浮世の有様/2/分冊5
同廿四日麴町犬斎橋筋より一筋西の辻西へ入る所裏〈同町福島屋何某が借家なり。〉井中へ、黒猫誤つて陥り死す。借家の家内、朝に水を汲まむとて井に到り、之を見付けて大に騒ぎ、十【 NDLJP:137】二三計りの女子、井中に投身してありといひて叫びつゝ、家に帰りて打倒れぬるにぞ、其声に駭き、其家は勿論長屋一統、井中を見るに其女のいへる如く、十二三歳の女子と見えしかば、其由を家主へ届けぬるにぞ、直に年寄へ訴へぬるにぞ、年寄も町代と共に之を篤と見聞し、其由奉行所へ申出でしかば、検使両人早速に入来にて、人夫を以て之を引上げしに、【卒爾の訴】黒猫の溺死して尻の上に向ひ、其尾の前髪の如くに見えしにぞありける。検使以の外憤られ、「斯様の事あらば早速に引上げ、とくと養生をも加へ、能く〳〵糺せし上にて申出づべき事なるに、卒爾の至、此方共引取りしとて、頭へ何共申様なし」とて、以の外に叱り付けらる。さもあるべき事なり。町内一統一言の申訳なく、
亀山にては正月六日の旭二つに見え、十五夜の月真中に筋ありて、二つを合せたるが如く、【各地の変異】十八日夜、保津川の下より山本村の方へ、四斗樽に等しき光り物三つまで飛行きし。烏・雉子の類大に騒ぎ地震せしといふ。京都にても、正月七日には余程強く震ひ、同十八日も同断、廿四日・二月朔日などは至つて烈しく、其余三日目・五日目位にて、一日に少きは三度、多きは七八度大小ゆらざる事なく、又晴雨毎に必ず震動ありといふ。
浪華にては三月八日より川浚始まる。市中三郷より冥加として上納せし金子、凡そ九万五千両余といふ。其外毎町に浚上げし砂、百坪父は五十坪づつを申受け、又川浚場所に於て、砂運送の御手伝として、毎町に五十人・百人宛の人夫を出し、中に【 NDLJP:138】は町中人を払ひて二百・一一百・五六百人も出づるありて、【大坂川浚の状況】一様の襦袢・股引・
昨年十月の事なりしが、中国の御城米を三百石・千三百石の船に積込み江戸へ下りしが、志州名切島にて、其御城米を奪取り、船をば石を積みて海中へ沈めて、難船の様になしぬ。此島は公領にて近江
これ迄年毎に、名切島にて難船五六十艘づつあらぬ年とてはなしといふ。されども真実の難船は五六艘に過ぎず。余は船頭と馴合ひ、難船の様をなして奪取り、偶〻之を諾はざる船頭ある時は、残らず打殺しぬる事とぞ。此度御城米を奪はむといへるにぞ、庄屋久右衛門といへる者、これ迄年々斯かる業をなしぬれども、未だ公儀の御城米を奪ひし先例なし。こは外々の事には
信楽の手代には、斯かる事ありとは夢にも知らで、勢州より船に乗り志州へ渡りしに、正月六日未だ夜深にて丑の刻頃に其島に著きしにぞ、方角も分難き程の事なれば、【名切島の住民信楽の手代を打擲す】人家に立寄り門を敲き、「庄屋久右衛門へ案内せよ」といひぬるに、内より是に答へぬるやう、「我は近き頃、他国より此島へ来りぬる故、所の案内はいふに及ばず、庄屋の名をも知らず。外にて尋ねられよ」といへるにぞ、詮方なくて又外の家を敲きしに、同様の返答故、又外の家を叩き起しぬれども、是も亦同様の事なるにぞ、手代には足軽両人・長吏両人、主従五人にて渡りしが、何れも大に怒り、「其島に住みて庄屋【 NDLJP:140】を知らぬ事のあるべきや。偽をいへる事の不埒さよ」と〔〈て脱カ〉〕番人をして之を打たせぬるにぞ、此者大声を発し、「人殺なるぞ、何れも出会ひ我を助けよ」と叫びぬるにぞ、【島民足軽ならびに長吏を殺す】兼ねて申合せし事なれば、太鼓・鉦を打鳴らし、人数を集めて五人の者を取巻いて、
信楽の御代官多羅尾氏の元〆木村右近右衛門といへるは、家相家の賀茂丹後を信じ、其指図を受けて人の相を改め、御代官其外一家中も悉く之を改めぬるにぞ、御代官始め丹後とは至つて心易きにぞ、折節肥前松浦にて、庄屋何某が忰倉吉といへる者、同人方へ便り来り、「上方に於て身を納めたき由」を頼みぬるにぞ、幸に庄家の子にして、算筆をも能くする事なれば、木村へ談じ「軽き奉公にても、又は【 NDLJP:142】養子にても苦しからねば、之を世話なし呉るゝ様に」と談ぜしに、木村早速に諾ひぬ。「然らば来年卯の正月は月もよき事なる故、貴家〔〈へ脱カ〉〕つかはすべし」とて、其約をなしぬるに、志州の変起りて木村を始め彼の地へ赴きし事故、詮方なく、「五月迄には事済に及ぶべければ、五月に至りて行くべき〔しカ〕」と定めしに、一件一向に埓明かずして、これも亦成り難きにぞ、幸ひ家相の事にて、信楽・日野・八幡辺に用事出来せしかば、右倉吉を近江に遣しぬるにぞ、此事信楽御代官所にて、同人が聞来りしを記せるなり。何れ八月迄も掛かるべき事に思はるれば、引越は九月にすべしと約定せしといふ。
前にいへる村上何某は、元来信楽にて医師の子なりしが、士を好みて五六年前より手代となり、志州へ到り大難を受け、辛うじて命は助かりしかども、数ケ所の疵を蒙り癈となりしといへり。
四月七日の事なりしが、蝦夷・ソウヤ・カラフト辺の沖に当りて、
桜田如何に軍事に疎き男にもせよ。小山の如き大船を、うか〳〵と追懸くる事もあるまじく思はる。是は定めて異船よりも小船を出し、之をつり付けしなるべし。是にうか〳〵賺されて石火矢にて打ち拉がれしなるべし。何れの道にも無謀の不覚といふべし。
出羽庄内酒井左衛門殿の大坂蔵敷に、勤番せし人の中に、近茂平とて物頭を勤むる人あり。【近茂平の談話】此度酒井家にも出張あるが故に、茂平をも急に召還さる。前文の始末は、此屋敷へ国元よりいひ越しぬるを聞きて記せるなり。此茂平がいへるに、「先年賊船来りし時も蝦夷へ出張せしかども、異船は疾くに帰り去りし跡を、久しく固めぬる事故、至つて徒然なるに、蝦夷人共種々の物を持来りて之を商ふに、異国の物にして一々珍らしく、直も至つて下直なる故、種々の不益なる物など買調へて、帰る頃には三百目計りの借銀をなしぬ。又此度も雁も鳩も立ちし跡に出張をなし、又借銀をなす事のつらしとて、悔み言いひつゝも下りしが、これが国元へ下り著きぬる頃には、最早諸家ともに陣払になり〔〈し脱カ〉〕由申来り、蝦夷へは松前の分家に玄蕃といへるが出張にて、之を固めらるゝ」といへり。先年の事もあれば、大抵之れを心得て、何れに〔〈か脱カ〉〕上陸して賊をなせる事なれば、賊をおびき上げて其後を断切り、元船を打破る手段もあるべき事なるに、石火矢に胆を取拉がれ散々に敗走し、斯かる不覚を取りし事歎ずべき事なり。
大和国日霊には、「山上にある所の水神の社の錠前、故なきに開き金幣と大神宮の御祓と中に入りて、水神の神体は外に出しありし」とて、昨年御蔭参の最中に、之を専らいひ
御蔭参も、早春には四国・九州・中国等より相応に出でし様子なれども、昨年に比すれば十分一にもあらず。近き頃予が知れる者疫死せるあり。一人は白子裏町出雲屋六兵衛妻、帰後三日計りにして死し、一人は福島にて海老屋佐市といへる質屋なり。是は道中より病みて三十日計りにして死す。坂の下の宿屋にて明石の士に摂州富田京屋何某が荷持、首斬られしといふ。こは此不法の事をなせる故、拠なく斬りしといふ。功徳なりしとぞ。
京都・亀山等の地震、春来二三四五日目に或は三度・五度・七度づつもありて、中には折々厳しきもありといふ。【地震】大抵雨降らむとする前、晴れむとする前に多しといふ。五月八日には大に震ひ、十六日には昨七日以来の大地震にて、京・亀山とも一人も残らず大道へ逃出でしといふ。
大坂にても二月朔日初更地震あり。同五日巳の刻少しく震ひ、三月五日子の刻に震ひ、五月五日辰の刻にも震ひし由なれ共、予は道を歩行きて之を覚えず。同八日二更大地震、昨年七月二日の如し。同十六日未下刻大地震、是も八日に等しき上に震ふ事長かりし。恐るべき事なり。
四月廿二日の夜、美濃国笠松といへる所大雷にて、川を隔てゝ相対する両村悉く家の天変を倒し、【美濃国笠松】偶〻倒れざる家には、屋上に船の如何して上りぬるにや。屋上に止まり、是が為に棟折れぬるあり。又三抱も四抱も五抱もありぬる大木の、半より折れ根より引抜くるなど、目も当てられぬ有様にて、胆潰れし事なりといふ。斯様の大変な【 NDLJP:145】れども、此二ケ村計りにて隣村には何事もなく、小家一つも別条なしといふ。斯程の大変なれども、二ケ村にて死人両人にて怪我人もなかりしといふ。鷲も是にあてられしと見えて、片羽翼根本より切れて落ちしといふ。雷計りにて斯様に破損する事はあるまじく覚ゆれば、龍の天上せしにやなどとて、其所の噂なりしといふ。播州網干の者江戸より帰り来り、其所の様を見しとて、予が知れる方に立寄りて、舌を巻いて語りしといへり。
松平出羽侯新川開発に付領中への触書の写
大川筋追々高く相成、近年に至候ては纔之出水にも損所多、此上連に川底上り候て者、如何体の水難可㆑有㆑之哉難㆑計、甚御気遣に被㆑思候。仍而此度出雲郡出西村ゟ下庄原村へ新川御普請御議定被㆓仰出㆒、【松平出羽侯新川開発の御触】当春ゟ御取掛りに相成、誠に御入国已来之大普請、右に付て者是迄御公役等之御出金に相倍し、夥敷御物入に候処、打続年柄不㆑宜。其上江戸表御屋形御普請御公役を初、廉立候臨時御物入差添、近年田畑不熟不㆑少御損耗彼此に付、新川御普請之儀者可㆑成丈被㆓差延㆒、是迄種々当分之御手入にて御猶予雖㆑有㆑之、此節に至候て者甚危く相聞、川下郡中之安危に係はり候儀、元来大川筋は大層なる御田地之当中を相通候処、万一水害有㆑之候而者、人命者勿論御田地にも相掛り、大切至極之儀、最早片時も難㆓黙止㆒場に至り、御支配之御手繰に無㆓御顧㆒御議定被㆓仰出㆒候。然る上者万端厳敷御倹約不㆑被㆓相用㆒候而者、御支配向難㆓立行㆒御難渋に至り可㆑申、御取締第一之儀、東西共に心配可㆑仕旨被㆓仰出㆒候。右に付御入用格別に相省候様、諸役所へ委曲談㆑之候。
卯二月十六日
右御書付之趣、被㆑得㆓其意㆒触㆓下中へも㆒可㆑申候。以上。
二月廿二日 堀彦右衛門
高木権平
年行事清水寺
右御書付之趣、可㆑被㆑得㆓其意㆒候。已上。
【 NDLJP:146】 年行事清水寺
乗相院
書状の写 前文略
一、出雲郡大川替、十郡人夫二十余万、当四月迄に被㆓仰付㆒候。秋又三十万程も被㆑遣候由、三四年之間五六百万人も入候事歟。誠に大振向候。尤川敷家三十家計・寺四ケ寺・田地六千石程、川敷之者悲歎之至り、併此度者是迄例もなき御仁心之儀を以、寺並塔堂の分者上ゟ御建立被㆓成遣㆒、右川敷に相成候者へ二万貫文被㆓下置㆒、十郡へ利なし五万貫文御貸付、年賦にて御取立、二万貫文之儀者被㆑下切り上納に不㆑及。当四月中も御国中貧民へ五万貫文被㆓下置㆒。則一人前一貫二十五文也。右様当年者御仁心之御恵有㆑之、一統難㆑有奉㆑存候。貴裕様も当時他国に御滞留候共、畢竟御国人に候得者御悦可㆑被㆑成奉㆑存候。余者拝顔万話と申留候。頓首。
月 日 観照房
性三御房様
元五禄壬申年五月八日
厳有大君〔衍カ〕十三回御忌之節、日本諸宗江府御召に依りて法筵之あり、本願寺より知空(光龍寺)と申す代番罷下り、諸寺諸山より守護札差出し候へども、本願寺のみ差出申さゞる訳、御老中大久保加賀守殿より御取次を以て、趣意申出候様に付、広間書之写。
書此度御大切之御忌に付、【本願寺広間】日本諸宗之寺院御召被㆑為㆑在候。依㆑之諸寺・諸山ゟ守護札被㆓差出㆒候処、於㆓拙寺㆒者無㆓其儀㆒如何之儀に哉、御尋被㆑遊奉㆑得㆓其意㆒候。夫当宗旨者浄土真宗と称へ、人皇八十九代亀山院勅免に而、都中に於て天下安全御祈願所被㆑為㆓建置㆒候。開山親鸞聖人存生中無類之奇特有㆑之候故、諸宗智者達被㆑立㆓不審㆒、種々難問有㆑之候得共、諸神・諸菩薩之本意を被㆓説示㆒申候。殊更正讚浄土経に念仏成仏是真宗と釈尊説置給ふ。此文面に因而浄土真宗之勅許被㆑為㆑在候由、中略、凡一切万法之中、念仏成仏・極楽不退之真実・報土之往生を遂候も、真宗之経法なる故と申心にて候。阿弥陀如来者、三世十万諸仏・諸神之師匠法皇〔界カ〕之根元、一天三千大世界之中【 NDLJP:147】に唯一之御大将、今日本にて人間之始天照大神之御事にて御座候。依而上天・下界十方無量、一切諸仏・諸神・神明・星宿等、皆々阿弥陀仏之御子・御弟子・分身開闢に候。依㆑去真向尊像者日神大神宮の御徳を奉㆑仰候も、直拝は無礼之儀故移取、阿弥陀仏と一体なる事を為㆑知候にて御座候。夫人間者元来三毒とて、貪・嗔・痴に仏性之精神を悩し亡す大毒心有㆑之候。我一流者因果を識候事肝要に致し候。何事も因果と存候得者世に一つとして遺恨無㆑之候。何事に不㆑依、今身に報ひ候善根者、我過去に為し置候処之種々報来にて御座候。中略。元三毒煩悩枝葉之数八万四千之悪煩悩と成候を、弥陀如来悉皆退治有㆑之候。其上功徳善根を与へ成仏令為候故、五劫之間思惟坐禅工夫も被㆑遂、四十八願を起給ひ候。然らば如来一切之衆生大願を立、衆生成仏之願行不㆑取正覚之御誓を奉㆑願、摂取不拾之利益にて、罪深き女人等障多、煩悩不知凡夫迄、速に三界・六道之生死火宅出離・往生極楽令㆑為事、他力法とは申候。自力法は凡夫容易に難㆑遂候。弥陀之他力易行者、貴賤男女・心乱不断を不㆑論、罪之深きを不㆑厭、奉公業体に無㆑暇輩も、亦一文不通・願行不勤・経説見分難く、道理に不㆑叶人々に者似合たる法にて御座候。自力は譬千里有る道を五百里・三百里行て、其所に行滞而、先へ不行者は一足も不行者と同事にて御座候。如来他力本願者慈悲方便、之三つを満足し給ひ、万善・万行・万法之主にて候故、千里彼方ゟ此方なる成三毒之凡夫を極楽世界に令㆓往生㆒給ふにて候。念仏行者をば八万四千之光明之中に納取、罪劫を消滅し功徳の主と成給ひ候。中略、然りとて親鸞独念仏を尊み、弥陀を尊信致候に者無㆓御座㆒、天竺・大唐・日本諸宗何れも其宗々之知識を極め、是迄ぞと云へる所、其心之奥旨に至て可㆑被㆑在㆓御覧㆒候。弥陀者無量諸仏一行万法之肝心にて御座候。中略、畢竟念仏と云ひ妙法蓮華経と云ふ主人公、無為真人本来面目種々名を付候得共、他事更に無㆑之候。
天竺龍樹菩薩と申は、十地薩陲にて千部論を作候て、八宗と分け、知之至り道之極りに候得共、智恵も行も悉放捨、一筋に弥陀を願、念仏三昧を被㆑励候。十住毘婆沙論世に残り、天台大師は法華経六十巻之注を書、全法華宗を建立、法華経一巻妙法蓮華と釈始められ、以下八巻共八品六万九千三百八十余字文非㆓他事㆒候。西方弥陀を尊み念仏唱よとに候。摩訶止観中に顕然に候。依而伝教大師も外天台を立、内弥陀【 NDLJP:148】仏を念ぜられ候。慈覚大師は自ら如来尊像を造り、持仏堂に安置被㆑為候。弘法大師学道此日本に第一験候。神変通力無類に候。弥陀念仏を被㆑信候事、尤厳重に而、世之人所㆑知に候。達磨大師以心伝心・不立文字・教外別伝之悟道に候得共、見性悟道と申は則弥陀を奉㆑見に非ず。坐禅正意之台に一念南無阿弥陀仏と唱へ、浄土対面弥陀を奉㆑見と被申、自身得道にて一心不乱に念仏三味を遂給ひ候。其余碩学・明聖皆皆念仏被㆑唱候。中略、さる程に念仏行者は摩尼珠を求るに悉叶が如く御祈祷之御事、唯今に至り別に何を〔もカ〕新、印札に拵差上可㆑申儀も無㆓御座㆒候。今天下〔〈に脱カ〉〕於而門主ゟ札・守献ぜられず候者、家之式宗之作法を相守、此度とても札・守等出し不㆑申候。乍㆑然開山聖人数ケ条之式法被㆑定候内、別而三ケ条肝要之教を覚悟仕候。此三ケ条当流之守札と存候。第一諸仏・諸神・諸菩薩不㆑可㆑疎。是皆弥陀之分身・御弟子・垂跡随相也。所々鎮守氏神等之修理興行祭礼之砌、諸人同前少も麁略に不㆑存。随分御馳走可㆑致候。第二諸宗・諸法不㆑可㆓誹謗㆒。其故は三国に弘る所之諸宗千百十宗、是一切万法一如にして、更に差別無㆑之候に付、諸宗を謗候時者、釈迦を謗候道理に而、則阿弥陀仏を謗申に同様可㆑為事。第三に領主・地頭之合を蔑に致申間敷、深く公を尊み御意を違背不㆑申、御政道に不㆑背、親へ孝、君へ忠、五常を相守世間傍輩へ偽邪・表裏を不㆑構、正法を本と可㆑致候事、尚又開山親鷲聖人は、天津児屋根命末孫、大織冠之御子房前太政大臣淡海公御子孫、長岡左大臣内麿公之玄孫、皇太后宮大進有範公御子にて、初天台に列、慈鎮和尚之弟子となり、其後黒谷法然上人に随身にて、倶に念仏三昧を弘められ候。親鸞北の方は月輪殿御娘玉日姫と申候。夫れ夫婦和合之道者私ならず。是万法根元にて天は父、地は母也。其中に生を受る者皆天地之子也。一天之御主帝王を奉㆑初、御夫婦坐まさねば御子孫絶たせ給ふ。則此日本天照大神御父母伊弉諾伊弉冊尊夫婦之道を初め給ふゟ、此国に生れたる者、全仏道は神道之障りとなる者にては無㆑之候。神明菩薩は則国土之事にて、上一天国王ゟ下万民に至る迄、仏法正意為る弥陀之本願に貴賤・男女之差別無㆑之、女犯・肉食更に往生之妨に不㆓相成㆒候。但邪淫とて真実之縁に非る事は、仏戒にて経説に迷前、男女有り、悟後男女なしと釈せられ候事、能々御得心御玩味可㆑被㆑成候。依㆑去態々一宗を被㆑建、道俗男女に等しき御【 NDLJP:149】仏跡を以、無辺之衆生済度有㆑之日本之大導師にて御座候。就㆓御尋㆒
本願寺門主代番 光隆寺知空在判
世間に流布して法談する広間書といへるは、御法事を偽りて、右馬頭様御病気に付、御祈祷せしといふ天照大神の御歌の上の句を、みだたのむとかへ、その外抱腹にたへざる事多し。これは真の広間書なりとて、友人野口姓が予に見せぬるにぞ、筆の序に写し置きぬ。この坊主、時宜を考へ利口に言ひまはせし事、彼が才といふべし。
四月廿三日越中富山二千軒余の町家、【越中富山の大火】九分余り焼失し、城中悉く焼失せぬ。家中屋敷も同様の事にて、やう〳〵家老の家二軒焼残りしに、侯は火を避けられてこの家に仮住居ありといふ。宝庫も悉く火入り、丸焼になられしといふ。
六月廿六日江戸大雷、【江戸大雷】八町堀にて女髪結おやすと申す者の家へ落掛り、四人家内の所両人即死。霊岸島にて増五郎といへる者、折節中暑にて打臥し居たる所へ落ちて、此者即死。五島屋敷玄関其外所々十八ケ所へ落ちて、人死廿余人ありといふ。
〈〔頭書〕去る六月当地大雷之御見舞被㆓仰越㆒、早速師家へ御披露申候。近年之〔者カ〕雷有㆑之候得者、兎角落雷多御座候得共、当年者度々者雷無㆑之候へ共、六月廿六日八つ半過ゟ春頃迄、初者無㆑雨雷計り西北之間ゟ鳴出候様に相覚、東方鳴行鳴出暫過大雨にて、光目をつらぬき所々に落雷仕、人十八九人即死・怪我人多有、是迄相覚不㆑申候事に御座候。乍㆑併師家御近辺者何事も無㆓御座㆒候。別而鳴も強無㆑之候由被㆑仰候。拙宅近辺は誠に鳴強、近辺へ者落雷仕候得共怪我無㆑之大悦仕事に御座候。御安心可㆑被㆑下候。
植田源八
山本半九郎様
右源八所者新橋辺なりと、ふ。〉
当年は春より天気殊の外片よりしが、別けて三月半より雨降りしが、其月中雨天続にて偶〻雨なきも晴天といふはなく、曇天の〔〈み脱カ〉〕なりしが、四月に至りてもなほ雨繁く、二十〔〈日脱カ〉〕頃迄常に雨降りしが、夫よりして雨なく、五月に至り稲〔植〕付くる節には、【大坂気象変異】所により水払底の場所あり抔いひしに、五日・十二日・十五日・十九日・廿日・廿一日・廿四日・廿五日・廿六日・廿七日・廿八日・廿九日・六月朔日・三日・四日・五日・六日・十日・十一日・十二日大雨降りしが、其後は折に烟草四五ふくもすへる計りの雨、折に【 NDLJP:150】はありと雖も、天気続にて暑気例年に異なり、至つて堪へ難く、川々水減じ、江戸堀・伏見堀等小川は、水尽きて船の通路もなく、同月半よりしては朝夕に雲やけして、日の色も青かりしが、近在には折々夕立の模様あれ共、大坂に於ては頓と雨なく、人身蒸さるゝが如く燃ゆるが如く、何れも毒熱に苦みしに、七月廿六日未の刻、雷鳴四五声ありて暫く夕立ちぬ。同廿七日は二百十日なるに、少しも風の憂なく至つて穏かなり。廿八日曇午の刻より大雨降出で終夜降続き、廿九日朝止みしが、巳の刻に少雨降り午の刻より大雨降出し初更迄降続きぬ。農家にては天黄金を降らすといふ。八月朔日終日夜に至る迄、少しく風吹きぬれども物に障れる程にてもなし、同十五日の月も快晴にして近年覚えざる事なり。当年は御蔭当り年故、至天下一統豊年なりといひしが、其言に違はで稲・綿は申すに及ばず、其余の作物悉く能く
七月十五日の朝の事なりしが、当国灘魚津村
右有増申上候。無㆓相違㆒事に御座候。
同七月廿三日暁五つ時過、江府に於て江川太郎左衛門御手代公事方柏木林之助とて三十八歳になれる者、五十日已前ゟ病気にて引籠被㆑居候処、ふと逆上之余り及㆓狼藉㆒終に咽を突切腹被㆑致候始末、【江川太郎左衛門手代柏木林之助の乱心】同人子息健吉九歳未だ寝間に伏し候儘これを斬殺、同老母即死。是者小普請浅野隼人組森秀一郎殿母之由、遠縁に付林之助方へ参被㆑居候て居宅前にて死す。同人下女即死二十五歳。是者朝飯を焚掛け、釜のまへに罷在候処うしろより被㆓斬掛㆒逃出、居宅界にて死す。雨森茂一郎三十歳即死。是は居宅ゟ駈出し玄関前にて死す。大手疵同人内方二十三歳、中手疵同人下女かね十九歳、同人子息市之助八歳。即死山田左市郎三十九歳。是者大疵に付療治いたし候得共養生不㆓相叶㆒一時に死す。大手疵同人内方二十六歳。即死同人子息伊之助七歳。【 NDLJP:152】即死望月鵠助。是者劒術達者に付取押へ可㆑申存寄にて、大小を帯し六尺棒を持出被㆓立向㆒候処、直様棒中程ゟ被㆓切落㆒刀へ手をかけ候処切掛られ大疵にて死す。大手疵御役所下小遣ひ与之助四十九歳。是者湯呑所にて朝飯のこしらへ致居候処、後ゟ切掛られ役所へかけ込候処、尚又被㆓切掛㆒養生不㆓相叶㆒死す。大手疵雨森茂十郎六十五歳。是者津軽殿より取鎮に鳶人足大勢加勢罷出候砌、茂十郎殿家内ゟ被㆑出候を、乱心者と見違へ鳶口を頭へ被㆓打込㆒総身打疵数ケ処。以上。
同年七月の事なりしが、肥後熊本の藩中に沢田啓助とて、当年十六歳になる人あり。幼うして父を失ひ兄母〔〈にカ〉〕育せらる。【沢田啓助母子の非凡】此人至つて才子にて諸芸ともに衆人〔〈に脱カ〉〕超ゆるが、中にも別けて学問に長じぬるにぞ、人皆其名を云はで学者々々と綽名して呼びぬる由、斯かる生立なれば至つておとなしく、物毎に慎み深き事なりといへり。然るに子供仲間にて、其才を嫉み大勢申合せ、常に喧嘩口論を設け、悪口・雑言甚しき事なれ共、少しも之を頓著せず知らぬ顔にて家に引取りしが、日々学校よりの帰懸には斯くの如くなる故、余りに堪へ難き事に思ひし〔〈に脱カ〉〕や、学校に出づる中にも己れと親しき朋友の四人ありしに、是等を呼び止めて、「此硯と筆・墨は足下へ形身なり。机は誰、文庫は誰、本は誰に参らすべし。此左伝はどこそこにて借りしなれば、之を返し給へ」など頼みぬるに、何れも何をいへる事やらむと怪み思ひしに、帰路に至りしかば、例の如く大勢の附纏ひ頻に悪口をなしぬるにぞ、知らぬ顔して行きぬるを、一人後より刀の鞘を取つて
伊東修理大夫の分家に、伊藤主膳とて五千石を領する御旗本あり。【伊藤主膳の不法】下屋敷に於てこれ迄雁・鴨の類を殺生し、密に之を町人共へ売払はれしといふ。元より江戸十里四方は殺生禁制の場所なるに、斯かる不埒の事をなし、後には鉄炮にて打殺すやうになりぬ。或日餌蒔せしに鶴来りて餌に付きしかば、之を鉄炮にて打ちしに、其鶴手負ひながら隣なる寺の庭へ落ちて死せしといふ。伊藤より中間を其寺へ遣し、其鶴渡すべしと権柄に申遣せしに、御法度の鉄炮を以て御法度の鶴を殺し、家来を案内もなく寺中へ踏込ませ、此方より不法を咎めぬるに、権威を以て奪はむとす。重重不法の致方なれば、此旨寺社奉行へ相届くるの由にて、一大事に及ばむとするにぞ、伊藤も今は詮方なく種々之を断りぬ。されども之を聞入れず。されども此事届けらるゝ時は、家に係れる事故に只管に詫しかば「然らば誤り一札を認められよ。夫にて穏便にすべし」といへるにぞ、詮方なくて之を認めしかば、是にて相済し侍らむといへる故、伊藤にて安心してありしに、此寺より右の鶴に彼の一札を添へて、しか〴〵の由を訴へ出でぬるにぞ、御吟味になりしが、古今例なき事なれども、是【 NDLJP:154】にて家を
五千石伊藤は鶴に打込んでこれぞてんぽの元祖なりけり
これ天保元年の事なる故、鉄炮を「てんぽ」と持込みし者なり。修理大夫の
七月十八日より毛利大膳大夫領中に、百姓一揆起りて大に騒動す。其故を尋ぬるに、【毛利領中百姓一揆の由来】元来長門・周防両国を領し、至つて勝手向も宣しく、諸侯の中にても斯かる身代のよきは、至つて稀なる程なりしに、近来奢に長じぬるにや。至つて困窮に及びし処より、種々の新法を立てぬる中にも、領中所々に役所を立て、国中の産物何に寄らず悉く価易く買上げて、之を大坂に船にて積上せ売払ふ事になりぬ。斯くの如くなれば、是迄農商の利とせし事は悉く上の益となりて、下々大に困窮に及びぬる【 NDLJP:155】上に、諸運上の取立多く、其外
一、銘々寒暑の厭なく農業出精し候も、何卒豊作致し、年貢上納滞りなく仕候て、其余を以て親・妻子を養ひ申すべしと存候処、【百姓訴願の五箇条】凶年を祈り斯様の事を仕出だし候事、天理・人事に相背き申候。これと申すも元来米相場之あり、日々の上げ下げ種々の風説をなし工み偽り多く候へば、是よりして善からぬ事出来致し候故、已来米相場停止の儀御願申上候事。
一、産物役所の儀は、近年迄之なく候処、斯様の新法を立てられ、何に寄らず下々の物悉く下直に御買上に相成り、農商とも一統に困窮に及び候故、役所御引払銘銘勝手に商致し候様の事。
一、
一、一統に大市をなし、是にて困窮に及び候故、已来是をも禁ぜられ候事。
一、銀札近年不通用に相成、銀一貫目に札一貫六百目の引替にて、下々大に困窮いたし候故、下地の如く通用にて引替等之あり候様致したき事、
右の趣意を願立にて、宮市にて産物掛りは申すに及ばず、米買占めし者共悉く打毀ち家には悉く柚を入れ、「倒れぬれば怪我人・死人あるべし。家を倒れざる様にすべし」とて、柱々の真にて僅一寸計りづつ伐残し、諸道具は打砕き衣類は引裂き、金銭は池に沈め銀札は焼捨て、夫より三田尻へ出でて悉く其の如くす。斯かる程の事に及びぬれども、悪みぬる人をも殺す事なく、一揆の中より両人目計り出づる頭巾を冠り、其上に深編笠を著て長き棒を持ち、「只今汝が家を
右一件は、御霊筋淡路町屋敷の九郎兵衛といへる者、九州・中国等へ商をなし、掛を取りに到りしが、九州を先にして帰路防長の掛を集めむと思ひしに、帰には右の騒動にて詮方なく、下の関より船に乗りて、掛をも得取らで帰りしとて此事を語りしと、玉水町奈良屋作兵衛といへる酒屋心斎橋筋南久太郎町木屋伊兵衛とて諸道具を商ふ者共、何れも彼地の商を専らになしぬる故、彼方より来れる者多し。これがいへるを聞取つて記し置きぬ。毛利も旧家にて、元就に至りて十余州を切従へ、中国に威を振へる故、其余風家に残りて、近頃家名を墜さゞりしに、斯かる苛政に依りて百姓の一揆起り、大に恥をさらしぬるに至る。笑ふべし。
八月下旬、彼地の船頭登坂にて、政事当職の家老毛利蔵主を始め、諸役人悉く退役申付けられ、家老益田播磨当職となる。牛皮を沈めむとせし発頭人三人、網駕籠にて城下へ引かれ、相場・富・大市も停止となり、銀札も相当の通用となりしといふ。此度の一揆起りし発端は、【毛利蔵主の退役】周防の吉敷郡にて、則ち毛利蔵主が領分なりといふ。幸に候在国なりしかば、速に埓明きしとなり。
八月十日頃、長州の内徳須千崎等に一揆起り、これも同様の願なりといふ。此所紙を拵ふる所なりとぞ。【所々の一揆】同廿日頃より三田尻より廿余里上にて、芸州境なる大島といへる所蜂起すといふ。此内にても久賀・小松などいへる所は、木綿多く出せる所の由、一揆せし趣意は何れも同様の事なりといふ。
右一揆の始末、事長ければくはしくは別記とす。
豊前小倉十月に大霰降り、掛目十二三匁ありといふ。【小倉の大霰】
出羽にては福俵降りしといふ。〈福俵とは如何なる物とも分りがたし。穂たはらの事ならむか。定めてくにことばならむ。〉【出羽の福俵】
押小路大外記殿、洛外に於て四町四面の地面を得。〈地震記にくはしく其訳を記す。〉
西本願寺改革と称し、不正の山子を工み数万の金銀・財宝を得たり。悪むべし。【本願寺の不正】
【 NDLJP:159】板坂卜斎物語といふ物にいはく、九月朔〈慶長五年。〉西の丸御隠居曲輪へ御出候石川日向守家成、「今日は西塞がり悪日に候。御合戦の
又同書に、【家康の侍になせる教訓】大御所様、小身なる侍共に常々御教訓には云に、「昔よりの譬に犬に三年人一代、人に三年犬一代と申候。犬なりときたなくいはれ、三年しまついたし候へば奉公もなり、傍輩に無心も謂はず、一代人倫の
右、伊勢国本居宣長が著はせし玉勝間といへる文の中に、引けるを書抜きぬ。
【朝廷祖廟の事】清和之節御座候処、益〻御多勝可㆑被㆑遊㆓御座㆒奉㆑賀候。然者無㆑拠内々心得置度見合之儀有㆑之候而、別紙之件々御手筋御座候はゞ、御聞合者相成申間敷哉申試候。外に京辺之故人も無㆑之候に付不㆑得㆑止申上候。定而禁秘之御事に候哉。又々一向御菩提捌所にて相済候事哉。此処承度候。何卒宜敷希上候。早々頓首拝。
一、本朝祖祭之式、若
一、禁中に者御祠廟有㆑之者に候哉。
一、七廟之神主御祭有㆑之候ものに候哉。
一、七世御以上之神主者桃廟に被㆑為㆑遷、七世之考妣主にて十四膳之御進饌有㆑之候哉。又者百二十代之神主考妣主にて御一膳づつなれば、二百四十膳被㆑為㆑献候【 NDLJP:160】哉、是者中々御間処も煩敷と疑惑致候。何れ御桃廟か又者寄位牌など様之御法制有候哉。
一、又者一向泉涌寺・般舟寺〈此寺は不㆑承候得共、御位牌所の由承候。何れに御座候哉。〉|などへ御任被㆑為㆑置、当時にては御祠堂も無㆑之者に候哉。又泉涌寺等にて孟蘭盆等之節、右二百四十膳奉㆓進饌㆒候哉。御祔位共に三四百も奉㆑献候哉。
右之次第、内々にて御聞繕筋相成候はゞ、忝仕合に御座候事。
四月二日 野口市郎右衛門
山路恭保様
一、本朝祖祭之式若何なる書に出哉事。
伊勢大神宮四度幣儀、延暦儀式帳・儀式・延喜式以下諸書註㆑之
六月・十二月等神今食儀
一代一度大嘗祭儀
十一日神嘗祭儀
以上、儀式・延喜式・西宮記北・山抄・江家次第、以下諸書註㆑之。
内侍所御神楽儀
江家次第・雲図抄以下諸書註㆑之
賀茂祭儀
儀式・延喜式・西宮記・江家次第以下諸書註㆑之。
同臨時祭儀
政事要略・西宮記・北山抄・江家次第・年中行事秘抄以下諸書註㆑之。
石清水臨時祭儀
江家次第・年中行事抄以下諸書註㆑之。
同放生会儀
年中行事・諸家私記等註之。
此外臨時三社奉幣・宇佐宮・香椎廟奉幣儀等事、諸書ニ散見ス。臨時山陵使亦同
国忌儀、歴代廃置不㆑同。
【 NDLJP:161】 延喜式・西宮記・北山抄・江家次第以下諸書註㆑之。
荷前儀
儀式・延喜式・西宮記・北山抄・江家次第以下註㆑之。
一、禁中ニハ御祠廟有㆑之モノニ哉之事。
内侍所ニ神鏡ヲ祀ラレ候外、御祠廟之類無㆑之。
一、七廟ノ神主事及七世以上之神主御饌等事。
一条禅閤兼良記云、今案、天子七廟、或有㆓九廟之説㆒。故陽成天皇以前、或八廟、或七廟、其数不㆑定。然光孝以来定為㆓九廟㆒。其中以㆓天智㆒為㆓太祖廟㆒。蓋天武・天智皆舒明之子。然文武至㆓廃帝㆒天武之裔即位、天智之流如㆑絶。爰光仁天皇為㆓田原之皇子㆒、而因㆓群臣推戴㆒得㆑登㆓帝祚㆒。於㆑爰天智之流勃興。加㆑之天智天皇始制㆓法令㆒。謂㆓之近江朝廷之令㆒。天下百世因准㆑之。爾来至㆑今皆天智之一流、而為㆓太祖不遷之廟㆒、豈不㆑可乎。又光仁已為㆓中興之主㆒。故為㆓第二世㆒。桓武創㆓平安京㆒、故為㆓三世㆒。光仁・桓武比㆓周之七廟文世室・武世室㆒。所㆑謂劉子駿九廟之説也。其余随㆑世互有㆓廃置㆒。然而仁明・光孝・醍醐、其徳蓋㆓天下㆒不㆑忍㆓毀去㆒。是以、後世聖君遺詔不㆑立㆓山陸国忌㆒。其意者不㆑可㆑過㆓七廟㆒故也。但三女主猶可㆑得㆑毀㆑之。鳥羽炎子毀㆓穏子之国忌㆒、寛元通子去㆓安子之国忌㆒者也。又按、履脱為㆓上皇㆒則不㆑置㆓国忌㆒。又有㆓遺詔㆒。
右兼良公説、本朝制粗〻如㆑此。但廟ノ字・毀ノ字等ハ、唯漢土ノ文ニ従テ被㆑註タル也。其実ハ廟ハ無㆑之、山陵ヲ祀ラルヽ也。〈山陵ヲ毀ツ事、元ヨリコレナシ〉年終ニ荷前ノ幣ヲ奉ラレ、国忌ヲ置ルヽ分ヲサシテ、七廟トモ九廟トモ称シ奉ラレタル也。
中古以来何レノ帝モ遺詔アリテ、国忌・山陵ヲ止メラル。仍而仏家ノ法ニ従テ寺院ニ奉㆑葬リ、神主ハ各〻其寺院ニ安置シ供養シ奉ル也。
有徳ノ帝ハ別ニ神祠ヲ建テ崇奉ラル。是ハ元ヨリ百世不遷ノ廟ニテ、所㆑謂九廟等ノ外也。
御饌ヲ供スル事、神祠ニ崇奉ラルヽハ、各〻其祠官是ヲ供シ奉ル。寺院ニ葬奉ラルヽハ其寺僧供進ス。山陵ノミ有ルハ別ニ御饌ヲ供進スル事ナシ。往古ヨリ如㆑此。
【 NDLJP:162】一、孟蘭盆会之事。
本朝ノ古例、盆供ヲ寺院ニ送リ、仏ニ供養シテ祖先ノ冥福ヲ祈ル也。祖先ニ饌ヲ供スル儀ニハ非ズ。仏家ノ本説モ即如㆑此。
孟蘭盆会経、〈取㆑要註㆑之。〉
至㆓七月十五日㆒、当㆘為㆓七代父母・現在父母厄難中㆒、具㆓百味五果㆒、以著㆓盆中㆒、供㆗養十方大徳㆖。仏勅㆓衆僧㆒、皆為㆓施主㆒咒願㆓七代父母㆒、行㆓禅定意㆒、然後受㆑食。是時目連母、得㆑脱㆓一劫餓鬼之苦㆒。〈[#底本では「劫」の直後に返り点「一」あり]〉
近世中元ニ祖先ニ饌ヲ供シテ祭ルヿ、時俗ノ流風ニテ仏説ニモ非ズ、本朝ノ古例ニモアラズ。十二月晦日ニ亡魂ノ来ルトテ祭ル事、仮名ノ抄等ニ多ク所見アリ。 〈報恩経ニ見ル由也。可㆑尋㆑之。〉中元ノ頃亡魂ノ来ルコト、正シキ古書ニハ所見無㆑之。〈後世偽作ノ書所々ハ往古ヨリ此事ノアル由註セルモアレドモ猥ニ信ズベキニ非ズ。〉当時般舟三昧院・泉涌寺等ニテ孟蘭盆ノ時、御歴代ノ神主ニ御饌ヲ供スル事有㆑之哉否不㆑知㆑之。若シ是アリトモ、時俗ニ従ヘル寺僧ノ私意ヨリ出デ、本朝ノ制度ニハ非ルベシ。但各〻其家々ニテ、父祖ヨリ如此祭リ来レル事アラバ、今廃スベシト云フニハ非ズ。祖宗ノ法ニ従テ可也。
一、般舟三昧院事。
元伏見里指月ニアリ。後土御門院、文明年中御建立アリテ御内仏ヲ安置セラル。其後天正年中、秀吉公城ヲ伏見ニ築ク時、コレヲ京師ニ移ス。御歴代ノ神主アリテ、専ラ追福ノ法事ヲ修セリ。 以上
一翰致㆓啓上㆒候。秋冷相催候処御全家被㆑為㆑揃、愈〻御壮栄被㆑成㆓御入㆒珍重奉㆑存候。先達而者被㆑入㆓御念㆒候御書中、殊一種被㆓贈下㆒御丁寧之御儀、忝御蔭向申候。将又御知音之方ゟ被㆓御頼㆒之由、本朝祖祭式之儀取調進上いたし候様承知仕候。早速可㆓申入㆒之処、頼置候方彼此隙取、其上拙家愚孫久々不㆓相勝㆒取紛、大に及㆓遅引㆒候。御宥恕可㆑被㆑下候。則此度別紙進上いたし候。御落手可㆑被㆑下候。右乍㆓延引㆒貴答迄如㆑此に御座候。恐惶謹言。
【 NDLJP:163】 八月三十日 富島左近将監
小山三蔵様
祖祭式勘物之事、儒家にても委敷難相分、寺島俊平ゟ堂上竹屋正四位下右兵衛佐光様朝臣へ御頼申入御認被㆑下候。御菓子様之品にても進上申候方に候はゞ、猶又跡ゟ可㆓申入㆒候間御心得置可㆑被㆑下候。以上。
左将監
三蔵様
右野口市郎右衛門ゟ被㆓相頼㆒候候付新見留守居小山三蔵を相頼み、同人妻之伯父鷹司殿諸太夫富島左近将監ゟ相調呉候也。
【長寿者】松平伊豆守殿御領分三州井戸郡小塚村百姓万平〈二百七十五歳。慶長七年の生。〉 〈〔頭書〕前にいへる三代将軍家光公御上洛の節、御馬の口取せしといへるは此万平が事なりといふ。慶長七年の生とあれば二百三十歳なり。二百七十五歳といへるは如何。〉
此度有姫様御下向御供被㆓仰付㆒。右有姫様御事鷹司様之御姫君にて、御歳六歳に被㆑為㆑成、此度西御丸へ御輿入、九月十五日御著府。西御丸へ先年有栖川様姫君様御輿入之節、右万平御供仕御吉例を以、此度も御供被㆓仰付㆒候由承申候。
八十ケ年已前に御先代様御遠忌之節、右万平白髪を截り奉㆓差上㆒候。従㆓公儀㆒高三十石被㆓下置㆒、此度二十石増、都合五十石之頂戴に可㆓相成㆒噂に御座候。
旅宿へ折々罷越候伝右衛門と申す者、伊豆守様御屋敷へ罷出、右万平を見受候趣、同人より直に承り申候。
右は勝山町和泉屋才右衛門忰善二郎と申す者、公事差添人にて出府いたし、其者より勝山へ申遣し候書付の写なり。
この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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