校正増注元親征録/本編3

〈史45-164上12時弘吉剌部亦來附,上弟哈撒兒居別所,從其麾下哲不哥之計往掠之

〈底本-353 時弘吉剌部亦未附。上弟哈撒兒居別所、從其麾下哲不哥秋濤案、當卽者︀卜客也、見祕史。通世案、祕史、太祖︀平主兒乞時、札剌亦兒種人帖列格禿伯顏三子來降、第三子者︀卜客、仕太祖︀弟合撒兒。之計、往掠之。上深切責。於是弘吉剌遂附札木合、通世案、西史於此處挿雞年字。然十一部同盟作亂、實在辛酉年。阿雷之會、犍河之會、不可分屬兩年也。與亦乞剌思・火原作大。張石州校正。魯剌思・朵魯班・塔塔兒・哈荅斤・散只兀諸︀部、會於犍河、通世案、祕史作刊沐漣河洲的地。沐漣、蒙古語河也。洪氏曰「案今俄羅斯地圖、額爾古訥河東有支水曰旱河、在呼倫淖爾東北約三百里。水道提綱云「克魯倫河、又折正北流、有振河自東南合活輪河等五水、西北流來會」。內府輿地作根河。根也振也旱也腱也刊也、皆譯音之異。祕史云「順額兒古捏河、至於刊沐漣」、必卽此河。札木合舊居額兒古捏河、見祕史。而諸︀部皆在額兒古捏之南、北行與合、故曰順也」。共立札木合爲局兒可汗曾植案、祕史蒙文作古兒合、釋云「古兒、普也。合、皇帝也」。然則局兒汗者︀、葢諸︀部之長、如云大皇帝與。通世案、西遼之古兒汗義同。謀欲侵我。盟於禿律原作津。秋濤據元史本紀作律。別兒河岸、通世案、西史作禿拉沿恐誤。爲誓曰「凡我同謀、有泄此誓者︀、如岸之摧、如林之伐」。言畢、同擧足蹋岸、揮刀斫林、驅眾馳馬、悉赴我軍。有塔海︀哈者︀、時在眾中。上麾下照烈氏抄吾兒秋濤案、元史本紀作抄吾兒。列傳作召烈台抄兀兒、通世案、照烈氏、卽祕史之沼兀列亦惕氏、又云沼列歹氏。故亦作召烈台。傳不誤。〈東方學デジタル圖書館-37與之親。往視︀之、偶竝驅、實不知有是謀。塔海︀哈馬鞭築其肋。抄吾兒顧。塔海︀哈目之。抄吾兒悟、下馬佯臥。塔海︀哈因吿之河上之盟、曰「事急矣。汝何往」。抄吾兒驚、卽還、遇火魯剌氏也速該言其事、將赴上吿之。也速該曰「我常婦之子、秋濤案、四字疑有誤與忽郞不花曾植案、忽郞不花、疑當作忽郞不荅。卽下文之忽蘭八都︀。葢豁羅剌思之酋豪。故畏其知之。往來無旦夕。我左右止有幼子及家人大力台耳」。曾植案、大力台大字誤、當作火。火力台、卽祕史卷五之豁里歹也。此火魯剌氏、祕史作豁羅剌思、可 證。因命與大力台〈史45-164下1誓而往、乘以蒼驢白馬。屬之曰「汝至彼、惟見上及后兼我壻哈徹兒、則言之。秋濤案、哈徹兒、疑卽太祖︀弟哈撒兒也。通世案、何說是也。西史云「朮赤哈薩兒有子曰巴忽兒達爾。其母阿爾壇哈敦、火魯剌思人」。然則也速該、葢阿爾壇之父也。苟泄於他人、願斷汝要、裂汝背」。誓訖、乃行。通世案、西史無塔海︀哈抄吾兒、也速該作麥兒吉台、爲火力台妻舅。火力台聞其謀、以語麥兒吉台。麥兒吉歹予以剪耳之白馬、使速往吿變。祕史亦唯云「被豁羅剌思種的人豁里歹、到古連勒古地面、吿與成吉思」。本書叙事獨詳。但諸︀書不記太祖︀所在、賴祕史、知猶居古連勒古。葢自離札木合歸于此地、十有餘年、未嘗他徙。前文「上會汪可汗於薩里河不魯吿崖」、則本年闊亦田戰後事。至是始徙不魯吿崖。此卽娶孛兒帖後所暫居之客魯漣河源不兒吉岸也。又前文自擊乃蠻還、駐薩里川、則明年壬戌之事。自是而後、薩里之野、永爲太祖︀之龍庭 矣。中道遇忽蘭八都︀。曾植案、張士觀昌王世德碑「諭旨諸︀部、各遣子弟入侍。火魯剌帶部哈兒八台違旨。命忠武王卽孛圖提兵千人誅之」。哈兒八台、疑卽此忽蘭八都︀也。通世案、伯哷津云「槐因人、泰赤烏特部內」。槐因謂樹林。所謂林木中百姓、而屬泰赤烏特者︀。哈剌蔑力吉台通世案、伯哷津云「是火魯剌思人」、恐誤。當卽蔑兒乞人。軍圍、爲其游兵所〈底本-354 執。以百秋濤案、有闕字。得解。因贈︀以獺色全馬、謂曰「此馬、遁可脫身、追可及人。可乘而去」。通世案、西史云「哈剌蔑兒乞歹見而執之。然是人亦心附於成吉思、則以己之黑馬云云」。旣又遇氊車白帳之隊、往札木合所者︀。通世案、西史作別隊載札木合白帳者︀。隊中人出追抄兀兒。抄兀兒乘馬絕馳而脫、至上前、悉吿前謀。上卽兵迎之、通世案、元史、兵上有起字。此恐脫。祕史云「欲攻成吉思與王罕」。又云「成吉思使人吿與王罕。王罕於是收集軍馬、成吉思行來了。王罕與成吉思相合著︀、順客魯連河迎著︀札木合去」。史錄西史、皆不言王罕、似欲沒王罕之功。洪氏𨚫謂「此役、汪罕不及約會、祕史牽併紀之、種種錯誤」。其於祕史、似未細究。又案、祕史無海︀剌兒之戰、直接下「上先遣騎」條。戰於海︀剌兒帖尼火魯罕之野秋濤案、召烈台抄兀兒傳、作海︀剌兒阿帶亦兒渾。通世案、西史作亦提火兒罕、奪上三字音。華而甫解爲墓地、罕默兒解爲七墳。洪氏曰「地在刊河之南。海︀剌兒正河名、帖尼支河名、火魯罕、蒙古語謂小河」。案、海︀拉兒河今作開拉里河。源出諾尼河源山之西麓、自東合諸︀水西北流、與呼倫湖東北流出之水會。見水道提綱。和渥兒特蒙古圖作凱剌兒。破之。札木合脫走、〈東方學デジタル圖書館-38秋濤案、召烈台抄兀兒傳作「盡誅札木合等」。案、札木合、癸亥年尙在、與汪可汗同來伐蒙古、則傳謬也。弘吉剌部來降。秋濤案、召烈台抄兀兒傳云「時有哈剌赤・散只兒・朵魯班・塔塔兒・弘吉剌・亦乞列思等、居堅河之濱忽蘭也兒吉之地、謀奉札木合爲帝、將不利於太祖︀。抄兀兒知其謀、馳以吿太祖︀。遂以兵收海︀剌兒阿帶亦兒渾之地、盡誅札木合等。惟弘吉剌入降。太祖︀賜以荅剌罕之名」。卽此事也。本紀載諸︀部、與親征記合。傳則無火魯剌思・哈荅斤二部、而多哈剌赤部。惟此爲異。堅河、卽犍河也。通世案、祕史無「弘吉剌部來降」句。此謂癸亥合蘭只戰後帖木哥阿蠻歸降之事。史蓋終言之也。抄兀兒傳之哈剌赤、應是火魯剌思之音轉、不則哈荅斤之字譌。

訳文 三二-三四

時に​ホンギラ​​弘吉剌​部もまだ従っていなかった。上の弟​ハツサル​​哈撒兒​は別のところに居て、麾下​ヂエブゲ​​哲不哥​秋濤案、​ヂエブケ​​者︀卜客​と当てるか、秘史を見よ。通世案、秘史は、太祖が​ヂユルキ​​主兒乞​を平定した時、​ヂヤライル​​札剌亦兒​種人​テレゲト バヤン​​帖列格禿 伯顏​の三子が来降し、第三子​ヂエブケ​​者︀卜客​は、太祖の弟​カツサル​​合撒兒​に仕えた。の計に従い、これを掠めていった。上は深くきびしく責めた。この​ホンギラ​​弘吉剌​がついに​ヂヤムカ​​札木合​に附いたことで、 通世案、西史はこのところに鶏年の字を挿し込む。そして十一部同盟が乱を起こしたのは、まさに辛酉年(1201年)である。​アルイ​​阿雷​の会と、犍河の会は、両年につらなっており分けられない。ともにするところの​イキラス​​亦乞剌思​​ホルラス​​火魯剌思​火は原書では大。張石州が校正する。​ドルバン​​朵魯班​​タタル​​塔塔兒​​ハダギン​​哈荅斤​​サンヂウ​​散只兀​諸部は、犍河で会い、通世案、秘史は​ケンムレン​​刊沐漣​河洲の地とする。​ムレン​​沐漣​は、モンゴル語で河である。 洪氏は「今の​オロス​​俄羅斯​地図を調べると、​エルグヌ​​額爾古訥​河東に​ハン​​旱​河という支流があり、​フルン ノール​​呼倫 淖爾​の東北約三百里にある。水道提綱は「​ケルルン​​克魯倫​河は、また折れてまっすぐ北に流れ、東南から​ハルン​​浯輪​河など五つの川と合流する​チエン​​振​河があり、西北に流れ合流する」。内府輿地〈[#「内府輿地」は淸の康熙帝時代の地理書]〉は根河とする。 根・振・旱・腱・刊、みな訳音が異なる。秘史は「​エルグネ​​額兒古捏​河に沿って進み、​ケンムレン​​刊沐漣​に至る」と言い、必ずやこの河である。​ヂヤムカ​​札木合​がむかし​エルグネ​​額兒古捏​河に居たことが、秘史に見える。よって諸部みな​エルグネ​​額兒古捏​の南にあり、北に行きともに合い、ゆえに沿って進みと言うのである」と言う。 共に​ヂヤムカ​​札木合​​グル カガン​​局兒 可汗​として立て曽植案、秘史蒙文は​グルカ​​古兒合​、説明は「​グル​​古兒​は、​あまね​​普​くである。合は皇帝である」と言う。そうであるならば​グル カン​​局兒 汗​は、思うに諸部の長であり、大皇帝というようなものか。通世案、西遼の​グル カン​​古兒 汗​は同じ意味である。 我らを侵略しようと謀った。​トリユベル​​禿律別兒​河の岸で盟約し、律は原書では津。秋濤が元史 本紀に拠って律とする。通世案、西史は​トラヤン​​禿拉沿​とし恐らく誤っている。 「すべての我ら謀りごとを同じくし、この誓を漏らす者があれば、岸のように砕き、林のように切る」と言って誓とした。言い終わり、ともに足をあげて岸を踏み、刀をふるって林を切り、人々を駆けさせ馬を駆けさせ、残らずわが軍に走り向かった。​タハイハ​​塔海︀哈​という者があり、その時は人々の中に居た。上の麾下​ヂヤウレイ​​照烈​​チヤウル​​抄吾兒​ 秋濤案、元史 本紀は​チヤウル​​抄吾兒​とする。元史 列伝は​チヤウレイタイ チヤウル​​召烈台 抄兀兒​とし、通世案、​ヂヤウレイ​​照烈​氏、つまり秘史の​ヂヤウレイト​​沼兀列亦惕​氏、また​ヂヤウレダイ​​沼列歹​氏と言う。ゆえに​チヤウレタイ​​召烈台​ともする。元史の伝は誤っていない。 とこれは親しかった。行ってこれと会い、並んでいっしょに駆け、まことにこの謀計を知らないでいた。​タハイハ​​塔海︀哈​の馬の鞭が彼の肋骨をついた。​チヤウル​​抄吾兒​は振り向いた。​タハイハ​​塔海︀哈​は彼に目くばせした。​チヤウル​​抄吾兒​は悟り、下馬して寝るふりをした。〈[#「臥」は四庫全書存目叢書本では「施」で「小便をする」の意]〉​タハイハ​​塔海︀哈​は寄り添い彼に河上の盟を告げ、「事は差し迫っている。お前はどこにいくのか」と言った。​チヤウル​​抄吾兒​は驚き、ただちに帰り、​ホルラ​​火魯剌​​エスガイ​​也速該​に遇いその事を言い、まさに急いで上にこれを告げようとした。 ​エスガイ​​也速該​は「私は常に婦人の子であり、秋濤案、四字に誤りの疑いが有る​フランブハ​​忽郞不花​曽植案、​フランブハ​​忽郞不花​は、おそらく​フランブダ​​忽郞不荅​であろう。これは後文の​フランバード​​忽蘭八都︀​である。おそらく​ゴロラス​​豁羅剌思​の有力者であろう。ゆえに彼がこれを知ることを恐れた。昼も夜もなく往来している。私のそばの人はみな幼子があり動かず家人​タイリタイ​​大力台​だけがともにする」と言った。曽植案、​タイリタイ​​大力台​の大の字は誤りで、火とする。​ホリタイ​​火力台​、つまりは秘史巻五の​ゴリダイ​​豁里歹​である。この​ホルラ​​火魯剌​氏、秘史は​ゴロラス​​豁羅剌思​とし、明らかとしてよい。 それで​タイリタイ​​大力台​が誓うよう命じて去り、蒼い​ろば​​驢馬​と白い馬に乗せた。これに委ねて「お前が彼のところに着いたら、ただ上および后とともに我が壻の​ホチエル​​哈徹兒​に会って、これを言え。秋濤案、​ホチエル​​哈徹兒​は、おそらく太祖の弟​ハツサル​​哈撒兒​であろう。通世案、何を言っているのか。西史は「​チユチ ハサル​​朮赤 哈薩兒​​バフチダル​​巴忽兒達爾​という子がいる。その母​アルタン ハトン​​阿爾壇 哈敦​は、​ホルラス​​火魯剌思​人」と言う。そうであるならば​エスガイ​​也速該​は、思うに​アルタン​​阿爾壇​の父である。 もしも他人に漏らしたら、お前の腰を断ち、お前の背を裂くことを願う」と言った。誓いが終わり、ただちに行った。通世案、西史は​タハイハ​​塔海︀哈​ ​チヤウル​​抄吾兒​がなく、​エスガイ​​也速該​​メルギタイ​​麥兒吉台​とし、​ホリタイ​​火力台​の舅とする。​ホリタイ​​火力台​はその謀計を聞き、そして​メルギタイ​​麥兒吉台​に語った。​メリギダイ​​麥兒吉歹​は耳の切れた白馬を預かり、使いして速く往い変を告げた。秘史もだた「​ゴロラス​​豁羅剌思​種の人​ゴリダイ​​豁里歹​に、​グレルグ​​古連勒古​の地に至らせ、​チンギス​​成吉思​に告げた」と言う。 本書はひとり詳しく述べている。しかし諸書は太祖の所在を記さず、秘史に頼り、まだ​グレルグ​​古連勒古​に居ると理解する。おそらく​ヂヤムカ​​札木合​と離れこの地に帰ってから、十有余年、いまだかつて他に移らなかった。前文の「上は​サリ​​薩里​河の​ブルグ​​不魯吿​崖で​ワン カガン​​汪 可汗​と会い」は、この年の​コイテン​​闊亦田​戦の後の事である。ここに至って始めて​ブルグ​​不魯吿​崖に移った。これはつまり​ボルテ​​孛兒帖​を娶った後にしばらく居たところの​ケルレン​​客魯漣​河源​ブルギ​​不兒吉​岸である。また前文の自ら​ナイマン​​乃蠻​を撃ち帰って、​サリ​​薩里​川に駐留したのは、明年壬戌(1202年)の事である。これより後、​サリ​​薩里​の野は、永らく太祖の竜庭となったのであった。 道の途中で​フランバード​​忽蘭八都︀​に遇った。曽植案、元文類 張士観昌王世徳碑に「諸部に諭旨し、おのおの子弟を遣わして入侍させた。​ホルラダイ​​火魯剌帶​​ハルバタイ​​哈兒八台​は聖旨を違えた。忠武王に命じて​ボト​​孛圖​に兵千人を出させてこれを誅した」とある。​ハルバタイ​​哈兒八台​は、おそらくこの​フランバード​​忽蘭八都︀​であろう。通世案、​ベレジン​​伯哷津​は「​ホイイン​​槐因​人、​タイチウト​​泰赤烏特​部のなかま」と言う。​ホイイン​​槐因​は樹林を言う。 いわゆる森の民で、​タイチウト​​泰赤烏特​に属する者。​ハラメリギタイ​​哈剌蔑力吉台​通世案、​ベレジン​​伯哷津​は「これは​ホルラス​​火魯剌思​人」と言い、誤っている恐れがある。​メルキ​​蔑兒乞​人とあてる。軍が囲み、その遊軍の兵に捕らえられる所となった。〈底本-354 百を以って秋濤案、欠けた字がある。得て解いた。そこで獺色の完全な馬を贈り、「この馬は、危険から遁れることができ、人に追いつくことができる。乗り捨ててよい」と言った。 通世案、西史は「​ハラメルギダイ​​哈剌蔑兒乞歹​が見つけてこれを捕らえた。だがこの人も​チンギス​​成吉思​に心を寄せており、己の黒馬を云云」。やがてまた氊車白帳の隊に遇い、​ヂヤムカ​​札木合​勢に至った。通世案、西史は別隊が​ヂヤムカ​​札木合​の白い幕舎を載せていたとする。隊中の人が出て​チヤウル​​抄兀兒​を追った。​チヤウル​​抄兀兒​は馬に乗って馳け尽くして脱し、上の前に至り、つぶさに前の謀計を告げた。上はただちに兵でこれを迎え、 通世案、元史は、兵の上に起の字がある。おそらくこれは抜けている。秘史は「​チンギス​​成吉思​​ワンカン​​王罕​を攻めることを望んだ」と言う。また「​チンギス​​成吉思​​ワンカン​​王罕​に人を遣わして告げて助けた。​ワンカン​​王罕​はここに軍馬を収集し、​チンギス​​成吉思​がやって来た。​ワンカン​​王罕​​チンギス​​成吉思​は互いに接し合いつつ、​ケルレン​​客魯連​河に沿って行き​ヂヤムカ​​札木合​を迎え」と言う。史録西史、どれも​ワンカン​​王罕​を言わず、​ワンカン​​王罕​の功をかくそうとするかのようである。洪氏は反対に「この役は、​ワンカン​​汪罕​は会う約束には至らず、秘史は元史の紀のこれを引用し、いろいろ錯誤している」と言う。その秘史については、細かく考えていないようである。又案、秘史は​ハイラル​​海︀剌兒​の戦いはなく、すぐに後文の「上先遣騎」のくだりで触れる。​ハイラル テニホルハン​​海︀剌兒 帖尼火魯罕​の野で戦い 秋濤案、元史 ​チヤウレイタイ チヤウル​​召烈台 抄兀兒​伝は、​ハイラル アダイイルフン​​海︀剌兒 阿帶亦兒渾​とする。通世案、西史は​イチホルハン​​亦提火兒罕​とし、上三字の音が脱落している。​ハルフ​​華而甫​は墓地と解釈し、​ハンメル​​罕默兒​は七つの墳丘と解釈した。洪氏は「場所は刊河の南。​ハイラル​​海︀剌兒​正河の名は、​テニ​​帖尼​支河の名で、​ホルハン​​火魯罕​、モンゴル語で小河をいう」と言う。案、​ハイラル​​海︀拉兒​河は今は​カイラリ​​開拉里​河とする。源は​ノニ​​諾尼​河源の山の西麓を出て、東より西北に流れる河川に合流し、​フルン​​呼倫​湖の東北に流れ出る川と合流する。水道提綱を見よ。​ホヲルト​​和渥兒特​のモンゴル図は​カイラル​​凱剌兒​とする。 これを破った。​ヂヤムカ​​札木合​は脱走し、秋濤案、元史 ​チヤウレイタイ チヤウル​​召烈台 抄兀兒​伝は「​ヂヤムカ​​札木合​らを滅ぼし尽くし」とする。案、​ヂヤムカ​​札木合​は、癸亥年(1203年)になお健在で、​ワン カガン​​汪 可汗​とともにモンゴルを討伐しに来ており、であれば伝は誤りである。 ​ホンギラ​​弘吉剌​部が来降した。秋濤案、元史 ​チヤウレイタイ チヤウル​​召烈台 抄兀兒​伝は「時に​ハラチ​​哈剌赤​​サンヂル​​散只兒​​ドルバン​​朵魯班​​タタル​​塔塔兒​​ホンギラ​​弘吉剌​​イキレス​​亦乞列思​などがあり、堅河のほとり​フラネルギ​​忽蘭也兒吉​の地にいて、​ヂヤムカ​​札木合​を帝として奉じようと謀り、まさに太祖に不利になった。​チヤウル​​抄兀兒​はその謀計を知り、馳けて太祖に告げた。ついに兵をもって​ハイラル アダイイルフン​​海︀剌兒 阿帶亦兒渾​の地を収め、​ヂヤムカ​​札木合​らを滅ぼし尽くした。ひとり​ホンギラ​​弘吉剌​が入り降った。太祖は​ダラハン​​荅剌罕​の名を賜うた」と言う。つまりこの事である。元史 本紀は諸部を載せ、親征記〈[#「記」はママ。元史類編に含まれる聖武親征記のことか]〉と合う。 伝は​ホルラス​​火魯剌思​​ハダギン​​哈荅斤​二部はなく、​ハラチ​​哈剌赤​部が多い。ひとりこれは異なる。堅河は、犍河である。通世案、秘史「​ホンギラ​​弘吉剌​部が来降した」の句がない。これは癸亥(1203年)の​カランヂ​​合蘭只​戦後の​テムゲ アマン​​帖木哥 阿蠻​の降伏の事を言う。思うに元史はしまいにこれを言ったのであろう。​チヤウル​​抄兀兒​伝の​ハラチ​​哈剌赤​は、この​ホルラス​​火魯剌思​の音の変化にあたり、​ハダギン​​哈荅斤​の字の誤りではない。



〈史45-164下10壬戌,〈宋理宗景定三年,金章宗泰和二年。〉發兵于兀魯回失連眞河

壬戌原注「宋理宗景定三年、金章宗泰和三年」。張石州曰「壬戌、乃宋寗宗嘉泰二年、金章宗泰和二年。」通世案、史錄自此始有紀年、與祕史合。但據祕史、是役卽前文荅蘭捏木兒哥之戰。此誤分爲兩事、而此處失戰地名。發兵於兀魯回失連眞河、曾植案、卽祕史之浯泐灰溼魯格泐只惕名字的水。通世案、沈所引在祕史卷七。卷五叙此戰處、作兀勒灰河失魯格勒只惕地面。伯哷津作兀魯灰失魯楚兒只特河、字數與祕史合。水道提綱云「蘆河、土名烏爾虎河、源出索岳爾濟山、南流隨山麓、曲曲而西南、三百里許、經烏珠穆沁左翼東六十里、折而西流、北合色野爾濟河、南合音札哈河賀爾洪河、入右翼界、至克勒河朔之地涸」。蒙古遊牧記云「烏珠穆沁左翼牧地、當索岳爾濟山西、有鄂爾虎河、繞其游牧、滙於和里圖淖爾」。又云「一統志圖作吳兒灰、方略作吳兒會・烏爾會・烏勒揮・吳爾揮」、文卿曰「考兀魯灰河卽此。色野爾濟、卽索岳爾濟。山名、亦河名。急讀色野爾濟、卽成失連眞」、故史錄皆爲河名。失魯楚兒只、卽索岳爾濟之訛。祕史謂地名、又中有格字音、不能相合。俄羅斯地圖、兀魯灰變音爲烏拉圭、色野爾濟作蘇攸勒奇。兩河會而爲淖爾、與游牧記合、與提綱不合。內府輿圖作烏爾揮河、形與俄圖略同、與提綱所云不盡符合、惟亦無滙入之淖爾。又虞集句容郡王世勳碑「也只里王爲叛王火魯哈孫所攻。王從成宗、移師援之、敗諸︀兀魯灰、還至哈剌溫山、夜渡貴列河、敗叛王哈丹之軍、盡得遼左諸︀部」。兀魯灰卽此河、與哈剌溫山相近、與遼東亦近〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」あり]〉。案祕史、太祖︀與塔塔兒四種、戰于荅闌捏木兒格思之地敗之、遂至兀勒灰河、掠四種奧魯。是兀勒灰河、卽四種遊牧之地、而在荅闌捏木兒格思之南也。故祕史卷七、太祖︀泝浯泐灰水、入荅闌捏木兒格思、又自其地順合泐合河而北歸。今此書云發兵於兀魯回河、如戰地又在其南、誤也。伐案赤塔塔兒・察罕塔塔兒。通世案、祕史作察阿安塔塔兒等四種。喇施特云「塔塔兒共六部」一曰禿禿瑠特。二曰阿勒濟、卽案赤也。三曰札干、卽察罕也。餘三部、多桑作庫音・特拉特・別爾奎、額兒忒曼作奎新・訥載特・頁爾奎。夏、頓兵避暑︀。先誓眾曰「苟破敵逐北、見棄遺物、愼勿顧。軍事畢、共分之」。通世案、此下、祕史有「若軍馬退動、至原排陳處、再要翻回力戰。若至原排陳處、不翻回者︀斬」數語。西史亦不載。旣戰、屢勝。族人案彈・火察兒・荅力台三人背約。通世案、案彈卽按壇、祕史阿兒壇斡惕赤斤、忽圖剌合罕第三子、爲太祖︀族父。火察兒、祕史忽察兒別乞、捏坤太子之子、爲太祖︀從兄。荅力台、祕史荅里台斡惕赤斤、把〈底本-355 兒壇把阿禿兒第四子、爲太祖︀季父。皆已見上。〈[#「已」は底本では「巳」]〉上令虎必來秋濤案、祕史作忽必來。折別二將、通世案、祕史忽必來、巴魯剌氏、太祖︀離札木合時來屬。折別、卽哲別、祕史者︀別、前年辛酉斡難︀河、戰後、自泰亦赤兀惕軍中來降。而闊亦田役、實在斡難︀河戰之前、者︀別嶺目上射。斷太祖︀馬項骨。今者︀別已在太祖︀麾下、可證本書叙闊亦田役在後之誤。盡奪其所獲散軍中。通世案、此下、祕史叙事甚詳。一、太祖︀遂至兀勒灰河、掠四種塔塔兒奧魯。二、太祖︀與親族議、盡誅塔塔兒男子大者︀、餘爲奴婢分之、以報父讎。別勒古台洩其謀、塔塔兒據山寨拒鬪、軍多死傷。太祖︀自此不許別勒古台・荅里台與軍議。三、太祖︀納塔塔兒也客扯連女也速干。也速干薦其姊也遂、太祖︀遂納也遂。四、太祖︀殺︀也遂故夫。此四條、史錄西史皆不載。葢脫必赤顏原本已闕之、當或疏脫、或諱言。祕史又云「狗兒年、太祖︀剿塔塔兒時、王罕去剿篾兒乞、追脫黑脫阿、入巴兒忽眞脫窟木之地、殺︀其長子脫古思別乞、執二女忽禿黑台・察阿侖及妻子、擒二子及衆民。所獲財物、於太祖︀一無所遺」。此卽不兀剌川之役、而與兀勒灰河之役同時。本書誤叙莫那察山戰之後。塔塔兒篾兒乞旣平、太祖︀與王罕連兵、征乃蠻不亦魯黑汗。以乃蠻亦與阿勒灰泉之會也。是於有兀瀧古河之擒、乞溼泐巴失之剿、巴亦荅剌黑之對陳、王罕之移營、札木合之構讒。太祖︀旣歸撒阿里、復遣四傑救客列亦部。由是王罕感德、重訂父子之好。此皆壬戌年中之事。葢十一部之亂、跨酉戌兩年、發端於阿勒灰泉、終於乃蠻之役。祕史叙述、本有次第。本書乃於王罕東歸之後、先叙篾兒乞乃蠻之役、在乃蠻開釁之前、而闊亦田役、則却在不亦魯黑汗敗遁之後。傎倒錯誤、不可勝糾。

訳文 三五-三六

壬戌(1202年)原注「宋 理宗 景定 三年、金 章宗 泰和 三年」。張石州は「壬戌(1202年)は、まさに宋 寧宗 嘉泰 二年、金 章宗 泰和 二年である。」と言う。通世案、史録はここから紀年の存在が始まり、秘史と合う。ただし秘史に拠ると、この役は前文の​ダラン ネムルゲ​​荅蘭 捏木兒哥​の戦いである。これは二つの事に誤って分け、そしてこの場所の戦地名を失った。 ​ウルフイシレンヂ​​兀魯回失連眞​河で挙兵し、曽植案、これは秘史の​ウルクイシルゲルヂト​​浯泐灰溼魯格泐只惕​という名の川。通世案、沈曽植は秘史巻七を引いている。巻五はこの戦いの場所を述べ、​ウルクイ​​兀勒灰​​シルゲルヂト​​失魯格勒只惕​の地とする。​ベレジン​​伯哷津​​ウルフイシルチユルヂト​​兀魯灰失魯楚兒只特​河とし、秘史と字数が合う。水道提綱は「蘆河は、現地の呼称は​ウルフ​​烏爾虎​河で、源は​ソヨルヂ​​索岳爾濟​山を出て、南に流れ山麓に沿って行き、西南に曲がりくねり、三百里進み、​ウヂユムチン​​烏珠穆沁​左翼東六十里を経て、折れて西に流れ、北は​セエルヂ​​色野爾濟​河と合流し、南は​インヂヤハ​​音札哈​​ハルホン​​賀爾洪​河に合流し、右翼の境界に入り、​クル​​克勒​河の源流の枯れた地に至る」と言う。 蒙古遊牧記は「​ウヂユムチン​​烏珠穆沁​左翼の牧地は、​ソヨルヂ​​索岳爾濟​山の西にあたり、​オルフ​​鄂爾虎​河があり、その游牧地を繞り、​ホリト ノール​​和里圖 淖爾​に集まる」。また「一統志図は​ウルフイ​​吳兒灰​とし、方略〈[#訳せない。平定羅刹方略のことか]〉​ウルフイ​​吳兒會​​ウルフイ​​烏爾會​​ウルフイ​​烏勒揮​​ウルフイ​​吳爾揮​とする」と言い、洪文卿は「考えるに​ウルフイ​​兀魯灰​河はこれである。​セエルヂ​​色野爾濟​は、​ソヨルヂ​​索岳爾濟​である。山名は、河名でもある。急いで​セエルヂ​​色野爾濟​を読むと、​シレンヂン​​失連眞​になる」と言い、ゆえに史録みな河名とする。 ​シルチユルヂ​​失魯楚兒只​は、つまり​ソヨルヂ​​索岳爾濟​の訛りである。秘史が言う地名は、また音を表す文法の字である中があり、たがいに合わない。​オロス​​俄羅斯​地図は、​ウルフイ​​兀魯灰​は音を​ウラクイ​​烏拉圭​と変え、​セエルヂ​​色野爾濟​​スユルキ​​蘇攸勒奇​とする。ふたつの河が合流して​ノール​​淖爾​となるのは、蒙古游牧記と合い、水道提綱と合わない。内府輿図は​ウルフイ​​烏爾揮​河とし、かたちは​オロス​​俄羅斯​図略と同じで、提綱の言う所とあまり符合せず、ただこれにめぐり入る​ノール​​淖爾​もない。また虞集の句容郡王世勲碑に「​エヂリ​​也只里​王が叛いて王​ホルハスン​​火魯哈孫​の所を攻めた。王は成宗〈[#「成宗」はテムル・カンの廟号]〉に従い、軍を移してこれを援け、諸​ウルフイ​​兀魯灰​を破り、​ハラウン​​哈剌溫​山に帰り至り、夜に​グレ​​貴列​河を渡り、叛王​ハダン​​哈丹​之軍を破り、遼左諸部のすべてを得た」とある。 ​ウルフイ​​兀魯灰​はこの河であり、​ハラウン​​哈剌溫​山と近く、遼東とも近い。秘史を調べると、太祖と​タタル​​塔塔兒​四種は、​ダラン ネムルゲス​​荅闌 捏木兒格思​の地で戦いこれを破り、ついに​ウルクイ​​兀勒灰​河に至り、四種の​アウル​​奧魯​を掠めた。この​ウルクイ​​兀勒灰​河は、四種が遊牧する地で、​ダラン ネムルゲス​​荅闌 捏木兒格思​の南にある。秘史巻七により、太祖は​ウルクイ​​浯泐灰​川をさかのぼり、​ダラン ネムルゲス​​荅闌 捏木兒格思​に入り、またその地より​カルカ​​合泐合​河に沿って北に帰った。今この書は​ウルフイ​​兀魯回​河で挙兵したと言い、戦地もその南にあるようで、誤っている。 ​アンチ タタル​​案赤 塔塔兒​​チヤハン タタル​​察罕 塔塔兒​を征伐した。通世案、秘史は​チヤガアン タタル​​察阿安 塔塔兒​など四種とする。​ラシツド​​喇施特​は「​タタル​​塔塔兒​はあわせて六部」と言い一つ目は​トトリウト​​禿禿瑠特​と言う。二つ目は​アルヂ​​阿勒濟​と言い、​アンチ​​案赤​である。三つ目は​ヂヤガン​​札干​と言い、​チヤハン​​察罕​である。残りの三部は、​ドーソン​​多桑​​グイン​​庫音​​トラト​​特拉特​​ベルクイ​​別爾奎​とし、​エルドマン​​額兒忒曼​​クイシン​​奎新​​ヌザイト​​訥載特​​エルクイ​​頁爾奎​とする。 その夏、兵をとどめて暑避した。あらかじめ軍兵をいましめ「もし敵を破って退けたら、遺物を見捨てて、顧みず慎め。戦いが終われば、ともにこれを分ける」と言った。通世案、この下、秘史は「もし軍馬が退き動かされれば、もとの押し出されたところに至り、再び戻って力戦せよ。もとの押し出されたところに至れば、翻らない者を斬れ」と数語が有る。西史も載せていない。戦い尽くして、たびたび勝った。族人​アンタン​​案彈​​ホチヤル​​火察兒​​ダリタイ​​荅力台​の三人が約束に背いた。通世案、​アンタン​​案彈​​アンタン​​按壇​であり、秘史の​アルタン オツチギン​​阿兒壇 斡惕赤斤​​クトラ カガン​​忽圖剌 合罕​の第三子、太祖の大叔父の子とする。火察児は、秘史の​クチヤル ベキ​​忽察兒 別乞​​ネクン タイシ​​捏坤 太子​の子、太祖の従兄とする。​ダリタイ​​荅力台​は、秘史の​ダリタイ オツチギン​​荅里台 斡惕赤斤​〈底本-355​バルタン バアトル​​把兒壇 把阿禿兒​の第四子、太祖の末の叔父とする。皆すでに前文に見える。 上は​フビライ​​虎必來​秋濤案、秘史は​クビライ​​忽必來​とする。​ヂエベ​​折別​二将に命じて、通世案、秘史の​クビライ​​忽必來​​バルラ​​巴魯剌​氏、太祖が​ヂヤムカ​​札木合​と離れた時に来属した。​ヂエベ​​折別​は、​ヂエベ​​哲別​、秘史の​ヂエベ​​者︀別​、前年辛酉(1201年)​オナン​​斡難︀​河で、戦った後、​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​軍中から来降した。そして​コイテン​​闊亦田​役は、実は​オナン​​斡難︀​河戦の前に在り、​ヂエベ​​者︀別​は嶺から見て上を射た。太祖の馬の首骨を切った。今​ヂエベ​​者︀別​はすでに太祖の麾下にあり、本書が​コイテン​​闊亦田​役があった後とする誤りを述べているのは明らかと見てよい。その場所を奪い尽くし獲り軍中で分けさせた。通世案、この下、秘史は叙事が甚だ詳しい。一、太祖ついに​ウルクイ​​兀勒灰​河に至り、四種の​タタル​​塔塔兒​​アウル​​奧魯​を掠めた。二、太祖と親族が話し合い、​タタル​​塔塔兒​の男子の年長者を殺し尽くし、残りを奴婢として分け、もって父の仇に報いた。​ベルグタイ​​別勒古台​がその謀計を洩らし、​タタル​​塔塔兒​は山寨に籠って抗戦し、軍兵が多く死傷した。太祖はこれから​ベルグタイ​​別勒古台​​ダリタイ​​荅里台​に軍議を許さなくなった。三、太祖は​タタル​​塔塔兒​​エケ チエレン​​也客 扯連​の娘​スゲン​​也速干​を受け入れた。​スゲン​​也速干​はその姉​エスイ​​也遂​を薦め、太祖はそのまま​エスイ​​也遂​を納めた。 四、太祖が​エスイ​​也遂​の前夫を殺した。この四つのくだりは、史録西史いずれも載せていない。思うに​トビチヤン​​脫必赤顏​原本はすでにこれが欠けていた、あるいはうっかり抜けた、あるいは言うのをはばかったのであろう。 秘史はまた「狗児年、太祖が​タタル​​塔塔兒​を滅ぼした時、​ワンカン​​王罕​​メルキ​​篾兒乞​を滅ぼし去り、​トクトア​​脫黑脫阿​を追い、​バルクヂン トクム​​巴兒忽眞 脫窟木​の地に入り、その長子​トグス ベキ​​脫古思 別乞​を殺し、その娘二人​クトクタイ​​忽禿黑台​​チヤアルン​​察阿侖​及び妻子を捕まえ、その二子及び民衆を捕まえた。財物を取ったが、太祖に一つも贈らなかった」と言う。これは​ブウラ​​不兀剌​川の役であり、そして​ウルクイ​​兀勒灰​河の役と同じ時である。 本書は誤って​モノチヤ​​莫那察​山の戦いの後に述べている。​タタル​​塔塔兒​​メルキ​​篾兒乞​はすでに平定され、太祖と​ワンカン​​王罕​は兵を連ね、​ナイマン​​乃蠻​​ブイルク カン​​不亦魯黑 汗​を討ちに行った。そして​ナイマン​​乃蠻​​アルクイ​​阿勒灰​泉の集会をともにしたのである。ここにおいて​ウロング​​兀瀧古​河の捕縛、​キシルバシ​​乞溼泐巴失​の剿滅、​バイダラク​​巴亦荅剌黑​の対戦、​ワンカン​​王罕​の移営、​ヂヤムカ​​札木合​の讒言があった。 太祖はすでに​サアリ​​撒阿里​に帰り、さらに四傑を遣わして​ケレイ​​客列亦​部を救った。これにより​ワンカン​​王罕​は徳を感じ、重ねて父子のよしみをはかった。これみな壬戌年(1202年)中の事である。思うに十一部の乱は、酉戌両年に跨り、​アルクイ​​阿勒灰​泉を発端に、​ナイマン​​乃蠻​の役で終わった。秘史の叙述は、本に順序がある。本書は​ワンカン​​王罕​が東に帰った後のことが、​メルキ​​篾兒乞​​ナイマン​​乃蠻​の役を先に述べ、​ナイマン​​乃蠻​との開戦の前にあり、しかし​コイテン​​闊亦田​役は、反対に​ブイルク カン​​不亦魯黑 汗​敗遁の後にある。転倒と錯誤があり、調べ正せない。



〈史45-164下14是秋,乃蠻孟祿可汗會滅力乞部長脫脫別吉、朶魯班、塔塔兒、哈塔斤、散只兀諸部

是秋通世案、闊亦田之役、祕史在辛酉年、葢與刊河之會、相屬、不隔時月。故兩汗東征、非還而復往、諸︀部連兵、亦非散而復聚。乃蠻盃綠可汗、通世案、盃綠、卽盃祿、祕史不亦魯黑。不亦魯黑與刊河之盟、故兩汗剿塔塔兒篾兒乞之後、連兵窮討、不亦魯黑北遁、乃蠻之勢遂弱。設使乃蠻之役在前、如本書所叙、則不亦魯黑、豈能自來與兩汗抗敵哉。本書次序顚倒、亦以明矣。會蔑力乞部長脫脫別吉、通世案、西史作托克塔別乞。朵魯班・塔塔兒・哈荅斤・散只兀諸︀部、曁〈東方學デジタル圖書館-39阿忽出拔都︀・通世案、卽上阿忽失拔都︀、又沆忽阿忽出、祕史阿兀出把阿禿兒、泰亦赤兀惕部長也。西史爲撒兒助特部長、下文又爲哈荅斤人、並誤。忽都︀花別吉通世案、西史云「衞剌特部長忽都︀花別乞、朵兒奔部人也」。本書下文、亦曰猥剌部長。衞剌特部居額尼𧶼河上流、與朵魯奔部隣接。等、來犯我軍及汪可汗。上先遣騎乘高覘望於捏干貴因都︀・徹兒・赤忽兒黑諸︀山。有騎自赤黑山秋濤案、當作赤忽兒黑山。來、吿乃蠻漸至、通世案、祕史云「成吉思使阿勒壇等三人作頭哨、王罕使桑昆等三人作頭哨。其頭哨內、又自差人、前去額捏堅歸列禿・徹克徹列〈[#「徹克徹列」は底本では「撒克撒列」。元朝秘史 四部叢刊本に倣い修正]〉・赤忽兒忽三處地面哨望。其阿勒壇等至兀惕乞牙〈[#「兀惕乞牙」は底本では「兀乞惕牙」]〉地面。有赤忽兒忽哨望人來報說「敵人將至」」。徹克徹列・赤忽兒忽、祕史卷一作扯克徹兒〈[#「扯克徹兒」は底本では李文田氏十五卷本と同じ「扯克撒兒」。元朝秘史 四部叢刊本に倣い修正]〉・赤忽兒古兩山、又作扯克扯兒地面、卷二作扯克徹兒・赤忽兒忽兩山、云「順客魯漣河、到兩山間、尋德薛禪家」。德薛禪、卽迭夷、翁吉剌部長也。卷七又云「合泐合河流入捕魚兒海︀子處、有帖兒格等翁吉剌」。是翁吉剌部、居兩山間、而近貝爾諾爾、則兩山近貝爾諾爾可知也。徹兒疑有脫字。上與汪可汗自兀魯回失連眞河連原作速。秋濤案、速疑作連。通世依前文、改速爲連。案、兀魯回河、卽四種塔塔兒奧魯所在也。是時塔塔兒未滅、正與羣部連兵、脅兩汗。兩汗安得悠然過其庭耶。祕史無此句。西史則同之、疑脫必赤顏本有誤。移軍入塞。秋濤案、所謂入塞出塞者︀、當指阿蘭塞也。文田案、塞當作寨。曾植案、阿蘭塞、葢金之邊垣。太祖︀曾受金官、故事急、輒南引保塞。後與王罕戰後、退軍至荅蘭捏木兒、情事亦復相類︀。此時猶依大國以自强。故入貢時、於衞紹王相見、而耶律阿海︀兄弟、皆款附於辛未之前也。其間亦已不免︀小小盜邊。禿花傳「率衆歸太祖︀、嚮道入金境、獲牧馬甚眾」。在飮班朮河水以前。是其事也。又案速不台傳「兄忽魯渾以百戶從太祖︀、與乃蠻部主、戰於長城之南。忽魯渾射却〈[#「却」は底本では「郤」。元史 四庫全書本に倣い修正]〉之。其眾奔闊赤檀山而潰〈[#「赤」は底本では「亦」。元史 四庫全書本に倣い修正]〉」。卽此戰事。乃蠻部主、卽盃祿、長城、卽移軍所入塞也。通世案、喇施特曰「向汪古部地以行、近哈剌溫赤敦」。洪氏曰「當卽史之阿蘭塞、是山近金東北界」。通世別有案、見後。汪可汗子亦剌合居北邊、後至、據高嶺方下營。盃祿可汗易之曰「彼軍漫散。候其眾聚、吾悉捲之」。時阿原作附。秋濤校改。忽水原作大、秋濤校改。都︀一部兵、從乃蠻來、與前〈底本-356 鋒合、通世案、喇施特作「遣阿忽出巴哈都︀兒及托克塔別乞之弟忽都︀爲前鋒」。自注「托克塔子忽都︀。弟亦曰忽都︀」。將戰。遙望亦剌合軍勢不可動、遂還。亦剌合尋亦入塞、會我軍擬戰、置輜重他所。通世案、此處祕史太簡、唯謂「其阿勒壇等遂前迎去拏消息。行間、遇札木合頭哨阿兀出把阿禿兒等四人、說話了、見天色已晩、却回來大軍營內宿了」。上與汪可汗、倚阿蘭塞爲壁、大戰於闕奕壇之野。奕原作蠻。秋濤案、畢氏引史、作圖奕壇、改爲徒伊壇。殿本作闕奕壇、改爲吹丹。未知孰是。文田案、闕奕壇三字、據本紀改正。又據祕史作闊亦田、則知圖闕均誤、蠻字又以減寫奕字上半致譌也。曾植案、據祕史、戰地作闊亦田、則蠻是奕字誤。闕與闊音本相近、圖亦譌字也。通世案、喇施特〈[#「喇施特」は底本では「施特」]〉作奎騰之地。洪氏曰「卽闊亦田之異文。案元史語解曰「奎騰冷也」。是地本寒、又遇雨雪、故皆僵凍。合祕史觀之、此役敵兵未戰而潰。史錄謂大戰於闕奕壇、恐非是也。蒙古游牧記「蘇尼特左翼旗東北四十里有寒山、蒙古名奎騰」。似卽是地」。〈東方學デジタル圖書館-40彼祭風。通世案、祕史云「至次日、成吉思軍與札木合軍相接、於闊亦田地面對陳。布陳間、札木合軍內不亦魯黑・忽都︀合兩人、有術能致風雨云云」。不亦魯黑、卽乃蠻汗、忽都︀合卽衞剌特長也。是時部札木合爲古兒汗、故謂諸︀部連合之兵爲札木合軍也。〈史45-165上1忽反、爲雪所迷、軍亂、塡溝墜壑、塹而還。通世案、祕史云「札木合等共說「天不護祐︀、所以如此」、軍遂大潰」。時札木合同盃祿可汗、未中道、札木合引兵回、遇立爲可汗者︀諸︀部、悉討虜︀之。秋濤案、本紀作「道經諸︀部之立己者︀、大縱掠而去」。案、二文皆難︀解、而紀文尤謬。通世案、祕史云「札木合軍旣潰散後、乃蠻等十一種、各回部落。札木合將立他的百姓擄了、順額洏古涅河回去」。三文皆意明、不知願船何言。西史亦云「札木合見事敗卽退、掠諸︀部之先立己爲汗者︀」。額兒忒曼曰「卽掠哈荅斤等部、乘敗切奪」。說亦中情。又案、祕史此下云「於是王罕追札木合、成吉思追泰亦赤兀惕種阿兀出把阿禿兒云云」。葢十一部中札荅剌泰亦赤兀最强、故兩汗分追之也。於是有斡難︀河之戰、泰亦赤兀部遂滅。此書誤書於阿雷泉會盟之前。札木合葢降王罕、故及兩汗征乃蠻、乃從王罕在軍中。又斡難︀河之戰、太祖︀傷頸。者︀勒篾吮血、又潜入敵營、盜酪飮太祖︀、太祖︀深感其忠。翌日敵自潰去、太祖︀追收其眾、得鎖兒罕失剌女合荅安。祕史叙述頗詳、史錄皆不載。又翌日、鎖兒罕失剌來屬、述不早降之故。者︀別亦降、白闊亦田之役射帝馬、而請死。太祖︀賞其不隱。太祖︀盡殺︀阿兀出子孫、收其民。又泰亦赤兀部失兒古額禿與二子阿剌黑・訥牙阿、執其主塔兒忽台將來獻。旣而訥牙阿縱之。太祖︀亦賞之。數事皆可傳。此書誤書於斡難︀河上會宴之前、亦極疏略。又案、祕史稱合塔斤等十一部落、又稱乃蠻等十一種、而不列其部名、今合祕史及本書考之、是時連兵者︀、實有十一部、卽札答剌・泰亦赤兀・合塔斤・撒勒只兀・亦乞列思・豁魯剌思・塔塔兒・翁吉剌・篾兒乞・朶兒邊・乃蠻也。札答剌部居額爾古納河濱、泰亦赤兀部居敖嫩河下流、合塔斤以下三部、葢皆居乞顏泰亦赤兀之西、塔里・呼倫二湖之邊、豁兒剌思部居敖嫩河之北、塔塔兒部居烏爾孫・烏爾會兩河之間、翁吉剌部居喀爾喀河下流、篾兒乞部居色楞格河下流、朶兒邊部居拜喀爾湖畔、乃蠻部居鄂爾坤河之西、兄弟分國而治、不亦魯黑汗轄其西北境。而乞顏部居敖嫩・克魯倫兩河之源、客列亦部居土剌河濱。翁吉剌以上八部、皆在乞顏之東、唯篾兒乞以下三部在乞顏之西北。乃蠻赴刊河之會、當順色楞格河之上流而下、與篾兒乞・朶兒邊二部、共經肯特山之北、渡敖嫩河而東進。諸︀部起事在東、合戰亦於東。盃亦烈川之戰、海︀剌兒河之戰、皆在克魯倫河之東。闊亦田之役、亦當去貝爾諾爾不甚遠也。此書叙述多誤。考祕史、阿勒灰泉之會、刊河之會、闊亦田之役、斡難︀河之戰、皆一時之事、在辛酉年中。史錄所謂弘吉剌部長迭夷吿變者︀、與豁里歹之事、抄吾兒之事、本皆同事而異聞。擇取其一、可也。史錄分爲兩事、各繫於兩會之下、非是。又諸︀部之擧兵、乃蠻・泰亦赤兀皆與焉。而元史云「諸︀部聞乃蠻・泰赤烏敗、皆畏威不自安」、喇施特云「聞泰赤烏滅亡、益不自安」。此皆本於叙乃蠻役斡難︀河戰於前之誤、而不知二部之敗滅、實在是後也。葢太祖︀王罕之結托、諸︀部皆畏忌之、故有是謀。若翁吉剌以姻戚附敵、則唯由怨合撒兒侵掠。謂刊河之會由是而作、則不然。諸︀部潛師而來、欲襲兩汗、葢泝額洏古涅河也。兩汗順客魯連河迎札木合、於是有海︀剌兒河之戰、敵軍自此南徙。兩汗先鋒至額捏堅歸列禿・徹克徹列〈[#「徹克徹列」は底本では李文田氏十五卷本と同じ「撤克撒列」。元朝秘史 四部叢刊本に倣い修正]〉・赤忽兒忽三地、乘高瞭望。其徹克徹列〈[#「徹克徹列」は底本では李文田氏十五卷本と同じ「撤克撒列」。元朝秘史 四部叢刊本に倣い修正]〉・赤忽兒忽兩山、近貝爾諾爾、如前所述。而赤忽兒忽哨兵、能吿敵人將至、翌日兩軍遇于闊亦田之地、則闊亦田、亦當去赤忽兒忽不遠也。史錄之阿蘭塞、喇施特之喀剌溫赤敦、其地雖不可知、然必不在大漠之南。祕史、太祖︀以孛斡兒出爲右手萬戶、所管西至金山、以木合黎爲左手萬戶、所管東至合剌溫山、在蒙古東邊也。葢金起東陲、諾尼江諸︀源之地、亦皆屬上京道。興安嶺之西麓、喀爾喀河源之地、爲金之邊塞、亦不可知。喇施特曰「翁吉剌特部、居喀剌溫赤敦之地」、又曰「蒙古與乞䚟之界、有齋阿兒郤山」。此謂興安嶺北幹分蒙古女直、而翁吉剌特居其西麓也。以謂翁吉剌特近漢︀塞、則誤矣。本書云「上自兀魯回失連眞河移軍入塞」。是時太祖︀未入兀勒灰河之〈底本-357 地。葢由誤叙兀勒灰河之役於前、牽連記此地名也。至喇施特云「向汪古部地以行」、云「過山隘至汪古部地」、則恐非金字譜牒原文、編者︀以意加之也。盃亦烈川之戰、史錄叙在前。然以地勢考之、當在海︀剌兒河戰之後、闊亦田役之前。且叙事本多複沓、盃亦烈海︀剌兒、本同事異聞、亦不可知。二戰皆祕史不載、眞僞難︀明。闊亦田軍潰、諸︀部散歸、蓋皆向北而走。王罕追札木合降之、太祖︀追泰亦赤兀剿滅之。乃蠻蔑兒乞朶兒邊三部、當是渡斡難︀河而西遁。泰亦赤兀旣平、太祖︀歸忽巴合牙。札合敢不等叛王罕、正在是時。其謂「自曲綠憐河指忽八海︀牙山」者︀、王罕旣平札荅剌部、遡克魯倫河而西歸、過太祖︀冬營之地也。翌年壬戌、太祖︀剿塔塔兒、王罕剿篾兒乞、皆討刊河會盟之黨也。太祖︀敗塔塔兒於荅闌捏木兒格思、遂至兀勒灰河、覆其巢窟。於是太祖︀之兵、始蹂躪漠南矣。其後兩汗連兵征乃蠻、懸軍數千里、遠踰阿爾泰山。以羣部旣平、無後顧之患也。然則是役當必在最後也。祕史所叙本確然無疑。何意脫必赤顏擾其次第、使太祖︀經略之蹟、錯亂不明。甚可惜也。故詳辨之。

訳文 三六-四〇

この秋通世案、​コイテン​​闊亦田​の役は、秘史では辛酉年(1201年)にあり、思うに刊河の会と、あい連なり、時期は離れていない。ゆえに両汗の東征は、還らずまた行き、諸部は兵を率いて、散らずにまた集まる。​ナイマン​​乃蠻​​ブイル カガン​​盃綠 可汗​は、通世案、​ブイル​​盃綠​は、つまり​ブイル​​盃祿​で、秘史の​ブイルク​​不亦魯黑​​ブイルク​​不亦魯黑​および刊河の盟は、ゆえに両汗が​タタル​​塔塔兒​​メルキ​​篾兒乞​を滅ぼした後、連戦して窮め討ち、​ブイルク​​不亦魯黑​は北に逃れ、​ナイマン​​乃蠻​の勢いはついに弱まった。 ​ナイマン​​乃蠻​の役に使いを立てたのは前にあり、本書が述べるように、​ブイルク​​不亦魯黑​は、どうして自ら来て両汗と抗戦できようか。本書の順序の顛倒は、やはり明らかである。​メリキ​​蔑力乞​部長​トト ベギ​​脫脫 別吉​と会い、通世案、西史は​トクタ ベキ​​托克塔 別乞​とする。​ドルバン​​朵魯班​​タタル​​塔塔兒​​ハダギン​​哈荅斤​​サンヂウ​​散只兀​諸部、および​アフチユ バード​​阿忽出 拔都︀​通世案、kこれは前文の​アフシ バード​​阿忽失 拔都︀​、また​ハンフ アフチユ​​沆忽 阿忽出​、秘史の​アウチユ バアトル​​阿兀出 把阿禿兒​​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​部長である。西史は​サルヂユト​​撒兒助特​部長とし、後文で​ハダギン​​哈荅斤​人ともし、ともに誤っている。 ​フドハ ベギ​​忽都︀花 別吉​通世案、西史は「​エイラト​​衞剌特​部長​フドハ ベキ​​忽都︀花 別乞​は、​ドルブン​​朵兒奔​部人である」と言う。本書の後文は、​ヱイラ​​猥剌​部長とも言う。​エイラト​​衞剌特​部は​エニサイ​​額尼𧶼​河上流に居て、​ドルブン​​朵魯奔​部と隣接していた。らは、来て我が軍と​ワン カガン​​汪 可汗​を攻撃した。上はまず​ネゲン クイント​​捏干 貴因都︀​​チエル​​徹兒​​チフルク​​赤忽兒黑​諸山を展望する高みに騎兵を遣わした。​チク​​赤黑​秋濤案、​チフルク​​赤忽兒黑​山とする。より来る騎兵があり、​ナイマン​​乃蠻​がだんだんと至ることを告げ、 通世案、秘史は「​チンギス​​成吉思​​アルタン​​阿勒壇​ら三人を先鋒とし、​ワンカン​​王罕​​サングン​​桑昆​ら三人を先鋒とした。その先鋒のうち、さらに人をつかわして、前に移って​エネグン クレイト​​額捏堅 歸列禿​​チエクチエレ​​徹克徹列​​チクルク​​赤忽兒忽​の三つの地を見張った。その​アルタン​​阿勒壇​らが​ウトキヤ​​兀惕乞牙​の地に至った。​チクルク​​赤忽兒忽​を見張りする人があり来報して「敵人まさに至る」と話した」と言う。​チエクチエレ​​徹克徹列​​チクルク​​赤忽兒忽​、秘史巻一は​チエクチエル​​扯克徹兒​​チクルグ​​赤忽兒古​両山とし、また​チエクチエル​​扯克扯兒​の地とし、巻二は​チエクチエル​​扯克徹兒​​チクルク​​赤忽兒忽​両山とし、「​ケルレン​​客魯漣​河に沿って行き、両山の間に到り、​デイ セチエン​​德 薛禪​の家を尋ね」と言う。​デイ セチエン​​德 薛禪​、つまり​デイ​​迭夷​​オンギラ​​翁吉剌​部長である。巻七も「​カルカ​​合泐合​河は捕れる魚がいる湖に流れ入り、​テルゲ​​帖兒格​​オンギラ​​翁吉剌​があり」と言う。この​オンギラ​​翁吉剌​部、両山の間に居て、​ベイル ノール​​貝爾 諾爾​に近く、つまりは両山は​ベイル ノール​​貝爾 諾爾​に近いとみとめてよいであろう。​チエル​​徹兒​は脱字があるかもしれない。 上と​ワン カガン​​汪 可汗​​ウルフイシレンヂ​​兀魯回失連眞​河より連は原書では速。秋濤案、速はきっと連であろう。通世は前文に拠って、速を連と改める。案、​ウルフイ​​兀魯回​河は、四種の​タタル​​塔塔兒​​アウル​​奧魯​がいる所である。この時​タタル​​塔塔兒​はまだ滅んでおらず、ちょうど仲間の部と兵を連ね、両汗を脅した。両汗はどうして悠然と彼らの狩場を過ぎることができたであろうか。秘史はこの句がない。西史はこれと同じで、おそらく​トビチヤン​​脫必赤顏​本に誤りが有るのだろう。軍を移して塞に入った。 秋濤案、いわゆる入塞と出塞は、​アラン​​阿蘭​塞を指すのである。文田案、塞に寨をあてる。曽植案、​アラン​​阿蘭​塞は、思うに金のそばの城だろう。太祖は以前に金の官職を受け、ゆえに事が差し迫れば、いつも南に引いて塞をたのみとした。後に​ワンカン​​王罕​と戦った後、退軍は​ダラン ネムル​​荅蘭 捏木兒​に至り、真相もまた互いに似ている。この時なおも大国を頼みとして自らを強くした。ゆえに入貢時に、衛紹王に相まみえたこと、および​エリユ アハイ​​耶律 阿海︀​兄弟が心からつき従うことは辛未(1211年)の前である。その間もわずかな略奪さえ免れないのは終わっている。元史 ​トハ​​禿花​伝「衆を率いて太祖に帰順し、道案内をして金との境に入り、牧馬と多くの人を獲った」。​バンチユ​​班朮​河の水を飲む以前にあった。これはその事である。又案​スブタイ​​速不台​伝「兄​フルフン​​忽魯渾​は百戸を率いて太祖に従い、​ナイマン​​乃蠻​部主と、長城の南で戦った。​フルフン​​忽魯渾​は射てこれを退けた。その衆は​ホチタン​​闊赤檀​山に奔りそして潰えた」。この戦いの事である。​ナイマン​​乃蠻​部主は、​ブイル​​盃祿​であり、長城は、軍を移して塞に入った所である。 通世案、​ラシツド​​喇施特​は「​オング​​汪古​部地に向かって行くと、​ハラウン チトン​​哈剌溫 赤敦​に近づく」と言う。洪氏は「元史の​アラン​​阿蘭​塞とするところは、金の東北の国境に近い山である」と言う。通世は別に案があり、後文で見える。​ワン カガン​​汪 可汗​の子​イラカ​​亦剌合​は北のはずれに居て、遅れて至り、高嶺に拠って居住した。​ブイル カガン​​盃祿 可汗​はこれを侮って「彼の軍はしまりがない。その軍勢を待ち迎えて、私はこれを悉く追いつめよう」と言った。この時に阿原書は附とする。秋濤が校改する。忽水原書は大とし、秋濤が校改する。〈[#「忽水」はママ。後文の​フド​​忽都︀​を考えると「忽水」は「忽出・火」の誤植の恐れがある]〉都の一部の兵が、​ナイマン​​乃蠻​に従って来て、先鋒と合い、〈底本-356通世案、​ラシツド​​喇施特​は「​アフチユ バハドル​​阿忽出 巴哈都︀兒​および​トクタ ベキ​​托克塔 別乞​の弟​フド​​忽都︀​を遣わして前鋒とした」とする。那珂氏自注「​トクタ​​托克塔​の子に​フド​​忽都︀​がいる。弟も​フド​​忽都︀​と言う」。 将は戦った。はるかに眺めるに​イラカ​​亦剌合​軍勢は動けず、ついに帰った。​イラカ​​亦剌合​は考えてただ塞に入り、我が軍に会い戦うふりをし、輜重を他所に置いた。通世案、このところ秘史はとてもおおまかで、ただ「その​アルタン​​阿勒壇​らはついに前へ迎えゆき消息をとらえた。軍中、​ヂヤムカ​​札木合​は先鋒の​アウチユ バアトル​​阿兀出 把阿禿兒​ら四人と出会って、相談をし、空の色がすでに晩であるのを見て、退いて大軍で宿営した」と言う。上と​ワン カガン​​汪 可汗​は、​アラン​​阿蘭​塞をたのんで壁とし、​ケイタン​​闕奕壇​の野で大いに戦った。 奕は原書では蛮。秋濤案、畢沅氏は史を引用して、​トイタン​​圖奕壇​とし、​トイタン​​徒伊壇​と改める。殿本は​ケイタン​​闕奕壇​とし、​チユイダン​​吹丹​と改める。どれがよいのかは知らない。文田案、​ケイタン​​闕奕壇​の三字、元史 本紀に拠って改正する。また秘史に拠って​コイテン​​闊亦田​とし、図と闕はひとしく誤りとわかり、蛮の字もまた奕の字を上半分に減らして書き写し誤るに至ったのである。曽植案、秘史に拠り、戦地を​コイテン​​闊亦田​とし、蛮は奕の字の誤りとする。闕と闊の音はもともとは互いに近く、図も誤った字である。通世案、​ラシツド​​喇施特​​クイテン​​奎騰​の地とする。 洪氏は「​コイテン​​闊亦田​の異文である。元史語解は「​クイテン​​奎騰​は冷たい」と言う。この地はもともと寒く、また雨雪に遇い、ゆえにみなこわばり凍える。秘史がこれを観るところと合い、この役は敵兵は戦わずして潰えている。史録は​ケイタン​​闕奕壇​で大いに戦い、恐らくこれは誤りである。蒙古游牧記は「​スニト​​蘇尼特​左翼旗の東北四十里に寒山が有り、モンゴル名​クイテン​​奎騰​」。この地のようである」と言う。彼は風を祭った。通世案、秘史は「次の日になり、​チンギス​​成吉思​軍と​ヂヤムカ​​札木合​軍は相接し、​コイテン​​闊亦田​の地で対陳した。布陳する間、​ヂヤムカ​​札木合​軍のうちの​ブイルク​​不亦魯黑​​クドカ​​忽都︀合​両人は、風雨を招くことのできる術があり云云」。​ブイルク​​不亦魯黑​は、​ナイマン​​乃蠻​の汗で、​クドカ​​忽都︀合​​エイラト​​衞剌特​の長である。この時​ヂヤムカ​​札木合​​グル カン​​古兒 汗​として統括し、ゆえに諸部連合の兵を​ヂヤムカ​​札木合​軍とみなして述べるのである。 風はたちまちひるがえり、雪に迷わされ、軍は乱れ、水堀は埋まり空堀は失われ、堀は元に戻ったかのようであった。通世案、秘史は「​ヂヤムカ​​札木合​らはみな「天は守り助けず、ゆえにこのようである」と語り、軍は遂に大いに潰えた」。その時​ヂヤムカ​​札木合​​ブイル カガン​​盃祿 可汗​はともに、いまだ道理に適わず、​ヂヤムカ​​札木合​は兵を引き返し、​カガン​​可汗​に立てた諸部と遇い、悉く討ってこれを捕らえた。秋濤案、元史 本紀は「道すがら自分を立てた諸部は、大いにほしいままにして掠めて去った」と言う。案、二文どれも難解だが、元史 本紀の文がもっとも誤っている。通世案、秘史は「​ヂヤムカ​​札木合​軍がみな潰え散った後、​ナイマン​​乃蠻​ら十一種は、おのおのの部落に帰った。​ヂヤムカ​​札木合​はまさに彼を立てた人々を掠めて、​エルグネ​​額洏古涅​河に沿って帰り去った」。三文みな意は明らかで、願船が何を言っているのかわからない。西史も「​ヂヤムカ​​札木合​は戦いに負けたのを知りただちに退き、以前に自分を​カン​​汗​に立てた諸部を掠めた」と言う。​エルドマン​​額兒忒曼​は「​ハダギン​​哈荅斤​等部を掠めて、負けに乗じて切って奪った」と言う。話はありのままの事実と合っている。 又案、秘史はこの後文で「これにおいて​ワンカン​​王罕​​ヂヤムカ​​札木合​を追い、​チンギス​​成吉思​​タイイチウト​​泰亦赤兀惕​種の​アウチユ バアトル​​阿兀出 把阿禿兒​を追い云云」と言う。おそらく十一部の中で​ヂヤダラ​​札荅剌​​タイイチウ​​泰亦赤兀​が最も強く、ゆえに両汗は分かれてこれを追ったのである。これにおいて​オナン​​斡難︀​河の戦があり、​タイイチウ​​泰亦赤兀​部はついに滅んだ。この書は誤って​アルイ​​阿雷​泉の会盟の前に書いている。​ヂヤムカ​​札木合​はおそらく​ワンカン​​王罕​に降り、ゆえに両汗は​ナイマン​​乃蠻​を征伐するにおよび、陣営にある​ワンカン​​王罕​に従うに及んだ。また​オナン​​斡難︀​河の戦では、太祖が頸を傷つけられた。​ヂエルメ​​者︀勒篾​は血を吸い取り、また敵営に潜入し、太祖が飲む酪を盗み、太祖はその忠に深く感じ入った。翌日に敵はひとりでに潰え去り、太祖はその軍勢を追って捕らえ、​ソルカン シラ​​鎻兒罕 失剌​の娘​カダアン​​合荅安​を得た。秘史の叙述はすこぶる詳しく、史録いずれも載せていない。 さらに翌日、​ソルカン シラ​​鎻兒罕 失剌​が来属し、早く降れなかった理由を述べる。​ヂエベ​​者︀別​も降り、​コイテン​​闊亦田​の役で帝の馬を射たことを告白し、そして死を請うた。太祖はその隠さないことをほめた。太祖は​アウチユ​​阿兀出​の子孫を殺し尽くし、その民を捕らえた。また​タイイチウ​​泰亦赤兀​​シルグエト​​失兒古額禿​と二子の​アラク​​阿剌黑​​ナヤア​​納牙阿​〈[#「納牙阿」は底本では「訥牙阿」。後文も同じ]〉、その主​タルクタイ​​塔兒忽台​を捕らえてまさに来て献じようとした。やがて​ナヤア​​納牙阿​はこれを逃がした。太祖はまたこれをほめた。かぞえあげた事はみな元史の伝で見られる。この書は誤って​オナン​​斡難︀​河のほとりの宴会の前に書いており、また極めておろそかである。 又案、秘史は​カタギン​​合塔斤​ら十一部落と称し、また​ナイマン​​乃蠻​ら十一種と称するが、その部名を列挙せず、今秘史と本書を合せてこれを考えると、この時に兵を連ねていた者は、実に十一部あり、​ヂヤダラ​​札答剌​​タイイチウ​​泰亦赤兀​​カタギン​​合塔斤​​サルヂウ​​撒勒只兀​​イキレス​​亦乞列思​​ゴルラス​​豁魯剌思​​タタル​​塔塔兒​​オンギラ​​翁吉剌​​メルキ​​篾兒乞​​ドルベン​​朶兒邊​​ナイマン​​乃蠻​である。​ヂヤダラ​​札答剌​部は​エルグナ​​額爾古納​河のほとりに住み、​タイイチウ​​泰亦赤兀​部は​オノン​​敖嫩​河の下流に住み、​カタギン​​合塔斤​以下三部は、おそらくみな​キヤン​​乞顏​​タイイチウ​​泰亦赤兀​の西、​タリ​​塔里​​フルン​​呼倫​二湖の辺に住み、​ゴルラス​​豁兒剌思​部は​オノン​​敖嫩​河の北に住み、​タタル​​塔塔兒​部は​ウルスン​​烏爾孫​​ウルフイ​​烏爾會​両河の間に住み、​オンギラ​​翁吉剌​部は​カルカ​​喀爾喀​河の下流に住み、​メルキ​​篾兒乞​部は​セレンゲ​​色楞格​河の下流に住み、​ドルベン​​朶兒邊​部は​バイカル​​拜喀爾​湖畔に住み、​ナイマン​​乃蠻​​オルクン​​鄂爾坤​河の西に住み、兄弟は国を分けて治め、​ブイルク カン​​不亦魯黑 汗​はその西北境を治めた。 そして​キヤン​​乞顏​部は​オノン​​敖嫩​​ケルルン​​克魯倫​両河の源に住み、​ケレイ​​客列亦​部は​トラ​​土剌​河のほとりに住む。​オンギラ​​翁吉剌​以上八部、みな​キヤン​​乞顏​の東にあり、ただ​メルキ​​篾兒乞​以下三部は​キヤン​​乞顏​の西北にあった。​ナイマン​​乃蠻​は刊河の会に赴き、​セレンゲ​​色楞格​河の上流に沿って下ったことにあたり、​メルキ​​篾兒乞​​ドルベン​​朶兒邊​二部は、共に​ケンテ​​肯特​山の北を経て、​オノン​​敖嫩​河を渡って東に進んだ。諸部が起こした出来事は東にあり、合戦も東であった。​ブイイレ​​盃亦烈​川の戦と、​ハイラル​​海︀剌兒​河の戦は、​ケルルン​​克魯倫​河の東であった。​コイテン​​闊亦田​の役も、​ベイル ノール​​貝爾 諾爾​を去ったことにあたりあまり遠くないのである。 この書の叙述は誤りが多い。秘史を調べると、​アルクイ​​阿勒灰​泉の会、刊河の会、​コイテン​​闊亦田​の役、​オナン​​斡難︀​河の戦、みな一時期の事であり、辛酉年(1201年)中にあった。史録が言うところの​ホンギラ​​弘吉剌​部長​デイ​​迭夷​が変を告げたことは、​ゴリダイ​​豁里歹​の事と、​チヤウル​​抄吾兒​の事、もとがみな同じ事であり異聞である。そのうちのひとつを選び取るのは、さしつかえない。史録は二つの事として分け、それぞれを二つの会の下に繋げており、誤っている。また諸部の挙兵は、​ナイマン​​乃蠻​​タイイチウ​​泰亦赤兀​みな共にしたか。だが元史は「諸部は​ナイマン​​乃蠻​​タイチウ​​泰赤烏​の敗報を聞き、みな勢いを畏れて不安がった」と言い、​ラシツド​​喇施特​は「​タイチウ​​泰赤烏​の滅亡を聞き、ますます不安がった」と言う。 これはみな​ナイマン​​乃蠻​の役を述べるもとの話は​オナン​​斡難︀​河の戦より前の誤りであり、二部の敗滅を知らず、事実はこの後にあったのである。おそらく太祖と​ワンカン​​王罕​の結托は、諸部みなこれを畏れ忌み、ゆえにこの謀計があった。もし​オンギラ​​翁吉剌​が姻戚でありながら敵対すれば、ただ​カツサル​​合撒兒​による侵掠への怨みによるものである。思うに刊河の会を理由として正しいとするのは、その通りではない。諸部が軍勢をひそめて来て、両汗を襲おうとし、おそらくは​エルグネ​​額洏古涅​河をさかのぼったのである。 両汗は​ケルレン​​客魯連​河に沿って動いて​ヂヤムカ​​札木合​を迎えうち、ここにおいて​ハイラル​​海︀剌兒​河の戦があり、 敵軍はここから南に移った。両汗の先鋒は​エネグン クレイト​​額捏堅 歸列禿​​チエクチエレ​​徹克徹列​​チクルク​​赤忽兒忽​の三つの地に至り、高みに乗り入れ遠くを見渡した。その​チエクチエレ​​徹克徹列​​チクルク​​赤忽兒忽​両山は、​ベイル ノール​​貝爾 諾爾​に近く、前文で述べたとおり。そして​チクルク​​赤忽兒忽​の哨兵は、敵人がまさに至ろうとしていると告げることができ、翌日両軍は​コイテン​​闊亦田​の地で遇い、​コイテン​​闊亦田​も、​チクルク​​赤忽兒忽​が遠く離れていないとみなし、史録の​アラン​​阿蘭​塞は、​ラシツド​​喇施特​​カラウン チトン​​喀剌溫 赤敦​、その地はわからないといえども、ゴビ砂漠の南でないことは確かである。秘史は、太祖は​ボオルチユ​​孛斡兒出​を右手の万戸として、金山に至る西を所管させ、​ムカリ​​木合黎​を左手の万戸として、​カラウン​​合剌溫​山に至る東を所管させ、そこはモンゴルの東のはずれにある。 おそらく金が起こった東の辺地は、​ノニ​​諾尼​江諸源の地であり、みな上京道に属する。興安嶺の西麓は、​カルカ​​喀爾喀​河源の地であり、金のはずれの塞とされるも、わからない。​ラシツド​​喇施特​は「​オンギラト​​翁吉剌特​部は、​カラウン チトン​​喀剌溫 赤敦​の地に住む」と言い、また「モンゴルは​キダイ​​乞䚟​の国境で与り、​ヂヤイアルシ​​齋阿兒郤​山がある」と言う。このいわゆる興安嶺の北幹はモンゴルと​ヂユチ​​女直​を分け、そして​オンギラト​​翁吉剌特​はその西麓に住む。よっていわゆる​オンギラト​​翁吉剌特​が漢塞に近いとするのは、誤りか。本書は「上は​ウルフイシレンヂ​​兀魯回失連眞​河より軍を移して塞に入った」と言う。この時太祖はまだ​ウルクイ​​兀勒灰​河の地に入っていない。〈底本-357 思うに​ウルクイ​​兀勒灰​河の役の前に述べた誤りの理由は、この地名を記すことに拘泥するからであろう。​ラシツド​​喇施特​が「​オング​​汪古​部の地に向かって行く」と言うに至り、「山間を過ぎて​オング​​汪古​部の地に至る」と言い、金泥で書いた系譜の原文でないことを恐れるので、編者はこれに意を加えるのである。​ブイイレ​​盃亦烈​川の戦は、史録は前にあったと述べる。だが地勢をもってこれを考えると、​ハイラル​​海︀剌兒​河の戦の後にあったとすべきであり、​コイテン​​闊亦田​役の前となる。そのうえ叙事は根本が多く重複し、​ブイイレ​​盃亦烈​​ハイラル​​海︀剌兒​、根本が同じ事を異なる伝聞にし、これまたわからない。二つの戦いいずれも秘史は載せず、真偽を明らかにするのは難しい。​コイテン​​闊亦田​の軍が潰え、諸部が散り帰り、思うに皆北に向かって走った。​ワンカン​​王罕​​ヂヤムカ​​札木合​を追ってこれを降し、太祖は​タイイチウ​​泰亦赤兀​を追ってこれを剿滅した。​ナイマン​​乃蠻​ ​メルキ​​蔑兒乞​ ​ドルベン​​朶兒邊​の三部は、これ​オナン​​斡難︀​河を渡って西に遁れたとする。​タイイチウ​​泰亦赤兀​はことごとく平定され、太祖は​クバカヤ​​忽巴合牙​に帰った。​ヂヤカガンブ​​札合敢不​らは​ワンカン​​王罕​に叛いたのは、正にこの時であった。 そのいわゆる「​クリユリン​​曲綠憐​河から​フバハイヤ​​忽八海︀牙​山を目指す」は、​ワンカン​​王罕​​ヂヤダラ​​札荅剌​部を平定し終わり、​ケルルン​​克魯倫​河を遡って西に帰り、太祖の冬営の地を通ったということである。翌年壬戌(1202年)、太祖は​タタル​​塔塔兒​を滅ぼし、​ワンカン​​王罕​​メルキ​​篾兒乞​を滅ぼし、刊河会盟の輩をみな討ったのである。太祖は​タタル​​塔塔兒​​ダラン ネムルゲス​​荅闌 捏木兒格思​で破り、ついに​ウルクイ​​兀勒灰​河に至り、その巣窟を滅ぼした。 これによって太祖の兵は、初めて漠南を蹂躙したのであった。その後両汗は兵を連ねて​ナイマン​​乃蠻​を征伐し、敵地に攻め入ること数千里、​アルタイ​​阿爾泰​山を過ぎ遠ざかった。羣部ことごとく平らげられたことで、後顧の患いはなくなったのであった。そうであるならばこの役は必ずや最後にあるべきである。秘史が述べる所の根本は確かで疑いない。何を思って​トビチヤン​​脫必赤顏​はその順序を乱したのか、太祖の経略の足跡を、錯乱不明にした。はなはだ惜しむべきである。ゆえにこれを論じてつまびらかにする。



〈史45-165上3冬,上出塞,駐于阿不札闕惑哥兒之山,王可汗居于別里却沙陀中

冬、上出塞駐於阿不禮闕惑哥兒之山。文田案、祕史作忽巴合牙。曾植案阿不禮、當作阿不札。通世案、卽祕史卷八之阿不只阿闊迭格兒地面。葢本書本作阿不札闊忒哥兒、札譌禮、闊式譌闕惑。祕史後文通阿卜只合闊帖兒格。兒格二字倒置。云「太祖︀自圍獵處還至此地」、則亦蒙古之地也。西史訛作阿兒郤宏古兒之地。據祕史、此係明年癸亥冬營之地。而本書西史皆誤書於是年。喇施特云「本爲翁吉剌特冬營之地。冬無水、以雪爲水。其後呼必賚可汗敗阿里不哥於色木兒台湖、亦距阿兒郤宏古兒不遠」。色木兒台湖、卽元史世祖︀紀之昔木土腦兒也。洪氏因引俄羅斯地圖、獨石口東北四百里、多倫淖爾正北二百里、有沙博爾台淖爾、蒙古游牧記蘇尼特右旗翼南六十里、有泥濼、蒙古名西巴爾台、云「皆似卽昔木土之轉音」。昔木土腦兒在蘇尼特界內、或當然。但阿不只阿闊迭格兒在漠北、不與蘇尼特地相接。喇施特恐誤。汪可汗居於原作族。曾植案、族當作於。通世因改。別里怯沙陀中。曾植案、祕史「札木合知太祖︀落後的意思、與阿勒壇等商議、到者︀者︀額兒溫都︀兒山陰的別兒客額列地面桑昆處云云」。此別里怯沙陀、卽彼文別兒客額列。蒙語、沙磧曰額列惕。通世案、是時兩汗自擊乃蠻還、太祖︀居撒阿里客額兒、王汗居土兀剌河黑林。別里怯沙陀、卽桑昆所居也。謂王汗居之、誤。 是時上與太子朮赤通世案、祕史作拙赤、太祖︀長子、非皇太子也。蒙古諸︀皇子、皆稱太子、故謂朮赤太子則可。若謂太子朮赤、則嫌於儲君。元史有傳、譯文證補有補傳。求聘汪可汗女抄兒伯姬。通世案、祕史作察兀兒別乞。汪可汗下脫女字。汪可汗之孫張石州曰「紀作子」。通世案、祕史作桑昆子禿撒哈、則王汗之孫也。紀誤。 禿撒合、亦求上公主火阿眞伯姬。通世案、祕史作豁眞、西史作庫眞必吉。元史作火臣別吉。元史類︀編有傳。倶不諧。通世案、據祕史、娶察兀兒、嫁豁眞皆出太祖︀意、而桑昆侮︀太祖︀不肯許親。與此稍異。自是稍疏。札木合聞之、通世案、祕史以往說桑昆爲癸亥年春間事。往說亦剌合曰「吾案答原注「謂太祖︀也」。舊本此注誤入正文。張石州攷正。常遣使通信於乃蠻太陽可汗。時將不利於君。今若能加兵、我從㫄協助」。協原誤作脇、秋濤校改。時亦剌合居別所、通世案、伯哷津作阿拉忒之地、卽別兒客額列惕之下三字音。來會父汪可汗。上族人答力台斡眞斤・通世案、眞當作直。〈東方學デジタル圖書館-41案彈・火察兒・答海︀忽剌、通世案、下文作塔海︀忽剌海︀、西史作忙忽特人圖該忽兒海︀。此剌下脫一海︀字。答兒斤木忽兒哈檀・通世案、西史作阿荅兒斤人木忽兒忽闌。卽前十三翼中之木忽兒好闌。此答上脫阿字。哈檀與忽闌、形音並異。或與木忽兒二人歟。 札木哈等背我、迨且秋濤案、二字有誤。說亦剌合、說之曰「吾等願爲效力佐若、討月倫太后諸︀子」。曾植案、案壇・火察兒等、往來於太祖︀・札木合・汪罕之間、倐忽彼此、構成衅隙。眞反側子也。詳祕史。札木合寄語二人、與太祖︀與汪罕戰後、寄語二人、詞意相同。而汪罕始終無不稱於太祖︀之心。亦剌合異心、亦由諸︀人倡導。此書叙此情事、較詳於祕史。本紀據此爲本、而盡刪此類︀情節︀、幾於買橫而還珠已。亦剌合信之、車帳相間爲兵共謀。遣塞罕脫脫干曾植案、祕史作撒亦罕脫迭額。通世案、伯哷津作撒而罕禿荅。言之於汪可汗。汪可汗曰「札木合、巧言寡信人也、〈底本-358 不足信」。亦剌合曰「彼言者︀有口有舌、何爲不信」。屢遣人言之。汪可汗曰「我禁汝、汝輩不從。吾身存立、實賴於彼。垂老遺骸、莫得安寢。今喋喋不已。汝當自能爲之。母遺我憂」。旣而異志、悉燒我〈東方學デジタル圖書館-42牧地。通世案、西史作「鮮昆陰遣人燒我牧地之草。」

訳文 四〇-四二

その冬、上は塞を出て​アブリケホゲル​​阿不禮闕惑哥兒​の山に駐留した。文田案、秘史は​クバカヤ​​忽巴合牙​。曽植案​アブリ​​阿不禮​は、​アブヂヤ​​阿不札​とあてる。通世案、秘史巻八の​アブヂア コデゲル​​阿不只阿 闊迭格兒​の地。思うに本書の根本は​アブヂヤ コテゲル​​阿不札 闊忒哥兒​とし、札を礼と誤り、闊忒を闕惑と誤った。秘史の後文は​アブヂカ コテゲル​​阿卜只合 闊帖格兒​と通す。児格の二字は倒置である〈[#「児格」の倒置は十五巻本にのみ見え、葉氏観古堂本や四部叢刊本などの十二巻本にはない]〉。「太祖は巻狩り場から還りこの地に至った」と言い、つまりこれもモンゴルの地である。西史は訛って​アルシ ホングル​​阿兒郤 宏古兒​の地とした。秘史に拠ると、これは明年癸亥(1203年)に続く冬営の地である。しかし本書西史みな誤ってこの年と書く。​ラシツド​​喇施特​は「もともとは​オンギラト​​翁吉剌特​冬営の地とする。冬は水がなく、雪をもって水とする。その後​フビライ カガン​​呼必賚 可汗​​アリブカ​​阿里不哥​​セムルタイ​​色木兒台​湖で破り、やはり​アルシ ホングル​​阿兒郤 宏古兒​と遠くへだたっていない」と言う。 ​セムルタイ​​色木兒台​湖は、元史 世祖紀の​シムトナウル​​昔木土腦兒​である。洪氏は​オロス​​俄羅斯​地図に因って引き、独石口の東北四百里、​ドールン ノール​​多倫 淖爾​の正北二百里に、​シヤボルタイ ノール​​沙博爾台 淖爾​があり、蒙古游牧記の​スニト​​蘇尼特​右旗翼の南六十里に、泥の湖があり、モンゴル名​シバルタイ​​西巴爾台​、「みな​シムト​​昔木土​の転音のようである」という。​シムトナウル​​昔木土腦兒​​スニト​​蘇尼特​の境界の内にあり、あるいは然り。ただ​アブヂア コデゲル​​阿不只阿 闊迭格兒​は漠北にあり、​スニト​​蘇尼特​の地とは相接していない。​ラシツド​​喇施特​はおそらく誤っている。 ​ワン カガン​​汪 可汗​​ベリケシヤダ​​別里怯沙陀​の中に居た。於は原書では族。曽植案、族を於とする。通世が因んで改める。曽植案、秘史は「​ヂヤムカ​​札木合​は太祖が気後れしていると知り、​アルタン​​阿勒壇​らと話し合い、​ヂエヂエエル ウンドル​​者︀者︀額兒 溫都︀兒​山の陰の​ベルケエレ​​別兒客額列​の地の​サングン​​桑昆​のところに到り云云」。この​ベリケシヤダ​​別里怯沙陀​は、この文の​ベルケエレ​​別兒客額列​である。モンゴル語で、砂や小石の多い河原を​エレト​​額列惕​と言う。通世案、この時に両汗は自ら​ナイマン​​乃蠻​を撃って帰り、太祖は​サアリ ケエル​​撒阿里 客額兒​にいて、​ワンカン​​王汗​​トウラ​​土兀剌​河の黒林にいた。​ベリケシヤダ​​別里怯沙陀​は、​サングン​​桑昆​がいたところである。​ワンカン​​王汗​がそこにいたと言うのは、誤り。 この時に上と太子​チユチ​​朮赤​通世案、秘史は​ヂユチ​​拙赤​とし、太祖の長子であって、皇太子ではない。モンゴルの諸皇子は、みな太子を称し、ゆえに​チユチ​​朮赤​太子と言ってさしつかえない。もし太子​チユチ​​朮赤​と言うならば、皇太子とまぎらわしい。元史に伝があり、元史訳文証補に補伝がある。​ワン カガン​​汪 可汗​の娘​チヤルバ​​抄兒伯​姫を娶るよう求めた。通世案、秘史は​チヤウル ベキ​​察兀兒 別乞​とする。​ワン カガン​​汪 可汗​の下に女の字が抜けている。​ワン カガン​​汪 可汗​の孫張石州は「元史の紀は子とする」と言う。通世案、秘史は​サングン​​桑昆​の子​トサカ​​禿撒哈​とし、つまり​ワンカン​​王汗​の孫である。元史の紀は誤っている。 ​トサハ​​禿撒合​も、上の公主​ホアヂンバ​​火阿眞伯​姫を求めた。通世案、秘史は​ゴヂン​​豁眞​とし、西史は​クヂン ビギ​​庫眞 必吉​とする。元史は​ホチン ベキ​​火臣 別吉​。元史類編に伝がある。ともに話がまとまらなかった。通世案、秘史に拠れば、​チヤウル​​察兀兒​を娶り、豁真を嫁がせるのはどちらも太祖の考えが出たもので、つまり​サングン​​桑昆​は太祖を侮り親しくするのをよしとしなかった。これとやや異なる。これよりしだいに疎遠になった。​ヂヤムカ​​札木合​はこれを聞き、通世案、秘史は​サングン​​桑昆​に話しに行ったのを癸亥年(1203年)春の間の事とする。 ​イラカ​​亦剌合​に話しに行って「わが​アンダ​​案答​原注に「いわゆる太祖である」。旧本はこの注を誤って本文に入れた。張石州が考えて校正する。は常に​ナイマン​​乃蠻​​タヤン カガン​​太陽 可汗​に使いを遣わしやりとりしている。時まさに君に不利になりつつある。今もし兵を分けてくれれば、私は従い寄り添って力を合わせて助けよう」と言った。原書は協を誤って脇としており、秋濤が校改する。その時に​イラカ​​亦剌合​は別の所にいて、通世案、​ベレジン​​伯哷津​​アラテ​​阿拉忒​の地とし、これは​ベルケ エレト​​別兒客 額列惕​の下三字音である。 父の​ワン カガン​​汪 可汗​と来て会った。上の族人​ダリタイ オヂンギン​​答力台 斡眞斤​通世案、真を直とする。​アンタン​​案彈​​ホチヤル​​火察兒​​ダハイフラ​​答海︀忽剌​通世案、後文は​タハイ​​塔海︀​ ​フラハイ​​忽剌海︀​とし、西史は​モンクト​​忙忽特​​トガイフルハイ​​圖該忽兒海︀​。この剌の下は一つ海の字が抜けている。​ダルギン ムフル ハタン​​答兒斤 木忽兒 哈檀​通世案、西史は​アダルギン​​阿荅兒斤​​ムフル フラン​​木忽兒 忽闌​。これは前文の十三翼中の​ムフル ハウラン​​木忽兒 好闌​。この答の上は阿の字が抜けている。​ハタン​​哈檀​​フラン​​忽闌​、形と音はともに異なる。あるいはともに​ムフル​​木忽兒​の二人か。 ​ヂヤムハ​​札木哈​らが我らに背き、迨且秋濤案、二字は誤りがある。​イラカ​​亦剌合​に話し、これに話して「吾らは力を尽くしてあなたをたすけ、​ウエルン​​月倫​太后諸子を討つことを願う」と言った。曽植案、​アンタン​​案壇​​ホチヤル​​火察兒​らは、太祖・​ヂヤムカ​​札木合​​ワンカン​​汪罕​の間を往来し、たちまちあちこち、仲違いを組み立てた。まことに浮気者である。詳しくは秘史を。​ヂヤムカ​​札木合​は二人に伝言して、太祖と​ワンカン​​汪罕​との戦いの後、二人に伝言して、言うところは同じである。そして​ワンカン​​汪罕​は始終太祖の心をほめなかった。​イラカ​​亦剌合​はふたごころがあり、またなお諸人を先導した。この書がこの事情を述べるところは、秘史に較べると詳しい。元史 本紀はこれに拠って根本とし、そしてこの類の事情をことごとく削り、箱を買って珠玉を渡すのに近い。​イラカ​​亦剌合​はこれを信じ、車帳は互いにへだたり兵に共謀させた。​サイカン トトゲン​​塞罕 脫脫干​を遣わし曽植案、秘史は​サイカン トデエ​​撒亦罕 脫迭額​とする。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​サルカントダ​​撒而罕禿荅​とする。これを​ワン カガン​​汪 可汗​に言った。​ワン カガン​​汪 可汗​は「​ヂヤムカ​​札木合​は、言葉巧みで信じる人は少なく、〈底本-358信じるに足りない」と言った。 ​イラカ​​亦剌合​は「彼の言っていることは有口有舌〈[#訳せない。「実際の発言のようにありありとしているので嘘ではない」の意か]〉、なぜ信じないのか」と言った。たびたび人を遣わしてこれを言った。​ワン カガン​​汪 可汗​は「私はお前をいましめたが、お前たちは従わない。吾が身が立っていられるのは、実に彼を頼みとするからである。いまもに老いて遺骸になろうとしており、安心して寝られない。今多く喋ったことは止まらない。お前はこれをうまくできるだろう。私の憂いを母は捨てる」と言った。やがてしかし考えが変わり、我が牧地をことごとく焼いた。通世案、西史作「​セングン​​鮮昆​はひそかに人を遣わして我が牧地の草を焼いた。」とする



〈史45-165上19癸亥春,汪可汗爲詐計曰:彼前者常求婚于我,我不從。今宜許之,俟其來宴,定約,必擒之

癸亥春、秋濤案、宋嘉泰三年、金泰和三年。曾植案、史耶律阿海︀傳、癸亥歲冬、有進攻西夏事。汪可汗爲詐計、通世案、祕史西史皆云「桑昆與眾人謀」。曰「〈[#底本では直前に「始めかぎ括弧」なし]〉彼前者︀嘗求婚於我、不從。今宜許之。俟其來宴定約、必擒之」。遂遣不花台・乞察文田案、祕史作不合台・乞剌台。但錄以爲來請之人、祕史以爲代赴婚筵之人耳。通世案、伯哷津作烏黑台・昆察特。洪氏曰「哀忒蠻譯作海︀察特、與乞察略近。惟贅增二人、不可從」。來請。上率麾下十騎、往赴之、宿於蔑里哥秋濤案、祕史作蒙力克。帳中。越明日、有蔑力也赤可謀、也原作池。秋濤案、此句恐有誤。祕史所載、蒙力克爲太祖︀謀也。文田案、祕史「宿蒙力克家。蒙力克說「索時不肎與。如今怎生特地請喫許婚筵席。不若只推稱春間馬瘦、且養馬、不去」」。是其事也。又蔑里哥、元史伯八傳、作明里也赤哥此處上下兩句、一作蔑里哥、一作蔑里也赤可、則翻譯之謬甚多。也字傳寫、又加水秀作池。曾植案、也赤可謀、此句不誤。祕史蒙文作額赤格、解曰「父也」。據後文、九十五功臣、蒙力克爲之首。而祕史蒙文、通前後皆稱蒙力克額赤格、雖本與言亦然。然則蒙力克額赤格者︀、如齊桓之仲父矣。池字卽當作也。也赤可、卽額赤格。又案、氏族表作明里也赤哥。通世案、有字疑當作用。祕史、蒙力克、晃豁壇氏、抄眞斡兒帖該第二子晃豁壇之裔、察剌合老人之子。 使回汪可汗語曰「我牧羣羸弱、方從思之。文田案、思當作喂。合命一人赴彼宴、足矣」。旣遣使、上卽還。時汪可汗近侍也可察合蘭者︀、秋濤案、祕史作也客扯連。通世案、西史作也格札闌、又作也客扯闌。祕史卷六云阿勒壇弟。然卷一明云忽闌把阿禿兒子、則弟者︀、從弟之誤也。聞圖上謀、歸語其妻、〈史45-165下1因曰「人若有言泄此於上、賞我何哉」。其子亦剌罕 通世案、祕史作其妻阿剌黑亦惕、伯哷津作其妻阿剌克因特。洪氏曰「錄誤」。止之曰「此無據言之、恐他人以爲實」。也可察合蘭牧馬者︀乞力失〈東方學デジタル圖書館-43秋濤案、祕史作乞失里黑。文田案、乞力失當作乞失力。然此二字、葢明初傳寫已誤倒、故元史本紀、亦沿此誤也。此可以他書證之。祕史卷一、作乞失黎黑。其證一也。又六卷、作乞失里黑。其證二也。邱處機西遊記、作吉息利。其證三也。元史、哈剌哈孫、卽此人之曾孫、而哈剌哈孫傳、及元文類︀之順德忠獻王碑、及輟耕錄、皆作啓昔禮。凡此皆乞失力三字之對音。其證四也。此不得但以本紀之沿誤爲據者︀。以本紀之誤、卽誤於此錄之誤文故也。通世案、是日之譌。供馬湩、適至、微有所聞。問其弟把帶秋濤案、元史木華黎傳作拔台、祕史作巴歹。通世案、是乞失力先聞、而吿把帶、西史同之。祕史則巴歹先聞、而吿乞失力黑。祕史西史、皆言伴侶、不言弟。曰「適所議者︀、何事。該知否」。把帶曰「不知」。察合蘭秋濤案、上云也可察合蘭、此云察合蘭、該省文。次子納憐、秋濤案、祕史作納鄰客延。坐帳外方礪鏃、聞之、罵曰「割舌者︀、適我不言乎。今事已然、當禁誰口也」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉文田案、割舌者︀、謂漏洩則當拔舌也。祕史云「恰纔咱說的話、這當取舌的」、是也。把帶謂乞力失曰「我今知矣。可同赴上言之」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉同原作因。秋濤案、祕史云「見拴的兩馬、每人騎了一匹、那夜到帖木眞帳房後都︀說了、」則此宜爲同字。遂入己帳話行。止有一羔、殺︀之、拆臥榻煮︀熟、夜馳見上吿其謀、曰「汪可汗將圖太子、其計定矣」。通世案、祕史卷一、兩人爲荅剌兒罕官人。西史云「今有貨勒自彌荅剌罕土蠻荅剌罕・薩塔克荅剌罕、皆此二人之後裔」。上聞之、止〈底本-359 軍於阿蘭塞、忽移輜重於失連眞河上、通世案、伯哷津作失魯楚兒只特山。洪氏曰「上文作河名、此爲山名、則仍是色野爾濟之訛」。又諸︀本此處無阿蘭塞。阿蘭塞、非色野爾濟河近地、見前。案、太祖︀求婚於王汗、在土拉河尋盟之後、兩汗皆居舊庭。桑昆所居別兒客之野、亦似距土拉河不遠。今釁隙一開、合戰忽起於東方。不詳其故。祕史云「成吉思聽了巴歹乞失里說、就那夜、對附近可倚附的伴當每說知、將家內物件棄了、遂往躱於卯溫都︀兒山陰」、西史亦云「帝亟移營向失魯楚兒只特山路以去」。似太祖︀是時已在塔塔兒之地。顧是時王汗大兵强。太祖︀聞桑昆謀、慮其力不敵、匆遽奔竄、避難︀於東邊、而王汗父子追蹤之歟。記載簡略。其間情節︀、今不可考。嚕卜嚕奎書中有云「翁汗聚軍侵軼摩阿勒之地、討成吉思。成吉思〈[#「成吉思」は底本では「成思吉」]〉遁於塔塔兒之地、潛匿焉云云」。此或得其實、亦不可知。急遣折里麥〈東方學デジタル圖書館-44 爲前鋒。曾植案、此戰、主兒扯歹、特爲軍鋒之冠、祕史叙述甚明。而元史歸之畏荅兒。此又以先鋒爲折里麥。折里麥、祕史之者︀勒蔑、速不台之兄、亦太祖︀開國元勳也。傳聞異詞、葢難︀强合。又案、祕史、者︀勒麥爲後哨。自莫運都︀兒山之陰行。通世案、祕史蒙文作卯危溫都︀兒。卯危謂不好、溫都︀兒謂高。譯文作卯溫都︀兒山。所在不詳。洪氏引蒙古游牧記、克什克騰旗西南四十三里、有漠海︀恩都︀爾山、云「漠海︀合音如卯」。然似其地偏於南、與此不同。汪可汗亦領兵、自莫運都︀兒山陽、由忽剌河卜魯哈二山而來。秋濤案、俟攷。曾植案。旣曰二山、不得言河。祕史作忽剌安不剌合惕地面、則河字、葢阿字誤也。通世案、額兒忒曼作枯倫別兒喀特、云枯倫湖近地。伯哷津作紅柳林中、蒙古稱烏闌不兒罕。洪氏曰「當如祕史作忽剌安不剌合惕。明茅元儀武備志、韃靼方言、紅曰伏剌案、柳曰補兒哈、可證。錄音近、惟稱二山、係誤」。又案、祕史不剌合惕、下文作不兒合惕。近侍有太出・也迭兒二人者︀、曾植案、姚燧徐國公神︀道碑「燕只吉臺氏之祖︀太赤、初將突︀騎百夫宿衞、後從太宗定中夏」。太赤、疑卽太出。又案、祕史蒙文、來報者︀爲赤吉歹・牙的阿二人、牙的阿、卽也迭兒。通世案、祕史譯文作阿勒赤歹放馬的赤吉歹等、阿勒赤歹、太祖︀弟合赤溫之子、卽史表之濟南王按只吉歹。伯哷津作伊兒吉歹之從者︀泰出欽黑歹・牙都︀兒。洪鈞曰「伊阿二音互誤、蒙回文同。祕史作赤吉歹、錄作泰出。以此較之、則祕史奪泰字音、錄奪吉歹音」。案、泰赤之裔、稱燕只吉台氏、亦作晏只吉䚟氏。葢以其主之名爲姓也。因牧馬、見汪可汗軍至、亟來吿。上時移軍合蘭只之野、曾植案、合蘭只、卽祕史作合剌合勒只惕。通世案、下文作合蘭眞沙陀、祕史作合剌合勒只惕額列惕地面、額兒忒曼作合蘭沁阿勒特。阿勒特、卽額列惕之轉、謂曠野、或爲沙陀。合剌合勒四字合音爲合蘭、只惕轉爲眞、或省惕音。喇施特曰「其地在女直界上」、又曰「距鄂兒奎河不遠」。元史畏答兒傳作哈剌眞之地。德邁拉曰「哈剌眞在土剌・敖嫩兩河之間」葢指喀剌郭勒也。多遜謂「哈剌眞當卽喀爾喀河南源之哈爾渾河」。施世杰又云「合剌合勒只惕、卽喀爾喀河」。並未得的證。西史云「忙兀特將忽亦兒荅兒請先進、出敵之背、樹我纛於奎騰之山」。據此、則此戰與前闊亦田役近地也。未及爲備、日銜山、通世案、西史作「日出時、倉卒備戰事」。卽整兵出戰。先敗朱力斤部眾。秋濤案、祕史作只兒斤。次敗董哀眾、秋濤案、紀作董哀部、作祕史董合亦惕。又敗火力失烈門大石眾。張石州曰「紀作火力失烈門部、無大石二字」。秋濤案、祕史作豁里失列門太子。大石二字、卽太子譯音之異。以此知前後所云太后、卽大石譌也。文田案、火力失烈門大石、卽火力失烈門台吉。上五字其名、台吉、今蒙古尙有此官也。通世案、西史云「此役爲成吉思汗一生有名戰事、蒙古人至今稱道之」。祕史叙述極詳明。王罕命札木合整治軍馬。札木合知王罕非太祖︀敵、窃通意於太祖︀。太祖︀以兀魯兀惕部長主兒扯歹・忙忽惕部長忽亦勒荅兒爲先鋒、先敗王罕先鋒只兒斤勇士合荅黑、次敗土綿土別干姓阿赤黑失侖。忽亦勒荅兒傷落馬。斡欒董合亦惕〈[#「斡欒」は底本では「斡蠻」。元朝秘史 四部叢刊本に倣い修正。以後同じ]〉衝來、主兒扯歹勝之。斡欒董合亦惕勇士豁里失列門太子、領一千護衞軍衝來、主兒扯歹又勝之。史有朮赤台畏荅兒傳、可以相證。本書草略甚。眾進逼汪可汗護衞。其子亦剌合馳來衝陣。我軍射之中頰。其勢大挫、歛兵而𨓆。通世案、祕史云「成吉思旣勝、見日已晩、收軍而退、夜起離戰地宿」。據本書「日銜山」語、則是決勝於瞬息也、據西史「日出時」語、則是終日戰也。觀畏荅兒傳云「至晡時猶追逐不已」、終日戰者︀、爲近事情。祕史又云「次日點視︀軍馬、少斡闊台・孛羅忽勒・孛斡兒出三人。其夜、成吉思恐敵來追襲、整治軍馬準備厮殺︀。天明、三人逃歸、吿敵已去。於是成吉思逆浯泐灰溼兒格泐只惕水、入荅闌捏木兒格思之地」。西史又云「王汗軍勢仍盛、成吉思見不敵、亟引退」。然則太祖︀雖勝、敵勢未大挫也。又據太祖︀逆浯泐灰河、則似戰地在四種塔塔兒舊壤、當考。上亦將兵至斡兒弩兀遣惑哥山岡。斡原作幹。文田案、卽祕史之斡兒訥屼山、當在今喀爾喀河南岸。曾植案、祕史卷七「忽亦勒荅兒卒、〈底本-360 葬之於合兒合水的斡峏訥屼山」。斡峏訥屼卽此斡兒弩兀也。幹字誤。軍凡四千六百騎、〈東方學デジタル圖書館-45秋濤案、祕史作「點視︀軍馬、有二千六百」。沿哈勒合河秋濤案、祕史作合泐合河。文田案、卽今蒙古之喀爾喀河。順進、分爲兩隊、上親將二千三百騎、行河南岸。兀魯吾秋濤案、祕史作兀魯兀惕。 𢗅兀兀原作兒。秋濤案、祕史作𢗅忽惕。曾植案、兒當作兀。二部、將二千三百騎、行河北岸、秋濤案、祕史「成吉思領三千三百、依著︀河西邊起了。兀魯兀惕𢗅忽惕領一千三百、河東邊起了」。其兵數方位、皆與此異。通世案、喀爾喀河、出自摩克托里山西北流入貝爾諾爾。此南岸、卽祕史之西邊、北岸卽東邊。方位未必異。西史兵數與本書同。唯順河、誤作溯河 上以弘吉剌部先爲婚親、遣使謂其長帖木哥阿蠻部、秋濤案、祕史作帖兒格。曾植案、祕史蒙文云「捕魚兒〈[#「捕魚兒」は底本では「捕、魚兒」。元朝秘史 四部叢刊本に倣い修正]〉海︀子有帖兒格阿蔑勒等翁吉剌」。阿蔑勒卽阿蠻。又案、祕史蒙文、十一部共立札木合者︀、翁吉剌敦種迭兒格克・額蔑惕・阿勒灰等爲頭。迭兒格克卽帖木哥・額蔑惕卽阿蠻也。曰「汝若來順、則女子而容秋濤案、四字未詳、〈東方學デジタル圖書館-46 外甥資質倶在。文田案、而當作面。言汝若降、則女兒顏面、與外甥之體面、倶好看。葢訶額侖爲太祖︀之母、孛兒帖爲太祖︀之妻、皆宏吉剌氏。太祖︀爲宏吉剌之外甥也。祕史云「想著︀在前姻親呵、投降來者︀。若不肎呵、便厮殺︀者︀」。卽此數語意。曾植案、祕史蒙文、有「外甥容貌、女子顏色」之誤、此所本也。祕史譯文無。不然則加兵於汝矣」。通世案、祕史此下云「翁吉剌都︀投降了。成吉思因他投降了、諸︀般不曾動著︀他的」。此句亦不可少。遂行至董哥澤秋濤案、祕史作統格黎小河。脫兒合火兒合之地曾植案、此地名、祕史無。通世案、祕史蒙文作統格豁羅罕、西史云「成吉思駐於董嘎諾爾之傍、脫魯合豁兒罕之地。是地有湖有河、水草茂美。因以休息士馬」。火兒合豁羅罕、皆豁兒罕之譌、蒙古謂小河。董哥與脫兒合音近、葢湖河同名。祕史擧河名、而略湖名。其地不詳。華而甫曰「是達賴諾爾」。霍渥兒特曰「因果達河之支河、有唐嘎河、近巴兒渚︀納湖」。駐軍。

訳文 四二-四六

癸亥(1203年)春、秋濤案、宋 嘉泰 三年、金 泰和 三年。曽植案、元史 ​エリユ アハイ​​耶律 阿海︀​伝は、癸亥歳(1203年)冬、西夏に進攻するできごとがあった。​ワン カガン​​汪 可汗​は偽計をしかけ、通世案、秘史西史みな「​サングン​​桑昆​と部下たちが謀った」と言う。「彼は以前に我が方に求婚したが、従わなかった。今これを許すのがふさわしい。約束して定めた宴にこれが来るのを待って、必ずこれを捕らえよう」と言った。ついに​ブハタイ​​不花台​​キチヤ​​乞察​を遣わして文田案、秘史は​ブカタイ​​不合台​​キラタイ​​乞剌台​とする。ただし録は太祖に婚宴に来るよう請う人で、秘史は太祖の代わりに婚宴に赴く人のみ。通世案、​ベレジン​​伯哷津​​ウクタイ​​烏黑台​​グンチヤト​​昆察特​。洪氏は「​アイテマン​​哀忒蠻​〈[#おそらくエルドマンのこと]〉訳の​ハイチヤト​​海︀察特​は、​キチヤ​​乞察​とほぼ近い。思うに二人は余分に増え、従えない」。 来るように請うた。上は麾下十騎を率いて、これに赴くために行き、​メリゲ​​蔑里哥​秋濤案、秘史は​モンリク​​蒙力克​とする。の帳中で宿った。あさって、​メリエチケ​​蔑力也赤可​が察知したことがあり、也は原書では池。秋濤案、この句は誤りがある恐れ。秘史が載せる所では、​モンリク​​蒙力克​は太祖のために謀ったのである。文田案、秘史「​モンリク​​蒙力克​の家に宿った。​モンリク​​蒙力克​は「求めた時に与えなかった。ただいまどうして特別に許婚の宴席に食べに来るよう請うのか。でなければ、ただ断って春の間に馬が痩せ、しばらく馬を養うと言って、離れるな」と説いた」。これがその事である。また​メリゲ​​蔑里哥​は、元史 ​ババ​​伯八​伝は、​ミンリ エチゲ​​明里 也赤哥​としこの所の上下の両句は、一つは​メリゲ​​蔑里哥​とし、一つは​メリ エチケ​​蔑里 也赤可​とし、翻訳の誤りがはなはだ多い。也の字は伝写され、さんずいも加えて池とした。曽植案、也赤可謀は、この句は誤っていない。秘史蒙文は​エチゲ​​額赤格​とし、解くと「父である」という。後文に拠ると、九十五功臣は、​モンリク​​蒙力克​をこの筆頭とする。そして秘史蒙文は、前後を通してみな​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​と呼び、ただ本名とともに言うのももっともである。そうであるならば​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​は、斉の桓公にとっての仲父のようである。池の字は也とあてる。​エチケ​​也赤可​は、つまり​エチゲ​​額赤格​である。 又案、元史 氏族表は​ミンリ エチゲ​​明里 也赤哥​とする。通世案、作りあてて用いた疑いのある字がある。秘史、​モンリク​​蒙力克​は、​コンゴタン​​晃豁壇​氏、​チヤウヂン オルテガイ​​抄眞 斡兒帖該​の第二子​コンゴタン​​晃豁壇​の子孫、​チヤラカ​​察剌合​老人の子。使いは戻って​ワン カガン​​汪 可汗​に語り「私の牧の家畜たちはやせて弱っており、いまは家畜たちにつきそって考える。文田案、思を喂〈[#喂は「動物にえさをやる」]〉とする。あわせて一人に彼の宴に赴くよう命じ、とどまろう。」と言った。使者を遣わし終えて、上はただちに帰った。その時に​ワン カガン​​汪 可汗​の近侍​エケ チヤハラン​​也可 察合蘭​は、秋濤案、秘史は​エケ チエレン​​也客 扯連​とする。通世案、西史は​エケ ヂヤラン​​也格 札闌​とし、また​エケ チエラン​​也客 扯闌​とする。秘史巻六は​アルタン​​阿勒壇​の弟と言う。だが巻一は明らかに​クラン バアトル​​忽闌 把阿禿兒​の子と言い、つまり弟は、従弟の誤りである。上を謀る企てを聞き、帰ってその妻に語り、ついでに「これを上に漏らすと言う人がいれば、私はどんな褒美があるだろうか」と言った。その子​イラハン​​亦剌罕​ 通世案、秘史はその妻を​アラクイト​​阿剌黑亦惕​とし、​ベレジン​​伯哷津​はその妻​アラクイント​​阿剌克因特​。洪氏は「録の誤り」と言う。これを止めて「これはその言葉に根拠がなく、他人が事実にしてしまうのを恐れる」と言った。​エケ チヤハラン​​也可 察合蘭​の牧夫である​キリシ​​乞力失​秋濤案、秘史は​キシリク​​乞失里黑​とする。文田案、​キリシ​​乞力失​​キシリ​​乞失力​とする。だがこの二字は、思うに明らかに最初の伝写がすでに誤倒し、ゆえに元史 本紀も、この誤りに沿っているのである。これは他書をもって明らかにできる。 秘史巻一は、​キシリク​​乞失黎黑​とする。その明かし一である。また六巻は、​キシリク​​乞失里黑​とする。その明かし二である。邱処機〈[#「処機」は長春真人の諱]〉の西遊記は、​ギシリ​​吉息利​とする。その明かし三である。元史の、​ハラハスン​​哈剌哈孫​は、この人の曽孫で、そして​ハラハスン​​哈剌哈孫​伝、及び元文類 順徳忠献王碑、及び輟耕録、みな​キシリ​​啓昔禮​とする。すべてこれみな​キシリ​​乞失力​三字の対音である。その明かし四である。此不得但以本紀之沿誤為拠者。以本紀之誤、即誤於此録之誤文故也。〈[#訳せない。「これはただ元史 本紀の誤りに沿って拠ったのではない。元史 本紀の誤りは、親征録の誤りが原因である」の意か]〉月ごとに通世案、これは日の誤り。馬乳酒を提供し、まさに至り、 馬湩、適至、かすかに聞く所があった。その弟​バダイ​​把帶​に問うて 秋濤案、元史 ​ムホアリ​​木華黎​伝は​バダイ​​拔台​とし、秘史は​バダイ​​巴歹​とする。通世案、これは前に聞こえる​キシリ​​乞失力​が、​バダイ​​把帶​に告げ、西史はこれと同じ。秘史は前に聞こえる​バダイ​​巴歹​が、​キシリク​​乞失力黑​に告げた。秘史西史、みな伴侶に言い、弟に言わない。「たまたま謀るところは、何事か。それを知っているか」と言った。​バダイ​​把帶​は「知らない」と言った。​チヤハラン​​察合蘭​秋濤案、前文で言う​エケ チヤハラン​​也可 察合蘭​は、ここで言う​チヤハラン​​察合蘭​であり、その省文である。の次子​ナリン​​納憐​は、秋濤案、秘史は​ナリン ケエン​​納鄰 客延​帳外で坐りちょうど矢じりを研いでいて、これを聞き、罵って「割舌なら、私は言わないほうが良いか。今や事はすでにそのとおりで、誰にも口に出させない」と言った。 文田案、割舌は、漏洩つまり舌を抜くにあたる。秘史は「ちょうどわずかに私が話したことを話せば、これはまさに舌を取るべき」、これである。​バダイ​​把帶​​キリシ​​乞力失​に語り「私は今知った。上に赴いてこれを言うのをともにすべきである」と言った。同は原書では因。秋濤案、秘史は「繋がれた二頭の馬、一人が一頭に乗って、かの夜に帖木真の帳房に到った後すべて話し、」と言いこれを同じ字としてよい。ついに自分の帳に入り話を行った。一頭の羊がとらえてあり、これを殺し、寝台を裂いて火を焚いて煮て、夜に馳けて上に会ってその謀計を告げ、「​ワン カガン​​汪 可汗​はまさに太子と相談し、その計を整えた」と言った。通世案、秘史巻一は、両人を​ダルカン​​荅兒罕​〈[#「荅児罕」は底本では十五巻本の「荅剌児罕」]〉官人とする。西史は「今は​ホルズミ ダラカン​​貨勒自彌 荅剌罕​​トマン ダラカン​​土蠻 荅剌罕​​サタク ダラカン​​薩塔克 荅剌罕​があり、みなこの二人の後裔」と言う。上はこれを聞き、〈底本-359​アラン​​阿蘭​塞で軍を止め、たちまち輜重を​シレンヂン​​失連眞​河のほとりに移し、通世案、​ベレジン​​伯哷津​​シルチユルヂト​​失魯楚兒只特​山とする。洪氏は「前文は河名とし、ここは山名とし、すなわちこれは​セエルヂ​​色野爾濟​の訛」と言う。また諸本この場所に​アラン​​阿蘭​塞はない。 ​アラン​​阿蘭​塞は、​セエルヂ​​色野爾濟​河に近い地ではなく、前文で見た通り。案、太祖が​ワンカン​​王汗​に求婚したのは、​トラ​​土拉​河でもとの誓いをさらに強めた後で、両汗いずれももとの経営地に居た。​サングン​​桑昆​の居所である​ベレケ​​別兒客​の野も、​トラ​​土拉​河に遠くない距離のようである。今や仲違いがひとたび開かれ、合戦は東方において突然起きた。その理由はつまびらかではない。秘史は「​チンギス​​成吉思​​バダイ​​巴歹​ ​キシリ​​乞失里​の話を聴き終わり、その夜になって、近く付き従う頼れる仲間たちに知っていることを話し、かつ家財道具を棄て終え、そのまま​マウ ウンドル​​卯 溫都︀兒​の山陰に行って隠れた」と言い、西史も「帝はすみやかに営を移し​シルチユルヂト​​失魯楚兒只特​山の路に向い去った」と言う。 太祖はこの時すでに​タタル​​塔塔兒​の地にいたようである。ただこの時に​ワンカン​​王汗​は大いに兵が強かった。太祖は​サングン​​桑昆​の謀計を聞き、力が敵わないことを慮り、あわただしく逃げかくれ、東のはずれに難を避け、​ワンカン​​王汗​父子はこのあとを追いかけたか。記載は簡略である。その間の事情は、今は調べられない。​ルブルク​​嚕卜嚕奎​の書の中に「​オンカン​​翁汗​は軍を集めて​ヂマアル​​軼摩阿勒​の地を侵し、​チンギス​​成吉思​を討った。​チンギス​​成吉思​​タタル​​塔塔兒​の地に遁れ、潜み隠れたか云云」と言うのがある。これがあるいはその事柄と合うかについても、知ることはできない。 急ぎ​ヂエリメ​​折里麥​を前鋒として遣わした。曽植案、この戦は、​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​が、特に先鋒の第一等とされ、秘史の叙述ははなはだ明らかである。しかし元史は​ウイダル​​畏荅兒​にまとめている。これまた​ヂエリメ​​折里麥​を先鋒にしている。​ヂエリメ​​折里麥​は、秘史の​ヂエルメ​​者︀勒蔑​​スブタイ​​速不台​の兄、また太祖開国の元勲である。伝は異なる言葉が聞こえ、思うに強いて合わせるのが難しい。又案、秘史は、​ヂエルメ​​者︀勒麥​を後哨とする。自らは​マ ウンドル​​莫 運都︀兒​山の陰に行った。 通世案、秘史蒙文は​マウイ​​卯危​ ​ウンドル​​溫都︀兒​とする。​マウイ​​卯危​は「良くない」の意で、​ウンドル​​溫都︀兒​は「高い」の意。訳文は​マウ ウンドル​​卯 溫都︀兒​山とする。所在不詳。洪氏は蒙古游牧記を引用し、​ケシクテン​​克什克騰​旗の西南四十三里に、​モハイエンドル​​漠海︀恩都︀爾​山があり、「​モハイ​​漠海︀​​マウ​​卯​のような音と合う」と言う。だがその地は南に偏っているようで、これと同じではない。​ワン カガン​​汪 可汗​も兵を統率して、​マ ウンドル​​莫 運都︀兒​山の南から、​フラ​​忽剌​河より​ブルハ​​卜魯哈​二山に来た。秋濤案、意見を待つ。曽植案。すでに二山と言い、河と言えない。秘史は​クラアン ブラカト​​忽剌安 不剌合惕​の地とし、つまり河の字は、おそらく阿の字の誤りである。通世案、​エルドマン​​額兒忒曼​​クルンベルカト​​枯倫別兒喀特​とし、​クルン​​枯倫​湖に近い地という。​ベレジン​​伯哷津​は紅柳林の中とし、モンゴルは​ウラン ブルハン​​烏闌 不兒罕​と称する。 洪氏は「秘史は​クラアン ブラカト​​忽剌安 不剌合惕​のようにあてる。明 茅元儀 武備志、韃靼方言では、紅を​フラアン​​伏剌案​といい、柳を​ブルハ​​補兒哈​といい、明らかとしてよい。録の音は近く、この二山の称は、誤りである」。又案、秘史の​ブラカト​​不剌合惕​、後文は​ブルハト​​不兒合惕​とする。近侍に​タイチユ​​太出​​エデル​​也迭兒​二人の者があり、曽植案、姚燧 徐国公神道碑は「​エンヂギタイ​​燕只吉臺​氏の祖​タイチ​​太赤​、初めは突騎百夫宿衛を率い、のち太宗に従い中国を治めた」。​タイチ​​太赤​、おそらく​タイチユ​​太出​だろう。又案、秘史蒙文、来報者を​チギダイ​​赤吉歹​​ヤヂア​​牙的阿​二人とし、​ヤヂア​​牙的阿​は、​エデル​​也迭兒​である。通世案、秘史訳文は​アルチダイ​​阿勒赤歹​の馬を放牧していた​チギダイ​​赤吉歹​等とし、​アルチダイ​​阿勒赤歹​は、太祖の弟​カチウン​​合赤溫​の子で、元史 表の済南王​アンヂギダイ​​按只吉歹​である。 ​ベレジン​​伯哷津​​イヂギダイ​​伊兒吉歹​の従者​タイチユ​​泰出​ ​キンクダイ​​欽黑歹​ ​ヤドル​​牙都︀兒​とする。洪鈞は「伊阿の二音は互い誤り、モンゴル・ウイグル文同じ。秘史は​チギダイ​​赤吉歹​とし、録は​タイチユ​​泰出​とする。これをこれと較べると、秘史は泰の字音を失い、録は吉歹の音を失った」と言う。案、​タイチ​​泰赤​の子孫は、​エンヂギダイ​​燕只吉台​氏を称し、また​アンヂギダイ​​晏只吉䚟​氏とする。おそらくその主の名をもって姓としたのであろう。牧馬にしたしみ、​ワン カガン​​汪 可汗​軍が至るのを見て、すみやかに告げに来た。上はおりしも軍を​カランヂ​​合蘭只​の野に移し、曽植案、​カランヂ​​合蘭只​、秘史は​カラカルヂト​​合剌合勒只惕​とする。通世案、後文は​カランヂンシヤダ​​合蘭眞沙陀​とし、秘史は​カラカルヂト エレト​​合剌合勒只惕 額列惕​の地とし、​エルドマン​​額兒忒曼​​カランチン アルト​​合蘭沁 阿勒特​とする。​アルト​​阿勒特​は、​エレト​​額列惕​の転訛、いわゆる広野、あるいは​シヤダ​​沙陀​である。​カラカル​​合剌合勒​四字の音を合せて​カラン​​合蘭​とし、​ヂト​​只惕​​ヂン​​眞​に転じた、あるいは惕の音を省いた。​ラシツド​​喇施特​は「その地は​ヂユチ​​女直​との国境上にある」と言い、また「​オルク​​鄂兒奎​河から遠くない距離」と言う。 元史 ​ウイダル​​畏答兒​伝は​ハラヂン​​哈剌眞​の地とする。​デメイラ​​德邁拉​は「​ハラヂン​​哈剌眞​​トラ​​土剌​​オノン​​敖嫩​両河の間にある」と言いおそらく​カラゴル​​喀剌郭勒​を指すのであろう。​ドーソン​​多遜​は「​ハラヂン​​哈剌眞​​カルカ​​喀爾喀​河南源の​ハルフン​​哈爾渾​河とあてる」と言う。施世杰も「​カラカルヂト​​合剌合勒只惕​、つまり​カルカ​​喀爾喀​河」と言う。ともに確かな証拠は得られていない。西史は「​モングト​​忙兀特​の将​クイルダル​​忽亦兒荅兒​は先に進むことを請い、敵の背に出て、我らの纛を​クイテン​​奎騰​の山に立てた」と言う。これに拠れば、この戦と前の​コイテン​​闊亦田​役は近い地である。備えが及んでおらず、日が山を​くわ​​銜​え、通世案、西史は「日の出の時に、あわただしく戦いの事を備えた」とする。ただちに兵を整え戦いに出た。まず​ヂユリギン​​朱力斤​部の軍勢を破った。秋濤案、秘史は​ヂルギン​​只兒斤​とする。次に​ドンガイ​​董哀​の軍勢を破り、秋濤案、元史 紀は​ドンガイ​​董哀​部とし、秘史の​ドンガイト​​董合亦惕​とする。また​ホリ シレムン タイシ​​火力 失烈門 大石​の軍勢を破った。張石州は「元史 紀は​ホリ シレムン​​火力 失烈門​部とし、​タイシ​​大石​の二字はない」と言う。秋濤案、秘史は​ゴリ シレムン タイシ​​豁里 失列門 太子​​タイシ​​大石​の二字は、​タイツ​​太子​訳音の違うものである。ここで前後に見える太后というのは、​タイシ​​大石​の誤りである。文田案、​ホリ シレムン タイシ​​火力 失烈門 大石​は、​ホリ シレムン タイギ​​火力 失烈門 台吉​である。上の五字はその名で、​タイギ​​台吉​は、今もなおモンゴルにあるこの官職である。通世案、西史は「この役は​チンギス カン​​成吉思 汗​の一生で有名な戦いで、モンゴル人はこれを手引きと称賛し今に至る」と言う。秘史の叙述は極めて詳しく明らかである。​ワンカン​​王罕​​ヂヤムカ​​札木合​に軍勢を統率するよう命じた。 ​ヂヤムカ​​札木合​​ワンカン​​王罕​が太祖に敵わないのを知り、ひそかに太祖と意を通じた。太祖は​ウルウト​​兀魯兀惕​部長​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​​モンクト​​忙忽惕​部長​クイルダル​​忽亦勒荅兒​を先鋒として、まず​ワンカン​​王罕​の先鋒​ヂルギン​​只兒斤​の勇士​カダク​​合荅黑​を破り、次に​トメン トベゲン​​土綿 土別干​姓の​アチクシルン​​阿赤黑失侖​を破った。​クイルダル​​忽亦勒荅兒​は傷つき落馬した。​オロン ドンガイト​​斡欒 董合亦惕​が衝いて来て、​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​がこれに勝った。​オロン ドンガイト​​斡欒 董合亦惕​勇士と​ゴリ シレムン タイシ​​豁里 失列門 太子​が、一千の護衛軍を率いて衝いて来て、​ヂユルチエダイ​​主兒扯歹​がまたこれに勝った。元史に​チユチタイ​​朮赤台​​ウイダル​​畏荅兒​の伝があり、ともに正しいとみてよい。本書はいい加減なこと甚だしい。軍勢は進んで​ワン カガン​​汪 可汗​の護衛に迫った。その子​イラカ​​亦剌合​は馳せ来て陣を衝いた。我が軍はこれを射て頬に当てた。その勢いは大いにくじけ、兵を集めて退いた。 通世案、秘史は「成吉思は勝ち、日がすでに暮れるのを見て、軍を集めて退き、夜になり戦地を離れ宿った」と言う。本書に拠る「日が山を​くわ​​銜​え」という語は、勝ちが決まった時のことであり、西史に拠る「日が出る時」という語は、一日じゅう戦ったことである。​ウイダル​​畏荅兒​伝が「日暮れ時に至るもなお追いかけ続け」と言うのを見ると、一日じゅう戦ったのが、事実に近いとする。 秘史はまた「次の日に軍勢を確認すると、​オコタイ​​斡闊台​​ボロクル​​孛羅忽勒​​ボオルチユ​​孛斡兒出​の三人が少なかった。その夜、​チンギス​​成吉思​は敵が追って来て襲うことを恐れ、軍勢を整え戦いの支度をした。空が明るくなり、三人は逃げ帰って、敵がすでに去ったと告げた。ここにおいて​チンギス​​成吉思​​ウルクイ シルゲルヂト​​浯泐灰 溼兒格泐只惕​川を遡り、​ダラン ネムルゲス​​荅闌 捏木兒格思​の地に入った」と言う。西史はまた「​ワンカン​​王汗​の軍勢はなお盛んで、成吉思は敵わないと見て、すみやかに引き退いた」と言う。そうであるならば太祖は勝ったといえども、敵勢はまだ大いに挫かれてはいないことになる。さらに太祖が​ウルクイ​​浯泐灰​河を遡ったことに拠ると、戦地は四種の​タタル​​塔塔兒​のなじみの土地にあったようであり、考える価値はある。 上はまた兵を率いて​オルヌウ ケンヲゲ​​斡兒弩兀 遣惑哥​山の岡に至った。斡は原書では幹。文田案、秘史の​オルヌウ​​斡兒訥屼​山で、今は​カルカ​​喀爾喀​河の南岸にあるとする。曽植案、秘史巻七「​クイルダル​​忽亦勒荅兒​が亡くなり、〈底本-360​カルカ​​合兒合​川の​オルヌウ​​斡峏訥屼​山にこれを葬った」。​オルヌウ​​斡峏訥屼​はこの​オルヌウ​​斡兒弩兀​である。幹の字は誤り。軍はおよそ四千六百騎、秋濤案、秘史は「軍勢を確認すると、二千六百あった」とする。​ハルハ​​哈勒合​河に沿って秋濤案、秘史は​カルカ​​合泐合​河とする。文田案、今のモンゴルの​カルカ​​喀爾喀​河。従い進み、両隊に分け、上は自ら二千三百騎を率いて、河の南岸に行った。兀魯吾秋濤案、秘史は​ウルウト​​兀魯兀惕​とする。 ​モンウ​​𢗅兀​兀は原書では児。秋濤案、秘史は​モンクト​​𢗅忽惕​とする。曽植案、児を兀とする。二部は、二千三百騎を率いて、河の北岸に行き、秋濤案、秘史「​チンギス​​成吉思​は三千三百を率い、河の西のほとりに沿って起こした。​ウルウト​​兀魯兀惕​ ​モンクト​​𢗅忽惕​は一千三百を率い、河の東のほとりで起こした」。その兵数と方位、みなこれと異なる。通世案、​カルカ​​喀爾喀​河は、​マクトリ​​摩克托里​山より出て西北に流れ​ベイル ノール​​貝爾 諾爾​に入る。この南岸は、秘史の西のほとり、北岸は東のほとりである。方位は必ずしも異ならない。西史の兵数は本書と同じ。ただ河の流れに従うのが、誤って河を遡っている 上は先に親家となった​ホンギラ​​弘吉剌​部をもって、使いを遣わしその長​テムゲ アマン​​帖木哥 阿蠻​部に、秋濤案、秘史は​テルゲ​​帖兒格​とする。曽植案、秘史蒙文は「​ブユル​​捕魚兒​湖に​ゲルゲ アメル​​帖兒格 阿蔑勒​​オンギラ​​翁吉剌​があり」と言う。​アメル​​阿蔑勒​​アマン​​阿蠻​である。又案、秘史蒙文で、​ヂヤムカ​​札木合​を共に立てた十一部は、​オンギラトン​​翁吉剌敦​​デルゲク​​迭兒格克​​エメト​​額蔑惕​​アルクイ​​阿勒灰​などを頭とする。​デルゲク​​迭兒格克​​テムゲ​​帖木哥​​エメト​​額蔑惕​​アマン​​阿蠻​である。 言うには「お前がもし来て従えば、女子而容秋濤案、四字未詳、外甥の資質がともにある。文田案、而を面とする。言うなれば「お前がもし降れば、女児の外見、および外甥の面目、ともに好く見える」。おそらく​ホエルン​​訶額侖​を太祖の母とし、​ボルテ​​孛兒帖​を太祖の妻とし、みな​ホンギラ​​宏吉剌​氏。太祖を​ホンギラ​​宏吉剌​の外甥とするのである。秘史は「むかしの婚姻を思うなら、投降すること。よしとしないなら、すぐに戦うこと」と言う。この数語の意である。曽植案、秘史蒙文は、「外甥容貌、女子顔色」の誤りがあり、この書のところが根本である。秘史訳文は無い。そうでないならばお前に兵を加えようか」。 通世案、秘史はこの下で「​オンギラド​​翁吉剌都︀​は投降した。​チンギス​​成吉思​は他が投降するのに頼り、もろもろ重ねて騒がず落ち着いた」と言う。この句も少しよくない。ついにたどり着いた、​ドンゲ​​董哥​沢の秋濤案、秘史は​トンゲリ​​統格黎​小河とする。​トルハホルハ​​脫兒合火兒合​の地に曽植案、この地名は、秘史にない。通世案、秘史蒙文は​トンゲ ゴロカン​​統格 豁羅罕​とし、西史は「​チンギス​​成吉思​​ドンガ ノール​​董嘎 諾爾​の傍、​トルハゴルハン​​脫魯合豁兒罕​の地に駐留した。この地は湖あり河あり、水草が茂り美しい。よって兵士や馬が休息する」と言う。​ホルハゴロハン​​火兒合豁羅罕​、みな​ゴルカン​​豁兒罕​の誤りで、モンゴルで小河を言う。​ドンゲ​​董哥​​トルハ​​脫兒合​は音が近く、おそらく湖河は同じ名だろう。秘史は河名を挙げ、湖名を略す。その地は詳しくわからない。​ハルフ​​華而甫​は「これは​ダライ ノール​​達賴 諾爾​」と言う。​ホヲルト​​霍渥兒特​は「​インゴダ​​因果達​河の支河に、​タンガ​​唐嘎​河があり、​バルヂユナ​​巴兒渚︀納​湖に近い」と言う。軍を駐留した。





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