美濃国諸旧記/巻之三


【美濃出生の諸将】明智日向守光秀・蜂屋出羽守頼隆・妻木長門守忠頼・同主計頭範賢・原隠岐守久頼・同紀伊守・石谷播磨守光俊・同近江守光重・揖斐作之進貞次・土岐山城守宣政・満喜土岐大夫春頼・肥田玄蕃・同豊後守・植村氏先祖・菅沼新八郎先祖・浅野氏先祖・羽柴筑前守先祖・片桐東市正且元・丸毛河内守光兼、此等土岐氏の分流なり。此外、竹中半兵衛重治・池田勝三郎信輝・森三左衛門可成・和田弥太郎・武市常三・坂井右内・森武蔵守長一・稲葉伊予守良通入道一哲斎林佐渡守正成・関十郎右衛門長重・氏家常陸介友国入道卜全・其子左京亮直元・安藤伊賀守守就入道道足・其子五左衛門守宗・加藤左衛門光長・同作十郎貞泰・同主計頭清政・徳之山五兵衛重政・一柳市助・山内伝兵衛盛重・其子対馬守一豊・不破河内守道定・同子彦三郎道之・大沢次郎左衛門為泰・仙石権兵衛秀久先祖・堀尾帯刀吉晴・加々野江弥八郎光重・斎藤新五郎長龍・日根野備中守弘就・同弟弥次右衛門弘継・長井隼人正道利・井上小左衛門定利・堀太郎左衛門秀重・其子久太郎秀政・市橋九郎左衛門直重・同壱岐守長利・遠山久兵衛友政・同子久兵衛友忠・青木民部少輔一重・斎藤内蔵助利三・谷大膳亮勝好・遠藤但馬守慶隆・竹腰摂津守守久・野村越【 NDLJP:43】後守正俊・徳永左衛門信国法印・武光式部少輔忠親・高木十郎左衛門好康・中条左近将監家忠・梶川弥三郎重宗・水野大監物・酉尾豊後守光教・川尻肥前守重遠・飯沼勘平常利・安田作兵衛国次・村瀬権九郎勝重・伊藤彦兵衛・可児才蔵定吉・佐藤才次郎義安、此外当国より出でて、大家に仕官の面々数多ありと雖も、際限なきに依つて、有増此分を記し畢。



〈盛頼の事なり、〉去る大永七年の秋、是れ又、道三が逆心故に、川手の城を攻落され、越前に至り、朝倉弾正左衛門孝景を頼み、今以て一条谷に住しける。是に依つて尾州の織田信秀、孝景と心を合せ、頼純は、朝倉の加勢を催し、頼芸は、織田の加勢を催し、土岐の旧臣稲葉伊予守良通・氏家常陸介友国・安藤伊賀守守就に言合せ、大軍を催して稲葉山へ押寄せ、攻めさせたりしかば、道三叶はじと思ひ、和睦して、天文十二卯年二月、頼純を大桑の城へ入れ、又頼芸をば、大野郡揖斐の庄北方の奥郷に、城を構へて入置きける。是に依つて、暫く静謐なりしかども、斯の如く頼純・頼芸兄弟、当国に在住なりしかば、道三も心安からず思ひ、時節を窺ひ、両人倶に討たんとす。其後朝倉孝景・織田信秀両将、心に思けるは、道三が心中計り難ければ、頼純・頼芸兄弟を、大桑の城へ入らしめ、稲葉山の城へ押寄せ、是非道三を討たんと欲し、天文十六丁未年八月上旬、【 NDLJP:47】頼純・頼芸に下知を伝へて、大桑の城に入りて楯籠る。道三之を聞きて大に驚き、先んずる時は人を制するの本文、捨て置く中に、当方へ攻め来らば大事ならん。速に押寄せ攻討たんと、忽ち軍勢を催し、同月十五日、逆寄に大桑へ攻詰め相戦ふ。城中にも劣らず防禦の備厳重にして、打戦ひけるが、道三が軍慮、頗る賢き剛勇の者なれば、忽ち攻破り火をかけたり。左衛門尉頼純は、血戦して敵を数多討取り、終に其身も討死しける。頼芸も、既に自害せんとしけるを、近習の山本数馬芸重・不破小次郎広純・原彦次郎・村山市之永・小弾正源太郎以下七人之を諫め、一先づ城を落ちて、越前の国へ赴き、重ねて軍勢を催し征戦し給へと、各口を揃へて、諫言数刻に及びければ、頼芸も是に随ひ、自害を止まり、城の後青波といふ所へ出で、夫より山を伝ひに、数馬が在所大野郡岐礼の郷迄落来り、越前の国へ移りける。此時道三、士卒に下知して、当城并に川手の城共に火をかけ、一片の煙と焼払ひける。是より両城、共に断絶なり。

道三法名、過去濃州司前山城大守道三居士。位牌常丘寺にあり。
厚見郡稲葉山の事【稲葉山】当山は、和歌の名所にて、廿一首万葉集に入りたり。此山に三つの名あり。金花山・一石山・破鏡山と号す。仁明帝の御宇、中納言在原行平、勅を奉りて、陸奥より金花石を引かせ来りて、美濃国に着くの所、蔵王権現の神託に依りて、又勅を下し、都へ登らせける。行平卿、彼の石を当所に捨て置きて上洛あり。其後此石を、金大明神と号す。此段和歌に詠じて、世の人の知る所なり。行平郷は、人皇五十一代平城天皇の皇子阿保親王の御子なり。正三位中納言と号す。宇多天皇の御宇、寛平五丑年七月卒去す。七十五歳なり。当国加茂郡勝山村の辺に、石碑を建立す。立別れいなばの山の峯に生ふる松としきかば今帰りこん
暫ともなどか止めんふはの関稲葉の山のいなばいねとや
【美濃八景】美濃八景此所にあり。
【
長良の帰帆 稲葉山の秋の月 円城寺の晩鐘 鏡野の夜雨 鞍智の清嵐 高富の落雁 萱場の暮雪 中節の夕照
当国に祐光山の秋の月といふあり。故に九景といふなり。
扨当社大明神は、人皇十一代垂仁天皇第八の皇子五十瓊磯城入彦命なり。景行天皇十三年に、当山に鎮座し給ふ。貞観元己卯年二月、正一位因幡正三位金の社と、勅額を賜はる。今日葉酸媛命・五十瓊磯城入彦命と同じといふ。因幡の社の旧記を見るに、当社は、本地阿弥陀如来、奥の院は権現と申して、本地は薬師如来と知りぬ。奥の院とは、内宮の儀と申す。然れば陰神なり。五十瓊磯城の、正妃を崇むる所ならんか。一説に、峯の社は、垂仁帝、我が朝の神、何ぞ西夷の語りに渾ずべきや。本地垂迹といふは、皆是れ浮屠氏人の感ずるの言葉にて、信ずるに足らざる事なり。
岐阜稲葉城の事 山を岐山といひ、里を岐阜といふ事、昔明応の頃より、永正の頃迄の旧記に、岐阜・今泉・桑田・中節・井ノ口といひけるを、信長公御入城の後、沓井・吉田をあはせ、加納と号し、中節・井ノ口・今泉・桑田を合せて、岐阜とさだめらるゝ。【岐阜の名称】岐府といふが本字にて、岐阜といふは、古の文字にて、信長公の府は、字にあらず。【稲葉城】扨当城は、大織冠鎌足公の孫、太政大臣武智麿の子乙麿、其子右大臣是公、其子正二位大納言雄友、其子弟河、其子高扶、其子維幾、其子二階堂遠江守為憲、其子同遠江守維遠、其子同遠江守維光、其子同維行、其子同行遠、其子二階堂山城守行政、右大将頼朝公に随ひて、鎌倉の金司に任じ、其後建仁元酉年、始めて当山に要害を構へ、行政一代、是に住するなり。其後、佐藤伊賀前司藤原朝光、是に住す。其子伊賀次郎左衛門光宗、相続いて是に住す。其後光宗は、故ありて信濃国へ配流せられ、後赦免ありて、式部大夫入道宗監と号す。光宗配流の後、舎弟三郎左衛門尉光資、打続いて住す。光資は、鎌倉知事の別当岩手小忠太内舎人中原光家の養子なり。是より氏を稲葉と改む。扨此伊賀氏といふは、大織冠鎌足公の御子淡海公、其子房前、其子魚名、其子藤成、其子下野権守豊沢、其子河内守村雄、其子武蔵守藤太秀郷、其子千常、其子公光、其子公備、其子公輔、其子木工頭【
藤原氏 所 伊賀
秀郷六代
公季木工頭─── 公助参河守─── 文郷刑部丞───所雑色朝光若名所六郎従五位下伊賀守従五位上佐藤伊賀────────────────────前司建保三年於鎌倉頓死九十四歳────┐
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├光季所右衛門太郎従五位下伊賀右衛門尉京都諸司代大夫判官。後鳥羽院承久義兵の始依㆑為㆓関東──────────────────────────────────────代官㆒不㆑応㆑召仍而遣㆓官車㆒被㆓追討㆒。承久三年五月十五日於㆓京都高辻京極家㆒討死┐
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├光宗伊賀次郎右衛門尉平政村の母儀悪意に依りて鎌倉騒動す是光宗等が所意に付解㆓政所之執────────────────────────────────────事㆒被㆔召放㆓所領五十二ヶ所㆒信濃国へ配流。後赦免有之式部大夫入道光西如㆑本政所執事となる─┐│
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├女子北条義村後の室平政村以下の息此腹也 ││
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├女子結城朝光妻 ││
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├光資稲葉伊賀三郎左衛門尉───────────── ──────────────────────┐ ││
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├朝行伊賀四郎左衛門尉 ┌────────────────────────┘ ││
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│ └光盛伊賀隠岐守─────左衛門太郎────祐盛三郎左衛門尉 ││
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└光重六郎左衛門尉──────────前隼人正───光範伊賀三郎左衛門尉 ││
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├宗義式部太郎──── ─────────────┐ │
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└宗綱式部左衛門尉────── ┬光氏式部太郎 │ ├光綱寿王冠者
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└光泰式部右衛門尉 伊賀三郎左衛門尉│ ├光高伊賀左衛門尉
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│ └光時同壱岐守
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└光政伊賀山城守
三郎左衛門光資、氏を稲葉と改む。其故は、承久の頃、光資兄光季、京都諸司代たりし時に、光資も京都にありて或時円座といふ物を作らせて、鋪物とせり。公卿之を御覧じて、珍しき物なりとて、頓て叡覧に備へ奉る。主上之を御覧じて宣はく、是は稲葉にて作りたる物やと勅詔ありける。光資有難く悦び、則ち主上の勅詔を氏となして、此時より稲葉三郎左衛門と改むなり。是に依つて、居城を稲葉の山城と号するなり。其砌、此円座を数多作りて御調達しける。夫より星霜遥に隔て、岡田主水正といふ武士、能く詩歌に通達しけるが、始め美濃国より出でて、禁裏仕官せり。或時一首の歌を詠ず。其一句、稲葉に寄するの意ありといへり。時に時の主上より、円座を頂戴しける事ありといへり。何れの頃とも委しくは知れず。扨又光資は、藤原氏にして、家の定紋藤の丸なりしが、此時より角切角の内に、三の字を用ふ。是は光資【 NDLJP:51】在番の節、白木の三方の上に、切餅を三つ置きて、官女之を持出でて光資に賜はる。是を称して三方膳、三つの方は、餅の形を表して家紋とす。後年予州の越智の姓の稲葉、当国へ入来して、久しく住しけるが、此定紋所倶に紛はしき故、能く糺し考へ知るべし。光資が孫稲葉三郎左衛門光房の代に至り、勅勘を蒙り、飛騨国へ至りて蟄居せり。依つて当城主断絶せし所、其後時代遥に隔て、後深草院の御宇、正元元年二階堂行政が五代の孫、二階堂出羽守行藤入道道暁、少しの間、当城に在住す。山城守行政が子隠岐守行村、其子出羽守行義法名道空、其子備中守行有法名道隆、其子行藤なり。行藤在城の間に、武儀郡吉田村に、新長谷寺を建立す。其後応永の末の頃、斎藤帯刀左衛門尉利永、古城を再び修復して、居城となして住せしより以来其子利藤・斎藤新四郎利良・長井藤左衛門長張迄、断絶なく住居せり。然る所長張は、享禄三庚寅年正月十三日、家臣の西村勘九郎が為に、夫婦共に害せらる。此勘九郎は、始め庄五郎といひし時は、本巣郡軽海西の城に、少しの間住し、其後、同郡文殊の郷祐向山に住す。今長井藤左衛門を討ちて、長井の家を押領し、自ら長井新九郎正利と名乗り、則ち是より当城に在住せり。其後天文十一年五月十一日、屋形頼芸をも攻出し、当国を押領し、其後同十七申年二月、当城を嫡子義龍に譲り、其身は方県郡鷺山の城に移り、是に住せり。嫡子義龍、当城主となり、国守たりしが、永禄四酉年六月十一日卒す。卅五歳なり。法名左京大夫義龍雲峯玄龍大居士といふ。義龍の子斎藤右兵衛大夫龍興、天文十六未年三月朔日生る。母は長井隼人正道利の娘なり。室は江州小谷の城主浅井備前守藤原長政の妹なり。〈一説に、娘ともいふ。〉龍興家督を受継ぎ、打続いて当国の大守として、稲葉山に住しける所、永禄七甲子年八月十四日、信長の為めに攻落され、龍興城を捨てゝ、近江国へ落行き、浅井下野守久政・同子備前守長政に与し、又朝倉左衛門督義景の客分となりて、越前に在りけるが、天正元癸酉年八月八日、織田信長の為めに、浅井・朝倉滅亡す。【斎藤龍興戦死】時に龍興、敦賀にて討死す。廿七歳なり。永禄八丑年三月朔日より、信長公当城に移り住し、其子三位中将信忠、其子中納言秀信迄、三代相続いて城主たり。然る所、慶長五庚子年八月、秀信卿は、江戸将軍家の鈞命を奉り乍ら、逆臣石田治部少輔三成に与力せられしに依つて、江戸将軍家、諸大名に命【
NDLJP:52】じて、岐阜を攻めさせらるゝ。諸将木曽川を乗越え、城の南面より押寄せ攻落す。時に池田三左衛門尉輝政は、当城の案内者なれば、城山の後、水手口より攻上るなり。扨此輝政は、案内者たる事、理なり。此頃岐阜城主十代衆と言伝ふ事あり。其衆は、斎藤山城守秀龍入道道三、一色左京大夫義龍・斎藤右兵衛大夫龍興・織田弾正忠平信長・同三位中将信忠・同三七郎蔵人侍従信孝・池田勝三郎信輝・同三左衛門輝政・羽柴少将秀勝・中納言秀信なり。輝政は右十人衆の内なれば、能く案内を知る故に、終に攻落しける。秀信卿は、川手村の閻摩堂迄出馬なりしを、虜にして、加納の円徳寺へ入れ参らせ、夫より紀州高野山へ送る。是より城主断絶し、公領となりて、岡田将監源善、同府中の事を掌るなり。
織田三代、岐阜住居の戦記に曰く、織田家は、桓武天皇の皇子一品式部卿葛原親王十二代の後裔、新三位中将越前守平資盛忘形見の四男、津田権大夫親真といふ。越前国織田明神の神職津田氏の家督を継げり。親真十二代の末孫織田勘解由左衛門尉敏定と申して、尾張・越前守護職斯波左兵衛督義敏の家臣なり。義敏の家の三職を、織田勘解由左衛門敏定・増沢甲斐守祐徳・朝倉弾正左衛門敏景と申しけるが、増沢甲斐守儀、返逆を企て、渋川左衛門大夫義兼を語らひ、主の武衛義敏を害す。是に依つて、将軍義政公御立腹ありて、織田・朝倉の両家へ、逆臣増沢を誅伐の御教書を、文正元年丙戌の春賜はつて、応仁より長享迄、相戦ふ事数度なり。終に逆臣甲斐守討死し、長享二戊申年、将軍義政公より、越前を朝倉に賜はり、尾張を織田に賜はる。敏定の子弾正忠信定入道月巌といふ。其長子備後守信秀といふ。尾州勝幡の城主にして、天文十八己西年三月三日卒す。四十二歳。法名排岩居士、信秀の子、二男信長、天文三甲午年五月廿八日誕生。母は佐々木六角高頼の娘なり。同十五丙午年正月、十三歳にて元服し、同時に名古屋の城を築き、是に移住し、則ち平手中務大輔清容を以て老臣とす。十四歳にて、始めて参河吉良・大浜の軍に出陣す。十六歳にて、天文十八年の春、斎藤道三の息女を迎へて室とせり。此室は、明智光秀の従弟なり。其後今川治部大輔義元、駿遠参三ヶ国の大軍二万余人を引率し、尾州を退治して、直に京都へ攻上り、已れ公方とならんと議し、永禄三年申の夏五月に、進んで尾州に乱入す。【 NDLJP:53】其時の信長の居城清須へ、三里余に近付きて、数城を攻落し、鳴海庄桶狭といふ所に、二万余人屯して、近日信長を討取るべきと議す。然る所、信長手勢三千余人、必死と思ひ切つて、彼の表に出向ひ、同五月十八日桶狭にて一戦し、終に今川が多勢を切崩し、大将義元を討取り畢ぬ。【信長、義元を討つ】時に義元四十二歳。毛利新助秀詮と、服部小平太相討にして、其首を得たり。而して後信長、永禄七年八月、稲葉山を攻落し、斎藤龍興を追出して、終に美濃国を押領したりぬ。天正三年の十月十七日、正三位右大将兼権大納言に任ぜられ、信長の武威遠近に発し、是より弥、四海静謐の謀を専とせられ、猶も天下に忠勤を励ましめられん御心にて、別して帝都守護の為め、王城近き江州の内に居城を築かるべしとて、【信長安土城を築く】則ち近江の国蒲生郡安土山に、大城を改築ありて、翌天正四年丙子の二月廿二日、濃州岐阜より御移徙ありける。其跡岐阜の城は、嫡男秋田城之介信忠に御譲ありて、則ち是に在住たり。【信長信忠弑せらる】然る所天正十壬午年六月二日、土岐一門の英将明智日向守光秀の為に、信長・信忠父子、共に京都に於て害せられ畢。其跡岐阜の城には、信忠の舎弟神戸三七郎蔵人侍従信孝、是に在住しける。然る所、越前の守護柴田修理亮勝家に組して、羽柴筑前守と闘諍に及びける所、利あらずして、天正十一年の夏、柴田は江州賤ヶ岳にて打負け滅亡し、信孝は岐阜を攻出されて、尾州に落行き、野間の内海に於て、羽柴が為に生害す。時に廿六歳なり。辞世に曰く、
昔より主をうつみの野間なれば因果を待たで羽柴筑前
又一本に曰く、
重代の主をうつみのうらなれば美濃尾張をば羽柴筑前
柴田勝家の忘形見の一子あり。岐阜の城下にて成長し、後に商民となりて、柴田と称して、代々大なる商人たり。尤系書此家にあり。信長の法名総見院殿泰岩大居士、信忠法名大雲院殿仙岩大禅定門、年齢廿六歳。信孝落去の後、岐阜の城には、信忠
〈三位法印一路といふ〉の息大和大納言秀俊住す。是は羽柴秀吉の舎弟美濃守秀長の養子なり。太閤秀吉朝鮮征伐の時、倶に発向して、肥前国名護屋にて病死す。秀俊の妹二人あり。森美作守忠政と、毛利甲斐守秀元の室たり。其後岐阜の城には、信忠の子秀信在住す。岐阜中納言と号す。〈童名三法師丸。〉前田徳善院法印玄以後見とす。然る所、慶長五年の秋、江【 NDLJP:54】州佐和山の城主〈十八万石〉石田治部少輔三成反逆を企て、濃州の諸士を多く語らひ、当国青野ヶ原に出張す。江戸将軍、六万九千三百余騎を率せられ、八月朔日、江戸を御出馬之あり。先手は、尾州清須の城主福島左衛門大夫正則に仰付けられ、濃州高須の主徳永法印昌寿に名馬を賜はり、濃州の案内者に仰付けられ畢ぬ。然るに是より先、岐阜秀信は、元来始より江戸君の御供の人数なりしが、石田方より、一向頼み申し来るに付、家老木造左衛門尉具正〈今岐阜に、木造横町といふ所あり。是れ具正が屋敷跡なり。〉百々越前守に密談ありける所、両人共に之を制し、其儀不可たり。既に関東の御人数にて、鈞命を承り乍ら、今更御変智の段本意にあらず、速に止まり候へかしと、諫言数刻に及びぬ。然れども秀信許容の色なし。依つて両臣再び申して曰、然らば今京都に居候徳善院にも談じて、其差図に任せ、而して石田への返事あるべしと申置きて、両臣は宿所に退き、直に上京の支度を致し畢ぬ。其夜に入りて、附属の士樫原但馬父子、両臣の善諫を悉く難じて、我意の諫言を申勧むるに依つて、終に秀信之に決す。頓て石田より頼みに来る所の使者を、殿中に召入れ盃を出し、終に石田に合体の評議決して、樫原御供にて、佐和山に赴き給ふに至りぬ。木造・百々は、此事を曽て知らず。上京して徳善院の差図を受け、直に馳せ帰るの道筋、佐和山を通りしに、石田より、其路次に人を出して、秀信卿は是に御座候間、入来せられ候へといふに、両臣之を聞きて長歎し、扨は御運の尽なり。さり乍ら、此上は是非なしとて、使と打連れて佐和山に立寄り畢。爰に於て、反逆明白とぞ聞えたりぬ。【織田秀信石田三成に与す】而して岐阜の城に楯籠りて、防戦の用意厳重たり。扨関東の勢は、八月十四日清須に着きて、川越しの評議にありける。池田三左衛門輝政は、北美濃へ向ひ、笠松・甲田の渡を相越え申すべしと定めらる。福島左衛門大夫正則は、川下の萩原より、小越の渡を打越え、西美濃に乱入し、火の手を上げ、其時川上笠松の人数も、乗渡るべきとの堅約なり。川下へ打越え候人数割の次第は、福島左衛門大夫・細川越中守忠興・京極侍従高吉・黒田甲妻守長政・加藤左馬助嘉明・藤堂佐渡守高虎・田中兵部少輔吉政・井伊兵部少輔直政・本多中務大輔忠勝等なり。川上笠松の渡を越ゆべき人数は、池田三左衛門・浅野左京大夫幸長・有馬玄蕃豊氏・松下右兵衛尉・山内対馬守一曲豆・堀尾信濃守忠氏・一柳監物直守等なり。八月廿一日、福島【
NDLJP:55】左衛門大夫は、小越の渡を打越え、西美濃より打廻りて、足軽を出し追払ひ、長良の近辺を焼払ひ、其夜は、長良の堤にて夜を明し、八月廿二日払暁に、茜郡村を打越え、岐阜近所に陣を取りぬ。尤尾州の内、犬山口を押へには、駿州・遠州の人数差向けらるる。川上の渡し口は、池田三左衛門、小越口の相図の煙を見て、甲田の渡を乗越えぬ。其家臣伊木清兵衛・村山織部寛頼等は、当国の案内者なれば、相図も待たず、木曽川の先陣して乗越し畢。秀信卿は、加納を過ぎて、川手村の閻魔室迄御出馬ありて、佐藤六左衛門・木造・百々・飯沼十郎左衛門、武者大将として五百余騎、新加納へ駈向ひ、足軽に千余挺の鉄炮を打たせ、一足も引かず防戦す。殊に飯沼勘平先登して、大に働きけるが、一柳が家臣村山長左衛門・大塚藤蔵等、飯沼に懸りて討たれ畢。勘平は猶も深入して、池田備中守が突鑓を受け失して、池田が為めに討たれたりぬ。武市忠左衛門は、一柳が手へ生捕りぬ。前田半右衛門を始め、使番佐々弥三郎等も討たれ畢。新加納より、敵の大勢は、悉く木曽川を乗越え、一戦に利を得て、川手の荒田橋迄攻寄せたりぬ。是に依つて、百々・飯沼も防ぎ難く、秀信を守護して岐阜に引退く。然れども川手に於て、津田藤三郎紅の母衣を懸け、兼松又四郎は、黄色の母衣を懸けて、倶に返し合せ返し合せ血戦す。又滝川早市・中島伝左衛門等以下も、五騎同じく引返して相戦ひ、頻に勝負を争ひ、終日を暮したりぬ。依つて何れとも勝敗見分け難くして、互に心配し、扨其夜は、幸島・平島に陣を取りて過したりける。翌八月廿三日未明に、両口の人数一手になりて、一同に岐阜の町口に押寄せ、先を争ひ乱入す。福島の臣福島伯耆・梶田新助、殊に先駈して、頗る高名せり。山下御殿の前へ、津田藤三郎打つて出で、諸兵を下知し、寄手を大に駈立て、勇戦しける其体、諸人の目を驚かしぬ。津田が子孫は、池田家にあり。瑞龍・守山二ヶ所の砦の方へは、浅野左京大夫攻上りて、一旦に之を攻落し畢。福島の手勢百余騎は、七曲へ攻上る。京極侍従は、百林口より荒神洞に懸り、柴田修理亮が古屋敷を破りて、連目口より攻上れり。池田輝政は、川原水の表へ攻上る。此口は、当山第一の難所なりしかども、伊木清兵衛・村山織部・乾平右衛門・同十郎左衛門、其外共に当国の武士多し。故に案内は能く知りぬ。難なく殿守の下迄攻着きたり。正則の臣大橋茂右衛門・星野一角等、別して【
NDLJP:56】高名す。城中にも、津田藤三郎・木造左衛門佐・飯沼十郎左衛門・大岡覚助・伊東長左衛門等の面々、勝れたる働して、其体を、諸将等一見し敵乍らも甚だ感心したりぬ。上格子の前にて、福島の臣寺島太兵衛、城兵と組打して首を取る。爰に於て岐阜方難儀となり、残り少なに打なされ、防戦の術尽きたりぬ。東国勢、大手搦手悉く乱入して、東城近く攻詰め、秀信の居館を、稲麻竹葦の如く、鋒先を並べて取囲み畢。然れば、瑞龍・守山二ヶ所の砦も申すに及ばず、悉く敗北せり。樫原但馬父子を始め、其外残党千余人、之を討取りけるが、秀信も是迄なりと思ひ、自害をすべしとありけるを、木造以下之を諫めしに依つて、降参し給ひぬ。【秀信降る】池田三左衛門は、君臣の

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