シリヤの聖イサアク全書/第二十五説教

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第25説教[編集]

<< 知識ちしきみつ方法ほうほうこと、そのようとその意味いみおなじからざることこころ信仰しんこうこと信仰しんこうかくるる奥密おうみつなるとみこと此世このよしきは、その方法ほうほうおい信仰しんこう正直せいちょく明白めいはくいくばく差異さいあること。 >>


こうこみち信仰しんこうみちとをて、しきりに信仰しんこうしんしたる霊魂れいこんは、もししき方法ほうほうふたたてんずるならば、信仰しんこうただちこうはじめん、しかしてそうたすけもっ純潔じゅんけつたましいにあらはれ、正直せいちょく明白めいはくにして穿鑿せんさく討究とうきゅうわたるものにはたえらざる精神せいしんちからうしなはるべし。けだしひとたび信仰しんこうもっおのれかみしたがはしめ、しばしば経験けいけんもっかみたすけこころみたる霊魂れいこん最早もはや自己じこのことにねんせずして、かえっ驚愕きょうがく沈黙ちんもくためしばらる、ゆえにしき方法ほうほうふたたたちもどりてこれ行為こうい使用しようするあたはざるべし。しからずんばまずしてひそか霊魂れいこんかんし、これおもんばかりて、ことごとくの方法ほうほうによりだんこれ追尋ついじんするかみ照管しょうかんは、しき方法ほうほう反対はんたいによりうばはれん、すなはち霊魂れいこんしきちからによりみづから充分じゅうぶんおのれおもんばかるをべしと妄想もうそうして、無智むちになれるによりうばはれん。けだし信仰しんこうひかりらしはじむるものは、さら祈祷きとうおいかみねがひ、『これわれらにあたたまへ』あるいは『これわれらよりたまへ』といふごとくなる無耻むちには最早もはやいたらざるべくして、かれらは自己じこのことはすこしもおもんばからざるべし、なんとなれば真実しんじつなるちちかれらをいんするちちたる照管しょうかんしん霊妙れいみょうなるもっ時々ときどき目撃もくげきすればなり、けだしかれ無量むりょうおほいなるあいもっていかなるちちあいにも卓越たくえつし、われらのねがかつおもんばかかつ想像そうぞうするよりもさらだいなるあまりあるのりょうもっわれらにたすくべきちからことゆうするによる。

知識ちしき信仰しんこう反対はんたいす。信仰しんこうはすべてこれぞくするものにおい知識ちしきほう破壊はかいにして、かつ霊的れいてきなる知識ちしき破壊はかいなり、知識ちしき定限ていげん捜索そうさく考究こうきゅうとなくんば何事なにごとをもすのけんゆうせずして、かえつてかれおもところのものとほっするところのもののあたふべきやいなやを捜索そうさくするにあり。されど信仰しんこう如何いかなるか。かれ不正ふせいにしてちかづくものにはとどまるをがえんぜざるなり。

知識ちしき討求とうきゅうたず行為こうい方法ほうほうたずんば認識にんしきするあたはざるべし。これ真理しんり躊躇ちゅうちょする徴候ちょうこうなり。これはんして信仰しんこう工夫くふうらし方法ほうほう詮索せんさくするものにはすべてとおざかる思想しそう有様ありさま唯一ゆいいつ潔白けっぱく単純たんじゅんなるを要求ようきゅうするなり。よ、かれらは如何いか相反あいはんするか。信仰しんこういえ幼児おさなごごとくなる概念がいねん単純たんじゅんなるこころなり。けだしふあり、こころ正直せいちょくもっかみ讃美さんびせりと、またふあり、『なんぢらもしてんじて幼児おさなごごとくならずば天国てんごくるをず』〔マトフェイ十八の三〕。されど知識ちしきこころとその概念がいねん正直せいちょく明白めいはくためあみててこれ反対はんたいす。

知識ちしき天然てんねんをそのことごとくの経路けいろ保護ほごする天然てんねん法則ほうそくなり。これはんして信仰しんこう天然てんねんよりたか進行しんこうす、知識ちしき天然てんねんため破壊はかいてきなるものをみづからるるをあえこころみずしてこれよりとおざかる、しかれども信仰しんこう容易たやすこれ許容きょようす、へらく、『なんぢまむし毒蛇どくじゃとをみ、しし大蛇だいじゃとをまん』〔聖詠九十の十三〕。知識ちしき畏懼いくともなひ、信仰しんこう希望きぼうともなふ。ひと知識ちしき方法ほうほうみちびかるるほど畏懼いくためしばられて、これよりまぬかるる自由じゆううくあたはざるべし。これはんして信仰しんこうしたがものただち自由じゆう自主じしゅなるものとなりて、かみごとくあらゆるものをけんもっ自由じゆう利用りようす。この信仰しんこうあいするものはすべてぞうけたるものを天然てんねん指麾しきすることかみごとくならん、なんとなれば信仰しんこうにはかみごとあらたなる造物ぞうぶつ造成ぞうせいべきちからあたへられたること、ろくしていふごとくなるによる、ふあり、ほっするあるや万物ばんぶつなんぢまえあらはれん〔イオフ二十三の十三〕。かれはすべてのものを存在そんざいせざるよりしょうぜしむること度々たびたびなり。これはんして知識ちしき物質ぶっしつなくんば一物いちぶつしょうぜしむるあたはず。知識ちしきには天然てんねんもっあたへられざるものをしょうぜしむるほど自負じふあらず。しかり、如何いかにしてかれこれしょうぜしむべきか。みづながるるせいはその顕然けんぜんたる足跡あしあとをうけざるべく、ちかづくものおのれかん。もしこれあえてするものあらばわざわいこれしたがはん。

知識ちしき警戒けいかいしておのれこれより保護ほごし、この界限かいげんゆることを如何いかんしてもがえんぜざるなり。しかるに信仰しんこう自由じゆうけんもってすべてに超越ちょうえつす、へらく『なんぢなかすぐるときかるることなく、かわなんぢらをおぼらさず』〔イサイヤ四十三の二信仰しんこうすべての受造物じゅぞうぶつまえ此事このことおこなひしことしばしばなり。これはんして知識ちしきおのれ此事このことこころむべきあい此処ここにあらはるるありとも、かれこれたいして決行けっこうせざることうたがいなし、けだしおおくのもの信仰しんこうによりえんり、つくちからとどめ、無害むがいにしてそのなか経過けいかし、うみ急湍はやせくがごと進行しんこうしたりき。これみな天然てんねんよりたかく、知識ちしき方法ほうほうとは反対はんたいにして、知識ちしきはそのことごとくの方法ほうほうほうとにおいむなしきをしめせり。知識ちしき如何いか天然てんねん界限かいげんまもるをるか。信仰しんこう如何いか天然てんねんよりたかえて、彼処かしこにその進行しんこうみちひらくをるか。知識ちしきこの方法ほうほう大略だいりゃく千年せんねんあいだかい統御とうぎょしたりしも、ひと幾何いくばくもそのこうべよりげて造物主ぞうぶつしゅちから認識にんしきするあたはず、もっわれらの信仰しんこうらしはじめて、われらをやみよりだっさい無益むえきなる高超こうちょうにんずる浮世うきよ行為こういこれしたがむなしき従属じゅうぞくとをのがれしむるにいたれり。しかるにいまわれらは動揺どうようせざるのうみとぼしきをげざるたからとを発見はっけんしたるも、さらまた涓々けんけんたるいづみはならんを願望がんぼうす。たとひおほいむといへどもとぼしきをげざる知識ちしきはあらじ。これはんして信仰しんこうたからてんれざるなり。しん希望きぼうもっしんかためらるるもの何物なにものけっしてうしなはざるべくして、ゆうせざるものあるときはひと信仰しんこうもってすべてを包有ほうゆうせん、ろくしてごとし、『祈祷きとうときしんじてもとむるところことごとこれん』〔マトフェイ二十一の二十一またふ『しゅちかし、何事なにごとをもおもんばかるなかれ』〔フィリッピ四の六〕。

知識ちしきこれもとむるもの保護ほごするためつね方法ほうほうたずぬ。これはんして信仰しんこうふ『もししゅいえつくらずば、つくものいたずらろうす、もししゅしろまもらずば、まもものいたずら警醒けいせいす』と〔聖詠百二十六の一信仰しんこうもっ祈祷きとうするもの自護じご方法ほうほうけっして利用りようせず、これたすけをもとめざるなり。けだし知識ちしきいづれところにも畏懼いくさんすること睿智者えいちしゃひしごとし、いはく『しゅおそるるもの霊魂れいこんさいわいなり』〔シラフ三十四の十五〕。されど信仰しんこう如何いかなるか、しるしてふあり『おそれておぼれんとす』と〔マトフェイ十四の三十しかしてまたふあり『なんぢらはたるものふたたおそれいだしんをうけたるにあらずして、たるしんすなはちかみしんずるとのぞむとの自由じゆうによるものをけたり』〔ロマ八の十五またふあり、かれらをおそるるなかれ、かれらのおもてさくるなかれと。畏懼いくにはつねねんともなひ、しかしてねん審問しんもんともなひ、審問しんもんもちふべき方法ほうほうともなひ、もちふべき方法ほうほう知識ちしきともなふ。ゆえにその考究こうきゅう審問しんもんおい畏懼いくねんつねみとめらるるなり、なんとなれば知識ちしき如何いかなるときにもすべてにおい成功せいこうするにあらざることはこれよりさきわれらがしょうせしごとくなればなり。けだし知識ちしき智慧ちえ方法ほうほうここいくばくもたすくることのまったあたはざる困難こんなんなるじょうあいあつまりて衝突しょうとつすると、おおくのけんてる機会きかい霊魂れいこん遭遇そうぐうするとは屡々しばしばこれあればなり。しかれども一方いっぽうには人間にんげん知識ちしき全力ぜんりょくきわむるもふせぐことのあたはざる困難こんなんおいて、信仰しんこうこれらの困難こんなんひとつにもごううちまかされざるなり。けだし人間にんげん知識ちしきはそのためにすべて天然てんねんとおざかるところのものにちかづくことをきんず。しかれども信仰しんこうちからこれおいさつすべし、信仰しんこうこれまなものまえなに提出ていしゅつするか。しるしてへり『によりて魔鬼まきおいいだし、へびとらへ、どくむともかれらをがいせざらん』といへり〔マルコ十六の十七知識ちしきはそのほうり、すべてそのみち進行しんこうするものに、すべてのことおいてそれをはじむる以前いぜんにそのおわり審問しんもんし、しかのちはじめんことを提出ていしゅつす。これそのことおわりが人力じんりょくつくくしたるかぎりにおい困難こんなん遭遇そうぐうすることのあらはるるや、これためいたずらろうするをのがれんためなり、こと困難こんなんにして成就じょうじゅするあたはざるものとならざらんためなり。されど信仰しんこう如何いかふか。『しんずるものにはくせざることなし』〔マルコ九の二十三なんとなればかみためあたはざるところなければなり。ああべからざるなにらのとみなるか。信仰しんこうなみ信仰しんこうちからもっおほいそそがるる奇異きいなるたからとに如何いかなるうみなるか。信仰しんこうともにする進行しんこう如何いかなる善心ぜんしん如何いかなる満足まんぞくあんとにたさるるか。そのくびき如何いかやすくして、その活動かつどう幾何いくばくあまきか。


問 信仰しんこうあまきをむるをすでたまはりて、さら誠実せいじつなるしきてんずるものはその行為こうい何人なんびとすべきか。

答 貴重きちょうなる真珠しんじゅこれ銅製どうせい小蟲しょうちゅうへたるものせん、また自主じしゅ自由じゆうてて畏懼いく奴隷どれい状態じょうたいにみたさるる極貧ごくひんぶんかえものせん。

しきなんせらるるきにあらしかれども信仰しんこう知識ちしきよりもうえなり、もしなんせらるるも知識ちしきそのものはなんせらるべきにあらず。ねがはくはこれあらざらんことを。さりながら知識ちしき天然てんねんもとりて進行しんこうする種々しゅじゅ方法ほうほう如何いか弁別べんべつすべきか如何いかんして知識ちしき魔鬼まきれつちかづくか〔此事このことのちいたりあきらかべんぜん。〕これらの方法ほうほうにより知識ちしきのぼるべき階級かいきゅう幾許いくばくあるか。かく階級かいきゅう如何いかなる差異さいあるか。知識ちしきはそのかく方法ほうほうとも如何いかなる概念がいねんするときは、これもっ覚醒かくせいせらるるか。これらの方法ほうほううちいづれの方法ほうほうしたがとき信仰しんこう反対はんたいして天然てんねんよりだっするか、しかしてこれ如何いかなる差異さいあるか、その原始げんし目的もくてきかえり、その天然てんねんたっしてぜんなる生涯しょうがいおい信仰しんこういつなる階段かいだんつときは如何いかなる階級かいきゅうにあるか、しかして同一どういつきゅうおい差異さいときとして何処いずこまでひろまるか、しかしてこのきゅうよりさらたかきゅう如何いかにしてうつるか、きゅうあるい原始げんしきゅう方法ほうほう如何いかなるか、しかして知識ちしき信仰しんこう結合けつごうしてこれいつになり、ごとくなる概念がいねん衣被いひして、しんにてえ、よくつばさもとて、ぞくするものにつとむるより、方法ほうほうもちいて造成者ぞうせいしゃくにのぼるはなんときなるか。さりながらそのときいたまで信仰しんこうとその上昇じょうしょうとその活動かつどうとは知識ちしきよりうえなるをるをもっわれらに充分じゅうぶんなり。

まこと知識ちしき信仰しんこうもっ成全せいぜんせられて、上方じょうほうのぼり、なにらの感触かんしょくよりもうえなるものに接触せっしょくし、人間にんげん知覚ちかく知識ちしきとをもっとらべからざる光線こうせんるのちからけん。知識ちしき階段かいだんなり、これによりひと信仰しんこうたかきにのぼるべくして、すでこれたっするときは、最早もはやこれ利用りようせざるべし。けだし現時げんじふべし、『われることまったからず、預言よげんすることまったからず、まったものきたるときまったからざるものまん』と〔コリンフ前十三の九いま信仰しんこう最早もはや完全かんぜん現実げんじつわれらの目前もくぜんにあらはすもののごとし、ゆえに人智じんちおよばざるものはわれらが信仰しんこうもっまなぶべくして、知識ちしき審問しんもんとそのちからとをもってせざるなり。

真実しんじつこうごとし、禁食きんしょくなり、矜恤きょうじゅつなり、成聖せいせいなり、およびそのほかすべ身体しんたいたすけによりおこなはるるものなり、近者きんしゃたいするあいなり、こころ謙遜けんそんなり、あやまちゆるすなり、善行ぜんこうためおもんばかりなり、聖書せいしょかくるる真正しんせいなる奥義おうぎ研究けんきゅうなり、もっとも完全かんぜんなるこう心中しんちゅうよくせつまもるとをもっ智力ちりょくるなり。みな知識ちしき必要ひつようゆうす、なんとなれば知識ちしきこれ保護ほごして、此事このことおけるの秩序ちつじょおしふればなりしかるにみな階段かいだんのみにして、これにより霊魂れいこん信仰しんこうてんたかきにのぼらん、これづけて道徳どうとくとはいふなり。しかれども信仰しんこう生活せいかつ道徳どうとくより一層いっそうたかくして、そのはたらき動作どうさにあるにあらず、完全かんぜんなる平安へいあん慰藉いしゃ心中しんちゅうおけるの談話だんわとにして、このはたらき霊魂れいこん概念がいねんおいおこなはるるなり。かつ此働このはたらき霊的れいてき生涯しょうがいまった奇異きいなる方法ほうほうにして、霊的れいてき生命せいめいかんずるなり、悦楽えつらくなり、霊魂れいこん安息あんそくなり、願望がんぼうなり、かみためよろこぶなり、およびそのほかすべ彼処かしこ福楽ふくらく恩寵おんちょうをうくるにあたるべき霊魂れいこんこの生涯しょうがいおいあたへらるるものと、神聖しんせいなる書中しょちゅう信仰しんこう指示さししめごとくそのたまものめるかみもっ此処ここおこなはるるところのものなり。


疑 たれはん、ことごとくの幸福こうふくこれよりさきおしへたる道徳どうとくこうと、あくとおざかると、心中しんちゅうおこ機微きび念頭ねんとう弁別べんべつすると、ねんたたかふと、刺激しげきする慾念よくねん抵抗ていこうすると、すべてそのほかこれなくんば信仰しんこうそのものが霊的れいてき活動かつどうおいてそのちからをあらはすことのあたはざるものとはみな知識ちしきもっ成就じょうじゅせらるるならば、何故なにゆえ知識ちしき信仰しんこう反対はんたいなるものとしてあらはるるか。

解疑 こたふ、そう方法ほうほうみつあり、これによりて知識ちしきあるいのぼるべく、あるいくだるべし、しかして知識ちしきのみちびかるる方法ほうほうにも、知識ちしきそのものにも、変化へんかのあるありて、これにより知識ちしきあるいがいすべく、あるいたすくべし。みつ方法ほうほうとはなんたいれいしんとなり。知識ちしきはその性質せいしつおいてはいつなれどもそうぞくするものと感覚かんかくぞくするもののこのはんかんしては精微せいびになりて、その方法ほうほうとその明悟めいごはたらきとをへんずるなり。おわりにはたらき順序じゅんじょ如何いかなるとその原因げんいん如何いかなるとに注意ちゅういせよ。これによりて知識ちしきあるいがいすべく、あるいたすくべし。知識ちしき霊智れいちある造物ぞうぶつせい最初さいしょこれつくるときにあたへられたるかみたまものなれば、天性てんせい単純たんじゅんにしてわかれざるものなることは、たとへば太陽たいようひかりごとし、しかれどもそのはたらきじゅんじて、へん分割ぶんかつとをくるなり。