浮世の有様/2/分冊9
一、当春よりの在留船頭、唐人殊漁村と申す者、此間病死致し、【唐人葬式】葬送の儀願出、任㆑例御免被㆓仰付㆒、当月十三日未刻、葬送有㆑之、船の船頭始め、其外役々唐人並下々の唐人共迄、都合百三十人余、檀寺〈南京〉興福寺まで送り願出候処、是亦御免に相成、出服〔本ノマヽ〕致し尤も、当節唐人他出罷成不㆑申旨、厳しく御取締有㆑之候に付、途中にて間違ひ無㆑之様、地下役人並大勢附添ひ道中木刀・十手・早縄を持ち、右葬送の式は、凡真先に屋台様の物拵、其内に位牌並色々送物有㆑之候を、四人にて荷ひ、又同様屋台に、鶏・猪其外【 NDLJP:218】供物山海の珍物盛立て荷ひ、夫より旗或は太鼓・銅羅等の鳴物有㆑之、其次に下々の唐人共。大勢引続棺参る。其棺凡そ一間半計りの棺にして、上は紅縮緬にて巻き、立花毛氈其外色々の切れにて飾立、凡三十人余にて荷ひ、其次に、泣き唐人と申者一両人、是は身近き親類、或は召遣ひの者にて、白衣服にて帽子も布白にて包み候を著し、頻に愁傷涙を流し参る。夫より船頭、其外役唐人共、列を正し、随分愁傷の体日本も同様に御座候。市中の見物夥しく有㆑之、既に
此船頭共を右之如く打擲抔せし訳は、此節の御取締筋且本方商売等に障り候故、船頭共の願と心得違にて、打擲等致し候。右之騒動にて、葬送式は、漸く四五人附添ひ式相済申との成成〔衍カ〕事に候。
夫より右の下唐人共、唐人屋敷へ帰りて、名役・通事役詰所、或は御検使等御出座の詰所へ、石を投げ、又は其座に在合火鉢抔を投懸、襖・障子の類打砕、剰へ表門を少々打破り、法外の乱行、言語道断に相見え申候。門番詰合役人衆、刀を抜、切り懸かり候処、唐人共恐れ、門内へ逃入申候。兼ねて御手配有㆑之候肥前大村様・筑前黒田様へ、御奉行所より取固方被㆓仰付㆒、即刻両御蔵屋敷より御駈付に相成、黒田様御人数、大将分四五人、侍衆大勢、足軽五百人、大村家より三百人計り、熊手・鳶口・木刀・槍数十筋鞘をはづして、鉄炮には火縄を挟み、唐人屋敷への前後左右、幕打ち廻し、頭分の侍衆、床机に懸り、旗・物・纏押立て、其厳重なる事難㆑申計、夜に入り、高灯籠・大篝火、夥しき行粧に有㆑之、楯板の様なる物、筵にて拵へ用ひ、〈此楯は筵四つ折にて、竹に結付け、拵る。唐人共は石を投る事奇々妙々なり。防ぎの為なり。〉其御奉行所よりは、御検使数頭、地下役人衆不㆑残出張、十三日夜通し唐【 NDLJP:219】人屋敷近辺は、白昼の如く輝申候。然る所唐人共相恐候や、其後は館内へ籠り、狼藉無㆑之故、御取固めに相成候迄にて候。前以て御召捕に相成候唐人五人、十三日夜於㆓御奉行所㆒大村家へ御預けに相成申候。〈但此節御取り締りに付、大村へ被㆓仰付㆒、召捕候唐人御預けに相成候様にて、同村城下に牢獄用意有㆑之候。〉 十四日に相成御奉行所より被㆓仰出㆒候には、前日の始末、此度入津の砌、厳しく門外不㆓相成㆒旨被㆓仰渡㆒候て、受書等も有㆑之趣意、不㆓相用㆒、別て唐人屋敷表門、御公儀の御門に候処、打破候段、不㆓容易㆒不埒の次第に有㆑之、右様乱行相働候段、定めて発起の当人可㆑有㆑之故、其頭人差出可㆑申、自然当人不㆓相分㆒に於ては、館内へ踏込総人数不㆑残召捕方可㆑被㆓仰付㆒趣にて、早朝より諸役人衆種々利害有㆑之候得共、何分発頭人向を不㆓申出㆒、又恐入候趣意も相見え不㆑申、竹槍など抜候由相聞え候に付、直に黒田家一勢一手にて、召捕方被㆓仰付㆒、未刻頃館内へ打入に相成、先表門より筑前の家士、当地官役毛谷主水殿、一声叫び一番に乗入、続て凡四百人り計打入、又裏門より凡三百余双方一同鬨を作る。銘々得物々々を、提其外御奉行所より御検使数頭、御徒目附・御小人目附を始め、地下役人刀指の面々総勢千余人計り、山も崩るゝ如き勢にて乗入に相成候。
但筑前の総大将中老職何某殿は、表門に床几に懸り、足軽大勢にて、一備御控有㆑之、大村勢は小島と申所、山の手に列を正し、御陣取控有㆑之、装束は大将分金入の野袴・羅紗の羽織・胸当・兜・頭巾、総て火事装束なり。侍分は火事装束、陣笠・踏込、足軽は、印付の半纏・白木綿後鉢巻・同襷・金紋付の陣笠・手槍・木刀・鳶口等思ひ思ひに提ぐる。
右の勢にて、【唐人の臆病】一同御打入に相成候処、兼ての我儘にも似気無く、大に恐怖し、己が部屋部屋に逃入、戸を締め一人も出で逢ひ候者無㆑之、依之右の大勢打入候や否や、鳶口・熊手等を以て、部屋々々の雨戸・蔀に至る迄、用捨なく打砕き、屋根には竹梯子を懸け、夫より二階の戸を打ち砕き、駈入々々唐人共を取つて押へ、縄を懸け生け捕り、其内手向ひ致候唐人は、木刀を以て頭を打ち破り、腕・首の用捨なく打居ゑ、生捕に相成候。凡一千人計りの人数にて、雨戸・部を打崩し候故、其音凄じく鬨声は山に響き、誠に軍陣の如く、目覚しき事共難㆑尽㆓筆紙㆒。扨唐人共の内にても、別て未練の【 NDLJP:220】者は、腰を抜かし、這ひ廻り候て、逃る族も有㆑之、遊女・禿の類は、凡そ百四五十人計り有㆑之、一驚を喰ひ候て、泣き叫び逃迷ふ有様、不便にも亦をかし。是等は追々、役人より、表門へ送り出しに相成候故、怪我等も無㆑之、夜に入り人別改候て、遊女町へ不㆑残御出に相成申候。然るに唐人共、家の隅・押込・床下・天井の上等へ隠れ、或は関帝堂・観音堂等に逃隠居候故、隅々隈々御探し相成り候に付、余程隙取漸暮く頃迄に、上陸の唐人不㆑残召捕に相成り申候。尤も船頭其外重役の者は、召捕に不㆑及、下官の向き、三百四五十人計り縄付に相成る。此内疵付、凡十八人計と申す事に御座候。即刻御奉行所へ御引出に相成り、夫より黒田勢は引取被㆓仰付㆒。夜五つ時頃、引き取りに相成る。其行粧高張数百張灯し連れ一番手より、五番手迄引列、美々しき事共目を驚し、御蔵屋敷へ引取に相成り候上、御門内にて、又々凱歌を唱へ、休息に相成る。夜に入り、御奉行所には、御奉行並に御目附御立合にて、召捕の唐人共御召出御調に相成、丑刻頃右の内、七十一人大村へ御預けに相成、四人は、当地牢屋へ御遣し、其余は館内へ御帰しに相成る。前文の如く、大村の家士、受取の駕籠に乗せ、侍衆大勢、馬上にて附添、人足等数万人、誠に目を驚し申候。右当地牢屋三四人は、十五日に御返しに相成り申候。右済口如何相成り候哉、跡二船は荷役出来不㆑申に付、港内に繋り居、大騒動に出合ひ不㆑申様、端船〈唐名さんはん〉御取立に相成居申候。右の通りに有㆑之、両日の内、市中老若、諸見物幾万人と申す儀不㆓相分㆒、余り珍事なる儀に付、見聞
唐通事共へ
去十三日於㆓唐館㆒及㆓乱妨㆒候者、【処分】可㆓申上㆒様、総代共へ為㆓申渡㆒候処、彼是申延し、時刻移候のみ有㆑之候間、無㆓余儀㆒人数繰入召捕へ、及㆓乱妨㆒候者、名前申立て候様申し付け候処、通事共には、平常工社とも引合無㆑之に付、不便に候間、総代の者呼出、可㆑為㆓申立㆒候旨、申聞候に付、任㆓其意㆒候処、総代共にも難渋申立て不㆓申聞㆒候。通事共にも、工社を一向不㆑存儀も有㆑之まじく、名指申立て候得ば後難も可㆑有㆑之哉に危ぶみ、品能申立候事と相聞え、不埒に候。急度も可㆑令㆓沙汰㆒候得共、此節柄の儀に付、先不【 NDLJP:221】㆑及㆓沙汰㆒候。別紙の趣、唐船主共へ申し渡し候に付、得㆓其意㆒通弁行届候様、誠実に可㆓取計㆒候。右の通申し渡し候間、得㆓其意㆒通事共へ可㆓申渡㆒候。
船主総代へ
去十三日、於㆓唐館㆒及㆓乱妨㆒候唐人共、捕押可㆓差出㆒旨申渡候処、彼是と申延、時刻移候のみに有㆑之候に付、人数繰入唐人共召捕へ、此度致㆓乱妨㆒候者、小者総代共名指し可㆓申立㆒様申渡し候処、難渋申立不㆓申聞㆒候間、先大村牢内へ差遣候。右の中には、定めて乱妨不㆑致者も可㆑有㆑之哉、且入館申付候内にも、可㆑有㆑之哉、最初名前不㆓申立㆒候故、右時宜に至り、其儘に捨置候は、第一不明にて、御制度に拘不㆓容易㆒候間、入館為㆑致候者の内より、此度及㆓乱妨㆒候者相糺、当人可㆓差出㆒候。入牢申付候者の内にも、不埒無㆑之者は、名前取調べ可㆓申立㆒候。然る上は、出牢をも可㆓申付㆒候。併館内の悪者、猶不㆓差出㆒者不㆑得㆑止事可㆑及㆓其沙汰㆒候。
右之通申渡候間得㆓其意㆒、唐商共に通事を以て可㆓申渡㆒候。
未四番船 沈粒穀
未五番船 揚西亭
其方共船々先達て入津の節、今度改て被㆓仰出㆒候御趣意の趣申渡候処、乗組一同以㆓連印㆒真の物差出以後は御国法固く相守り、従前により被㆓仰出㆒候掟違背仕まじき旨申出で、商売の儀相願候に付、承届け差免候処、此度不法の始末、不㆑成㆓一通㆒、諸番所へ石礫打、剰へ唐館表門扉打ち破及㆓乱妨㆒候段、重々不届至極に候。依㆑之商売差留候条、荷物速に積戻り可㆑申候。右の通申渡候条、得㆓其意㆒、唐商共へ可㆓申渡㆒候。
未十二月
仙石騒動 十月廿四日仙石一件に拘り候に付、二の丸御留守居被㆓仰付㆒ 奥御右筆頭 田中龍之助
同一件に付西の丸新御番被㆓仰付㆒ 奥御右筆 神原孫之丞
龍神もいたちに吸はれ骨と皮
田中龍之助・神原孫之丞一件は、先頃脇坂中務大輔より、仙石家口書等書上に相成【 NDLJP:222】申候処、【口書を取繕ひ読む】右文中に、周防守名前沢山有㆑之、如何と存候て、田中龍之助指図を以、神原孫之丞へ申含候に付、右周防守名前並差合等の文言、所々省き飛読に被㆑致候て実敷と、孫之丞へ申合候に付、右文中色々致㆓差略㆒御老中御前にて読上候て、当日の所、相済候得共、追て両人申し合せの趣、露顕に及び、俄に左様御役替へに相成り候由、元来孫之丞事は、龍之助指図を以ての事とは乍㆑申、前後心得も可㆑有㆑之の所、不行届の事に候、然る所当人は組頭指図にて、斯様相成申候ては、迷惑と申事にて、引込立腹被㆑致候由、駿河台近隣の者咄なり。
仙石は永楽銭と思ひしに丸に無の字と云ふ沙汰もあり
永楽がつぶれて百文銭が出来
好い時節今年は大根の当り年 伯耆
落葉散る次第淋しき蔦の紋 周防
仙石内乱【仙石騒動の総督】
文政十年亥六月十四日、河野瀬兵衛蟄居被㆓仰付㆒、其後御追放にて、三都並両丹・作州徘徊は差留被㆓仰付㆒。天保四年巳六月頃迄、姉増生野銀山地役人渡辺角太夫方へ罷在、同六月出府仕、常真院様、並御同性様方へ上書致し、八月時分生野銀山へ罷帰、同所子供の素読の世話致居候処、不㆑軽吟味筋有㆑之由に付、十二月中旬頃より、下目附被㆓差出㆒、所の吟味有㆑之候処、右銀山に慥に罷り在り候様相聞え、横目附良八、十六日出立、銀山近辺聞合候処、罷在候に相違無㆑之候得共、御領所地内の儀、容易に難㆓召捕㆒、時分を考へ出石表へ申通候処、直に御郡組忠次・門平・喜平・準太夫罷り越し、森垣山口辺に手分隠居候処、良八より廿五日右両所に通達致し、各。用意相調へ、兼て駕籠用意致し置、人足の姿に
口上覚
河野瀬兵衛儀、【往復の文書】当御役所へ御引渡申すべき旨、江戸表において曽我豊後守様へ被㆓仰渡㆒候につき、御引渡申候、何分右瀬兵衛儀、道之助方にて軽からざる吟味筋御座候に付、御役所御吟味相済み候はゞ、何卒道之助方へ御渡被㆓成下㆒候様、精々奉㆓願上㆒候。以上。
二月十五日 仙石道之助内 岩田丹太夫
同四月十五日、瀬兵衛此方へ御引渡に付、永井喜右衛門・小林集平罷り越し受取り、直に夫々警固の者附添ひ、同夜中、裏町揚り屋入に相成る。
仙石左京隠居願御差し留め被㆓仰出㆒候写 天保六年未五月廿六日四つ時、御使者岩田静馬・青木弾右衛門
御自分、近年多病、其上去冬以来、久々疝癪気急に被㆑致、全快候程も無㆓覚束㆒、仍て先頃隠居願の処、無㆓余儀㆒事には、被㆓思召㆒候得共、先以御幼君の御儀、御政事の儀、御自分へ多分御任せ被㆑置候儀、誠に御勝手向、積年御むつかしく被㆑為㆑在候処、段々格別の心配を以、夫々被㆓申談㆒指図等も行届くか、当節の御差支等も無㆑之段、全く精忠の至に被㆓思召㆒候。右に付きても、御加恩等の思召、数度被㆑為㆑在候得共、御自分気質且家柄等にては、容易に御受被㆑致まじくやと、是又御心配に常々被㆓思召㆒候。御心外無㆓其儀㆒被㆑為㆑過、甚以御不快被㆑為㆑在候。第一、追々御成長被㆑為㆑遊候に付、最早来秋は、御乗出被㆑遊候御儀被㆑為、引続き御入部後迄の所、不㆑被㆓相勤㆒候ては、不㆓相【 NDLJP:224】成㆒儀、且又去々春四家の面々、上書の一件に付ては、御自分心配は不㆑及㆑申儀、上御厚配不㆓御一方㆒儀、追々御落著に者相成候得共、無㆓御残㆒御事済と申候も未相成兼候儀、大家代々重役等も被㆓仰付㆒候面々迄も過半絶㆑家。寔以御手薄の儀、当節御自分事、被㆑致㆓隠居㆒候ては、御外聞にも相拘り候儀、甚だ以御大切の儀、病気無㆓余儀㆒事とは乍㆑申、此処呉々も御不快に被㆓思召㆒候。誠に年来誠忠被㆓相尽㆒候事故、気楽に被㆑致保養候様被㆑遊度思召候得共、何分御入部迄の所、格別に御大切成御時節、此上は被㆑致㆓隠居㆒候心得にて、幾日出仕無㆑之候うて引き込み等は不㆑及㆓申達㆒、野合等も被㆓罷出㆒、常々心の儘に被㆑致㆓保養㆒、隠居同様の心得にて、快和の節は、折々出仕万端御政事向厚申談被㆑致候様、御願に思召候。此上隠居の儀、幾度被㆓相願㆒候ても、御取上不㆑被㆑遊候。且又御自分、未格別老年と申すにても無㆑之、病気間も無㆑之儀旁〻以当御時節の所、厚被㆓勘弁㆒被㆓押張㆒精忠無㆑之候て者不㆓相叶㆒、常々保養専一の儀、被㆓思召㆒候。依㆑之願書御差し下げ被㆑遊、此旨申達候様従㆓江戸表㆒被㆓仰付越㆒候事。
天保六癸未八月十日、【寺社奉行の糺明】寺社奉行脇坂中務大輔様・井上河内守様より、
御呼出の名前
仙石左京 荒木玄蕃 仙石主計 酒勾清兵衛 岩田静馬 大塚甚太夫 宇野甚助 久保吉九郎 麻見四郎兵衛 西村門平 鷹取已伯 渡辺清助 西岡斧七
右は飛脚東海道木曽路両方に出、十七日著。
十九日発足の面々。
仙石左京 岩田静馬 宇野甚助 麻見四郎兵衛 鷹取已伯 西岡斧七
十九日夕発足の面々西丹波地
仙石主計 荒木玄蕃 酒勾清兵衛
廿七日御用向にて発足。 小林横蔵
廿九日発足。 岩田丹太夫
【 NDLJP:225】 九月朔日、就㆓御用向㆒、急出府被㆓仰付㆒其夜発足。 井上鎌蔵
五日御呼出面々
仙石左京 岩田静馬 宇野甚助 大塚甚太夫 久保吉九郎 西村門平 鷹取已伯 麻見四郎兵衛 早川保助 生駒主計 荒木玄蕃 酒勾清兵衛 西岡斧七
右の内、仙石左京・生駒主計・荒木立蕃・酒勾清兵衛・西岡斧七其夜御役宅へ被㆑留。翌六日松平伊予守様へ御預け。
六日御役宅へ罷出候面々
岩田静馬 青木弾右衛門 杉原官兵衛 宇野甚助 山本耕兵衛 久保吉九郎 鷹取已伯 早川保助 麻見四郎兵衛 西村門平
右の内、岩田静馬・杉原官兵衛・山本耕兵衛三人、被㆓差留㆒、翌々八日、松平伊予守様へ御預け。
七日罷出候面々
青木弾右衛門 大塚甚太夫 宇野甚助 久保吉九郎 西村門平 鷹取已伯 早川保助 麻見四郎兵衛
右の内、青木弾右衛門・宇野甚助・両人、松平伊予守様へ御預け。
十二日御呼出面々
大塚甚太夫 久保吉九郎 西村門平 麻見四郎兵衛 早川保助 渡辺清助 鷹取已伯
右の内、大塚・西村・鷹取・早川四人、即日揚り屋入被㆓仰付㆒。
十三日御呼出の面々
久保吉九郎 麻見四郎兵衛 渡辺清助 右夜四つ時、過帰邸。
岩田静馬 青木弾右衛門 杉原官兵衛 山本耕兵衛
右四人、御預けの所、今日揚り屋入。
十四日御呼出の面々
岩田丹太夫 久保吉九郎 麻見四郎兵衛 渡辺清助
仙石左兵衛 岩田丹太夫 久保吉九郎 青木蕃太夫 岡部角太郎 麻見四郎兵衛 渡辺清助
右の内、岩田丹太夫即日揚り屋入被㆓仰付㆒。
二十日御呼出の面々
仙石左兵衛 久保吉九郎 青木蕃太夫 岡部角太郎 麻見四郎兵衛 渡辺清助
今日宇野甚助揚り屋入被㆓仰付㆒。
廿一日御呼出の面々
仙石左兵衛 久保吉九郎
廿四日御呼出の面々
仙石左兵衛 久保吉九郎 青木蕃太夫 岡部角太夫 麻見四郎兵衛 渡辺清助
廿六日御呼出の面々、
久保吉九郎 麻見四郎兵衛 渡辺清助
十月朔日御呼出
仙石小太郎 山田八右衛門 仙石左兵衛 恵崎又左衛門 徳永半左衛門 久保吉九郎 大森登 渡辺清助 麻見四郎兵衛
右の内、仙石小太郎・大森登両人、松平伊予守様御預け、恵崎又左衛門・徳永半左衛門、両人揚り屋入被㆓仰付㆒。
四日御呼出の面々、
仙石左兵衛 山田八左衛門 久保吉九郎 麻見四郎兵衛 渡辺清助 石原新吾 会田岡太郎 増田七郎
右の内山田八左衛門、翌五日、松平美濃守様へ御預け。石原新吾・会田岡太郎・増田七郎三人、当日附添の者へ御預け。
十一日御呼出の面々
【 NDLJP:227】仙石左兵衛 瀬戸鴎介 久保吉九郎 青木蕃太夫 草川三右衛門 岡部角太郎 谷津生人 吾妻与兵衛 杉立以成 土岐雄之丞 渡辺清助 酒勾薫 石原新吾 会田岡太郎 増田七郎
十三日御呼出の面々
仙石左兵衛 久保吉九郎 麻見四郎兵衛 石原新吾 会田岡太郎 増田七郎
十九日御呼出の面々
仙石左兵衛 長岡右仲 久保吉九郎 石原新吾 会田岡太郎 増田七郎
私共儀、当時身分奉㆓恐入㆒候得共、世禄の臣下の儀に候へば、上御為筋より奉㆑存候に付、不㆑得㆑止事奉㆓言上㆒候
一、殿様御幼年、追々御成長、御明君にも被㆑為㆑成候様、御人選にて、重き御役人出府、御輔佐可㆑被㆓仰付㆒候処、厳しく御倹約の殿様、上々様方、被㆑遊㆓御難渋㆒、既に先年大殿様御幼年の砌は、御年寄二人詰めにて、万事御手先の儀共申合、毎夜御年寄御用人打込み、一人づつ泊り等被㆓仰付㆒、御他行の節も、上御目障に不㆓相成㆒様、御用心の為、出石ゟ詰候外様三人宛、御出先々へ罷り越し、御帰宅の節も、御後ゟ不㆓相知㆒候様罷帰、御異変の節の御用心に御座候。然る処、当時甚だ御手薄にて、度々の御他出も被㆑遊、御幼年御他行の儀は、元来御陰気不㆑被㆑為㆑成、且は世間の様子にも、被㆑遊㆓御馴㆒、第一御養生の一筋にも被㆑為㆑成候。然る処、当時は御近火の節、俄に御立退も御座候事に御大切の御儀に奉㆑察候。
一、仙石左京・岩田静馬両人、分限不相応、万石以上同様の奢り、世間一統眼前の儀に御座候。右箇条数多の儀に付、文略仕候。
一、去戌年造酒清兵衛・源太左衛門御役御免の一条、源太左衛門、弘道館御締役の砌ゟ、桜井良三と不和、並源太左衛門短慮の性質、右両様を見込み、重役向ゟ、上下御【 NDLJP:228】役人・諸生等迄に手を廻し、尻押仕り、源太左衛門願書差出の上、悉く謀計を以、俄に御役御免、一段入組候儀に付、文略仕候。
一、去亥年、御勝手方一統御免の一条、是又主計一人へ御任せ被㆑置候意味合、謀計前条同断の事。
一、江戸詰の面々聊の不束を大層に取拵へ、是又前方より巧み置く謀計の事。
一、自分懇意随身の者、勝手次第に昇進為㆑仕、賄賂専らにて、随身の者多く取拵へ、此所深き巧みも有之事か、依㆑之当御時節、御家中九分通りは、甚困窮に候へ共、音信贈答の儀、御触出無㆓御座㆒候事。
一、去亥子年江戸詰の面々、聊の儀に付、厳しく被㆓仰付㆒御座候得共、静馬など其儘に被㆓差置㆒候者に無㆓御座㆒候。江戸詰一人の節は、日々の様、他行仕り、御用人にても、如何しく存、無㆑拠心添仕候処、一向取用無㆓御座㆒候由。元ゟ詰中身持等も不㆑宜、併御門外の儀は如何有㆑之候共、御門限正く、他行少々候得ば、強て御構被㆑遊候儀には無㆓御座㆒候得共、御屋敷内にて、色々悪説専ら取沙汰御座候得共、穏便仕候事。
一、重役にて申述候は、当時昇進望候者、専ら賄賂致し候者、昇進相成候由申聞候様。尤証人も御座候。既に古語にも、為㆑官択㆑人者治り、為㆑人択㆑官者乱るとも御座候。御政務に関はる人、右様の儀、御家中へ教候て御政道相立ち、上御為に相成候儀哉。右等にて可㆑被㆑遊㆓御察㆒候事。
一、左京・静馬・貢三人、格外懇に仕、万事馴合ひ色々手を尽し、上を御欺き申上候段、内存の所難㆑計御大切奉㆑存候事。
一、貢事大欲の者に付、左京方ゟ妻子共に至迄、賄賂音信仕候。右欲心に迷ひ、御側以来格別の御懇意忘却仕、左京へ与し、上を欺申上候事。
一、旧年、甚助京都にて、角力勧進元並富仕り損失。右故か京都にて、角力取七八人、芸者等召連れ、度々往来仕候を、当所袴座村、上下共見懸候由、然る処彼是莫大の損金にて難㆓罷帰㆒、病気の様、色々悪説等も御座候。依㆑之鷹取夫婦、御用達江原村茂右衛門上京、漸く罷帰候処、帰後、極月廿八九日頃迄、左京・静馬度々罷り越し候処、年頭出勤罷出候。元来甚助儀は、左京大望相談相手股肱の者に御座候故、京都・大坂並【 NDLJP:229】病気の様、左京ゟ如何奉㆓申上㆒居候や、何れ追々上御難渋の基、推察仕候。右の様御疑も被㆑遊候はゞ、御政事を始め、総ての模様共、人物御選の上、御役人内へ御尋可㆑被㆑遊候。尤も当時の権威に恐れ、容易には申上まじく、強て御尋被㆑遊候はゞ、真直に可㆑奉㆓申上㆒と奉㆑存候。前条の様、御取用被㆑遊候はゞ、御道筋御取計ひ可㆑奉㆓申上㆒候。万々一御用も被㆑為㆑在候はゞ、御沙汰不㆑被㆑遊、直様御下げ被㆓成下㆒候様奉㆑願候。当時の御用部屋内へ、御内談被㆑為㆑在候節は、白地には難㆓申上㆒候へども、御家御不為、御家中騒動にも相成り可㆑申と深察仕候に付、呉々も、御用部屋へは決て為㆓御見㆒不㆑被㆑遊、直に御差下げ可㆑被㆓成下㆒奉㆑存候。誠に乍㆑不㆑及上御大切と奉㆑存申上候儀、聊私の儀には無㆓御座㆒候間、左様被㆓思召㆒可㆑被㆓成下㆒候。以上。
辰正月十六日 仙石主計荒木玄蕃酒勾清兵衛原市郎右衛門
乙未正月廿六日、被㆓仰渡㆒書【左京を讒せりとして四人を処分す】
荒木玄蕃
其方儀、【荒木玄蕃】去辰正月十六日、大殿様へ、重役並役人共不正・不直の様、仙石主計・酒勾清兵衛・原市郎右衛門等申合、徒党連印にて、致㆓上書㆒候処、右は全く讒訴の段、御察覧被㆑成不届至極被㆓思召㆒、早速御呼出御糺明も可㆑有㆑之処、さ候時御重科の沙汰にも相成、旧家家柄の儀、不便に被㆓思召㆒、格別の厚御仁政にて、思召被㆑為㆑在候を以、隠居・逼塞、忰信太郎へ家督申付置候処、去る六月元家来、当時浪人河野瀬兵衛構場所をも不㆑憚、江戸表へ罷出、同姓共へ右上書同様、其外自考、並風説等取交、文意相巧及㆓讒害訴訟㆒、猶又同人姉壻、生野地役人渡辺角太夫ゟ不㆓容易㆒向へ瀬兵衛同様申立、無㆓余儀㆒公辺御沙汰に相成、右に付無㆓御拠㆒、去午年正月十六日、西御殿へ御呼出、大殿様於㆓御前㆒先般上書の趣、一々及㆓尋問㆒候処、聊訳立候答無㆑之、不束至極恐入候様、或麁忽の儀申上恐入候段、又は此上御慈悲筋相願候旨のみにて、一言の申訳無㆑之、全上を欺候大胆不敵・不忠不義の至、誠に重役並役人共の内及㆓讒訴㆒候始末、武士道不似合の【 NDLJP:230】儀、重々不届至極に付、切腹可㆓申付㆒処、先祖共、代々忠勤を存じ出し、旁〻此上広大の仁恵を以、死罪一等を下し、剃髪の上、囲場へ差遣候。急度相慎可㆓能在㆒者也。
未正月廿六日
八月九日、寺社御奉行所ゟ、御留守居御呼出、今般御吟味筋有㆑之、人別書を以御呼出被㆓仰付㆒候。其頃山本耕兵衛、江戸表罷在、則手続書相認、帳面数通拵立、請向御役所へ配り候手続書之写。
手続書
一、隠居播磨守在命中、居屋敷内へ、度々投書有㆑之、其後去る天保三辰年、仙石主計・荒木玄蕃・酒勾清兵衛・原市郎右衛門連印にて、当時在勤重役の内、並役人共之内、家政不直の趣、書面を以申立、右主計始め、四人の者共播磨守へ不束の儀有㆑之、無役に罷在り候処、申合せ右の次第、誠に度々有㆑之由投書し同事申立、元ゟ讒訴の始末に付、播磨守不届至極に存じ、急度糺明も可㆑有㆑之処、さ候時は、重科の沙汰にも相成候に付、格別の慈悲を以て、隠居・逼寒等申付置候処、去る巳年六月、元家来当時浪人河野瀬兵衛と申者、江戸表へ罷出、不届有㆑之候に付、去る午正月十六日、右主計始め四人の者共、播磨守前に於て、年寄仙石小太郎・青木弾右衛門・大森登・杉原官兵衛、用人斎藤岩雄、右の面々ゟ、先達て差出し候書面を以て、一々及㆓尋問㆒候処、聊一言の申訳も無㆑之、絶㆓言語㆒候儀共にて御座候
家老 仙石左京 年寄 岩田静馬 同 山村貢
右之面々は主計等四人之者申立之名掛りに付、尋問に不㆑携候。
一、主計・玄蕃・清兵衛・市郎右衛門・転其外共手続書左之通に御座候。
仙石主計【仙石主計】右先年勝手方引受、相勤居候処、追々難渋相成、進退致方無㆑之、家中扶助米不㆑残売払、江戸差立金は勿論、渡米も無㆑之次第、尚又収納米、青田の内、人別に七歩方相渡、聊之融通も出来不㆑申、思慮分別に不㆑能、仕方無㆑之に付、領分中用達、其外他領近在の身元相応の者相頼み、収納米は勿論、万事其者共へ相任せ置き、何事も勝手に取【 NDLJP:231】計候様可㆑為㆑致段、右の趣に無㆑之候にては、勝手方一日の取続も難㆓相成㆒旨、強ひて申立候に付、無㆓余儀㆒任其意候処、間も無㆑之、右の面々破談に相成、実にひしと手詰の場合に押移り、片時も難㆓相勤㆒候段、頻に役儀赦免の儀願立、不束の始末に付、急度申付方も有㆑之候得共、家柄の者に付、格別の憐悲を以て、九箇年以前、願之通役儀赦免申付け置候。去る天保三辰年、荒木玄蕃・酒勾清兵衛・原市郎右衛門等申合、連印書付を以て、当時勝手懸り重役を始め役人共の内、不正の趣種々讒言相拵、文意相巧み、書付を以隠居播磨守へ害訴申立、其次第実に法外の儀、重々不届に付、夫々急度可㆑懸㆓吟味㆒処、さ候時は、格別の厳科にも不㆓申付㆒候ては不㆓相成㆒、不㆓容易㆒儀に付、尚又格別の仁恵にて、存念有㆑之旨を以、隠居・逼塞、忰へ家督申付置候処、不㆓一方㆒仁恵をも不㆑顧、次第に悪計を廻らし、不届増長致候段、申合居候者の内、及㆓内達㆒候。其委細は末に申上候。右根元と申す者、道之助家来、当時浪人河野瀬兵衛と申す者、発頭にて、右の通申合せ相巧み、讒訴申立候処、存念不相立故、瀬兵衛江戸表へ罷出、神谷転と申合、道之助同姓の内へ種々取巧み、讒訴申立候。右の次第に付、難㆓捨置㆒、先達て差出し候書面を以て、主計始め一々及㆓尋問㆒候処、全く取巧み跡形も無㆑之儀、先非を悔恐入、憐悲の程願出、武士道不似合の始末、不届至極に付、仕置申付候。
荒木玄蕃【荒木玄蕃】
右、先年江戸詰中、身持不行跡、多分の金子散財、定府内藩の者相頼、他借仕、自分名前は不㆑出、大勢之者借用主に致し、追々金高相成、返済及㆓不埒㆒、出訴にも相成次第、其外家格の法度を背き、夜中外出は勝手の儀第一、其砌上野御霊屋御普請御手伝蒙㆑仰、右上納金国方当時勝手掛り之者共ゟ、手詰難渋の中、色々才覚を以、差立候処、右を取込自分遊興に遣捨て、今に其儘打過候次第、言語道断之条、重役不似合不束に付、急度申付方も有㆑之候得共、家柄の者に付、格別之御憐愍を以、役儀赦免申付置候処、前書の通、主計・清兵衛・市郎右衛門等申合、同様の始末、武士道不似合不届至極に付、仕置申付候。
酒勾清兵衛【酒匂清兵衛】
右、先年同役の内へ、不和之儀有㆑之、勤柄不似合不束の儀共に付、役儀赦免申付、置【 NDLJP:232】候処、前条の通、主計・玄蕃・市郎右衛門等申合、同様之次第、武士道不似合不届至極に付、仕置申付候。
原市郎右衛門【原市郎右衛門】
右、先年江戸詰の節、玄蕃同様不届の儀有之に付、役儀赦免申付置候処、前書之通、主計・玄蕃・清兵衛等申合同様の始末、武士道不似合不届至極に付、仕置申付候。
河野瀬兵衛【河野瀬兵衛】
右元来姦佞の性質にて、常に人気を騒立候儀相好候者に御座候処、先年勝手方融通筋借用之儀申立、前書之通主計引受之砌、勝手向取乱能在候儀に付、借財方為㆓取計㆒、京・大坂等へも差出候処、聊之儀も出来不㆑申候上、不届之儀共多分有㆑之候に付、九ケ年以前、隠居・蟄居等申付置候処、其後重々悪計を巧み、蟄居中、不届増長致し候に付、急度申付方も有㆑之候得共、憐愍を以、離散申付、尤無分別者に付、不届之儀仕出し、恐入候儀も可㆑有㆑之哉と存候に付、江戸・京都・但馬・丹後美作徘徊差留申付置候処、去去巳之六月御府内へ罷出、神谷転と申合、道之助同姓へ書付を以て致㆓讒訴㆒、勝手掛り重役の面々、其余役人共之讒訴を種々取拵へ、色々相巧み申立候次第、不届至極之始末、依而住居相尋候得共、其内江戸表へも不㆓罷出㆒、但馬国徘徊致候趣、相聞候に付、及㆓吟味㆒候処、生野銀山地役人渡辺角太夫、別住居へ差置候旨、右は構場所の儀、重々不届之至、不軽吟味有之者に付、生野御代官西村貞太郎様へ懸合候処、御召捕之上、御下知を以、去る午四月十五日、道之助へ御引渡に相成候に付、一々及㆓吟味詰㆒候処、申答候は、道之助同姓へ差出候願書共、何も証跡は無㆑之、唯々推察・風説・自分考等を以書出候段、一箇条も申訳不㆓相立㆒、深く取巧及㆓讒訴㆒候段相顕、不義不道・大悪之次第、絶㆓言詞㆒候御儀に御座候。則吟味詰の上、御届申上仕置申付候。
神谷転【神谷転】
右兄は、神谷七五三と申候。同藩中清水孫太夫と申候に養子に罷越し、故美濃守側勤罷在候処、不束の儀有㆑之、外様勤に相成候処、自分の非は不㆑顧、時々重役共、不正の申付と遺恨に申成居候。第一養父母へ事方不㆑宜。右故孫太夫よりも及㆓離緑㆒、兄七五三方へ同居罷在り候。且又道之助同姓仙石弥三郎方へ、桜井一太郎と申者【 NDLJP:233】用立居候処、此者前々ゟ転と入魂にて、同人吹挙を以右転、弥三郎方へ相勤罷在候処、前顕の通り去々巳年、瀬兵衛と申合、転重立て引受、同姓共へ及㆓讒訴㆒、兄七五三をも勧込内意為㆑致、不届至極の儀共に付、転並に兄七五三共糺明仕度、転も弥三郎方へ引戻し申遣候処、其儘出奔行衛相知不㆑申候に付、全く法外の讒訴申立候故、吟味に相成候ては、申訳無㆑之故、武士道不似合未練の始末、不義大罪者右にても相分り候儀に御座候。右の通不㆑容㆓吟味㆒の者に御座候。
主計弟 磯野六郎次 同断 土岐午之助 清兵衛忰 酒勾薫 市郎右衛門忰 原敏郎 伯父甥従弟続 土岐雄之進 小頭 斧七
右の面々、主計始め悪党の者共へ同意罷成、尤雄之進儀は、不忠・不義の至と奉㆑存候得共、主計等ゟ始めて申聞候砌、同意不㆓相成㆒、及㆓異議㆒候はゞ差違候段、厳しく誓言仕り候に付、無㆓余儀㆒同意の体に罷在候得共、次第に悪意増長候に付、難㆓捨置㆒旨にて及㆓内達㆒、猶同人申達候は、主計始め同意の者、時を得候へば、早速当時重役の内、並役人共の内、切腹可㆑為㆑致と相巧罷在候由、斧七是又改心仕り、及㆓内逹㆒、此者軽き身分に御座候処、瀬兵衛方へ数年立入、主計・玄蕃等へも出入り候者に御座候。主計始め蟄居、或は逼塞等にて、門外不㆓相成㆒儀故、書通往返、並瀬兵衛、生野渡辺角太夫方に罷在り候節も、何角申合之使、斧七仕候て、悪計取巧み、不届の次第、右二人ゟも委細に申達仕候。但し市郎右衛門儀は、去る午二月病死仕候に付、忰敏郎へ申渡仕候。
仙石主計
其方儀、去る辰正月十六日、大殿様へ重役並御役人共の内、不正不届の趣、荒木玄蕃・酒勾清兵衛・原市郎右衛門等申合、徒党連印にて上書致し候処、御察覧被㆑遊、不届至極に被㆓思召㆒、早速御呼出し御糺明も可㆑有㆑之処、さ候時は、重科の御沙汰にも相成、旧家家柄の儀、不便被㆓思召㆒、格別厚御仁恵にて、思召被㆑為㆑在候趣を以、隠居逼塞、忰富太郎へ家督被㆓仰付置㆒候処、去る巳六月、元家来、当時浪人河野瀬兵衛、御構場所をも不㆑憚、江戸表へ罷出御同姓様方へ、右上書同様、其外自考・風説等取交、文意相巧及㆓讒訴害訟㆒、尚又同人姉増生野地役人渡辺角太夫ゟ、不㆓容易㆒御向きへ瀬兵衛同【 NDLJP:234】様申立。無㆓余儀㆒公辺御沙汰に相成、右に付無㆑拠去る午年正月十六日、大殿様於㆓御前㆒、上書の趣、一々及尋問候処、聊訳立候答無之、不束至極恐入候趣、或麁忽之儀申上、恐入候段、又は此上御慈悲筋奉㆑願候のみにて、一言の申訳無㆑之、全く上を欺く大胆、不忠・不義の至、殊に重役並御役人共の内、及㆓讒訴㆒候始末、武士道不似合の儀、重重不届至極に付切腹可㆑被㆑為㆓仰付㆒処、先祖共代々忠勤を思召被㆑出、此上広大の御仁恵を以、死罪一等を下し、剃髪の上、囲場へ差遣候。急度相慎可㆓罷在㆒候事。
未三月
一、荒木玄蕃・酒勾清兵衛申渡、同様文略仕候。
一、瀬兵衛、当未六月七日仕置申渡、左之通に御座候。
河野瀬兵衛
其方儀、不届の儀有㆑之、去る辰六月十一日、離散申付置候処、其後御構場をも不㆑憚、勝手に徘徊致し、剰へ江戸表へ罷出、重御方々様へ巧を以種々書出し候に付、及㆓吟味㆒候処、一々証拠筋無㆑之、詰る所自分一己の考へ、推察或は風説等取交書出し、奉㆓恐入㆒候旨及㆓白状㆒、畢竟上を欺く巧みを以、在役の面々を仕落し、己致㆓帰参㆒、諸諸取行可㆑申との企、既主計・玄蕃・清兵衛・市郎右衛門へ、去る文政四巳年ゟ申合候段、及㆓白状㆒、全徒党の張本、大胆の始末、不義の大罪、重々不届の至に付、於㆓成敗場㆒打首申付者なり。
未六月
右之通に御座候。
右の通、帳面に仕立、御役人向へ配り候由。
天保四癸巳年、河野瀬兵衛、江戸表へ罷出で常信院様、並御同姓様方へ差出候書面、左之通。
箇条書
一、従㆓御先祖様㆒御家伝之箱と申、前以御城有㆑之候。御大老職之者、内見仕廻置可㆑申古格之処、不在其職其向御役人ゟ出させ、自分宅に取寄暫留置、其後御朱印御土【 NDLJP:235】蔵へ入置、内々御品は如何成行候哉の事。
一、御城内、自分居屋敷ぶ、御堀へ板を渡し、町方医師宅へ、子供・下女遊行為㆑仕、三つ門御〆り相立不㆑申、第一公辺憚り御座候哉之事。
一、先年御勝手方相勤候砌、御家中町在へ五万両の御用金申付、大坂ゟ三万両計御借財仕、其後自他共御返金御断切に仕上、御勝手向一と方も御筋立相見え不㆑申、自分万石以上の暮仕、岩田静馬・山村貢始め、其向御役人、格別之奢仕候事。
一、御家中面々扶持申付、小役人・御徒士以下之向にては、三度の食事も仕兼、在町へ不時之御用金申付、御用金之儀は御公務・御家督・御火災等、訳立候節被㆓仰付㆒候儀に御座候。然る処、左京・静馬、馬・鷹其上京都ゟ妾を取寄せ、度々入替の上、困窮之時節、不似合に御座候事。
一、堺ゟ十匁筒鉄炮十挺、都て兵具類・前〔手カ〕新規に申付、具足等申付、自分差料大小、百両・百五十両以上之品三四通申付、家器儀、都て右に准じ候事。
一、美濃守様御在国之砌、御招請仕、自分妾抔差出、三味線等にて御遊興申上、都て茶屋同様の取計、君臣之失礼、上を蔑に仕候事。
一、江戸表之儀は、上御勤先至て御大切之御場所柄、御屋敷抔大破、奉㆑始㆓御幼君様㆒、上々様方御手許之儀、其外御飲食・御衣服等、格別之儀仕、御幼君様日々御手習御清書さへ難㆑被㆑遊位之儀仕、御側内ゟ内々紙差上候と申程之由、自分宅綺羅を尽し、万石以上之暮仕候事。
一、江戸表御奥様ゟ、格別之御難渋にて、御立行難、被㆑遊㆓御迷惑㆒之趣、御隠居様へ被㆓仰進㆒候処、左京御呼出逸々御尋之処、江戸御暮御勘定奉行共、心得違之趣に御受仕、夫ゟ御勘定奉行呼下げ著の砌、兼々途中迄人出置候て、無㆓余儀㆒其者へ罪を為㆑負候趣、立腹不㆑仕様取計置、著之上、役所にて、御役人共夫れ〴〵立会吟味仕、御勘定奉行へ不念に仕、四五日慎被㆓仰付㆒、然る処慎中、内々左京・静馬ゟ、日々酒肴を贈り、実に不届筋有㆑之者へ、重役之者ゟ送り物仕間敷、只自分身逃れ相頼、上を欺き候御儀之事。
一、江戸表交代之御侍、於㆓途中㆒御伝言申含直し、故障仕候事。
【 NDLJP:236】一、御城に有㆑之御刀、其向御役人ゟ取出、町方へ拵付候処、露顕仕候に付、御側頭取へ相願、美濃守様御成之節、御土産に取計、不届至極の事。
一、御城に有㆑之候槍の穂其向御役人へ取出し、自分打限に申付候事。
一、御勝手方内借金引当として、御家中内ゟ差出置候井上真改之脇差、自分差料に仕候事。
一、御勝手方内借金引当として、御家中内より差出候具足二領紛失之事。
一、自分的場にて、御物頭初、御家中射術見分申付、家内下女等迄、内々見物為㆑仕、諸芸検分の儀は、上御名代として、年々於㆓御殿㆒仕候儀、自分威光を振ひ、不届至極之事。
一、忰前髪祝ひ、礼家師範相招、烏帽子大紋にて、大礼を行候事。
一、忰具足著用初、礼家師範・軍師範相招、烏帽子大紋にて、大礼を行ひ、親類中相招、時節柄不相当、其上にても、是迄不㆑被㆑遊大礼奢増長の事。
一、忰婚姻の筋、途中出迎、下女駕籠六挺、長持等に福面を飾り、傘鉾を付、大手御門ゟ謡込せ、先年両御姫様、京都へ御入輿之節之五層倍の儀仕、奢之最上、御郡中目前に御座候事。
一、美濃守様御忌日、左京・静馬在方に罷出、御用達振舞、魚・鳥取揃仕、重職にて猶更不届至極之事。
一、他所浪人之鷹匠、暫留置、野合に召連、御城内も勝手仕候由、陪臣之野合に、鷹合不㆓容易㆒之事。
一、大坂ゟ吟味之上、功者の馬之に取召抱候。時節柄不㆑憚事。
一、御勝手方次第に御逼迫之処、先年造酒在勤中、銀札出高多に付、工夫仕、取〆焼捨被㆓仰付㆒候処、当時新銀札莫大に差出、当座凌に仕、御隠居様へは、追々御取直にも至り候哉に御欺き申、銀札の儀者、行年御大切に及候儀に御座候事。
一、忰縁談之儀、江戸表懇意之向へ頼遣、当時御老中様方之内承合、相応之儀無㆑之時は、御老中様御同姓御末家内ゟ承り出候様申遣し、松平周防守様御同姓松平主税様ゟ縁談仕、左京方ゟ前後入用差出候由、右位迄仕、是非御老中様方親類に仕度【 NDLJP:237】と存立候処、意味合有㆑之候儀、先づ美濃守様御逝去之砌、内存間違候処、追々乍㆑恐御隠居様御逝去と申時分、何ぞ大金御座候哉、江戸・出石共御家中御役人・小役之者迄、皆々左京へ随順罷在候得共、御先手・御物頭・御馬廻りの面々、外様の者、誰も帰服不㆑仕候に付、万一之儀御座候得ば、総家中二つ三つにも相分れ、御親類様方か、又は公儀へ願差出候様罷成り可㆑申、何か内外篤と下墨候得ば、甚以不㆓安慮㆒、奉㆓恐入㆒候に付、此段相認候事。
一、先年美濃守様御大病急使参り候節、七八歳之忰召連罷出、一向合点行不㆑申に付、年寄酒勾清兵衛、明る日出立にて、左京を乗越罷出、御同姓様方へ左京内存念分り不㆑申、都て御心得可㆑被㆑下旨御願申、其内出石御妾腹之道之助様、御参府、御願済に候得共、其砌よりの大望、今以胸中難去候哉に内察仕候。当節御大切に奉㆑存候事、右箇条の趣、荒木玄蕃・仙石主計・酒勾清兵衛御呼び出し、其席へ私儀御召戻にて罷出、【逸々ハ一々ノ意】御隠居様御陰聞被㆑遊候はゞ、逸々明白仕、其上左京始め不届筋証拠に罷成候品差出可㆑奉㆑入㆓御覧㆒候。私共不㆓能出㆒候ては、印の品相知れ不㆑申、何分玄蕃始め御隠居様御目通へ被㆑為㆓召出㆒、御尋問被㆑為㆑在候はゞ、明白仕候得共、当時の年寄・御用人中にては、左京内意に付、決て相分り不㆑申候。且又玄蕃始め私共迄、蟄居・隠居・御追放被㆓仰付㆒候へ共、何之御咎と申箇条無㆓御座㆒、唯思召有㆑之と申儀にて、不忠不義之儀、毛頭無㆓御座㆒候。不法に思召と計之儀、此上糺明さへ被㆓仰付㆒候得ば、双方善悪明白仕候儀に御座候。以上。
一、河野瀬兵衛、生野銀山渡辺角太夫別宅に罷在候処、巳十月十六日、横目附良八、生野表へ参り間合せ、慥の儀承り、御郡組準太夫・忠治・伊作・喜作・門兵衛右五人にて、森垣・山口辺に手分、隠居良八ゟ廿五日通達し、駕籠用意、御門は御出入井筒屋勘助方にて、飛脚之者病気罷在候に付、為㆑迎罷越候趣、相断候事。
申三月十六日、御用召にて将軍様御直に被㆓仰付㆒候。
脇坂中務大輔【脇坂中務大夫の昇任】仙石道之助家政向取捌正道に取計尤に候。依㆑之被㆑任㆓待従㆒西御丸御老中様・大納言様御用掛、御本丸御老中勤被㆓仰付㆒候。
【 NDLJP:238】○慶長年中、虚無僧本寺へ被㆓仰渡㆒候御控書之写【虚無僧の掟】
日本国の虚無僧の儀は、勇士浪人一時の隠家に為、守護不入の宗門なり。依て天下の家臣、諸士の席上に可㆓定置㆒条、可㆑得㆓其意㆒事。
一、本寺より宗法出㆑之置、其段無㆓油断㆒相守可㆑申候。若相背者於㆑有㆑之は、末寺ゟ相改、虚無僧は寺ゟ急度以㆓宗法㆒可㆑行事。
一、虚無僧渡世の儀は、諸国所々巡行専とする由、其段差免可㆑申事。
一、虚無僧一円修行の由に、諸国に国法を申立て、虚無僧へ麁末・慮外等、又は托鉢に障りむづかしき儀、出来候はゞ、仔細相改、寺へ可㆓申達㆒候。於㆓本寺㆒不㆓相済㆒候儀は、早速江戸奉行所へ可㆓告来㆒事。
一、虚無僧托鉢に罷出で或は道中往来之節、又は於㆓何方㆒も、天蓋を取、諸人に面体を合せ申間敷事。
一、虚無僧托鉢之砌、脇差並武具類一切為㆑持間敷候。総ていかつ箇間敷形を致申間敷候。尤九寸五分以下之刃物、懐劒にして差免可㆑申事。
一、虚無僧は兼て武士の道、敵持尋㆓込国々㆒儀も依㆑有㆑之、所々芝居或は渡船等迄往来自由差免可㆑申事。
一、虚無僧改として、諸国へ番僧を廻し、宗法行跡を改可㆑申、若
一、虚無僧之外尺八吹申間敷、若有㆑之於は、急度差咎可㆑申。尤楽に吹申度望者は、本寺ゟ尺八之免し出可㆑申。勿論武士之外、下賤之者、尺八吹申間敷候。尤虚無僧為㆑致間敷事。
一、虚無僧罷出敵討致度者於㆑有㆑之は、其段委細相改差免可㆑申勿論、大勢集り討間敷候。尤同行二人差免可㆑申。併諸士之外一切不㆓差免㆒事。
一、虚無僧之儀者、一方之御手当に候人にて、諸国往来操三尺づつ検地離れ、虚無僧知行米として相渡、依㆑之何国にても托鉢に障り、六ケ敷儀出来候はゞ、早速江戸【 NDLJP:239】奉行所へ可㆓告来㆒事。
一、法眷の輩士官之
一、住所を放、他国諸城下托鉢修行之刻、鳴物停止に候はゞ、宗門伝授も旁〻海治の外吹申間敷事。
一、虚無僧托鉢の刻定寸紛位が尺八には手寄、笹の竹物吹申間数事。
一、虚無僧之儀に下之家臣、諸士の席に定置上は、常々宗門之正道を不㆑決事。
一、何時にても還俗可㆑申候間、面々僧形を学、内心武士之志を学、兼て武者修行之宗門と可㆓相心得㆒者也。併国々往来自由皆免し巡行可㆑為㆓肝要㆒之条、可㆑得㆓其意㆒事、依而定如㆑件。
右十七箇条。【〔原註〕十七ケ条トアレドモ本書本文ノ如クニシテ二ケ条不足】
上意の趣相渡之間、奉㆓拝見㆒、虚無僧会合之節、能々為㆑聞可㆑被㆓相守㆒者也。
本多上野介
慶長十九年甲寅正月 板倉伊賀守
本田佐渡守
虚無僧本寺へ
○乙未十二奇【乙未十二奇】
音羽屋猫天下一。 出石騒動転千辛。 孝女手柄討㆓親敵㆒。 奥方
横死尋㆓家臣㆒。 辱㆑士被㆑殺㆓茶漬店㆒。 救㆑娘逢㆑害武士仁。 水道
大鱸変㆓金子㆒。 猩々小僧乱㆓人倫㆒。 大工手練害㆓勇士㆒。 吉原
仮宅多㆓浪人㆒。 地震風邪賑㆓薬店㆒。 百文流行如㆓鬼神㆒。
十月廿九日御役御免の節
今日の日の夢ばかりなる退役に甲斐なく立たん名こそ惜しけれ
川柳句【時評】
五右衛門は草葉の影で舌を出し【川柳】
【 NDLJP:240】池田には米の高いにおほ伊丹仙石つぶす左京をこしらへ
仙石を取つて捨んと主税めが周防旨くもさてはいくまい
隣から覗いて見ては思ひ出し
永楽をつぶして百文銭が出来
周防糟こぼれた後をはく伯耆
周防著て仙石脊負ふ主税持ち道輪違ひに出石行くらん
権兵衛が種を蒔いたを甚内がほじくり見れば芋の種
此度百文銭・鉄銭新規吹立被㆓仰付㆒候に付ては、角銭に紛しく、永楽騒動新銭座にて吹直し被㆓仰出㆒、家中之者共追々御呼出わちがひなく可㆓指出㆒、永楽銭は利発に付、可㆑然取捌被㆓仰付㆒候事。
【川柳】伯耆 本庄の大根今年は当り年 伊豆 顔見せに出てこよかしや三つ扇子 土井 氷るとも無理にも廻せ水車 周防 落葉して淋しくなりぬ蔦のもん 筒井 室咲の梅も寒さに沈むやら 脇坂 しほ留めて洗ひ上げたる周防染 同 輪違が出来て再び名が高し 水越 沢瀉の露におもたし秋の末 大久保 藤蔓は肌あらはして冬木立 田中 土龍奥から黏に追出され 苗字程残れば
○天保七申年大小 小の分
十・十二不敵な八つの六ぬす三この左京めをなんとしま正
○仙石といふ人あり。【大黒舞の換歌】一に主税を抱き込んで、 二に女房の縁引いて、 三に左京に繕はれ、 四つ養子の周防だん、 五つ一月寺から事が知れ、 六つ謀叛が顕はれて、 七つ中務に責められて、 八つ屋敷へ預けられ、 九つ虚無僧一人もの、 十でとう〳〵御国受け、 仙石ないを
おまへは浜田の城主さん、汐留にもまれてお色が真青な、こちやかまやせんかまやせん。
普化宗曰、【大学作り換へ】大悪者徒党之医者、而諸薬人㆑毒之物也。於㆑今可㆑知㆓主人喰㆑毒之仔細㆒。独頼㆓斧七之存㆒、而本望遂㆑之。役所必因㆑是而収焉。庶㆓于其不_㆑騒矣。大悪之道、在㆑改㆓麺毒㆒、在㆑蔑㆑上、在㆑止㆓死罪㆒。
弟に力のあるはいらぬもの兄を投げたり家をなげたり。【狂歌】
○番組【能の番組に擬す】
高下 玄蕃・清兵衛・四郎兵衛・主計・市郎右衛門・左仲・ 遠島 甚太夫・暴助・門平・丹太夫、弾石衛門・ 磔 左京・静馬・已白・官兵衛・甚助・耕兵衛・高慢天狗 塩留。 小田原 主計・大隅・隼人・飛騨・ 騒動 主税・豊後・伊豆・乱美濃・肥後・伊豆豊前、 祝言 老中耄野 狂言 笑つぼ友鵞、周防落し塩留、
以上。
公儀御腰物方西山織部〈二十四〉と申す人、【官物を私す】御道具を売り払ひ、質物に入れなど致しゝ事露顕致し、十月廿四日、俄評定にて、西山は揚り屋入り、其外二人、同道、人へ御預け、西山事其外の罪悪も御座候由、質入は僅か廿五両なり。外二人と云へるは、御腰物方御指懸り、長谷川鍬次〈三十四〉吉田虎治郎〈三十〉右於㆓評定所㆒、村上大和守・筒井伊賀守・大沢主馬立ち合ひ、大和守申し渡す。
浮世の有様巻之五 前終この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。