美濃国諸旧記/巻之十


同今須の宿の西往還より坂を上りて、南の方の竹籔の中に、常盤御前、并に千種といへる側仕の小女の墓あり。其由来は、中昔の頃、長寛癸未年五月十一日の夜なりけるが、東の方へ下るとて此山中の宿に泊り給ふ。然るに熊坂入道長範が為に、其夜中、両人共に討たれけるとなり。然る所、里人等其死骸を此所へ埋めたりとぞ。其後牛若丸、此所へ尋ね来り、石塔を建て、入口に松を植ゑ置き給ふとなり。
不破の関、家康公関ヶ原合戦ありしは、此所なり。往還の左の方に、関ヶ原合戦の時の首塚あり。同所右の方に見ゆる山を、鶏籠山といふ。其左の空地を、
霧ぞ立つ野上の方に行く鹿はうぐひす春になるらむ〔〈本ノマヽ〉〕
古郷の見し面影や宿りけり不破の関屋に板間もる月
扨又南の方に、古城の跡あり。是は元来今須の城主長井今右衛門が要害にてありける所、関ヶ原の合戦の節には、筑前中納言秀秋の居城なりしと申伝へたり。野上川の西、土手の下り江の左の方に、弘法大師の腰掛石といふあり。扨垂井宿より東青野が原に出でて、左の方にある松の古木を、熊坂が物見の松といふなり。尤古の長範が登りたる物見の松にあらじ。二代目の松なりとぞ。里人の申しけるとぞ。同所青墓村の上りに、右の方に当りて、村の出離れ田の中に、松の大木あり。此下に、【 NDLJP:156】少し計りの清水あり。之を照手の水といふなり。是は小栗判官の室嫁。此青墓の東、赤坂の万屋丁が方に、奉公してありける時に、汲み用ひたる水なりと申しける。同青墓村の後上りに、右の方の山の上に、古墳墓あり。是は中宮大夫進朝長の墓なり。朝長といふは、左馬頭義朝の二男にして。頼朝の兄なり。平治二庚辰年二月朔日、此所にて生害なり。里人其死骸を、此所に葬りけるとなり。同所に、又左馬頭義朝の廟所あり。是は同年の正月三日、尾州野間の内海にて、長田の庄司忠致が為に害せられ給ひける。然るを故ありて、此処に廟所を建てたりぬ。其側にある少し計りの竹藪を、【葭竹の藪】今
さしおくも形見となれや後の世に源氏栄えば葭竹となれ
斯く詠じて、竹の切口に葭を挿し給へば、忽ち竹となりける。末世の今に至ると雖も往来の諸人に見せしむ。疑ふべけんや。葉は葭にして、軸は竹なり。土地より生ふる時は、竹となりて生ふると雖も、段々成長して、葉の出づる頃に至りては、其葉全く笹にあらず。皆葭の葉なり。然るに竹藪といふものは、年数を経るに随ひ、段段と蔓るものと雖も、此葭竹の藪に限りて、曽て広く蔓る事なし。只漸く二間四方計の藪にてありける。扨又此葮竹の事は、珍しき物なりと思ひて、其傍なる家の主に乞うて、一二本も取り来りて、我が庭前抔に植うると雖も、其竹つく事なし。忽に枯れ果つるなり。乃至一丁を隔つるとも、一里を隔つるとも、敢て遠近に拘らず、其処より少しにても地を替ふる時は、更につく事なし。是又、一入の不思議といふべき事共なり。扨又牛若丸の姉、夜叉御前といふは、大墓の長者が許にありけるが、大野郡谷汲山に至るとて、平治二年二月朔日、池田郡岡島といふ所にて、株瀬川に身を投げて死し給ふなり。其処を、今に身投の淵と申伝へしとなり。扨又、青墓の後なる小山をば、 NDLJP:157】とぞ。次第に星霜経るに随ひ、段々土々重り肥えて、山となりしと見えたり。或人の曰、摂州の待兼山と、其形能く似たりとぞいふ。故に待兼山と粉糠山を、女夫山といふといへりとなん。又青墓の村中、朝長の墓所の下に、長者が屋敷跡あり。是は保元・平治の頃より、元暦・文治の頃に当りて、青墓長者内記平太行遠といふ者あり。是は桓武天皇の御子仲野親王の末流たる者なりといへり。代々青墓に住して、美濃の青墓と申しては、天下に知らざる者もなし。極めて其名の高き者なり。内記平太行遠に、子供四人あり。嫡子を、青墓大炊義遠、次は女子なり。是は源義朝の妾にして、乙若以下四人の母なりといふ。一説に、為義の妾ともいへり。次に男子、内記平太政遠といふ。次に平三真遠、後に出家して、鷲巣深光といへり。義遠が子を大内記氏遠、其子三郎太夫兼遠といへり。子孫は漸く衰微して、其血脈も断絶せしとなり。
赤坂宿西の入口に、亀塚あり。是は慶長五年八月廿四日、関東の旗本野一色主殿頭、此処にて討死しける。兜首を埋めし塚なり。又笠ぬき堤の方にもあり。
加茂郡勝山村の森の中に、中納言在原行平の墓あり。行平卿は岐阜稲葉山に、暫く住し給ふとぞ。歌に、
立わかれ稲葉の山の峯に生ふる松としきかば今かへりこん
又国量の歌に、
暫しともなどか止めん不破の関稲葉の山のいなばいねとや
秋の田の稲葉の峯に吹くかぜの身にしむ葦は冬のくれまで
行平
昨日にも秋の田の面に露置きて稲葉のやまも松のしらつゆ
行平は、其後、此勝山に館を構へて、住し給ふとぞ。于㆑時寛平五癸巳年七月十一日、七十五歳にして、此処にて卒去せられけるとぞ。後の古き石塔は、数多の星霜を経りし事故に、寛保年中、村の者共、石塔を再建しけり。高さ五尺程の角石にして、正面には、正三位在原黄門行平卿の墓と記しあり。右寛平五年より寛保年中迄は、凡そ八百五十年程に及びけるなり。印に植ゑたる七本の桜木あるなり。抑行平卿と申す【 NDLJP:158】は、人皇五十一代平城天皇の皇子三品弾正尹阿保親王の御子なり。御嫡男は行平、二男兼見王、三男大僧都行慶、四男正四位上左中将業平、五男蔵人守平、次は女子なり。行平の子基平といふ。一人は女子なり。四条后清和后なり。扨此所より十町程下りて、北の方なる田の中にある大塚を、鬼の首塚といへり。是は昔、関の太郎といひし鬼の首を伐りて、桶に入れて都へ送るとて、此所迄持ち来りしに、俄に重くなりて、数百人の力に及ばざりし故に依つて、是非なく此所へ埋めけるとぞ。又桶も埋めたる故に、此所を桶縄手といふなり。是より東、松井尻の辺に右の関の太郎が住みし岩穴とて、奥の知れざる大なる岩穴あるなり、
【和泉式部の屋敷跡】御岳宿より一里程東、うとふ坂の辺、和泉式部の屋敷跡とて旧跡あるなり。又石塔もあり。和泉式部は、此所に住し給ひてありける。歌に、
夜をこめてうたふそらねに松風の心にぞしむくだかけの声
長保四壬寅年十二月、此処にて卒去せられけるといふ。抑和泉式部と申すは、人皇卅一代敏達天皇五代の孫、左大臣橘の諸兄公の子、太政大臣奈良磨、其子島田麿、其子伯耆守真趣、〈是は喜撰法師の弟なり、〉真趣の子阿波守岑範、其子播磨守仲遠、其子和泉守道貞、其子和泉式部なり。小式部内侍の妹なりと云々、
大井宿と大久手宿の間、花なし山といふ所あり。其辺なる山を、西行坂といふ。此坂中の北の方の山の上に、西行法師、庵を結びて住しありけるとぞ。其時、詠める歌に
心ある人に見せばや大井なる花なし山の春の景色を
西行は此処に住して、建永元丙寅年八月、卒去せられける。則ち庵の下に葬り、五輪の石塔を建てありぬ。抑西行法師といふは、大織冠鎌足公六代の孫、村雄の一男田原藤太秀郷の子、鎮守府将軍千常、其子相模守公光、其子公清、其子兵衛尉秀清、其子従五位下左衛門尉康清、其子佐藤兵衛尉藤原憲清といふ。禁裏北面の侍なりしが、出家して西行といふ、則ち是なり。扨此所より東へ下り、大井の宿を出で、一里程下りて、南の方の山中に、根津甚兵衛是行といふ者の墓あり。是は右大将頼朝へ仕へし諸士の内なり。正治年中の卒去といふ。同所木曽川の向に、城山あり。此所に、木曽の武士落合五郎兼行といふ者の墓あり。今社を建て、愛宕権現を勧請してあり【 NDLJP:159】けるとなり。右の外、諸墳墓所々に数多ありと雖も、悉く記し難し。余は略しけるものなり、


厚見郡川手の正法寺は、土岐氏の建立なり。元来土岐氏先祖、代々天台宗にして、本巣郡大日山美江寺〈美江寺村といふ〉の檀越にてありけるが、土岐伯耆守頼貞、始めて禅法に帰依して、土岐郡の内に、数ヶ所の禅刹を建立して、之を則ち氏寺とせり。然る所、其子弾正少弼頼遠、建武四年の春、厚見郡長森の城を構へて以来、甥の大膳大夫頼康代に至り、文和二癸巳年四月、厚見郡川手の城下に、三つの伽藍を建立して、則ち霊葉山正法寺と号す。土岐家一類の氏寺にして、地面高く、寺建廿八間四面ありて、次第に繁昌し、寺務豊にて、国中無双の梵刹なり。開山夢窻国師の法孫にて、難桂正栄和尚と申すなり。又諡は、大医禅師なり。抑夢窻国師と申すは、京都霊亀山天籠寺〈五山の第一の寺なり〉
の開山にして、諱は智曜と申し、又は疎石とも号し、或は木納叟とも称せしなり。其生れ、勢州の人といふ。姓は近江源氏にして、宇多天皇九世の孫なり。母は観世音に祈りて、金色の光、西より来るを呑むよと夢見て姙し、十三月にして誕生す。時に後宇多院の御宇、建治元乙亥年八月朔日なり。四歳にて母に後れ、九歳の時、平塩教院に至り出家し、十歳にして、法華経を七ヶ日に誦し、母の恩に報じ、自ら母の死屍九変の相を画いて、独座観想し、十八歳に至り、慈観律師に礼拝して、具足戒を受け、三ヶ年の間、顕密の教を習ひしかども、猶も大道の発明に足らずとて、道場を建て、百ヶ日聖慮を求められしに、期満の日過ぎて、座中忙然として、夢の如く覚え、一僧来り、夢窻を引きて一寺に至る。寺を疎石といふ。又一寺に至る。之を石頭といふ。其内に一人の長老あり、夢窻を迎へて、持ちたる一軸を与へて、能く捧持し給へといひ、覚めての後、夢窻之を開き見るに、達磨半身の画像なり。夫より志を定め、禅観に帰し、名を疎石と改め、字を夢窻といふなり。後、国師の号を賜ふ。于㆑時観応二辛卯年九月晦日、七十七歳にして寂せられけるとなり。扨正法寺は、是より土岐氏代々の氏寺として、寺務賑かにして繁栄し、天文・弘治・永禄の頃迄も、法流相続し、伽藍も恙なかりける。尾州の織田信長、斎藤道三と、甥舅の契を結びて後、此処迄信長来臨ありて、天文十八年西四月廿九日、道三は、始めて対面をせられけるは、則ち此正法寺にての事なり。時に永禄四辛酉年六月十一日、斎藤左京大夫義龍病死しけるにぞ、時節や能しと思ひけん、織田信長、其弊に乗じて、同七甲子年九月大軍を催し、稲【 NDLJP:162】葉山の城を攻立つる。其時、岐阜の東西南北を、悉く放火して焼捨つる。此時正法寺も、彼の兵火の為に焼亡されけるが、是より当国は、信長の守護となりけるが、其後再興に及ばずして、荒墟となり果てたりぬ。左京兆義龍、法名霊岸玄龍大居士。〈永禄四年辛酉六月十一日。〉


当寺は、斎藤帯刀左衛門尉利藤人道大年居士の建立の地なり。大年居士は、悟渓和尚に帰依して、外護の檀越なり。応仁元丁亥年八月、天台の旧跡を点じて、此処に一宇の伽藍を建立して、主君美濃守成頼の菩提所とす。土岐氏は、近代相国寺派にて、川手の正法寺の檀那なりけるが、成頼一人、関山派に帰依して、数ヶ所の庄園を、彼寺に寄附せられたり。寄進状は宗別にあり。美濃守政房、父成頼の為めに、法事を勤めらるゝ節は、皆川手の正法寺にて勤められたり。政房の子左京大夫頼芸も、相続いて正法寺にて法事を勤めらる。然る所、天文十三年辰八月、織田備後守信秀、斎藤を攻討たんと欲して、大軍を率して、美濃国に乱入し、先手の大将織田与次郎実近と、道三と、瑞龍寺の西南の広野にて、大に相戦ふ。此時信秀は、岐阜の日方より、四方の民家に火をかけて、攻寄せける故に、瑞龍寺方丈も堂塔も、残らず此兵火の為に焼亡しける。然りと雖も猶断絶なく、法流繁栄して、悟渓一派の本寺にてありけるなり。又大年居士、外に一宇を建立して、位牌所とせり。今の開善院是なり。土岐成頼、法名瑞龍寺殿前左京兆国文安公大禅定門。〈明応六巳年四月二日、正法寺にて卒去。五十七歳といふ。〉
加納の大宝寺の事 厚見郡加納の大宝寺は、斎藤利勝が嫡子、新四郎利国入道一超公性僧都、明応三寅年、始めて之を建立し、同十二月に開堂なり。悟渓和尚を請じて開山となし、其後は、奥山和尚をして、是に居らしめける。開堂の日に当りて、利国、入道して、一超妙純と号す。或は公性とも号するなり。其家臣、石丸利光との合戦は、委しく船田乱記に見えたり。略㆑之畢。 岐阜の崇福寺の事 厚見郡岐阜長良の崇福寺は、後土御門院の御宇、文明元己丑年二月、利藤の舎弟斎藤左金吾利安、自らの居所を点じて、一寺を建立する所なり。文明二庚寅年四月十五日開堂たり。然るに当寺は、元来利安が館にてありける故なりしかども、或時、山【
船木山糸ぬき川の川上に今日はつくりて明日やきの里
船木といふは、文殊村の事なり。〈当時、戸田孫十郎陣屋なり。〉是は定家卿の旧館の跡なり。此定家【 NDLJP:166】卿、一年下向し給うて、軽海の里岡野を通り、若宮を拝し給うて、
若宮のもみぢ散りしく岡の原にしき争ふあこめくさかな
文殊に着き給ひて、
いかなれば船木の山の紅葉は秋はふくれど焦れざりけり
右、名所集記に見えたり。
扨利藤入道して、法名持全院妙桂と号す。権大僧都法印の僧綱を受けて、経外には禅法を信じ、内には妙経を持して、其後は、嫡家代々妙全に至る迄、皆当宗に帰依せり。宝徳三庚午年三月、京都より、妙覚寺の住持世尊院日範僧都を請じて、厚見郡岐阜山下今泉村に一宇を建立し、鷲林山常在寺と号す。寛正六乙酉年八月に、一条関白兼良公の額を求め、寺号を賜はるなり。第二世は、蓮法院日審上人、妙覚寺の住持たりしを、文明十一己亥年三月、妙椿僧都より招請せり。同十二庚子年二月廿一日、妙椿逝去せり。法号を開善院権大僧都大年妙手椿公居士といへり。百ヶ日追福の為めに、令嗣の志を以て、嫡子利国、祖師の像を造立して、当寺に安置せり。明応七戊午年十二月七日、大献紹興大徳の第三囘忌追福の為に、令嗣勝千代より、妙覚寺の日護上人を迎へて、法事を相勤め、即ち当寺三世の住職とす。永正三丙子年二月、本山妙覚寺の日善上人の弟子日運上人を、長井豊後守利隆より請じて、四世の住職とせり。然るに此日運上人と申すは、長井豊後守利隆が舎弟にて、幼少より京都に登りて、日善上人に随身し、学は顕密の奥旨を極め、弁舌は富楼那にも劣らず、近代の名僧なり。始めは其名を南陽房といへり。又其頃、日善上人の嫡弟に、法蓮房といふあり。是は上北面松波左近将監藤原基宗が子にして、山城の国西の岡の者なりしが、内外を能く悟り、南陽房を常に引廻しけるとなり。或時、如何なる心か付きけん、三衣を脱ぎて還俗し、西の岡に住し、奈良屋某が娘を娶りて、彼の家名を改め、山崎屋と号し、後に松波庄五郎と名乗りて、毎年美濃国に来り、油を売りけるが、常在寺の日運上人吹挙に依つて、斎藤家へ出入をさせられ、斎藤・長井の得意となれり。此男、出家の中にも、遊山翫水を好みける故、乱舞歌曲に堪能なりし故に、其頃の執権長井藤左衛門長張、之を請ずる事限りなし。大守頼芸も、其行跡妄にして、酒宴遊興を好み【 NDLJP:167】給ふ故に、藤左衛門折を以て、大守へ目見えさせしが、大守の寵愛又甚しく、長井が家老西村三郎左衛門が遺跡を継がしめて、西村勘九郎といふ。其後、主人長井が行跡正しからざるを見て、享禄三年正月十三日、岐阜に於て、長井を夫婦共害し、自分長井新九郎正利と名乗りける。是に依つて、長井・斎藤が一族共大に怒りて、急に押寄せ討取らんとせしに、正利は密に館を出でて、大守の方へ逃参りける。長井が一類共、大守に申受けて、首を刎ねんと憤りけるを、常在寺の日運上人、昔を思ひ不便を加へ、大守へ願ひ申して、長井の一類と和睦させ、大守よりの内通ありし故に、江州より、佐々木義秀来りて、向後遺恨なきやうにとて、烏帽子親になりて、秀の一字を与へて、秀龍と名乗らせける。然るに此時、長張の幼子一人ありけるが、勘九郎是より親分になり、後見致し、成長の後は、執権の家を相続さすべきに相極め、此訳に依つて、長井新九郎秀龍と名乗りける。然れども継がせざりける。此幼子成長して、長井隼人正道利とて、関の城主なり。秀龍は、日運上人には、古の恩あるに依つて、我が代に至りてより、寺院を修造し、数ヶ所の庄園を別状に寄附し、猶又、子供を二人出家させて、日運の弟子とせり。常在寺第五世の住職日饒上人、第六世日覚上人是なり。義龍、又龍興も尊敬ありける庫裏・方丈・鐘楼・堂塔頭に至る迄、金銀珠玉を鏤め造立しぬ。正法寺領厚見郡領下村・竹腰領・日野領・清水領・芥見領・那波領・昼飯村・西海寺領三宅村にて、寺領五百貫文寄附す。其後、日韵上人の代迄、恙なかりしを、信長公御入城の時、寺領を召上げられしが、又日野村にて、百貫賜はりける。天正十一年、信孝岐阜を没落の時の兵火にて、朱印を焼失しける。秀信は、朱印を賜はらざれども、寺領は相違なく賜はりけり。慶長五年秀信卿御生害の後より、寺領断絶しける。今残る物とては、道三の画像と、義龍の容像のみなり。道三の絵像は、信長公の北の方の御寄進なり。義龍の真影は、龍興の寄進なり。本尊文殊菩薩は、前の左金吾利安の建立なり。本巣郡文殊堂の本尊なり。永禄年中、文殊の要害を攻めし時の兵火にて焼却し、堂舎断絶しける故に、斎藤家の由緒を以て、当寺に安置す。文殊堂・法輪寺等永く断絶の後、天正十一年、信孝落去の時、本尊薬師焼失し、此節より、文殊を本尊としけるなり。右の外、諸仏堂塔の旧記、数多ありと雖も、悉く記し難し。余は之を【
NDLJP:168】略し畢。

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