その一[編集]
三十七年如一瞬。学医伝業薄才伸。栄枯窮達任天命。安楽換銭不患貧。これは渋江抽斎の述志の詩である。想うに天保十二年の暮に作ったものであろう。弘前の城主津軽順承の定府の医官で、当時近習詰になっていた。しかし隠居附にせられて、主に柳島にあった信順の館へ出仕することになっていた。父允成が致仕して、家督相続をしてから十九年、母岩田氏縫を喪ってから十二年、父を失ってから四年になっている。三度目の妻岡西氏徳と長男恒善、長女純、二男優善とが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。邸は神田弁慶橋にあった。知行は三百石である。しかし抽斎は心を潜めて古代の医書を読むことが好で、技を售ろうという念がないから、知行より外の収入は殆どなかっただろう。ただ津軽家の秘方一粒金丹というものを製して売ることを許されていたので、若干の利益はあった。
抽斎は自ら奉ずること極めて薄い人であった。酒は全く飲まなかったが、四年前に先代の藩主信順に扈随して弘前に往って、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。煙草は終生喫まなかった。遊山などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしば出入したが、それも同好の人々と一しょに平土間を買って行くことに極めていた。この連中を周茂叔連と称えたのは、廉を愛するという意味であったそうである。
抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を購うと客を養うとの二つの外に出でなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、父祖の手沢を存じている書籍が少くなかっただろうが、現に『経籍訪古志』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うために貲を惜まなかったことは想い遣られる。
抽斎の家には食客が絶えなかった。少いときは二、三人、多いときは十余人だったそうである。大抵諸生の中で、志があり才があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。
抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩を瞥見すれば、抽斎はその貧に安んじて、自家の材能を父祖伝来の医業の上に施していたかとも思われよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはいられない。試みに看るが好い。一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才伸を以て妥に承けられるはずがない。伸るというのは反語でなくてはならない。老驥櫪に伏すれども、志千里にありという意がこの中に蔵せられている。第三もまた同じ事である。作者は天命に任せるとはいっているが、意を栄達に絶っているのではなさそうである。さて第四に至って、作者はその貧を患えずに、安楽を得ているといっている。これも反語であろうか。いや。そうではない。久しく修養を積んで、内に恃む所のある作者は、身を困苦の中に屈していて、志はいまだ伸びないでもそこに安楽を得ていたのであろう。
その二[編集]
抽斎はこの詩を作ってから三年の後、弘化元年に躋寿館の講師になった。躋寿館は明和二年に多紀玉池が佐久間町の天文台址に立てた医学校で、寛政三年に幕府の管轄に移されたものである。抽斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子藍渓、孫桂山、曾孫柳沜が死に、玄孫暁湖の代になっていた。抽斎と親しかった桂山の二男茝庭は、分家して館に勤めていたのである。今の制度に較べて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたようなものである。これと同時に抽斎は式日に登城することになり、次いで嘉永二年に将軍家慶に謁見して、いわゆる目見以上の身分になった。これは抽斎の四十五歳の時で、その才が伸びたということは、この時に至って始て言うことが出来たであろう。しかし貧窮は旧に依っていたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人扶持出ることになり、安政元年にまた職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを以て償うことは出来なかった。謁見の年には、当時の抽斎の妻山内氏五百が、衣類や装飾品を売って費用に充てたそうである。五百は徳が亡くなった後に抽斎の納れた四人目の妻である。
抽斎の述志の詩は、今わたくしが中村不折さんに書いてもらって、居間に懸けている。わたくしはこの頃抽斎を敬慕する余りに、この幅を作らせたのである。
抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。偶少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者の一人として知っているのである。多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものを始として、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、許多の著述がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなるまでに、脱稿しなかったものもある。また既に成った書も、当時は書籍を刊行するということが容易でなかったので、世に公にせられなかった。
抽斎の著した書で、存命中に印行せられたのは、ただ『護痘要法』一部のみである。これは種痘術のまだ広く行われなかった当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作った数種の書の一つで、抽斎は術を池田京水に受けて記述したのである。これを除いては、ここに数え挙げるのも可笑しいほどの『四つの海』という長唄の本があるに過ぎない。但しこれは当時作者が自家の体面をいたわって、贔屓にしている富士田千蔵の名で公にしたのだが、今は憚るには及ぶまい。『四つの海』は今なお杵屋の一派では用いている謡物の一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作である。
然らば世に多少知られている『経籍訪古志』はどうであるか。これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園と分担して書いたものであるが、これを上梓することは出来なかった。そのうち支那公使館にいた楊守敬がその写本を手に入れ、それを姚子梁が公使徐承祖に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになった。その時幸に森がまだ生存していて、校正したのである。
世間に多少抽斎を知っている人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた『経籍訪古志』があるからである。しかしわたくしはこれに依って抽斎を知ったのではない。
わたくしは少い時から多読の癖があって、随分多く書を買う。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆と、ベルリン、パリイの書估との手に入ってしまう。しかしわたくしはかつて珍本を求めたことがない。或る時ドイツのバルテルスの『文学史』の序を読むと、バルテルスが多く書を読もうとして、廉価の本を渉猟し、『文学史』に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないといってあった。わたくしはこれを読んで私かに殊域同嗜の人を獲たと思った。それゆえわたくしは漢籍においても宋槧本とか元槧本とかいうものを顧みない。『経籍訪古志』は余りわたくしの用に立たない。わたくしはその著者が渋江と森とであったことをも忘れていたのである。
その三[編集]
わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。然るに少い時から文を作ることを好んでいたので、いつの間にやら文士の列に加えられることになった。その文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるようになってから、わたくしは徳川時代の事蹟を捜った。そこに「武鑑」を検する必要が生じた。
「武鑑」は、わたくしの見る所によれば、徳川史を窮むるに闕くべからざる史料である。然るに公開せられている図書館では、年を逐って発行せられた「武鑑」を集めていない。これは「武鑑」、殊に寛文頃より古い類書は、諸侯の事を記するに誤謬が多くて、信じがたいので、措いて顧みないのかも知れない。しかし「武鑑」の成立を考えて見れば、この誤謬の多いのは当然で、それはまた他書によって正すことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これに優る史料はない。そこでわたくしは自ら「武鑑」を蒐集することに着手した。
この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江氏蔵書記」という朱印のある本に度々出逢って、中には買い入れたのもある。わたくしはこれによって弘前の官医で渋江という人が、多く「武鑑」を蔵していたということを、先ず知った。
そのうち「武鑑」というものは、いつから始まって、最も古いもので現存しているのはいつの本かという問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を「武鑑」の中に数えるかという、「武鑑」のデフィニションを極めて掛からなくてはならない。
それにはわたくしは『足利武鑑』、『織田武鑑』、『豊臣武鑑』というような、後の人のレコンストリュクションによって作られた書を最初に除く。次に『群書類従』にあるような分限帳の類を除く。そうすると跡に、時代の古いものでは、「御馬印揃」、「御紋尽」、「御屋敷附」の類が残って、それがやや形を整えた「江戸鑑」となり、「江戸鑑」は直ちに後のいわゆる「武鑑」に接続するのである。
わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの「武鑑」に対する知識は日々変って行く。しかし今知っている限を言えば、馬印揃や紋尽は寛永中からあったが、当時のものは今存じていない。その存じているのは後に改板したものである。ただ一つここに姑く問題外として置きたいものがある。それは沼田頼輔さんが最古の「武鑑」として報告した、鎌田氏の『治代普顕記』中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられているエラルヂックを、我国に興そうとしているものと見えて、紋章を研究している。そしてこの目的を以て「武鑑」をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。即ち『治代普顕記』の一節である。沼田さんは幸にわたくしに謄写を許したから、わたくしは近いうちにこの記載を精検しようと思っている。
そんなら今に迨るまでに、わたくしの見た最古の「武鑑」乃至その類書は何かというと、それは正保二年に作った江戸の「屋敷附」である。これは殆ど完全に保存せられた板本で、末に正保四年と刻してある。ただ題号を刻した紙が失われたので、恣に命じた名が表紙に書いてある。この本が正保四年と刻してあっても、実は正保二年に作ったものだという証拠は、巻中に数カ条あるが、試みにその一つを言えば、正保二年十二月二日に歿した細川三斎が三斎老として挙げてあって、またその第を諸邸宅のオリアンタションのために引合に出してある事である。この本は東京帝国大学図書館にある。
その四[編集]
わたくしはこの正保二年に出来て、四年に上梓せられた「屋敷附」より古い「武鑑」の類書を見たことがない。降って慶安中の「紋尽」になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし可笑しい事には、外題に慶安としてあるものは、後に寛文中に作ったもので、真に慶安中に作ったものは、内容を改めずに、後の年号を附して印行したものである。それから明暦中の本になると、世間にちらほら残っている。大学にある「紋尽」には、伴信友の自筆の序がある。伴は文政三年にこの本を獲て、最古の「武鑑」として蔵していたのだそうである。それから寛文中の「江戸鑑」になると、世間にやや多い。
これはわたくしが数年間「武鑑」を捜索して得た断案である。然るにわたくしに先んじて、夙く同じ断案を得た人がある。それは上野の図書館にある『江戸鑑図目録』という写本を見て知ることが出来る。この書は古い「武鑑」類と江戸図との目録で、著者は自己の寓目した本と、買い得て蔵していた本とを挙げている。この書に正保二年の「屋敷附」を以て当時存じていた最古の「武鑑」類書だとして、巻首に載せていて、二年の二の字の傍に四と註している。著者は四年と刻してあるこの書の内容が二年の事実だということにも心附いていたものと見える。著者はわたくしと同じような蒐集をして、同じ断案を得ていたと見える。ついでだから言うが、わたくしは古い江戸図をも集めている。
然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に所々考証を記すに当って抽斎云としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た「弘前医官渋江氏蔵書記」の朱印がこの写本にもある。
わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれを確めようと思い立った。
わたくしは友人、就中東北地方から出た友人に逢うごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を遣って問い合せた。
或る日長井金風さんに会って問うと、長井さんがいった。「弘前の渋江なら蔵書家で『経籍訪古志』を書いた人だ」といった。しかし抽斎と号していたかどうだかは長井さんも知らなかった。『経籍訪古志』には抽斎の号は載せてないからである。
そのうち弘前に勤めている同僚の書状が数通届いた。わたくしはそれによってこれだけの事を知った。渋江氏は元禄の頃に津軽家に召し抱えられた医者の家で、代々勤めていた。しかし定府であったので、弘前には深く交った人が少く、また渋江氏の墓所もなければ子孫もない。今東京にいる人で、渋江氏と交ったかと思われるのは、飯田巽という人である。また郷土史家として渋江氏の事蹟を知っていようかと思われるのは、外崎覚という人であるという事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に精しい佐藤弥六さんという老人で、当時大正四年に七十四歳になるといってあった。
わたくしは直接に渋江氏と交ったらしいという飯田巽さんを、先ず訪ねようと思って、唐突ではあったが、飯田さんの西江戸川町の邸へ往った。飯田さんは素と宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしているのだそうである。西江戸川町の大きい邸はすぐに知れた。わたくしは誰の紹介をも求めずに往ったのに、飯田さんは快く引見して、わたくしの問に答えた。飯田さんは渋江道純を識っていた。それは飯田さんの親戚に医者があって、その人が何か医学上にむずかしい事があると、渋江に問いに往くことになっていたからである。道純は本所御台所町に住んでいた。しかし子孫はどうなったか知らぬというのである。
その五[編集]
わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかった。
切角道純を識っていた人に会ったのに、子孫のいるかいないかもわからず、墓所を問うたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしは暇乞をしようとした。その時飯田さんが、「ちょいとお待下さい、念のために妻にきいて見ますから」といった。
細君が席に呼び入れられた。そしてもし渋江道純の跡がどうなっているか知らぬかと問われて答えた。「道純さんの娘さんが本所松井町の杵屋勝久さんでございます。」
『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。それを本所に訪ねて、「お父うさんに抽斎という別号がありましたか」とか、「お父うさんは「武鑑」を集めてお出でしたか」とかいうのは、余りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。
わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問い合わせてもらうことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。
二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江終吉という甥があって、下渋谷に住んでいるというのである。杵屋さんの甥といえば、道純から見れば、孫でなくてはならない。そうして見れば、道純には娘があり孫があって現存しているのである。
わたくしは直に終吉さんに手紙を出して、何時何処へ往ったら逢われようかと問うた。返事は直に来た。今風邪で寝ているが、なおったらこっちから往っても好いというのである。手跡はまだ少い人らしい。
わたくしは曠しく終吉さんの病の癒えるのを待たなくてはならぬことになった。探索はここに一頓挫を来さなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思って、この隙に弘前から、歴史家として道純の事を知っていそうだと知らせて来た外崎覚という人を訪ねることにした。
外崎さんは官吏で、籍が諸陵寮にある。わたくしは宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れた霞が関の三年坂上にあることを教えられた。常に宮内省には往来しても、諸陵寮がどこにあるということは知らなかったのである。
諸陵寮の小さい応接所で、わたくしは初めて外崎さんに会った。飯田さんの先輩であったとは違って、この人はわたくしと齢も相若くという位で、しかも史学を以て仕えている人である。わたくしは傾蓋故きが如き念をした。
初対面の挨拶が済んで、わたくしは来意を陳べた。「武鑑」を蒐集している事、「古武鑑」に精通していた無名の人の著述が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と渋江とがもしや同人ではあるまいかと思っている事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。
その六[編集]
外崎さんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」
わたくしは釈然とした。
抽斎渋江道純は経史子集や医籍を渉猟して考証の書を著したばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証の迹を手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』は即ち「古武鑑」古江戸図の訪古志である。惟経史子集は世の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一の徐承祖を得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力な好事家が偶一顧するに過ぎないから、その目録は僅に存して人が識らずにいるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館の保護を受けているのを、せめてもの僥倖としなくてはならない。
わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗るわたくしと相似ている。ただその相殊なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁なるヂレッタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視て忸怩たらざることを得ない。
抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比ではなかった。迥にわたくしに優った済勝の具を有していた。抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である。
然るに奇とすべきは、その人が康衢通逵をばかり歩いていずに、往々径に由って行くことをもしたという事である。抽斎は宋槧の経子を討めたばかりでなく、古い「武鑑」や江戸図をも翫んだ。もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の袖は横町の溝板の上で摩れ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間に暱みが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。
わたくしはこう思う心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎の何人なるかを知らずに、漫然抽斎のマニュスクリイの蔵弆者たる渋江氏の事蹟を訪ね、そこに先ず『経籍訪古志』を著した渋江道純の名を知り、その道純を識っていた人に由って、道純の子孫の現存していることを聞き、ようよう今日道純と抽斎とが同人であることを知ったという道行を語った。
外崎さんも事の奇なるに驚いていった。「抽斎の子なら、わたくしは識っています。」
「そうですか。長唄のお師匠さんだそうですね。」
「いいえ。それは知りません。わたくしの知っているのは抽斎の跡を継いだ子で、保という人です。」
「はあ。それでは渋江保という人が、抽斎の嗣子であったのですか。今保さんは何処に住んでいますか。」
「さあ。大ぶ久しく逢いませんから、ちょっと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知っているものがありましょうから、近日聞き合せて上げましょう。」
その七[編集]
わたくしは直に保さんの住所を討ねることを外崎さんに頼んだ。保という名は、わたくしは始めて聞いたのではない。これより先、弘前から来た書状の中に、こういうことを報じて来たのがあった。津軽家に仕えた渋江氏の当主は渋江保である。保は広島の師範学校の教員になっているというのであった。わたくしは職員録を検した。しかし渋江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長幣原坦さんに書を遣って問うた。しかし学校にはこの名の人はいない。またかつていたこともなかったらしい。わたくしは多くの人に渋江保の名を挙げて問うて見た。中には博文館の発行した書籍に、この名の著者があったという人が二、三あった。しかし広島に踪跡がなかったので、わたくしはこの報道を疑って追跡を中絶していたのである。
此に至ってわたくしは抽斎の子が二人と、孫が一人と現存していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかった。
わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟を詳にしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽信政に召し抱えられた。抽斎はその数世の孫で、文化中に生れ、安政中に歿した。その徳川家慶に謁したのは嘉永中の事である。墓誌銘は友人海保漁村が撰んだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語って、追って手近にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈ろうと約した。わたくしは保さんの所在を捜すことと、この抜萃を作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。
外崎さんの書状は間もなく来た。それに『前田文正筆記』、『津軽日記』、『喫茗雑話』の三書から、抽斎に関する事蹟を抄出して添えてあった。中にも『喫茗雑話』から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしはその中に「道純諱全善、号抽斎、道純其字也」という文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしと訓ませたのだそうである。
これと殆ど同時に、終吉さんのやや長い書状が来た。終吉さんは風邪が急に癒えぬので、わたくしと会見するに先って、渋江氏に関する数件を書いて送るといって、祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした叔父の住所等を報じてくれた。墓は谷中斎場の向いの横町を西へ入って、北側の感応寺にある。そこへ往けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけである。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人の同胞の間に脩という人があって、亡くなって、その子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家は頗る生計の方向を殊にしている。そこで早く怙を失った終吉さんは伯母をたよって往来をしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。そのうち丁度わたくしが渋江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんの女冬子さんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟の所在を知った。終吉さんが住所を告げてくれた叔父というのが即ち保さんである。是においてわたくしは、外崎さんの捜索を煩すまでもなく、保さんの今の牛込船河原町の住所を知って、直にそれを外崎さんに告げた。
その八[編集]
わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立っている。「抽斎渋江君墓碣銘」という篆額も墓誌銘も、皆小島成斎の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して刪除したものだそうである。『喫茗雑話』の載する所は三分の一にも足りない。わたくしはまた後に五弓雪窓がこの文を『事実文編』巻の七十二に収めているのを知った。国書刊行会本を閲するに、誤脱はないようである。ただ「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志を訪うと訓ませてあるのに慊なかった。『経籍訪古志』の書名であることは論ずるまでもなく、あれは多紀茝庭の命じた名だということが、抽斎と森枳園との作った序に見えており、訪古の字面は、『宋史』鄭樵の伝に、名山大川に游び、奇を捜し古を訪い、書を蔵する家に遇えば、必ず借留し、読み尽して乃ち去るとあるのに出たということが、枳園の書後に見えておる。
墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女平野氏出」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事だそうである。また平野氏の生んだ女というのは、比良野文蔵の女威能が、抽斎の二人目の妻になって生んだ純である。勝久さんや終吉さんの亡父脩はこの文に載せてないのである。
抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。その一には「性如院宗是日体信士、庚申元文五年閏七月十七日」と、向って右の傍に彫ってある。抽斎の高祖父輔之である。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月廿六日」と彫ってある。抽斎の父允成である。その間と左とに高祖父と父との配偶、夭折した允成の女二人の法諡が彫ってある。「松峰院妙実日相信女、己丑明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、庚戌寛政二年四月十三日」とあるのは、允成の初の妻田中氏、「寿松院妙遠日量信女、文政十二己丑六月十四日」とあるのは、抽斎の生母岩田氏縫、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年甲寅三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「曇華水子、文化八年辛未閏二月十四日」とあるのも、並に皆允成の女である。その二には「至善院格誠日在、寛保二年壬戌七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年甲寅三月十日」と彫ってある。至善院は抽斎の曾祖父為隣で、終事院は抽斎が五十歳の時父に先って死んだ長男恒善である。その三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、天明四甲辰二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父本皓である。「智照院妙道日修信女、寛政四壬子八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻登勢である。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、安永六年丁酉五月三日死、享年十九、俗名千代、作臨終歌曰」云々としてあるのは、登勢の生んだ本皓の女である。抽斎の高祖父輔之は男子がなくて歿したので、十歳になる女登勢に壻を取ったのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに歿した。そこへ本皓が養子に来て、登勢の配偶になって、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、渋江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成は本皓の養子である。次に某々孩子と二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子だそうである。その四には「渋江脩之墓」と刻してあって、これは石が新しい。終吉さんの父である。
後に聞けば墓は今一基あって、それには抽斎の六世の祖辰勝が「寂而院宗貞日岸居士」とし、その妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖辰盛が「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、その妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻比良野氏が「徧照院妙浄日法大姉」とし、同岡西氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまった迹に、今の終吉さんの父の墓が建てられたのだそうである。
わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、香華を手向けて置いて感応寺を出た。
尋いでわたくしは保さんを訪おうと思っていると、偶女杏奴が病気になった。日々官衙には通ったが、公退の時には家路を急いだ。それゆえ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。
三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために闕くべからざる資料があった。それのみではない。終吉さんはその隙に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語ってもらいたいと頼んだのである。叔父甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。また外崎さんも一度わたくしに代って保さんをおとずれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしが船河原町へ往くに先だって、とうとう保さんが官衙に来てくれて、わたくしは抽斎の嗣子と相見ることを得た。
その九[編集]
気候は寒くても、まだ炉を焚く季節に入らぬので、火の気のない官衙の一室で、卓を隔てて保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎の事を語って倦むことを知らなかった。
今残っている勝久さんと保さんとの姉弟、それから終吉さんの父脩、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、山内氏五百の生んだのである。勝久さんは名を陸という。抽斎が四十三、五百が三十二になった弘化四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に本所へ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。
終吉さんの父脩は安改元年に本所で生れた。中三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、脩も四歳になっていたのである。
抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。幸に母五百は明治十七年までながらえていて、保さんは二十八歳で恃を喪ったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から先考の平生を聞くことを得たのである。
抽斎は保さんを学医にしようと思っていたと見える。亡くなる前にした遺言によれば、経を海保漁村に、医を多紀安琢に、書を小島成斎に学ばせるようにいってある。それから洋学については、折を見て蘭語を教えるが好いといってある。抽斎は友人多紀茝庭などと同じように、頗るオランダ嫌いであった。学殖の深かった抽斎が、新奇を趁う世俗と趨舎を同じくしなかったのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に市川小団次の芸を「西洋」だといってある。これは褒めたのではない。然るにその抽斎が晩年に至って、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教えることを遺言したのは、安積艮斎にその著述の写本を借りて読んだ時、翻然として悟ったからだそうである。想うにその著述というのは『洋外紀略』などであっただろう。保さんは後に蘭語を学ばずに英語を学ぶことになったが、それは時代の変遷のためである。
わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、僅に二歳であった保さんが、父に「武鑑」を貰って翫んだということを聞いた。それは出雲寺板の「大名武鑑」で、鹵簿の道具類に彩色を施したものであったそうである。それのみではない。保さんは父が大きい本箱に「江戸鑑」と貼札をして、その中に一ぱい古い「武鑑」を収めていたことを記憶している。このコルレクションは保さんの五、六歳の時まで散佚せずにいたそうである。「江戸鑑」の箱があったなら、江戸図の箱もあっただろう。わたくしはここに『江戸鑑図目録』の作られた縁起を知ることを得たのである。
わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を、箇条書にしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで『独立評論』に追憶談を載せているから、それを見せようと約した。
保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、直に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんから獲た材料に拠るのである。
その十[編集]
渋江氏の祖先は下野の大田原家の臣であった。抽斎六世の祖を小左衛門辰勝という。大田原政継、政増の二代に仕えて、正徳元年七月二日に歿した。辰勝の嫡子重光は家を継いで、大田原政増、清勝に仕え、二男勝重は去って肥前の大村家に仕え、三男辰盛は奥州の津軽家に仕え、四男勝郷は兵学者となった。大村には勝重の往く前に、源頼朝時代から続いている渋江公業の後裔がある。それと下野から往った渋江氏との関係の有無は、なお講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。
渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国那須郡大田原の城主たる宗家ではなく、その支封であろう。宗家は渋江辰勝の仕えたという頃、清信、扶清、友清などの世であったはずである。大田原家は素一万二千四百石であったのに、寛文五年に備前守政清が主膳高清に宗家を襲がせ、千石を割いて末家を立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今手許に末家の系譜がないから検することが出来ない。
辰盛は通称を他人といって、後小三郎と改め、また喜六と改めた。道陸は剃髪してからの称である。医を今大路侍従道三玄淵に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽越中守信政に召し抱えられて、擬作金三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は宝永と改元せられた年である。師道三は故土佐守信義の五女を娶って、信政の姉壻になっていたのである。辰盛は宝永三年に信政に随って津軽に往き、四年正月二十八日に知行二百石になり、宝永七年には二度目、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守信寿の世になっていた。辰盛は享保十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。出羽守信著の家を嗣いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年を享くること七十一歳である。この人は三男で他家に仕えたのに、その父母は宗家から来て奉養を受けていたそうである。
辰盛は兄重光の二男輔之を下野から迎え、養子として玄瑳と称えさせ、これに医学を授けた。即ち抽斎の高祖父である。輔之は享保十四年九月十九日に家を継いで、直に三百石を食み、信寿に仕うること二年余の後、信著に仕え、改称して二世道陸となり、元文五年閏七月十七日に歿した。元禄七年の生であるから、四十七歳で歿したのである。
輔之には登勢という女一人しかなかった。そこで病革なるとき、信濃の人某の子を養って嗣となし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であったから、名のみの夫婦である。この女壻が為隣で、抽斎の曾祖父である。為隣は寛保元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の玄春を二世玄瑳と改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の未亡人として遺された。
寛保二年に十五歳で、この登勢に入贅したのは、武蔵国忍の人竹内作左衛門の子で、抽斎の祖父本皓が即ちこれである。津軽家は越中守信寧の世になっていた。宝暦九年に登勢が二十九歳で女千代を生んだ。千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅に繋ぐべき子で、あまつさえ聡慧なので、父母はこれを一粒種と称して鍾愛していると、十九歳になった安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があって、名を令図といったが、渋江氏を続ぐには特に学芸に長じた人が欲しいというので、本皓は令図を同藩の医小野道秀の許へ養子に遣って、別に継嗣を求めた。
この時根津に茗荷屋という旅店があった。その主人稲垣清蔵は鳥羽稲垣家の重臣で、君を諌めて旨に忤い、遁れて商人となったのである。清蔵に明和元年五月十二日生れの嫡男専之助というのがあって、六歳にして詩賦を善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願っていたので、快く許諾した。そこで下野の宗家を仮親にして、大田原頼母家来用人八十石渋江官左衛門次男という名義で引き取った。専之助名は允成字は子礼、定所と号し、おる所の室を容安といった。通称は初玄庵といったが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。儒学は柴野栗山、医術は依田松純の門人で、著述には『容安室文稿』、『定所詩集』、『定所雑録』等がある。これが抽斎の父である。
その十一[編集]
允成は才子で美丈夫であった。安永七年三月朔に十五歳で渋江氏に養われて、当時儲君であった、二つの年上の出羽守信明に愛せられた。養父本皓の五十八歳で亡くなったのが、天明四年二月二十九日で、信明の襲封と同日である。信明はもう土佐守と称していた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。
寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に和三郎寧親が支封から入って宗家を継いだ。後に越中守と称した人である。寧親は時に二十七歳で、允成は一つ上の二十八歳である。允成は寧親にも親昵して、殆ど兄弟の如くに遇せられた。平生着丈四尺の衣を著て、体重が二十貫目あったというから、その堂々たる相貌が思い遣られる。
当時津軽家に静江という女小姓が勤めていた。それが年老いての後に剃髪して妙了尼と号した。妙了尼が渋江家に寄寓していた頃、可笑しい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中たちが争ってその茶碗の底の余瀝を指に承けて舐るので、自分も舐ったというのである。
しかし允成は謹厳な人で、女色などは顧みなかった。最初の妻田中氏は寛政元年八月二十二日に娶ったが、これには子がなくて、翌年四月十三日に亡くなった。次に寛政三年六月四日に、寄合戸田政五郎家来納戸役金七両十二人扶持川崎丈助の女を迎えたが、これは四年二月に逸という女を生んで、逸が三歳で夭折した翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の納れた室は、下総国佐倉の城主堀田相模守正順の臣、岩田忠次の妹縫で、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
縫は享和二年に始めて須磨という女を生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、留守居年寄佐野豊前守政親組飯田四郎左衛門良清に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これから後には文化八年閏二月十四日に女が生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなった。感応寺の墓に曇華水子と刻してあるのがこの女の法諡である。
允成は寧親の侍医で、津軽藩邸に催される月並講釈の教官を兼ね、経学と医学とを藩の子弟に授けていた。三百石十人扶持の世禄の外に、寛政十二年から勤料五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加え、八年にまた五人扶持を加えられて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。中二年置いて文化十一年に一粒金丹を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で、毎月百両以上の所得になったのである。
允成は表向侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任を蒙ることが厚かったので、人の敢て言わざる事をも言うようになっていて、数諫めて数聴かれた。寧親は文化元年五月連年蝦夷地の防備に任じたという廉を以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。いわゆる津軽家の御乗出がこれである。五年十二月には南部家と共に永く東西蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、従四位下に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当って、允成が啓沃の功も少くなかったらしい。
允成は文政五年八月朔に、五十九歳で致仕した。抽斎が十八歳の時である。次いで寧親も八年四月に退隠して、詩歌俳諧を銷遣の具とし、歌会には成島司直などを召し、詩会には允成を召すことになっていた。允成は天保二年六月からは、出羽国亀田の城主岩城伊予守隆喜に嫁した信順の姉もと姫に伺候し、同年八月からはまた信順の室欽姫附を兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになったのは、これらのためであろう。中一年置いて四年四月朔に、隠居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。
允成は天保八年〈[#「天保八年」は底本では「天保八月」]〉十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻縫は、文政七年七月朔に剃髪して寿松といい、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなった。夫に先つこと八年である。
その十二[編集]
抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと保さんがいう。これは母五百の話を記憶しているのであろう。父允成は四十二歳、母縫は三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋というのは橋の名ではなくて町名である。当時の江戸分間大絵図というものを閲するに、和泉橋と新橋との間の柳原通の少し南に寄って、西から東へ、お玉が池、松枝町、弁慶橋、元柳原町、佐久間町、四間町、大和町、豊島町という順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡って、少し東へ偏って行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になっている。この通の東隣の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。わたくしが富士川游さんに借りた津軽家の医官の宿直日記によるに、允成は天明六年八月十九日に豊島町通横町鎌倉横町家主伊右衛門店を借りた。この鎌倉横町というのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、北の方河岸に寄った所にある。允成がこの店を借りたのは、その年正月二十二日に従来住んでいた家が焼けたので、暫く多紀桂山の許に寄宿していて、八月に至って移転したのである。その従来住んでいた家も、余り隔たっていぬ和泉橋附近であったことは、日記の文から推することが出来る。次に文政八年三月晦に、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したということが、日記に見えている。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、ただ東西両側が名を異にしているに過ぎない。想うに渋江氏は久しく和泉橋附近に住んでいて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移ったのであろう。この元柳原町六丁目の家は、拍斎の生れた弁慶橋の家と同じであるかも知れぬが、あるいは抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にいて、その後文政八年に至るまでの間に、向側の元柳原町に移ったものと考えられぬでもない。
抽斎は小字を恒吉といった。故越中守信寧の夫人真寿院がこの子を愛して、当歳の時から五歳になった頃まで、殆ど日ごとに召し寄せて、傍で嬉戯するのを見て楽んだそうである。美丈夫允成に肖た可憐児であったものと想われる。
志摩の稲垣氏の家世は今詳にすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは相貌の立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。この身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じていなくてはならない。わたくしはここに清蔵が主を諫めて去った人だという事実に注目する。次に後允成になった神童専之助を出す清蔵の家庭が、尋常の家庭でないという推測を顧慮する。彼は意志の方面、此は智能の方面で、この両方面における遺伝的系統を繹ぬるに、抽斎の前途は有望であったといっても好かろう。
さてその抽斎が生れて来た境界はどうであるか。允成の庭の訓が信頼するに足るものであったことは、言を須たぬであろう。オロスコピイは人の生れた時の星象を観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の列宿を数えて見たい。しかし観察が徒に汎きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察することとしたい。即ち抽斎の師となり、また年上の友となる人物である。抽斎から見ての大己である。
抽斎の経学の師には、先ず市野迷庵がある。次は狩谷棭斎である。医学の師には伊沢蘭軒がある。次は抽斎が特に痘科を学んだ池田京水である。それから抽斎が交った年長者は随分多い。儒者または国学者には安積艮斎、小島成斎、岡本况斎、海保漁村、医家には多紀の本末両家、就中茝庭、伊沢蘭軒の長子榛軒がいる。それから芸術家及芸術批評家に谷文晁、長島五郎作、石塚重兵衛がいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世に出づるを待ち受けていたようなものである。
その十三[編集]
他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の中には、現に普く世に知れわたっているものが少くない。それゆえわたくしはここに一々その伝記を挿もうとは思わない。ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるに与って力ある長者のルヴュウをして見たいというに過ぎない。
市野迷庵、名を光彦、字を俊卿また子邦といい、初め篔窓、後迷庵と号した。その他酔堂、不忍池漁等の別号がある。抽斎の父允成が酔堂説を作ったのが、『容安室文稿』に出ている。通称は三右衛門である。六世の祖重光が伊勢国白子から江戸に出て、神田佐久間町に質店を開き、屋号を三河屋といった。当時の店は弁慶橋であった。迷庵の父光紀が、香月氏を娶って迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になっていた。
迷庵は考証学者である。即ち経籍の古版本、古抄本を捜り討めて、そのテクストを閲し、比較考勘する学派、クリチックをする学派である。この学は源を水戸の吉田篁墩に発し、棭斎がその後を承けて発展させた。篁墩は抽斎の生れる七年前に歿している。迷庵が棭斎らと共に研究した果実が、後に至って成熟して抽斎らの『訪古志』となったのである。この人が晩年に『老子』を好んだので、抽斎も同嗜の人となった。
狩谷棭斎、名は望之、字は卿雲、棭斎はその号である。通称を三右衛門という。家は湯島にあった。今の一丁目である。棭斎の家は津軽の用達で、津軽屋と称し、棭斎は津軽家の禄千石を食み、目見諸士の末席に列せられていた。先祖は参河国苅屋の人で、江戸に移ってから狩谷氏を称した。しかし棭斎は狩谷保古の代にこの家に養子に来たもので、実父は高橋高敏、母は佐藤氏である。安永四年の生で、抽斎の母縫と同年であったらしい。果してそうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵よりは十少かったのだろう。抽斎の棭斎に師事したのは二十余歳の時だというから、恐らくは迷庵を喪って棭斎に適いたのであろう。迷庵の六十二歳で亡くなった文政九年八月十四日は、抽斎が二十二歳、棭斎が五十二歳になっていた年である。迷庵も棭斎も古書を集めたが、棭斎は古銭をも集めた。漢代の五物を蔵して六漢道人と号したので、人が一物足らぬではないかと詰った時、今一つは漢学だと答えたという話がある。抽斎も古書や「古武鑑」を蔵していたばかりでなく、やはり古銭癖があったそうである。
迷庵と棭斎とは、年歯を以て論ずれば、彼が兄、此が弟であるが、考証学の学統から見ると、棭斎が先で、迷庵が後である。そしてこの二人の通称がどちらも三右衛門であった。世にこれを文政の六右衛門と称する。抽斎は六右衛門のどちらにも師事したわけである。
六右衛門の称は頗る妙である。然るに世の人は更に一人の三右衛門を加えて、三三右衛門などともいう。この今一人の三右衛門は喜多氏、名は慎言、字は有和、梅園また静廬と号し、居る所を四当書屋と名づけた。その氏の喜多を修して北慎言とも署した。新橋金春屋敷に住んだ屋根葺で、屋根屋三右衛門が通称である。本は芝の料理店鈴木の倅定次郎で、屋根屋へは養子に来た。少い時狂歌を作って網破損針金といっていたのが、後博渉を以て聞えた。嘉永元年三月二十五日に、八十三歳で亡くなったというから、抽斎の生れた時には、その師となるべき迷庵と同じく四十一歳になっていたはずである。この三右衛門が殆ど毎日往来した小山田与清の『擁書楼日記』を見れば、文化十二年に五十一歳だとしてあるから、この推算は誤っていないつもりである。しかしこの人を迷庵棭斎と併せ論ずるのは、少しく西人のいわゆる髪を握んで引き寄せた趣がある。屋根屋三右衛門と抽斎との間には、交際がなかったらしい。
その十四[編集]
後に抽斎に医学を授ける人は伊沢蘭軒である。名は信恬、通称は辞安という。伊沢氏の宗家は筑前国福岡の城主黒田家の臣であるが、蘭軒はその分家で、備後国福山の城主阿部伊勢守正倫の臣である。文政十二年三月十七日に歿して、享年五十三であったというから、抽斎の生れた時二十九歳で、本郷真砂町に住んでいた。阿部家は既に備中守正精の世になっていた。蘭軒が本郷丸山の阿部家の中屋敷に移ったのは後の事である。
阿部家は尋で文政九年八月に代替となって、伊予守正寧が封を襲いだから、蘭軒は正寧の世になった後、足掛四年阿部家の館に出入した。その頃抽斎の四人目の妻五百の姉が、正寧の室鍋島氏の女小姓を勤めて金吾と呼ばれていた。この金吾の話に、蘭軒は蹇であったので、館内で輦に乗ることを許されていた。さて輦から降りて、匍匐して君側に進むと、阿部家の奥女中が目を見合せて笑った。或日正寧が偶この事を聞き知って、「辞安は足はなくても、腹が二人前あるぞ」といって、女中を戒めさせたということである。
次は抽斎の痘科の師となるべき人である。池田氏、名は奫、字は河澄、通称は瑞英、京水と号した。
原来疱瘡を治療する法は、久しく我国には行われずにいた。病が少しく重くなると、尋常の医家は手を束ねて傍看した。そこへ承応二年に戴曼公が支那から渡って来て、不治の病を治し始めた。龔廷賢を宗とする治法を施したのである。曼公、名は笠、杭州仁和県の人で、曼公とはその字である。明の万暦二十四年の生であるから、長崎に来た時は五十八歳であった。曼公が周防国岩国に足を留めていた時、池田嵩山というものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川家の医官で、名を正直という。先祖は蒲冠者範頼から出て、世々出雲におり、生田氏を称した。正直の数世の祖信重が出雲から岩国に遷って、始て池田氏に更めたのである。正直の子が信之、信之の養子が正明で、皆曼公の遺法を伝えていた。
然るに寛保二年に正明が病んでまさに歿せんとする時、その子独美は僅に九歳であった。正明は法を弟槙本坊詮応に伝えて置いて瞑した。そのうち独美は人と成って、詮応に学んで父祖の法を得た。宝暦十二年独美は母を奉じて安芸国厳島に遷った。厳島に疱瘡が盛に流行したからである。安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪に往き、西堀江隆平橋の畔に住んだ。この時独美は四十四歳であった。
独美は寛政四年に京都に出て、東洞院に住んだ。この時五十九歳であった。八年に徳川家斉に辟されて、九年に江戸に入り、駿河台に住んだ。この年三月独美は躋寿館で痘科を講ずることになって、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。
抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。遺骸は向島小梅村の嶺松寺に葬られた。
独美、字は善卿、通称は瑞仙、錦橋また蟾翁と号した。その蟾翁と号したには面白い話がある。独美は或時大きい蝦蟇を夢に見た。それから『抱朴子』を読んで、その夢を祥瑞だと思って、蝦蟇の画をかき、蝦蟇の彫刻をして人に贈った。これが蟾翁の号の由来である。
その十五[編集]
池田独美には前後三人の妻があった。安永八年に歿した妙仙、寛政二年に歿した寿慶、それから嘉永元年まで生存していた芳松院緑峰である。緑峰は菱谷氏、佐井氏に養われて独美に嫁したのが、独美の京都にいた時の事である。三人とも子はなかったらしい。
独美が厳島から大阪に遷った頃妾があって、一男二女を生んだ。男は名を善直といったが、多病で業を継ぐことが出来なかったそうである。二女は長を智秀と諡した。寛政二年に歿している。次は知瑞と諡した。寛政九年に夭折している。この外に今一人独美の子があって、鹿児島に住んで、その子孫が現存しているらしいが、この家の事はまだこれを審にすることが出来ない。
独美の家は門人の一人が養子になって嗣いで、二世瑞仙と称した。これは上野国桐生の人村岡善左衛門常信の二男である。名は晋、字は柔行、また直卿、霧渓と号した。躋寿館の講座をもこの人が継承した。
初め独美は曼公の遺法を尊重する余に、これを一子相伝に止め、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にいた時、人が諫めていうには、一人の能く救う所には限がある、良法があるのにこれを秘して伝えぬのは不仁であるといった。そこで独美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取った。それから門人が次第に殖えて、歿するまでには五百人を踰えた。二世瑞仙はその中から簡抜せられて螟蛉子となったのである。
独美の初代瑞仙は素源家の名閥だとはいうが、周防の岩国から起って幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となった。それに業を継ぐべき子がなかったので、門下の俊才が入って後を襲った。遽に見れば、なんの怪むべき所もない。
しかしここに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田京水である。
京水は独美の子であったか、甥であったか不明である。向島嶺松寺に立っていた墓に刻してあった誌銘には子としてあったらしい。然るに二世瑞仙晋の子直温の撰んだ過去帖には、独美の弟玄俊の子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ、独美の血族たる京水は宗家を嗣ぐことが出来ないで、自立して町医になり、下谷徒士町に門戸を張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立していたのである。
種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、癆を恐れ、癌を恐れ、癩を恐るるよりも甚だしく、その流行の盛なるに当っては、社会は一種のパニックに襲われた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般医学を蘭軒に受けた後、特に痘科を京水に学ぶことになった。丁度近時の医が細菌学や原虫学や生物化学を特修すると同じ事である。
池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであったか。従来痘は胎毒だとか、穢血だとか、後天の食毒だとかいって、諸家は各その見る所に従って、諸証を攻むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、いわゆる八証四節三項を分ち、偏僻の治法を斥けた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。
その十六[編集]
わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えて京水に及ぶに当って、ここに京水の身上に関する疑を記して、世の人の教を受けたい。
わたくしは今これを筆に上するに至るまでには、文書を捜り寺院を訪い、また幾多の先輩知友を煩わして解決を求めた。しかしそれは概ね皆徒事であった。就中憾とすべきは京水の墓の失踪した事である。
最初にわたくしに京水の墓の事を語ったのは保さんである。保さんは幼い時京水の墓に詣でたことがある。しかし寺の名は記憶していない。ただ向島であったというだけである。そのうちわたくしは富士川游さんに種々の事を問いに遣った。富士川さんがこれに答えた中に、京水の墓は常泉寺の傍にあるという事があった。
わたくしは幼い時向島小梅村に住んでいた。初の家は今須崎町になり、後の家は今小梅町になっている。その後の家から土手へ往くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸の北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。枕橋を北へ渡って、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の末寺の庭にある墓をも一つ一つ検した。日蓮宗の事だから、江戸の市人の墓が多い。知名の学者では、朝川善庵の一家の墓が、本堂の西にあるだけである。本堂の東南にある末寺に、池田氏の墓が一基あったが、これは例の市人らしく、しかも無縁同様のものと見えた。
そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作ったもので、いろは順に檀家の氏が列記してある。いの部には池田氏がない。末寺の墓地にある池田氏の墓は果して無縁であった。
わたくしは空しく還って、先ず郷人宮崎幸麿さんを介して、東京の墓の事に精しい武田信賢さんに問うてもらったが、武田さんは知らなかった。
そのうちわたくしは『事実文編』四十五に霧渓の撰んだ池田氏行状のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、その墓が向島嶺松寺にあることを記してある。素嶺松寺には戴曼公の表石があって、瑞仙はその側に葬られたというのである。向島にいたわたくしも嶺松寺という寺は知らなかった。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水もあるいはそこに葬られたのではあるまいかと推量した。
わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を徘徊して捜索したが、嶺松寺という寺はない。わたくしは絶望して踵を旋したが、道のついでなので、須崎町弘福寺にある先考の墓に詣でた。さて住職奥田墨汁師を訪って久闊を叙した。対談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にも両つながらこれを知っていた。
墨汁師はいった。嶺松寺は常泉寺の近傍にあった。その畛域内に池田氏の墓が数基並んで立っていたことを記憶している。墓には多く誌銘が刻してあった。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になったというのである。わたくしはこれを聞いて、先ず池田氏の墓を目撃した人を二人まで獲たのを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。
「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。
「墓は檀家がそれぞれ引き取って、外の寺へ持って行きます。」
「檀家がなかったらどうなりますか。」
「無縁の墓は共同墓地へ遷す例になっています。」
「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家の後は今どうなっているかわかりませんか。」こういってわたくしは憮然とした。
その十七[編集]
わたくしは墨汁師にいった。池田瑞仙の一族は当年の名医である。その墓の行方は探討したいものである。それに戴曼公の表石というものも、もし存していたら、名蹟の一に算すべきものであろう。嶺松寺にあった無縁の墓は、どこの共同墓地へ遷されたか知らぬが、もしそれがわかったなら、尋ねに往きたいものであるといった。
墨汁師も首肯していった。戴氏独立の表石の事は始て聞いた。池田氏の上のみではない。自分も黄檗の衣鉢を伝えた身であって見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはいられない。想うに独立は寛文中九州から師隠元を黄檗山に省しに上る途中で寂したらしいから、江戸には墓はなかっただろう。嶺松寺の表石とはどんな物であったか知らぬが、あるいは牙髪塔の類ででもあったか。それはともかくも、その石の行方も知りたい。心当りの向々へ問い合せて見ようといった。
わたくしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年の初になった。墨汁師の新年の書信に問合せの結果が記してあったが、それは頗る覚束ない口吻であった。嶺松寺の廃せられた時、その事に与った寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家がなかったらしい。当時無縁の墓を遷した所は、染井共同墓地であった。独立の表石というものは誰も知らないというのである。
これでは捜索の前途には、殆ど毫しの光明をも認めることが出来ない。しかしわたくしは念晴しのために、染井へ尋ねに往った。そして墓地の世話をしているという家を訪うた。
墓にまいる人に樒や綫香を売り、また足を休めさせて茶をも飲ませる家で、三十ばかりの怜悧そうなお上さんがいた。わたくしはこの女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名にはいうが、その地面には井然たる区画があって、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家の中には池田という家はない。池田という檀家がないから、池田という人の墓のありようがないというのである。
「それでも新聞に、行倒れがあったのを共同墓地に埋めたということがあるではありませんか。そうして見れば檀家のない仏の往く所があるはずです。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあった寺が取払になって、こっちへ持って来られた仏です。そういう時、石塔があれば石塔も運んで来るでしょう。それをわたくしは尋ねるのです。」こういってわたくしは女の毎区有主説に反駁を試みた。
「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てて遣る人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たということは、聞いたこともございません。つまりそんな所には石塔なんぞは一つもないのでございます。」
「でもわたくしは切角尋ねに来たものですから、そこへ往って見ましょう。」
「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがお受合申しますから。」こういって女は笑った。
わたくしもげにもと思ったので、墓地には足を容れずに引き返した。
女の言には疑うべき余地はない。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいような気がした。そこで帰途に町役場に立ち寄って問うた。町役場の人は、墓地の事は扱わぬから、本郷区役所へ往けといった。
町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かっていた。そこでわたくしは思い直した。廃寺になった嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかったことは明白である。それを区役所に問うのは余りに痴であろう。むしろ行政上無縁の墓の取締があるか、もしあるなら、どう取り締まることになっているかということを問うに若くはない。その上今から区役所に往った所で、当直の人に墓地の事を問うのは甲斐のない事であろう。わたくしはこう考えて家に還った。
その十八[編集]
わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だということを知った。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、また警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになっているかということを問うてもらった。
府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳ともいうべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺という寺は載せてないらしかった。その廃絶に関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のために墓碣を搬出するときには警官を立ち会わせる。しかしそれは有縁のものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したということを届け出でさせるに止まるそうである。
そうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地に遷されたというのは、遷したという一紙の届書が官庁に呈せられたに過ぎぬかも知れない。所詮今になって戴曼公の表石や池田氏の墓碣の踪迹を発見することは出来ぬであろう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。
とかくするうちに、わたくしが池田京水の墓を捜し求めているということ、池田氏の墓のあった嶺松寺が廃絶したということなどが『東京朝日新聞』の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知ったものであろう。雑報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を掛けていった。自分はかつて府庁にいたものである。その頃無税地反別帳という帳簿があった。もしそれがなお存しているなら、嶺松寺の事が載せてあるかも知れないというのである。わたくしは無名の人の言に従って、人に託して府庁に質してもらったが、そういう帳簿はないそうであった。
この事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を乞うた人は頗る多い。初にはわたくしは墓誌を読まんがために、墓の所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齢だけなりとも知ろうとした。わたくしは抽斎の生れた年に、市野迷庵が何歳、狩谷棭斎が何歳、伊沢蘭軒が何歳ということを推算したと同じく、京水の年齢をも推算して見たく、もしまた数字を以て示すことが出来ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれを忖度して見たかったのである。
諸家の中でも、戸川残花さんはわたくしのために武田信賢さんに問うたり、南葵文庫所蔵の書籍を検したりしてくれ、呉秀三さんは医史の資料について捜索してくれ、大槻文彦さんは如電さんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によって知ったが、恐らくは郷土史の嗜好あるがために、踏査の労をさえ厭わなかったのであろう。ただ憾むらくもわたくしは徒にこれらの諸家を煩わしたに過ぎなかった。
これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあったのは、富士川游さんと墨汁師とのお蔭である。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家を訪うた。そしてこういうことを聞いた。富士川さんは昔年日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓に詣でた。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓について親しく抄記したものだというのである。惜むらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写して置かなかった。また嶺松寺という寺号をも忘れていた。それゆえわたくしに答えた書に常泉寺の傍と記したのである。是においてかつて親しく嶺松寺中の碑碣を睹た人が三人になった。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんは湮滅の期に薄っていた墓誌銘の幾句を、図らずも救抜してくれたのである。
その十九[編集]
弘福寺の現住墨汁師は大正五年に入ってからも、捜索の手を停めずにいた。そしてとうとう下目黒村海福寺所蔵の池田氏過去帖というものを借り出して、わたくしに見せてくれた。帖は表紙を除いて十五枚のものである。表紙には生田氏中興池田氏過去帖慶応紀元季秋の十七字が四行に書してある。跋文を読むに、この書は二世瑞仙晋の子直温、字は子徳が、慶応元年九月六日に、初代瑞仙独美の五十年忌辰に丁って、新に歴代の位牌を作り、併せてこれを纂記して、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。
この書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、その墓所はあるいは注してあり、あるいは注してない。分明に嶺松寺に葬る、または嶺寺に葬ると注してあるのは初代瑞仙、その妻佐井氏、二代瑞仙、その二男洪之助、二代瑞仙の兄信一の五人に過ぎない。しかし既に京水の墓が同じ寺にあったとすると、徒士町の池田氏の人々の墓もこの寺にあっただろう。要するに嶺松寺にあったという確証のある墓は、この書に注してある駿河台の池田氏の墓五基と、京水の墓とで、合計六基である。
この書の記する所は、わたくしのために創聞に属するものが頗る多い。就中異とすべきは、独美に玄俊という弟があって、それが宇野氏を娶って、二人の間に出来た子が京水だという一事である。この書に拠れば、独美は一旦姪京水を養って子として置きながら、それに家を嗣がせず、更に門人村岡晋を養って子とし、それに業を継がせたことになる。
然るに富士川さんの抄した墓誌には、京水は独美の子で廃せられたと書してあったらしい。しかもその廃せられた所以を書して放縦不覊にして人に容れられず、遂に多病を以て廃せらるといってあったらしい。
両説は必ずしも矛盾してはいない。独美は弟玄俊の子京水を養って子とした。京水が放蕩であった。そこで京水を離縁して門人晋を養子に入れたとすれば、その説通ぜずというでもない。
しかし京水が後能く自ら樹立して、その文章事業が晋に比して毫も遜色のないのを見るに、この人の凡庸でなかったことは、推測するに難くない。著述の考うべきものにも、『痘科挙要』二巻、『痘科鍵会通』一巻、『痘科鍵私衡』五巻、抽斎をして筆授せしめた『護痘要法』一巻がある。養父独美が視ること尋常蕩子の如くにして、これを逐うことを惜まなかったのは、恩少きに過ぐというものではあるまいか。
かつわたくしは京水の墓誌が何人の撰文に係るかを知らない。しかし京水が果して独美の姪であったなら、縦い独美が一時養って子となしたにもせよ、直に瑞仙の子なりと書したのはいかがのものであろうか。富士川さんの如きも、『日本医学史』に、墓誌に拠って瑞仙の子なりと書しているのである。また放縦だとか廃嗣だとかいうことも、此の如くに書したのが、墓誌として体を得たものであろうか。わたくしは大いにこれを疑うのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、その撰者を審にすることを得ざるのを憾とする。
わたくしは独撰者不詳の京水墓誌を疑うのみではない。また二世瑞仙晋の撰んだ池田氏行状をも疑わざることを得ない。文は載せて『事実文編』四十五にある。
行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年乙卯五月二十二日に生れ、文化十三年丙子九月六日に歿した。然るに安永六年丁酉に四十、寛政四年壬子に五十五、同九年丁巳に六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。齢を記するごとに、殆ど必ず差っているのは何故であろうか。因にいうが過去帖にもまた齢八十三としてある。そこでわたくしはこの八十三より逆算することにした。
その二十[編集]
晋の撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子善直というものを挙げて、「多病不能継業」と書してある。その前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四言の多きに及んである。瑞仙は痘を治することの難きを説いて、「数百之弟子、無能熟得之者」といい、晋を賞して、「而汝能継我業」といっている。
わたくしはいまだ過去帖を獲ざる前にこれを読んで、善直は京水の初の名であろうと思った。京水の墓誌に多病を以て嗣を廃せらるというように書してあったというのと、符節は合するようだからである。過去帖に従えば、庶子善直と姪京水とは別人でなくてはならない。しかし善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかという疑が、今に迄るまでいまだ全くわたくしの懐を去らない。特に彼過去帖に遠近の親戚百八人が挙げてあるのに、初代瑞仙のただ一人の実子善直というものが痕跡をだに留めずに消滅しているという一事は、この疑を助長する媒となるのである。
そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水が刺ってあるのを見ては、忌憚なきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語を記して、一の抑損の句をも著けぬのを見ては、簡傲もまた甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、京水の三人の間に或るドラアムが蔵せられているように思われてならない。わたくしの世の人に教を乞いたいというのはこれである。
わたくしは抽斎の誕生を語るに当って、後にその師となるべき人々を数えた。それは抽斎の生れた時、四十一歳であった迷庵、三十一歳であった棭斎、二十九歳であった蘭軒の三人と、京水とであって、独り京水は過去帖を獲るまでその齢を算することが出来なかった。なぜというに、京水の歿年が天保七年だということは、保さんが知っていたが、年歯に至っては全く所見がなかったからである。
過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、字を信卿といって寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。法諡して宗経軒京水瑞英居士という。
これに由って観れば、京水は天明六年の生で、抽斎の生れた文化二年には二十歳になっていた。抽斎の四人の師の中では最年少者であった。
後に抽斎と交る人々の中、抽斎に先って生れた学者は、安積艮斎、小島成斎、岡本况斎、海保漁村である。
安積艮斎は抽斎との交が深くなかったらしいが、抽斎をして西学を忌む念を翻さしめたのはこの人の力である。艮斎、名は重信、修して信という。通称は祐助である。奥州郡山の八幡宮の祠官安藤筑前親重の子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村の里正今泉氏の壻になって、妻に嫌われ、翌年江戸に奔った。しかし誰にたよろうというあてもないので、うろうろしているのを、日蓮宗の僧日明が見附けて、本所番場町の妙源寺へ連れて帰って、数月間留めて置いた。そして世話をして佐藤一斎の家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立っている寺である。それから二十一歳にして林述斎の門に入った。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。そうして見ると、抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であった。これは艮斎が万延元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。
小島成斎名は知足、字は子節、初め静斎と号した。通称は五一である。棭斎の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表に文久二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年には甫めて十歳である。父親蔵が福山侯阿部備中守正精に仕えていたので、成斎も江戸の藩邸に住んでいた。
その二十一[編集]
岡本况斎、名は保孝、通称は初め勘右衛門、後縫殿助であった。拙誠堂の別号がある。幕府の儒員に列せられた。『荀子』、『韓非子』、『淮南子』等の考証を作り、旁国典にも通じていた。明治十一年四月までながらえて、八十二歳で歿した。寛政九年の生で、抽斎の生れた文化二年には僅に九歳になっていたはずである。
海保漁村、名は元備、字は純卿、また名は紀之、字は春農ともいった。通称は章之助、伝経廬の別号がある。寛政十年に上総国武射郡北清水村に生れた。老年に及んで経を躋寿館に講ずることになった。慶応二年九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽斎の生れた文化二年には八歳だから、郷里にあって、父恭斎に句読を授けられていたのである。
即ち学者の先輩は艮斎が十六、成斎が十、况斎が九つ、漁村が八つになった時、抽斎は生れたことになる。
次に医者の年長者には先ず多紀の本家、末家を数える。本家では桂山、名は元簡、字は廉夫が、抽斎の生れた文化二年には五十一歳、その子柳沜、名は胤、字は奕禧が十七歳、末家では茝庭、名は元堅、字は亦柔が十一歳になっていた。桂山は文化七年十二月二日に五十六歳で歿し、柳沜は文政十年六月三日に三十九歳で歿し、茝庭は安政四年二月十四日に六十三歳で歿したのである。
この中抽斎の最も親しくなったのは茝庭である。それから師伊沢蘭軒の長男榛軒もほぼ同じ親しさの友となった。榛軒、通称は長安、後一安と改めた。文化元年に生れて、抽斎にはただ一つの年上である。榛軒は嘉永五年十一月十七日に、四十九歳で歿した。
年上の友となるべき医者は、抽斎の生れた時十一歳であった茝庭と、二歳であった榛軒とであったといっても好い。
次は芸術家及芸術批評家である。芸術家としてここに挙ぐべきものは谷文晁一人に過ぎない。文晁、本文朝に作る、通称は文五郎、薙髪して文阿弥といった。写山楼、画学斎、その他の号は人の皆知る所である。初め狩野派の加藤文麗を師とし、後北山寒巌に従学して別に機軸を出した。天保十一年十二月十四日に、七十八歳で歿したのだから、抽斎の生れた文化二年には四十三歳になっていた。二人年歯の懸隔は、概ね迷庵におけると同じく、抽斎は画をも少しく学んだから、この人は抽斎の師の中に列する方が妥当であったかも知れない。
わたくしはここに真志屋五郎作と石塚重兵衛とを数えんがために、芸術批評家の目を立てた。二人は皆劇通であったから、此の如くに名づけたのである。あるいはおもうに、批評家といわんよりは、むしろアマトヨオルというべきであったかも知れない。
抽斎が後劇を愛するに至ったのは、当時の人の眼より観れば、一の癖好であった。どうらくであった。啻に当時において然るのみではない。是の如くに物を観る眼は、今もなお教育家等の間に、前代の遺物として伝えられている。わたくしはかつて歴史の教科書に、近松、竹田の脚本、馬琴、京伝の小説が出て、風俗の頽敗を致したと書いてあるのを見た。
しかし詩の変体としてこれを視れば、脚本、小説の価値も認めずには置かれず、脚本に縁って演じ出す劇も、高級芸術として尊重しなくてはならなくなる。わたくしが抽斎の心胸を開発して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを学者、医者、画家の次に数えるのは、好む所に阿るのではない。
その二十二[編集]
真志屋五郎作は神田新石町の菓子商であった。水戸家の賄方を勤めた家で、或時代から故あって世禄三百俵を給せられていた。巷説には水戸侯と血縁があるなどといったそうであるが、どうしてそんな説が流布せられたものか、今考えることが出来ない。わたくしはただ風采が好かったということを知っているのみである。保さんの母五百の話に、五郎作は苦味走った好い男であったということであった。菓子商、用達の外、この人は幕府の連歌師の執筆をも勤めていた。
五郎作は実家が江間氏で、一時長島氏を冒し、真志屋の西村氏を襲ぐに至った。名は秋邦、字は得入、空華、月所、如是縁庵等と号した。平生用いた華押は邦の字であった。剃髪して五郎作新発智東陽院寿阿弥陀仏曇奝と称した。曇奝とは好劇家たる五郎作が、音の似通った劇場の緞帳と、入宋僧奝然の名などとを配合して作った戯号ではなかろうか。
五郎作は劇神仙の号を宝田寿来に承けて、後にこれを抽斎に伝えた人だそうである。
宝田寿来、通称は金之助、一に閑雅と号した。『作者店おろし』という書に、宝田とはもと神田より出でたる名と書いてあるのを見れば、真の氏ではなかったであろう。浄瑠璃『関の扉』はこの人の作だそうである。寛政六年八月に、五十七歳で歿した。五郎作が二十六歳の時で、抽斎の生れる十一年前である。これが初代劇神仙である。
五郎作は歿年から推算するに、明和六年の生で、抽斎の生れた文化二年には三十七歳になっていた。抽斎から見ての長幼の関係は、師迷庵や文晁におけると大差はない。嘉永元年八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽斎がこの二世劇神仙の後を襲いで三世劇神仙となったのは、四十四歳の時である。初め五郎作は抽斎の父允成と親しく交っていたが、允成は五郎作に先つこと十一年にして歿した。
五郎作は独り劇を看ることを好んだばかりではなく、舞台のために製作をしたこともある。四世彦三郎を贔屓にして、所作事を書いて遣ったと、自分でいっている。レシタションが上手であったことは、同情のない喜多村筠庭が、台帳を読むのが寿阿弥の唯一の長技だといったのを見ても察せられる。
五郎作は奇行はあったが、生得酒を嗜まず、常に養性に意を用いていた。文政十年七月の末に、姪の家の板の間から墜ちて怪我をして、当時流行した接骨家元大坂町の名倉弥次兵衛に診察してもらうと、名倉がこういったそうである。お前さんは下戸で、戒行が堅固で、気が強い、それでこれほどの怪我をしたのに、目を廻さずに済んだ。この三つが一つ闕けていたら、目を廻しただろう。目を廻したのだと、療治に二百日余掛かるが、これは百五、六十日でなおるだろうといったそうである。戒行とは剃髪した後だからいったものと見える。怪我は両臂を傷めたので骨には障らなかったが痛が久しく息まなかった。五郎作は十二月の末まで名倉へ通ったが、臂の痹だけは跡に貽った。五十九歳の時の事である。
五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄の筆を以てした。技倆の上から言えば、必ずしも馬琴、京伝に譲らなかった。ただ小説を書かなかったので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙が売に出たと聞いて、大晦日に築地の弘文堂へ買いに往った。手紙は罫紙十二枚に細字で書いたものである。文政十一年二月十九日に書いたということが、記事に拠って明かに考えられる。ここに書いた五郎作の性行も、半は材料をこの簡牘に取ったものである。宛名の苾堂は桑原氏、名は正瑞、字は公圭、通称を古作といった。駿河国島田駅の素封家で、詩及書を善くした。玄孫喜代平さんは島田駅の北半里ばかりの伝心寺に住んでいる。五郎作の能文はこの手紙一つに徴して知ることが出来るのである。
その二十三[編集]
わたくしの獲た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。臂を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「研ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自らおるわけではないが、これを蜀山らの作に比するに、遜色あるを見ない。筠庭は五郎作に文筆の才がないと思ったらしく、歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むようなる仮名書して終れりといっているが、此の如きは決して公論ではない。筠庭は素漫罵の癖がある。五郎作と同年に歿した喜多静廬を評して、性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めりといっている。風流をどんな事と心得ていたか。わたくしは強いて静廬を回護するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩的という語の悪解釈を挙げて、口を極めて嘲罵しているのを想い起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、奈何なる用事をも擱いて玄関へ見に出たそうである。これが風流である。詩的である。
五郎作は少い時、山本北山の奚疑塾にいた。大窪天民は同窓であったので後に迨るまで親しく交った。上戸の天民は小さい徳利を蔵して持っていて酒を飲んだ。北山が塾を見廻ってそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、その人物が小さくおもわれるといった。天民がこれを聞いて大樽を塾に持って来たことがあるそうである。下戸の五郎作は定めて傍から見て笑っていたことであろう。
五郎作はまた博渉家の山崎美成や、画家の喜多可庵と往来していた。中にも抽斎より僅に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑を質すことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎の許へ持って往って見せた。
文政六年四月二十九日の事である。まだ下谷長者町で薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋お七のふくさというものを見せに往った。ふくさは数代前に真志屋へ嫁入した島という女の遺物である。島の里方を河内屋半兵衛といって、真志屋と同じく水戸家の賄方を勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋市左衛門はこの河内屋の地借であった。島が屋敷奉公に出る時、穉なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬のふくさに、紅絹裏を附けて縫ってくれた。間もなく本郷森川宿のお七の家は天和二年十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人と相識になって、翌年の春家に帰った後、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである。お七は天和三年三月二十九日に、十六歳で刑せられた。島は記念のふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そして祐天上人から受けた名号をそれに裹んでいた。五郎作は新にふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来て見せたのである。
五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であった好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年の生で、抽斎の生れた文化二年には七歳になっていた。歿したのは文久元年十二月十五日で、年を享くること六十三であった。
その二十四[編集]
石塚重兵衛の祖先は相模国鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷豊住町に住んだ。世粉商をしているので、芥子屋と人に呼ばれた。真の屋号は鎌倉屋である。
重兵衛も自ら庭に降り立って、芥子の臼を踏むことがあった。そこで豊住町の芥子屋という意で、自ら豊芥子と署した。そしてこれを以て世に行われた。その豊亭と号するのも、豊住町に取ったのである。別に集古堂という号がある。
重兵衛に女が二人あって、長女に壻を迎えたが、壻は放蕩をして離別せられた。しかし後に浅草諏訪町の西側の角に移ってから、またその壻を呼び返していたそうである。
重兵衛は文久元年に京都へ往こうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であった。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は七歳の童であったはずである。
重兵衛の子孫はどうなったかわからない。数年前に大槻如電さんが浅草北清島町報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓に詣でて、忌日に墓に来るものは河竹新七一人だということを寺僧に聞いた。河竹にその縁故を問うたら、自分が黙阿弥の門人になったのは、豊芥子の紹介によったからだと答えたそうである。
以上抽斎の友で年長者であったものを数えると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であった安積艮斎、十歳であった小島成斎、九歳であった岡本况斎、八歳であった海保漁村がある。医者に当時十一歳であった多紀茝庭、二歳であった伊沢榛軒がある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。
抽斎が始て市野迷庵の門に入ったのは文化六年で、師は四十五歳、弟子は五歳であった。次いで文化十一年に医学を修めんがために、伊沢蘭軒に師事した。師が三十八歳、弟子が十歳の時である。父允成は経芸文章を教えることにも、家業の医学を授けることにも、頗る早く意を用いたのである。想うに後に師とすべき狩谷棭斎とは、家庭でも会い、師迷庵の許でも会って、幼い時から親しくなっていたであろう。また後に莫逆の友となった小島成斎も、夙く市野の家で抽斎と同門の好を結んだことであろう。抽斎がいつ池田京水の門を敲いたかということは今考えることが出来ぬが、恐らくはこれより後の事であろう。
文化十一年十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽寧親に謁した。寧親は五十歳、抽斎の父允成は五十一歳、抽斎自己は十歳の時である。想うに謁見の場所は本所二つ目の上屋敷であっただろう。謁見即ち目見は抽斎が弘前の士人として受けた礼遇の始で、これから月並出仕を命ぜられるまでには七年立ち、番入を命ぜられ、家督相続をするまでには八年立っている。
抽斎が迷庵門人となってから八年目、文化十四年に記念すべき事があった。それは抽斎と森枳園とが交を訂した事である。枳園は後年これを弟子入と称していた。文化四年十一月生の枳園は十一歳になっていたから、十三歳の抽斎が十一歳の枳園を弟子に取ったことになる。
森枳園、名は立之、字は立夫、初め伊織、中ごろ養真、後養竹と称した。維新後には立之を以て行われていた。父名は恭忠、通称は同じく養竹であった。恭忠は備後国福山の城主阿部伊勢守正倫、同備中守正精の二代に仕えた。その男枳園を挙げたのは、北八町堀竹島町に住んでいた時である。後『経籍訪古志』に連署すべき二人は、ここに始て手を握ったのである。因にいうが、枳園は単独に弟子入をしたのではなくて、同じく十一歳であった、弘前の医官小野道瑛の子道秀も袂を聯ねて入門した。
その二十五[編集]
抽斎の家督相続は文政五年八月朔を以て沙汰せられた。これより先き四年十月朔に、抽斎は月並出仕仰附けられ、五年二月二十八日に、御番見習、表医者仰附けられ、即日見習の席に着き、三月朔に本番に入った。家督相続の年には、抽斎が十八歳で、隠居した父允成が五十九歳であった。抽斎は相続後直ちに一粒金丹製法の伝授を受けた。これは八月十五日の日附を以てせられた。
抽斎の相続したと同じ年同じ月の二十九日に、相馬大作が江戸小塚原で刑せられた。わたくしはこの偶然の符合のために、ここに相馬大作の事を説こうとするのではない。しかし事のついでに言って置きたい事がある。大作は津軽家の祖先が南部家の臣であったと思っていた。そこで文化二年以来津軽家の漸く栄え行くのに平ならず、寧親の入国の時、途に要撃しようとして、出羽国秋田領白沢宿まで出向いた。然るに寧親はこれを知って道を変えて帰った。大作は事露れて捕えられたということである。
津軽家の祖先が南部家の被官であったということは、内藤恥叟も『徳川十五代史』に書いている。しかし郷土史に精しい外崎覚さんは、かつて内藤に書を寄せて、この説の誤を匡そうとした。
初め津軽家と南部家とは対等の家柄であった。然るに津軽家は秀信の世に勢を失って、南部家の後見を受けることになり、後元信、光信父子は人質として南部家に往っていたことさえある。しかし津軽家が南部家に仕えたことはいまだかつて聞かない。光信は彼の渋江辰盛を召し抱えた信政の六世の祖である。津軽家の隆興は南部家に怨を結ぶはずがない。この雪冤の文を作った外崎さんが、わたくしの渋江氏の子孫を捜し出す媒をしたのだから、わたくしはただこれだけの事をここに記して置く。
家督相続の翌年、文政六年十二月二十三日に、抽斎は十九歳で、始て妻を娶った。妻は下総国佐倉の城主堀田相模守正愛家来大目附百石岩田十大夫女百合として願済になったが、実は下野国安蘇郡佐野の浪人尾島忠助女定である。この人は抽斎の父允成が、子婦には貧家に成長して辛酸を嘗めた女を迎えたいといって選んだものだそうである。夫婦の齢は抽斎が十九歳、定が十七歳であった。
この年に森枳園は、これまで抽斎の弟子、即ち伊沢蘭軒の孫弟子であったのに、去って直ちに蘭軒に従学することになった。当時西語にいわゆるシニックで奇癖が多く、朝夕好んで俳優の身振声色を使う枳園の同窓に、今一人塩田楊庵という奇人があった。素越後新潟の人で、抽斎と伊沢蘭軒との世話で、宗対馬守義質の臣塩田氏の女壻となった。塩田は散歩するに友を誘わぬので、友が密に跡に附いて行って見ると、竹の杖を指の腹に立てて、本郷追分の辺を徘徊していたそうである。伊沢の門下で枳園楊庵の二人は一双の奇癖家として遇せられていた。声色遣も軽業師も、共に十七歳の諸生であった。
抽斎の母縫は、子婦を迎えてから半年立って、文政七年七月朔に剃髪して寿松と称した。
翌文政八年三月晦には、当時抽斎の住んでいた元柳原町六丁目の家が半焼になった。この年津軽家には代替があった。寧親が致仕して、大隅守信順が封を襲いだのである。時に信順は二十六歳、即ち抽斎より長ずること五歳であった。
次の文政九年は抽斎が種々の事に遭逢した年である。先ず六月二十八日に姉須磨が二十五歳で亡くなった。それから八月十四日に、師市野迷庵が六十二歳で歿した。最後に十二月五日に、嫡子恒善が生れた。
須磨は前にいった通、飯田良清というものの妻になっていたが、この良清は抽斎の父允成の実父稲垣清蔵の孫である。清蔵の子が大矢清兵衛、清兵衛の子が飯田良清である。須磨の夫が飯田氏を冒したのは、幕府の家人株を買ったのであるから、夫の父が大矢氏を冒したのも、恐らくは株として買ったのであろう。
迷庵の死は抽斎をして狩谷棭斎に師事せしむる動機をなしたらしいから、抽斎が棭斎の門に入ったのも、この頃の事であっただろう。迷庵の跡は子光寿が襲いだ。
その二十六[編集]
文政十二年もまた抽斎のために事多き年であった。三月十七日には師伊沢蘭軒が五十三歳で歿した。二十八日には抽斎が近習医者介を仰附けられた。六月十四日には母寿松が五十五歳で亡くなった。十一月十一日には妻定が離別せられた。十二月十五日には二人目の妻同藩留守居役百石比良野文蔵の女威能が二十四歳で来り嫁した。抽斎はこの年二十五歳であった。
わたくしはここに抽斎の師伊沢氏の事、それから前後の配偶定と威能との事を附け加えたい。亡くなった母については別に言うべき事がない。
抽斎と伊沢氏との交は、蘭軒の歿した後も、少しも衰えなかった。蘭軒の嫡子榛軒が抽斎の親しい友で、抽斎より長ずること一歳であったことは前に言った。榛軒の弟柏軒、通称磐安は文化七年に生れた。怙を喪った時、兄は二十六歳、弟は二十歳であった。抽斎は柏軒を愛して、己の弟の如くに待遇した。柏軒は狩谷棭斎の女俊を娶った。その次男が磐、三男が今の歯科医信平さんである。
抽斎の最初の妻定が離別せられたのは何故か詳にすることが出来ない。しかし渋江の家で、貧家の女なら、こういう性質を具えているだろうと予期していた性質を、定は不幸にして具えていなかったかも知れない。
定に代って渋江の家に来た抽斎の二人目の妻威能は、世要職におる比良野氏の当主文蔵を父に持っていた。貧家の女に懲りて迎えた子婦であろう。そしてこの子婦は短命ではあったが、夫の家では人々に悦ばれていたらしい。何故そういうかというに、後威能が亡くなり、次の三人目の妻がまた亡くなって、四人目の妻が商家から迎えられる時、威能の父文蔵は喜んで仮親になったからである。渋江氏と比良野氏との交誼が、後に至るまで此の如くに久しく渝らずにいたのを見ても、婦壻の間にヂソナンスのなかったことが思い遣られる。
比良野氏は武士気質の家であった。文蔵の父、威能の祖父であった助太郎貞彦は文事と武備とを併せ有した豪傑の士である。外浜また嶺雪と号し、安永五年に江戸藩邸の教授に挙げられた。画を善くして、「外浜画巻」及「善知鳥画軸」がある。剣術は群を抜いていた。壮年の頃村正作の刀を佩びて、本所割下水から大川端辺までの間を彷徨して辻斬をした。千人斬ろうと思い立ったのだそうである。抽斎はこの事を聞くに及んで、歎息して已まなかった。そして自分は医薬を以て千人を救おうという願を発した。
天保二年、抽斎が二十七歳の時、八月六日に長女純が生れ、十月二日に妻威能が歿した。年は二十六で、帰いでから僅に三年目である。十二月四日に、備後国福山の城主阿部伊予守正寧の医官岡西栄玄の女徳が抽斎に嫁した。この年八月十五日に、抽斎の父允成は隠居料三人扶持を賜わった。これは従来寧親信順二公にかわるがわる勤仕していたのに、六月からは兼て岩城隆喜の室、信順の姉もと姫に、また八月からは信順の室欽姫に伺候することになったからであろう。
この時抽斎の家族は父允成、妻岡西氏徳、尾島氏出の嫡子恒善、比良野氏出の長女純の四人となっていた。抽斎が三人目の妻徳を娶るに至ったのは、徳の兄岡西玄亭が抽斎と同じく蘭軒の門下におって、共に文字の交を訂していたからである。
天保四年四月六日に、抽斎は藩主信順に随って江戸を発し、始めて弘前に往った。江戸に還ったのは、翌五年十一月十五日である。この留守に前藩主寧親は六十九歳で卒した。抽斎の父允成が四月朔に二人扶持の加増を受けて、隠居料五人扶持にせられたのは、特に寧親に侍せしめられたためであろう。これは抽斎が二十九歳から三十歳に至る間の事である。
抽斎の友森枳園が佐々木氏勝を娶って、始めて家庭を作ったのも天保四年で、抽斎が弘前に往った時である。これより先枳園は文政四年に怙を喪って、十五歳で形式的の家督相続をなした。蘭軒に従学する前二年の事である。
その二十七[編集]
天保六年閏七月四日に、抽斎は師狩谷棭斎を喪なった。六十一歳で亡くなったのである。十一月五日に、次男優善が生れた。後に名を優と改めた人である。この年抽斎は三十一歳になった。
棭斎の後は懐之、字は少卿、通称は三平が嗣いだ。抽斎の家族は父允成、妻徳、嫡男恒善、長女純、次男優善の五人になった。
同じ年に森枳園の家でも嫡子養真が生れた。
天保七年三月二十一日に、抽斎は近習詰に進んだ。これまでは近習格であったのである。十一月十四日に、師池田京水が五十一歳で歿した。この年抽斎は三十二歳になった。
京水には二人の男子があった。長を瑞長といって、これが家業を襲いだ。次を全安といって、伊沢家の女壻になった。榛軒の女かえに配せられたのである。後に全安は自立して本郷弓町に住んだ。
天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主信順に謁した。年甫て十二である。七月十二日に、抽斎は信順に随って弘前に往った。十月二十六日に、父允成が七十四歳で歿した。この年抽斎は三十三歳になった。
初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる詰越をすることになった。例に依って翌年江戸に帰らずに、二冬を弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、豕の子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで悶を遣った。抽斎が酒を飲み、獣肉を噉うようになったのはこの時が始である。
しかし抽斎は生涯煙草だけは喫まずにしまった。允成の直系卑属は、今の保さんなどに至るまで、一人も煙草を喫まぬのだそうである。但し抽斎の次男優善は破格であった。
抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。徒士町の池田の家で、当主瑞長が父京水の例に倣って、春の初に発会式ということをした。京水は毎年これを催して、門人を集えたのであった。然るに今年抽斎が往って見ると、名は発会式と称しながら、趣は全く前日に異っていて、京水時代の静粛は痕だに留めなかった。芸者が来て酌をしている。森枳園が声色を使っている。抽斎は暫く黙して一座の光景を視ていたが、遂に容を改めて主客の非礼を責めた。瑞長は大いに羞じて、すぐに芸者に暇を遣ったそうである。
引き続いて二月に、森枳園の家に奇怪な事件が生じた。枳園は阿部家を逐われて、祖母、母、妻勝、生れて三歳の倅養真の四人を伴って夜逃をしたのである。後に枳園の自ら選んだ寿蔵碑には「有故失禄」と書してあるが、その故は何かというと、実に悲惨でもあり、また滑稽でもあった。
枳園は好劇家であった。単に好劇というだけなら、抽斎も同じ事である。しかし抽斎は俳優の技を、観棚から望み見て楽むに過ぎない。枳園は自らその科白を学んだ。科白を学んで足らず、遂に舞台に登って梆子を撃った。後にはいわゆる相中の間に混じて、並大名などに扮し、また注進などの役をも勤めた。
或日阿部家の女中が宿に下って芝居を看に往くと、ふと登場している俳優の一人が養竹さんに似ているのに気が附いた。そう思って、と見こう見するうちに、女中はそれが養竹さんに相違ないと極めた。そして邸に帰ってから、これを傍輩に語った。固より一の可笑しい事として語ったので、初より枳園に危害を及ぼそうとは思わなかったのである。
さてこの奇談が阿部邸の奥表に伝播して見ると、上役はこれを棄て置かれぬ事と認めた。そこでいよいよ君侯に稟して禄を褫うということになってしまった。
その二十八[編集]
枳園は俳優に伍して登場した罪によって、阿部家の禄を失って、永の暇になった。後に抽斎の四人目の妻となるべき山内氏五百の姉は、阿部家の奥に仕えて、名を金吾と呼ばれ、枳園をも識っていたが、事件の起る三、四年前に暇を取ったので、当時の阿部家における細かい事情を知らなかった。
永の暇になるまでには、相応に評議もあったことであろう。友人の中には、枳園を救おうとした人もあったことであろう。しかし枳園は平生細節に拘らぬ人なので、諸方面に対して、世にいう不義理が重なっていた。中にも一、二件の筆紙に上すべからざるものもある。救おうとした人も、これらの障礙のために、その志を遂げることが出来なかったらしい。
枳園は江戸で暫く浪人生活をしていたが、とうとう負債のために、家族を引き連れて夜逃をした。恐らくはこの最後の策に出づることをば、抽斎にも打明けなかっただろう。それは面目がなかったからである。絜矩の道を紳に書していた抽斎をさえ、度々忍びがたき目に逢わせていたからである。
枳園は相模国をさして逃げた。これは当時三十一歳であった枳園には、もう幾人かの門人があって、その中に相模の人がいたのをたよって逃げたのである。この落魄中の精しい経歴は、わたくしにはわからない。『桂川詩集』、『遊相医話』などという、当時の著述を見たらわかるかも知れぬが、わたくしはまだ見るに及ばない。寿蔵碑には、浦賀、大磯、大山、日向、津久井県の地名が挙げてある。大山は今の大山町、日向は今の高部屋村で、どちらも大磯と同じ中郡である。津久井県は今の津久井郡で相模川がこれを貫流している。桂川はこの川の上流である。
後に枳園の語った所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があったのだそうである。この銭は箱根の湯本に着くと、もう遣い尽していた。そこで枳園はとりあえず按摩をした。上下十六文の糈銭を獲るも、なお已むにまさったのである。啻に按摩のみではない。枳園は手当り次第になんでもした。「無論内外二科、或為収生、或為整骨、至于牛馬雞狗之疾、来乞治者、莫不施術」と、自記の文にいってある。収生はとりあげである。整骨は骨つぎである。獣医の縄張内にも立ち入った。医者の歯を治療するのをだに拒もうとする今の人には、想像することも出来ぬ事である。
老いたる祖母は浦賀で困厄の間に歿した。それでも跡に母と妻と子とがある。自己を併せて四人の口を、此の如き手段で糊しなくてはならなかった。しかし枳園の性格から推せば、この間に処して意気沮喪することもなく、なお幾分のボンヌ・ユミヨオルを保有していたであろう。
枳園はようよう大磯に落ち着いた。門人が名主をしていて、枳園を江戸の大先生として吹聴し、ここに開業の運に至ったのである。幾ばくもなくして病家の数が殖えた。金帛を以て謝することの出来ぬものも、米穀菜蔬を輸って庖厨を賑した。後には遠方から轎を以て迎えられることもある。馬を以て請ぜられることもある。枳園は大磯を根拠地として、中、三浦両郡の間を往来し、ここに足掛十二年の月日を過すこととなった。
抽斎は天保九年の春を弘前に迎えた。例の宿直日記に、正月十三日忌明と書してある。父の喪が果てたのである。続いて第二の冬をも弘前で過して、翌天保十年に、抽斎は藩主信順に随って江戸に帰った。三十五歳になった年である。
この年五月十五日に、津軽家に代替があった。信順は四十歳で致仕して柳島の下屋敷に遷り、同じ齢の順承が小津軽から入って封を襲いだ。信順は頗る華美を好み、動もすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫を馴致し、遂に引退したのだそうである。
抽斎はこれから隠居信順附にせられて、平日は柳島の館に勤仕し、ただ折々上屋敷に伺候した。
その二十九[編集]
天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇していた年長者で、抽斎は平素画を鑑賞することについては、なにくれとなく教を乞い、また古器物や本艸の参考に供すべき動植物を図するために、筆の使方、顔料の解方などを指図してもらった。それが前年に七十七の賀宴を両国の万八楼で催したのを名残にして、今年亡人の数に入ったのである。跡は文化九年生で二十九歳になる文二が嗣いだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻阿佐は、もう五年前に夫に先って死んでいたのである。この年抽斎は三十六歳であった。
天保十二年には、岡西氏徳が二女好を生んだが、好は早世した。閏正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男八三郎が生れたが、これも夭折した。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙する初において、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の詩を挙げて、当時の渋江氏の家族を数えたが、倐ち来り倐ち去った女好の名は見わすことが出来なかった。
天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。
この年に躋寿館で書を講じて、陪臣町医に来聴せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始て新に講師が任用せられた。初館には都講、教授があって、生徒に授業していたに過ぎない。一時多紀藍渓時代に百日課の制を布いて、医学も経学も科を分って、百日を限って講じたことがある。今いうクルズスである。しかしそれも生徒に聴かせたのである。百日課は四年間で罷んだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになったのは、この時が始である。五カ月の後、幕府が抽斎を起たしむることとなったのは、この制度あるがためである。
弘化元年は抽斎のために、一大転機を齎した。社会においては幕府の直参になり、家庭においては岡西氏徳のみまかった跡へ、始て才色兼ね備わった妻が迎えられたのである。
この一年間の出来事を順次に数えると、先ず二月二十一日に妻徳が亡くなった。三月十二日に老中土井大炊頭利位を以て、抽斎に躋寿館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期登城を命ぜられた。年始、八朔、五節句、月並の礼に江戸城に往くことになったのである。十一月六日に神田紺屋町鉄物問屋山内忠兵衛妹五百が来り嫁した。表向は弘前藩目附役百石比良野助太郎妹翳として届けられた。十二月十日に幕府から白銀五枚を賜わった。これは以下恒例になっているから必ずしも書かない。同月二十六日に長女純が幕臣馬場玄玖に嫁した。時に年十六である。
抽斎の岡西氏徳を娶ったのは、その兄玄亭が相貌も才学も人に優れているのを見て、この人の妹ならと思ったからである。然るに伉儷をなしてから見ると、才貌共に予期したようではなかった。それだけならばまだ好かったが、徳は兄には似ないで、かえって父栄玄の褊狭な気質を受け継いでいた。そしてこれが抽斎にアンチパチイを起させた。
最初の妻定は貧家の女の具えていそうな美徳を具えていなかったらしく、抽斎の父允成が或時、己の考が悪かったといって歎息したこともあるそうだが、抽斎はそれほど厭とは思わなかった。二人目の妻威能は怜悧で、人を使う才があった。とにかく抽斎に始てアンチパチイを起させたのは、三人目の徳であった。
その三十[編集]
克己を忘れたことのない抽斎は、徳を叱り懲らすことはなかった。それのみではない。あらわに不快の色を見せもしなかった。しかし結婚してから一年半ばかりの間、これに親近せずにいた。そして弘前へ立った。初度の旅行の時の事である。
さて抽斎が弘前にいる間、江戸の便があるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、殆ど日記のように悉く書いたのである。抽斎は初め数行を読んで、直ちにこの書信が徳の自力によって成ったものでないことを知った。文章の背面に父允成の気質が歴々として見えていたからである。
允成は抽斎の徳に親まぬのを見て、前途のために危んでいたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与えて手習をさせる。日記を附けさせる。そしてそれに本づいて文案を作って、徳に筆を把らせ、家内の事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。
抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。父のために泣いたのである。
二年近い旅から帰って、抽斎は勉めて徳に親んで、父の心を安ぜようとした。それから二年立って優善が生れた。
尋いで抽斎は再び弘前へ往って、足掛三年淹留した。留守に父の亡くなった旅である。それから江戸に帰って、中一年置いて好が生れ、その翌年また八三郎が生れた。徳は八三郎を生んで一年半立って亡くなった。
そして徳の亡くなった跡へ山内氏五百が来ることになった。抽斎の身分は徳が往き、五百が来る間に変って、幕府の直参になった。交際は広くなる。費用は多くなる。五百は卒にその中に身を投じて、難局に当らなくてはならなかった。五百があたかも好しその適材であったのは、抽斎の幸である。
五百の父山内忠兵衛は名を豊覚といった。神田紺屋町に鉄物問屋を出して、屋号を日野屋といい、商標には井桁の中に喜の字を用いた。忠兵衛は詩文書画を善くして、多く文人墨客に交り、財を捐ててこれが保護者となった。
忠兵衛に三人の子があった。長男栄次郎、長女安、二女五百である。忠兵衛は允成の友で、嫡子栄次郎の教育をば、久しく抽斎に託していた。文政七、八年の頃、允成が日野屋をおとずれて、芝居の話をすると、九つか十であった五百と、一つ年上の安とが面白がって傍聴していたそうである。安は即ち後に阿部家に仕えた金吾である。
五百は文化十三年に生れた。兄栄次郎が五歳、姉安が二歳になっていた時である。忠兵衛は三人の子の次第に長ずるに至って、嫡子には士人たるに足る教育を施し、二人の女にも尋常女子の学ぶことになっている読み書き諸芸の外、武芸をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には、経学などをさえ、殆ど男子に授けると同じように授けたのである。
忠兵衛が此の如くに子を育てたには来歴がある。忠兵衛の祖先は山内但馬守盛豊の子、対馬守一豊の弟から出たのだそうで、江戸の商人になってからも、三葉柏の紋を附け、名のりに豊の字を用いることになっている。今わたくしの手近にある系図には、一豊の弟は織田信長に仕えた修理亮康豊と、武田信玄に仕えた法眼日泰との二人しか載せてない。忠兵衛の家は、この二人の内いずれかの裔であるか、それとも外に一豊の弟があったか、ここに遽に定めることが出来ない。
その三十一[編集]
五百は十一、二歳の時、本丸に奉公したそうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。徳川家斉が五十四、五歳になった時である。御台所は近衛経煕の養女茂姫である。
五百は姉小路という奥女中の部屋子であったという。姉小路というからには、上臈であっただろう。然らば長局の南一の側に、五百はいたはずである。五百らが夕方になると、長い廊下を通って締めに往かなくてはならぬ窓があった。その廊下には鬼が出るという噂があった。鬼とはどんな物で、それが出て何をするかというに、誰も好くは見ぬが、男の衣を着ていて、額に角が生えている。それが礫を投げ掛けたり、灰を蒔き掛けたりするというのである。そこでどの部屋子も窓を締めに往くことを嫌って、互に譲り合った。五百は穉くても胆力があり、武芸の稽古をもしたことがあるので、自ら望んで窓を締めに往った。
暗い廊下を進んで行くと、果してちょろちょろと走り出たものがある。おやと思う間もなく、五百は片頬に灰を被った。五百には咄嗟の間に、その物の姿が好くは見えなかったが、どうも少年の悪作劇らしく感ぜられたので、五百は飛び附いて掴まえた。
「許せ/\」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手を弛めなかった。そのうちに外の女子たちが馳せ附けた。
鬼は降伏して被っていた鬼面を脱いだ。銀之助様と称えていた若者で、穉くて美作国西北条郡津山の城主松平家へ壻入した人であったそうである。
津山の城主松平越後守斉孝の次女徒の方の許へ壻入したのは、家斉の三十四人目の子で、十四男参河守斉民である。
斉民は小字を銀之助という。文化十一年七月二十九日に生れた。母はお八重の方である。十四年七月二十二日に、御台所の養子にせられ、九月十八日に津山の松平家に壻入し、十二月三日に松平邸に往た。四歳の壻君である。文政二年正月二十八日には新居落成してそれに移った。七年三月二十八日には十一歳で元服して、従四位上侍従参河守斉民となった。九年十二月には十三歳で少将にせられた。人と成って後確堂公と呼ばれたのはこの人で、成島柳北の碑の篆額はその筆である。そうして見ると、この人が鬼になって五百に捉えられたのは、従四位上侍従になってから後で、ただ少将であったか、なかったかが疑問である。津山邸に館はあっても、本丸に寝泊して、小字の銀之助を呼ばれていたものと見える。年は五百より二つ上である。
五百の本丸を下ったのは何時だかわからぬが、十五歳の時にはもう藤堂家に奉公していた。五百が十五歳になったのは、天保元年である。もし十四歳で本丸を下ったとすると、文政十二年に下ったことになる。
五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家という大名の屋敷を目見をして廻ったそうである。その頃も女中の目見は、君臣を択ばず、臣君を択ぶというようになっていたと見えて、五百が此の如くに諸家の奥へ覗きに往ったのは、到処で斥けられたのではなく、自分が仕うることを肯ぜなかったのだそうである。
しかし二十余家を経廻るうちに、ただ一カ所だけ、五百が仕えようと思った家があった。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守豊資の家であった。即ち五百と祖先を同じうする山内家である。
五百が鍛冶橋内の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。それは手跡、和歌、音曲の嗜を験されるのである。試官は老女である。先ず硯箱と色紙とを持ち出して、老女が「これに一つお染を」という。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それから常磐津を一曲語らせられた。これらの事は他家と何の殊なることもなかったが、女中が悉く綿服であったのが、五百の目に留まった。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐにこの家に奉公したいと決心した。奥方は松平上総介斉政の女である。
この時老女がふと五百の衣類に三葉柏の紋の附いているのを見附けた。
その三十二[編集]
山内家の老女は五百に、どうして御当家の紋と同じ紋を、衣類に附けているかと問うた。
五百は自分の家が山内氏で、昔から三葉柏の紋を附けていると答えた。
老女は暫く案じてからいった。御用に立ちそうな人と思われるから、お召抱になるように申し立てようと思う。しかしその紋は当分御遠慮申すが好かろう。由緒のあることであろうから、追ってお許を願うことも出来ようといった。
五百は家に帰って、父に当分紋を隠して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衛は即座に反対した。姓名だの紋章だのは、先祖から承けて子孫に伝える大切なものである。濫に匿したり更めたりすべきものではない。そんな事をしなくては出来ぬ奉公なら、せぬが好いといったのである。
五百が山内家をことわって、次に目見に往ったのが、向柳原の藤堂家の上屋敷であった。例の考試は首尾好く済んだ。別格を以て重く用いても好いといって、懇望せられたので、諸家を廻り草臥れた五百は、この家に仕えることに極めた。
五百はすぐに中臈にせられて、殿様附と定まり、同時に奥方祐筆を兼ねた。殿様は伊勢国安濃郡津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂和泉守高猷である。官位は従四位侍従になっていた。奥方は藤堂主殿頭高崧の女である。
この時五百はまだ十五歳であったから、尋常ならば女小姓に取らるべきであった。それが一躍して中臈を贏ち得たのは破格である。女小姓は茶、烟草、手水などの用を弁ずるもので、今いう小間使である。中臈は奥方附であると、奥方の身辺に奉仕して、種々の用事を弁ずるものである。幕府の慣例ではそれが転じて将軍附となると、妾になったと見ても好い。しかし大名の家では奥方に仕えずに殿様に仕えるというに過ぎない。祐筆は日記を附けたり、手紙を書いたりする役である。
五百は呼名は挿頭と附けられた。後に抽斎に嫁することに極まって、比良野氏の娘分にせられた時、翳の名を以て届けられたのは、これを襲用したのである。さて暫く勤めているうちに、武芸の嗜のあることを人に知られて、男之助という綽名が附いた。
藤堂家でも他家と同じように、中臈は三室位に分たれた部屋に住んで、女二人を使った。食事は自弁であった。それに他家では年給三十両内外であるのに、藤堂家では九両であった。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思っていたのではない。今の女が女学校に往くように、修行をしに往くのである。風儀の好さそうな家を択んで仕えようとした五百なぞには、給料の多寡は初より問う所でなかった。
修行は金を使ってする業で、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住いをして、役人に物を献じ、傍輩に饗応し、衣服調度を調え、下女を使って暮すには、父忠兵衛は年に四百両を費したそうである。給料は三十両貰っても九両貰っても、格別の利害を感ぜなかったはずである。
五百は藤堂家で信任せられた。勤仕いまだ一年に満たぬのに、天保二年の元日には中臈頭に進められた。中臈頭はただ一人しか置かれぬ役で、通例二十四、五歳の女が勤める。それを五百は十六歳で勤めることになった。
その三十三[編集]
五百は藤堂家に十年間奉公した。そして天保十年に二十四歳で、父忠兵衛の病気のために暇を取った。後に夫となるべき抽斎は五百が本丸にいた間、尾島氏定を妻とし、藤堂家にいた間、比良野氏威能、岡西氏徳を相踵いで妻としていたのである。
五百の藤堂家を辞した年は、父忠兵衛の歿した年である。しかし奉公を罷めた頃は、忠兵衛はまだ女を呼び寄せるほどの病気をしてはいなかった。暇を取ったのは、忠兵衛が女を旅に出すことを好まなかったためである。この年に藤堂高猷夫妻は伊勢参宮をすることになっていて、五百は供の中に加えられていた。忠兵衛は高猷の江戸を立つに先って、五百を家に還らしめたのである。
五百の帰った紺屋町の家には、父忠兵衛の外、当時五十歳の忠兵衛妾牧、二十八歳の兄栄次郎がいた。二十五歳の姉安は四年前に阿部家を辞して、横山町の塗物問屋長尾宗右衛門に嫁していた。宗右衛門は安がためには、ただ一つ年上の夫であった。
忠兵衛の子がまだ皆幼く、栄次郎六歳、安三歳、五百二歳の時、麹町の紙問屋山一の女で松平摂津守義建の屋敷に奉公したことのある忠兵衛の妻は亡くなったので、跡には享和三年に十四歳で日野屋へ奉公に来た牧が、妾になっていたのである。
忠兵衛は晩年に、気が弱くなっていた。牧は人の上に立って指図をするような女ではなかった。然るに五百が藤堂家から帰った時、日野屋では困難な問題が生じて全家が頭を悩ませていた。それは五百の兄栄次郎の身の上である。
栄次郎は初め抽斎に学んでいたが、尋いで昌平黌に通うことになった。安の夫になった宗右衛門は、同じ学校の諸生仲間で、しかもこの二人だけが許多の士人の間に介まっていた商家の子であった。譬えていって見れば、今の人が華族でなくて学習院に入っているようなものである。
五百が藤堂家に仕えていた間に、栄次郎は学校生活に平ならずして、吉原通をしはじめた。相方は山口巴の司という女であった。五百が屋敷から下る二年前に、栄次郎は深入をして、とうとう司の身受をするということになったことがある。忠兵衛はこれを聞き知って、勘当しようとした。しかし救解のために五百が屋敷から来たので、沙汰罷になった。
然るに五百が藤堂家を辞して帰った時、この問題が再燃していた。
栄次郎は妹の力に憑って勘当を免れ、暫く謹慎して大門を潜らずにいた。その隙に司を田舎大尽が受け出した。栄次郎は鬱症になった。忠兵衛は心弱くも、人に栄次郎を吉原へ連れて往かせた。この時司の禿であった娘が、浜照という名で、来月突出になることになっていた。栄次郎は浜照の客になって、前よりも盛な遊をしはじめた。忠兵衛はまた勘当すると言い出したが、これと同時に病気になった。栄次郎もさすがに驚いて、暫く吉原へ往かずにいた。これが五百の帰った時の現状である。
この時に当って、まさに覆らんとする日野屋の世帯を支持して行こうというものが、新に屋敷奉公を棄てて帰った五百の外になかったことは、想像するに難くはあるまい。姉安は柔和に過ぎて決断なく、その夫宗右衛門は早世した兄の家業を襲いでから、酒を飲んで遊んでいて、自分の産を治することをさえ忘れていたのである。
その三十四[編集]
五百は父忠兵衛をいたわり慰め、兄栄次郎を諌め励まして、風浪に弄ばれている日野屋という船の柁を取った。そして忠兵衛の異母兄で十人衆を勤めた大孫某を証人に立てて、兄をして廃嫡を免れしめた。
忠兵衛は十二月七日に歿した。日野屋の財産は一旦忠兵衛の意志に依って五百の名に書き更えられたが、五百は直ちにこれを兄に返した。
五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために新少納言と呼ばれたという一面がある。同じ頃狩谷棭斎の女俊に少納言の称があったので、五百はこれに対えてかく呼ばれたのである。
五百の師として事えた人には、経学に佐藤一斎、筆札に生方鼎斎、絵画に谷文晁、和歌に前田夏蔭があるそうである。十一、二歳の時夙く奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度ごとに講釈を聴くとか、手本を貰って習って清書を見せに往くとか、兼題の歌を詠んで直してもらうとかいう稽古の為方であっただろう。
師匠の中で最も老年であったのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であったのが鼎斎である。年齢を推算するに、五百の生れた文化十三年には、文晁が五十四、一斎が四十五、夏蔭が二十四、鼎斎が十八になっていた。
文晁は前にいったとおり、天保十一年に七十八で歿した。五百が二十五の時である。一斎は安政六年九月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時である。夏蔭は元治元年八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎斎は安政三年正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時である。鼎斎は画家福田半香の村松町の家へ年始の礼に往って酒に酔い、水戸の剣客某と口論をし出して、其の門人に斬られたのである。
五百は鼎斎を師とした外に、近衛予楽院と橘千蔭との筆跡を臨模したことがあるそうである。予楽院家煕は元文元年に薨じた。五百の生れる前八十年である。芳宜園千蔭は身分が町奉行与力で、加藤又左衛門と称し、文化五年に歿した。五百の生れる前八年である。
五百は藤堂家を下ってから五年目に渋江氏に嫁した。穉い時から親しい人を夫にするのではあるが、五百の身に取っては、自分が抽斎に嫁し得るというポッシビリテエの生じたのは、二月に岡西氏徳が亡くなってから後の事である。常に往来していた渋江の家であるから、五百は徳の亡くなった二月から、自分の嫁して来る十一月までの間にも、抽斎を訪うたことがある。未婚男女の交際とか自由結婚とかいう問題は、当時の人は夢にだに知らなかった。立派な教育のある二人が、男は四十歳、女は二十九歳で、多く年を閲した友人関係を棄てて、遽に夫婦関係に入ったのである。当時においては、醒覚せる二人の間に、此の如く婚約が整ったということは、絶てなくして僅にあるものといって好かろう。
わたくしは鰥夫になった抽斎の許へ、五百の訪い来た時の緊張したシチュアションを想像する。そして保さんの語った豊芥子の逸事を憶い起して可笑しく思う。五百の渋江へ嫁入する前であった。或日五百が来て抽斎と話をしていると、そこへ豊芥子が竹の皮包を持って来合せた。そして包を開いて抽斎に鮓を薦め、自分も食い、五百に是非食えといった。後に五百は、あの時ほど困ったことはないといったそうである。
その三十五[編集]
五百は抽斎に嫁するに当って、比良野文蔵の養女になった。文蔵の子で目附役になっていた貞固は文化九年生で、五百の兄栄次郎と同年であったから、五百はその妹になったのである。然るに貞固は姉威能の跡に直る五百だからというので、五百を姉と呼ぶことにした。貞固の通称は祖父と同じ助太郎である。
文蔵は仮親になるからは、真の親と余り違わぬ情誼がありたいといって、渋江氏へ往く三カ月ばかり前に、五百を我家に引き取った。そして自分の身辺におらせて、煙草を填めさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。
助太郎は武張った男で、髪を糸鬢に結い、黒紬の紋附を着ていた。そしてもう藍原氏かなという嫁があった。初め助太郎とかなとは、まだかなが藍原右衛門の女であった時、穴隙を鑽って相見えたために、二人は親々の勘当を受けて、裏店の世帯を持った。しかしどちらも可哀い子であったので、間もなくわびが愜って助太郎は表立ってかなを妻に迎えたのである。
五百が抽斎に帰いだ時の支度は立派であった。日野屋の資産は兄栄次郎の遊蕩によって傾き掛かってはいたが、先代忠兵衛が五百に武家奉公をさせるために為向けて置いた首飾、衣服、調度だけでも、人の目を驚かすに足るものがあった。今の世の人も奉公上りには支度があるという。しかしそれは賜物をいうのである。当時の女子はこれに反して、主に親の為向けた物を持っていたのである。五年の後に夫が将軍に謁した時、五百はこの支度の一部を沽って、夫の急を救うことを得た。またこれに先つこと一年に、森枳園が江戸に帰った時も、五百はこの支度の他の一部を贈って、枳園の妻をして面目を保たしめた。枳園の妻は後々までも、衣服を欲するごとに五百に請うので、お勝さんはわたしの支度を無尽蔵だと思っているらしいといって、五百が歎息したことがある。
五百の来り嫁した時、抽斎の家族は主人夫婦、長男恒善、長女純、次男優善の五人であったが、間もなく純は出でて馬場氏の婦となった。
弘化二年から嘉水元年までの間、抽斎が四十一歳から四十四歳までの間には、渋江氏の家庭に特筆すべき事が少かった。五百の生んだ子には、弘化二年十一月二十六日生の三女棠、同三年十月十九日生れの四男幻香、同四年十月八日生れの四女陸がある。四男は死んで生れたので、幻香水子はその法諡である。陸は今の杵屋勝久さんである。嘉永元年十二月二十八日には、長男恒善が二十三歳で月並出仕を命ぜられた。
五百の里方では、先代忠兵衛が歿してから三年ほど、栄次郎の忠兵衛は謹慎していたが、天保十三年に三十一歳になった頃から、また吉原へ通いはじめた。相方は前の浜照であった。そして忠兵衛は遂に浜照を落籍させて妻にした。尋いで弘化三年十一月二十二日に至って、忠兵衛は隠居して、日野屋の家督を僅に二歳になった抽斎の三女棠に相続させ、自分は金座の役人の株を買って、広瀬栄次郎と名告った。
五百の姉安を娶った長尾宗右衛門は、兄の歿した跡を襲いでから、終日手杯を釈かず、塗物問屋の帳場は番頭に任せて顧みなかった。それを温和に過ぐる性質の安は諌めようともしないので、五百は姉を訪うてこの様子を見る度にもどかしく思ったが為方がなかった。そういう時宗右衛門は五百を相手にして、『資治通鑑』の中の人物を評しなどして、容易に帰ることを許さない。五百が強いて帰ろうとすると、宗右衛門は安の生んだお敬お銓の二人の女に、おばさんを留めいという。二人の女は泣いて留める。これはおばの帰った跡で家が寂しくなるのと、父が不機嫌になるのとを憂えて泣くのである。そこで五百はとうとう帰る機会を失うのである。五百がこの有様を夫に話すと、抽斎は栄次郎の同窓で、妻の姉壻たる宗右衛門の身の上を気遣って、わざわざ横山町へ諭しに往った。宗右衛門は大いに慙じて、やや産業に意を用いるようになった。
その三十六[編集]
森枳園は大磯で医業が流行するようになって、生活に余裕も出来たので、時々江戸へ出た。そしてその度ごとに一週間位は渋江の家に舎ることになっていた。枳園の形装は決してかつて夜逃をした土地へ、忍びやかに立ち入る人とは見えなかった。保さんの記憶している五百の話によるに、枳園はお召縮緬の衣を着て、海老鞘の脇指を差し、歩くに褄を取って、剥身絞の褌を見せていた。もし人がその七代目団十郎を贔屓にするのを知っていて、成田屋と声を掛けると、枳園は立ち止まって見えをしたそうである。そして当時の枳園はもう四十男であった。尤もお召縮緬を着たのは、強ち奢侈と見るべきではあるまい。一反二分一朱か二分二朱であったというから、着ようと思えば着られたのであろうと、保さんがいう。
枳園の来て舎る頃に、抽斎の許にろくという女中がいた。ろくは五百が藤堂家にいた時から使ったもので、抽斎に嫁するに及んで、それを連れて来たのである。枳園は来り舎るごとに、この女を追い廻していたが、とうとう或日逃げる女を捉えようとして大行燈を覆し、畳を油だらけにした。五百は戯に絶交の詩を作って枳園に贈った。当時ろくを揶揄うものは枳園のみでなく、豊芥子も訪ねて来るごとにこれに戯れた。しかしろくは間もなく渋江氏の世話で人に嫁した。
枳園はまた当時纔に二十歳を踰えた抽斎の長男恒善の、いわゆるおとなし過ぎるのを見て、度々吉原へ連れて往こうとした。しかし恒善は聴かなかった。枳園は意を五百に明かし、母の黙許というを以て恒善を動そうとした。しかし五百は夫が吉原に往くことを罪悪としているのを知っていて、恒善を放ち遣ることが出来ない。そこで五百は幾たびか枳園と論争したそうである。
枳園が此の如くにしてしばしば江戸に出たのは、遊びに出たのではなかった。故主の許に帰参しようとも思い、また才学を負うた人であるから、首尾好くは幕府の直参にでもなろうと思って、機会を窺っていたのである。そして渋江の家はその策源地であった。
卒に見れば、枳園が阿部家の古巣に帰るのは易く、新に幕府に登庸せられるのは難いようである。しかし実況にはこれに反するものがあった。枳園は既に学術を以て名を世間に馳せていた。就中本草に精しいということは人が皆認めていた。阿部伊勢守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才学のある枳園の軽佻を忌む心が頗る牢かった。多紀一家殊に茝庭はややこれと趣を殊にしていて、ほぼこの人の短を護して、その長を用いようとする抽斎の意に賛同していた。
枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢榛軒、柏軒の兄弟であるが、抽斎もまた福山の公用人服部九十郎、勘定奉行小此木伴七、大田、宇川等に内談し、また小島成斎等をして説かしむること数度であった。しかしいつも藩主の反感に阻げられて事が行われなかった。そこで伊沢兄弟と抽斎とは先ず茝庭の同情に愬えて幕府の用を勤めさせ、それを規模にして阿部家を説き動そうと決心した。そして終にこの手段を以て成功した。
この期間の末の一年、嘉永元年に至って枳園は躋寿館の一事業たる『千金方』校刻を手伝うべき内命を贏ち得た。そして五月には阿部正弘が枳園の帰藩を許した。
その三十七[編集]
阿部家への帰参が愜って、枳園が家族を纏めて江戸へ来ることになったので、抽斎はお玉が池の住宅の近所に貸家のあったのを借りて、敷金を出し家賃を払い、応急の器什を買い集めてこれを迎えた。枳園だけは病家へ往かなくてはならぬ職業なので、衣類も一通持っていたが、家族は身に着けたものしか持っていなかった。枳園の妻勝の事を、五百があれでは素裸といっても好いといった位である。五百は髪飾から足袋下駄まで、一切揃えて贈った。それでも当分のうちは、何かないものがあると、蔵から物を出すように、勝は五百の所へ貰いに来た。或日これで白縮緬の湯具を六本遣ることになると、五百がいったことがある。五百がどの位親切に世話をしたか、勝がどの位恬然として世話をさせたかということが、これによって想像することが出来る。また枳園に幾多の悪性癖があるにかかわらず、抽斎がどの位、その才学を尊重していたかということも、これによって想像することが出来る。
枳園が医書彫刻取扱手伝という名義を以て、躋寿館に召し出されたのは、嘉永元年十月十六日である。
当時躋寿館で校刻に従事していたのは、『備急千金要方』三十巻三十二冊の宋槧本であった。これより先き多紀氏は同じ孫思邈の『千金翼方』三十巻十二冊を校刻した。これは元の成宗の大徳十一年梅渓書院の刊本を以て底本としたものである。尋いで手に入ったのが『千金要方』の宋版である。これは毎巻金沢文庫の印があって、北条顕時の旧蔵本である。米沢の城主上杉弾正大弼斉憲がこれを幕府に献じた。細に検すれば南宋『乾道淳煕』中の補刻数葉が交っているが、大体は北宋の旧面目を存している。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。然るに幕府はこれを聞いて、官刻を命ずることになった。そこで影写校勘の任に当らしむるために、三人の手伝が出来た。阿部伊勢守正弘の家来伊沢磐安、黒田豊前守直静の家来堀川舟庵、それから多紀楽真院門人森養竹である。磐安は即ち柏軒で、舟庵は『経籍訪古志』の跋に見えている堀川済である。舟庵の主黒田直静は上総国久留利の城主で、上屋敷は下谷広小路にあった。
任命は若年寄大岡主膳正忠固の差図を以て、館主多紀安良が申し渡し、世話役小島春庵、世話役手伝勝本理庵、熊谷弁庵が列座した。安良は即ち暁湖である。
何故に枳園が茝庭の門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への帰参は当時内約のみであって、まだ表向になっていなかったのでもあろうか。枳園は四十二歳になっていた。
この年八月二十九日に、真志屋五郎作が八十歳で歿した。抽斎はこの時三世劇神仙になったわけである。
嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて登城した。躑躅の間において、老中牧野備前守忠雅の口達があった。年来学業出精に付、ついでの節目見仰附けらるというのである。この月十五日に謁見は済んだ。始て「武鑑」に載せられる身分になったのである。
わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狭なために、五百の里方山内の家を渋江邸として届け出でたものである。
その三十八[編集]
抽斎の将軍家慶に謁見したのは、世の異数となす所であった。素より躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になっていた建部内匠頭政醇家来辻元崧庵の如く目見の栄に浴する前例はあったが、抽斎に先って伊沢榛軒が目見をした時には、藩主阿部正弘が老中になっているので、薦達の早きを致したのだとさえ言われた。抽斎と同日に目見をした人には、五年前に共に講師に任ぜられた町医坂上玄丈があった。しかし抽斎は玄丈よりも広く世に知られていたので、人がその殊遇を美めて三年前に目見をした松浦壱岐守慮の臣朝川善庵と並称した。善庵は抽斎の謁見に先つこと一月、嘉永二年二月七日に、六十九歳で歿したが、抽斎とも親しく交って、渋江の家の発会には必ず来る老人株の一人であった。善庵、名は鼎、字は五鼎、実は江戸の儒家片山兼山の子である。兼山の歿した後、妻原氏が江戸の町医朝川黙翁に再嫁した。善庵の姉寿美と兄道昌とは当時の連子で、善庵はまだ母の胎内にいた。黙翁は老いて病に至って、福山氏に嫁した寿美を以て、善庵に実を告げさせ、本姓に復することを勧めた。しかし善庵は黙翁の撫育の恩に感じて肯わず、黙翁もまた強いて言わなかった。善庵は次男格をして片山氏を嗣がしめたが、格は早世した。長男正準は出でて相田氏を冒したので、善庵の跡は次女の壻横山氏麎が襲いだ。
弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかった。抽斎が目見をした時も、同僚にして来り賀するものは一人もなかった。しかし当時世間一般には目見以上ということが、頗る重きをなしていたのである。伊沢榛軒は少しく抽斎に先んじて目見をしたが、阿部家のこれに対する処置には榛軒自己をして喫驚せしむるものがあった。榛軒は目見の日に本郷丸山の中屋敷から登城した。さて目見を畢って帰って、常の如く通用門を入らんとすると、門番が忽ち本門の側に下座した。榛軒は誰を迎えるのかと疑って、四辺を顧たが、別に人影は見えなかった。そこで始て自分に礼を行うのだと知った。次いで常の如く中の口から進もうとすると、玄関の左右に詰衆が平伏しているのに気が附いた。榛軒はまた驚いた。間もなく阿部家では、榛軒を大目附格に進ましめた。
目見は此の如く世の人に重視せられる習であったから、この栄を荷うものは多くの費用を弁ぜなくてはならなかった。津軽家では一カ年間に返済すべしという条件を附して、金三両を貸したが、抽斎は主家の好意を喜びつつも、殆どこれを何の費に充てようかと思い惑った。
目見をしたものは、先ず盛宴を開くのが例になっていた。そしてこれに招くべき賓客の数もほぼ定まっていた。然るに抽斎の居宅には多く客を延くべき広間がないので、新築しなくてはならなかった。五百の兄忠兵衛が来て、三十両の見積を以て建築に着手した。抽斎は銭穀の事に疎いことを自知していたので、商人たる忠兵衛の言うがままに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛は大家の若檀那上りで、金を擲つことにこそ長じていたが、靳んでこれを使うことを解せなかった。工事いまだ半ならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。
平生金銭に無頓着であった抽斎も、これには頗る当惑して、鋸の音槌の響のする中で、顔色は次第に蒼くなるばかりであった。五百は初から兄の指図を危みつつ見ていたが、この時夫に向っていった。
「わたくしがこう申すと、ひどく出過ぎた口をきくようではございますが、御一代に幾度というおめでたい事のある中で、金銭の事位で御心配なさるのを、黙って見ていることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすって下さいまし。」
抽斎は目を睜った。「お前そんな事を言うが、何百両という金は容易に調達せられるものではない。お前は何か当があってそういうのか。」
五百はにっこり笑った。「はい。幾らわたくしが痴でも、当なしには申しませぬ。」
その三十九[編集]
五百は女中に書状を持たせて、ほど近い質屋へ遣った。即ち市野迷庵の跡の家である。彼の今に至るまで石に彫られずにある松崎慊堂の文にいう如く、迷庵は柳原の店で亡くなった。その跡を襲いだのは松太郎光寿で、それが三右衛門の称をも継承した。迷庵の弟光忠は別に外神田に店を出した。これより後内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立していて、彼は世三右衛門を称し、此は世市三郎を称した。五百が書状を遣った市野屋は当時弁慶橋にあって、早くも光寿の子光徳の代になっていた。光寿は迷庵の歿後僅に五年にして、天保三年に光徳を家督させた。光徳は小字を徳治郎といったが、この時更めて三右衛門を名告った。外神田の店はこの頃まだ迷庵の姪光長の代であった。
ほどなく光徳の店の手代が来た。五百は箪笥長持から二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸そうといった。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両を借ることが出来た。
三百両は建築の費を弁ずるには余ある金であった。しかし目見に伴う飲醼贈遺一切の費は莫大であったので、五百は終に豊芥子に託して、主なる首飾類を売ってこれに充てた。その状当に行うべき所を行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間に挟むことを得なかった。しかし中心には深くこれを徳とした。
抽斎の目見をした年の閏四月十五日に、長男恒善は二十四歳で始て勤仕した。八月二十八日に五女癸巳が生れた。当時の家族は主人四十五歳、妻五百三十四歳、長男恒善二十四歳、次男優善十五歳、四女陸三歳、五女癸巳一歳の六人であった。長女純は馬場氏に嫁し、三女棠は山内氏を襲ぎ、次女よし、三男八三郎、四男幻香は亡くなっていたのである。
嘉永三年には、抽斎が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることとなった。藩禄等は凡て旧に依るのである。八月晦に、馬場氏に嫁していた純が二十歳で歿した。この年抽斎は四十六歳になった。
五百の仮親比良野文蔵の歿したのも、同じ年の四月二十四日である。次いで嗣子貞固が目附から留守居に進んだ。津軽家の当時の職制より見れば、いわゆる独礼の班に加わったのである。独礼とは式日に藩主に謁するに当って、単独に進むものをいう。これより下は二人立、三人立等となり、遂に馬廻以下の一統礼に至るのである。
当時江戸に集っていた列藩の留守居は、宛然たるコオル・ヂプロマチックを形っていて、その生活は頗る特色のあるものであった。そして貞固の如きは、その光明面を体現していた人物といっても好かろう。
衣類を黒紋附に限っていた糸鬢奴の貞固は、素より読書の人ではなかった。しかし書巻を尊崇して、提挈をその中に求めていたことを思えば、留守居中稀有の人物であったのを知ることが出来る。貞固は留守居に任ぜられた日に、家に帰るとすぐに、折簡して抽斎を請じた。そして容を改めていった。
「わたくしは今日父の跡を襲いで、留守居役を仰付けられました。今までとは違った心掛がなくてはならぬ役目と存ぜられます。実はそれに用立つお講釈が承わりたさに、御足労を願いました。あの四方に使して君命を辱めずということがございましたね。あれを一つお講じ下さいますまいか。」
「先ず何よりもおよろこびを言わんではなるまい。さて講釈の事だが、これはまた至極のお思附だ。委細承知しました」と抽斎は快く諾した。
その四十[編集]
抽斎は有合せの道春点の『論語』を取り出させて、巻七を開いた。そして「子貢問曰、何如斯可謂之土矣」という所から講じ始めた。固より朱註をば顧みない。都て古義に従って縦説横説した。抽斎は師迷庵の校刻した六朝本の如きは、何時でも毎葉毎行の文字の配置に至るまで、空に憑って思い浮べることが出来たのである。
貞固は謹んで聴いていた。そして抽斎が「子曰、噫斗筲之人、何足算也」に説き到ったとき、貞固の目はかがやいた。
講じ畢った後、貞固は暫く瞑目沈思していたが、徐に起って仏壇の前に往って、祖先の位牌の前にぬかずいた。そしてはっきりした声でいった。「わたくしは今日から一命を賭して職務のために尽します。」貞固の目には涙が湛えられていた。
抽斎はこの日に比良野の家から帰って、五百に「比良野は実に立派な侍だ」といったそうである。その声は震を帯びていたと、後に五百が話した。
留守居になってからの貞固は、毎朝日の出ると共に起きた。そして先ず厩を見廻った。そこには愛馬浜風が繋いであった。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかというと、馬は生死を共にするものだからと、貞固は答えた。厩から帰ると、盥嗽して仏壇の前に坐した。そして木魚を敲いて誦経した。この間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかった。来客もそのまま待たせられることになっていた。誦経が畢って、髪を結わせた。それから朝餉の饌に向った。饌には必ず酒を設けさせた。朝といえども省かない。殽には選嫌をしなかったが、のだ平の蒲鉾を嗜んで、闕かさずに出させた。これは贅沢品で、鰻の丼が二百文、天麩羅蕎麦が三十二文、盛掛が十六文するとき、一板二分二朱であった。
朝餉の畢る比には、藩邸で巳の刻の大鼓が鳴る。名高い津軽屋敷の櫓大鼓である。かつて江戸町奉行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家が聴ずに、とうとう上屋敷を隅田川の東に徙されたのだと、巷説に言い伝えられている。津軽家の上屋敷が神田小川町から本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の大鼓を聞くと、津軽家の留守居役所に出勤して事務を処理する。次いで登城して諸家の留守居に会う。従者は自ら豢っている若党草履取の外に、主家から附けられるのである。
留守居には集会日というものがある。その日には城から会場へ往く。八百善、平清、川長、青柳等の料理屋である。また吉原に会することもある。集会には煩瑣な作法があった。これを礼儀といわんは美に過ぎよう。譬えば筵席の觴政の如く、また西洋学生団のコンマンの如しともいうべきであろうか。しかし集会に列するものは、これがために命の取遣をもしなくてはならなかった。就中厳しく守られていたのは新参故参の序次で、故参は新参のために座より起つことなく、新参は必ず故参の前に進んで挨拶しなくてはならなかった。
津軽家では留守居の年俸を三百石とし、別に一カ月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆえ、これに二百石を補足せられたのである。五百の覚書に拠るに、三百石十人扶持の渋江の月割が五両一分、二百石八人扶持の矢島の月割が三両三分であった。矢島とは後に抽斎の二子優善が養子に往った家の名である。これに由って観れば、貞固の月収は五両一分に十八両を加えた二十三両一分と見て大いなる差違はなかろう。然るに貞固は少くも月に交際費百両を要した。しかもそれは平常の費である。吉原に火災があると、貞固は妓楼佐野槌へ、百両に熨斗を附けて持たせて遣らなくてはならなかった。また相方黛のむしんをも、折々は聴いて遣らなくてはならなかった。或る年の暮に、貞固が五百に私語したことがある。「姉えさん、察して下さい。正月が来るのに、わたしは実は褌一本買う銭もない。」
その四十一[編集]
均しくこれ津軽家の藩士で、柳島附の目附から、少しく貞固に遅れて留守居に転じたものがある。平井氏、名は俊章、字は伯民、小字は清太郎、通称は修理で、東堂と号した。文化十一年生で貞固よりは二つの年下である。平井の家は世禄二百石八人扶持なので、留守居になってから百石の補足を受けた。
貞固は好丈夫で威貌があった。東堂もまた風丰人に優れて、しかも温容親むべきものがあった。そこで世の人は津軽家の留守居は双璧だと称したそうである。
当時の留守居役所には、この二人の下に留守居下役杉浦多吉、留守居物書藤田徳太郎などがいた。杉浦は後喜左衛門といった人で、事務に諳錬した六十余の老人であった。藤田は維新後に潜と称した人で、当時まだ青年であった。
或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿を属せしめた。藤田は案を具して呈した。
「藤田。まずい文章だな。それにこの書様はどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔は頗る不機嫌に見えた。
原来平井氏は善書の家である。祖父峩斎はかつて筆札を高頤斎に受けて、その書が一時に行われたこともある。峩斎、通称は仙右衛門、その子を仙蔵という。後父の称を襲ぐ。この仙蔵の子が東堂である。東堂も沢田東里の門人で書名があり、かつ詩文の才をさえ有していた。それに藤田は文においても書においても、専門の素養がない。稿を更めて再び呈したが、それが東堂を満足せしめるはずがない。
「どうもまずいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないといっても好い。」こういって案を藤田に還した。
藤田は股栗した。一身の恥辱、家族の悲歎が、頭を低れている青年の想像に浮かんで、目には涙が涌いて来た。
この時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事の顛末を知った。
貞固は藤田の手に持っている案を取って読んだ。
「うん。一通わからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。足下は気が利かないのだ。」
こういって置いて、貞固は殆ど同じような文句を巻紙に書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。
「どうだ。これで好いかな。」
東堂は毫も敬服しなかった。しかし故参の文案に批評を加えることは出来ないので、色を和げていった。
「いや、結構です。どうもお手を煩わして済みません。」
貞固は案を東堂の手から取って、藤田にわたしていった。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからはこんな工合に遣るが好い。」
藤田は「はい」といって案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたそうである。想うに東堂は外柔にして内険、貞固は外猛にして内寛であったと見える。
わたくしは前に貞固が要職の体面をいたわるがために窮乏して、古褌を着けて年を迎えたことを記した。この窮乏は東堂といえどもこれを免るることを得なかったらしい。ここに中井敬所が大槻如電さんに語ったという一の事実があって、これが証に充つるに足るのである。
この事は前の日わたくしが池田京水の墓と年齢とを文彦さんに問いに遣った時、如電さんがかつて手記して置いたものを抄写して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、何故に如電さんは平井氏の事を以て答えたか。それには理由がある。平井東堂の置いた質が流れて、それを買ったのが、池田京水の子瑞長であったからである。
その四十二[編集]
東堂が質に入れたのは、銅仏一躯と六方印一顆とであった。銅仏は印度で鋳造した薬師如来で、戴曼公の遺品である。六方印は六面に彫刻した遊印である。
質流になった時、この仏像を池田瑞長が買った。然るに東堂は後金が出来たので、瑞長に交渉して、価を倍して購い戻そうとした。瑞長は応ぜなかった。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を愛惜する縁故があるからである。
戴曼公は書法を高天漪に授けた。天漪、名は玄岱、初の名は立泰、字は子新、一の字は斗胆、通称は深見新左衛門で、帰化明人の裔である。祖父高寿覚は長崎に来て終った。父大誦は訳官になって深見氏を称した。深見は渤海である。高氏は渤海より出でたからこの氏を称したのである。天漪は書を以て鳴ったもので、浅草寺の施無畏の匾額の如きは、人の皆知る所である。享保七年八月八日に、七十四歳で歿した。その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であっただろう。天漪の子が頤斎である。頤斎の弟子が峩斎である。峩斎の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たる所以である。
戴曼公はまた痘科を池田嵩山に授けた。嵩山の曾孫が錦橋、錦橋の姪が京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏の偶獲た曼公の遺品を愛重して措かなかった所以である。
この薬師如来は明治の代となってから守田宝丹が護持していたそうである。また六方印は中井敬所の有に帰していたそうである。
貞固と東堂とは、共に留守居の物頭を兼ねていた。物頭は詳しくは初手足軽頭といって、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭も独礼の格式である。平時は中下屋敷附近に火災の起るごとに、火事装束を着けて馬に騎り、足軽数十人を随えて臨検した。貞固はその帰途には、殆ど必ず渋江の家に立ち寄った。実に威風堂々たるものであったそうである。
貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であったらしい。帆足万里はかつて留守居を罵って、国財を靡し私腹を肥やすものとした。この職におるものは、あるいは多く私財を蓄えたかも知れない。しかし保さんは少時帆足の文を読むごとに心平かなることを得なかったという。それは貞固の人と為りを愛していたからである。
嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒していた棠子が、痘を病んで死んだ。尋いで十五日に、五女癸巳が感染して死んだ。彼は七歳、此は三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかったと見える。三月二十八日に、長子恒善が二十六歳で、柳島に隠居していた信順の近習にせられた。六月十二日に、二子優善が十七歳で、二百石八人扶持の矢島玄碩の末期養子になった。この年渋江氏は本所台所町に移って、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六歳の時である。
優善は渋江一族の例を破って、少うして烟草を喫み、好んで紛華奢靡の地に足を容れ、とかく市井のいきな事、しゃれた事に傾きやすく、当時早く既に前途のために憂うべきものがあった。
本所で渋江氏のいた台所町は今の小泉町で、屋敷は当時の切絵図に載せてある。
その四十三[編集]
嘉永五年には四月二十九日に、抽斎の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵田口儀三郎の養女糸を娶った。五月十八日に、恒善に勤料三人扶持を給せられた。抽斎が四十八歳、五百が三十七歳の時である。
伊沢氏ではこの年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒は抽斎より一つの年上で、二人の交は頗る親しかった。楷書に片仮名を交ぜた榛軒の尺牘には、宛名が抽斎賢弟としてあった。しかし抽斎は小島成斎におけるが如く心を傾けてはいなかったらしい。
榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでいた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る広大な構であった。庭には吉野桜八株を栽え、花の頃には親戚知友を招いてこれを賞した。その日には榛軒の妻飯田氏しほと女かえとが許多の女子を役して、客に田楽豆腐などを供せしめた。パアル・アンチシパションに園遊会を催したのである。歳の初の発会式も、他家に較ぶれば華やかであった。しほの母は素京都諏訪神社の禰宜飯田氏の女で、典薬頭某の家に仕えているうちに、その嗣子と私してしほを生んだ。しほは落魄して江戸に来て、木挽町の芸者になり、些の財を得て業を罷め、新堀に住んでいたそうである。榛軒が娶ったのはこの時の事である。しほは識らぬ父の記念の印籠一つを、母から承け伝えて持っていた。榛軒がしほに生ませた女かえは、一時池田京水の次男全安を迎えて夫としていたが、全安が広く内科を究めずに、痘科と唖科とに偏するというを以て、榛軒が全安を京水の許に還したそうである。
榛軒は辺幅を脩めなかった。渋江の家を訪うに、踊りつつ玄関から入って、居間の戸の外から声を掛けた。自ら鰻を誂えて置いて来て、粥を所望することもあった。そして抽斎に、「どうぞ己に構ってくれるな、己には御新造が合口だ」といって、書斎に退かしめ、五百と語りつつ飲食するを例としたそうである。
榛軒が歿してから一月の後、十二月十六日に弟柏軒が躋寿館の講師にせられた。森枳園らと共に『千金方』校刻の命を受けてから四年の後で、柏軒は四十三歳になっていた。
この年に五百の姉壻長尾宗右衛門が商業の革新を謀って、横山町の家を漆器店のみとし、別に本町二丁目に居宅を置くことにした。この計画のために、抽斎は二階の四室を明けて、宗右衛門夫妻、敬、銓の二女、女中一人、丁稚一人を棲まわせた。
嘉永六年正月十九日に、抽斎の六女水木が生れた。家族は主人夫婦、恒善夫婦、陸、水木の六人で、優善は矢島氏の主人になっていた。抽斎四十九歳、五百三十八歳の時である。
この年二月二十六日に、堀川舟庵が躋寿館の講師にせられて、『千金方』校刻の事に任じた三人の中森枳園が一人残された。
安政元年はやや事多き年であった。二月十四日に五男専六が生れた。後に脩と名告った人である。三月十日に長子恒善が病んで歿した。抽斎は子婦糸の父田口儀三郎の窮を憫んで、百両余の金を餽り、糸をば有馬宗智というものに再嫁せしめた。十二月二十六日に、抽斎は躋寿館の講師たる故を以て、年に五人扶持を給せられることになった。今の勤務加俸の如きものである。二十九日に更に躋寿館医書彫刻手伝を仰附けられた。今度校刻すべき書は、円融天皇の天元五年に、丹波康頼が撰んだという『医心方』である。
保さんの所蔵の「抽斎手記」に、『医心方』の出現という語がある。昔から厳に秘せられていた書が、忽ち目前に出て来た状が、この語で好く表されている。「秘玉突然開櫝出。瑩光明徹点瑕無。金龍山畔波濤起。龍口初探是此珠。」これは抽斎の亡妻の兄岡西玄亭が、当時喜を記した詩である。龍口といったのは、『医心方』が若年寄遠藤但馬守胤統の手から躋寿館に交付せられたからであろう。遠藤の上屋敷は辰口の北角であった。
その四十四[編集]
日本の古医書は『続群書類従』に収めてある和気広世の『薬経太素』、丹波康頼の『康頼本草』、釈蓮基の『長生療養方』、次に多紀家で校刻した深根輔仁の『本草和名』、丹波雅忠の『医略抄』、宝永中に印行せられた具平親王の『弘決外典抄』の数種を存するに過ぎない。具平親王の書は本字類に属して、此に算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、彼の出雲広貞らの上った『大同類聚方』の如きは、散佚して世に伝わらない。
それゆえ天元五年に成って、永観二年に上られた『医心方』が、殆ど九百年の後の世に出でたのを見て、学者が血を涌き立たせたのも怪むに足らない。
『医心方』は禁闕の秘本であった。それを正親町天皇が出して典薬頭半井通仙院瑞策に賜わった。それからは世半井氏が護持していた。徳川幕府では、寛政の初に、仁和寺文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡が極て多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。然るに当時半井大和守成美は献ずることを肯ぜず、その子修理大夫清雅もまた献ぜず、遂に清雅の子出雲守広明に至った。
半井氏が初め何の辞を以て命を拒んだかは、これを詳にすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都において焼失したといった。天明八年の火事とは、正月晦に洛東団栗辻から起って、全都を灰燼に化せしめたものをいうのである。幕府はこの答に満足せずに、似寄の品でも好いから出せと誅求した。恐くは情を知って強要したのであろう。
半井広明はやむことをえず、こういう口上を以て『医心方』を出した。外題は同じであるが、筆者区々になっていて、誤脱多く、甚だ疑わしき麤巻である。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供するというのである。書籍は広明の手から六郷筑前守政殷の手にわたって、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持って往った。正弘は公用人渡辺三太平を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守胤統を以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用は金蔵から渡されるであろう。書籍は篤と取調べ、かつ刻本売下代金を以て費用を返納すべき積年賦をも取調べるようにということであった。
半井広明の呈した本は三十巻三十一冊で、巻二十五に上下がある。細に検するに期待に負かぬ善本であった。素『医心方』は巣元方の『病源候論』を経とし、隋唐の方書百余家を緯として作ったもので、その引用する所にして、支那において佚亡したものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁二人、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀安良法眼である。楽真院は茝庭、安良は暁湖で、並に二百俵の奥医師であるが、彼は法印、此は法眼になっていて、当時矢の倉の分家が向柳原の宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。
躋寿館では『医心方』影写程式というものが出来た。写生は毎朝辰刻に登館して、一人一日三頁を影模する。三頁を模し畢れば、任意に退出することを許す。三頁を模すること能わざるものは、二頁を模し畢って退出しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月朔に起って、二十日に終る。日に二頁を模するものは晦に至る。この間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。
その四十五[編集]
半井本の『医心方』を校刻するに当って、仁和寺本を写した躋寿館の旧蔵本が参考せられたことは、問うことを須たぬであろう。然るに別に一の善本があった。それは京都加茂の医家岡本由顕の家から出た『医心方』巻二十二である。
正親町天皇の時、従五位上岡本保晃というものがあった。保晃は半井瑞策に『医心方』一巻を借りて写した。そして何故か原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃は由顕の曾祖父である。
由顕の言う所はこうである。『医心方』は徳川家光が半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸において瑞策に師事した。瑞策の女が産後に病んで死に瀕した。保晃が薬を投じて救った。瑞策がこれに報いんがために、『医心方』一巻を贈ったというのである。
『医心方』を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈ろうとしたにしても、よもや帝室から賜った『医心方』三十巻の中から、一巻を割いて贈りはしなかっただろう。凡そこれらの事は、前人が皆かつてこれを論弁している。
既にして岡本氏の家衰えて、畑成文に託してこの巻を沽ろうとした。成文は錦小路中務権少輔頼易に勧めて元本を買わしめ、副本はこれを己が家に留めた。錦小路は京都における丹波氏の裔である。
岡本氏の『医心方』一巻は、此の如くにして伝わっていた。そして校刻の時に至って対照の用に供せられたようである。
この年正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。『医心方』校刻の事の起ったのは、枳園が教職に就いてから十カ月の後である。
抽斎の家族はこの年主人五十歳、五百三十九歳、陸八歳、水木二歳、専六生れて一歳の五人であった。矢島氏を冒した優善は二十歳になっていた。二年前から寄寓していた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移った。
安政二年が来た。抽斎の家の記録は先ず小さき、徒なる喜を誌さなくてはならなかった。それは三月十九日に、六男翠暫が生れたことである。後十一歳にして夭札した子である。この年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺り撼して起たしめたものは、独地震のみではなかった。
学問はこれを身に体し、これを事に措いて、始て用をなすものである。否るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽して造詣の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径ちにこれを事に措こうとはしない。その矻々として年を閲する間には、心頭姑く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は此の如くにして始て贏ち得らるるものである。
この用無用を問わざる期間は、啻に年を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を累ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが截然として二をなしている。もし時務の要求が漸く増長し来って、強いて学者の身に薄ったなら、学者がその学問生活を抛って起つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。
わたくしは安政二年に抽斎が喙を時事に容るるに至ったのを見て、是の如き観をなすのである。
その四十六[編集]
米艦が浦賀に入ったのは、二年前の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦が再び浦賀に来て、六月に下田を去るまで、江戸の騒擾は名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑の準備を令した。動員の備のない軍隊の腑甲斐なさが覗われる。新将軍家定の下にあって、この難局に当ったのは、柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。
今年に入ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘を以て大砲小銃を鋳造すべしという詔が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた抽斎も、ここに至って寖風潮の化誘する所となった。それには当時産蓐にいた女丈夫五百の啓沃も与って力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至った。
津軽順承は一の進言に接した。これを上ったものは用人加藤清兵衛、側用人兼松伴大夫、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人の能くこれを遵行するものは少い。概ね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶに遑あらざるのである。宜く現に甲冑を有せざるものには、金十八両を貸与してこれが貲に充てしめ、年賦に依って還納せしむべきである。かつ今より後毎年一度甲冑改を行い、手入を怠らしめざるようにせられたいというのである。順承はこれを可とした。
この進言が抽斎の意より出で、兼松三郎がこれを承けて案を具し、両用人の賛同を得て呈せられたということは、闔藩皆これを知っていた。三郎は石居と号した。その隆準なるを以ての故に、抽斎は天狗と呼んでいた。佐藤一斎、古賀侗庵の門人で、学殖儕輩を超え、かつて昌平黌の舎長となったこともある。当時弘前吏胥中の識者として聞えていた。
抽斎は天下多事の日に際会して、言偶政事に及び、武備に及んだが、此の如きは固よりその本色ではなかった。抽斎の旦暮力を用いる所は、古書を講窮し、古義を闡明するにあった。彼は弘前藩士たる抽斎が、外来の事物に応じて動作した一時のレアクションである。此は学者たる抽斎が、終生従事していた不朽の労作である。
抽斎の校勘の業はこの頃着々進陟していたらしい。森枳園が明治十八年に書いた『経籍訪古志』の跋に、緑汀会の事を記して、三十年前だといってある。緑汀とは多紀茝庭が本所緑町の別荘である。茝庭は毎月一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村らを此に集えた。諸子は環坐して古本を披閲し、これが論定をなした。会の後には宴を開いた。さて二州橋上酔に乗じて月を踏み、詩を詠じて帰ったというのである。同じ書に、茝庭がこの年安政二年より一年の後に書いた跋があって、諸子裒録惟れ勤め、各部頓に成るといってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、また当時の事であったと見える。
わたくしはこの年の地震の事を語るに先って、台所町の渋江の家に座敷牢があったということに説き及ぼすのを悲む。これは二階の一室を繞すに四目格子を以てしたもので、地震の日には工事既に竣って、その中はなお空虚であった。もし人がその中にいたならば、渋江の家は死者を出さざることを得なかったであろう。
座敷牢は抽斎が忍びがたきを忍んで、次男優善がために設けたものであった。
その四十七[編集]
抽斎が岡西氏徳に生せた三人の子の中、ただ一人生き残った次男優善は、少時放恣佚楽のために、頗る渋江一家を困めたものである。優善には塩田良三という遊蕩夥伴があった。良三はかの蘭軒門下で、指の腹に杖を立てて歩いたという楊庵が、家附の女に生せた嫡子である。
わたくしは前に優善が父兄と嗜を異にして、煙草を喫んだということを言った。しかし酒はこの人の好む所でなかった。優善も良三も、共に涓滴の量なくして、あらゆる遊戯に耽ったのである。
抽斎が座敷牢を造った時、天保六年生の優善は二十一歳になっていた。そしてその密友たる良三は天保八年生で、十八歳になっていた。二人は影の形に従う如く、須臾も相離るることがなかった。
或時優善は松川飛蝶と名告って、寄席に看板を懸けたことがある。良三は松川酔蝶と名告って、共に高座に登った。鳴物入で俳優の身振声色を使ったのである。しかも優善はいわゆる心打で、良三はその前席を勤めたそうである。また夏になると、二人は舟を藉りて墨田川を上下して、影芝居を興行した。一人は津軽家の医官矢島氏の当主、一人は宗家の医官塩田氏の若檀那である。中にも良三の父は神田松枝町に開業して、市人に頓才のある、見立の上手な医者と称せられ、その肥胖のために瞽者と看錯らるる面をば汎く識られて、家は富み栄えていた。それでいて二人共に、高座に顔を曬すことを憚らなかったのである。
二人は酒量なきにかかわらず、町々の料理屋に出入し、またしばしば吉原に遊んだ。そして借財が出来ると、親戚故旧をして償わしめ、度重って償う道が塞がると、跡を晦ましてしまう。抽斎が優善のために座敷牢を作らせたのは、そういう失踪の間の事で、その早晩還り来るを候ってこの中に投ぜようとしたのである。
十月二日は地震の日である。空は陰って雨が降ったり歇んだりしていた。抽斎はこの日観劇に往った。周茂叔連にも逐次に人の交迭があって、豊芥子や抽斎が今は最年長者として推されていたことであろう。抽斎は早く帰って、晩酌をして寝た。地震は亥の刻に起った。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まって、震動が漸く勢を増した。寝間にどてらを著て臥していた抽斎は、撥ね起きて枕元の両刀を把った。そして表座敷へ出ようとした。
寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱が堆く積み上げてあった。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れ墜ちた。抽斎はその間に介まって動くことが出来なくなった。
五百は起きて夫の後に続こうとしたが、これはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。
暫くして若党仲間が来て、夫妻を扶け出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかった。
抽斎は衣服を取り繕う暇もなく、馳せて隠居信順を柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往った。信順は柳島の第宅が破損したので、後に浜町の中屋敷に移った。当主順承は弘前にいて、上屋敷には家族のみが残っていたのである。
抽斎は留守居比良野貞固に会って、救恤の事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、旨を承くるに遑あらず、直ちに廩米二万五千俵を発して、本所の窮民を賑すことを令した。勘定奉行平川半治はこの議に与らなかった。平川は後に藩士が悉く津軽に遷るに及んで、独り永の暇を願って、深川に米店を開いた人である。
その四十八[編集]
抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると、住宅は悉く傾き倒れていた。二階の座敷牢は粉韲せられて迹だに留めなかった。対門の小姓組番頭土屋佐渡守邦直の屋敷は火を失していた。
地震はその夜歇んでは起り、起っては歇んだ。町筋ごとに損害の程度は相殊っていたが、江戸の全市に家屋土蔵の無瑕なものは少かった。上野の大仏は首が砕け、谷中天王寺の塔は九輪が落ち、浅草寺の塔は九輪が傾いた。数十カ所から起った火は、三日の朝辰の刻に至って始て消された。公に届けられた変死者が四千三百人であった。
三日以後にも昼夜数度の震動があるので、第宅のあるものは庭に小屋掛をして住み、市民にも露宿するものが多かった。将軍家定は二日の夜吹上の庭にある滝見茶屋に避難したが、本丸の破損が少かったので翌朝帰った。
幕府の設けた救小屋は、幸橋外に一カ所、上野に二カ所、浅草に一カ所、深川に二カ所であった。
この年抽斎は五十一歳、五百は四十歳になって、子供には陸、水木、専六、翠暫の四人がいた。矢島優善の事は前に言った。五百の兄広瀬栄次郎がこの年四月十八日に病死して、その父の妾牧は抽斎の許に寄寓した。
牧は寛政二年生で、初五百の祖母が小間使に雇った女である。それが享和三年に十四歳で五百の父忠兵衛の妾になった。忠兵衛が文化七年に紙問屋山一の女くみを娶った時、牧は二十一歳になっていた。そこへ十八歳ばかりのくみは来たのである。くみは富家の懐子で、性質が温和であった。後に五百と安とを生んでから、気象の勝った五百よりは、内気な安の方が、母の性質を承け継いでいると人に言われたのに徴しても、くみがどんな女であったかと言うことは想い遣られる。牧は特に悍と称すべき女でもなかったらしいが、とにかく三つの年上であって、世故にさえ通じていたから、くみが啻にこれを制することが難かったばかりでなく、動もすればこれに制せられようとしたのも、固より怪むに足らない。
既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、次で文化十四年に次男某を生むに当って病に罹り、生れた子と倶に世を去った。この最後の産の前後の事である。くみは血行の変動のためであったか、重聴になった。その時牧がくみの事を度々聾者と呼んだのを、六歳になった栄次郎が聞き咎めて、後までも忘れずにいた。
五百は六、七歳になってから、兄栄次郎にこの事を聞いて、ひどく憤った。そして兄にいった。「そうして見ると、わたしたちには親の敵がありますね。いつか兄いさんと一しょに敵を討とうではありませんか」といった。その後五百は折々箒に塵払を結び附けて、双手の如くにし、これに衣服を纏って壁に立て掛け、さてこれを斫る勢をなして、「おのれ、母の敵、思い知ったか」などと叫ぶことがあった。父忠兵衛も牧も、少女の意の斥す所を暁っていたが、父は憚って肯て制せず、牧は懾れて咎めることが出来なかった。
牧は奈何にもして五百の感情を和げようと思って、甘言を以てこれを誘おうとしたが、五百は応ぜなかった。牧はまた忠兵衛に請うて、五百に己を母と呼ばせようとしたが、これは忠兵衛が禁じた。忠兵衛は五百の気象を知っていて、此の如き手段のかえってその反抗心を激成するに至らんことを恐れたのである。
五百が早く本丸に入り、また藤堂家に投じて、始終家に遠かっているようになったのは、父の希望があり母の遺志があって出来た事ではあるが、一面には五百自身が牧と倶に起臥することを快からず思って、余所へ出て行くことを喜んだためもある。
こういう関係のある牧が、今寄辺を失って、五百の前に首を屈し、渋江氏の世話を受けることになったのである。五百は怨に報ゆるに恩を以てして、牧の老を養うことを許した。
その四十九[編集]
安政三年になって、抽斎は再び藩の政事に喙を容れた。抽斎の議の大要はこうである。弘前藩は須く当主順承と要路の有力者数人とを江戸に留め、隠居信順以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしというのである。その理由の第一は、時勢既に変じて多人数の江戸詰はその必要を認めないからである。何故というに、原諸侯の参勤、及これに伴う家族の江戸における居住は、徳川家に人質を提供したものである。今将軍は外交の難局に当って、旧慣を棄て、冗費を節することを謀っている。諸侯に土木の手伝を命ずることを罷め、府内を行くに家に窓蓋を設ることを止めたのを見ても、その意向を窺うに足る。縦令諸侯が家族を引き上げたからといって、幕府は最早これを抑留することはなかろう。理由の第二は、今の多事の時に方って、二、三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これに掣肘を加うることなく、当主を輔佐して臨機の処置に出でしむるを有利とするからである。由来弘前藩には悪習慣がある。それは事あるごとに、藩論が在府党と在国党とに岐れて、荏苒決せざることである。甚だしきに至っては、在府党は郷国の士を罵って国猿といい、その主張する所は利害を問わずして排斥する。此の如きは今の多事の時に処する所以の道でないというのである。
この議は同時に二、三主張するものがあって、是非の論が盛に起った。しかし後にはこれに左袒するものも多くなって、順承が聴納しようとした。浜町の隠居信順がこれを見て大いに怒った。信順は平素国猿を憎悪することの尤も甚しい一人であった。
この議に反対したものは、独浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士の殆ど全体は弘前に往くことを喜ばなかった。中にも抽斎と親善であった比良野貞固は、抽斎のこの議を唱うるを聞いて、馳せ来って論難した。議善からざるにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、悉く窮北の地に遷そうとするは、忍べるの甚しきだというのである。抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかった。貞固はこれがために一時抽斎と交を絶つに至った。
この頃国勝手の議に同意していた人々の中、津軽家の継嗣問題のために罪を獲たものがあって、彼議を唱えた抽斎らは肩身の狭い念をした。継嗣問題とは当主順承が肥後国熊本の城主細川越中守斉護の子寛五郎承昭を養おうとするに起った。順承は女玉姫を愛して、これに壻を取って家を護ろうとしていると、津軽家下屋敷の一つなる本所大川端邸が細川邸と隣接しているために、斉護と親しくなり、遂に寛五郎を養子に貰い受けようとするに至った。罪を獲た数人は、血統を重んずる説を持して、この養子を迎うることを拒もうとし、順承はこれを迎うるに決したからである。即ち側用人加藤清兵衛、用人兼松伴大夫は帰国の上隠居謹慎、兼松三郎は帰国の上永の蟄居を命ぜられた。
石居即ち兼松三郎は後に夢醒と題して七古を作った。中に「又憶世子即世後、継嗣未定物議伝、不顧身分有所建、因冒譴責坐北遷」の句がある。その咎を受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈った。中に「菅公遇譖、屈原独清、」という語があった。
この年抽斎の次男矢島優善は、遂に素行修まらざるがために、表医者を貶して小普請医者とせられ、抽斎もまたこれに連繋して閉門三日に処せられた。
その五十[編集]
優善の夥伴になっていた塩田良三は、父の勘当を蒙って、抽斎の家の食客となった。我子の乱行のために譴を受けた抽斎が、その乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家におらせたのは、余りに寛大に過ぎるようであるが、これは才を愛する情が深いからの事であったらしい。抽斎は人の寸長をも見逭さずに、これに保護を加えて、幾どその瑕疵を忘れたるが如くであった。年来森枳園を扶掖しているのもこれがためである。今良三を家に置くに至ったのも、良三に幾分の才気のあるのを認めたからであろう。固より抽斎の許には、常に数人の諸生が養われていたのだから、良三はただこの群に新に来り加わったに過ぎない。
数月の後に、抽斎は良三を安積艮斎の塾に住み込ませた。これより先艮斎は天保十三年に故郷に帰って、二本松にある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来昌平黌の教授になっていた。抽斎は彼の終始濂渓の学を奉じていた艮斎とは深く交らなかったのに、これに良三を託したのは、良三の吏材たるべきを知って、これを培養することを謀ったのであろう。
抽斎の先妻徳の里方岡西氏では、この年七月二日に徳の父栄玄が歿し、次いで十一月十一日に徳の兄玄亭が歿した。
栄玄は医を以て阿部家に仕えた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であったので、抽斎はこれと交を訂し、遂にその妹徳を娶るに至ったのである。徳の亡くなった後も、次男優善がその出であるので、抽斎一家は岡西氏と常に往来していた。
栄玄は樸直な人であったが、往々性癖のために言行の規矩を踰ゆるを見た。かつて八文の煮豆を買って鼠不入の中に蔵し、しばしばその存否を検したことがある。また或日海鰱一尾を携え来って、抽斎に遺り、帰途に再び訪わんことを約して去った。五百はために酒饌を設けようとして頗る苦心した。それは栄玄が饌に対して奢侈を戒めたことが数次であったからである。抽斎は遺られた所の海鰱を饗することを命じた。栄玄は来て饗を受けたが、色悦ばざるものの如く、遂に「客にこんな馳走をすることは、わたしの内ではない」といった。五百が「これはお持たせでございます」といったが、栄玄は聞えぬふりをしていた。調理法が好過ぎたのであろう。
尤も抽斎をして不平に堪えざらしめたのは、栄玄が庶子苫を遇することの甚だ薄かったことである。苫は栄玄が厨下の婢に生せた女である。栄玄はこれを認めて子としたのに、「あんなきたない子は畳の上には置かれない」といって、板の間に蓙を敷いて寝させた。当時栄玄の妻は既に歿していたから、これは河東の獅子吼を恐れたのではなく、全く主人の性癖のためであった。抽斎は五百に議って苫を貰い受け、後下総の農家に嫁せしめた。
栄玄の子で、父に遅るること僅に四月にして歿した玄亭は、名を徳瑛、字を魯直といった。抽斎の友である。玄亭には二男一女があった。長男は玄庵、次男は養玄である。女は名を初といった。
この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎が平生の学術上研鑽の外に最も多く思を労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した国勝手の議だといわなくてはなるまい。この議のまさに及ぼすべき影響の大きさと、この議の打ち克たなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識していた所であろう。抽斎はまた自己がその位にあらずして言うことの不利なるをも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれを敢てしたのは、必ず内にやむことをえざるものがあって敢てしたのであろう。憾むらくは要路に取ってこれを用いる手腕のある人がなかったために、弘前は遂に東北諸藩の間において一頭地を抜いて起つことが出来なかった。また遂に勤王の旗幟を明にする時期の早きを致すことが出来なかった。
その五十一[編集]
安政四年には抽斎の七男成善が七月二十六日を以て生れた。小字は三吉、通称は道陸である。即ち今の保さんで、父は五十三歳、母は四十二歳の時の子である。
成善の生れた時、岡西玄庵が胞衣を乞いに来た。玄庵は父玄亭に似て夙慧であったが、嘉永三、四年の頃癲癇を病んで、低能の人と化していた。天保六年の生であったから、病を発したのが十六、七歳の時で、今は二十三歳になっている。胞衣を乞うのは、癲癇の薬方として用いんがためであった。
抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持って帰った。この時これを惜んで一夜を泣き明したのは、昔抽斎の父允成の茶碗の余瀝を舐ったという老尼妙了である。妙了は年久しく渋江の家に寄寓していて、毎に小児の世話をしていたが、中にも抽斎の三女棠を愛し、今また成善の生れたのを見て、大いにこれを愛していた。それゆえ胞衣を玄庵に与えることを嫌った。俗説に胞衣を人に奪われた子は育たぬというからである。
この年前に貶黜せられた抽斎の次男矢島優善は、纔に表医者介を命ぜられて、半その位地を回復した。優善の友塩田良三は安積艮斎の塾に入れられていたが、或日師の金百両を懐にして長崎に奔った。父楊庵は金を安積氏に還し、人を九州に遣って子を連れ戻した。良三はまだ残の金を持っていたので、迎えに来た男を随えて東上するのに、駅々で人に傲ること貴公子の如くであった。この時肥後国熊本の城主細川越中守斉護の四子寛五郎は、津軽順承の女壻にせられて東上するので、途中良三と旅宿を同じうすることがあった。斉護は子をして下情に通ぜしめんことを欲し、特に微行を命じたので、寛五郎と従者とは始終質素を旨としていた。驕子良三は往々五十四万石の細川家から、十万石の津軽家に壻入する若殿を凌いで、旅中下風に立っている少年の誰なるかを知らずにいた。寛五郎は今の津軽伯で、当時裁に十七歳であった。
小野氏ではこの年令図が致仕して、子富穀が家督した。令図は小字を慶次郎という。抽斎の祖父本皓の庶子で、母を横田氏よのという。よのは武蔵国川越の人某の女である。令図は出でて同藩の医官二百石小野道秀の末期養子となり、有尚と称し、後また道瑛と称し、累進して近習医者に至った。天明三年十一月二十六日生で、致仕の時七十五歳になっていた。令図に一男一女があって、男を富穀といい、女を秀といった。
富穀、通称は祖父と同じく道秀といった。文化四年の生である。十一歳にして、森枳園と共に抽斎の弟子となった。家督の時は表医者であった。令図、富穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩定府中の富人であった。妹秀は長谷川町の外科医鴨池道碩に嫁した。
多紀氏ではこの年二月十四日に、矢の倉の末家の茝庭が六十三歳で歿し、十一月に向柳原の本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくしの所蔵の安政四年「武鑑」は、茝庭が既に逝いて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、茝庭の子安琢が多紀安琢二百俵、父楽春院として載せてあり、暁湖は旧に依って多紀安良法眼二百俵、父安元として載せてある。茝庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。その何の故なるを詳にしない。
その五十二[編集]
茝庭、名は元堅、字は亦柔、一に三松と号す。通称は安叔、後楽真院また楽春院という。寛政七年に桂山の次男に生れた。幼時犬を闘わしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄に若かずというを以て責めると、「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。幾もなくして節を折って書を読み、精力衆に踰え、識見人を驚かした。分家した初は本石町に住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。秩禄は宗家と同じく二百俵三十人扶持である。
茝庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に薬餌を給するのみでなく、夏は蚊幮を貽り、冬は布団を遣った。また三両から五両までの金を、貧窶の度に従って与えたこともある。
茝庭は抽斎の最も親しい友の一人で、二家の往来は頻繁であった。しかし当時法印の位は太だ貴いもので、茝庭が渋江の家に来ると、茶は台のあり蓋のある茶碗に注ぎ、菓子は高坏に盛って出した。この器は大名と多紀法印とに茶菓を呈する時に限って用いたそうである。茝庭の後は安琢が嗣いだ。
暁湖、名は元昕、字は兆寿、通称は安良であった。桂山の孫、柳沜の子である。文化三年に生れ、文政十年六月三日に父を喪って、八月四日に宗家を継承した。暁湖の後を襲いだのは養子元佶で、実は季の弟である。
安政五年には二月二十八日に、抽斎の七男成善が藩主津軽順承に謁した。年甫て二歳、今の齢を算する法に従えば、生れて七カ月であるから、人に懐かれて謁した。しかし謁見は八歳以上と定められていたので、この日だけは八歳と披露したのだそうである。
五月十七日には七女幸が生れた。幸は越えて七月六日に早世した。
この年には七月から九月に至るまで虎列拉が流行した。徳川家定は八月二日に、「少々御勝不被遊」ということであったが、八日には忽ち薨去の公報が発せられ、家斉の孫紀伊宰相慶福が十三歳で嗣立した。家定の病は虎列拉であったそうである。
この頃抽斎は五百にこういう話をした。「己は公儀へ召されることになるそうだ。それが近い事で公方様の喪が済み次第仰付けられるだろうということだ。しかしそれをお請をするには、どうしても津軽家の方を辞せんではいられない。己は元禄以来重恩の主家を棄てて栄達を謀る気にはなられぬから、公儀の方を辞するつもりだ。それには病気を申立てる。そうすると、津軽家の方で勤めていることも出来ない。己は隠居することに極めた。父は五十九歳で隠居して七十四歳で亡くなったから、己も兼て五十九歳になったら隠居しようと思っていた。それがただ少しばかり早くなったのだ。もし父と同じように、七十四歳まで生きていられるものとすると、これから先まだ二十年ほどの月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をする。先ず『老子』の註を始として、迷庵棭斎に誓った為事を果して、それから自分の為事に掛かるのだ」といった。公儀へ召されるといったのは、奥医師などに召し出されることで、抽斎はその内命を受けていたのであろう。然るに運命は抽斎をしてこのヂレンマの前に立たしむるに至らなかった。また抽斎をして力を述作に肆にせしむるに至らなかった。
その五十三[編集]
八月二十二日に抽斎は常の如く晩餐の饌に向った。しかし五百が酒を侑めた時、抽斎は下物の魚膾に箸を下さなかった。「なぜ上らないのです」と問うと、「少し腹工合が悪いからよそう」といった。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の日であったのを、所労を以て辞した。この日に始て嘔吐があった。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に険悪になるばかりであった。
多紀安琢、同元佶、伊沢柏軒、山田椿庭らが病牀に侍して治療の手段を尽したが、功を奏せなかった。椿庭、名は業広、通称は昌栄である。抽斎の父允成の門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野国高崎の城主松平右京亮輝聡の家来で、本郷弓町に住んでいた。
抽斎は時々譫語した。これを聞くに、夢寐の間に『医心方』を校合しているものの如くであった。
抽斎の病況は二十八日に小康を得た。遺言の中に、兼て嗣子と定めてあった成善を教育する方法があった。経書を海保漁村に、筆札を小島成斎に、『素問』を多紀安琢に受けしめ、機を看て蘭語を学ばしめるようにというのである。
二十八日の夜丑の刻に、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二時である。年は五十四歳であった。遺骸は谷中感応寺に葬られた。
抽斎の歿した跡には、四十三歳の未亡人五百を始として、岡西氏の出次男矢島優善二十四歳、四女陸十二歳、六女水木六歳、五男専六五歳、六男翠暫四歳、七男成善二歳の四子二女が残った。優善を除く外は皆山内氏五百の出である。
抽斎の子にして父に先って死んだものは、尾島氏の出長男恒善、比良野氏の出馬場玄玖妻長女純、岡西氏の出二女好、三男八三郎、山内氏の出三女山内棠、四男幻香、五女癸巳、七女幸の三子五女である。
矢島優善はこの年二月二十八日に津軽家の表医者にせられた。初の地位に復したのである。
五百の姉壻長尾宗右衛門は、抽斎に先つこと一月、七月二十日に同じ病を得て歿した。次で十一月十五日の火災に、横山町の店も本町の宅も皆焼けたので、塗物問屋の業はここに廃絶した。跡に遣ったのは未亡人安四十四歳、長女敬二十一歳、次女銓十九歳の三人である。五百は台所町の邸の空地に小さい家を建ててこれを迎え入れた。五百は敬に壻を取って長尾氏の祀を奉ぜしめようとして、安に説き勧めたが、安は猶予して決することが出来なかった。
比良野貞固は抽斎の歿した直後から、連に五百に説いて、渋江氏の家を挙げて比良野邸に寄寓せしめようとした。貞固はこういった。自分は一年前に抽斎と藩政上の意見を異にして、一時絶交の姿になっていた。しかし抽斎との情誼を忘るることなく、早晩疇昔の親みを回復しようと思っているうちに、図らずも抽斎に死なれた。自分はどうにかして旧恩に報いなくてはならない。自分の邸宅には空室が多い。どうぞそこへ移って来て、我家に住む如くに住んでもらいたい。自分は貧いが、日々の生計には余裕がある。決して衣食の価は申し受けない。そうすれば渋江一家は寡婦孤児として受くべき侮を防ぎ、無用の費を節し、安んじて子女の成長するのを待つことが出来ようといったのである。
その五十四[編集]
比良野貞固は抽斎の遺族を自邸に迎えようとして、五百に説いた。しかしそれは五百を識らぬのであった。五百は人の廡下に倚ることを甘んずる女ではなかった。渋江一家の生計は縮小しなくてはならぬこと勿論である。夫の存命していた時のように、多くの奴婢を使い、食客を居くことは出来ない。しかし譜代の若党や老婦にして放ち遣るに忍びざるものもある。寄食者の中には去らしめようにも往いて投ずべき家のないものもある。長尾氏の遺族の如きも、もし独立せしめようとしたら、定めて心細く思うことであろう。五百は己が人に倚らんよりは、人をして己に倚らしめなくてはならなかった。そして内に恃む所があって、敢て自らこの衝に当ろうとした。貞固の勧誘の功を奏せなかった所以である。
森枳園はこの年十二月五日に徳川家茂に謁した。寿蔵碑には「安政五年戊午十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、この年月日は家定が薨じてから四月の後である。その枳園自撰の文なるを思えば、頗る怪むべきである。枳園が謁したはずの家茂は十三歳の少年でなくてはならない。家定はこれに反して、薨ずる時三十五歳であった。
この年の虎列拉は江戸市中において二万八千人の犠牲を求めたのだそうである。当時の聞人でこれに死したものには、岩瀬京山、安藤広重、抱一門の鈴木必庵等がある。市河米庵も八十歳の高齢ではあったが、同じ病であったかも知れない。渋江氏とその姻戚とは抽斎、宗右衛門の二人を喪って、五百、安の姉妹が同時に未亡人となったのである。
抽斎の著す所の書には、先ず『経籍訪古志』と『留真譜』とがあって、相踵いで支那人の手に由って刊行せられた。これは抽斎とその師、その友との講窮し得たる果実で、森枳園が記述に与ったことは既にいえるが如くである。抽斎の考証学の一面はこの二書が代表している。徐承祖が『訪古志』に序して、「大抵論繕写刊刻之工、拙於考証、不甚留意」といっているのは、我国において初て手を校讐の事に下した抽斎らに対して、備わるを求むることの太だ過ぎたるものではなかろうか。
我国における考証学の系統は、海保漁村に従えば、吉田篁墩が首唱し、狩谷棭斎がこれに継いで起り、以て抽斎と枳園とに及んだものである。そして篁墩の傍系には多紀桂山があり、棭斎の傍系には市野迷庵、多紀茝庭、伊沢蘭軒、小島宝素があり、抽斎と枳園との傍系には多紀暁湖、伊沢柏軒、小島抱沖、堀川舟庵と漁村自己とがあるというのである。宝素は元表医師百五十俵三十人扶持小島春庵で、和泉橋通に住していた。名は尚質、一字は学古である。抱沖はその子春沂で、百俵寄合医師から出て父の職を襲ぎ、家は初め下谷二長町、後日本橋榑正町にあった。名は尚真である。春沂の後は春澳、名は尚絅が嗣いだ。春澳の子は現に北海道室蘭にいる杲一さんである。陸実が新聞『日本』に抽斎の略伝を載せた時、誤って宝素を小島成斎とし、抱沖を成斎の子としたが、今に迨るまで誰もこれを匡さずにいる。またこの学統について、長井金風さんは篁墩の前に井上蘭台と井上金峨とを加えなくてはならぬといっている。要するにこれらの諸家が新に考証学の領域を開拓して、抽斎が枳園と共に、まさに纔に全著を成就するに至ったのである。
わたくしは『訪古志』と『留真譜』との二書は、今少し重く評価して可なるものであろうと思う。そして頃日国書刊行会が『訪古志』を『解題叢書』中に収めて縮刷し、その伝を弘むるに至ったのを喜ぶのである。
その五十五[編集]
抽斎の医学上の著述には、『素問識小』、『素問校異』、『霊枢講義』がある。就中『素問』は抽斎の精を殫して研窮した所である。海保漁村撰の墓誌に、抽斎が『説文』を引いて『素問』の陰陽結斜は結糾の訛なりと説いたことが載せてある。また七損八益を説くに、『玉房秘訣』を引いて説いたことが載せてある。『霊枢』の如きも「不精則不正当人言亦人人異」の文中、抽斎が正当を連文となしたのを賞してある。抽斎の説には発明極て多く、此の如き類はその一斑に過ぎない。
抽斎遺す所の手沢本には、往々欄外書のあるものを見る。此の如き本には『老子』がある。『難経』がある。
抽斎の詩はその余事に過ぎぬが、なお『抽斎吟稿』一巻が存している。以上は漢文である。
『護痘要法』は抽斎か池田京水の説を筆受したもので、抽斎の著述中江戸時代に刊行せられた唯一の書である。
雑著には『晏子春秋筆録』、『劇神仙話』、『高尾考』がある。『劇神仙話』は長島五郎作の言を録したものである。『高尾考』は惜むらくは完書をなしていない。
『㦣語』は抽斎が国文を以て学問の法程を記して、及門の子弟に示す小冊子に命じた名であろう。この文の末尾に「天保辛卯季秋抽斎酔睡中に㦣言す」と書してある。辛卯は天保二年で、抽斎が二十七歳の時である。しかし現存している一巻には、この国文八枚が紅色の半紙に写してあって、その前に白紙に写した漢文の草稿二十九枚が合綴してある。その目を挙ぐれば、煩悶異文弁、仏説阿弥陀経碑、春秋外伝国語跋、荘子注疏跋、儀礼跋、八分書孝経跋、橘録跋、冲虚至徳真経釈文跋、青帰書目蔵書目録跋、活字板左伝跋、宋本校正病源候論跋、元板再校千金方跋、書医心方後、知久吉正翁墓碣、駱駝考、癱瘓、論語義疏跋、告蘭軒先生之霊の十八篇である。この一冊は表紙に「㦣語、抽斎述」の五字が篆文で題してあって、首尾渾て抽斎の自筆である。徳富蘇峰さんの蔵本になっているのを、わたくしは借覧した。
抽斎随筆、雑録、日記、備忘録の諸冊中には、今已に佚亡したものもある。就中日記は文政五年から安政五年に至るまでの三十七年間にわたる記載であって、裒然たる大冊数十巻をなしていた。これは上直ちに天明四年から天保八年に至るまでの五十四年間の允成の日記に接して、その中間の文政五年から天保八年に至るまでの十六年間は父子の記載が並存していたのである。この一大記録は明治八年二月に至るまで、保さんが蔵していた。然るに保さんは東京から浜松県に赴任するに臨んで、これを両掛に納めて、親戚の家に託した。親戚はその貴重品たるを知らざるがために、これに十分の保護を加うることを怠った。そして悉くこれを失ってしまった。両掛の中にはなお前記の抽斎随筆等十余冊があり、また允成の著す所の『定所雑録』等約三十冊があった。想うにこの諸冊は既に屏風襖葛籠等の下貼の料となったであろうか。それとも何人かの手に帰して、何処かに埋没しているであろうか。これを捜討せんと欲するに、由るべき道がない。保さんは今に迨るまで歎惜して已まぬのである。
『直舎伝記抄』八冊は今富士川游君が蔵している。中に題号を闕いたものが三冊交っているが、主に弘前医官の宿直部屋の日記を抄写したものである。上は宝永元年から下は天保九年に至る。所々に善云と低書した註がある。宝永元年から天明五年に至る最古の一冊は題号がなく、引用書として『津軽一統志』、『津軽軍記』、『津陽開記』、『御系図三通』、『歴年亀鑑』、『孝公行実』、『常福寺由緒書』、『津梁院過去帳抄』、『伝聞雑録』、『東藩名数』、『高岡霊験記』、『諸書案文』、『藩翰譜』が挙げてある。これは諸書について、主に弘前医官に関する事を抄出したものであろう。
『四つの海』は抽斎の作った謡物の長唄である。これは書と称すべきものではないが、前に挙げた『護痘要法』と倶に、江戸時代に刊行せられた二、三葉の綴文である。
『仮面の由来』、これもまた片々たる小冊子である。
その五十六[編集]
『呂后千夫』は抽斎の作った小説である。庚寅の元旦に書いたという自序があったそうであるから、その前年に成ったもので、即ち文政十二年二十五歳の時の作であろう。この小説は五百が来り嫁した頃には、まだ渋江の家にあって、五百は数遍読過したそうである。或時それを筑山左衛門というものが借りて往った。筑山は下野国足利の名主だということであった。そして終に還さずにしまった。以上は国文で書いたものである。
この著述の中刊行せられたものは『経籍訪古志』、『留真譜』、『護痘要法』、『四つの海』の四種に過ぎない。その他は皆写本で、徳富蘇峰さんの所蔵の『㦣語』、富士川游さんの所蔵の『直舎伝記抄』及已に散佚した諸書を除く外は、皆保さんが蔵している。
抽斎の著述は概ね是の如きに過ぎない。致仕した後に、力を述作に肆にしようと期していたのに、不幸にして疫癘のために命を隕し、かつて内に蓄うる所のものが、遂に外に顕るるに及ばずして已んだのである。
わたくしは此に抽斎の修養について、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地から観れば、経籍は批評の対象である。在来の文を取って渾侖に承認すべきものではない。是において考証家の末輩には、破壊を以て校勘の目的となし、毫もピエテエの迹を存せざるに至るものもある。支那における考証学亡国論の如きは、固より人文進化の道を蔽塞すべき陋見であるが、考証学者中に往々修養のない人物を出だしたという暗黒面は、その存在を否定すべきものではあるまい。
しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養の全からんことを欲するには、考証を闕くことは出来ぬと信じている。何故というに、修養には六経を窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証に須つことがあるというのである。
抽斎はその『㦣語』中にこういっている。「凡そ学問の道は、六経を治め聖人の道を身に行ふを主とする事は勿論なり。扨其六経を読み明めむとするには必ず其一言一句をも審に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、文字の音義を詳にすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、先づ善本を多く求めて、異同を比讐し、謬誤を校正し、其字句を定めて後に、小学に熟練して、義理始て明了なることを得。譬へば高きに登るに、卑きよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、細砕の末業に似たれども、必ずこれをなさざれば、聖人の大道微意を明むること能はず。(中略)故に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得がたき大業に似たれども、其内主とする所の書を専ら読むを緊務とす。それはいづれにも師とする所の人に随ひて教を受くべき所なり。さて斯の如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大道微意に通達すること必ず成就すべし」といっている。
これは抽斎の本領を道破したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に縁って修養して好いか分からぬことになるというのである。さて抽斎の此の如き見解は、全く師市野迷庵の教に本づいている。
その五十七[編集]
迷庵の考証学が奈何なるものかということは、『読書指南』について見るべきである。しかしその要旨は自序一篇に尽されている。迷庵はこういった。「孔子は堯舜三代の道を述べて、其流義を立て給へり。堯舜より以下を取れるは、其事の明に伝はれる所なればなり。されども春秋の比にいたりて、世変り時遷りて、其道一向に用ゐられず。孔子も遣つては見給へども、遂に行かず。終に魯に還り、六経を修めて後世に伝へらる。これその堯舜三代の道を認めたまふゆゑなり。儒者は孔子をまもりて其経を修むるものなり。故に儒者の道を学ばむと思はゞ、先づ文字を精出して覚ゆるがよし。次に九経をよく読むべし。漢儒の注解はみな古より伝受あり。自分の臆説をまじへず。故に伝来を守るが儒者第一の仕事なり。(中略)宋の時程頤、朱熹等己が学を建てしより、近来伊藤源佐、荻生惣右衛門などと云ふやから、みな己の学を学とし、是非を争ひてやまず。世の儒者みな真闇になりてわからず。余も亦少かりしより此事を学びしが、迷ひてわからざりし。ふと解する所あり。学令の旨にしたがひて、それ/″\の古書をよむがよしと思へり」といった。
要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証に由って至るより外ないと信じたのである。固よりこれは捷径ではない。迷庵が精出して文字を覚えるといい、抽斎が小学に熟練するといっているこの事業は、これがために一人の生涯を費すかも知れない。幾多のジェネラションのこの間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものがないとすると、学者は此に従事せずにはいられぬのである。
然らば学者は考証中に没頭して、修養に遑がなくなりはせぬか。いや。そうではない。考証は考証である。修養は修養である。学者は考証の長途を歩みつつ、不断の修養をなすことが出来る。
抽斎はそれをこう考えている。百家の書に読まないで好いものはない。十三経といい、九経といい、六経という。列べ方はどうでも好いが、秦火に焚かれた楽経は除くとして、これだけは読破しなくてはならない。しかしこれを読破した上は、大いに功を省くことが出来る。「聖人の道と事々しく云へども、前に云へる如く、六経を読破したる上にては、論語、老子の二書にて事足るなり。其中にも過猶不及を身行の要とし、無為不言を心術の掟となす。此二書をさへ能く守ればすむ事なり」というのである。
抽斎は百尺竿頭更に一歩を進めてこういっている。「但論語の内には取捨すべき所あり。王充書の問孔篇及迷庵師の論語数条を論じたる書あり。皆参考すべし」といっている。王充のいわゆる「夫聖賢下筆造文、用意詳審、尚未可謂尽得実、況倉卒吐言、安能皆是」という見識である。
抽斎が『老子』を以て『論語』と並称するのも、師迷庵の説に本づいている。「天は蒼々として上にあり。人は両間に生れて性皆相近し。習相遠きなり。世の始より性なきの人なし。習なきの俗なし。世界万国皆其国々の習ありて同じからず。其習は本性の如く人にしみ附きて離れず。老子は自然と説く。其れ是歟。孔子曰。述而不作。信而好古。窃比我於老彭。かく宣給ふときは、孔子の意も亦自然に相近し」といったのが即ちこれである。
その五十八[編集]
抽斎は『老子』を尊崇せんがために、先ずこれをヂスクレヂイに陥いれた仙術を、道教の畛域外に逐うことを謀った。これは早く清の方維甸が嘉慶板の『抱朴子』に序して弁じた所である。さてこの洗冤を行った後にこういっている。「老子の道は孔子と異なるに似たれども、その帰する所は一意なり。不患人不己知及曾子の有若無実若虚などと云へる、皆老子の意に近し。且自然と云ふこと、万事にわたりて然らざることを得ず。(中略)又仏家に漠然に帰すると云ふことあり。是れ空に体する大乗の教なり。自然と云ふより一層あとなき言なり。その小乗の教は一切の事皆式に依りて行へとなり。孔子の道も孝悌仁義より初めて諸礼法は仏家の小乗なり。その一以貫之は此教を一にして執中に至り初て仏家大乗の一場に至る。執中以上を語れば、孔子釈子同じ事なり」といっている。
抽斎は終に儒、道、釈の三教の帰一に到着した。もしこの人が旧新約書を読んだなら、あるいはその中にも契合点を見出だして、彼の安井息軒の『弁妄』などと全く趣を殊にした書を著したかも知れない。
以上は抽斎の手記した文について、その心術身行の由って来る所を求めたものである。この外、わたくしの手元には一種の語録がある。これは五百が抽斎に聞き、保さんが五百に聞いた所を、頃日保さんがわたくしのために筆に上せたのである。わたくしは今漫に潤削を施すことなしに、これを此に収めようと思う。
抽斎は日常宋儒のいわゆる虞廷の十六字を口にしていた。彼の「人心惟危、道心惟微、惟精惟一、允執厥中〈[#ルビの「まことにそのちゅをとる」はママ]〉」の文である。上の三教帰一の教は即ちこれである。抽斎は古文尚書の伝来を信じた人ではないから、これを以て堯の舜に告げた言となしたのでないことは勿論である。そのこれを尊重したのは、古言古義として尊重したのであろう。そして惟精惟一の解釈は王陽明に従うべきだといっていたそうである。
抽斎は『礼』の「清明在躬、志気如神」の句と、『素問』の上古天真論の「恬惔虚無、真気従之、精神内守、病安従来」の句とを誦して、修養して心身の康寧を致すことが出来るものと信じていた。抽斎は眼疾を知らない。歯痛を知らない。腹痛は幼い時にあったが、壮年に及んでからは絶てなかった。しかし虎列拉の如き細菌の伝染をば奈何ともすることを得なかった。
抽斎は自ら戒め人を戒むるに、しばしば沢山咸の「九四爻」を引いていった。学者は仔細に「憧憧往来、朋従爾思」という文を味うべきである。即ち「君子素其位而行、不願乎其外」の義である。人はその地位に安んじていなくてはならない。父允成がおる所の室を容安室と名づけたのは、これがためである。医にして儒を羨み、商にして士を羨むのは惑えるものである。「天下何思何慮、天下同帰而殊塗、一致而百慮」といい、「日往則月来、月往則日来、日月相推而明生焉、寒往則暑来、暑往則寒来、寒暑相推而歳成焉」というが如く、人の運命にもまた自然の消長がある。須く自重して時の到るを待つべきである。
「尺蠖之屈、以求信也、龍蛇之蟄、以存身也」とはこれの謂であるといった。五百の兄広瀬栄次郎が已に町人を罷めて金座の役人となり、その後久しく金の吹替がないのを見て、また業を更めようとした時も、抽斎はこの爻を引いて諭した。
その五十九[編集]
抽斎はしばしば地雷復の初九爻を引いて人を諭した。「不遠復无祗悔」の爻である。過を知って能く改むる義で、顔淵の亜聖たる所以は此に存するというのである。抽斎はいつもその跡で言い足した。しかし顔淵の好処は啻にこれのみではない。「回之為人也、択乎中庸、得一善、則拳拳服膺、而弗失之矣」というのがこれである。孔子が子貢にいった語に、顔淵を賞して、「吾与汝、弗如也」といったのも、これがためであるといった。
抽斎はかつていった。「為政以徳、譬如北辰、居其所、而衆星共之」というのは、独君道を然りとなすのみではない。人は皆奈何したら衆星が己に共うだろうかと工夫しなくてはならない。能くこれを致すものは即ち「絜矩之道」である。韓退之は「其責己也重以周、其待人也軽以約」といった。人と交るには、その長を取って、その短を咎めぬが好い。「無求備於一人」といい、「及其使人也器之」というは即ちこれである。これを推し広めて言えば、『老子』の「治大国、若烹小鮮」という意に帰著する。「大道廃有仁義」といい、「聖人不死、大盗不止」というのも、その反面を指して言ったのである。己も往事を顧れば、動もすれば絜矩の道において闕くる所があった。妻岡西氏徳を疎んじたなどもこれがためである。幸に父に匡救せられて悔い改むることを得た。平井東堂は学あり識ある傑物である。然るにその父は用人たることを得て、己は用人たることを得ない。己はその何故なるを知らぬが、修養の足らざるのもまた一因をなしているだろう。比良野助太郎は才に短であるが、人はかえってこれに服する。賦性が自ら絜矩の道に愜っているのであるといった。
抽斎はまたいった。『孟子』の好処は尽心の章にある。「君子有三楽、而王天下、不与存焉、父母倶存、兄弟無故、一楽也、仰不愧於天、俯不怍於人、二楽也、得天下英才、而教育之、三楽也」というのがこれである。『韓非子』は主道、揚権、解老、喩老の諸篇が好いといった。
これらの言を聞いた後に、抽斎の生涯を回顧すれば、誰人もその言行一致を認めずにはいられまい。抽斎は内徳義を蓄え、外誘惑を却け、恒に己の地位に安んじて、時の到るを待っていた。我らは抽斎の一たび徴されて起ったのを見た。その躋寿館の講師となった時である。我らは抽斎のまさに再び徴されて辞せんとするのを見た。恐らくはそのまさに奥医師たるべき時であっただろう。進むべくして進み、辞すべくして辞する、その事に処するに、綽々として余裕があった。抽斎の咸の九四を説いたのは虚言ではない。
抽斎の森枳園における、塩田良三における、妻岡西氏における、その人を待つこと寛宏なるを見るに足る。抽斎は絜矩の道において得る所があったのである。
抽斎の性行とその由って来る所とは、ほぼ上述の如くである。しかしここにただ一つ剰す所の問題がある。嘉永安政の時代は天下の士人をして悉く岐路に立たしめた。勤王に之かんか、佐幕に之かんか。時代はその中間において鼠いろの生を偸むことを容さなかった。抽斎はいかにこれに処したか。
この問題は抽斎をして思慮を費さしむることを要せなかった。何故というに、渋江氏の勤王は既に久しく定まっていたからである。
その六十[編集]
渋江氏の勤王はその源委を詳にしない。しかし抽斎の父允成に至って、師柴野栗山に啓発せられたことは疑を容れない。允成が栗山に従学した年月は明でないが、栗山が五十三歳で幕府の召に応じて江戸に入った天明八年には、允成が丁度二十五歳になっていた。家督してから四年の後である。允成が栗山の門に入ったのは、恐らくはその後久しきを経ざる間の事であっただろう。これは栗山が文化四年十二月朔に七十二歳で歿したとして推算したものである。
允成の友にして抽斎の師たりし市野迷庵が勤王家であったことは、その詠史の諸作に徴して知ることが出来る。この詩は維新後森枳園が刊行した。抽斎は啻に家庭において王室を尊崇する心を養成せられたのみでなく、また迷庵の説を聞いて感奮したらしい。
抽斎の王室における、常に耿々の心を懐いていた。そしてかつて一たびこれがために身命を危くしたことがある。保さんはこれを母五百に聞いたが、憾むらくはその月日を詳にしない。しかし本所においての出来事で、多分安政三年の頃であったらしいということである。
或日手島良助というものが抽斎に一の秘事を語った。それは江戸にある某貴人の窮迫の事であった。貴人は八百両の金がないために、まさに苦境に陥らんとしておられる。手島はこれを調達せんと欲して奔走しているが、これを獲る道がないというのであった。抽斎はこれを聞いて慨然として献金を思い立った。抽斎は自家の窮乏を口実として、八百両を先取することの出来る無尽講を催した。そして親戚故旧を会して金を醵出せしめた。
無尽講の夜、客が已に散じた後、五百は沐浴していた。明朝金を貴人の許に齎さんがためである。この金を上る日は予め手島をして貴人に稟さしめて置いたのである。
抽斎は忽ち剥啄の声を聞いた。仲間が誰何すると、某貴人の使だといった。抽斎は引見した。来たのは三人の侍である。内密に旨を伝えたいから、人払をしてもらいたいという。抽斎は三人を奥の四畳半に延いた。三人の言う所によれば、貴人は明朝を待たずして金を獲ようとして、この使を発したということである。
抽斎は応ぜなかった。この秘事に与っている手島は、貴人の許にあって職を奉じている。金は手島を介して上ることを約してある。面を識らざる三人に交付することは出来ぬというのである。三人は手島の来ぬ事故を語った。抽斎は信ぜないといった。
三人は互に目語して身を起し、刀の𣠽に手を掛けて抽斎を囲んだ。そしていった。我らの言を信ぜぬというは無礼である。かつ重要の御使を承わってこれを果さずに還っては面目が立たない。主人はどうしても金をわたさぬか。すぐに返事をせよといった。
抽斎は坐したままで暫く口を噤んでいた。三人が偽の使だということは既に明である。しかしこれと格闘することは、自分の欲せざる所で、また能わざる所である。家には若党がおり諸生がおる。抽斎はこれを呼ぼうか、呼ぶまいかと思って、三人の気色を覗っていた。
この時廊下に足音がせずに、障子がすうっと開いた。主客は斉く愕き眙た。
その六十一[編集]
刀の𣠽に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
五百は僅に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜えていた。そして閾際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち升っている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。
五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。
熱湯を浴びた二人が先に、𣠽に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。
五百は仲間や諸生の名を呼んで、「どろぼう/\」という声をその間に挟んだ。しかし家に居合せた男らの馳せ集るまでには、三人の客は皆逃げてしまった。この時の事は後々まで渋江の家の一つ話になっていたが、五百は人のその功を称するごとに、慙じて席を遁れたそうである。五百は幼くて武家奉公をしはじめた時から、匕首一口だけは身を放さずに持っていたので、湯殿に脱ぎ棄てた衣類の傍から、それを取り上げることは出来たが、衣類を身に纏う遑はなかったのである。
翌朝五百は金を貴人の許に持って往った。手島の言によれば、これは献金としては受けられぬ、唯借上になるのであるから、十カ年賦で返済するということであった。しかし手島が渋江氏を訪うて、お手元不如意のために、今年は返金せられぬということが数度あって、維新の年に至るまでに、還された金は些ばかりであった。保さんが金を受け取りに往ったこともあるそうである。
この一条は保さんもこれを語ることを躊躇し、わたくしもこれを書くことを躊躇した。しかし抽斎の誠心をも、五百の勇気をも、かくまで明に見ることの出来る事実を湮滅せしむるには忍びない。ましてや貴人は今は世に亡き御方である。あからさまにその人を斥さずに、ほぼその事を記すのは、あるいは妨がなかろうか。わたくしはこう思惟して、抽斎の勤王を説くに当って、遂にこの事に言い及んだ。
抽斎は勤王家ではあったが、攘夷家ではなかった。初め抽斎は西洋嫌で、攘夷に耳を傾けかねぬ人であったが、前にいったとおりに、安積艮斎の書を読んで悟る所があった。そして窃に漢訳の博物窮理の書を閲し、ますます洋学の廃すべからざることを知った。当時の洋学は主に蘭学であった。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したのはこれがためである。
抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去ったのである。この公認を贏ち得るまでには、蘭法医は社会において奮闘した。そして彼らの攻撃の衝に当ったものは漢法医である。その応戦の跡は『漢蘭酒話』、『一夕医話』等の如き書に徴して知ることが出来る。抽斎は敢て言をその間に挟まなかったが、心中これがために憂え悶えたことは、想像するに難からぬのである。
その六十二[編集]
わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が歿したといった。この公認は安政五年七月初の事で、抽斎は翌八月の末に歿した。
これより先幕府は安政三年二月に、蕃書調所を九段坂下元小姓組番頭格竹本主水正正懋の屋敷跡に創設したが、これは今の外務省の一部に外国語学校を兼たようなもので、医術の事には関せなかった。越えて安政五年に至って、七月三日に松平薩摩守斉彬家来戸塚静海、松平肥前守斉正家来伊東玄朴、松平三河守慶倫家来遠田澄庵、松平駿河守勝道家来青木春岱に奥医師を命じ、二百俵三人扶持を給した。これが幕府が蘭法医を任用した権輿で、抽斎の歿した八月二十八日に先つこと、僅に五十四日である。次いで同じ月の六日に、幕府は御医師即ち官医中有志のものは「阿蘭医術兼学致候とも不苦候」と令した。翌日また有馬左兵衛佐道純家来竹内玄同、徳川賢吉家来伊東貫斎が奥医師を命ぜられた。この二人もまた蘭法医である。
抽斎がもし生きながらえていて、幕府の聘を受けることを肯じたら、これらの蘭法医と肩を比べて仕えなくてはならなかったであろう。そうなったら旧思想を代表すべき抽斎は、新思想を齎し来った蘭法医との間に、厭うべき葛藤を生ずることを免れなかったかも知れぬが、あるいはまた彼の多紀茝庭の手に出でたという無名氏の『漢蘭酒話』、平野革谿の『一夕医話』等と趣を殊にした、真面目な漢蘭医法比較研究の端緒が此に開かれたかも知れない。
抽斎の日常生活に人に殊なる所のあったことは、前にも折に触れて言ったが、今遺れるを拾って二、三の事を挙げようと思う。抽斎は病を以て防ぎ得べきものとした人で、常に摂生に心を用いた。飯は朝午各三椀、夕二椀半と極めていた。しかもその椀の大きさとこれに飯を盛る量とが厳重に定めてあった。殊に晩年になっては、嘉永二年に津軽信順が抽斎のこの習慣を聞き知って、長尾宗右衛門に命じて造らせて賜わった椀のみを用いた。その形は常の椀よりやや大きかった。そしてこれに飯を盛るに、婢をして盛らしむるときは、過不及を免れぬといって、飯を小さい櫃に取り分けさせ、櫃から椀に盛ることを、五百の役目にしていた。朝の未醤汁も必ず二椀に限っていた。
菜蔬は最も莱菔を好んだ。生で食うときは大根おろしにし、烹て食うときはふろふきにした。大根おろしは汁を棄てず、醤油などを掛けなかった。
浜名納豆は絶やさずに蓄えて置いて食べた。
魚類では方頭魚の未醤漬を嗜んだ。畳鰯も喜んで食べた。鰻は時々食べた。
間食は殆ど全く禁じていた。しかし稀に飴と上等の煎餅とを食べることがあった。
抽斎が少壮時代に毫も酒を飲まなかったのに、天保八年に三十三歳で弘前に往ってから、防寒のために飲みはじめたことは、前にいったとおりである。さて一時は晩酌の量がやや多かった。その後安政元年に五十歳になってから、猪口に三つを踰えぬことにした。猪口は山内忠兵衛の贈った品で、宴に赴くにはそれを懐にして家を出た。
抽斎は決して冷酒を飲まなかった。然るに安政二年に地震に逢って、ふと冷酒を飲んだ。その後は偶飲むことがあったが、これも三杯の量を過さなかった。
その六十三[編集]
鰻を嗜んだ抽斎は、酒を飲むようになってから、しばしば鰻酒ということをした。茶碗に鰻の蒲焼を入れ、些しのたれを注ぎ、熱酒を湛えて蓋を覆って置き、少選してから飲むのである。抽斎は五百を娶ってから、五百が少しの酒に堪えるので、勧めてこれを飲ませた。五百はこれを旨がって、兄栄次郎と妹壻長尾宗右衛門とに侑め、また比良野貞固に飲ませた。これらの人々は後に皆鰻酒を飲むことになった。
飲食を除いて、抽斎の好む所は何かと問えば、読書といわなくてはならない。古刊本、古抄本を講窮することは抽斎終生の事業であるから、ここに算せない。医書中で『素問』を愛して、身辺を離さなかったこともまた同じである。次は『説文』である。晩年には毎月説文会を催して、小島成斎、森枳園、平井東堂、海保竹逕、喜多村栲窓、栗本鋤雲等を集えた。竹逕は名を元起、通称を弁之助といった。本稲村氏で漁村の門人となり、後に養われて子となったのである。文政七年の生で、抽斎の歿した時、三十五歳になっていた。栲窓は名を直寛、字を士栗という。通称は安斎、後父の称安政を襲いだ。香城はその晩年の号である。経を安積艮斎に受け、医を躋寿館に学び、父槐園の後を承けて幕府の医官となり、天保十二年には三十八歳で躋寿館の教諭になっていた。栗本鋤雲は栲窓の弟である。通称は哲三、栗本氏に養わるるに及んで、瀬兵衛と改め、また瑞見といった。嘉永三年に二十九歳で奥医師になっていた。
説文会には島田篁村も時々列席した。篁村は武蔵国大崎の名主島田重規の子である。名は重礼、字は敬甫、通称は源六郎といった。艮斎、漁村の二家に従学していた。天保九年生であるから、嘉永、安政の交にはなお十代の青年であった。抽斎の歿した時、豊村は丁度二十一になっていたのである。
抽斎の好んで読んだ小説は、赤本、菎蒻本、黄表紙の類であった。想うにその自ら作った『呂后千夫』は黄表紙の体に倣ったものであっただろう。
抽斎がいかに劇を好んだかは、劇神仙の号を襲いだというを以て、想見することが出来る。父允成がしばしば戯場に出入したそうであるから、殆ど遺伝といっても好かろう。然るに嘉永二年に将軍に謁見した時、要路の人が抽斎に忠告した。それは目見以上の身分になったからは、今より後市中の湯屋に往くことと、芝居小屋に立ち入ることとは遠慮するが宜しいというのであった。渋江の家には浴室の設があったから、湯屋に往くことは禁ぜられても差支がなかった。しかし観劇を停められるのは、抽斎の苦痛とする所であった。抽斎は隠忍して姑く忠告に従っていた。安政二年の地震の日に観劇したのは、足掛七年ぶりであったということである。
抽斎は森枳園と同じく、七代目市川団十郎を贔屓にしていた。家に伝わった俳名三升、白猿の外に、夜雨庵、二九亭、寿海老人と号した人で、葺屋町の芝居茶屋丸屋三右衛門の子、五世団十郎の孫である。抽斎より長ずること十四年であったが、抽斎に一年遅れて、安政六年三月二十三日に六十九歳で歿した。
次に贔屓にしたのは五代目沢村宗十郎である。源平、源之助、訥升、宗十郎、長十郎、高助、高賀と改称した人で、享和二年に生れ、嘉永六年十一月十五日に五十二歳で歿した。抽斎より長ずること三年であった。四世宗十郎の子、脱疽のために脚を截った三世田之助の父である。
その六十四[編集]
劇を好む抽斎はまた照葉狂言をも好んだそうである。わたくしは照葉狂言というものを知らぬので、青々園伊原さんに問いに遣った。伊原さんは喜多川季荘の『近世風俗志』に、この演戯の起原沿革の載せてあることを報じてくれた。
照葉狂言は嘉永の頃大阪の蕩子四、五人が創意したものである。大抵能楽の間の狂言を模し、衣裳は素襖、上下、熨斗目を用い、科白には歌舞伎狂言、俄、踊等の状をも交え取った。安政中江戸に行われて、寄場はこれがために雑沓した。照葉とは天爾波俄の訛略だというのである。
伊原さんはこの照葉の語原は覚束ないといっているが、いかにも輒ち信じがたいようである。
能楽は抽斎の楽み看る所で、少い頃謡曲を学んだこともある。偶弘前の人村井宗興と相逢うことがあると、抽斎は共に一曲を温習した。技の妙が人の意表に出たそうである。
俗曲は少しく長唄を学んでいたが、これは謡曲の妙に及ばざること遠かった。
抽斎は鑑賞家として古画を翫んだが、多く買い集むることをばしなかった。谷文晁の教を受けて、実用の図を作る外に、往々自ら人物山水をも画いた。
「古武鑑」、古江戸図、古銭は抽斎の聚珍家として蒐集した所である。わたくしが初め「古武鑑」に媒介せられて抽斎を識ったことは、前にいったとおりである。
抽斎は碁を善くした。しかし局に対することが少であった。これは自ら儆めて耽らざらんことを欲したのである。
抽斎は大名の行列を観ることを喜んだ。そして家々の鹵簿を記憶して忘れなかった。「新武鑑」を買って、その図に着色して自ら娯んだのも、これがためである。この嗜好は喜多静廬の祭礼を看ることを喜んだのと頗る相類している。
角兵衛獅子が門に至れば、抽斎が必ず出て看たことは、既に言った。
庭園は抽斎の愛する所で、自ら剪刀を把って植木の苅込をした。木の中では御柳を好んだ。即ち『爾雅』に載せてある檉である。雨師、三春柳などともいう。これは早く父允成の愛していた木で、抽斎は居を移すにも、遺愛の御柳だけは常におる室に近い地に栽