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浮世の有様/2/分冊7

目次
 
オープンアクセス NDLJP:185
 
浮世の有様 巻之五(前)
 
 
天保五年江戸大火
 
江戸の大火

天保五年二月七日、昼八つ時頃、神田佐久間町一丁目より出火、北風烈しく大火に相成り、翌八日朝六つ時過ぎ鎮火。

一、火元佐久間町一丁目、時計師関市郎・三絃師何某、両人の中に候へども、相分りかね申し候。
一、同所一丁目・二丁目・裏通河岸。
一、和泉橋南、元誓願寺町・豊島町残らず。籾蔵は残る。
一、佐野大隅守殿 一、富田中務殿 一、石尾彦四郎殿 一、梶川清三郎殿 一、市橋主膳頭殿 一、大沢弥三郎殿 一、森川由三郎殿 一、川口茂右衛門殿 一、細川長門守殿 一、浅草御門内迄 一、馬喰町一丁目 一、小伝馬町・大伝馬町牢屋敷辺残らず。 一、神田紺屋町二丁目、地蔵橋にて留る。片側残る。 一、本白銀町四丁目・本石町二丁目より、四丁目迄。 一、室町三丁目より、通一丁目東側残る。 一、四日市河岸青物町・材木町一丁目より、三丁目・塗師町三丁目・一一丁目東側迄。 一、照降町・堀江町・暮屋町・長谷川町・富沢町・久松町・村松町・米沢町・両国橋迄、 一、​高砂橋東​​牧野遠江守殿​​ ​ 一、水野右京亮殿 一、小笠原大膳大夫殿中屋 一、船越駿河守殿 一、松本重治郎殿 一、津越中守殿中屋敷 一、一ツ橋様中屋敷少々 一、牧野越中守殿中屋敷少々 一、​飛火にて​​水野壱岐守殿​​ ​ 一、新大橋過半 一、紀州様中屋敷 一、酒井出雲守殿浜町蠣殻町 一、奥山主税之助殿 一、本田肥後守殿 一、戸田大学殿 一、戸田近江守殿 一、宇野治郎右衛門殿 一、黒川内匠殿 一、​土井堀​​松平宮内少輔殿​​ ​ 一、松島町 一、安藤内蔵之介殿 一、永井求馬殿 一、大沢右近殿 一、吉良式部殿 一、大沢弥三郎殿 一、酒井雅楽頭殿中屋敷 一、道灌堀 一、松平越中守殿中屋敷 一、安藤対馬守殿 一、箱崎町

オープンアクセス NDLJP:186一、戸田采女正殿中屋敷 一、土井大炊頭殿中屋敷 一、松平伊豆守殿中屋敷 一、久世謙吉殿中屋敷一、田安様中屋敷は残る 一、霊岸島残らず

 (但し松平越中守様下屋敷類焼、御殿向き残る。霊岸島と湊橋の間町屋少々残る。)

一、北八町堀 一、​松平中務少輔殿​​但し松平越中守殿残る​ 一、九鬼大隅守殿 一、茅場町残らず 一、牧野山城守殿但し御財橋・中橋焼落ちる。 一、松平右近将監殿​ ​​中屋敷​​ ​ 一、松平阿波守殿 一、井伊掃部頭殿中屋敷 一、堀田式部殿 一、堀田主馬殿 一袋平内匠殿 一、高橋・稲荷橋・中橋焼落ちる 一、細川采女正殿鉄炮洲船松町二丁目


   同月八日

一、朝横山町出火、是は直に鎮火。土蔵へ火入る位の事と、或人申され候。

一、あは田舎越るか。

   同月九日

一、暮六つ時頃、呉服橋外檜物町より出火。西南の風強く、暁八つ時頃鎮火。

西は堀を限り、北は一石橋・日本橋辺の河岸を限り、南は槙町辺を限り、東は焼け残り本町を掛け焼失。

同月十日、辰の口西丸御老中松平伯耆守殿より出火。北風烈しく、大火に相成り暁八つ時頃鎮火。

一、​飛火​​松平伯耆守殿​​ ​長屋少々残る 一、松平丹波守殿 一、松平伊予守殿中屋敷長屋残る 一、林肥後守殿 一、松平和泉守殿 一、松平能登守殿 一、松平三河守殿 一、京極大膳殿殿 一、松平土佐守殿長屋少々残る 一、松平阿波守殿長家少々残る 一、筒井伊賀守殿東側長屋 一、鍛冶橋御門焼橋共 一、数寄屋橋御門焼飛火にて 一、南槙町二丁目より、南伝馬町一丁目より三丁目迄 一、桶町一丁目・二丁目 一、南大工町一丁目・二丁目 一、南鍛冶町一丁目・二丁目 一、五郎兵衛町一丁目・二丁目 一、具足町・柳町 一、京橋 一、銀座一丁目より四丁目迄 一、尾張町一丁目・二丁目 一、竹側町 一、出雲町 一、西紺屋町一丁目・二丁目 一、八間町西側残らず 一、三十間堀一丁目より八丁目迄

オープンアクセス NDLJP:187一、木挽町一丁目より七丁目 一、堀相模守殿中屋敷 一、板倉阿波守殿中屋敷 一、西尾隠岐守殿中屋敷 一、細川越中守殿中屋敷 一、諏訪伊勢守殿 一、松平周防守殿 一、狩野晴川 一、​    虫損​​芝田 老​​ ​ 一、柳生但馬守殿 一、仙石弥太之助殿 一、松平陸奥守殿中屋敷 一、加納遠江守殿 一、宮原弾正殿 一、小口信濃守殿中屋敷 一、奥平大膳大夫殿 一、八丁堀残らず 一、伊達紀伊守殿 一、新庄勝三郎殿 一、本田下総守殿 一、相川橋落ちる但築地残らず 一、松平土佐守殿中屋敷 一、松平備後守殿 一、松平飛騨守殿 一、桑山靱負殿 一、久松伊予之介殿 一、稲葉金兵衛殿 一、横田三四郎殿 一、中山主計殿 一、築地本願寺 一、小田原町一円 一、紀州様中屋敷 一、伊藤監物殿 一、安井元蔵殿 一、本多八蔵殿 一、戸川龍之助殿 一、石川強右衛門殿 一、花房長左衛門殿 一、三枝伝三郎殿 一、竹内惣左衛門殿 一、岩瀬市兵衛殿 一、上杉喜三郎殿 一、山本藤二郎殿 一、牧宇助殿 一、和田中務殿 一、松平清之丞殿 一、木下嘉代之助殿 一、石川蔵太郎殿 一、二の橋落ちる 一、稲葉貞之丞殿 一、多賀吉左衛門殿 一、渡辺久蔵殿 一、大橋隼人殿 一、仙台橋落ちる 一、脇坂中務殿 一、仙台様御殿向き表長屋残る 一、芝口一丁目・二丁目 一、芝口東木戸にて焼け留まる

  同月十一日

一、朝京橋出火。是は土蔵火入ると、或人申され候。一軒にて鎮まる。

一、昼九つ時頃小石川水戸様の御屋敷焼失。如何程の焼けか、委しく相分り申さず候。未だ建ち揃ひ居り申さず候由。早朝も長家少々焼失御座候。

一、同刻駿河台・小川町出火。幅は之なく候へども、二三丁焼候歟、飛火とも申事に御オープンアクセス NDLJP:188座候。奴人共風下に相当り申候へ共幾多間合有之、別火共申事に御座候。

一、暮過ぎ水道町服部坂御旗本位の御屋敷焼失。

  同月十二日

一、船火事。

  同十三日

一、夕七つ時過、本郷追分片町と申所出火。暮時鎮火。其以前迄は風烈敷御座候処静に相成候間合、又夜に入風に相成り候間合能、纔にて相済申候。

右此中火事の模様如此御座候。一体甚以て物騒にて、附火所々に有之趣、近方麴町抔も一昨朝も附火少々焼け候趣、扨々気味悪敷恐敷事に御座候。日々風立ち騒々敷事に御座候。何卒是切にて静に相成所奉祈候。外方より御承知も可成と奉存候へ共、珍敷大火故写し差上申候。御留守居様・御内方様方、未だ委敷御承知も不成候、 申上候、被御目下候。書損数々可御座候。 

 
天保六年仙石騒動
 
仙石身□武士

  天保六年未七月

                         仙石弥三郎 寄合衆高四千七百石

                          附人神谷転当時改名友驚

右転儀仙石道之助江戸奥詰年寄神谷七五三弟にて、当時致出奔、一月寺門弟に相成友鵞と改め、虚無僧に罷成候を、江戸御町奉行筒井伊賀守殿御組より召捕、当時揚り屋入に成申候。

右の趣意御糺に相成、転より申立候は、当時仙石道之助幼年の処、家老職の内、仙石左京我儘を以て、転の揚り入屋年寄共重役荒木玄蕃を始め、左京随意無之者は、役儀等取放、或は減高、亦は永之暇申付、自分忰小太郎と申者へ、松平主税様〈寄合衆高五千石〉より縁組致、息女を貰ひ受、同所手続を以、松平周防守様へ館入致、御内々御面会も度々有之趣、依之左京威勢増長致候。然る処、仙石家勝手役相勤候河野瀬兵衛と申者、左京謀悪の儀年寄中へ内密申告候段、左京へ物語候者有之、右瀬兵衛勝手向不行届の段申付、オープンアクセス NDLJP:189差換へさせ申候。尤右瀬兵衛儀、私旧友にて、兼て懇意に致候に付、右左京行状並に我儘の存心等、文通仕に付、又々此段、左京へ為相知候者有之、即日瀬兵衛を厳しく入牢為致、拷問に及び候由、因て私へ申白状候始末申立候哉と乍恐奉存候。猶左京我儘の儀は、故隠居播磨守病死後、当主幼年、旁〻前段の通り、夫々重役・年寄共随意之者共へは立身為致、不順の者は、追々重科申付候段、全忰小太郎を以家督に可致深望と奉存候。

但右転申立一条は、趣意而已にて、具に難書認儀ども夥しきに付略之、尤河野瀬兵衛拷問之上及白状、転に左京始末申遣し候に付、早速転儀国元へ差越し候様、江戸表へ申来候に付、其夜俄に出奔致、行衛不相知候に付、兄神谷七五三を国元へ呼寄、厳敷責問候上、素より江戸地に罷在候旨、依之江戸表へ穿鑿、 麻布六軒町柔術之師匠渋川伊太郎世話を以て、一月寺へ法入いたし、虚無僧に相成候段相知れ、仙石家江戸留守居依田市左衛門・河野丹次より御町奉行筒井伊賀守様用人へ頼込、転儀を横山町往来に於て召捕られ候上、仙石家に引渡可申旨申渡候処、前段之趣意申立於奉行所吟味請度、再三申立候に付、不容易筋に付、揚り屋入被仰付、御糺しに相成申候。

     閏七月仙石道之助より差出候書付

一、私家来神谷七五三舎弟神谷転と申者、仙石道之助神谷転を乞ふ去午二月廿五日出奔仕候処、不届之儀御座候に付、奉行所へ御届之上、尋申付処、召捕兼候間、同三月十七日御奉行筒井伊賀守へ召捕引渡之儀申達候処、当四月廿日同人方へ召捕、吟味有之処 当国下総国一月寺入弟仕、友鵞と改名、彼是申立候様も御座候やに候処、私方に罷在候節之所業而已のみにて、他の引合無御座、不届者に付、召捕後、早速私方へ引渡と相成不申候ては、家政取締にも拘候間、何卒私方へ引渡相成候様仕度、此段申上候。已上。

  閏七月廿一日                   仙石道之助

  但於此方も御詮議之筋有之候間、当分難相渡、追て御沙汰有之候御返答。

天保六年未八月七日酉中刻、寺社奉行井上河内守殿より被御逹儀有之候間、只今一人河内守殿御宅へ可罷出旨、切紙到来。尤脇坂中務大輔殿被仰付候と申来オープンアクセス NDLJP:190候。依之御請差出添役罷出候処、於御評席中務大輔殿・河内守殿、御列座にて左之通。

    申渡

                  居城上総夷隅郡大多喜高二万石   松平備中守家来

                        岡本源五左衛門

仙石道之助元家来神谷転事、当時上総国三黒村普化宗松見寺看住友鵞を家来へ預く、右は越前守殿へ伺之上、申渡候間可其意候。

但、道之助家来、其外誰にても、面談・文通等不致。尤預り罷在候家来の者、吟味の筋尋候儀は勿論、咄合等も決而致すまじく候。

一、仙石道之助元家来神谷転事当時上総国三黒村普化宗松見寺看住友鵞儀私家来之者へ御預け被仰付旨。昨夜井上河内守ゟ家来之者召呼、申渡候。此段御届申上候。以上。

  八月八日                   松平備中守

一、私家来元へ御預け被成候仙石道之助元家来神谷転事。当時上総国三黒村普化宗松見寺看住友鵞儀、於井上河内守宅に請取、途中無異儀屋敷へ引取申候。此段為御届使者を以申上候。以上。

  同日                     松平備中守

一、今四つ時、転請取候に付、河内守態々罷出候処、夜八つ半時迄に、友鵞御引渡手数相済、七つ半時居屋敷へ引取、裏門より入。右出役手札差し出し参り候事。

                    ​松平備中守家来​​  御預人 伊沢権太夫​​ ​

                        ​手代​​  朝倉弥太夫​​ ​

     覚 一、騎馬   二人 一、医師   一人 一、徒目附  一人 一、徒士   四人 一、足軽小頭 一人 一、足軽   八人 一、駕籠網懸け申さず  一挺

右之通に御座候。以上。

  八月八日

オープンアクセス NDLJP:191                      ​松平備中守家来​​   岡本源五左衛門​​ ​

右書附、御懸り水野越前守殿へ差出す。猶又御用番松平和泉守殿、転儀無滞引取の書付差出す。前後切紙を以遣す。

、井上河内守殿より転へ申達其方儀吟味中、松平備中守家来へ預遣候。但預中、備中守家来共へ、吟味の節、決して口外致し申すまじく候。

、同日、松平備中守家来岡本源五左衛門へ、河内守殿・中務大輔殿より被相達候趣、

、友鵞預けに相成候上は、御老中方へ御届可致候。

、友鵞儀清僧に付、魚物は不相用、預り中手当並被取扱方格別重く無之様、可相心得候。

、友鵞差置小屋、其外手当の儀、文化五年の砌、戸沢大和守方へ預け者有之間、委細承合せ取計方難決儀は、奉行所へ被問合方々可之候。

、就右御請立帰候上、夫々小屋等に手当差急ぎ申付、明日友鷲御引渡可成候間、昼頃可罷出候。

  八月七日

、仙石道之助へ中務大輔殿より道之助続書差出候様被仰渡、仙石家留守居依田市左衛門より以書付差出す。

故掃部頭直礼妻は仙石故播磨守久道妻姉 井伊掃部頭
故雅楽頭娘故播磨守久道妻 酒井雅楽頭
故内蔵頭路政妻仙石故播磨守妻姉 松平安芸守
故紀伊守光成女は仙石故兵部大輔忠清妻 松平伊予守
養母方伯父 松平伊豆守
左衛門尉嫡子従弟 酒井左衛門尉
養母方従弟 阿部能登守
養母方伯父 中川修理大夫
故主計頭正良妻故播磨守久道妻の姪也 井上河内守

オープンアクセス NDLJP:192故大和守正俊妻仙石故信濃守政房女 戸沢大和守 故佐渡守宣成妻ハ播磨守久道妻の姉 牧野山城守 故近江守貞淳妻仙石故越前守政辰の女 本庄伊勢守 養母方叔父 小笠原近江守 右同断 津軽左近将監

右之通道之助続合に御座候。以上。

                      ​仙石道之助家来​​   依田市左衛門​​ ​

、八月八日井上河内守殿より、留守居年寄同人宅へ罷出候様、御達有之罷出候処、左の通被申渡候。

未八月十七日巳刻、江戸表ゟ出石表へ早飛脚到来。翌十八日巳刻出石発足。
       ​当時無役​​  麻見四郎左衛門​​ ​
       ​目附​​  小川八左衛門​​ ​
​ 仙石道之助家来​家老 ○仙石左京​​ ​
   仙石主計
  ​当時年寄役​​  荒木玄蕃​​ ​
    酒勾清兵衛

同十九日暁七つ時仙石左京列           西村門平

発足下段に相認候役              ○岩田静馬

        ○植松十郎左衛門     ​小性頭用人​​  ○宇野甚助​​ ​

○右之仁合六人発足               大塚甚太夫

同日夕八つ時過発足  早川保助  荒木玄蕃  生駒主計 ​喜左衛門忰​​ 渡辺清助 ​​ ​  酒勾清兵衛 ​附添​​ 鷲見九郎左衛門​​ ​ ​医師​​○鷹取已伯​​ ​  白井笹之助 ​斎助父隠居​​ 麻見弥兵衛​​ ​  中西策 ​台所役​​○西岡斧七​​ ​ ​医師​​ 湯谷古□​​ ​ ​御関所証文頭​​ 間中連   ​​ ​

   〆十三人

右は出石よりの認書

 右之者共吟味之筋有之間、早々呼寄、著次第差出可申候。已上。

オープンアクセス NDLJP:193

、仙石道之助殿家来、仙石左京・生駒主計・荒木玄蕃・酒勾清兵衛儀、伊予守家来の者へ御預被仰付候旨、昨夕脇坂中務大輔より家来の者御召被仰渡、伊予守生国の儀に付、此段私より御届申上候。以上。

  九月六日               ​松平伊予守内​​   赤座七郎左衛門​​ ​

、私家来共の内、寺社奉行脇坂中務大輔より、吟味の筋御座候に付、在所に罷在候分は、申遣候。著揃次第、可申達旨申渡御座候に付、申遣候処、在所にて承知以前、右家来共の内渡辺清助と申す者、為療養他国仕罷在、来立延引仕、外出府の者共追々到著仕に付、中務大輔へ、家来者より申達候処、昨五日、同人宅へ呼寄せ、吟味有之、猶又今日差出候処、吟味中、仙石左京・生駒主計・荒木玄蕃・酒勾清兵衛と申者、松平伊予守家来に預り申渡候段、附添差出候家来の者へ申渡有之候に付、此段御届け申上候。已上。

  九月六日                  仙石道之助

、仙石道之助家来、岩田静馬・青木弾左衛門・杉原官兵衛・宇野甚助・山本耕兵衛・西岡斧七儀、伊予守家来の者へ御預け被仰付候旨、昨夕脇坂中務大輔様より家来の者を召し呼び被仰渡候。伊予守在国の儀につき、この段私より御届け申上候。以上。

  九月八日                ​松平伊予守内​​   今岡長八     ​​ ​

、去る八月追々御届申上候通、私家来の内、脇坂中務大輔方にて吟味中、松平伊予守家来へ預け申渡有之、右之外、尚又昨十二日差出候処、大塚甚太夫・西村八平・鷹取已伯・早川保助と申者、吟味中揚り屋入差遣候旨、差添差出候家来の者へ申渡御座候に付、此段御届け申上候。以上。

  九月十二日                 仙石道之助

、仙石道之助殿家来十人、伊予守家来の者へ御預け被成候処、右之内、岩田静馬・青木弾右衛門・杉原官兵衛・山本耕兵衛儀、御吟味中揚屋入被仰付候旨、昨夕脇坂中務大輔様於御宅仰渡候。伊予守在国の儀に付、此段私より御届申上候。以上。

オープンアクセス NDLJP:194   九月十四日             ​松平伊予守家来​​    今田長八​​ ​

但追々到著の者共、仙石道之助より届書差出、伊予守家来より、同様揚り屋入御預り書付差出候。文面同様に付略之。

九月六日御呼出し

​江戸詰​​ 青木弾右衛門​​ ​ ​同​​ 杉原官兵衛​​ ​ ​同​​ 山本耕兵衛​​ ​
​在所之分​​ 岩田丹太夫​​ ​ ​同​​ 徳永半左衛門​​ ​ ​同​​ 恵崎五左衛門​​ ​
​年寄​​ 山田八左衛門​​ ​ ​同​​ 大森登​​ ​ ​同​​ 仙石小太郎​​ ​

  〆九人

当時役人

​家老​​ 仙石左京​​ ​ ​年寄​​ 岩田静馬​​ ​ ​同​​ 仙石小太郎​​ ​ ​同​​ 青木弾左衛門​​ ​ ​同​​ 大森登​​ ​ ​同​​ 山村貢​​ ​ ​同​​ 山田八左衛門​​ ​ ​同​​ 杉原官兵衛​​ ​
​小性頭用人​​ 本間市左衛門​​ ​ ​同​​ 宇野甚助​​ ​ ​同​​ 斎藤岩雄​​ ​ ​同​​ 堀久米​​ ​ ​同​​ 長岡右仲​​ ​ ​同​​ 服部弥兵衛​​ ​ ​同​​ 荒木甚兵衛​​ ​ ​同​​ 本間左仲​​ ​ ​同​​ 井上三郎左衛門​​ ​ ​同​​ 杉原三郎左衛門​​ ​ ​同​​ 倉品左之助​​ ​ ​同​​ 河合庄左衛門​​ ​ ​同​​ 依田市左衛門​​ ​ ​同​​ 岩田虎之助​​ ​
​側用人​​ 本間左仲​​ ​ ​御城使​​ 依田市右衛門​​ ​ ​同​​ 河野丹次​​ ​

  天保六未年正月、於出石、左京取計を以、年寄共其余役人答申付候次第、

                        ​  家老職高八百石​​酒勾清兵衛     ​​ ​

其方儀、去る辰年正月六日、大殿様へ、〈御隠居なり〉重役並役人の内不正事・不直の趣、荒木玄蕃・仙石主計・原市郎左衛門申合、徒党連印を以致上書候処、右は全、讒訴之段、御察鑑被成、不届至極、早速御呼出し、御糺明可之処、左にては、重科の御沙汰にも相成、旧家家柄の儀、不便に被思召、格別厚御仁恵被下在候趣を以、隠居蟄居被仰付、忰どもへ、家督申付候処、去々巳六月元家来当時浪人河野瀬兵衛儀構の場所をも不憚江戸表へ罷越、同姓共へ右出書同様、其外自分考の風讒取交へ、文意相巧、及讒訴、猶又生野地役人渡辺角太夫より、不容易向き瀬兵衛同様被申立無役儀、公辺オープンアクセス NDLJP:195御沙汰にも相成処、右無御構去年年正月十六日、民国大殿様於御前先般上書の趣、可相尋の趣、聊も訳立候答も無之、不都合至極恐入候段、又は此上御慈悲筋相願候間、寔に以て大胆不忠・不義の至、殊更重役・役人共の内、及讒訴候始末、武士道不弁、重々不都合に付、切腹可申付の処、先祖代々忠勤を存じ、旁〻広大の御仁恵を以、死罪一等を下し、剃髪の上、国へ差遣し候間、急度相慎可罷在候也。

                        ​当時隠居​​ 荒木玄蕃        ​​     千八百石家老職​

                       ​家老家柄当時用人​​  生駒主計        ​​      千石​○生駒一本仙石と有り

                        ​用人​​ 原市郎左衛門        ​​ ​

右者使者頭役岩田丹太夫、目附磯村次左衛門、平士堀源作・中西儀左衛門罷り越し申し渡し候同夕九人共御用召に付。

                          ​清兵衛忰​​ 酒勾薫​​ ​

御自分父清兵衛儀不届の儀有之、其上御自分儀も、思召も有之候に付、急度被仰付方も可有之処、格別御仁恵を以、知行被召放、隠居蟄居被仰付、忰久太郎へ御繋扶持十人被下、小人町明屋敷へ引移候様被仰出候。

                          荒木信太郎

申渡同断、御繋扶持二十人被下、服部弥兵衛屋敷へ引移被仰付

                         ​主計忰​​ 生駒富太郎​​ ​

申渡同断、名字御取上げ、同断二十人扶持被下、谷野才兵衛明屋敷へ引移被仰付

                          原市郎左衛門

 扶持十人被下、小人町引移被仰付

                         ​主計弟​​磯野六郎次​​ ​

隠居被仰付忰へ五十俵五人扶持。尤幼年の内は七人扶持被下、小性頭に被成下、河野瀬兵衛跡屋向きへ引き移り被仰付

                          土待雄之進

隠居被仰付、忰へ百石被下、馬廻二番組へ入。

オープンアクセス NDLJP:196                           金沢源之丞

御役御免同断組入

                         ​四百石​​ 荒木甚兵衛​​ ​

用人役御免目附格

                         ​百四十石​​ 神谷七五三​​ ​

蟄居、忰へ三十俵三人扶持被下小性頭次席。

                          仙石平之助

蟄居、隠居被仰付

  辰正月十二日出石にて右仕置有之。

右之書付出石表より内々承候趣、本書仙石主計と有之候得共、其後生駒と有之候。此書付表に名字取上げと有之に付、以来生駒と相認候と被察候。

恐以書付願上候。

一月寺寺社奉行に書を捧げて神谷友鵞の無罪を弁ず仙石道之助殿元家来神谷転事、当時一月寺末上総国三黒村松見寺看住友鵞儀、当四月廿一日、両役寺より京都明暗寺へ宗用申付、書状を為持飛脚屋作左衛門方へ遣し候途中、町御奉行組同心、其外共多勢にて、不意に差し懸り、差押へ候体故、一月寺役僧代の由再三申し聞候へ共、弥〻不法に打ち懸り、又は馳せ付け候者も有之、不止事暫らく打返しける。用事有之候て一月寺番所へ同道の上、可承旨度々申候を、不承届理不尽に押倒し、縄懸け候間、仙石家へ可渡段申聞候間、家法も有之事故、一先づ一月寺番所へ同道の上、何様とも可相成と申し候処、其儘筒井伊賀守様御番所へ引連れ、即刻入牢被仰付、当時御吟味中に御座候。一体普化宗の儀は、慶長年中新に御掟書被成下候処、尚又延宝年中、小笠原山城守様・板倉石見守様・太田摂津守様於御列座、武門不幸の士共門弟に相成、修行の後に致帰俗候由、其中に者、往古より由緒有之士の筋目も有之、士の家名・血脈断絶無之様、永く天下武門の助けと相成、其子孫に至り、御用にも可立者に有之候へども、実は御奉公にも罷成候間、家法正しく仕候様被仰渡、宗法の御書付頂戴、愈〻オープンアクセス NDLJP:197相属宗令、無油断正意研究仕候。武門不幸の士共を撫育致、再仕官に為立帰候を専務とも懸け候儀に御座候。右神谷転事友鵞儀、主家の安危を考、忠志を含罷在候を、先に不良者の巧みに落入、意願の空しく成行候者、主家の動静無覚束、一先退身も致し、去年四月中入素願候に付、糺之上古法の通、門弟に致し、其後、人少なき故役僧の見習申渡当三月中松見寺看住申付候。将又国々奸悪の暴臣有之候時は、一途に忠誠を存候士共は、返つて無之三合罪に落入候より、義気薄らぎ、忠烈の志を忘れ邪曲を習、終には一家の大事に及候類、古人の伝説に承伝、且孤忠の情願頻に不便に存候。旁〻右友鵞一身の儀は何卒御慈悲を以て、御奉行所に於て、御吟味の上、落著被仰渡下候様、去五月九日筒井伊賀守様御番所へ御慈悲願書差上候へども、御取用に不相成、無是非引取、思慮仕候処、公辺奉御吉方儀、何共奉恐入候に付、ふと心付、仙石家友鵞罪科の軽重、内々承合候処、一通り吟味筋有之ものにて、格別の罪科無之き趣故、一旦一月寺弟子に致し候因も有之候間、彼家にて吟味済候上は、同人身分一月寺に貰ひ候て、剃髪に致度願書差出候処、道之助殿内見の上、出石表へ申遣し、可答旨にて、余程の日数に相成候へ共、何の沙汰も無之候間、一昨十九日仙石家へ罷越水候処、出石表ゟ申越趣も有之、承容難致候間、相断候段、道之助殿取り申し候趣、河野丹次申聞候。右の趣にては、何とも仕方無之故、友鵞一人に限り候儀に無之、普く武浪の危窮を救ひ候宗意にて、兼々被仰渡候御趣意も有之候処、学文の次第、理不尽の取押方、殊一月寺番所へ同道致し呉れ候様、再応相願候でも、不承容、縄を懸け引連れ候段、全く下賤同様の扱方。此体成行候ては、乍恐御控の趣難相立、於一宗は深く奉恐入候儀にて、往々一宗滅亡の非にも相成やと、一統相歎き痛心仕る儀に御座候。何卒格別の御慈悲を以、宗法古来の通相立候様、被成下置、右友鷲孤忠の意念も通り候儀候て、猶更難有仕合せに奉在候。此段、幾重にも御慈悲の御沙汰奉願上候。以上。

  天保六年未六月            ​一月寺番所役僧​​   愛璿      ​​ ​

     寺社御奉行所

オープンアクセス NDLJP:198  乍恐以書付願上候。

、拙寺末上総国三黒村松見寺看住友鵞儀宗用に付、差出候途中、同人、主家に於て、不埒の儀有之由にて、町奉行組同心、其外多勢不意に差押候体故、一月寺役僧代の内、再三申断、諸用有之候て、一月寺番所へ同道の上、可承段申聞候得共、更に承受不致、理不尽に縄懸り、其儘右主家へ可渡趣故、尚又宗法も有之候に付、是非一旦、一月寺番所へ致同道、可下様申聞候処、筒井伊賀守様御番所へ引れ、即日入牢被仰付、当時御吟味中に御座候、右転事友鵞、主家へ忠節の旨を含み罷在候間、全く身命惜入宗致し候者に無之、只々奸心の悪計に落入候ては、主家の浮沈無覚束、一途の忠誠を存じ込み候間、兼て武浪の隠家宗風と承候。偏に孤忠を助け候心底にて、願出候者にて候。乍恐東照宮様初知之御深慮も被在、被立置候宗門の意、余にも相叫候に付、糺の上、証人取之抱へ置候得ば、万一主家へ引渡等に相成候ては、忠義空しく相成候により、不便の至、何卒格別の御慈悲を以、友鵞儀身分の儀は、於御奉行所御吟味被成下候様、筒井伊賀守様御番所に、先達て願書差出候得共、御取用に不相成、願書御戻し被相成候。其外仙石家へ、内談等仕候処、不行届、無是非当御奉行所へ御慈悲願書旁〻差し出し候段は、先達て具に奉申上置候処、今以て御沙汰無之、且仙石家に於て、旧家の老臣忠臣の者共四五人、奸邪逆臣の取り計ひに而、滅知・籠居等に相成候者の内、去月中死罪に相成候者も有之由風聞有之候上は、奸臣時を得て忠節非道に死歿致、暴悪増長、邪曲超過の上は、国の乱をも引出すに至可申哉、虚無僧共儀は、天下の家臣諸士の席に定置候故、表は僧形にして、内心に武事を不忘、日本国中往来自由被免、修行仕候内、深き心得方も有之、国々の邪正・諸々の風儀篤と令見聞には、品により達申上、天下の御大事にとて、身命を投儀、宗門の極意に御座候。神谷転事友鵞、忠誠の者に見込み候筋も有之候故、御慈悲願書奉差上候儀に而、万一主家へ御引渡に相成候へば、慶長已来被下置候御掟之旨、更に不相立、普化一宗の者共覚悟仕候外無之候。天下武門の助と相成り候宗意、万端被思召、格別御オープンアクセス NDLJP:199仁恵を以、転事友鵞身分の儀は、於御奉行所御吟味被成置候様、猶更奉願上候。已上、

 天保六未年七月九日              前同断

       宛名前同断

  乍恐書付を以奉申上候。

一、拙寺末上総国三黒村松見寺看住友鵞儀、仙石道之助殿元家来神谷転と申者にて、町御奉行筒井伊賀守様より召捕候処、追々申上候通、主家へ御引渡に相成候ては、転忠志も空敷相成、主家共已難計、殊種々世上之風聞も有之、且転事友鵞儀、兼て認置候書面、外に仙石左京不届之箇条認候書面有之。封印付置候へ共、友鵞今般当御奉行所へ願書奉差上候に付、為心得封致一覧、不容易儀兼て心懸、出石表の儀、実否承り度く、人を差出置猶静承り候儀に有之、聞合書面と符合致候儀も有之、且又仙石家の旧臣荒木玄蕃・仙石主計・酒勾清兵衛・原五郎左衛門、右四人の者共、去辰正月中隠居、当時家老仙石左京不心得取計方等の儀に付、諫書差出し候処、四人の者共、同月廿二日滅知の上隠居申付、慎逼塞・蟄居申付置間、毎毎釘締番付け置き候内、辰三月中病死致し候者も有之、奥附麻見四郎左衛門儀は去巳九月中、河野瀬兵衛出府の上、播磨守殿奥方、並道之助殿実兄能登守殿等へ、諫書差出候筋、尤に存候。出石へ使者勤候処、役儀取放ち隠居申付、悴へ扶持米遣し置き、年寄本間左仲儀も、再度使者勤め候処、役儀取放河野瀬兵衛儀は、去辰正月中、荒木玄蕃外三人より、左京取計方不心得の次第、国中上下一統極々及難渋候故、諫書差出候処、蟄居等申付、瀬兵衛儀も、城下に居候はゞ、万一四人と文書等にても通じ候て、夫より事可起と追払申付、其後出石にて入牢に相成居候処、当六月下旬死罪に相成、内々に候得共、友鵞儀も、仙石家へ被引渡に相成候て、将又非道死の儀不便の至り、殊に忠誠之士数人、無実の罪に落命の儀、深く歎かはしき儀に御座候。一体宗法の心得方も有之、困々虚実、其外共見聞致、疑の儀等有之候て、其品により奉申上候様、且友鵞忠志も相知の筋故同人認候書面一オープンアクセス NDLJP:200通、並左京箇条一通見捨切にも難仕、入御内覧候、乍去友鵞始、忠志の者共、却て不忠に相当候儀も有之候ては、是又不便の儀御座候間、何卒御仁慈の御沙汰被下度、偏に奉願上候。已上。

   七月廿一日                 前同断

     宛前々同断

諷刺

目蛮印方   糺明丸     調合所      但州出石 鷹取已伯伝法

              附一人の外同諸奉行一切立合なし 芝口一丁目童野半曰老人

    効能                                 

一、第一砒霜石・斑猫はんめう等の毒に当りたるを治す。一、隠居・当主には一包にて即効あり。一、幼主にはきゝめ悪し。一、家中の痛みに好し。一、隠謀の病には五千両・六千両用ひて好し。一、無理に頭を剃られたるに用ゐて髪の毛生ゆる事妙なり。〇こむニ虚無僧をキカセタリこむ瘡には油断すべからず、外へ拡がらぬ内用ひて好し。一、筋目無き女の懐妊には黄金湯にて用ふべし。一、金屏風などは用ひて試むべし。但し見極めねばかへつてあし。一、力瘤の痛みに好し。一、後室の風聞悪しきを直す。一、近親の心痛に好し。一、食物は平生に心付候へば、頓死・頓病の憂ひなし。但し道中別けて心を付くべし。一、出家・社人は手足を延べて暫く休息すべし。

、此仙薬は、往古奥州仙台原田氏の遺方にして、無類の秘薬なれども、此方を受続ぐ者無くして、久しく絶えたりしを、近年但州出石の人、左京なる者、此方を拡めん事を工風して、石州浜田の士鉄蔵其匕加減を以て、調略なす所なり。此度減禄・退役、素姓を糺し、細密に吟味を遂げ、諸人の見懲しめの為め、世上に拡むるものなり。


仙石道之助元家来神谷転事友鵞、取計方之儀に付、見込之趣申上候書付。

                        脇坂中務大輔

オープンアクセス NDLJP:201

仙石道之助元家来神谷転事、当時上総国三黒村松見寺看住友鵞、引渡方の儀に付、井上河内守より取計方相伺、評定所一座へ評議に御下被成候処、両奉行共と同役見込一決不仕、銘々存寄之趣、此廿二日申上候儀に御座候。然る処、当月廿一日、一月寺役僧友鵞、所持罷在候書面の通りにて、道之助家老仙石左京取計方等品々申立候書付類、河内守方へ差出、右にては、道之助家政向甚混乱致し居候は、無相違候へ共、当時伺書差上げ、未だ模様も相分不申内、右体の書面差上候は如何と、河内守厚く心配仕り、私へ内談有之、心配致し候は、尤もに候へども、当時進達不致、追て御指図始末に依り、今般の書面夫れ御心得にも相成候儀有之候ては、恐入候事故、何れ入御披見候方可然旨及挨拶、右に付、今廿三日書面類進達仕候。右に付、猶厚勘弁仕り候処、今般の如く、一月寺役僧共、深蹈込一途に友鵞を精忠の者と見込、相かくまひ、始末に寄候ては、一宗破滅の基と申立奉行所吟味相願候を、直に仙石家へ引渡候ては、仮令実は友鵞不届無紛共、疑甚難晴処よりして、虚無僧共承伏仕まじく候。勿論下方の者共、承伏・不承伏に依り、奉行所の取計方懸念致し候筋は、毛頭無之候へども、忠義と掟とを蹈に致し、専ら正論と心得候て、申立候を、邪正弁別も不致取計にては、奉行所の大法更に被行不申候間、何れ友鵞は、私共懸りにて吟味の積り相成不申候ては難成儀と見居候。尤もさ候はゞ、道之助家政向の儀は、是非相糺不申候ては難成様可成行候懸念も有之候へども、此上友鵞吟味の模様に依り、同人不届に相決候はゞ、素より異論無之候得共、万一左京吟味いたし不申候ては、難成様の場合に至り候はゞ、其辺を以取計方をも相伺可申、其上無余儀場合に候はゞ、一山一宗の事にて、増上寺山内の一件等吟味致し候近例も有之候得共、併先は奉行所にて、一家中限の儀を、悉く打出し吟味に及候は素好の御取計に者無之候間、何卒其砌は左京へ同意の者共は、道之助方にて仕置為申渡、友鵞主家を逃去候不埒も、是亦奉行所にて内仕置申付候はゞ、自ら一家中の混乱も相治り可申哉にて、勿論夫とても未だ見越の事故、吟味の上、友鵞一人の不埒に相決候か、或は左京等以の外之不届とも悉く吟味致し候様可相成哉。何分にも取極候儀は難上候得共、先は前文の趣に取計尚為御取締万端家政向の儀は近親の内相談致し候はゞ、オープンアクセス NDLJP:202此節の趣は静謐に相成可申哉。さ候得ば、河内守相伺候趣は、早速御下知有之候方にも可御座哉と奉存候。右体遮て私より申上候は、如何に御座候得共、右之見込不申上、候而者、御指図の御含にも相成まじくと奉存候に付、私限此段別紙を以申上候。

  七月廿三日


一、同年十二月九日御逹書

                        仙石道之助仙石家処分

                        ​名代​​ 能勢惣左衛門​​ ​

                         玉虫十左衛門

其方元家来に出奔致候神谷転事、虚無僧友鵞の儀、不届有之者に付、捕渡之儀筒井伊賀守へ申越候間、召捕候。然る処他の引合も有之候に付、寺社奉行に而及吟味候処、其方家政不正、其外不容易之儀共相聞候。依之於評定所に吟味御詮議候処、家老仙石左京儀其方家政を取乱し、身不相応の奢侈超過し、殊に其身之罪を為取隠、奸計を以、主人の為筋申立候家老共を讒訴の趣に吟味、為誤死罪其外の仕置申付、且又宇野勘助等左京に令同意不埒不届の取計致候始末及白状候に付、夫々御仕置被仰付候。政事向之儀は、第一之儀に候処、家政取乱候を其心得も無之段、不調法に被思召候。依之急度可仰付候得共、若輩之儀にても候間、格別の思召を以、高五万八千八十石余の内、城地其儘被差置、二万八千八十石余被召上、三万石高と被成下、且又閉門被仰付候。

右於伯耆守宅、老中列座伯耆守申渡、大目附初鹿野河内守・御目附大沢主馬・羽太庄左衛門相越候。

                        松平周防守松平家処分

                        ​名代​​ 千羽弾正少弼​​ ​

其方儀、仙石道之助元家来河野瀬兵衛、並同家来生駒主計外三人仕置き等の儀、道之助家来共より松平主税を以承合候、道之助家老差出書面事実相違の儀有之、オープンアクセス NDLJP:203並片々の吟味に而如何共不心附、瀬兵衛其外之者共、仕置等、夫々及挨拶、其上道之助養祖父播磨守致病死忌中に相成候に付、仕置等申付候日間問合の節も、他に洩候間敷、宝暦夏評定所一座之伺添書写為書取相添へ内々主税に差遣候故、同人より道之助家来へ相達候次第に至候段、重々御役相勤候節之儀、別而不埒に被思召、隠居被仰付候、急度慎可罷在候。

 但西丸下、上屋敷被召上、中屋敷・下屋敷の内可住居旨、書付相渡。

                        松平左近将監

                        ​名代​​  本多主税​​ ​

                        深沢弥七郎

父周防守、勤役中、不埒の儀有之候に付、隠居被仰付、急度慎可罷在旨、被仰付候。家督無相違其方へ被下、追而所務可仰付候。

同人宅列座、同所同人申渡之

大目附初鹿野河内守相越す。

左近将監、差控相伺候に付、御目通差控可立旨相達す。

   申渡之覚

                       ​寄合​​ 松平主税​​ ​

                        ​名代​​ 能勢惣左衛門​​ ​

其方儀、仙石道之助元家来河野瀬兵衛、並家来生駒主計外三人、不届の儀有之由を以、科の次第相認め、河野瀬兵衛を引廻しの上獄門又は打首、主計外三人は切腹或は永座敷牢に申付、可然御仕置等の儀は、兄松平周防守より承合呉候様、道之助家来岩田静馬、外一人より頼請候節、書付共周防守へ為内見候処、瀬兵衛は軽死罪、其余に軽方被申聞候を、其余取附を以て、主計外三人剃髪の上、囲場へ入置可然旨及挨拶、且右之者共仕置等三奉行の中へ問合可申哉之段、道之助家来押返し申聞候処、乍内々も周防守より指図の儀に付、相違無之、外へ問合に不及之段強て申聞、其上、道之助忌中に相成に付仕置申付候同苗の儀、尚又道之助家来共承合候節、周防守へ申聞同人より宝暦度評定所へ、一応伺済の書面書取相オープンアクセス NDLJP:204添差越候を、其儘道之助家来へ差遣し、殊に左京は間柄に候共、道之助家政向に可携筋は無之、旁〻以不埓の至りに候。依て隠居被仰付。急度慎可罷在候也。

                       ​主税総領​​ 松平軍次郎​​ ​

                        ​名代​​ 玉虫十左衛門​​ ​

父主税不埒の儀有之候に付、隠居被仰付、急度慎可能在旨被仰付、家督無相違其方へ被下候追て知行引替可下候。

                      ​御勘定奉行​​ 曽我豊後守​​ ​

                       ​名代​​ 大久保弥左衛門​​ ​

其方儀、但州銀山附地役人渡辺角太夫別宅に罷在候仙石道之助家来、河野瀬兵衛を、同家来共蹈込捕押引連れ候儀に付、西村貞太郎より取計方相伺候節、道之助家来より右之在所家来共心得違之旨申立候迚、遠路多人数呼下及吟味候ては、可難儀と一己の存寄を以、御料所地内へ蹈込候次第等は相除き、角太夫方へ瀬兵衛を差越候故、貞太郎承合致吟味候姿に調置、一件落著之上、瀬兵衛を道之助へ可引渡哉の段、伺書取認可相伺の旨、貞太郎指図致し候事実相違の書面を以、松平周防守へ相伺、道之助方へ瀬兵衛を相引渡之段、全後暗き取計方、殊に最初、貞太郎ゟ右伺書差越し候砌、内藤隼人正連名宛内状をも添差越候上は、月番取扱之品に候共、同人え一覧不致始末、不束の至に候。依御役御免。差控被仰付者也。

右於河内守宅、若年寄中列座、河内守申渡之。御目附曲淵勝二郎・本多左内相越す。

                        ​町奉行​​ 筒井伊賀守​​ ​

其方儀、町奉行処分せらる仙石道之助元家来に而出奔致候神谷転事虚無僧友鵞、不届有之者に付、捕渡之儀道之助方ゟ申越候間、組之者へ申付為捕候、友鵞儀は、品々引合も有之、道之助方へ難引渡候処、篤と相糺候心得も無之、一途に引渡方に存込罷在候段、不行届の事に候。依之御目通差控被仰付候。

右新番所前溜伯耆守申渡之

                         鳥居丹波守

オープンアクセス NDLJP:205

松平左近将監上屋敷、四五日之内に為引払、御普請奉行へ可相渡候。場所柄の儀に付、引払迄之内、其方万事心附候様可致候。

                         阿部能登守

                         中川修理大夫

仙石道之助事未だ若輩之事に付、仙石家家政取締を仰附く家政取締方等之儀、中川修理大夫・阿部能登守申合万端心附候様可致候事。

  十二月九日


上      五万石余を永楽銭と思ひしも丸に無の字となりかゝるなり狂歌

仙石左京   あら口惜くやし五万石像を皆喰ひて腹が左京と思や仙石

同      長生を又仙石と欲ばれど左京数へてわづかなりける

神谷転    身にかへて神谷大事と思ひなば嘸転寝の夢に見るらん

山本耕兵衛  山本もかういふ事を思ひなば何しに江戸へ出て耕兵衛

杉原官兵衛  我儘の杉原ばかり心ねはあさ官兵衛と思はれにけり

青木弾右衛門 正しゝき面してゐるや弾右衛門もう弾左衛門と変名をせよ

苗字なし斧七 苗字をば仮に付けても争はゞ斧七ぶんの利を以て出す

 
                                        
 

  今川状今川状の作替へ

    出石老臣主君何某変死の騒動

一、天道を知らずして、左京つひに本意を得ざる事

一、転虚無僧をこのみ、無役の浪人くるしむ事

一、表裏の輩、公命を待たずして、出奔せしむる事

一、神谷捕れ寺社に訴へせしめ、堅固につゞまる事

一、大家の親類、公用の沙汰として預り、迷惑致す事

一、石但の山庄、左京以下徒党して利欲をはかる事

一、参府の衆人当惑せしめ、後悔いたす事

右此騒動、罪は死罪に極るべし。窮命大そう苦し。無事ふちのめし、くるしがオープンアクセス NDLJP:206らせる間、専可責問専一也。

  川柳

川柳美しき蔦も次第に落葉哉 尺八に吹倒さるゝ一家老 困る家中も槍もぶら 間違が出来て輪違ひ骨を折り 輪違の印から見て思ひ出し 竹に雀は仙石様の手本よ 薬草を抜いて山椒を植付る 二歩二朱一朱と百で馬を買ひ

 
                                        
 
十二月九日                   仙石道之助家来左京等一味処分

    獄門 ​同人家老​​  仙石左京四十九 ​ ​
    死罪 ​用人​​  宇野甚助四十八 ​ ​
    同 ​年寄​​  岩田静馬四十五 ​ ​
    遠島 ​年寄見習左京忰​​  仙石小太郎二十一   ​​ ​
    同 ​年寄​​  杉原官兵衛七十八 ​ ​
    重追放 ​ ​​  青木弾右衛門六十 ​ ​
    中追放   左京父隠居是一本左内とあり、是なるべし。 ​元年寄​​  大森登廿九 ​ ​
    同 旗奉行郡奉行勘定奉行兼帯​​  岩田丹太夫五十一 ​ ​
    同 ​勘定奉行​​  山本耕兵衛三十八 ​ ​
    同 ​物頭町奉行兼帯​​  恵崎又左衛門五十八 ​ ​
    軽追放 ​郡奉行​​  徳永半左衛門​​ ​
     主人方にて、相応の咎可申付​無役​​  早川保助五十三 ​ ​
     仙石道之助家来河野丹次郎移遣​医師​​  鷹取已伯六十四 ​ ​
     上総国三黒村普化宗松見寺看住、​  友鵞四十三    ​​ ​
     ​一月寺役僧​​  愛璿四十五 ​ ​
     ​屋敷番​​  西村門平六十 ​ ​
     ​無役​​  会田甚太郎三十六 ​ ​
オープンアクセス NDLJP:207     ​同​​  増田七郎三十六 ​ ​
     ​ ​​  石原新吾五十三 ​ ​
    無 ​中老服部弥兵衛代兼年寄​​  仙石左兵衛四十六 ​ ​
     ​中老​​  長岡右仲三十七 ​ ​
     ​元年寄元年寄​​  生駒主計四十六 ​ ​
     ​同​​  荒木玄蕃三十四 ​ ​
     ​同​​  酒勾清兵衛六十七 ​ ​
     ​免状役喜之助父隠居​​  麻見四郎兵衛六十五 ​ ​
     ​勘定奉行​​  久保吉九郎五十五 ​ ​
     ​近習番年寄孫右衛門忰​​  瀬戸鴎助四十六 ​ ​

〇年寄孫右衛門忰一本無シ青木ト混ゼシナラン     ​近習番年寄孫右衛門忰​​  青木葛太夫三十二 ​ ​
     ​馬廻り​​  岡部角太郎十九 ​ ​
     ​同草​​  原川三右衛門四十七 ​ ​
     ​同​​  谷津生人十九 ​ ​
     ​同​​  吾妻与兵衛五十八 ​ ​
     ​同​​  渡辺誠助三十二 ​ ​
     ​馬廻辰次郎父隠居​​  土岐雄之丞五十五  ​​ ​
     ​久無役太郎父隠居​​  酒勾薫三十九   ​​ ​
     ​台所小頭​​  西岡斧七八十八   ​​ ​
     ​目見医師​​  杉立以成三十六 ​ ​
     ​荒木玄蕃召仕治太夫忰​​  平井平八郎廿一 ​ ​
     ​三浦甚太郎家来​​  高橋久左衛門五十二 ​ ​
     ​中奥御小性仙石能登守家来​​  太田東左衛門六十七   ​​ ​
     ​同​​  内田竹左衛門五十七 ​ ​
     ​仙石弥三郎家来​​  中村龍助六十九   ​​ ​
     御小性本多対馬守組仙石七之助家来​  横田弥吉廿九   ​​ ​
     ​同人組仙石勝太郎家来​​  村井浦助廿四   ​​ ​
     ​但州出石城下八十町名主​​  藤兵衛一本藤蔵六十八  ​​ ​

オープンアクセス NDLJP:208 申口不分明に付揚り屋へ遣す          ​年寄​​山田八左衛門​​ ​

右於評定所、脇坂中務大輔・榊原主計頭・内藤隼人正・神尾豊後守・村瀬四平郎立会、中務大輔申渡。

  同十日夕、於三浦家高橋久左衛門へ申渡左之通、

其方事懇意の由にて、神谷転と申者、昨年一月寺へ入宗の受人に相立候儀に付、度々御奉行所へ御呼出に相成尤右一件、御構無之旨にて相済候得共、最初御呼出御尋之節、申口等甚不都合の儀有之上、同人事に付無余儀次第と申にも不相聞、右之始末兼而届も無之、旁〻不埓之事に候。依之差控被仰付候、慎可罷在也。七日の間差控にて相済。


    十二月九日鈴ケ森拾札の写

                        ​武家家来​​  仙石左京    ​​    当四十九歳​左京獄門の捨札

此者蒙吟味候処、先代主人美濃守病気差重り、跡相続嫡子無之、火急に出府之砌、纔に十歳の忰小太郎を愛子之由に而召連、既に右隠居播磨守、其外一家中在所之疑惑を受、主家へ対し不憚筋に有之、年寄生駒主計、勝手懸り手余る由に而、相懸り有之度と申聞候を、同人一人に而差支へ候に付、右懸り相願にて、格別増人有之候而者、区々可相成抔申候に其儘承置ながら差問候場に臨み、已後取締候由にて、年寄役取放之上、滅知致し、其以後、此者共四人にて、勝手方取放候段、隠居播磨守指図に候とも、幼年の主人、家政向専取扱候身分、右次第不都合の儀に而、是を巧候存念に相聞、其上百姓共、小鳥作物を荒し候趣を以、提飼相願候に付、飼置候由は難申訳にて、勝手向省略申、宅へ鷹差置野合に於て提飼致し、又は忰縁女引移の次第等超過の儀共、其外更に如何の取計有之候処、右主計外三人ゟ隠居播磨守へ上書致し、尋受候節、更に無跡形趣に相陳じ、却て前書宇野甚助に相談之上、年寄共へ申談、不束之上書致し候旨、播磨守へ申聞、減高・蟄居申付、右体不届有之候故、元同オープンアクセス NDLJP:209家来河野瀬兵衛儀、主人同姓之此者等取計、品々申立候を讒訴の趣に申なし、御料所地内を、足軽差遣し召捕、右に引合候趣を以、主計其外之者共答之儀、一旦事済之儀、病気に而精神及虚耗候播磨守讒聞為致、再吟味に及び、剰へ瀬兵衛申立候儀者、於奉行所吟味之上、此者申訳無之恐入候旨申立候かと多端讒訴の趣吟味詰させ、其已前、播磨守・定常青院等、瀬兵衛より内意承伝候者、如何之収計等播磨守へ心附申遣候を、不行届に而、他之同家来年寄杉原官兵衛ゟ申談為差出、右体事実反覆之儀を、却而瀬兵衛者死刑難逃由抔相詰、外年寄共より右之趣を以、了簡申立させ、瀬兵衛は仕置に相決、加之主計外三人は同姓とも、瀬兵衛書付差出候と申合候儀無之旨申立候を、倶に相巧、讒訴致し候体に書面取綴り、主人を欺き、重き御役人之内意相覗、瀬兵衛は死罪、主計外二人は、切腹より一等軽き心得にて、剃髪の上、穢多町続き明屋敷へ厨を修理入置候始末、主家へ対し深望無之由は申立候得共、其身不忠之露顕を厭ひ、主人為筋を申立候者を、重科に陥入候等、無紛不届至極に付獄門に行ふもの也。

友鵞儀、一月寺の謝辞願の通り、御吟味被成下、宗掟聢と相立、其上邪正明に相成、自ら諸士の忠烈を励し候に至り、武門の助と相成候意味を不失、一宗面目不之、偏に御仁徳の至り、殊更厚御慈悲之御沙汰被成下、言語に不及処、深難有仕合奉存候。右御礼参上仕候。

  未十月十日                  ​一月寺役僧​​  愛璿   ​​ ​

天保七申三月十五日、関係諸侯伯の交迭松平左近将監殿、奥州棚倉へ所替被仰付〈是迄棚倉城には井上河内守殿なりしが此度上州館林へ所替となり、館林の城主、石州浜田へ入代りとなる。〉

脇坂中務大夫殿には、昨年仙石一件御仕置後間もなく、西丸御老中格、従四位侍従に命ぜらる。

 
 
 

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