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美濃国諸旧記/巻之八

目次
 
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美濃国諸旧記 巻之八
 
 
池田氏美濃来由の事
 
池田氏家系当家は、清和源氏摂津守頼光の子、美濃守頼国、其子参河守頼綱、其子兵庫頭仲政、其子源三位頼政なり。頼政の舎弟右馬允泰政は、母方の叔父紀朝臣泰貞の養子となりて、紀姓に改む。美濃国可児郡池田の庄は、外祖の領地なり。此故に泰政当地に住して、美濃介と号す。其子、氏を改め、池田蔵人俊政と号す。此代に至り、又姓を源に返改す。池田氏は楠正行の末胤是れ則ち池田氏の元祖なり。然るに池田氏は、楠帯刀左衛門橋正行が胤にして、源・橘の両姓なりと、世にいひ伝ふる事ありて、濃州の池田氏をも、是なりといふ説、甚だ不審なり。曽てさにあらじ。彼の楠の胤子を以て、池田の家を継がしめたるといふは、摂州の伊丹・和田・池田の一類なるべし。摂州の池田氏は、楠正行の血脈のオープンアクセス NDLJP:120家たり。和田氏は、楠正武の末なり。此和田氏は、天正の頃、高槻の城主和田伊賀守雅政迄、連綿として在住たり。荒木摂津守村重が為に滅亡す。濃州の池田氏を以て、楠の血脈といふは、諸家伝記、并に濃陽諸士伝記・大系図などにも、決して見えず。扨又近代池田と、名を得し郷々は所々にありて、甚だ紛らしく候。江州建部の池田・濃州の池田郡・摂州の池田の里・遠州の池田の宿、倶に様々なり。同じ濃州の内にても、池田郡西美濃なり。池田の庄は、東美濃可児郡なり。又厚見郡郷渡川の上鏡島村べに川の辺を、池田と今世俗のいひ伝ふるは、大なる誤なり。是は尤其故なきにしもあらず。慶長五年、関ヶ原合戦の時、岐阜の城を攻むる為め、池田三左衛門輝政、諸勢に抽んで、一番に大川を渡し、大功を立てたる故に、いつとなく此辺を池田の渡といへり。是れ池田の人数渡りし故に、今斯く異名せり。曽て古よりの名にあらず。関ヶ原陣より以来の俗説なり。是又摂州の池田氏、楠の胤なる事は、楠帯刀左衛門尉正行、南朝の正平二年正月五日、河内国四条畷の戦にて討死す。其妻室は、摂州能勢の住人内藤右兵衛尉満幸の娘なり。正行之を具して室とし嫡男多門丸を設けしが、是は四歳にて早世す。然るに父正行討死の後、舅内藤満幸、不義の振舞ありけるに依つて、正行舎弟左馬頭正儀之を憤りて、兄が後室を、父内藤右兵衛尉が許へ送り返したり。此時後室は、正行の胤を懐胎してありけるが、同国池田の住人池田九郎教依に再縁して、七ヶ月を経て男子を生む。是れ正に正行が二男なり。童名美勝丸といふ。則ち教依が家名を受継ぎて、池田十郎兵庫助教正といふなり。扨又池田九郎教依が父を、池田五郎政依というて、南朝に味方し、新田義貞に属したり。古今精兵の手垂の人なり。延元元年五月、湊川合戦の後、義貞と倶に山門に楯籠り、本間孫四郎重氏・相馬次郎左衛門重忠等と倶に、強弓を引きて寄手を射殺しける事、武名諸人の知る所なり。然るに濃州の池田氏も、右馬允泰政の末なり。又摂州の池田氏も然り。其由緒詳ならずと雖も、何れ兄弟の家ともいふ。池田兵庫助教正は、明徳二辛未年二月廿八日、池田の五月山の城にて卒去す。法名を高法寺といふ。今摂州池田の里に、待兼山高法寺といふあり。池田家の菩提所と見えたり。教正の子を、池田十郎備中守佐正といふ。是は永享十一己未年三月四日卒去。法名聖玄院オープンアクセス NDLJP:121前備前安公大禅定門。其子を六郎恒正といふ。母は野田の住人野田左近宗幸の娘なり。其子を、太郎筑後守恒之といふ。是より累代摂州池田に住して、織田信長の時代には、池田筑後守勝政〈或は光政〉というて、明智十兵衛光秀之を攻立て、足利新公方義昭公に、帰伏させしむる所なり。元来摂州の池田は、他に出でず。数代此地に住居しけるを、楠が遺腹の血脈あるを以て、所々にて池田氏とさへ号する族は、楠が末流ならんと称せられん事を欲して、其実正なきをも、皆楠が末なりと号す。其故に紛はしき名なり。楠は、元来本朝無双の名士たるに依つて、其末流と呼ばれん事を欲す。若し楠無道柔弱の士ならば、誰か之を称せんや。扨又、爰に池田恒之の孫池田三郎恒利といふあり。永正より大永・享禄の頃の人と云々。摂州を出でて、始め足利将軍義晴公に属し奉り、紀伊守に任じ、故ありて後に江州に来り、佐々木定頼の扶助を受けてありける。独身たるに依つて、江州建部の一族池田又三郎が娘を娶りて、室とすといふ。然れども或人曰く、恒利といふは、佐々木の被官にあらずと難じけれども、其証あり。既に恒利の子勝三郎信輝の小招きの印は、四つ目くづしの定紋を顕したり。是は則ち四つ目結の印を、佐々木家より。拝領せしと見えたり。然れば此恒利のみは、尤正しき説にして、後に濃州に在住すと雖も、実に正行の庶流の家ともいひつべし。其余は信ずる所なし。扨恒利は、其後、天文の始めの頃、濃州に来りて、池田郡本郷の萩原といふ所に、暫く居住す。子息三人あり。嫡子孫太郎家利・二男は彦次郎長利・三男勝三郎恒興といへり。嫡子孫太郎は、萩原の里にて卒去。而して恒利は、土岐氏に伏して、武儀郡志津野の城主となると云々。又一説に曰、恒利は尾州に移り、居住すといへり。然れども濃州にては、池田の住せし所、様々にありと雖も、尾州にては、居住の地詳ならず。織田信長の乳父といへり。其故は、恒利に一人の女子ありけるを、織田備後守信秀の手に仕はしむ。信秀の子信長の乳を付くる故なり。或は曰く、恒利の妻室、則ち信長の乳母にして、信長と勝三郎は、乳兄弟なりと云々。此方実なるべし。勝三郎恒興は、信秀より一字を賜はり、信輝と相改めける。又輝の一字は、将軍義輝公より給はりしといふ事、大なる誤なり。信ずべからず。此時代々に、信秀・信長父子共に、将軍家には陪臣の家なり。池田は其オープンアクセス NDLJP:122臣なり。御一字拝領の謂れなし。扨池田勝三郎信輝は、始終信長に仕へて、忠節武功隠れなし。後に紀伊守となり、天正十年午の六月八日、入道して勝入斎といふ。又恒利の二男彦次郎長利は、後に池田庄兵衛政義と改め、土岐頼芸に仕へ、後に斎藤義龍に属して、弘治二年四月十九日、鷺山の戦にて討死す。之れ又居住の地は、武儀郡志津野といへり。扨又土岐氏にも、土岐西池田・東池田といふなり。又土岐氏連枝明智家の一族にも、池田氏あり。是は可児郡池田の住人にして、応永より以来の者なり。同じ可児郡と雖も、彼の泰政の末流と紛らすべからず。東美濃可児郡の在郷に、鳥井・松高山・神野・勝川・明智・坂下・内津・池田・釜戸・竹折抔といふ所あり。皆一並の地にして、尾州に相隣りし所なり。扨又濃州先の池田氏、源三位頼政の舎弟右馬允泰政七代の孫を、池田左衛門大夫義政と申しけるが、此代迄、元祖泰政の舎兄頼政が、近衛院の御悩を治せし時の鵺を射殺したる重代の弓、相伝し来りけるを、義政の代に至り、故ありて当国の屋形土岐大膳大夫頼康の舎弟揖斐出羽守頼雄に、相譲りて死去す。子なくして、家は是にて断絶すといへり。足利将軍義詮公の御時代なり。尤是迄代々、可児郡池田に住せしといふ。明智一族の池田氏は、是より遥、後に出でたる家なり。古老の曰、彼の弓は、揖斐の家に代々相伝はり、近代徳川家の幕下揖斐氏にありといふ。扨又義政の跡目を、同姓池田五郎信政といふ者、之を継ぐともいへり。一説に、彼の弓は、信政の代に至りて、衛斐に譲りしともいへり。然るに、此池田信政の妻室は、楠帯刀正綱といふ者の娘なりといへり。此等を以て、楠に紛るゝ事もあらんか。濃州の池田は、曽て楠氏の血筋なし。彼の池田蔵人俊政の末は、累代当国の住人なり。俊政の子池田左衛門尉俊勝といふ。其子太郎俊兼、其子蔵人大夫国家、其子国幸、其子左衛門大夫義政なり。是迄可児郡に住居たり。曽て外の地に住せし事見えず。又池田恒利は、武儀郡志津野の城主として、暫く是に住す。又津村の城に住せしと云々。是に依つてか、方県郡曽我屋村の辺に、生津七郷の総社津大明神といふ一社あり。生津七郷は、池田の領地なるべし。当社の縁起棟札には、池田三郎源恒利とあり。然れば津大明神は、恒利の氏神、且は守護神なるべし。恒利一頃曽我屋村の片辺に閑居してありける。是は尾州より、再び旧領に帰オープンアクセス NDLJP:123りて住せしと見ゆ。歌に、

   我が庵は月見ヶ原の程ぞかやかたむく庭のかげぞ惜しけれ

古老の曰く、月見の里といふは、津の辺なりといへり。扨恒利は、天文九年子九月九日、此所にて卒去。或は斎藤道三と戦ひ、討死といへり。年齢五十一歳。法名桂景院と号す。遺言に依つて、家臣宗慶舎人といふ者、其死体を、津大明神の鳥居の下に埋めたりといふ。今は田所となりて、其中に五輪の石塔ありぬ。是なるべし。星霜久しくふりぬれば、当時の里人古老に尋ぬると雖も、其説を委しく知る者稀なり。只古書記に残りしを以て、信ずるのみなり。又恒利・信輝父子家の定紋には、桔梗と橘なり。或人、桔梗は、土岐氏より拝領なりといふ事誤なり。桔梗は、頼光の愛花なれば、之を家紋として、土岐氏も源三位も、子孫たる者之を用ふるなり。摂州の池田も、其先祖は泰政たり。然るを信輝の代に至りて橘の形を改め、三葉の立笹にしけると見えたり。同時に信長より、家紋平氏の蝶を拝領して之を用ふ。恒利は、始め勝山村〈加茂郡〉に住すともいへり。而して後、武儀部志津野の城主となりしなり。何れの地も、土岐の下なり。此故に、織田の臣下にあらず、土岐の幕下たるべし。信輝は、織田の臣たり。濃州岐阜・尾州犬山等に住し、後に濃州大垣の城に住す。知行高十一万石の余なり。又池田郡萩原の郷に、暫く住せし事もありとなん。嫡子を新太郎元助といふ。後に紀伊守と号す。永禄七甲子年二月八日、尾州中島郡にて誕生す。母は津田与三郎娘といふ。天正七年卯の十二月、摂州の住人荒木摂津守村重征伐の砌、伊丹・有岡の戦に、十七歳にて初陣す。二男を小新発といふ。後に三左衛門輝政と改む。永禄九年寅七月生る。十五歳にて、兄と同時に初陣す。三男小三郎、後に備中守長吉といふなり。天正十二年、織田信雄卿と羽柴秀吉、尾州小牧山の麓、長久手の合戦の節、池田勝三郎信輝入道勝入斎の聟、森武蔵守長一と倶に秀吉に随ひ、信雄と合戦す。此時徳川家、後詰之あるに付きて、勝入斎も武蔵守も、頗る勇猛の将なれども、不意を討たれ、勇に余り血戦して、森武蔵守は、井伊兵部直政と戦ひて鉄炮に中り、大久保七郎左衛門忠世の与力本多八蔵に討たるゝ。行年廿二歳なり。法名鉄囲秀公と号す。勝入斎は、永井伝八郎尚政が鉄炮に中り討死す。時に四月九日巳オープンアクセス NDLJP:124の下刻なり。法名有峯院護国勝入と号す。一説に曰、勝入斎、始め馬を打たせて、歩行立になり戦ひけるが、藤の蔓に足を引かけ倒れけるを、敵兵来りて、鑓にて突くともいへり。此故に彼の家にて、藤を悉く忌むといへり。嫡子紀伊守之助は、父勝入斎を助け落さんとて、大勢を引受け防戦して、安藤帯刀直次に討たるゝ。紀伊守之助の内室、斎藤左京大夫義龍の娘にして、長井隼人佐道利の養女とせり。二男三左衛門輝政も討死せんとしけるを、家来の軽卒塙の何某、馬の口を取つて引返しける。依つて命を保ち、子孫長久たり。神戸侍従信孝落去の後、三左衛門は、岐阜の城を相守る。尤も其先岐阜の城に天守を上げ、要害を構へ総堀を掘り、山下に屋敷を拵へ、新屋倉を造営せり。是れ三左衛門が修造なり。此故に、関ヶ原合戦の時、城の案内を能く知りたるに依つて、一番乗したると見ゆ。尤我が造営したる故に、火をかけん事を惜しみたると見えたり。其後、参州吉田に移りて、十五万石を領す。大阪陣の節は、播州姫路にて、五十万石を領せり。長吉の子豊政代に、備前岡山の城を賜はるなり。輝政は、慶長十六年五月十六日、姫路にて卒去。年齢六十三歳といへり。法名国清院と号す。濃州にある池田氏、数多あるに依つて、其由緒を是に記す。泰政の末流池田氏は、可児郡池田に住して、足利将軍義詮公の御代に断絶す。明智一族の池田氏は、応永以来にして、可児郡池田に住す。此等は、決して楠氏の血脈なし。同じ泰政の末なれども、恒利は摂州の池田にして、楠氏の血筋として、江州に来り又濃州に移り、或は尾州にも暫く住して、濃州曽我屋にて卒去したり。其嫡流の子孫は、濃州池田郡萩原にあり。三男より、尾州織田家に仕官せし者なり。其前後を紛らすべからず。

 
白石山姫ヶ井の事
 
姫ヶ井の古跡大野郡揖斐の東なる谷汲山観音への参詣の路次、白石といふ所あり。此山の麓に、姫ヶ井といふ清水あり。又此白石山の崎半腹の所に、八畳岩といふ大石あり。是は其岩の上、平にして美しく、畳の数を八畳程敷くべきの平石なる故に、おのづから名となれり。扨美濃国に、姫ヶ井といふ所三ヶ所あり。白石の姫ヶ井、并に不破郡青墓村の西、右の方の田の中に、松の古木ありて、其下に姫池といふ清水あり。是は往昔、オープンアクセス NDLJP:125小栗判官の妾照手といふ美婦の用ひたる水にして今姿見の池といへり。照手といふは、赤坂宿の万屋の丁といふ者の所に、仕をなしてありけると云々。右丁が子孫は、赤坂にあり。又安八郡結父村にも、照手の姫勤めしてありける故にとて、彼の所にも古跡あり。扨又東美濃可児郡姫ヶ里にも、姫ヶ水といふ霊水あり。是は大昔の頃、横萩右大臣藤原豊成の御息女中条姫、或年此里に住し給ひ、其庵の前なる清水を取りて、朝夕之を用ひ給ふといふ。中条姫の住せられし郷なる故に、此地を姫の里と号せしなり。其故に、其流の今に残りてありけるを、末世の今に至る迄、姫が水と申しけるとなり。中条姫といふは、和州当麻寺にありける曼陀羅を織り給ひし人なり。此姫、又此姫の里に住し給ひける時に、蓮の糸を以て織り給ひし曼陀羅とて、恵那郡安村の禅寺に納りて、今にある事顕然たり。然るに此白石の姫ヶ井といふは、由来を尋ぬるには、是れ西国順礼の往来の道端なり。其所の山際に流るゝ少し計りの水なり。是は其源白石山の峯の所より、自然と涌き出づる清水にして、誠に細谷川の漲なるが、段々落合ひて、滝の如く流るゝを、麓に井筒を構へ、堰き入れて之を溜めつゝ道行く諸人の渇を凌ぐ便として、設けたるものなり。然れども、今はおのづ。から廃りて、心を付くる人も稀なり。されば其名久しく聞えある姫ヶ井なれば、心に止めて、古老に其謂れを尋ねて、其物語せし事をのみ記せり。是は昔、延喜以前の頃とかよ、天満天神の、谷汲山の華厳寺にて、御経を書写し給ふ事ありけるが、其時とや、此白石の川の淵より、龍宮の乙姫出現し給ひ、朝な此山の井水を汲んで、手づから携へ給ひ、阿伽の水に運び奉らる。是に依つて。此清水を、いつとなく姫ヶ井と号せしとかや。彼の乙姫の姿は、諸人の目にかゝる事なくして、聖廟の御目にのみ見えさせ給ふとぞ。又乙姫の御製とて、聖廟に伝へ給ふ古歌に曰く、

   この頃は汲みては知らん山の井の浅さ深さを人の心に

扨又、其御経は、谷汲山の毘沙門天の腹心に、納め給ひてありけるなり。彼の山の上に、妙法水といふ所あり。其遺跡なりとぞいふ。斯くて時移り事去りて星霜も久しく旧りたれば、姫ヶ井も、おのづから落積る木の葉に埋もれ、茂り合ひたる八重葎にとぢられて、在所さへも弁へざりしとなり。此水、元来清き霊水にして、流れ注ぐオープンアクセス NDLJP:126程の田所、皆以て五穀豊饒なり。白石の近郷の清水などといへる里の流れも、此名を引きし故とかや。水の性清冷として、甘味潔き泉にてありける。百病を癒し、万江を沾す事、当国養老の菊水にも等しといふ。取分け難産の婦人、此水を用ひて平産し、母子共に安全たる事其例多し。殊に不思議といふ。又極暑の頃、小児の輩、汗かぶれ、汗いぼというて、頭面のあたり、病の発する事あるに、此水を以て洗ひ、且行水等なしけるに、忽ち平愈しける事神の如し。是れ則ち観音の御加護、福寿無量の大悲の誓、空しからぬ故なりといひつべし。猶其流れの末は、株瀬川に落入りて、伊勢や尾張の方、遥の南海に落ち、其果知るべからず。されば是を以て按ずるに、古は株瀬川の流も、此白石の山の麓を通りしと見えたり。谷汲山観世音、卅三ヶ年目に開帳之ありけるが、其頃には、別して参詣の貴賤袖を連ね、順礼の男女夥しく、引きも切らず、山辺を伝ひ通る体、遥にありて之を見れば、影殊に風雅にして、一入の詠なり。漸漸春の日より、炎暑の時節に向へば、道行き振の袖ひぢて、行く人殊に姫ヶ井と流を汲みて行き通ふ。誠に功徳他の水ともいひし物語なり。

 
桂の郷旧跡の事
 
大野郡揖斐の西、桂の郷といふ所あり。是は其往昔は、無双の繁華の地にして、絶景の在所といふ。代々桂の長者花ノ木氏といふ者居住しける。然るに此花木氏といふは、其先祖を尋ぬるに、碓井靱負丞貞光の末流なり。貞光と申すは、人皇卅一代敏達天皇五代の孫、左大臣橘諸兄公の孫、太政大臣清友より、六代の後裔、河内国交野の住人、交野荒太郎時澄の子、同国古市郡長野の庄確井の住人、碓井太夫公貞の一子なり。然るに貞光は、天延三年の頃、上総の国に於て、源頼光に仕へ、腹心の肱股の忠臣となりて、四天王と称せられ、片時も主君の傍を去らず、千忠万功を尽し、生涯の名誉莫大なり。然るに大守頼光朝臣は、長保三年丑の四月より、美濃守となりて、当国に入任せられ、寛弘七戌年迄十ヶ年の間、岐阜の城に住し給ひ、其後、任限充ちて、陸奥守となりて、奥州に下向せられ畢。頼光、美濃任国の中、四天王の面々は、皆君命を承り、国政を執行する為め、一国の内にて庄園を給はり、東西南北の四方の郷オープンアクセス NDLJP:127郷に在住して、政事をなしけるといふ。所謂一老の家臣渡辺綱は恵那郡中津川に、居城を構へて東方を守護し、信濃口の政務を司る。平井保昌は墨俣に住して、尾州口の政務を取る。卜部季武は、郡上郡小野に住す。坂田公時は、多芸郡横曽根に住せり。確井貞光は、則ち此桂の郷に住しけると云々。然るに貞光、当所に居住の砌、此桂の郷に、数代住しける長者に、藤内兵衛家景といふ者ありけるが、一人の娘を持つて、殊に寵愛深かりぬ。貞光、此家景が娘を相具し、暫く妾としてありけるにぞ、程なく一子を設く。其後、当国の任終りて、頼光には、奥州に至らせける故に、貞光当所を立退くの砌、形見の一子を、桂に残し置きぬ。是に依つて、祖父家景之を養ひて、我が家名を継ぎ、碓井三郎太夫貞致といふ。後に氏を花木と改め畢。貞致の子花木藤内左衛門家定、其子藤内兵衛家致といふ。当国の守護加茂次郎義綱に属して、天仁二年丑八月廿八日、江州甲賀山にて生害せり。其子弥太郎宗貞といふ。其後子孫代々、桂の郷に住して繁昌せり。確井貞光は、此外に実子ありと雖も、早世して子孫なし。然れば此花木の外に、其血筋たる者曽てなし。所々紛るゝ者ありと雖も、信ずるの所あらじといふ。然るに此桂の郷に、千代河戸というて、其所より自然と涌き出づる清水あり。其由来を尋ぬるに、足利将軍尊氏公の御母、〈或は御伯母ともいふ、〉同氏讚岐守へ嫁して、相州鎌倉に御座せしが、乱を遁れて尼となる。

〈相摸次郎平時行再び起りて、建武二年七月十三日、鎌倉な攻破り畢。此時の事なるべし。〉扨禅尼は人目を忍び、星月夜鎌倉山を忍び出で、其頃名僧の聞えある京都天龍寺の開山夢窻国師を師として、諸教を修し、教外別伝不立文字、直指人心見性成仏の悟の道を明らめ、近代無双の智識たり。一説に曰く、加州千代野といふ所に、年頃住し給ひける故に、禅尼の名を、千代野の尼公と称せしなり。千代野の禅尼其故にや、いつとなく名となりて、千代野殿と申しけるといふ。斯くて一つ所に止まるべきにあらずとて、諸国を遍歴して、越前の国に赴き、或一流の大守に案内して、立入られける。〈平泉寺といふ。〉生得美麗の禅尼なりける故にや、彼の寺の主僧、頓て出迎ひ、何の斟酌もなくして、其前陰を顕し答〔〈本ノマヽ〉〕へて曰、坊が物は三尺と問うたり。尼更に臆する体もなく、同じく陰所を顕して、相対にして曰く、尼が物は無底と答へたりといふ。主僧心中を感ず。扨問答終りて、住持に対面なしてより、数月当院に止宿せられぬ。此オープンアクセス NDLJP:128尼天性麗質にして、美顔類なかりしかば、衆寮の若き坊主等、折に触れては懸想しけるを、うるさくや思ひけん、或時大会のありしに、此尼衣帯を解き、裸形となり、声を烈うして曰、大衆の内、何某の若僧、我に向つて日頃艶言を宣へり。心あらば、今爰に来られよ。相会せんと申されければ、彼の僧大に仰天し、面皮焼くが如く、脇汗冷くして流れ、針座の上に居するの思をなし、漸く会座を退き、這々になりて逃行きけるを、穢し返せの声只耳に止りて、足の立ちども弁へず、行方も知れずなりけるといふ。誠に希代の活漢とて、女天和尚とも称せしとかや。大会果てければ、千代尼も旅立して、東山道に差懸り、当国に来り、東美濃関の近所、見延といふ所の辺、ある尼寺に身を寄せて、暫く住し給ひ持花汲水怠らず、一日水を汲まれしが、桶の箱や切れたりけん、底抜けて、手を空しく帰られしが、禅尼の胸中、洞然たる事ありて、詠める歌に、

   とにかくに頼みし桶の籠ぬけて水たまらねば月も宿らず

悟道得道の人なれば、其名近隣に聞え高く、所の名をも、則ち千代野と号せしとかや。其寺今にあり。此寺に住する尼は、必ず長老ならでは叶はずとかや。道徳といひ、族といひ、旁由緒のありける事にや。世人悉く感慮尊敬す。夫より千代野禅尼は、西美濃に移り、大野郡当所桂の郷に来り居住せらる。其年は、延元三戊寅年二月なりといへり。是は夢窻国師と、師弟の縁ある故にや、但し土岐氏の本国故にや。斯くて桂の郷長者花木弥太郎政和といふ者、禅尼を尊敬して、我が領園の辺なる山の麓に、美麗なる庵室を営み、是に入らしめて、住居させしめ畢。此花木弥太郎といふは、其先に、弥太郎宗貞より八代の孫にして、相替らず桂の郷に在住しける者なり。然るに此禅尼の住せられし庵室の前に、一流の小川ありけるが、殊に清らかにして、夏日には、其冷気甚しく、冬日に至れば、水気温々として、朝夕陽炎立覆ひぬ。人々此川を、千代河戸といひけるとぞ。尼公聞きて喜び、扨は此流れの中は、尼領にこそありけるやとて、戯れ詠める歌に、

   千代に住む月のかつらの香をとめて流るゝ水はあまの川かも

一説に、此尼は、花木氏の娘なりといへる事、至つて誤なり。総じて此郷は、四囲皆以て高山峨々として、巌石上下に聳え、雲霧、山のとこしなへに迫り、片地にして、谷のオープンアクセス NDLJP:129中にありと雖も、一体の地平にして山を形どり、絶景の地たり。星霜経るに随ひ、次第に土肥えて岡を現じ、彼の洞此の洞などと様々ありて、家居すべき洞共多く、其地境、鎌倉に能く似たるといふ人もあるとなり。其頃は、大郷の地にして、山の内地面滑にして、大なる人家千軒といへり。別して農人は、朝夕の業も繁く、民の竈も賑はしく、いつの世にか、人家も次第に流亡せしや、年を追うて衰微の地となり、其名も消えて失ひぬ。一説に曰、天文・永禄の頃には、未だ人家も多くして、繁地なりといひし人もありとなん。扨又、其頃加州の落人山岸新左衛門蔵人光章といふ者、北国にありて、南朝に組し奉り、新田義貞・義助兄弟に合力して、加州より越前に打つて出で、足利高経以下と数ヶ度戦ひ、武勇を振ひけるが、暦応元年閏七月二日、越前足羽にて、大将義貞生害の後、山岸は越前を去りて、美濃国に落ち来り、土岐頼康に随順しけり。是より山岸光章は、入道して道貞と号し、此桂の郷に来り、牛ヶ崎といふ山の麓に、一の館を構へて是に隠居せり。又桂の郷の大伽藍月桂山康永寺に、閑居しけるともいふ。山岸氏、此地に来りて閑居しける事は、光章の末子新五郎といひてありけるを、花木弥太郎政和に子なき故に、養子としける。則ち此養子花木藤内貞清といふ。弥太郎の弟弥次郎政吉といふは、土岐頼康の老臣なり、旁其由縁あるを以て、光章此地に閑居しけると見えたり。千代野尼公と、其庵近く住しけるまゝ、倶に志を称して、懇情しけるとかや。其故にや、千代野の詠める歌とて、様々ありけるが、皆牛ヶ崎の山岸の館に止まり、子孫迄も伝はりてありけるとぞ。右千代野尼公、自筆にてありける歌共見けるまゝ、是に止めたりぬ。

かつら山きしの花の木ならべつゝさかえて薫る千代の橘

牛崎の館も雲井のすゑかけて住みながら行く千代の川水

かつらなる千代の清水の底澄みて心に月の影はうつるや

秋の夜の月も猶こそ澄みまされ世々に変らぬ千代が川水

夕日さすかつらの岸は雪見えてしぐれにくるゝ山岸の里

なを照らせ代々にかはらぬ桂山岸に月影うつりましけり

手弱女の姿とな見そ色も香も知る人ぞ知る千代の後には

オープンアクセス NDLJP:130斯くて千代野は、康安元辛丑年十月二日、遷化せられける。年齢七十八歳といふ。臨終に至る迄、名匠にして座禅合掌し、五色の花、此河戸に降りけるとなり。一説に曰、紫雲の棚引きしなりといへり。時移り事去りて、其旧跡は今田跡となり、川の流もいつしか埋りて、僅に残れる溜水のみ、哀れ果敢なき世語とはなりぬ。あやしの山の奥なれども、名は止まりて、千代河戸、月は昔の桂の里、古き翁の物語、聞きけるままに記し畢。
 
桂の郷重石かさねいしの事
 

桂の郷の内、持多星もつたほしの先、東の方の由の際に、重岩といふあり。其形、大なる石を、上下二個重ねて、石碓の如し。其由来を聞き、如何なる者の拵へるぞといふに、碓井貞光が、戯になし置きたる事といへり。扨源頼光朝臣、美濃守に任ぜられて、当国の府に住し給ひける砌、其臣確井貞光は、桂の郷の庄園を給はり、此地に住しけるにぞ、元来貞光は和歌に達し、又庭作を好みて、自ら土地を繕ひ、爰彼を耕し、樹木草花を植ゑ、山水の楽をなして、美景を尽せり。依つて此地へ、大守頼来光臨し給ふ事、折節なり。然るに寛弘三午年の春とかや、貞光、心中祝賀の宴ありて、我が子孫の者、必ず当地に永く住すべしと思ふ故あるに依つて、重代の武器一通り、并に黄の地の表に、山吹に流水を顕したる家紋の旗一流れ・万葉集一軸・太刀一腰、其外の珍宝等を焼壺に入れて、当城の地山の岸に、大なる穴を掘りて、彼の一瓶を深く埋め此地に残す。末世の印なりとて、彼の上へ、大なる石を持ち来りて之を置きて、又我氏の印なりとて、其上へ同じく大石を持つて積重ねて、其形、石碓の如くにしてありける。則ち此形を以て、碓井となぞらへし印なるべし。誠に此大石、上下共に、中々凡人の力にしては、動し難き大石なり。斯くの如く、数十人の力にも及ばざる大石を、自ら之を持ち重ねたる力量、諸人之を見て大に恐れ、いとゞ尊みけると云々。然るに其節、大守頼光、桂の郷へ来光ありて、所々遊覧せられ、頓て此重石を見給ひ、大に感じ給ふ。貞光も、我が心中の旨を、有の儘に言上しける。頼光、実にもと感じ給ひ、子孫必ず当地に住すべし。我も亦、子孫当国に居住させしめんとぞ申されぬ。又頼光、此重石の寿にてオープンアクセス NDLJP:131は定めし詠歌もあるべしと宣ひけるにぞ、貞光取敢ず大守を請じて、即吟を述べたりとかや。

   君が代は幾万代も重ね石確井もくちて世の終るとも

頼光の御製とて、二首あり。

   残し置くみのゝ桂の重ね石碓井が住みし印なりけれ

   重ね置く石の確井に身を寄せて桂にすみし貞光が跡

其時、渡辺綱の歌とて、

   我みのゝ名をば残さん桂山碓井に似たる石を重ねて

   住なれし桂に残す重ね石末世に止む我が名とぞ知れ  貞光

斯の如く、桂は勿論、諸所にも、斯様の事数多ありと雖も、委しく覚えざれば止め難し。又桂の郷牛ヶ崎の東の方に当りて、山の半腹に、女夫岩と号して、二つ相並びてぞ峙ちたる大石あり。是れ又貞光の造れる所なりといひ伝へける。然れども其慥なる所は知らざるなり。扨又、池田郡の内、南の方池田山の半腹に、一宇の伽藍を建て、長谷の観世音を安置して、其頃専ら利益ありとて、参詣の人々繁昌しけるが、貞光是に信仰して、日毎に詣をなしける。尤貞光は故ありて、長谷寺の観音を信じけると云々。是に依つて、此観音に寄附の為め、大なる石鉢を献じたるも、又其節の事なるべし。其路次の民家へ与へし事なりとて、大なる石を以て四方を畳み、洞屋を造りて、施せしといへり。其岩穴、今禅蔵寺参詣の路次の広野に数多あり。俗のいふには、是は大昔の頃、火の雨降りし故に、此岩穴を造りて、是に入りて暮したりといふ。信ずるに足らず。是れ只貞光の造りたる事といふ説、尤と云々。又山の岸なる長谷の観音堂は、後に至り、康和二辰年に池田山大に崩れ、土を降らし水発して、山抜しける其時、彼の堂は断絶しけるとなり。是よりして、此山は谷となりて、大雨の節などには、流水夥しく、俗呼んで之を長谷谷はせだにといふ。後には、只長谷ながたにと呼びけるを、又次第に年経てよりは、其元を忘れて、只はが谷と申しけるなり。然るに桂の郷の重石は、末世の今に至る迄、其形、変じもせず、茶碓の如く二つ重なりてありけるが、俗のいふには、此下には、御宝物が埋めありというて、乱妨する者もなかりき。元オープンアクセス NDLJP:132より常人の微力を以て、動かすべきやうの石にてもなかりける故に、其形の変ぜし事なし。然る所、遥に星霜を経て天文の頃、当国可児郡明智の城主明智遠江守光綱の嫡子十兵衛光秀、未だ部屋住にて暮しける砌、武道鍛練の為めとて、所々を徘徊しけるか、其節此所に来りて、暫く住しけると云々。然る所、此桂の郷の西の方に、中津原といふ所あり。其所の出産の者に、林半四郎といふ大力無双の大勇士ありけるが、此時よりして、光秀の臣となりて、相仕へけるとぞ。元来此半四郎は、身の丈七尺五寸ありて、古今の剛勇、大胆不敵の者なりける儘或時此重石を見て甚だ笑ひ、昔の貞光とやらは、頼光殿の四天王と呼ばれし者にて、日本無双の大力量と聞けり。其故にして、我が武名を末世に残さんとて、此の如くの大石を積んで、碓井がなしたる印なりとて、末世には人なき如くの事をなしたり。是は何さま後々に至り、貞光如きの大力あらば、此石を動かし見るべしとの手本なるべし。然れども夫より以来、之を持つべきの大力なしと見えたり。今我が主人と頼みし光秀殿は、其頼光の末流なれば、我れ又、其四天王に同じ。古の頼光の四天王と、我が大力を比べて見るべしとて、頓て彼の重石の傍に至り、上に積みたる大盤石に手をかけ、むくと担ぎ上げたりけるとなり。人是を見て、大に恐をなしけるとぞ。光秀来りて甚だ制し、元の如くさせたりけるといふ。然る所半四郎は、其夜より大汗をなし発熱して、三日が間、物を食せずしてありけるが、後は事なく平愈しけるといふ。是に依つて、半四郎が勇名は、いとゞ高くなり、生涯明智に仕へて其名を顕し、天正十年六月十四日、大津八町打出の浜にて、入水しけるとなり。然れば重石、何の変りし事もなく、今以て其形歴然たり。千代河戸は、夫より遥後の事なれども、其古跡は漸く衰微して、只僅の溜水となれり。光秀、此地に住せし時に、詠める歌とて、

   遥々と千代の古跡踏分けてとはでか行かん山岸の里

   桂のゝ千代の川水清ければ月も流れを尋ねてぞ住む

 
桂の郷休石の事
 
大野郡桂の郷本村の入口四方辻の真中に、休石と号して大なる石あり。此石の下にオープンアクセス NDLJP:133は。蛇の死骸が埋めありけると、今世俗の言伝なり。是は其昔応安の頃、当郷の住人花木藤内貞清といふ者、之を退治しけると申しける。夫に付藤内は、妖怪ありて亡びけるといへり。其由来の事共、或老人の物語なりけるを聞置くまゝ、記しけるとぞ。扨其仔細を尋ぬるに、足利将軍尊氏公の御代の事なりけるが、桂の住人花木藤内とて、弓馬の道に能達し、而も剛力無双にして、名を得し者なりけるが、是は元来、花木弥太郎政和が養子にして、実は加州の落人山峯氏の末子といへり。藤内の妻は、養父弥太郎の娘にして、是と語らひ、其の仲もいと睦しく暮しけるが、其間にして、二人の子供を設け、妻は計らずも打悩みて、延文五年の秋とかや、終に死去したりける。藤内は、其後、妾をも迎へず暫く独身にて暮し居けるが、或時親類の勧めに依つて、江州柏原の宿の何某の娘とて、尤其氏姓は正しからぬ者と雖も、実にや氏より育とて、都人にも恥づる美麗の娘なりとて、取扱ふ者ありて頓て之を我が館内に取迎へ、愛妾として、睦しく相語らひける。其名を菊野といへり。然るに此女、若気の誤にてやありけん、藤内の家の子の若者宇佐美何某といふ美男子と、密に相語らうて、不義あるに依つて、短気剛勇の藤内、之を見顕しつゝ、害せんとしけるに、宇佐美は、漸うにして遁れ、行方知れず逐電しける。菊野は、逃ぐる事を得なさずして、終に貞清が白刄の下に懸りて、身を亡しにけるとぞ。扨其後、或夜の事なりけるが、藤内は、灯火を挑げて兵書を詠めて居ける所に、菊野忽然と来り、我が夫恨めしやと申しけるにぞ。貞清驚き、正しく彼は過ぎし夜、我が手に懸りて死せし者の今又爰に来りしは妖怪ならめ。いぶかしと思ひけれども、元来大丈夫の勇士なりければ、少しも心にかけず、其夜はつくいらへて、臥所に入り休みにける。扨夜明けて見れば、菊野は疾く起きたる体にて、まめやかに家事を営みぬ。藤内誠に勝れたる健士なれば、事ともせず、心に油断はせず、何様末には如何するぞや。其終を見んとて、只常の体にて暮しけるとぞ。月日には犯す関守もあらずして、程なく菊野が死せし月の其日に当りぬ。時に妾は、藤内に向ひていへらく、今日なん、君の御顔持勝れ給はず、何事か御心に懸る事やおはする。願はくは妾に包まず明かさせ給へと云々。貞清答へて、いや何も心に懸る事なし。家は豊にして、金銀米穀には乏しからず。兄オープンアクセス NDLJP:134上は壮にして大守に候し、そして汝と我が中も宜し、何事をか心にかけんやと申して、敢て取合はず。菊野又押返して問へど、藤内答なければ、妾も外の咄に紛らしぬ。早兎角して年も立ち、又迎ふる年となりけるが、其日は雨そぼ降りて、何か物淋しきに、妾は常よりも美々しく化粧して、藤内と膝を突並べ、いかにや我君、今日こそ思ひ当り給ふ事ありぬらん。何か隠し思ひ給ふやと尋ぬれば、貞清何の答もせず、やゝありていへらく、我が家に財宝満ち、家僕又沢山に家業し、兄上の御身も栄え、両家共に繁昌し、此上に望なければ、何の心に懸る事やあらん。訳もなき事を問ふ者かなといひさして、奥に入りぬ。夫より妾も、何事も問はずして、年月を送りぬ。其間常に変らずと云々。程なく三年の忌に当りしに、妾はいつもより疾く起きて、貞清が前に居寄り、膝を突合せ、君今日こそ何か思ひ当らせ給ふ事あらめ。顔色の常に変り給ふといへば、藤内莞爾と笑ひ、汝何を申すぞ。我に少しも憂なけれは、又心に懸るべき事更になしと。いとのどやかに答へし時に、不思議や女の顔色俄に朱を注ぎたる如く、眼逆さまに切れて口は逆つり、吐息炎々として凄じく、皺がれたる声を発し、扨々世にも君程の大丈夫の気質はあらじ。過ぎつる年の此月日、君の手に懸りて、果敢なくなりし菊野が一念、此恨めしさ忘られず、哀れ折ぞあらば、一口に喰ひ、恨を晴らさんと思ひしに、折として尋ぬれども、其答烈しく勇にして、近寄り難し。今日こそは、過ぎつる事を思ひ出し給ひ、不便とも恐しとも思ふなりと宣ふならば、其臆意に附入りて、直さま咽吹のどぶえに喰付き呉れんと思ひしに、勇気勝近寄り難し。あら口惜しや、此上は大蛇となりても、此仇を報いんといふかと思へば、庭へ飛出で、一条の黒雲に打乗り、何方ともなく消え失せけり。家僕は、恐れて立騒ぐと雖も、藤内は少しも驚かず。何ぞ妖は徳に勝たんや。不義を戒めて打捨てたるに、何の恨かあるべけんといふ計りにて、打過ぎける。実に大胆の程聞えありて、人々勇威を恐れけるとなり。扨其後、暫く何の怪しき事もなかりけるが、或日、藤内用事ありて、家僕を召連れ、名礼の郷の何某が方へ行き、終日物語して、日暮に及びし頃、名礼村を出でて立帰りけるが、いつもと事変り何とやらん物淋しき心持にて、自然と身に覚えて、折節桂より名礼越の山道に上り懸りて、段々と歩き運びける所、オープンアクセス NDLJP:135道の傍より、白狐一疋走り出で、藤内が行先に立ちて、倶に歩きたりぬ、貞清心ならず家来に向ひ申しけるやうは、山道の事なれば、狐・狸・猿・猪の居る事、不審にはあらざれども、併し此山越の難所を凌ぎて、他行の為めに往来する事数度なれども、今日に限り、何となく心憂く思ふなり。汝が心には、如何あるやと尋ねければ、家来答へて、さん候、某も仰の通り、物淋しく覚え候と申せば、藤内、扨はあの狐、我が帰るを窺ひ、たぶらかさんと計るなるべし。何ぞ狐狸の類、諸人は惑はすとも、我に於てや、いかんぞ計らるべきや。物々しき業なりといひて、家来に命じ、早く追懸け討取るべしといひければ、家臣心得、彼の狐を目懸け、追かけゝる。然れども登道にして嶮しき坂中なれば、思ふ儘に追付き難く、狐は跡を見つゝ逃げ走りけるが既に其間近くなりし時に、彼の狐は逃戻りて、家来の前に来り、及をも恐れず、其まゝ仰向けになり、伏倒れ身を震はし、起上りては頭を俯垂れ、悲しげなる声を上げて、頻に泣叫びぬ。家来頓て一討と振上げけるを、藤内追付き之を制し、窮鳥懐に入る時は之を討たずといへり。必ず害する事なかれ。何さま仔細ぞありぬべしと止めける故、家来即ち白刄を納めたりぬ。彼の狐は、其儘藤内が裾に取縋り、何やらん手を動かして泣叫びぬ。藤内弥不審晴れやらず思ひ乍ら、次第に日も暮れ懸りけるまゝ、道を急ぎつゝ、振払ひ行過ぎける。時に坂も下りなりける所、彼の狐先立ちて又取縋り、弥泣き叫ぶ。藤内又振放しければ、狐は一町計も先へ逃げ走りて、一村茂りたる木影の下にて、あちこち駈廻り、身をあせり狂ひ廻りて、泣わめきける。家来も之を見て、余りに不審晴れやらざれば、駈付けて梢の下に来り、山の平の方を見渡しけれは、頭牛の如くなる者、両眼殊に光りて、山際の生ひ茂りし中より、頭を差出して飛懸りけるにぞ、家来大に驚き恐れ、飛しさりて、藤内に斯くと申す。貞清走り来りて之を見けるに、誠に見も慣れぬ恐しき者、全く大なる大蛇にてありける。藤内いへらく、此山奥の谷合に、数百年を経たる大蛇住みしと聞く、さもあらばあれ、菊野が一念の言葉にも曰、我れ大蛇となりても、恨をなさんと申合へり。さり乍ら我れ、是式を恐れとせんや。夫れ妖は徳に勝たず。不義あるを以て殺害したるに、何の憚る事かあらん。又此山下は、我が領内なり。我に仇する者を、捨て置くべき所にあらオープンアクセス NDLJP:136じと大に驚いて、大蛇の方をはたと睨みぬ。件の大蛇は起上り、藤内を睨みて、臥したる大木を動かすが如く、二丸計りも伸上り頭を振立て、怒れる眼に朱を注ぎ、紅の舌長く見えて、火炎と息を吹き出し、只一口とためづく所を、藤内は持たせ来りし弓矢追取り押番ひぬ。

曰く、古は武士たる者、一騎の名ある身分としては、必ず弓矢を持たせける。是に依つて武士になりしを、弓矢の道に入りしといふ。又武士を弓取ともいふ。武家に生るゝを、弓箭の家に生れしといふ。皆是故なり。近代は鑓出でし故に、弓矢を止めて、必ず鑓を持たする。然れども是れ略儀なり。武士を鑓取とはいはず、是れ古法にあらず。

元来精兵の手垂なれは、十五束五つ伏、半月の如く引絞りて、切つて放ちけるにぞ、過たず大蛇の胴中を、はつしと射通しけれは、青嗅き血と覚え、四方へ、ぱつと散り立ちて、其勢に乗りて、彼の者二三間空中へ飛上り躍り上り、狂ひ廻りて、傍の谷の中へ落入りたる。折節日は暮れ切つて夜に入り、忽ち大雨頻に降り出しにける。次第に山鳴り震動して、物凄くなりけるとぞ。藤内は、何にもせよ、曲者は仕止めたれども、日暮に入りて、正体も篤と見分け難ければ、其儘にして、我家にぞ帰りける。其翌日、早く彼の所に行きて見けるが、不思議や血潮の流れたるのみにて、尸は更に見えざりけるといふ。此大蛇は、元来此山の奥の谷に、数年住み居しものなるにや。又菊野が怨念なるや、其実否詳ならずと、老人も咄し申したりぬ。然るに又其後、何の仔細もなかりけるが、頃は応安七年の冬といひ、而も十二月の廿三日の事なりけるが、来春正月の用意の為にやありけん、花木が家にて用ひ伝へたる、十二枚の大なる釜ありけるが、家の僕共寄集り、此釜にて、蒸物をかしげる為にや。其日、蓋を取りけるに、如何して入りたりけん、大なる蛇、凡そ廻り一尺四五寸もありけると思しきが、蓋に付きて頭を出し、口を開きて飛懸らんとしける。家来大に驚き、其儘蓋をして、主人藤内に斯くと申入れける。藤内立出で、蛇なるか、定めて過ぎし頃、我が矢先に懸りし者なるべし。其後尸を見ざりしが、今以て存命なるや。時節を窺ひ、猶執念深く我に怨をなさんとするか。併し乍ら今こそ遁すべきやうなし。中に入りしオープンアクセス NDLJP:137こそ幸なれ。其儘煎殺すべし。外へ出しなば、又々逃行くべし。只早く火を焚立てよかしと命じける。是れ則ち菊野が死せし七ヶ年の其月其日といふ。家来共、頓て釜の蓋の上に大石を置きて、下より頻に焚かけゝるにぞ、忽ち釜鳴出してうごめきけるにぞ、物凄き有様にてありけるといふ。然れどもいかで怺ゆべきやうもなく、難なく彼の大蛇を、其まゝ煎殺したりぬ。夫より其釜を担ぎ出し、其釜と共に、近辺の山際を深く掘りて埋めたりける。其埋めたる上に、大なる石を居ゑて印となしける。此石を釜ヶ石ともいふ。又うはゞみ石とも申しける。此石の上平にして、往来の土民共、荷などを背負うて、此石の上に荷を懸けて休みけるまゝ、いつとなく休石やすみいしと申習はしけるとなり。其古説は、此故なりといふ。扨又其頃は、此石の辺にて、大概大なる石などを持ち来りて、大地に打付けて見る時には、地中にてばんというて、釜の音響きて聞えけるといへり。近代にては、土中にて割れもやしつらん、其音は聞えざるとなり。扨其後、藤内は病ひ付きて久しく打臥し、終に永和三年巳正月廿三日、死去しけるとなり。藤内が子供を、一人出家させ、子孫の崇を遁れしめけるとぞ。夫より次第に星霜積るに随ひ零落して、子孫爰彼に蟄居しける。然れども血筋は断絶なく、今以て桂一郷に、花木氏の百姓共多かりき。何れも家いと貧しくして、名もなき者の暮しなりける。又彼の休石には、其霊もありけるにや。道の真中にして、往来の邪魔なりとて、或時里人共、右の石を大勢懸りて起し動かし、少し傍に移しけるに、其夜悉く大熱して苦しみける故に、其翌又元の如く、以前の所に居ゑ置きける。夫故、今以て細き道の四ッ辻の真中にありけるなり。扨又藤内を止めし白狐は、彼の大蛇の害のあらん事を知らしめたると見えたり。是は花木が領分に住したる狐なる故に、常に猟人の難にも合はず、心安く住しけるものなる故に、其恩を知りて、其恩人に、難のある事を患ひ歎き、心を尽して止めたるものなるべし。物のいはれ難き畜類の事故に、斯くと申して、告ぐる事ならずと雖も、只泣叫び、裾に縋りなどして止めたりけるに、果して不意の害を遁れたりける。依つて藤内も、之をつく感じて、彼の白狐に、好美の食物などを与へ、不便をかけて境内に住ましめける。後に一社を営みて是に納む。此白狐の子狐一疋、年久しく保ちてありけるオープンアクセス NDLJP:138が、後には桂を出でて、揖斐の城の曲輪の内に住しけるとぞ。諸人之を御茶屋狐と申して、能く知りてありけるが、数ヶ年を経て、揖斐の三輪明神の山にて、死しけるとぞ。其尸をば、則ち其死し居たる所に埋め葬りて、小さき石塔を建てたりぬ。之を狐墓こぼと申して、其形、今に山の上にありけるを、石塔の小さき故にや、人々之をいひ違へて、こぼが墓と申伝へたりけるなり。桂の郷、古名にも、梨の木洞桃木洞・御堂ヶ洞・牛ヶ崎・鼈ヶ洞・持多星・重岩・休石・千代河戸・戸の渡・打越・狐の洞・蛇ヶ峯などと申して、此外古小名多しと雖も、得と相知れず、漸く古老の物語を聞きて、止め置きしのみ。

 
美濃国諸旧記巻之八
 
 
 

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