿弥の唯一の長技だといったのを見ても察せられる。

 五郎作は奇行はあったが、しょうとく酒をたしまず、常にようじょうに意を用いていた。文政十年七月のすえに、おいの家の板のからちてけがをして、当時流行した接骨家もとおおさかちょうなぐらやじべえに診察してもらうと、名倉がこういったそうである。お前さんはげこで、かいぎょうが堅固で、気が強い、それでこれほどの怪我をしたのに、目をまわさずに済んだ。この三つが一つけていたら、目を廻しただろう。目を廻したのだと、療治に二百日あまり掛かるが、これは百五、六十日でなおるだろうといったそうである。戒行とはていはつしたのちだからいったものと見える。怪我はりょうひじを傷めたので骨にはさわらなかったがいたみが久しくまなかった。五郎作は十二月の末まで名倉へ通ったが、臂のしびれだけは跡にのこった。五十九歳の時の事である。

 五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄の筆を以てした。ぎりょうの上から言えば、必ずしも馬琴、京伝に譲らなかった。ただ小説を書かなかったので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙がうりに出たと聞いて、おおみそかつきじの弘文堂へ買いに往った。手紙はけいし十二枚にさいじで書いたものである。文政十一年二月十九日に書いたということが、記事に拠ってあきらかに考えられる。ここに書いた五郎作の性行も、なかばは材料をこのかんどくに取ったものである。あてなひつどうくわばらうじ、名はせいずいあざなこうけい、通称をこさくといった。駿河国島田駅の素封家で、詩および書を善くした。玄孫きよへいさんは島田駅の北半里ばかりのでんしんじに住んでいる。五郎作の能文はこの手紙一つに徴して知ることが出来るのである。



その二十三[編集]

 わたくしのた五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。ひじを傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自らおるわけではないが、これをしょくさんらの作に比するに、そんしょくあるを見ない。いんていは五郎作に文筆の才がないと思ったらしく、歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むようなる仮名書して終れりといっているが、かくの如きは決して公論ではない。筠庭はもとまんばへきがある。五郎作と同年に歿したきたせいろを評して、性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めりといっている。風流をどんな事と心得ていたか。わたくしは強いて静廬を回護するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩的という語のあく解釈を挙げて、口を極めてちょうばしているのを想い起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、かくべえじしることを好んで、いかなる用事をもさしおいて玄関へ見に出たそうである。これが風流である。詩的である。

 五郎作はわかい時、やまもとほくざんけいぎじゅくにいた。おおくぼてんみんは同窓であったのでのちいたるまで親しく交った。じょうごの天民は小さい徳利をかくして持っていて酒を飲んだ。北山が塾を見廻ってそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、その人物が小さくおもわれるといった。天民がこれを聞いておおだるを塾に持って来たことがあるそうである。げこの五郎作は定めてはたから見て笑っていたことであろう。

 五郎作はまたはくしょうかやまざきよししげや、画家のきたかあんと往来していた。中にも抽斎よりわずかに四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、うたがいただすことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎のもとへ持って往って見せた。

 文政六年四月二十九日の事である。まだしたやちょうじゃまちで薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざやおやしちのふくさというものを見せに往った。ふくさは数代まえましやへ嫁入したしまという女の遺物である。島のさとかたかわちやはんべえといって、真志屋と同じく水戸家のまかないかたを勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋いちざえもんはこの河内屋のじかりであった。島が屋敷奉公に出る時、おさななじみのお七が七寸四方ばかりのひぢりめんのふくさに、もみうらを附けて縫ってくれた。間もなく本郷もりかわじゅくのお七の家はてんな二年十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間にじょうにんそうしきになって、翌年の春家に帰ったのち、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである。お七は天和三年三月二十九日に、十六歳で刑せられた。島はかたみのふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そしてゆうてんしょうにんから受けたみょうごうをそれにつつんでいた。五郎作はあらたにふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来て見せたのである。

 五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であった好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年のうまれで、抽斎の生れた文化二年には七歳になっていた。歿したのは文久元年十二月十五日で、年をくること六十三であった。



その二十四[編集]

 石塚重兵衛の祖先はさがみのくに鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、したやとよずみちょうに住んだ。よよこなしょうをしているので、からしやと人に呼ばれた。まことの屋号は鎌倉屋である。

 重兵衛も自ら庭に降り立って、芥子のうすを踏むことがあった。そこで豊住町の芥子屋というこころで、自らほうかいしと署した。そしてこれを以て世に行われた。そのほうていと号するのも、豊住町に取ったのである。別にしゅうこどうという号がある。

 重兵衛にむすめが二人あって、長女に壻を迎えたが、壻はほうとうをして離別せられた。しかし後にあさくさすわちょうの西側の角に移ってから、またその壻を呼び返していたそうである。

 重兵衛は文久元年に京都へこうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であった。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は七歳のわらべであったはずである。

 重兵衛の子孫はどうなったかわからない。数年前におおつきにょでんさんが浅草きたきよじまちょう報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓にもうでて、きにちに墓に来るものはかわたけしんしち一人だということを寺僧に聞いた。河竹にその縁故を問うたら、自分がもくあみの門人になったのは、豊芥子の紹介によったからだと答えたそうである。

 以上抽斎の友で年長者であったものを数えると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であったあさかごんさい、十歳であった小島成斎、九歳であった岡本况斎、八歳であった海保漁村がある。医者に当時十一歳であったたきさいてい、二歳であった伊沢しんけんがある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。

 抽斎がはじめて市野迷庵の門にったのは文化六年で、師は四十五歳、ていしは五歳であった。次いで文化十一年に医学を修めんがために、伊沢蘭軒に師事した。師が三十八歳、弟子が十歳の時である。父ただしげけいげい文章を教えることにも、家業の医学を授けることにも、すこぶる早く意を用いたのである。想うにのちに師とすべきかりやえきさいとは、家庭でも会い、師迷庵のもとでも会って、幼い時から親しくなっていたであろう。また後にばくぎゃくの友となった小島成斎も、はやく市野の家で抽斎と同門のよしみを結んだことであろう。抽斎がいつ池田けいすいの門をたたいたかということは今考えることが出来ぬが、恐らくはこれよりのちの事であろう。

 文化十一年十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽やすちかに謁した。寧親は五十歳、抽斎の父允成は五十一歳、抽斎自己は十歳の時である。想うに謁見の場所はほんじょふたの上屋敷であっただろう。謁見即ちめみえは抽斎が弘前の士人として受けた礼遇のはじめで、これからつきなみしゅっしを命ぜられるまでには七年立ち、ばんいりを命ぜられ、家督相続をするまでには八年立っている。

 抽斎が迷庵門人となってから八年目、文化十四年に記念すべき事があった。それは抽斎ともりきえんとがまじわりを訂した事である。枳園は後年これをでしいりと称していた。文化四年十一月うまれの枳園は十一歳になっていたから、十三歳の抽斎が十一歳の枳園を弟子に取ったことになる。

 森枳園、名はりっし、字はりつふ、初めいおり、中ごろようしん、後ようちくと称した。維新後には立之を以て行われていた。父名はきょうちゅう、通称は同じく養竹であった。恭忠は備後国福山の城主あべ伊勢守まさともおなじく備中守まさきよの二代に仕えた。そのだん枳園を挙げたのは、きたはっちょうぼりたけしまちょうに住んでいた時である。のち『経籍訪古志』に連署すべきににんは、ここに始て手を握ったのである。ちなみにいうが、枳園は単独に弟子入をしたのではなくて、同じく十一歳であった、弘前の医官おのどうえいの子どうしゅうたもとつらねて入門した。



その二十五[編集]

 抽斎の家督相続は文政五年八月さくを以てさたせられた。これよりき四年十月朔に、抽斎はつきなみしゅっしおおせつけられ、五年二月二十八日に、ごばんみならいおもていしゃ仰附けられ、即日見習の席に着き、三月朔に本番にった。家督相続の年には、抽斎が十八歳で、隠居した父ただしげが五十九歳であった。抽斎は相続後ただちにいちりゅうきんたん製法の伝授を受けた。これは八月十五日のひづけを以てせられた。

 抽斎の相続したと同じ年同じ月の二十九日に、そうまだいさくが江戸こづかはらで刑せられた。わたくしはこの偶然の符合のために、ここに相馬大作の事を説こうとするのではない。しかし事のついでに言って置きたい事がある。大作は津軽家の祖先が南部家の臣であったと思っていた。そこで文化二年以来津軽家のようやく栄え行くのにたいらかならず、やすちかの入国の時、みちに要撃しようとして、出羽国秋田領しらさわじゅくまで出向いた。しかるに寧親はこれを知って道を変えて帰った。大作は事あらわれてとらえられたということである。

 津軽家の祖先が南部家の被官であったということは、ないとうちそうも『徳川十五代史』に書いている。しかし郷土史にくわしいとのさきかくさんは、かつて内藤に書を寄せて、この説のあやまりただそうとした。

 初め津軽家と南部家とは対等の家柄であった。然るに津軽家はひでのぶの世にいきおいを失って、南部家のうしろみを受けることになり、後もとのぶみつのぶ父子は人質として南部家に往っていたことさえある。しかし津軽家が南部家に仕えたことはいまだかつて聞かない。光信はの渋江しんせいを召し抱えたのぶまさの六世の祖である。津軽家の隆興は南部家にうらみを結ぶはずがない。このせつえんの文を作った外崎さんが、わたくしの渋江氏の子孫を捜し出すなかだちをしたのだから、わたくしはただこれだけの事をここにしるして置く。

 家督相続の翌年、文政六年十二月二十三日に、抽斎は十九歳で、はじめて妻をめとった。妻はしもうさのくに佐倉の城主ほった相模守まさちか家来おおめつけ百石いわたじゅうたゆうむすめゆりとしてねがいずみになったが、実はしもつけあそごおりさのの浪人おじまちゅうすけむすめさだである。この人は抽斎の父允成が、よめには貧家に成長して辛酸をめた女を迎えたいといって選んだものだそうである。夫婦のよわいは抽斎が十九歳、定が十七歳であった。

 この年に森きえんは、これまで抽斎の弟子、即ち伊沢蘭軒の孫弟子であったのに、去って直ちに蘭軒に従学することになった。当時西語にいわゆるシニックで奇癖が多く、ちょうせき好んで俳優のみぶりこわいろを使う枳園の同窓に、今一人しおだようあんという奇人があった。もと越後新潟の人で、抽斎と伊沢蘭軒との世話で、そうつしまのかみよしかたの臣塩田氏のじょせいとなった。塩田は散歩するに友をいざなわぬので、友がひそかに跡に附いて行って見ると、竹のつえを指の腹に立てて、本郷おいわけへんはいかいしていたそうである。伊沢の門下で枳園楊庵の二人は一双の奇癖家として遇せられていた。声色つかいかるわざしも、共に十七歳の諸生であった。

 抽斎の母ぬいは、よめを迎えてから半年立って、文政七年七月朔に剃髪してじゅしょうと称した。

 翌文政八年三月みそかには、当時抽斎の住んでいた元柳原町六丁目の家がはんやけになった。この年津軽家にはだいがわりがあった。寧親が致仕して、おおすみのかみのぶゆきが封をいだのである。時に信順は二十六歳、即ち抽斎より長ずること五歳であった。

 次の文政九年は抽斎が種々の事にそうほうした年である。先ず六月二十八日に姉すまが二十五歳で亡くなった。それから八月十四日に、師市野迷庵が六十二歳で歿した。最後に十二月五日に、嫡子つねよしが生れた。

 須磨は前にいったとおり、飯田よしきよというもののさいになっていたが、この良清は抽斎の父允成の実父いながきせいぞうの孫である。清蔵の子がおおやせいべえ、清兵衛の子が飯田良清である。須磨の夫が飯田氏を冒したのは、幕府のけにんかぶを買ったのであるから、夫の父が大矢氏を冒したのも、恐らくは株として買ったのであろう。

 迷庵の死は抽斎をして狩谷棭斎に師事せしむる動機をなしたらしいから、抽斎が棭斎の門にったのも、この頃の事であっただろう。迷庵の跡は子こうじゅいだ。



その二十六[編集]

 文政十二年もまた抽斎のために事多き年であった。三月十七日には師伊沢蘭軒が五十三歳で歿した。二十八日には抽斎がきんじゅいしゃすけを仰附けられた。六月十四日には母寿松が五十五歳で亡くなった。十一月十一日にはつま定が離別せられた。十二月十五日にはににんめの妻同藩留守居役百石ひらのぶんぞうむすめいのが二十四歳できたり嫁した。抽斎はこの年二十五歳であった。

 わたくしはここに抽斎の師伊沢氏の事、それから前後の配偶定と威能との事を附け加えたい。亡くなった母については別に言うべき事がない。

 抽斎と伊沢氏とのまじわりは、蘭軒の歿したのちも、少しも衰えなかった。蘭軒の嫡子しんけんが抽斎の親しい友で、抽斎より長ずること一歳であったことは前に言った。榛軒の弟はくけん、通称ばんあんは文化七年に生れた。うしなった時、兄は二十六歳、弟は二十歳であった。抽斎は柏軒を愛して、おのれの弟の如くに待遇した。柏軒は狩谷棭斎のむすめたかめとった。その次男がいわお、三男が今の歯科医しんぺいさんである。

 抽斎の最初の妻定が離別せられたのはなにゆえつまびらかにすることが出来ない。しかし渋江の家で、貧家のむすめなら、こういう性質を具えているだろうと予期していた性質を、定は不幸にして具えていなかったかも知れない。

 定に代って渋江の家に来た抽斎の二人目の妻威能は、よよ要職におる比良野氏の当主文蔵を父に持っていた。貧家のじょに懲りて迎えたよめであろう。そしてこの子婦は短命ではあったが、夫の家では人々によろこばれていたらしい。何故そういうかというに、のち威能が亡くなり、次の三人目の妻がまた亡くなって、四人目の妻が商家から迎えられる時、威能の父文蔵は喜んで仮親になったからである。渋江氏と比良野氏とのこうぎが、後に至るまでかくの如くに久しくかわらずにいたのを見ても、よめむこの間にヂソナンスのなかったことが思い遣られる。

 比良野氏は武士かたぎの家であった。文蔵の父、威能の祖父であったすけたろうさだひこは文事と武備とをあわせ有した豪傑の士である。がいひんまたれいせつと号し、安永五年に江戸藩邸の教授に挙げられた。を善くして、「そとがはまがかん」及「うとう画軸」がある。剣術は群を抜いていた。壮年の頃むらまさ作のとうびて、本所わりげすいからおおかわばたあたりまでの間をほうこうしてつじぎりをした。千人斬ろうと思い立ったのだそうである。抽斎はこの事を聞くに及んで、歎息してまなかった。そして自分は医薬を以て千人を救おうというがんおこした。

 天保二年、抽斎が二十七歳の時、八月六日に長女いとが生れ、十月二日に妻威能が歿した。年は二十六で、とついでから僅に三年目である。十二月四日に、備後国福山の城主阿部伊予守まさやすの医官おかにしえいげんじょ徳が抽斎に嫁した。この年八月十五日に、抽斎の父允成は隠居料三人扶持を賜わった。これは従来やすちかのぶゆき二公にかわるがわる勤仕していたのに、六月からはかねいわきたかひろしつ、信順の姉もと姫に、また八月からは信順の室かねひめに伺候することになったからであろう。

 この時抽斎の家族は父允成、妻岡西氏徳、おじましゅつの嫡子つねよし、比良野氏しゅつの長女純の四人となっていた。抽斎が三人目の妻徳をめとるに至ったのは、徳の兄岡西げんていが抽斎と同じく蘭軒の門下におって、共にもんじまじわりを訂していたからである。

 天保四年四月六日に、抽斎は藩主信順にしたがって江戸を発し、始めて弘前に往った。江戸にかえったのは、翌五年十一月十五日である。この留守に前藩主寧親は六十九歳で卒した。抽斎の父允成が四月さくににん扶持の加増を受けて、隠居料五人扶持にせられたのは、特に寧親に侍せしめられたためであろう。これは抽斎が二十九歳から三十歳に至る間の事である。

 抽斎の友森きえんが佐々木氏かつを娶って、始めて家庭を作ったのも天保四年で、抽斎が弘前に往った時である。これより先枳園は文政四年にを喪って、十五歳で形式的の家督相続をなした。蘭軒に従学する前二年の事である。



その二十七[編集]

 天保六年うるう七月四日に、抽斎は師かりやえきさいを喪なった。六十一歳で亡くなったのである。十一月五日に、次男やすよしが生れた。後に名をゆたかと改めた人である。この年抽斎は三十一歳になった。

 棭斎ののちかいしあざなしょうけい、通称はさんぺいいだ。抽斎の家族は父允成、妻徳、嫡男つねよし、長女いと、次男優善の五人になった。

 同じ年に森きえんの家でも嫡子ようしんが生れた。

 天保七年三月二十一日に、抽斎はきんじゅづめに進んだ。これまでは近習格であったのである。十一月十四日に、師池田けいすいが五十一歳で歿した。この年抽斎は三十二歳になった。

 京水には二人のなんしがあった。長をずいちょうといって、これが家業をいだ。次をぜんあんといって、伊沢家の女壻になった。榛軒のむすめかえに配せられたのである。後に全安は自立して本郷ゆみちょうに住んだ。

 天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主のぶゆきに謁した。年はじめて十二である。七月十二日に、抽斎は信順に随って弘前に往った。十月二十六日に、父允成が七十四歳で歿した。この年抽斎は三十三歳になった。

 初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆるつめこしをすることになった。例にって翌年江戸に帰らずに、ふたふゆを弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、ぶたの子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んでもんった。抽斎が酒を飲み、獣肉をくらうようになったのはこの時が始である。

 しかし抽斎は生涯タバコだけはまずにしまった。允成の直系卑属は、今の保さんなどに至るまで、一人も煙草を喫まぬのだそうである。但し抽斎の次男優善は破格であった。

 抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。かちまちの池田の家で、当主ずいちょうが父京水の例にならって、春のはじめほっかいしきということをした。京水はまいねんこれを催して、門人をつどえたのであった。然るにことし抽斎が往って見ると、名は発会式と称しながら、趣は全く前日にことなっていて、京水時代の静粛はあとだにとどめなかった。芸者が来てしゃくをしている。森枳園が声色を使っている。抽斎はしばらく黙して一座の光景をていたが、遂にかたちを改めて主客の非礼を責めた。瑞長は大いにじて、すぐに芸者にいとまを遣ったそうである。

 引き続いて二月に、森枳園の家に奇怪な事件が生じた。枳園は阿部家をわれて、祖母、母、妻かつ、生れて三歳のせがれ養真の四人を伴ってよにげをしたのである。後に枳園の自ら選んだじゅぞうひには「有故失禄」と書してあるが、その故は何かというと、実に悲惨でもあり、またこっけいでもあった。

 枳園は好劇家であった。単に好劇というだけなら、抽斎も同じ事である。しかし抽斎は俳優のを、かんぽうから望み見てたのしむに過ぎない。枳園は自らそのかはくを学んだ。科白を学んで足らず、遂に舞台に登ってつけを撃った。後にはいわゆるあいちゅうあいだに混じて、ならびだいみょうなどにふんし、また注進などの役をも勤めた。

 或日阿部家の女中が宿にさがって芝居をくと、ふと登場している俳優の一人がようちくさんに似ているのに気が附いた。そう思って、とこう見するうちに、女中はそれが養竹さんに相違ないとめた。そしてやしきに帰ってから、これをほうばいに語った。もとより一のおかしい事として語ったので、初より枳園に危害を及ぼそうとは思わなかったのである。

 さてこの奇談が阿部邸のおくおもてでんぱして見ると、うわやくはこれをて置かれぬ事と認めた。そこでいよいよ君侯にもうして禄をうばうということになってしまった。



その二十八[編集]

 きえんは俳優にして登場した罪によって、阿部家の禄を失って、ながいとまになった。後に抽斎の四人目の妻となるべき山内氏いおの姉は、阿部家の奥に仕えて、名をきんごと呼ばれ、枳園をもっていたが、事件のおこる三、四年ぜんに暇を取ったので、当時の阿部家における細かい事情を知らなかった。

 永の暇になるまでには、相応に評議もあったことであろう。友人の中には、枳園を救おうとした人もあったことであろう。しかし枳園は平生さいせつかかわらぬ人なので、諸方面に対して、世にいう不義理が重なっていた。中にも一、二件の筆紙にのぼすべからざるものもある。救おうとした人も、これらのしょうがいのために、その志を遂げることが出来なかったらしい。

 枳園は江戸でしばらく浪人生活をしていたが、とうとう負債のために、家族を引き連れてよにげをした。恐らくはこの最後の策にづることをば、抽斎にも打明けなかっただろう。それはめんぼくがなかったからである。けっくの道をしんに書していた抽斎をさえ、度々忍びがたき目にわせていたからである。

 枳園は相模国をさして逃げた。これは当時三十一歳であった枳園には、もういくたりかの門人があって、そのうちに相模の人がいたのをたよって逃げたのである。このらくたく中のくわしい経歴は、わたくしにはわからない。『けいせん詩集』、『ゆうそういわ』などという、当時の著述を見たらわかるかも知れぬが、わたくしはまだ見るに及ばない。じゅぞうひには、うらがおおいそおおやまひなたつくい県の地名が挙げてある。大山は今の大山まち、日向は今のたかべや村で、どちらも大磯と同じなかごおりである。津久井県は今の津久井郡で相模川がこれを貫流している。かつらがわはこの川の上流である。

 後に枳園の語った所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があったのだそうである。この銭は箱根のゆもとに着くと、もうつかい尽していた。そこで枳園はとりあえずあんまをした。かみしも十六文のしょせんるも、なおむにまさったのである。ただに按摩のみではない。枳園は手当り次第になんでもした。「ないがいにかをろんずるなくあるいはしゅうせいをなしあるいはせいこつをなしぎゅうばけいくのしつにいたるまできたりてちをこうものにせじゅつせざるはなし」と、自記の文にいってある。しゅうせいはとりあげである。整骨は骨つぎである。獣医のなわばりないにも立ち入った。医者の歯を治療するのをだに拒もうとする今の人には、想像することも出来ぬ事である。

 老いたる祖母は浦賀でこんやくの間に歿した。それでも跡に母と妻と子とがある。自己をあわせて四人の口を、かくの如き手段でのりしなくてはならなかった。しかし枳園の性格から推せば、この間に処して意気そそうすることもなく、なお幾分のボンヌ・ユミヨオルを保有していたであろう。

 枳園はようよう大磯に落ち着いた。門人がなぬしをしていて、枳園を江戸の大先生としてふいちょうし、ここに開業のはこびに至ったのである。幾ばくもなくして病家のかずえた。きんはくを以て謝することの出来ぬものも、米穀さいそおくってほうちゅうにぎわした。後には遠方からかごを以て迎えられることもある。馬を以てしょうぜられることもある。枳園は大磯を根拠地として、なかみうら両郡の間を往来し、ここに足掛十二年の月日を過すこととなった。

 抽斎は天保九年の春を弘前に迎えた。例の宿直日記に、正月十三日きあきと書してある。父の喪が果てたのである。続いて第二の冬をも弘前で過して、翌天保十年に、抽斎は藩主のぶゆきしたがって江戸に帰った。三十五歳になった年である。

 この年五月十五日に、津軽家にだいがわりがあった。信順は四十歳で致仕して柳島の下屋敷にうつり、同じよわいゆきつぐこつがるからって封をいだ。信順はすこぶる華美を好み、ややもすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫をじゅんちし、遂に引退したのだそうである。

 抽斎はこれから隠居信順づきにせられて、平日は柳島のやかたに勤仕し、ただ折々上屋敷に伺候した。



その二十九[編集]

 天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇していた年長者で、抽斎は平素を鑑賞することについては、なにくれとなくおしえを乞い、またこきぶつほんぞうの参考に供すべき動植物をするために、筆のつかいかたがんりょうときかたなどを指図してもらった。それが前年に七十七の賀宴をりょうごくまんはちろうで催したのをなごりにして、今年なきひとの数にったのである。跡は文化九年うまれで二十九歳になるぶんじいだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻あさは、もう五年前に夫にさきだって死んでいたのである。この年抽斎は三十六歳であった。

 天保十二年には、岡西氏とくじじょよしを生んだが、好は早世した。じゅん正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男はちさぶろうが生れたが、これもようせつした。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙するはじめにおいて、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の詩を挙げて、当時の渋江氏の家族を数えたが、たちまち来り倐ち去ったむすめ好の名はあらわすことが出来なかった。

 天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。

 この年にせいじゅかんで書を講じて、陪臣まちいに来聴せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始てあらたに講師が任用せられた。はじめ館にはとこう、教授があって、生徒に授業していたに過ぎない。一時たきらんけい時代にひゃくにちかの制をいて、医学もけいがくも科を分って、百日を限って講じたことがある。今いうクルズスである。しかしそれも生徒にかせたのである。百日課は四年間でんだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになったのは、この時が始である。五カ月の後、幕府が抽斎をたしむることとなったのは、この制度あるがためである。

 弘化元年は抽斎のために、一大転機をもたらした。社会においては幕府のじきさんになり、家庭においては岡西氏徳のみまかった跡へ、始て才色兼ね備わった妻が迎えられたのである。

 この一年間の出来事を順次に数えると、先ず二月二十一日に妻徳が亡くなった。三月十二日にろうじゅうどいおおいのかみとしつらを以て、抽斎に躋寿館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期とじょうを命ぜられた。年始、はっさく、五節句、つきなみの礼に江戸城にくことになったのである。十一月六日に神田こんやちょうかなものどいや山内忠兵衛妹いおが来り嫁した。おもてむきは弘前藩目附役百石比良野助太郎妹かざしとして届けられた。十二月十日に幕府からはくぎん五枚を賜わった。これは以下恒例になっているから必ずしも書かない。同月二十六日に長女いとが幕臣ばばげんきゅうに嫁した。時に年十六である。

 抽斎の岡西氏徳をめとったのは、その兄玄亭がそうぼうも才学も人に優れているのを見て、この人の妹ならと思ったからである。然るにこうれいをなしてから見ると、才貌共に予期したようではなかった。それだけならばまだかったが、徳は兄には似ないで、かえって父栄玄のへんきょうな気質を受け継いでいた。そしてこれが抽斎にアンチパチイを起させた。

 最初の妻さだは貧家のむすめの具えていそうな美徳を具えていなかったらしく、抽斎の父ただしげが或時、おれの考が悪かったといって歎息したこともあるそうだが、抽斎はそれほどいやとは思わなかった。ににん目の妻いのれいりで、人を使う才があった。とにかく抽斎に始てアンチパチイを起させたのは、三人目の徳であった。



その三十[編集]

 克己を忘れたことのない抽斎は、徳をしかり懲らすことはなかった。それのみではない。あらわに不快の色を見せもしなかった。しかし結婚してから一年半ばかりの間、これに親近せずにいた。そして弘前へ立った。初度の旅行の時の事である。

 さて抽斎が弘前にいる間、江戸のたよりがあるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、ほとんど日記のようにくわしく書いたのである。抽斎は初めすうこうを読んで、ただちにこの書信が徳の自力によって成ったものでないことを知った。文章の背面に父允成の気質が歴々として見えていたからである。

 允成は抽斎の徳にしたしまぬのを見て、前途のためにあやぶんでいたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与えててならいをさせる。日記を附けさせる。そしてそれにもとづいて文案を作って、徳に筆をらせ、かないの事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。

 抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。父のために泣いたのである。

 二年近い旅から帰って、抽斎はつとめて徳に親んで、父の心をやすんぜようとした。それから二年立ってやすよしが生れた。

 いで抽斎は再び弘前へ往って、足掛三年えんりゅうした。留守に父の亡くなった旅である。それから江戸に帰って、中一年置いてよしが生れ、その翌年また八三郎が生れた。徳は八三郎を生んで一年半立って亡くなった。

 そして徳の亡くなった跡へ山内氏いおが来ることになった。抽斎の身分は徳がき、五百がきたる間に変って、幕府のじきさんになった。交際は広くなる。費用は多くなる。五百はにわかにそのうちに身を投じて、難局に当らなくてはならなかった。五百があたかもしその適材であったのは、抽斎のさいわいである。

 五百の父山内忠兵衛は名をほうかくといった。神田紺屋町にかなものどいやを出して、屋号を日野屋といい、商標にはいげたの中に喜の字を用いた。忠兵衛は詩文書画を善くして、多く文人ぼっかくまじわり、財をててこれが保護者となった。

 忠兵衛に三人の子があった。長男栄次郎、長女やす、二女五百である。忠兵衛は允成の友で、嫡子栄次郎の教育をば、久しく抽斎に託していた。文政七、八年の頃、允成が日野屋をおとずれて、芝居の話をすると、九つか十であった五百と、一つ年上の安とが面白がって傍聴していたそうである。安は即ち後に阿部家に仕えたきんごである。

 五百は文化十三年に生れた。兄栄次郎が五歳、姉安が二歳になっていた時である。忠兵衛は三人の子の次第に長ずるに至って、嫡子には士人たるに足る教育を施し、二人のむすめにも尋常女子の学ぶことになっている読み書き諸芸の外、武芸をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には、けいがくなどをさえ、殆ど男子に授けると同じように授けたのである。

 忠兵衛がかくの如くに子を育てたには来歴がある。忠兵衛の祖先は山内たじまのかみもりとよの子、つしまのかみかずとよの弟から出たのだそうで、江戸の商人になってからも、みつばがしわの紋を附け、名のりにとよの字を用いることになっている。今わたくしのてぢかにある系図には、一豊の弟はおだのぶながに仕えたしゅりのすけやすとよと、たけだしんげんに仕えたほうげんにったいとの二人しか載せてない。忠兵衛の家は、この二人の内いずれかのすえであるか、それとも外に一豊の弟があったか、ここににわかさだめることが出来ない。



その三十一[編集]

 いおは十一、二歳の時、本丸に奉公したそうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。とくがわいえなりが五十四、五歳になった時である。みだいどころこのえけいきの養女しげひめである。

 五百はあねこうじという奥女中のへやこであったという。姉小路というからには、じょうろうであっただろう。しからばながつぼねの南一のかわに、五百はいたはずである。五百らがゆうかたになると、長い廊下を通って締めにかなくてはならぬ窓があった。その廊下には鬼が出るといううわさがあった。鬼とはどんな物で、それが出て何をするかというに、たれくは見ぬが、男のきものを着ていて、額につのえている。それがつぶてを投げ掛けたり、灰をき掛けたりするというのである。そこでどの部屋子も窓を締めに往くことを嫌って、たがいに譲り合った。五百はおさなくても胆力があり、武芸のけいこをもしたことがあるので、自ら望んで窓を締めにった。

 暗い廊下を進んで行くと、果してちょろちょろと走り出たものがある。おやと思う間もなく、五百はかたほに灰をかぶった。五百にはとっさあいだに、その物の姿が好くは見えなかったが、どうも少年のいたずららしく感ぜられたので、五百は飛び附いてつかまえた。

「許せ/\」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手をゆるめなかった。そのうちに外のおなごたちがせ附けた。

 鬼は降伏して被っていたおにめんを脱いだ。ぎんのすけ様ととなえていた若者で、穉くてみまさかのくににしほうじょうごおりつやまの城主まつだいらけむこいりした人であったそうである。

 津山の城主松平越後守なりたかの次女かちかたもとへ壻入したのは、家斉の三十四人目の子で、十四男みかわのかみなりたみである。

 斉民はおさななを銀之助という。文化十一年七月二十九日に生れた。母はおやえかたである。十四年七月二十二日に、みだいどころの養子にせられ、九月十八日に津山の松平家に壻入し、十二月三日に松平邸にいった。四歳のむこぎみである。文政二年正月二十八日には新居落成してそれに移った。七年三月二十八日には十一歳で元服して、じゅ四位じょう侍従参河守斉民となった。九年十二月には十三歳で少将にせられた。人と成って後かくどうこうと呼ばれたのはこの人で、なるしまりゅうほくの碑のてんがくはそのふでである。そうして見ると、この人が鬼になって五百にとらえられたのは、従四位上侍従になってからのちで、ただ少将であったか、なかったかが疑問である。津山邸にやかたはあっても、本丸にねとまりして、おさななの銀之助を呼ばれていたものと見える。年は五百より二つ上である。

 五百の本丸をさがったのはいつだかわからぬが、十五歳の時にはもうとうどうけに奉公していた。五百が十五歳になったのは、天保元年である。もし十四歳で本丸を下ったとすると、文政十二年に下ったことになる。

 五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家という大名の屋敷をめみえをしてまわったそうである。その頃も女中の目見は、きみしんえらばず、臣君を択ぶというようになっていたと見えて、五百がかくの如くに諸家の奥へのぞきに往ったのは、いたるところしりぞけられたのではなく、自分が仕うることをがえんぜなかったのだそうである。

 しかし二十余家をへめぐるうちに、ただ一カ所だけ、五百が仕えようと思った家があった。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守とよすけの家であった。即ち五百と祖先を同じうする山内家である。

 五百がかじばしうちの上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。それは手跡、和歌、おんぎょくたしなみためされるのである。試官は老女である。先ずすずりばこと色紙とを持ち出して、老女が「これに一つおそめを」という。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それからときわずを一曲語らせられた。これらの事は他家と何のことなることもなかったが、女中がことごとめんぷくであったのが、五百の目に留まった。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐにこの家に奉公したいと決心した。奥方は松平かずさのすけなりまさむすめである。

 この時老女がふといおの衣類にみつばがしわの紋の附いているのを見附けた。



その三十二[編集]

 山内家の老女は五百に、どうして御当家の紋と同じ紋を、衣類に附けているかと問うた。

 五百は自分の家が山内氏で、昔からみつばがしわの紋を附けていると答えた。

 老女はしばらく案じてからいった。御用に立ちそうな人と思われるから、おめしかかえになるように申し立てようと思う。しかしその紋は当分御遠慮申すが好かろう。ゆいしょのあることであろうから、追っておゆるしを願うことも出来ようといった。

 五百は家に帰って、父に当分紋を隠して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衛は即座に反対した。姓名だの紋章だのは、せんそからけて子孫に伝える大切なものである。みだりかくしたりあらためたりすべきものではない。そんな事をしなくては出来ぬ奉公なら、せぬがいといったのである。

 五百が山内家をことわって、次にめみえに往ったのが、むこうやなぎはらの藤堂家の上屋敷であった。例の考試は首尾好く済んだ。別格を以て重く用いても好いといって、懇望せられたので、諸家をまわくたびれた五百は、この家に仕えることにめた。

 五百はすぐにちゅうろうにせられて、殿様づきさだまり、同時に奥方ゆうひつを兼ねた。殿様は伊勢国あのごおり津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂いずみのかみたかゆきである。官位はじゅ四位侍従になっていた。奥方は藤堂とものかみたかたけむすめである。

 この時五百はまだ十五歳であったから、尋常ならばおんなこしょうに取らるべきであった。それが一躍して中臈をち得たのは破格である。女小姓は茶、タバコちょうずなどの用を弁ずるもので、今いうこまづかいである。中臈は奥方附であると、奥方の身辺に奉仕して、種々の用事を弁ずるものである。幕府の慣例ではそれが転じて将軍附となると、しょうになったと見てもい。しかし大名の家では奥方に仕えずに殿様に仕えるというに過ぎない。祐筆は日記を附けたり、手紙を書いたりする役である。

 五百は呼名はかざしと附けられた。後に抽斎に嫁することに極まって、比良野氏の娘分にせられた時、かざしの名を以て届けられたのは、これを襲用したのである。さて暫く勤めているうちに、武芸のたしなみのあることを人に知られて、おとこのすけというあだなが附いた。

 藤堂家でも他家と同じように、中臈はさんしつ位に分たれた部屋に住んで、女ににんを使った。食事は自弁であった。それに他家では年給三十両内外であるのに、藤堂家では九両であった。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思っていたのではない。今の女が女学校にくように、修行をしに往くのである。風儀の好さそうな家を択んで仕えようとしたいおなぞには、給料の多寡ははじめより問う所でなかった。

 修行は金を使ってするわざで、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住いをして、役人に物を献じ、ほうばいきょうおうし、衣服調度をととのえ、げじょを使って暮すには、父忠兵衛はとしに四百両を費したそうである。給料は三十両もらっても九両貰っても、格別の利害を感ぜなかったはずである。

 五百は藤堂家で信任せられた。勤仕いまだ一年に満たぬのに、天保二年の元日には中臈がしらに進められた。中臈頭はただ一人しか置かれぬ役で、通例二十四、五歳の女が勤める。それを五百は十六歳で勤めることになった。



その三十三[編集]

 いおは藤堂家に十年間奉公した。そして天保十年に二十四歳で、父忠兵衛の病気のためにいとまを取った。後に夫となるべき抽斎は五百が本丸にいた間、尾島氏さだを妻とし、藤堂家にいた間、比良野氏いの、岡西氏とくあいついで妻としていたのである。

 五百の藤堂家を辞した年は、父忠兵衛の歿した年である。しかし奉公をめた頃は、忠兵衛はまだむすめを呼び寄せるほどの病気をしてはいなかった。いとまを取ったのは、忠兵衛が女を旅に出すことを好まなかったためである。この年に藤堂たかゆき夫妻は伊勢参宮をすることになっていて、五百は供のうちに加えられていた。忠兵衛は高猷の江戸を立つにさきだって、五百を家にかえらしめたのである。

 五百の帰った紺屋町の家には、父忠兵衛の外、当時五十歳の忠兵衛しょうまき、二十八歳の兄栄次郎がいた。二十五歳の姉やすは四年前に阿部家を辞して、よこやまちょうぬりものどいやながおそうえもんに嫁していた。宗右衛門は安がためには、ただ一つ年上の夫であった。

 忠兵衛の子がまだ皆いとけなく、栄次郎六歳、安三歳、いお二歳の時、こうじまちの紙問屋やまいちの女で松平せっつのかみぎけんの屋敷に奉公したことのある忠兵衛の妻は亡くなったので、跡には享和三年に十四歳で日野屋へ奉公に来た牧が、妾になっていたのである。

 忠兵衛は晩年に、気が弱くなっていた。牧は人のかみに立って指図をするような女ではなかった。然るに五百が藤堂家から帰った時、日野屋では困難な問題が生じてぜんかこうべを悩ませていた。それは五百の兄栄次郎の身の上である。

 栄次郎は初め抽斎に学んでいたが、いでしょうへいこうに通うことになった。安の夫になった宗右衛門は、同じ学校の諸生仲間で、しかもこのふたりだけがあまたの士人の間にはさまっていた商家の子であった。たとえていって見れば、今の人が華族でなくて学習院にっているようなものである。

 いおが藤堂家に仕えていた間に、栄次郎は学校生活にたいらかならずして、よしわらがよいをしはじめた。あいかたやまぐちともえつかさという女であった。五百が屋敷からさがる二年前に、栄次郎はふかいりをして、とうとう司のみうけをするということになったことがある。忠兵衛はこれを聞き知って、勘当しようとした。しかしきゅうかいのために五百が屋敷から来たので、さたやみになった。

 然るに五百が藤堂家を辞して帰った時、この問題が再燃していた。

 栄次郎は妹の力にって勘当を免れ、暫く謹慎して大門をくぐらずにいた。そのひまに司をいなかだいじんが受け出した。栄次郎はうつしょうになった。忠兵衛は心弱くも、人に栄次郎を吉原へ連れてかせた。この時司のかぶろであった娘が、はまてるという名で、来月つきだしになることになっていた。栄次郎は浜照の客になって、前よりもさかんあそびをしはじめた。忠兵衛はまた勘当すると言い出したが、これと同時に病気になった。栄次郎もさすがに驚いて、暫く吉原へ往かずにいた。これが五百の帰った時の現状である。

 この時に当って、まさにくつがえらんとする日野屋のせたいを支持して行こうというものが、あらたに屋敷奉公をてて帰った五百の外になかったことは、想像するに難くはあるまい。姉安は柔和に過ぎて決断なく、その夫宗右衛門は早世した兄の家業をいでから、酒を飲んで遊んでいて、自分の産をすることをさえ忘れていたのである。



その三十四[編集]

 いおは父忠兵衛をいたわり慰め、兄栄次郎をいさめ励まして、風浪にもてあそばれている日野屋という船のかじを取った。そして忠兵衛の異母兄で十人衆を勤めたおおまごぼうを証人に立てて、兄をして廃嫡を免れしめた。

 忠兵衛は十二月七日に歿した。日野屋の財産はいったん忠兵衛の意志にって五百の名に書きえられたが、五百は直ちにこれを兄に返した。

 五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のためにしんしょうなごんと呼ばれたという一面がある。同じ頃かりやえきさいむすめたかに少納言の称があったので、五百はこれにむかえてかく呼ばれたのである。

 五百の師としてつかえた人には、経学に佐藤一斎、ひっさつうぶかたていさい、絵画に谷文晁、和歌にまえだなつかげがあるそうである。十一、二歳の時はやく奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度ごとに講釈をくとか、手本を貰って習って清書を見せに往くとか、兼題の歌を詠んで直してもらうとかいうけいこしかたであっただろう。

 師匠のうちで最も老年であったのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であったのが鼎斎である。年齢を推算するに、五百の生れた文化十三年には、文晁が五十四、一斎が四十五、夏蔭が二十四、鼎斎が十八になっていた。

 文晁は前にいったとおり、天保十一年に七十八で歿した。五百が二十五の時である。一斎は安政六年九月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時である。夏蔭はげんじ元年八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎斎は安政三年正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時である。鼎斎は画家ふくだはんこうむらまつちょうの家へ年始の礼に往って酒にい、水戸の剣客某と口論をし出して、其の門人に斬られたのである。

 五百は鼎斎を師とした外に、このえよらくいんたちばなのちかげとの筆跡をりんもしたことがあるそうである。予楽院いえひろげんぶん元年にこうじた。五百の生れる前八十年である。はぎぞのちかげは身分が町奉行よりきで、加藤またざえもんと称し、文化五年に歿した。五百の生れる前八年である。

 五百は藤堂家を下ってから五年目に渋江氏に嫁した。おさない時から親しい人を夫にするのではあるが、五百の身に取っては、自分が抽斎に嫁し得るというポッシビリテエの生じたのは、二月に岡西氏とくが亡くなってからのちの事である。常に往来していた渋江の家であるから、五百は徳の亡くなった二月から、自分の嫁して来る十一月までの間にも、抽斎をうたことがある。未婚男女の交際とか自由結婚とかいう問題は、当時の人は夢にだに知らなかった。立派な教育のあるふたりが、男は四十歳、女は二十九歳で、多く年をけみした友人関係を棄てて、にわかに夫婦関係にったのである。当時においては、せいかくせるににんの間に、かくの如く婚約が整ったということは、たえてなくしてわずかにあるものといって好かろう。

 わたくしはおとこやもめになった抽斎のもとへ、五百のとぶらい来た時の緊張したシチュアションを想像する。そしてたもつさんの語ったほうかいしの逸事をおもい起しておかしく思う。五百の渋江へ嫁入する前であった。或日五百が来て抽斎と話をしていると、そこへ豊芥子が竹のかわつつみを持って来合せた。そして包を開いて抽斎にすしすすめ、自分も食い、五百に是非食えといった。後に五百は、あの時ほど困ったことはないといったそうである。



その三十五[編集]

 いおは抽斎に嫁するに当って、比良野文蔵の養女になった。文蔵の子でめつけやくになっていたさだかたは文化九年うまれで、五百の兄栄次郎と同年であったから、五百はその妹になったのである。然るに貞固は姉いのの跡に直る五百だからというので、五百を姉と呼ぶことにした。貞固の通称は祖父と同じ助太郎である。

 文蔵はかりおやになるからは、まことの親と余り違わぬじょうぎがありたいといって、渋江氏へ往く三カ月ばかり前に、五百をわがいえに引き取った。そして自分の身辺におらせて、煙草をめさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。

 助太郎はぶばった男で、髪をいとびんに結い、くろつむぎの紋附を着ていた。そしてもうあいばらうじかなという嫁があった。初め助太郎とかなとは、まだかなが藍原うえもんむすめであった時、けつげきってあいまみえたために、二人はおやおやの勘当を受けて、うらだなの世帯を持った。しかしどちらもかわいい子であったので、間もなくわびがかなって助太郎は表立ってかなを妻に迎えたのである。

 五百が抽斎にとついだ時の支度は立派であった。日野屋の資産は兄栄次郎のゆうとうによってかたぶき掛かってはいたが、先代忠兵衛が五百に武家奉公をさせるためにしむけて置いたしゅしょく、衣服、調度だけでも、人の目を驚かすに足るものがあった。今の世の人も奉公上りには支度があるという。しかしそれはたまわりものをいうのである。当時のおなごはこれに反して、おもに親の為向けた物を持っていたのである。五年の後に夫が将軍に謁した時、五百はこの支度の一部をって、夫の急を救うことを得た。またこれにさきだつこと一年に、森きえんが江戸に帰った時も、五百はこの支度の他の一部を贈って、枳園の妻をして面目を保たしめた。枳園の妻はのちのちまでも、衣服を欲するごとに五百に請うので、おかつさんはわたしの支度を無尽蔵だと思っているらしいといって、五百が歎息したことがある。

 五百の来り嫁した時、抽斎の家族は主人夫婦、長男つねよし、長女いと、次男やすよしの五人であったが、間もなく純はでて馬場氏のとなった。

 弘化二年から嘉水元年までの間、抽斎が四十一歳から四十四歳までの間には、渋江氏の家庭に特筆すべき事がすくなかった。五百の生んだ子には、弘化二年十一月二十六日うまれの三女とう、同三年十月十九日生れの四男げんこう、同四年十月八日生れの四女くががある。四男は死んで生れたので、げんこうすいしはそのほうしである。陸は今のきねやかつひささんである。嘉永元年十二月二十八日には、長男つねよしが二十三歳でつきなみ出仕を命ぜられた。

 いおさとかたでは、先代忠兵衛が歿してから三年ほど、栄次郎の忠兵衛は謹慎していたが、天保十三年に三十一歳になった頃から、また吉原へ通いはじめた。あいかたは前のはまてるであった。そして忠兵衛は遂に浜照を落籍させてさいにした。いで弘化三年十一月二十二日に至って、忠兵衛は隠居して、日野屋の家督をわずかに二歳になった抽斎の三女とうに相続させ、自分はきんざの役人の株を買って、広瀬栄次郎となのった。

 五百の姉安をめとった長尾宗右衛門は、兄の歿した跡をいでから、終日てさかずきかず、ぬりものどいやの帳場は番頭に任せて顧みなかった。それを温和に過ぐる性質の安はいさめようともしないので、五百は姉を訪うてこの様子を見る度にもどかしく思ったがしかたがなかった。そういう時宗右衛門は五百を相手にして、『しじつがん』の中の人物を評しなどして、容易に帰ることを許さない。五百が強いて帰ろうとすると、宗右衛門は安の生んだおけいせんの二人のむすめに、おばさんを留めいという。二人の女は泣いて留める。これはおばの帰った跡で家が寂しくなるのと、父が不機嫌になるのとを憂えて泣くのである。そこで五百はとうとう帰る機会を失うのである。五百がこの有様を夫に話すと、抽斎は栄次郎の同窓で、妻の姉壻たる宗右衛門の身の上をきづかって、わざわざ横山町へさとしに往った。宗右衛門は大いにじて、やや産業に意を用いるようになった。



その三十六[編集]

 森きえんは大磯で医業が流行するようになって、生活に余裕も出来たので、時々江戸へ出た。そしてその度ごとに一週間位は渋江の家にやどることになっていた。枳園のぎょうそうは決してかつてよにげをした土地へ、忍びやかに立ち入る人とは見えなかった。たもつさんの記憶しているいおの話によるに、枳園はおめしちりめんきものを着て、えびざやわきざしを差し、歩くにつまを取って、むきみしぼりふんどしを見せていた。もし人がその七代目だんじゅうろうひいきにするのを知っていて、なりたやと声を掛けると、枳園は立ち止まって見えをしたそうである。そして当時の枳園はもう四十男であった。もっともお召縮緬を着たのは、あながしゃしと見るべきではあるまい。一たん一朱か二分二朱であったというから、着ようと思えば着られたのであろうと、保さんがいう。

 枳園の来てやどる頃に、抽斎のもとにろくという女中がいた。ろくは五百が藤堂家にいた時から使ったもので、抽斎に嫁するに及んで、それを連れて来たのである。枳園は来り舎るごとに、この女を追い廻していたが、とうとう或日逃げる女を捉えようとしておおあんどうを覆し、畳を油だらけにした。五百はたわむれに絶交の詩を作って枳園に贈った。当時ろくをからかうものは枳園のみでなく、ほうかいしも訪ねて来るごとにこれに戯れた。しかしろくは間もなく渋江氏の世話で人に嫁した。

 枳園はまた当時わずかに二十歳をえた抽斎の長男つねよしの、いわゆるおとなし過ぎるのを見て、たびたび吉原へ連れてこうとした。しかし恒善はかなかった。枳園は意を五百に明かし、母の黙許というを以て恒善をうごかそうとした。しかし五百は夫が吉原に往くことを罪悪としているのを知っていて、恒善を放ちることが出来ない。そこで五百は幾たびか枳園と論争したそうである。

 枳園がかくの如くにしてしばしば江戸に出たのは、遊びに出たのではなかった。こしゅうもとに帰参しようとも思い、また才学を負うた人であるから、首尾くは幕府のじきさんにでもなろうと思って、機会をうかがっていたのである。そして渋江の家はその策源地であった。

 にわかに見れば、枳園が阿部家の古巣に帰るのはやすく、新に幕府に登庸せられるのは難いようである。しかし実況にはこれに反するものがあった。枳園は既に学術を以て名を世間にせていた。なかんずくほんぞうくわしいということは人が皆認めていた。阿部伊勢守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才学のある枳園のけいちょうを忌む心がすこぶかたかった。たきいっけ殊にさいていはややこれと趣を殊にしていて、ほぼこの人の短をして、その長を用いようとする抽斎の意に賛同していた。

 枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢しんけん、柏軒の兄弟であるが、抽斎もまた福山の公用人はっとりくじゅうろう、勘定奉行おこのぎはんしちおおたうがわ等に内談し、また小島成斎等をして説かしむること数度であった。しかしいつも藩主の反感にさまたげられて事が行われなかった。そこで伊沢兄弟と抽斎とは先ず茝庭の同情にうったえて幕府の用を勤めさせ、それを規模にして阿部家を説きうごかそうと決心した。そしてついにこの手段を以て成功した。

 この期間のすえの一年、嘉永元年に至って枳園はせいじゅかんの一事業たる『せんきんほうこうこくを手伝うべき内命をち得た。そして五月には阿部正弘が枳園の帰藩を許した。



その三十七[編集]

 阿部家への帰参がかなって、枳園が家族をまとめて江戸へ来ることになったので、抽斎はお玉が池の住宅の近所にかしいえのあったのを借りて、敷金を出し家賃を払い、応急のきじゅうを買い集めてこれを迎えた。枳園だけは病家へかなくてはならぬ職業なので、衣類もひととおり持っていたが、家族は身に着けたものしか持っていなかった。枳園の妻かつの事を、いおがあれではすはだかといってもいといった位である。五百は髪飾からたびげたまで、一切そろえて贈った。それでも当分のうちは、何かないものがあると、蔵から物を出すように、勝は五百の所へもらいに来た。或日これで白縮緬のゆぐを六本ることになると、五百がいったことがある。五百がどの位親切に世話をしたか、勝がどの位てんぜんとして世話をさせたかということが、これによって想像することが出来る。また枳園に幾多のあく性癖があるにかかわらず、抽斎がどの位、その才学を尊重していたかということも、これによって想像することが出来る。

 枳園が医書彫刻取扱てつだいという名義を以て、躋寿館に召し出されたのは、嘉永元年十月十六日である。

 当時躋寿館で校刻に従事していたのは、『びきゅう千金要方』三十巻三十二冊のそうざんぼんであった。これよりき多紀氏は同じそんしばくの『千金よくほう』三十巻十二冊を校刻した。これはげんせいそうだいとく十一年ばいけい書院の刊本を以て底本としたものである。いで手にったのが『千金要方』の宋版である。これは毎巻かなざわぶんこの印があって、ほうじょうあきときの旧蔵本である。よねざわの城主うえすぎだんじょうのだいひつなりのりがこれを幕府に献じた。こまかに検すれば南宋『けんどうじゅんき』中の補刻数葉が交っているが、大体は北宋のきゅうめんぼくを存している。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。然るに幕府はこれを聞いて、官刻を命ずることになった。そこで影写校勘の任に当らしむるために、三人の手伝が出来た。阿部伊勢守正弘の家来いさわばんあんくろだぶぜんのかみなおちかの家来ほりかわしゅうあん、それから多紀らくしんいん門人もりようちくである。磐安は即ち柏軒で、舟庵は『経籍訪古志』のばつに見えている堀川せいである。舟庵のしゅ黒田直静は上総国くるりの城主で、上屋敷はしたやひろこうじにあった。

 任命はわかどしより大岡しゅぜんのかみただかたの差図を以て、館主多紀あんりょうが申し渡し、世話役小島しゅんあん、世話役手伝勝本りあんくまがいべんあんが列座した。安良は即ちぎょうこである。

 なにゆえに枳園がさいていの門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への帰参は当時内約のみであって、まだおもてむきになっていなかったのでもあろうか。枳園は四十二歳になっていた。

 この年八月二十九日に、ましやごろさくが八十歳で歿した。抽斎はこの時三世げきしんせんになったわけである。

 嘉永二年三月七日に、抽斎は召されてとじょうした。つつじにおいて、ろうじゅう牧野備前守ただまさこうたつがあった。年来学業出精につき、ついでの節めみえ仰附けらるというのである。この月十五日に謁見は済んだ。始て「武鑑」に載せられる身分になったのである。

 わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家がてぜまなために、五百の里方山内の家を渋江邸として届けでたものである。



その三十八[編集]

 抽斎の将軍いえよしに謁見したのは、世の異数となす所であった。もとより躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になっていたたけべたくみのかみまさあつ家来つじもとしゅうあんの如くめみえの栄に浴する前例はあったが、抽斎にさきだって伊沢しんけんが目見をした時には、藩主阿部正弘がろうじゅうになっているので、せんたつの早きを致したのだとさえ言われた。抽斎と同日に目見をした人には、五年ぜんに共に講師に任ぜられた町医さかがみげんじょうがあった。しかし抽斎は玄丈よりも広く世に知られていたので、人がそのしゅぐうめて三年前に目見をしたまつうらいきのかみはかるの臣あさかわぜんあんと並称した。善庵は抽斎の謁見にさきだつこといちげつ、嘉永二年二月七日に、六十九歳で歿したが、抽斎とも親しくまじわって、渋江の家のほっかいには必ず来る老人株の一人であった。善庵、名はてい、字は五鼎、実は江戸の儒家かたやまけんざんの子である。兼山の歿したのちつまうじが江戸の町医朝川もくおうに再嫁した。善庵の姉すみと兄どうしょうとは当時のつれこで、善庵はまだ母の胎内にいた。黙翁は老いてやむに至って、福山氏に嫁した寿美を以て、善庵にじつを告げさせ、本姓に復することを勧めた。しかし善庵は黙翁のぶいくの恩に感じてうけがわず、黙翁もまた強いて言わなかった。善庵は次男かくをして片山氏をがしめたが、格は早世した。長男せいじゅんでてあいだ氏をおかしたので、善庵の跡は次女の壻横山氏しんいだ。

 弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかった。抽斎が目見をした時も、同僚にして来り賀するものはいちにんもなかった。しかし当時世間一般には目見以上ということが、すこぶる重きをなしていたのである。伊沢榛軒は少しく抽斎に先んじて目見をしたが、阿部家のこれに対する処置には榛軒自己をしてきっきょうせしむるものがあった。榛軒は目見の日に本郷丸山の中屋敷から登城した。さて目見をおわって帰って、常の如く通用門をらんとすると、門番がたちまち本門のかたわらに下座した。榛軒はたれを迎えるのかと疑って、しへんかえりみたが、別に人影は見えなかった。そこで始て自分に礼を行うのだと知った。次いで常の如く中の口から進もうとすると、玄関の左右につめしゅうが平伏しているのに気が附いた。榛軒はまた驚いた。間もなく阿部家では、榛軒を大目附格に進ましめた。

 目見はかくの如く世の人に重視せられるならいであったから、この栄をになうものは多くの費用を弁ぜなくてはならなかった。津軽家では一カ年間に返済すべしという条件を附して、金三両を貸したが、抽斎は主家の好意を喜びつつも、ほとんどこれを何のついえてようかと思い惑った。

 目見をしたものは、先ず盛宴を開くのが例になっていた。そしてこれに招くべきひんかくすうもほぼ定まっていた。然るに抽斎の居宅には多くかくくべき広間がないので、新築しなくてはならなかった。いおの兄忠兵衛が来て、三十両のみつもりを以て建築に着手した。抽斎はせんこくの事にうといことを自知していたので、商人たる忠兵衛の言うがままに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛はたいけわかだんなあがりで、金をなげうつことにこそ長じていたが、おしんでこれを使うことを解せなかった。工事いまだなかばならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。

 へいぜい金銭にむとんじゃくであった抽斎も、これには頗る当惑して、のこぎりの音つちの響のする中で、がんしょくは次第にあおくなるばかりであった。五百ははじめから兄の指図をあやぶみつつ見ていたが、この時夫に向っていった。

「わたくしがこう申すと、ひどく出過ぎた口をきくようではございますが、一代にいくたびというおめでたい事のある中で、金銭の事位で御心配なさるのを、黙って見ていることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすって下さいまし。」

 抽斎は目をみはった。「お前そんな事を言うが、何百両という金は容易にちょうだつせられるものではない。お前は何かあてがあってそういうのか。」

 五百はにっこり笑った。「はい。幾らわたくしがおろかでも、当なしには申しませぬ。」



その三十九[編集]

 いおは女中に書状を持たせて、ほど近い質屋へった。即ち市野迷庵の跡の家である。の今に至るまで石にられずにある松崎こうどうの文にいう如く、迷庵は柳原の店で亡くなった。その跡をいだのは松太郎こうじゅで、それがさんえもんの称をも継承した。迷庵の弟こうちゅうは別にそとかんだに店を出した。これよりのち内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立していて、彼はよよ三右衛門を称し、これよよ市三郎を称した。五百が書状を遣った市野屋は当時弁慶橋にあって、早くも光寿の子こうとくの代になっていた。光寿は迷庵の歿後わずかに五年にして、天保三年に光徳を家督させた。光徳はおさななとくじろうといったが、この時あらためて三右衛門をなのった。外神田の店はこの頃まだ迷庵のてつこうちょうの代であった。

 ほどなく光徳の店のてだいが来た。いおたんすながもちから二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸そうといった。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両をることが出来た。

 三百両は建築のついえを弁ずるにはあまりある金であった。しかしめみえに伴ういんえんぞうい一切の費はばくだいであったので、五百はついほうかいしに託して、おもなるしゅしょく類を売ってこれにてた。その状まさに行うべき所を行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間にさしはさむことを得なかった。しかし中心には深くこれを徳とした。

 抽斎の目見をした年のうるう四月十五日に、長男つねよしは二十四歳で始て勤仕した。八月二十八日に五女きしが生れた。当時の家族は主人四十五歳、さいいお三十四歳、長男恒善二十四歳、次男やすよし十五歳、四女くが三歳、五女癸巳一歳の六人であった。長女いとは馬場氏に嫁し、三女とうは山内氏をぎ、次女よし、三男八三郎、四男げんこうは亡くなっていたのである。

 嘉永三年には、抽斎が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることとなった。藩禄等はすべて旧にるのである。八月かいに、馬場氏に嫁していた純が二十歳で歿した。この年抽斎は四十六歳になった。

 五百の仮親比良野文蔵の歿したのも、同じ年の四月二十四日である。次いで嗣子さだかたが目附から留守居に進んだ。津軽家の当時の職制より見れば、いわゆるどくれいはんに加わったのである。独礼とはしきじつに藩主に謁するに当って、単独に進むものをいう。これよりしもににんだち、三人立等となり、遂にうままわり以下の一統礼に至るのである。

 当時江戸に集っていた列藩の留守居は、えんぜんたるコオル・ヂプロマチックをかたちづくっていて、その生活はすこぶる特色のあるものであった。そして貞固の如きは、その光明面を体現していた人物といっても好かろう。

 衣類を黒もんつきに限っていたいとびんやっこの貞固は、もとより読書の人ではなかった。しかし書巻をそんそうして、ていけつをそのうちに求めていたことを思えば、留守居中けうの人物であったのを知ることが出来る。貞固は留守居に任ぜられた日に、家に帰るとすぐに、せっかんして抽斎をしょうじた。そしてかたちを改めていった。

「わたくしはこんにち父の跡を襲いで、留守居役をおおせつけられました。今までとは違ったこころがけがなくてはならぬ役目と存ぜられます。実はそれにようだつお講釈が承わりたさに、御足労を願いました。あの四方につかいして君命をはずかしめずということがございましたね。あれを一つお講じ下さいますまいか。」

「先ず何よりもおよろこびを言わんではなるまい。さて講釈の事だが、これはまた至極のおおもいつきだ。委細承知しました」と抽斎はこころよく諾した。



その四十[編集]

 抽斎は有合せのどうしゅんてんの『論語』を取り出させて、まきの七を開いた。そして「しこうといていわくいかなるをかこれこれをしというべき」という所から講じ始めた。もとより朱註をば顧みない。すべて古義に従って縦説横説した。抽斎は師迷庵の校刻したりくちょうぼんの如きは、なんどきでもまいようまいこうの文字の配置に至るまで、くうって思い浮べることが出来たのである。

 さだかたは謹んでいていた。そして抽斎が「しのたまわくああとしょうのひとなんぞかぞうるにたらん」に説きいたったとき、貞固の目はかがやいた。

 講じおわったのち、貞固はしばらめいもく沈思していたが、しずかって仏壇の前に往って、祖先の位牌の前にぬかずいた。そしてはっきりした声でいった。「わたくしはこんにちから一命をして職務のために尽します。」貞固の目には涙がたたえられていた。

 抽斎はこの日に比良野の家から帰って、いおに「比良野は実に立派なさむらいだ」といったそうである。その声はふるいを帯びていたと、後に五百が話した。

 留守居になってからの貞固は、まいちょう日のいずると共に起きた。そして先ずうまやを見廻った。そこには愛馬はまかぜつないであった。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかというと、馬はしょうしを共にするものだからと、貞固は答えた。厩から帰ると、かんそうして仏壇の前に坐した。そしてもくぎょたたいてじゅきょうした。この間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかった。来客もそのまま待たせられることになっていた。誦経がおわって、髪を結わせた。それからあさげぜんに向った。饌には必ず酒を設けさせた。朝といえども省かない。さかなにはえりぎらいをしなかったが、のだへいかまぼこたしんで、かさずに出させた。これはぜいたくひんで、うなぎどんぶりが二百文、てんぷらそばが三十二文、もりかけが十六文するとき、ひといた二分二朱であった。

 あさげおわころには、藩邸での刻のたいこが鳴る。名高い津軽屋敷のやぐら大鼓である。かつて江戸町奉行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家がきかずに、とうとう上屋敷をすみだがわの東にうつされたのだと、こうせつに言い伝えられている。津軽家の上屋敷が神田おがわまちから本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の大鼓を聞くと、津軽家の留守居役所に出勤して事務を処理する。次いで登城してしょけの留守居に会う。従者は自らやしなっている若党ぞうりとりの外に、しゅうけから附けられるのである。

 留守居には集会日というものがある。その日には城から会場へく。やおぜんひらせいかわちょうあおやぎ等の料理屋である。また吉原に会することもある。集会にははんさな作法があった。これを礼儀といわんは美に過ぎよう。たとえばえんせきしょうせいの如く、また西洋学生団のコンマンの如しともいうべきであろうか。しかし集会に列するものは、これがために命のとりやりをもしなくてはならなかった。なかんずく厳しく守られていたのはしんざんこさんの序次で、故参は新参のために座より起つことなく、新参は必ず故参の前に進んであいさつしなくてはならなかった。

 津軽家では留守居の年俸を三百石とし、別に一カ月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆえ、これに二百石を補足せられたのである。いおおぼえがきるに、三百石十人扶持の渋江の月割が五両一分、二百石八人扶持の矢島の月割が三両三分であった。矢島とは後に抽斎の二子やすよしが養子に往った家の名である。これにってれば、貞固の月収は五両一分に十八両を加えた二十三両一分と見て大いなる差違はなかろう。然るに貞固は少くも月に交際費百両を要した。しかもそれは平常のついえである。吉原に火災があると、貞固はぎろうさのづちへ、百両にのしを附けて持たせて遣らなくてはならなかった。また相方まゆずみのむしんをも、折々は聴いて遣らなくてはならなかった。或る年の暮に、貞固が五百に私語したことがある。「えさん、察して下さい。正月が来るのに、わたしは実はふんどし一本買う銭もない。」



その四十一[編集]

 ひとしくこれ津軽家の藩士で、柳島附の目附から、少しくさだかたに遅れて留守居に転じたものがある。ひらいうじ、名はしゅんしょうあざなはくみんおさななせいたろう、通称はしゅりで、とうどうと号した。文化十一年うまれで貞固よりは二つの年下である。平井の家はせいろく二百石八人扶持なので、留守居になってから百石の補足を受けた。

 貞固はこうじょうふいぼうがあった。東堂もまたふうぼう人に優れて、しかも温容したしむべきものがあった。そこで世の人は津軽家の留守居はそうへきだと称したそうである。

 当時の留守居役所には、このふたりの下に留守居したやくすぎうらたきち、留守居ものかきふじたとくたろうなどがいた。杉浦は後きざえもんといった人で、事務にあんれんした六十余の老人であった。藤田は維新後にひそむと称した人で、当時まだ青年であった。

 或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿をしょくせしめた。藤田は案をして呈した。

「藤田。まずい文章だな。それにこのかきざまはどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔はすこぶる不機嫌に見えた。

 がんらい平井氏はぜんしょの家である。祖父がさいはかつてひっさつこういさいに受けて、その書が一時に行われたこともある。峩斎、通称はせんえもん、その子をせんぞうという。のち父の称をぐ。この仙蔵の子が東堂である。東堂もさわだとうりの門人で書名があり、かつ詩文の才をさえ有していた。それに藤田は文においても書においても、専門の素養がない。稿をあらためて再び呈したが、それが東堂を満足せしめるはずがない。

「どうもまずいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないといってもい。」こういって案を藤田にかえした。

 藤田はこりつした。一身の恥辱、家族の悲歎が、こうべれている青年の想像に浮かんで、目には涙がいて来た。

 この時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事のてんまつを知った。

 貞固は藤田の手に持っている案を取って読んだ。

「うん。ひととおりわからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。そっかは気がかないのだ。」

 こういって置いて、貞固はほとんど同じような文句をまきがみに書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。

「どうだ。これでいかな。」

 東堂はごうも敬服しなかった。しかし故参の文案に批評を加えることは出来ないので、色をやわらげていった。

「いや、結構です。どうもお手を煩わして済みません。」

 貞固は案を東堂の手から取って、藤田にわたしていった。

「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからはこんな工合にるが好い。」

 藤田は「はい」といって案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたそうである。おもうに東堂はほか柔にしてうち険、貞固はほか猛にしてうち寛であったと見える。

 わたくしは前に貞固が要職のたいめんをいたわるがために窮乏して、ふるふんどしを着けて年を迎えたことをしるした。この窮乏は東堂といえどもこれを免るることを得なかったらしい。ここになかいけいしょおおつきにょでんさんに語ったという一の事実があって、これが証につるに足るのである。

 この事はさきの日わたくしが池田けいすいの墓と年齢とを文彦さんに問いにった時、如電さんがかつて手記して置いたものを抄写して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、なにゆえに如電さんは平井氏の事を以て答えたか。それには理由がある。平井東堂の置いたしちが流れて、それを買ったのが、池田京水の子ずいちょうであったからである。



その四十二[編集]

 東堂が質に入れたのは、銅仏いっくろくほういんいっかとであった。銅仏はインドで鋳造したやくしにょらいで、たいまんこうの遺品である。六方印は六面に彫刻したゆういんである。

 しちながれになった時、この仏像を池田瑞長が買った。しかるに東堂はのち金が出来たので、瑞長に交渉して、あたいを倍してあがない戻そうとした。瑞長は応ぜなかった。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品をあいじゃくする縁故があるからである。

 戴曼公は書法をこうてんいに授けた。天漪、名はげんたいはじめの名はりゅうたいあざなししん、一のあざなとたん、通称はふかみしんざえもんで、帰化みんひとえいである。祖父こうじゅかくは長崎に来て終った。父たいしょうは訳官になって深見氏を称した。深見はぼっかいである。高氏は渤海よりでたからこの氏を称したのである。天漪は書を以て鳴ったもので、せんそうじせむいへんがくの如きは、人の皆知る所である。享保七年八月八日に、七十四歳で歿した。その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であっただろう。天漪の子がいさいである。頤斎のていしがさいである。峩斎の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たるゆえんである。

 戴曼公はまた痘科を池田すうざんに授けた。嵩山の曾孫がきんきょう、錦橋のてつが京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏のたまたま獲た曼公の遺品をあいちょうしてかなかった所以である。

 この薬師如来は明治のとなってからもりたほうたんが護持していたそうである。また六方印は中井敬所の有に帰していたそうである。

 貞固と東堂とは、共に留守居のものがしらを兼ねていた。物頭は詳しくはしょてあしがるがしらといって、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭もどくれいの格式である。平時はなかしも屋敷附近に火災のおこるごとに、火事しょうぞくを着けて馬にり、足軽数十人をしたがえて臨検した。貞固はその帰途には、殆ど必ず渋江の家に立ち寄った。実に威風堂々たるものであったそうである。

 貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であったらしい。ほあしばんりはかつて留守居をののしって、国財をし私腹を肥やすものとした。この職におるものは、あるいは多く私財を蓄えたかも知れない。しかしたもつさんは少時帆足の文を読むごとに心たいらかなることを得なかったという。それは貞固のひとりを愛していたからである。

 嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒していたとうこが、痘を病んで死んだ。いで十五日に、五女きしが感染して死んだ。彼は七歳、これは三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかったと見える。三月二十八日に、長子つねよしが二十六歳で、柳島に隠居していたのぶゆききんじゅにせられた。六月十二日に、二子やすよしが十七歳で、二百石八人扶持のやじまげんせきまつごようしになった。この年渋江氏は本所だいどころちょうに移って、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六歳の時である。

 優善は渋江一族の例を破って、わこうしてタバコみ、好んでふんかしゃびの地に足をれ、とかく市井のいきな事、しゃれた事にかたぶきやすく、当時早く既に前途のために憂うべきものがあった。

 本所で渋江氏のいた台所町は今のこいずみちょうで、屋敷は当時のきりえずに載せてある。



その四十三[編集]

 嘉永五年には四月二十九日に、抽斎の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵たぐちぎさぶろうの養女いとめとった。五月十八日に、恒善につとめりょう三人扶持を給せられた。抽斎が四十八歳、五百が三十七歳の時である。

 伊沢氏ではこの年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒は抽斎より一つの年上で、二人のまじわりすこぶる親しかった。かいしょに片仮名をぜた榛軒のせきどくには、あてなが抽斎賢弟としてあった。しかし抽斎は小島成斎におけるが如く心を傾けてはいなかったらしい。

 榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでいた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る広大なかまえであった。庭にはよしのざくらしゅえ、花の頃にはしんせき知友を招いてこれを賞した。その日には榛軒のさい飯田氏しほとむすめかえとがあまたおなごえきして、客にでんがく豆腐などを供せしめた。パアル・アンチシパションに園遊会を催したのである。としはじめほっかいしきも、他家にくらぶれば華やかであった。しほの母はもと京都すわ神社のねぎ飯田氏のじょで、てんやくのかみ某の家に仕えているうちに、その嗣子とわたくししてしほを生んだ。しほはらくたくして江戸に来て、こびきちょうの芸者になり、ちとの財を得て業をめ、しんぼりに住んでいたそうである。榛軒が娶ったのはこの時の事である。しほはらぬ父のかたみいんろう一つを、母からけ伝えて持っていた。榛軒がしほに生ませたむすめかえは、一時池田京水の次男ぜんあんを迎えて夫としていたが、全安が広く内科を究めずに、痘科と科とに偏するというを以て、榛軒が全安を京水のもとに還したそうである。

 榛軒はへんぷくおさめなかった。渋江の家をうに、踊りつつ玄関からって、居間の戸の外から声を掛けた。自らうなぎあつらえて置いて来て、かゆしょもうすることもあった。そして抽斎に、「どうぞおれに構ってくれるな、己にはごしんぞうあいくちだ」といって、書斎に退かしめ、五百と語りつつのみくいするを例としたそうである。

 榛軒が歿してからいちげつのち、十二月十六日に弟柏軒がせいじゅかんの講師にせられた。森きえんらと共に『千金方』校刻の命を受けてから四年の後で、柏軒は四十三歳になっていた。

 この年に五百の姉壻長尾宗右衛門が商業の革新をはかって、よこやまちょうの家をしっきみせのみとし、別にほんちょう二丁目に居宅を置くことにした。この計画のために、抽斎は二階の四室を明けて、宗右衛門夫妻、けいせんの二女、女中いちにんでっち一人をまわせた。

 嘉永六年正月十九日に、抽斎の六女みきが生れた。家族は主人夫婦、恒善夫婦、くが、水木の六人で、やすよしは矢島氏の主人になっていた。抽斎四十九歳、いお三十八歳の時である。

 この年二月二十六日に、堀川しゅうあんが躋寿館の講師にせられて、『千金方』校刻の事に任じた三人のうち森枳園が一人残された。

 安政元年はやや事多き年であった。二月十四日に五男せんろくが生れた。後におさむなのった人である。三月十日に長子恒善が病んで歿した。抽斎はしふ糸の父田口儀三郎の窮をあわれんで、百両余の金をおくり、糸をばありまそうちというものに再嫁せしめた。十二月二十六日に、抽斎は躋寿館の講師たる故を以て、としに五人扶持を給せられることになった。今の勤務加俸の如きものである。二十九日に更に躋寿館医書彫刻てつだいを仰附けられた。今度校刻すべき書は、えんゆう天皇のてんげん五年に、たんばやすよりが撰んだという『いしんほう』である。

 保さんの所蔵の「抽斎手記」に、『医心方』の出現という語がある。昔からおごそかに秘せられていた書が、たちまち目前に出て来たさまが、この語で好くあらわされている。「ひぎょくとつぜんはこをひらきていづえいこうめいてつてんかなしきんりょうさんはんはとうおこりりょうこうはじめてさぐりしはこれこのたま。」これは抽斎の亡妻の兄岡西玄亭が、当時よろこびを記した詩である。りょうこうといったのは、『医心方』がわかどしより遠藤但馬守たねのりの手から躋寿館に交付せられたからであろう。遠藤の上屋敷はたつのくちきたかどであった。



その四十四[編集]

 日本の古医書は『ぞくぐんしょるいじゅう』に収めてあるわけひろよの『やくけいたいそ』、たんばのやすよりの『やすよりほんぞう』、しゃくれんきの『ちょうせい療養方』、次に多紀家で校刻したふかねすけひとの『ほんぞうわみょう』、丹波まさただの『医略抄』、宝永中にいんこうせられたともひらしんのうの『ぐけつげてんしょう』の数種を存するに過ぎない。具平親王の書はもと字類に属して、ここに算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、いずもひろさだらのたてまつった『だいどうるいじゅほう』の如きは、さんいつして世に伝わらない。

 それゆえ天元五年に成って、えいかん二年にたてまつられた『医心方』が、ほとんど九百年の後の世にでたのを見て、学者が血をき立たせたのもあやしむに足らない。

『医心方』はきんけつの秘本であった。それをおおぎまち天皇がいだしててんやくのかみなからいつうせんいんずいさくに賜わった。それからはよよ半井氏が護持していた。徳川幕府では、寛政のはじめに、にんなじ文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡がきわめて多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。然るに当時半井やまとのかみせいびは献ずることをがえんぜず、その子しゅりのだいぶせいがもまた献ぜず、ついに清雅の子出雲守ひろあきに至った。

 半井氏が初めなにことばを以て命を拒んだかは、これをつまびらかにすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都において焼失したといった。天明八年の火事とは、正月みそからくとうどんぐりつじから起って、全都をかいじんに化せしめたものをいうのである。幕府はこの答に満足せずに、によりの品でもいから出せとちゅうきゅうした。おそらくは情を知って強要したのであろう。

 半井広明はやむことをえず、こういうこうじょうを以て『医心方』を出した。げだいは同じであるが、筆者まちまちになっていて、誤脱多く、はなはだ疑わしきそかんである。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供するというのである。書籍は広明の手からろくごう筑前守まさただの手にわたって、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持って往った。正弘はこうようにんわたなべさんたへいを以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。

 越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守たねのりを以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用はかねぐらから渡されるであろう。書籍はとくと取調べ、かつ刻本うりさげ代金を以て費用を返納すべきせきねんぷをも取調べるようにということであった。

 なからい広明の呈した本は三十巻三十一冊で、けんの二十五に上下がある。こまかに検するに期待にそむかぬ善本であった。もと『医心方』はそうげんぼうの『びょうげんこうろん』をけいとし、ずいとうの方書百余家をとして作ったもので、その引用する所にして、支那においていつぼうしたものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。

 幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁ににん、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀あんりょうほうげんである。楽真院はさいてい、安良はぎょうこで、ならびに二百俵の奥医師であるが、彼は法印、これは法眼になっていて、当時くらの分家がむこうやなぎはらの宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。

 躋寿館では『医心方』えいしゃていしきというものが出来た。写生はまいちょうたつのこくに登館して、いちにんいちじつけつを影模する。三頁を模しおわれば、任意に退出することを許す。三頁を模することあたわざるものは、二頁を模し畢って退出しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月さくに起って、二十日に終る。日に二頁を模するものはみそかに至る。この間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。



その四十五[編集]

 なからい本の『医心方』を校刻するに当って、仁和寺本を写した躋寿館の旧蔵本が参考せられたことは、問うことをたぬであろう。然るに別に一の善本があった。それは京都かもの医家岡本ゆうけんの家から出た『医心方』けんの二十二である。

 おおぎまち天皇の時、じゅ五位じょう岡本ほうこうというものがあった。保晃は半井瑞策に『医心方』一巻を借りて写した。そしてなにゆえか原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃は由顕の曾祖父である。

 由顕の言う所はこうである。『医心方』は徳川いえみつが半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸において瑞策に師事した。瑞策のむすめが産後に病んで死にひんした。保晃が薬を投じて救った。瑞策がこれに報いんがために、『医心方』一巻を贈ったというのである。

『医心方』を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈ろうとしたにしても、よもや帝室から賜った『医心方』三十巻のうちから、一巻をいて贈りはしなかっただろう。おおよそこれらの事は、前人が皆かつてこれを論弁している。

 既にして岡本氏の家衰えて、はたせいぶんに託してこのまきろうとした。成文はにしきこうじなかつかさごんしょうゆうよりおさに勧めて元本を買わしめ、副本はこれをおのれが家にとどめた。錦小路は京都における丹波氏のえいである。

 岡本氏の『医心方』一巻は、かくの如くにして伝わっていた。そして校刻の時に至って対照の用に供せられたようである。

 この年正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。『医心方』校刻の事の起ったのは、枳園が教職にいてから十カ月ののちである。

 抽斎の家族はこの年主人五十歳、いお三十九歳、くが八歳、みき二歳、専六生れて一歳の五人であった。矢島氏を冒したやすよしは二十歳になっていた。二年ぜんからきぐうしていた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移った。

 安政二年が来た。抽斎の家の記録は先ず小さき、あだなるよろこびしるさなくてはならなかった。それは三月十九日に、六男すいざんが生れたことである。後十一歳にしてようさつした子である。この年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺りうごかしてたしめたものは、ひとり地震のみではなかった。

 学問はこれを身に体し、これを事にいて、はじめて用をなすものである。しからざるものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸をけんさんしてぞうけいの深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしもただちにこれを事に措こうとはしない。そのこつこつとしてとしけみする間には、心頭しばらく用と無用とを度外に置いている。大いなる功績はかくの如くにして始てち得らるるものである。

 この用無用を問わざる期間は、ただとしを閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世をかさぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とがせつぜんとして二をなしている。もし時務の要求がようやく増長しきたって、強いて学者の身にせまったなら、学者がその学問生活をなげうってつこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。

 わたくしは安政二年に抽斎がかいを時事にるるに至ったのを見て、かくの如き観をなすのである。



その四十六[編集]

 米艦がうらがったのは、二年ぜんの嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月にふねが再び浦賀に来て、六月にしもだを去るまで、江戸のそうじょうは名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士にかっちゅうの準備を令した。動員のそなえのない軍隊のふがいなさがうかがわれる。新将軍いえさだもとにあって、この難局に当ったのは、柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。

 こんねんってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院のぼんしょうを以て大砲小銃を鋳造すべしというみことのりが発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた抽斎も、ここに至ってやや風潮のかゆうする所となった。それには当時さんじょくにいたじょじょうふいおけいよくあずかって力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至った。

 津軽ゆきつぐは一の進言に接した。これをたてまつったものはようにん加藤せいべえそばようにんかねまつはんたゆう、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人のくこれをじゅんこうするものは少い。おおむね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶにいとまあらざるのである。よろしく現に甲冑を有せざるものには、金十八両を貸与してこれがてしめ、年賦に依って還納せしむべきである。かつ今より後毎年一度甲冑あらためを行い、ていれを怠らしめざるようにせられたいというのである。順承はこれを可とした。

 この進言が抽斎の意よりで、兼松三郎がこれをけて案を具し、両用人の賛同を得て呈せられたということは、こうはん皆これを知っていた。三郎はせききょと号した。そのりゅうじゅんなるを以ての故に、抽斎はてんぐと呼んでいた。佐藤一斎、こがとうあんの門人で、学殖せいはいえ、かつてしょうへいこうの舎長となったこともある。当時弘前りしょ中の識者として聞えていた。

 抽斎は天下多事の日に際会して、ことたまたま政事に及び、武備に及んだが、かくの如きはもとよりそのほんしょくではなかった。抽斎のたんぼ力を用いる所は、古書を講窮し、古義をせんめいするにあった。彼は弘前藩士たる抽斎が、外来の事物に応じて動作した一時のレアクションである。これは学者たる抽斎が、終生従事していた不朽の労作である。

 抽斎の校勘の業はこの頃着々しんちょくしていたらしい。森枳園が明治十八年に書いた『経籍訪古志』のばつに、りょくていかいの事をしるして、三十年前だといってある。緑汀とはたきさいていが本所緑町の別荘である。茝庭はまいげつ一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村らをここつどえた。諸子は環坐してこほんを披閲し、これが論定をなした。会ののちには宴を開いた。さてにしゅうきょうじょうえいに乗じて月を踏み、詩を詠じて帰ったというのである。同じ書に、茝庭がこの年安政二年より一年の後に書いた跋があって、ほうろくれ勤め、各部とみに成るといってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、また当時の事であったと見える。

 わたくしはこの年の地震の事を語るにさきだって、台所町の渋江の家にざしきろうがあったということに説き及ぼすのをかなしむ。これは二階のいっしつめぐらすによつめごうしを以てしたもので、地震の日には工事既におわって、その中はなお空虚であった。もし人がその中にいたならば、渋江の家は死者をいださざることを得なかったであろう。

 座敷牢は抽斎が忍びがたきを忍んで、次男やすよしがために設けたものであった。



その四十七[編集]

 抽斎が岡西氏とくうませた三人の子のうち、ただひとり生き残った次男優善は、しょうじほうしいつらくのために、すこぶる渋江いっかくるしめたものである。優善にはしおだりょうさんというゆうとうなかまがあった。良三はかの蘭軒門下で、指の腹につえを立てて歩いたというようあんが、いえつきむすめに生せた嫡子である。

 わたくしは前に優善が父兄とたしみを異にして、煙草をんだということを言った。しかし酒はこの人の好む所でなかった。優善も良三も、共にけんてきの量なくして、あらゆる遊戯にふけったのである。

 抽斎が座敷牢を造った時、天保六年うまれの優善は二十一歳になっていた。そしてその密友たる良三は天保八年生で、十八歳になっていた。二人は影の形に従う如く、しゅゆも相離るることがなかった。

 或時優善はまつかわひちょうなのって、よせに看板を懸けたことがある。良三は松川すいちょうと名告って、共に高座に登った。なりものいりで俳優のみぶりこわいろを使ったのである。しかも優善はいわゆるしんうちで、良三はその前席を勤めたそうである。また夏になると、二人は舟をりてすみだがわじょうかして、かげしばいを興行した。一人は津軽家の医官矢島氏の当主、一人は宗家の医官塩田氏のわかだんなである。中にも良三の父は神田まつえだちょうに開業して、市人にとんさいのある、みたての上手な医者と称せられ、そのひはんのためにこしゃみあやまらるるおもてをばひろられて、家は富み栄えていた。それでいて二人共に、こうざに顔をさらすことをはばからなかったのである。

 二人は酒量なきにかかわらず、町々の料理屋にいでいりし、またしばしば吉原に遊んだ。そして借財が出来ると、しんせき故旧をしてつぐのわしめ、たびかさなって償う道がふさがると、跡をくらましてしまう。抽斎が優善のために座敷牢を作らせたのは、そういうしっそうの間の事で、その早晩かえきたるをうかがってこのうちに投ぜようとしたのである。

 十月二日は地震の日である。空はくもって雨が降ったりんだりしていた。抽斎はこの日観劇に往った。しゅうもしゅくれんにも逐次に人のこうてつがあって、ほうかいしや抽斎が今は最年長者として推されていたことであろう。抽斎は早く帰って、晩酌をして寝た。地震はの刻に起った。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まって、震動がようやいきおいを増した。ねまにどてらをしていた抽斎は、ね起きてまくらもとの両刀をった。そして表座敷へ出ようとした。

 寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱がうずたかく積み上げてあった。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れちた。抽斎はその間にはさまって動くことが出来なくなった。

 いおは起きて夫のうしろに続こうとしたが、これはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。

 暫くして若党ちゅうげんが来て、夫妻をたすけ出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかった。

 抽斎は衣服を取り繕うひまもなく、せて隠居のぶゆきを柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往った。信順は柳島のていたくが破損したので、後にはまちょうの中屋敷に移った。当主ゆきつぐは弘前にいて、上屋敷には家族のみが残っていたのである。

 抽斎は留守居比良野さだかたに会って、きゅうじゅつの事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、むねくるにいとまあらず、直ちにりんまい二万五千俵を発して、本所の窮民をにぎわすことを令した。勘定奉行ひらかわはんじはこの議にあずからなかった。平川は後に藩士がことごとく津軽にうつるに及んで、独りながいとまを願って、ふかがわこめみせを開いた人である。



その四十八[編集]

 抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると、住宅は悉くかたぶき倒れていた。二階の座敷牢はふんせいせられてあとだにとどめなかった。たいもんの小姓組ばんがしらつちや佐渡守くになおの屋敷は火を失していた。

 地震はそのんでは起り、起ってはんだ。町筋ごとに損害の程度はあいことなっていたが、江戸の全市に家屋土蔵のむきずなものは少かった。上野の大仏は首が砕け、やなかてんのうじの塔はくりんが落ち、浅草寺の塔は九輪がかたぶいた。数十カ所から起った火は、三日の朝辰の刻に至って始て消された。おおやけに届けられた変死者が四千三百人であった。

 三日以後にも昼夜数度の震動があるので、ていたくのあるものは庭にこやがけをして住み、市民にも露宿するものが多かった。将軍家定は二日のよるふきあげの庭にあるたきみぢゃやに避難したが、本丸の破損が少かったので翌朝帰った。

 幕府の設けたすくいごやは、さいわいばし外に一カ所、上野に二カ所、浅草に一カ所、深川に二カ所であった。

 この年抽斎は五十一歳、いおは四十歳になって、子供にはくがみき、専六、すいざんの四人がいた。矢島やすよしの事は前に言った。五百の兄広瀬栄次郎がこの年四月十八日に病死して、その父のしょう牧は抽斎のもときぐうした。

 牧は寛政二年うまれで、はじめ五百の祖母がこまづかいに雇った女である。それが享和三年に十四歳で五百の父忠兵衛の妾になった。忠兵衛が文化七年にかみどいややまいちの女くみをめとった時、牧は二十一歳になっていた。そこへ十八歳ばかりのくみは来たのである。くみはふうかふところごで、性質が温和であった。後に五百と安とを生んでから、気象の勝った五百よりは、内気な安の方が、母の性質をけ継いでいると人に言われたのに徴しても、くみがどんな女であったかと言うことは想い遣られる。牧は特にかんと称すべき女でもなかったらしいが、とにかく三つの年上であって、せいこにさえ通じていたから、くみがただにこれを制することが難かったばかりでなく、ややもすればこれに制せられようとしたのも、もとよりあやしむに足らない。

 既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、ついで文化十四年に次男某を生むに当って病にかかり、生れた子とともに世を去った。この最後の産の前後の事である。くみは血行の変動のためであったか、じゅうちょうになった。その時牧がくみの事をたびたびつんぼと呼んだのを、六歳になった栄次郎が聞きとがめて、のちまでも忘れずにいた。

 五百は六、七歳になってから、兄栄次郎にこの事を聞いて、ひどくいきどおった。そして兄にいった。「そうして見ると、わたしたちには親のかたきがありますね。いつかいさんと一しょにかたきを討とうではありませんか」といった。そののち五百は折々ほうきちりはらいを結び附けて、そうしゅの如くにし、これに衣服をまとって壁に立て掛け、さてこれをいきおいをなして、「おのれ、母のかたき、思い知ったか」などと叫ぶことがあった。父忠兵衛も牧も、少女の意のす所をさとっていたが、父ははばかってあえて制せず、牧はおそれて咎めることが出来なかった。

 牧はいかにもして五百の感情をやわげようと思って、甘言を以てこれをいざなおうとしたが、五百は応ぜなかった。牧はまた忠兵衛に請うて、五百におのれを母と呼ばせようとしたが、これは忠兵衛が禁じた。忠兵衛は五百の気象を知っていて、かくの如き手段のかえってその反抗心を激成するに至らんことを恐れたのである。

 五百が早く本丸にり、また藤堂家に投じて、始終家にとおざかっているようになったのは、父の希望があり母の遺志があって出来た事ではあるが、一面には五百自身が牧とともおきふしすることをこころよからず思って、よそへ出て行くことを喜んだためもある。

 こういう関係のある牧が、今よるべを失って、五百の前にこうべを屈し、渋江氏の世話を受けることになったのである。五百はうらみに報ゆるに恩を以てして、牧のおいを養うことを許した。



その四十九[編集]

 安政三年になって、抽斎は再び藩の政事にくちばしれた。抽斎の議の大要はこうである。弘前藩はすべからく当主ゆきつぐと要路の有力者数人とを江戸にとどめ、隠居のぶゆき以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしというのである。その理由の第一は、時勢既に変じてたにんずの江戸づめはその必要を認めないからである。なにゆえというに、もと諸侯の参勤、及これに伴う家族の江戸における居住は、徳川家に人質を提供したものである。今将軍は外交の難局に当って、旧慣をて、冗費を節することをはかっている。諸侯に土木のてつだいを命ずることをめ、府内を行くに家にまどぶたもうくることをとどめたのを見ても、その意向をうかがうに足る。たとい諸侯が家族を引き上げたからといって、幕府はもはやこれを抑留することはなかろう。理由の第二は、今の多事の時にあたって、二、三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これにせいちゅうを加うることなく、当主を輔佐して臨機の処置にでしむるを有利とするからである。由来弘前藩には悪習慣がある。それは事あるごとに、藩論が在府党と在国党とにわかれて、じんぜん決せざることである。甚だしきに至っては、在府党は郷国の士をののしってくにざるといい、その主張する所は利害を問わずして排斥する。かくの如きは今の多事の時に処するゆえんの道でないというのである。

 この議は同時に二、三主張するものがあって、是非の論がさかんに起った。しかし後にはこれにさたんするものも多くなって、順承がていのうしようとした。浜町の隠居信順がこれを見て大いにいかった。信順は平素国猿を憎悪することのもっとはなはだしいいちにんであった。

 この議に反対したものは、ひとり浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士のほとんど全体は弘前にくことを喜ばなかった。中にも抽斎としんぜんであった比良野さだかたは、抽斎のこの議を唱うるを聞いて、きたって論難した。議からざるにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、ことごとく窮北の地にうつそうとするは、忍べるの甚しきだというのである。抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかった。貞固はこれがために一時抽斎とまじわりを絶つに至った。

 この頃くにがっての議に同意していた人々のうち、津軽家の継嗣問題のために罪を獲たものがあって、かの議を唱えた抽斎らは肩身の狭いおもいをした。継嗣問題とは当主ゆきつぐが肥後国熊本の城主細川越中守なりもりの子のぶごろうつぐてるを養おうとするに起った。順承はむすめたまひめを愛して、これに壻を取って家を護ろうとしていると、津軽家下屋敷の一つなる本所おおかわばた邸が細川邸と隣接しているために、斉護と親しくなり、遂に寛五郎を養子にもらい受けようとするに至った。罪を獲た数人は、血統を重んずる説を持して、この養子を迎うることを拒もうとし、順承はこれを迎うるに決したからである。即ちそばようにん加藤清兵衛、用人兼松はんたゆうは帰国のうえ隠居謹慎、兼松三郎は帰国の上ながちっきょを命ぜられた。

 せききょ即ち兼松三郎は後にむせいと題してしちこを作った。うちに「またおもうせいしそくせいののちけいしいまださだまらずぶつぎつたうみぶんをかえりみずけんずるところありよりてけんせきをおかしてほくせんにざす」の句がある。そのとがめを受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈った。中に「かんこうたまたまそしられくつげんはひとりきよし、」という語があった。

 この年抽斎の次男矢島やすよしは、遂に素行修まらざるがために、おもていしゃへんしてこぶしん医者とせられ、抽斎もまたこれにれんけいして閉門さんじつに処せられた。



その五十[編集]

 優善のなかまになっていた塩田りょうさんは、父の勘当をこうむって、抽斎の家のしょっかくとなった。我子のらんぎょうのためにせめを受けた抽斎が、その乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家におらせたのは、余りに寛大に過ぎるようであるが、これは才を愛する情が深いからの事であったらしい。抽斎は人のすんちょうをもみのがさずに、これにほうごを加えて、ほとんどそのかしを忘れたるが如くであった。年来森きえんふえきしているのもこれがためである。今良三を家に置くに至ったのも、良三に幾分の才気のあるのを認めたからであろう。もとより抽斎のもとには、常に数人の諸生が養われていたのだから、良三はただこのむれあらたきたり加わったに過ぎない。

 すうげつのちに、抽斎は良三をあさかごんさいの塾に住み込ませた。これより先艮斎は天保十三年に故郷に帰って、にほんまつにある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来しょうへいこうの教授になっていた。抽斎はの終始れんけいの学を奉じていた艮斎とは深く交らなかったのに、これに良三を託したのは、良三のりさいたるべきを知って、これを培養することをはかったのであろう。

 抽斎の先妻徳のさとかた岡西氏では、この年七月二日に徳の父栄玄が歿し、次いで十一月十一日に徳の兄玄亭が歿した。

 栄玄は医を以て阿部家に仕えた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であったので、抽斎はこれとまじわりを訂し、遂にその妹徳をめとるに至ったのである。徳の亡くなったのちも、次男優善がそのしゅつであるので、抽斎いっけは岡西氏と常に往来していた。

 栄玄はぼくちょくな人であったが、往々性癖のために言行のきくゆるを見た。かつて八文の煮豆を買ってねずみいらずの中に蔵し、しばしばその存否を検したことがある。また或日ぶり一尾を携え来って、抽斎におくり、帰途に再びわんことを約して去った。五百はためにしゅぜんを設けようとしてすこぶる苦心した。それは栄玄がぜんに対してしゃしを戒めたことが数次であったからである。抽斎は遺られた所の海鰱をきょうすることを命じた。栄玄は来て饗を受けたが、いろ悦ばざるものの如く、遂に「客にこんなちそうをすることは、わたしのうちではない」といった。五百が「これはお持たせでございます」といったが、栄玄は聞えぬふりをしていた。調理法がよすぎたのであろう。

 もっとも抽斎をして不平に堪えざらしめたのは、栄玄が庶子とまを遇することの甚だ薄かったことである。苫は栄玄がちゅうかに生せたむすめである。栄玄はこれを認めて子としたのに、「あんなきたない子は畳の上には置かれない」といって、板のござを敷いて寝させた。当時栄玄の妻は既に歿していたから、これはかとうししくを恐れたのではなく、全く主人の性癖のためであった。抽斎は五百にはかって苫を貰い受け、後しもうさの農家に嫁せしめた。

 栄玄の子で、父に遅るることわずかしげつにして歿した玄亭は、名をとくえいあざなろちょくといった。抽斎の友である。玄亭には二男一女があった。長男は玄庵、次男は養玄である。むすめは名をはつといった。

 この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎がへいぜいの学術上けんさんの外に最も多くおもいを労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起したくにがっての議だといわなくてはなるまい。この議のまさに及ぼすべき影響の大きさと、この議の打ちたなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識していた所であろう。抽斎はまた自己がそのくらいにあらずして言うことの不利なるをも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれをあえてしたのは、必ず内にやむことをえざるものがあって敢てしたのであろう。うらむらくは要路に取ってこれを用いる手腕のある人がなかったために、弘前は遂に東北諸藩の間において一頭地を抜いてつことが出来なかった。また遂に勤王のきしあきらかにする時期の早きを致すことが出来なかった。



その五十一[編集]

 安政四年には抽斎の七男しげよしが七月二十六日を以て生れた。おさななさんきち、通称はどうりくである。即ち今のたもつさんで、父は五十三歳、母は四十二歳の時の子である。

 成善の生れた時、岡西玄庵がえなを乞いに来た。玄庵は父玄亭に似てしゅくけいであったが、嘉永三、四年の頃てんかんを病んで、低能の人と化していた。天保六年のうまれであったから、病を発したのが十六、七歳の時で、今は二十三歳になっている。胞衣を乞うのは、癲癇のやくほうとして用いんがためであった。

 抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持って帰った。この時これを惜んでひとよを泣き明したのは、昔抽斎の父ただしげの茶碗のよれきねぶったという老尼みょうりょうである。妙了は年久しく渋江の家に寄寓していて、つねしょうにの世話をしていたが、中にも抽斎の三女とうを愛し、今また成善の生れたのを見て、大いにこれを愛していた。それゆえ胞衣を玄庵に与えることを嫌った。俗説に胞衣を人に奪われた子は育たぬというからである。

 この年さきへんちつせられた抽斎の次男矢島やすよしは、わずかおもていしゃすけを命ぜられて、なかばその位地を回復した。優善の友塩田りょうさんあさかごんさいの塾に入れられていたが、或日師の金百両をふところにして長崎にはしった。父楊庵は金を安積氏にかえし、人を九州にって子を連れ戻した。良三はまだのこりの金を持っていたので、迎えに来た男をしたがえて東上するのに、駅々で人におごること貴公子の如くであった。この時肥後国熊本の城主細川越中守なりもりの四子のぶごろうは、津軽ゆきつぐじょせいにせられて東上するので、途中良三と旅宿を同じうすることがあった。斉護は子をしてかじょうに通ぜしめんことを欲し、特に微行を命じたので、寛五郎と従者とは始終質素を旨としていた。きょうし良三は往々五十四万石の細川家から、十万石の津軽家に壻入する若殿をしのいで、旅中かふうに立っている少年のたれなるかを知らずにいた。寛五郎は今の津軽伯で、当時わずかに十七歳であった。

 小野氏ではこの年れいとが致仕して、子ふこくが家督した。令図はおさななけいじろうという。抽斎の祖父ほんこうの庶子で、母を横田氏よのという。よのは武蔵国かわごえの人某のむすめである。令図はでて同藩の医官二百石おのどうしゅうまつご養子となり、ゆうしょうと称し、のちまたどうえいと称し、累進して近習医者に至った。天明三年十一月二十六日うまれで、致仕の時七十五歳になっていた。令図に一男一女があって、だんふこくといい、じょひでといった。

 富穀、通称は祖父と同じく道秀といった。文化四年のうまれである。十一歳にして、森きえんと共に抽斎のていしとなった。家督の時は表医者であった。令図、富穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩じょうふ中のふうじんであった。妹秀ははせがわちょうの外科医かもいけどうせきに嫁した。

 多紀氏ではこの年二月十四日に、矢の倉のばつけさいていが六十三歳で歿し、十一月にむこうやなぎはらの本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくしの所蔵の安政四年「武鑑」は、茝庭が既にいて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、茝庭の子あんたくが多紀安琢二百俵、父らくしゅんいんとして載せてあり、暁湖は旧にって多紀あんりょうほうげん二百俵、父あんげんとして載せてある。茝庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。そのなんの故なるをつまびらかにしない。



その五十二[編集]

 さいてい、名はげんけんあざなえきじゅう、一にさんしょうと号す。通称はあんしゅくのち楽真院また楽春院という。寛政七年にけいざんの次男に生れた。幼時犬をたたかわしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄にかずというを以て責めると、「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。いくばくもなくして節を折って書を読み、精力しゅうえ、識見ひとを驚かした。分家したはじめほんこくちょうに住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。ちつろくそうかと同じく二百俵三十人扶持である。

 茝庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単にやくじを給するのみでなく、夏はかやおくり、冬はふとんおくった。また三両から五両までの金を、ひんるの度に従って与えたこともある。

 茝庭は抽斎の最も親しい友のひとりで、にかの往来はひんぱんであった。しかし当時法印の位ははなはとうといもので、茝庭が渋江の家に来ると、茶は台のありふたのある茶碗にぎ、菓子はたかつきに盛って出した。このうつわは大名と多紀法印とにちゃかを呈する時に限って用いたそうである。茝庭ののちあんたくいだ。

 暁湖、名は元昕、字はちょうじゅ、通称はあんりょうであった。桂山の孫、りゅうはんの子である。文化三年に生れ、文政十年六月三日に父をうしなって、八月四日に宗家を継承した。暁湖ののちいだのは養子げんきつで、実はすえの弟である。

 安政五年には二月二十八日に、抽斎の七男しげよしが藩主津軽ゆきつぐに謁した。年はじめて二歳、今のよわいを算する法に従えば、生れて七カ月であるから、人にいだかれて謁した。しかし謁見は八歳以上と定められていたので、この日だけは八歳と披露したのだそうである。

 五月十七日には七女さきが生れた。幸は越えて七月六日に早世した。

 この年には七月から九月に至るまでコレラが流行した。徳川家定は八月二日に、「少々おんすぐれあそばされず」ということであったが、八日にはたちまこうきょの公報が発せられ、いえなりの孫紀伊宰相よしとみが十三歳でしりつした。家定の病は虎列拉であったそうである。

 この頃抽斎はいおにこういう話をした。「おれは公儀へ召されることになるそうだ。それが近い事でくぼうさまの喪が済み次第おおせつけられるだろうということだ。しかしそれをおうけをするには、どうしても津軽家の方を辞せんではいられない。己は元禄以来重恩のしゅうけてて栄達をはかる気にはなられぬから、公儀の方を辞するつもりだ。それには病気を申立てる。そうすると、津軽家の方で勤めていることも出来ない。己は隠居することにめた。父は五十九歳で隠居して七十四歳で亡くなったから、己もかねて五十九歳になったら隠居しようと思っていた。それがただ少しばかり早くなったのだ。もし父と同じように、七十四歳まで生きていられるものとすると、これから先まだ二十年ほどの月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をする。先ず『ろうし』の註をはじめとして、迷庵えきさいに誓ったしごとを果して、それから自分の為事に掛かるのだ」といった。公儀へ召されるといったのは、奥医師などに召し出されることで、抽斎はその内命を受けていたのであろう。然るに運命は抽斎をしてこのヂレンマの前に立たしむるに至らなかった。また抽斎をして力を述作にほしいままにせしむるに至らなかった。



その五十三[編集]

 八月二十二日に抽斎は常の如くばんさんぜんに向った。しかし五百が酒をすすめた時、抽斎はげぶつさしみはしくださなかった。「なぜあがらないのです」と問うと、「少し腹工合が悪いからよそう」といった。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の日であったのを、所労を以て辞した。この日に始ておうどがあった。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に険悪になるばかりであった。

 多紀あんたくおなじくげんきつ、伊沢柏軒、山田ちんていらがびょうしょうに侍して治療の手段を尽したが、功を奏せなかった。椿庭、名はぎょうこう、通称はしょうえいである。抽斎の父ただしげの門人で、允成の歿後抽斎に従学した。こうずけのくに高崎の城主松平うきょうのすけてるとしの家来で、本郷ゆみちょうに住んでいた。

 抽斎はじじせんごした。これを聞くに、むびあいだに『医心方』をきょうごうしているものの如くであった。

 抽斎の病況は二十八日に小康を得た。ゆいごんうちに、兼て嗣子と定めてあったしげよしを教育する方法があった。けいしょを海保漁村に、ひっさつを小島成斎に、『そもん』を多紀安琢に受けしめ、機をらんごを学ばしめるようにというのである。

 二十八日の夜うしの刻に、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二時である。年は五十四歳であった。いがいやなか感応寺に葬られた。

 抽斎の歿した跡には、四十三歳のびぼうじん五百を始として、岡西氏のしゅつ次男矢島やすよし二十四歳、四女くが十二歳、六女みき六歳、五男せんろく五歳、六男すいざん四歳、七男しげよし二歳の四子二女が残った。優善を除く外は皆山内氏五百のしゅつである。

 抽斎の子にして父にさきだって死んだものは、尾島氏のしゅつ長男つねよし、比良野氏の出馬場げんきゅう妻長女いと、岡西氏の出二女よし、三男八三郎、山内氏の出三女山内とう、四男幻香、五女きし、七女さきの三子五女である。

 矢島優善はこの年二月二十八日に津軽家の表医者にせられた。はじめの地位に復したのである。

 五百の姉壻長尾宗右衛門は、抽斎にさきだつこといちげつ、七月二十日に同じ病を得て歿した。次で十一月十五日の火災に、横山町の店も本町の宅も皆焼けたので、ぬりものどいやの業はここに廃絶した。跡にのこったのは未亡人安四十四歳、長女けい二十一歳、次女せん十九歳の三人である。五百は台所町のやしきくうちに小さい家を建ててこれを迎え入れた。五百は敬に壻を取って長尾氏のまつりを奉ぜしめようとして、安に説き勧めたが、安は猶予して決することが出来なかった。

 比良野さだかたは抽斎の歿した直後から、しきりに五百に説いて、渋江氏の家を挙げて比良野邸に寄寓せしめようとした。貞固はこういった。自分は一年ぜんに抽斎と藩政上の意見を異にして、一時絶交の姿になっていた。しかし抽斎とのじょうぎを忘るることなく、早晩ちゅうせきしたしみを回復しようと思っているうちに、図らずも抽斎に死なれた。自分はどうにかして旧恩に報いなくてはならない。自分の邸宅にはくうしつが多い。どうぞそこへ移って来て、わがいえに住む如くに住んでもらいたい。自分はまずしいが、にちにちの生計には余裕がある。決して衣食のあたいは申し受けない。そうすれば渋江いっけは寡婦孤児として受くべきあなどりを防ぎ、無用のついえを節し、安んじて子女の成長するのを待つことが出来ようといったのである。



その五十四[編集]

 比良野貞固は抽斎の遺族を自邸に迎えようとして、五百に説いた。しかしそれは五百をらぬのであった。五百は人のぶかることを甘んずる女ではなかった。渋江一家の生計は縮小しなくてはならぬこともちろんである。夫の存命していた時のように、多くのぬひを使い、しょっかくくことは出来ない。しかし譜代の若党や老婦にして放ち遣るに忍びざるものもある。寄食者のうちには去らしめようにもいて投ずべき家のないものもある。長尾氏の遺族の如きも、もし独立せしめようとしたら、定めて心細く思うことであろう。五百はおのれが人にらんよりは、人をして己に倚らしめなくてはならなかった。そして内にたのむ所があって、あえて自らこのしょうに当ろうとした。貞固の勧誘の功を奏せなかったゆえんである。

 森きえんはこの年十二月五日に徳川いえもちに謁した。寿蔵碑には「安政五年ぼご十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、このねんげつじつは家定がこうじてからしげつのちである。その枳園自撰の文なるを思えば、すこぶあやしむべきである。枳園が謁したはずの家茂は十三歳の少年でなくてはならない。家定はこれに反して、薨ずる時三十五歳であった。

 この年のコレラは江戸市中において二万八千人の犠牲を求めたのだそうである。当時のぶんじんでこれに死したものには、いわせけいざんあんどうひろしげほういつ門のすずきひつあん等がある。いちかわべいあんも八十歳の高齢ではあったが、同じ病であったかも知れない。渋江氏とそのいんせきとは抽斎、宗右衛門のににんうしなって、五百、安の姉妹が同時に未亡人となったのである。

 抽斎のあらわす所の書には、先ず『経籍訪古志』と『りゅうしんふ』とがあって、あいついで支那人の手にって刊行せられた。これは抽斎とその師、その友との講窮し得たる果実で、森枳園が記述にあずかったことは既にいえるが如くである。抽斎の考証学の一面はこの二書が代表している。じょしょうそが『訪古志』に序して、「たいていはぜんしゃかんこくのこうをろんじこうしょうにつたなくはなはだしくはりゅういせず」といっているのは、我国においてはじめて手をこうしゅうの事にくだした抽斎らに対して、備わるを求むることのはなはだ過ぎたるものではなかろうか。

 我国における考証学の系統は、海保漁村に従えば、よしだこうとんが首唱し、狩谷えきさいがこれに継いで起り、以て抽斎と枳園とに及んだものである。そして篁墩の傍系には多紀桂山があり、棭斎の傍系には市野迷庵、多紀さいてい、伊沢蘭軒、こじまほうそがあり、抽斎と枳園との傍系には多紀暁湖、伊沢柏軒、小島ほうちゅう、堀川舟庵と漁村自己とがあるというのである。宝素は元表医師百五十俵三十人扶持小島春庵で、いずみばしどおりに住していた。名はしょうしつ、一がくこである。抱沖はその子しゅんきで、百俵よりあい医師から出て父の職をぎ、家は初めしたやにちょうまち、後にほんばしくれまさちょうにあった。名はしょうしんである。春沂ののちしゅんいく、名はしょうけいいだ。春澳の子は現に北海道むろらんにいるこういちさんである。くがみのるが新聞『日本』に抽斎の略伝を載せた時、誤って宝素を小島成斎とし、抱沖を成斎の子としたが、今にいたるまでたれもこれをたださずにいる。またこの学統について、ながいきんぷうさんは篁墩の前にいのうえらんだいと井上きんがとを加えなくてはならぬといっている。要するにこれらの諸家が新に考証学の領域を開拓して、抽斎が枳園と共に、まさにわずかに全著を成就するに至ったのである。

 わたくしは『訪古志』と『留真譜』との二書は、今少し重く評価して可なるものであろうと思う。そしてけいじつ国書刊行会が『訪古志』を『解題叢書』中に収めて縮刷し、その伝を弘むるに至ったのを喜ぶのである。



その五十五[編集]

 抽斎の医学上の著述には、『そもんしきしょう』、『素問校異』、『れいすう講義』がある。なかんずく『素問』は抽斎の精をつくして研窮した所である。海保漁村撰の墓誌に、抽斎が『せつもん』を引いて『素問』の陰陽結斜はけつきゅうなりと説いたことが載せてある。また七損八益を説くに、『ぎょくぼうひけつ』を引いて説いたことが載せてある。『霊枢』の如きも「せいならざればすなわちせいとうたらずじんげんまたじんじんことなる」の文中、抽斎が正当をれんぶんとなしたのを賞してある。抽斎の説には発明きわめて多く、かくの如き類はそのいっぱんに過ぎない。

 抽斎遺す所のしゅたくぼんには、往々欄外書のあるものを見る。此の如き本には『老子』がある。『なんけい』がある。

 抽斎の詩はその余事に過ぎぬが、なお『抽斎吟稿』一巻が存している。以上は漢文である。

『護痘要法』は抽斎か池田けいすいの説をひつじゅしたもので、抽斎の著述中江戸時代に刊行せられた唯一の書である。

 雑著には『あんし春秋筆録』、『劇神仙話』、『たかおこう』がある。『劇神仙話』は長島五郎作のことを録したものである。『高尾考』はおしむらくは完書をなしていない。

えいご』は抽斎が国文を以て学問の法程をして、きゅうもんの子弟に示す小冊子に命じた名であろう。この文の末尾に「天保しんぼうきしゅう抽斎すいすい中にえいげんす」と書してある。辛卯は天保二年で、抽斎が二十七歳の時である。しかし現存している一巻には、この国文八枚がこうしょくの半紙に写してあって、その前に白紙に写した漢文の草稿二十九枚がごうてつしてある。そのもくを挙ぐれば、はんもんいぶんべんぶっせつあみだきょうひ、春秋外伝国語ばつそうしちゅうそ跋、儀礼跋、はちふんしょこうきょう跋、きつろく跋、ちゅうきょしとくしんきょうしゃくぶん跋、せいき書目蔵書目録跋、活字板さでん跋、宋本校正病源候論跋、げんはん再校せんきんほう跋、いしんほうののちにしょすちくよしまさおうぼけつらくだこうたんたん、論語義疏跋、らんけんせんせいのれいにつぐの十八篇である。この一冊は表紙に「㦣語、抽斎述」の五字がてんぶんで題してあって、首尾すべて抽斎の自筆である。とくとみそほうさんの蔵本になっているのを、わたくしは借覧した。

 抽斎随筆、雑録、日記、備忘録の諸冊中には、今すでいつぼうしたものもある。なかんずく日記は文政五年から安政五年に至るまでの三十七年間にわたる記載であって、ほうぜんたる大冊数十巻をなしていた。これはかみただちに天明四年から天保八年に至るまでの五十四年間のただしげの日記に接して、その中間の文政五年から天保八年に至るまでの十六年間は父子の記載が並存していたのである。この一大記録は明治八年二月に至るまで、たもつさんが蔵していた。然るに保さんはとうけいから浜松県に赴任するに臨んで、これをりょうがけに納めて、親戚の家に託した。親戚はその貴重品たるを知らざるがために、これに十分のほうごを加うることを怠った。そしてことごとくこれを失ってしまった。両掛の中にはなお前記の抽斎随筆等十余冊があり、また允成のあらわす所の『ていしょ雑録』等約三十冊があった。おもうにこの諸冊は既にびょうぶふすまつづら等のしたばりの料となったであろうか。それともなにひとかの手に帰して、どこかに埋没しているであろうか。これをそうとうせんと欲するに、由るべき道がない。保さんは今に迨るまで歎惜してまぬのである。

ちょくしゃ伝記抄』八冊は今富士川游君が蔵している。中に題号をいたものが三冊交っているが、主に弘前医官の宿直部屋の日記を抄写したものである。かみは宝永元年からしもは天保九年に至る。しょしょぜんいわくていしょした註がある。宝永元年から天明五年に至る最古の一冊は題号がなく、引用書として『津軽一統志』、『津軽軍記』、『しんよう開記』、『ごけいず三通』、『歴年きかん』、『こうこうぎょうじつ』、『常福寺ゆいしょがき』、『しんりょう院過去帳抄』、『でんぶん雑録』、『とうはん名数』、『たかおかれいげんき』、『諸書あんもん』、『はんかんぷ』が挙げてある。これは諸書について、主に弘前医官に関する事を抄出したものであろう。

つの海』は抽斎の作ったうたいものながうたである。これは書と称すべきものではないが、前に挙げた『護痘要法』とともに、江戸時代に刊行せられた二、三葉のとじぶみである。

『仮面の由来』、これもまたへんぺんたる小冊子である。



その五十六[編集]

りょこうせんふ』は抽斎の作った小説である。かのえとらの元旦に書いたという自序があったそうであるから、その前年に成ったもので、即ち文政十二年二十五歳の時の作であろう。この小説はいおが来り嫁した頃には、まだ渋江の家にあって、五百はすへん読過したそうである。或時それをちくさんさえもんというものが借りて往った。筑山はしもつけのくにあしかがの名主だということであった。そしてついかえさずにしまった。以上は国文で書いたものである。

 この著述のうち刊行せられたものは『経籍訪古志』、『留真譜』、『護痘要法』、『四つの海』の四種に過ぎない。その他は皆写本で、徳富蘇峰さんの所蔵の『えいご』、富士川游さんの所蔵の『ちょくしゃ伝記抄』およびすでさんいつした諸書を除く外は、皆たもつさんが蔵している。

 抽斎の著述はおおむかくの如きに過ぎない。致仕したのちに、力を述作にほしいままにしようと期していたのに、不幸にしてえきれいのためにめいおとし、かつて内に蓄うる所のものが、遂にほかあらわるるに及ばずしてんだのである。

 わたくしはここに抽斎の修養について、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地かられば、経籍は批評の対象である。在来の文を取ってこんろんに承認すべきものではない。ここにおいて考証家のまつばいには、破壊を以て校勘の目的となし、ごうもピエテエのあとを存せざるに至るものもある。支那における考証学亡国論の如きは、もとよりじんぶん進化の道をへいそくすべきろうけんであるが、考証学者中に往々修養のない人物をだしたという暗黒面は、その存在を否定すべきものではあるまい。

 しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養のまったからんことを欲するには、考証をくことは出来ぬと信じている。なにゆえというに、修養にはりくけいを窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証につことがあるというのである。

 抽斎はその『えいご』中にこういっている。「およそ学問の道は、りくけいを治めせいじんの道を身に行ふを主とする事はもちろんなり。さてその六経を読みあきらめむとするには必ず其いちげん一句をもつまびらかに研究せざるべからず。一言一句を研究するには、もんじの音義をつまびらかにすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、づ善本を多く求めて、異同をひしゅうし、びゅうごを校正し、其字句を定めてのちに、小学に熟練して、義理始て明了なることをたとへば高きに登るに、ひくきよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、さいさいまつぎょうに似たれども、必ずこれをなさざれば、聖人の大道微意を明むることあたはず。(中略)故に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得がたきたいぎょうに似たれども、其内しゅとする所の書をもっぱら読むを緊務とす。それはいづれにも師とする所の人にしたがひておしえを受くべき所なり。さてかくの如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大道微意に通達すること必ず成就すべし」といっている。

 これは抽斎の本領を道破したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何にって修養していか分からぬことになるというのである。さて抽斎のかくの如き見解は、全く師市野迷庵のおしえに本づいている。



その五十七[編集]

 迷庵の考証学がいかなるものかということは、『読書指南』について見るべきである。しかしその要旨は自序一篇に尽されている。迷庵はこういった。「こうしぎょうしゅん三代の道を述べて、その流義を立てたまへり。堯舜より以下を取れるは、其事のあきらかに伝はれる所なればなり。されども春秋のころにいたりて、世変り時うつりて、其道一向に用ゐられず。孔子もつては見給へども、遂に行かず。ついかえり、六経を修めて後世に伝へらる。これその堯舜三代の道を認めたまふゆゑなり。儒者は孔子をまもりて其経を修むるものなり。故に儒者の道を学ばむと思はゞ、先づ文字をせいだして覚ゆるがよし。次にきゅうけいをよく読むべし。漢儒の注解はみないにしえより伝受あり。自分のおくせつをまじへず。故に伝来を守るが儒者第一の仕事なり。(中略)宋の時ていいしゅきおのが学を建てしより、近来いとうげんさおぎゅうそうえもんなどとふやから、みなおのれの学を学とし、是非を争ひてやまず。世の儒者みなまっくらになりてわからず。余もまたわかかりしよりこの事を学びしが、迷ひてわからざりし。ふと解する所あり。学令のむねにしたがひて、それ/″\の古書をよむがよしと思へり」といった。

 要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証にって至るより外ないと信じたのである。もとよりこれはしょうけいではない。迷庵が精出して文字を覚えるといい、抽斎が小学に熟練するといっているこの事業は、これがためにいちにんの生涯をついやすかも知れない。幾多のジェネラションのこの間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものがないとすると、学者はここに従事せずにはいられぬのである。

 然らば学者は考証中に没頭して、修養にいとまがなくなりはせぬか。いや。そうではない。考証は考証である。修養は修養である。学者は考証の長途を歩みつつ、不断の修養をなすことが出来る。

 抽斎はそれをこう考えている。百家の書に読まないでいものはない。十三ぎょうといい、九経といい、六経という。ならべ方はどうでも好いが、しんかかれたがくけいは除くとして、これだけは読破しなくてはならない。しかしこれを読破した上は、大いに功を省くことが出来る。「聖人の道とことごとしくへども、前に云へる如く、六経を読破したる上にては、論語、老子の二書にて事足るなり。其中にもすぎたるはなおおよばざるがごとししんこうの要とし、ぶいふげんを心術のおきてとなす。此二書をさへく守ればすむ事なり」というのである。

 抽斎はひゃくせきかんとう更に一歩を進めてこういっている。「ただし論語の内には取捨すべき所あり。おうじゅうしょもんこうへん及迷庵師の論語数条を論じたる書あり。皆参考すべし」といっている。王充のいわゆる「それせいけんのふでをくだしぶんをつくるやいをもちいてくわしくつまびらかにするもなおいまだことごとくはじつをうというべからずいわんやそうそつのとげんいずくんぞよくみなぜならんや」という見識である。

 抽斎が『老子』を以て『論語』と並称するのも、師迷庵の説に本づいている。「天はそうそうとしてかみにあり。人はりょうかんに生れて性皆相近し。ならい相遠きなり。世の始より性なきの人なし。習なきの俗なし。世界万国皆其国々の習ありて同じからず。其習は本性の如く人にしみ附きて離れず。老子は自然と説く。これ。孔子いわくのべてつくらずしんじていにしえをこのむひそかにわれをろうほうにひす。かくのたもふときは、孔子の意もまた自然に相近し」といったのが即ちこれである。



その五十八[編集]

 抽斎は『老子』をそんそうせんがために、先ずこれをヂスクレヂイにおとしいれた仙術を、道教のしんいき外にうことをはかった。これは早くしんほういでんかけいばんの『ほうぼくし』に序して弁じた所である。さてこのせんえんおこなったのちにこういっている。「老子の道は孔子と異なるに似たれども、その帰する所は一意なり。ひとのおのれをしらざるをうれえずそうしあれどもなきがごとくじつなれどもきょなるがごとしなどとへる、皆老子の意に近し。かつ自然と云ふこと、万事にわたりて然らざることを得ず。(中略)又ぶっかまくねんに帰すると云ふことあり。くうに体する大乗のおしえなり。自然と云ふより一層あとなきことなり。その小乗の教は一切の事皆式に依りて行へとなり。孔子の道もこうていじんぎより初めて諸礼法は仏家の小乗なり。そのいつもってこれをつらぬくは此教を一にしてしっちゅうに至り初て仏家大乗のいちじょうに至る。執中以上を語れば、孔子釈子同じ事なり」といっている。

 抽斎はついに儒、道、釈の三教の帰一に到着した。もしこの人が旧新約書を読んだなら、あるいはそのうちにもけいごうてんを見出だして、やすいそっけんの『べんもう』などと全く趣をことにした書をあらわしたかも知れない。

 以上は抽斎の手記した文について、その心術しんこうってきたる所を求めたものである。この外、わたくしの手元には一種の語録がある。これはいおが抽斎に聞き、保さんが五百に聞いた所を、このごろ保さんがわたくしのために筆にのぼせたのである。わたくしは今みだりに潤削を施すことなしに、これをここに収めようと思う。

 抽斎は日常宋儒のいわゆるぐていの十六字を口にしていた。の「じんしんこれあやうくどうしんこれびなりこれせいこれいつまことにそのちゅをとる〈[#ルビの「まことにそのちゅをとる」はママ]〉」の文である。かみの三教帰一の教は即ちこれである。抽斎は古文尚書の伝来を信じた人ではないから、これを以て堯の舜に告げたこととなしたのでないことは勿論である。そのこれを尊重したのは、こげん古義として尊重したのであろう。そしてこれせいこれいつの解釈はおうようめいに従うべきだといっていたそうである。

 抽斎は『れい』の「せいめいみにあればしきしんのごとし」の句と、『そもん』のじょうこてんしんろんの「てんたんとしてきょむならばしんきこれにしたがうせいしんうちにまもればやまいいずくんぞしたがいきたらん」の句とをしょうして、修養して心身のこうねいを致すことが出来るものと信じていた。抽斎は眼疾を知らない。歯痛を知らない。腹痛は幼い時にあったが、壮年に及んでからはたえてなかった。しかしコレラの如き細菌の伝染をばいかんともすることを得なかった。

 抽斎は自ら戒め人を戒むるに、しばしばたくざんかんの「きゅうしこう」を引いていった。学者はしさいに「しょうしょうとしておうらいすればともはなんじのおもいにしたがう」という文をあじわうべきである。即ち「くんしはそのくらいにそしておこないそのほかをねがわず」の義である。人はその地位に安んじていなくてはならない。父ただしげがおる所のしつようあんしつと名づけたのは、これがためである。医にして儒をうらやみ、商にして士を羨むのは惑えるものである。「てんかなにをかおもいなにをかおもんぱからんてんかきをおなじくしてみちをことにしちをいつにしてりょをひゃくにす」といい、「ひゆけばすなわちつききたりつきゆかばすなわちひきたりじつげつあいおしてひかりうまるかんゆけばすなわちしょきたりしょゆけばすなわちかんきたりかんしょあいおしてとしなる」というが如く、人の運命にもまた自然の消長がある。すべからく自重して時のいたるを待つべきである。

せきかくのくっするはもってのびんことをもとむるなりりょうだのかくるるはもってみをながらえるなり」とはこれのいいであるといった。五百の兄広瀬栄次郎がすでに町人をめてきんざの役人となり、そののち久しくかねふきかえがないのを見て、また業をあらためようとした時も、抽斎はこのこうを引いてさとした。



その五十九[編集]

 抽斎はしばしばちらいふくしょきゅうこうを引いて人を諭した。「とおからずしてかえるくいにいたることなし」の爻である。あやまちを知ってく改むる義で、がんえんの亜聖たるゆえんここに存するというのである。抽斎はいつもその跡で言い足した。しかし顔淵のこうしょただにこれのみではない。「かいのひととなりやちゅうようをえらびいちぜんをうれば