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校正増注元親征録/本編7

〈史45-171上24丁丑,上遣大將速不台拔都以鐵裹車輪,征滅兒乞部

〈底本-384 丁丑十二年、宋嘉定十年、金宣宗興定元年。上遣大將速不台拔都︀拔原作援、秋濤校改。以鐵裹車輪、征蔑兒乞〈史45-171下1部、通世案西史云「牛年、帝旋師。以聞蔑兒乞人逃至乃蠻西界外、集眾圖再擧、其地山高路險、乃命速不台巴哈都︀兒率軍、以鐵釘密布於車輪、庶行山路不易壞」。祕史云「牛兒年、成吉思造與速別額台一箇鐵車、敎襲脫黑脫阿的子忽都︀等去、對說「他與咱厮殺︀敗著︀、走出去了。如帶套竿的野馬、中箭的鹿一般。有翅飛上天呵、你做海︀靑拏下來。如鼠鑽入地呵、你做鐵鍬掘出來。如魚走入海︀呵、你做網撈出來」。又說「你越高山、涉大河、可趁軍每的馬匹未痩、行糧未盡時、先要愛惜。路聞不可輕易圍獵。若要因獵做行糧呵、也要斟酌著︀。馬的鞦幷閘環、不許套上。如此則軍每不敢走馬。若有違號令者︀、我認得的、便拏將來。不認得的、就那裏典刑了。可謹︀愼者︀。若天護助、將脫黑脫阿子每拏住呵、就那裏殺︀了者︀」。再說「當初我小時、被三種蔑兒乞拏、我將不兒罕山繞了三遭。這般有讎的百姓、如今又發言語去了。我欲敎你追到極處、所以造與你鐵車。你雖離得我遠、如在近一般。行呵、天必護助你」」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉與先遣征西前鋒脫忽察兒三千騎合、通世案、西史作二千騎。三當作二。辛未年、脫忽察兒出哨西邊戎。亦作二。至嶄河、遇其長大戰、盡滅蔑兒乞還。秋濤案、速不台傳、載征蔑兒乞事、在丙子年、及己卯冬、盡降其眾。此書葢終言之。通世案、伯哷津紀是戰、亦爲牛年事。多遜云「一二一六年、速不台攻篾兒乞特於阿爾泰山、軍至哲姆河、盡滅其眾。托克塔弟庫都︀與托克塔二子皆陣亡。一子庫圖堪善射、有默兒根之稱。速不台生擒之、檻致於朮赤。朮赤命以射。首矢中的、次矢劈前矢之𥶭、而亦中的。朮赤大喜、馳使吿太祖︀、乞貸其死。太祖︀曰「蔑兒乞特吾深仇。留善射仇人、將爲後患」。仍令殺︀之」。西暦一二一六年、卽太祖︀十一年丙子。速不台傳云「滅里吉强盛不附。丙子、帝會諸︀將於禿兀剌河之黑林、問「誰能爲我征滅里吉者︀」。速不台請行。帝壯而許之。乃選裨將阿里出、領百人先行、覘其虗實。速不台繼進云云。己卯、大軍至蟾河、與滅里吉遇、一戰而獲其二將、盡降其眾。其部主霍都︀奔欽察。速不台追之、與欽察戰于玉峪敗之」。合考諸︀書、葢丙子年命將、丁丑年戰于嶄河、至己卯年、而餘蘖悉平也。哲姆河蟾河、皆卽嶄河。與本書己巳年之嶄河、巴而朮傳之襜河、河名全同、而其地則異。祕史卷十一云「太祖︀命速別額台、追脫黑脫阿子忽〈底本-385 禿赤老溫等、追至垂河、將忽禿等窮絕了回來」。垂河、即今吹河。洪氏因改哲姆河爲吹河、曰「蟾河鄭河、皆卽吹河之轉訛」。但華而甫書云「乃蠻古出魯克、旣簒喀剌乞䚟之國、襲阿而麻里克、殺︀其王鄂匝兒、略喀什噶爾、平和闐、遂侵軼畏兀兒地、遣托克塔之二子誘蔑兒乞特・乞兒吉思、遣托克塔之弟於闊闊諾爾、誘禿馬特作亂。成吉思遣哲別諾顏、征古出魯克、速不台巴哈都︀兒剿蔑兒乞特。速不台大戰于闊索郭勒湖上、殺︀托克塔三子、生獲第四子云云」。餘與多遜・伯哷津同。據此、則蔑兒乞之然餘燼、及下文吐麻部乞兒吉思部之叛亂。皆由古出魯克煽之也。闊闊諾爾不詳。闊索郭勒、淸圖或作庫蘇古爾、在烏魯克姆河源之東。霍渥兒特曰「華而甫所謂「蔑兒乞特人至蒙古北境、煽起諸︀部」、不知其所據。參考諸︀書、成吉思還自伐金、先平禿馬特、次使哲別征古出魯克、速不台及朮赤征蔑兒乞特、敗之哲姆河上。此戰不在蒙古北境、而在突︀兒基斯單東境。華而甫應是讀哲姆爲克姆」。今案、華而甫所述、未可悉廢。蔑兒乞人煽起諸︀部、葢據阿布勒噶錫書。其說切當時勢、無可疑者︀。速不台征蔑兒乞、朮赤同往、而本書下文載戊寅年朮赤追乞兒吉思、順謙河而下、招降北境諸︀部。然則丁丑嶄河之戰者︀、似當在謙河之上游。記竢後考。又案、霍都︀奔欽察、亦見土土哈傳、云「太祖︀征蔑里乞、其主火都︀奔欽察。欽察國主亦納思納之。太祖︀遣使諭之云云亦納思答曰云云。太祖︀乃命將討之」。祕史亦云「蔑兒乞的忽都︀合勒赤老溫、過康里欽察種去了」。此事、西域諸︀史、絕無所見。喇施特云「忽都︀欲奔奇卜察克、蒙古軍獲而殺︀之」。見伯哷津史卷一第七十三頁。又多遜史卷一第百八頁、載「蔑兒乞特酋禿克托干爲蒙古所逐、率眾走氈的之北、爲其下所殺︀蒙古敗其眾於海︀哩・哈迷池兩河間、殲滅之」。據此、則速不台此役、未嘗遠至欽察。而蔑兒乞餘眾入康里境、則諸︀書有徵。嶄河盡滅蔑兒乞之說、亦未必然。額兒忒曼云「呼勒圖罕奔奇卜察克而被擒、朮赤命殺︀之」。是採東西史書之說、强牽合之也。霍渥兒特又曰「禿克托干、卽喇施特之呼勒圖罕」。然呼勒圖罕、就擒而後被殺︀、禿克托干、爲其下所殺︀。此亦非可牽合。是歲、吐麻部主秋濤案、紀云「是歲、禿滿部叛」。葢禿滿卽吐麻也。此吐麻部主下、語有譌脫。原文此下、卽接征西域事。案太祖︀之〈東方學デジタル圖書館-85征西域、始於己卯、至乙酉春歸國、自出師凡七年。此年不得有征西事。又此條旣言是歲、則當繫於歲末、不當以有時月之事、反繫於後。其爲錯簡甚明。今攷本紀、取此下「避暑︀八魯灣川」、及「候八剌那顏」等事、移於癸未年。其癸未年所載「都︀剌莎合兒、旣附而叛云云」、則又此年之文、誤入於彼者︀。今倶攷正。又案、祕史云「命孛羅忽勒征豁里禿馬惕種」。禿馬卽吐麻也。其官人歹都︀禿勒、卽禿剌也。此謂之都︀剌莎合兒者︀、北方語或繁或略、譯語偶異也。通世案、祕史卷一云「闊勒巴兒忽眞地面的主人巴兒忽歹篾兒干有一箇女兒、名巴兒忽眞豁阿、嫁與豁里禿馬敦部落的官人名豁里剌兒台蔑兒干、爲妻、生了這阿闌豁阿名字的女兒」。豁里禿馬敦、卽豁里禿馬惕、亦卽此吐麻部也。喇施特以禿馬特爲巴兒古特中之一部落、且云「禿馬特部、居巴兒古眞脫古魯姆之地」。巴兒古特及巴兒古眞脫古魯姆、見前八兒忽眞之隘注〈史45-172上23都︀剌莎合兒、旣附而叛。秋濤案、都︀剌莎合兒、當是吐麻部主之名。說詳上。曾植案、都︀剌莎合兒、卽祕史豁里禿馬惕官人歹都︀忽勒莎豁也。蒙文如此。譯文止作歹都︀禿勒。通世案、華而甫書作塔禿剌克速喀兒。洪氏譯伯哷津書、幷取祕史本書之字、作歹都︀禿勒莎合兒。本書都︀上、疑有脫字。上命博羅渾那顏・都︀魯伯二將〈史45-172下1討平之。博羅渾那顏卒於彼。秋濤案、自都︀剌至此、舊本誤入癸未年「循河而南」之下。今攷正。又案、博羅渾那顏、卽卷首所稱良將四人之一、與都︀魯伯爲二人。元史博羅渾作博爾忽。傳云「博爾忽、許兀愼氏。事太祖︀爲第一千戶、歿於敵」。史文記其事如此、略之甚也。畢秋帆謂「博羅渾官止千戶、無他戰功」。葢僅據元史、而不知攷於他書者︀。今攷征禿滿部、元史作「命鉢魯完・朵魯伯討平之」。鉢魯完、卽博羅渾。因譯語稍〈東方學デジタル圖書館-86異、宋王諸︀公不能辨、遂與博爾忽誤分爲二。朵魯伯、卽都︀魯伯也。諸︀書或改作布琳都︀爾伯、則合二人爲一人。是誤而又誤矣。攷得此條、數書皆可是正。爲之忻快者︀累日。通世案、此條、西史稍詳。云「禿馬特先已降附、聞帝南征、遂復叛。此部兵眾素强。帝遣巴鄰人納牙諾延及朵兒伯諾延徃討。納牙以病不行。帝躊躇久之、乃改命孛兒忽勒。孛兒忽勒問使者︀曰「此眾人所擧乎。抑上意乎」。使者︀曰「上意也」。孛兒忽勒曰「旣如是、我必徃。以我之軀易人之血。妻子、惟主上憐之」。旣平禿馬特、孛兒忽勒亦陳沒。帝知其言、又聞其先、甚痛悼之、以是厚撫其子、吿其家人「勿過悲哀、我必優䘏」」。祕史則最悉情節︀、雖與二書稍異、葢得其實。今備錄以供參考。「豁里禿馬惕種官人歹都︀禿勒已死、其妻孛脫灰塔兒渾管著︀百姓。太祖︀嘗許豁兒赤官人要三十箇妻。豁兒赤知禿馬惕女子生得美、要娶三十箇、致那百姓反了、將他拏住。太祖︀得知、因忽都︀合別乞知林木中百姓動靜、所以使他去。也被他拏了、在孛脫灰塔兒渾處。太祖︀命孛羅忽勒征他。孛羅忽勒到時、令三人於大軍前行。至日晩 入深林徑路間、不覺他哨望的人自後至、將路截了、殺︀了孛羅忽勒。太祖︀聞知大怒、欲親征、孛斡兒出・木合里諫止。別命朵兒伯朵黑申再去征。朵兒伯朵黑申、嚴整軍馬、於先行的把截處、虗張聲勢、郤從忽剌安不合獸行的小徑行去。又恐軍人畏懼不行、令人各背條子十根、若不行的、用此懲︀戒。每人又各將帶錛斧鋸鑿等器︀、將當路樹木除去。行至山頂、下視︀禿馬惕地面百姓、如天窗上看下面一般、大軍直進、彼中不想卒倒、就筵席間擄了。旣收捕了禿〈底本-386 馬惕後、賞與了孛羅兀勒一百禿馬惕的百姓、與了豁兒赤三十箇禿馬惕的女子、忽都︀合別乞處、與了孛脫灰荅兒渾」。塔兒渾、勇婦之美稱也。元史莫拏倫、西史云「稱莫奴倫塔兒衮、義謂有力」。

訳文 九五-九八

丁丑(1217年)十二年、宋 嘉定 十年、金 宣宗 興定 元年。上は大将​スブタイ バード​​速不台 拔都︀​を遣わし抜は原書では援とし、秋濤が校改する。鉄で車輪を包んで、​メルキ​​蔑兒乞​部を征伐し、通世案西史は「牛年、帝は軍を引き返した。​メルキ​​蔑兒乞​人が逃げて​ナイマン​​乃蠻​の西の境外に至ったと聞き、人々を集めて再び攻めることを相談し、その地は山が高く路は険しい、そこで​スブタイ バハドル​​速不台 巴哈都︀兒​に命じて軍を率いさせ、車輪に鉄の釘を密に布いて、さまざまな山道を行き変わらず壊れなかった」と言う。 秘史は「牛児年、​チンギス​​成吉思​​スベエタイ​​速別額台​に一箇の鉄車を造って与え、​トクトア​​脫黑脫阿​の子​クド​​忽都︀​らを襲いに行かせ、対して「彼らと我らは殺し合って破り、走って出て行った。馬採り竿を帯びた野生馬のようであり、矢の当たった鹿と同様である。翼で天に飛び上がるならは、お前は海靑のように捕らえて下ろして来い。如鼠のように地を掘って入るならば、お前は鉄の鍬のように掘り出して来い。魚のように湖水に走り入るならば、お前は網のようにすくい取って出して来い」と言った。また「お前は高山を越え、大河を渡り、軍勢の馬匹が痩せないよう追いかけるべきで、食糧が尽きないように行き、先ずは馬を愛しんで惜しむのが大切である。路は巻狩りしにくいと聞く。もし食糧が原因で巻狩りを求めるならば、ほどよく考えて求めよ。馬のしりがいとくつわを多くつけるのは許さない。軍は馬を走らせないようにせよ。もし号令を違える者があれば、私が知り得た者は、ただちに捕らえる。知り得ない者は、そこでの旧来どおりとする。慎み深くすべきである。もし天が護り助けるなら、将​トクトア​​脫黑脫阿​の子らを捕らえ留めたら、そこで殺せ」と言った。 かさねて「むかし私が小さい時に、三種の​メルキ​​蔑兒乞​に捕らえられそうになり、私はほぼ​ブルカン​​不兒罕​山を三度めぐった。このような仇のある人々が今や言葉を放って去った。私はお前に追い極めさせるのを望み、ゆえにお前に鉄車を造り与えたのである。お前が私から遠く離れようとも、近くにいるも同然である。行け、天は必ずお前を護り助ける」と説いた」と言う先に遣わした征西の先鋒である​トクチヤル​​脫忽察兒​三千騎と合流し、通世案、西史は二千騎とする。三を二とするのがふさわしい。辛未年(1211年)、​トクチヤル​​脫忽察兒​は西の辺りの異民族への先鋒をした。また二とする。​ヂヤン​​嶄​河に至り、その長と出会って大いに戦い、ことごとく​メルキ​​蔑兒乞​を滅ぼして帰った。秋濤案、​スブタイ​​速不台​伝は、​メルキ​​蔑兒乞​征伐の事が、丙子年(1216年)、及び己卯(1219年)冬にあって、ことごとくその人々が降ったと載せる。この書はおそらくこれを言い終えている。通世案、​ベレジン​​伯哷津​はこの戦を記し、また牛年の事とする。​ドーソン​​多遜​は「1216年、​スブタイ​​速不台​​メルキト​​篾兒乞特​​アルタイ​​阿爾泰​山に攻め、軍は​ヂエム​​哲姆​河に至り、ことごとくその人々を滅ぼした。​トクタ​​托克塔​の弟​クド​​庫都︀​​トクタ​​托克塔​の二子いずれも陣で亡くなった。一子​クト​​庫圖​は善く射ることができ、​メルゲン​​默兒根​の称をもっていた。​スブタイ​​速不台​はこれを生け捕りし、檻に入れて​チユチ​​朮赤​に送り届けた。​チユチ​​朮赤​は射るよう命じた。首に矢があたり、次の矢は前の矢の矢柄を引き裂いて、また当たった。 ​チユチ​​朮赤​は大いに喜び、使いを馳けさせて太祖に告げ、その死に寛大な措置を乞うた。太祖は「​メルキト​​蔑兒乞特​は私の深い仇である。善く射る仇人を留めておけば、まさに後患となるであろう」と言った。変わらず命じてこれを殺させた」。西暦1216年は、太祖 十一年 丙子である。​スブタイ​​速不台​伝は「​メリギ​​滅里吉​は強く盛んで付き従わなかった。丙子(1216年)、帝は​トウラ​​禿兀剌​河の黒林で諸将に会い、「誰か私のために​メリギ​​滅里吉​を征伐する者はいないか」と問うた。​スブタイ​​速不台​が行くのを請うた。帝は誉めてこれを許した。そこで副将に​アリチユ​​阿里出​を選び、百人を率いて先に行き、その備えの有無をうかがった。​スブタイ​​速不台​が続いて進み云云。己卯(1219年)、大軍は​チヤン​​蟾​河に至り、​メリギ​​滅里吉​と出会い、一戦して獲その二将を捕らえ、ことごとくその人々を降した。その部主​ホド​​霍都︀​​キムチヤ​​欽察​に奔った。​スブタイ​​速不台​はこれを追い、​キムチヤ​​欽察​と玉峪で戦いこれを破った」と言う。 諸書を考え合わせると、おそらく丙子年(1216年)に将に命じ、丁丑年(1217年)に​ヂヤン​​嶄​河で戦い、己卯年(1219年)に至り、残党はことごとく鎮まったのである。​ヂエム​​哲姆​​チヤン​​蟾​河は、いずれも​ヂヤン​​嶄​河である。本書の己巳年(1209年)の​ヂヤン​​嶄​河と、元史 ​バルチユ​​巴而朮​伝の​チヤン​​襜​河は、河名が全く同じだが、しかしその地は異なる。秘史巻十一は「太祖は​スベエタイ​​速別額台​に命じて、​トクトア​​脫黑脫阿​の子〈底本-385​クト​​忽禿​ ​チラウン​​赤老溫​などを追わせ、追って​チユイ​​垂​河に至り、将​クト​​忽禿​らを追い詰めて滅ぼし終えて帰って来た」と言う。 ​チユイ​​垂​河は、今の​チユイ​​吹​河である。洪氏は​ヂエム​​哲姆​河を​チユイ​​吹​河と改めたことに因んで、「​チヤン​​蟾​​ヂエン​​鄭​河、みな​チユイ​​吹​河の転訛である」と言う。しかし​ハルフ​​華而甫​書は「​ナイマン​​乃蠻​​グチユルク​​古出魯克​は、やがて​カラキダイ​​喀剌乞䚟​の国を横取りし、​アルマリク​​阿而麻里克​を受け継ぎ、その王​オザル​​鄂匝兒​を殺し、​カシユガル​​喀什噶爾​を奪い取り、​ホータン​​和闐​を平定し、遂に​ウイウル​​畏兀兒​の地を襲撃し、​トクタ​​托克塔​の二子を遣わして​メルキト​​蔑兒乞特​​キルギス​​乞兒吉思​を誘い、​トクタ​​托克塔​の弟を​ココ ノール​​闊闊 諾爾​に遣わして、​トマト​​禿馬特​が乱を起こすよう誘った。成吉思は​ヂエベ ノヤン​​哲別 諾顏​を遣わして、​グチユルク​​古出魯克​を征伐し、​スブタイ バハドル​​速不台 巴哈都︀兒​​メルキト​​蔑兒乞特​を滅ぼした。​スブタイ​​速不台​​コソゴル​​闊索郭勒​湖のほとりで大いに戦い、​トクタ​​托克塔​の三子を殺し、第四子を生け捕り云云」と言う。残りは​ドーソン​​多遜​​ベレジン​​伯哷津​と同じ。これに拠ると、​メルキ​​蔑兒乞​これは敗残兵であることが明らかで、後文の​トマ​​吐麻​​キルギス​​乞兒吉思​部の叛乱に及ぶ。いずれも​グチユルク​​古出魯克​がこれを煽ったことによるものである。​ココ ノール​​闊闊 諾爾​はよくわからない。 ​コソゴル​​闊索郭勒​は、淸図はあるいは​コスグル​​庫蘇古爾​とし、​ウルクム​​烏魯克姆​河源の東にある。​ホヲルト​​霍渥兒特​は「​ハルフ​​華而甫​のいわゆる「​メルキト​​蔑兒乞特​人がモンゴル北境に至り、諸部を煽り起てた」は、その拠るところがわからない。諸書を照らし合わせて考えると、​チンギス​​成吉思​は金の征伐から戻って、先ず​トマト​​禿馬特​を平らげ、次に​ヂエベ​​哲別​​グチユルク​​古出魯克​を征伐させ、​スブタイ​​速不台​及び​チユチ​​朮赤​​メルキト​​蔑兒乞特​を征伐させ、​ヂエム​​哲姆​河のほとりでこれを破った。この戦いはモンゴル北境ではなく、​トルキスタン​​突︀兒基斯單​東境であった。​ハルフ​​華而甫​はきっとこれを読んで​ヂエム​​哲姆​​クム​​克姆​としたのであろう」と言う。今案、​ハルフ​​華而甫​が述べる所は、いまだすべて捨て去られてはいないとしてよい。 ​メルキ​​蔑兒乞​人が諸部を煽り起てたのは、おそらく​アブルガシ​​阿布勒噶錫​の書に拠ったのであろう。その話は時勢をぴたりと当てており、疑うべきではない。​スブタイ​​速不台​​メルキ​​蔑兒乞​を征伐し、​チユチ​​朮赤​が同じく行き、そして本書の後文は戊寅年(1218年)に​チユチ​​朮赤​​キルギス​​乞兒吉思​を追って、​キアン​​謙​河に沿って下り、北境諸部を招いて降したと載せる。そうであるならば丁丑(1217年)の​ヂヤン​​嶄​河の戦いは、​キアン​​謙​河の上流にあったとすべきようである。記すのは待って後文で考える。又案、​ホド​​霍都︀​​キムチヤ​​欽察​に奔ったのは、また​トトハ​​土土哈​伝で見え、「太祖は​メリキ​​蔑里乞​を征伐し、その主​ホド​​火都︀​​キムチヤ​​欽察​に奔った。​キムチヤ​​欽察​国主​イナス​​亦納思​がこれを受け入れた。太祖は使い遣わしてこれを諭し云云​イナス​​亦納思​が答えて言い云云。太祖ははじめて将にこれを討つよう命じた」と言う。秘史も「​メルキ​​蔑兒乞​​クド​​忽都︀​ ​カル​​合勒​ ​チラウン​​赤老溫​は、​カングリ​​康里​​キムチヤ​​欽察​種を過ぎて行った」と言う。この事は、西域諸史に、少しも見える所がない。 ​ラシツド​​喇施特​は「​クド​​忽都︀​​キブチヤク​​奇卜察克​に奔ることを望み、モンゴル軍は捕らえてこれを殺した」と言う。​ベレジン​​伯哷津​の史巻一第七十三頁に見える。また​ドーソン​​多遜​の史は巻一第百八頁に、「​メルキト​​蔑兒乞特​酋長​トクトガン​​禿克托干​はモンゴルに追われる所となり、人々を率いて​ヂヤンヂ​​氈的​の北に走り、その部下に殺されモンゴルがその軍勢を​ハイリ​​海︀哩​​ハミチ​​哈迷池​両河の間で破り、これを殲滅した」と載せる。これに拠ると、​スブタイ​​速不台​はこの役で、いまだ遠く​キムチヤ​​欽察​に至っていない。​メルキ​​蔑兒乞​の残りの人々は​カングリ​​康里​の境に入り、諸書に証拠がある。​ヂヤン​​嶄​河のことごとく​メルキ​​蔑兒乞​を滅したという話もまた、いまだ必ずしもその通りではない。​エルドマン​​額兒忒曼​は「​フルトハン​​呼勒圖罕​​キブチヤク​​奇卜察克​に奔りそして捕らえられ、​チユチ​​朮赤​はこれを殺すよう命じた」と言う。この東西史書の選び取った話は、強く引き合う。​ホヲルト​​霍渥兒特​も「​トクトガン​​禿克托干​は、つまり​ラシツド​​喇施特​​フルトハン​​呼勒圖罕​である」と言う。 だが​フルトハン​​呼勒圖罕​は、捕らえられた後に殺され、​トクトガン​​禿克托干​は、部下に殺された。これまた引き合わせられない。この歳、​トマ​​吐麻​部主秋濤案、元史の紀は「この歳、​トマン​​禿滿​部が叛いた」と言う。おそらく​トマン​​禿滿​​トマ​​吐麻​であろう。この​トマ​​吐麻​部主の下に、語の誤りや抜けがある。原書の文はこの下が、つまり西域征伐の事に繋がれている。考えるに太祖の西域征伐は、己卯(1219年)に始まり、乙酉(1225年)春に至って帰国し、出師からおよそ七年である。この年に征西の事があるのは有り得ない。 またこの下りはすでにこの歳を言い、歳末に繋げて当てると、あった時の月の事に当たらず、後で繋ぎがひっくり返る。それは錯簡がはなはだ明らかである。今 元史 本紀を考えて、この下の「避暑八魯湾川」、及び「候八剌那顔」などの事を取り、癸未年(1223年)に移す。その癸未年の所が「都剌莎合児、既附而叛云云」と載せているのは、またこの年の文であり、誤ってあれを入れたのである。今ともに考えて正す。又案、秘史は「​ボロクル​​孛羅忽勒​に命じて​ゴリ トマト​​豁里 禿馬惕​種を征伐させた」と言う。​トマ​​禿馬​​トマ​​吐麻​である。その官人​ダイドトル​​歹都︀禿勒​は、​トラ​​禿剌​である。このいわゆる​ドラシヨハル​​都︀剌莎合兒​というのは、北方語がある時は多くある時は略し、訳語がたまたま異なったのである。通世案、秘史巻一は「​コル バルクヂン​​闊勒 巴兒忽眞​の地の主人​バルグダイ メルゲン​​巴兒忽歹 篾兒干​には一人の女児があり、名を​バルクヂン ゴア​​巴兒忽眞 豁阿​といい、​ゴリ トマトン​​豁里 禿馬敦​部落の官人で名を​ゴリラルタイ メルゲン​​豁里剌兒台 蔑兒干​という者に嫁され、妻となり、これが​アラン ゴア​​阿闌 豁阿​という名の女児を生んだ」と言う。​ゴリ トマトン​​豁里 禿馬敦​は、​ゴリ トマト​​豁里 禿馬惕​であり、またこの​トマ​​吐麻​部である。​ラシツド​​喇施特​​トマト​​禿馬特​​バルグト​​巴兒古特​中の一部落と思い、重ねて「​トマト​​禿馬特​部は、​バルグヂン ドグルム​​巴兒古眞 脫古魯姆​の地に住む」と言う。​バルグト​​巴兒古特​及び​バルグヂン ドグルム​​巴兒古眞 脫古魯姆​は、前文の​バルクヂン​​八兒忽眞​の狭間の注で見える ​ドラシヨハル​​都︀剌莎合兒​は、すでに付き従ってたが叛いた。秋濤案、​ドラシヨハル​​都︀剌莎合兒​を、​トマ​​吐麻​部主の名とする。説の詳細は前文にある。曽植案、​ドラシヨハル​​都︀剌莎合兒​は、秘史の​ゴリ トマト​​豁里 禿馬惕​官人​ダイドクル シヨゴ​​歹都︀忽勒 莎豁​である。蒙文はこのようになる。訳文はとどめて​ダイドトル​​歹都︀禿勒​とする。通世案、​ハルフ​​華而甫​の書は​タトラクスカル​​塔禿剌克速喀兒​とする。洪氏訳​ベレジン​​伯哷津​の書は、秘史と本書の字をともに取り、​ダイドトル シヨハル​​歹都︀禿勒 莎合兒​とする。本書はみな前文に、おそらく脱字があるであろう。 上は​ボロフン ノヤン​​博羅渾 那顏​​ドルベ​​都︀魯伯​二将に命じてこれを討って平らげさせた。​ボロフン ノヤン​​博羅渾 那顏​はかの地で卒した。秋濤案、都剌からここに至るまで、旧本では誤って癸未年(1223年)の「循河而南」の下に入っている。今考えて正す。又案、​ボロフン ノヤン​​博羅渾 那顏​は、巻首で良将四人のひとりと称したところと、​ドルベ​​都︀魯伯​とで二人とする。元史は​ボロフン​​博羅渾​​ボルフ​​博爾忽​とする。伝は「​ボルフ​​博爾忽​は、​フウヂン​​許兀愼​氏である。太祖に仕え第一千戸となり、敵地で歿した」と言う。元史の文がその事をこのように記すのは、これを省略するのが甚だしい。畢沅は「​ボロフン​​博羅渾​の官位は千戸にとどまり、他に戦功はない」と言う。おそらくわずかに元史に拠り、他書で調べることを考えなかったのであろう。今​トマン​​禿滿​部の征伐を調べると、元史は「​バルワン​​鉢魯完​​ドルベ​​朵魯伯​に命じてこれを討って平らげた」とする。​バルワン​​鉢魯完​は、​ボロフン​​博羅渾​である。訳語がやや異なることに因み、宋王諸公は区別できず、遂には​ボルフ​​博爾忽​を誤って分けて二つにした。 ​ドルベ​​朵魯伯​は、​ドルベ​​都︀魯伯​である。諸書はある時は改めて​ブリン ドルベ​​布琳 都︀爾伯​とし、二人を合わせて一人とした。これ誤りのまた誤りである。このくだりを調べてわかるのは、数書いずれもこれを正しいとすることである。為之忻快者累日〈[#訳せない。「諸書の誤りを見つけたので連日楽しい」の意か]〉。通世案、このくだりは、西史にやや詳しい。「​トマト​​禿馬特​は先にすでに降附し、帝の南征を聞き、遂に再び叛いた。この部の兵たちはまえまえから強かった。帝は​バリン​​巴鄰​​ナヤ ノヤン​​納牙 諾延​及び​ドルベ ノヤン​​朵兒伯 諾延​に行って討つよう遣わした。​ナヤ​​納牙​は病で行かなかった。帝は長い間これをためらい、そこで改めて​ボルフル​​孛兒忽勒​に命じた。​ボルフル​​孛兒忽勒​は使者に問うて「これは人々が企てたことか。それとも上意か」と言った。使者は「上意である」と言った。 ​ボルフル​​孛兒忽勒​は「このようである以上は、私は必ず行く。私の体を血まみれにするのはたやすいことである。妻子、および主上はこれを憐むであろう」と言った。やがて​トマト​​禿馬特​を平らげ、​ボルフル​​孛兒忽勒​も戦地で死亡した。帝はその言を知り、またその先を聞き、甚だしくこれを痛く悼み、これをもってその子を厚くいたわり、その家人に「悲哀しすぎるな、私は必ず優しく慈しむ」と告げた」と言う。秘史は最も事情がつぶさで、二書とやや異なるとはいえ、おそらくその実をとらえている。今蒙韃備録をもって大いに照らし合わせる。〈[#以後秘史からの引用]〉​ゴリ トマト​​豁里 禿馬惕​種の官人​ダイドトル​​歹都︀禿勒​はすでに死に、その妻​ボトフイタルフン​​孛脫灰塔兒渾​が人々を治めていた。太祖はかつて​ゴルチ​​豁兒赤​官人が三十人の妻を求めることを許した。​ゴルチ​​豁兒赤​​トマト​​禿馬惕​の女子が生まれつき美しいことを知り、三十人を娶ることを求め、かの人々が逆らうに至るとともに、彼を捕らえて留めた。太祖は知って、​クドカ ベキ​​忽都︀合 別乞​が林の民の動静を知っていることに因み、それゆえに彼を行かせた。 彼もまた捕らえられ、​ボトクイ タルクン​​孛脫灰 塔兒渾​のところにあった。太祖は​ボロクル​​孛羅忽勒​に命じて彼らを征伐させた。​ボロクル​​孛羅忽勒​が到った時、三人に命じて大軍の前を行かせた。日が暮れるに至って深い林の細道の間に入り、彼らの先鋒が後ろより至ったことに気づかず、そして路が断たれ、​ボロクル​​孛羅忽勒​は殺された。太祖は聞いて知って大いに怒り、親征を望み、​ボオルチユ​​孛斡兒出​​ムカリ​​木合里​が諫めて止めた。別に​ドルベ ドクシン​​朵兒伯 朵黑申​に命じて再び行かせて征伐した。​ドルベ ドクシン​​朵兒伯 朵黑申​は、厳しく軍馬を整え、先行して遮る場所を掴み、虚しく声の勢いを張り、​クラアン ブカ​​忽剌安 不合​という獣の行く隙間に従って小路を進んで行った。また軍人が怖気づいて行かないのを恐れて、各人に十本の枝を背負うよう命じ、もし行かないなら、これを懲戒するのに用いた。 人々はまた各々が錛・斧・鋸・鑿などの道具を帯び、路の樹木の除去に用いた。行って山頂に至り、下に​トマト​​禿馬惕​の地の人々を視て、天窓の上から下面を看るも同様で、大軍はすぐに進み、彼らは中で思わず卒倒し、宴席にとどまる間を捕らえた。〈底本-386やがて​トマト​​禿馬惕​を収めて捕らえた後、賞して​ボロウル​​孛羅兀勒​に百人の​トマト​​禿馬惕​の人々を与え、​ゴルチ​​豁兒赤​に三十人の​トマト​​禿馬惕​の女子を与え、​クドカ ベキ​​忽都︀合 別乞​の所に、​ボトクイ ダルクン​​孛脫灰 荅兒渾​を与えた」と言う。​タルクン​​塔兒渾​は、勇婦の美称である。元史 莫拏倫、西史は「​モナルン タルグン​​莫奴倫 塔兒衮​の称は、有力という意味である」と言う。



〈史45-171下7戊寅,封木華黎爲國王,總率王孤部萬騎、火朱勒部千騎、兀魯部四千騎

戊寅十三年、宋嘉定十一年、金興定二年。封木華黎爲國王、通世案、太祖︀紀云「以木華黎爲太師、封國王」。本傳云「詔封太師國王、都︀行省、承制行事、賜誓券黄金印、曰「子孫傳國、世世不絕」」。西史云「當木訶里在金境時、金人稱之爲國王。帝曰「此佳兆也」、至是遂封爲國王」。總率王孤部萬騎、孤原作狐、秋濤校改。火朱勒部千騎、 通世案、伯哷津脫此部名。華而甫蒙古史作庫施庫勒。兀魯部四千騎、秋濤案、兀魯、史作兀魯兀。𢗅兀部將木哥漢︀札千騎曾植案、木哥、卽元史𢗅哥、畏荅兒子、附傳尾。太宗本紀作蒙古寒札、次國王査剌溫茶合帶鍛眞之下、案陳那顏兄弟之上。又案、木哥其名、寒札其稱號。猶案陳那顏之那顏也。蒙古源流、濟典子孫、有明愛音札、有布延台音音札、葢貴人稱號。卽蒙古貴人、有歡津稱號、漢︀札對音字矣。通世案、西史作木勒格哈兒札、原注「忽亦兒荅兒之子」。弘吉剌部安赤那顏三千騎、通世案、西史作阿勒赤諾延、卽按陳那顏也。 亦乞剌部孛徒駙馬二千騎、秋濤案、孛徒卽孛禿、史有傳、說見前。札剌兒部及帶孫等二千騎通世案、木華黎傳、帶孫郡王、孔溫窟哇第三子、木華黎之弟也。同北京諸︀部烏葉兒元帥秋濤案、烏原作鳥、今改。烏葉兒、卽吾也兒、元史有傳。禿花元帥所將漢︀兵及北剌兒所將契丹兵通世案、西史云「契丹女眞之兵、烏葉兒元帥、禿花元帥統之」。無北剌兒名。原注「此二部人皆新附。以二將能得此眾、故令其統率」。禿花、耶律阿海︀之弟、元史有傳。北、疑比之誤、當卽上文比失兒。南伐金國秋濤案、封木華黎爲國王、紀及本傳、倶在丁丑年八月。〈東方學デジタル圖書館-87此係於戊寅。或因戊寅年大擧南伐、故總記於此歟。姑因之、以備攷。又案、本傳稱弘吉剌・亦乞剌思・兀魯兀・𢗅兀等十軍、及吾也兒・契丹蕃漢︀等軍。攷此錄載弘吉剌等止七軍、則本傳十、乃七之誤。通世案、本傳云「且諭曰「太行之北、朕自經略。太行以南、卿其勉︀之」。賜大駕所建九斿大旗、乃建行省於燕雲、以圖中原」。西史原注「是時帝以金事付木訶里、而自謀西方之事」。此條、西史繫於虎年、與本書同。洪氏曰「觀下西域之事、似非丑年起衅。當以親征錄之寅年爲合」。然考金史宣宗紀、大元兵下益都︀・淄・沂・密等州、在丁丑之冬。是卽木華黎之南征、而與元史紀傳合。則其受命、必在丁丑年、本書西史倶誤。別遣大將哲別攻曲出律可汗、至撒里桓地克之。通世案、祕史云「命者︀別追古出魯克、追至撒里黑崑地面、將古出魯克窮絕了回來」、與本書合、惟祕史叙之虎兒年太祖︀卽位之次、葢誤戊寅爲丙寅也。此條、西史甚詳。伯哷津譯本云「古出魯克、於龍年、自別失八里克、至庫爾車、歸於喀剌乞䚟古兒汗。古兒汗收撫之爲義子、妻以其女。突︀而吉斯丹與麻費闌那喝︀拉、先皆古兒汗屬地。謨罕默德貨勒自姆沙、奉父遺命、亦歲貢三萬的那於古兒汗。旣而呑併近境、國益强大、遂不納貢、又攻取布哈爾、令各城勿從古兒汗。乃有撒馬爾干酋諤斯滿亦來合。復通好於古出魯克、使者︀往遇諸︀途。先是古出魯克知古兒汗無能爲、東方屬部皆叛從蒙古、西域亦叛、又聞其父敗殘舊部、尙所在藏匿、思得其眾、以奪國土、言於古兒汗、曰「我離舊地已久。今蒙古往征乞䚟。乘今之時、我往葉密里・哈押立克・別失八里克、招集潰卒、眾必來從。可藉其力、以衞本國」。古兒汗信之。旣東行、乃蠻舊眾果來附、遂肆劫掠。復遇貨勒自姆沙之使、欲共謀古兒汗、卽約「東西夾攻。西勝、則西軍拓地、至阿力麻里克・和闐・喀什噶爾。東勝、則東軍拓地、至費那克特河」。議旣定、古出魯克、卽進攻八剌沙袞。古兒汗與戰敗之。古出魯克退而集眾。而貨勒自姆與撒馬爾干之兵、已至塔剌思、擒古兒汗之將曰塔尼古。古出魯克乘機再進、獲古兒汗、陽爲尊崇、實則簒國自立。越二歲、古兒汗以憂恚卒」。洪氏曰「此與遼史「乘直魯古出獵襲執之」略異、而「尊爲太上皇、朝夕問起居」、則語意相類︀」。「古出魯克旣得位、復娶一妃。勸以從佛敎。由是諭令民間奉佛、不得奉謨罕默德。暴歛橫徵、每一鄕長家、以一卒監蒞之。自至和闐。諭民改敎、出示招集謨罕默德敎人、辯論敎理。眾皆至、其爲首者︀、曰阿拉哀丁、與古出魯克、往復申辯、詞不屈。古出魯克漸沮惱怒、詈而縛之、釘其手足於門。眾情咸忿、而無如何、惟望帝軍之至。帝亦聞之、是年、遣哲別往征。哲別示諭民間、各守舊敎、從其先世所奉、勿庸更易。於是各鄕長皆殺︀監蒞之卒爲應。古出魯克在喀什噶爾、軍未至、先遁。沿路居民、皆不容納。將入巴達克山、而哲別追及於撒里黑庫爾山徑窄隘處殺︀之、乃蠻餘擊悉靖︀」。撒里黑庫爾、卽祕史撒里黑崑、本書撒里桓〈[#「撒」は底本では「撤」]〉。西域水道記作色勒庫勒、云「在葉爾羌城西八百里、爲外藩總會之區」。洪氏曰「案此節︀、必是拉施特增入、非國史所載。哀忒蠻譯述、則云「古出魯克至西遼、將謁︀古兒汗、慮有變、令從者︀僞爲己入謁︀、自爲從官、立門外。適古兒汗長妃之子格兒〈底本-387 八速自外至、心異其人、入而詢得其故、乃延入。格兒八速以女晃忽嫁之、三日卽成婚。晃忽時年十五、勸其夫勿信基督敎、改從佛敎。並以古兒汗年老好諛、吿其夫以趨承之道」。餘云云同。「古出魯克、旣於葉密爾三處收集舊衆、卽至鄂斯懇、奪西遼之庫藏、攻八拉莎袞、爲西遼所敗。其時西域軍已至塔剌思、擒塔尼古。八拉莎袞之民、聞警城守、不令鄂思懇潰卒入城。潰卒之帥謨罕默德大石、率眾圍攻十日、以象毀門而入、大掠三日。繼而部下復叛其帥。古出魯克聞亂亟進、獲古兒汗。時天方歷六百八年、西歷一千二百十一二年。直魯古遂讓位。古出魯克尊爲父、仍稱爲帝、而自執國事。直魯古憂悶成疾、越二歲卒。在位三十五年。古出魯克又娶西遼宰相之女、甚美」。餘皆同。謂「是志費尼書中所云」。又「撒里庫爾道上、地名韋拉特尼、山谷幽僻、可入不可出。古出魯克匿於中。哲別遇牧羊人、詢知蹤跡、令獵者︀導路、獲而殺︀之、葉爾羌等處悉定。爲帝虎年之事」。案、遼史、直魯古在位三十四年、此多一年。其云西歷一千二百十一年、爲太祖︀六年辛未。錢詹事大昕諸︀史拾遺、謂「西遼之亡、當在辛未。諸︀家編年、皆係以辛酉、係誤」。得此、可爲確證。拉施特謂「古兒汗以女嫁古出魯克」。他書有謂孫女者︀。此乃外孫女。恐哀忒蠻誤譯、或是長妃格兒八速、而誤謂長妃之女也」。又案、元史曷思麥里傳云「曷思麥里、西域谷則斡兒朵人。初爲西遼闊兒罕近侍、後爲谷則斡兒朵所屬可散八思哈長官。太祖︀西征、曷思麥里率可散等城酋長迎降。大將哲伯以聞。帝命曷思麥里、從哲伯爲先鋒、攻乃蠻克之、斬其主曲出律。哲伯令曷思麥里、持曲出律首、往徇其地。若可失哈兒・押兒牽・斡端諸︀城、皆望風降附」。谷則斡兒朵、卽遼史本紀虎思斡耳朵、金史粘割韓奴傳、作骨斯訛魯朵、耶律楚材西游錄、作虎司窩魯朵、西遼都︀城也。在垂河之濱。西史謂之八剌莎袞。可散、西游錄作可傘。經世大典圖作柯散、在察赤東南。察赤、卽今塔什干。俄羅斯地圖、塔什干東南、今仍有喀散城。是時太祖︀未親征、曷思麥里葢降哲別、傳稍誤。洪氏曰「西書謂「献其首於太祖︀」、則必行經葉爾羌・和闐等地、與史傳「持其首以徇地」之說、互相發明。西域書叙述此役亦非甚詳。但云「哲別敗古出魯克於昆都︀雅河」。卽今之裕勒都︀斯河、在天山南。又云「西域殺︀商奪貨之時、古出魯克僅有和闐・葉爾羌數城」。以意揣之、當是先平天山西北西遼故都︀之地、又追逐至天山以南、而蕆事於蔥嶺之 西」。先吐麻部叛、上遣徵兵乞兒乞兒部、不從、亦叛去。通世案、下兒字當作思、卽乞兒吉思也、多遜亦作乞兒吉思遂先命大太子往討之、命大二字原倒置。繆滅去大字。曾植案、大字當在命字之下。通世因校正。以不花爲前鋒、秋濤案、祕史「兔兒年、成吉思命拙赤、引右手軍、去征林木中百姓、令不合引路」。不合卽不花也。惟祕史稱兔兒年、與此戊寅年不合。通世案、丁卯年、乞力吉思降附、是年因叛討之。祕史誤併兩事爲一時事。洪氏曰「元史親征錄西書、載征禿馬、皆在丁丑、而祕史誤繫於朮赤收附斡亦剌・乞兒吉思等部之後、伐金之前細審其由、葢因朮赤兩至乞兒吉思、第二次師由禿馬而起、而祕史只志一役、是以致誤」。又案、不花、木華黎之弟也。太祖︀滅主兒乞時、從父古溫兀阿降附。見祕史。 追乞兒思、至亦馬兒河而還。通世案、思上又脫吉字。亦馬兒河不詳。大太子領兵涉謙河水順下、通世案、謙河、今云克姆河。烏魯克姆・貝克姆・克姆池克三河合而北流、入俄羅斯境、爲葉尼𧶼河。詳見元史譯文證補謙河考。朮赤補傳、作「還至謙河、涉冰北行」。自注曰「亦馬兒河無考、或卽葉密爾河。葉密爾河濱、有葉密爾城、見耶律希亮傳、劉郁西使記作業滿。是知葉密・亦馬、音近易訛。若然則是遠追至西南、還軍東北、涉西流之謙河。旣渡河後、仍循河之北流以行。故曰「涉謙河水順下」。以此註親征錄、字字皆有下落、當不謬也。履冰過謙河、見西書」。 招降不困克兒爲思・秋濤案、不困二字葢誤衍、令删。通世案、六字不可考。何氏以克兒爲思謂「卽乞兒吉思」故删不困二字。然對音不協。當存六字以竢後考。憾哈思・帖良兀・克失的迷・火因亦而干諸︀部。秋濤案、此事、元史不載。大太子、卽朮赤也。史不言其戰〈東方學デジタル圖書館-88功、得此可補其闕。克兒爲思、當卽乞兒吉思部。曾植案、火因亦兒干、卽祕史所謂林木中百姓也。蒙語、林曰槐因、百姓曰亦兒干、亦曰亦兒格、見祕史蒙文。通世案、元史類︀編朮赤傳注「大方通鑑云「朮赤伐烏思・憾哈納思・帖良兀・克失的迷・火因亦兒干等部、皆降之」。時太祖︀十二年歲丁丑事」大方通鑑之文、葢本於本書。無不困克兒、以爲思爲烏思。元史西北地附錄注有烏斯、當卽此烏思。若然則不困克兒、亦當是一部之名。憾哈納思、西北地附錄作撼合納、劉哈剌拔都︀魯傳作憨哈納思、祕史作哈卜哈納思。此憾哈思、哈下脫納字。喇施特云「謙河之源有八河。衞拉特居於左。近其東有烏拉速特・帖連郭特・克斯的迷三族、居拜喀勒湖西、與衞拉特・乞兒吉思爲隣。以住於林木間、號爲林民」。烏拉速特、祕史作兀兒速特。帖連郭特、祕史卷七作帖良古、卷十二作田列克、卽此帖良兀。克斯的迷、祕史作客思的音卽此克失的迷。火因亦而干、則諸︀部之統稱、非部名也。乞兒吉思撼合納之事、詳西北地附錄釋地。〈底本-388

訳文 九八-一〇一

戊寅(1218年)十三年、宋 嘉定 十一年、金 興定 二年。​ムホアリ​​木華黎​を封じて国王とし、通世案、元史 太祖紀は「​ムホアリ​​木華黎​を太師とし、国王に封じた」と言う。元史 ​ムホアリ​​木華黎​伝は「太師国王と、都行省と、承制行事に封じるよう詔があり、誓券黄金印を賜わり、「子孫は、代々絶えることなく国を伝えよ」と言った」と言う。西史は「この​ムホリ​​木訶里​が金の国境にいた時、金人はこれを称して国王とみなした。帝は「これは佳い兆しである」と言い、ここに至り遂に封じられ国王となった」と言う。​ワング​​王孤​部の万騎を統率し、孤は原書では狐、秋濤が校改する。​ホヂユル​​火朱勒​部の千騎、通世案、​ベレジン​​伯哷津​はこの部名が抜けている。​ハルフ​​華而甫​のモンゴル史は​クシクル​​庫施庫勒​とする。​ウル​​兀魯​部の四千騎、秋濤案、​ウル​​兀魯​、元史は​ウルウ​​兀魯兀​とする。 ​モンウ​​𢗅兀​部将​ムゲ ハンヂヤ​​木哥 漢︀札​の千騎曽植案、​ムゲ​​木哥​は、元史​モンゲ​​𢗅哥​​ウイダル​​畏荅兒​の子、伝の末尾に附いている。元史 太宗本紀は​モンク ハンヂヤ​​蒙古 寒札​とし、次の国王 ​チヤラウン​​査剌溫​ ​チヤハダイ​​茶合帶​ ​ドンヂン​​鍛眞​の部下で、​アンチン ノヤン​​案陳 那顏​兄弟の年長者である。又案、​ムゲ​​木哥​はその名で、​ハンヂヤ​​寒札​はその称号である。ちょうど​アンチン ノヤン​​案陳 那顏​​ノヤン​​那顏​のようである。蒙古源流には、済典子孫〈[#訳せない]〉​ミンガイ インヂヤ​​明愛 音札​があり、​ブヤンタイイン インヂヤ​​布延台音 音札​があり、おそらく貴人の称号であろう。ほかでもなくモンゴルの貴人は、​ホアンヂン​​歡津​の称号があり、​ハンヂヤ​​漢︀札​の対音字であろうか。通世案、西史は​ムルゲ ハルヂヤ​​木勒格 哈兒札​とし、原注に「​クイルダル​​忽亦兒荅兒​の子」とある。 ​ホンギラ​​弘吉剌​​アンチ ノヤン​​安赤 那顏​の三千騎、通世案、西史は​アルチ ノヤン​​阿勒赤 諾延​とし、つまり​アンチン ノヤン​​按陳 那顏​である。​イキラ​​亦乞剌​​ボト​​孛徒​駙馬の二千騎、秋濤案、​ボト​​孛徒​​ボト​​孛禿​であり、元史に伝があり、解説は前文に見える。​ヂヤラル​​札剌兒​部及び​ダイスン​​帶孫​らの二千騎通世案、​ムホアリ​​木華黎​伝、​ダイスン​​帶孫​郡王、​コンウンクワ​​孔溫窟哇​の第三子、​ムホアリ​​木華黎​の弟である。同じく北京諸部​ウエル​​烏葉兒​元帥秋濤案、烏は原書では鳥、今改める。​ウエル​​烏葉兒​は、​ウエル​​吾也兒​であり、元史に伝がある。​トハ​​禿花​元帥が率いる漢兵及び​ベラル​​北剌兒​が率いる​キダン​​契丹​通世案、西史は「​キダン​​契丹​​ヂユチン​​女眞​の兵は、​ウエル​​烏葉兒​元帥と、​トハ​​禿花​元帥がこれを統率した」と言う。​ベラル​​北剌兒​の名はない。原注「この二部の人はみな新しく附いた。二将がこの人々をよくわかっているので、その統率を命じられた」。​トハ​​禿花​は、​エリユ アハイ​​耶律 阿海︀​の弟で、元史に伝がある。 北は、おそらく比の誤りであり、よって前文は​ビシル​​比失兒​とする。は南に金国を討伐し秋濤案、​ムホアリ​​木華黎​を封じて国王としたのは、元史 紀と本伝で、ともに丁丑年(1217年)八月にある。これは戊寅(1218年)に繋げている。あるいは戊寅年(1218年)の大軍による南伐に連ねて、すべてここに記されたか。しばらくこれに拠って、備考する。又案、元史 もとの​ムホアリ​​木華黎​伝は​ホンギラ​​弘吉剌​​イキラス​​亦乞剌思​​ウルウ​​兀魯兀​​モンウ​​𢗅兀​など十軍、及び​ウエル​​吾也兒​​キダン​​契丹​の周辺異民族と漢などの軍と称する。この録が​ホンギラ​​弘吉剌​など七軍にとどめて載せるのを考えるなら、もとの伝の十は、まさに七の誤りである。通世案、もとの伝は「重ねて諭し「太行山脈の北は、朕自ら経略する。太行山脈から南は、卿こそがこれに勉めよ」と言った。天子の乗り物に立てていた九斿大旗を賜り、はじめて燕雲に行省を建て、中原を取るのに用いた」と言う。西史の原注「この時に帝は金の事を​ムホリ​​木訶里​に付け、そして自らは西方の事を謀った」。このくだりは、西史は虎年に繋げ、本書と同じ。 洪氏は「後文で見える西域の事は、丑年に起きた仲違いではないようである。親征録の寅年が合っているとみるべきである」と言う。だが金史 宣宗紀を調べると、大元の兵が益都・淄・沂・密などの州を下したのは、丁丑(1217年)の冬にある。この​ムホアリ​​木華黎​の南征は、元史の紀伝と合う。それが命を受けたのは、必ず丁丑年(1217年)にあり、本書と西史はともに誤っている。別に大将​ヂエベ​​哲別​を遣わして​クチユル カガン​​曲出律 可汗​を攻め、​サリコン​​撒里桓​の地に至りこれを攻め取った。通世案、秘史は「​ヂエベ​​者︀別​に命じて​グチユルク​​古出魯克​を追わせ、追って​サリククン​​撒里黑崑​の地に至り、​グチユルク​​古出魯克​を追い詰めて滅ぼし終えて帰って来た」と言い、本書と合い、ただ秘史はこれを虎児年の太祖即位の次に述べ、おそらく誤って戊寅(1218年)を丙寅(1206年)としたのであろう。このくだりは、西史がはなはだ詳しい。 ​ベレジン​​伯哷津​の訳本は「​グチユルク​​古出魯克​は、竜年に、​ベシバリク​​別失八里克​より、​クルチエ​​庫爾車​に至り、​カラキダイ​​喀剌乞䚟​​グル カン​​古兒 汗​に身を寄せた。​グル カン​​古兒 汗​はこれを取り立てていたわり義子とし、娘を娶わせた。​トルギスダン​​突︀而吉斯丹​​マヹラン ノヘラ​​麻費闌 那喝︀拉​は、最初はいずれも​グル カン​​古兒 汗​に属する地だった。​モハンメド ホルズム シヤー​​謨罕默德 貨勒自姆 沙​は、父の遺命を奉り、また三万​デナ​​的那​​グル カン​​古兒 汗​に毎年貢いだ。すでに近境を呑併し、国はいよいよ強大になり、遂に納貢せず、また​ブハル​​布哈爾​を攻め取り、各城に​グル カン​​古兒 汗​に従わないよう命じた。そこで​サマルカン​​撒馬爾干​の酋長​オスマン​​諤斯滿​も来て合流した。さらに​グチユルク​​古出魯克​によしみを通じて、使者がいろいろな道を往来した。 先にこの​グチユルク​​古出魯克​​グル カン​​古兒 汗​が無能なため、東方属部がみな叛いてモンゴルに従い、西域も叛いたと知り、またその父が当初の部に敗れ去りなお所在を隠して身を潜めていると聞き、国土を奪うことで、その人々を得ようと思い、​グル カン​​古兒 汗​に、「私は当初の地を離れてすでに久しい。今モンゴルは​キダイ​​乞䚟​の征伐に行っている。今この時に乗じて、私は​エミリ​​葉密里​​ハヤリク​​哈押立克​​ベシバリク​​別失八里克​に行き、ちりぢりになった人々を招集し、人々は必ず来て従う。その力を借りて、本国の防衛の用いるべきである」と言った。​グル カン​​古兒 汗​はこれを信じた。やがて東に行き、​ナイマン​​乃蠻​の当初の人々は思ったとおり来附し、遂には脅かして奪い取った。さらに​ホルズム シヤー​​貨勒自姆 沙​の使いと会って、共に​グル カン​​古兒 汗​を謀ることを望み、ただちに「東西で夾み攻めにしよう。西が勝てば、西軍は領土を、​アリマリク​​阿力麻里克​​ホータン​​和闐​​カシユガル​​喀什噶爾​まで広げる。東が勝てば、東軍は領土を、​ヹノクト​​費那克特​河まで広げる」と約束した。 話し合いは定まりつくし、​グチユルク​​古出魯克​は、ただちに​バラシヤグン​​八剌沙袞​に進攻した。​グル カン​​古兒 汗​はこれと戦い破った。​グチユルク​​古出魯克​は退いて人々を集めた。​ホルズム​​貨勒自姆​​サマルカン​​撒馬爾干​の兵は、すでに​タラス​​塔剌思​に至り、​グル カン​​古兒 汗​​タニグ​​塔尼古​という将を捕らえた。​グチユルク​​古出魯克​は機に乗じて再び進み、​グル カン​​古兒 汗​を捕らえ、尊崇するふりをして、実は国を奪い自立した。二年が過ぎて、​グル カン​​古兒 汗​は憂いと怒りにより亡くなった」。洪氏は「これと遼史「​チルグ​​直魯古​の出猟に乗じて襲いこれを捕えた」はほぼ異なるが、「太上皇として尊び、朝夕に暮らしの様子を問うた」は、語意が似ている」と言う。「​グチユルク​​古出魯克​はすでに位を得て、再びひとりの妃を娶った。仏敎に従うよう勧めた。これにより民間に諭し命じて仏を奉じ、​モハンメド​​謨罕默德​を奉じられなかった。強引な税の取り立てが行われ、一郷の長の家ごとに、ひとりの兵士によってこれを見張った。自ら​ホータン​​和闐​に至った。民を諭して敎えを改め、​モハンメド​​謨罕默德​敎の人を招集するよう出し示し、敎理を互いに論じ争った。人々はみな至り、彼らが指導者とした人は、​アラアイヂン​​阿拉哀丁​と言い、​グチユルク​​古出魯克​と、往復を繰り返して討論し、詞は屈しなかった。​グチユルク​​古出魯克​はしだいに恐れ悩み怒り、これを罵って縛り、その手足を門に釘で打った。人々の心はみな怒り、どうにもならず、ただ帝の軍の至るの望んだ。帝もこれを聞き、この年、​ヂエベ​​哲別​を遣わして征伐に行かせた。 ​ヂエベ​​哲別​は民間に示し諭して、各々が当初の敎えを守り、その祖先の奉じる所に従い、重ねて変えるのに人を用いるなとした。これにより各郷長はみな監督の兵を殺して応えた。​グチユルク​​古出魯克​​カシユガル​​喀什噶爾​にいて、軍はいまだ至らず、先に遁れた。路沿いに住む民は、みな許さず受け入れなかった。将は​バダク​​巴達克​山に入り、​ヂエベ​​哲別​は追って​サリククル​​撒里黑庫爾​山で追いつき道の狭い狭間のところでこれを殺し、​ナイマン​​乃蠻​の残党を撃ってことごとく鎮めた」。​サリククル​​撒里黑庫爾​は、秘史の​サリククン​​撒里黑崑​であり、本書の​サリコン​​撒里桓​である。 西域水道記は​セルクル​​色勒庫勒​とし、「​ヤルキヤン​​葉爾羌​城の西八百里にあり、外藩総会の境界とされる」と言う。洪氏は「この節を考えるに、必ずや​ラシツド​​拉施特​の増入であり、国史の載せるところではない。​アイテマン​​哀忒蠻​訳は述べて、「​グチユルク​​古出魯克​は西遼に至り、​グル カン​​古兒 汗​に謁することを望み、変があるのを思い考え、従者にいつわらせて彼が謁見に入るようにし、自らは従者として、門外に立った。ちょうどそこへ​グル カン​​古兒 汗​の正室の子〈底本-387​ゲルバス​​格兒八速​自ら外に至り、なんとなくその人を怪しみ、入ってその理由を問うて知って、そして招き入れた。​ゲルバス​​格兒八速​は娘の​コンフ​​晃忽​をこれの嫁にし、三日すぐに成婚した。​コンフ​​晃忽​は時に年は十五で、その夫が基督敎を信じぬよう勧め、仏敎に改めて従った。 ​グル カン​​古兒 汗​は年老いてへつらいを好んだので、その夫にお世辞の方法を告げた」と言う。残りの云云は同じ。「​グチユルク​​古出魯克​は、やがて​エミル​​葉密爾​の三処に古くからの人々を取り立てて集め、ただちに​オスケン​​鄂斯懇​に至り、西遼の庫蔵を奪い、​バラシヤグン​​八拉莎袞​を攻め、西遼を破った。その時に西域軍はすでに​タラス​​塔剌思​に至り、​タニグ​​塔尼古​を捕らえた。​バラシヤグン​​八拉莎袞​の民は、城守の注意を聞き、​オスケン​​鄂思懇​に兵を潰えさせぬよう命じて入城した。兵を潰えさせた指導者は​モハンメド​​謨罕默德​​タイシ​​大石​で、人々を率いて囲んで十日攻め、象に門を壊させて入り、大いに三日掠めた。 やがて部下はその指導者に叛くのを繰り返した。​グチユルク​​古出魯克​は乱が慌ただしく進んでいるのを聞き、​グル カン​​古兒 汗​を捕らえた。時に天方歴六百八年、西歴一千二百十一二年。​チルグ​​直魯古​は遂に位を譲った。​グチユルク​​古出魯克​は父として尊び、もとのまま帝と称し、そして自ら国事を執った。​チルグ​​直魯古​は憂悶して病になり、二年過ぎて亡くなった。在位三十五年。​グチユルク​​古出魯克​はさらに西遼宰相の娘を娶り、はなはだ盛んになった」。残りは皆同じ。「これは​ヂヹニ​​志費尼​の書の中でいう所」と言う。 また「​サリコル​​撒里庫爾​道上は、地名は​エイラドニ​​韋拉特尼​で、山谷が奥深く偏り、入られるが出られない。​グチユルク​​古出魯克​は中に隠れた。​ヂエベ​​哲別​は牧羊人に出会い、足跡を見分けることを相談し、猟師に路を導くよう命じ、捕らえてこれを殺し、​ヤルキヤン​​葉爾羌​などの所をことごとく平定した。帝は虎年の事とする」。案、遼史は、​チルグ​​直魯古​在位三十四年で、これは一年多くする。それは西歴一千二百十一年と言い、太祖 六年 辛未(1211年)とする。銭詹事大昕の諸史拾遺は、「西遼の亡びは、辛未(1211年)にあったとするのがふさわしい。諸家編年、みな辛酉(1201年)に繋げるが、繋ぎは誤っている」と言う。これをふまえて、確かな証拠としてよい。​ラシツド​​拉施特​は「​グル カン​​古兒 汗​は娘を​グチユルク​​古出魯克​に嫁した」と言う。他書は孫娘と言う者がある。これこそが外孫娘である。 おそらく​アイテマン​​哀忒蠻​は誤訳して、ある時は長妃​ゲルバス​​格兒八速​とし、また誤って長妃の娘と言ったのである」と言う。又案、元史​フス メリ​​曷思 麥里​伝は「​フス メリ​​曷思 麥里​は、西域​グツエオルド​​谷則斡兒朵​人。初めは西遼​コル カン​​闊兒 罕​近侍で、のちに​グツエオルド​​谷則斡兒朵​に属する​カサン バスハ​​可散 八思哈​の長官となった。太祖は西征し、​フス メリ​​曷思 麥里​​カサン​​可散​などの城の酋長を率いて迎えて降った。大将​ヂエベ​​哲伯​は聞きいれた。帝は​フス メリ​​曷思 麥里​に命じて、​ヂエベ​​哲伯​に従い先鋒となり、​ナイマン​​乃蠻​を攻めてこれに勝ち、その主​クチユル​​曲出律​を斬った。​ヂエベ​​哲伯​​フス メリ​​曷思 麥里​に命じて、​クチユル​​曲出律​の首を持たせ、その地に命令してまわらせた。​カシハル​​可失哈兒​​ヤルキヤン​​押兒牽​​オタン​​斡端​諸城のごときは、いずれも勢いを見て降附した」と言う。​グツエオルド​​谷則斡兒朵​は、遼史 本紀の​フスオルド​​虎思斡耳朵​であり、金史 ​ニヤンゲ ハンヌ​​粘割 韓奴​伝は、​グスエルド​​骨斯訛魯朵​とし、​エリユ チウツアイ​​耶律 楚材​西游録は、​フスオルド​​虎司窩魯朵​とし、西遼の都城である。​チユイ​​垂​河の浜辺にある。西史が言うところの​バラシヤグン​​八剌莎袞​である。​カサン​​可散​は、西游録は​カサン​​可傘​とする。 経世大典の地図は​カサン​​柯散​とし、​チヤチ​​察赤​の東南にある。​チヤチ​​察赤​は、今の​タシユゲン​​塔什干​である。​オロス​​俄羅斯​の地図は、​タシユゲン​​塔什干​の東南で、今なおも​カサン​​喀散​城がある。この時に太祖はまだ親征しておらず、​フス メリ​​曷思 麥里​はおそらく​ヂエベ​​哲別​に降り、伝はやや誤っている。洪氏は「西書は「その首を太祖に献じた」と言い、つまりは必ず​ヤルキヤン​​葉爾羌​​ホータン​​和闐​などの地を経て行き、元史の伝の「その首を持って領地を奪った」の話と、互いにわからなかったことを明らかにしている。西域の書はこの役を叙述しやはりあまり詳しくない。しかし「​ヂエベ​​哲別​​グチユルク​​古出魯克​​グンドヤ​​昆都︀雅​河で破った」と言う。つまり今の​ユルドス​​裕勒都︀斯​河で、天山の南にある。また「西域で商人を殺して金品を奪った時、​グチユルク​​古出魯克​はわずかに​ホータン​​和闐​​ヤルキヤン​​葉爾羌​の数城を持っていた」と言う。この意味を考えると、これは先に平定した天山の西北にある西遼の古都の地に当たり、また追いかけて天山の以南に至り、蔥嶺の西で物事が終わった」と言う。 先ず​トマ​​吐麻​部が叛き、上は​キルキル​​乞兒乞兒​部に兵を召し出させ、従わず、やはり叛いて去った。通世案、後の児の字を思とし、つまり​キルギス​​乞兒吉思​であり、​ドーソン​​多遜​​キルギス​​乞兒吉思​とし遂に先ず大太子に命じてこれを行って討たせ、命大の二字は原書では倒置している。誤って大の字が消え去っている〈[#四庫全書存目叢書本は命大ではなく先命が倒置している。それぞれ別の原書に存在する別の誤りについて説明しているものと思われる]〉。曽植案、大の字が命の字の下にあるべき。通世が因んで校正する。​ブハ​​不花​を先鋒とし、秋濤案、秘史「兔児年、​チンギス​​成吉思​​ヂユチ​​拙赤​に命じて、右手の軍を率いさせ、行って林の民を征伐させ、​ブカ​​不合​に道を導かせた」。​ブカ​​不合​​ブハ​​不花​である。ただ秘史が兔児年を称するのと、この戊寅年(1218年)は合わない。 通世案、丁卯年(1207年)、​キリギス​​乞力吉思​は降附し、この年に叛いたのでこれを討った。秘史は誤って二つの事を併せて一時の事としている。洪氏は「元史と親征録と西書は、​トマ​​禿馬​への征伐を載せ、いずれも丁丑(1217年)にあり、そして秘史は誤って​チユチ​​朮赤​​オイラ​​斡亦剌​​キルギス​​乞兒吉思​などの部を収めて付き従えた後に繋げ、金を討伐する前にその理由を詳しくつまびらかにし、おそらく​チユチ​​朮赤​が二つとも​キルギス​​乞兒吉思​に至ったので、第二次出兵が​トマ​​禿馬​のせいで起き、そして秘史はただ一つの役を記し、これにより誤るに致った」と言う。又案、​ブハ​​不花​は、​ムホアリ​​木華黎​の弟である。太祖が​ヂユルキ​​主兒乞​を滅ぼした時、父​グウングア​​古溫兀阿​に従って降附した。秘史で見える。​キルス​​乞兒思​を追い、​イマル​​亦馬兒​河に至り帰った。通世案、思の上にも吉の字が抜けている。 ​イマル​​亦馬兒​河はよくわからない。大太子は兵を率いて​キアン​​謙​河を渡って川に沿って下り、通世案、​キアン​​謙​河は、今は​クム​​克姆​河と言う。​ウルクム​​烏魯克姆​​ベイクム​​貝克姆​​ムクチク​​克姆池克​三河が合流して北に流れ、​オロス​​俄羅斯​国境に入り、​エニサイ​​葉尼𧶼​河になる。詳しくは元史訳文証補の​キアン​​謙​河考を見よ。​チユチ​​朮赤​補伝は、「帰って​キアン​​謙​河に至り、凍った川を渡って北に行った」とする。自注は「​イマル​​亦馬兒​河は考えが無く、あるいは​エミル​​葉密爾​河。​エミル​​葉密爾​河の浜辺は、​エミル​​葉密爾​城があり、​エリユ ヒリヤン​​耶律 希亮​伝に見え、劉郁の西使記は​エマン​​業滿​とする。ここであらわれた​エミ​​葉密​​イマ​​亦馬​は、音が近く訛りやすい。もしそうであるならばこれは遠く追って西南に至り、東北に軍を戻し、西に流れる​キアン​​謙​河を渡った。渡河し終えた後、そのまま河が北に流れるのに従って行った。ゆえに「​キアン​​謙​河を渡って川に沿って下り」と言う。これをもって親征録を註すると、それぞれの字にいずれも下の抜けがあり、誤りはないとすべきである。氷を踏んで​キアン​​謙​河を過ぎ、西書に見える」と言う。 不困克児為思・秋濤案、不困の二字はおそらく誤って伸び広がっており、削るのが良い。通世案、六字は考えられない。何氏は克児為思は「​キルギス​​乞兒吉思​である」ということで不困の二字を削った。だが対音は合わない。待って六字とし後で考えるべきである。​ハンハス​​憾哈思​​テリヤンウ​​帖良兀​​クシヂミ​​克失的迷​​ホイン イルゲン​​火因 亦而干​諸部を誘いかけて降伏させた。秋濤案、この事は、元史は載せていない。大太子は、​チユチ​​朮赤​である。元史はその戦功を言わず、これでその欠けを補いうる。克児為思は、​キルギス​​乞兒吉思​部とすべきである。曽植案、​ホイン イルゲン​​火因 亦兒干​は、つまり秘史のいわゆる林の民である。モンゴル語は、林を​ホイイン​​槐因​と言い、人々を​イルゲン​​亦兒干​と言い、また​イルゲ​​亦兒格​と言い、秘史の蒙文で見える。通世案、元史類編​チユチ​​朮赤​伝は「大方通鑑は「​チユチ​​朮赤​​ウス​​烏思​​ハンハナス​​憾哈納思​​テリヤンウ​​帖良兀​​クシヂミ​​克失的迷​​ホイン イルゲン​​火因 亦兒干​などの部を討伐し、いずれもこれに降った」と言う。時に太祖 十二年 歳丁丑(1217年)の事であった」と注する。大方通鑑の文は、おそらく本書が根本であろう。​ブクングル​​不困克兒​がなく、​ヱイス​​爲思​​ウス​​烏思​とみなす。元史 西北地附録の注に​ウス​​烏斯​があり、つまりこの​ウス​​烏思​があたる。もしそうであるならば​ブクングル​​不困克兒​もまた、一部の名とすべきである。​ハンハナス​​憾哈納思​は、西北地附録は​ハンハナ​​撼合納​とし、​リウハラ バードル​​劉哈剌 拔都︀魯​伝は​ハンハナス​​憨哈納思​とし、秘史は​ハブハナス​​哈卜哈納思​とする。この​ハンハス​​憾哈思​は、哈の下に納の字が抜けている。​ラシツド​​喇施特​は「​キアン​​謙​河の源に八河がある。​エイラト​​衞拉特​は左岸に居る。その東の近くに​ウラスト​​烏拉速特​​テレンゴト​​帖連郭特​​クスヂミ​​克斯的迷​三族があり、​バイカル​​拜喀勒​湖の西に居て、​エイラト​​衞拉特​​キルギス​​乞兒吉思​はともに隣りあう。林木の間に住むので、号は林民となった」と言う。​ウラスト​​烏拉速特​は、秘史は​ウルスト​​兀兒速特​とする。​テレンゴト​​帖連郭特​は、秘史巻七は​テリヤング​​帖良古​とし、巻十二は​テンレク​​田列克​とし、つまりこの​テリヤンウ​​帖良兀​である。​クスヂミ​​克斯的迷​は、秘史は​ケスチイム​​客思的音​つまりこの​クシヂミ​​克失的迷​である。​ホイン イルゲン​​火因 亦而干​は、諸部の統称で、部名ではない。​キルギス​​乞兒吉思​​ハンハナ​​撼合納​の事は、西北地附録釈地が詳しい。〈底本-388



〈史45-171下18己卯,上總兵征西域

己卯十四年、宋嘉定十二年、金興定三年。上總兵征西域。秋濤案、祕史、太祖︀征回回、爲其殺︀使臣兀忽納等百人。本紀云「己卯夏六月、西域殺︀使者︀。帝帥師親征」。通世案、西域謂貨勒自彌之國。其地在鹹海︀南、裏海︀西。卽唐書西域傳之貨利習彌、元史地理志之花剌子模。西人譯爲闊喇自姆、或云闊斡哷自姆。洪氏詢之波斯使臣、審定字音、爲貨勒自彌、始知唐書譯音、尤勝元史。貨勒自彌沙阿拉哀丁謨罕默德、幷呑諸︀部、其疆域東北至錫爾河、東南至印度河、北至鹹海︀・裏海︀、西北至阿特耳拜占、西隣巴格達特、南至印度海︀、國勢洸洋、奄有唐波斯昭武九姓吐火羅等故土。本其始起部落、稱貨勒自彌之朝。元史本紀、葢據本書、謂之西域。洪氏用其稱作補傳、曰「循漢︀書之名、名曰西域」。又曰「揣度本紀命名之意、實有苦心。列傳改稱回回國、則甚謬」。案、回回者︀、回紇之轉也。唐之回紇、卽元之畏兀兒、與貨勒自彌之國夐異。然長春西游記、併畏兀兒與貨勒自彌國人、皆云回紇。元史列傳、亦往往稱回紇、多是指貨勒自彌國而言。祕史蒙文、稱其民爲撒兒塔兀勒、譯云回回。皆名實不相稱。貨勒自彌朝之興起、與太祖︀西征之役、志費尼・喇施特之史甚詳。今依洪氏所譯多遜書、具錄其要、以備參考。北宋時、塞而柱克王瑪里克沙、有僕曰奴世的斤、執刀衞左右、甚見寵任、除僕籍、爲貨勒自彌部酋、職視︀閫帥。其子庫脫拔丁謨罕默德、乘塞而柱克朝之衰󠄄、諸︀酋裂土自王、亦僭稱貨勒自彌沙。金旣滅遼、耶律大石西來、敗塞而柱克之兵、復遣將征貨勒自彌。時庫脫拔丁已卒、其子阿切斯、戰敗被擒、誓臣服、歲貢金。乃與盟釋歸。阿切斯子伊兒・阿斯蘭、亦服屬西遼、而呑併東南近境。伊兒阿斯蘭子塔喀施、於宋光宗紹熈五年、滅塞而柱克朝、殺︀其王托克洛耳、受巴格達特哈利發那昔爾之封。是爲貨勒自彌之朝。宋寧宗慶元六年、塔喀施子阿拉哀丁謨罕默德嗣位、復併巴而黑・海︀拉脫・馬三德蘭・起兒漫各部之地、戰敗奇卜察克、自以地廣兵雄、耻納貢於異敎之國。其時撒馬爾干酋諤斯滿、亦不甘臣西遼、而願從西域王。西遠使者︀、至貨勒自彌。舊例使者︀坐王側。王斥辱之。使者︀忿爭。卽分斫其軀。元太祖︀四年、王擧兵向西遼。兵敗併其將被獲。王乃僞爲將之僕。其將令回國取貨贖主、得逸︀歸。而貨勒自彌之地、已徧傳王隕於軍。王弟阿立希耳、與其伯叔、將分國自立。王歸、乃定。次年、復與諤斯滿合兵、敗西遼凱旋、以女妻諤斯滿、逐西遼監治撒馬爾干官、遣使代治。未幾諤斯滿與使者︀不相能、殺︀之。太祖︀八年、西域王輕兵掩襲、乘未備、破其城、諤斯滿頸繫刃、首冪布、以乞降。王女以諤斯滿先娶西遼皇女、怨其夫寵禮不相等、唆父殺︀之。於是撒馬爾干・布哈爾、悉入版籍。建新都︀於撒馬爾干、稱貨勒自彌之烏爾鞬赤城爲舊都︀焉。乃蠻酋古出魯克、竊西遼之國、攘直魯古之位、西域王實犄角之。故突︀耳基斯單之地、向屬西遼者︀、亦被割據。國之東南境、有郭耳國。其王希哈潑哀丁、攻西域王而敗、旋病歿。姪馬赫模特嗣位、貢於西域王。在位七年被害。或謂「卽王主使」。阿立希耳、前以訛傳兄死、分國自立之嫌、避於郭耳非洛斯固都︀城。至是請於兄、欲得馬赫模特之位。王遣使錫冠服、乘其迎受、突︀前殺︀之。於是郭耳地亦併入。後得其屬地曰嘎自尼、檢舊藏文卷、得哈里發那昔爾與郭耳王書、吿以「貨勒自彌人、志在囊括席捲、須愼防之。唯謀於西遼、南北合攻、庶可得志」。從前希哈潑哀丁之構兵、葢哈里發啓之也。王見書大怒、遣使巴格達特、欲如塞而柱克朝故事、遣官涖治、專以敎事屬哈里發、祈︀禱文增己名、並封己爲蘇爾灘。那昔爾不允。王乃傳集各敎士、數那昔爾不能廣闡敎化之罪、曰「巴格達特之阿拔斯朝、實奪忽辛之位。今宜廢那昔爾、別立阿里後裔爲哈里發」。眾敎士應曰「然」。遂發檄起師、先平義拉克阿鄭之亂、敗法而斯兵、擒其部主沙特阿塔畢。割地輸賦、乃釋之。阿特耳拜占部主鄂思伯克敗遁、旋亦來請成。太祖︀十三年戊寅、遂往巴格達特。中途大雨雪、士馬僵斃。前鋒在庫兒忒山中、爲土人所攻、一軍幾盡沒。乃引退、至義拉克阿鄭、分地諸︀子。以義拉克阿鄭畀羅克訥丁、以起兒漫克赤・梅︀克藍、畀吉亞代丁、畀札拉勒丁忙果必而體以嘎自尼・八迷俺・波斯忒・郭耳之地。鄂斯拉克沙爲王母土而堪哈敦所鍾愛、欲其子傳位、畀以貨勒自彌・呼拉商・馬三德蘭三部。西域之民、竊議其私祿位於子。王有兵四十萬、皆康里人突︀克蠻人、與民不洽。土而堪哈敦、爲康里巴牙烏脫部主勤克石之女。康里人多從至西域、入伍籍、勇於戰陳。王倚其力、戰勝攻取。以是康里將多跋扈橫索。土而堪之權、亦以是埓於其子。國雖大、本未固也。先是太祖︀伐金、傾國遠出。乃蠻・蔑兒乞、得以其暇復然餘燼、煽結遠近。太祖︀十一年丙子、自引大軍北還、次第命將定遼東之亂、討蔑兒乞、平禿馬特、自將征西夏克之。命哲別征古出魯克、戰勝逐北、逃至喀什噶爾。民銜舊恨、殺︀其部卒。復西奔、僅三人從。哲別追至撒里庫爾、捕之於韋拉特尼谷中、斬其首、以徇各地。西遼境內悉定。於是東惟蒙古、西惟貨勒自彌、兩大國壤錯界接、而西征之役起。當西域王自巴格達特東歸、旣定諸︀子封地、遂至布哈爾。其時天山西北西遼之地、已入蒙古、萑苻悉靖︀、行旅無阻。有西域商三人自東來、賣太祖︀所饋白駱駝毛裘麝香銀器︀玉器︀、述太祖︀語、若謂「予知貴國爲極大之國、君治國才能、遠邁於眾。予慕悅君、等於愛子。君亦應知予已平女直、盡撫有諸︀部族、予國之兵如武庫、予國之財如金穴。予亦何必再攘他人地耶。願與君締交、通商賈、保疆界」。卽夕王召其中一人曰馬黑摩特入見、曰「汝爲我民、當以實吿。聞彼征服塔姆嘎自、然否」。塔姆嘎自、西人呼漢︀土之稱也。因啓盒、取珍珠與之。馬黑摩特對以實然。王又曰「蒙古汗、何等人、乃敢視︀我如子。彼兵數幾何」。馬黑摩特見王有怒意、乃曰「彼兵雖眾、然與蘇爾灘相衡、猶燈〈底本-389 燄之與日光也」。王意釋、令徃報如約。未幾又有西域商自東還。太祖︀命親王諾延各出貲、遣人隨以西行、購其土物。有眾四百數十、皆畏兀兒人。行至訛脫剌兒城。城酋伊那兒柱克嘎伊兒汗悉拘之、以蒙古遣細作吿於王、王令盡殺︀之、惟一人得逸︀歸報。訥薩斐云「其中四人爲所遣、餘皆商侶。以其詢訪各地出產、盛言蒙古之强、跡近窺探、故殺︀之。然亦伊那兒柱克之意、非王命也」。耶律楚材西游錄云「訛打剌城渠酋、嘗殺︀命吏數人、商賈百數、盡掠其財貨。西伐之擧由此也」。與西書符合。當巴格達特之被兵也、哈里發蓄忿思報復、而環顧列邦、無可謀者︀。聞蒙古盛强、乃遣使潛來、導以西伐。然太祖︀方修隣好、無用兵意。旣聞逸︀者︀歸報、驚怒而慟、免︀冠解帶、跪禱於天、誓必雪恨。洪氏曰「哈里發遣使、多桑未載、哀忒蠻載之。其後札剌勒丁、自印度西還建國、首攻報達、謂「蒙古之兵、由哈里發招致」。多桑又載之。則其始起事、必有因、故據以增入、哀忒蠻云「翦使人之髮、書字於頂、迨蓄髮稍長、乃潛蹤東行。旣謁︀太祖︀、具言來意。詢以訂據、則請剪髮譯其頂上字。若云「請汝來攻貨勒自彌國」。然太祖︀重信約、以方修好、不欲用兵云云」。據此以觀、實是西域自取滅亡、而太祖︀兵以義動矣」、其時古出魯克餘擊猶未靖︀。乃先遣西域人巴格拉爲使、偕蒙古官二人徃詰責、謂「先允互市交好、何背約。如訛脫剌兒所爲非王意、請以酋爲償、返所奪貨。不則以兵相見」。王箠死巴格拉、薙蒙古官鬚、釋歸以辱之、自聚兵於撒馬爾干。忽錫爾河北警至、蔑兒乞部人自康里境來。王亟由布哈爾、至氈的城。至則聞古出魯克已死、蔑兒乞逐。王北行、抵海︀哩・哈迷池兩河間、見蔑兒乞〈[#「乞」は底本にはない]〉人被殺︀者︀、相屬於道。一人傷未死。詢之則云「蒙古軍夜追及、戕我等而東去。計行程當未遠也」。進軍追之、越日追及。蒙古將遣使來吿「我所仇者︀、蔑兒乞特、與他國無釁。出師時奉主命「若遇貨勒自彌人、當以友誼相待」。今請分所掠以犒師」。王輕其兵少、乃曰「汝雖不仇我、上帝令我仇汝蒙古」。遂戰。蒙古兵敗其左翼、攻至中軍。札剌勒丁以右翼敗蒙古兵、來援中軍。至夕始罷戰、勝負略相當。蒙古兵多然燈火於營、乘夜疾馳去。王亦引歸。洪氏曰「拉施特未言蒙古將何人。訥薩斐謂「係朮赤」、阿卜而嘎錫未言蔑兒乞、但云「朮赤逐古出魯克已散之餘黨、戕之於喀白里・喀立蚩兩河間而去。西域兵追及、朮赤欲戰。諸︀將以「眾寡不敵。出師時、惟奉命平乃蠻餘孽、未奉命與他國搆兵。我退而彼復進、若僅偏師、乃可以戰」。朮赤怒謂「見敵而逃、何以歸見我父及諸︀弟」。遂戰。朮赤十盪十決、幾攻至中軍旗下者︀數矣。札剌勒丁敗蒙古旁翼、來援中軍。朮赤不得逞。夕罷戰、多爇火以疑敵、未曉卽馳去、歸吿太祖︀ 大見嘉奬」。與此微異。案元史耶律留哥傳「子薛闍從征西域。帝曰「回回圍太子於合迷城。薛闍引千軍救出之、身中槊」」。此言哈迷池河、疑河旁有合迷城、或卽此役。又案、速不台傳「己卯、追蔑兒乞部主霍都︀、至欽察、戰於玉峪敗之」。蔑兒乞之滅、錄云嶄河、祕史云垂河、葢卽吹河。考今俄圖、塔什干北偏西約五百里、有喀迷池克河、必卽此哈迷池河。東至吹河僅四百餘里。西流盡處、距錫爾河咫尺。速不台此役、未必遠至欽察、史傳之言、不盡可憑。而與貨勒自彌之軍相遇、則地里極合。至康里居地、徧考西書、當以鹹海︀之東爲合。他西域人、亦有謂速不台之師者︀」。西域王旣歸撒馬爾干。知蒙古爲大敵、心怯戰、集諸︀將議計、以爲野戰不利、不如深溝高壘、任其飽掠颺去。議旣定、乃以其軍分守錫爾河阿母河各城。伯哷津曰「兔年、帝集諸︀子各將帥、會議伐西域、定軍中章程」。兔年旣太祖︀十四年己卯、而未言出師。祕史云「兔兒年、太祖︀去征回回、命弟斡惕赤斤居守、以夫人忽闌從行」。西游錄云「戊寅、出雲中、達行在所。明年、大擧西伐」。耶律楚材傳亦謂「己卯夏六月、帝西討回回國」。本紀云「己卯夏六月、西域殺︀使者︀。帝率師親征」。西域殺︀使者︀、卽戊寅年事、而親征乃在己卯也。洪氏曰「帝駐也兒的石河、應是己卯夏。而西域史「辰年方至也兒的石河」、與親征錄同。由此而見脫必赤顏之叙西伐、誤始龍年。元史旣本之、而又考知他書始於己卯、據以增入。於是攻取蒲華・薛迷思干兩城、一事兩記。譯西域史、乃知其病在此」。長春西遊記、己卯年五月、劉仲祿在乃滿國兀里朵得旨。此在太祖︀親發之前一月。兀里朵、卽下文窩里朵、長春辛巳六月所駐車、所謂「窩里朵、漢︀語行宮也。其車與亭帳、望之儼然。古之大單于、未有若此之盛也」者︀。西游錄所謂「戊寅達行在所」、葢亦至此窩里朵也。多遜云「一二一八年之末、成吉思發鄂爾多、留弟斡赤斤、委以國政」。西曆一二一八年、卽戊寅年也。與諸︀書不合。考后妃表、太祖︀有四斡耳朵。戊寅之末所發者︀、克魯倫河源之大斡耳朵、而己卯之夏、發乃蠻之舊庭耶。竢後考。

訳文 一〇二-一〇五

己卯(1219年)十四年、宋 嘉定 十二年、金 興定 三年。上は兵を統率して西域を征伐した。秋濤案、秘史、太祖が​フイフイ​​回回​を征伐したのは、それが使臣​ウクナ​​兀忽納​など百人を殺したことによる。元史 本紀は「己卯(1219年)夏六月、西域は使者を殺した。帝は軍を率いて親征した」と言う。通世案、西域は​ホルズミ​​貨勒自彌​の国と言う。その地は鹹海〈[#「鹹海」はアラル海]〉の南、裏海〈[#「裏海」はカスピ海]〉の西にある。つまり唐書 西域伝の​ホリシミ​​貨利習彌​であり、元史 地理志の​ホラツム​​花剌子模​である。西人は訳して​コラズム​​闊喇自姆​とし、あるいは​コオレズム​​闊斡哷自姆​と言う。洪氏はこの​ベイス​​波斯​使臣を調べ、つまびらかにして字音を定め、​ホルズミ​​貨勒自彌​とするのは、唐書の訳音にあらわれ始め、とりわけ元史が盛んである。​ホルズミ シヤー アラアイヂン モハンメド​​貨勒自彌 沙 阿拉哀丁 謨罕默德​は、諸部を幷呑し、その境域の東北は​シル​​錫爾​河に至り、東南は​インド​​印度​河に至り、北は鹹海・裏海に至り、西北は​アテルバイヂヤン​​阿特耳拜占​に至り、西は​バゲダド​​巴格達特​に接し、南は​インド​​印度​海に至り、国の勢いは広々として果てしなく、唐や​ベイス​​波斯​や昭武九姓や​トホロ​​吐火羅​等の故土を覆うように残らず自分のものにした。もともとそれは部落を起こして始まり、​ホルズミ​​貨勒自彌​の朝を称した。 元史 本紀は、おそらく本書に拠り、これを西域と言った。洪氏はその称を補伝で用い、「漢書の名に従うと、名を西域と呼ぶ」と言う。また「元史 本紀は命名の意味を推しはかって、実に気を使った。列伝は改めて​フイフイ​​回回​国と称し、はなはだ誤った」と言う。案、​フイフイ​​回回​は、​フイフ​​回紇​の転訛である。唐の​フイフ​​回紇​は、つまり元の​ウイウル​​畏兀兒​で、​ホルズミ​​貨勒自彌​の国とはるかに異なる。だが長春西游記は、​ウイウル​​畏兀兒​​ホルズミ​​貨勒自彌​国人を併せて、いずれも​フイフ​​回紇​と言う。元史 列伝も、しばしば​フイフ​​回紇​と称し、多くのこれは​ホルズミ​​貨勒自彌​国を指して言う。秘史蒙文は、その民を称して​サルタウル​​撒兒塔兀勒​とし、訳は​フイフイ​​回回​と言う。いずれも名と実が互いに適さない。​ホルズミ​​貨勒自彌​朝の始まりは、太祖の西征の役と、​ヂヹニ​​志費尼​​ラシツド​​喇施特​の史がはなはだ詳しい。今は洪氏が訳した​ドーソン​​多遜​の書に依って、その要点を記したものを揃え、備えることで照らし合わせて考える。北宋の時、​セルチユク​​塞而柱克​​マリクシヤ​​瑪里克沙​は、​ヌシヂギン​​奴世的斤​という下僕を持ち、刀を持ってそばを守り、はなはだ可愛がられて信任され、下僕の籍を除かれ、​ホルズミ​​貨勒自彌​部の酋長となり、役目は地方司令官の政務を処理した。 その子​クトバヂン モハンメド​​庫脫拔丁 謨罕默德​は、​セルチユク​​塞而柱克​朝の衰えに乗じ、諸酋は領地をばらばらに別れて自ら王となり、やはり​ホルズミ シヤー​​貨勒自彌 沙​を僭称した。金は遼をことごとく滅ぼし、​エリユ タイシ​​耶律 大石​は西に来て、​セルチユク​​塞而柱克​の兵を破り、将を遣わして​ホルズミ​​貨勒自彌​征伐を繰り返した。時に​クトバヂン​​庫脫拔丁​が亡くなり、その子​アキス​​阿切斯​は、戦いに敗れて捕らえられ、臣服と、毎年金を貢ぐことを誓った。そこで盟を共にし放たれて帰った。​アキス​​阿切斯​の子​イル アスラン​​伊兒 阿斯蘭​も、西遼に服属し、併呑して東南に境を近くした。​イル アスラン​​伊兒 阿斯蘭​の子​タカシ​​塔喀施​は、宋 光宗 紹熈 五年(1194年)に、​セルチユク​​塞而柱克​朝を滅ぼし、その王​トクロル​​托克洛耳​を殺し、​バゲダド ハリフア ナシル​​巴格達特 哈利發 那昔爾​の封を受けた。 このように​ホルズミ​​貨勒自彌​の朝を作った。宋 寧宗 慶元 六年(1200年)、​タカシ​​塔喀施​の子​アラアイヂン モハンメド​​阿拉哀丁 謨罕默德​は位を継ぎ、さらに​バルク​​巴而黑​​ハイラト​​海︀拉脫​​マサンデラン​​馬三德蘭​​キルマン​​起兒漫​各部の地を併せ、戦って​キブチヤク​​奇卜察克​を破り、領土が広く兵が雄々しいことにより、異敎の国に納貢するのを恥じた。その時​サマルカン​​撒馬爾干​の酋​オスマン​​諤斯滿​も、また西遼の家来であることに甘んじず、西域の王に従うことを願った。西に遠く使者が、​ホルズミ​​貨勒自彌​に至った。旧例により使者は王の側に坐った。王は押しのけてこれを辱めた。使者は怒って言い争った。直ちにその体を切断した。元 太祖 四年(1209年)、王は挙兵して西遼に向かった。兵は敗れその将とともに捕らえられた。王はそこで将の下僕といつわった。その将は国に帰って貨を取って主に贖うよう命じ、逃げ帰ることができた。 しかし​ホルズミ​​貨勒自彌​の地は、すでにひとえに王が戦争で死んだと伝わった。王の弟​アリシル​​阿立希耳​は、その伯叔とともに、まさに分国して自立しようとした。王が帰り、はじめて鎮まった。次の年、再び​オスマン​​諤斯滿​と兵を合わせ、西遼を破って凱旋し、娘を諤斯満の妻とし、西遼を追い払い​サマルカン​​撒馬爾干​の役人を監督し、使いを遣わして代わりに治めさせた。まもなく​オスマン​​諤斯滿​と使者はうまくいかなくなり、これを殺した。太祖八年(1213年)、西域王の軽兵が不意に攻撃し、まだ備えていないのに乗じて、その城を破り、​オスマン​​諤斯滿​の頸は刃に繋げ、首は布で覆い、降るよう乞うた。王女は​オスマン​​諤斯滿​が以前に西遼の皇女を娶ったことをもって、その夫の寵愛と礼遇が等しくないのを怨み、父を唆してこれを殺した。ここにおいて​サマルカン​​撒馬爾干​​ブハル​​布哈爾​は、ことごとく土地と人々を納めた。 ​サマルカン​​撒馬爾干​に新都を建て、​ホルズミ​​貨勒自彌​​ウルヂヤンチ​​烏爾鞬赤​城を旧都として称した。​ナイマン​​乃蠻​の酋長​グチユルク​​古出魯克​は、西遼の国を盗み、​チルグ​​直魯古​の位を退け、西域王は実に隅にやられた。​トルキスタン​​突︀耳基斯單​の故地は、西遼に近づき属する者も、また分割されて占拠された。国の東南境は、​ゴール​​郭耳​国がある。その王​シハボアイヂン​​希哈潑哀丁​は、西域王を攻めて破り、帰って病歿した。甥の​マヘムト​​馬赫模特​が位を継ぎ、西域王に貢いだ。在位七年で害された。あるいは「王主使」と言う。​アリシル​​阿立希耳​は、以前に誤って兄の死が伝わり、分国自立の嫌疑があったので、​ゴール​​郭耳​​フエイルオスゴド​​非洛斯固都︀​〈[#訳せない。ここでは「非洛」を名詞の一部とする]〉に立ち退いた。ここに至って兄に請い、​マヘムト​​馬赫模特​の位を得ることを望んだ。王は錫冠服を使いに遣わし、それが迎え受けたのに乗じて、突進してこれを殺した。 ここにおいて​ゴール​​郭耳​の地も編入された。後に​ガズニ​​嘎自尼​という地に属したことがわかり、旧蔵文巻を調べると、​ハリフア ナシル​​哈里發 那昔爾​​ゴール​​郭耳​王の書を得て、「​ホルズミ​​貨勒自彌​人は、領土拡大の意向があり、これを用心して防がなければならない。ただ西遼に謀るにまかせて、南北が合わせ攻め、様々な願いをかなえる」と告げる。これまでの例に従い​シハボアイヂン​​希哈潑哀丁​の戦争は、おそらく​ハリフア​​哈里發​がこれを始めたのであろう。王は書を見て大いに怒り、使いを​バゲダド​​巴格達特​に遣わし、​セルチユク​​塞而柱克​朝の故事のように、官を遣わして政治を監視させ、もっぱら政治を​ハリフア​​哈里發​に属させ、祈禱文に自分の名を増させ、並びに自分を​スルタン​​蘇爾灘​に封じるよう望んだ。​ナシル​​那昔爾​は許さなかった。 王はそこで各々の聖職者に伝えて集め、​ナシル​​那昔爾​が広く開いて敎化できない罪を数えあげ、「​バゲダド​​巴格達特​​アバス​​阿拔斯​朝は、実に​フシン​​忽辛​〈[#「忽辛」は人名「フサイン」]〉の位を奪った。今は​ナシル​​那昔爾​を廃するのがふさわしく、別に​アリ​​阿里​後裔を立てて​ハリフア​​哈里發​とする」と言った。多くの敎士は応えて「その通り」と言った。遂に檄を発して挙兵し、先ず​イラク アヂエン​​義拉克 阿鄭​の乱を平らげ、​フアルス​​法而斯​兵を破り、その部主​シヤテアタビ​​沙特阿塔畢​を捕らえた。土地を分け与え貢物を献上して、はじめてこれを許した。​アテルバイヂヤン​​阿特耳拜占​部主​オスベク​​鄂思伯克​は敗れ遁れ、やがてまた来て仲直りを請うた。太祖 十三年 戊寅(1218年)、遂に​バゲダド​​巴格達特​に向かって進んだ。途中で大いに雨と雪が降り、士馬は倒れ死んだ。先鋒は​クルテ​​庫兒忒​山中にあり、地元民に攻められ、一軍はほとんど死に尽くした。そこで引き退き、​イラク アヂエン​​義拉克 阿鄭​に至り、諸子に領地を分けた。​イラク アヂエン​​義拉克 阿鄭​​ロクヌヂン​​羅克訥丁​に与え、​キルマンクチ​​起兒漫克赤​​ムイクラン​​梅︀克藍​を、​ギアダイヂン​​吉亞代丁​に与え、​ヂヤラルヂン メングビルチ​​札拉勒丁 忙果必而體​​ガズニ​​嘎自尼​​バミアン​​八迷俺​​ベイステ​​波斯忒​​ゴール​​郭耳​の地を与えた。 ​オスラク シヤー​​鄂斯拉克 沙​は母​トルカン ハトン​​土而堪 哈敦​が特別に可愛がるところの王とされ、その子に位を継がせることを望み、​ホルズミ​​貨勒自彌​​フラシヤン​​呼拉商​​マサンデラン​​馬三德蘭​の三部を与えられた。西域の民は、それが密かに子に位を与えるとこっそり話し合った。王は兵が四十万あり、みな​カングリ​​康里​​トクマン​​突︀克蠻​人で、民と合わなかった。​トルカン ハトン​​土而堪 哈敦​は、​カングリ​​康里​​バヤウト​​巴牙烏脫​​ヂユキンクシ​​主勤克石​の娘とされる。​カングリ​​康里​人の多くが従って西域に至り、軍隊に入り、戦陣では勇ましかった。王はその力に頼り、戦って勝ち攻め取った。 この​カングリ​​康里​の将の多くがのさばり脅迫した。​トルカン​​土而堪​の権勢も、またその子に等しくなった。国は大きいとはいえ、根本が未だ固まっていなかったのである。これに先んじて太祖は金を討伐し、国を傾けて遠出した。​ナイマン​​乃蠻​​メルキ​​蔑兒乞​は、燃え残りを元通りにする暇を得て、遠近を煽り結んだ。太祖 十一年 丙子(1216年)、自ら引いて大軍を北に戻し、次第に将らに西遼の東の乱を定めるよう命じ、​メルキ​​蔑兒乞​を討ち、​トマト​​禿馬特​を平らげ、自ら率いて西夏を征伐しこれに勝った。​ヂエベ​​哲別​に命じて​グチユルク​​古出魯克​を征伐させ、戦いに勝って逃げる兵を追い、逃れて​カシユガル​​喀什噶爾​に至った。民は古い恨みを抱き、その部兵を殺した。再び西に奔り、わずか三人が従った。​ヂエベ​​哲別​は追って​サリコル​​撒里庫爾​に至り、​エイラドニ​​韋拉特尼​谷中でこれを捕らえ、その首を斬り、各地を従えた。西遼の境内はことごとく定まった。ここにおいて東にただモンゴル、西にただ​ホルズミ​​貨勒自彌​、両大国が国境を入り乱れて接し、そして西征の役が起きた。 西域王が​バゲダド​​巴格達特​から東に帰った時にあたり、諸子に封地を定め終え、そのまま​ブハル​​布哈爾​に至った。その時に天山の西北の西遼の地は、すでにモンゴルに入られ、周代の萑苻のように盗賊の多かった地はことごとく鎮められ、旅に行くのに阻む者はなかった。東から来る西域の商三人があり、太祖が贈った白駱駝や毛裘や麝香や銀器や玉器を商いし、太祖が語ったことを述べ、「私はあなたの国が極めて大きな国になると感じ、君主の国を治める能力は人々に遠くめぐり行く。私は君主に心を寄せ喜んで従い、子を愛するのに等しい。君主はまた応えて​ヂユチ​​女直​をすでに平らげたと私に知らせ、諸部族をことごとく安んじて、私の国の兵は武器庫のようで、私の国の金品は黄金の洞窟のようである。私がまたどうして再び他人の地を侵すことがあろうか。君主と交わりを結び、商売を通じ、境界を保つことを願う」というようなことを言った。 その夕方に王は召してその中の​マクモト​​馬黑摩特​と言う一人が入ってまみえ、「お前は我が民となり、実を告げるのは正しいことである。彼は​タムガズ​​塔姆嘎自​を征服したと聞くが、事実か否か」と言った。​タムガズ​​塔姆嘎自​は、西人が呼ぶ漢土の称である。ふたを空けたついでに、珍珠を取ってこれに与えた。​マクモト​​馬黑摩特​は実にその通りと答えた。王はまた「モンゴルの王は、何ほどの人で、それが敢えて私を子のように見るのか。彼の兵はどのくらいの数か」と言った。​マクモト​​馬黑摩特​は王が怒っているのを見て、そこで「彼の兵は多いとはいえ、​スルタン​​蘇爾灘​と軽重を測れば、〈底本-389ちょうどこれを灯す炎と日の光のようなものである」と言った。王の心は解けて、返礼に行かせて約束のようにするよう命じた。まもなくまた西域で商いをして自ら東に帰った。 太祖は親王と​ノヤン​​諾延​に命じて各々に元手を出させ、人を遣わして西に行くのに付き添わせ、その土の物を買い求めた。衆が四百数十人いて、みな​ウイウル​​畏兀兒​人だった。行って​エトラル​​訛脫剌兒​城に至った。城の酋長​イナルチユク ガイル カン​​伊那兒柱克 嘎伊兒 汗​はことごとくこれを捕まえ、モンゴルが細作を遣わしたと王に告げ、王はことごとく殺すよう命じ、ただ一人が逃げて帰って知らせることができた。​ヌサフエイ​​訥薩斐​〈[#「訥薩斐」はイスラム法学者ナサフィAbu al-Barakat al-Nasafiと思われる]〉は「その中の四人が遣わされ、残りはみな商いの仲間だった。それらが各地が出す生業を相談し、モンゴルの強さをたたえて言い、近くを訪ねて窺い探し求めたので、ゆえにこれを殺した。だがただ​イナルチユク​​伊那兒柱克​の考えで、王の命ではなかった」と言う。​エリユ チウツアイ​​耶律 楚材​西游録は「​エダラ​​訛打剌​城の酋長は、かつて吏数人と、商人百数の命を殺して、ことごとくその財貨を掠めた。西伐の挙はこれによる」。 西書と符合する。​バゲダド​​巴格達特​が災いを被るのもまた、​ハリフア​​哈里發​は怒りを蓄え報復を思ったが、しかし多くの国を回顧すると、相談できる者はなかった。モンゴルが盛強と聞き、そこで使いを遣わしてひそかに来て、西伐に導いた。だが太祖はまさに隣国との交際を整えようとしており、用兵の考えはなかった。やがて逃げた者が帰って知らせるのを聞き、驚き怒りそして大声で泣き悲しみ、被り物を取り帯を解き、跪いて天に祈り、必ずや恨みを雪ぐことを誓った。洪氏は「​ハリフア​​哈里發​が使いを遣わしたことは、​ドーソン​​多桑​は載せず、​アイテマン​​哀忒蠻​はこれを載せる。その後​ヂヤラルヂン​​札剌勒丁​は、​インド​​印度​から西に帰って建国し、首攻報達〈[#訳せない。「報復に至ったことを統率者がとがめ」か]〉、「モンゴルの災いは、​ハリフア​​哈里發​が招致したことによる」と言う。​ドーソン​​多桑​もこれを載せる。 起きた事のその始まりは、必ず原因があり、ゆえに増入に拠って、​アイテマン​​哀忒蠻​は「使いの人の髪を切り、頭のてっぺんに字を書き、髪をやや長く蓄えるにおよんで、そこでひそかに東に行くのに従った。やがて太祖に謁して、つぶさに来た意図を話した。拠るところを正すよう相談し、髪を切って頭のてっぺんの上の字を訳すよう請うた。「あなたが来て​ホルズミ​​貨勒自彌​国を攻めるよう請う」というようなことを言った。しかし太祖は重ねて信じて控えめにし、修好しようとしていたので、兵を用いることを望まなかった云云」と言う。これに見えるところに拠ると、実にこれは西域が自ら滅亡を求め、そして太祖の兵は義によって動いたのであった」と言い、その時に​グチユルク​​古出魯克​の残りを撃ちなお治まっていなかった。そこで先ず西域人​バゲラ​​巴格拉​を遣わして使いとし、モンゴル官人二人とともに問責しに行き、「先に互いに交易してよしみをむすぶと認めたのに、なぜ約束に背くのか。​エトラル​​訛脫剌兒​のようなふるまいは王の意志ではなく、酋長が償い、奪った財貨を返すことを請う。兵をもってあいまみえるなかれ」と言った。 王は​バゲラ​​巴格拉​をむちうって死なせ、モンゴル官人のひげを剃り、これを辱めて放って帰し、自ら​サマルカン​​撒馬爾干​に兵を集めた。​フシル​​忽錫爾​河の北には知らせが至り、​メルキ​​蔑兒乞​部人は​カングリ​​康里​の境から来た。王は急いで​ブハル​​布哈爾​から、​ヂヤンヂ​​氈的​城に至った。至って​グチユルク​​古出魯克​がすでに死んだと聞き、​メルキ​​蔑兒乞​が従った。王は北に行き、​ハイリ​​海︀哩​​ハミチ​​哈迷池​両河の間でこばみ、​メルキ​​蔑兒乞​人が殺されるのを見て、道に集まった。一人が傷ついたが死ななかった。これに意見を聞いて「モンゴル軍は夜に追いつき、我等を殺して東に去る。道のりを計ると遠くないとみなす」と言った。進軍してこれを追い、日を越えて追いついた。モンゴルの将は使いを遣わして来て「我が仇は、​メルキト​​蔑兒乞特​であり、他国と仲違いはない。出師の時に主から「もし​ホルズミ​​貨勒自彌​人に会えば、友情をもって待遇せよ」という命を受けた。今は酒食で兵をねぎらうことで捕らえた者を分けることを請う」と告げた。 王はその兵が少ないことをみくびり、そこで「お前が私を仇としないといえども、造物主はお前たちモンゴルを仇とするよう命じている」と言った。そのまま戦った。モンゴル兵はその左翼を破り、攻めて中軍に至った。​ヂヤラルヂン​​札剌勒丁​は右翼を用いてモンゴル兵を破り、来て中軍を援けた。夕暮れに至り戦いを中止し始め、勝負はほぼ優劣がつかなかった。モンゴル兵は陣営に多くの火をともし、夜に乗じて速く馳せ去った。王も引き返した。洪氏は「​ラシツド​​拉施特​はモンゴルの将が何人だったかを言わない。​ヌサフエイ​​訥薩斐​は「​チユチ​​朮赤​に係わる」と言い、​アブルガシ​​阿卜而嘎錫​​メルキ​​蔑兒乞​を言わず、ただ「​チユチ​​朮赤​​グチユルク​​古出魯克​を追いかけてこの残党を散らし、​カベリ​​喀白里​​カリチ​​喀立蚩​両河の間でこれを殺して去った。西域兵は追いつき、​チユチ​​朮赤​は戦いを望んだ。諸将は「衆寡敵せず。出師の時、ただ​ナイマン​​乃蠻​の生き残りを平らげるよう命じられており、他国と兵をかまえることは命じられていない。我らが退けば彼らはさらに進み、軍がやや偏れば、そこで戦うのがよい」と考えた。 ​チユチ​​朮赤​は怒って「敵を見て逃げて、どうして帰って我が父および諸弟に会えようか」と言った。そのまま戦った。​チユチ​​朮赤​は十回突撃し十回切り開き、幾度も攻めて中軍に至り旗下の者は数人だった。​ヂヤラルヂン​​札剌勒丁​はモンゴルの旁翼〈[#訳せない]〉を破り、来て中軍を援けた。​チユチ​​朮赤​は思い通りにふるまえなかった。夕暮れに戦いは中止し、多く火を燃やして敵を惑わせ、夜明け前に直ちに馳け去り、帰って太祖に告げ 大いに見て喜びほめた」と言う。これとやや異なる。元史 ​エリユ リウゲ​​耶律 留哥​伝を調べると「子​セシエ​​薛闍​は西域への征伐に従った。帝は「​フイフイ​​回回​は太子を​カミ​​合迷​城で囲んだ。​セシエ​​薛闍​は千人の軍を率いてこれを救出し、身に長い鉾が当たった」と言った」とある。ここで言う​ハミチ​​哈迷池​河は、おそらく河のほとりにある​カミ​​合迷​城であり、あるいはこの役であろう。 又案、​スブタイ​​速不台​伝「己卯(1219年)、​メルキ​​蔑兒乞​部主​ホド​​霍都︀​を追って、​キムチヤ​​欽察​に至り、玉峪で戦いこれを破った」。​メルキ​​蔑兒乞​の滅びは、録は​ヂヤン​​嶄​河と言い、秘史は​チユイ​​垂​河と言い、おそらく​チユイ​​吹​河であろう。今の​オロス​​俄羅斯​の地図を調べると、​タシユゲン​​塔什干​の北を西に偏って約五百里に、​カミチク​​喀迷池克​河があり、必ずやこの​ハミチ​​哈迷池​河である。東にわずか四百余里で​チユイ​​吹​河に至る。西に流れて尽きるところは、​シル​​錫爾​河とわずかな距離である。​スブタイ​​速不台​のこの役は、必ずしも遠く​キムチヤ​​欽察​に至っておらず、元史の伝の言葉は、頼り切ることはできない。そして​ホルズミ​​貨勒自彌​の軍と出会ったのは、土地の道のりが極めて合う。​カングリ​​康里​の居地に至り、ひたすら西書を調べると、鹹海の東で合ったするのがふさわしい。 他の西域人にも、​スブタイ​​速不台​の軍と言う者がある」と言う。西域王は​サマルカン​​撒馬爾干​に帰り終えた。モンゴルが大敵になると知り、心は戦うことに怯え、諸将を集めて相談し、野戦は不利として、溝を深め塁を高くするようなことはせず、それが飽きるまで掠めるのに任せて高く飛び去った。相談は定まり終え、そこでその軍が分かれて​シル​​錫爾​​アム​​阿母​河の各城を守った。​ベレジン​​伯哷津​は「兔年に、帝は諸子や各将帥を集め、西域への討伐を会議し、軍中の法規を定めた」と言う。兔年はもとより太祖 十四年 己卯(1219年)であり、出師をまだ言っていない。秘史は「兔児年に、太祖は行って​フイフイ​​回回​を征伐し、弟​オツチギン​​斡惕赤斤​に居て守るよう命じ、夫人​クラン​​忽闌​を従えて行った」。西游録は「戊寅(1218年)、雲中を出て、​あんざいしょ​​行在所​に達した。年が明けて、大挙して西伐」と言う。 ​エリユ チウツアイ​​耶律 楚材​伝も「己卯(1219年)夏六月、帝は西に​フイフイ​​回回​国を討伐した」と言う。本紀は「己卯(1219年)夏六月、西域が使者を殺した。帝は軍を率いて親征した」と言う。西域が使者を殺したのは、戊寅年(1218年)の事で、そして親征ははじめて己卯(1219年)にあったのである。洪氏は「帝は​エルチシ​​也兒的石​河に駐留し、この己卯(1219年)夏に応じた。そして西域史は「辰年にまさに​エルチシ​​也兒的石​河に至った」とし、親征録と同じ。これの理由は見るところ​トビチヤン​​脫必赤顏​の西伐の記述であり、誤って竜年に始まる。元史はもとよりこの親征録を根本とし、また他書で己卯(1219年)に始まったとするのをわきまえて考え、増入しておだやかにする。ここにおいて​ブハ​​蒲華​​セミスガン​​薛迷思干​両城を攻め取り、一つの事を再び記す。西域史を訳すと、まさにその病がここにあるのがわかる」と言う。 長春西遊記は、己卯年(1219年)五月に、劉仲禄は​ナイマン​​乃滿​国の​ウリド​​兀里朵​にいて天子の命令を得た。これは太祖が自ら出発する一か月前にあった。​ウリド​​兀里朵​は、後文の​オリド​​窩里朵​であり、長春は辛巳(1221年)六月に駐車した所は、いわゆる「​オリド​​窩里朵​は、漢語の​あんぐう​​行宮​である。その車と亭帳は、厳粛な眺めである。いにしえの大いなる単于は、この盛んな勢いには及ばない」である。西游録のいわゆる「戊寅(1218年)に行在所に達した」は、おそらくまたこの​オリド​​窩里朵​に至ったのである。​ドーソン​​多遜​は「一二一八年の末、​チンギス​​成吉思​​オルド​​鄂爾多​を出発し、弟​オチギン​​斡赤斤​を留めて、国政を委ねた」。西暦1218年は、戊寅年である。諸書と合わない。后妃表を調べると、太祖は四つの​オルド​​斡耳朵​を所有していた。戊寅(1218年)の末に出発した所は、​ケルルン​​克魯倫​河源の大​オルド​​斡耳朵​であり、そして己卯(1219年)の夏に、​ナイマン​​乃蠻​の旧庭を出発したか。待って後で考える。



〈史45-171下19庚辰,上至也兒的石河住夏。秋,進兵,所過城皆克

〈東方學デジタル圖書館-88 庚辰、十五年、宋嘉定十三年、金興定四年。上至也兒的石河、住夏。通世案、此己卯夏事也。本書自庚辰至甲申、皆誤後一年。伯哷津云「龍年、成吉思在伊兒的失河駐夏、以復殺︀商之仇、遣使徃吿謨罕默德貨勒自彌沙。秋進兵」。與本書同。二書皆沿脫必赤顏之誤、如洪氏所說。本紀於庚辰夏、書駐蹕也石的石河、亦本本書也。上石字當作兒。多遜云「一二一九年、大軍至伊兒的失河上駐夏、以養馬力、補足騎兵」。西曆一二一九年、卽己卯年也。西遊記、庚辰二月、長春入燕京、聞行宮漸西、謂己卯秋進兵事也。可知駐夏在己卯、不在庚辰。又案、太祖︀自乃蠻鄂爾多、至額爾齊斯河、諸︀史皆不載其〈底本-390 行路。長春所跋涉、葢大軍經過之蹤也。西游記、辛巳六月二十八日、泊窩里朵之東。皇后請師渡河、入營駐車。玻塔寧曰「此鄂爾多當在色棱嘎河一源額特爾河之傍」。七月九日、西南行五六日、又三二日歷一山、高峯如削、松杉鬱茂、而有海︀子。南出大峽、則一水西流。玻塔寧以爲「高峯、謂杭愛之一峯鄂特昆喀伊爾堪山、山麓有一湖、爲博古鼎河之源。一水西流者︀、烏里雅蘇台河也」。北有故城曰曷剌肖。布哷特淑乃德爾曰「此名稍似烏里雅蘇台」。西南過沙場又五六日、踰嶺而南。二十六日、阿不罕山北、鎭海︀來謁︀。八月八日、傍大山西行、又西南行三日、復東南過大山、經大峽。中秋日、抵金山東北少駐、復南行。其山高大、深谷長坂、車不可行。三太子出軍、始闢其路。約行四程、連度五嶺、南出山前、臨河止泊、因水草便數日乃行、渡河而南。布哷特淑乃德爾曰「觀長春所過之山路、係大軍西進時所闢、則知其行程與大軍同。又據「水草便」及「渡河」二語、葢長春等踰烏蘭達班、至布爾干河也」。自此而後、長春等南涉沙陀、向畏兀兒地。大軍則爲養馬力、西至額爾齊斯河上矣。克闌河及額爾齊斯上游之溪谷、至今以畜牧便地著︀稱。〈東方學デジタル圖書館-89秋進兵、所過城皆克、通世案、多遜云「畏兀兒王巴而朮克、柯耳魯克王阿而斯蘭、阿而麻里克王雪格那克的斤、皆以兵來會。秋進軍、眾號六十萬。貨勒自姆偵者︀歸報「蒙古兵不可勝紀。飢餐羊馬之血、渴不得水、則飮其血、行不賷糧、戰不反旆、萬眾一心、有進無退」。謨罕默德惶懼、計無所出。太祖︀軍至錫爾河、無禦者︀」。洪氏曰「原書評謂「西域王漫無布置、坐守致斃、不類︀其向日所爲」。或謂「觀象者︀吿王「凶星守舍、戰必不利。惟當堅守待時」」。或謂「王旣併各地、志滿氣驕、將怨其王、王疑其將、故使分守各城、以防內亂」。訥薩斐則謂「有西域人貝鐸哀丁、全家受刑、怨其王、知國之隱情、投入蒙古獻策、僞爲康里將與成吉思汗書、曰「我等所以盡力、輔王成大業者︀、爲土而堪哈敦故也。今王乃不孝其母。大軍如來、我等當內應」。故遺其書使王見之。王果大疑、遂不敢在軍中、而爲分地自守之計」。揣度不一。觀速不台傳「其主委國而去」、則未嘗力禦、固可知矣」。案、雪格那克的斤、鄂匝爾之子也。鄂匝爾爲古出魯克所殺︀、太祖︀命嗣其位。又案、大軍自額爾齊斯河上至錫爾河、有西遊錄西遊記、可以考其行程。錄云「道過金山。金山而西、水皆西流入海︀」。謂烏隆︀古河入赫色勒巴什湖、額爾齊斯河入齋桑湖之類︀也。又云「其南有回鶻城、名別石把。城西二百里、有輪臺縣」。記云「南出金山前、渡河而南、度白骨甸、涉大沙陀、至回紇小城北、沿川西行、歷二小城、至鼈思馬大城。此大唐時北庭端府。其西三百餘里、有縣曰輪臺。又歷二城、至昌八剌城」。鼈思馬、卽別石把、元史之別失八里、畏兀兒都︀城也。克剌普羅特曰「別失八里克、今烏魯穆齊」。而洪氏從之。然據此說、則無可以處輪臺。徐松曰「唐北庭大都︀護府治、在今濟木薩之北。端卽都︀護字之合音。輪臺縣治、約在阜康縣西五六十里」。昌八剌、地理志作彰八里、耶律希亮傳作昌八里。程同文曰「中統元年、阿里不哥反。希亮踰天山、至北庭都︀護府、二年、至昌八里城、夏、踰馬納思河、則昌八里、在今瑪納斯河之東也」。錄云「瀚海︀去別石把城數百里。過瀚千餘里、有不剌城。不剌南有陰山、山頂有池。出陰山、有阿里馬城」。記云「並陰山而西、約十程、又度沙場五日、宿陰山北。詰朝南行、長坂七八十里。又西南行約二十里、忽有大池。師名之曰天池。沿池正南下、左右峰巒峭拔。眾流入峽、奔騰洶湧、曲折彎環、可六七十里。二太子扈從西征、始鑿石理道、刊木爲四十八橋、橋可並車。出峽入東西大川、次至阿里馬城」。錄之瀚海︀、卽記之沙場。徐松曰「晶河城東、至托多克、積沙成山。東距阜康縣、一千一百里、故云十餘程」。不剌、地理志作普剌、耶律希亮傳作布拉、西史曰普剌特。洪氏曰「今城已廢。當在博羅塔拉河左近、南臨𧶼剌木淖爾」。徐松曰「自托多克過晶河、山行五百五十里、至𧶼剌木淖爾東岸、所謂天池。並淖爾南行五十里、入塔勒奇山峽、諺曰果子溝。溝水南流、勢甚湍急。架木橋、以度車馬。峽長六十里、爲四十二橋、卽四十八橋遺址」。東西大川、謂伊犁河之谷。阿里馬、地理志作阿力麻里、喇施特作阿勒麻里克。洪氏曰「在今伊犁西、遺址無徵、要非甚遠」。錄云「又西有大河曰亦列」、記則云「又西行四日、至荅剌速沒輦、乘舟以濟」。亦列河、卽今伊犁河。徐松曰「荅剌速沒輦、卽伊犁河」。吹列爾曰「記者︀偶誤寫」。布哷特淑乃德兒曰「葢錯簡」。案長春歸路、自吹沒輦、東行十日、濟大河、又三日許至阿里馬城。大河、卽伊犁河也。錄曰「其西有城、曰虎司窩魯朵、卽西遼之都︀」。記云「南下至一大山、又西行五日、又西行七日、度西南一山、至回紇小城。西南過板橋渡河、至南山下、卽大石林牙。其國王遼後也云云」。所渡之河、卽吹沒輦也。錄云「又西數百里、有塔剌思城」。記云「沿山而西、七八日山忽南去。一石城當途、石色盡赤。有駐軍古跡。西有大塚︀、若斗星相聯。又渡石橋、並西南山、行五程、至塞藍城」。記者︀以伊犁河、誤作荅剌速沒輦、故此處不言塔剌思河。然渡石橋、葢塔剌思河橋也。布哷特淑乃德爾曰「長春葢濟伊犁河之後、並阿拉套山西行、遵舊驛路度、喀斯特克嶺、於今托克馬克渡珠河、達亞歷山德爾山脈之麓、遵今驛路西行、至塔剌思河、於今澳流阿塔邊渡其河。塞藍城在沁肯特東十三英里、今猶存。自澳流阿塔至塔什干驛路、過𧶼藍傍」。錄云「又西南四百餘里、有苦盞城。苦盞西北五百里、有訛打剌城云云」。記云「西南行復三日、至一城。明日又歷一城。復行二日、有河、是爲霍闡沒輦、由浮橋渡」。布哷特淑乃德爾曰「二城之一、當是塔什干城。霍闡沒輦、阿剌伯地理家之𧶼渾河、卽今錫爾河也。郭寶玉傳作忽章河、明史西域傳作火站河。赫爾別羅特曰「阿剌伯人呼𧶼渾河〈底本-391 爲那哈兒闊展特、卽闊展特河」。長春葢於齊那斯渡之」。長春行程、與大軍不同之處、葢在𧶼藍以西。至斡脫羅兒城。斡原作幹。秋濤案、本紀作斡。通世因改。上留二太子三太子攻守、尋克之。文田案、斡脫羅兒者︀、西北地附錄之兀提剌耳也。耶律楚材西遊錄云「苦盞西北五百里、有訛打剌城、附庸城十數。此城渠酋、殺︀命吏數人。西伐之擧由此也。訛打剌西千餘里、曰尋斯干云云」。所謂訛打剌、卽本紀重出之訛荅剌、亦卽此斡脫羅兒矣。通世案、祕史作兀都︀剌兒、小阿兒眛尼亞王海︀屯紀程書、作鄂特拉兒。城已久廢。列兒出曰「故趾在錫爾河之東支阿里斯河口之北、北緯四十三度之地」。多遜云「己卯秋、薄訛脫剌兒城」。洪氏曰「當日軍行之路、有邱長春西游記、行程可考。計師行迅速亦須兩月餘。故他西書謂「西十月至城下」。合之中歷、則九月間也」。「分軍爲四、察合台・窩闊台一軍、留攻城。朮赤一軍、西北行攻鄭忒城。阿剌黑・速格圖・托海︀一軍、東南行攻白訥克特城。皆循錫爾河。太祖︀自與拖雷將大軍、逕渡錫爾河、趨布哈爾、以斷其援兵」。洪氏曰「是時西域王駐撒馬爾干在東、布哈爾在西、其舊都︀烏爾鞬赤更在西北。搗其中、則新舊都︀呼應不靈、所以斷其援也。先西破布哈爾、返而東攻撒馬爾干 太祖︀兵法如是」。「察合台・窩闊台之攻訛脫剌兒也・伊那兒只克嘎伊兒汗部兵數萬、繕守完備。蘇爾灘謨罕默德分軍萬人、令將哈拉札率徃助守。攻五月、不下。哈拉札以力困議降。伊那兒只克自知無生理、誓死守。哈拉札夜率親軍、潰圍遁、被獲、乞降。因詢得城內虛實、數其不忠之罪而誅之、遂克其城。伊那兒只克退守內堡、一月始下。檻致撒馬爾干大軍、鎔銀液、灌其口耳、以報殺︀商奪貨之仇、夷其城、殲其眾」。伯哷津云「哈伊兒汗率親兵三萬、守城內堡塞、屢出戰。相持一月、死亡已盡、僅餘二卒、猶自登屋、揭瓦擲人。旣被獲、殺︀之於庫克薩萊」。庫克薩萊、太祖︀圍撒馬爾干時御營所在也。本紀云「己卯夏六月、帝率師親征、取訛荅剌城、擒其酋哈只兒只蘭禿」。哈只兒只蘭禿、哈伊兒及哈拉札之譌歟。本紀葢依他書、紀訛荅剌之戰。其年合、其月未合。又云「庚辰秋、攻斡脫羅兒城克之」。此依本書也。誤後一年、與伯哷津同。多遜・伯哷津又云「阿剌黑諾延速格圖 托海︀、將五千人、攻白訥克特。守將伊勒格圖蔑里克、率康里兵、大戰三日。至第四日、城民請降。分兵民工匠於三處、而盡殺︀康里兵、取工匠隨軍、驅民間壯丁、以往忽氈。守將帖木兒蔑里克、分精︀兵千人、守𧶼渾河中洲、矢石不能及、與城守爲犄角。阿剌黑三將、以兵力不足、請濟師、於忽氈・訛脫剌兒四鄕、擄民五萬、運石於山、塡河築堤、以達於洲。帖木兒造舟十二艘、形如穹屋、裹以濕氈、塗泥潑醋、以禦火箭、每晨分兩隊迎敵。然河堤漸成、砲石紛集。帖木兒見事急、以舟七十二艘、載軍士輜重、以徃白訥克特。蒙古軍先以鐵索鎻河。斫斷之、始通。而兩岸皆追兵、前路亦多阻。捨舟登陸、且戰且行、兵死傷殆盡、僅三人從。射追者︀中目、乃得脫。遂至烏爾鞬赤、取其兵、以徃養吉干、殺︀朮赤所置守吏、復回烏爾鞬赤、其後從札剌勒丁」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉

訳文 一〇五-一〇九

庚辰(1220年)、十五年、宋 嘉定 十三年、金 興定 四年。上は​エルチシ​​也兒的石​河に至り、夏を過ごした。通世案、これは己卯(1219年)夏の事である。本書は庚辰(1220年)から甲申(1224年)まで、いずれも誤って一年遅れている。​ベレジン​​伯哷津​は「竜年、​チンギス​​成吉思​​イルヂシ​​伊兒的失​河にいて駐夏し、商人を殺した仇に報いるために、使いを遣わして​モハンメド ホルズミ シヤー​​謨罕默德 貨勒自彌 沙​に告げに行かせた。秋に兵を進めた」と言う。本書と同じ。二書どちらも​トビチヤン​​脫必赤顏​の誤りに沿っているのは、洪氏の意見に従う。元史 本紀は庚辰(1220年)夏に、​エシヂシ​​也石的石​河で​ちゅうひつ​​駐蹕​したと書いたのも、また本書を根本とするのである。前の石の字は児とする。​ドーソン​​多遜​は「一二一九年、大軍は​イルヂシ​​伊兒的失​河に至り上は駐夏し、馬の力を養い、騎兵を補足した」と言う。西層一二一九年は、つまり己卯年(1219年)である。西遊記では、庚辰(1220年)二月、長春は燕京に入り、​あんぐう​​行宮​が西に進んだと聞き、己卯(1219年)の秋に兵を進めた事を述べる。駐夏が己卯(1219年)にあったと認めてよく、庚辰(1220年)にはない。又案、太祖は​ナイマン​​乃蠻​​オルド​​鄂爾多​より、​エルチス​​額爾齊斯​河に至り、諸史みな〈底本-390その行路を載せていない。 長春が歩き回った山野は、おそらく大軍が経過した跡であろう。西游記は、辛巳(1221年)六月二十八日、​オリド​​窩里朵​の東で泊まった。皇后は長春師に渡河するよう請い、宿営地に入って駐車した。​ポタニン​​玻塔寧​は「この​オルド​​鄂爾多​​セレンガ​​色棱嘎​河のひとつの源である​エレル​​額特爾​河の傍にあったのがふさわしい」と言う。七月九日、西南に五六日行き、また三二日で一山を越え、峯は高く削ったかのようで、松と杉が鬱蒼と茂り、そして湖がある。南に大きな渓谷を出て、一つの川が西に流れる。​ポタニン​​玻塔寧​は「峯は高く、​ハンアイ​​杭愛​のひとつの峯は​オトゴン カイルカン​​鄂特昆 喀伊爾堪​山と言い、山麓にひとつ湖があり、​ゴグヂン​​博古鼎​河の源となる。ひとつの川が西に流れたのが、​ウリヤスタイ​​烏里雅蘇台​河である」とする。北に​フラシヤオ​​曷剌肖​という故城がある。​ブレトシユナイデル​​布哷特淑乃德爾​は「この名はやや​ウリヤスタイ​​烏里雅蘇台​に似ている」と言う。西南に砂地の平原を過ぎてさらに五六日、嶺を越えて南に行った。二十六日、​アブハン​​阿不罕​山の北、​チンハイ​​鎭海︀​が来て謁した。 八月八日、大いなる山に寄り添い西に行き、さらに西南に行くこと三日、再び東南に大いなる山を過ぎ、大峡谷を通る。中秋(陰暦8月15日)の日、金山の東北に至って少し駐留し、また南に行く。その山は高く大きく、深い谷と長い坂で、車は行くことができない。三太子が軍を出し、その路を啓開し始めた。約行四程〈[#訳せない。「おおよそ四日間行き」か]〉、続けて五つの嶺を越え、南に山の前に出て、河を臨んで止まって、水草は都合が良いので数日のあいだ宿泊してようやく行き、河を渡って南に行った。​ブレトシユナイデル​​布哷特淑乃德爾​は「長春が通った山道を考えると、大軍が西に進む時に開いたところと関わり、つまりその行程は大軍と同じとわかる。また「水草は都合が良い」及び「河を渡って」の二語に拠ると、おそらく長春らは​ウランダバン​​烏蘭達班​を越え、​ブルガン​​布爾干​河に至ったのであろう」。これよりのち、長春らは南に​シヤダ​​沙陀​を渡り、​ウイウル​​畏兀兒​の地に向かった。大軍は馬の力を養う為に、西に​エルチス​​額爾齊斯​河のほとりに至ったか。​クラン​​克闌​河及び​エルチス​​額爾齊斯​上流の渓谷は、今は畜牧に都合の良い地と名高く称えられるに至っている。 秋に兵を進め、通った城はいずれも攻め落とし、通世案、​ドーソン​​多遜​は「​ウイウル​​畏兀兒​​バルチユク​​巴而朮克​​カルルク​​柯耳魯克​​アルスラン​​阿而斯蘭​​アルマリク​​阿而麻里克​​シエゲナク ヂギン​​雪格那克 的斤​、いずれも兵をもって来て会った。秋に軍を進め、人々は六十万と言いふらした。​ホルズム​​貨勒自姆​の物見役は帰って「モンゴル兵には勝ちを納めることはできない。飢えれば羊馬を食べその血は、水を得られずのどが渇けば、その血を飲み、食糧を持たずに行き、戦えば軍旗は退かず、すべての人は心をひとつにし、進むことがあっても退くことはない」と知らせた。​モハンメド​​謨罕默德​はおそれ、追い払えないと見積もった。太祖の軍は​シル​​錫爾​河に至り、防ぐ者はなかった」と言う。洪氏は「原書の評は「西域王はしまりがなく配置がなく、留まり守って倒れ死ぬに到り、それは先ごろ行われたことで比べるものがない」と言う。 あるいは「占い師が王に「凶星が星のいどころを守っていて、戦いは必ず不利である。ただ堅く守り時を待つのがふさわしい」と告げた」と言う。あるいは「王はすでに各地を征服し、志は満たされ気は驕り、将はその王を怨み、王はその将を疑い、ゆえに分かれて各城を守らせ、内乱を防いだ」と言う。​ヌサフエイ​​訥薩斐​は「西域人​ベイドアイヂン​​貝鐸哀丁​がいて、家族すべてが刑を受け、その王を怨み、国の苦しい状況をさとり、モンゴルをたよって入り策を献じ、​カングリ​​康里​の将のように見せかけて​チンギス カン​​成吉思 汗​の書を与え、「我らは力を尽くして、王が大業を成すのを助けるのは、​トルカン ハトン​​土而堪 哈敦​のことのためである。今や王はまさにその母に不孝である。大軍が来れば、我らは内応する」と言った。ゆえにその書を後に残して王にこれを見るようにさせた。王は果たして大いに疑い、ついには軍中にいる勇気がなく、領地を分けて自らを守る謀計を行った」と言う。推し量ると同じではない。​スブタイ​​速不台​伝を見ると「その主は国を委ねて去った」とあり、防ぐのに力をいれなかったことが、まことによくわかるであろう」と言う。 案、​シエゲナク ヂギン​​雪格那克 的斤​は、​オザル​​鄂匝爾​の子である。​オザル​​鄂匝爾​​グチユルク​​古出魯克​に殺され、太祖はその位を継ぐよう命じた。又案、大軍は​エルチス​​額爾齊斯​河のほとりから​シル​​錫爾​河に至り、西遊録と西遊記にある、その行程を調べて用いることができる。西遊録は「道は金山を通る。金山を西に、川はいずれも西に流れ海に入る」と言う。考えるに​ウロング​​烏隆︀古​河は​ヘセルバシユ​​赫色勒巴什​湖に入り、​エルチス​​額爾齊斯​河は​ヂヤイサン​​齋桑​湖の類に入るのである。また「その南に​フイフ​​回鶻​城があり、​シバ​​石把​という別名を持つ。城を西に二百里、輪台県がある」と言う。記は「南に金山の前に出て、河を渡って南へ、白骨甸を越え、大いなる​シヤダ​​沙陀​を渡り、​フイフ​​回紇​小城の北に至り、川に沿って西に行き、二つの小城を過ぎて、​ビエスマ​​鼈思馬​大城に至る。ここは大唐の時代は北庭端府だった。その西に三百余里、輪台という県がある。また二城を過ぎると、​チヤンバラ​​昌八剌​城に至る」と言う。​ビエスマ​​鼈思馬​は、​ベシバ​​別石把​であり、元史の​ベシバリ​​別失八里​であり、​ウイウル​​畏兀兒​の都城である。 ​クラプロト​​克剌普羅特​は「​ベシバリク​​別失八里克​は、今の​ウルムチ​​烏魯穆齊​である」と言う。そして洪氏はこれに従っている。しかしこの説に拠れば、輪台とすべきところがない。徐松は「唐の北庭大都護府の所在地は、今の​ヂムサ​​濟木薩​の北にある。​ドン​​端​​ドフ​​都︀護​の字とこれは音が合う。輪台県の所在地は、おおむね阜康県の西五六十里にある」と言う。​チヤンバラ​​昌八剌​は、地理志は​ヂヤンバリ​​彰八里​とし、​エリユ ヒリヤン​​耶律 希亮​伝は​チヤンバリ​​昌八里​とする。程同文は「中統元年(1260年)、​アリブカ​​阿里不哥​が叛いた。​ヒリヤン​​希亮​は天山を越えて、北庭都護府に至り、二年(1261年)、​チヤンバリ​​昌八里​城に至り、夏、​マナス​​馬納思​河を渡り、であれば​チヤンバリ​​昌八里​は、今の​マナス​​瑪納斯​河の東にあるのである」と言う。西遊録は「瀚海は​ベシバ​​別石把​城と数百里の距離がある。 瀚を過ぎること千余里、​ブラ​​不剌​城がある。​ブラ​​不剌​の南に陰山があり、山頂に池がある。陰山を出て、​アリマ​​阿里馬​城がある」と言う。西遊記は「陰山に近づいて西へ、約十程、ふたたび砂地の平原を渡ること五日、陰山の北に宿る。早朝に南に行き、長い坂を七八十里。ふたたび西南に約二十里行き、たちまち大池がある。師はこれを名づけて天池という。池に沿って真南に下り、左右の山々は群を抜いて高くそびえ立つ。多くの流れが峡谷に入り、駆け上がって波が湧き上がり、曲がり折れて弓なりに曲がってめぐり、六七十里ばかり。二太子は天子の西征に供をし、最初に石をうがって道を整え、木を切って四十八の橋とし、橋は車を並べることができる。渓谷を出て東西の大いなる川に入り、続けて​アリマ​​阿里馬​城に至る」と言う。西遊録の瀚海は、つまり西遊記の砂地の平原である。徐松は「晶河城を東に、​トドク​​托多克​に至り、砂が積もって山を成している。 東から阜康県に隔たること、一千一百里、よって十余程と言う」と言う。​ブラ​​不剌​は、地理志は​プラ​​普剌​とし、​エリユ ヒリヤン​​耶律 希亮​伝は​ブラ​​布拉​とし、西史は​プラテ​​普剌特​と言う。洪氏は「今は城はすでに廃れている。​ボロタラ​​博羅塔拉​河左岸の近くにあり、南に​サイラム ノール​​𧶼剌木 淖爾​を臨む」と言う。徐松は「​トドク​​托多克​より晶河を通り、山を行くこと五百五十里、​サイラム ノール​​𧶼剌木 淖爾​東岸に至り、いわゆる天池である。​ノール​​淖爾​に並んで南に行くこと五十里、​タルキ​​塔勒奇​山の渓谷に入り、ことわざで果子溝と言う。谷の水は南に流れ、勢いは甚だしく速く厳しい。木の橋を架け、車馬を渡らせる。峡谷の長さは六十里で、四十二の橋とするのは、つまり四十八橋の遺址である」。東西に大いなる川は、​イリ​​伊犁​河の谷と思われる。​アリマ​​阿里馬​は、地理志は​アリマリ​​阿力麻里​とし、​ラシツド​​喇施特​​アルマリク​​阿勒麻里克​とする。洪氏は「今は​イリ​​伊犁​の西にあり、遺址は兆しがなく、それほど遠くないと思う」と言う。西遊録は「また西に大河があり​イレ​​亦列​と言う」と言い、西遊記は「また西に行くこと四日、​ダラスモレン​​荅剌速沒輦​に至り、舟に乗って渡った」と言う。​イレ​​亦列​河は、つまり今の​イリ​​伊犁​河である。徐松は「​ダラスモレン​​荅剌速沒輦​は、つまり​イリ​​伊犁​河である」と言う。 ​チユイレル​​吹列爾​は「記した者がたまたま誤写した」と言う。​ブレトシユナイデル​​布哷特淑乃德兒​は「おそらく錯簡である」と言う。考えるに長春の帰路は、​チユイモレン​​吹沒輦​より、東に行くこと十日、大河を渡り、また三日ぐらいで​アリマ​​阿里馬​城に至る。大河は、つまり​イリ​​伊犁​河である。西遊録は「その西に城があり、​フスオルド​​虎司窩魯朵​と言い、つまり西遼の都である」。西遊記は「南下してひとつの大きな山に至り、また西に行くこと五日、さらに西に行くこと七日、西南にひとつの山を越え、​フイフ​​回紇​小城に至る。西南に板橋を通って河を渡り、南の山のふもとに至り、つまり​タイシリンヤ​​大石林牙​である。その国王は遼の子孫である云云」と言う。渡った河は、つまり​チユイモレン​​吹沒輦​である。西遊録は「また西へ数百里に、​タラス​​塔剌思​城がある」と言う。西遊記は「山に沿って西へ、七八日で山はたちまち南に去る。 ひとつの石の城に道で向き合い、石の色はことごとく赤い。駐軍した古い跡がある。西に大きな塚があり、北斗七星が連なっているかのようである。さらに石橋を渡り、西南の山に近づき、五日ほど行き、​サイラン​​塞藍​城に至る」と言う。記した者は​イリ​​伊犁​河を、誤って​ダラスモレン​​荅剌速沒輦​とし、よってこの場所は​タラス​​塔剌思​河とは言わない。そうであるならば石橋を渡ったというのは、おそらく​タラス​​塔剌思​河の橋であろう。​ブレトシユナイデル​​布哷特淑乃德爾​は「長春はおそらく​イリ​​伊犁​河を渡った後、​アラタオ​​阿拉套​山に近づいて西に行き、古い駅の路に従って、​カストル​​喀斯特克​嶺を越え、今の​トクマク​​托克馬克​​ヂユー​​珠​河を渡り、​アリサンデル​​亞歷山德爾​山脈の麓に達し、今の駅路に従って西に行き、​タラス​​塔剌思​河に至り、今の​ユリウアタ​​澳流阿塔​あたりでその河を渡った。 ​サイラン​​塞藍​城は​チンケンテ​​沁肯特​の東十三英里にあり、今なお存在する。​ユリウアタ​​澳流阿塔​より​タシユゲン​​塔什干​駅の路に至り、​サイラン​​𧶼藍​の傍を通った」と言う。西遊録は「また西南に四百余里、​クチヤン​​苦盞​城がある。​クチヤン​​苦盞​を西北に五百里、​エダラ​​訛打剌​城がある云云」と言う。西遊記は「西南に行くことさらに三日、一つの城に至る。日が明けてさらに一つの城を過ぎる。さらに行くこと二日、河があり、これが​ホチヤンモレン​​霍闡沒輦​となり、浮橋から渡る」と言う。​ブレトシユナイデル​​布哷特淑乃德爾​は「二つの城の一つが、​タシユゲン​​塔什干​城に当たる。​ホチヤンモレン​​霍闡沒輦​は、​アラバ​​阿剌伯​の地理家の​サイフン​​𧶼渾​河で、つまり今の​シル​​錫爾​河である。郭宝玉伝は​フヂヤン​​忽章​河とし、明史 西域伝は​ホヂヤン​​火站​河とする。​ヘルベロト​​赫爾別羅特​は「​アラバ​​阿剌伯​人は​サイフン​​𧶼渾​〈底本-391​ナハルコヂヤント​​那哈兒闊展特​と呼び、つまり​コヂヤント​​闊展特​河である」と言う。長春はおそらく​ヂナス​​齊那斯​でこれを渡った」と言う。 長春の行程は、大軍と同じでない場所で、おそらく​サイラン​​𧶼藍​以西にある。​オトロル​​斡脫羅兒​城に至った。斡は原書では幹。秋濤案、本紀は斡とする。通世が因んで改める。上は留まり二太子と三太子が攻め守り、まもなくこれを定めた。文田案、​オトロル​​斡脫羅兒​は、元史 西北地附録の​ウチラル​​兀提剌耳​である。​エリユ チウツアイ​​耶律 楚材​の西遊録は「​クチヤン​​苦盞​を西北に五百里、​エダラ​​訛打剌​城があり、付属の城は十数である。この城の首魁は、使者を数人殺した。西伐の挙はこれが理由である。​エダラ​​訛打剌​を西に千余里、​セミスカン​​尋斯干​と言い云云」と言う。いわゆる​エダラ​​訛打剌​は、つまり元史 本紀に繰り返し出る​エダラ​​訛荅剌​であり、またつまりはこの​オトロル​​斡脫羅兒​である。通世案、秘史は​ウドラル​​兀都︀剌兒​とし、小​アルメニア​​阿兒眛尼亞​​ハイトン​​海︀屯​紀は調べて書き、​オテラル​​鄂特拉兒​とする。城はすでに廃れて久しい。​レルチユ​​列兒出​は「故趾は​シル​​錫爾​河の東の支流である​アリス​​阿里斯​河口の北にあり、北緯四十三度の地である」と言う。 ​ドーソン​​多遜​は「己卯(1219年)秋、​エトラル​​訛脫剌兒​城に至った」と言う。洪氏は「その日に軍が行った路は、邱長春の西游記にあり、行程を調べることができる。師が迅速に行っても二か月余り要すると見積もる。よって他の西書は「西へと十月に城下に至った」と言う。これは移動の途中に合い、九月の間である」と言う。「軍を分けて四つとし、​チヤガタイ​​察合台​​オコタイ​​窩闊台​の一軍は、留まって城を攻めた。​チユチ​​朮赤​の一軍は、西北に行き​ヂエンテ​​鄭忒​城を攻めた。​アラク​​阿剌黑​​スゲト​​速格圖​​トハイ​​托海︀​の一軍は、東南に行って​ベヌクト​​白訥克特​城を攻めた。いずれも​シル​​錫爾​河に沿う。太祖自ら​トルイ​​拖雷​とともに大軍を率いて、そのまま​シル​​錫爾​河を渡り、​ブハル​​布哈爾​に向かい、その援兵を断った」。洪氏は「この時に西域王は​サマルカン​​撒馬爾干​に駐留して東にいて、​ブハル​​布哈爾​は西にあり、その旧都​ウルヂヤンチ​​烏爾鞬赤​はさらに西北にある。その中を突けば、新旧の都の呼応は良くなく、ゆえにその助けを断ったのである。先ず西に​ブハル​​布哈爾​を破り、戻って東に​サマルカン​​撒馬爾干​を攻めた。 太祖の兵法はこのようである」と言う。「​チヤガタイ​​察合台​​オコタイ​​窩闊台​​エトラルエ​​訛脫剌兒也​​イナルヂク ガイル カン​​伊那兒只克 嘎伊兒 汗​部兵数万への攻めは、守りを繕い備えを全うした。​スルタン モハンメド​​蘇爾灘 謨罕默德​は軍から一万人を分け、将​ハラヂヤ​​哈拉札​に率いさせ行って助け守らせた。五月に攻め、下らなかった。​ハラヂヤ​​哈拉札​は力尽きて降ることを相談した。​イナルヂク​​伊那兒只克​自ら生き延びる道がないことを知らせ、死守を誓った。​ハラヂヤ​​哈拉札​は夜に親軍を率いて、囲みを潰えさせて遁れ、捕らえられ、降を乞うた。問うて城内の虚実を得たことで、その不忠の罪を責めこれを殺し、そのままその城を攻め落とした。​イナルヂク​​伊那兒只克​は退いて内堡を守り、一月の始めに下った。​サマルカン​​撒馬爾干​の大軍を檻に入れて送り、銀液を鎔かし、その口と耳に注ぎ、商人を殺して財貨を奪った仇の報いとし、その城を壊し、その人々を皆殺しにした」。​ベレジン​​伯哷津​は「​ハイル カン​​哈伊兒 汗​は親兵三万を率いて、城内と堡塞を守り、たびたび戦いに出た。一か月持ちこたえ、すでにことごとく死亡し、わずか二人の兵が残り、なお自ら屋根に登り、瓦を掲げて人に投げた。やがて捕らえられ、これを​ククサライ​​庫克薩萊​でこれを殺した」と言う。 ​ククサライ​​庫克薩萊​は、太祖が​サマルカン​​撒馬爾干​を囲んだ時に御営のあったところである。元史 本紀は「己卯(1219年)夏六月、帝は軍を率いて親征し、​エダラ​​訛荅剌​城を取り、その酋長​ハヂルヂラント​​哈只兒只蘭禿​を捕らえた」と言う。​ハヂルヂラント​​哈只兒只蘭禿​は、​ハイル​​哈伊兒​及び​ハラヂヤ​​哈拉札​の誤りか。元史 本紀はおそらく他書に拠って、​エダラ​​訛荅剌​の戦いと書いた。その年は合い、その月は合わない。また「庚辰(1220年)秋、​オトロル​​斡脫羅兒​城を攻めてこれを取った」と言う。これは本書に拠ったのである。誤って一年遅れており、​ベレジン​​伯哷津​と同じ。​ドーソン​​多遜​​ベレジン​​伯哷津​も「​アラク ノヤン​​阿剌黑 諾延​​スゲト​​速格圖​​トハイ​​托海︀​は、五千人を率いて、​ベヌクト​​白訥克特​を攻めた。守将​イルゲト メリク​​伊勒格圖 蔑里克​は、​カングリ​​康里​の兵を率いて、大いに三日戦った。第四日に至り、城民は降を請うた。兵と民と工匠を三処に分け、​カングリ​​康里​の兵をことごとく殺し、工匠を収めて軍に従わせ、民間の若者を駆り立て、​フヂヤン​​忽氈​に行かせた。 守将​テムル メリク​​帖木兒 蔑里克​は、精兵を千人に分け、​サイフン​​𧶼渾​河の中洲を守り、矢や石は到達できず、城守とともに角となった。​アラク​​阿剌黑​三将は、兵力が不足し、軍を助けるよう請い、​フヂヤン​​忽氈​​エトラル​​訛脫剌兒​の四郷で、民五万を捕えて、山に石を運び、河をふさいで堤を築き、洲に達した。​テムル​​帖木兒​は舟を十二艘造り、屋根を弓のように形作り、湿った氈で包み、泥を塗って酢を注ぎ、火箭を防ぐのに用い、夜明けのたびに二つに隊を分けて敵を迎えた。しかし河の堤防がようやくできて、石を撃みごたごたと集まって来た。​テムル​​帖木兒​は事が差し迫ったと見て、舟七十二艘をもって、軍士と輜重を載せ、​ベヌクト​​白訥克特​に向かった。モンゴル軍は先ず鉄の綱によって河を閉じた。これを断ち切って、通り始めた。そして両岸みな兵を追い、前の路も多くが阻んだ。舟を捨て陸に登り、また戦いまた行き、兵はほとんど死傷し尽くし、わずか三人が従った。追う者の目を射て、はじめて免れることができた。ついに​ウルヂヤンチ​​烏爾鞬赤​に至り、その兵を収めて、​ヤンギガン​​養吉干​に行って、朮赤の所に置いていた守吏を殺し、再び​ウルヂヤンチ​​烏爾鞬赤​に戻って、その後​ヂヤラルヂン​​札剌勒丁​に従った」。





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