校正増注元親征録/序

校正增注元親征錄

〈底本-332  明治卅三年五月淸國兩湖書院の助敎、陳毅氏前約を履んで遙に先生に贈︀るに何李沈三氏合校の元親征錄を以てす。旣にして史學會に同書飜刻の議起る、先生乃ち自ら進んで更に增注して以て完璧と爲し、同會叢書の一として之を上梓せんと欲し、爾來拮据約そ二年、略ぼ其の業を畢られたり。本書卽ち是なり。然るに是より先き、內藤湖南氏新に淸儒文廷式より蒙文元朝祕史の寄贈︀を受け、特に先生の爲めに一部を影寫せしめて東京高等師範學校に贈︀らる、時に卅四年十二月なり。先生乃ち之を讀み、從來行はれたる明譯祕史の誤脫少からざるを知り、決然自ら之が全譯に從ひ、絕倫の精︀力を傾注して遂に完成せられしもの、即ち、かの有名なる成吉思汗實錄なり。先生生前親しく編者︀に語りて曰く、祕史の新譯今將に成らんとす、予が增注元親征錄引く所の祕史の文は、悉く此新譯に據りて改められざるべからずと、乃ち深く筐底に藏して之が大成を他日に期せられき。史學會飜刻の事遂に止みしは蓋し之に由れるなり。然るに新譯祕史成れるの後、幾もなくして先生簀を易へ本書改訂の業を果されざりしは、實に學界の大恨事といふべし。想ふに、吾人は成吉思汗實錄卷頭の序文によりて先生の精︀深なる學風を窺ひ、巧妙なる譯文によりて稀有の文才と絕倫の精︀力とを知るを得たるも、未だ以て先生の蒙古史に關する硏究の細目に就いて聽くを得ざるの恨ありき。今、本書の增注を見るに、博引旁搜能く諸︀家の長を取り短を捨て、論證明晰所謂快刀亂麻を斷つの槪あり。成吉思汗の偉業は殆んど此一書に盡き、先生の高論卓說は槪ね本書に收められたりといふも不可なきに似たり。乃ち本書は先生の未定稿なりしに拘はらず、敢て斯學の爲めに之を公にす。若し本書の讀者︀にして、常に成吉思汗實錄を參照するの用意を缺くことなくんば、先生亦深く吾人の此擧を尤め給はざるべし。印刷成るに及んで〈底本-333 一言本書上梓の趣旨を辯じ、併せて本書作成の由來を考ふと云爾。

編者︀識

附言

本書の稿本は、已に淨書を經、直に印刷に附するを得べきまでに整へられたり。然るに本文中、當に接續すべくして而も行を異にしたるもの往々にして之あり、今その何の故たるを知る能はず。乃ち原形を存し、敢て私意を以て之を改めず。

原文皆句讀の外に訓點を施し、人名には右旁に單線、地名には左旁に單線、部族名には左旁に複線を施す。然れども印刷の簡便を計りて訓點を省き、又悉く旁線を削り、たゞ名詞の連續するものに在りては、其間に黑圈點を附し、以て一名なるか、數名なるかを明にす。句讀點の如きは固より一に原本に從ふ。

編者︀又識





欽定四庫全書提要。

〈東方學デジタル圖書館-8

皇元聖武親征錄一卷。兩淮鹽政採進本。

不著︀撰人名氏。首載元太祖︀初起、及太宗時事。自金章宗泰和三年壬戌、始紀甲子、迄於辛丑、四十年。史記元世祖︀中統四年、參知政事修國史王鶚、請延訪太祖︀事蹟、付史館︀。此卷、疑卽當時人所撰上者︀。其書、序述無法、詞頗蹇拙。又譯語譌異、往往失眞、遂有不可盡解者︀。然以元史較之、所紀元初諸︀事實、大槪本此書也。史言太祖︀滅國四十、而其名不具。是書、亦不能悉載。知太祖︀時事、世祖︀時已不能詳、非盡宋濓王禕之掛漏矣。

訳文 序一

〈底本-333作者の氏名は明らかでない。最初に元の太祖チンギスが身を起こすことを載せ、太宗オゴデイの時の事に及ぶ。金 章宗 泰和 二年 壬戌(1202年)に干支で年が記され始めてから辛丑(1241年)まで40年になる。元史は元の世祖フビライの中統 四年(1263年)、参知政事の修国史だった王鶚が太祖の事績に関する広い要望を請うて、歴史編纂所に託したと記す。この書は、おそらくつまりその時の作とすべきであろう。その書は、出来事の順序がでたらめで、語はきわめて不自由でつたない。また訳語は誤り異なり、しばしば真実が失われ、ことごとくわからなくなってしまった。しかし元史とこの書を比べると、書かれている事柄の多くはこの書がもとになっている。元史は太祖が四十の国を滅ぼしたと言うが、しかしその名は揃っていない。この書も同じくまったく載せていない。太祖の時のことが世祖の時にすでにつまびらかにできなくなっていたことを考えれば、すべてが宋濓と王禕〈[#いずれも明代初期の史家]〉の落ち度ではないのであろう。



校正元聖武親征錄序。

〈東方學デジタル圖書館-4 元聖武親征錄、予始見於徐星伯太守處。相傳爲錢竹汀宮詹藏本、輾轉鈔得者︀。繼又借得翁正三侍郞家藏本。予乃鈔存徐本、而以翁本校之、點勘一過。其書〈底本-334 久無讀者︀、收藏家付之鈔胥、聽其譌謬。如行荆棘中、時時牽衣絓肘。又如捫蘚讀斷碑、上下文義相綴屬者︀、可一二數。以屬友人觀之、不終簡、輒棄去不顧。願船獨爲其難︀、取而詳校之。嘗自言「一字一句有疑、十日思之不置。每隔旬餘、輒以校本見示、加箋證數十條。越數旬又如之。其始就原本題記、行間睂上、字如蠅頭。葢十得其五六。繼復黏綴稾草、鉛黃錯雜。〈東方學デジタル圖書館-5乃十得其七八」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉。近則補正益多、手自迻謄。一再讀之、令人開豁。較之原本、廓淸之功、比於武事矣。昔太史公簒述、藏之名山、極鄭重也。而所望於後世者︀、惟好學深思、心知其意之人。葢天下文人多、學人少。不得學人、則著︀述之事、幾乎息矣。如願船之所爲、豈非史公之所願見而不可得者︀哉。固非徒是書資其攷證也。平定張穆。

訳文 序一-二

元聖武親征録は、私は徐星伯〈[#「星伯」は徐松のあざな]〉太守の所で初めて見た。次々と伝わって銭竹汀〈[#「竹汀」は銭大昕の号]〉の詹蔵本となり、人から人へ書き写されたものである。やがて翁正三〈[#「正三」は翁方綱のあざな]〉の侍郎家蔵本を又借りして得た。私は徐松本を書き写して、翁方綱本でこれを校正し、一通り点検した。〈底本-334その書は久しく読む者がなく、収集家はこれを鈔胥〈[#書写専門の役人]〉に渡し、その誤りを受け入れた。いばらの棘の中を行くようなもので、しきりに服は引っ張られひじにかかる。また苔が生えている壊れた石碑を撫でて読むようなもので、上下の文が関係しあうものが、一つ二つばかりである。仲間の友人がこれを観たが、調べるのが終わらず、たやすく棄て去り顧みなかった。願船〈[#「願船」は何秋濤のあざな]〉ひとりがその難を共にして、手に取ってつまびらかに校正を行った。 以前に自ら「一字一句に疑いがあり、十日これを考えてやめない。十日間余りごとに時間をへだてて、そのたびごとに校本を見て、数十条加えた。数十日間に渡ってさらにこのようであった。原本の最初の部分を記し始めたばかりの頃は、行間睂上〈[#訳せない。「睂上」の直訳は「ふちの上」であり「文の続きが他の葉に飛んでいる」と言う意味か]〉、字は蠅の頭のようであった。おそらく十中五六が得られた。再び草藁を練り込んで鉛黄を混せ合わせる。ようやく十中七八が得られた」と言った。ちかごろでは補正して多くの益があり、手作業で書き写した。これを読み直すと遠くまで見通せるようになった。この原本と比較すれば、整理した功は武功と比するものではないか。昔、太史公が著述して、これを名山に蔵める、としたのは極めて丁重なことである。後世に所望するのは、学ぶことを好み深く考え、その意味をわかる人である。およそ天下に文人は多いが学ぶ人は少ない。学ぶ人が得られなければ、著述した事は、ほとんど絶えてしまう。願船のふるまいのように、どうして太史公の願いを得られないことがあろうか。もとより無駄にならずこの書は考証に役立つ。平定の張穆。



自序(何秋濤)

〈東方學デジタル圖書館-5〈底本-334 自漢︀以來、二千餘年、一統之天下、惟元最大。然讀史至元代、輒令人廢書而歎則以紀載之草略、敍述之譌舛、惟元史最甚。就元史之中、又以紀太祖︀開國事爲尤甚。嘗訝金華義烏諸︀公、以文雄執史筆、何決裂疏脫若此、求其故而不得也。歲丁未、張丈石州、見示鈔本聖武親征錄一帙、謂予曰「此書、傳自竹汀覃谿諸︀先生、輾轉鈔藏、而未遑讐校。余讀一過、知其中謬誤甚多、幾不可句讀。子能是正之否」。余受而讀之、淮別虛虎之文、塞於目、侏離蔓衍之詞、窒於口。取元史紀傳表志、及諸︀子史文集互證之、則方隅之顚〈東方學デジタル圖書館-6倒、名氏之踳舛、年月日之參錯、觸處皆是。屢校而屢置之、旋復取讀、如剔碣蘚、如磨劍鏽。久之而稍得其端倪。又久之而洞見其癥結。葢此錄、作於祕史之後、而流傳在於祕史之前。舛牾之故、厥有數端。一則繙譯之初先誤。本蒙古之語、而用畏兀之文。更程邈之隸、音殊於緩言急言、字眩於二合三合。如折里麥、卽元史之朮魯台、曾植案、折里麥、是者︀勒蔑、非朮魯台也。先生誤釋。董哀、卽祕史之董合、猶云二書各譯、兩不相謀。至於一案彈也、或稱按壇、或稱按灘、一者︀別也、或稱遮別、或稱哲別、斡亦剌之卽猥剌、蔑里乞之卽滅力乞、亦年可汗之卽亦難︀赤可汗、一簡之中、〈底本-335 前後岐互。以有定之音、譯無定之字、遂使有徵之事、溷於無徵之文。旣已作法於涼、安怪傳言失指。其難︀讀一也。一則傳寫之際易譌。徑術榛蕪、奪誤麻起。聶坤變爲捏羣、以音近也。捏羣旋變爲捏辟、則字譌矣。太子變爲太石、以音轉也。太石俄變爲太后、則義失矣。等槖皋柘皋之屢易、疑后輔右輔之難︀分。甚至拔都︀悉譌拔相、孛徒復改字徒、岐又生岐、變本加厲。其難︀讀二也。一則年月之牴牾多端。至元中統以前、未有年號。脫必赤顏之帙、但紀鼠牛。積雪驚沙、創業本無記注。氈廬毳幕、槖筆甯有史官。迨客魯漣河之繕書、正斡歌歹汗之御宇。錄名取聖武之諡、編成必至元以來。或差本紀數年、或與列傳殊異。加之人名錯〈東方學デジタル圖書館-7雜、重譯未通。官號改更、巧秝不算。遂使本一事而前後複出、同一言而彼此乖違。其難︀讀三也。一則輿地之荒渺過甚。斡難︀土剌之川、水經詎載。答蘭忽眞之隘、地志未聞。攷和林、則據圭齋一言。詢魚濼、則摭德輝片牘。以嶺北興王之地、漠南駐蹕之庭、尙無可徵、矧於異域。而乃討吐麻、則北窮冰海︀、征算端、則西極申河。鼇思沃壤、莫傳撒罕之書。蟾河遠行、孰訪尋罳之境。且也拙赤元子、封域難︀稽。阿母行省、疆畛中絕篤實訪河源、而止及火敦。思本繪寰宇、而尙遺欽察。雖今開西域、地已隷於版圖、而夷攷前徽、事靡傳於父老。較之漢︀討郅支、唐征大食、更爲汗漫、孰辨淆譌。其難︀讀四也。兼此四難︀、爰滋眾惑。宋王諸︀公、別白未能、汗靑太迫。於祕史、則熟視︀無覩。於茲帙、則依樣葫蘆。累牘連篇、沿譌襲謬。貽誤後學、職此之由。吾故曰、以此錄視︀祕史、猶書家之臨摹也。以此錄視︀元史、猶畫家之粉本也。至景濂子充、摭此錄、以作本紀、擅其名、則如鈔胥之迻謄、而覈其實、則是謬種之流傳也。然則校覆此編、足以攷訂羣籍。不揣固陋、耑力揅尋。因爲箋注姓名、移置甲乙、疏論異同、排比先後。雖不敢謂毫髮無憾、而較之舊本、則面目迥殊。引證則甯詳無略、辨析則存是去非。彼此互參、事理胥得。寒暑︀屢易、繕錄乃成。夫以明初修史、耳目較近、尙未能詳審〈東方學デジタル圖書館-8攷正。今之視︀昔、年逾五百、校訂之難︀、不啻倍蓰。加以學淺識陋、無所取材。非敢自居是正、聊以存諸︀篋衍。從此質彼通人、誨我不逮、其於元初掌故、藉可管窺、庶幾憤悱啓發〈底本-336 之誼云爾。道光己酉夏六月下澣、光澤何秋濤自序。

訳文 序二-六

漢代から、二千年余り、国の支配域は、思うに元が最大である。だが元代までの歴史を読めば、すぐに人に文書を廃棄させ、そして嘆かわしいのは紀がこれを粗略に載せることであり、記述に嘘や間違いが多いのは、思うに元史が最も甚だしい。元史の中でとどめると、さらに太祖の建国の事が最も甚だしい。かつて金華と義烏〈[#ともに浙江省の地名]〉の人々を、元史を編纂したことで疑い怪しみ、なぜ切り裂かれ少しまばらに抜けているのか、理由がわからなかった。歳丁未(1847年)、張穆先生石州が抄本の聖武親征録一冊を見せ、私に語って「この書は、伝わるところでは銭竹汀と翁覃谿〈[#「覃谿」は翁方綱の号]〉諸先生が書き写して所蔵したが、かつて讐校する暇がなかった。私は一通り読み、間違いが甚だ多いことを知り、いくつか句読をつけられなかった。君は直せるかであろうか」と言った。 私は受け取って読み、淮別虚虎〈[#「淮別虚虎」は有名な誤植の二例。別風淮雨、虎虚]〉の文が目を塞ぎ、侏離〈[#「侏離」は意味の通じない異民族の音声の意]〉の蔓延する詞が、口を塞いだ。元史の紀伝表志、及び諸思想家の史文集を取りあげて比較すると、一部で順序が逆で、氏名が間違っており、年月日がずれており、触れたところはいずれもこれであった。たびたび校正したびたび止め戻って再び読み取り、石碑の苔を除くように、剣のさびを磨くようにした。長い間にその始まりをわずかに得られた。また長い間この症状が続いた。おそらくこの記録は、秘史の後に作られたが、秘史の前に作られたと世間に広く伝わってしまった。誤りの理由は、きっかけがいくつかある。 一つには、翻訳の初めがまず誤る。モンゴル語はウイグル文字を用いる。程邈の隷書体が新たにされ、音は緩急があり、字は二つ三つ重なり惑う。​ヂエリメ​​折里麥​であれば、つまり元史の​チユチタイ​​朮魯台​曽植案、​ヂエリメ​​折里麥​​ヂエルメ​​者︀勒蔑​であって​チユチタイ​​朮魯台​ではない。何秋濤先生の誤訳。​ドンガイ​​董哀​は、つまり秘史の​ドンガ​​董合​で、やはり二書の各訳が合っていない。​アンタン​​案彈​もまた、あるいは​アンタン​​按壇​あるいは​アンタン​​按灘​と称し、​ヂエベ​​者︀別​もまた、あるいは​ヂエベ​​遮別​あるいは​ヂエベ​​哲別​と称し、​オイラ​​斡亦剌​はつまり​ヱイラ​​猥剌​で、​メリキ​​蔑里乞​はつまり​メリキ​​滅力乞​で、​イネン カガン​​亦年 可汗​はつまり​イナンチ カガン​​亦難︀赤 可汗​で、一つの文の中は、〈底本-335前後で互いにわかれている。音を整えることで、字を整えずに訳し、かくて明らかにあった事が、明らかにない文に濁る。 涼州で作法〈[#訳せない。「名前の漢字音写の作り方」か]〉はすでに終わっており、どうして伝言が主旨を失ったことを責めようか。それが読み難さの一つ目である。一つには、写し伝える際に誤りが起きる。道は手付かずで荒れ果て、文章の脱落は麻の乱れ起きるように多い。​ネクン​​聶坤​​ネクン​​捏羣​に変わるが音は近い。​ネクン​​捏羣​はこじつけで字は間違っている。太子は​タイシ​​太石​に変わり、音は変わる。太石はたちまち太后に変わり、意味が失われる。橐皋〈[#「橐皋」は安徽省巣湖市の地名]〉の柘〈[#「柘」は黄と赤との中間色、柘黄]〉がたびたび変わるのと等しく、后を補うのと右を補うのは似通っていて区別しにくい。​バード​​拔都︀​に至っては実に甚だしく、ことごとく抜相に変わり、孛徒は字徒に改められ、分岐が分岐を生み、いろいろな変化が加わる。それが読み難さの二つ目である。 一つに、年月の食い違いが多方面にある。元朝の中統に至る以前は年号がない。​トビチヤン​​脫必赤顏​の書は、ただ十二支が記されている。積もった雪や風に吹かれて飛ぶ砂のように、創業の祖先は記と注がない。氈毳の宿舎は、槖筆〈[#「槖筆」は書物を入れる袋と筆で、転じて古代の史官の意だが、おそらくここでは「筆記用具を使って自分で記録を書く」の意]〉より史官があったほうが良かった。​ケルレン​​客魯漣​河の書き納めに至り、ちょうど​オゴダイ カン​​斡歌歹 汗​の治世である。録名は聖武の追号を取り、編成は必ずや元朝に至って以後である。あるいは本紀の数年は違っているか、あるいは列伝と異なっている。人名の間違いが加わり、重訳の意味が通らない。官職名の変更は間をおいてたびたび行われ数えていない。遂には一つのことが前後に再び出てきて、一つの同じことがあちらとこちらであべこべになっている。それが読み難さの三つ目である。一つには、大地の広く果てしないことが度を越して甚だしい。​オナン​​斡難︀​​トラ​​土剌​の川は、水経が載せたであろうか。​ダランフヂン​​答蘭忽眞​の狭間は、地理書で聞いたことがない。​ホリム​​和林​を調べると、圭斎集の一言を根拠にしている。魚の住む湖に問うて、張徳輝の文書のかけらを拾う。 嶺北の王が興った地から、ゴビ砂漠南の​ちゅうひつ​​駐蹕​の宮殿まで、やはり明らかにされておらず、まして、よその土地は明らかでない。そしてまさに​トマ​​吐麻​を討伐すれば、北に凍った湖に至り、​サンタン​​算端​を征伐すれば、西に​シン​​申​河に突き詰め尋ねた。鼇〈[#「鼇」は仙人が乗る大きな亀。翰林院を揶揄したものと思われる]〉は肥沃な地を願ったので、​サハン​​撒罕​〈[#訳せない。聖武開天記を書いた察罕の誤りか]〉の書いたものは伝わっていない。 ​チヤン​​蟾​河まで遠く旅をし、誰が​セム​​尋罳​の境まで訪ねていくであろうか。まして長子​ヂユチ​​拙赤​は難治の地に封じられ留まった。​アム​​阿母​河の行省、境界は​ドシハン​​篤實訪​河の水源の中ほどで絶え、そして​ホトン​​火敦​に及んで止まっている。思うにもともとの領地としては、しかしなお​キムチヤ​​欽察​を遺している。今や西域が開かれたといえども、現地は領地に服従するのをやめ、しかも異民族はすでに過去のつながりと考えており、祖先で言い伝えは滅んだ事とする。漢による郅支単于への討伐に比べると、唐による大食への征伐は、更に広く果てしなくなり、どちらが説明に嘘が混じっているか。それが読み難さの四つ目である。これら四難が合わさって、これにより人々の惑いが増す。 宋王諸公は、能力のない家来を選り分け、​カン​​汗​はすべてを非常にせき立てた。秘史においては、じっと見つめて見てない。書が増えて、ひょうたんのような有様となった。書が次々に重なるにつれ、嘘に従い誤りを受け継いだ。誤りを後学の人々に残し、この原因を記す。私はゆえに言う、この録をもちいて秘史を見ると、まるで書家による写本や透き写しのようである。この録をもちいて元史を見ると、まるで書家の下書きのようである。景濂〈[#「景濂」は宋濂のあざな]〉、子充〈[#「子充」は費宏のあざな]〉に至り、この録は拓かれ、元史 本紀を作ることで、その名をほしいままにし、鈔胥の書き写しのごとくその実像を明らかにし、この間違いの種が世間に広まった。そうであるならばこの本を校正しつくせば、もろもろの書籍を校正するのに十分である。 見識の狭いことを考えず、ひたすらきわめ求めることに力を入れる。そのために姓名を注釈し、あれこれ移し代えて、異同を洗い出し、前後を連ねて比べた。わずかな心残りを敢えて言うことはしないが、こうして古い本に比べれば、見た目がはるかに異なる。他の事を引いて自説の証拠にするよりも詳らかにして略さないほうが良く、道理に適うかを明らかにしてこそ誤りが除かれる。彼我を互いにくらべあわせ、物事の筋道を得た。寒さ暑さはしばしば変わり、録の修繕はまさに成し遂げられた。かの明初の史書編纂をもって、耳目は比較的近くなったが、なおまだつまびらかに考正されていない。 今これ昔を見ると、五百年過ぎており、校訂の難しさは、ただ数倍ではない。加えて学は浅く知識は狭いので、無所取材〈[#論語の名句。「目的を果たすための材料を手に入れるところまで達していない」の意]〉である。あえて自らこれを正すことなく、しばらく諸々の書箱を広げたままにする。それによってこれが専門家に質されて、及ばぬ点を私に教え諭し、その元代初めの故実について、私の見識が狭いことにかこつけつつ、憤り嘆きこれを正しく教え導き悟らせてくれることを希望する。〈底本-336 道光29年己酉(1849年)夏6月下旬。光沢の何秋濤が、自ら序を書いた。



校正元親征錄序。

何君願船、余畏友也。相晤於符離軍營、出元聖武親征錄見示。葢其所手鈔而校之者︀。丹黃爛然。俾斷爛古籍、復彰於世。其爲功於昔人甚厚。宋景濂元史、舛誤最甚。校正此錄、足證其得失。其爲功於正史尤不細。葢嘗論之、史學以遼金元爲一家。自明代三百年、無能知者︀。國朝以來、錢詹事、程廷尉、獨擅其勝、專門名家。余所及見、則有若徐星伯、龔定菴、沈子敦、張石州諸︀君子。今願船紹絕緖、而振興之。他人讀一字一句、舌撟不下、而願船歷歷言之、如燭照數計。且曰「茲事猶測厤步算然、貴在精︀思。其始如邢邵之思誤書、亦是一適。久之則如文王嗜昌𣀈、屈到嗜菱、覺卷帙之中、有味外味。吾不能以語他人、他人亦不能我同也」。於戲、其苦心孤詣、於今世豈易覯哉。抑又聞之、前事不㤀、後事之師。國朝拓西北地二萬餘里、皆元代故壤、明時未入版圖者︀。然則元之遺事、所宜詳攷。願船留意於此、亦其講求經濟之一端。豈僅硏精︀史學已哉。癸丑四月二十七日、旌德呂賢基、序於宿州行館︀。

訳文 序六

何君願船は、私の敬服すべき友人である。軍営を離れた印により互いに打ち解け、元聖武親征録が出たのを見た。おそらくそれは校正者が自ら書写したものであろう。朱と黄が光り輝いている。断片になった古書を再び世にあらわした。その功績は昔の人よりもはなはだ厚い。宋濂の元史は、間違いが最もはなはだしい。この録を校正し、その得失を明らかにできる。それは正史において最もわずかならぬ功となった。そもそも史学は遼金元をもって一流派とした。明代より三百年、よく知る者がなかった。清朝始まって以来、銭大昕や程廷尉が優れた専門家として名声を独占してきた。私の見る所では、徐松、龔自珍、沈垚、張穆ら諸君子を同じように選ぶ。今、願船が途絶えた糸を受け継ぎ、これを振興する。他の人が一字一句を読めば、舌が上がって下がることがなく、願船が明らかにこれを言うのは、灯が照らして数を計っているかのようである。 また「ますます事柄を数えて明らかにし、高い価値は詳しい考えにある。その始まりが邢邵の誤書を思うことにあるように、またこれを一巡りする。長く続けたことで、菖蒲を嗜む文王や菱を嗜む屈到のように、巻物と書帙の中に味を超えた味が有ることに気づいた。私は他の人に言葉で説明できないし、他の人も私と同じには出来ないであろう」と言う。ああ、その苦心孤詣ぶり、今の世にどうして、たやすく出会えるであろうか。そもそも、この言葉をまた聞くことは、前の事を忘れず後の事の師とすることになる。今の清朝は西北の地二万里余りに広がっているが、皆以前は元の時代の領土であり、明の時代に編入しなかったものである。しかるに元の事業について、詳しく考えられるべきである。願船はこれを留意し、その統治の一端を調べ求めた。どうして史学を十分に調べず終えられようか。癸丑(1853年)四月二十七日、旌徳の呂賢基が、宿州の行館で序を書いた。





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