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美濃国諸旧記/巻之十

目次
 
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美濃国諸旧記 巻之十
 
 
東山道路駅古跡古墳墓の事
 
美濃と近江の寝物語美濃と近江の寝物語といふは、今往還に、幅一尺五六寸計りの小溝を隔てゝ、之を以て美濃と近江の国境となせり。其寝物語といふ由来を尋ぬるに、昔文治の頃とかよ、九郎判官源義経、御兄頼朝卿と其中不和になりて都吉野を落ちて、奥州秀衡の許を志して、落行き給ふとぞ。其節義経の家臣に、江田源蔵広綱といふ者ありけるが、御供に後れ、御跡を慕ひ馳せ下りけるが、則ち此所に一宿しけり。此家の主と源蔵、夜もすがら物語に、計らず其姓名を名乗りしに、其声隣家に聞ゆ。時に其隣国の家に泊り合せし人、之を聞きて声をかけ、壁越に申しけるには、扨は其家に泊り給ふは、江田の源蔵殿なるか。嬉しさ限りなう存ずる。妾こそは義経公に御情を受けし静とオープンアクセス NDLJP:155申す者なり。此程、君の御跡を慕ひ、此所迄来りしに、附添ひ居たりし侍共も、皆敵の為に討たれて候なり。願はくは源蔵殿、妾を同道せられ。是より倶に東へ下り給はれかしと頼みたりぬ。源蔵も静御前と聞きて、御心安かれよ、某御供申上げ、明日是を出立仕り、東へ御同道申し、義経公に合せ奉るべしといふ。静は弥悦び、夫より互に心置なく終夜物語せしなり。誠に静も嬉しさの余り、明日をも待たず、夜もすがら壁越にて物語して其夜を過し、寝ながら隣同士、而も美濃と近江の国を隔て、咄し明せし事故に、扨こそ此所を後々迄、美濃と近江の寝物語と申すなりける。後も度度寝物語の旧跡あり。上聞に達し、忝くも御上より、御恵みなし下され、万代不易の蹤跡なり。

同今須の宿の西往還より坂を上りて、南の方の竹籔の中に、常盤御前、并に千種といへる側仕の小女の墓あり。其由来は、中昔の頃、長寛癸未年五月十一日の夜なりけるが、東の方へ下るとて此山中の宿に泊り給ふ。然るに熊坂入道長範が為に、其夜中、両人共に討たれけるとなり。然る所、里人等其死骸を此所へ埋めたりとぞ。其後牛若丸、此所へ尋ね来り、石塔を建て、入口に松を植ゑ置き給ふとなり。

不破の関、家康公関ヶ原合戦ありしは、此所なり。往還の左の方に、関ヶ原合戦の時の首塚あり。同所右の方に見ゆる山を、鶏籠山といふ。其左の空地を、はん女花子が在所なりといふ。花子といふは、青墓の遊君なりしと申伝へたり。今古跡と申伝へて少しの庵あり。爰に花子が影ありける。夫より野上川の流なり。古歌に曰く、

   霧ぞ立つ野上の方に行く鹿はうぐひす春になるらむ〔〈本ノマヽ〉

   古郷の見し面影や宿りけり不破の関屋に板間もる月

扨又南の方に、古城の跡あり。是は元来今須の城主長井今右衛門が要害にてありける所、関ヶ原の合戦の節には、筑前中納言秀秋の居城なりしと申伝へたり。野上川の西、土手の下り江の左の方に、弘法大師の腰掛石といふあり。扨垂井宿より東青野が原に出でて、左の方にある松の古木を、熊坂が物見の松といふなり。尤古の長範が登りたる物見の松にあらじ。二代目の松なりとぞ。里人の申しけるとぞ。同所青墓村の上りに、右の方に当りて、村の出離れ田の中に、松の大木あり。此下に、オープンアクセス NDLJP:156少し計りの清水あり。之を照手の水といふなり。是は小栗判官の室嫁。此青墓の東、赤坂の万屋丁が方に、奉公してありける時に、汲み用ひたる水なりと申しける。同青墓村の後上りに、右の方の山の上に、古墳墓あり。是は中宮大夫進朝長の墓なり。朝長といふは、左馬頭義朝の二男にして。頼朝の兄なり。平治二庚辰年二月朔日、此所にて生害なり。里人其死骸を、此所に葬りけるとなり。同所に、又左馬頭義朝の廟所あり。是は同年の正月三日、尾州野間の内海にて、長田の庄司忠致が為に害せられ給ひける。然るを故ありて、此処に廟所を建てたりぬ。其側にある少し計りの竹藪を、葭竹の藪葭竹よしたけの藪といへり。其由来を聞くに、義朝の九男牛若丸、金売橋次安春に誘はれて、奥州へ下り給ふ時、此廟前に参り、拝礼を遂げ給ひ、あたりの葭を折りて、生へたる竹の上を切りて花立となし、其処へ彼の葭を挿して手向草となし、一首の詠歌を手向け給ふなり。

   さしおくも形見となれや後の世に源氏栄えば葭竹となれ

斯く詠じて、竹の切口に葭を挿し給へば、忽ち竹となりける。末世の今に至ると雖も往来の諸人に見せしむ。疑ふべけんや。葉は葭にして、軸は竹なり。土地より生ふる時は、竹となりて生ふると雖も、段々成長して、葉の出づる頃に至りては、其葉全く笹にあらず。皆葭の葉なり。然るに竹藪といふものは、年数を経るに随ひ、段段と蔓るものと雖も、此葭竹の藪に限りて、曽て広く蔓る事なし。只漸く二間四方計の藪にてありける。扨又此葮竹の事は、珍しき物なりと思ひて、其傍なる家の主に乞うて、一二本も取り来りて、我が庭前抔に植うると雖も、其竹つく事なし。忽に枯れ果つるなり。乃至一丁を隔つるとも、一里を隔つるとも、敢て遠近に拘らず、其処より少しにても地を替ふる時は、更につく事なし。是又、一入の不思議といふべき事共なり。扨又牛若丸の姉、夜叉御前といふは、大墓の長者が許にありけるが、大野郡谷汲山に至るとて、平治二年二月朔日、池田郡岡島といふ所にて、株瀬川に身を投げて死し給ふなり。其処を、今に身投の淵と申伝へしとなり。扨又、青墓の後なる小山をば、粉糠山こぬかやまといふなり。其謂れは、青墓の町、大昔の頃は、繁華の地にして、遊君多くありて、朝夕捨てたる粉糠、積りて山となれり。是を以て、粉糠山と号けたりオープンアクセス NDLJP:157とぞ。次第に星霜経るに随ひ、段々土々重り肥えて、山となりしと見えたり。或人の曰、摂州の待兼山と、其形能く似たりとぞいふ。故に待兼山と粉糠山を、女夫山といふといへりとなん。又青墓の村中、朝長の墓所の下に、長者が屋敷跡あり。是は保元・平治の頃より、元暦・文治の頃に当りて、青墓長者内記平太行遠といふ者あり。是は桓武天皇の御子仲野親王の末流たる者なりといへり。代々青墓に住して、美濃の青墓と申しては、天下に知らざる者もなし。極めて其名の高き者なり。内記平太行遠に、子供四人あり。嫡子を、青墓大炊義遠、次は女子なり。是は源義朝の妾にして、乙若以下四人の母なりといふ。一説に、為義の妾ともいへり。次に男子、内記平太政遠といふ。次に平三真遠、後に出家して、鷲巣深光といへり。義遠が子を大内記氏遠、其子三郎太夫兼遠といへり。子孫は漸く衰微して、其血脈も断絶せしとなり。

赤坂宿西の入口に、亀塚あり。是は慶長五年八月廿四日、関東の旗本野一色主殿頭、此処にて討死しける。兜首を埋めし塚なり。又笠ぬき堤の方にもあり。

加茂郡勝山村の森の中に、中納言在原行平の墓あり。行平卿は岐阜稲葉山に、暫く住し給ふとぞ。歌に、

   立わかれ稲葉の山の峯に生ふる松としきかば今かへりこん

又国量の歌に、

   暫しともなどか止めん不破の関稲葉の山のいなばいねとや


   秋の田の稲葉の峯に吹くかぜの身にしむ葦は冬のくれまで

                             行平


   昨日にも秋の田の面に露置きて稲葉のやまも松のしらつゆ

行平は、其後、此勝山に館を構へて、住し給ふとぞ。于時寛平五癸巳年七月十一日、七十五歳にして、此処にて卒去せられけるとぞ。後の古き石塔は、数多の星霜を経りし事故に、寛保年中、村の者共、石塔を再建しけり。高さ五尺程の角石にして、正面には、正三位在原黄門行平卿の墓と記しあり。右寛平五年より寛保年中迄は、凡そ八百五十年程に及びけるなり。印に植ゑたる七本の桜木あるなり。抑行平卿と申すオープンアクセス NDLJP:158は、人皇五十一代平城天皇の皇子三品弾正尹阿保親王の御子なり。御嫡男は行平、二男兼見王、三男大僧都行慶、四男正四位上左中将業平、五男蔵人守平、次は女子なり。行平の子基平といふ。一人は女子なり。四条后清和后なり。扨此所より十町程下りて、北の方なる田の中にある大塚を、鬼の首塚といへり。是は昔、関の太郎といひし鬼の首を伐りて、桶に入れて都へ送るとて、此所迄持ち来りしに、俄に重くなりて、数百人の力に及ばざりし故に依つて、是非なく此所へ埋めけるとぞ。又桶も埋めたる故に、此所を桶縄手といふなり。是より東、松井尻の辺に右の関の太郎が住みし岩穴とて、奥の知れざる大なる岩穴あるなり、

和泉式部の屋敷跡御岳宿より一里程東、うとふ坂の辺、和泉式部の屋敷跡とて旧跡あるなり。又石塔もあり。和泉式部は、此所に住し給ひてありける。歌に、

   夜をこめてうたふそらねに松風の心にぞしむくだかけの声

長保四壬寅年十二月、此処にて卒去せられけるといふ。抑和泉式部と申すは、人皇卅一代敏達天皇五代の孫、左大臣橘の諸兄公の子、太政大臣奈良磨、其子島田麿、其子伯耆守真趣、〈是は喜撰法師の弟なり、〉真趣の子阿波守岑範、其子播磨守仲遠、其子和泉守道貞、其子和泉式部なり。小式部内侍の妹なりと云々、

大井宿と大久手宿の間、花なし山といふ所あり。其辺なる山を、西行坂といふ。此坂中の北の方の山の上に、西行法師、庵を結びて住しありけるとぞ。其時、詠める歌に

   心ある人に見せばや大井なる花なし山の春の景色を

西行は此処に住して、建永元丙寅年八月、卒去せられける。則ち庵の下に葬り、五輪の石塔を建てありぬ。抑西行法師といふは、大織冠鎌足公六代の孫、村雄の一男田原藤太秀郷の子、鎮守府将軍千常、其子相模守公光、其子公清、其子兵衛尉秀清、其子従五位下左衛門尉康清、其子佐藤兵衛尉藤原憲清といふ。禁裏北面の侍なりしが、出家して西行といふ、則ち是なり。扨此所より東へ下り、大井の宿を出で、一里程下りて、南の方の山中に、根津甚兵衛是行といふ者の墓あり。是は右大将頼朝へ仕へし諸士の内なり。正治年中の卒去といふ。同所木曽川の向に、城山あり。此所に、木曽の武士落合五郎兼行といふ者の墓あり。今社を建て、愛宕権現を勧請してありオープンアクセス NDLJP:159けるとなり。右の外、諸墳墓所々に数多ありと雖も、悉く記し難し。余は略しけるものなり、

 
土岐・斎藤帰依神社の事土岐家氏神の事
 
土岐氏は、清和天皇の嫡流たるに依つて、八幡宮を以て氏神とせり。依つて在城の所へ、石清水の八幡を勧請して、代々之を尊敬せり。然る所、先祖多田伊豆守国房、故ありて三熊野の権現を信仰ありて、館の辺に、必ず之を勧請す。依つて彼の子孫たる故、土岐氏、熊野の両社を以て鎮守とす。八幡は是れ応神天皇の応化にして、源家鎮護の霊神なり。三熊野は、伊弉諾・伊弉冊尊にして、我が朝洞汨男女の始闢の神なり。土岐の一流、彼の両社を尊敬して、彼の氏族居住する所には、必ず其一社を、勧請せずといふ事なし。国房嫡流居住の地には、全く彼の両社を勧請す。彼の家名永く連続して、数年当国に居住しける。故に一族の旧跡数多し。然れども庶流の面々は、又我が信仰の神社を帰依して、領地の内に勧請せしまゝ、思々にして、悉く記し難しとなり。
 
斎藤氏神天神社の事
 
斎藤氏は、大織冠鎌足公四代の孫、魚名卿より五代の末、鎮守府将軍左近将監利仁の後裔、故ありて当家は、菅神の霊を尊敬す。利仁の子孫、加賀・越前・越中に住す。所謂加賀の国、林・富樫の一類、越中の井ノ口氏、越前国の吉原・河合・斎藤の一類、皆各菅神を祭りて、氏神と崇め奉る。則ち加賀の国江沼郡敷地山の天神は、林・富樫・井ノ口・斎藤・吉原・河合家の氏神なるに依つて、今濃州にある所の斎藤氏、是又、彼の一族なる故に、少しの間にても、斎藤氏が居住せし所には、此社を勧請せずといふ事なし。所謂厚見郡・加納・岐阜・長良・武儀郡関・本巣郡文殊・北寺池田郡白樫・堀・宮地、安八郡加々野江・三井・八神・前田・各務・鏡島、其外所々に至る迄、皆是れ斎藤一族の住しける所にして、天神の社を建て、則ち之を守護としけり。斎藤数代当国に住しける故に、一族の旧跡、其数多くありて、容易く知れず。委しくは尋ね知るべし。悉く天神の社オープンアクセス NDLJP:160あり。彼の斎藤家の定紋所には、梅鉢を用ふるといふ事も、是れ氏神を信じて以て、天神の定紋を申受けて、紋となす事と見えたり。堀・前田の両家も、斎藤氏の庶流なる故に、則ち梅鉢又梅の花を以て家紋とす、然るを此紋あるを以て、先代の旧記を弁へずして、何さま前田氏・堀氏の先祖は、菅原氏なるべしと称する事、是は全く後世に至りて、誤れるものなるべし。前田氏は、則ち斎藤の一族にして、安八郡前田村に住せしを以て、氏とせり。其後、尾州に至りて、荒子の郷主となりしものなり。然るを、前田氏は菅相丞の子にして、兄を前田といひ、弟を原といひし者なりといふ事、一本に見えたりと雖も、其証拠あるべきの文を聞かず。堀氏は、又池田郡堀村に住して、後に厚見郡赤鍋村に住せし者なり。扨又当国の内にても、中頃より、梅の花の紋を付くる者多し。此等は皆、斎藤の紋を賜はりて付くるなり。扨又、爰に大野郡大洞村といふに、天神の社を、一郷の総社として、其郷士に、梅鉢の紋を付くる者ありて、民俗のいふには、彼の郷士は、梅鉢を付くるに依つて鎮守と一つなりなどと申はやせり。同じ事の様なりと雖も、是は全く斎藤の一族にあらじ。或人、其郷士の家に行きて、其謂れを聞きしに、彼の大洞といふ村は、今の牛洞村とを、二つを一つにしたる地にして。洞ヶ里といひしとかや。其先祖加州の住人林の一族、山岸新左衛門光章といふ者、暦応の頃、当国に落ち来りけるが、右五代の孫、山岸加賀守光範といひけるが、長禄三年巳三月、始めて此洞ヶ里に住しけるといふ。彼の郷士は、則ち山岸氏にして、加賀守光範の末流なりといへり。則ち先代より当地に住し、いつの時にか、此天神の社を勧請し、之を氏神として、一郷の総社に崇め奉るなり。家紋又、天神を信ずる故に、之を用ひたりと申しける。是を以て按ずるに、山岸氏は、斎藤の一族にはあらずと雖も、其先祖は、利仁将軍にして、倶に菅神を信ずるの一類なる故に、其謂れ、全く斎藤と異なる所なしといふ。是等を以て見る時は、堀・前田が梅鉢を用ふるも、此一儀と同然たるべし。山岸氏は、其本義を取違へざる者なり。前田・堀は、先祖の鎌足と、氏神の菅相丞と、取違へたる事と見えたり。
 
霊葉山正法寺の事
 
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厚見郡川手の正法寺は、土岐氏の建立なり。元来土岐氏先祖、代々天台宗にして、本巣郡大日山美江寺〈美江寺村といふ〉の檀越にてありけるが、土岐伯耆守頼貞、始めて禅法に帰依して、土岐郡の内に、数ヶ所の禅刹を建立して、之を則ち氏寺とせり。然る所、其子弾正少弼頼遠、建武四年の春、厚見郡長森の城を構へて以来、甥の大膳大夫頼康代に至り、文和二癸巳年四月、厚見郡川手の城下に、三つの伽藍を建立して、則ち霊葉山正法寺と号す。土岐家一類の氏寺にして、地面高く、寺建廿八間四面ありて、次第に繁昌し、寺務豊にて、国中無双の梵刹なり。開山夢窻国師の法孫にて、難桂正栄和尚と申すなり。又諡は、大医禅師なり。抑夢窻国師と申すは、京都霊亀山天籠寺〈五山の第一の寺なり〉 の開山にして、諱は智曜と申し、又は疎石とも号し、或は木納叟とも称せしなり。其生れ、勢州の人といふ。姓は近江源氏にして、宇多天皇九世の孫なり。母は観世音に祈りて、金色の光、西より来るを呑むよと夢見て姙し、十三月にして誕生す。時に後宇多院の御宇、建治元乙亥年八月朔日なり。四歳にて母に後れ、九歳の時、平塩教院に至り出家し、十歳にして、法華経を七ヶ日に誦し、母の恩に報じ、自ら母の死屍九変の相を画いて、独座観想し、十八歳に至り、慈観律師に礼拝して、具足戒を受け、三ヶ年の間、顕密の教を習ひしかども、猶も大道の発明に足らずとて、道場を建て、百ヶ日聖慮を求められしに、期満の日過ぎて、座中忙然として、夢の如く覚え、一僧来り、夢窻を引きて一寺に至る。寺を疎石といふ。又一寺に至る。之を石頭といふ。其内に一人の長老あり、夢窻を迎へて、持ちたる一軸を与へて、能く捧持し給へといひ、覚めての後、夢窻之を開き見るに、達磨半身の画像なり。夫より志を定め、禅観に帰し、名を疎石と改め、字を夢窻といふなり。後、国師の号を賜ふ。于時観応二辛卯年九月晦日、七十七歳にして寂せられけるとなり。扨正法寺は、是より土岐氏代々の氏寺として、寺務賑かにして繁栄し、天文・弘治・永禄の頃迄も、法流相続し、伽藍も恙なかりける。尾州の織田信長、斎藤道三と、甥舅の契を結びて後、此処迄信長来臨ありて、天文十八年西四月廿九日、道三は、始めて対面をせられけるは、則ち此正法寺にての事なり。時に永禄四辛酉年六月十一日、斎藤左京大夫義龍病死しけるにぞ、時節や能しと思ひけん、織田信長、其弊に乗じて、同七甲子年九月大軍を催し、稲オープンアクセス NDLJP:162葉山の城を攻立つる。其時、岐阜の東西南北を、悉く放火して焼捨つる。此時正法寺も、彼の兵火の為に焼亡されけるが、是より当国は、信長の守護となりけるが、其後再興に及ばずして、荒墟となり果てたりぬ。左京兆義龍、法名霊岸玄龍大居士。〈永禄四年辛酉六月十一日。〉

 
本巣郡大日山美江寺の事
 
当寺の本尊観世音は、国中無双の霊仏なり。往昔伊賀国より、当国本巣郡十六条の里へ移り給ひ、毒蛇を退治して、東山道の往還を安からしめ給ひてより、人皇四十四代元正天皇の勅願所として、養老三年己未九月に、始めて彼の寺を建立ありけるとなり。則ち天台宗なり。夫より以来、数百年の星霜を経ると雖も、退転の事なく、仏意冥慮に叶ひしや、法流栄え相続しける。右養老年中より、四百六十余ヶ年程過ぎての後、右大将頼朝卿の御代、文治元丁巳年、定家卿、船木の山庄より日参せられけるが、其後、左兵衛尉則重に仰せて、文治二丙午年二月、寺院堂塔を再興なして、廓を寺領に寄附せられにける。之を即ち船木の庄といふなり。扨又、土岐氏は、先祖美濃守国房より、代々当寺に帰依して、数ヶ所の庄園を寄附せり。元応二庚申年四月、土岐頼貞より、安八郡落合・斎田の二郷を寄附す。又左京大夫持益は、文明二庚寅年二月、当寺に於て落髪して、法名を道賢といふ。死去の後、程経て文亀の頃孫の政房の代に至り、一宇を建立す。道賢院と号す、則ち是なり。持益の子、美濃守成頼の代に至り、永正五年の頃、其臣和田佐渡守義繁に命じて、諸堂并に塔頭廿四院を再興せり。和田は則ち美江寺の守護職なり。然るに、佐渡守が子和田将監義直、相続いて之を守りける所、天文十一壬寅年九月三日の夜、甲州の武田信玄の軍勢乱入して、火を懸くるに依つて、和田は、居城を焼落さるゝ。然る故、に和田滅亡の後は守護の入らざる地と号して、当国他国の賊徒等一揆共、悉く当寺に集り住所となし、人民を悩まし、往来の通路を塞ぎなどして、動もすれば、岐阜を犯さんとしけり。依つて、守護職斎藤義龍、之を退治するに、堪へ兼ねて、永禄元年の夏に、寺院堂塔を破却して、観世音を岐阜に移し、今泉村に一宇を営み、是に安置せり。本巣郡十六条村といふは、今の美江寺村オープンアクセス NDLJP:163のことなるべし。
 
西の庄の立政寺の事
 
厚見郡西の庄村の立政寺の事は、昔、智通和尚の開基にして、打籠庵といひしを、後光厳院の御宇、文和二癸巳年十月、改めて一寺に建立し、亀甲山立政寺と号す。其後より、代々の帝王の勅願所と号して、寺務賑にして山威高し。後小松院の御宇に、紫の衣を勅許せらる。又大和尚の位を賜はりて、智通一派の本寺とす。永禄十一年の秋、足利新公方義昭公、信長の請待に依つて、当寺に暫く御滞留。又関ヶ原御陣の時、当寺の和尚、柿を以て家康公に献ず。はや大垣が手に入りしと仰せて悦び給ひ、其御礼状を賜ふ。今に立政寺にありぬ。然れども此寺は、土岐家の由緒の寺にあらざる故、余は之を略せり。
 
鏡島村梅之寺・乙津寺の事
 
厚見郡鏡島村の梅之寺といふは、其昔は、乙津寺と号して此処は則ち七里の渡海の大湊にてありし故に、船付大明神を以て鎮守とす。其後、一寺に点ぜり。此寺一派の本寺にして、土岐・斎藤の両家、殊に之を帰依して、数ヶ所の庄園を寄附せり。は、宗別に見えたり。当村院内、悉く梅樹を植ゑたり。故に梅之寺と号す。按ずるに、斎藤家信仰の一寺と見えたり。信長御入国の後も、尤寺務繁く、双もなく栄えたりぬ。然るに信長公は、元来仏法を嫌ひ給ひて、所々にて寺院仏閣を数多破却し給ひけれども、故ありて、当寺をのみ甚だ尊敬し給ひ、別して当山の梅を愛し給ひ、則ち之を分けて、江州安土並に京都妙心寺抔に移し給ひけるなり。依つて其寺威甚だしく、勅願所にも異ならず。然る所、天正十年六月二日、、信長生害し給ひてより、此寺の威勢も薄くなりけるといふ。其後、文禄二年癸巳閏五月、秀吉より、寺領の御朱印を改正せられけるとぞ。
 
厚見郡瑞龍寺の事
 
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当寺は、斎藤帯刀左衛門尉利藤人道大年居士の建立の地なり。大年居士は、悟渓和尚に帰依して、外護の檀越なり。応仁元丁亥年八月、天台の旧跡を点じて、此処に一宇の伽藍を建立して、主君美濃守成頼の菩提所とす。土岐氏は、近代相国寺派にて、川手の正法寺の檀那なりけるが、成頼一人、関山派に帰依して、数ヶ所の庄園を、彼寺に寄附せられたり。寄進状は宗別にあり。美濃守政房、父成頼の為めに、法事を勤めらるゝ節は、皆川手の正法寺にて勤められたり。政房の子左京大夫頼芸も、相続いて正法寺にて法事を勤めらる。然る所、天文十三年辰八月、織田備後守信秀、斎藤を攻討たんと欲して、大軍を率して、美濃国に乱入し、先手の大将織田与次郎実近と、道三と、瑞龍寺の西南の広野にて、大に相戦ふ。此時信秀は、岐阜の日方より、四方の民家に火をかけて、攻寄せける故に、瑞龍寺方丈も堂塔も、残らず此兵火の為に焼亡しける。然りと雖も猶断絶なく、法流繁栄して、悟渓一派の本寺にてありけるなり。又大年居士、外に一宇を建立して、位牌所とせり。今の開善院是なり。土岐成頼、法名瑞龍寺殿前左京兆国文安公大禅定門。〈明応六巳年四月二日、正法寺にて卒去。五十七歳といふ。〉

 
加納の大宝寺の事
 
厚見郡加納の大宝寺は、斎藤利勝が嫡子、新四郎利国入道一超公性僧都、明応三寅年、始めて之を建立し、同十二月に開堂なり。悟渓和尚を請じて開山となし、其後は、奥山和尚をして、是に居らしめける。開堂の日に当りて、利国、入道して、一超妙純と号す。或は公性とも号するなり。其家臣、石丸利光との合戦は、委しく船田乱記に見えたり。略之畢。
 
岐阜の崇福寺の事
 
厚見郡岐阜長良の崇福寺は、後土御門院の御宇、文明元己丑年二月、利藤の舎弟斎藤左金吾利安、自らの居所を点じて、一寺を建立する所なり。文明二庚寅年四月十五日開堂たり。然るに当寺は、元来利安が館にてありける故なりしかども、或時、山オープンアクセス NDLJP:165神の告あるに依つて、館を点じて寺となしける事故に、神護山崇福寺と号するなり。利安の子長井豊後守利隆、相続いて当寺の檀越なり。然るに、利隆の二男長井藤左衛門尉長張は、先代より、池田郡白樫といふ所に居城を構へ、是に住してありけるが、利隆の嫡子長井利親儀、明応五年の十二月、蒲生下野守貞秀入道知閑と、江州蒲生郡日野の中野にて戦死しける。其後、利親の子勝千代と申しけるが、幼少なるに依つて、長張則ち後見の為め、本巣郡の内に要害を構へて、稲葉山の麓、瑞龍寺の西北の谷の間に、新館を構へて是に住し、国中の政務を執行ひける。然る所、享禄三年正月十三日、家臣西村勘九郎正利〈道三が事なり〉が為に、長張は、夫婦共に生害しける。法名桂岳宗昌と号す。妻の法名、法林宗珠と号す。則ち位牌は、右崇福寺に立てありぬ。又稲葉伊予守良通も、幼少の頃は、出家にして当寺に住し、崇福寺の喝食と号してありけるなり。扨又、長井長張が住したりし谷間の新館の跡は、後代迄相残りてありける所、近年此地に、一向宗の坊舎を建立して、本願寺の談議所としけり。俗呼びて、此地を今長井洞と号するなり。扨又崇福寺は、天文二年の頃、公命に依つて、此寺を山県郡大桑の城下に移しける。然るに又、同十六年の秋、大桑の城断絶の後、再び長良に移し替して、寺院長久たりとぞ。
 
鷲林山常在寺の事
 
斎藤帯刀左衛門尉〈或越前守〉利永宗甫迄は、禅法を崇敬して之を信じ、利永左京の中は、日峯和尚に参禅し、在国中は、雲谷和尚に帰依して、直指心印を得て、武儀郡汾陽寺といふ一寺を建立して、氏寺としける。其子帯刀左衛門利藤、相続いて土岐氏の執権職として、国中の政務を執行せり。然るに利藤は、嘉吉年中より、日蓮宗に帰依して、川手の府に、持是院を建立して、其身晩年には、則ち自分此院に住居し、政務を嫡子新四郎利国に相譲りける。文明五年に、一条兼良公の筆額を求めて、法城といへり。此兼良公は、本巣郡文殊里に居住ありける。其時の歌に、

   船木山糸ぬき川の川上に今日はつくりて明日やきの里

船木といふは、文殊村の事なり。〈当時、戸田孫十郎陣屋なり。〉是は定家卿の旧館の跡なり。此定家オープンアクセス NDLJP:166卿、一年下向し給うて、軽海の里岡野を通り、若宮を拝し給うて、

   若宮のもみぢ散りしく岡の原にしき争ふあこめくさかな

文殊に着き給ひて、

   いかなれば船木の山の紅葉は秋はふくれど焦れざりけり

右、名所集記に見えたり。

扨利藤入道して、法名持全院妙桂と号す。権大僧都法印の僧綱を受けて、経外には禅法を信じ、内には妙経を持して、其後は、嫡家代々妙全に至る迄、皆当宗に帰依せり。宝徳三庚午年三月、京都より、妙覚寺の住持世尊院日範僧都を請じて、厚見郡岐阜山下今泉村に一宇を建立し、鷲林山常在寺と号す。寛正六乙酉年八月に、一条関白兼良公の額を求め、寺号を賜はるなり。第二世は、蓮法院日審上人、妙覚寺の住持たりしを、文明十一己亥年三月、妙椿僧都より招請せり。同十二庚子年二月廿一日、妙椿逝去せり。法号を開善院権大僧都大年妙手椿公居士といへり。百ヶ日追福の為めに、令嗣の志を以て、嫡子利国、祖師の像を造立して、当寺に安置せり。明応七戊午年十二月七日、大献紹興大徳の第三囘忌追福の為に、令嗣勝千代より、妙覚寺の日護上人を迎へて、法事を相勤め、即ち当寺三世の住職とす。永正三丙子年二月、本山妙覚寺の日善上人の弟子日運上人を、長井豊後守利隆より請じて、四世の住職とせり。然るに此日運上人と申すは、長井豊後守利隆が舎弟にて、幼少より京都に登りて、日善上人に随身し、学は顕密の奥旨を極め、弁舌は富楼那にも劣らず、近代の名僧なり。始めは其名を南陽房といへり。又其頃、日善上人の嫡弟に、法蓮房といふあり。是は上北面松波左近将監藤原基宗が子にして、山城の国西の岡の者なりしが、内外を能く悟り、南陽房を常に引廻しけるとなり。或時、如何なる心か付きけん、三衣を脱ぎて還俗し、西の岡に住し、奈良屋某が娘を娶りて、彼の家名を改め、山崎屋と号し、後に松波庄五郎と名乗りて、毎年美濃国に来り、油を売りけるが、常在寺の日運上人吹挙に依つて、斎藤家へ出入をさせられ、斎藤・長井の得意となれり。此男、出家の中にも、遊山翫水を好みける故、乱舞歌曲に堪能なりし故に、其頃の執権長井藤左衛門長張、之を請ずる事限りなし。大守頼芸も、其行跡妄にして、酒宴遊興を好みオープンアクセス NDLJP:167給ふ故に、藤左衛門折を以て、大守へ目見えさせしが、大守の寵愛又甚しく、長井が家老西村三郎左衛門が遺跡を継がしめて、西村勘九郎といふ。其後、主人長井が行跡正しからざるを見て、享禄三年正月十三日、岐阜に於て、長井を夫婦共害し、自分長井新九郎正利と名乗りける。是に依つて、長井・斎藤が一族共大に怒りて、急に押寄せ討取らんとせしに、正利は密に館を出でて、大守の方へ逃参りける。長井が一類共、大守に申受けて、首を刎ねんと憤りけるを、常在寺の日運上人、昔を思ひ不便を加へ、大守へ願ひ申して、長井の一類と和睦させ、大守よりの内通ありし故に、江州より、佐々木義秀来りて、向後遺恨なきやうにとて、烏帽子親になりて、秀の一字を与へて、秀龍と名乗らせける。然るに此時、長張の幼子一人ありけるが、勘九郎是より親分になり、後見致し、成長の後は、執権の家を相続さすべきに相極め、此訳に依つて、長井新九郎秀龍と名乗りける。然れども継がせざりける。此幼子成長して、長井隼人正道利とて、関の城主なり。秀龍は、日運上人には、古の恩あるに依つて、我が代に至りてより、寺院を修造し、数ヶ所の庄園を別状に寄附し、猶又、子供を二人出家させて、日運の弟子とせり。常在寺第五世の住職日饒上人、第六世日覚上人是なり。義龍、又龍興も尊敬ありける庫裏・方丈・鐘楼・堂塔頭に至る迄、金銀珠玉を鏤め造立しぬ。正法寺領厚見郡領下村・竹腰領・日野領・清水領・芥見領・那波領・昼飯村・西海寺領三宅村にて、寺領五百貫文寄附す。其後、日韵上人の代迄、恙なかりしを、信長公御入城の時、寺領を召上げられしが、又日野村にて、百貫賜はりける。天正十一年、信孝岐阜を没落の時の兵火にて、朱印を焼失しける。秀信は、朱印を賜はらざれども、寺領は相違なく賜はりけり。慶長五年秀信卿御生害の後より、寺領断絶しける。今残る物とては、道三の画像と、義龍の容像のみなり。道三の絵像は、信長公の北の方の御寄進なり。義龍の真影は、龍興の寄進なり。本尊文殊菩薩は、前の左金吾利安の建立なり。本巣郡文殊堂の本尊なり。永禄年中、文殊の要害を攻めし時の兵火にて焼却し、堂舎断絶しける故に、斎藤家の由緒を以て、当寺に安置す。文殊堂・法輪寺等永く断絶の後、天正十一年、信孝落去の時、本尊薬師焼失し、此節より、文殊を本尊としけるなり。右の外、諸仏堂塔の旧記、数多ありと雖も、悉く記し難し。余は之をオープンアクセス NDLJP:168略し畢。

 
美濃国諸旧記巻之十
 
 
 

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