浮世の有様/2/分冊5

目次
鹿島屋伊助卒爾の訴各地の変異大坂川浚の状況名切島住民の不埒名切島の住民信楽の手代を打擲す島民足軽ならびに長吏を殺す足軽の奇智島民七百人吟味勘定奉行の出張外国船の乱暴近茂平の談話御蔭踊地震美濃国笠松松平出羽侯新川開発の御触本願寺広間越中富山の大火江戸大雷大坂気象変異所々草木の変態灘魚津村の珍事江川太郎左衛門手代柏木林之助の乱心沢田啓助母子の非凡伊藤主膳の不法主膳の最後毛利領中百姓一揆の由来毛利の悪政百姓訴願の五箇条奉行の狼狽小笠原侯宿泊に窮す毛利蔵主の退役所々の一揆小倉の大霰出羽の福俵本願寺の不正家康悪日を忌まず家康の侍になせる教訓朝廷祖廟の事長寿者東本願寺家老の不法西本願寺の陋劣
 
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天保二年雑記
 
西横堀京町橋東詰北へ入る所尼崎屋長兵衛借屋に、鹿崎屋伊助といへる者あり。此者四五年前迄は、斎藤町に住して加島屋伊助といひ、船町加島屋幸七出入の者なオープンアクセス NDLJP:136りしが、至つて姦悪にして、種々のよからぬ事を工み、本家に対しても不埓なる事多く、鹿島屋伊助其上妻の病死せし後は、骨肉を分けし十六歳の娘に邪淫をなし、禽獣にも劣りし者なるにぞ、本家よりも家号取上げて、出入を差留められぬ。五年計り已前より横堀に宅変し、始めは油・下駄・草履など商ひしが、変宅の後は、灰屋の株を求めて灰を商とす。此家元来宿犀米屋など住居せしかども、十年余に三入の変死ありて何れも縊首して死し、二人目の縊首が書置に、「二階よりして頻に我に縊首せよと勧めぬる者ある故、拠なく其事に及びぬる由」の書置なりしとなり。斯くの如く不祥の家なれば、誰ありて其家借れる者なし、久しく空家にてありしかば、家主長兵衛も之を困りしかば、「三年の間無家賃にて貸すべし」といへるにぞ、之を幸として借り受けて変宅せしといふ。斎藤町に住せし時、娘との不義世評高くなりしかば、懐妊せし小児を堕胎せしめ、娘を奉公に出し後妻を設け、間なく女子出生し、天保二辛卯年、此児三歳になりぬ。正月六日の事なりしが、伊助は忰〈先妻の子にして二十歳計りなり。〉と共に、四日より紀州の親類の方へ赴き、夫より所々あきはひの得意先を巡りぬ。留守は後妻と三歳の女子に、広島より出来り近き頃召抱へし僕と三人のみなりしに、此僕不良の賊心を生じ、六日夜主人母子を殺害し、金三歩・銭五貫文其外衣類・手道具の類を盗み取り、外より盗賊入りし体にもてなし、自若としてありしが、直に御吟味になり召捕られ、高麗橋にて三日の間晒されて、竹鋸の上礫に懸けらる。留守中に妻子殺害せられ、斯かるためし世に多くある事にもあらず。之を聞ける人毎にあはれの心を生ずる事は、自然と人情の然らしむる所なるに、「これ迄積悪のむくい、斯くぞあるべき事なり」とて、伊助が旧悪に花咲きて、骨肉を懐〔〔妊脱カ〕〕せし事など専ら噂をなし、誰ありて、伊助を不便なりといへる者なし。伊助が如きは人外なれば、之を論ずるも益なし。されども人々平常の行を心得て、毎事に慎むべき事なり。同夜せんだん木筋に縊死あり。高麗橋筋に盗賊あり。今日年越にて天下一統に祝する日なるに忌はしといふべし。

同廿四日麴町犬斎橋筋より一筋西の辻西へ入る所裏〈同町福島屋何某が借家なり。〉井中へ、黒猫誤つて陥り死す。借家の家内、朝に水を汲まむとて井に到り、之を見付けて大に騒ぎ、十オープンアクセス NDLJP:137二三計りの女子、井中に投身してありといひて叫びつゝ、家に帰りて打倒れぬるにぞ、其声に駭き、其家は勿論長屋一統、井中を見るに其女のいへる如く、十二三歳の女子と見えしかば、其由を家主へ届けぬるにぞ、直に年寄へ訴へぬるにぞ、年寄も町代と共に之を篤と見聞し、其由奉行所へ申出でしかば、検使両人早速に入来にて、人夫を以て之を引上げしに、卒爾の訴黒猫の溺死して尻の上に向ひ、其尾の前髪の如くに見えしにぞありける。検使以の外憤られ、「斯様の事あらば早速に引上げ、とくと養生をも加へ、能く糺せし上にて申出づべき事なるに、卒爾の至、此方共引取りしとて、頭へ何共申様なし」とて、以の外に叱り付けらる。さもあるべき事なり。町内一統一言の申訳なく、平詫ひらわびに詫びぬれども、検使之を許さず、「何分にも引取るべし」とて、其場を立去られしが、辻一つ越えて北の方へ曲るや否や、両使も怺へかねて、互に面を見合せ笑を忍ぶ事ならざりしといふ。これまで可笑をかしさを忍び叱り付けてありし中にも、可笑しきを怺へし事、役目なれば苦しき事になん有りぬべく思はる。斯かる卒爾の事なりしかば、三日計りも引しらひ、やうにして事済みになりぬ。其間猫の死骸を捨つる事もなり難くて、是にむしろを著せ番人を付けしといふ。此町の年役といへるは、吉川屋武助といへる者にて、商買は質家なり。大馬鹿の名を揚げぬ。斯かる卒爾のためし古より未だ聞かず。後代とてもありぬべしとも思はれず、可笑をかしき事なり。

亀山にては正月六日の旭二つに見え、十五夜の月真中に筋ありて、二つを合せたるが如く、各地の変異十八日夜、保津川の下より山本村の方へ、四斗樽に等しき光り物三つまで飛行きし。烏・雉子の類大に騒ぎ地震せしといふ。京都にても、正月七日には余程強く震ひ、同十八日も同断、廿四日・二月朔日などは至つて烈しく、其余三日目・五日目位にて、一日に少きは三度、多きは七八度大小ゆらざる事なく、又晴雨毎に必ず震動ありといふ。

浪華にては三月八日より川浚始まる。市中三郷より冥加として上納せし金子、凡そ九万五千両余といふ。其外毎町に浚上げし砂、百坪父は五十坪づつを申受け、又川浚場所に於て、砂運送の御手伝として、毎町に五十人・百人宛の人夫を出し、中にオープンアクセス NDLJP:138は町中人を払ひて二百・一一百・五六百人も出づるありて、大坂川浚の状況一様の襦袢・股引・紅絞べにしぼり・鬱金・浅葱等に緋縮緬の襷を掛け、中には悉く縮布を用ひしもあり。伏見町辺唐物仲間には、一様に毛氈・羅紗等を切裂きて、総て唐人の行粧をなして出でぬ。これは目立ちぬる故御咎を蒙りぬ。大坂三郷三組に分ち、其印の幟を建て町毎の印には纏を用ひ、山車は半月・千なり瓢簞・薬玉・与之助風車・五色の吹貫・吹流を船毎に押建て、川口に之を繋ぎ置きて、砂持又踊れる様を見るに、さながら軍陣の如し。之を見物の人々大勢つどふ事なれば、さながら合戦の如し。且〔〈々脱カ〉〕六七万の人数集まりぬ。蜂須賀は海上船を留めて進む事能はず、遠見の早船を出し其様を見届けしめて、漸々と心を安んじ入津するに至り、細川は恐れて是に近づく事なくして、堺へ船をつけしといふ。前代未聞の事なり。是にて其大騒なる事を知るべし。初の程は毎船に太鼓・鉦を叩き大に騒ぎしが、後には之を禁ぜられ、船印も何町々々といへる幟計りにて、大騒なる指物・船印を停止となり、踊をも禁ぜられしかば、砂持に出づる者も減少し、追々暑に向ひぬるにぞ、見物に行ける人も至つて減少に及びぬ。

昨年十月の事なりしが、中国の御城米を三百石・千三百石の船に積込み江戸へ下りしが、志州名切島にて、其御城米を奪取り、船をば石を積みて海中へ沈めて、難船の様になしぬ。此島は公領にて近江信楽しがらき御代官多羅尾氏の支配にして、自国の事なれば鳥羽のあづかりといへり。夫より難船の趣、信楽へ申来りしかば、早速手代村上□□□なる者見分に罷越して之を糺しぬるに、名切島住民の不埒難船に相違なき由なれば、所の役人は申すに及ばず、鳥羽の郡奉行迄の印形を取りて、右船頭を引連れ大坂へ来りしに、大坂に於て之を吟味有りしに、奪取りし始末、船頭より白状に及びぬる故、再吟味の為め十二月廿七日出にて、村上は志州へ下りぬ。

これ迄年毎に、名切島にて難船五六十艘づつあらぬ年とてはなしといふ。されども真実の難船は五六艘に過ぎず。余は船頭と馴合ひ、難船の様をなして奪取り、偶〻之を諾はざる船頭ある時は、残らず打殺しぬる事とぞ。此度御城米を奪はむといへるにぞ、庄屋久右衛門といへる者、これ迄年々斯かる業をなしぬれども、未だ公儀の御城米を奪ひし先例なし。こは外々の事にはたぐひ難し。若し露オープンアクセス NDLJP:139顕せば、何れも命を失ふべし。此事は思ひ止まれとて、之を制しぬといふ。されども年寄を始め一統の者共、口を揃へ斯かる業をなすには、公儀なればとて何の恐るゝ事あらむ。久右衛門も年寄つて元気衰へぬれば、彼にかま〔は〕ず奪取るべしとて、いかに制すれども之を聞かで其事に及びしといふ。然るに信楽より手代下り、難船に定まりて引取りしかば、何れも久右衛門を誹謗せしとなり。斯かる程の悪事なれば、誰いふとなく勢州の悪漢共、之を知りて十人計り党を結び、公儀の御役人と偽り吟味に至りしにぞ、島中一統之を陳ずれども之を許さず、「江戸表へ召捕り行かむ」といへるにぞ、今は詮方なく金子百両を賂ひて内済を願ひ、漸く島人も安堵すといふ。素よりかたりの事なれば、首尾よくかたりおほせぬる故、早速に引取りしといふ。斯くて勢州に於て又も外の悪漢共申合せ、再び始の如き様にて名切島へ渡り、厳しく吟味する故、「再吟味迄ありて事済みし由」言訳せしに、「此方より外に公儀より役人来りし事なし。夫は定めて騙なるべし。急度吟味を遂げて、其者共をも共に召捕るべし」とて、誠しやかにいひ募れるにぞ、詮方なくて又金子を賂うて漸々と相済みぬ。其跡にて島中寄合をなし、「斯様に度々金子を取られぬれば、骨折も空しく成つて何の益もなき事なり。斯かる様なれば、又如何なる事をいひ来むも計り難し。たとひ公儀の役人にもせよ。此後出来る事あらば、悉く討殺して海へ投入るべし。何れも能く心得居て、出来りなば太鼓・鉦にて相図すべし。一統に出合ひて其事に及ぶべし。必ず手筈を違ふ事なかれ」とて、何れも議定せしといふ。

信楽の手代には、斯かる事ありとは夢にも知らで、勢州より船に乗り志州へ渡りしに、正月六日未だ夜深にて丑の刻頃に其島に著きしにぞ、方角も分難き程の事なれば、名切島の住民信楽の手代を打擲す人家に立寄り門を敲き、「庄屋久右衛門へ案内せよ」といひぬるに、内より是に答へぬるやう、「我は近き頃、他国より此島へ来りぬる故、所の案内はいふに及ばず、庄屋の名をも知らず。外にて尋ねられよ」といへるにぞ、詮方なくて又外の家を敲きしに、同様の返答故、又外の家を叩き起しぬれども、是も亦同様の事なるにぞ、手代には足軽両人・長吏両人、主従五人にて渡りしが、何れも大に怒り、「其島に住みて庄屋オープンアクセス NDLJP:140を知らぬ事のあるべきや。偽をいへる事の不埒さよ」と〔〈て脱カ〉〕番人をして之を打たせぬるにぞ、此者大声を発し、「人殺なるぞ、何れも出会ひ我を助けよ」と叫びぬるにぞ、島民足軽ならびに長吏を殺す兼ねて申合せし事なれば、太鼓・鉦を打鳴らし、人数を集めて五人の者を取巻いて、たちまち足軽一人・長吏一人を打殺す。手代種々にいひ聞かすれども更に耳にも聞入れず、斯かる事に及びぬる故、止む事を得ずして刀を抜きて振廻しゝかども、大勢に敵し難く、天窓に二ケ所の疵を蒙り、股を二ケ所・面に二三ケ所の手疵を負ひ、総身を打叩かれ、這々はふの体にて其場を逃去りしかども、如何とも詮すべなく、浜辺に到り倒れて死せし如くにてありしに、大勢之を尋ね来り、海へ投入るべしといへるにぞ、最早逃るゝに道なき故、覚悟を定めいへるやうは、「汝等公儀の御城米を盗みし上、斯かる狼藉に及び、愚にも身を全うせんと思へるにや。。我は公儀より吟味の為め入込みし者なり。今更命を〔〈惜脱カ〉〕む〔〈べ脱カ〉〕きやうなし。兎も角も計らへよ。さりながら元来米を盗み取りし事故、其米別条なくば、何も命にかゝはる程の事はあるまじく、頭取りし者両三人は其罪逃れ難ければ、遠島位にはなるべし。今我を殺しなば、一統に死罪なるべし。我れ命を惜むにはあらず。殺さむと思はゞ速に殺すべし」といひぬれば、「此期に及び命助からむとて、入らざる口を費す事なかれ。早く打殺し海に投ぜよ」とて、何れも其事に及ばむとせしに、老分の者共、之を聞分けて、「命を失ふ事なくば許しやるべし。露顕せし上は頭取し者流罪は詮方なし。命にはかへ難し。助けやれ」とて制せしにぞ、漸くと殺す事を止まりぬ。兼ねて一人にても助け置きては、後日の妨なれば悉く殺すべしとの定なる故、人数の手分をなして、尋ね廻りし故、山中にして足軽を探し当りぬるに、是も命を突出し、「兎も角もすべし。汝等僅か此方共計りの人数と思ふべけれども、其方共の悪事露顕せし故、大勢を以て四方を取巻きてあれば、我を殺しゝとて、其罪逃れ難く一統の命に拘はるべし。元来米の事のみなれば、命に懸かる程の事にはあらざるに、罪を重ねて命を失ふ事、自業自得といふべし。足軽の奇智早く我を殺して其罪を重くせよ」といひぬるにぞ、何れも「命を失ふ程の事にあらずば彼を助くべし。彼を殺しゝにて、命取らるゝも無益なり」とて殺さゞりしといふ。斯かる大変なれば、隣村より鳥羽・信楽へ早速注進にオープンアクセス NDLJP:141及び、鳥羽よりも早速に手当ありて公儀へ訴へ、信楽よりも直に元〆木村右近右衛門・杉本権六郎の両人、大勢引連れて駆著きぬ。公儀よりは伊勢藤堂家へ仰付けられ、千人の人数を以て浜手を固むべしとなりしに、鳥羽の郡奉行迄同意にて、「難船の印形せし程の事なれば、等閑の事にあらず」とて、「海陸の固め千人にては不足なれば、三千人にて相固め申すべし」とて断り奉りて、其備厳重なりしといふ。斯くて名切島の者共都合七百人を召捕り、島民七百人吟味勢州へ引来り之を吟味なしぬるに、七百人の内に最も罪重き者四百人、其外御城米と知りぬるも、知らずして買ひぬるも、志州・勢州等にありて其掛なれば、これ等をも召捕られぬ。又船頭は伊予の者にて、未だ志州へ来らざる已前、紀州に於て御城米を分ち売りぬる故、此〔〈を脱カ〉〕買ひし者共へも、所の役人附添ひて下りぬるに、伊予より呼下され、斯く大勢の者共を入置く牢とてもなければ、卒に人家カル説〕仮牢にしつらひ之を入れ置きぬ。江戸よりも追々御役人出来られぬる故、公儀御役所をしつらひ、これに滞留あり。役所計りも公儀を始めとして、信楽・藤堂などよりも其役所あり。又村々より附添の者共、地頭よりの役人など、夫々に宿やどりを定め、至つて大騒の事なるに、名切島の者共、一村の中にも同名の者多くありつて、「何村八兵衛を呼出せ」といひ付けぬれば、多くの八兵衛出来り、大勢〔〈の脱カ〉〕事故一々面を見覚え難く、混雑するのみにて吟味行届き難く、大に困じ果てられしに、勘定奉行の出張江戸より御勘定奉行来られて、之を数十組に分ち、「何十何番目の八兵衛・何番目の組の弥兵衛を呼出せ」とて、一々帳合に引合はせ吟味ありしかば、是にて少しは吟味の道付きしとなり。海中へ沈めし船をも、人夫を以て引上げしといふ。斯かる大そうの事なりしかば、一日の雑費も莫大の事なりといふ。追々吟味をなして江戸表へ罪人共を送り下せるも、至つて仰山なる御手当なりといふ。

信楽の御代官多羅尾氏の元〆木村右近右衛門といへるは、家相家の賀茂丹後を信じ、其指図を受けて人の相を改め、御代官其外一家中も悉く之を改めぬるにぞ、御代官始め丹後とは至つて心易きにぞ、折節肥前松浦にて、庄屋何某が忰倉吉といへる者、同人方へ便り来り、「上方に於て身を納めたき由」を頼みぬるにぞ、幸に庄家の子にして、算筆をも能くする事なれば、木村へ談じ「軽き奉公にても、又はオープンアクセス NDLJP:142養子にても苦しからねば、之を世話なし呉るゝ様に」と談ぜしに、木村早速に諾ひぬ。「然らば来年卯の正月は月もよき事なる故、貴家〔〈へ脱カ〉〕つかはすべし」とて、其約をなしぬるに、志州の変起りて木村を始め彼の地へ赴きし事故、詮方なく、「五月迄には事済に及ぶべければ、五月に至りて行くべ〔しカ〕」と定めしに、一件一向に埓明かずして、これも亦成り難きにぞ、幸ひ家相の事にて、信楽・日野・八幡辺に用事出来せしかば、右倉吉を近江に遣しぬるにぞ、此事信楽御代官所にて、同人が聞来りしを記せるなり。何れ八月迄も掛かるべき事に思はるれば、引越は九月にすべしと約定せしといふ。

前にいへる村上何某は、元来信楽にて医師の子なりしが、士を好みて五六年前より手代となり、志州へ到り大難を受け、辛うじて命は助かりしかども、数ケ所の疵を蒙り癈となりしといへり。

四月七日の事なりしが、蝦夷・ソウヤ・カラフト辺の沖に当りて、ひはかに小山の如くなる者見ゆるにぞ、文化の初にも斯かる事ありて、何事にやと思ひしに、イギリスの賊船出来りて、大に乱暴せし事ありしかば、此度も油断なり難しとて、松前より出役の奉行桜田久米蔵、厳重に浜手のかため其備をなす。然るに次第々々に近づき、九日に至りては鮮かに分りぬるに、大なる異船に人数千計りも乗りしやうに、思はれしかば、外国船の乱暴船に乗りて此方よりも出張せしに、其船次第に沖の方へ引去るにぞ、之を追懸けしに思寄らざる石火矢を打懸けられ、散々に敗走せしかば、異船勝に乗つて引返し直に上陸をなし、浜手の人家を放火して切りまはるにぞ、桜田も早々逃去りしかば、直に奉行所へ入りて、松前の囲米は申すに及ばず、金銀・諸道具悉く船へ取入れ、桜田が若党一人と蝦夷人一人とを擒にし、異人の過ぐる所悉く放火して船へ乗込みしが如何なる故にや。蝦夷人をば小船に乗せて放ち返せしといふ。

桜田如何に軍事に疎き男にもせよ。小山の如き大船を、うかと追懸くる事もあるまじく思はる。是は定めて異船よりも小船を出し、之をつり付けしなるべし。是にうか賺されて石火矢にて打ち拉がれしなるべし。何れの道にも無謀の不覚といふべし。

オープンアクセス NDLJP:143斯かる有様なれば、直に軍使を以て江府へ注進ありしに、佐竹・南部・津軽等へ廿五日に御暇を給はり、廿六日直に出立して各〻自国を固めらる。津軽に〔〈は脱カ〉〕折節大病に臥して居られしかども、おして出立ありしといふ。

出羽庄内酒井左衛門殿の大坂蔵敷に、勤番せし人の中に、近茂平とて物頭を勤むる人あり。近茂平の談話此度酒井家にも出張あるが故に、茂平をも急に召還さる。前文の始末は、此屋敷へ国元よりいひ越しぬるを聞きて記せるなり。此茂平がいへるに、「先年賊船来りし時も蝦夷へ出張せしかども、異船は疾くに帰り去りし跡を、久しく固めぬる事故、至つて徒然なるに、蝦夷人共種々の物を持来りて之を商ふに、異国の物にして一々珍らしく、直も至つて下直なる故、種々の不益なる物など買調へて、帰る頃には三百目計りの借銀をなしぬ。又此度も雁も鳩も立ちし跡に出張をなし、又借銀をなす事のつらしとて、悔み言いひつゝも下りしが、これが国元へ下り著きぬる頃には、最早諸家ともに陣払になり〔〈し脱カ〉〕由申来り、蝦夷へは松前の分家に玄蕃といへるが出張にて、之を固めらるゝ」といへり。先年の事もあれば、大抵之れを心得て、何れに〔〈か脱カ〉〕上陸して賊をなせる事なれば、賊をおびき上げて其後を断切り、元船を打破る手段もあるべき事なるに、石火矢に胆を取拉がれ散々に敗走し、斯かる不覚を取りし事歎ずべき事なり。

大和国日霊には、「山上にある所の水神の社の錠前、故なきに開き金幣と大神宮の御祓と中に入りて、水神の神体は外に出しありし」とて、昨年御蔭参の最中に、之を専らいひ流行はやらせ官へ達して、新に宮を造替へしかば、大勢参詣ありて至つて繁昌をなす。斯かる事なれば、大和一国大に浮かれ立ちしに、米穀・紅花・綿等に至るまで、倍々の豊年なりしかば、御蔭踊御蔭踊おかげをどりとて昨年十月の初より踊り出し、地頭の年貢も物買へる価も、其儘になし置き浮かれ廻りしが、当年に至り益〻甚しく、大家の女、願人坊主に著きて出走し、或は其所にて不義・いたづらの事、妻も娘も大方之をなさゞるはなく、親も夫も之を制する事あたはず、其有様詞には演べ難しといふ。近来大和川の流に宇治橋を架け、橋の前後に旅籠五六十も建並べ、紅絞り襦袢・手拭等一様の仕立にて駕籠を進め、三宝荒神の馬を引連らね、其先には相の山を拵へ、お杉・お玉ありて三絃オープンアクセス NDLJP:144を弾けば、新に朝熊の万金屋を写し、廿五ケ年隔て、外宮の宮を建て、山上には大なる茶屋・宿屋を建連ね、すべて伊勢を写しぬといふ。四月十五日には予が知れる者是に参詣せしが、其頃は別けて賑しかりしといふ。然るに同月下旬に至り、地頭より寺社奉行出張にて、宇治橋・万金丹・茶店・社人の家等悉く之れを打砕きしといふ。こは地頭へも届けずして、我儘に立てし故とも、又伊勢より差障りしともいへり。五月節句前より摂津国箕面中山の辺、御蔭踊流行出たし、灯灯・幟・衣裳の類、追々大坂へ注文し、男女混雑にて二百・三百宛、植付をもなさで踊り歩行しといふ。怪しむべき事なり。

御蔭参も、早春には四国・九州・中国等より相応に出でし様子なれども、昨年に比すれば十分一にもあらず。近き頃予が知れる者疫死せるあり。一人は白子裏町出雲屋六兵衛妻、帰後三日計りにして死し、一人は福島にて海老屋佐市といへる質屋なり。是は道中より病みて三十日計りにして死す。坂の下の宿屋にて明石の士に摂州富田京屋何某が荷持、首斬られしといふ。こは此不法の事をなせる故、拠なく斬りしといふ。功徳なりしとぞ。

京都・亀山等の地震、春来二三四五日目に或は三度・五度・七度づつもありて、中には折々厳しきもありといふ。地震大抵雨降らむとする前、晴れむとする前に多しといふ。五月八日には大に震ひ、十六日には昨七日以来の大地震にて、京・亀山とも一人も残らず大道へ逃出でしといふ。

大坂にても二月朔日初更地震あり。同五日巳の刻少しく震ひ、三月五日子の刻に震ひ、五月五日辰の刻にも震ひし由なれ共、予は道を歩行きて之を覚えず。同八日二更大地震、昨年七月二日の如し。同十六日未下刻大地震、是も八日に等しき上に震ふ事長かりし。恐るべき事なり。

四月廿二日の夜、美濃国笠松といへる所大雷にて、川を隔てゝ相対する両村悉く家の天変を倒し、美濃国笠松偶〻倒れざる家には、屋上に船の如何して上りぬるにや。屋上に止まり、是が為に棟折れぬるあり。又三抱も四抱も五抱もありぬる大木の、半より折れ根より引抜くるなど、目も当てられぬ有様にて、胆潰れし事なりといふ。斯様の大変なオープンアクセス NDLJP:145れども、此二ケ村計りにて隣村には何事もなく、小家一つも別条なしといふ。斯程の大変なれども、二ケ村にて死人両人にて怪我人もなかりしといふ。鷲も是にあてられしと見えて、片羽翼根本より切れて落ちしといふ。雷計りにて斯様に破損する事はあるまじく覚ゆれば、龍の天上せしにやなどとて、其所の噂なりしといふ。播州網干の者江戸より帰り来り、其所の様を見しとて、予が知れる方に立寄りて、舌を巻いて語りしといへり。

 
                                        
 

     松平出羽侯新川開発に付領中への触書の写

大川筋追々高く相成、近年に至候ては纔之出水にも損所多、此上連に川底上り候て者、如何体の水難可之哉難計、甚御気遣に被思候。仍而此度出雲郡出西村ゟ下庄原村へ新川御普請御議定被仰出松平出羽侯新川開発の御触当春ゟ御取掛りに相成、誠に御入国已来之大普請、右に付て者是迄御公役等之御出金に相倍し、夥敷御物入に候処、打続年柄不宜。其上江戸表御屋形御普請御公役を初、廉立候臨時御物入差添、近年田畑不熟不少御損耗彼此に付、新川御普請之儀者可成丈被差延、是迄種々当分之御手入にて御猶予雖之、此節に至候て者甚危く相聞、川下郡中之安危に係はり候儀、元来大川筋は大層なる御田地之当中を相通候処、万一水害有之候而者、人命者勿論御田地にも相掛り、大切至極之儀、最早片時も難黙止場に至り、御支配之御手繰に無御顧御議定被仰出候。然る上者万端厳敷御倹約不相用候而者、御支配向難立行御難渋に至り可申、御取締第一之儀、東西共に心配可仕旨被仰出候。右に付御入用格別に相省候様、諸役所へ委曲談之候。

  卯二月十六日

 右御書付之趣、被其意下中へも申候。以上。

   二月廿二日                    堀彦右衛門

                            高木権平

     ​  年行事​​清水寺​​ ​

 右御書付之趣、可其意候。已上。

オープンアクセス NDLJP:146                            ​年行事​​清水寺​​ ​

     乗相院

 
                                        
 

     書状の写 前文略

一、出雲郡大川替、十郡人夫二十余万、当四月迄に被仰付候。秋又三十万程も被遣候由、三四年之間五六百万人も入候事歟。誠に大振向候。尤川敷家三十家計・寺四ケ寺・田地六千石程、川敷之者悲歎之至り、併此度者是迄例もなき御仁心之儀を以、寺並塔堂の分者上ゟ御建立被成遣、右川敷に相成候者へ二万貫文被下置、十郡へ利なし五万貫文御貸付、年賦にて御取立、二万貫文之儀者被下切り上納に不及。当四月中も御国中貧民へ五万貫文被下置。則一人前一貫二十五文也。右様当年者御仁心之御恵有之、一統難有奉存候。貴裕様も当時他国に御滞留候共、畢竟御国人に候得者御悦可成奉存候。余者拝顔万話と申留候。頓首。

  月 日                        観照房

    性三御房様

 
                                        
 

     元五禄壬申年五月八日

厳有大君〔衍カ〕十三回御忌之節、日本諸宗江府御召に依りて法筵之あり、本願寺より知空(光龍寺)と申す代番罷下り、諸寺諸山より守護札差出し候へども、本願寺のみ差出申さゞる訳、御老中大久保加賀守殿より御取次を以て、趣意申出候様に付、広間書之写。

書此度御大切之御忌に付、本願寺広間日本諸宗之寺院御召被在候。依之諸寺・諸山ゟ守護札被差出候処、於拙寺者無其儀如何之儀に哉、御尋被遊奉其意候。夫当宗旨者浄土真宗と称へ、人皇八十九代亀山院勅免に而、都中に於て天下安全御祈願所被建置候。開山親鸞聖人存生中無類之奇特有之候故、諸宗智者達被不審、種々難問有之候得共、諸神・諸菩薩之本意を被説示申候。殊更正讚浄土経に念仏成仏是真宗と釈尊説置給ふ。此文面に因而浄土真宗之勅許被在候由、中略、凡一切万法之中、念仏成仏・極楽不退之真実・報土之往生を遂候も、真宗之経法なる故と申心にて候。阿弥陀如来者、三世十万諸仏・諸神之師匠法〔界カ〕之根元、一天三千大世界之中オープンアクセス NDLJP:147に唯一之御大将、今日本にて人間之始天照大神之御事にて御座候。依而上天・下界十方無量、一切諸仏・諸神・神明・星宿等、皆々阿弥陀仏之御子・御弟子・分身開闢に候。依去真向尊像者日神大神宮の御徳を奉仰候も、直拝は無礼之儀故移取、阿弥陀仏と一体なる事を為知候にて御座候。夫人間者元来三毒とて、貪・嗔・痴に仏性之精神を悩し亡す大毒心有之候。我一流者因果を識候事肝要に致し候。何事も因果と存候得者世に一つとして遺恨無之候。何事に不依、今身に報ひ候善根者、我過去に為し置候処之種々報来にて御座候。中略。元三毒煩悩枝葉之数八万四千之悪煩悩と成候を、弥陀如来悉皆退治有之候。其上功徳善根を与へ成仏令為候故、五劫之間思惟坐禅工夫も被遂、四十八願を起給ひ候。然らば如来一切之衆生大願を立、衆生成仏之願行不取正覚之御誓を奉願、摂取不拾之利益にて、罪深き女人等障多、煩悩不知凡夫迄、速に三界・六道之生死火宅出離・往生極楽令為事、他力法とは申候。自力法は凡夫容易に難遂候。弥陀之他力易行者、貴賤男女・心乱不断を不論、罪之深きを不厭、奉公業体に無暇輩も、亦一文不通・願行不勤・経説見分難く、道理に不叶人々に者似合たる法にて御座候。自力は譬千里有る道を五百里・三百里行て、其所に行滞而、先へ不行者は一足も不行者と同事にて御座候。如来他力本願者慈悲方便、之三つを満足し給ひ、万善・万行・万法之主にて候故、千里彼方ゟ此方なる成三毒之凡夫を極楽世界に令往生給ふにて候。念仏行者をば八万四千之光明之中に納取、罪劫を消滅し功徳の主と成給ひ候。中略、然りとて親鸞独念仏を尊み、弥陀を尊信致候に者無御座、天竺・大唐・日本諸宗何れも其宗々之知識を極め、是迄ぞと云へる所、其心之奥旨に至て可御覧候。弥陀者無量諸仏一行万法之肝心にて御座候。中略、畢竟念仏と云ひ妙法蓮華経と云ふ主人公、無為真人本来面目種々名を付候得共、他事更に無之候。

天竺龍樹菩薩と申は、十地薩陲にて千部論を作候て、八宗と分け、知之至り道之極りに候得共、智恵も行も悉放捨、一筋に弥陀を願、念仏三昧を被励候。十住毘婆沙論世に残り、天台大師は法華経六十巻之注を書、全法華宗を建立、法華経一巻妙法蓮華と釈始められ、以下八巻共八品六万九千三百八十余字文非他事候。西方弥陀を尊み念仏唱よとに候。摩訶止観中に顕然に候。依而伝教大師も外天台を立、内弥陀オープンアクセス NDLJP:148仏を念ぜられ候。慈覚大師は自ら如来尊像を造り、持仏堂に安置被為候。弘法大師学道此日本に第一験候。神変通力無類に候。弥陀念仏を被信候事、尤厳重に而、世之人所知に候。達磨大師以心伝心・不立文字・教外別伝之悟道に候得共、見性悟道と申は則弥陀を奉見に非ず。坐禅正意之台に一念南無阿弥陀仏と唱へ、浄土対面弥陀を奉見と被申、自身得道にて一心不乱に念仏三味を遂給ひ候。其余碩学・明聖皆皆念仏被唱候。中略、さる程に念仏行者は摩尼珠を求るに悉叶が如く御祈祷之御事、唯今に至り別に何〔もカ〕新、印札に拵差上可申儀も無御座候。今天下〔〈に脱カ〉〕於而門主ゟ札・守献ぜられず候者、家之式宗之作法を相守、此度とても札・守等出し不申候。乍然開山聖人数ケ条之式法被定候内、別而三ケ条肝要之教を覚悟仕候。此三ケ条当流之守札と存候。第一諸仏・諸神・諸菩薩不疎。是皆弥陀之分身・御弟子・垂跡随相也。所々鎮守氏神等之修理興行祭礼之砌、諸人同前少も麁略に不存。随分御馳走可致候。第二諸宗・諸法不誹謗。其故は三国に弘る所之諸宗千百十宗、是一切万法一如にして、更に差別無之候に付、諸宗を謗候時者、釈迦を謗候道理に而、則阿弥陀仏を謗申に同様可為事。第三に領主・地頭之合を蔑に致申間敷、深く公を尊み御意を違背不申、御政道に不背、親へ孝、君へ忠、五常を相守世間傍輩へ偽邪・表裏を不構、正法を本と可致候事、尚又開山親鷲聖人は、天津児屋根命末孫、大織冠之御子房前太政大臣淡海公御子孫、長岡左大臣内麿公之玄孫、皇太后宮大進有範公御子にて、初天台に列、慈鎮和尚之弟子となり、其後黒谷法然上人に随身にて、倶に念仏三昧を弘められ候。親鸞北の方は月輪殿御娘玉日姫と申候。夫れ夫婦和合之道者私ならず。是万法根元にて天は父、地は母也。其中に生を受る者皆天地之子也。一天之御主帝王を奉初、御夫婦坐まさねば御子孫絶たせ給ふ。則此日本天照大神御父母伊弉諾伊弉冊尊夫婦之道を初め給ふゟ、此国に生れたる者、全仏道は神道之障りとなる者にては無之候。神明菩薩は則国土之事にて、上一天国王ゟ下万民に至る迄、仏法正意為る弥陀之本願に貴賤・男女之差別無之、女犯・肉食更に往生之妨に不相成候。但邪淫とて真実之縁に非る事は、仏戒にて経説に迷前、男女有り、悟後男女なしと釈せられ候事、能々御得心御玩味可成候。依去態々一宗を被建、道俗男女に等しき御オープンアクセス NDLJP:149仏跡を以、無辺之衆生済度有之日本之大導師にて御座候。就御尋粗方あらかた相認差上候。宜御披露頼上候。已上。

                     ​本願寺門主代番​​   光隆寺知空在判​ ​

世間に流布して法談する広間書といへるは、御法事を偽りて、右馬頭様御病気に付、御祈祷せしといふ天照大神の御歌の上の句を、みだたのむとかへ、その外抱腹にたへざる事多し。これは真の広間書なりとて、友人野口姓が予に見せぬるにぞ、筆の序に写し置きぬ。この坊主、時宜を考へ利口に言ひまはせし事、彼が才といふべし。

 
                                        
 

四月廿三日越中富山二千軒余の町家、越中富山の大火九分余り焼失し、城中悉く焼失せぬ。家中屋敷も同様の事にて、やう家老の家二軒焼残りしに、侯は火を避けられてこの家に仮住居ありといふ。宝庫も悉く火入り、丸焼になられしといふ。

六月廿六日江戸大雷、江戸大雷八町堀にて女髪結おやすと申す者の家へ落掛り、四人家内の所両人即死。霊岸島にて増五郎といへる者、折節中暑にて打臥し居たる所へ落ちて、此者即死。五島屋敷玄関其外所々十八ケ所へ落ちて、人死廿余人ありといふ。

〈〔頭書〕去る六月当地大雷之御見舞被仰越、早速師家へ御披露申候。近年〔者カ〕雷有之候得者、兎角落雷多御座候得共、当年者度々者雷無之候へ共、六月廿六日八つ半過ゟ春頃迄、初者無雨雷計り西北之間ゟ鳴出候様に相覚、東方鳴行鳴出暫過大雨にて、光目をつらぬき所々に落雷仕、人十八九人即死・怪我人多有、是迄相覚不申候事に御座候。乍併師家御近辺者何事も無御座候。別而鳴も強無之候由被仰候。拙宅近辺は誠に鳴強、近辺へ者落雷仕候得共怪我無之大悦仕事に御座候。御安心可下候。
                              植田源八
        山本半九郎様
右源八所者新橋辺なりと、ふ。〉

当年は春より天気殊の外片よりしが、別けて三月半より雨降りしが、其月中雨天続にて偶〻雨なきも晴天といふはなく、曇天の〔〈み脱カ〉〕なりしが、四月に至りてもなほ雨繁く、二十〔〈日脱カ〉〕頃迄常に雨降りしが、夫よりして雨なく、五月に至り稲〔植〕付くる節には、大坂気象変異所により水払底の場所あり抔いひしに、五日・十二日・十五日・十九日・廿日・廿一日・廿四日・廿五日・廿六日・廿七日・廿八日・廿九日・六月朔日・三日・四日・五日・六日・十日・十一日・十二日大雨降りしが、其後は折に烟草四五ふくもすへる計りの雨、折にオープンアクセス NDLJP:150はありと雖も、天気続にて暑気例年に異なり、至つて堪へ難く、川々水減じ、江戸堀・伏見堀等小川は、水尽きて船の通路もなく、同月半よりしては朝夕に雲やけして、日の色も青かりしが、近在には折々夕立の模様あれ共、大坂に於ては頓と雨なく、人身蒸さるゝが如く燃ゆるが如く、何れも毒熱に苦みしに、七月廿六日未の刻、雷鳴四五声ありて暫く夕立ちぬ。同廿七日は二百十日なるに、少しも風の憂なく至つて穏かなり。廿八日曇午の刻より大雨降出で終夜降続き、廿九日朝止みしが、巳の刻に少雨降り午の刻より大雨降出し初更迄降続きぬ。農家にては天黄金を降らすといふ。八月朔日終日夜に至る迄、少しく風吹きぬれども物に障れる程にてもなし、同十五日の月も快晴にして近年覚えざる事なり。当年は御蔭当り年故、至天下一統豊年なりといひしが、其言に違はで稲・綿は申すに及ばず、其余の作物悉く能くみのりぬ。然るに七月下旬の頃。京都西六条山科の掛所に桜花咲きぬとて、之を不思議の事なりとて、所々草木の変態大坂よりも態々上京せし者などあり。総べて草木痛みて枯れむとする前には、時を失ひて斯る例ある事なるに、別して当年の暑さに痛める事にして、怪むに足らざる事といふべし。之を始として八月始には、難波なる農家に作れる南蛮黍に饅頭を生じ、又同じ木にさゝぎを成らし、北野村にては同じ木の実の先なる毛の上に綿をふかし、川口村大神宮の宮地なる蘇鉄に花貫を生じ、一は方八寸計りの玉の形をなし、一は劒先御祓の形をなす。これ一木に生じて二つを一つにして詠むる時、狐の形すなどいひぬるに、尼崎にては植木に多く結びぬる実の中に、二つ計り桃実裂け開きて綿をふかす。其外艾に綿を生じ、芋に花を咲かす。予 芋花と艾にふきし綿といへる見たり。芋の花は折々咲ける事にて、此花咲きぬる家には必ず不吉ありとて、人々之を嫌ふ事にて珍しからざる事なり。艾は長けぬれば多く虫の付きぬる物にして、枝の本間に泡の如くに液溜れる物なり。当年の旱に津液沸湯甚しく、これの凝りて綿の如くなりし物なり。是に限らずなんばきびの饅頭・桃実の綿など、何れも草木の病にして、何もよき事にはあらず。蘇鉄も花実を生ずれば其生ぜし方は悉く枯るゝものなり。〈〔頭書〕川口村といふは、本庄の渡を越えて一町計り行けば其村にて、大神宮は庄屋の屋敷地にあり。此庄屋近来大に困窮に及びし故に、其宮大破損なりしが、此度蘇鉄を見物に行きし人々の賽銭にて、立派に建立なる事なりといふ。本庄の渡賃常に日々一貫余の銭を儲くる事なるに、蘇鉄見物に行ける様になりて、一日に十オープンアクセス NDLJP:151二三貫ありて船四艘にて渡しかねしといふ。〉下其外北野村の蘇鉄・肥後の屋敷の蘇鉄・桜・新町・裏町松湯の桜など、何れも花咲きぬるにぞ、不思議なる事に思ひ、是等を見むとて見物群をなしぬ。是等の事に付きても、御蔭なり不思議なりとて奇怪の説をいひ囃す曲者あり。又如何なる事かあらむ恐るべし惜むべし。

七月十五日の朝の事なりしが、当国灘魚津村へんなる事なせし者有り。船大工政五郎と申す者、灘魚津村の珍事近村の百姓ゟ西瓜買込受売致し候て、七月十四日節季に相成、右西瓜代百姓方ゟ取に参候得共不相払、百姓方ゟ段々催促の上言募り、終には叩合ひ、右政五郎を余程打据ゑ候ゆゑ、口惜く無念の余り、翌十五日朝ゟ抜身の物をはづし、竹の先に仕込槍の形にいたし、自分家内に湯をたぎらし、若敵とふ者あらば、右にへ湯をかけ可申かまへにいたし居候処、右政次郎甥の子両人連、門辺を打通候処を呼掛け、弟の方を井方へ投込み、右槍にて上ゟ突候処を兄の方助けたまはれと止め候を、又兄を一槍に突殺し夫ゟ隣家へ駈込、内儀朝飯をたべ候処を突殺し、其物音にあたり近辺の者逃出し候ゆゑ、狼藉者方々へかけ廻り狂ひ歩行き候処、村中之住人有馬宗益と申医師、余程之手利にて右狼籍者をからめ取り、漸騒動鎮り申候事。右狼藉者船大工政五郎年三十七八歳。即死甥の子兄十一歳。大疵同弟八歳。即死隣家内儀二十七八歳。有馬宗益二十七八歳。

 右有増申上候。無相違事に御座候。

同七月廿三日暁五つ時過、江府に於て江川太郎左衛門御手代公事方柏木林之助とて三十八歳になれる者、五十日已前ゟ病気にて引籠被居候処、ふと逆上之余り及狼藉終に咽を突切腹被致候始末、江川太郎左衛門手代柏木林之助の乱心同人子息健吉九歳未だ寝間に伏し候儘これを斬殺、同老母即死。是者小普請浅野隼人組森秀一郎殿母之由、遠縁に付林之助方へ参被居候て居宅前にて死す。同人下女即死二十五歳。是者朝飯を焚掛け、釜のまへに罷在候処うしろより被斬掛逃出、居宅界にて死す。雨森茂一郎三十歳即死。是は居宅ゟ駈出し玄関前にて死す。大手疵同人内方二十三歳、中手疵同人下女かね十九歳、同人子息市之助八歳。即死山田左市郎三十九歳。是者大疵に付療治いたし候得共養生不相叶一時に死す。大手疵同人内方二十六歳。即死同人子息伊之助七歳。オープンアクセス NDLJP:152即死望月鵠助。是者劒術達者に付取押へ可申存寄にて、大小を帯し六尺棒を持出被立向候処、直様棒中程ゟ被切落刀へ手をかけ候処切掛られ大疵にて死す。大手疵御役所下小遣ひ与之助四十九歳。是者湯呑所にて朝飯のこしらへ致居候処、後ゟ切掛られ役所へかけ込候処、尚又被切掛養生不相叶死す。大手疵雨森茂十郎六十五歳。是者津軽殿より取鎮に鳶人足大勢加勢罷出候砌、茂十郎殿家内ゟ被出候を、乱心者と見違へ鳶口を頭へ被打込総身打疵数ケ処。以上。

 
                                        
 

同年七月の事なりしが、肥後熊本の藩中に沢田啓助とて、当年十六歳になる人あり。幼うして父を失ひ兄母〔〈にカ〉〕育せらる。沢田啓助母子の非凡此人至つて才子にて諸芸ともに衆人〔〈に脱カ〉〕超ゆるが、中にも別けて学問に長じぬるにぞ、人皆其名を云はで学者々々と綽名して呼びぬる由、斯かる生立なれば至つておとなしく、物毎に慎み深き事なりといへり。然るに子供仲間にて、其才を嫉み大勢申合せ、常に喧嘩口論を設け、悪口・雑言甚しき事なれ共、少しも之を頓著せず知らぬ顔にて家に引取りしが、日々学校よりの帰懸には斯くの如くなる故、余りに堪へ難き事に思ひし〔〈に脱カ〉〕や、学校に出づる中にも己れと親しき朋友の四人ありしに、是等を呼び止めて、「此硯と筆・墨は足下へ形身なり。机は誰、文庫は誰、本は誰に参らすべし。此左伝はどこそこにて借りしなれば、之を返し給へ」など頼みぬるに、何れも何をいへる事やらむと怪み思ひしに、帰路に至りしかば、例の如く大勢の附纏ひ頻に悪口をなしぬるにぞ、知らぬ顔して行きぬるを、一人後より刀の鞘を取つてねぢ上げ、こじりがへしに打倒さむとするに、十四歳になれる松浦何某とやらんが忰、横の方へ立廻り、己が手に唾を吐きて、之を嘗めさせむとするにぞ、直に抜打に松浦を立派に斬殺し、返す刀に後なるを斬らむとせしかども、松浦が斬倒されしを見ると、其儘大勢の子供等我先に逃行きしかば、如何ともなし難く、とくと松浦に止めを刺し、やうとして家に帰りぬ。「兄は江府勤番の留守なれば、母の前にてしかの由をいひ腹を切るべし」といへるにぞ、「尤もの事なり。人を殺して生くしべき理なし。併し腹の切様心得ありや」と尋ねしに、「心得申す」由答へしかば、「然らば其用意せよ」とて其備を設け切腹なさしめしといオープンアクセス NDLJP:153ふ。此家に召使へる下女・下男の類、事の始末人のよく知れる事なれば、「上へ達して御裁許を受け給へ。命失ふべき事にあらず」とて一統無理に之を止め、其手にすがりしかども更に聞入るゝ事なし。「母子とも流石に士の妻子たり、成長の後には急度上の用に立つべき人なるに惜しき事せし」とて、之を憐まざる者なかりしといふ。又此母といへるは、至つて珍らしき女なりといへり。或時此家の馬を若侍共申合せ借らむといへるを啓助が兄〈此家の嫡子なり。〉之を断りぬ。然るに彼者共其貸さゞるを憤り、大勢党を催し来り、押して理不尽に厩へ到り馬を引出し、大に狼藉に及びぬるにぞ。之を如何に制すれども兼ねて仕組し事にして、愈〻不法募れるより大に怒り、弓矢取つて一々に之を射殺さむと已に大事に及ばむとす。母親其子を制し置き、其矢表をば己が身を以て防ぎ置き、大勢の悪徒と口論をなし、つひ〔〈に脱カ〉〕これ等〔〈を脱カ〉〕屈せしめ押返せしといふ。天晴士の妻なりとて世評高かりしとなり。右啓助に喧嘩を仕懸け逃げ帰りし子供等の親々は、何れも其子供等の御暇を願ひ、悉く勘当せられて、八月中旬皆々浪華に来れりといふ。

伊東修理大夫の分家に、伊藤主膳とて五千石を領する御旗本あり。伊藤主膳の不法下屋敷に於てこれ迄雁・鴨の類を殺生し、密に之を町人共へ売払はれしといふ。元より江戸十里四方は殺生禁制の場所なるに、斯かる不埒の事をなし、後には鉄炮にて打殺すやうになりぬ。或日餌蒔せしに鶴来りて餌に付きしかば、之を鉄炮にて打ちしに、其鶴手負ひながら隣なる寺の庭へ落ちて死せしといふ。伊藤より中間を其寺へ遣し、其鶴渡すべしと権柄に申遣せしに、御法度の鉄炮を以て御法度の鶴を殺し、家来を案内もなく寺中へ踏込ませ、此方より不法を咎めぬるに、権威を以て奪はむとす。重重不法の致方なれば、此旨寺社奉行へ相届くるの由にて、一大事に及ばむとするにぞ、伊藤も今は詮方なく種々之を断りぬ。されども之を聞入れず。されども此事届けらるゝ時は、家に係れる事故に只管に詫しかば「然らば誤り一札を認められよ。夫にて穏便にすべし」といへるにぞ、詮方なくて之を認めしかば、是にて相済し侍らむといへる故、伊藤にて安心してありしに、此寺より右の鶴に彼の一札を添へて、しかの由を訴へ出でぬるにぞ、御吟味になりしが、古今例なき事なれども、是オープンアクセス NDLJP:154にて家をたやす事も不便に思召されしにや。「鶴にてはあるまじ。白鳥を打ちしなるべし」とありしかども、訴人せし坊主より、〈[#底本では直後に「始めかぎ括弧」なし]〉「急度鶴を打ちし事に相違なし」と申募るにぞ、「主膳に於て斯かる不法の事あるべき様なし。定めて家来共の仕業ならむ」と、其罪を軽めむと仰ありしかば、主膳には左様なる由を申しぬれども、家来の中に一人も其罪を引受け、主人を救はむとする者なく、何れも覚えなき由申上ぐるにぞ、其罪逃れ難く播州赤穂の城主森勝蔵へ御預おあづけとなりしが、終に五千石の知行召放され、本家修理大夫へ御預となり、主膳の最後嫡子も何れにか御預なりしが、当人の事故闕所追放となり、二男・三男も同様になりしといふ。元来主膳には善からぬ人と見えて、先年も博奕をなし、其時にも已に家に係る程の事なりしに、家の長臣に忠義の者あつて其罪を引受け、切腹をなして無難に逃れしといふ。斯様の事にて主人に代りし事なれば、表向にては公儀を憚る事ありとも、其妻子を不便を加へ、急度恩を施すべき事なるに、五千石の長臣なれば、定めて百石余も取れる事ならむに、其知行を取上げ、僅か三人扶持にせしといふ。斯かる不仁の人物故、此度主人に代れる者一人もなく、斯かる事に及びしといふ。定めて隣なる寺とも境を共にせし事なれば、常々不法の事ある故、之を幸に訴人せしなるべし。されども出家の所行にあらず。此坊主も姦悪の者なり。悪むべし。此時の落首を聞きしに、

   五千石伊藤は鶴に打込んでこれぞてんぽの元祖なりけり

これ天保元年の事なる故、鉄炮を「てんぽ」と持込みし者なり。修理大夫の人勾ひとかどわかし・主膳の鶴殺、本家といひ分家と云ひ、同年に不法の事を仕出し、天下に大たはけの名を揚げぬる事とて、児女までも之を嘲りぬ。

七月十八日より毛利大膳大夫領中に、百姓一揆起りて大に騒動す。其故を尋ぬるに、毛利領中百姓一揆の由来元来長門・周防両国を領し、至つて勝手向も宣しく、諸侯の中にても斯かる身代のよきは、至つて稀なる程なりしに、近来奢に長じぬるにや。至つて困窮に及びし処より、種々の新法を立てぬる中にも、領中所々に役所を立て、国中の産物何に寄らず悉く価易く買上げて、之を大坂に船にて積上せ売払ふ事になりぬ。斯くの如くなれば、是迄農商の利とせし事は悉く上の益となりて、下々大に困窮に及びぬるオープンアクセス NDLJP:155上に、諸運上の取立多く、其外とみ、又大市とて、福引に等しき大博奕をゆるし、甚しさに至りては穢多に迄、毛利の悪政格式を許し槍を持たせぬる抔、何れも益を取つて免せし事なりといふ。斯かる有様なれば、自ら穢多共の権威を振ふやうになりて、常に町・在に出でて無法の事多しといふ。今年は伊勢へ御蔭参の六十一年目に当り、天下一統の豊作にて、これ全く御蔭故なりとて、百姓一統大に悦び、其最寄もより々々に一群づつ寄り集まりて、御蔭踊をなしぬるに、産物役所・勝手方等にては、今年凶年にて米価尊くならざれば、是迄買入れし産物・米等にては大に損となる事故、何れも凶を祈りぬるが阿武郡の沖に当りてあいをの浦〔藍島カ〕といふ所あり。〈中の関より五里下といふ。〉昔より此処に龍神住し不浄を忌む。此淵へ藁にて蛇の形を作り、牛の生皮を剥ぎ取つて、此二つを沈めぬれば、大荒おほあれに荒れ出でて、大風を吹かせぬるといふ。既に四五ケ年前の九州の大風にも、米を高くせむとて、下関の悪商此事をなせしとて専ら噂せし事なるが、此度は彼の産物掛の役人共相談をなし、七月十八日未だ夜の明けざる中に、此事をなさむとて、万一人に怪まれむ事もあらむかと、数十人供廻にて槍を持たせ駕籠に乗り御供にて出行きぬ。斯かる悪事なれば、誰いふともなく百姓共の耳に入りしかば、何れも大に憤り、宮市といへる所に待伏して之を捕へむとす。斯かる事ありとは、夢にも知らず、大勢の供廻にて出来りしを見ると其儘、打倒し叩き〔てカ〕追散らし、駕籠の中より引出し散々に打擲し、直に縄にて引くゝり荷物の吟味せしに、牛の生皮ありしかば、此者を樹上につり上げつり下し、打叩きて責めしかば、初の程はいはざりしが、後には一々白状に及びぬるにぞ、さらば産物役所は勿論其掛の者共、一々叩き潰すべし。先づこれまで其事に就き頻りに私をなし、不義に富みし庄屋・年寄共より毀ち始むべしとの評定に及ぶ。兼ねて村中に事あらば太鼓を打つべし。之を聞かば直に寄集まるべしとの申合あるにぞ、宮市にて天神山といへるに寄集り、太鼓を打ちしかば、其音を聞くも聞かぬも馳集り、人数三万に余りしといふ。中には庄屋共の制し止めて、従ふ事なき村なども少々はありしかども、従はざるは悉く突殺すべしとて、少々殺されし者もありといふ。斯かる勢なれば一統に申合せ、産物掛に少しにても故ある者は勿論にて、其外是迄米を買占めし者共、一々紙に之をオープンアクセス NDLJP:156記し其道筋の順を立て、夫より三田尻へ出で、城下に到り道々の家を毀ち、道々の村々を従へ行くべしと一決し、掛引多人数故、太鼓にては行届きかぬれば釣鐘にすべし。是も小なるは益なしとて、五六里も隔りし寺に大なる〔衍カ〕鐘のありぬるを借りに行きしに、坊主之を否みしかば散々に打擲し、理不尽に奪来りしとなり。斯くて城下に到り願立の趣五ケ条あり。

一、銘々寒暑の厭なく農業出精し候も、何卒豊作致し、年貢上納滞りなく仕候て、其余を以て親・妻子を養ひ申すべしと存候処、百姓訴願の五箇条凶年を祈り斯様の事を仕出だし候事、天理・人事に相背き申候。これと申すも元来米相場之あり、日々の上げ下げ種々の風説をなし工み偽り多く候へば、是よりして善からぬ事出来致し候故、已来米相場停止の儀御願申上候事。

一、産物役所の儀は、近年迄之なく候処、斯様の新法を立てられ、何に寄らず下々の物悉く下直に御買上に相成り、農商とも一統に困窮に及び候故、役所御引払銘銘勝手に商致し候様の事。

一、とみを免され御領中一統に之あり候て、○とみハ富くじノコト富の為に一統に困窮いたし候故、已来富を停止せられ候事。

一、一統に大市をなし、是にて困窮に及び候故、已来是をも禁ぜられ候事。

一、銀札近年不通用に相成、銀一貫目に札一貫六百目の引替にて、下々大に困窮いたし候故、下地の如く通用にて引替等之あり候様致したき事、

右の趣意を願立にて、宮市にて産物掛りは申すに及ばず、米買占めし者共悉く打毀ち家には悉く柚を入れ、「倒れぬれば怪我人・死人あるべし。家を倒れざる様にすべし」とて、柱々の真にて僅一寸計りづつ伐残し、諸道具は打砕き衣類は引裂き、金銭は池に沈め銀札は焼捨て、夫より三田尻へ出でて悉く其の如くす。斯かる程の事に及びぬれども、悪みぬる人をも殺す事なく、一揆の中より両人目計り出づる頭巾を冠り、其上に深編笠を著て長き棒を持ち、「只今汝が家をこぼちに来りぬれば、老人・小供・病人などあらば、此等に怪我させざる様、早々に立退くべしと触廻りし」といふ。覚ある者は手早く家を明けて逃去りしもあり。此触に驚き逃げ出づるもあり。又オープンアクセス NDLJP:157言訳いひわけをなさむとて、動く事なくて怪我せし者もあり。前以て手早く大事の者を取出し、外へ持行きて預けし者もありしかども、此事露顕に及び其家を打砕きし上にて、預りし人の家をも打砕かむといへるにぞ、皆々大に恐れ預りし品々、何れも大道へ投げ出し其難を逃れしといふ。其余富める家酒屋等には何れも飯を焚き続け一揆に与へ、酒屋は悉く酒を飲尽されしといふ。宮市・三田尻等は繁華の地故、何れも奉行の役所あつて、一人は出でて利害を説き、「願の趣一々聞届け執成し遣すべし」といへ共、奉行の狼狽「是迄毎々産物の事に就きて願出でしか共、追つて沙汰すべしなどとて、一向に其沙汰なく斯様の場に迫れり。急度証文を認め印形を致し、其方之を受合ひ候か。左なきに於て〔〈は脱カ〉〕静まらず」といへるにぞ、詮方なく奉行も逃去りしといふ。一人の奉行は大に恐れ、病気なりとて出でざりしとなり。斯かる有様なれば、始めより追々萩へ注進ありと雖も、一向に役人出来る事なかりしが、漸々にして物頭両人・代官十八人出来りしが、代官の中にて両人少しく才ありしが、林喜八といへる代官、大なる紙に願の筋は一々申立て、御聞届あるやう取計らひ遣すべし。万一相違の筋あつて御聞届之なきに於ては、此方共の屋敷を悉く打砕くべし。其時少しも手向ひせず、聊か申訳なし。何分静るべしとて、大文字に之を記し、又半紙数十枚に其通り書記し、一揆の中へまき散らせしかば是にて静りしといふ。頂上には一揆十万に余り、宮市・三田尻・大野・山口等にて人家多く打砕きぬ。されども余りに人を殺せしはなしといふ。しかし穢多の村々を悉く打砕き、大勢を打殺せしといふ。是迄不法の事多ければなり。五日にしてやう静りしといへる事なれども、八月朔日三田尻を浮べしといへる船の大坂へ著きしが、其頃迄もやはり騒動すとて、木屋伊兵衛方にて語りしといふ。既に昨年も山代とて紙の出づる所あり。芸州との境なるが、此辺にて二郡申合せ一揆をなし、萩へ出で強訴せむとす。是も産物買上にて、下方大に困窮に及びぬる故、之を止めらるゝ様との事なりしが、此処より萩へ出づる迄に、分家の徳山侯の城下を通りぬる故、徳山にて之を押へ、「願の趣取次いで遣すべければ、これより引取るべし」とて、城下の寺々へ止宿せしめ、馳走して返されしといふ。其願聞届ありしとも、なしとも、頓と沙汰なしと雖も、此二郡にあオープンアクセス NDLJP:158る所の産物役所には、其後役人一人も詰むる者なくて、其後は勝手に此二郡とも商せしといへり。小笠原侯宿泊に窮す宮市騒動の最中に、唐津の小笠原、交代にて此宿泊しゆくどまりに入込まれしかども、大家は毀たれ、毀たれざるは一揆の仕出しをなして、一軒も宿する家なく、又人足に出づる者一人もあらざれば、拠なくて跡の宿迄引返されしといへり。

右一件は、御霊筋淡路町屋敷の九郎兵衛といへる者、九州・中国等へ商をなし、掛を取りに到りしが、九州を先にして帰路防長の掛を集めむと思ひしに、帰には右の騒動にて詮方なく、下の関より船に乗りて、掛をも得取らで帰りしとて此事を語りしと、玉水町奈良屋作兵衛といへる酒屋心斎橋筋南久太郎町木屋伊兵衛とて諸道具を商ふ者共、何れも彼地の商を専らになしぬる故、彼方より来れる者多し。これがいへるを聞取つて記し置きぬ。毛利も旧家にて、元就に至りて十余州を切従へ、中国に威を振へる故、其余風家に残りて、近頃家名を墜さゞりしに、斯かる苛政に依りて百姓の一揆起り、大に恥をさらしぬるに至る。笑ふべし。

八月下旬、彼地の船頭登坂にて、政事当職の家老毛利蔵主を始め、諸役人悉く退役申付けられ、家老益田播磨当職となる。牛皮を沈めむとせし発頭人三人、網駕籠にて城下へ引かれ、相場・富・大市も停止となり、銀札も相当の通用となりしといふ。此度の一揆起りし発端は、毛利蔵主の退役周防の吉敷郡にて、則ち毛利蔵主が領分なりといふ。幸に候在国なりしかば、速に埓明きしとなり。

八月十日頃、長州の内徳須千崎等に一揆起り、これも同様の願なりといふ。此所紙を拵ふる所なりとぞ。所々の一揆同廿日頃より三田尻より廿余里上にて、芸州境なる大島といへる所蜂起すといふ。此内にても久賀・小松などいへる所は、木綿多く出せる所の由、一揆せし趣意は何れも同様の事なりといふ。

 右一揆の始末、事長ければくはしくは別記とす。

豊前小倉十月に大霰降り、掛目十二三匁ありといふ。小倉の大霰

出羽にては福俵降りしといふ。〈福俵とは如何なる物とも分りがたし。穂たはらの事ならむか。定めてくにことばならむ。〉出羽の福俵

押小路大外記殿、洛外に於て四町四面の地面を得。〈地震記にくはしく其訳を記す。〉

西本願寺改革と称し、不正の山子を工み数万の金銀・財宝を得たり。悪むべし。本願寺の不正

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板坂卜斎物語といふ物にいはく、九月朔〈慶長五年。〉西の丸御隠居曲輪へ御出候石川日向守家成、「今日は西塞がり悪日に候。御合戦の御首途おんかどで如何」と申上候へば、「西を治部少塞ぎ候間、今日明けに参り候」と御意、家康悪日を忌まず其晩神奈川・二日藤沢・三日小田原云々といへり。是は関ケ原の御出陣の事なり。此書は板坂卜斎宗高といふ人、東照神祖君に仕へ奉りて、明暮記せる書なり。卜斎が後は今も尚板坂卜斎といひて、我が紀の殿人にてあるなり。

又同書に、家康の侍になせる教訓大御所様、小身なる侍共に常々御教訓には云に、「昔よりの譬に犬に三年人一代、人に三年犬一代と申候。犬なりときたなくいはれ、三年しまついたし候へば奉公もなり、傍輩に無心も謂はず、一代人倫のまじはりにて通り申候。酒宴好み振舞ずき致し、むざとつかひ崩し候へば、三年はさて欲心なき奇麗なる人やと誉め候へども、軈てすり切り人馬も持得ず、人の物を借りて返さず、出陣の供も成り兼ね、一代世間に犬畜〔〈生脱カ〉〕といやしめ笑はれ候。之を人に三年犬一代と申候。常々酒飲み料理ずきいたし、武道をわきへ致し候輩は、犬畜生同前なりと申す譬なり」と、常々仰せられ候。

 右、伊勢国本居宣長が著はせし玉勝間といへる文の中に、引けるを書抜きぬ。

 
                                        
 

朝廷祖廟の事清和之節御座候処、益〻御多勝可御座賀候。然者無拠内々心得置度見合之儀有之候而、別紙之件々御手筋御座候はゞ、御聞合者相成申間敷哉申試候。外に京辺之故人も無之候に付不止申上候。定而禁秘之御事に候哉。又々一向御菩提捌所にて相済候事哉。此処承度候。何卒宜敷希上候。早々頓首拝。

一、本朝祖祭之式、若何成いかなる書に出候哉。

一、禁中に者御祠廟有之者に候哉。

一、七廟之神主御祭有之候ものに候哉。

一、七世御以上之神主者桃廟に被遷、七世之考妣主にて十四膳之御進饌有之候哉。又者百二十代之神主考妣主にて御一膳づつなれば、二百四十膳被献候オープンアクセス NDLJP:160哉、是者中々御間処も煩敷と疑惑致候。何れ御桃廟か又者寄位牌など様之御法制有候哉。

一、又者一向泉涌寺・般舟寺〈此寺は不承候得共、御位牌所の由承候。何れに御座候哉。〉|などへ御任被置、当時にては御祠堂も無之者に候哉。又泉涌寺等にて孟蘭盆等之節、右二百四十膳奉進饌候哉。御祔位共に三四百も奉献候哉。

 右之次第、内々にて御聞繕筋相成候はゞ、忝仕合に御座候事。

   四月二日                 野口市郎右衛門

      山路恭保様

、本朝祖祭之式若何なる書に出哉事。

伊勢大神宮四度幣儀、延暦儀式帳・儀式・延喜式以下諸書註

六月・十二月等神今食儀

一代一度大嘗祭儀

十一日神嘗祭儀

 以上、儀式・延喜式・西宮記北・山抄・江家次第、以下諸書註之。

内侍所御神楽儀

 江家次第・雲図抄以下諸書註

賀茂祭儀

 儀式・延喜式・西宮記・江家次第以下諸書註之。

同臨時祭儀

 政事要略・西宮記・北山抄・江家次第・年中行事秘抄以下諸書註之。

石清水臨時祭儀

 江家次第・年中行事抄以下諸書註之。

同放生会儀

 年中行事・諸家私記等註之。

此外臨時三社奉幣・宇佐宮・香椎廟奉幣儀等事、諸書ニ散見ス。臨時山陵使亦同

国忌儀、歴代廃置不同。

オープンアクセス NDLJP:161 延喜式・西宮記・北山抄・江家次第以下諸書註之。

荷前儀

 儀式・延喜式・西宮記・北山抄・江家次第以下註之。

、禁中ニハ御祠廟有之モノニ哉之事。

内侍所ニ神鏡ヲ祀ラレ候外、御祠廟之類無之。

、七廟ノ神主事及七世以上之神主御饌等事。

一条禅閤兼良記云、今案、天子七廟、或有九廟之説。故陽成天皇以前、或八廟、或七廟、其数不定。然光孝以来定為九廟。其中以天智太祖廟。蓋天武・天智皆舒明之子。然文武至廃帝天武之裔即位、天智之流如絶。爰光仁天皇為田原之皇子、而因群臣推戴帝祚。於爰天智之流勃興。加之天智天皇始制法令。謂之近江朝廷之令。天下百世因准之。爾来至今皆天智之一流、而為太祖不遷之廟、豈不可乎。又光仁已為中興之主。故為第二世。桓武創平安京、故為三世。光仁・桓武比周之七廟文世室・武世室。所謂劉子駿九廟之説也。其余随世互有廃置。然而仁明・光孝・醍醐、其徳蓋天下毀去。是以、後世聖君遺詔不山陸国忌。其意者不七廟故也。但三女主猶可之。鳥羽炎子毀穏子之国忌、寛元通子去安子之国忌者也。又按、履脱為上皇則不国忌。又有遺詔

右兼良公説、本朝制粗〻如此。但廟ノ字・毀ノ字等ハ、唯漢土ノ文ニ従テ被註タル也。其実ハ廟ハ無之、山陵ヲ祀ラルヽ也。〈山陵ヲ毀ツ事、元ヨリコレナシ〉年終ニ荷前ノ幣ヲ奉ラレ、国忌ヲ置ルヽ分ヲサシテ、七廟トモ九廟トモ称シ奉ラレタル也。

中古以来何レノ帝モ遺詔アリテ、国忌・山陵ヲ止メラル。仍而仏家ノ法ニ従テ寺院ニ奉葬リ、神主ハ各〻其寺院ニ安置シ供養シ奉ル也。

有徳ノ帝ハ別ニ神祠ヲ建テ崇奉ラル。是ハ元ヨリ百世不遷ノ廟ニテ、所謂九廟等ノ外也。

御饌ヲ供スル事、神祠ニ崇奉ラルヽハ、各〻其祠官是ヲ供シ奉ル。寺院ニ葬奉ラルヽハ其寺僧供進ス。山陵ノミ有ルハ別ニ御饌ヲ供進スル事ナシ。往古ヨリ如此。

オープンアクセス NDLJP:162、孟蘭盆会之事。

本朝ノ古例、盆供ヲ寺院ニ送リ、仏ニ供養シテ祖先ノ冥福ヲ祈ル也。祖先ニ饌ヲ供スル儀ニハ非ズ。仏家ノ本説モ即如此。

孟蘭盆会経、〈取要註之。〉

七月十五日、当七代父母・現在父母厄難中、具百味五果、以著盆中、供養十方大徳。仏勅衆僧、皆為施主咒願七代父母、行禅定意、然後受食。是時目連母、得一劫餓鬼之苦〈[#底本では「劫」の直後に返り点「一」あり]〉

近世中元ニ祖先ニ饌ヲ供シテ祭ルヿ、時俗ノ流風ニテ仏説ニモ非ズ、本朝ノ古例ニモアラズ。十二月晦日ニ亡魂ノ来ルトテ祭ル事、仮名ノ抄等ニ多ク所見アリ。 〈報恩経ニ見ル由也。可之。〉中元ノ頃亡魂ノ来ルコト、正シキ古書ニハ所見無之。〈後世偽作ノ書所々ハ往古ヨリ此事ノアル由註セルモアレドモ猥ニ信ズベキニ非ズ。〉当時般舟三昧院・泉涌寺等ニテ孟蘭盆ノ時、御歴代ノ神主ニ御饌ヲ供スル事有之哉否不之。若シ是アリトモ、時俗ニ従ヘル寺僧ノ私意ヨリ出デ、本朝ノ制度ニハ非ルベシ。但各〻其家々ニテ、父祖ヨリ如此祭リ来レル事アラバ、今廃スベシト云フニハ非ズ。祖宗ノ法ニ従テ可也。

、般舟三昧院事。

元伏見里指月ニアリ。後土御門院、文明年中御建立アリテ御内仏ヲ安置セラル。其後天正年中、秀吉公城ヲ伏見ニ築ク時、コレヲ京師ニ移ス。御歴代ノ神主アリテ、専ラ追福ノ法事ヲ修セリ。 以上

一翰致啓上候。秋冷相催候処御全家被揃、愈〻御壮栄被御入珍重奉存候。先達而者被御念候御書中、殊一種被贈下御丁寧之御儀、忝御蔭向申候。将又御知音之方ゟ被御頼之由、本朝祖祭式之儀取調進上いたし候様承知仕候。早速可申入之処、頼置候方彼此隙取、其上拙家愚孫久々不相勝取紛、大に及遅引候。御宥恕可下候。則此度別紙進上いたし候。御落手可下候。右乍延引貴答迄如此に御座候。恐惶謹言。

オープンアクセス NDLJP:163  八月三十日                富島左近将監

    小山三蔵様

祖祭式勘物之事、儒家にても委敷難相分、寺島俊平ゟ堂上竹屋正四位下右兵衛佐光様朝臣へ御頼申入御認被下候。御菓子様之品にても進上申候方に候はゞ、猶又跡ゟ可申入候間御心得置可下候。以上。

                                 左将監

 三蔵様

右野口市郎右衛門ゟ被相頼候候付新見留守居小山三蔵を相頼み、同人妻之伯父鷹司殿諸太夫富島左近将監ゟ相調呉候也。

 
                                        
 

長寿者松平伊豆守殿御領分三州井戸郡小塚村百姓万平〈二百七十五歳。慶長七年の生。〉 〈〔頭書〕前にいへる三代将軍家光公御上洛の節、御馬の口取せしといへるは此万平が事なりといふ。慶長七年の生とあれば二百三十歳なり。二百七十五歳といへるは如何。〉

此度有姫様御下向御供被仰付。右有姫様御事鷹司様之御姫君にて、御歳六歳に被成、此度西御丸へ御輿入、九月十五日御著府。西御丸へ先年有栖川様姫君様御輿入之節、右万平御供仕御吉例を以、此度も御供被仰付候由承申候。

八十ケ年已前に御先代様御遠忌之節、右万平白髪を截り奉差上候。従公儀高三十石被下置、此度二十石増、都合五十石之頂戴に可相成噂に御座候。

旅宿へ折々罷越候伝右衛門と申す者、伊豆守様御屋敷へ罷出、右万平を見受候趣、同人より直に承り申候。

右は勝山町和泉屋才右衛門忰善二郎と申す者、公事差添人にて出府いたし、其者より勝山へ申遣し候書付の写なり。

 
                                        
 
前にもいへる如く東本願寺焼失に付、公儀より右材木を尾張の領内にて、御寄附あるにぞ、尾張は素より東門徒のみの所なれば、本山の事とさへいへば、命をも惜まざる輩なれば、百姓・猟師の分ちなく何れも力を尽し、銘々其業を捨てゝ力を尽し、嶮難の場を材木を伐つて浜手迄引出す。此事容易にはなり難き事なりといふ。然るオープンアクセス NDLJP:164に右材木一本も京都へは上す事なく、尾州の役人と本願寺家老下津間と申合せ、江戸に廻して悉く其材木を売払ひ、其価を二つ分にして各〻之を取込みしといふ。尾州の者共本山参ほんざんまゐきをなして見れども、東本願寺家老の不法大層にこれまで積出せし材木、一本も上れる事なきにぞ、之を不審に思ひしかば、其吟味をなせしかば、忽ち右の悪事露顕せしかば、大に憤り、「銘々家業を捨てゝ、親・妻子をも苦労せしめ、血の涙汗を流して体をも厭ふ事なく働をなして、聊も本山の為になる事なく、斯かる不埒の致方其儘になし捨置き難し」とて、一統申合せ尾張の役人を申受けむといふ。又本山へも大勢上りて、「下津間を申受しべし。斯かる事に及びぬれば東派に心なし。是より西門徒になるべし」とて、大に騒動するに至る。玆に於て下津間を召捕り吟味せしに、其事明白に相分りぬる上に、先年材木に火を付けて焼きたるも此者の業にして、下地に余れる程材木を取集め、是にて大に金を私し、又もや此度の事に及ばむとて火付せしといふ重罪の事なり。辰二月下旬には、門跡江戸へ拝礼に下るとて専ら其用意をなせしに、斯かる騒動に至りし故、其事を止め病気なりとて引籠る。下向といへるにぞ、江戸よりも講中の者共大勢迎に来り、大坂近国よりも大勢供せんとて上りしに、斯かる事なれば何れもすごと帰りぬ。又門跡下向に付きて、江戸に於て公儀は申すに及ばず、諸家へ献る土産物仰山の事なれば、諸商人共、本願寺諸役人共へ種種賂をなして頼み込み、種々の土産物受合ひ、夫々に仕込みて前以て江戸へ下せしに、下向止めになりしかば、此者共皆々損となりて、大勢の者共一銭をも得る事なく、雑用にたふれぬる中にも、菓子屋には百貫目余の菓子を注文せられ、前以て江戸へ下し置きしに変改せられ、忽ち身の置所なき様になりしといふ。これ全く生如来の御慈悲心によれる事なり。又西本願寺にては、斯くの如く同流の東本願寺難渋に及び、西本願寺の陋劣尾州の門徒共の志を動かしぬる所へ附込み、法談をよくするちよんがれ坊主共を大勢尾州へ下し、之を引入れむとす。誠に悪むべき事にして、凡俗の悪商にも劣れる振舞といふべし。


 
 
 

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