浮世の有様/2/分冊1
古より天変地妖あり。其数多くして其災も亦大なりと雖も、
清和帝貞観五年六月、大地〔震〕、翌年五月富士山焼く。
東山院宝永四年大地震、同十一月富士山焼く。近世に至りても、浅間・島原・象瀉・北越等の変、何れ地震せざるはなし。され共是等は皆王城を去る事遠き国々なり。王城の地にして斯かる変のありしは、人皇五十代桓武天皇遷都より九代の帝、光孝天皇仁和二年七月二日大地震打続き、【鬼】中旬の頃には、洛中に鬼出でて人を取喰つて、七月一ケ月地震ゆり続き、晦日に至り大風吹きて、八月朔日より漸々穏になりしといふ。
此鬼は、目・口鼻・耳の類、悪くき相の数を尽し、之に加ふるに角を以てして、画きなせる鬼にてはなし。大江山・伊吹山・戸隠山の鬼といへるに同じうて、何れも其節に暴悪をなせる盗賊の事なり、怪む事なかるべし。又前太平記に、源頼光を悩ませしといへる土蜘蛛も、盗賊の事なり。頼光は其頃の武将なれども、昔は今の如くに大勢の臣下附纏ふ事にてもなく、事ある時は将軍一騎駈けをなし、平日
其後も地震度々有りし事なれ共、よく人々の知りぬるは、太閤秀吉公の伏見桃山の城に居給ひし時、大地震にて所々大いに崩れ、関白には門の扉をはづし、この上に坐して、
寛政十年六月、【薙刀鉾折る】祇園祭の節、故無くして薙刀・鉾途中より折れぬ。山鉾の多き中にても、此鉾は取分け故有る事にて、是を引き出さゞる内には、余の鉾を引行く事成りがたき事なり。故に人々多くは心にかゝりぬる由なりしが、其年の七月二日申の刻、雷火にて大仏の焼失せしに、今年其年より三十三年に当りて、又祇園祭に其鉾の故もなくして、松原通りを引行く時、途中より折散りしが、七月二日に至り、月日刻限迄も変る事なくして、かゝる大変ある事、これ只事にあらず、大仏の祟れるにや。伊勢の別宮炎上せしも、かゝる前表を知らしめ給ひしにやなどと、種々の風説なり。
【内侍所の穢】浪華江戸堀一丁目中筋屋藤兵衛母は、京都の産れなる七十になれる母親の、近き頃より病にかゝりて臥しぬるに、二日の大変を聞き、心ならずとて、四日より京都へ上り、廿日に帰り来りしが、これが京都にて聞き来りしは、何か内侍所に穢れし事ありし故、普請新たに建替へしに、阿弥陀寺村藪の中を伐墾き、其土を取つて新たに清き土に仕かへしに、阿弥陀寺村といへるは、元来阿弥陀寺といへる寺【 NDLJP:11】これ有り、其藪は古へ墓地なりしとぞ。かゝる所なれば、五輪など掘出せるに、これを隠くして其土を入れし故、其祟ならんとて、今度新に上賀茂の河原より、土を運べる事なりとぞ。其真偽は知らざれども、聞きしまゝを記し置きぬ。
此日四条通り、【不思議の難を免がる】烏丸東へ入る薙刀・鉾の町にては、祭礼の節の物入の算用をなさんとて、鉾を預れる家に町人中集りて、其算用をなし、酒など飲みて居たりしが、今少しにて算用片付きぬる事なれども、此日は別けて暑さの堪へがたきに、各〻酒を飲みし事なれば、愈〻暑さの堪へがたければ、何れも「湯あみして来るべし。然かして夕飯をもたべ、夫より仕残りの算用をなすべし。夜に入らば少しは風も出て、冷しくなりて宜しかるべし」とて、各〻其家々に帰り、未だ湯あみをもせで有りぬる内に、右の大地震にて、薙刀・鉾の入りし蔵一番に崩倒る。若し何れも今暫く此処にあらば、一人も無事なる人はあるまじきに、何れも幸にして此難をのがれぬと云へり。〈こは賀茂丹後が旅宿とは、家四軒目に当る家の蔵の此蔵、三軒目の家へ倒れかゝり、三軒目の蔵は隣家に倒れかゝり、丹後も大いに狼狽せしとて、其有様を委しく同人よりきゝめ。町人共此蔵の中にて、算用してありしといふ。鉾の道具悉く微塵にくだけしといふ。〉かゝる大変なれば、宗廟の回禄、薙刀・鉾の折れしなど、其前表なきにしもあらず、と覚ゆれども、大仏の崇りに至つては、取るに足らざる愚昧の説と思はる。されども当時の様を委しく書残さんと思へる故に、かゝる用なき事迄も書附けぬ。かゝる大変に遭ひて死ぬも生くるも、其人々の運・不運にはあれ共、常に心落著きて、かゝる変に遭ふとも狼狽する事なくば、心神明らかにして、両眼よく物を分ち、これを避くるの道あるべし。縦令これらが為めに命を失ふ事ありとも、精神落著きて、狼狽する事なくば、見苦しく取乱す程には至るまじくと覚ゆるぞかし。後世語り伝へて人々の心得となすべし。されども此書は世間へは忌み憚る事をも記しぬれば、必ずしも他見する事なかるべし。
一、初めに京都よりの書状を一々に記しぬるも、これを照らし覧ば、自ら地震の有様を知るに足ればなり。亦其文面にて、人々の剛臆も顕れ、自然と心得べき事もありて、これを証せんと思へばなり。
一、文の中にも、門徒坊主が常住不変の浄土を思へるなど、心にもあらぬ嘘を殊勝【 NDLJP:12】らしく云越せるに、法華坊主が地震の
一、本文の中に、予が聞ける事をも委しく記し置きぬ。これもそれも、より〳〵にて確なる人に聞きて、少しも疑はしき事にはあらず。
一、亀山には親類多く、自ら人の往来も多き故、これも委しく記し置きぬ。其外所所の変ありしも、其国々の人に逢うて慥なる事のみを記す。
一、本文に云へる如く、所司代の一騎がけなりしは、よき心掛にて、さもあるべき事なり。大勢の家来一人もつゞく事なく、大うろたへなりし事を、京童の物笑ひとはなりぬ。夫れ士たる者は、常に忠義を事として、治に居て乱を忘るゝ事なく、文武に心身を練磨せば、事に臨んで狼狽する事はあるべからず。七万石の家中に、主を大切と思ひ、これに附添ふ人一人もなかりし事、恥づべき事にあらずや。これらを聞くに附けても、士たる者はよく〳〵心得べき事なり。
一、浅間焼・島原崩れ・北越の地震等、別記あり。是等と
一、享保の浪華・天明の京都・江戸の文政の回禄等、別に記録あり。是等も常に心得て置くべし。
京都の大変
一、【京都の大火】夜前八つ時ゟ、四条麩屋町南西角より出火、西へ四軒計り、東へ三四軒移り、東北風強く、麩屋町通り南へ焼広がり、両側共一丁計り焼失、五つ時火鎮まり申候。
七月朔日 京飛脚 大七
同地震
一、当月二日未刻ゟ発、一既に洛外伏見街道町続近在、人家・土蔵崩れ、怪我人数不㆑知、市中一統、往来又は地面広き所へ、板・畳等敷き、油火多く持難く行灯・提灯等にて明【 NDLJP:13】かしを取り、日覆・雨具掛け凌ぎ、飯事休候事六ケ敷候。東西本願寺、其外寺社大損じ、御所堺町御門ゆりくづれ、五条橋詰半丁余り大崩れ、誠に大騒動、荒増書記申候。
右之通京都より申来り候。已上。
七月四日 同
一、昨二日七つ時ゟ大地震にて、夜九つ過迄相止み不㆑申、尤諸商売勤まり難く、家々畳抔大道へ出し、大に騒候趣、只今京都より申来候。右に付飛脚方下り、諸用向今日は無㆑之、此段御断申上候。
京飛脚 小和田屋利衛門
一、伏見街道は、【伏見の地震】京橋乗場辺家損候趣。夫より海道板橋辺ゟ上、所々之家倒れ有㆑之。黒門上町五六軒損有㆑之、小児一人知れ不㆑申由、一の橋より上、大仏正面迄、人家多倒れ、此内十七八歳の娘一人即死。五条橋東詰北がは焼餅や倒れ、怪我人有㆑之。是より寺町三条ゟ上、猶急に有㆑之由、寺々の塀門損じ多く、三条蹴上げ十七八軒倒れ、此内老人即死、八坂塔倒れ、猶又両御堂様少々損じ、並に仏光寺様同断。烏丸松原西北角両三軒倒れ、丹州亀山様御火の見大に損じ、醒井わつたや町浄土寺倒れ、七条御花畑半丁計りしをれ、今夕に至り未だ少々宛地震の気あり、老若男女にかゝはらず、大道に日覆致し、野宿同様。尤牛馬往来無㆑之、死人之儀も多く有㆑之趣に候へ共、未だ委しく相分り不㆑申候。猶委敷事は追々相知れ申候。先荒増右之通書付、御覧に入申候。
七月四日 小和田屋利衛門
一、【京都の地震】京都昨四日に至てもゆり止み不㆑申由、尤夜四つ時迄同断。伏見表、又々昨四日両度大にゆり、大地ひゞきわれ申候由、申来候。
七月五日 同
一、当地之地震毎度預㆓御尋㆒忝奉㆑存候。当二日申刻ゟ西刻迄に、大地震四度来り、諸方の土蔵一軒も不㆑残及㆓頽破㆒、家建も大損じ、中々家内に居候事出来不㆑申、皆々大道【 NDLJP:14】に日覆致し、二日夜より大道へ出、休息致候処、三日・四日も両日に大地震凡十四度も参り、大騒動前代未聞之事に御座候。今日抔も大分震ひ、七つ時分治り候模様也。併附合中には、怪我人等も無㆓御座㆒候間、此段御安心可㆑被㆑成候。承り候処、一条堀川には蕎麦屋堀川に崩入り、客人六人即死、清水舞台前参詣人過分死失、其外所々にて死去之輩御座候由也。委敷儀は追々可㆓申上㆒候。
七月五日 林鷹治郎
御翰忝奉㆓拝見㆒候、如㆓貴命㆒未残暑強候処、倍〻御壮健可㆑被㆑成㆓御座㆒之由、奉㆓雀躍㆒候。然者近火の儀に及㆓御聞㆒、尚又二日ゟ大地震の変動、当地別て強く有㆑之、御見舞として御深切御尋、忝仕合に奉㆑存候。追々御聞の通、大変驚入申候。乍㆑併三十九年以前島原崩の節、下拙廿二才罷成候故、能存居申候。其節の模様に能似たる事にて、数日に及び可㆑申考、次第軽く相成儀と奉㆑存候処、是迄は考通り、今六日迄も少々宛、かすかに三五度有㆑之候。只今模様に候はゞ、安心に至候哉と、皆々申居、町家さま〴〵風評仕候て不穏候。御察可㆑被㆑下候。兼々御無音仕候て、時々御尋不㆓申上㆒、失礼御用捨可㆑被㆑下候。何角万端過書町方御世話罷成、何分宜敷奉㆓願上㆒候。右御答御礼旁〻早々以上。
七月六日 四条東洞院旅宿 賀茂丹後
四日出の御文、六日に相とゞき、有がたく拝しけり。仰の如く当年は残暑つよくおはしまし候得共、いよ〳〵御両所様にも御きげんよく御便り承り、山々悦び入けり。次に此方皆々無事に相くらし居申候。憚ながら御きもじやすく思召可㆑被㆑下候。扨又二日の地震の儀は、御地にても珍らしきやう仰下され、当地はけしからぬ大変にて、私方借家も甚だそんじ、心配仕候。町内にても家三げんたふれ、五条にても二けんたふれ、其外家たふれ申候事おびたゞしき御事にて、即死人先々四五十人計りは御座候よし、今に〳〵毎日少々づつゆり、心ならぬ御事に御座候。尤家・蔵のつぶれ申候事は、筆紙につくしがたく、尚々跡ゟ、又々くはしく申上けり。【 NDLJP:15】千切屋への御文さつそくに相とゞけ申上けり。申上度御事はたくさんに御座候得共、何か取込、まづは御礼御返事かた〴〵申上度、筆末ながら、恭衛様へも御申上下され候やう願上けり。先はあら〳〵めで度かりし。
七月八日 伏見街道五条上森下町 津国屋 さい
御文下され、有がたく存上りし。如仰暑さつよくおはしまし候得共、どなた様にも御きげんよく入らせられ、【○慮もじハ慮外、しんもじハ親切ノ意】御めでたくぞんじ上けり。此方みな〳〵ぶじに暮し居申候間、慮もじながら、御心易思召下さるべく候。さやうに候得ば、二日七つ時の大地しんにて、家々所々そんじ、又々けが人もたんと〳〵御座候得共、此かたの辺は、けがもなく、悦入けり。御しんもじに御尋ね下され、かたじけなく悦入けり。あなた様にも、定めし御おどろき可㆑被㆑成と存上りけり。しかし御けがもなく悦入けり。御無沙汰のだん、幾重にも御免るし下され候やう願上けり。先は御礼御返事まで申上けり。めで度かりし。
文月十日 左門前 千切屋まちゟ
京都出火
一、【出火】九日夜四つ時、寺町頭鞍馬口下小家ゟ出火、四つ半時火鎮り申候。同暁七つ半時頃、新町一条下る有栖川宮様御役人
七月十一日 小和田屋利衛門
尚々彦根一向々々中地しんにて、何のあたりなきよし申参候。御同前に歓入まゐらせ候。大津も京都よりは、かろく候よし申候。
両度の御文のやう忝さ、御申のごとく残暑つよく候処、其御程、御揃ひ何の御障りなく、めで度ぞんじ上候。土用中御見舞申入候御返事、ことに其御元ゟも、うるか沢山に送り下され、忝く、長々と賞翫たのしみ可㆑申やう忝存候。扨は去る二日の大【 NDLJP:16】地震、其御地はかろく御座候よし、安心いたし候。当地のやうす、追々御きゝ御案被㆑下候よし、やま〳〵忝存候。誠に前代未聞の御事、はなしにもきゝ申さぬおそろしさ、中々筆におよびがたし。まづ御所方・堂上方・二条の城、すべて御築地廻り、土蔵は大かたそんじ不㆑申はなくて、けが人・死人おびたゞしく、おひ〳〵いろ〳〵あはれなる咄ども承り候。此方家内中一人もけがなく、お竹方・お久方・其外えんるゐ中、無事に候まゝ、御安堵可㆑給候。此方家もゆがみ、かはらおびたゞ敷ちり、天井など落懸かり、土蔵はかべ両方へひゞき落懸かり候ゆゑ、土落させ、まづ怪我の出来ぬ用心いたさせ候。職人手伝等やとひ申事一向出来がたく、是にはこまり入申候。蔵の内の諸道具、みな〳〵座敷へはこび出置き、あつさのせつさん〴〵困り入りたるものに御座候。其上大地震のち昼夜幾度となく、日々どろ〳〵ゆさ〳〵、二三日は何十遍と申ほどゆり申候。中々家の内に居候事あぶなく、屋敷内にあき地の有所は畳敷き、雲天井の所へ出居、夜を明し申候。町家など、町内の中などへ畳敷き、むかひ側ゟ細引はり、すだれ・のれん、夜分は蚊帳つり、家々のまへに野宿いたし候。町々の高張挑灯、家々のちやうちん夥しくとぼし、長さ一丁・二丁も続き、夫は美事にて、船のやうにみえ候よし、町内のせまき所は、近所の広き所、又は河原へ出かけ、家内ふ
文月九日したゝめ 鷹司殿諸大夫宅は寺町御門之内也富島左近将監
愚子岩二郎・お竹・おひさへも御加筆のやう忝、申聞せ可㆑申候。此方浪江へわけて御そへ筆のやう忝、まづ〳〵両人共無事に、此間の地震も、折節小児湯をつかひかけ申候処にて、大に〳〵びつくり、我等と両人にて小児かゝへ、裏の栗の木の根へ立退き、玄関前広く御座候ゆへ、二夜計りは玄関前にて暮し申候。恐ろし〳〵地獄遠きにあらず。余り長寿も入らぬもの、家も蔵もとんと当てにならぬ世の中に御座候。此節町々諸商売共止、にげ仕度のみに御座候。
尚々時期残暑御いとひ専一に奉㆑存候。如何成宿世の因縁乎、年寄去年より度々の大難、此度は別而気落いたされ候てをられ候。皆様へ宜敷数御伝可㆑被㆑下候。
口上
五月は罷出、不㆓相変㆒御信心の御世話、辱奉㆑存候。御母様へ御厚礼被㆑為㆓申上㆒可被下度、御召使の御女中へも宜敷御礼頼上候。残暑強く御座候得共、御母様始、貴公様御安全、可㆑被㆑成㆓御暮㆒、珍重の御儀に奉㆑存候。松栄様別紙同様宜敷頼上候。貫主ゟ宜申上候様被㆓申付㆒候。此地七月二日未之下刻・申之上刻地震にて、東西七間半・南北七間之台所、西へ三尺程傾き、内之諸道具不㆑残取出、戸・障子はづし置候。二間半に二間の院代部屋つぶれ、瀬戸物類・茶漬茶碗・菓子椀・膳・椀の類破損仕り、庵者住居と雪隠二ヶ所潰れ、諸道具・小棟迄不㆑残破損、井桁外へくへ、井中もくへ候哉、水大に濁り、二日之夜は朝迄一寸も寝ず、高張表へ四本、裏へ二本立て、三・四・五日・今六日迄、小地震打続き、漸今日は納候様に被㆑存候。無㆓怪我㆒、御休意可㆑被㆑下候。此後諸堂の修復再建、御見知之通無㆓檀家㆒、御朱印は居所計り、末寺は音妙庵・元政寺等之無檀地、掛る島もなき難渋に御座候。
一、此度は長崎へ唐船が四艘程も著船之由、毛せんなど若下直に候はゞ、二枚御寄附頼上度、色は何にてもよし、無地にてもよし、花色なぞもやう御座候てもよろし【 NDLJP:18】く、胡椒も少々頼上候。御母様松栄様に御相談可㆑被㆑下候、頼上候。早々以上。
七月六日 伏見深草 宝塔寺日旺代筆
【京都諸所の損害】一、御所御殿廻り少々損じ候由、堺町御門崩れ、鷹司様・九条様・其外御公家様方、塀大損じ、御殿廻は聞不㆑申候。二条御城石垣崩れ、東大手門崩れ、南手之中程にて石垣一尺計下り、四方之塀は皆々壁落ち御城内相見え、御所司・両御奉行所大損じ、獄屋敷獄家の壁落ち、科人見ゑ申候。北野天神鳥居落ち、奇妙成は、中程にて上之石留り有候。今一つ奇妙は、廻廊之内少も損不㆑申候。其外瑪瑙之灯籠抔崩れ、西六条御殿廻大損じ、狩野家抔之結構成襖・上段之間抔之画も皆破れ、大台所大損、雑物入之蔵崩れ、本堂五寸こけ候由に申候。興正寺様塀崩れ、対面所崩れ、其外所々損じ、東六条は元ゟ焼地にて少之事、乍併枳殻御殿塀倒れ、御殿廻り大損じ之由、大仏殿誠に大き成塀之下之石こけ出で、耳塚上は落ち、台はゆがみ候。五条橋下辺大損じ、半丁計家崩れ、洛中・洛外蔵は不㆑残、偶〻残る所之蔵は、壁割れて何之間にも合不㆑申候。町家崩れ候処は数不㆑知、けが人数不㆑知、死人凡百人計と申事に御座候。其外
上様にも、御所之内之広場へ、御出被㆑遊候由、是は人の風聞に御座候。
孫七 肥前屋
華墨被㆑下、辱拝見仕候。然者当方大変に付、早速御尋被㆑下候段、御深切之程忝奉㆑存候。先以御本山様御別条無㆓御座㆒候段、難㆑有奉㆑存候。乍㆑併御真影を御守護にて、御【 NDLJP:19】門跡様三日三夜之間、御白砂に被㆑為㆑入候段、実に前代未聞之儀奉㆓恐入㆒候事に御座候。尤御殿廻りは、余程の御破損に御座候得共、先以て両御堂は御別条無㆓御座㆒候。扨又拙方之儀は、乍㆓両人㆒無㆓別条㆒候得共、拙は胸痛之病性故、大に動じこまり入罷在候。乍㆑併今日は少々宜き方にて御座候。尤今以てやはり一時々々には少づつ地震にて、昼夜に十二三遍は鳴動いたし申候に付、扨々不安心の物に御座候。大に病性にこたへ申候。娑婆と申所は、扨々不定のさかひにて御座候。早く常住不変の浄土へ参り度き者に御座候。か様の時は深く御慈悲を喜び能在候。扨両人も帰るなと被㆓仰付㆒候段、御同慶被㆑下忝奉㆑存候。扨拙も三日夕船にて下り可㆑申と奉㆑存候処、右之大変にて、尤も当方も五六間程の土塀倒れ、其外にも所々破損に付、夫々修復等も申付け、荒方直し置き不㆑申候ては、出坂も難㆑致奉㆑存候に付何れ盆後早々の出坂に相成可㆑申候。委曲御面会に御礼可㆓申上㆒候得共、先は御答旁〻如此に御座候。早早已上。
七月七日 西六条宏山寺 寛善坊
扨千本通抔には、昨日頃に至り、六軒も家一時にたふれ、人も七八人も損じ申候由、扨々油師相成不㆑申事、尤も御地も余程御珍敷地震之由、
御状忝く拝見仕候。先以残暑甚敷御座候得共、弥〻無㆓御障㆒珍重奉㆑存候。誠に承候得者、御地も少々地震ゆり申候様承り、嘸々御驚可㆑被㆑成奉㆑存候。扨又京都は、二日の七つ時、誠に古来稀なる大地震にて、大に驚入候。乍併家内皆々無㆓別条㆒逃申候間、其段乍憚御安心思召可㆑被㆑下候。扨ゆり直し皆々あんじ、二日・三日・四日の夜は、加州屋敷の芝原にて、町内皆々同宿仕り、漸く昨日五日ゟ少々腹のびく〳〵も納り、夜前ゟ家内へ帰り居申候。誠に百歳之老人も是迄箇様の地震覚え不㆑申由、扨神社・仏閣・人家・蔵入之損じ、誠に〳〵おびたゞ敷事に御座候。御所辺は筋塀並にくゞり皆々こけ、誠に気の毒なる物に御座候。此方も少々戸袋・戸棚・へっつひ道具少々損じ御座候。子供抔は早々向屋敷へ逃候間、とんと怪我不㆑仕候間、乍㆑憚御安心可㆑被【 NDLJP:20】㆑下候。右申上度、尊顔上万々御礼御咄可㆓申上㆒候。
地震之跡頓と染物出来不㆑申、甚困り入申候。【震後窃盗放火流行す】亀甲佐殿染小家潰れ、大怪我いたされ、大困りにて御座候。頃日は盗人やら火付やらにて、頓と商売手に付不㆑申候。
七月六日 河原町 柿屋忠兵衛
当二日七つ時より京都大地震に付、所々大損じ候事書記し難く、御所様始め神社・仏閣、外方町裏・裏屋敷少も損不㆑申事なし。今に折々中位なるどろ〳〵・小どろ〳〵数〻覚え不㆑申、誠に恐入候。然し下拙宅格別損じ不㆑申候得共、土蔵さつぱり間に合不㆑申、一ヶ所は四つに張裂け、誠に大難渋仕候。無難なる道具類預け度候にも、大方損じ土蔵計り也。漸く此節大抵なる土蔵へ預け、残りは宅へ成丈け入置候得共、火の用心致㆓心配㆒、一向職人などは仕事手に付不㆑申様申居候。
一、酒屋樽損じ、酒流し候事。 一、紺屋藍つぼわれ候事。 一、瓦屋瀬戸焼所釜類、
右数不㆑知、此節屋根瓦直し候にも、瓦屋に瓦破れ候て、とんとなし。京都にて土蔵倒れ候分計三万七千計。其外瓦大輪落損候は数に入不㆑申、夫に此頃に成りて、折節たふれ候蔵御座候。家小屋たふれ候事、此数不㆑知候得共、怪我人は数不㆑知候得共、是右之割には少々なり。当町には一人もなし。今に少なる地震時々御座候。恐れ恐れ〳〵、
七月十一日 扇谷権右衛門
御状忝く拝見仕候。御表益〻御安静に被㆑遊㆓御揃㆒、珍重奉㆑存候。然者金子一歩、外に金一朱、御見舞として送被㆑下、干瓢沢山、不㆓相変㆒御厚志に御思召被㆑下候段、難㆑有受納仕候。家内共大に悦居申候。扨当地大地震、此ふじ節曽に参、定めし御聞之通、二日ゟ今日迄留り不㆑申、八日昼前より八つ時分迄三べんゆり、夜九つ過より明迄七遍、九日昼後二遍、暮過より明迄三べん、十日昼前後夜三べん、十一日四つ時分三遍、昼まへ後二へん、暮五つ前二へん、夜更けて四遍、七つまへ大地震一べん。右之仕【 NDLJP:21】合故、先月廿九日四条大火ゟ七日迄、何事も出来不㆑申。七日ゟ机出し候得共、右之仕合故、手に付き不㆑申、右之中へ九日一条新町鞍馬口出火、十日丸太町・瓦町・高倉仏光寺上る処出火。箇様に何角取交候故、只うろ〳〵と計り致居申候。
一、此度之荒は、北野天神御境内が第一と奉㆑存候。石灯籠不㆑残。石之鳥居、
【北野の鳥居破損】
〈[#図は省略]〉 此所よりはすに、雨方共をれたまゝ立て有。
表の鳥居笠石開き、
一、祇園鳥居は別条なく、石灯籠百三十六無事なるはなし。
一、大仏宮、智積院、同家中門塀皆々崩れ。
一、耳塚、宝石飛び、火袋より下悉くねれぢたり。【耳塚の石飛ぶ】
右之外、御所様初、御城、石垣・高塀北南廿間余崩れ、西筋鉄門たふれ、其外寺町通寺寺、西東寺町塀に無事なはなし。
粟田・清水焼物釜不㆑残潰れ、是は余程大金之由。五条坂茶碗の破た事大金〳〵。
一、西本願寺蔵三つ、東本願寺東殿、高塀、其外大荒、町々家蔵の潰れ多く、京中蔵に無事なはなし。
一、熊谷平一郎殿、此間奉公に、安井前ゟ丁稚参り、其よく日、松原柳馬場南東角高塀つぶれ、下に敷かれ死す。親元に段々掛合金子三両出し、内証にて相済。右物入心遣ひ之段、気の毒に奉㆑存候。御馴染故一寸申上候。箇様の類は沢山な事。
一、当月五日、御公儀へ死人の書上げ七百人余と申す事。右にて御察可㆑被㆑成候。
一、愛宕・高尾は今に山鳴り、山には人なし、参詣人なし。
一、四十年まへ、八十年まへ、大地震有㆑之候得共、此度の地震は格別にて、昔太閤桃山に御在城之砌、大地震にて、三条・五条の橋ゆり落ち、右之地震此方と申事、恐ろしき事、荒増申上候にて御察し。下拙共も、箇様の様子にては、盆後にも納り不㆑申候。【 NDLJP:22】命有㆑之候へば、何れとか可㆑仕存罷在候。
一、此品麁末に候得共、御祝儀之印迄、御目に掛け申候。何分右之仕合にて、うろ〳〵仕居申し、何事も盆後可㆓申上㆒候。箇様之荒れに候得共、所々大寺・宮之本殿は無㆓別条㆒。町家にて蔵・石灯籠は皆々損じ、此節作事方一時に相成、手伝一人が五百文、大工・左官三人前・四人前出し候てもなし。宜敷物は作事方・油・らふそく・酒の類。併きはにて銭払はぬ者、多く有㆑之様察入候。御案内之悪筆之上、此節は只手もふるひ、文面も分り兼ね可㆑申、御察し御笑覧々々々。
七月十二日 三条寺町 中村長秀
当月六日・九日両度之尊翰、昨十日落手拝読了。如㆓貴諭㆒,残暑難㆑消御座候得共、貴様愈〻御安康可㆑被㆑成㆓寺務㆒、珍重之至に奉㆑存候。随而、小生漸々無異消光候条、御案じ被㆑下間敷候。扨当地当二日大地震に付、毎々態々御尋被㆑下、御厚情之段奉㆑謝候。当院ゟも早速にも申遣度候得共、誠以甚だ取込、何分行届不㆑申候。扨野院儀も、兼而檀徒側ゟ御聞分も御座候哉、方丈築地不㆑残、廟所向誠以大崩、不㆑残こみじに相成り、其外門内・外高塀・門番所、其外供待、玄関の高塀及び便所、大庫裏・小庫裏、総瓦不㆑残ずり落、土蔵は半崩、米蔵相崩、其外庭廻高塀は勿論、竹垣等、石垣迄、不㆑残㆑相崩れ、今日に至り地震不㆓相休㆒、此上如何に相成候事哉と、日々不安心之至に御座候。留守中故甚以心配いたし候。乍㆑併御表役人中追々参り見分、当八月法事前迄には、荒増は片付候様、掛合中に御座候。夫故誠以繁多にて困り入申候。其外山中常住向は不㆓申及㆒、諸院不㆑残大小之崩れ御座候。一々中々以㆓筆紙㆒難㆑尽候。余は当院之御行事にて御知可㆑被㆑下候。貴地は格別之儀無㆓御座㆒、先々御安心之御事に御座候。
七月十三日 明信寺中 麟祥院
一、地震左之通、
十三日巳之刻大一。同亥子之刻、同断。同丑刻大三中。十四日・十五日は格別之響なく。十六日朝卯辰之間大一。
【 NDLJP:23】其余とん〳〵いたし候得共、さしたる儀も無㆓御座㆒候間、先づ安心仕候。右之段申上度、余は後音可㆓申上㆒候、已上。
七月十七日 林鷹治郎
一、今朝承り候処、昨日之大雨にて、伏見街道五条下る二丁目・三丁目は、水之深さ四尺余と申事にて、床に溢れ、二三人も死人有㆑之候由。尤も同所東に音羽川と申す小川有、深さは矢張加茂川同様にて御座候処、昨日之大雨にて加茂川洪水にて、音羽川へ溢れ下り候水、自然と同所へ溢れ候事と承事に御座候。二条之御城西手石垣凡七八間通り崩れ堀に陥り、実に其響雷の如しと申す事也。二条は現に見聞いたし候人之物語にて、決して先日已来風評いたし候。丹後・但馬之荒之空談之類には無㆓御座㆒候に付、乍㆑序一寸申上候。其余は昨日申上候通に御座候。
一、地震雨の次第左に、
昨夜亥子の刻、中一。今朝より暮に掛ては、一向覚え不㆑申候。雨は昨宵連夜ゟ今昼迄、昼後は一端止候得共、兎角曇天にて困り入申候。併雨は先納り居申候。右大略申上度、余は追々可㆓申上㆒候。已上。
七月十九日 林鷹治郎
二白、昨日の大雨にも、当町内、其外懇意先、何も無難之由、御賢慮易思召可㆑被㆑下候。併地震之上の大雨故、京中之人は実に青い面と申す事也、御推察可㆑被㆑下候。
一、此間中之晴雨、地震は昨夜迄に申上候通り、其後は夜前九つ時迄曇天也、雨なし。子の刻より雨降り、通宵いたし、今四つ時に漸く止む也。併し曇天、夫より九つ時より少し雨、七つ前止み、只今にては晴候模様也。地震は、昨夜初更前大地震、一、同夜七つ時、中一、同七つ半、同断、今辰の刻大地震、〈二日已来之事也。〉同午刻、中一、同午下刻、同断、同未刻同断。先此通り、但びり〳〵は不㆑絶御座候。今昼少し過ぎ雷鳴、内を明け両三度飛出し候事有㆑之候。右申上度、早々已上。
七月廿日 林鷹治郎
扨先日より只心ならぬ有様之区へ、一昨十八日・十九日之大雨にて、所々大きに損じ、【 NDLJP:24】又当二日よりの損じたる家々、先人之住居は片付候得共、諸道具抔戸板を以て仮家拵へ候処へ、右之大雨にて難儀なる事、誠に気之毒の次第也。十八日・十九日は、昼夜に八九度づつ又々地震ゆる也。何共気味之悪き御事に御座候。清水の廊下少々すだり候よし、音羽山少々崩れ候由、承候。右に付、伏見街道は海道ぢやと申也、見に行く人も有㆑之候得共、拙宅も御存之通り車之輪形にて、水大溜りの所へ、内へも少々は入さうにて、中々外へは出る事叶はず。西洞院通、又堀川、右両所は当四月の水にも同様之事に御座候。【〔原註〕西洞院堀川等の水、四月と有れども、是は五月かと覚ゆ此時も、堀川と賀茂川と両川にて人死十八人有りしと云。】先日も申上候通、地震之節は絵本に有候通之有様なれ共、此度は大雨之中之地震に候得ば、如何成り候哉と、互に顔見合す顔は、当世浮世絵書も及ばぬ有様、あわて廻る所は、鳥羽絵にならば書もならうか、下略、
七月廿日 半兵衛
一、地震、昨日は地響計りにて、格別無㆓御座㆒候様覚え申候。一昨夜初更二つ、中一。同四つ時迄小四つ、今未の刻中一、尤今朝五つより八つ時迄びり〳〵は八九遍程、今酉の下刻小一、びり〳〵は夕方より只今迄四五度計り。
七月廿二日夜五つ過認む 林鷹治郎
廿四日中・小、合七つ。廿五日、中・小、合九つ。内二つは中之少増し。 右申上度早々已上。
廿五日 鷹治郎
廿六・七・八日も、昼夜度々之地震にて、廿九日明け七つ時ゟ、大雨・大雷鳴・電光甚だしく、夜明けて止み、廿九日は大悪日なれば、之にて事済せし事ならんと思ひ居りし処、申の刻ゟ又大雨・大雷、日暮に至り止みしかば、最早地震もよもや有るまじと思へるに、初更に至り中位なる地震にて、地鳴・山なり等も折々有り、晦日も同様にて、時々ゆら〳〵・ドウ〳〵・トントン〳〵と云ふ音して、地震有り、八月朔日に月も替りし事なれば、仔細あらじと思へるに、ゆさ〳〵・ドロ〳〵・トン〳〵にて午の刻地震。
一、地震之儀、今以相続き、日々少々宛御座候内、五日・六日に二つ計り宛中印有㆑之、【 NDLJP:25】同八日度々有㆑之内、中之大七つ有㆑之、先此間中の玉にて御座候。今九日は辰中刻小、其後は格別之儀無㆑之、右為㆓御知㆒申上度、如㆑此に御座候。已上。
八月九日 林鷹治郎
寺町通り石薬師御門下る西側に、【押小路家地震の為僥倖を得】押小路大外記殿といへる殿上人有り。至つて貧窮の暮しにて、愍れなる有様なりしに、地震にて屋敷大破に及び、浅間しき有様なれども、是を普請する手当もなく、聊の金借れる方もなければ、詮方なくて、普請の事を公議へ願ひ出でられしにぞ、これを聞済まし有しか共、御所を始め、二条の御城の大破に及びしをも、直に御修復もなき程の事なるに、堂上一統大破にて、何れもこれを願ひ立てらるゝにぞ、急には取掛りがたくてや、其儘に為し置かるゝにぞ、押小路殿には、種々にして風雨を防がんとせられしかども、打続き度々の地震に悉く崩れ、今は
禁裏御所、御門・御築地等壁落ち屋根損じ、所々これ有りと雖、格別大損じには非ずと云ふ。
仙洞御所、御築地悉く倒れ、大破損にて、御内を見透しぬる故、幕にて囲ひ有りと云ふ。女御御所は、格別損じなく、御築地も其儘にて有りぬる由。
【 NDLJP:27】有栖川宮、土蔵一ケ所崩れ、北の方の塀倒れしと云ふ。
京極宮・閑院宮、何れも大破損の由。
関白様・九条様・一条様・二条様・近衛様大いに損じ、其外堂上方一統大破にて、大い
に御殿を損じ、塀・門等の崩れざるはなし。六門悉く破損すと雖も、堺町御門・寺町御門尤も甚しと云ふ。寺町通寺々の門・塀、一として倒れざるはなく、其砕けぬる様を見るに、大道へ豆腐を打付けし如しと云ふ。本堂も大体ゆがまざるはなく、瓦を飛ばし、壁は大方落ちしと云ふ。二条御城西手の御門、下石垣三尺計り地中へゆり込み、御門は屋根くだけ散りて、人の尻餅をつきしと云へる様に成りて有りと云ふ。此門の北手四五十間計り、南手にて十四五間石垣崩れ塀倒る。又城の南面は、一統に七八寸計りも地中へゆり込み、石垣の半ばにて所々石飛出で、東の門崩れて有りと云ふ。塀・矢倉等悉くゆがみ土落ちて有り。右の如くなれば、城中も大破にて、黒書院〈千畳敷と云ふ。〉崩れしと云へり。其外近辺の屋敷悉く塀倒れ家損じ、城外広小路所々地裂け、大なるは一尺、小なるは三四寸、深さ大抵三尺計り有りとなり。地震ゆると其儘、【所司代禁裏に伺候す】所司代松平伯耆守〈丹後国宮津城主。〉には、馬に打乗り、御城内へ馳入られしが、家来一人も出で来らざるにぞ、夫より只一騎禁裏御所へ馳付け、六門をも乗越え、〈天明の大火に亀山侯には下馬札に火事羽織を打掛けて乗込まれしと云ふ。此度は其儘にて乗打せられしとなり。〉御台所御門前に馬を乗放して参内有り。天子の御機嫌を伺ひて出られしに、未だ口取さへ出で来らざりしとなり。夫より直に、仙洞御所へ参内有りしに、漸々と此所にて家来追々馳来りしと云へり。地震三更過より追々ゆるやかになりしかども、【流言飛語にて人心恟々】絶間なく震動する事なるに、明日朝に至り、何者とも知れず、「今日申の刻には、又もや大地震ゆり戻し有りて、京中
浪華福島鳥羽屋儀兵衛、折節上京にて本能寺へ滞留中、此地震に出遇ひぬ。同人の噂に、【六日間陛下庭上に御し、所司代守護し奉る。】七月七日広橋一位殿本能寺へ墓参にて、禁中の様子を御咄しあり。主上・上皇共、二日の地震をば御庭なる築山に出御ありて御避給ひ、公卿・殿上人も残らず御側に伺候す。所司代にも「近く参りて守護し奉れ」との勅命にて、御築山の元に坐して、昼夜の差別なく、七日迄座を動く事なし。七日に至り、「装束手丈夫に仕替申すべし」との勅命にて、其後暫休息すべき由勅命有りしと云ふ。天子にも七日迄庭上に座を鎮め給ひ、二三日は一向供御も召上らず、典薬より練薬・煎薬等を奉りて、是を召上がられ、御手水の節には、非蔵人四五人にて之を助け奉りし事なりとぞ。公卿百官何れも、二三日は練薬・洗薬等にて、しのぎ給ひしと語り給ひしと云ふ。
又少しも座を動き給はざりしとも云ふ。庭上に其儘はだしにて飛下り給ひしなどとて、種々の巷説あれども、これに従ひ難し。広橋殿本能寺にて物語せられしを、取りてこゝに記るしぬ。
〔頭書〕所司代には、近く参りて守護し奉れとの勅命故、玉座近き事なれば、円【 NDLJP:29】座を敷く事もなり難く、七日まで土の上に坐せられしと云ふ。二日地震最中、二条城に入りて、夫れより禁裏・仙洞へ参内の事、あつぱれ所司代を勤めらるゝほど有りて、かく有る可き事なり。然るに家中には大いに狼狽のみにて、一人も主につく家来の一人も無かりしは、如何なる事ぞや。平日何のために扶持せらるゝ事にや。かゝる騒動の中にて、若し主人に過ちあらば如何にせんと思へるにや、不覚悟の事どもなり。
かくて地震日々ゆり動く事、【青蓮院宮の参内】其数多き事なれば、京中の町人何れも、門中・河原等へ畳を持出で、幕・風呂敷・戸板等にて、己れ〳〵が家の間口丈けの構へをなし、杙を打つて蚊帳をつりなどして、薄氷を踏む心地なるに、粟田青蓮院宮様、日暮過ぎて参内せんとて、供人もしろにどて、先へ高張を灯させ、寺町通を北へ、「脇へよれ、よけよ、控へよ」抔と、声荒らかに、供の者共掛けしかば、大道住居の町人共大いに腹を立て、「此騒動の中にて、人を払ふは、どなたなるや」と云しかば、「青蓮院の宮様なり。早く除よ」と云ぬるにぞ、「宮様にもせよ、如何なる御方にても、此騒動に左様の儀相成らざれば、其方より途を除けて早く通られよ。老人・子供・病人なれば、少しも動かし難し」と、口々に呼ばはりて、少しも頓著せざるにぞ、侍共大いに怒りぬるを、宮には、輿の内より、「よけて通るべし、人に
二日の地震よりして、日々数多の震動止む事なく、其間には、叡山・愛宕山等鳴動して、一統少しも心を安んずる事なきに、十八・十九両日共、一天滝の漲り落るが如くに大雨降り、雷鳴甚しく、如何に成行く事ならんと、皆々恐れをなしぬ。みる間に大道一面川の如く成りしが、賀茂川は素より、清水の滝の流れ、音羽川といへるに、【 NDLJP:30】一時に水漲り落ちて、伏見街道五条下る辺にては、四尺余平地の上に水流れ、地震にて損ぜし家に、大雨にて水内へくゞり、
伏見は、二日の地震にて家も処々損じ、其後日々幾度となくゆり動きぬれども、京都程にはなしと云ふ。十九日の洪水も、暴かに宇治川水高く、京都と両方よりの流れにて、暫しは水につかり、床上一尺余に及び、如何せんと騒動する内、槙の島より南へ切れ込みて、南一面の水と成りて、淀の方へ流るゝにぞ、淀にては床の上三尺にも及び、大変の事なるに、伏見は大いに水引いて、同所より淀の小橋辺迄は、裳をかゝげて川中を歩まれる程になりぬ。小橋より伏見迄五十丁の間は、常に水深く瀬強き事なれば、登り船には、
二日の地震にも、牧方の上手より所々堤等裂け崩れ、家・蔵等も倒れ、淀も同様なれども、伏見よりも手軽き様に思はる。鳥羽街道の堤三十間計り、三尺程地中へ揺込み、小家少々損ぜしと云ふ。其外芥川・江口等にても、小家塀抔ゆり倒れしに、近辺なる茨木・高槻等は少しも損ずる事なく、結句伊丹にては、石の鳥居・石灯籠・土蔵等をゆり倒せしと云ふ。西宮・尼ケ崎なども少々損ぜしと雖、これ等は未だ確かなる事を聞かず。
大坂にては、余程震動せしかども、十二年前卯六月十二日にゆりし地震よりは、少し手軽き様に思はる。其節の地震には、住吉の石灯籠・南都の春日の灯籠をゆり倒し、近江にては、人家・寺院等多く倒れ、地裂けて泥を吹出し、死人・怪我人有る事仰山な【 NDLJP:31】りと云ふ。此度に於ては、住吉・春日は云ふに及ばず、難波新地辺にては、誠に聊かの震ひにて、【大坂は微震】住吉・堺等は、尚更手軽き事にして、「今の〔は〕地震にては無かりしにや」と云へる程の事なりしとぞ。されども浪華にては、京都の響と見えて、八日の夜三更・五更と両度ゆり、十日午の刻一度、十一日夜四更一度、これは二日此方の地震なり。夫れより折々、地響の様にて幽かにびり〳〵する事折々覚ゆ、十九日酉の刻一度、廿日辰の刻一度、廿三日未の刻一度震ひぬれ共、格別の事にてはなし。〈廿九日寅刻より大雨・大雷電、辰上刻止む。〉
十八・九両日の大雨、京地に同じけれども、少しも雷鳴なし。大川筋常水より高き事五尺計りにて、聊かも水の患ひなし。同日池田川洪水、順礼橋流失、
宇治も、地震にて所々損ぜし由。【大津も微震】大津は、格別の損もなく、地震も至つて軽く、大津と京との道の半ばよりして、大津方は何事もなく、京都の方は、家も倒れ大いに破損して有りと云ふ。
鷹が峯にては、幅一間余に長さ三十間余の所、地面引くりかへりしと云ふ。こは浪華江戸堀一丁目中筋屋藤兵衛親類の屋敷なり。其余家蔵一つとして無事なるは無しと云ふ。
十八日の洪水の節、清水本堂へ取掛かる所廊下少々すり落ちて、二間余りも損じ、地主権現も其節損ぜしと云ふ。廿二日祇園下河原七観音の本堂崩れ倒る。同日高台寺の庫裏倒れ、人死有りし由なれども、上向は内分にて済ませしと云ふ。十八日の洪水に、下津より少し下にて堤切込み、山崎一面の木浸しに成り、宝寺八幡宮辺の町家迄、床上三尺余の水なりしと云ふ。明信寺弟子宗愛が云へるには「地震にて破損せしを角力に見立て番付にせしに、御室は西の関にて、明信寺は関脇なりし」とふ。【二条城の修復料】又同人が咄に、「一条御城の修復二十五万両、御室の修復六万両と、大工棟梁中井岡次郎が凡その積なり」と云へり。余は是にて知るべし。京地大地震八十年【 NDLJP:32】已前に有りし時も、五十日計りゆり続きしが、次第に軽く成りて納りし由なり。此度の地震も、かゝる先例あれば、また暫らくは揺るべし抔云ひて、八月の
浪華国島より上京して、富小路殿姫君小宰相典侍と申奉る、御局へ八年余も勤めし女有り。【地震の際禁裏の実況】此者御見舞見物旁〻此度上京して、禁裏・仙洞、其外所々方々、地震にて損じたる様を委しく見来りぬとて、委しく語れるを聞くに、二日の夜は、「天子始め奉り、御庭の住居なるに、漸々と夜気を避くる覆ひ出来しは、玉座のみ計りにて、太子・女御の御上には、傘差懸けて夜を明かしぬ」と云ふ。典侍及び諸公卿等は、其儘にて夜をし給ひしとなり。女御様御蔵一つ崩れしと云ふ。内侍所へ不浄の土入れしと云ふは実説にて、又百人余の人夫にて取捨等事なりとぞ、普請奉行の罪遁れ難き事なれども、天子もこれを憐れみ給ひて「これを罪する事なかれ」との叡慮の由。又「此度地震にて変死せし者共の弔をなし遣せ」とて、寺々へ勅命有りしと云ふ。
昔吉備公入唐の節、【琵琶の怪説】彼地より持帰られし紫錦藤にて作れる琵琶あり。 〈紫錦藤は阿蘭陀木にて、藤の大なるなりと云ふ。〉常の琵琶三つかけし如く大なるが、之を弾ずる時は、怪しき事有つて不吉なりとて、出雲大社へ奉納になりしと云へり。然るに当仙洞には、音楽を好み給ふ故、国造に命じ、此図を写さし献覧の上、其琵琶を取寄せ給ひ、長く留め置かるゝとて、三年に及びしに、大地震其祟にや抔、専ら風説あるにぞ、「早く取りに来れ」との勅命にて、大社より九月朔日是を受取りに上京せしと云ふ。これ等は王位軽るきに似たり。一つの琵琶何ぞ此くの如き変を仕出すに及ばんや、怪むべし。只其形白木の古びし如くにて、てんしゆに皮を当て、龍虎を其皮に画けるにぞ、龍虎の琵琶とも云ふとなり。
【 NDLJP:33】此度の大地震不思議なる事三つ有り。【三不思議】北野天神の本社拝殿計りは少しも動く事なかりしと、西六条茶室の庭先、縁より一間余を隔てたる石灯籠の屋根、かむり笠の格好なるが、内へ飛込み、茶室の床の壁を横に打抜き、水屋へ落ちしが、下に茶碗ありしに、其上へ落掛りしに、其茶碗少しも損ぜずして、大なる屋根石其上にすわり有りしとぞ。余り不思議なりとて、其石を以て壁の破れに合せ見るに、きつしりとして、此石通抜けし外に少しの損じもなしといへり。又烏丸の出水には、東向の蔵の少しも損ずる事なくして、北向になりしと云ふ。此蔵は後年咄の種に其儘になし置くといへり。
地震追ひ〳〵少くなり、鳴動する事も次第に薄らぎぬる様になりて、或は二日・三日に一二度位の事なりしに、九月十一・十二・十七・廿三・廿六日等には、余程大なる地震にて、人々胆を消しぬといへり。十月の末に至れども、折り〳〵地震・山鳴等有りと云ふ。
十月六日酉の刻、同八日寅の刻、両度共七月二日以来の大地震にて、京・伏見・亀山等にては、大いに恐れ、大道へ畳持出し、暫らく其上に居て、一人家に有る者なかりしと云ふ。全く七月の地震にこりし故なるべし。され共暫しの間にて両度共相止みぬ。大坂にても余程の震ひなりし。
十二月廿八日酉の刻、少地震、同廿九日午の刻少地震す。大坂此くの如くなりしかば、京都も定めて震ひし事ならんと思はる。程過ぎてこれを聞きぬるに、七月二日已来の大地震なりしと云へり。
出雲国大社琵琶 叡覧の事
天奏柳原頭弁御書写
天日隅宮実物之内、琵琶一面、今般被㆑入㆓叡覧㆒、則令㆓奏達㆒候処、殊に御満足之御事候。宜㆓申達㆒御沙汰候、仍如㆑斯、謹言。
二月十八日 隆光
【 NDLJP:34】 国造北島館
大社宝物琵琶上京之次第頭書
天日隅宮宝物之内、龍虎琵琶一面、御叡覧可㆑被㆑為㆑在旨、文政十一戊子二月、天奏柳原頭弁殿ゟ書翰到来、早速佐草数之進・□弾正両人上京被㆓仰付㆒、諸事相伺候処、琵琶之事実委敷御尋之上、何分画図可㆓差出㆒旨、被㆓仰渡㆒、両使帰国有㆑之、広瀬土佐之介 江被㆓仰付㆒、同九月二日ゟ、会所に於て書写奉り、同月下旬、使者高尾市雄を以て差出、奏達被㆑為㆑在候処、頻に御勅望に仍而、関白殿より所司代へ被㆓仰渡㆒、関東へ御示合之上、御老中より国守へ被㆓仰渡㆒、同十二月朔日、佐草・□両使を以差出、早速奏達有㆑之候処、正月六日長橋局へ持参可㆑仕旨に付、両使持参差出候処、画図に御引合御叡覧被㆑為㆑有候処、毛頭無㆓相違㆒、関白殿・親王方、其外御参内之公卿・殿上人、追々拝見被㆓仰付㆒、琵琶は勿論、画図之写方、甚被㆑為㆑叶㆓ 御叡慮㆒、画工之家名迄も、委敷可㆓書出㆒旨被㆓仰付㆒、
主上始、御参内之公卿方御一統、御称美被㆑為㆑在、実に和漢に稀成珍器、田舎に稀成画筆と云、旁〻御感心不㆑浅旨、天奏ゟの御沙汰也。琵琶は神田大和之介へ目利被㆑為㆓仰付㆒、大内に御預り、御修復被㆑為㆓仰付㆒、追々御試之上、追て御沙汰可㆑被㆑為在旨にて、両使へ御暇被㆓下置㆒、丑三月朔日帰宅也。猶琵琶之事実は、三代実録・禁秘抄等に詳也。
目利書
槽 紫藤。 腹板 塩冶。 唐頭 花櫚。 海老尾 黄楊。転手 紫藤。 覆手 紫藤。
右は古代之作有㆑之候処、 凡百八十年計前に、総体御修復相成候事と奉㆑存候。乍㆑恐右之通拝見仕候に付、奉㆓申上㆒候。 已上。
文政十二年丑二月 神田大和之助
謹案㆓三代実録貞観九年之条㆒、冬十月四日己巳、従五位下掃部頭藤原貞敏卒。貞敏者、刑部卿従三位継彦之第六子也。少耽㆓愛音楽㆒、好学㆑鼓㆑琴、尤善弾㆓琵琶㆒。承和二年為㆓美作掾兼遣唐使准判官㆒。五年到㆓大唐㆒達㆓上都㆒。逢㆘能弾㆓琵琶㆒者劉二郎㆖。貞敏贈㆓【 NDLJP:35】砂金二百両㆒。劉二郎曰、礼貴㆓往来㆒、請欲㆓相伝㆒、即授㆓両三調㆒、二三月間尽了㆓妙曲㆒。劉二郎贈㆓譜数十巻㆒。因問曰、君師何人、素学㆓妙曲㆒乎。貞敏答曰、〔是〕我累代之家風、更無㆓他師㆒。劉二郎曰、於戯昔聞㆓謝鎮西㆒、此何人哉、僕有㆓一少女㆒、願令㆑薦㆓枕席㆒。貞敏答曰、一言斯重、千金還軽。既而成㆓婚礼㆒。劉娘尤善㆓琴笋㆒。貞敏習㆓得新声数曲㆒。明年聘礼既畢、解㆑纜帰㆑郷。臨㆑別劉二郎設㆓祖筵㆒、贈㆓紫檀〔紫〕藤琵琶各一面㆒。是歳大唐大中元年、本朝承和六年也。云々。
又禁秘抄玄上之条。累代宝物也。置㆓中殿御厨子㆒。根源様人不㆑知㆑之。掃部頭貞敏渡唐之時、所㆑渡琵琶二面、其一歟。紫檀
所司代 七万石 丹後宮津 松平伯耆守 大御番頭 一万石 新庄主殿頭 大御番頭 一万五千石 内藤豊後守 二条条御殿預 四百石 三輪市十郎 御鉄炮奉行 三百廿石 松平市右衛門 二条御蔵衆 百五十俵 佐々竹三四五郎 同御蔵衆 百五十俵 石寺八蔵 同御門番 二百俵 石渡亀治郎 同御門番 百五十俵 水野藤十郎 御目附 間部主殿頭 御目附 木下左兵衛 御町奉行 三千五百石 小田切土佐守 御町奉行 二千石 松平伊勢守
禁裏御附 二千五百石 野一色信濃守 同 二百俵 堀尾土佐守。 仙洞御附 千石 永井筑前守 同 五百石 御手洗出雲守。 禁裏御賄頭 二百俵 比田川定次郎
【 NDLJP:37】 禁裏御所方並山城大川筋御普請御用兼帯御代官六百石、外 小堀主税
淀川過書船支配 二百俵 角倉為二郎 同御代官兼帯役 二百石 木村宗右衛門 桂川筋賀茂川堤奉行 廿人扶持 角倉帯刀 御代官大津町奉行兼帯 二百俵 石原清左衛門 御代官御茶御用掛兼帯 五百石 上林栄次郎 御茶御用掛り 三百石 上林又兵衛 伏見御奉行 一万石 本庄伊勢守
交代御火消 十五万千二百六十八石 郡山 松平甲斐守 同 六万石 膳所 本多下総守
同 十万三千石 淀 稲葉丹後守 同 五万石 亀山 松平紀伊守
同 三万六千石 高槻 永井飛騨守
御大工頭 五百石四十人扶持 中井岡治郎 同棟梁 百石 弁慶仁右衛門 同 三十八石 矢倉又右衛門 同 七十五石 池上直三郎
右之外北面・医師・与力・同心之類之を略す。御城内にも余程死人・怪我人ある由、されども是は深く秘して有る事なりとぞ。故に詳に知り難し。
京都大地震之次第。是は早速に板行にて売歩行きし書附なり。
一、去る七月二日七つ時、大地震ゆり出し、其厳敷事言語に述べ難く、都は今も大地に入るかと疑はれ、家々の土蔵は潰れ、或は壁崩れ、又は裂割れて、凡そ京中の土蔵一ケ所も満足なるは有間じく、端々の家一時に崩るゝ音誠に夥しく、洛中・洛外家毎に畳を大路に投出したれば、吾一と屈蹲踞りて、其儘此夜を明したり。此日昼夜大小となく震ふ事、凡そ一時に、二十ケ度より三十ケ度づつ震ふ。故に老人・小児或は女、東西の広野又は東川原へ、逃出ること夥し。内に残る者は大路に畳を敷き、戸・障子にて囲ひ、こゝに蹲踞りて、三日・四日の夜を明かす。五日には少し又おだやかなり。然れ共今に一時に七八度より十二三度づつふるひ申候。
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