浮世の有様/2/分冊6
天保三壬辰正月五日の日付にて、京都より年始状の裏に記し越しゝ、出火の様子左の通。
右之通毎日々々其外西寺町上寺之内辺之小寺夥敷、扨々困り入申候仕合に、御座候。早々鎮り候様奉㆓祈入㆒候。已上。
右の趣申越候処、悉く附火にて正月下旬其者召捕られ二月刑せらる。大坂本町の悪徒なりしといふ。
大坂にても二月廿八日辰の刻、堀江出火あり。同日午の刻より阿波橋筋讚岐屋町出火方一町計り。【大坂の火事】同日安治川にも少々焼失すといふ。同廿九日酉の刻より新町大火。三月朔日昼前に至りて漸々と収りぬ。同日阿弥陀院寺内なる観音堂も焼失すといふ。夫よりして日々三五ケ所程づつ少々の火事所々方々にあり。是は格別の事にてもなしと雖も、十二三日計り騒々しき事なりし。
春来罪人も至つて多く、火罪・磔等も多くあり。又市中にて夜々追剥出で、往来の人を剥ぎ取るなど、傍若無人の有様なりといふ。又天満六丁目にて老婆一人
備中松山出火、三月廿六日なり。
去月十四日之貴札、同廿七日相達、辱拝見仕候。軽暑之砌御座候へ共、御清家被㆑為㆑揃、愈〻御安泰被㆑成㆓御起居㆒目出度御儀に奉㆑存候。随而草家打揃息才罷在、小児共気丈成人仕候条、【備中松山大火】乍㆑憚御安意可㆑被㆑下候。然者如㆓貴命㆒去々月廿六日午下刻、多賀源左衛門と申仁ゟ出火いたし、折節西南風烈敷大火に相成、是迄未曽有之大変に御座候。併愚宅者風上に相成、別条無㆓御座㆒罷在候間御放念可㆑被㆑下候。誠に当地眼目之所不㆑残焼失仕、旅人抔も承り候ゟは驚入候様子に御座候。且届書差越候間、是にて御推察可㆑被㆑下候。五月三日出之書状也。佐木弁内。
届書之写
【 NDLJP:167】私在所備中国松山城下侍屋敷ゟ去月廿六日午の下刻出火、風烈に而及㆓大火㆒外曲輪内侍屋敷迄焼込翌廿七日卯上刻火鎮り申候。焼失左之通。
一、侍屋敷但長屋共八十九軒 一、学文所 一ケ所 一、会所同 一ケ所 一、同 二ケ所 一、厩 一棟 一、番所 三ケ所 一、橋 一ケ所 一、家中 土蔵 三十五ケ所 一、同物置 廿六ケ所 一、町家 五百九十四軒 一、町家土蔵 百一ケ所 一、町家物置 九十六ケ所 一、辻番所 五ケ所
右之通御座候。尤城内別条無㆓御座㆒、人馬怪我無㆓御座㆒候。此段御届申上候。
以上。
私事も讚州金比羅へ参候はんと、先月廿五日松山迄参り候処、廿六日の昼過ゟ大火にて、家中計七十六軒、町迄に三百程夜なかまでにやけ申候。まことにゐなかにはめづらしき御事に御座候。それゆゑこんぴら参はやめにいたし、当月十日にかへり申候。又々らい春参詣いたし申すつもりに御座候。まづ〳〵佐木は残り申し候得共、おゑきの親里七郎おぢの所二軒やけ申候て、ぞんじよらぬ大物入に、こまり入り�候云々。
鳥羽 とへゟ
右焼失の数、届書とは大に少し。定めて大総に書上げしものならむと思はる。松山は予十三歳の時、金比羅参詣の帰に通りし事あり。僅か二千軒余の城下なれば、何れにしても大火といふべき事なり。
三月上旬より五十日の間、京都大仏養源院・本能寺・畜生寺等開帳、何れも信長・秀吉等の遺物なれば、【京都大仏等の開帳】都鄙大に群をなして参詣の人、日々大抵二三万になれ〔りカ〕しといふ。同時高台寺も開帳、これも政所の遺物多き事なれば、同様の群集にて大当なりしといふ。
大坂に於ては、四月下旬より川浚御手伝始まる。昨年伏見町唐人揃華麗なりとて、大に咎められしかば、夫よりして人気大に挫けしに、衣類の華美を止められ、木綿【 NDLJP:168】ならではなりがたく、【大坂川浚の手伝】其外船印・太鼓・鉦等をも停止仰付けられしかば、後には頓と出づる者なき様になりぬるにぞ、当年は昨年に引かへて、衣類も随分華やかにすべし。鉦・太鼓も苦しからず、賑々しくなして出づべしとの事なるにぞ、市中一統大浮かれに浮かれ出し、絹布はいふに及ばず、羅紗・猩々緋の類を以て衣服・襷等をなし、男女混雑して浮かれ廻り、騒々しき事これを譬ふるに物なし。斯くの如き様にて六月の初迄打続きしが、夫より諸神社の祭礼始まりしに、引続きだんじり多く引廻り、高麗橋筋四軒町に於て天満市のかはのだんじりと、同所川崎のだんじりと大喧嘩をし、両方怪我人多くありしが、漸々引分かれしに市のかはのだんじりを、天神橋を引通りしに橋板五間計踏落し、だんじりも人も川中へ陥り流れしが、仕合と岸に近き辺なるに、【祭礼の喧嘩】宵の間の事なりしかば、多くの助船、炬松・篝等を照らして、白昼の如く之を助けしかば、死人は聊の事なりといふ。されども怪我人至つて多かりしといふ。子供仰山にだんじりに附纏ひてありしかども、四軒町の喧嘩の節、怪我せむ事を恐れ双方共、皆々連れかへりて、小児は一人も川中へ落ちし者なかりしといふ。又六月五日三十石〔〈船脱カ〉〕三艘覆り人多く死す。〈橋の落ちしは、六月十九日暮過の事なり。〉
京都祇園祭礼の節、【祇園祭礼の喧嘩】
七月中旬より九月上旬にかけて、小盗人大に徘徊し、三五人程党を結びて所々に押入り、〈尤も貧家計りなり。〉大に騒々しき事なるに、【盗賊巾著切】巾著切仰山にありて所々人立の所にて、往来の懐中・下げ物・婦人の簪・笄の類を奪取り、傍若無人の有様にて、取られし者之を憤り其者を捕ふれば、悪徒大勢寄来りて其者を打擲し不法の有様なり。近来巾著切・小盗〔〈人脱カ〉〕、博奕打の類は召捕られぬれば、佐渡へ遣されて金掘をなさしめられし事なるに、斯かる者共彼の地に遣しぬればとて、金掘の働をばえせずして、却つて不良の事のみをなすにぞ、自ら土地の風儀悪しくなりぬる故、【同制裁】此後は
九月初より堺にては住吉の御旅所に、百姓共廿人計り出来り、御千度と称して怪しげなる踊なせしが、後に市中一面になり毎夜大踊をなす。【住吉の踊】其様白き木綿の衣裳を著て、頭に火を灯したる蠟燭を立てゝ、浮かれ踊る事なりといふ。初の程は斯くの如き事なりしに、後には羅紗・猩々緋・縮緬・天鵞絨の類にて衣裳をなし、大浮かれに浮かれ踊るを、御奉行よりも之を制する事なく、却つて奉行所へ出来りて踊れかしと外より内々の噂ありしといふ。又日延を願出でしかば、「日限に及ばず行く所迄行くべし。踊り止まば夫を日限とすべし。夫迄勝手次第に踊るべし」と、与力よりいひ渡せしといふ。怪むべき業なり。こは順慶町播磨屋庄兵衛とて、彼の地に縁ある者の方にて確かに聞けり。堺にても「こは狐の宮上りにあやかさるゝ事ならむ」【 NDLJP:170】と、心ある者共は専ら評判すといへり。
天保三辰年八月十九日町奉行榊原主計頭様被㆓仰渡㆒
申渡書
異名 鼠小僧【鼠小僧の判決書】
無宿辰三十六才 治郎吉
其方儀、十年已前未年已来、所々武家屋敷二十八ケ所度・数三十二度塀を乗越、又者通才〔用カ〕門ゟ紛入、長局奥向へ忍入、錠前をこぢ明け、或は土蔵之戸を鋸にて挽切、金七百五十一両一分・銭七貫五百文程盗取遣捨候後、武家屋敷へ這入候得共、盗不㆑得候処被㆓召捕㆒、数ケ所に而致㆑盗候儀は押包み、博奕数度いたし候旨申立、右依㆑科入墨之上追放に相成候処、入墨を消紛し猶悪事不㆓相止㆒、猶又武家屋敷七十一所・度数九十度、右同様之手続に而長局奥向へ忍入、金二千三百三十四両二歩・銭三百七十二文・銀四匁三歩盗取、右体趣仕置に相成候。前後之盗ケ所都合九十九ケ所・屋敷百三十二度之内、屋敷名前失念又者不㆑覚、金銭不㆑得㆑盗茂有㆑之、凡金高三千百二十一両二歩・銭九貫二百六十文・銀四匁三歩之内、右金五両・銭七百文者取捨、其余者不㆑残酒食遊興又者博奕を渡世致、同様在方所々江茂持参不㆑残遣捨候始末不届に付、引廻之上於㆓浅草㆒獄門申付候。
右御詮議掛り与力
杉浦紀十郎 三村吉兵衛 中島嘉右衛門 同心 神田武八 高木又兵衛 橋本左平治 近藤八兵衛 立羽栄五郎 神田吉十郎 桜田八十右衛門
評判
右異名鼠小僧引廻之節・
又芝居者之内に者、右小僧に大恩義を受たる者多しといふ。夫故にや十九日・一日芝居休といふ。
又品物は
右田中耕八兵衛より委曲申越候趣、相記し置き候なり。諸大名悉く右盗人に過ひ候事
九月十一日勝山大風雨、【勝山大坂の大風雨】
鼠小僧といへる賊の事は、是迄専らいひ触らして其噂高き事にて、久富覚了が娘鷹司の姫の附人となりて、蜂須賀へ入輿なりしが、蜂須賀の奥向へは両度迄入りしといふ。大坂川口与力首藤四郎右衛門が実況を慥に聞きしとて、予に語りぬるには、すべて賊へ仰渡されの始末にて、賊を召捕つて差出したる諸侯の名をば忘れしが、何分小大名の様に覚えたり。【鼠小僧捕縛談】此賊、此屋敷奥向へ忍び入りしを、更に之を知る者なかりしに、一人の女ふと目を覚して、密に殿へ告げしかば、其殿起出でて近習の者共を引起し、召捕にかゝりしかば、賊は少しもわるびれたる事なくて、「是迄斯様に盗して世を渡りぬる事なれば、召捕へらるゝ事は素よりの覚悟なり。されども陪臣の手には決して捕へらるまじく思ひしに、大名の直に召捕へらるゝ事故、此場を逃るゝの心なし。故に少しも
十月下旬勝山の家老戸村惣右衛門、江戸より帰り来りしかば、賊を召捕らへし諸侯の名を尋ねしに、松平宮内少輔なりといへり。
鼠てふわがかひとりの小
金取られ涙ながらに押し包む其こゝろ根のをかしくぞある
百の諸侯盗まれし数は百廿二二三度逢ひし馬鹿も有るらむ
捨札に晒せるはぢの大名は世々をふるとも消ぬるものかは
武威は無威武徳は不徳と知られけり盗賊に逢ふ間ぬけ大名
ねずみ捕りし猫にひとしき大名を鬼神の如くいふも可笑
鼠てふ賊捕へしとだいみやうは治世なるかな治世なるかな
琉球人来朝、当四月彼の国を出帆して、十月廿日大坂薩州の蔵屋敷へ著す。正使の船は小笠原大膳大夫命ぜられて之を出し、【琉球人の来朝】副使の船は松浦肥前守・亀井能登守より之を出し、下官の船は佐土原より之を出し、何れも家々の船印を立て、薩州の家老之を警固し、町奉行所よりも与力・同心大勢、船にて之を固め、薩州の屋敷船上りの場所は、東西共に矢来にて結切り往来を固む。両側ともに見物の男女大に群集して、川中迄船を浮べて是に充満す。町毎に木戸を締切り、〈川筋計りなり。〉橋の近きは悉く往来を止め、至つて厳重の事なり。同廿四日屋敷より船にて伏見へ上る。同様の事なり。川筋は勿論伏見迄見物打続きしといふ。又伏見・醍醐等へは宮様・御摂家・堂【 NDLJP:173】上方御見物に御出あり。仙洞様にも密〔〈々脱カ〉〕御幸ありしといふ。薩州侯には九月廿日頃より伏見の屋敷にて待合されて之を引連れ、三日先へ立つて、参府ある事なりといふ。御老中にては松平周防守殿、この掛を命ぜられて、立派に屋敷の普請をなし、新に球人を入るゝ座敷等を建てられしに、九月晦日、御同役水野越中守殿より出火にて悉く類焼す。球人参府迄には本の如くに普請仕上げざればなりがたき事故、大混雑なりといふ。正使は薩摩にて死にしかば、副使繰上げになりしといふ。外にも途中にて死人三四人もありし由、総人数九十七人なりといへり。
九月より十月下旬に至るまで風邪一般に流行、【風邪流行】戸毎に一人も病臥せざる者なし。月は異なりと雖も、大体天下一統の事なりといふ。
十月兵庫高田屋〔嘉兵衛〕オロシヤに往きて、是迄毎度米を交易せし事露顕す。こはオロシヤより度々日本へ来り、【高田屋嘉兵衛交易露顕】交易の事を願へども聞入なき故、「然らば何故日本人は我が国へ来りて交易するや。我が国にては之を許してなさしむる事なるに、我が国より日本へ来れる事を許されざる事、其理に背ける由」申すにぞ、「日本より是迄遣したる事、更になし」と答ありしに、「高の字の親の船印にて斯様々々の船なり」といへるにぞ、御吟味ありしに、高田屋が仕業にて松前候の計らひなる由分明に分りしといふ。こは阿蘭陀人より委しく申出でしといへる由、木屋二郎右衛門が咄なり。閏十一月中旬の頃より、伏見町の者並に明神おろしと称して、狐を祀れる者などのいひ出でし由にて、当月廿六・七・八日三日の間に、船場残らず焼失すべしと大にいひ触らし、何れも是におだてられ、昼夜とも安き心なく騒々しき事なりしもをかし。近来盗賊頻に徘徊し、【盗賊の徘徊】白昼に小家の留守を考へ、錠前をこぢ明け物盗み取る。白昼斯くの如くなれば、夜は最も甚しといふ。斎藤町にても小家のみ十四五軒にも入りしが、後には何れも申合せ心を配りしにぞ、篠崎長左衛門が借家・三井三之助が借家と二軒へ入り〔〈し脱カ〉〕何れも召捕りて差出す。騒々しき有様なり。
天保四年雑記 天保四癸巳年【琉球人出帆】正月四日、琉球人江戸より帰り来り、同八日出帆す。
【 NDLJP:174】春来大罪を犯す者多く、所々に毒殺等ありて、火罪・磔絶ゆる間なし。歎ずべき有様なり。
酒井雅楽頭四つ足門を建てゝ、【酒井雅楽頭閉門】井伊掃部頭に咎められ、水戸侯より祭当〔本ノマヽ〕入て返答なりがたく、早々門を潰して閉門なりといふ。
三月京都東本願寺、江戸へ下り、四月木曽路を帰り上りしを、百姓・町人大勢見物に出でしに、四月九日大地震にて山崩れ、巌石飛落ちて人多く死す。夫より尾張の領地に入り来りし処、昨年の材木一件にて百姓大勢一揆をなし、銘々竹槍を持ち紙幟を樹て、門跡へ直に対面し、家老下津間両人を受取り打殺さむとて大騒動す。内通の者ありて、此事前以て知れしかば、二三日前に家老共は、下賤に身をやつし逃れ帰りしといふ。一揆の者共、尾州より召捕られ大勢入牢す。本願寺は夫より城下に到りしに、法義の事にて尾州講中より差込まれ、返答をなす事能はず、這々の体にて帰京すといふ。【本願寺の珍事】又八月上旬より本山の普請棟上始まりしにぞ、大勢群集して参詣す。然るに門倒れて是にしかれ、両人死する者あり。怪我人其数知れず、大騒動せしといふ。此妖僧の為に天下に傷害せらるゝ者少なからず。憎むべき事なり。
一、奸人、公家衆を欺き引出して、三本木料理屋に於て芝居をなさしめ、密に畳一枚金二百疋づつに売付け、大勢見物を引受けしといふ。是れ公家の風野鄙になりて、近来好んで芝居なして之を楽しみとなすといふ。【公家衆の芝居】悪徒に欺かれ忍出で、密に芝居せし等、以の外の事なりといふ。畳を売り金を取れる事など、公家は一向に知る事なし。奸人共忽ち召捕られ入牢せしとなり。古今未曽有の事共なり。
一、四月九日午の刻大地震、四年前の大地震よりも強き様に覚ゆ。同日申の刻少震、同酉の刻大に震ふ。【地震】同十五日初更地震す。京都は当所より震強く、其数も亦多かりしといふ。同廿五日申の刻大風、瓦を飛ばし樹枝を折る。
当年は米価高く一揆等にて騒々しく、【後車戒】何か事多き故に、後車戒と題して一歳の事記しぬれば、総ての事は是に譲りてこゝに略しぬ。長州の一揆も大変の事にて煩雑なるが故に、此書には略記して、【戮倒産物役所】別に戮倒産物役所と題して委しく記し置きぬ。其余の事も総べて辰・巳両年の事は、右の二書に書添へて置きぬ。之を見てその詳な【 NDLJP:175】る事を知るべし。
天保五年雑記 天保五甲午年当年も昨年よりの続にて、騒々しき事のみなれば、後車戒の巻末に書続け置きぬ。
天保六年雑記 天保六乙未年春より寒気烈しく、家によりては四月に至れども、尚炬燵ある程の事なりし。三月十三日暴雨大雷、大坂にて三ケ所、亀山にて五六ケ所、京都にて五六ケ所落つる。総て旧冬よりして雨降らず。此時の雨暫時なれども、少しく濡になりしといふ。亀山などは、正月中旬の頃より井水悉く尽きて、飲水に事を欠き諸人大に
三月十七日寅の刻、堀江宇和島橋南詰出火、南堀迄焼抜くる。方四町計り。
同廿三日、【各地の出火】天満源蔵町失火、同廿四日昼過より
四月廿一日寅の刻地震、当月は雨天続なり。五月十五日洪水
六月、肥前鍋島の城残らず焼失。〈〔頭書〕肥後国八代にて家中同士大騒動あり。〉
同廿九日辰の刻より大雨大賞終夜大風して海上
土用中天気申分なく照り続き、気候至つて宜しく豊年の様子なりしに、堂島の奸商頻に流言をなし、【奸商の流言】「北国洪水、土用中雨続にてやう〳〵三日ならでは天気なし。斯くては皆無ならむ」などいひ触らし、頻に米価を引上ぐる。同晦日より七月二日まで【 NDLJP:176】至つて冷かなり。洪水出づ。
七月十四日、天満樽屋橋出火。
同十四日、江戸に於て姫路家中山本三右衛門女親の敵を討つ。
十八日、福島真砂橋南失火。十九日迄は時候少しも申分なし。今日より暴に冷かなりしかば、好商大に時を得て、頻に米価を引上ぐる。
閏七月五日夜より風吹出し、六日午の刻より風雨烈しく、夜に入り弥〻甚しく、所々の堤切込み人家大に損ず。【各地の風雨】天保山も一面の水となり、南方の石垣大に崩る。此日海上一様に大荒にて、備前・備中・播州地最も甚し。破船・人死大層の事なりしといへり。七月上旬より大和八木とやらんいへる所に、黒犬牡牝狂犬となりしが、後には郡山へ出来りて人を喰ふ事四十六人、【郡山の狂犬狩】其中六人は即死にて、一人は其死骸さへ知れざりしといふ。之に依つて郡山一家中、弓・鉄炮・槍・長刀等を持ち、領中の狩人は申すに及ばず、百姓・町人に至るまで悉く騒立ち狩立てしかども、容易に手廻る事なくして、漸と閏七月廿三日に至りて二匹の犬を打殺せしといふ。僅か二匹の狂犬をさへ、斯様に騒動して漸と五十余日を費し、辛うじて打殺しぬ。若しも人間両三人にてあばれ廻らば、嘸大騒動に及びなむと思はる。笑ふべき事なり。〈〔頭書〕郡山家中の者も大勢噛みつかれしといふ。〉
筑前侯には、勝手向宜しからざる所より領内の医を引出し、四百五十石を与へ士に取立て、白津用左衛門と名乗らせ勝手方を命じ、万事是が計らひにて領中に課役を申付け、【筑前侯の勝手向不如意】大坂にて館入の町人鴻池・加島屋を始め、悉く此等を踏倒し、〈〔頭書〕筑前より役人来り、大坂の館入を倒せしは閏七月の事なりし。〉新に天王寺屋忠左衛門・
八月中旬奥羽大雪降る。此頃迄も北国・東国総て風水の変あり。「北国は土用中降続き、やう〳〵三日ならでは天気宜しき事なく、其上風水の変ある故皆無なり」などいひ触らし、【風水害に依りて米価騰貴】段々と米価を引上げしに、此節に至り北国七分作の取入ならむといふ事、慥に世間の人も、聞知れる様になりしかば、忽ち事をかへて、「是迄豊作なりと云ひし九州・中国等取入れぬるに、思の外実入なかりし」など言触らし、又々米価を引上げぬる様になりて、肥後米九十二三匁となる。余は是にて知るべし。奸商の業悪むべし悪むべし。
同八月の事なりしか、美濃一国百姓一揆を起し、公領・私領ともに御陣屋・城下等へ竹槍にて詰寄る。【美濃国の百姓一揆】こは御代官青木何某・大垣・加納其外の役人・庄家など馴合ひ、川筋是迄水損ある故、堤の普請をなし、已来少しも水損の患なき様にせむとて、夫々の領内へ悉く課役をかけ金子三千両取集め、二千両を各〻懐になし、千両にて渡し普請をせしといふ。然るに当秋洪水出でしに、新に築きし堤悉く切れて、水損是迄に十倍す。こゝに至つて役人共の私欲明白に相分り、百姓一統起り立ちしといふ。さもあるべき事なり。終に私欲せし者共数十人、関東へ引かれしといへり。十月廿一日夜、安堂寺町・八百屋町より失火、南長堀へ焼抜け、北順慶町南側迄、東は横堀を越え谷町より東へ焼抜ける。
同十一月廿二日二更より、東町橋東曲りの辺より失火、本町筋南側東迄残らず焼失。御城代中屋敷北手三分通焼失、此処にて火鎮まる。【大坂失火】南は両替町迄焼抜け、御祓筋よりは農人橋筋へ焼出し、北側残らず焼失、御城代中屋敷にて止まる。
近来所々火付多く騒々しき事共にて、火付致し候者四十人計りも、召捕られしといふ噂あり。町々の番も是より至つて厳重となる。
但馬出石城主仙石道之助〈知行五万八千石。仙石権兵衛が家なり。〉家老仙石左京、先君越前守殿を毒殺し、又当主をも殺し、己が子を以て主家を押領せむと謀り、大勢同意の者を拵へ、已に大変【 NDLJP:178】に及ばむとす。其事露顕いたし公儀御裁許となる。種々の風説あり。村岡山名の家老沢山義兵衛より委しく聞ける事あれども、【仙石左京の謀叛】事煩しければ之を記すに及ばず。斯かる大変なれば、定めて外より委しく書記す事あるべし。こは神谷転召捕られて後、追々公儀の御手に渡り、夫々御吟味中の事を、江戸より申越しぬる書付の写にして、其始めなれば事を分つに至らず。
国家老 仙石左京 江戸詰年寄 神谷七五三
御分家仙石弥三郎殿附人
神谷七五三弟 神谷転
右転儀、致㆓出奔㆒一月寺門弟に相成、友鵞と致㆓改名㆒虚無僧に相成候を、筒井伊賀守殿組之者召捕、揚り屋へ入る。右之左京家老職相勤、其外年寄と唱へ重役荒木玄蕃を初多人数相党、同心無㆑之者役儀取放し或高減、亦者永之暇申付、自分子息者松平周防守殿御舎弟松平主税殿と縁組いたし、其息女を貰ひ候手続を以、去る子年出府之節、金子千両音信に差出し御役家へ取入、左京威勢増長仕候上、彼緑続を以左京目通り仕候趣、然処仙石家勝手役河野某と申者、左京謀悪年寄中へ内密申告候段、左京承及候由、河野氏の少々仕落を沙汰し暇申付る。神谷転此河野と無二之懇意故、内密之事申遣候段、此節左京へ相告候者有㆑之、復河野氏も早速召捕入牢申付、厳敷責問候処、転ゟ申越候様始末申立候間、転儀早々国元へ罷越候様、江戸表へ申来候に付、転者内通露顕を察し、其夜出奔行衛未不㆑知、同人兄神谷七五三国元へ呼寄せ行衛厳敷尋申付、尚又江戸表へ申来る。転儀は麻布六軒町柔術之師渋川伴五郎世話を以て、一月寺へ致㆓法入㆒虚無僧と成居候を聞届け、左京指図を以江戸留守居依田市右衛門・河野丹治ゟ、筒井伊賀守殿用人へ転召捕引渡之儀懸合頼入則六月十三日横山町往還にて被㆓召捕㆒、仙石家へ引渡に被㆓申付㆒候。転儀右之様子申立、於㆓奉行所㆒吟味受度旨強而申立る。是不㆓容易㆒筋に付、揚り屋入被㆓仰付㆒、当時内糺中に有㆑之、越前守去る子年於㆓国元㆒俄に致㆓病死㆒候始末、左京毒殺仕候儀に有㆑之、当主幼年に付是又毒殺之上、左京自分之子息を可㆑致㆓家督㆒謀計にて、既に随意之者夫々立身させ、忠義之者は追々役儀召放し、随意之者へは金銀を貸遣し立身為㆑致、其上領分へ者用金申付、多分之金子取立相貯有㆑之謀悪之旨申立。
【 NDLJP:179】 右之通有㆑之風聞記し差上申候。已上。 岡幸蔵
九月五日呼出
仙石左京家老 山本新兵衛 荒木玄蕃年寄 岩田静馬 岩井源四郎 長谷川清右衛門 小川八右衛門 鵜野甚助 生駒主計 本間源太夫 市浦良蔵 大塩甚太夫 田中伊兵衛 久保吉九郎 中西儀右衛門 西村門平 佐治左吉 広田幾二郎 宇野長兵衛 麻見四郎兵衛 猪俣源二郎 村瀬岩二郎 西田善七 堀田喜十郎 早川保助 白井広之助 酒勾清兵衛 岩田丹太夫 中沢喜右衛門 西山平右衛門 杉山平兵衛 鷹取已百 杉原官兵衛差添人付但病気に付き 長谷川勢右衛門 中西義右衛門 左京家来青木弾右衛門 西頭喜七
以上三十七人、江戸仙石屋敷留守居依田市右衛門附添出る。
御懸り 脇坂淡路守殿
浪人 神谷転事当時友驚 右者松平備中守殿へ閏七月ゟ御預け。
留守居 安田荘五郎 預り人 沢池権太夫 手替り 鈴田弥太夫
右友鵞召連差添出る。
九月十一日松平伊予守殿へ御預之者共
仙石左京 市浦良蔵 荒木玄蕃 松山平兵衛 長谷川勢右衛門 酒勾清兵衛 杉浦官兵衛 鵜野甚助 広田幾太郎 山本耕兵衛
以上 右伊予守殿御留守居山田権右衛門被㆓召出㆒御預申守。
九月十二日呼出御調入牢人
六十八歳大塚甚太夫 西村門平 六十歳 六十四歳鷹取巳百 早川保助 五十三歳
同十三日入牢人
岩田静馬 四十五歳 杉原官兵衛 六十八歳 青木弾右衛門 六十歳 山本耕兵衛 三十歳
同十九日入牢人
五十一歳岩田丹太夫
同二十日同断
【 NDLJP:180】 鵜野甚助 四十五歳
以上追々御調有㆑之九月廿八日巳刻
桜田方角〈仙石道之助代〉 九月十三日 牧野越中守
九月十五日 不快 松平周防守 助御用番 大久保加賀守周防守殿出勤迄
十月周防守御役御免帝鑑間被㆓仰付㆒、十一月閉門。
同十二月九日落著
美濃守事仙石道之助 能勢惣右衛門名代
家政不行届家来御仕置被㆓仰付㆒、知行二万八千石減知被㆓仰付㆒。
松平周防守名代 千村弾正少弼
隠居蟄居被㆓仰付㆒家督領知替之儀、追而嫡子左近将監へ被㆓仰付㆒、居屋敷三日之内引払被㆓仰付㆒候。
閉門 周防守忰 左近将監 名代 深津弥七郎 若寄合 松平主税 名代原本闕ク
隠居蟄居被㆓仰付㆒、知行家督之儀追而忰可㆑被㆓仰付㆒候。
御勘定奉行 曽我豊後守
御預け御免閉門
【判決】死罪獄門 仙石左京 八丈ケ島遠島 忰小太郎
死罪 岩田静馬 鵜野甚助
重追放 青木弾右衛門 杉原官兵衛
中追放 大森登 山本耕兵衛 岩田丹太夫
軽追放 清水半左衛門 恵坂文右衛門
申口不㆓相分㆒に付、揚り屋へ差遣し。山田八左衛門
鷹取巳百 台所奉行 西村斧七 主人へ引渡相応に咎申付候
構無㆑之 御家老 生駒主計 荒木玄蕃 酒勾清兵衛
一月寺へ引渡可㆑任㆓寺法㆒ 神谷転事友驚
右於㆓評定所㆒脇坂中務大夫・榊原主計頭・内藤隼人正・神尾豊後守・村瀬平四郎立会、中務大夫申渡。
〈○編者云、この後に捨札の写其他あり、この騒動の事は後に再び詳しき記事ありて、そこのものと全く重復する故削略せり。〉
十二月下旬、【仙洞の御所賊に奪はる】仙洞様より禁裏様へ進ぜられ候御文を、使者途中にて賊の為に奪取らる。前代未聞の事也。所司代・両町奉行より厳しき手当なれ共、賊相知れずといふ。
天保七年雑記 天保七丙申年正月十日・廿五日今宮蛭子・天満天神等にて、上町の悪徒没落せし主家の女を見世物に出し、陰門を晒し見物をして不良の業をなさしむ。其女之を大に歎き沸泣して断ると雖も、孤なるが故に之を呵責して、其業をなさしむといふ。悪むべき事なり。二月上旬阿波座にて、廿九歳の男四歳の女子を犯し入牢す。其頃に至りて上町の悪徒も召捕らる。此余にも斯様なる邪淫数多ありしといふ。斯くの如くなる事故、アテヽンカといふ節にて、【アテヽン節】甚しき淫歌流行し、町奉行より差留めらる。
同廿二日・三日両日に、三度江戸大火。
同三月〔本ノマヽ〕十五日、昨年仙石一件に付、周防守奥州棚倉へ所替命ぜられ候に付き、井上河内守殿館林へ来られ、松平左近将監殿浜田へ所替となる。
同廿四日申の刻大に暴風雨半時計り、四月二日申の刻大風雨。
三月十六日、松平肥前守殿江戸発駕にて、川崎駅小休にて宿札を掛くる。折節一橋卿大師へ御参詣あるにぞ、御家来の由にて田中熊蔵・当麻平兵衛といへる者、組の者六人召連れ本陣へ入来り、宿札御目障に相成る故取払ふべき由申付くる。されども今小休の時刻なる故、【一橋家来の狼藉】之を断りしかば大に怒り、本陣の者共を大に打擲し、刀に手を掛け宿札を土足にて踏倒し、大に狼藉に及びしかば、肥前守より留守屋〔居カ〕羽室市右衛門を以て一橋へ掛合に及びしに、左様なる姓名の者、此方家来になしとの其返答なりしかば、水野越前守殿へ其旨届けられしといふ。大騒動なりしとなり。
享和二壬戌年伊州・西美濃江州・城州・摂河泉大洪水荒増聞見書之写并京都大変
但旅人の溺死六七十人之由申候得共、流れ候向は一向に人数不㆓相知㆒、或は旅人は流れ亭主逃退候族、溺死之掛り合に相成候を憚不㆓申出㆒候向も有㆑之哉にて、家内溺死三四百人と計申居候由。
中仙道にても、愛知川高宮・武佐・守山其外彦根御城下御領内、右同様に荒損候由、依て醒ケ井・柏原ゟ野洲川筋所々切込候内、【中仙道の風水害】出庭・三宅・今宿へ切込強く、別而新川と相成、本川筋却而水少相成候由、右之溢水守山宿ゟ今宿等多分流失・溺死人等も有㆑之、怪我人等も多有㆑之由、右之水末赤野井・杉江・下物、南にては品中村・吉田等一面に水押切開一つに相成候由。
但阿州侯、当朔日大津御止宿之筈に候処、御通行不㆓相成㆒、武佐に三日御逗留、
右之通、湖水東之地方一面之水にて湖水連続致し、江陽之地にて悉湖に相成候哉と待之事之由御座候。尤江北志津ケ岳・姉川辺も出水、勿論大溝・高島・今津・貝津之辺【 NDLJP:183】も出水に候得共、湖水之溢水多候由。膳所の城も所々破損、北向・東向之分者白壁と申者は無㆑之、石垣等も損候由に御座候。大津表も地低之処者、湖水床之上下一二尺・三尺にも及び候。立退候者も有㆑之由、右者纔之儀にて、地高之処は石垣之上少々越候迄にて相済候得共、常水ゟは夥敷高水にて、逢坂山も山崩にて暫通路難㆓出来㆒、脇道ゟ通ひ候由、右之外田上辺・右山辺処々山川有㆑之地、悉出水不㆑致所も無㆑之、瀬田の大橋も既に危候処被㆓防留㆒候由〔〈にて脱カ〉〕無難有㆑之由、石川筋黒津・関津之辺不㆑怪〔軽カ〕出水之由候得共、御供ケ瀬・獅々飛等之切所々々に被㆑支候而、江州地方之出水急に落兼候哉。勿論宇治・伏見・淀抔は聞ゆる水の名所にて候故、不㆑軽出水に候得共、兼而覚悟も有㆑之出水と雖も、
京都大変
七月晦日午時、【京都の風害】西院村之辺ゟ丑寅之方一天曇り、烈敷白雨之気色に相成候処、未申之方ゟ丑寅之方へ向、悪風吹黒雲舞下り、千本通新屋敷辺、夫ら下立売カ中立売之間大荒にて、家余程吹崩し、勿論屋根之向は大体不㆑残吹めくり、夫ゟ東へ吹、一条通・小川通角門抔引さけ、金もの等悉引抜、其近辺之家五六軒吹倒、段々に東之方へ吹、近衛家御台所大に損じ、二条家此頃普請御座候処、新御殿大半崩れ、久我家之屋根大に損じ、折節普請御座候由にて、屋根へ上り居候者五六人即死いたし候。冷泉家之土蔵之屋根銅にて包み有しを、一枚も不㆑残吹めくり、其外御殿向大荒れ、右近辺之堂上方五六ケ所大損とて、夫ゟ今出川出町田中村へ吹抜、所々大損じ人馬等怪我有㆑之由、夫ゟ叡山へ吹付、虚空へ黒雲舞上り申候。尤所々にて怪我人夥敷有㆑之、其外戸・障子・屋根・俵物類色々様々のもの巻上げ、瓦・屋根板飛致候事、誠に木の葉を散らす如くにて、大騒動前代未聞の事に御座候。併本家之辺は風も吹不㆑申、何の障も無㆑之候て一同大慶仕候。右風筋は殊に火事場の如くにて、追々見舞之人走著申候。尤西院村之方ゟ叡山へ向只一吹にて、暫時之間にて白雨も無㆑之雲晴申候。全く天狗の所為と被㆑存候。余り珍事故御噂得貴意候。此度之浩〔洪カ〕水と同様にて、噂ゟは不㆑軽大荒にて御座候。
右風水の二大変は、予が在京せし時のことにして、直に見聞せし事なり。今悉く其二事を書記せる父の手に入りぬる故、此所へ写し置くものなり。
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