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校正増注元親征録/跋

錢辛楣先生十駕齋養新錄一條。

〈東方學デジタル圖書館-109〈底本-410 皇元聖武親征錄一卷、紀太祖︀太宗事、不著︀撰人姓名。其書載烈祖︀神︀元皇帝太祖︀聖武皇帝諡。攷元史、烈祖︀太祖︀諡、皆在世祖︀至元三年、則至元以後人所撰。故於睿宗有太上皇之稱。然紀太宗事、而加太上之稱於其弟、所謂名不正而言不順者︀矣。所紀多開國時事、而於平金取夏頗略。元史察罕傳、仁宗命譯脫必赤顏、名曰聖武開元記。其書今不傳、未識與此錄有異同否。雖不如祕史之完善、而元初事迹、亦可藉以攷證。其譯語之異者︀、如王孤部、卽汪古也。博羅渾那顏、卽博而忽也。闖拜、卽沈白也。暗都︀剌蠻、〈東方學デジタル圖書館-110卽奧魯剌合蠻也。兀相撒兀、卽吾圖撒合里耶律楚材賜名。也。

秋濤案、今殿本攷證、改博羅渾爲博羅罕、且無博爾忽之名。

訳文 跋一四七

皇元聖武親征録一巻は、太祖と太宗の事を記し、撰した人の姓名は明らかになっていない。その書は烈祖 神元皇帝と太祖 聖武皇帝の追号を載せている。元史を調べると、烈祖と太祖の追号は、いずれも世祖 至元 三年(1266年)にあり、であれば至元以後の人が撰したものである。ゆえに睿宗に太上皇の称がある。そして太宗の事を記し、しかし太上の称をその弟に加え、言わば名正しからざれば則ち言順ならずではないか。開国時の事を多く記すところは、金を平らげることは良くできており、夏を取ることは頗る省かれている。元史 ​チヤハン​​察罕​伝、仁宗は​トビチヤン​​脫必赤顏​を訳すことを命じ、名付けて聖武開元記と言う。その書は今は伝わっておらず、この親征録と相違があるのかどうかはわからない。秘史のようには良く出来ていないとはいえ、しかし元初の事跡は、それでもなお考証のために頼ることができる。その訳語の異なるのは、​ワング​​王孤​部が、つまり​オング​​汪古​であるようなものである。​ボロフン ノヤン​​博羅渾 那顏​は、つまり​ボルフ​​博而忽​である。​チンハイ​​闖拜​は、つまり​チンベ​​沈白​である。​アンドラマン​​暗都︀剌蠻​は、つまり​アウルラハマン​​奧魯剌合蠻​である。​ウシヤンサウ​​兀相撒兀​は、つまり​ウト サハリ​​吾圖 撒合里​​エリユ チウツアイ​​耶律 楚材​の賜名。である。

秋濤案、今 殿本を考証すると、​ボロフン​​博羅渾​を改めて​ボロハン​​博羅罕​とし、かつ​ボルフ​​博爾忽​の名がない。



校正元聖武親征錄跋後。

右光澤何願船先生校正元聖武親征錄一卷。熙弱冠隨嚴君仕京都︀、習知先生與〈底本-411 張石州先生、皆以攷據著︀稱、其校證乃於一字一音之末、心竊慕之、而無以自通也。歲己未、得親炙先生於邵武館︀。先生時方輯朔方備乘。未數月、書成進御、熙未獲觀。越二年、而先生古矣。同治甲子、偶於張叔平比部齋中、得先生所校元聖武親征錄。葢元親征錄世無刊本、而先生之攷正、又校勘家所不易觀。遂手錄之。熙夙聞先生言、元代史之舛謬、不可備擧、而史所紀太祖︀開〈東方學デジタル圖書館-111國、譌雜尤多。卽先生此書自序亦言之。錄此帙、以資讀史攷證、亦以識私淑之意云爾。原本。有平定張穆・旌德呂賢基兩序、今所存惟張序。張卽石州先生。呂序無當於校正之義、殆可刪也。同治甲子二月、後學陽湖莊庚熙跋


光緖丁亥、始得此書鈔之、欲細校一過、殊無暇晷、隨手改正三數處。葢亦有足以補石州・願船兩先生之罅漏者︀。然總以攷證不易、忽忽置之。頃同邑龍伯鸞主事、來都︀應京兆試、欲乞沈子培刑曹校本刊之。沈校精︀納、迥出張・何之上、此書當遍行人閒矣。一知半解、斷不及沈校之精︀確、或亦有各明一義者︀。姑幷寄伯鸞、以俟釆擇耳。光緖癸巳九月朔日、漫記於後。李文田記。

訳文 跋一四七-一四九

右の光沢の何秋濤願船先生が校正した元聖武親征録一巻。熙〈[#「熙」は跋を書いた庚熙の自称]〉が二十才で厳君に従い都で仕え、先生と〈底本-411張石州先生に習い親しみ、いずれも明らかに適するところに拠って考え、その一字一音の細かいことを考え解き明かし、心密かにこれを慕い、しかし自らが届くことはなかった。歳己未(1859年)、邵武館で先生に近づき感化を受けることができた。先生はその時まさに朔方備乗を集めていた。数か月しないうちに、書が成って皇帝に差し上げ、熙はまだ手に入れて見ることができていない。二年が過ぎ、そして先生は過去の人である。同治 甲子(1864年)、思いがけなく張観準の主計寮の書斎の中から、先生が校正した元聖武親征録を得た。思うに元親征録は世に刊本がなく、そして先生の攷正、さらに校勘家の所のものは見やすくなかった。ついに録を手にした。熙ははやくから先生が言うことを聞いており、元代史の誤りは、整えて挙げることができず、そして元史の太祖の開国を記したところは、誤りが入り乱れてはなはだ多い。ほかでもなく先生はこの書の自序でやはりこれを言う。この帙に記すのは、史を読んで考証するのに役立ち、やはり私淑を考えて言うのみである。原本。平定の張穆・旌徳の呂賢基の二つの序があり、今はただ張の序だけをそのままにしておく。張とはつまり石州先生である。呂の序は校正の意味においてふさわしくなく、ほとんど削るべきである。同治 甲子(1864年)二月、後学 陽湖荘 庚熙 跋


光緒丁亥(1887年)に、初めてこの書の写しを得て、細かい校正を一通りすることを望んだが、暇な時間がなさすぎて、自分で三か所ほど改正したままになった。おそらくやはり石州・願船両先生の隙間を補うことで足りるであろう。だがすべて考証は容易でなく、たちまちこれをやめた。同じ頃に竜鳳鑣が政務を司るのを不安に思い、都に来て京兆試を受験して、沈曽植司法官の校本の出版を望んだ。沈の校は詳しく納まり、張と何の上を超越し、この書は人の世にあまねく行き渡る。十分に理解していないところは、必ず沈の校の正確さには及ばず、あるいはまたそれぞれに明らかな意味がある。しばらくは竜鳳鑣に任せるとともに、待って区別して選ぶのみである。光緒 癸巳(1893年)九月朔日、最後でとりとめもなく記した。李文田 記。





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