目次
【 NDLJP:331】
巻之七
見しは今、江戸の
境地山海の
眺望比類なかりけり。中にも、見る度に珍しければ富士のたけいつも初雪の心地こそすれと口すさび、僧士の古風思ひ出で侍りぬ。夫世に人の
賞翫し給ひける、色品々の
風流限りなしといへども、中にも雪月花こそわきてことなる
詠なれ。され共雪はきえ月はかけ花はうつろひ常ならずして人の心苦しめり。然共、富士の雪は時をしらずと思ひしに、古歌に、富士の根にふりおく雪は
六月の
十五日にけぬれば其夜ふりけりとよみたれば、さもやと思ひ詠るに、十五日にも消る間なし。
新千載集に、けぬが上に珍しげなく積るらし富士の高根に今朝の初雪と詠ぜり。
昔氷室の雪を
御門へ御調物に奉る。是を
主水受取る。富士、丹後の
頂山、山城の松が崎より上る。古歌に、
氷ゐて
千年の夏も消えせしな松が崎なる
氷室と思へばと、詠ぜり。扨又建長の比ほひ鎌倉において
六月炎暑の節に当て富士の雪を召しよせ、
珍物にそなへ給ひしが、民の煩ひとて後やめられたり。鎌倉より富士見えぬる故也。されば頼朝公の歌
勅撰に多く見えたる中に、
後撰集に、富士の
根をよそにぞ聞きし今はわが思ひにもゆる烟なりけり。
新古今旅の歌に、道すがら富士の烟も分ざりき
晴る
間もなき空のけしきに。此二首は、前右大臣頼朝詠じ給ひぬ。今江戸に住む人には家を南向に作り、西へ窓をあけ、
【 NDLJP:332】高嶺の雪を居ながらに
明暮絶えぬ詠めせり。晴れたる雪は夏の富士の
根と云前句に、武蔵野のみどりの末や天の原と、
智温法師給ひぬ。
続千
載集に、言の葉もおよばぬ富士の高根かな都の人にいかゞ語らんとよめり。三
国無双の
名山都人
東に下り、時しらぬ山の雪を見て、目をおどろかし給へるもことわり也。さんぬる年八条殿江戸へ御
下向、富士を見給ひて、から人の歌にありとも見せばやなまことの富士の山のすがたをとよみ給ふ。
玉葉集に、目にかけていくかになりぬ
東路や三国をさかふ富士の
柴山と詠ぜり。此山三州のあひだにあり。扨又万里が詩に、皆雪にして雲なし。天それみね、夏寒うして
常住冬をしらずと作れり。此山は
人王七代
孝霊天皇の御宇に、一夜に
湧出せしとなり。又或説に此富士の山は人王二十二代
雄略天皇の御時一夜に出来たり。
高一
由旬也。雲霞にかくれ見付たる人なかりしに、人王四十二代
文武天皇の
御宇にえんの
行者見付、此山をふみそめ給ひしよりこのかた、皆人
登る。中空より下はこんりんざいより出で、中空より上は天よりふりたり。
然間天地和合の山といへり。
文人歌人此山をほめて作られし事あげてかぞふべからずといへば、老人聞きて此
役行者は
舒明天皇六年
甲午正月
朔日たんじやうす、大和国
葛城上郡茆原村の人、
俗姓は
賀茂氏也。三歳の時父におくれて、七歳迄は母の恵みにて成人す。孝子の志浅からず。童子の名をば小角といふ。五色のうさぎにしたがつて
葛城山のいたゞきに
登り、
藤衣に身を隠し、松のみどりに命をつなぎて、
孔雀明王の法をしゆぎやうする事三十余年、りうじゆ
𦬇にあひて五字三
密の
法水を伝へ給へり。
伊駒、
二上岳、
大嶺を行きめぐり、
葛城山の
岩屋に有つて
秘法を行ひ給ひし時は、
鬼神を
使者とし水をくませ、薪をとらせ、
諸越へも渡りけるにや、
道昭和尚勅を請けて法をもとめに唐へ渡りし時、
行者にあひたりといへり。葛城一言神のざんげんにより伊豆の大島へながされては、海の上をあるき富士の
高嶺に通ひ給へり。昔らかんたち水歩のくつをはき、水上を渡りたる事をこそ聞伝へたれ。
行者かゝるふしぎ有るにより、御門聞召し
急勅使立て都へ
召かへされたり。日本において
寿命の人なりといへり。
見しは昔、
当君武州江戸へ
御打入は、天正十八寅の初秋なり。其頃までは高きもいやしきも、松の柱、竹のあみ戸、むぐらの庵、蓬が
宿、草ぶきの
小家がちなる軒のつまに、咲きかゝりたる夕顔の
白き花のみにて、かやり火のふすぶるもあはれに見えておほかりし。扨又ひかる源氏のいにしへを六十
帖に委しくあらはせり。よもぎふの巻には、源氏よもぎふの宿へかよひ給ふ事をかけり。源氏の御歌に、尋ねても我こそとはめ道もなく深き
蓬のもとの心をと、よみ給ふ。故に末つむ花をよもぎふの宿といへり。狐の
栖と成りて、うとましうふくろふの声を朝夕耳ならしつゝとかけり。又
夕顔の巻には、源氏の思ひ
人夕顔の花の咲きたる宿におはしけるにより、夕顔のうへと申す也。をりてこそそれかとも見めたそがれにほの
〴〵しろき花の夕顔、などと詠めさせ給ひて、五
条夕顔の宿へ通ひ給ひし
慈鎮の歌に、しづのをがけぶりいぶせきかやり火にすゝけぬ物は夕顔の花と、
拾遺風体抄に見えたり。いにしへは、
【 NDLJP:333】いと物あはれなる事ども有しぞかし。扨又中昔の事にや有りけん、有る人
絵書を
頼み、はんじやうの
家居、又わびしき庵の体を好みければ、望に
任せて家をゆゝしうかき、
棟に
庭鳥のあがりたる体を書き、又草の庵に夕顔のはひかゝり、わびしき
体を書きしと也。今江戸町の
家作りを見れば、二階三階のとちぶきかはらぶきにて軒高ければ、庭鳥のはねは中々およびなし。むねには
鳶、
鷺、こうなどが巣をかけてみゆる。扨又諸侯大夫の
屋形作りを見るに、たゞ小山のならびたるがことし。むね
破風ひかりかゞやく。其内に龍は雲に乗じて海水をまきあげ、くじやくほうわうはつばさをならべて舞さがる。是をふりさけみんとすれば、
天津光うつろひまばゆくして、其かたちさだかに見えがたし。軒のめぐり門のほとりには、虎が風に毛をふるひ、獅子がはかしらする
風情、誠に生きてはたらくかと、身のけよだち、あたりへよりがたし。かゝる広大なる御時代にもあひぬる物かな。
見しは今、江戸町の門々に天下一万能斎日本無双者扁斎などと異様なる名を付て、金札に書付、海道に立ておきたり。
有識の人申されけるは、人にまさらん事を思はゞ、学問をなして其智を人にますべし。然るときんば善にほこらず、是学問のちから也。此高札を見て思ひ出せる事有り。
鴨の
長明が海道
路次記に、うつの山を越れば
蘿かへで茂り昔の跡たえず。彼業平が
修行者に言伝しけんほど、いづくならんと思ひやる道のほとりに、札を立てたるを見れば、
無縁の
世捨人有るよしを書けり。道より近きあたりなれば、ちと入りてみるに、わづかなる
草庵の内にひとりの僧有り。
画像の
阿弥陀を一ぷく
懸置き、其外
更に見ゆる物なし。
発心のはじめを尋ぬれば、
当国の
者也。さして思ひいたれる心も侍らず。其身堪へたる方なければ、理をくわんずるに心くらく、仏を念ずるに
性物うし。
難行易行の二つの道ともにかけたりといへども、山中に有つてねぶれるは、里に有つて
務めたるにはまさる由、或人のをしへを聞きしより、此山に庵を結びあまたの年を送る由を答ふ。
許由が
頴水の月にすみし、おのづから一
瓢のうへは、
殊更烟たてるよすがも見えず。
柴折りくぶるなぐさみ迄も思ひ絶えたるさま也。身を
孤山の
嵐の底にやどして、心を
浄城の雲の外にすませる、いはねどしるく見えて、
中々あはれに心深しと書きて、世をいとふ心のおくやのこらましかゝる
山辺の
住居ならではと詠ぜり。かくのごときの扎をこそ、聞きても見まくほしく
殊勝に思ひ侍れ。わが
名誉を金札にあらはし、海道に立ておく事、世のひけんをもはゞからざること云ふに絶えたり。昔
唐国には
智人高位に至る。されば
城北七里昇仙橋あり。
馬相如と云者都を出て
学問所へ行く時、此橋の柱に題して云、
大丈夫駟馬の車に乗ぜずば、二度此橋を過ぎじと云々。心は我
学問をとげて高位の身と成つて、しばの高車にのぼる身とならずば、二度此橋を渡らじとちかつて
橋柱に書付て行きけるが、終には思ひのごとくなりけるとなん。
堀川百首の橋のたいの歌に、思ふ事橋のはしらに書き付て、昔の人はくらゐましけりと、
匡房詠めり。古語に人のおのれをしらざるをうれひざれ、おのれが人をしらざる事をうれひよといへり。
万に上手と
【 NDLJP:334】いはれし人は、われと威風をなのらねども、世上にひろく沙汰せり。少智の人は身をほめ他をそしりて我名をわれとあげんとする、是ひが事なり。しれらんをばしれりとせよ、しらざらんをばしらずとせよ、是しれるなりといへり。いづれの道も一道を学びうる事かたし。いはんや
万能斎と名付くるはひが事也。扨又
耆扁と名付る医師は、
耆婆扁鵲此二名を一名に付けたるに、やきはは
天竺阿闍世王の時の
名医也。平生ひそかに
薬王樹の枝を
持して、人の五
臓の
病根を照し見て是をくづせり。詳に
耆婆経に見えたりと云々。扁鵲は周の末の戦国の時の名医なり。
楊子に、扁鵲ろじんにして、医、ろに多しと云云。へんじやくはろこくの人にて
良医の名をえたり。
其時節世間のくすし皆、
我はろの国の生れの者也と、人に信仰せられんとせしと也。すべてまねものをうらんとては、よき人の名をかる。是
浅智のはかりごと、愚人のあざけりを、古語に
記されたり。
伝聞、
老子、
孔子、
顔回なども、異様なる名をば付給はず。人の名は外よりあらはすの本意なり。我と我名をあらはすはまことしからず。
先哲もわれをしらずして外をしるといふ事、有るべからずといへり。故に己をしるをものしる人と、古き文にも見えたり。
聞しは昔、日本にて黄金見はじめし事は、
人王三十四代
推古天皇
御宇十三年乙丑のとし、かうらい国よりはじめて渡りたり。扨又我朝にて黄金ほり出す事は、人王四十五代
聖武天皇
御宇、
天平勝宝元年己丑年奥州よりはじめて
御門へ奉る。銀は人王四十代
天武天皇の御宇三年甲戌の年、
対馬国よりはじめてさゝぐると、いづれも古記に見えたり。されば大和国に
金御岳といふ名所有り。古歌に、我恋のかねのみたけの金ならばみろくの世にもあはましものをと詠ぜり。又、しろがねの
目貫の太刀をさげはきてならの都をねるはたが子ぞとよみしぞかし。かやうの
理を聞きしに、昔はこがね
銀まれなりとしられたり。
春宵一
刻あたひ千金とは
東坡もやさしく譬へられたり。
然処に
当君の御時代には、諸国に金山出来、金銀の
御運上を
牛車に引きならべ、馬に付けならべ、
毎日おこたらず。なかんづく
佐渡島はたゞ金銀をもつてつき立てたる宝の山なり。此金銀を一箱に十二貫目入合百箱を五十駄つみの舟につみ、毎年五艘十艘づつ
能波風に佐渡島より越後のみなとへ著岸す。是を江城へ持運ぶ。おびたゞしき事昔をたとへてもなし。民百
姓までも金銀をとりあつかふ事有りがたき御時代なり。
金の
御たけの歌の心なれば、誠に今がみろくの世にやあるらん。仏の世ならずば万民いかでたのしまん。千
世万
世も久しかれとぞ申しあへり。
見しは今、江戸町の道雨少しふりぬれば、どろふかうして往来安からず。去程に
足駄のはの高きを皆人このめり。
猩々は
酒履を好み、江戸の人は
沼履を好む。人猩かはれども、用る所は和漢
異らず。比しも春なれや、つばめさいげんなく飛来て、道のぬかりを
運ぶ。されば
霊陵山と云所に、石有り。雨ふれ
【 NDLJP:335】ば其石つばめと成て飛び、晴るれば又石となるとかや。歌に、ふれば鳥
降ねば本の石となる雨はつばめのなみだなりけりと詠ぜり。扨又見ればつばめの一つれの声と云前句に、石をうつ
雫もふかくふる雨にと、
宗尹付け給ひぬ。演雅の詩に、つばめは居所なくしてけいしする事いそがはしと云々。
愚老つれづれの
余に、つばくろめいくらの家を作るとも道のぬかりは
運びつくさじと口ずさみ、
海道を詠め居しに、とほる人を見れば、
新らしき小袖にをりめだかなる
上下を
著、道のぬかりをたどり行きしが、荷おひ馬にはたと行きあひ、けあげのどろをいとひがほにて、あなや
〳〵と云ていそぎかたはらへよけんとせしを、馬かた是を見、いたづら者にて馬に鞭をはたとあつる。此馬おどろきはねければ、どろ水を此人に思ふまゝにぞあびせたる。のりごはなる上下も泥染となり、打しをれみともなき有様は、
高野証空上人の京へのぼる道にて馬の日引たる男に行逢うて、堀へおとされ腹あしくとがめしも是にはしかじ。此人腹を立て、にくいやつめが馬のおひやうかな。此よごれたるいしやう
上下をわきまへさすべしとしかる。馬かた聞きて、あらをかしの人の
腹立や、物もいはざる
畜生をあひてになしてのざふごんかや。御身はいしやう美々しくえもんけだかく引つくろひ、
上下を著て
人体がましく見えけるが、馬車にものらずして、泥をいとふのをかしさよと、手を打ちたゝいて笑ひ行く。此人聞きていとゞ腹は立ちけれども、いたづら者の馬かたをあひてになすべきやうもなし。それよりつらく見えけるは、
往来の人が立ちとゞまり、やれをかしや、泥まみれのをのこを見よとくんじゆして、指をさしてあざ笑ひ、海道に立ちふさがり、しばしは通路ぞなかりける。此人腹をすゑかね
〳〵て四方をにらんで云ひけるは、泥によごれたる我姿が、をかしく有りてや笑ふらん。相手に主はきらふまじと、刀をぬいて切つてまはり死なんと云ひて狂ひければ、
見物衆は
肝をけしあわてふためきにげんとするに、ぼくり
足駄にまとはつてひとり
転ぶぞさいごなる。四五百人の見物衆が、人の上に人が重り、
臥しつ
転びつおきあがらんと、泥にまみれてあがけども、皆うつぶきに重りて頭ももたげず尻もあがらず、どろの中へ
面をつきこみ、手足にてどろをこねかへし、ひとり
〳〵はひあがる姿を見れば、土にて作りし
辻地蔵の雨にうたれて、あさましげに眼ばかりぞきらめきける。ちひさき子供は上よりおされどろを口よりのみ入れて、いきをえせねば皆死にたり。
親兄弟は是を取りあげなきかなしめる有様を見るに、かはゆく有り、をかしくもあり。かゝる仕合候ひけり。扨其人は先へも行かず跡へも帰らず、
面目なげに立ちわづらひ、いきがひなくぞ見えにける。万のまうごにはあふとも、愚人の一
怒にはあはざれといへる古人の言葉、思ひ知られたり。大日経に一念のしんいには、
倶胝劫の
善根をやきうしなふと説かれたり。されば他人の過を見ては、かへつて身上を
慎しむべき事也。およそ大事は
小事よりおこると、
貞観せいえうに見えたり。道のあしき
時分、荷おひ馬にあひなば、遠くよけべき事也と皆人いふ。年寄りたる
翁海道を通りしが、此由を聞き立ちとゞまつて云けるは、いや
〳〵用心するとも
過去の
業因は
迯るべからず。人にあしくあたれば、必後の世にそれがためにあだをうく。
生有物をころせば必後の世に
【 NDLJP:336】おのれ害せられぬ。昔天笠に大王有り、たつとき上人有りとて迎へをつかはさる。此王
明暮碁数寄にて臣下を集め打給ふ時、上人参り給ひぬと申れば、碁に
切手あるをきれとのたまひけるに、此上人の首をきれとの
宣旨と聞きなして、則聖の首を討ち切りぬ。碁果てゝ其上人こなたへとのたまふ。宣旨にまかせ
聖の首を切りたると申す。大王大きにかなしび、仏になげかせ給ふ時に、仏ののたまはく、昔国王はかはづにて土中に有り、上人はもと農夫なり。然に春田をかへす時、心ならずからすきにてかはづの首を切りぬ。其因果のがれずして切られぬ。
因果はかやうなる物ぞとをしへ給ふ。扨又彼両人の
乱逆元来をうかゞひ見るに、馬おひは、いにしへ
奥州の
金売吉次か
小冠者九郎義経の
変化、どろまみれの男は、平家の
侍関原与市なり。
因果のがれがたしと云て過行きぬ。皆人聞きて、
実にさもやあらんと笑ひて
退散せり。
見しは今、江戸舟町に鈴木久兵衛といふ人の子に才三郎と云者、四五日物いふ事常に相違せり。気ちがひたるかと、親、心もとなく思ひしに、当年八月二十八日午刻空しづかにして風音もなきに、此者立て大声をあげ、すは、大風吹いて来て家ころぶぞ、つかひ柱をかへやれ、ころぶぞ、われ柱におされて死ぬるぞ、たすけよ人集まれと、家の中をかけまはり飛びめぐり歩きてんだうするを、親兄弟其外十人計りつき取りとゞむるに、力ことの外に有つてかなはず。家の中
鳴音しんどうする。それがし家
近所なれば何事ぞと走寄つてとゞむるに叶はず。一時過
未の
刻に至て、
俄に大風ふき来て町の家はたゞしやうぎだふしのごとし。
大名衆の
屋形宮寺一
宇も残らず。増上寺の山門、
誓願寺の山門もころぶ。其外数百年を経たる品川の塔もそんじたり。かくのごときの大風老人も覚えずといふ。彼気ちがひ者一時の後、俄に吹出づる大風を知りたるはふしんなり。然ば昔、鎌倉将軍実朝公の時代、
建保四年丙子八月二十八日大風吹き、
堂舎損じたる事を記せり。ねんだいきにも見えたり。又予九歳の
比天正元年癸酉の年八月二十八日未の刻三百五十八年に当て、月日もたがはず大風吹きたり。是も
年代記に有り。扨又慶長十九甲寅当年八月二十八日未の刻四十二年にめぐり当つて、
月日時刻たがはず三度まで大風吹きたる事きどくなり。故にしるし置き侍るなり。
見しは今、天下をさまり目出度御代なれば、
公家殿上人迄もあまねく江戸へ下り給ひぬ。此都人云、此辺に
角田川とて音に聞えし名所あり。武蔵と下総のさかひをながれぬ。いにしへ
在原中将二
条の
后に参りし事おほ君にもれ聞え、
遠流の身となりひらは、東国角田川に来りぬ。此河の辺に京にては見なれぬ鳥有り。
渡守に問ひければ、是なん
都鳥といふを聞きて、名にしおはゞいざことゝはん都鳥わが思ふ人はありやなしやととよみしぞかし。
新古今に、おぼつかな都にすまぬ都鳥ことゝふ人にいかゞこたへしとよめり。
俊成卿の
女の歌に、いにしへの秋の空まですみだ川月に
言とふ袖の露かなと詠ぜり。扨
【 NDLJP:337】又しづむや魚の見えずなり行くと云前句に、名もしるき鳥のうかべる角田川と
宗長付けたり。
昌休東国一見の時角田川の辺に至りて、秋風やこととふ舟の
渡守、とせしとかや。歌人は居ながら名所を知るといへども、いかで見る
程には有るべきぞ。
東へ下りての思ひ出、何か是にはまさらんと、此名所を一見し給ひ、
近衛殿の御歌に、こたへせばわが出てこし都鳥とりあつめてもことゝはましをとよみ給ふ。
八条殿、角田川すむてふ鳥の名にしおふ都人もやたえず来ぬらん。また三条中納言、角田川くる人毎に昔より言葉の花の都鳥哉。
阿野宰相、吹風もをさまれる世に角田川わたさぬ隙や波の舟人、また
荘厳院、かき
流す水のあはれの
古へを見れば衣のすみだ川かな。
玄仍の
発句に、盛りかととはゞや花の都鳥、
昌琢、名にしおはゞかすまじ月の角田川と申されし。諸人の詠あげて尽しがたし。然に
亀や
道閑と云京の知人当年はじめて江戸へ下りしが、音に聞えし角田川の名所いかやうなる面白き事や有るととふ。愚老聞きて、惣じて
何の名所も面白き事はあらねども、
旧跡をば詩人歌人尋ね給へり。扨又角田川の寺の庭に、
謡に作りたる
梅若丸塚有てしるしの柳有り。見物衆は塚のあたりの芝の上に
円居して、歌を誦し詩を作り酒盛する所に、此寺の
坊主大上戸にて、爰やかしこの
酒宴場へ飛入り走入つて、五盃十盃づつ呑む事数をしらず。何よりもをかしきは、此坊主角田川の
謡きりはしを一つ二つ覚え、平家とらも舞ともわかず
称名ぶしに打上げてうたふ。されども
短くうたふに
興有て皆人笑ふ。道閑聞きて、われ
上戸なり、いでさらば角田川へ行き、其坊主と酒宴せんといふ。われ聞きて、其方角田川見物なるべかず。此坊主
始て一見の人をよく見知つて、歌をしよまうする。よくもあしくも文字さへつゞき詠みぬればよろこぶ。よまざれば
悪口をはき寺のあたりを払つて追出し、当座の恥辱をあたふる。其方は
宏才利口たりといへども、歌の道をば文字の数をも
知ず、思ひ
止まり給へ。
道閑閉口し、つく
〴〵案じ、此名所見ずば京の知人、我が心つたなしといはん。其上思ふ仔細有りと、小舟にさをさし角田川へ行く。寺の庭なる梅若丸の塚を見物する所に、案の如く坊主出逢うて、旅人は都の人と見えたり、当地はじめて一見の人々は、よくもあしくもおしなべて、歌をよませ給ひぬと、硯短冊紙を持出てしきりに所望す。道閑いはく、都の者をよく見知り給へるの
奇特さよと、おくせず筆を取り、うめわかまるのつか
柳すみだ河原の
涙かなと書きて、坊主に見する。此坊主歌よむやうは
知ねども、発句と歌文字の数をば覚えたり。此句をよみて指を折り、又ほくしては指を折り、しばし案じて云けるは、いかにや都人、此句の文字をかぞふるに、発句には七文字多し、歌には七文字たらず、不審なりととふ。道閑答へて、是は歌にあらず、発句にあらず、扨又なが歌にあらず、みじか歌にもなし。この頃都にはやりし中歌也といふ。坊主聞きて、田舎者さやうの事を
知ずして、尋申る
面目灰にまびれたりといふ。道閑聞きて、知つてとふは礼なりといへば、左様にもまつたくぞんせずと返答する。
京田舎人の
出会珍しきあいさつ、聞捨てがたく記し侍る。
【 NDLJP:338】
見しは昔、関東に盗人多く有つて諸国に横行し、人の財産をうばひとり民をなやまし、旅人の衣装をはぎとる。かれを在々所々にて捕へ首をきり、はたもの火あぶりになし給へどつきず。然処に、下総の国向崎といふ在所の傍に、甚内といふ大盗人有りしが、訴人に出て申しけるは、関東に頭をする大盗人千人も二千人も候べし。是皆古名を得しいたづら者、風魔が一類らつはの子孫どもなり。此者どもの有所残りなく存知たり、案内申すべし、盗人狩し給ふべしと云。江戸御奉行衆聞召し、願ふに幸哉と仰有つて、誅伐追討の為人数を催し、向崎甚内を先立て、関東国中の盗人を狩り給ふ。爰の村、かしこの里、野の末、山のおくに隠れ居たりしを、せこを入れて狩出し、あそこへ追つめ彼処にせめよせ殺し給ふ事、たとへばいにしへ頼朝公富士のまきがりし、数のかせきをころし給へるがごとし。関東の盗人残なくたやし給へば、世中静なる所に、向崎甚内は盗人がりの大将給はりたるとて、いたづら者を多く扶持する、香餌の許にけんぎよのあつまるがごとくなれば、たゞ大名の為体にて国々を廻る。先年秀吉公の時代に、諸国の大名京伏見に屋形作りし給ひ、日本国の人の集りなり。石川五右衛門と云ふ大盗人、伏見野のかたはらに大きに屋敷をかまへ屋形を作り、国大名にまなんで、昼は乗物にのり鑓長刀弓鉄砲をかつがせ、海道を行廻りおし取し、よるは京伏見へ乱入り、盗みをして諸人をなやます。此事終には顕れ、石川五右衛門は京三条河原にてかまにていられたり。今又向崎甚内がふるまひも是によく似たりと皆人云ふ所に、爰彼処よりさいげんあく、盗人をとらへ引きて江戸へ来る。いかなる者ぞと問給へば、是は向崎が被官、かれは甚内がけんぞく也と云。御奉行衆聞召しとかくにきやつは大盗人諸人のみせしめとて、向崎を捕へ首につなさし馬にのせ旗をさゝせ、江戸町を引めぐり、浅草原にはりつけにかけ給ふ事、慶長十八丑の年なり。淮南子に、よくおよぐ者はおぼる、よく乗る者はおつ。おの〳〵其よくする所を以て却て、自わざはひをなすと云へるが如く、此者終には盗人の罪をえたり。夫よりこのかた国々日を追ひ月をふるに随つて、戸ざさぬ御世となり、東海道東山道の旅人迄も腰に金をつけ、かたに銭をかつぎあるくにさはりなし。御代の宝をはこぶ駅路と云ふ前句に、白波のたたぬ山をば夜越えてと専順付け給ひぬ。古歌に、今もかも戸ざしはさゝぬ旅人の道ひろき世に相坂の関と、よめるも思ひ出でにけり。かゝる直なる御時代にあひぬる物哉と悦びあへり。
見しは今、江戸はたご町に助四郎と云者ふうふいさかひ、のくべきといへば、のかれじといひてやむ事なし。人聞きて世間に女をめとるに五不取と云て五つの品有り。三不去と云て三つの品有り。七去と云て七つの品有る事をあらはせり。婦に七去とは、父母にしたがはざるを去る、子なきを去る、
淫なるを去る、うはなりねたみするを去る、
悪疾有るを去る、多言なるを去る、物をかくし盗するをば去る、これ孔子の語なり。然則ば助四郎仔細ありてこそ去らめ、のかれじとは
避事也といふ所に、此女町の両御代官へ参りて庭中に申しけるは、我身男に二十年つれあひ
致し、十二になるをのこ一人、七つに
【 NDLJP:339】なるむすめ一人、又当年くわいにんいたし、三人の子供の母を去るべきと申す。いたづら男を召よせられ御沙汰に預るべしといふ。両御代官聞召し夫婦のいさかひ家々に有る事也。女の男にしたがふ事、
若草の風にしたがふがごとしと文集に見えたり。扨又女は三従とて、一世の間家をもたず一
期人にしたがふと也。いとけなうして親にしたがひ、中にして男にしたがひ、老いて子にしたがふ。是を女に三つの家なしとこそ申されし。男には兎にも角にも随ふべき事也と仰せられければ、女、たのむ木の本に雨のたまらぬ心地して、袖をしぼりなく
〳〵帰りぬ。
見しは今、かんれいといへる人、近年江戸町にありしが、此人心はつたなくて外見更に人に似ず。ひとへに異相を学び、
才智利口に有つて云ひけるやうは、
伯夷、
叔斉、武王につかへず
首陽山に入つて
蕨をくらふ。
麻子が云、君達は如何なる賢人なれば
山渓を愛するや。伯夷が云、武王不義なる故に、周の粟を食せずわらびを食すと云。麻子が云く、
普天の下
王土にあらざる事なし、
率土の
民王臣にあらずと云事なし。なんぞわらびを食するや。是を聞きて二人わらびを食せず、七日のうちに
餓死す。是を麻子がせめと云伝へり。そのかみ伝へ聞く、賢人おほしといへども、かく心おろかにしてうゑ死たる者を
末代に至て賢人と沙汰する人、是又伯夷叔斉とおなじき
愚痴の人なり。
小隠は
陵藪にかくれ、大隠は
朝市にかくる。されば心ふかくも身をかくす山と云前句に、花さけばうき世の人になりはてゝと、
宗祇付けられたり。此句誠に世を捨てたる句なり。世をのがるゝ事たゞわが心に有りと云ひて、或時は詩を作り、或時は枯木に花の咲くやうなる物語のみせり。故に此人を賢人といふ。老人聞きて、愚なる云事ぞや、大才博学に書を覚え、詩文を作り、弁舌たれる計にて賢人とは心得べからず。
世説に云、
褚季野物いはずといへども、四時の気又備はると云々。季野はかる
〴〵と物いはぬ人なれども、心中に分別のわきまへ有り。
胡曽が詩に、
首陽山は倒れて平地となるとも、はくいしゆくせい賢名は
失すべからず。是誠の賢人也とこそ作りたれ。
先哲の言葉にも、外に
賢善精進の相を顕す事をえざれ、内にこれをいだけばなりといへり。此人
寒嶺と名付たりしは、伝へ聞く、賢人寒山にひとしきとや。
寒山拾得は
散聖なり。もろこしに
出生文珠普賢の
化身、いかでおそれざらんや。
外相れんちよくにして賢相をまなぶと云とも心は
奸賊たり。
心事境界さびずして賢人といひがたし。左様の家風にこそ等閑の言句もうるはしく有るべけれ。寒山はわが心月に似て、へきたんすんで高潔たりと云て、ぢんあいをはらつて見られた。拾得はせいじんにてまします。わが心月にひせず、かへつて
円欠ありといはれた。爰は
半月の時も有り、
満月の時も有つた時がゑんかんともにかけぬるよ。賢人の心を歌に、まろくてもまろくあれかし我心かどの有るには物のかゝるにとよみければ、又聖人の心をまろかれと思ふ心のかどにこそありとあらゆる物はかゝれりと詠ぜり。実まろかれと思ふこそ一つの角よ。去程に賢人は時を知て国につかへ、時を見て山に入り、
樹下石上に有つて心を安くし、
万事無心一
釣竿、三公にもか
【 NDLJP:340】へず此江山などと云て、たゞおのれが心をやしなへり。けいかうは山沢にあそびて魚鳥を見れば、心たのしむと申されし。
陸機文の賦に、石、国を包みて山高く、水、珠をいだいて川こびたりと云々。人も内に徳あれば智をふかくかくすといへども、形にあらはるゝ所常の人にかはりてよきといへり。扨又聖人に心なし、万人の心をもつて心とす。塵にまじはつて
蓮の泥にそまぬが如し。
寒山は清月を詠む物のひりんにたえてなし。吾をして如何かとかんといへり。拾得は吾心水に比せず却つて
清濁有り。先心事より
掃除して見れば、世々の秋天月も又塵と申されし。
真実の
内証は同じといへども、賢人は浅く聖人は深しと千古の記する文にも有り。左伝に少が長をしのぐと云々。
文選に云く、桀が犬
尭を吠えしむべし。
跖が客由をさらしめつべしと云々。此句の昔を以て今をさつするに、
寒嶺、
伯夷叔斉をとがむるは、桀が犬の類ひなるべしといへり。
見しは昔、
当君武州
豊島の
郡江戸へ御打入よりこのかた町
繁昌す。しかれども地形広からず。是に依てとよしまの
洲崎に、町をたてんと仰せ有つて、慶長八卯の年日本六十余州の
人歩をよせ、
神田山をひきくづし、南方の海を四方三十余町うめさせ、
陸地となし其上に在家を立て給ふ。昔
平相国清盛公
津の
国ひやうごの浦に新京をたてんと、七ヶ国の人夫を集め、島をつき給ふに、崩れて島
成就しがたし。其後石面に一
切経を書写し、其石にてつきければ、誠に
龍神納受し給へるにや、島成就し、是に依て
経島と名付たり。其島の上に三町ほどの在家を立て、末代に名を残し給ひぬ。是を今の豊島にくらぶれば、十にしてわづか其一つに及べり。此町の外家居つゞき、広大なる事、南は品川西はたやすの原、北は神田の原、東は浅草まで町つゞきたり。豊島の名におひ民ゆたかにさかゆる事、それしんたんの都は家居百万間とかや、中々是を比ぶるにたらず。天地かいびやくより慶長迄の世をかんがふるに、此御代にはしかじ。上一人の御恵み深ければ、下万民皆
栄華にほこる。君が世は千世に一たびゐる塵の白雲かゝる山となるまで、久しかれとぞ祝し侍る。
聞しは今、吉野勘兵衛と云人、あかつきのねざめ
侘敷くして、まうねんさま
〴〵起ると云。かたへなる人聞きて、たゞ
〳〵道を学び給ふべし。学ぶ道なければあかつきのねざめ侘しき物也。
妄念をはらふ
中立、学道よりよろしきはなし。勘兵衛聞きてわれ
鈍性也。学ぶ共益有るべからずといふ。老人云、それ十
能七
芸とやらん其外道様々の品多かるべし。万事ふるゝ事に益有り。一道まなぶときんば其道したしき友となり、影のかたちにしたがひ、ひゞきのこゑに応ずるがごとく、まどろめば夢に見え、さむれば眼にさへぎり、手にふれ身にそふ心地して、此道の友
明暮はなれがたし。昔守翁といひつる
絵師龍をすきて書きつれば、龍、
姿を目前にあらはす。此心を引きかへて、見ゆらめや心の松に時鳥と
宗牧せられたり。生れてたつとき人なし。ならひえぬれば智徳となる。
初心不勘にして心なしと見ゆ
【 NDLJP:341】る人も、よき一言といふ事有る物也と、本文にも見えたり。人毎に我がこのむ事には失を忘れて愛し、わがうけぬ事には失をもとめてなんぜり。いづれの道もよく学び給はゞ名をうべしといさめければ、爰に
禅師の有りしが是を聞きて、いや
〳〵方々云ふ所本意にあらず、是皆世間をいとなむ風俗にして、
菩提を期する志しはかつてなし。世の
無常をくわんずるに、なすわざ皆いたづら事、ねてもさめても
妄想に著して、
生死の道に迷ひあかせり。真実の益をもとめんは
仏道也。人に善悪の性有り。
悪縁たる六塵の境にたいすれば
妄業つくりやすし。勝縁たる三宝のきやうにむかへば、
妙用あらはれやすし。よしなき世間のことわざに
妄執をまさんよりは、
経巻を見て大乗のえきを信ぜんにはしかじ。何事もふるゝ所に心付く物なれば、かりにも不善を遁れ、あからさまにも
聖教に一句を見れば、
多念の非を知るが故に、まうねん去つて心
閑なり。扨又孟子に、鶏鳴きておく、じゝとして善をする者は舜が徒也。鶏鳴いて起き、
孳々として利する者はせきが徒なり。
舜と
跖との分をしらんとほつせば他なし。利と善との間なりといへり。此利善の間を分明すれば、よるのねざめもあるべからずと申されし。
聞しは今、或人云けるは当世心得ぬ
俗言多し。中にも主人を
檀那といひ、
等閑なるを
如在といひ、鎧を
具足といふ。されば舞は中古かしこき人作りけるにや、世上にあまねく翫び給ふせつたいに、
佐藤庄司次信忠信が為に、具足を二領をどし立る。又たかたちに鈴木三郎
御ぐそく一領給はり討死せんと舞ひ給ひぬ。これらの言葉古き文の義理にそむき、文字のよみも相違せり。夫文道は公家武家学び給へる所なり。猶もつて今は天下治り国民豊にして、下々迄も筆道をたしなみ、文字の正理を正し、
言句のせんさく有りといへども、右の詞をばあへて以て咎むる人なし。文にも記し言葉にもいひかはし給ひぬ。かやうのそゞろ事更に益なしと云ふ。老人聞きて、いにしへも今も理もなき事をとなへ、名目計にて云伝ふるよしなし事多し。是尋常の習ひとがむべからず。我朝は万事
唐国の例を用ひ来るといへども又相違もあり。唐に御の字をば天子にのみ用る。今日本には上下に渡る。然共我朝にも昔より今に至迄、御の字を禁中には用ひ給ひぬとかや。扨又貞水元年武蔵守平泰時が作りたる
式目に、
御成敗の式目と御の字を置く事、将軍の
御成敗にて私の義にあらざればなりと注せり。其頃まではかくぞ候ひける。様と云ふ字も我若き時分、関東にて上なる人に用ひしが、当世は上下に用る。されば古歌に
箸鷹の身寄のかたの雪消えて貝崎の羽や
白符なるらんとよめり。鷹に身より只崎と云ふ羽有。鷹の右のかたばみより左の方は只崎也。去りながらまた、箸鷹の身寄只崎定らず大宮人は右にすゑけりと詠める歌もあり。其故如何となれば、往古には天子
御狩の御時、
月卿雲客右にすゑて
供奉し給ふ。左は右より諸事不自由也。其後武家鷹逍遥と成て左にすうる。是は刀をぬくべき為也。義をたゞし給へる公家武家の間にさへかくの如きの相違有り。是のみならず、昔の書物にもちがふ事多しといへども、今さらとがむる人なくとなへ来ると知られたり。ほとんど世上の人口あざむくは大いなるひが事也。
【 NDLJP:342】すべて
往事をとがめ益なかるべし。
見しは今、江戸町に
下岡才兵衛と云ふ人、京へ
上る。始ての道なればよきつれもがなと云ふ所に、
座頭聞きて、われ此度官の為上洛仕る。けちえんにめくらを同道有てたべかしといふ。才兵衛聞きて道しれるつれをこそ願ひつれ。めくらは却つて道のさまたげと思へども、
結縁なりとて同道し、品川に著きたり。然るに川崎への
駄賃銭出入に付て、才兵衛馬主と問答し
断やむ事なし。
座頭聞きてあら詮なき問答哉、川崎迄の駄賃定りて候程に、われは代物を渡し馬を取りたり。
馬方申すごとく銭を渡し道を急ぎ給へといふ。才兵衛聞きて、座頭めくらなれば、京迄の遠路駄賃差引をばわれに聞かずしてわたす事、
不届者也としかる。座頭聞きて、我はじめての上洛なれば、江戸より京迄道のつもり
馬次の在所を人によく尋ね覚えたり。其上一里に付て代物十六文づつの定りにてかくれなし。御存じなくば語りて聞かせ申さん。江戸より二里参りて
品川、是より二里半行て
川崎〈二里半〉神奈川〈一里半〉ほどがへ
〈二里〉戸塚
〈二里〉藤沢〈三里〉平塚〈一里〉大磯〈四里〉小田原〈四里〉箱根〈四里〉三島〈一里半〉三枚橋〈二里〉原〈二里〉吉原〈三里〉蒲原〈一里〉由井〈二里〉清見〈一里〉江尻〈三里〉府中〈一里〉鞠子〈一里〉
岡部〈二里〉藤枝〈二里〉島田〈一里〉金谷〈二里〉新坂〈二里〉懸河〈二里半〉袋井〈一里半〉見付〈三里〉浜松〈三里〉前坂〈一里半〉荒井〈一里〉白須賀〈二里〉二河〈二里〉吉田〈二里〉御油〈一里〉
赤坂〈二里〉富士川〈二里〉岡崎〈三里〉池鯉鮒〈三里〉鳴海〈一里半〉宮〈七里舟〉桑名〈三里〉四ヶ市〈三里〉石楽師〈一里半〉しやうの〈二里〉亀山〈一里半〉関の地蔵〈二里〉坂
〈二里〉土山〈三里〉水口〈三里〉石部〈三里〉草津〈四里〉大津〈三里〉京迄道合百二十四里也と云。才兵衛聞きて、盲目奇特に道を覚えたるといへば、座頭聞きて、此上は京迄駄賃の差引をばめくらに御まかせ候へとて遠路駄賃の問答もなく、目有人が目くらに教へられ、江戸より京迄のぼり付きたり。さればいにしへ、燕、蜀両国の戦ひ有りしとき、一盲衆盲を引くとこそ聞きつれ。盲人が明眼を導く事世に稀なりといへば、老人聞きて愚なる云事哉。虫さへ道を教ふるいはれ有り。吉備大臣は元正天皇のけんたうし也。在唐の時、野馬台の文をよまんと欲す。文義さとしやすからず。蜘蛛、糸を引きて道を教ふる。則ち読む事を得たり。扨又木人道を教ふるためし有り。諸越黄帝の御代に蚩尤と云へる者、たくろく山のはんせんと云ふ所にて、三年の間黄帝と戦つて、蚩尤すでに亡びんとする時、口より霧をはきて天下を暗ます故に、東西を失ふ。黄帝工夫をもつて風后と云ふ臣下に命して指南の車を作り、其上に木人有つてゆびを南にさして教ふる。帝の軍兵方角を知つて蚩尤をほろぼす。是木人のをしへ也。故に指南と書くは此いはれ也と云ふ。かたへなる人聞きて、また針有つて人に道を教へたる事有り。われ先年伊豆の国より伊勢へ渡海す。其海の間に駿河、遠江、三河、尾張四ヶ国有りといへども、舟をかくる湊なし。故にこちの順風をえて夜昼三日に伊勢の湊へ著岸す。若其うち風かはりぬれば、伊豆へもどるかさなければ舟をそんさす。日本海中にたぐひなき大事の渡也。然るに我乗つたる舟、日中に乗出し夜に入て大雨しきりにふり、俄にあらき風四方よりもみあはせ帆を吹きおろし、波にゆられてしばしたゞよひ前後方角を失ひ、今の風は舳より吹たりと云者有り、おも梶とり梶より吹きたると云者もあり。たゞ波の【 NDLJP:343】そこにしづむ心地せし所に、かんどり磁石を持ち舟そこに入り火を灯し、水に針をうかべて見れば、南を教ふる。皆人悦び、風はかはらず東風也といふ。其時舟中の人々悦び、順風にほをあげ風波の難をのがれ、伊勢の湊へ翌日著岸す。是ひとへに針のをしへなり。かく木、針すら人に道を教ふるためし有り。人はたゞ心ををさむべし。頼朝公は関東に有つて西海の平氏を亡ぼし、謀を万里の外に運らし、天下を治め給ひぬ。かしこき人は柴の庵の内に居ながら後世の道をよくしる。万法共に目をもて見んとするは愚也。たゞ一心の工夫にあり。目くらはうつくしき色をも見ず、つんばは面白声をも聞かず、是は形にある片輪也。扨又形のみに限らず、心に智恵なければ心も片輪にして聾盲のごとし。阿那律は眼つぶれて後三千界を見ること、たなごころの内なる物を見るが如し。閉㆑目則見、開㆑目則失の古き言葉、今思ひあたれりとまうされし。
見しは今、江戸繁昌故、日本国の人参り
家作りなすによりて、三里四方は野も山も家を作り、
寸土のあきまなし。然に東南の海ぎはによし原有り。色このみする
京田舎の者共此よし原を見立て、けいせい町をたてんと、よしの
苅跡爰やかしこに
家作りたりしは、たゞ
蟹の身のほどに穴をほり、住居たるがごとし。古歌に、
蘆原の
苅田のおもにはひちりていなつきがにや世を渡るらんとよみしも、此
傾城町にこそあれと笑ひたりしが、日を追ひ月を重ぬるに随つて、此町繁昌する故、草のかり屋を破り、西より東、北より南へ町割をなす。先づ本町と号し、京町、江戸町、伏見町、境町、大阪町、墨町、新町と名付け、家居びゝしく軒をならべ板ぶきに作りたり。扨又此町を中に籠めて其めぐりにあげや町と号し、
幾筋共数しらず横町をわり、のうかぶきの舞台を立ておき、毎日
舞楽をなして是を見する。此外
勧進舞、
蛛舞、
獅子舞、すまふ、じやうるり、いろ
〳〵様々のあそびしてぞ興じける。
柴の見物をかごとになし、僧俗老若貴賤此町に来りくんじゆす。ちからをもいれずして人をまどはすけいせいのはかり事思ひの外也。昔いこくの事なるに、いうわうをかたぶけ奉らんとて、狐、美女に変じてきさきとなり、
烽火を見て笑ひ、百のこびをなしければ、
御門うれしき事に思召し、それ故にいうわう終にほろびはて給ひぬ。彼女
尾三つある狐と成つてこう
〳〵と鳴きて古き塚に入りたり。狐、人をとらかすには必びじんと成つて顔色よく、かしらは雲のびんづらとへんじ、おもてはうつくしきよそほひとなり、みどりのまゆ花のかほばせをうなだれ、こつぜんに一度笑へば千万のわざありとかや。女は陰なり、狐におなじ。いづれも夜をこのむ。かるが故に、古歌にもおほくよみそへて、古狐、老狐、ひる狐、わか狐などと見えたり。ふる塚の狐のかはく色よりも人の心のむくつけきかな。人もみなあなしら
〴〵し老い狐いとしもひるのまじらひなせそとよめり。誠に江戸よし原のひる塚には、天地も動き目に見えぬ
鬼神も
来現有りつべしといへば、有識の人申されけるは、夫人は見るに迷ふならひ、いかにいはんや、江戸吉原の若狐にまよはぬ人有るべからず。されば
出家は仏のかたちを学び給へば、
【 NDLJP:344】誠に
殊勝有りがたくおもひ侍る。其上一子出家すれば九
族天に生ずと説かれたり。又人有て七宝のたふばをたてん事、高三十三天に至るといふとも、一日の出家の
功徳にはおよびがたしといへり。されども心は俗出家同じかるべし。
色欲に迷ふ
凡夫なれば、出家は里を遠くはなれ、
山居閑居が本意成るべし。仏法我朝にはんじやうする事は、第三十二代のみかど用明天皇御宇なり。此帝三宝を
信授し給ふ事言葉にのべ尽しがたし。常の
御詠吟に、智者は秋の鹿鳴きて山に入り、愚人は夏の虫飛んで火にやくと、のたまひけるこそ有難けれ。ぼんなうは家の犬、うてども門をさらず。
菩提は山のかせぎ、まねけども来らずといへり。仏、鹿と成りて衆生を利
益し給ふ事有り。是により
鹿野苑と名付けたり。出家は郷里をさり山里にかき籠りて仏につかうまつりてこそ、つれ
〴〵もなく心のにごりもきよまる心地有るべけれ。
戒行もかけ内証も明ならずしては、
所得の
施物罪業にあらずと云ふ事なし。南山の
道宣律師は十
方世界女人有所に則
地獄有りといへり。
阿含経に一たび女人を見れば、ながく三
途の業をむすぶ。いかにいはんや一度犯しぬれば
無間地獄に
堕つと説かれたり。然に末代の人は、性なく欲ふかく、徳うすく智浅くして、先賢の教古聖のいましめにかなふべきとも見えず。
今生の
名利名聞を
明暮心とせり。
頭をそりても心をそらず。されば、
墨染に心のうちはそらずして世わたり衣きぬ人ぞなきと歌人もよみしぞかし。三
毒五
欲をほしいまゝにして、かつて生死はなれがたし。
東坡が詩に、桑下あに三宿のしたひなからんやと作れり。
沙門をば出家と名付る上は此二字に辱ぢざらめや。出家をくはしくいはゞ、三
界の
火宅を出づるを云ふと也。出家は王者をけいせず、父母をも拝せずと
恵遠法師のたまひし。経にも忍を捨て無為に入る、是
真実の
報恩者と説けり。悉達太子はだんとくせんに入り、
迦葉そんじやはけいそくざんに入り給ひぬ。仏法の大意は
生死流転をたち、菩提の
妙果を期すべしといへり。
遁世は出家の
行儀也。扨又身は家に有て、心家を出づるといふは、形は塵にまじはりて心ざし道をしたふ、是誠の
道人古往にもまれなり。まして末代に至つてをや。見る事聞くことにまよふ
人界なれば、世をのがれ仏道をもとむるが本意なるべし。
法華経五巻に、入里乞食将一比丘と説かれたり。此文をふかくわきまふべき事也といへり。愚老聞きて、実に
殊勝なる物語、出家の事はさておきぬ。頭に雪をいたゞく身も、此うかれめを見ては思ひの外なる心出来る。此
道りつぎの外といひならはせり。況んや若き人たちに彼遊女を見することは、猫のつなをはなちて
生魚を見するにことならずや。
聞しは昔、関東北条左京大夫平朝臣氏康公は、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野を治め、常陸下野へ手をかけ、関八州に威をふるひ、
文武至剛の名将たり。其比
氏康に
敵対の人々、安房に
里見左馬頭義弘、当陸に
佐竹太郎信重、
下野宇都宮弥三
郎国綱、越後に
長尾平景虎、甲斐に
武田源信玄、駿河に今川義元、東西南北に敵有つて戦ふ。
諸侍義を守り節を
重くし、名を惜み命をかろんじ、いさみすゝんで死をあらそひ、うちつ討たれつ、
敵御方の
骸骨地にしき、血は野草をそめ、鬨の声矢叫びの音しんど
【 NDLJP:345】うしやむ時なし。然る処に弘治二丙辰の年
扱有つて、氏康、信玄、義元、三人の
中無事に成りぬ。其上
氏康の子息
氏政は信玄のむこになり、義元
息氏真は氏康のむこに定め、信玄
息義信は義元のむこに定め、三方へ御こし入れて、北条、今川、武田の三家一
味に成りぬ。此無事の仔細三人の大将言葉に出さずといへども、心底には
何れも天下に望をかけ、無事になると知られたり。
関東侍は先例を思ふ故にや、小身なる人も天下に望をかくる。然に義元は
駿、
遠、
三の軍兵二万五千を
引率し、駿府を打立ち京都へ
攻上る。尾州に入り、諸勢打散つて
乱妨なす。義元は松原にて酒もりし給ふ所に、織田三郎信長六七百の人数にて
馳向ひ、御方にまなんでおしよせ、尾張の国でんがくがくぼど云所にて、
永禄三年庚申五月十九日義元は信長の為に亡び、同八年五月十九日
公方光源院義輝公は三好が為に
生害なり、
三好修理亮子息左京大夫天下を二代持つ。然るに信長、美濃、尾張、三河、三国の勢を
引率し、西国へせめのぼり、同十一年十月十五日
入洛、其以後公方義昭公再び
帰洛し給ふ。同十二年に三好父子は信長に誅せられ、
氏康は
元亀元年十月三日病死、氏真は
伯父信玄に追出せられ
後卒す。
太郎義信は父信玄にころされ、信玄は
天正元年四月十二日
病死す。景虎は同六年三月十三日
卒去す。されば
氏康、
信玄、
景虎此三人の内一人存命においては、信長めつばうたるべきに、信長天運つよき故也と諸人さたせり。同十年三月十一日勝頼同太郎信勝父子は信長公のためにほろび、同年六月二日信長公三位中将信忠父子は明智日向守光秀がために滅亡し、同月十三日に光秀は羽柴筑前守秀吉に討たれ、
柴田修理亮勝家、
織田三七信孝は秀吉のために誅せられ、其後京乱しづまりぬ。同十八年七月十一日氏政は
秀吉公のために
切腹し、
氏直は高野山にいり、同十九年十一月四日
卒逝す。関白秀次公は文禄四年七月十五日高野山において太閤のために
切腹し、
義昭公は慶長二年八月二十八日にこうじ給ひぬ。秀吉公は同三年八月十八日
他界也。
愚老永禄年中に生れてよりこのかた、天下に望をかけ給ふ大名右に記すごとく二十一人、此内十四人は
弓箭にて卒し、七人は
病死也。扨又右之内八人は
果報めでたう天下に義兵をあげ、武将の位に即き給へり。されども内六人は弓箭にて果て給ひぬとかたれば、老人聞きて申されけるは、論語に人遠きおもんぱかりなきときんば必ちかきうれひ有りといへり。一生の間身終るまで
思慮なき時は、必一日
片時の内にも禍あるべし。人間はかなき有様、譬へば夏の蝉時しりがほに鳴くを、うしろに
蟷螂おかさんとす。雀又いぼじりを守る。其木の下に
童弓を引きて射んとよる。足もとに
深谷有るをしらず、身をあやまてり。皆是まへの理を思ひて後のがいをかへりみずと、おんせうけうが云ひおきしも、いま思ひ知られたり。