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美濃国諸旧記/巻之二

目次
 
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美濃国諸旧記 巻之二
 
 
土岐頼芸、松波庄五郎を取立つる事
 
爰に土岐左京大夫頼芸といふは、屋形美濃守政房の二男にして、左衛門尉盛頼の舎弟なり。当時方県郡鷺山の城に在住たり。此人ば、舎兄盛頼に等しからず万端遠慮薄く、血気の破将たり。されば其行跡正しからず、酒宴に長じ、乱舞遊興を好まるゝ壮将なる故に、庄五郎如きの者を、愛するの志ありぬ。是に依つて執事藤左衛門、又大永三年の春、斎藤道三土岐頼芸に仕ふ頼芸の許へ目見させしめけるに、兄盛頼の許とは、抜群の相違にして、頼芸深く之を愛し、永く止め置き、其後、長井藤左衛門が家老、西村三郎右衛門正元といふ者の遺跡を相継がせて、西村勘九郎正利と改名し、長井が臣下となりて大永五年西の二月より始めて、本巣郡軽海村の西の城の住人とぞさせたりぬ。是より愈利オープンアクセス NDLJP:26口を以て、主人を始め傍輩に至る迄、随分意に叶ふ様に働きけるまゝ、日を追うて立身し、後には頼芸及び長井が、腹心肱股の者と相なりける。しかるに永正十六卯年六月、大守政房卒去ありて、嫡子盛頼家督を受継ぎ、当国の屋形となりて、相変らず川手の城に在往たり。爰に於て西村勘九郎、大望の企を窺ひけるが、折を見て、頼芸に種種謀叛を勧め、知弁を以て申して曰く、御兄君盛頼殿闇弱にして、一国の守護覚束なく候。父君政房公御在世の間は、其余英を頂戴して、威あるに似たりと雖も、今は御父君隠れさせ給へば、臣下盛頼殿の下に付きて、忠勤の励む心なし。勿論政房公の命として、盛頼公へ御家督御譲ありしこと、其器に当らずと雖も、是は総領たるの順義なるの故に、斯くはなし給ふものゝ、然しさにあらじ。是は四海静謐の時の計らひにして、曽て一応の儀になり難し。応仁・文明の頃より、天下糸筋の如くにして、悉く乱れ、隣国の諸将縁者と雖も、頼みとし難し。互に争威し国を取合ひ、頗る闘諍最中の世に候へば、国の守護職柔弱にして、武勇鈍きに至つては、終には他の為に、国家を押領せられなん。君、土岐氏の家名全きことを思召あらば、愚謀に随伏ありて、只速に盛頼殿を追落し、君、直に総領職となりて、一国を守護し給ふべし。兄を征するの罪あるに似たりと雖も、国家安全の為なれば、先祖の尊霊に対しては、其孝、莫大の儀なり。然うして臣下を愍み、万民撫育の政道を施し給はゞ、国家誠に安穏にして、繁栄永く御子孫に伝へられ、土岐氏の名家、万代不易の結構なるべしと、逆諫を逞うす。頼芸は壮年にして、遠き慮なく、血気剛猛をのみ先とする破将なりければ、勘九郎が諫言知弁明かにして、理の当然たる趣なる故に、忽ち傾き、殆んど意に叶ひ、実に世中最も静謐ならず。加之兄盛頼総領職にして、当国の屋形と仰がれぬれば、我れ生涯僅の分地を拝して、幕下の為体、本意なき無念の儀なりと、須臾にして逆心発し、弥、兄を亡し、我れ総領職となりて、当国の屋形に住せんと、忽ち其志一定す。是に依つて弥、勘九郎をして、膝元を去らしめず。日夜朝暮、只謀叛の諸事に傾き畢ぬ。然れば勘九郎は、益出頭し、猶も腹心となる。時に頼芸の愛妾に、深芳野といへる美婦ありけるを、頼芸寵愛の余り、大永六年の十二月、勘九郎に賜はりて妾とさせらる。勘九郎、此美婦を申請け妾となして、其中殊に睦しかりける。翌年大永七亥年六月オープンアクセス NDLJP:27十日、男子出産す。童名豊太丸、後に新九郎と号す。晩年斎藤左京大夫義龍といふ則ち是なり。実は頼芸の胤子なり。去年戌十二月、頼芸の手を離れ、勘九郎に具せられ、七ヶ月を過ぎて、今年六月誕生。是を以て顕然たり。時に西村勘九郎正利、再び頼芸を勧め、某に討手を命ぜられ、聊か御勢を付けさせ給はゞ、忽ちに川手の城を攻破り、盛頼殿を追落し、君の本意達せしめんこと、踵を巡らすべからずといふに、頼芸許容ありて、さらば早く攻落し参れかしと、下知を伝へられ、土岐頼芸兄盛頼を攻む兼て語らひ置く所の軍勢を差出す。其面々には、小弾正太郎左衛門・衣装修理亮・船木大学頭・土居左門・本庄駿河守・郡家刑部丞・曽我屋弾正・石吉対馬守・村山越後守・国島将監・則武主膳正・仙石又之丞・羽生善助・西江五郎・春近新八郎・彦坂九八郎・高橋但馬守・樫原藤馬之助・汲田源之助・林左近・岩利善左衛門・雛倉吉左衛門・小柿主水正・深尾下野守・竹中丹波守・曽井八郎・国枝太郎・道家清十郎・石原清左衛門・岩手彦八郎・牧村彦太郎を始めとして、其勢五千五百余人と云々。于時大永七年八月十二日なり。勘九郎、自ら先陣に進みて押寄せたり。盛頼之を聞きて大に驚き、元来智慮深き良将なれども、不意を討たれ俄の事なれば、過急にして、遠方の幕下は夢にも知らず、馳せ参らざれば、漸く城に在合ふ兵に、俄に聞付けて馳せ加はりし輩を集め、其勢僅二千余人なり。其面々には、安藤太郎左衛門・斎藤源吾・長井太郎左衛門・今峯長門守・蜂屋主馬助・猿子源助・多治見蔵人・岩田茂兵衛・永田靱負・私市次郎太夫・各務伝之丞・大沢主水・鷲見新五郎・高桑才左衛門以下、我もと持口に馳せ行き、飛矢を射出し防戦す。勘九郎城下に付きて、自分真先に進んで、鎧の袖を翳し、必死となりて少しも緩めず、短兵急に攻め動かし、難なく塀を乗越え乱入して、多年手練したる件の長鑓三間半を持ちて、城方の兵を数多突伏せ、十分に打勝ち、既に落城に及びぬ。爰に於て盛頼の臣下共、主君を諫めて曰、天なるかな命なるかな、味方不意を討たれ、殊に勢微少にして、防禦の手術薄く、空しく敗軍に及べり。一戦にして、甲斐なく逆臣の為に、御生害抔あらんも歎かはしく、無念に存じ奉る。盛頼敗れ川手城陥る再戦を志して、一先づ城を落ち給うて、重ねて御誅伐あらん事、然るべく候はんといふに、盛頼も詮方なく是に随ひ、主従僅にて城を立出で、直に隣国越前に落行き、朝倉弾正左衛門尉孝景を頼み、一条谷に蟄居せり。斯くオープンアクセス NDLJP:28て勘九郎は、一戦に勝利を得、盛頼を追出し、此上は、我れ土岐家の執権となりて政道を行ひ、追々本懐を達せしめんと、快然と勇み、早々諸軍を纒め、鷺山に帰陣し、合戦の次第を委細に言上しける。頼芸悦び、其功労を称し畢ぬ勘九郎則ち頼芸を勧め、総領職となし、当国の屋形と敬ひぬ。是に依つて、頼芸川手の城に移り住しけるが、世中物恩なればとて、又山県郡大桑の城に移住し、当国の大守と相なりける。勘九郎は、此度の戦功、殊に抜群なりとて、其賞として、本巣郡文殊村祐向山の城主とせられ、同九月廿二日、軽海西の城より、是に移住せり。嗚呼今思ひ当れり。盛頼の明察、適れ感ずる所、惜むべし。実に名家の嫡子として、此人当国の守護たらば、繁栄永くあらしめんに、舎弟頼芸、血気の破将にして、聖賢の道に至らず、舎兄盛頼の停止せられし逆臣を愛し、忠臣の善諫を用ひず、勘九郎を愛する事、偏に虎狼を膝元へ居ゑて、養ふに等し。因果の道理歴然なれば、頓て之を知るべし。闇将の行故に、終に国家を失ひ、永く土岐氏断絶し畢ぬ。是れ天命の至らしむる所なるべしと、人之を歎ず。然るに勘九郎は、日々立身して、国中の政事、一人して執行せんと欲す。然れども土岐氏代々の執権職稲葉山の城主長井藤左衛門長張ありて、之を任せず。殊に勘九郎が古主同然にして、其恩深し。故に強ひて疎意の振舞なり難く、長張が下に付きて、之を敬ひけるが、心中悦ばず。此上は長井を失ひ、我れ直に稲葉山に在城し、国政を執せんと、其悪謀を運らし畢ぬ。斯くて夫より長井藤左衛門を欺き、酒宴を勧め、乱酒遊興を志さしめ、政務を怠らせて、諸人に疎ませ置き、享禄三庚寅年正月十三日、長井が行跡の正しからざるを言立て、岐阜に於て、藤左衛門長張を、夫婦共に殺害して、終に目代長井の家を押領して、自分是より長井新九郎正利と相名乗り、直に稲葉山の城を乗取りて、是に住し畢ぬ。然る所、長井・斎藤が一族共、大に怒りて、即時に押寄せ、攻め殺さんと議す。新九郎叶はざるを察して、早々稲葉山の館を逃出で、大桑の城へ走り込み、大守頼芸の許に隠れ畢。長井が一類弥憤り、言合せて大守に申受け、是非首を刎ねんと訇りける。然る所、今泉村常在寺の住職南陽房、日運上人、昔の好を思ひ不便を加へ、早速に大桑に登城し、大守に謁し、新九郎が一命を乞ひ、長井が一類と和睦させける。屋形頼芸も寵臣の事故、新九郎が仕方不道と雖も、之を憎まず、オープンアクセス NDLJP:29早速誘を加へ、長井が一類を宥め、和睦をさせたりけるが、猶向後意恨なき様にと、他人を以て計らはせんと欲して、江州の屋形佐々木修理大夫義秀の許へ、使を以て内通しける。是れ縁者たるの故なり。佐々木義秀、則ち江州より馳せ来りて之を扱ひ、双方誓紙など取替し、終に和睦相調ひける。尤後日に遺恨を差挟まざるやうにとて、義秀は、新九郎が烏帽子親になりて、秀の一字を与へて、長井新九郎秀龍とぞ名乗りける。是より秀龍は、当国の目代となりて、弥武威を発しけるが、倩謂へらく、我れ今已に大志の端に取懸れり。此上は四海に英雄を顕し、天下掌握の計議をなさんと欲しけるに、今斯の如く国主の下にありては、中々其事能はず。何卒是よりは屋形頼芸を亡し、我れ此国を治め、而して後、隣国を漸々に打随へ、扨天下の大事を計り見るべしと思ひ込み、深く奸計を巡らしける。扨又大謀を施さんには、先づ然るべき名家を求めて、縁を結ばんと工夫し、今秀龍、深芳野といへる妾はありぬれども、本室なし。然るに当国可児郡明智の城主明智駿河守光継の長女、容顔美にして、而も詩歌の道に賢く、利発貞烈の娘なりければ、新九郎、則ち屋形頼芸に訴へ、縁談の事を願ふ。頼芸許容ありて、頓て明智駿河守に命ぜられ、自ら媒となりて、婚姻をさせらるゝ。光継も、大守の命なれば、早速承知して、光継・秀龍、聟舅の契約して、天文元辰年二月朔日、稲葉山に入輿し、小見の方といへり。明智光継は、子息数多あり。嫡子十兵衛尉光綱、後に遠江守といふ。日向守光秀の父是なり。二男、兵庫助光安入道宗寂といふ。左馬助光春の父なり。次は女子、山岸勘解由左衛門光信の室なり。三男、明智次左衛門尉光久といふ。治右衛門光忠の父なり。四男、原紀伊守光頼、次は女子なり。其次の女子、則ち秀龍の室となる。其次の女子は、土岐丹波守頼光の室、未子を明智十平次光廉入道長閑斎といふなり。十郎左衛門光近の父是なり。以下之を略す。明智家は、東美濃随一の名家にして、一族数多ありて殊に光継の子息、皆以て智勇兼備の者共なれば、今明智家と縁を結べば、東濃の諸家帰伏し、大事の手には、一方の助ともなるべき大家なるを以て、思慮深き秀龍故に、遠計を察して、契を結びし所なり。然るに小見の方は、秀龍に嫁して、其後天文四乙未年、女子出産す。其後天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主織田上総介信長に嫁す。帰蝶の方といふ。又鷺山殿とオープンアクセス NDLJP:30もいふ。明智光秀従弟なる故に、其余情ある所なり。然るに秀龍の室小見の方は、不幸にして、天文二十辛亥年三月十一日卒去す。卅九歳なり。日頃多病にして、外に子息出産なし。然れども深芳野が腹にして、義龍共に四人の子ありぬるなり。秀龍本室の息女を、織田家に嫁せしめし事も、是れ縁辺に繋ぎ置き、一方の楯とする謀計と云々。斯くて秀龍は次第に昇進し、左近大夫を兼ね山城守になり、氏を斎藤に改め、是より斎藤山城守秀龍とぞ号し畢。扨秀龍、猶も逆意の企に、肝胆を砕きけるに、大守頼芸に嫡子あり。又頼芸の舎弟も数多ありて、兎角謀叛の妨となりぬる。大守の舎弟の内にても、大野郡揖斐の城主揖斐五郎光親は、殊に智謀武勇の将にして、日頃秀龍が法外の振舞を憤り居られけるが、元来仁義正しき勇士なりけるに、諸人秀龍を追従し、敬ひ謂ふと雖も、光親は少しも是に同ぜず。只廉直の儀を計られけり。是に依つて秀龍は、光親を大に患ひ、之を計りて除かんと工夫す。此故に連枝一門を始め、并に頼芸の子息達へ対しても、秀龍其当り悪しく、無礼をなしつる事、詞に述べ難し。頼芸の嫡子を、北美伊の太郎法師丸といふ。母は江州の屋形佐々木定頼の娘なり。頼芸、常に秀龍を寵愛甚しきに依つて、無礼を振舞ふ事言語に絶せり。或時稲葉が館へ、太郎法師を始めとして、一門の勇士并に幕下の少年等参会して、数輩的矢射ける所を、斎藤秀龍、出仕の為に馬に乗り、無礼し通りければ、太郎法師并小里孫太郎・山岸小太郎・原弥太郎・萩原彦次郎等以下、的矢を以て殿中迄追込めたり。是のみならず、太郎法師へ、秀龍が法外の無礼、主従の礼義もなく、奇怪の仕方、言に過ぎたりぬ。是に依つて、村山越後守芸重が末子市之丞芸家・国島三之助等以下若輩の者共、大桑の殿中にて、秀龍が出仕の帰りに、廊下の闇き所に待受け、只一打と、左右より切懸るを、秀龍は劔術の達者なれば、請流し、漸く遁れ帰りしが、是より弥身の大事を思ひ、太郎法師の事を、様々大守へ讒言し、若公太郎御曹司殿へ、御舎弟の揖斐五郎殿、内々謀叛を勧められ、則ち御若年の御曹司を大将として、軍兵共を集めらるる由に候と云々。頼芸聞きて甚だ驚き、如何あらんと、其実否を窺ひ居られける。然る所に、如何なる運にやありけん、天文九年の暮なりしが、揖斐五郎光親、大桑に登城し、大守に謁し諫めて曰く、去りし頃舎弟鷲巣六郎と同道にて、瑞龍寺へ参詣仕る所、オープンアクセス NDLJP:31鳥羽の新道にて、秀龍に参り合せ候所、彼者馬に乗り乍ら礼義もなく、横合に本道へ通り抜け候故、奇怪の曲者と存じ、六郎追懸け候所、山田が館の辺にて見失ひ候故、其儘捨置き候ひ畢。総じて渠が太郎法師にも、常々無礼の振舞、中々言語に絶して候。是れ皆大守余りに御寵愛甚しきに依り、猥りに矜り往古の凡卑を忘れ、御家嫡を始め一門連枝の面々に、法外の働き、口惜しき事に候。加之秀龍が心中、甚だいぶかしき体相見え候間、其儘捨置き給はゞ、如何なる大事を仕出さんも計り難く候間、早々追放し給ふべし。さなくば、太郎法師并に我々が輩へ下し給へと、思ひ込んで之を願ふ。大守之を聞きて、自然と光親を疑ひ、秀龍が讒言を信じ、折を以て、我が子太郎法師と弟光親を、密に害せんと議せられける。近臣林駿河守正道・明智十平次光廉以下之を諫め、昔より讒者の詞を信じて、以て後悔したる事其数多し。秀龍が申条信ずる所なし。過ちて殺害あらんこと不可なるべし。先づ止りあるべしと云々。頼芸許容なく、先づ密に嫡子太郎法師を害すべしと仰ありけるを、忠臣等之を聞きて、其難を遁れしめんと欲し、村山越後入道を頼み、方県郡村山の要害に取迎へて入れ置きぬ。斎藤山城守此事を聞きて、安からず思ひ、頼芸の下知と偽りて、天文十辛丑年三月二十日、軍兵を催して、村山の要害に押寄せて之を攻むる。其輩には、川島掃部助唯重・道家助六定重・黒田監物長春・内藤新十郎吉近・高橋修理治平・岩手弾正道尊・大沢次郎左衛門為泰・川村図書元務・沼田内膳安親・国枝参河守守衡・飯沼杢之助知俊・今峯源八光継・郡家七郎兵衛光春等を始として、其勢五千余人と云々。是に依つて村山よりも、秀龍が日頃の逆意甚しきを憤り、之を討たんと欲して、忽ち軍勢の手分して、村山の南の手へは、原弥太郎光頼・羽賀五郎左衛門常遠・内藤十郎右衛門盛重。同じく東の手へは、河野杢助通房・平井宮内光行。同じく北の手には、大西太郎左衛門勝祐・片桐縫殿助為春・中条左近将監家忠等以下馳せ参り、二千の兵押出して、双方矢合せして、大に戦ひける折節、太郎法師の手へ、揖斐五郎光親・衣斐与三左衛門光兼・原紀伊守光広・山岸勘解由左衛門光信、遠山加藤太正景・板井越中守宗信・小森肥後守道親等、一人当千の勇士追々馳加はり、大合戦に及びたりぬ。此事近国に隠れなく、三月二十日より日を重ねて、相挑みける時に、尾州の織田備後守信秀、之を聞オープンアクセス NDLJP:32て驚き、父子兄弟に和睦させんと馳せ来り、両陣を駈廻り、之を制して誘きける故、漸く軍は止みにける。扨又江州の屋形佐々木定頼は、太郎法師の母方の祖父なり。越前の大守朝倉義景は従弟故に、使を以て此事を告げ知らせける。是に依つて両将も早速に馳せ来りて、信秀と倶に之を扱ひ、両勢を宥め、終に父子兄弟の和睦させたりける。然りと雖も、秀龍が所存計り難しとて、太郎法師を、村山芸重が許に預け置かれ、織田信秀の烏帽子子として、同年の五月五日、十二歳にて元服させられ、信秀より一字を譲り、又父の一字を継がしめ、一色十次郎頼秀と号し畢。扨秀龍は、和睦の印とて、諸人に実を知らしめんが為めに、同年の六月、常在寺に於て入道し、道三と号す。而して後、猶又叛逆の志絶ゆる間なく、兎角に頼秀を気遣し、是非之を害せんと欲し、又々頼芸へ、種々の事を讒言しけるに、頼芸も流石父子の間、左迄の心底如何あらんと、不審に思ひ、雌雄の体にて敢て許容せず。依つて道三思慮を的当せず、兼々相違しければ、急度工夫を巡らし、所詮密謀して調ひ難し。只明らかに事を発し、大桑に押寄せ、頼芸を攻落して、一時に国家を奪はんと欲し、兼て語らひ置きし所の一味合体の軍兵一万余人を催し、翌年天文十一壬寅年五月二日、不意に起りて大桑の城に押寄せ、短兵急に攻動かし畢。其面々は、林駿河守・松原源吾・黒田監物・神山内記道家助六・河田隼人・同新左衛門・松原治郎右衛門・大沢治郎左衛門・高橋修理・村瀬平四郎・川村筑後守・同図書・井上加々右衛門・岩手弾正・奥田造酒之助・渡辺源助等を始めとして、命を軽んじ攻立てける。城中折節軍勢在合せず、不意を打たれ混乱して、難儀となりぬ。此時頼芸の嫡子小次郎頼秀、勘気の身なりと雖も、父を救ひ奉らんとて、村山越後入道・中島監物・国島将監・衣斐与三右衛門・片桐縫殿助等の兵を率して、大桑に乗付けて防戦す。中にも揖斐五郎光親、一番に馳付けて、道三方の兵を数多討取り勇戦す。其外山岸勘解由左衛門・松山刑部・竹中半兵衛等両美濃十八家の勇士等も、追々に駈付きて、屋形を助け防戦しける。然れども敵は格別の大軍、城方は小勢なる上に、始めより不意を打たれたる事なる故に、再び取直す事能はず、落足になりて破れ畢。頼芸も詮術なく、士卒の諫に依つて、城を出でて尾州に落行き、織田信秀を頼みて、古渡の城に立退き、熱田の一向寺に蟄居しけるが、此時頼秀も光親オープンアクセス NDLJP:33も、勘気を赦免せられ畢。斎藤道三土岐頼芸を追ふ爰に於て道三、多年の宿望一時に晴らし、屋形頼芸を攻出し、忽ち一国を掌握して、猶其身は、国中の総要なればとて、同じく稲葉山の城に在住し、終に当国の守護職となり畢。実にや乱国の世の中、浅間しき有様なりける。過ぎし大永の頃には、油売の庄五郎と号して、賤しき商民にてありける者が、十五ヶ年余の内に、道三美濃を領す忽ち美濃国の大守となりし事、古今未曽有の事共なり。扨道三、国中の諸士を悉く帰伏せしめんと、様々思慮を以て懐けゝるが、土岐氏恩顧の諸将、幕下の面面、帰伏の色なかりける故に、道三が妾深芳野に、始めに出産せし所の長男新九郎義龍は、実は頼芸の種子なれば、則ち之を以て家督となし、当国の守護に備へなば、諸将其謂れを知るの間、各帰伏するは必定。然れば之を以て一旦治め、而して後に、毒を以て義龍を害し、実子の二男三男の内に、家督を譲らんと遠慮を巡らし、同年六月に、義龍を左京大夫となし、美濃守を兼ねしめ、扨是に随ふは、君臣の順道なるべしと、国中に沙汰しければ、土岐氏宗徒の面々を始め外様の宗徒稲葉伊予守良通・氏家常陸介友国・不破河内守通定・安藤伊賀守安就を始め、日根野備中守弘就・長井隼人正道利・竹中半兵衛重治以下に至る迄、之を能く知つたる面々なれば、道三は主君の仇なりと雖も、嫡子義龍は、故大守の一子顕然たり。是を以て守護職と仰ぐの上は、敢て否むべきにあらずとて、終に諸将、斎藤に帰伏したりける。扨又頼芸の舎弟数多ありける所、七郎丹波守頼光・八郎頼香、此両人を、道三謀りて聟となし、契を結びて聟となし、勢を集め、密に謀を以て、兄弟共に害せんとす。頼光は心賢き人にて、害すべき便なければ、毒にて害す。頼香は、翌年松原源吾に討たるゝ。扨又頼芸の舎兄左衛門尉盛頼は、先の屋形にてありける所、去る大永七年の八月、道三が讒言に依つて、頼芸と不和になり、川手の城にて戦ひ破れ、国を去りて越前に落行き、朝倉を頼み、一条谷に住居しけるが、此度又弟頼芸も落去して、尾州に退去しければ、織田信秀、道三が逆心を憎み、越前へ牒じ合せ、朝倉義景も心を合せ、土岐の旧臣稲葉伊予守・氏家常陸介・安藤伊賀守・不破河内守等に言合せ、盛頼は此時頼純といひけるが、左衛門尉頼純は、朝倉の加勢を得て、七千余人を率し、道三退治として、当国大野郡板所・大河原・根尾の口より攻入りける。時に天文十三年辰八月十五日なり。又頼芸も、同じく相図オープンアクセス NDLJP:34を違へず、信秀の加勢を得て、五千余人にて、尾州より攻入りける。盛頼頼芸道三を攻む道三驚き乍ら、手禦の手当をなして、之を相待ち畢。時に織田の先将織田与十郎実近、瑞龍寺の西南の広野にて、斎藤勢と大に戦ひ、過半討取り畢。此時又信秀は、岐阜の日方より、四方の民家に火をかけ、攻立てける。扨西の手より朝倉勢、同音に鬨を合せて揉立て畢。是に依つて道三も、叶ひ難く思ひて、両勢和睦をして頼芸を、大野郡揖斐の庄北方といふ所に、城を構へて是に入れ置き、頼純をば、厚見郡川手の城を修覆して、是に入れ置き、又道三の息女、本室明智駿河守光継の娘小見の方が産む所の女子、今年十歳になりけるを、信秀の二男吉法師丸信長に嫁せしむべきの契約をして、勢を引かしめ和儀調ひ、漸く軍は止みにける。依つて織田・朝倉得心して、国々へ引取り畢。而して後、信秀・義景、倩思へらく、道三が心底始終計り難ければ、是非頼芸兄弟を、大桑の城へ入れて、稲葉山の城へ不意に押寄せ、道三を討捕らしめんとて、天文十六未年八月、先づ何の故もなき体にして、頼純・頼芸両人、倶に大桑に入りて籠城したりける。道三之を伝へ聞きて甚だ驚き、窮鼠却て猫を食むの戒、織田・朝倉の加勢を以て、再び当城に押寄せ、是非我を攻討たんとの手術なるべし。先んずる時は人を制するの本文、是なるべし。敵に用意の揃はぬを幸ひ、所詮此方より逆寄せに押懸け、只一揉に攻潰し、根を断ちて枝葉を枯らすべしと、即時に軍勢を催し、一万三千余人にて、同八月十五日、大桑の城に押寄せ、無体に之を攻立て畢。城中又々不意を打たれ、防戦し兼ねて乱れける。右衛門尉頼純は、迚も叶はざるを察し、打つて出でて血戦を遂げ、終に討死して果て畢。盛頼戦死道三下知して、火を発して焼立てける。故に爰に於て城中弥防ぎ難く、乱れ立ちて落足になりければ、頼芸も、天命時至りしとて、生害せんとありけるを、近習の士山本数馬芸貞・不破小次郎広純・村山市之丞・山岸玄蕃光教等以下七人口を揃へ、一先づ越前の方へ落行き給ひ、重ねて軍勢を催し、退治然るべしと、諫言数刻に及びければ、頼芸も、仕方なく諫に随ひ、城の後青波といふ所へ遁れ出で、夫より山を伝ひに、山岸玄蕃が居城本巣郡河内といふ所迄落延びけるが、此辺、道三が一味の者共充満して、襲はんとしける故に、又加宇知を立ちて、本巣郡と大野郡の境なる長瀬川といふを打渡して、山本数馬が在所の大野郡岐礼きれといふ所迄落ちたりぬ。オープンアクセス NDLJP:35然るに道三は、頼芸を取逃して安からず思ひ、直に家臣川村筑後守が嫡子同名図書良秀・林駿河守正道に下知を伝へて、頼芸を追討になさんとて、手勢六百余兵にて追懸けさせけるに、林正道頓輝くんは如何思ひけん、本巣郡の佐原といふ所より、行方知らず落去りぬ。川村岡書は、猶も追変り、同郡神海といふ所に備を設けて、伊野とふ河原に打出で、長瀬川を隔てゝ戦ひしが、図書良秀倩思へらく、我れ一旦道三が威に伏して、今渠が臣に属すと雖も、土岐氏は、三代相恩の主君なり。然るを何ぞ、是に向つて弓を引く事、天の照覧恐るべき所と、忽ち善心発して、密に謀書を認め、斯の如く計らひ給はゞ、我れ帰陣して、道三に疑を晴らさしめんと、山本が方へ矢文を発して、内意を示し畢。是に依つて七騎の兵、図書が申す旨に随ひ、計略を行ひ、各表服を着し、屋形は已に、此所にて御生害之あるに付、近士等只今葬礼の儀式を執行ふなりと披露して、岐礼の山上にて柴を積み、火を発し畢。其煙四方に立上るを見て、図書は士卒にいへらく、頼芸已に生害せられ、山上にて、火葬の営なすと見えたり。さらば退陣すべしと呼ばはり、同音に勝鬨を作り、是より直に引退き畢。扨頼芸主従は、図書が変心故に命を全うして、夫より又主従八人にて、山を伝ひに、長瀬川の岸を打登り、頼芸越前に遁る板所・大河原を経て越前国に落行き、朝倉義景を頼みて、一条谷に蟄居せられけるが、今は朝倉の心底も、始終計り難く見えける故に、近士の計らひにて、翌天文十七年四月二日、密に一条谷を立出で、上総国に至り、満喜といふ所に落行き、満喜土岐上総介頼尚を頼み、則ち彼所に館を構へて住居しける、此頼尚といふは、頼芸の父政房の舎弟満喜土岐大夫頼治の子なり。然るに頼芸は、如何なる微運にやありけん、同年の秋の頃より、眼病を煩ひ出し、眼医の印なくして、天文十八年の春。終に目を閉ぢて盲人となりぬ。故に是より剃髪して、宗芸と号しける。其後、暫く此所に住居せられけるが、遥に年経て、天正十年の五月、濃州清水の城主稲葉伊予入道一哲斎、古主の義を重んじ、宗芸入道を本国に呼迎へ、近士山本数馬が在所大野郡岐礼の里に新館を構へて、米五百石を参らせ、侍女五六人付けて労はりける。其後、程なく同年の十二月四日、頼芸逝去此所にて卒去なり。年齢八十二歳。近士の内山本数馬は、岐礼に住し、子孫猶此地に在りて、山本五左衛門といふ。岐礼の郷士にてありけるなり。山岸玄オープンアクセス NDLJP:36蕃が子孫は、中川家に在りける。斯くて斎藤道三は、思の儘に当国を押領し、守護職となりて、則ち明智の城主駿河守光継は先年死去し、嫡子遠江守光綱も、又卒しける故に、二男兵庫介光安入道宗寂、家督となりて、甥の光秀を守立てゝ在りけるが、之を縁家の随一後見と仰ぎ、様々厚意を尽し、東美濃尾州境の政務を任せける。猶尾州の織田備後守は、道三相舅の契約にして、一方の楯となし置けるが、天文十八年の春に至り、信秀病気に取結びける故に、早く存命の内結縁たるべしと、催促あるに付きて、婚礼を急ぎ、則ち明智入道宗寂を媒として、同年二月廿四日、尾州古渡に入輿し、上総介信長の北の方とぞ相なりぬ。道三本室の子は、此息女のみなり。扨又同三月三日、織田信秀卒去す。四十二歳。法名排岩と号す。此年、信長十六歳、奥方十五歳、扨又道三は、去る天文十七申年三月、嫡子左京大夫義龍に、稲葉山の城を譲り、其身は方県郡鷺山の城に隠居す。然るに嫡子義龍は、道三が実子にあらず。先の大守頼芸の胤子なり。扨次に男子二人あり。是は実子なり。然れども義龍ある故に、二男三男とせり。二男は、童名勘九郎といふ。元服して斎藤孫四郎龍重といふ。三男は、童名喜平次、元服して玄蕃龍定と号す。此両人は実子なる故に、道三、是に家督を譲らんと思ひぬれども、然る時は国中の諸士土岐氏恩顧の輩、帰伏をせざるを患ひて、止む事を得ず、先づ義龍をして、総領職となしたりけるが、次第に我威強くなり、国中腹心の如く帰せしめければ、今は恐るゝ所なしと察して、天文廿三年寅十二月、二男孫四郎龍重を、左京亮に改め、総領職に立てんと計りける。此故に、義龍へのあしらひ悪しくなりて、何となく隔つる色見えたりぬ。義龍は、心中安からず。元来道三は、継父なりといふ事を知らざる故に、如何なる故に斯く麁略の振舞せらるゝやと、いぶかしく思ひつゝ、或時義龍、近臣の日根野備中守弘龍・長井隼人正道利両人を招きて、密に右の次第を物語しける時に、両人申して曰く、左こそあるべし。其由縁を知召さねば尤ならめ。君は元来先の大守の胤にして、道三とは父子にあらず。君の為には臣下たり。其上御実父頼芸公、道三が為に国を奪はれ給へば、御父の仇なり。君早く心を改め、父子の因を切つて、速に勢を集め、道三を誅し給ふべし。今義兵の趣、国中に触れ給はゞ、一国の諸将、忽ち君の御味方に馳せ参らんは、必定なるべし。オープンアクセス NDLJP:37我々粉骨を尽して、逆徒を平らげ申さんと云々。義龍之を聞きて甚だ驚き、忽ち近臣の諫に依つて、義兵を発して継父道三を討たんと、衆議已に決しぬ。爰に於て右の次第を触れしめ、又義龍、道三と父子の義を離るべき為に、仇敵の氏を用ふべき用なしとて、一色と改め、国中に知らしむ。又舎弟等二人が、是迄の無礼を怒り、時候の饗応と号して、弘治二丙辰年四月朔日、左京亮龍重・玄蕃龍定の両人を、稲葉山の下屋敷に招請して、日根野備中守に命じて、二人倶に討果し畢。而して使を以て、此事を道三が方へ言送り、土岐左京大夫頼芸が一子一色左京大夫義龍、実父の仇を報ぜん為め、此度義兵を発して候ひ畢。速に一戦を期すべしと云々。道三之を聞きて仰天し、扨は密事露顕せしやと、長歎し乍ら、倶に合戦の用意をなし、即刻国中に軍馬を廻し、勢を集め催し畢。然れども天の許さゞる所にやありけん、此時に当つて、国人等皆義龍の勢に加はり、十が一つも鷺山へは参らず、大半稲葉山へと集りける。其人人には、先づ西美濃の連士随へたる揖斐五郎周防守光親・原紀伊守光広・石谷近江守光重・明智十兵衛尉光秀、是は伯父宗寂道三が入魂。又伯母は、道三が内室にして、旁有縁の中なれども、土岐一門の義を重んじ、光秀一人、義龍の味方に加はゝる所也。又宗寂は仔細ありて、何方へも加はらざりける。田原式部安久・村山越後守芸重・小弾正三郎国家・衣斐与三左衛門光兼・高山伊賀守光俊・船木大学頭義久・妻木勘解由左衛門範照・同太郎範賢・土居右京亮光宣・本庄民部少輔光元・遠山刑部秀友・一色宮内少輔頼栄・土岐小次郎頼重・鷲巣六郎光龍・曽我屋内蔵承家治・池田又太郎信政・蘆敷右京亮長正・蜂屋兵庫頭頼隆・金山治郎左衛門勝長・相庭掃部助国信・八居修理亮国清・肥田玄蕃家鎮・多治見修理進光清・大桑次郎兵衛定雄・小里出羽守頼長・萩原孫次郎国繁・郡家七郎兵衛光春・猿子主計国基・牛牧右京亮光久・外山修理頼安・今峯源八光次・同頼母光之・落合掃部助家氏・福光蔵人頼国・深沢三郎左衛門定政、此等を皆宗徒の輩として、扨此外他家宗徒の面々には、安藤伊賀守守龍・氏家常陸介友国・不破河内守道定・稲葉伊予守良道・〈之を四人衆といふ、〉山田兵庫頭正康・竹腰摂津守守久・武井肥後守直助・岩田民部丞光季・井戸才助頼重・山岸勘解由左衛門光信・中条将監家忠、那波上野入道久昌・軒林主水正道政・石河駿河守家晴・深尾下野守宗平・国枝大和守守房・加藤作十郎貞泰・オープンアクセス NDLJP:38井上忠左衛門道勝・長井隼人正道利・小牧源太道家・樫原但馬治定・羽生善助長繁・所七郎信国・杉山刑部正定以下を始めとして、悉く義龍の方へ馳せ加はり、稲葉山の麓に充満せり。其勢数一万七千五百余人と云々。扨又道三に加はりて、鷺山に馳せ集る面々には、川島掃部助唯重・神山内記義鑑・林駿河守正道入道道慶・同主馬正長・道家助六郎定重・同彦八郎定常・同清十郎・松原治郎左衛門義保・高橋修理治平・岩手弾正道高・竹中遠江守道治・大沢治郎左衛門為泰・同主水氏泰・中村宗助秋益・川村図書良秀・井上加々右衛門頼久・片桐縫殿助為春・大西太郎左衛門勝祐・溝尾庄兵衛茂朝・一柳右近直秀・大塚藤三郎種長・山内伝兵衛盛重・梶川弥三郎昌宗・飯沼杢之助知俊・三宅式部信朝・鷲見新藤次基綱・桑原十郎左衛門久明等を始めとして、僅二千七百余人と云々。一色義龍斎藤道三合戦扨弘治一年四月十二日より合戦始まり、稲葉山と鷺山との間に於て、双方挑み争ひ、道三は、長良の渡に出でて下知をなす。斎藤方の川島掃部・神山内記・林駿河入道・道家助六等の勇臣、川を隔てゝ相戦ふ。敵も味方も同家の臣にして、道三の旗大将林駿河守と、義龍の旗大将林主水は、伯父甥の事なれば、互に恥ぢて味方を励まし下知をなす。其外の軍勢も、或は父子又は兄弟従弟抔にして、皆以て一門親族の事なれば、後日の恥辱を残さじとて、一入勇を震つて相戦ひ畢。其体、誠に凄じき有様、已に同十四日の朝迄、息をも継がず挑みけるが、道三方打負けゝれば、少し引退き山県郡の小野より、城田村へ引移りて、岐阜の景気を窺ひつゝ、又再び勢を繰出し、中の渡に打出で、同十八日の午の刻より同二十日迄、双方入乱れ、聚散離合して、戦ひ励みけるが、終に道三打負け、頼み切つたる兵士今井修理貞久・石川覚右衛門泰政・乾内記正慶・樋口忠左衛門行兼抔を始として七百余人、悉く討死し畢。道三も叶はじとや思ひけん、廿日の暮方に及びて、主従僅になりて、方県郡城田寺村を指して落行きけるを、義龍方の兵小牧源太・長井忠左衛門・林主水三騎、手勢を率して追懸け、城田寺の渡場に於て、主水・忠左衛門飛懸りて組んで追伏せ、終に林主水、道三が首を討取り畢。道三討たる忠左衛門は、後の証拠とて道三が鼻を殺ぎて持帰り、扨長良の河原に於て、義龍の実検にかけ、後首をば、長良の辺にかけたりけるを、小牧源太之を取上げ、土中に埋めて葬り畢ぬ。今ある長良の斎藤塚といふは、則ち是也。此源太は出生尾オープンアクセス NDLJP:39州小牧の者にして、幼少の砌、道三側近く仕へしに、其後道三が、非道の振舞を数多なしつる故に、源太其憤深く多年恨ある故に、今度人多き中に、別して道三を追懸けゝれども、主従の好捨て難くや思ひけん、道三の首を葬りける。扨義龍は、一戦に道三を討取り、悦喜少なからず、諸将へも、様々恩賞感状等を出し、日根野備中守・長井隼人正をして、万事を計らはせ、終に当国の守護と相なり畢。妻室は、江州小谷の城主浅井下野守久政の娘、近江の方といへるを嫁す。尤義龍は、生質勇猛絶倫にして、身の丈七尺計り、古今の剛将なり。嫡子右兵衛大夫龍興、天文十八年西の二月誕生。則ち家督として、稲葉山に在城たり。義龍、元来先の屋形土岐頼芸の胤子なりと雖も、道三が子として、彼の家にて成長し、親子の恩恵ある中なれば、義を思ひて、氏を一色とも改名せり。然れども、子として親を誅せしの天罰、遁れざるものか、僅六ヶ年を保ちて後に、難病を受けて大に苦しみ、永禄四辛西年六月十一日、卅五歳を一期として、終に空しく相なりける。さり乍ら義龍、常に禅法を帰依し、信心を明らめけるにや、臨終に及んで、辞世の偈を残せり。其詩に曰く、

   三十余年   守譜人天   刹那一句   仏想不伝

又永禄元年に、自分伝焼寺の別伝和尚に帰依して、国中寺院の式を定む。令嗣龍興、画工に仰せて、義龍の絵像を書し、快利和尚の筆を仮りて、辞世の偈を其上に書せり。義龍死後に至りて、尾州清須の城主織田信長、濃州を窺ひ、軍馬を発して龍興を攻むる。時に同年七月十三日、始めて信長三千の兵を率して、美濃の国へ乱入して、森部村にて合戦す。斎藤方長井甲斐守利房・日比大三郎種定・日根野下野守弘定等討死して、織田方勝利を得て引取り畢。而して後、同月廿二日、信長再び五千七百の兵を率し、濃州に打入り、笠松川を打渡して、新加納・芋島辺にて合戦す。斎藤方揖斐周防守光親・山岸勘解由左衛門光信・竹中半兵衛重治・日根野備中守弘就・同弟弥次右衛門弘継・長井隼人道利・大沢治郎左衛門為泰・国枝大和守正則・野木沢右衛門等、渡合せて大に戦ひ、織田方一戦に利を失ひ、尾州を指して逃帰り畢。其日の戦にて、織田の軍兵九百余人討死しけるが、其死骸を悉く集めて土中に埋め、一つの塚を築きたりぬ。今ある俗呼んで織田塚といふは是なり。合戦は終りぬれども此塚雨降り、オープンアクセス NDLJP:40或は日曇りたる時は、土中に鬨の声を上げて泣きしかば、里人恐をなして、其後厚見郡高桑村の雲外和尚といふ禅僧を頼みて、頌を作り塔婆を建て、懇に追善しける。其後は怪事止み畢。其頌に曰、

一塔巍然徒碧空  従来将謂名英雄  戦場秋暮好時節  劔樹刀山黄落風

扨又山県郡天王村といふに、石打祭といふあり。今以て毎年祭礼日には、川を隔てて、里人共互に石を打合ひ争ひけるなり。此等も織田・斎藤殿合戦の砌、双方討死せし者の霊怪と云々。扨又信長は、容易く斎藤を征し難きを察して、永禄五年の夏より、濃州墨俣に足溜の砦を築きて、是に勢を籠めて、稲葉山に攻寄せ畢。其後、西美濃の勇士の内、山岸勘解由左衛門、良策を以て敵を破らんと欲し、龍興を諫むと雖も、大将闇弱にして、之を用ひざるの間、揖斐周防守を始め国枝・郡家・杉山・小弾正・衣菱・竹中等以下、西美濃十八将の面々之を憤りて、悉く居城々々に引籠りて、龍興を助けざりぬ。是に依つて信長、其内変を察して、又々稲葉山を攻むる。斎藤、難儀と相なりけるの所、美濃四人衆稲葉・氏家・不破・安藤、龍興を助けて、織田勢を破る。是に依つて又々信長、利なくして引取り畢。斯くて信長手術を以て、右の四人衆を味方に伏せしめ、而して之を攻むる故に、斎藤方、良勢なくして難儀となり、西美濃十八将と和睦して、加勢を乞ふ。是に依つて揖斐、山岸以下、再び来つて龍興を助け、織田勢大に破る。是れ永禄六年三月十二日の戦なり。其後揖斐・山岸等、彼の四人衆が、織田方へ変心せしを察して、之を早く除くべしとて、善諫を進む。然れども龍興愚にして、又之を用ひず。爰に於て西美濃勢、所詮斎藤の家運滅亡せしむるの奇瑞を遠察して、又又悉く居城にかへり、或は林中・山下等に閑居し畢。爰に於て斎藤をたすくるの良士なし。故に忽ち威勢衰へ、戦ふ毎に打負けずといふ事なく、稲葉山にありける諸兵等、味方の叶はざるを知りて、悉く織田方に降参して、次第に微勢となりて防戦の術尽き果て、終に永禄七年八月十五日、落城に及び畢。斎藤方の兵長井隼人正道利・斎藤九郎左衛門利長・井上忠左衛門道勝・長井雅楽頭・同今右衛門・日根野備中守弘就・同弟弥次右衛門弘継・牧村牛之助春豊・木田掃部実政・山岸隼人光定・加留見五左オープンアクセス NDLJP:41衛門光暁・桑原十郎左衛門久明・所又右衛門基一・同新左衛門基盛・山田九蔵吉算・大桑治郎兵衛光雄・池之上又蔵等を始めとして、忠心無二の勇士等、大将龍興を守護して、住み慣れたる城を出で、主従僅にて、江州浅井の許へと落行き畢。龍興今年十九歳と云々。其後龍興は、江州を出でて上方に赴き、三好家を頼みて身を寄せけるが、後又越前に至り、朝倉の扶助を得てありけるが、後天正元年八月八日、越前の敦賀にて討死し、斎藤家断絶し畢。織田信長則ち永禄八年の三月十五日より、稲葉山に移り在住し、嫡子信忠・孫の秀信迄居住せられけるが、慶長五年、関ヶ原合戦より、当城落去して、永く断絶に及び畢。

 
美濃国諸旧記巻之二
 
 
 

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