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校正増注元親征録/本編6

〈史45-170上6壬申,破宣德府。至德興府,失利引却

〈東方學デジタル圖書館-73〈底本-377 壬申七年、宋嘉定五年、金衞紹王崇慶元年。通世案、西史失書猴年、故宣德・德興之役、皆爲辛未年事。破宣德府、至德興府秋濤案、金宣德府、今直隸宣化府是。德興府、今直隸保安州是。通世案、金宣德州、未稱府。元升爲宣寧府、後改宣德府。祕史元史皆作府、獨西史作州。失利引卻。四太子也可那顏・赤渠駙馬率兵、盡克德興境內諸︀堡而還。後金人復收之。曾植案、史祭祀志、太廟金主、太祖︀主、題曰成吉思皇帝、睿宗主、題曰太上皇也可那顏。此四太子也可那顏、與彼太上皇也可那顏文同、謂拖雷也。又案、赤渠、史太祖︀本紀作赤駒、公主表作赤窟。通世案、祕史作出古。伯哷津書云「攻德興府。其地有園亭果木、釀酒甚多。金守以精︀兵。不能下而退。令圖里汗・赤古古兒干率兵再徃、登城毀其敵樓、破之而歸。歸後此城復叛屬金」。圖里汗、卽四太子也可那顏也。洪氏曰「也可大也。義爲大那顏。拖雷有是稱、見西域史下文。西域史稱之爲汗。葢西域王、皆拖雷後、亦追王之意。又西域史不曰拖雷、曰圖里、謂稱名之義爲鏡。案元史語解「圖里鏡也」。似元史之作拖雷爲誤」。又曰「古兒干、卽駙馬」。續綱目云「壬申春、蒙古克金宣德府、遂攻德興府、坎墉而登。金人禦之。蒙古兵不利。蒙古主第四子拖雷與赤駒駙馬、復擁楯先登而射之。金兵引却。蒙古遂盡拔德興境內諸︀城堡而去。金人復守之」。與本書合。元史本紀、於辛未年、旣書「九月、拔德興府」、至癸酉年、復書「秋七月、克宣德府、遂攻德興府。皇子拖雷駙馬赤駒先登拔之」。皆非。辛未之文、葢依金國志而誤。然據金史衞紹王紀、紇石烈執中傳、「大安三年十一月、執中自請步騎二萬屯宣德州、詔與三千人屯嬀川」。則辛未年、宣德德興未嘗陷也。癸酉之文、似本於本書、而以壬申之役爲癸酉秋事、省「金人復收之」「上復破之」二事、亦係誤。

訳文 八〇-八一

壬申(1212年)七年、宋 嘉定 五年、金 衛紹王 崇慶 元年。通世案、西史は猴年を書き忘れ、ゆえに宣徳・徳興の役は、みな辛未年(1211年)の事とする。宣徳府を破り、徳興府に至り秋濤案、金の宣徳府は、今の直隷 宣化府である。徳興府は、今の直隷 保安州である。通世案、金の宣徳州は、まだ府を称していない。元が昇格させて宣寧府とし、後に宣徳府に改められた。秘史と元史どちらも府とし、ひとり西史は州とする。勢いを失い引き退いた。四太子​エケ ノヤン​​也可 那顏​​チク​​赤渠​駙馬は兵を率いて、徳興境内の諸堡をことごとく治めて帰った。後に金人が再びこれを収めた。曽植案、元史 祭祀志は、太廟金主と、太祖主は、題して​チンギス​​成吉思​皇帝と言い、睿宗主は、題して太上皇​エケ ノヤン​​也可 那顏​と言う。この四太子​エケ ノヤン​​也可 那顏​は、かの太上皇​エケ ノヤン​​也可 那顏​の文と同じで、いわゆる​トルイ​​拖雷​である。又案、​チク​​赤渠​、元史 太祖本紀は​チグ​​赤駒​とし、元史 公主表は​チク​​赤窟​とする。通世案、秘史は​チユグ​​出古​とする。 ​ベレジン​​伯哷津​の書は「徳興府を攻めた。その地は​エンチンゴム​​園亭果木​にあり、醸酒がはなはだ多い。金の守備は精兵を用いた。降せず退いた。​トリ カン​​圖里 汗​​チググルゲン​​赤古古兒干​に命じて兵を率いて再び行かせて、城に登りその敵のやぐらを壊し、これを破って帰った。帰った後でこの城は再び叛いて金に属した」と言う。​トリ カン​​圖里 汗​は、つまり四太子​エケ ノヤン​​也可 那顏​である。洪氏は「​エケ​​也可​は大である。義は大​ノヤン​​那顏​となる。​トルイ​​拖雷​はこの称を持ち、西域史の後文で見える。西域史はこれを汗とみなし称する。おそらく西域王は、みな​トルイ​​拖雷​の後、ただ王の追号の意であろう。また西域史は​トルイ​​拖雷​と言わず、​トリ​​圖里​と言い、称号の意味を鏡としたと言う。元史語解を調べると「​トリ​​圖里​は鏡である」とある。元史がこれを​トルイ​​拖雷​としたのは誤りとみなせるようだ」と言う。また「​グルゲン​​古兒干​は、駙馬である」と言う。続綱目は「壬申(1212年)春、モンゴルは金の宣徳府を落とし、そのまま徳興府を攻め、険しい壁を登った。金人はこれを防いだ。モンゴル兵は戦いに負けた。モンゴル主の第四子​トルイ​​拖雷​​チグ​​赤駒​駙馬は、引き返して楯を抱えて先に登りこれを射た。金兵は引き退いた。モンゴルはそのまま徳興境内の諸城堡をことごとく攻め落とし去った。金人は戻ってきてこれを守った」と言う。本書と合う。元史 本紀は、辛未年(1211年)において、「九月、徳興府を攻め落とした」とすでに書き、癸酉年(1213年)に至り、「秋七月、宣徳府を落とし、そのまま徳興府を攻めた。皇子​トルイ​​拖雷​と駙馬​チグ​​赤駒​が先に登ってこれを攻め落とした」と再び書く。どちらも誤り。辛未(1211年)之文は、おそらく金国志に拠って誤ったのであろう。だが金史の衛紹王紀と、​フシレ​​紇石烈​執中伝に拠ると、「大安 三年(1211年)十一月、執中は自ら歩兵と騎兵二万を請うて宣徳州に留まって守り、助けて三千人を与え嬀川に留まり守った」。つまり辛未年(1211年)、宣徳と徳興は未だかつて落ちていなかった。癸酉(1213年)の文は、本書を根本としているようで、壬申(1212年)の役をもって癸酉(1213年)秋の事とし、「金人は再びこれを収めた」と「上は再びこれを破った」の二事を省き、また誤りである。



〈史45-170上9癸酉秋,上復破之,遂進軍至懷來,金帥高琪將兵舉戰

癸酉、八年、宋嘉定六年、金衞紹王至甯元年、九月以後、宣宗貞祐︀元年。通世案西史作次年。洪氏曰「此次年應是癸酉。上文遺脫猴年、遂爲壬申」。秋、上復破之、遂進軍至懷來通世案、懷來、遼舊縣、金改嬀川、屬西京路德興府。今直隸宣化府懷來縣。金帥高琪金字原闕、秋濤校補、通世案、元史本紀、作金行省完顏綱・元帥高琪。金史完顏綱、徒單鎰、朮虎高琪傳、皆云「至寧元年、綱行省事於縉山、大敗」。然西史亦不載綱名、則脫必赤顏原本、本脫之也。帥上疑原有金元二字。又案、朮虎高琪、金史有傳。是時爲鎭州防禦使、權元帥右都︀監。蒙古人謂之元帥、傳聞之誤也。將兵與戰。我軍勝、追至古北口、通世案、在順天府密雲縣東北百二十里。然觀下文怯台薄察等頓軍拒守、哲別破居庸南口、進至北口、與二將合、則此非古北口、卽居庸北口也。札八兒傳云「金人恃居庸之塞、冶鐵錮關門、布鐵蒺藜百餘里、守以精︀銳」、亦卽下文「金人塹山築壁、悉力爲備」之事也。元史本紀、舊本無古字。殿本乃有古字、後人贅增也。耶律阿〈底本-378 海︀傳亦云「乘勝次北口」、無古字。畢秋帆續通鑑、從元史舊本、而據札八兒傳、叙居庸之備、亦以北口爲居庸北口也。西史作哈卜察勒、義爲口隘、不載口名。然自懷來追至口隘、爲居庸可知。然則此北字誤衍無疑。 大敗之。死者︀不可勝計。時金人塹山築帥、秋濤校改寨字。通世案、當是壁字之譌。悉力爲備。上留怯台・薄察等曾植案、趙柔傳「癸酉、太祖︀遣兵破紫荆關。柔以衆降。行省八札奏聞、以柔爲涿易二州長官」。八札卽薄察。又案、朮赤台之子名怯台、而祕史九十五功臣名、又有客台客帖二人、竝與怯台聲近。不知此怯台當爲誰也。又案、無名氏皇氏墓志、國朝初、皇全以兵屬木華黎國王、宗王克忒、署︀千戶。克忒卽怯台、本紀作可忒。主兒扯歹、與太祖︀同爲孛端察兒之後。稱爲宗王、則克忒是主兒扯歹之子怯台、無疑也。通世案、元史本紀作可忒・薄刹。郝和尙拔都︀傳「在郡王迄忒麾下」、考異云「疑卽朮赤台之子怯台也」。伯哷津作翁吉剌特二將哈台・布札。頓軍拒守、遂將〈東方學デジタル圖書館-74別眾西行、由紫荆口出。將字由字原闕。張石州據翁本增。通世案、紫荆關在直隷易州西八十里紫荆嶺上。金主聞之、遣大將奧敦張石州曰「本紀作屯」。通世案、金史章宗衞紹王二紀及李英傳、有烏古孫兀屯、葢卽此人也。將兵拒隘、勿使及平地。比其至、我衆度關矣。乃命哲別、率眾攻居庸南口、通世案、居庸關、在順天府昌平州境。州西北二十四里、爲居庸南口。自南口而上十五里爲關城。又八里爲上關。又十七里、卽宣化府延慶州之八達嶺。嶺上有城、元人以此爲居庸北口。 出其不備破之、進兵至北口、與怯台・薄察軍合。通世案、本紀云「契丹訛魯不兒等献北口、遮別遂取居庸、與可忒・薄刹會」。殿本作古北口、誤與前同。洪氏曰「古北紫荆居庸、皆長城隘口。此古之長城、在金內地者︀也。金築長城、則更在邊外。所謂「塹山爲界、汪古部一軍守其衝要」也。汪古導蒙古進兵、而外險失、昌桓撫等州皆不保矣。至是而三關亦盡失、中都︀危矣。親征錄叙述詳明。合西域史觀之、可得太祖︀用兵之道。元史札八兒傳、叙破居庸之事、全屬渺茫」。旣而又遣諸︀部精︀兵五千騎、合怯台・哈台二將 圍中都︀。圍原作固、秋濤校改。曾植案、哈台、葢卽九十五功臣中之合歹駙馬。通世案、西史作「令喀台率五千騎守中都︀往來大路」。喀台卽怯台、而無哈台。上自率兵攻泳・易二州、通世案、二州、金屬中都︀路。涿州、今屬順天府。易州、今屬直隷。卽日拔之。通世案、金史宣宗紀、貞祐︀元年十月、載大元兵下涿州。似非入關之月直拔之。〈[#底本では直前に句点なし]〉西史作「自引兵攻涿州、二十日破之」、少易州。元史木華黎傳、亦唯云拔涿州、與金史合。又案、庚午癸酉之間、元史叙事多複。葢由採諸︀書錯綜成文、而不審究事情。庚午春、遮別襲鳥沙堡殺︀其衆。辛未秋、遮別復拔烏沙堡。是前非而後是也。辛未取豐利等縣、豐利、撫州屬縣也。而壬申春、帝破昌桓撫等州。是前是而後非也。昌桓撫等州之破、皆在前年。辛未二月、帝敗金將定薛於野狐嶺。壬申春、復與金將紇石烈九斤等、戰于獾兒嘴、大敗之。獾兒嘴之戰、卽野狐嶺之戰也、此戰實在辛未八月、而前文叙在取大水濼拔烏沙堡之前、月次不合。金將之名亦可疑。後文似據本書、而年月皆誤。辛未九月、拔德興府。壬申九月、察罕克奉聖州。奉聖州、卽德興府舊名。明昌以後升爲府、元復改奉聖州。而癸酉七月、皇子拖雷等、復拔德興府。辛未之役、葢依金史而誤。察罕之事、別採他書。拖雷等之事、則據本書。而本書有壬申癸酉兩役。本紀取其壬申役、書於癸酉、亦與原文異。縉山之大敗、居庸之失守、在癸酉之秋、金史完顏綱・朮虎高琪諸︀傳可證。而本紀辛未九月、旣云「居庸關守將遁去、遮別遂入關、抵中都︀」、是沿金史衞紹王紀之誤也。衞紹王身弑國蹙、記注亡失、王鶚旣不能詳述、見紀贊。故叙事率略最甚。大安三年、會河堡敗後、直云「居庸關失守、大元前軍至中都︀」、「東過平濼、南至淸滄、由臨潢過遼河、西南至忻代、皆歸大元」、是皆至寧癸酉以後之事也。故癸酉秋、不復叙居庸失守。設令居庸失守在辛未、則癸酉之役、北軍何須由紫荆出耶。元史旣依金史、於辛未秋、書遮別入關、至癸酉秋、復依本書、叙懷來居庸之戰、故致重複如此。乃分軍爲三道。大太子二太子三太子爲右軍、循太行而南、破保州・中山・那・洺・原作洛、秋濤校改。磁・相・輝・衞・懷・孟等州、棄其定・威州境、秋濤校本刪棄其二字。通世案、不必刪。中軍亦有「棄東平大名」語。〈東方學デジタル圖書館-75抵黃河、河字、秋濤校補。大掠而還。 秋濤案、本紀云「是秋、分兵三道、命皇子朮赤・察合台・窩闊台爲右軍、循太行而南、取保・遂・安肅・安定・邢・洺・磁・相・衞・輝・懷・孟、掠澤・潞・遼・沁・平陽・太原・吉・隰、拔汾・石・嵐・忻・代・武等州而還」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉。計本紀有而此書闕者︀、爲遂州安肅州安州澤州潞州遼州沁州吉州隰州汾州石州嵐州忻州代州武州及太原・平陽二府。其定州、卽中山府也。通世案、保州、金屬中都︀路、今直隷保定府淸苑縣。中山・邢・洺・磁・相、皆金屬河北西路、今屬直隷。中〈底本-379 山府、今定州。邢州、今順德府、沼州今廣平府。磁州、今廣平府磁州。相州、唐宋舊名、金改彰德府、今仍之。輝州舊衞州蘇門縣、貞祐︀四年九月壬申、升爲州、屬河北西路。元改輝縣、屬衞輝路。今河南衞輝府輝縣。衞州、金屬河北西路、元改置衞輝路。今河南衞輝府。此二字、元史作衞輝。續綱目諸︀州名、不據元史、而據本書、亦作衞輝、則輝衞疑是倒置。懷孟、金屬河東南路。懷州今河南懷慶府。孟州、今懷慶府孟縣。定州、卽中山府、明昌以復升爲府、明復曰定州。葢旣取而復棄也。威州、金屬河北西路 今直隷正定府井陘縣。哈撒兒及斡津那顏・原作幹律。文田案律當作津。通世案、元史作斡陳那顏、幹亦當作斡。今因改二字。西史亦作斡陳諾延、原注「翁吉剌人」。此特薛禪之孫、而按陳那顏之子也。元史附見特薛禪傳。拙赤䚟・通世案、伯哷津作主兒赤歹、原注「成吉思汗幼子」。陳桱通鑑續編、太祖︀六子、其庶子曰朮兒徹歹者︀是也。伯哷津又云「乃蠻女失其名、從成吉思汗生子朮兒徹」。洪氏曰「朮兒徹、必卽主兒赤、而奪歹字音」。引蒙韃備錄、考證頗詳。薄刹曾植案、薄刹前作薄察。攻燕爲大將、與拙赤䚟等竝、而史無其傳、他處名亦不見。蓋不可解。竊疑此卽塔察兒也。塔察兒、一名倴盞、對音與薄察通近。傳稱其從太祖︀平燕、情事亦合。爲左軍、沿東海︀、破洙・沂等城而還。秋濤案、金無洙州、疑灤字之譌。本紀云「皇弟哈撒兒及斡陳那顏・拙赤䚟・薄刹、爲左軍、遵海︀而東、取蘇州平灤遼西諸︀郡而還」。據本紀、是左軍東抵平灤、而未嘗南涉淄沂也。沂州、本紀列於中道軍所取之內、未詳孰是。通世案、灤州、金屬中都︀路、今屬直隷永平府。沂當是薊之壞字。薊州、金屬中都︀路、今屬順天府。續綱目亦作破灤薊。上與四太子、馭諸︀部軍、由中道、遂破灤・秋濤案、當作深。葢上灤字旣譌作洙、後人因妄改此字〈東方學デジタル圖書館-76爲灤也。漢︀・秋濤案、河北山東無漢︀州、字當作莫。蓋莫譌漠、而漠又譌漢︀也。河間・開・通世案、何氏以開非其次、移之於益都︀下。然若從元史之次、則深開、皆當移於景献下。開在益都︀下、未必爲得其次。今姑仍舊。淸・滄・景・獻・濟南・濱・棣・益都︀原作益相、秋濤校改。等城。秋濤案、本紀云「帝與皇子拖雷爲中軍、取雄・霸・莫・安・河間・滄・景・獻・深・祁・蠡・冀・恩・濮・開・滑・博・濟・泰安・濟南・濱・棣・益都︀・淄・濰・登・萊・沂等郡」計本紀有而此書缺者︀、爲雄州霸州祁州蠡州冀州恩州濮州滑州博州濟州泰安州溜州濰州登州萊州沂州、凡十六州。其安州、與右軍所取複出。未詳其說。又本紀云「是歲、河北郡縣盡拔、惟中都︀・通・順・眞定・淸・沃・大名・東平・德・邳・海︀州十一城不下」。是淸州未〈東方學デジタル圖書館-77陷、而此書云中軍破淸・滄、與史文不合。通世案、深・莫・河間・淸・滄・景・献皆金屬河北東路、今屬直隷。深州故城、在今深州南二十五里。莫州故城、在今河間府任邱縣北三十五里。河間府、今仍之。淸州、今天津府靑縣。滄州故城、在今天津府滄州東南四十里。景州、大安間更爲觀州。今河間府東光縣。献州、今河間府献縣。開州、金屬大名府路、今屬直隷大名府。濟南・濱・棣・益都︀、皆金山東東路、今山東。濟南府、今仍之。濱州、今屬武定府。棣州、今武定府。益都︀府、今靑州府。續綱目作雄・漠・淸・滄・景・献・河間・濱・棣・濟南等郡、亦似據本書。莫譌作漠、何氏說是。然則灤亦應是雄之譌、而開則衍字耶。雄州、金屬中都︀路、今直隷保定府雄縣。又案、金史宣宗紀、貞祐︀元年十一月、大元兵徇觀州。觀州、卽景州也。又徇河間府滄州。二年正月辛未、徇彰德府。彰德府、卽相州也。又徇益都︀府。乙未徇懷州。二月壬辰、下嵐州。時山東河北諸︀郡失守、惟眞定・淸・沃・大名・東平・徐・邳・海︀數城僅存而已。河東州縣亦多殘燬。可見三道之侵掠、始於癸酉十一月、終於甲戌二月也。又案、李英傳、貞祐︀三年三月、英自淸州督糧運、救中都︀。宣宗紀、其年七月、詔河間孤城、移其軍民、就粟淸州。是淸州未殘破也。金元二史皆云淸州不下、可從。棄東平・大名不攻、秋濤案、承平日久、民不知兵。故元兵所至、望風披靡。昔安祿山擧兵、而河北二十四郡皆破、亦此類︀也。東平・大名二郡、金人有鎭帥守之。葢其人尙能守禦、故避而不攻。通世案、東平府、金屬山東西路、今山東泰安府東平州。大名府、金大名府路治、故城在今直隷大名府元城縣東。餘皆望風而拔。下令北還。又遣木華黎、回攻密州拔之。通世案、密州、金屬山東東路、今山東靑州府諸︀城縣。上至中都︀、亦來合。

訳文 八一-八五

癸酉(1213年)、八年、宋 嘉定 六年、金 衛紹王 至甯 元年、九月以後、宣宗 貞祐 元年。通世案西史は次の年とする。洪氏は「この次の年は癸酉(1213年)にあたる。前文で猴年を抜き捨てて、そのまま壬申(1212年)にした」と言う。秋、上は再びこれを破り、そのまま軍を進めて懐来に至り通世案、懐来は、遼の古い県で、金は嬀川と改め、西京路 徳興府に属する。今の直隷 宣化府 懐来県である。金の将軍 高琪金の字は原書で欠けており、秋濤が構成して補う、通世案、元史 本紀は、金の行省​ワンヤン ガン​​完顏 綱​・元帥 高琪とする。金史 ​ワンヤン ガン​​完顏 綱​​トダン イ​​徒單 鎰​​チユフ ガオチ​​朮虎 高琪​の伝、いずれも「至寧 元年(1213年)、​ガン​​綱​は縉山に戦いを視察しに行って、大敗した」と言う。しかし西史も​ガン​​綱​の名を載せておらず、であれば​トビチヤン​​脫必赤顏​原本は、根本はこれが抜けている。おそらく原書では帥の上に金元の二字があったのであろう。又案、​チユフ ガオチ​​朮虎 高琪​は、金史に伝がある。この時は鎮州防禦使、権元帥右都監とされた。モンゴル人がこの元帥であるというのは、伝聞の誤りである。 将兵ともに戦った。我が軍が勝ち、追って古北口に至り、通世案、順天府 密雲県 東北 百二十里にある。そして後文に​ケタイ​​怯台​ ​ボチヤ​​薄察​などが軍を整えて防ぎ守ったことが見え、​ヂエベ​​哲別​は居庸の南口を破り、進んで北口に至り、二将と合流し、つまりこれは古北口ではなく、居庸の北口である。​ヂヤバル​​札八兒​伝は「金人は居庸の塞と、冶鉄鋼関門を頼みとし、鉄びしを百余里に布いて、精鋭をもって守った」と言い、またこれは後文の「金人は山を掘り壁を築き、力を尽くして備えとした」の事である。元史 本紀、旧本は古の字がない。殿本ではじめて古の字があり、後世の人の無駄な増やしである。〈底本-378​エリユ アハイ​​耶律 阿海︀​伝も「勝ちに乗じて北口に宿営した」と言い、古の字はない。 畢秋帆の続資治通鑑は、元史の旧本に従い、​ヂヤバル​​札八兒​伝に拠って、居庸の備えと述べ、また北口を居庸の北口とする。西史は​ハブチヤル​​哈卜察勒​とし、義は狭い口で、口の名を載せない。そしてふところから来て追って狭い口に至り、居庸と見なすことがわかる。そうであるならばこの北の字が誤って余分に足されたことは疑いない。大いにこれを破った。死者は数え切れない。時に金人は山を掘って帥を築き、秋濤が寨の字を校改する。通世案、これは壁の字の誤りである。力を尽くして備えとした。上は​ケタイ​​怯台​​ボチヤ​​薄察​らを留め曽植案、趙柔伝に「癸酉(1213年)、太祖は兵を遣わし紫荆関を破った。安心させて人々を降した。行省​バヂヤ​​八札​は奏上して、従って涿易二州の長官とした」とある。​バヂヤ​​八札​​ボチヤ​​薄察​である。又案、​チユチタイ​​朮赤台​之子の名は​ケタイ​​怯台​であり、秘史九十五功臣名は、また​ケタイ​​客台​​ケテ​​客帖​の二人があり、​ケタイ​​怯台​と並んで発音が近い。 不知この​ケタイ​​怯台​を誰に当てるかはわからない。又案、無名氏皇氏墓志は、国朝の初め、皇は兵を​ムホアリ​​木華黎​国王に属すよう整えて、宗王​ケテ​​克忒​は、千戸を司った。​ケテ​​克忒​​ケタイ​​怯台​で、本紀は​ケテ​​可忒​とする。​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​は、太祖と同じ​ボドンチヤル​​孛端察兒​の子孫とされる。宗王と称し、つまり​ケテ​​克忒​​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​の子​ケタイ​​怯台​であることは、疑いない。通世案、元史 本紀は​ケテ​​可忒​​ボチヤ​​薄刹​とする。郝和尚​バード​​拔都︀​伝「郡王​ヒテ​​迄忒​の麾下にあった」、考異は「おそらくつまりは​チユチタイ​​朮赤台​の子​ケタイ​​怯台​であろう」と言う。​ベレジン​​伯哷津​​オンギラト​​翁吉剌特​二将​ハタイ​​哈台​​ブヂヤ​​布札​とする。軍を整えて防ぎ守り、ついに将は軍勢が別れて西に行き、紫荆口から出た。将の字と由の字は原書で欠けている。張石州が翁本に拠って増やす。通世案、紫荆関は直隷 易州 西八十里 紫荆嶺の上である。金主はこれを聞き、大将​アウトン​​奧敦​を遣わし 張石州は「元史 本紀は屯とする」と言う。通世案、金史 章宗 衛紹王の二紀 及び李英の伝に、​ウグスン ウトン​​烏古孫 兀屯​があり、おそらくこの人である。将兵は狭間を防備し、平地に至らさせなかった。それが至ったころ、我が軍勢は関を越えたのである。そこで​ヂエベ​​哲別​に命じて、軍勢を率いて居庸の南口を攻め、通世案、居庸関は、順天府 昌平州の境にある。州の西北二十四里を、居庸南口とする。南口から十五里上ったところを関城とする。また八里を上関とする。また十七里は、宣化府 延慶州の八達嶺である。嶺の上に城があり、元人はこれを居庸北口とした。その不備なところに進んでこれを破り、兵を進めて北口に至り、​ケタイ​​怯台​​ボチヤ​​薄察​の軍と合流した。 通世案、元史 本紀は「​キダン​​契丹​は誤って​ルブル​​魯不兒​等が北口を差し出し、​ヂエベ​​遮別​は遂に居庸を取り、​ケテ​​可忒​​ボチヤ​​薄刹​と会った」と言う。殿本は古北口とし、前と同じく誤っている。洪氏は「古 北 紫荆 居庸、どれも長城の狭間口である。この古の長城は、金の内地にある。金は長城を築き、更に辺りの外にあった。いわゆる「山を掘って境とし、​オング​​汪古​部の一軍がその要衝を守った」である。​オング​​汪古​はモンゴルを導いて兵を進め、険しいところを取り除いて無くし、昌・桓・撫の州はみな保てなかった。これに至り三関もことごとく失い、​チユンド​​中都︀​は危うくなった。 親征録は詳しく明らかに叙述している。西域史を合わせてこれを見ると、太祖の用兵の道がわかるようになる。元史​ヂヤバル​​札八兒​伝が、居庸を破った事を述べているのは、すべてあてにならない」と言う。やがて再び諸部精兵五千騎を遣わし、​ケタイ​​怯台​​ハタイ​​哈台​二将がひとつになって​チユンド​​中都︀​を囲んだ。囲は原書では固、秋濤が校改する。曽植案、​ハタイ​​哈台​は、おそらく九十五功臣中の​カダイ​​合歹​駙馬であろう。通世案、西史は「​カタイ​​喀台​に五千騎を率いて​チユンド​​中都︀​の往来大路を守るよう命じた」とする。​カタイ​​喀台​​ケタイ​​怯台​で、​ハタイ​​哈台​がない。上は自ら兵を率いて泳・易二州を攻め、通世案、二州は、金の属中都路。涿州は、今の属順天府。易州は、今の属直隷。 その日にこれを攻め落とした。通世案、金史 宣宗紀は、貞祐 元年(1213年)十月、大元兵が涿州を下したと載せる。関に入った月にすぐこれを攻め落としていないようである。西史は「自ら兵を引き連れて涿州を攻め、二十日にこれを破った」とし、易州が少ない。元史​ムホアリ​​木華黎​伝も、ただ涿州を攻め落としたと言い、金史と合う。又案、庚午(1210年)癸酉(1213年)の間、元史の叙事は多くが入り組んでいる。おそらく諸書を採って出来上がった文章を組み合わせ、事情を詳しく調べていない。庚午(1210年)春、​ヂエベ​​遮別​は鳥沙堡を襲いその軍勢を殺した。辛未(1211年)秋、​ヂエベ​​遮別​は再び烏沙堡を攻め落とした。これは前であって後ではない。辛未(1211年)豊利などの県を取り、豊利は、撫州の属県である。壬申(1212年)春、帝は昌・桓・撫などの州を破った。これは前であって後は誤りである。昌・桓・撫などの州を破ったのは、みな前年にある。辛未(1211年)二月、帝は金将定薛を野狐嶺で破った。壬申(1212年)春、再び金将​フシレ​​紇石烈​​ヂウヂン​​九斤​らと、獾児嘴で戦い、大いにこれを破った。獾児嘴の戦いは、つまり野狐嶺の戦であり、この戦は実は辛未(1211年)八月にあり、前文で大水濼を取ったのは烏沙堡を攻め落とす前と述べているのは、月が合わない。金将の名も疑うべきである。後文は本書に拠ったようで、年月が皆誤っている。辛未(1211年)九月、徳興府を攻め落とした。 壬申(1212年)九月、​チヤハン​​察罕​が奉聖州を取った。奉聖州は、徳興府の旧名である。明昌年間(1190-1196年)以後は府に昇格され、元は再び奉聖州に改めた。而癸酉(1213年)七月、皇子​トルイ​​拖雷​らは、再び徳興府を攻め落とした。辛未(1211年)の役は、恐らく金史に拠って誤ったのであろう。​チヤハン​​察罕​の事は、別れて他書を採っている。​トルイ​​拖雷​らの事は、本書に拠っている。本書は壬申(1212年)癸酉(1213年)両役がある。元史 本紀はその壬申(1212年)役を取り、癸酉(1213年)に書き、また原文と異なる。縉山の大敗と、居庸の防衛失敗は、癸酉(1213年)の秋にあり、金史​ワンヤン ガン​​完顏 綱​​チユフ​​朮虎​高琪の諸伝で証明できる。元史 本紀辛未(1211年)九月、すでに「居庸関の守将は遁れ去り、​ヂエベ​​遮別​はそのまま入関し、​チユンド​​中都︀​に至った」と言い、これは金史 衛紹王紀に沿った誤りである。 衛紹王は自ら主君を殺し国は窮まり、記注に亡くなったことを記し、王鶚はもとより詳述できず、紀の賛が見える。ゆえに叙事のおおざっぱなこと最も甚だしい。大安 三年(1211年)、会河堡を破った後、すぐに「居庸関の守りを失い、大元は軍を進めて​チユンド​​中都︀​に至った」といい、「東に平濼を過ぎ、南に淸滄へ至り、臨潢から遼河を過ぎ、西南に忻代に至り、みな大元に服従した」と言い、これはみな至寧 癸酉(1213年)以後の事である。ゆえに癸酉(1213年)秋、再び述べることなく居庸は守りを失った。もし居庸の守りを失ったのが辛未(1211年)にあったのであれば、癸酉(1213年)の役は、どうして北軍が紫荆から出なければならないであろうか。元史はもとより金史に拠り、辛未(1211年)秋において、​ヂエベ​​遮別​の入関を書き、癸酉(1213年)秋に至って、再び本書に拠って、懐来 居庸の戦を述べ、ゆえにこのように重複をした。はじめて軍を分けて三道とした。大太子 二太子 三太子を右軍とし、太行に沿って南に進み、保州・中山・那・洺・原書では洛とし、秋濤が校改する。磁・相・輝・衛・懐・孟等州を破り、その定・威両州の境を棄て、秋濤校本は棄其の二字を削っている。通世案、削る必要はない。中軍も「東平 大名を棄てて」の語がある。黄河に至り、河の字、秋濤が校して補った。大いに掠めて帰った。 秋濤案、元史 本紀は「この秋、兵を三道に分け、命じて皇子​チユチ​​朮赤​​チヤガタイ​​察合台​​オコタイ​​窩闊台​を右軍とし、太行に沿って南に進み、保・遂・安粛・安定・邢・洺・磁・相・衛・輝・懐・孟を取り、沢・潞・遼・沁・平陽・太原・吉・隰を掠め、汾・石・嵐・忻・代・武などの州を攻め落として帰った」と言う。元史 本紀にあってこの書に欠けているのを数えると、遂州 安粛州 安州 沢州 潞州 遼州 沁州 吉州 隰州 汾州 石州 嵐州 忻州 代州 武州 及び太原・平陽二府となる。その定州は、中山府である。通世案、保州は、金 属中都路、今の直隷 保定府 淸苑県である。中山・邢・洺・磁・相は、みな金 属河北西路で、今の属直隷である。 〈底本-379中山府は、今の定州である。邢州は、今の順徳府で、沼州は今の広平府である。磁州は、今の広平府 磁州である。相州は、唐宋の旧名で、金は彰徳府と改め、今はこれに従う。輝州は旧衛州 蘇門県で、貞祐四年(1216年)九月壬申、州に昇格し、属河北西路とした。元は輝県と改め、属衛輝路とした。今の河南 衛輝府 輝県である。衛州は、金 属河北西路で、元が改めて衛輝路を置いた。今の河南 衛輝府である。この二字は、元史は衛輝とする。続綱目の諸州名は、元史に拠らず、本書に拠り、また衛輝とし、よっておそらく輝衛は倒置している。懐孟は、金 属河東南路である。懐州は今の河南 懐慶府。孟州は、今の懐慶府 孟県。定州は、中山府であり、明昌年間に再び府に昇格し、明で再び定州と言われた。おそらくすでに取ったのを再び棄てたのであろう。威州は、金 属河北西路で今の直隷 正定府 井陘県である。​ハツサル​​哈撒兒​及び​オヂン ノヤン​​斡津 那顏​原書では幹律。文田案律を津とする。通世案、元史は​オチン ノヤン​​斡陳 那顏​とし、幹も斡とする。今よって二字を改める。西史も​オチン ノヤン​​斡陳 諾延​とし、原注に「​オンギラ​​翁吉剌​人」とある。これは​テ セチエン​​特 薛禪​の孫で、​アンチン ノヤン​​按陳 那顏​の子である。元史に拠ると​テ セチエン​​特 薛禪​伝に見える。 ​ヂユチダイ​​拙赤䚟​通世案、​ベレジン​​伯哷津​​ヂユルチダイ​​主兒赤歹​とし、原注に「​チンギス カン​​成吉思 汗​の幼子」とある。陳桱の通鑑続編では、太祖の六子は、​チユルチエダイ​​朮兒徹歹​という彼の庶子である。​ベレジン​​伯哷津​も「名の忘れられた​ナイマン​​乃蠻​の女性が、​チンギス カン​​成吉思 汗​に従い​チユルチエ​​朮兒徹​という子を生んだ」と言う。洪氏は「​チユルチエ​​朮兒徹​は、必ずや​ヂユルチ​​主兒赤​であり、​ダイ​​歹​の字音が失われた」と言う。蒙韃備録を引くと、考証が頗る詳しい。​ボチヤ​​薄刹​曽植案、​ボチヤ​​薄刹​は前文で​ボチヤ​​薄察​とする。燕州を攻め大将となり、​ヂユチダイ​​拙赤䚟​らとともに、元史にその伝がなく、他のところに名もまた見えない。みな不可解である。察するにおそらくこれは​タチヤル​​塔察兒​であろう。​タチヤル​​塔察兒​は、別名が​ベンチヤン​​倴盞​で、対音は​ボチヤ​​薄察​と近く通る。伝はそれが太祖に従い燕州を平らげたと称し、事情も合う。を左軍とし、東海に沿って、洙・沂などの城を破って帰った。 秋濤案、金は洙州がなく、おそらく灤の字の誤りであろう。元史 本紀は「皇弟​ハツサル​​哈撒兒​及び​オチン ノヤン​​斡陳 那顏​​ヂユチダイ​​拙赤䚟​​ボチヤ​​薄刹​は、左軍となり、海に沿って東に行き、蘇州 平灤 遼西の諸郡を取って帰った」と言う。元史 本紀に拠れば、この左軍は東に平灤へ至り、いまだかつて南に淄沂を渡っていないのである。沂州は、元史 本紀では中道軍が取ったうちに列ねており、どちらが正しいかまだわからない。通世案、灤州は、金の属中都路で、今の属直隷永平府である。沂は薊の壊れ字を当てる。薊州は、金の属中都路で、今の属順天府。続綱目も灤・薊を破ったとする。上と四太子はともに、諸部軍を率いて、中道より、そのまま灤・秋濤案、深とする。おそらく前文の灤の字はすでに誤って洙とされ、後人がでたらめによってこの字を改め灤としたのであろう。漢・秋濤案、河北と山東に漢州はなく、字は莫とする。おそらく莫を漠と誤り、さらに漠を漢と誤ったのであろう。河間・開・通世案、何氏は開がその次でないことをもって、益都の後文にこれを移した。だがもし元史の順番に従えば、深開は、みな景献の下に移すべきであろう。開は益都の後文にあり、その順番が適切であるとは限らない。今しばらく古いままとする。淸・滄・景・献・済南・浜・棣・益都原書は相が多く、秋濤が校改する。などの城を破った。秋濤案、元史 本紀は「帝と皇子​トルイ​​拖雷​は中軍となり、雄・覇・莫・安・河間・滄・景・献・深・祁・蠡・冀・恩・濮・開・滑・博・済・泰安・済南・浜・棣・益都・淄・濰・登・萊・沂などの郡を取った」と言い元史 本紀にありこの書に欠けているものを数え上げると、雄州 覇州 祁州 蠡州 冀州 恩州 濮州 滑州 博州 済州 泰安州 溜州 濰州 登州 萊州 沂州、の全部で十六州となる。 その安州は、右軍とともに取ったところで二重に出る。その解釈についてはまだ詳しくわからない。また元史 本紀は「この年、河北の郡県をことごとく攻め落とし、ただ​チユンド​​中都︀​・通・順・真定・淸・沃・大名・東平・徳・邳・海州十一城は降っていない」と言う。この淸州がまだ落ちていないのは、この書が中軍は淸・滄を破ったと言うのと、元史の文とは合わない。通世案、深・莫・河間・淸・滄・景・献はみな金 属河北東路であり、今の属直隷である。深州の城跡は、今の深州 南二十五里にある。莫州の城跡は、今の河間府 任邱県 北三十五里にある。河間府、今も元のままである。淸州は、今の天津府 靑県である。滄州の城跡は、今の天津府 滄州 東南四十里にある。景州は、大安年間(1209年-1211年)に更に観州になった。今の河間府 東光県である。献州は、今の河間府 献県である。開州は、金 属大名府路であり、今の属直隷大名府である。済南・浜・棣・益都は、みな金 山東 東路で、今の山東である。済南府は、今も元のままである。浜州は、今の属武定府である。棣州は、今の武定府である。益都府は、今の靑州府である。続綱目は雄・漠・淸・滄・景・献・河間・浜・棣・済南などの郡とし、これも本書に拠っているようである。 莫を誤って漠とし、何氏の意見は正しい。そうであるならば灤も雄の誤りとすべきであり、よって開は余分な字であろうか。雄州は、金 属中都路で、今の直隷 保定府 雄県である。又案、金史 宣宗紀は、貞祐 元年(1213年)十一月、大元の兵は観州を攻め取った。観州は、景州である。また河間府 滄州も攻め取った。二年 正月 辛未、彰徳府を攻め取った。彰徳府は、相州である。また益都府も攻め取った。乙未に懐州を攻め取った。二月壬辰、嵐州を下した。時に山東 河北 諸郡は守りを失い、ただ真定・淸・沃・大名・東平・徐・邳・海の数城がわずかにあるのみとなった。河東州の県も多くが焼き滅ぼされた。三道の侵掠は明らかにすることが可能であり、癸酉(1213年)十一月に始まり、甲戌(1214年)二月に終わったのである。又案、李英伝、貞祐 三年(1215年)三月、英は淸州から食料を運ぶのを監督して、​チユンド​​中都︀​を救った。金史 宣宗紀、その年の七月、河間の孤城を助け、その軍民を移し、穀物を淸州に留めた。この淸州はいまだ破られずに残ったのである。金元二史どちらも淸州が下っていないと言い、従ってよい。東平・大名を棄てて攻めず、秋濤案、平和が長く続き、民は兵を知らなかった。ゆえに元兵の至るところ、眺めるだけで道を開いてなびいたのである。むかし安禄山が兵を挙げ、河北二十四郡をみな破ったのも、この類である。東平・大名二郡は、金人は兵営と将軍がありこれを守った。おそらくその人がなお能く守り防いだので、避けて攻めなかった。通世案、東平府は、金 属山東 西路であり、今の山東 泰安府 東平州である。大名府は、金 大名府 路治で、城跡は今の直隷 大名府 元城県の東にある。残りはみな眺めてばかりなので攻め落とした。下して令北に帰ることを命じた。再び​ムホアリ​​木華黎​を遣わし、密州を囲んで攻めこれを落とした。通世案、密州は、金 属山東 東路、今の山東 靑州府 諸城県である。上は​チユンド​​中都︀​に至り、ただ来て合流した。



〈史45-170下1甲戌,上駐營于中都北壬甸。金丞相高琪與其主謀曰:聞彼人馬疲病,乘此決戰

甲戌九年、宋嘉定七年、金貞祐︀二年。通世案、西史誤作雞年。上駐營於中都︀北壬甸。秋濤案、本紀云「駐蹕中都︀北郊」。金丞相高琪通世案、高琪傳、是時爲平章政事。與其主謀曰「聞彼人馬瘦病。乘此決戰、可乎」。丞相完顏福︀興通世案、承暉、本名福︀興、金史有傳。是時爲平章政事兼都︀元帥、尋進右丞相。曰「不可。我軍、身在都︀城、家屬多居諸︀路。諸︀原作都︀、秋濤校改。其心向背未可知。戰敗必散。苟勝、亦思妻子而去。祖︀宗社︀稷安危、在此擧矣。當熟思之。今〈底本-380 莫若遣使議和。待彼主還軍、主原作吉、秋濤校改。更爲之計、如何」。金主然之、遣使求和、因獻衞紹王公主、通世案、金史宣宗紀所謂公主皇后。令福︀興來送上、至野麻池而還。通世案、祕史云「王京親送至莫州撫州山觜行辭回了。軍人將金銀等物、用熟絹拴定、儘力駄去了」。王京卽完顏之轉、謂完顏福︀興。莫州、疑衍。

訳文 八五-八六

甲戌(1214年)九年、宋 嘉定 七年、金 貞祐 二年。通世案、西史は誤って鶏年とする。上は​チユンド​​中都︀​の北の郊外で​ちゅうひつ​​駐蹕​した。秋濤案、元史 本紀は「​チユンド​​中都︀​の北郊に​ちゅうひつ​​駐蹕​した」と言う。金の丞相 高琪は通世案、高琪伝、この時は平章政事になっていた。その主と謀って「彼らの人馬は痩せて病んでいると聞く。これに乗じて決戦しよう」と言った。丞相 ​ワンヤン フシン​​完顏 福︀興​通世案、承暉は、本名は​フシン​​福︀興​で、金史に伝がある。この時に平章政事 兼 都元帥となっていて、間もなく右丞相に進んだ。「良くない。我が軍は、身は都城にあり、家族の多くが道筋に住んでいる。諸は原書では都とし、秋濤が校改する。その心の向背はわからない。戦いに敗れれば必ず散る。もし勝ったとしても、妻子を思って去る。祖宗の社稷の安危は、この振る舞い次第である。よく考えるべきであろう。〈底本-380今は使いを遣わし和を話し合うかのように謀れ。彼らの主人が軍を帰すのを待って、 主は原書では吉、秋濤が校改する。さらにこれを相談するのは、どうであろうか」と言った。金主はその通りであるとして、使いを遣わして和を求め、そのために衛紹王公主を献じ、通世案、金史 宣宗紀のいわゆる公主皇后である。​フシン​​福︀興​に命じて上に送って来て、​エマチ​​野麻池​に至りそして帰った。通世案、秘史は「​ワンキン​​王京​自ら送って莫州撫州の山のはしに至り言葉を述べて帰った。軍人は金銀等物を受けて、熟絹を用いて縛り、力の限り馬に荷を載せて去った」と言う。​ワンキン​​王京​​ワンヤン​​完顏​の転訛で、​ワンヤン フシン​​完顏 福︀興​を言う。莫州は、おそらく余分であろう。



〈史45-170下7夏四月,金主南遷汴梁,留其太子守中都,以丞相完顏福興、左相秦忠爲輔

夏四月、〈東方學デジタル圖書館-78張石州曰「紀作五月」。通世案、西史云「是年已四閱月」。洪氏曰「則五月矣。本紀合、錄不合」。金史宣宗紀云「五月壬午、車駕發中都︀、七月至南京」。金主南遷汴梁、 遷原作還、秋濤校改。通世案、卽金南京、今河南開封府。留其太子、守中都︀、以丞相〈[#「丞相」は底本では「丕相」]〉完顏福︀興左相秦忠爲輔。秋濤案、史作參政抹撚盡忠。通世案、抹撚盡忠、本名彖多、金史有傳。是時爲尙書左丞、非左相、亦非參知政事。尋爲平章政事兼左副元帥。金主行距涿。契丹軍在後、至良鄕。 通世案、縣名、金屬中都︀大興府、今屬順天府、在府西南七十里。金主疑之、欲奪其原給鎧馬還營通世案、營當作官。續綱目云「命扈衞乣軍、元給鎧馬、悉復還官」。 契丹衆驚、遂殺︀主帥〈[#「主帥」は底本では「主師」]〉素溫通世案、伯哷津作鮮袞、通鑑輯覽作索袞、注云「舊作捜溫」。而叛去、推斫荅斫原作聽、秋濤據本紀改。翁本作砍。 比涉兒・札剌兒爲帥、通世案、伯哷津作志荅・比涉兒・阿剌兒。通鑑輯覽作卓達・必什哷勒・札拉喇、注云「舊作札達・筆什爾・査剌兒」。而還中都︀。福︀興聞變、軍阻廬溝、通世案、在順天府西南四十里、良鄕縣東三十里。使勿得渡。斫荅遣裨將塔塔兒、率輕騎千人、潛渡水、腹背擊守橋眾、腹原作服、通世校改。大破之、盡奪衣甲器︀械牧馬之近橋者︀。通世案、西史云「盡奪軍裝馬匹、掠中都︀一帶牧羣、驅逐守吏」。元史所載「辛未十月、襲金羣牧監、驅其馬而還」。或卽本此事而誤傳也。由是契丹軍勢漸振。先是耶律留哥以中國多故、據有東京・咸平等郡通世案、金咸平路咸平府、在今盛京奉天府鐵嶺縣東北四十里。自稱遼王。斫荅・比失兒〈[#「比失兒」はママ。他の何氏校注本も「比失兒」。四庫全書存目叢書本は「比涉兒」]〉等、遣使詣上行營納款〈[#「款」は底本では「上/示+欠」。他の何氏校注本は「款」]〉、又求好遼王。時遼王亦來降。上命爲元帥元原作瓦、秋濤校改。令居廣寧府。通世案、金屬北京路、今盛京錦州府廣寧縣。太祖︀紀、木華黎降廣寧府、及留哥來朝、在乙亥年。留哥傳、與按陳那顏盟、在壬申年、入覲在乙亥年、招撫廣寧、在丙子年、皆與此異。續綱目云「丙子夏四月、遼王留哥降蒙古。蒙古主以爲元帥、令居廣寧府」。金主之南遷也、以招討也奴曾植案、當作乜奴、卽萬奴也。爲咸平等路宣撫、復移治於忽必阿蘭。至是亦以眾來降、仍遣子鐵哥入質。旣而復叛、自稱東夏王。通世案、西史此下、有「所以然者︀、由帝攻取金地已多、金主復嚴刻、故衆皆離心、各據地自立」數語。洪氏曰「此數語、必是拉施特增入。歸潛志云「宣宗喜刑法、政尙威嚴」。此語誠非無據」。

訳文 八六-八七

夏四月、張石州は「元史 紀は五月とする」と言う。通世案、西史は「この年すでに四か月が過ぎた」と言う。洪氏は「つまり五月である。元史 本紀は合っており、親征録は合っていない」。金史 宣宗紀は「五月壬午、車駕が​チユンド​​中都︀​を発し、七月に南京に至った」と言う。金主は汴梁に南遷し、遷は原書では還、秋濤が校改する。通世案、これは金の南京で、今の河南 開封府である。その太子を留め、​チユンド​​中都︀​を守り、丞相​ワンヤン フシン​​完顏 福︀興​には左相​ヂンヂヨン​​秦忠​を補佐としてつけた。秋濤案、元史は参政の​モニアン ヂンヂヨン​​抹撚 盡忠​とする。通世案、​モニアン ヂンヂヨン​​抹撚 盡忠​は、本名は彖多で、金史に伝がある。この時に尚書左丞となり、左相ではなく、また参知政事でもない。間もなく平章政事 兼 左副元帥となった。金主は涿に去った。​キダン​​契丹​軍はその後、良郷に至った。通世案、これは県名であり、金 属​チユンド​​中都︀​ 大興府で、今の属順天府であり、府の西南七十里にある。金主はこれを疑い、おおもととなる給与や鎧や馬を奪うことを望んで住居に帰り 通世案、営を官とする。続綱目は「供をして​ヂウ​​乣​軍を防ぐよう命じて、元朝は鎧と馬をあてがい、ことごとく再び役目に戻った」と言う。​キダン​​契丹​の軍勢は驚き、遂に総大将の​スウン​​素溫​を殺し通世案、​ベレジン​​伯哷津​​セングン​​鮮袞​とし、通鑑輯覧は​ソグン​​索袞​とし、注は「以前は​ソウウン​​捜溫​とした」と言う。そして叛き去り、​ヂヤダ​​斫荅​斫は原書では聴、秋濤が元史 本紀に拠って改める。翁方綱本は砍とする。​ビシエル​​比涉兒​​ヂヤラル​​札剌兒​を推して将軍とし、通世案、​ベレジン​​伯哷津​​ヂダ​​志荅​​ビシエル​​比涉兒​​アラル​​阿剌兒​とする。通鑑輯覧は​ヂヨダ​​卓達​​ビシユレル​​必什哷勒​​ヂヤララ​​札拉喇​とし、注は「以前は​ヂヤダ​​札達​​ビシユル​​筆什爾​​チヤラル​​査剌兒​とした」と言う。そして​チユンド​​中都︀​に戻った。​フシン​​福︀興​は変を聞き、軍は廬溝で阻み、通世案、順天府の西南四十里、良郷県の東三十里にある。 渡れないようにさせた。​ヂヤダ​​斫荅​は副将の​タタル​​塔塔兒​を遣わし、軽騎千人を率いて、密かに川を渡り、前後から橋を守る人々を撃ち、腹は原書では服、通世が校改する。大いにこれを破り、橋に近づく者からことごとく衣 甲 器械 牧馬を奪った。通世案、西史は「軍装 馬匹をことごとく奪い、​チユンド​​中都︀​一帯の牧羣を掠め、駆けて守衛を追い払った」と言う。元史が載せるところは「辛未(1211年)十月、金の羣牧監を襲い、その馬を追い払って帰った」である。あるいは根本のこの事が誤って伝わったのであろう。これにより​キダン​​契丹​の軍勢は次第に揺れ動いた。先ずこの​エリユ リウゲ​​耶律 留哥​は国の中央で災いが多いことを理由に、東京・咸平などの郡を抑えて通世案、金の咸平路 咸平府は、今の盛京 奉天府 鉄嶺県 東北四十里にある。 自ら遼王を称した。​ヂヤダ​​斫荅​​ビシエル​​比涉兒​らは、使いを遣わして上の宿営に行ってよしみを通じ、また遼王にもよしみを求めた。時に遼王も来降した。上は命じて元帥とし元は原書では瓦、秋濤が校改する。広寧府に居させた。通世案、金 属北京路で、今の盛京 錦州府 広寧県である。元史 太祖紀は、​ムホアリ​​木華黎​が広寧府を降したこと、及び​リウゲ​​留哥​が来朝したことは、乙亥年(1215年)にある。​リウゲ​​留哥​伝は、​アンチン ノヤン​​按陳 那顏​と誓ったのが、壬申年(1212年)にあり、参内と謁見は乙亥年(1215年)にあり、広寧が帰順したのは、丙子年(1216年)にあり、みなこれと異なる。続綱目は「丙子(1216年)夏四月、遼王​リウゲ​​留哥​はモンゴルに降った。モンゴルの主は元帥として用い、広寧府に居させた」と言う。金主は南遷し、招討使の​エヌ​​也奴​曽植案、​メヌ​​乜奴​とし、つまり​ワンヌ​​萬奴​である。咸平等路の宣撫とし、再び移って​フビアラン​​忽必阿蘭​で治めた。ここに至りまた人々が来降したことをもって、やはり子​テゲ​​鐵哥​を遣わして質を入れた。やがて再び叛き、自ら東夏王を称した。 通世案、西史はこの後文に、「そうである理由は、帝が金の地をすでに多く攻め取ったので、金主が厳しくむごいことを繰り返し、ゆえに人々はみな心が離れ、各々が土地を占拠して自立した」の数語がある。洪氏は「この数語は、必ずやこれは​ラシツド​​拉施特​が増入したものであろう。帰潜志は「宣宗は刑法を喜び、政治はなおも威厳があった」と言う。この語は実に根拠がないことではない」と言う。



〈史45-170下20五月,金太子留福興、秦忠守中都,亦走汴梁

五月、秋濤案、紀作七月。通世案、西史作「是年已五閱月」、則六月矣。與史錄皆不同。金史宣宗紀云「八月庚子皇太子至自中都︀」。葢七月金帝召太子、踰月至南京也。金太子、〈東方學デジタル圖書館-79原脫此字、秋濤 補。留福︀興・秦忠等、守中都︀、亦走汴梁。上以契丹眾將來歸、遂命散只兀兒木合拔都︀ 曾植案、紀作三摸合。通世案、石抹明安傳、作三合拔都︀。西史作撒兒助特人撒木哈。撒兒助特、史錄作散只兀。史抄兀兒傳、誤作散只兒。類︀編皇后傳引錄、亦作散只兒、今此文亦衍兒字。而木上脫撒音字。或兒字應卽撒若三之譌。契丹先鋒將明安太保通世案、元史作石抹明安。石抹氏、契丹著︀姓也。明安傳「中都︀旣下、加太傅〈[#「太傅」は底本では「太傳」。後文も同じ]〉」。考異云「和林廣記、稱太保明安。此云太傅、恐誤」。本書稱太〈底本-381 保、與和林廣記合。兄弟等爲鄕導、引我軍合之。至則與斫荅等併力圍中都︀。通世案、中都︀之陷、金史元史、皆作乙亥年事。此間脫乙亥二字。西史亦不載年分。〈東方學デジタル圖書館-80金主以點檢二字原倒置、通世校改。說見下。慶壽・元帥李英、原作季英。秋濤案、金史歸潛志作李英。通世案、金史宣宗紀、作元帥左都︀監烏古論慶壽、御史中丞李英。二人皆有傳。慶壽傳、宣宗遷汴、改右副點檢、閱月改左副點檢。三年、中都︀危急、改元帥左都︀監云云。運糧分道、還救中都︀。原作東都︀、秋濤校改。齎糧人八斗。英自負以勵眾。慶〈史45-171上1壽至涿州旋風寨通世案、石抹明安傳作宣封寨。李英至霸州靑戈、 通世案、霸州、金屬中都︀路。今屬順天府、在府南二百十里。皆爲我軍所獲。通世案、李英之敗、金元二史、皆繫乙亥年五月。旣絕其糧、中都︀人自相食。福︀興自毒死、秦忠亦委城走。明安太保入據之、遣使獻捷。通世案、中都︀之陷、金元二史、皆繫乙亥年五月。 上時駐桓州、原作桓丹、秋濤據本紀改。遂命忽都︀忽那顏・曾植案、祕史作失吉忽都︀忽、訶額侖太后養子也。通世案、蒙古源流作錫吉呼圖克、伊遜烏爾魯克之一也。祕史卷四、太祖︀助金軍破塔塔兒時、於營中拾得小兒、以與母訶額侖、使養之、命名失乞忽都︀忽、喚做第六兒子。多遜則云「失吉庫圖庫係成吉思汗征塔塔兒時所掠童子。其時孛兒台夫人尙未生子、使育之、遂視︀如子」。乃是孛兒台養子、與祕史異。與雍古兒寶兒赤・原作寶光赤。曾植案寶光赤、祕史蒙語作保兀兒赤、解曰廚子。然則光是兀字或兒字之譌。通世案、祕史卷四「汪古兒管了飮膳」、卷十「蒙格禿乞顏的子汪古兒厨子」。元史語解「博囉赤、厨官也。卷十作博兒赤、卷十八作博而赤、卷九十九作博爾赤、卷一百三十四作賓︀兒赤」。此光當作兒無疑。今改。阿兒海︀哈撒兒三人、檢視︀中都︀帑藏。時金留守哈答國和等、通世案、祕史作金臣合答。奉金幣、爲拜見之禮。雍古兒・哈撒兒受之。秋濤案、雍古兒下、疑脫阿兒海︀三字。獨忽都︀忽拒不受、將哈答其物北來哈答下、秋濤補及字。上問忽都︀忽曰「哈答等嘗與你物乎」。對曰「有之。未敢受之」。上問其故。對曰「臣嘗與哈答言「未陷城時、寸帛〈東方學デジタル圖書館-81尺縷、皆金主之物。今旣城陷、悉我君物矣。汝又安得竊我君物爲私惠乎」」。私惠、原作和意、秋濤校改。上正佳之、秋濤改佳爲嘉。以爲知大體。而重責雍古兒・阿兒海︀哈撒兒等、 秋濤案、自「金主以檢點」至此、舊本皆在甲戌年圍中都︀之下。今案、中都︀之陷、大事也。金史元史、皆作乙亥年事。此錄則兩載於甲乙二年。此云「中都︀人自相食、福︀興自毒死、秦忠亦委城走、明安太保入據之」。乙亥年云「完顏福︀興仰藥死、抹撚盡忠棄城走、明安入守之」。案上文載「左相秦忠爲輔」、及「太子命秦忠守中都︀」。皆作秦忠、與此條合。而紀事亦此條較詳。葢此條、乃錄之原文、錯簡入甲戌年。後人因其與史不合、復於乙亥年內、臆增三語、故致一事而復見兩年耳。今定此條入乙亥年、其複出之三語、則刪去不錄云。通世案、何氏校本、以「金主以點檢」以下二百四十六字、移於乙亥年「戰於霸州敗之」之下。然李英事重複、而文理更不接續。且西史亦以金主云云承「圍中都︀」句、與本書同。葢脫必赤顏原文次第本如此、非此本之錯簡。故今猶仍舊次、而年月之誤、則別論之。至所謂後人臆增、則乙亥全文皆然、不止何氏所刪三語。見於後。〈史45-172上1不珍也。通世案、此語難︀解。不賞之義乎。或有誤脫。西史則全無此語。哈答因見其孫榮山而還。通世案、見其二字原倒置、今校正。西史云「哈荅挈其孫尼克𧶼、見帝而返」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉。洪氏曰「尼克𧶼卽榮山之轉音也」。時金通州元帥七斤率眾來降。原作也斤。秋濤案、也斤仍當作七斤。通世案、通州、金屬中都︀路、今屬順天府、在府東四十里。七斤、姓蒲察氏。金元二史、七斤之降、在乙亥正月。惟張復・張鑊柄・眾哥・也思元帥、據守信安不下。曾植案、張復、卽高陽公張甫。眾哥卽河間公移剌重嘉努、亦作重格、舊作眾家奴。兩人皆在九公之列。其守信安事、具金史。張鑊柄、疑卽張進。後金人封爲滄海︀公、與甫同守信安者︀。獨也思無攷耳。張鑊柄之稱、正如郭蝦蟆葛鐵槍、當時軍中有此習。通世案、張復之張、原作帳。今從沈氏說校改。伯哷津作張忽・張忽斤・衆格・阿失林。信安縣名、金屬中都︀路霸州。故城在今順天府霸州東五十里。又案、金史紀傳、張甫初降蒙古、涿州刺史李瘸驢招〈底本-382 之。興定元年正月、甫與張進倶來降。二年八月、河北行省侯摯以李瘸驢權中都︀路經略使、甫爲副使。三年閏三月、瘸驢爲中都︀東路經略使、自雄霸以東皆隷之。瘸驢降蒙古、甫代之、張進爲中都︀南路經略使。移剌眾家奴積戰功、累官河間路招撫使。四年二月、眾家奴封河間公、統河間獻蠡安深州、甫封高陽公、統雄霸州靜海︀寶抵武淸安次縣。元光元年、眾家奴所部州縣皆失守、移屯信安、乃甫境內。甫奏改信安爲鎭安府、二人合兵、復取河間府及安蠡献三州。二年、同保鎭安、各當一面。傳贊有滄海︀公張進易水公張進、葢進亦後爲郡公也。據史文、則三人守信安、在興定以後。然大金國志貞祐︀三年條云「燕南雄霸數州、乃三關舊地、塘濼深阻、兵不能入。朝中遣將張甫張進二人、屯信安軍以守之。北距燕山百八十里」。是張甫未降蒙古之前、旣有守信安之事、而金史略之也。〈東方學デジタル圖書館-82上駐軍魚兒濼通世案、通鑑輯覽云「在今鑲黃旗牧廠、故興和城西。金史地理志、柔遠縣有大魚深、卽此」。魚兒濼見於西遊記。長春過葢里泊、北行越沙陀、半月而至。亦見張德輝紀行、曰魚兒泊。德輝自昌州北廢城、行十一驛而至。泊之東涯、有公主離宮。沈子敦曰「此公主不知何人所尙。葢離宮、本是帝所居、後以賜公主耳。魚兒濼直昌撫等州沙漠之北。地志家以興和城之濼常之、殊誤。太祖︀不避暑︀于撫州竟也」。西史此句上、有「犬年」字紀年全誤。命三合拔都︀、 命原作合、秋濤校改。通世案、本紀作撒里知兀䚟三摸合拔都︀魯。卽上文散只兀兒木合拔都︀、續綱目作三哥拔都︀、又作撒沒喝︀。大金國志、引宋通鑑、作撒沒曷。帥蒙古軍萬騎、由西夏、西夏原作夏西。通世案、二字誤倒。元史續綱目、皆作西夏。今因改。抵京兆、出潼關、破嵩汝等郡、直趨汴梁、至杏花營、大掠河南、回至陝州。通世案、京兆府、今陝西西安府、潼關、在今陝西同州府華陰縣東四十里河南陝州閿鄕縣西六十里。嵩汝陝三州、金屬南京路。嵩州、今河南河南府嵩縣。汝陝皆今河南直隸州。杏花營、在金南京西二十里。適河冰合、冰原作兵、張石州校改。遂渡而北。秋濤案、元人於乙亥丙子兩年、倶遣將由西夏、入關中、攻潼關。乙亥則攻潼關不下、由嵩山小路趨汴京、卽此年事。丙子則攻破潼關、金人旋復取之。乙亥年事、金宣宗紀、元太祖︀紀、倶不載、而見於諸︀列傳中。丙子年事、則二紀〈東方學デジタル圖書館-83咸載之。此書復無丙子年事。葢互有詳略。惟乙亥年事、元人尙未得潼關、而此云「出潼關」葢由嵩山小路、繞潼關之外、故云然也。通世案、潼關兩役、實一役也。合考金史宣宗紀、胥鼎、完顏仲元、必蘭阿魯帶、尼龐古蒲魯虎諸︀傳、貞祐︀四年八月、元兵攻延安。九月、以簽樞密院事永錫爲御史大夫、領兵赴陝西、便冝從事。十月、招射生獵戶、練︀習武藝、知山徑者︀、分屯陝虢要地。命遙授知歸德府事完顏仲元、率山東花帽軍、徙軍盧氏、改商州經略使。元兵攻潼關、戍〈[#「戍」は底本では「戌」]〉兵皆潰。西安軍節︀度使尼龐古蒲魯虎禦戰、兵敗死焉。戊辰、元兵徇汝州。仲元軍趨商虢、復至嵩汝、皆弗及。河東行省胥鼎、聞元兵已〈[#「已」は底本では「己」]〉越關、庚午、遣潞州元帥左監軍必蘭阿魯帶、領軍一萬、孟州經略使徒單百家、領軍五千、由便道濟河、赴關陝、自將平陽精︀兵、赴援京師。十一月壬午、胥鼎入京師、拜尙書左丞、兼樞密副使。乙酉、元兵至澠池。右副元帥蒲察阿里不孫軍潰而逃、阿魯帶亦被創。元兵過陝州、由三門集津北渡而去。戊戌〈[#「戊戌」は底本では「戌戌」]〉、華州元帥府復潼關。十二月癸亥、元兵攻平陽、鼎遣兵拒戰。元兵不利、乃去。仲元上書有曰「近日敵兵由禁坑出、遂失潼關」。禁坑一名禁谷、在今潼關廳南。是元兵由間道遶出、以破潼關也。元史本紀云「丙子秋、撒里知兀䚟三摸合拔都︀魯率師、由西夏、趨關中、遂越潼關、獲金西安軍節︀度使尼龐古蒲魯虎、拔汝州等郡、抵汴京而還」。葢三合拔都︀、以丙子八月入陝西、十月越潼關、十二月北還、金史紀傳可證也。本書叙事、皆與兩史合、而年月不詳。觀其接七斤來降云云之文、似誤爲乙亥年事。大金國志云「貞祐︀三年八月、大軍自河東渡河、攻潼關、不能下。乃由嵩山小路、趨汝州。遇山澗、輙以鐵鎗相鎻、連接爲橋以渡。于是潼關失守。金主急召花帽軍于山東。十月、大軍至杏花營、距汴京二十里。花帽軍擊敗之。大軍復取潼關、自三門析津、乘河氷合、布灰引兵而渡。自是不復出」。所謂大軍、皆言蒙古兵也。其云「不能下」、則與金元二史微異。然下又云「于是潼關失守」。則亦非潼關終不下也。云「由嵩山小路」、則非遠潼關之間道、乃越潼關後趨汝州之徑路也。云「召花帽軍于山東」、則命完顏仲元入援之事也。其與丙子之役爲一事、無可疑者︀。而誤爲乙亥年事、與本書同。續綱目乃於乙亥年、併取本書金志、叙三合拔都︀南侵之事、而省「潼關失守」「自是不復出」二句。又於丙子年、依金元二史、云「冬十月、蒙古兵克金潼關、次嵩汝間云云」。則依金志紀年之誤、遂以一事分爲兩事。是沿誣而更誤也。畢氏續通鑑、亦襲續綱目之誤。金元帥那答忽監軍斜烈、以北京來降。秋濤案、北京字恐有誤。曾植案、那答忽卽寅荅虎、斜烈卽完顏昔烈、今譯改錫琳者︀也。那答忽、原文葢作邪答忽。邪寅音近。此書邪那二字往往互訛。通世案、續綱目甲戌九月條云「木華黎攻金北京。北京裨將完顏昔烈高德玉等、殺︀守將銀靑、推寅答虎爲帥、遂擧城降」。與此條合。然伯哷津書云「撒木哈渡黃河、趨西京。金二將守西京、曰寅荅爾、曰罕撒兒撒烈、出城迎降。撒木哈受降而回」。洪氏曰「卽那塔忽斜烈二人。錄作北京、係誤」。然則寅答虎昔烈、或以爲北京將、或以爲西京將、本是傳聞異辭。而淺〈底本-383 人唯據元史、妄改西京爲北京也。又案、金史奧屯襄傳云「貞祐︀三年正月、襄爲北京宣差提控完顏習烈所害」。習烈卽昔烈。所謂銀靑、卽奧屯襄也。元史木華黎傳、亦作銀靑。錢氏考異云「銀靑、葢擧其官名、謂銀靑光祿大夫、非人姓名也」。寅答虎之降、元史紀傳皆以爲乙亥年事。續綱目繫於甲戌年、葢因蘇天爵名臣事略而誤也。上遣脫脫欒闍兒必、帥蒙古契丹漢︀軍南征、通世案、元史木華黎傳「詔木華黎、以張鯨總北京十提控兵、從掇忽闌、南征未附州郡」。石抹也先傳「命也先、副脫忽闌闍里必、監張鯨等軍、征燕南未下州郡」。石抹孛迭兒傳「從奪忽闌闍里必、徇地山東大名」。脫脫欒、下脫當作忽。續綱目作奪忽蘭撒里必。撒當作撤。撤里必、闍里必、卽闍兒必、又卽祕史之扯兒必、護衞散班之長也。伯哷津作蒙格力克之子脫侖扯兒必、脫侖扯兒必見祕史。降眞定破大名、至東平、阻水不克、大掠而還。金人復取之。通世案、自太祖︀十年乙亥至十四年己卯、無降眞定、破大名、掠東平之事。合考金元二史本紀諸︀傳、乙亥十二月、史天倪圍大名破其城、丙子十二月、元兵徇大名府、然其前後不載眞定東平之事。丁丑秋、木華黎將蒙古乣漢︀諸︀軍南征、拔遂城蠡州、冬徇中山府、下磁州、克大名府、遂東定益都︀・処・沂・登・萊・濰・密等州。是癸酉以來大征伐也。然亦有大名、而無眞定東平。唯十五年庚辰、木華黎徇地至滿城、金恆山公武仙擧眞定來降。六月、遣楊在攻下大名。七月、東平嚴實籍彰德・大名・磁・洺・恩・博・滑・濬等州戶三十萬來降。十一月、進攻東平、不克、留嚴實及梭魯忽禿守之、撤圍趨洺州、分兵徇河北諸︀郡。大抵似與本書所記合。然率軍者︀木華黎、而非脫侖扯兒必。又在脫侖受命後五年。疑本書此文有奪誤。又案、自「不珍也」以下至此、百五十二字、舊本誤入辛巳年「攻玉龍傑赤」之下、而辛巳年「之城云云」以下八十四字、則亦誤入於此。今依西史次第、各復其原。何氏校本、始正此錯簡、李沈二君皆從之。然「不珍也云云」十三字、何氏葢苦其解、遂誤以不珍也哈答爲西域城名、存置玉龍傑赤〈[#「赤」は底本では「亦」]〉下、而刪「因其見孫榮山而還」八字、以「時金通州」以下、接「哈撒兒等」句。今從洪氏說校正。又何氏割「金元帥那答忽」以下五十四字、入於「取城邑、凡八百六十有二」之下、云「據諸︀史年月考正」。然那答忽斜烈之來降、降三合拔都︀也。語句緊接、不便割裂。當從舊次。

訳文 八七-九二

五月に、秋濤案、元史 紀は七月とする。通世案、西史は「この年すでに五か月が過ぎていた」とし、つまり六月である。史録ともにみな同じでない。金史 宣宗紀は「八月庚子に皇太子が​チユンド​​中都︀​から至った」と言う。おそらく七月に金帝が太子を呼び寄せたのは、翌月に南京に至ったことであろう。金の太子は、原書はこの子の字が抜けており、秋濤が補う。​フシン​​福︀興​​ヂンヂヨン​​秦忠​らを留め、​チユンド​​中都︀​を守り、やはり汴梁に走った。上は​キダン​​契丹​の将兵が身を寄せて来たことをもって、遂に​サンヂウルムカ バード​​散只兀兒木合 拔都︀​曽植案、元史 紀は​サンモハ​​三摸合​とする。通世案、​シモ ミンガン​​石抹 明安​伝は、​サンハ バード​​三合 拔都︀​とする。西史は​サルヂユト​​撒兒助特​​サムハ​​撒木哈​とする。​サルヂユト​​撒兒助特​は、史録は​サンヂウ​​散只兀​とする。元史 ​チヤウル​​抄兀兒​伝は、誤って​サンヂル​​散只兒​とする。元史類編 皇后伝は録を引いて、また​サンヂル​​散只兒​とし、今のこの文も余分な児の字がある。そして木の上に撒の音字が抜けている。あるいは児の字はきっと撒もしくは三の誤りであろう。​キダン​​契丹​の先鋒の将​ミンガン​​明安​太保通世案、元史は​シモ ミンガン​​石抹 明安​とする。​シモ​​石抹​氏は、​キダン​​契丹​で目立つ姓である。​ミンガン​​明安​伝「​チユンド​​中都︀​はすでに下り、太傅に当たった」。二十二史考異は「和林広記は、太保​ミンガン​​明安​と称する。これがいう太傅は、おそらく誤り」と言う。〈底本-381本書は太保と称し、和林広記と合う。 兄弟らに命じて郷導とし、我軍を引いてこれと合流した。至って​ヂヤダ​​斫荅​らと力を合わせて​チユンド​​中都︀​を囲んだ。通世案、​チユンド​​中都︀​の陥落は、金史と元史、どちらも乙亥年(1215年)の事とする。この間に乙亥の二字が抜けている。西史も年の区別を載せていない。金主は点検の二字は原書では倒置し、通世が校改する。意見は後文で見る。慶寿と元帥の李英を、原書は季英とする。秋濤案、金史 帰潜志は李英とする。通世案、金史 宣宗紀は、元帥左都監の​ウグルン​​烏古論​慶寿と、御史中丞の李英とする。二人とも伝がある。慶寿伝に、宣宗が汴京に遷り、右副点検と改め、月が過ぎて左副点検と改めた。貞祐 三年(1215年)、​チユンド​​中都︀​は極めて危うくなり、元帥左都監に改め云云とある。食糧を運び道を分け、戻って​チユンド​​中都︀​を救った。原書は東都とし、秋濤が校改する。 一人当たり八斗を与えた。人々を励ますことで李英は自信を持った。慶寿は涿州の旋風寨に至り通世案、​シモ ミンガン​​石抹 明安​伝は宣封寨とする。李英は覇州靑戈に至り、通世案、覇州は、金 属中都路である。今の属順天府で、府の南二百十里にある。みな我が軍の獲る所となった。通世案、李英の敗北は、金元二史、いずれも乙亥年(1215年)五月に繋げている。やがてその食糧は絶え、​チユンド​​中都︀​の人は自ら互いを食べた。​フシン​​福︀興​自ら毒を飲んで死に、​ヂンヂヨン​​秦忠​も城を捨てて走った。​ミンガン​​明安​太保が入ってこれを占拠し、使いを遣わして戦利品を献じた。通世案、​チユンド​​中都︀​の陥落は、金元二史、いずれも乙亥年(1215年)五月に繋げている。 上は時に桓州に駐留し、原書は桓丹とし、秋濤が元史 本紀に拠って改める。そのまま​フドフ ノヤン​​忽都︀忽 那顏​曽植案、秘史は​シギ クドク​​失吉 忽都︀忽​とし、​ホエルン​​訶額侖​太后の養子である。通世案、蒙古源流は​シギ フトク​​錫吉 呼圖克​とし、​イソン ウルルク​​伊遜 烏爾魯克​のひとりである。秘史巻四で、太祖が金軍を助けて​タタル​​塔塔兒​を破った時、宿営の中で拾った小児であり、母​ホエルン​​訶額侖​に与えることで、これを養わせ、​シキ クドク​​失乞 忽都︀忽​と命名し、第六の子と呼ばせた。​ドーソン​​多遜​は「​シギ クトク​​失吉 庫圖庫​​チンギス カン​​成吉思 汗​​タタル​​塔塔兒​を征伐した時に捕らえた童子である。その時​ボルテ​​孛兒台​夫人はなお子が生まれておらず、これを育てさせ、かくて子のように待遇した」と言う。それが​ボルテ​​孛兒台​の養子であることは、秘史と異なる。 ​オングル バウルチ​​雍古兒 寶兒赤​原書は​バウガンチ​​寶光赤​とする。曽植案​バウガンチ​​寶光赤​は、秘史蒙語は​バウルチ​​保兀兒赤​とし、意味は料理人を言う。そうであるならば光は兀の字あるいは児の字の誤りであろう。通世案、秘史巻四「​オングル​​汪古兒​は飲み食いを管理した」、巻十「​モンゲト キヤン​​蒙格禿 乞顏​の子​オングル​​汪古兒​厨子」。元史語解「​ボロチ​​博囉赤​は、厨官である。巻十は​ボルチ​​博兒赤​、巻十八は​ボルチ​​博而赤​、巻九十九は​ボールチ​​博爾赤​、巻一百三十四は​バウルチ​​寶兒赤​とする」。この光を児とするのは疑いない。今改める。​アルハイ ハツサル​​阿兒海︀ 哈撒兒​の三人に命じて、​チユンド​​中都︀​の金蔵を検視した。時に金の留守​ハダ グオホ​​哈答 國和​らは、通世案、秘史は金臣​カダ​​合答​とする。金幣を捧げ持って、拝見の礼をした。​オングル​​雍古兒​​ハツサル​​哈撒兒​がこれを受けた。秋濤案、​オングル​​雍古兒​の下は、おそらく​アルハイ​​阿兒海︀​の三字が抜けているであろう。ひとり​クドク​​忽都︀忽​は拒み受けず、一方で​ハダ​​哈答​はその物を分けて来させて​ハダ​​哈答​の下、秋濤は及の字を補う。 上は​クドク​​忽都︀忽​に問うて「​ハダ​​哈答​らはこれまでにお前に物を与えたか」と言った。対して「それはある。いまだあえてこれを受けていない」と言った。上はその理由を問うた。対して「臣はかつて​ハダ​​哈答​に「まだ城が落ちていない時は、寸帛尺縷は、みな金主の物である。今すでに城は落ち、すべて我が君の物であろう。お前はまたどうして我が君の物を盗んで勝手に恵むことができるのか」という言葉を与えた」と言った。私恵は、原書は和意とし、秋濤が校改する。上はまさにこれをほめ、秋濤は改めて佳を嘉とする。物事の本質をわかっているとお思いになられた。そして​オングル​​雍古兒​​アルハイ ハツサル​​阿兒海︀ 哈撒兒​らを重く責め、秋濤案、「金主は点検の…を」からここについては、旧本はいずれも甲戌(1214年)年の​チユンド​​中都︀​を囲むの下にある。今案、​チユンド​​中都︀​の陥落は、大事である。金史元史、みな乙亥年(1215年)の事とする。この録では甲乙二年ふたつともに載せている。これは「​チユンド​​中都︀​の人は自ら互いを食べた。​フシン​​福︀興​自ら毒を飲んで死に、​ヂンヂヨン​​秦忠​も城を捨てて走り、​ミンガン​​明安​太保が入ってこれを占拠し」と言う。乙亥年(1215年)に「​ワンヤン フシン​​完顏 福︀興​は薬を仰いで死に、​モニアン ヂンヂヨン​​抹撚 盡忠​は城を棄てて走り、​ミンガン​​明安​が入ってこれを守った」と言う。考えるに前文は「左相​ヂンヂヨン​​秦忠​を補佐として」、及び「太子は​ヂンヂヨン​​秦忠​に命じて​チユンド​​中都︀​を守らせた」と載せる。 みな​ヂンヂヨン​​秦忠​とし、このくだりと合う。紀の事もこのくだりはやや詳しい。おそらくこのくだりは、その録の原文で、錯簡が甲戌年(1214年)に入ったのであろう。のちの人はそれと元史が合わないので、乙亥年(1215年)内に繰り返して、推し量って三語を増やし、ゆえにひとつの事が繰り返し両年で見えただけであろう。今このくだりを乙亥年(1215年)に入れて整え、その重複する三語は、削り去って書き残さなかったということである。通世案、何氏校本は、「金主は点検の…を」以下二百四十六字を、乙亥年(1215年)の「覇州で戦いこれを破った」の下に移している。だが李英の事が重複し、文のすじは更につながらない。ましてや西史も金主云云をもって「​チユンド​​中都︀​を囲み」の句を受け、本書と同じである。おそらく​トビチヤン​​脫必赤顏​原文の順序がもともとこのようであり、この本の錯簡ではない。ゆえに今なお古いものを元のまま用い続けるが、年月の誤りは、これと別の話である。いわゆる後の人が推し量って増やすに至り、となれば乙亥(1215年)の全文はみなその通りで、何氏が三語を削ったのは止めない。後で見える。〈[#那珂氏が前述しているように本作品の底本は四庫全書存目叢書本の史45-171上11行から史45-172上1行に繋げている。何氏校注本では、史45-172上1行の文「時金通州元帥…」を、小漚巣刊本では72葉14行の後に、文求堂本では96頁の後に、それぞれ繋げている]〉 不珍也〈[#訳せない。「良しとしなかった」か]〉通世案、この語は難解である。誉めなかったの意か。あるいは誤脱があるのであろうか。西史ではこの語がまったく無い。​ハダ​​哈答​はその孫の栄山に会ったことにより帰った。通世案、見其の二字は原書では倒置し、今校正する。西史は「​ハダ​​哈荅​はその孫​ニクサイ​​尼克𧶼​を手を引いて助け、帝に会いそして去った」と言う。洪氏は「​ニクサイ​​尼克𧶼​​ロンシヤン​​榮山​の転音である」と言う。時に金の通州元帥​ヂヂン​​七斤​が軍勢を率いて来降した。原書は​エギン​​也斤​とする。秋濤案、​エギン​​也斤​はやはり​ヂヂン​​七斤​とする。通世案、通州は、金 属中都路で、今の属順天府であり、府の東四十里にある。​ヂヂン​​七斤​は、姓は​ブチヤ​​蒲察​氏である。金元二史では、​ヂヂン​​七斤​の降伏は、乙亥(1215年)正月にあった。ただ​ヂヤンフ​​張復​​ヂヤンホビン​​張鑊柄​​ヂヨンゲ​​眾哥​​エス​​也思​元帥は、立てこもって信安を守り降伏しなかった。曽植案、​ヂヤンフ​​張復​は、高陽公​ヂヤンフ​​張甫​である。​ヂヨンゲ​​眾哥​は河間公​イラ ヂヨンヂヤヌ​​移剌 重嘉努​であり、また​ヂヨンゲ​​重格​とし、旧本は​ヂヨンヂヤヌ​​眾家奴​とする。両人いずれも九公の列にある。その信安を守った事は、金史が詳しい。​ヂヤンホビン​​張鑊柄​は、おそらく​ヂヤンヂン​​張進​であろう。後に金人は滄海公として封じ、​ヂヤンフ​​張甫​と同じく信安を守った。ひとり​エス​​也思​のみは考えがない。 ​ヂヤンホビン​​張鑊柄​への称賛は、まさに郭蝦蟆や葛鉄槍のようであり、当時の軍中はこれを習いとした。通世案、​ヂヤンフ​​張復​の張は、原書では帳。今は沈氏説に従い校改する。​ベレジン​​伯哷津​​ヂヤンフ​​張忽​​ヂヤンフヂン​​張忽斤​​ヂヨンゲ​​衆格​​アシリン​​阿失林​とする。信安は県名で、金 属中都路 覇州である。城跡は今の順天府 覇州 東五十里にある。又案、金史 紀伝は、​ヂヤンフ​​張甫​ははじめてモンゴルに降り、涿州の刺史である​リギユエル​​李瘸驢​がこれを招いた。〈底本-382 興定 元年(1217年)正月、​ヂヤンフ​​張甫​​ヂヤンヂン​​張進​がともに来降した。二年(1218年)八月、河北行省の侯摯は​リギユエル​​李瘸驢​を権中都路 経略使とし、​ヂヤンフ​​張甫​を副使とした。三年(1219年)閏三月、​ギユエル​​瘸驢​​チユンド​​中都︀​ 東路 経略使とし、雄覇から以東をみな従えた。​ギユエル​​瘸驢​はモンゴルに降り、​ヂヤンフ​​張甫​がこれに代わり、​ヂヤンヂン​​張進​​チユンド​​中都︀​ 南路 経略使とした。​イラ ヂヨンヂヤヌ​​移剌 眾家奴​は戦功を積み、次第に河間路 招撫使へと昇進した。四年(1220年)二月、​ヂヨンヂヤヌ​​眾家奴​は河間公に封じられ、河間府と献・蠡・安・深の各州を治め、​ヂヤンフ​​張甫​は高陽公に封じられ、雄・覇の各州と静海・宝抵・武淸・安次の各県を治めた。元光 元年(1222年)、​ヂヨンヂヤヌ​​眾家奴​が治める州と県はみな守りを失い、移って信安にとどまって守ったが、そこは​ヂヤンフ​​張甫​の境内だった。 ​ヂヤンフ​​張甫​が奏して信安は鎮安府と改まり、二人は兵を合わせて、河間府と安・蠡・献の三州を取り返した。二年(1223年)、ともに鎮安を保ち、各々が一方に当たった。伝の賛に滄海公​ヂヤンヂン​​張進​や易水公​ヂヤンヂン​​張進​とあり、おそらく昇進してまた後で郡公になったのであろう。史の文に拠ると、三人は信安を守り、以後に興定年間(1217年-1222年)があった。そして大金国志 貞祐 三年(1215年)の条は「燕南雄覇の数州は、まさに三関の旧地であり、塘濼は深く阻み、兵は入られなかった。朝廷は将​ヂヤンフ​​張甫​​ヂヤンヂン​​張進​二人を遣わし、信安に留まり軍にこれを守らせた。北は燕山まで百八十里の距離である」と言う。これは​ヂヤンフ​​張甫​がまだモンゴルに降っていない前のことで、とっくに信安を守った事があり、つまり金史はこれを省略したのである。上は​ユルロ​​魚兒濼​に駐軍し 通世案、通鑑輯覧は「今の鑲黄旗の牧廠にあり、ゆえに興和城の西である。金史地理志は、柔遠県に大魚深があり、つまりこれである」と言う。​ユルロ​​魚兒濼​は西遊記に見える。長春はおそらく村里で過ごして泊り、北に行き​シヤダ​​沙陀​を越え、半月で至った。また張徳輝の紀行にも見え、​ユルボ​​魚兒泊​と言う。徳輝は昌州の北の廃城から、十一駅を行って至った。泊の東の水際には、公主離宮がある。沈子敦は「ここの公主は誰が管理しているところなのか知らない。おそらく離宮は、もとは帝の住まいで、後に公主に与えただけである。​ユルロ​​魚兒濼​は昌・撫などの州の沙漠の北にあたる。地志家が興和城の湖を常にあるとするのは、とりわけ誤っている。太祖は撫州の境で避暑していない」と言う。西史はこの句の前に、「犬年」の字があり紀年はまったくの誤り。​サンハ バード​​三合 拔都︀​に命じて、命は原書では合とし、秋濤が校改する。 通世案、本紀は​サリヂウダイ サンモハ バードル​​撒里知兀䚟 三摸合 拔都︀魯​とする。つまり前文の​サンヂウルムカ バード​​散只兀兒木合 拔都︀​であり、続綱目は​サンゲ バード​​三哥 拔都︀​とし、また​サムヘ​​撒沒喝︀​とする。大金国志は、宋の通鑑を引いて、​サムヘ​​撒沒曷​とする。モンゴル軍の万騎を率いて、西夏から、西夏は原書では夏西。通世案、二字は誤って倒置している。元史も続綱目も、みな西夏とする。今因んで改める。京兆を討ち、潼関を出て、嵩・汝などの郡を破り、直ちに汴梁を取り、杏花営に至り、大いに河南を掠め、戻って陜州に至った。通世案、京兆府は、今の陜西 西安府で、潼関は、今の陝西 同州府 華陰県の東四十里で河南 陜州 閿郷県の西六十里にある。嵩・汝・陜の三州は、金 属南京路である。嵩州は、今の河南 河南府 嵩県である。汝と陜はいずれも今の河南直隷州である。杏花営は、金の南京 西二十里にあった。 凍った河を行き、冰は原書では兵、張石州が校改する。そのままようやく北に渡った。秋濤案、元人は乙亥(1215年)丙子(1216年)両年に、ともに西夏から将を遣わして、関中に入り、潼関を攻めた。乙亥(1215年)に潼関を攻めるも降せず、嵩山小路から汴京に向かって行ったのは、この年の事である。丙子(1216年)に攻めて潼関を破り、金人は戻って再びこれを取った。乙亥年(1215年)の事は、金史 宣宗紀、元史 太祖紀、ともに載せず、しかし諸列伝の中に見える。丙子年(1216年)の事は、二紀みなこれを載せる。この書はさらに丙子年(1216年)の事がない。おそらく互いに詳しいのと省くのがある。ただ乙亥年(1215年)の事は、元人はなおまだ潼関を得ておらず、しかしこれは「潼関を出て」と言いおそらく嵩山小路より、潼関の外をめぐり、ゆえにそのように言ったのであろう。通世案、潼関の両役は、実は一つの役である。 金史 宣宗紀、胥鼎、​ワンヤン ヂヨンユアン​​完顏 仲元​​ビラン アルダイ​​必蘭 阿魯帶​​ニパング ブルフ​​尼龐古 蒲魯虎​の諸伝を合わせ考えると、貞祐 四年(1216年)八月、元兵は延安を攻めた。九月、簽枢密院事の永錫を御史大夫とし、兵を率いて陜西に赴き、上手く従事した。十月、弓の名人や狩人を招いて、武芸を練習し、山道を知る者は、陝と号の各州の要地に分かれて留まり守った。​ワンヤン ヂヨンユアン​​完顏 仲元​に知帰徳府事を遥授するよう命じ、山東花帽軍を率させ、軍を盧氏という地に移させ、商州 経略使と改めた。元兵は潼関を攻め、守りの兵はみな潰えた。西安軍節度使​ニパング ブルフ​​尼龐古 蒲魯虎​は防戦し、兵は敗死した。 戊辰、元兵は汝州を攻め取った。​ヂヨンユアン​​仲元​軍は商・虢に向かって行き、再び嵩・汝に至り、みな追いつかなかった。河東行省の胥鼎は、元兵がすでに関を越えたと聞き、庚午、潞州元帥左監軍​ビラン アルダイ​​必蘭 阿魯帶​を遣わし、軍一万を率い、孟州経略使​トチヤン​​徒單​の百家は、軍五千を率いて、仮設道路から河を渡り、関陜に赴き、自ら平陽の精兵を率い、赴いて帝都を助けた。十一月壬午、胥鼎は帝都に入り、尚書左丞の官を授かり、枢密副使を兼ねた。乙酉、元兵は澠池〈[#「澠池」はママ。実録では「沔池」]〉に至った。右副元帥​ブチヤ アリブスン​​蒲察 阿里不孫​の軍が潰えて逃れ、​アルダイ​​阿魯帶​も傷を負った。元兵は陝州を過ぎ、​サンメンヂヂン​​三門集津​から北に渡り去った。 戊戌、華州元帥府は潼関に戻った。十二月癸亥、元兵は平陽を攻め、胥鼎は兵を遣わし防戦した。元兵は不利で、すぐに去った。​ヂヨンユアン​​仲元​は天子に文書をたてまつって「近日敵兵は禁坑から出て、遂に潼関を失うであろう」と述べた。禁坑は禁谷という別名があり、今は潼関庁の南にある。そこで元兵は抜け道からめぐり出て、そして潼関は破れたのである。元史 本紀は「丙子(1216年)秋、​サリヂウダイ サンモハ バードル​​撒里知兀䚟 三摸合 拔都︀魯​は軍を率いて、西夏より、関中に向かって行き、遂に潼関を越え、金の西安軍節度使​ニパング ブルフ​​尼龐古 蒲魯虎​を捕らえ、汝州などの郡を攻め落とし、汴京に至って帰った」と言う。おそらく​サンハ バード​​三合 拔都︀​は、丙子(1216年)八月に陝西に入ったので、十月に潼関を越え、十二月に北に戻ったことは、金史 紀伝で証明できるであろう。本書の叙事は、いずれも両史と合うが、年月は詳しくない。 考えるにそれを​ヂヂン​​七斤​来降云云の文と繋いで、誤って乙亥年(1215年)の事としたようである。大金国志は「貞祐 三年(1215年)八月、大軍は河東より河を渡り、潼関を攻め、下せなかった。そこで嵩山小路より、汝州に向かって行った。山と谷川に出会い、そのたびに鉄の槍を互いにつなぎ、連接して橋となして渡った。これにより潼関の守りは失われた。金主は急いで山東に花帽軍を呼び寄せた。十月、大軍は杏花営に至り、汴京まで二十里の距離となった。花帽軍はこれを打ち破った。大軍は再び潼関を取り、​サンメンシヂン​​三門析津​より、凍った河に乗って、灰を撒いて兵を導いて渡った。これより再び出なかった」と言う。いわゆる大軍は、みなモンゴル兵を言う。その「下せなかった」と言うのは、金と元の二史でわずかに異なる。だが後文で「これにより潼関の守りは失われた」と言う。ならば潼関をついに下さなかったというのも誤りである。 「嵩山小路より」と言い、つまり潼関の抜け道から遠くはなく、そこで潼関を越えた後に汝州の細道に向かって行ったのである。「花帽軍を山東に呼び寄せ」と言うのは、つまり​ワンヤン ヂヨンユアン​​完顏 仲元​に命じて入って助けた事である。それと丙子(1216年)の役を一事とするのは、疑うべくもない。そして誤って乙亥年(1215年)の事としたのは、本書と同じ。続綱目はまさに乙亥年(1215年)において、本書と金志を合わせて取って、​サンハ バード​​三合 拔都︀​南侵の事を述べ、そして「潼関は守りを失った」と「これより再び出なかった」の二句を省いた。また丙子年(1216年)において、金元二史に拠り、「冬十月、モンゴル兵は金の潼関を収めて、次に嵩と汝の間云云」と言う。であれば金志 紀年の誤りに拠り、遂に一事を分けて両事にした。これは偽りに沿ってさらに誤ったのである。畢氏の続通鑑も、また続綱目の誤りを受け継いでいる。 金の元帥​ノダフ​​那答忽​監軍​シアレ​​斜烈​は、北京を率いて来降した。秋濤案、北京の字はおそらく誤りがある。曽植案、​ノダフ​​那答忽​​インダフ​​寅荅虎​であり、​シアレ​​斜烈​​ワンヤン シレ​​完顏 昔烈​であり、今訳して​シリン​​錫琳​という者に改める。​ノダフ​​那答忽​は、原文はおそらく​イエダフ​​邪答忽​とする。​イエ​​邪​​イン​​寅​は音が近い。この書は邪と那の二字が往往にして互いに転訛する。通世案、続綱目の甲戌(1214年)九月のくだりは「​ムホアリ​​木華黎​は金の北京を攻めた。北京の副将​ワンヤン シレ​​完顏 昔烈​と高徳玉らは、守将の銀靑を殺し、​インダフ​​寅答虎​を推して指導者とし、まもなく城をささげて降った」と言う。このくだりと合う。そして​ベレジン​​伯哷津​の書は「​サムハ​​撒木哈​は黄河を渡り、西京に向かって行った。金の西京を守る二将は、​インダル​​寅荅爾​と言い、​カンサル サレ​​罕撒兒 撒烈​と言い、城を出て迎えて降った。​サムハ​​撒木哈​は降を受け入れ帰った」と言う。洪氏は「つまり​ノタフ​​那塔忽​ ​シアレ​​斜烈​の二人である。録は北京とし、誤りである」と言う。 そうであるならば​インダフ シレ​​寅答虎 昔烈​は、ある場合には北京の将となり、ある場合は西京の将となり、根本は正しいとして伝聞の言葉が異なっている。〈底本-383学識の乏しい人がただ元史に拠ったかのようで、でたらめに西京を北京として改めたのである。又案、金史 ​アオトン シヤン​​奧屯 襄​伝は「貞祐 三年(1215年)正月、​アオトン シヤン​​奧屯 襄​は北京宣差提控​ワンヤン シレ​​完顏 習烈​によって害された」と言う。​シレ​​習烈​​シレ​​昔烈​である。銀靑というのは、つまり​アオトン シヤン​​奧屯 襄​である。元史 ​ムホアリ​​木華黎​伝も、銀靑とする。銭氏の二十二史考異は「銀靑は、おそらくその官名をほめたもので、銀靑光禄大夫を言い、人の姓名ではない」と言う。​インダフ​​寅答虎​の降伏は、元史 紀伝みな乙亥年(1215年)の事とする。続綱目は甲戌年(1214年)に繋ぎ、おそらく蘇天爵の元朝名臣事略をふまえて誤ったのであろう。 上は​トトロン シエルビ​​脫脫欒 闍兒必​を遣わし、モンゴル​キダン​​契丹​漢軍を率いて南征させた、通世案、元史​ムホアリ​​木華黎​伝は「​ムホアリ​​木華黎​は天子に命じられて、張鯨が率いる北京の十提控兵を用いて、​ドフラン​​掇忽闌​の後ろについて、まだ服属していない州郡を南に征伐した」と言う。​シモ エセン​​石抹 也先​伝「​エセン​​也先​に命じて、​トフラン シエルビ​​脫忽闌 闍里必​を補佐させ、張鯨などの軍を取り締まらせ、燕南のまだ下っていない州郡を征伐させた」。​シモ ボデル​​石抹 孛迭兒​伝「​ドフラン シエリビ​​奪忽闌 闍里必​に従い、山東や大名を征服した」。​トトロン​​脫脫欒​は、脱の下に忽をあてる。続綱目は​トフラン サリビ​​奪忽蘭 撒里必​とする。​サ​​撒​​チエ​​撤​とする。​チエリビ​​撤里必​​シエリビ​​闍里必​は、​シエルビ​​闍兒必​であり、また秘史の​チエルビ​​扯兒必​で、護衛と散班の長である。​ベレジン​​伯哷津​​モンゲリク​​蒙格力克​の子​トルン チエルビ​​脫侖 扯兒必​とし、​トルン チエルビ​​脫侖 扯兒必​は秘史に見える。 真定を降し大名を破り、東平に至り、水に阻まれ勝てず、大いに掠めて帰った。金人は再びこれを取った。通世案、太祖 十年 乙亥(1215年)から十四年己卯(1219年)に至るまで、真定を降し、大名を破り、東平を掠めた事はない。金元二史 本紀 諸伝を合わせ考えると、乙亥(1215年)十二月、史天倪は大名を囲んでその城を破り、丙子(1216年)十二月、元兵は大名府を攻め取り、しかしその前後は真定と東平の事を載せていない。丁丑(1217年)秋、​ムホアリ​​木華黎​はモンゴル・​ヂウ​​乣​・漢の諸軍を率いて南征し、遂城と蠡州を攻め落とし、冬に中山府を攻め取り、磁州を下し、大名府を収めて、東に進んで益都・処・沂・登・萊・濰・密などの州を平定した。 これは癸酉(1213年)以来の大征伐である。だがまたも大名があり、しかし真定と東平がない。ただ十五年庚辰(1220年)、​ムホアリ​​木華黎​はその土地を征服して満城に至り、金の恒山公である武仙が真定を差し出して来降した。六月、楊在を遣わし大名を攻め下させた。七月、東平の厳実は彰徳・大名・磁・洺・恩・博・滑・濬などの州の戸三十万を収めて来降した。十一月、東平に進んで攻め、勝てず、厳実および​ソルフト​​梭魯忽禿​が留まってこれを守り、囲むのをやめて洺州に向かって進み、兵を分けて河北諸郡を攻め取った。おおむね本書と記述が合っているようである。だが軍を率いていたのは​ムホアリ​​木華黎​であって、​トルン チエルビ​​脫侖 扯兒必​ではない。また​トルン​​脫侖​が命を受けたのは五年後のことである。おそらく本書のこの文は抜けや誤りがあるであろう。又案、「不珍也」から後のここに至るまでの、百五十二字は、旧本では誤って辛巳年(1221年)の「攻玉竜傑赤」の下に入り、そして辛巳年(1221年)「之城云云」以下の八十四字は、また誤ってここに入っている。今は西史の順序に拠って、それぞれその原文を元通りにする。何氏校本は、初めてこの錯簡が正されており、李・沈の二君はみなこれに従っている。だが「不珍也云云」の十三字は、何氏はおそらくそれを解くのに苦しんだのであろう、遂に誤って不珍也哈答を西域の城名とし、玉竜傑赤の下にそのまま残しておき、そして「因其見孫栄山而還」の八字を削り、「時金通州」以下を、「哈撒児等」の句につなげた。今は洪氏の説に従って校正する。また何氏は「金元帥那答忽」以下五十四字を割って、「取城邑、凡八百六十有二」の下に入れ、「諸史に拠って年月を考え正す」と言う。だが​ノダフ​​那答忽​ ​シアレ​​斜烈​の来降は、​サンハ バード​​三合 拔都︀​に降ったのである。語句は縮めてつがれており、切れて分かれているのは都合が悪い。旧本に従って当てる。



〈史45-171上16乙亥,金右副元帥七斤以通州降。木華筆攻北京,金元帥寅荅虎等以城降

乙亥、十年、宋嘉定八年、金貞祐︀三年。通世案、自乙亥以下一百一字、與元史太祖︀紀乙亥文中語全同、此非本書原文、後人取元史攛入之也。葢本書前文、誤脫乙亥字、故後人疑乙亥事蹟逸︀失、自擬補輯、而不知七斤寅答虎之降、中都︀之陷、皆與前文複也、本當刪去。但因何・沈諸︀君、已〈[#「已」は底本では「巳」]〉有注文、不欲刪、今姑存併之。金右副元帥七斤以通州降。原作道州、張石州據本紀改。曾植案、蒙韃備錄云「首相脫合太師者︀、乃兔花太師之兄。原女眞人、極狡獪。其次韃人宰相、乃率埓奪合。又有女眞七金宰相。餘者︀未知名。率皆女眞亡臣」。案此則七斤後爲相。可補三公宰相二表之遺。史特薛禪傳「唆兒火都︀者︀、亦案陳之子。以從征功、在太祖︀朝、遙授左丞相、爲千戶、仍賜塗金銀章云云」。備錄之率埓奪合、卽唆兒火都︀也。奪合當作合奪、葢傳寫誤倒。備錄無善本、無由校也。傳文前作唆兒火都︀、後作唆魯火都︀。通世案、本紀乙亥下、有春正月三字、七斤上有蒲察二字。木華黎攻北京。秋濤案、金北京大定府、今承德府建昌縣地也。是時尙爲金守。可見金人自熱河以東至遼陽、尙有地數千里。乃甲戌年、遽以一敗之故、南遷於汴、金之失計甚矣。通世案、本紀木華黎上、有二月二字。金元帥寅答虎等以城降。寅答虎、原作寅花麾。秋濤案、本紀作烏古論寅答虎。曾植案、花卽荅字之誤。通世案、花麾二字誤寫無疑、今改。又案、元史舊本作寅答虎烏古倫、殿本改爲烏庫哩伊勒都︀呼。考證云「考烏庫哩爲金之著︀姓。若是兩人、不當一稱名而一擧姓。此事、金宣宗本紀未載。蘇天爵名臣事略載「木華黎攻北京。金守將銀靑嬰城自守。其將高德玉等殺︀銀靑、推烏古論寅答虎爲帥、未幾以城降」。覈之續通鑑亦同。爲太祖︀九年事。年月雖不符、而姓名則合。且以下文寅答虎烏留守文義考之、其爲名氏顚倒無疑。今據改」。畢氏續通鑑考異云「疑載筆者︀未知烏古論爲姓、寅答虎爲名、文有顚倒耳」。錢氏諸︀史拾遺亦云「東平王世家作烏古倫寅答虎。烏古倫者︀、寅答虎之氏、非兩人也。史臣不辨姓名、傎倒其文、遂若別有一人矣」。然史天祥︀傳、「乙亥、與大師烏野兒、降其北京留守銀答忽同知烏古倫」。烏野兒、卽吾也而。銀答忽、卽寅答虎。烏古倫、卽烏古論。烏古論爲寅答虎僚屬、史佚其名、而本紀又脫其官名、故使人疑其爲一人耳。明初史臣、雖昧於史事、豈不知烏古論爲姓耶。金御史中丞李英、帥師援中都︀。戰於覇州敗之。通世案、本紀金上有三月二字、李英下有等字。完顏福︀興仰藥死、抹撚盡忠棄城走、明安入守之。通世案、本紀完顏上、有「五月庚申、金中都︀留守」九字。詔史〈底本-384 天倪南征、取平州。通世案、本紀取平州上、有八月天倪四字。平州、金屬中都︀路、今直隷永平府。木華黎遣史進道等、史原作大。張石州曰「本紀作賜進道」。繆案、大進道爲史進道之誤。進道、秉直之弟、天倪之從父。從木華黎攻廣寗府。均見進道神︀碑。通世案、殿本作史進道。錢氏考異云「監本、史 或作賜者︀誤也」。今因改。攻廣寧府降之。是秋取城邑凡八百六十有二。通世案、以上後人攛入之文。

訳文 九三-九四

乙亥(1215年)、十年、宋 嘉定 八年、金 貞祐 三年。通世案、乙亥(1215年)より以後一百一字は、元史 太祖紀の乙亥(1215年)の文中の語と全く同じで、これは本書の原文ではなく、後の人が元史から取ってこれを攛入したである。おそらく本書の前文は、誤って乙亥の字が抜け、ゆえに後の人が乙亥の事蹟が失われたと疑い、自らなぞらえて補って正し、​ヂヂン​​七斤​ ​インダフ​​寅答虎​の降伏、​チユンド​​中都︀​の陥落を知らず、いずれも前文と重なり、もとをが削り去ったのである。但し何・沈諸君が、すでに注の文があることに因み、削ることを望まず、今しばらくこれを併存する。 金の右副元帥​ヂヂン​​七斤​が通州をひきいて降った。原書は道州とし、張石州が元史 本紀に拠って改める。曽植案、蒙韃備録は「首相の​トハ​​脫合​太師は、まさにこの​トハ​​兔花​太師の兄である。もとは​ヂユチン​​女眞​人で、極めて悪賢い。その次の韃人の宰相は、まさに​シヤイレドホ​​率埓奪合​である。また​ヂユチン​​女眞​​ヂヂン​​七金​宰相がいる。残りの者はいまだ名を知らない。おおむねみな​ヂユチン​​女眞​の亡命官人である」と言う。考えるにこれはつまり​ヂヂン​​七斤​が後に宰相となったのである。三公宰相二表の見落としを補うに値する。元史 ​テ セチエン​​特 薛禪​伝「​ソルホド​​唆兒火都︀​も、​アンチン​​案陳​の子である。親征に従った功により、太祖の宮中にあり、左丞相を遥授し、千戸となり、重ね重ね塗金銀章を賜り云云」。蒙韃備録の​シヤイレドホ​​率埓奪合​は、​ソルホド​​唆兒火都︀​である。奪合は合奪とし、おそらく伝は誤って倒置して写したのであろう。 蒙韃備録は善い本がなく、校正するてだてがないのである。伝の文は前文で​ソルホド​​唆兒火都︀​とし、後文で​ソルホド​​唆魯火都︀​とする。通世案、元史 本紀の乙亥(1215年)の後文に、春正月の三字があり、​ヂヂン​​七斤​の上に​ブチヤ​​蒲察​の二字がある。​ムホアリ​​木華黎​は北京を攻めた。秋濤案、金の北京 大定府は、今の承徳府 建昌県の地である。この時なお金が守っていたと思われる。金人が熱河以東から遼陽に至ったとみるべきで、それでも数千里の地にある。その甲戌年(1214年)は、一敗したことを理由として、汴京に南遷し、金の失計は甚だしい。通世案、元史 本紀は​ムホアリ​​木華黎​の前文に、二月の二字がある。金元帥​インダフ​​寅答虎​らは城をひきいて降った。​インダフ​​寅答虎​は、原書では​インフアフイ​​寅花麾​とする。秋濤案、元史 本紀は​ウグルン インダフ​​烏古論 寅答虎​とする。曽植案、花は荅の字の誤りである。通世案、花麾の二字が誤写なのは疑いない、今改める。又案、元史の旧本は​インダフ ウグルン​​寅答虎 烏古倫​とし、殿本は改めて​ウクリ イルドフ​​烏庫哩 伊勒都︀呼​とした。 考証は「考えるに​ウクリ​​烏庫哩​は金の目立つ姓である。もしこれが二人なら、一人を名で呼び一人を姓で呼ぶのはふさわしくない。この事、金 宣宗本紀は載せていない。蘇天爵の名臣事略は「​ムホアリ​​木華黎​は北京を攻めた。金の守将である銀靑は城をめぐって自ら守った。その将である高徳玉らは銀靑を殺し、​ウグルン インダフ​​烏古論 寅答虎​を推して指導者とし、まもなく城をひきいて降った」と載せる。これを調べると続通鑑もまた同じである。太祖九年(1214年)の事とみなす。年月が合わないとはいえ、姓名は合う。また以下の文の​インダフウ​​寅答虎烏​が留守するの文義を考えると、それは名と氏の顛倒とみなして疑いない。今拠って改める」と言う。畢氏の続通鑑考異は「おそらく筆を載せた者が​ウグルン​​烏古論​を姓とし、​インダフ​​寅答虎​を名とすることを知らず、文に顛倒があるだけであろう」と言う。銭氏の諸史拾遺も「東平王世家は​ウグルン インダフ​​烏古倫 寅答虎​とする。​ウグルン​​烏古倫​は、​インダフ​​寅答虎​の氏で、二人ではない。史臣は姓名をわきまえず、その文を傎倒し、遂にもう一人いるかのように分けた」と言う。 だが元史 史天祥伝は、「乙亥(1215年)、大師と​ウエル​​烏野兒​は、その北京留守の​インダフ​​銀答忽​と同知の​ウグルン​​烏古倫​を降した」。​ウエル​​烏野兒​は、​ウエル​​吾也而​である。​インダフ​​銀答忽​は、​インダフ​​寅答虎​である。​ウグルン​​烏古倫​は、​ウグルン​​烏古論​である。​ウグルン​​烏古論​​インダフ​​寅答虎​の部下とし、元史はその名を失い、そして本紀もその官名が抜け、ゆえにそれを一人のみと疑わさせた。明初の史臣は、史の事に暗いとはいえ、どうして​ウグルン​​烏古論​を姓とすることを知らないのか。 金の御史中丞である李英は、軍を率いて​チユンド​​中都︀​を助けた。覇州で戦いこれを破った。通世案、元史 本紀は金の上に三月の二字があり、李英の下に等の字がある。​ワンヤン フシン​​完顏 福︀興​は薬を仰いで死に、​モニアン ヂンヂヨン​​抹撚 盡忠​は城を棄てて走り、​ミンガン​​明安​が入ってこれを守った。通世案、元史 本紀は​ワンヤン​​完顏​の上に、「五月庚申、金中都留守」の九字がある。〈底本-384史天倪に命じて南征させ、平州を取った。通世案、元史 本紀は取平州の前に、八月天倪の四字がある。平州は、金 属中都路で、今の直隷 永平府。​ムホアリ​​木華黎​は史進道などを遣わし、史は原書では大。張石州は「元史 本紀は賜進道とする」と言う。誤った案であり、大進道は史進道の誤である。進道は、秉直の弟で、天倪の従父である。​ムホアリ​​木華黎​に従って広寧府を攻めた。同じことが進道神碑に見える。通世案、殿本は史進道とする。銭氏の考異は「監本の、元史は賜ったものと誤ったのかもしれない」と言う。今因んで改める。広寧府を攻めてこれを降した。この秋に取った都市はおおよそ八百六十二である。通世案、前文は後の人の攛入の文である。



〈史45-171上22丙子,錦州帥張智以錦義、廣寧等郡來降,俄而復叛,自號遼西王,改元大漢

〈東方學デジタル圖書館-84 丙子十一年、宋嘉定九年、金貞祐︀四年。通世案、西史作鼠年。紀年復合。本紀云「春、還臚朐河行宮」。西史則云「牛年、帝旋師」。洪氏曰「應是子年旋師」。今考前文「上駐軍魚兒濼、命三合拔都︀云云」、是丙子年事也。史天祥︀傳亦云「丙子春、覲太祖︀於魚兒濼」。則丙子春夏、太祖︀猶駐魚兒濼。西史所記、葢得其實。錦州帥張鯨以錦・廣寧等郡來降。俄而復叛、自號遼西王、改元大漢︀。上命木華黎以左軍討平之。秋濤案、張鯨之誅、紀作乙亥年、與此異。史載木華黎此年所討、乃張鯨之弟張致也。通世案、錦州、金屬北京路、今盛京錦州府。本紀云「九年甲戌冬、錦州張鯨、殺︀其節︀度使、自立爲臨海︀王、遣使來降。十年乙亥四月、詔張鯨、總北京十提控兵從南征。鯨謀叛伏誅。鯨弟致、遂據錦州、僭號漢︀興皇帝改元興龍。八月、木華黎遣也進道等、攻廣寧府降之。十一年丙子春、張致陷興中府、木華黎討平之」。錢氏考異云「按史進道神︀道碑「丙子、錦州渠帥張致叛。丁丑、從王提大軍攻拔之、張致伏誅」。此紀書張致叛於乙亥、討平於丙子、皆差一年。葢沿元明善所撰木華黎世家之誤。當以碑爲據。史樞傳「父天安、丁丑從討叛人張致平之」、正與碑合。何實・王珣傳、倶以致叛繫之丙子歲。惟珣傳稱誅致卽在是年、稍有不合耳」。又云「據進道碑「丁丑、張致伏誅、王又令公招集廣寧府、兵及城下、開門迎降」。此亦丁丑年事。廣寧與錦州接壤、故因平張致、而幷降之也。紀所書年月、多未可信」。然則張致之誅在丁丑、而此年所討、當卽張鯨。本書所記未可以其不合紀非之也。

訳文 九四

丙子(1216年)十一年、宋 嘉定 九年、金 貞祐 四年。通世案、西史は鼠年とする。紀年が再び合った。元史 本紀は「春、臚朐河の行宮に帰った」と言う。西史では「牛年、帝は軍を引き上げた」と言う。洪氏は「これは子年に軍を引き上げたはずである」と言う。今前文を考えると「上は​ユルロ​​魚兒濼​に駐軍し、​サンハ バード​​三合 拔都︀​に命じて云云」は、丙子年(1216年)の事である。元史 史天祥伝も「丙子春、​ユルロ​​魚兒濼​で太祖にまみえた」と言う。つまり丙子(1216年)春夏に、太祖はなお​ユルロ​​魚兒濼​に駐留していた。西史の記すところは、おそらくその真を得ている。錦州の指導者である張鯨は錦・広寧など郡をひきいて来降した。まもなく再び叛き、自ら遼西王と号して、大漢と改元した。上は​ムホアリ​​木華黎​に命じて左軍をもってこれを平定した。秋濤案、張鯨への誅伐は、紀は乙亥年(1215年)とし、これと異なる。 元史は​ムホアリ​​木華黎​がこの年に討つところを載せるのは、その張鯨の弟の張致である。通世案、錦州は、金 属北京路で、今の盛京 錦州府である。元史 本紀は「九年甲戌(1214年)冬、錦州の張鯨は、その節度使を殺し、自立して臨海王となり、使いを遣わして来降した。十年乙亥(1215年)四月、張鯨に命じて、北京の十提控兵を率いて南征に従った。鯨謀は叛き処罰された。鯨の弟である致は、遂に錦州を占拠し、漢興皇帝を僭号し興竜と改元した。八月、​ムホアリ​​木華黎​​エヂンダオ​​也進道​などを遣わし、広寧府を攻めこれを降した。十一年丙子(1216年)春、張致は興中府を攻め落とし、​ムホアリ​​木華黎​が討ってこれを平定した」と言う。 銭氏の考異は「史進道神道碑を調べると「丙子(1216年)、錦州の賊の首魁である張致が叛いた。丁丑(1217年)、従王提大軍攻抜之〈[#訳せない。「王珣の後ろについて大軍を差し出しこれを攻め落とした」か]〉、張致は処刑された」とある。この紀は張致が乙亥(1215年)に叛き、丙子(1216年)に平定したと書き、いずれも一年の差がある。おそらく元明善の編集に沿った​ムホアリ​​木華黎​世家の誤りであろう。碑を典拠とするのがふさわしい。元史 史天倪伝の史枢の項に「父の天安が、丁丑(1217年)に従軍して叛人張致を討ちこれを平定した」、まさに碑と合う。何実・王珣伝は、ともに張致の叛乱を丙子歳(1216年)に繋げた。ただ王珣伝は張致の誅伐はこの年にあったと称し、やや合わないところがあるだけである」と言う。また「進道碑に拠ると「丁丑(1217年)、張致は処刑され、王はさらに長老に命じて広寧府に招集し、兵及び城下は、開門して迎えて降った」。これまた丁丑年(1217年)の事である。広寧と錦州は土地が接しており、ゆえに張致を平定したことで、ともにこれに降ったのである。元史 本紀が書くところの年月は、いまだ信じられないものが多い」と言う。そうであるならば張致の誅伐は丁丑(1217年)にあり、この年に討ったのは、張鯨があたる。本書が記すところが紀と合わないのを誤りとみなすべきではない。





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