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美濃国諸旧記/巻之一

目次
 
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美濃国諸旧記 巻之一
 
 
美濃国守護の事
 
当国は、東山道の歯舌なれば、古より守護の国司は、其人を選ばるゝ所なり。往古天武天皇の御宇、御子高市の皇子、始め当国不破郡に着住し給ひ、村国の男依をして、当国を守らしむ。男依、美濃国を守護して、大友皇子と戦ひ、勝利を得て後に、高市が皇子・大津の皇子を守護して、国依は国政を執せり。美濃国司の最初之を当国守護の最初といへり。其戦、天武・大友の乱は、壬申の軍なり 人皇卅九代天智天皇の御弟を、天武天皇といへり。天智の御子を、大友の皇子といふ。其御妹を、持統天皇といふ。天武帝の皇后なり。又天武帝の御娘を、十市の皇女といふ。大友皇子の后なり。于時天武天皇元年壬申の年、天武帝、密に謀叛の志ありて、吉野へ引籠り給ふ。壬申の乱是に依つて天智の御オープンアクセス NDLJP:10子大友皇子、之を計つて、吉野へ人を遣して、天武を召返して、近江国に於て其様子を窺ひ、殺すべきとの沙汰ありしかば、大友の后は、天武の御娘なるが故に、之を悲み給ひて、密に御父天武の方へ、此事を知らせらる。天武大に驚きて、村国の男依といふ大臣を召して、汝早く美濃国に行きて、彼地の兵を催し、不破郡の関を固めて道路を差塞ぐべし。我も亦頓て進発せんと宣ふ。是に依つて村国の男依は、濃州に来つて、軍勢を相催す。鷹橋の兼俊・河辺の音人・桂の八摩太等、是に従ふ。其後天武は、大伴志摩といふ臣を使にして、大和の留主高坂の王を語らひ給ひけるが、同心せず。依つて天皇并に后持統、且つ太子草壁の皇子・忍壁の皇子以下近臣廿四人、吉野を出でて落ち給ふ。路次にて猟師共廿余人来りて、御供に候す。此路次山城の国を越え給ふ時、流れ矢来りて、天皇の背中に中るに、其所を矢背と号す。扨山中に逃入りて、鞍馬を繋ぐ。其地を鞍馬山といふ。それより伊賀の国に赴きて、中山に入る時、当国の軍士数百人来りて従ふ。夫より伊勢の国に赴きて、国司三宅の連が軍兵五百人を得て、鈴鹿の関を塞ぐ。時に天武の子高市の皇子・大津の皇子二人は、近江国に在りけるが、密に逃出でて、伊賀・伊勢の内にて、天武に参会せらる。古の逢坂の関是なり去程に村国の男依は、美濃国に在りて、鷹橋兼俊・河辺音人・桂八摩太・大野阿気津等を初め、三千人を催し、不破の関を差塞ぎ、軍兵調ふ由を註進しければ、天武帝、高市皇子を大将として不破へ遣し、国を守護させしむ。東海・東山両道の軍兵、来りて相従ふ。天武帝は、又伊勢国桑名の郡に、暫く休足せられて、美濃国へ来り、大野の郡に着住し給ひ、夫より墨俣の流れに出でて合戦す。大友の軍兵五千余人、尾州より来りて、終日相戦ふ。天武帝利なくして、大友に追はれて、不破の関迄逃げ来り、青野の地にて大に戦ひける時に、尾張の国司小子部鉏釣さひち、二万の兵を率ゐて、大友の後を襲ひ、天武に従ふ。故に天皇大軍となりて合戦す。然れども大友軍能くして屈せず、合戦日を重ねて、青野にて相挑み合ふ。大友終に大軍を破りて、近江の伊吹に引籠る。天武帝、江州和暫の里に陣して、逢坂の関を固めて之を攻むる。高市の皇子は、村国の男依を副将として、江濃の国境に陣し、不破の関を堅めて攻むる。近江の東西より戦ひ入るの時に、大和の国司大伴吹負、軍兵を起して天武の御方となり、所々にてオープンアクセス NDLJP:11大友の勢と戦ひ、利を得て、既に奈良迄進み入り、鈴鹿の関を守り、近江へ攻め入りぬ。天武・高市、諸軍を下知して攻め給ふ。大友の皇子、軍兵を方々に差向け、防戦すと雖も、利を失ひて引退く。時に美濃の守護村国男依大将、一番に打勝ち、数万の軍兵を引いて、近江に打入りて伊吹に馳向ふ。大友の大将境部薬と、息長の横町にて切合ひ、男依、薬を討殺す。又高市の皇子は、鳥籠山〈関ヶ原陣の時、加藤左馬介の陣場なり〉にて、大友の大将秦の友足ともたるを射る。野州川にて、男依、土師はしの千鳥を生捕る。大友軍破れて、勢多まで引行く。村国進んで追懸け攻め戦ふ。大友自ら群臣を率ゐて、橋の西に陣を取る。男依と、互に弓矢を乱して相戦ふ。大友の大将智高といふ者勝れたる剛勇なり。能く防ぎ戦ひける故に、軍兵進む事能はざりしが、終に男依が矢に中りて死す。是に依つて大友の軍兵、悉く散り走る。男依は又橋を乗越えて、粟津に攻詰むる。又大友の大将犬養の連谷の塩手等皆討取らる。大友爰に於て打負け、行くべき所なく、山前に隠れて、自ら首縊して死す。大友皇子(弘文天皇)崩御廿五歳なり。此乱治まりて、村国は、美濃の大連となりて当国に住す。依つて之を守護として、東海・東山を随へ大臣とす。是れ壬申の大乱といふなり。美濃国にして、守護といふを居うる事之を始とす。然るに当国の青野の地・不破の里・関ヶ原の郷・墨俣の渡は、古よりの戦場にして、獄所なり。何れの乱にしても、不破・墨俣の両所にて、合戦のなかりし時なし。天武・大友の乱を始として、

〈嵯峨〉弘仁、〈清和〉貞観、〈村上〉天暦、〈白河〉承暦〈鳥羽〉天仁、〈後白河〉保元、〈二条〉平治、〈安徳〉養和・寿永、〈後鳥羽〉承久、〈後醍醐〉 元弘・建武、〈光明〉暦応、〈後花園〉永享、〈後土御門〉応仁・文明・明応、〈後陽成院〉慶長五年関ヶ原合戦に至る迄、凡そ七十五箇度の戦場なりといへり。されば此故に、今車返しの坂といふありて、去頃大中臣親守の歌に、

   あられもる不破の関屋に旅寝して夢をも得こそ結ばざりけれ

車返の坂車返しの坂と号せしは、関ヶ原と今須との間の宿大関村にあり。不破の関屋の跡は、同所南の方町中にあり。不破の関中頃普光院〈足利義教公の事歟〉と申せしやんごとなき御方、不破の関を御尋ねありて、月を御覧せられんと、遥々都より下らせ給ひしに、関守は、此事を聞き及び、斯く荒れたる体こそ見苦しと、屋根をしつらひ、爰彼を繕ひ、待受け奉りし由を、坂の下にて聞召し、惜いかな関守、荒れたる所こそ賞翫なれと、歎じ給ひて、一首オープンアクセス NDLJP:12の御訪歌に、

   葺かへて月こそもれぬ板ひさしとく住み荒らせ不破の関守

斯く詠じ給ひて、坂の下より御車を引返して、都へ帰らせ給ふとぞ。夫故に車返しの坂といへり。右委しきは、古跡縁記にあり、之を略す。

去程に其後程経て、元正天皇の御宇養老二午年、志津の大佐美といふ者、勅を受けて当国を治む。是は霊亀三年に、当国不破郡高田の奥山中に、霊水涌き出で、老人之を汲みて服しけるに、忽ち其齢、壮年となる、養老の滝故に其霊水を養老と号く。霊亀の年号、又之に改元す。元正帝此所に御幸ありて養老の霊水を御覧ありて、御還幸の砌、志津大佐美に勅ありて、当国の目代に命ぜられしと云々。扨夫より一百余年を経て、宇多天皇の御宇寛平年中、美濃の大目橘高貞、当国の司に任じ、其身一世にして終に其後、村上天皇の御宇天暦年中、多田満仲、当国の主に任じ給ひてより、其子頼光并舎弟頼信迄、相続いて是に住し、又頼光の嫡子讃岐守頼国、并に頼光の舎弟大和守頼親の嫡子肥前守頼房迄、承治し給ひける。扨又頼光の子頼国・其子美濃守国房、倶に当国の守護たりしが、白河院の御宇承暦三年七月、国房隠謀の企ありて、勅勘を蒙り、解官せられける。故に伊予守頼義の二男加茂の次郎義綱、美濃守に任じ、当国を守護す。其子義俊相続ぎて之に住す。其後又程経て、文治・建保・建治の頃、土岐左衛門蔵人光衡・梶原平三景時・二階堂山城守行政・岩手小忠太知事別当光家・伊賀三郎左衛門光資・相模守雅義・小笠原十郎四郎泰綱等、代る当職に任じけれども、皆其身一代にして終りぬ。又時移り、後醍醐天皇の御宇に、土岐光衡が四代の孫土岐伯耆入道頼貞、当国の守護に任じてより、後奈良院の御宇迄相続ぎ、光衡より十一代住し、当国を治む。扨此後奈良院の御宇天文の頃の大守を、土岐左京大夫頼芸と号しけるが、家臣斎藤山城守秀龍入道道三が逆心故に、土岐は守護を離れて、頼芸、越前の国に落行きける。夫より道三、当国の守護となり、其子一色左京大夫兼美濃守義龍・其子斎藤右兵衛大夫龍興迄、三代の間当国を押領す。時に正親町の院の御宇永禄七甲子年九月、織田上総介平信長の為めに国を奪はれ、龍興、終に江州に落行き、浅井下野守久政が許に至る。是に依つて信長は、同十月朔日、尾州清須より岐阜へ移りて之に住し、当オープンアクセス NDLJP:13国を治む。其後天正四年の春、江州蒲生郡安土山に一城を築き、是に移住す。 〈縄張明智日向守光秀、普請奉行丹羽五郎左衛門長秀〉岐阜の城には、嫡子三位中将信忠公住し、当国の主となり、其子秀信迄、三代の間是に住す。然る所慶長五庚子年八月、岐阜中納言秀信卿は、石田治部少輔三成に組し給ふ故に、江戸将軍秀忠公より、国々の諸将に命じて之を征し秀信卿も、当国を退去す。是に依つて此時より以後当国の守護は断絶して、江戸将軍、其闕国を、幕下の諸将へ分け与へられ、其余は公領となりて、岡田伊勢守源義同之を支配す。

 
土岐氏美濃来住の事
 
土岐氏美濃居住土岐氏は、清和天皇四代の孫、鎮守府将軍左馬権頭兼伊予守源満仲の嫡子、鎮守府将軍正四位下摂津守頼光の嫡流にして、清和源氏の真裔なり。代々禁裏守護の名家として、武名を逞うす。摂津守源頼光は、天暦八年甲寅年七月廿四日降誕す。母は近江守俊の娘なり。童名文殊丸といふ。康保元子年、十一歳にて元服し、兵部丞といふ。天禄元午年五月、十七歳にて家督を受継ぎ、冷泉院判官代といふ。其後上総介、又左馬権頭、肥前守、正四位下、美濃守、同上陸奥守、鎮守府将軍、内の昇殿を聴され、九ヶ国を受領し、摂津守に任ず。治安元西年七月廿四日卒去。六十八歳。頼光の子右馬頭下野判官従四位下美濃守頼国、其子治部少輔、多田伊豆守正五位下美濃守国房といふ。天喜五丁西年二月、始めて当国東美濃土岐郡大富の里に住し、美濃守と号す。然る所国房は、白河院の御宇承暦三己未年七月、駿河国の住人佐渡判官重宗が勧に依りて、隠謀を企つる。此重宗といふは、多田満仲の舎弟治部少輔武蔵守満政の四代の孫なり。満政の子刑部少輔忠重・其子駿河守定重・其子則ち重宗なり。代々駿河の国の住人にして、重宗、父の遺跡を相続して在りける所、伊予守頼義・其子八幡太郎義家父子の武威壮なるを憎み、重宗嫉妬の志深く、頼義の一家を傾けんと、心を計りけるが、一挙の力に及ばざれば、美濃国に来りて、嫡家国房を語らひ勧めける。依りて、国房、是に同心して約を堅む。同年七月、重宗は、嫡子佐渡源太重実とて、十五歳になりけるを相具し、駿河国を立出でて、五百余騎を率し、濃洲に至り、国房と倶に、厚オープンアクセス NDLJP:14見郡の岐山の城に楯籠り、長良川を前に当てゝ要害を構へ、軍馬の用意頻なり。

〈岐山といふは、今の稲葉山なり。〉是に依つて国中大に動乱し、頓て都へ聞えければ、濃州征伐として、左馬権頭源義家に、討手の大将の命を賜はり、土岐国房重宗、源義家と戦ふ同八月三日京都を打立ち、三千余騎にて、当国に発向なり。時に国房・重宗、敵を引受けてや戦はん、且つ打出でて戦はんと、軍議一決せざりけるが、重宗は、敵の近辺へ来らぬ先に、途中にて支へ戦はんと欲し、八月五日の夜に、長良河原を打出で馳せけるに、其翌暁方に、株瀬川に着きたり。爰にて様子を聞きけるに、討手は黒地川を越えたりと沙汰しければ、重宗夫より急ぎける所、其日青野が原にて、討手の勢と行合ひて、爰に於て双方矢合して相戦ひける。討手の先陣には、坂戸判官則明と鳥海三郎太夫安部宗任なり。宗任は、頃年義家に給仕して、此度の戦場に先手を望んで、大に武功す。一日殊に相戦ひ、両陣死亡も多かりけるが、重宗戦死重宗打負け、馬上にて自害し、鞍の前輪に抱付きて死したりける。家の子郎等、悉く散乱して、合戦終りければ、義家、其夜は赤坂の駅に止宿して、翌七日、岐山に押寄せけるに、国房降伏国房、味方利なきを察して、重宗の一子重実、俱に義家に降参して退城す。是に依つて国中忽に平均す。国房・重実、此科に依つて勅勘を蒙り解官し、阿波国へ配流せられけるが、程なくして、其後永保元年の暮に至り、赦免せられ帰国して、本官に復せられけり。扨国房の子出羽守光国・其子土佐判官光信・其子伊賀守光基・其子土岐左衛門蔵人信濃守光衡といふ。久安五己巳年五月四日降誕。母は頼国五代の孫、摂津守源頼盛の娘なり。光衡は、寿永三年に関東に参り、鎌倉右大将頼朝卿に随ひ、文治五酉年三月、当国守護職を賜はり、土岐郡に住し、氏を土岐と改む。後に郡戸に移りて住す。頼朝の御下文に曰く、

下 美濃国土岐郡所領の事

、右件之所者、先祖相伝旧領之地也。而るに近代無任之間、百姓等押領之由、不実之至也。自今停止之。早以光衡地頭之職畢。子々孫々永代不他之妨、故に下す。百姓等宜承知、敢而不違失

 文治五酉年三月十日 右兵衛佐源朝臣頼朝判

            源左衛門蔵人殿

オープンアクセス NDLJP:15土岐氏家系時に光衡は、建永元寅年三月廿日卒す。五十八歳なり。光衡の子土岐左衛門尉光行、土岐郡浅野の里に住す。其子隠岐守光定、末子たれども、総領職となりて、土岐郡に住す。其子右衛門蔵人伯耆守頼貞入道存孝、〈法名定休寺と号す、〉土岐郡高田の里に住す。是れ又末子たれども、総領職となる。此時又足利尊氏卿より、当国守護職を賜はる。其子左近大夫頼清、〈後に頼宗と改む、〉西美濃池田郡瑞岩寺に住す。其子土岐西池田美濃守頼忠・其子左京大夫頼益、総領職となりて、厚見郡川手の城に移住す。其子左京大夫持益・其子美濃守成頼入道宗安といふ。始めは厚見郡長森の城に住し、明応五年より、城田の城に移り是に住す。其子美濃守政房、城田の城主なり。其子左京大夫頼芸なり。以上光衡より十一代、斯の如く相続し、子孫永く繁栄して、末流数多あり。浅野・三栗は、光衡より分る。小里・萩戸・猿子・郡戸・深沢・吉良・小宇津・石谷・芝居・桐原・大竹を嫡流として、饗庭・郡家・小弾正・八居・多治見・受地・田原・蜂屋・久尻・金山・土居・三石十二流は、光行より分る。船木・福光・外山・今峯・北方・小柳・荒川・井口・穂積・麻生・墨俣は、頼貞より分る。西池田・島田・明智・揖斐・山尻・世保・稲木は、頼宗の子孫なり。久々利・宇田・陶江・所・肥田・瀬戸・拝崎も、同流なり。萱津・鷲津・須原・西郷・田原・衣斐は、頼忠より分る。大桑・佐良木・長山・本庄は、成頼より分る。満木・村山・梅戸・菅沼・一色も、同流なり。総じて何れも子孫繁昌して、光衡、文治五年、守護職に任じてより、天文十一年、頼芸落去迄十一代にして、三百五十余年を経、甍を並べて住居す。光衡より頼貞迄は、させる威勢もなかりしが、尊氏将軍の御代に、頼定を、当国の守護に任ぜられてより以来、後屋形の号を賜はり、次第に威光を輝し、仁木・細川・土岐・佐々木・今川・荒川・山名・一色・畠山・吉良・石堂・高・上杉とて、其代の高家として、天下の諸大名尊敬す。頼貞の子数多あり。長男小太郎、従五位下福光蔵人助頼通といふ。方県郡福光の住人なり。二男民部大輔頼清、後に左近大夫頼宗と改む。三男弾正少弼頼遠・四男兵部卿律師周斎坊・五男頼明入道道謙なり。頼宗は、池田郡瑞岩寺に住居す。子息数多あり。嫡子大膳大夫頼康といふ。将軍家尊氏・義詮両公に随ひ、美濃・尾張・伊勢三ヶ国の守護職となりて、延文五子年三月、厚見郡川手の府に一城を築き之に住す。尊氏卿逝去の後、入道して善忠と号す。頼宗二男を、明智次郎・長山下野守頼兼入道善桂と号す。オープンアクセス NDLJP:16康永元午年三月、東美濃可児郡明智の郷長山の地に一城を築き之に住す。明智家の元祖是なり。同三男を、揖斐三郎・三輪新蔵人・出羽守頼雄入道祐禅といふ。康永二未年八月、西美濃大野郡揖妻の庄三輪の山上に、一城を築き是に住す。同四男、土岐西池田三郎美濃守頼忠といふ。池田郡瑞岩寺に住す。後本郷に住す。扨又大膳大夫頼康の嫡子同康行・其子左馬助康政相続ぎて、川手の城に住し、其威勢甚しかりける。時に左馬助康政、将軍家の命に背きて、叛逆の色を立てらるゝ故に、足利義満公より、同氏美濃守頼忠の嫡子頼益に命じて、康政を討たせらるゝ。頼益公命を重んじ、忽ちに康政を征伐し、国中を平均させしめ、其戦功莫大なるを感じ思召して、将軍義満公より、土岐総領職を、頼益に賜はりける。是に依つて、川手の城へ移り是に住す。頼益の子持益・其子成頼迄、川手の城に住し、守護職たり。扨此成頼と申すは、実は持益の嫡子にあらず、一色兵部少輔義遠の男ともいふ。又饗庭備中守元明が子といふ。実なるべし。文安三寅年三月誕生なり。父左京大夫持益の嫡子太郎持兼といひしが、早世にして、家督に立たざるの故に、家臣斎藤帯刀左衛門尉利永入道宗甫が計らひにて、養子として、持益の家を継がせたり。然るに持益の妾腹の一子、国千代丸というてありけるが、斎藤が為に依つて、家督に立たざる故に、妾之を恨み国乱れ、暫く騒動す。戦記は、長禄軍記にあり。之を略す。成頼は、家督を受継ぎて始め川手の城に住し、明応五年より城田に移る。入道して宗安と号す。子息数多あり。嫡男美伊法師丸といふ。文明五卯年誕生。元服して頼継といふ。後将軍義政公に目見えし、政の一字を賜はり、美濃守政房といふ。城田の城主なり。永正十六己卯年六月、加茂郡米田に於て逝去す。法名承隆寺宗寿と号す。二男を、大桑兵部大輔定頼といふ。文明七未年誕生。明応五年より、山県郡大桑の城に住す。子孫関東にあり。三男を、佐良木三郎尚頼といふ。各務郡更木の住人なり。右三人、倶に同腹の兄弟なり。扨四男を、四郎元頼といふ。是は当室の子にて、父成頼にも寵愛甚しきなり。此故に、長男政房を押込めて、四郎元頼を以て、家督に立てんと、当室思立ありて、密に逆意を企て、斎藤新四郎利国が家臣石丸権左衛門利光を語らひて、明応三寅年十二月、加納大宝寺の開堂有之時に、事寄せて、政房及び執権斎藤新四郎利国入道紗純一起オープンアクセス NDLJP:17公性を討たんと謀りしかば、事顕れて本意を遂げず。其後明応五辰年六月二十日、城田寺に於て、元頼并に石丸利光以下、其外の一味の輩、悉く自害す。右乱記は、舟田記にあり。略之。

扨同年の秋、成頼は、池田の安国寺にて剃髪して、宗安と号す。世をば長子政房に譲り、同六巳年四月、川手の正法寺にて卒去す。年齢五十二歳。〈法名瑞龍寺殿、前左京大夫非国文安公大禅定門。〉政房家督を受継ぎ、明応六年の秋より、川手の城に住し、守護職とす。政房は。仏神を尊み、上を敬ひ下を憐み、仁義正しき名将なり。其後、世を長子盛頼に譲り、其身は永正十二乙亥年、城田の城に移り、同十六己卯年六月、可児郡米田の里にて卒去なり。又成頼の五男国頼、六男頼胤、七男満喜、土岐大夫頼春といふ。上総国満喜の住人となるなり。頼春の子上総介頼尚といふなり。扨又美濃守政房に、子息数多あり。長男左衛門尉盛頼といふ。後に頼純と改む。明応八未年六月生る。始め永正十二年の六月、父政房の譲を受けて、川手の城に移り、是に住す。然る所に、逆臣斎藤道三が為に、舎弟頼芸と不和になり、大永七亥年八月、川手の城を攻落され、越前国に落行き、朝倉弾正左衛門孝景を頼みて、一条谷に住居す。其後、天文十六丁未年、斎藤退治の為に、朝倉が加勢を得て、再び美濃国に帰り、大桑の城に入りて楯籠り、同年八月十五日、道三と戦ひ討死す。法名南泉寺殿玉岑之桂大居士。四十九歳。

扨又政房の二男を、左京大夫頼芸といふ。文亀元西年生る。永正十六年に、方県郡鷺山の城主となり、其後、大永七年三月より、大桑の城に移り在住す。当国の守護となり、屋形と号す。三男、三郎伊豆守治頼といふ。常陸国信田郡信太ノ庄江戸崎の城主なり。四男は、四郎光尚といふ。勢州梅戸へ養子、梅戸民部大輔といふなり。五男は、五郎光親といふ。当国揖斐へ養子、揖斐周防守といふ。六男は、鷲巣六郎光龍、七男は、七郎丹波守頼光、八男、八郎頼香といふ。女子一人、江州箕作の城主佐々木六角判官弾正少弼義賢入道承禎の室是なり。然るに、逆臣斎藤新九郎秀龍入道道三、天文十一年に、大守頼芸を攻め落し、国を奪ひて、自ら山城守と号す。扨頼芸の舎弟七郎頼光・八郎頼香、此二人を、道三謀りて聟となし、契を結びて勢を集め、後密に謀計を以て、兄弟倶に害せんとす。然れども頼光は、心悟き人にて、害すべき便なければ、毒をオープンアクセス NDLJP:18以て害せり。弟頼香は、天文十三甲辰年八月。織田備後守信秀、濃州に攻入りし時に、羽栗郡無動寺村にて、道三が家来松原源吾に討たるゝ。〈木下藤吉郎が家来なり。松原内匠が兄なり。〉時に頼香、一人の幼子あり。鶴寿丸といふ。家臣名和安左衛門といふ者、下野国に伴ひ落ちて、彼国の郡波の庄にて成長す。子孫東国に在り。

美濃守政房の二男左京大夫頼芸、道三が勧に依つて舎兄盛頼を追落し、総領職となりて、当国の守護となりぬ。子息数多あり。嫡子を北美伊之太郎法師といふ。父頼芸、常に愛宕権現を崇敬ありけるに、彼神の使ひ者は、猪なる故に、童名を猪法師丸とも付けらるゝ。享禄三寅年生る。逆臣道三が議言に依つて、父君へ対して、謀叛の志あると沙汰せらるゝの故に、父の勘気を蒙り、総領たれども、家督に立たざるなり。のちに織田備後守平信秀の烏帽子子となりて、一色小次郎頼秀と名乗る。尤も始めは、村山越後守芸重の聟となるなり。二男次郎法師といふ。兄の太郎法師丸勘気の後、家嫡とせらるゝなり。後に一色左京亮頼師と改む。其後、又宮内少輔頼栄とも号す。晩年、明智日向守光秀の客家となりて、江州に住す。天正十午年六月十四日、光秀生害の後、見松斎宗智と号して、京都に住居なり。扨頼芸の三男三郎は、早世なり。次は女子なり。四男を、四郎左衛門尉頼興といふ。後に入道して、道庵と号す。五男を、五郎左衛門尉頼茂といふ。後に主水正と改む。入道して久安と号す。六男、江崎六郎頼通といふ。濃州大野郡清水村に住居す。又頼芸、別に妾腹の男子も数多あり。土岐兵庫介芸元といふ。天文四乙未年生る。母は各務郡の住人岩田茂左衛門娘なり。芸元は、頼芸零落の後、江州に至り、浅井長政が許にて成長す。後に明智日向守光秀の客家となりて、天正十午年六月十三日、山崎の合戦にて討死す。四十八歳。同弟兵太夫芸次・同半太夫頼元、右兄弟、倶に日向守光秀に属し、芸元同時に、山崎にて討死す。兵庫介芸元の子、大学頼国といふなり。子孫関東に在り。兵太夫芸次の子、兵右衛門芸春といふなり。山崎乱後、濃州に至り、子孫、岩村の城主松平和泉守家乗に仕ふるなり。

扨又一色小次郎頼秀の子息数多あり。長子を小太郎正義といふ。後に越後守光義オープンアクセス NDLJP:19といふ。母は村山芸重が娘なり。故に村山が家にて成長す。二男は、小次郎茂頼といふ。後に三左衛門尉といふ。永禄十一辰年七月廿七日、祖父稲葉伊予守良通入道一哲斎に携へられて、厚見郡西の庄の亀甲山立政寺にて、足利将軍新公方義昭公に目見して、昭の一字を賜はりて、織部正昭頼と改む。三男小三郎は、稲葉一哲斎の養子として、同年八月、義昭公へ仕へて、江州御発向の御供して、稲葉靱負佐頼永と名乗り、後に又、勘解由良頼と改む。扨四男は又次郎、後には主税介栄興といふ。其後、掃部助光栄と改む。五は女子、石谷左京亮源光広の室なり。六も女子なり。関小十郎室たり。扨頼芸の二男宮内少輔頼栄入道見松斎宗智の子二人あり。長男左馬助頼善・二男縫殿助頼昌といふ。兄弟倶に、日向守光秀の養育にて成長す。左馬助頼善の嫡子を、内匠助頼俊といふ。縫殿助頼昌の嫡子を、九左衛門頼之といふ。其子円右衛門之信といふ。尾張宰相義直公に仕ふ。内匠助頼俊の子二人あり。長子出羽守頼氏・二男兵庫助頼孝といふ。各江戸将軍家の幕下に仕ふ。

扨又頼芸の四男、四郎左衛門頼興入道道庵の子、四郎左衛門頼継、後に宗見と号す。紀伊常陸介頼宣卿に仕ふ。

同五男主水正頼茂入道久安の子、主水正頼直・其子市正頼兼・其子大膳亮頼治といふ。江戸将軍家の幕下に仕ふ。

然るに、宮内少輔頼栄、見松斎宗智と号して、京都に住しける時に、天正十年午十二月朔日、父頼芸、濃州大野郡岐礼の郷にて逝去の以前、其臨終に至り、七郎兵衛尉を使として、累代相伝の旗幕・太刀・甲一つ・系図の巻物・綸旨・宣命・御教書、其外、家の軍記等迄、頼栄に相譲られけり。本系則ち此家にあり。扨此外の土岐氏族は、正流にあらず、庶流なるべし。又一族蜂屋出羽守頼隆・石谷播磨守光俊二家の正流は、江戸将軍の幕下にあり。又石谷近江守光重の正流は、井伊掃部頭直孝の家にあり。又妻木長門守忠頼は、明智日向守光秀と叔姪なり。是れ明智の一家にて、嫡家忠頼、江戸将軍の幕下にあり。明智の流の嫡家は、桂の郷に蟄居。子孫彼の地にあり。揖斐氏の正流は、江戸将軍の幕下にあり。又原氏の正流隠岐守久頼は、慶長五年八月廿四日、関ヶ原の合戦にて生害す。子孫池田郡東野六ノ井の郷に蟄居す。又松平安芸守綱長・森美オープンアクセス NDLJP:20作守忠政・成瀬隼人正正成の三家に、原の末流あり。又中務丞政頼が子孫もあり。小里出羽守正流の子孫和田助右衛門が末は、松平丹波守光重の家にあり。満喜の末道鉄が子孫は、戸田采女正氏信の家にあり。又一色頼秀の末は、池田輝政と前田利綱との家にあり。此外、彼の氏性を称する者多けれども、皆以て傍に出づる一系にして信ずるに足らず。此文、土岐氏後世の為めに、能く問考して伝へ書置き畢。

 
斎藤氏来由の事
 
斎藤氏家系当家は、大織冠鎌足公の孫、内大臣房前の三男、川辺大臣魚名卿の末、利仁将軍末流なり。魚名の二男、従五位下中務少輔鷲取といふ。其子藤嗣、其二男越前守高房、其七男常陸介時長、其子鎮守府将軍左近将監利仁也。利仁の六男斎宮頭斎藤叙用、其子中務少輔吉信、其子則親、其子吉原四郎則光、其子河合大夫則重、其子河合権頭助宗、其子左馬允実遠、其子斎藤次郎大夫実頼、其子斎藤左衛門頼常、其子帯刀左衛門尉親頼といふ。後鳥羽院の御宇、親頼始めて、美濃国の目代に任じて、承久の戦に、鵜沼の渡に馳せ向ひける。其戦功よりして、其子頼国、其子頼有、其子頼為、其子中務丞頼茂迄、当国の目代なりしが、足利将軍尊氏卿の御代に、土岐大膳大夫頼康、美濃・尾張・伊勢三ヶ国の守護となりて、其権威甚だ壮なりしかば、いつとなく土岐氏の家臣となりける。久しく当国に住するに依り、子孫数多あり。林・長井・岡・疋田・加藤・国枝・安藤・水野・牧野・青山・安田・藤井・小野・汲田・松波・和田・羽田・花村・名倉・曽我屋・近藤・赤塚・後藤・佐藤・堀・前田・吉原・河合・都筑・中村・松田・矢木・青木・松井・豊田・白木・井上・大谷・各務・加々野江・三井・村山等なり。右の外、所々にあれども記さず。此書に出す所の面面のみ。

斎藤頼茂の子利茂、其子利政、其子斎藤帯刀左衛門尉利永入道宗甫。

其子斎藤帯刀左衛門尉利藤入道持金院妙椿。〈文明十二子年十一月廿一日卒す。六十八歳。〉法名開善院殿権

 大僧都、大年妙手椿公居士。

利藤子、斎藤新四郎利国入道妙純一超公性僧都。

利国子、斎藤新四郎利良。

オープンアクセス NDLJP:21利藤弟、斎藤左金吾利安。

利安弟、斎藤式部大輔伊豆守利綱。

利安子、長井豊後守利隆。〈永正十二乙亥年卒去す。七十一歳〉

利隆子、長井藤左衛門尉長張。〈後に越中守といふ。亨禄三年正月十三日卒去す。〉法名桂岳宗昌。

扨嫡家は、斎藤新四郎利良。是は子孫なし。天文七年に断絶す。庶流は記さず。

長井長張の子、井上忠左衛門尉道勝といふ。不破郡今須の城主なり。二男長井隼人正道利といふ。始めは羽栗郡竹ヶ鼻の城に住し、後に武儀郡関の城主となる。永禄七年子の九月、信長の為めに、美濃の国を出で、斎藤龍興を伴ひ、越前へ落行き、朝倉に属し、後足利義昭公に随順し、其後、天正元癸酉年八月八日、越前国敦賀にて討死す。井上忠左衛門道勝の子、井上小左衛門利定といふ。永禄七年九月、信長の為に攻出され、斎藤龍興並叔父長井隼人正道利と倶に、美濃国を出でて越前に落行き、後三好三人衆に与力し、又義昭公に組し奉る。于時元亀元年二月、荒木摂津守村重、信長に随順して、和田伊賀守雅政を攻むる。其時義昭公の命にて、井上小左衛門利定をして、和田を救はしむ。同八月廿八日、白井河原にて合戦し、利定、荒木が臣三田伝助と組んで討死す。卅九歳なり。法名徳翁道舞といふ。其子、井上小左衛門尉定利といふ。秀吉父子に仕へて、摂州の代官となる。黄母衣組の入数にて、天下に武勇隠れなし。于時元和元年五月六日、河州道明寺口の戦に討死す。五十歳。法名宗利と号す。定利の子長男を、井上治兵衛利中といふ。二男を、同瀬兵衛利貞といふなり。治兵衛利中の子孫、濃州にあり。利貞の子孫、大坂乱の後、稲葉伊予守典通に仕ふ。又斎藤龍興の権子新五郎長龍は、信長公に仕へて、濃州武儀郡加治田の城主なり。于時天正十壬午年六月二日、京都二条の城に於て、一族斎藤内蔵助利三に討たる。其子斎藤斎宮は、岐阜中納言秀信卿の小姓なりしが、慶長五年八月廿三日、岐阜合戦の砌、足立中務・武藤助十郎と倶に、白昼に女姿に出立ち、長良川を打渡り、北山へ落行き、斎宮が子孫は、松平大和守直基に仕へ、子孫彼家にあり。又斎藤利綱の末内蔵助利三が子孫は、江戸将軍の御幕下にあり。右衛門督が娘は、稲葉良道が室なり。右衛門尉治利が娘は、稲葉内匠助正成室なり。慶長の頃迄ありけるが、加々野江の城主オープンアクセス NDLJP:22加々野江弥八郎・三井の城主三井弥市等は、皆彼の末流なり。三井氏は、加州に有之なり。

 
土岐氏零落、斎藤道三の事
 
土岐美濃守政房、当国の屋形にして、明応六巳年、厚見郡川手の城に住し、守護職たり。其後、永正十二年六月、当職を嫡子盛頼に譲り、其身は、方県郡城田の城に隠居し、後同十六己卯年六月、可児郡米田の里にて卒去也。嫡子盛頼、家督を受継ぎ、川手の城に在住なり。二男左京大夫頼芸は、永正十六年五月より、方県郡鷺山の城に在住し、其外の息男、所々に在住し、其威専ら壮にして、一族倶に栄えける。斎藤道三家系然るに其頃、斎藤道三といふ者あり。其由緒を尋ぬるに、元来其先祖、禁裏北面の武士なり。藤原氏にして、大織冠鎌足公六代の孫、河内守村雄の子、武蔵守従四位下鎮守府将軍藤原秀郷の六男、従四位下千常の子、相模守公光の四男、同公俊、其子山城守経秀、其子秀遠、其子佐藤筑後守遠義、其五男五郎義景、其三男左近将監義忠、其子甲斐守時忠、其子重房、其子七郎左衛門遠景、其子松波三郎左衛門遠宗、其子松波弾正康宗、其子同藤大夫宗通、其子同右近将監宗春、其子左近将監信宗、其子同盛宗、其子次郎大夫氏宗、其子左近将監基宗、其子道三なり。松波、代々上北面の侍なりしが、基宗が代に至り、故ありて、山城国乙訓郡西の岡に居住す。道三は、永正元甲子年五月出生。童名峯丸といふ。生れつき美々しく、諸人に勝れ、幼少の砌より智慮賢く、成人の後は、然るべき者ともならんと、寵愛甚しかりける。父基宗、峯丸が生得只ならざるを察して、凡下になし置かんも残念なりとて、峯丸十一歳の春出家させ、京都妙覚寺の日善上人の弟子となし、法蓮房と号す。元来利発の者なれば、日善上人に随身して、学は顕密の奥旨を極め、弁舌は、富楼那にも劣らず、内外を能く悟り、頗る名僧の端ともなりぬ。然るに、又此日善上人の同じ弟子に、南陽房といふあり。此南陽房は、法蓮房が次弟子にして、年齢も二歳下なり。此故兄弟子法蓮房を慕ひて学を極め、其間断金の交にして、殊に睦しかりける。扨此南陽房といふは、美濃国土岐氏の幕下長井豊後守藤原利隆が舎弟にしてありけるが、是も仔細ありて出家し、幼少より日善上人の弟オープンアクセス NDLJP:23子となり、法蓮房の傍輩たりしが、元来発明の生れなりし故に、諸学の奥旨を極め、法蓮房にも劣らざりける。其後、段々諸学に達し、近代の名僧となりて、日運上人と号しける。然る所、永正三丙子年二月、舎兄長井豊後守が請待に依つて、濃州厚見郡今泉の郷鷲林山常在寺の住職となりて、美濃国に帰りぬ。扨又法蓮房は、常々南陽房を引廻す程の者なれば、専ら無双の名僧なりしが、或時如何なる心か付きけん、三衣を脱ぎて還俗し、西の岡に帰りて住居し、奈良屋又兵衛といふ者の娘を娶りて妻となし、彼の家名を改め、山崎屋庄五郎と名乗りて灯油を商内あきなひす。後に父が氏を用ひて、松波庄五郎と号す。元来此者、心中に大志もありけん、出家の間にも、和漢の軍書に眼を晒し、合戦の指揮、進退懸引の奥義を学び、又能く音曲に達し、或は弓炮の術に妙を得たり。大永の頃より、毎年美濃国に来り、油を売りけるが、彼の厚見郡今泉の常在寺の住職日運上人は幼少の砌の朋友、其知辺あるに依りて、数日常在寺に来り、様々の物語などして、当国の容体を窺へり。元来聡明英智にして、武勇剛計を志して、身は賤しき商民なれども、心剛にして、思、内にありと雖も、時を得ずして本国を離れ、斯の如く身を落し、濃州に来り、立身出世を心懸け、川手・稲葉・鷺山などの城下に至り、日々灯油を売り歩行きけるが、弁舌を以て諸人を欺き、或時、人に向つて申しけるは、我等油を計るに、上戸を用ふる事之なく、一文の銭を以て、この穴より通すべし。若し穴より外へ、少しにても懸りしならば、油を無価にて進ずべしといひければ、皆人、是は希有の油売なりとて、城下の者共、余人の油は曽て求めず、只庄五郎が油をのみ買ひける故に、暫時の内に、数多の利分を得て、大に金銀を貯へ、猶も油を商内しける故、稲葉山の城主長井藤左衛門長張が家臣矢野五左衛門といふ者、此由を聞きて、庄五郎を呼びて、自ら油を求めければ、畏つて銭一文を取出し、件の油を、四角なる柄杓にて汲み出し、流るゝ事糸筋の如く、細く滴つて、銭の穴を通しければ、五左衛門大に感じて申して曰く、誠に是れ不思議の手の内なり。能くも手練せしものぞかし。去り乍ら惜むべし。是程に業を能く得たれども、賤しき芸なる故に、熟したる所が、僅の町人の業なり。哀れ斯程の手練を、我が嗜む所の武術に於て得る程ならば、適れ後代に、其名を知らるゝ武士ともなるべきに、残念なる事よと申しける。オープンアクセス NDLJP:24庄五郎之を聞きて、実にや矢野が一言、其理に至極せりと、我が家に帰り、其儘油道具を売払ひ、右の商売を止め、心中に思へらく、我れ聊か軍書に心を寄すると雖も、未だ熟せず。何れの芸を嗜むも、其極意の至る所は、一文の銭の穴より油の通るに、外へ懸らざる如く、皆手の内の究まる所なり。弓矢鉄炮の能く的当するも、此理に等し。さらば長鎗を手練せんと欲し、自ら工夫をして、我が家の後に行き、藪のありけるに、銭一文を、竹の先に釣り置き、三間半の長鑓を拵へ、穂先は細き釘を以て製し、一心不乱に、毎日々々銭の穴を目懸け、下より之を突きけるが、中々始めの程は、掌定まらず、突通すこと能はざりしかども、極志も業も一心にありと、兵書にいへる如く、一心二業一眼二早速一心眼に入り、早速心に入りて業定まり、後には終に、之を突通す程になりしかば、百度千度突くと雖も、一つも外す事なく、其術殆んど一心定に止りたり。則ち之を旨として、名師とさへ聞けば、忽ち随身してこれを励み、切瑳琢磨の功を積み、武芸兵術一つとして欠くるなく、実に希代の名士とぞ相なりける。世に三間半の長鑓流布して遣ひけるが、是より始めたり。尤其徳普く多かりぬ。又炮術に妙を得たり。細やかにして、提針をも外さず。天正の頃、明智光秀炮術に妙を得たりというて、其名を知られしは始め此道三を師として、之を手練せし故なり。扨庄五郎、武芸の奥義を極め、是より弥々立身を心懸けゝるに、常在寺の日運上人、昔の好身よしみを思ひ、是に取入りけるにぞ、則ち日運の吹挙を以て、長井・斎藤家へ出入させしむ。是より彼の家に得意となりて、出世の道を求めけるに、庄五郎始め出家の間も、遊山翫水を好みて、又乱舞音曲に堪能し、弁舌利口の者なる故に、一を聞きて万を悟り、諸人の心を能く取り、誠心を顕しける故に長井藤左衛門長張、これを深く愛し、常に興を催し慰みける。此長井藤左衛門は、土岐氏の執権にして、始めは池田郡白樫の城に居住しけるが、府城へ程遠くして、世務に便宜悪しとて、嫡子左衛門利親、明応五年の冬討死の後、孫の勝千代後見の為め、居城白樫には、家老矢野五左衛門を残し置き、其身は、本巣郡に要害を構へ住し、又稲葉山の麓長良に、館を建てゝこれに住み。国中の政務を執計らひけるが、其後、山神の告あるに依つて、館を点じて寺となし、長良の崇福寺と号す是なり。夫より稲葉山の城に在住なり。扨藤左衛門長張、庄五郎を大にオープンアクセス NDLJP:25愛し、末の頼みともなるべき者ならんと思ひ、其後藤左衛門吹挙を以て、川手の城へ召連れ行き、斎藤道三土岐政房に仕ふ屋形政房に目見えをさせ、此者利発英智にして、武芸遊芸一つも欠くる事なく、万能に達せし者に候へば、少禄にも召抱へ置かれ然るべきやと、執成しける。然るに屋形政房の嫡子左衛門尉盛頼は、万人に勝れたる良将なりしかば、庄五郎が人相骨柄を見て、密に父政房、及び執事藤左衛門に申されけるは、此者諸芸に達し、発明なるはさる事ながら、胸中面だましひ、何さま大事を企つべき相あり。智弁音曲に傾き、之を愛するは、渠が謀計に落入るに等し。麁忽に親しむべき者にあらず。止め置かば、頓て災を発せん。無事の内、早々我国を追立つべしと申され、川手の出仕を止められける。道三逐はる藤左衛門心を尽して、再諫すと雖も、大守の若君の命なれば、詮方なく召連れて退出し、先づ我方に止め置き、折を見て是非執成せんと差控へ居る。庄五郎此事を聞きて、大憤しけるが、九牛が一毛、すべき様なく、怒を押へ時節を窺ひ、此恨を散ぜんと思詰め、弥々国家を押領するの志を尽し畢。
 
美濃国諸旧記巻之一
 
 
 

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