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慶長見聞集/巻之七

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オープンアクセス NDLJP:331
 
巻之七
 
 
 
見しは今、江戸の境地けいぢ山海の眺望比類てうばうひるゐなかりけり。中にも、見る度に珍しければ富士のたけいつも初雪の心地こそすれと口すさび、僧士の古風思ひ出で侍りぬ。夫世に人の賞翫しやうくわんし給ひける、色品々の風流ふうりうかぎりなしといへども、中にも雪月花こそわきてことなるながめなれ。され共雪はきえ月はかけ花はうつろひ常ならずして人の心苦しめり。然共、富士の雪は時をしらずと思ひしに、古歌に、富士の根にふりおく雪は六月みなづき十五もち日にけぬれば其夜ふりけりとよみたれば、さもやと思ひ詠るに、十五日にも消る間なし。新千載集しんせんざいしふに、けぬが上に珍しげなく積るらし富士の高根に今朝の初雪と詠ぜり。むかし氷室ひむろの雪を御門みかどへ御調物に奉る。是を主水もんど受取る。富士、丹後のいただき山、山城の松が崎より上る。古歌に、こほりゐて千年ちとせの夏も消えせしな松が崎なる氷室ひむろと思へばと、詠ぜり。扨又建長の比ほひ鎌倉において六月炎暑みなつきえんしよの節に当て富士の雪を召しよせ、珍物ちんぶつにそなへ給ひしが、民の煩ひとて後やめられたり。鎌倉より富士見えぬる故也。されば頼朝公の歌勅撰ちよくせんに多く見えたる中に、後撰集ごせんしふに、富士のをよそにぞ聞きし今はわが思ひにもゆる烟なりけり。新古今しんこきん旅の歌に、道すがら富士の烟も分ざりきはるもなき空のけしきに。此二首は、前右大臣頼朝詠じ給ひぬ。今江戸に住む人には家を南向に作り、西へ窓をあけ、オープンアクセス NDLJP:332高嶺の雪を居ながらに明暮あけくれ絶えぬ詠めせり。晴れたる雪は夏の富士のと云前句に、武蔵野のみどりの末や天の原と、智温法師ちをんほうし給ひぬ。しよく載集ざいしふに、言の葉もおよばぬ富士の高根かな都の人にいかゞ語らんとよめり。三国無双ごくぶさう名山めいざん都人あづまに下り、時しらぬ山の雪を見て、目をおどろかし給へるもことわり也。さんぬる年八条殿江戸へ御下向げかう、富士を見給ひて、から人の歌にありとも見せばやなまことの富士の山のすがたをとよみ給ふ。玉葉集ぎよくえふしふに、目にかけていくかになりぬ東路あづまぢや三国をさかふ富士の柴山しばやまと詠ぜり。此山三州のあひだにあり。扨又万里が詩に、皆雪にして雲なし。天それみね、夏寒うして常住じやうぢう冬をしらずと作れり。此山は人王にんわう七代孝霊天皇かうれいてんわうの御宇に、一夜に湧出ゆしゆつせしとなり。又或説に此富士の山は人王二十二代雄略天皇ゆうりやくてんわうの御時一夜に出来たり。たかさ由旬也ゆじゆんなり。雲霞にかくれ見付たる人なかりしに、人王四十二代文武もんむ天皇の御宇ぎようにえんの行者ぎやうじや見付、此山をふみそめ給ひしよりこのかた、皆人のぼる。中空より下はこんりんざいより出で、中空より上は天よりふりたり。然間さるあひだ天地和合てんちわがうの山といへり。文人ぶんじん人此山をほめて作られし事あげてかぞふべからずといへば、老人聞きて此役行者えんのぎやうじや舒明じよめい天皇てんわう六年甲午かふご正月朔日ついたちたんじやうす、大和国葛城上郡茆原村かつらぎかみのこほりうばらむらの人、俗姓ぞくしやう賀茂氏かもうぢ也。三歳の時父におくれて、七歳迄は母の恵みにて成人す。孝子の志浅からず。童子の名をば小角といふ。五色のうさぎにしたがつて葛城山かつらぎやまのいたゞきにのぼり、藤衣ふぢごろもに身を隠し、松のみどりに命をつなぎて、孔雀明王くじやくみやうわうの法をしゆぎやうする事三十余年、りうじゆ𦬇ぼさつにあひて五字三みつ法水ほふすゐを伝へ給へり。伊駒いこま二上岳ふたかみだけ大嶺おほみねを行きめぐり、葛城山かつらぎやま岩屋いはやに有つて秘法ひふを行ひ給ひし時は、鬼神きじん使者しゝやとし水をくませ、薪をとらせ、諸越もろこしへも渡りけるにや、道昭和尚だうせうをしやう勅を請けて法をもとめに唐へ渡りし時、行者ぎやうじやにあひたりといへり。葛城一言神のざんげんにより伊豆の大島へながされては、海の上をあるき富士の高嶺たかねに通ひ給へり。昔らかんたち水歩のくつをはき、水上を渡りたる事をこそ聞伝へたれ。行者ぎやうじやかゝるふしぎ有るにより、御門聞召しいそぎ勅使ちよくし立て都へめしかへされたり。日本において寿命じゆみやうの人なりといへり。
 
 
見しは昔、当君たうくん武州江戸へ御打入おんうちいりは、天正十八寅の初秋なり。其頃までは高きもいやしきも、松の柱、竹のあみ戸、むぐらの庵、蓬が宿やど、草ぶきの小家こいへがちなる軒のつまに、咲きかゝりたる夕顔のしろき花のみにて、かやり火のふすぶるもあはれに見えておほかりし。扨又ひかる源氏のいにしへを六十でふに委しくあらはせり。よもぎふの巻には、源氏よもぎふの宿へかよひ給ふ事をかけり。源氏の御歌に、尋ねても我こそとはめ道もなく深きよもぎのもとの心をと、よみ給ふ。故に末つむ花をよもぎふの宿といへり。狐のすみかと成りて、うとましうふくろふの声を朝夕耳ならしつゝとかけり。又夕顔ゆふがほの巻には、源氏の思ひびと夕顔の花の咲きたる宿におはしけるにより、夕顔のうへと申す也。をりてこそそれかとも見めたそがれにほのしろき花の夕顔、などと詠めさせ給ひて、五条夕顔でうゆふがほの宿へ通ひ給ひし慈鎮じちんの歌に、しづのをがけぶりいぶせきかやり火にすゝけぬ物は夕顔の花と、拾遺風体抄しふゐふうていせうに見えたり。いにしへは、オープンアクセス NDLJP:333いと物あはれなる事ども有しぞかし。扨又中昔の事にや有りけん、有る人絵書ゑかきたのみ、はんじやうの家居いへゐ、又わびしき庵の体を好みければ、望にまかせて家をゆゝしうかき、むね庭鳥にはとりのあがりたる体を書き、又草の庵に夕顔のはひかゝり、わびしきていを書きしと也。今江戸町の家作やづくりを見れば、二階三階のとちぶきかはらぶきにて軒高ければ、庭鳥のはねは中々およびなし。むねにはとびさぎ、こうなどが巣をかけてみゆる。扨又諸侯大夫の屋形作やかたづくりを見るに、たゞ小山のならびたるがことし。むね破風はふひかりかゞやく。其内に龍は雲に乗じて海水をまきあげ、くじやくほうわうはつばさをならべて舞さがる。是をふりさけみんとすれば、天津光あまつひかりうつろひまばゆくして、其かたちさだかに見えがたし。軒のめぐり門のほとりには、虎が風に毛をふるひ、獅子がはかしらする風情ふぜい、誠に生きてはたらくかと、身のけよだち、あたりへよりがたし。かゝる広大なる御時代にもあひぬる物かな。
 
 
見しは今、江戸町の門々に天下一万能斎日本無双者扁斎などと異様なる名を付て、金札に書付、海道に立ておきたり。有識いうしきの人申されけるは、人にまさらん事を思はゞ、学問をなして其智を人にますべし。然るときんば善にほこらず、是学問のちから也。此高札を見て思ひ出せる事有り。かも長明ちやうめいが海道路次ろじ記に、うつの山を越ればつたかへで茂り昔の跡たえず。彼業平が修行者すぎやうじやに言伝しけんほど、いづくならんと思ひやる道のほとりに、札を立てたるを見れば、無縁むえん世捨人よすてびと有るよしを書けり。道より近きあたりなれば、ちと入りてみるに、わづかなる草庵くさのいほりの内にひとりの僧有り。画像ぐわざう阿弥陀あみだを一ぷく懸置かけおき、其外さらに見ゆる物なし。発心ほつしんのはじめを尋ぬれば、当国たうごく者也ものなり。さして思ひいたれる心も侍らず。其身堪へたる方なければ、理をくわんずるに心くらく、仏を念ずるに性物しやうものうし。難行易行なんぎやういぎやうの二つの道ともにかけたりといへども、山中に有つてねぶれるは、里に有つてつとめたるにはまさる由、或人のをしへを聞きしより、此山に庵を結びあまたの年を送る由を答ふ。許由きよいう頴水えいすゐの月にすみし、おのづから一べうのうへは、殊更ことさら烟たてるよすがも見えず。しば折りくぶるなぐさみ迄も思ひ絶えたるさま也。身を孤山こざんあらしの底にやどして、心を浄城じやうの雲の外にすませる、いはねどしるく見えて、中々なかあはれに心深しと書きて、世をいとふ心のおくやのこらましかゝる山辺やまべ住居すまひならではと詠ぜり。かくのごときの扎をこそ、聞きても見まくほしく殊勝しゆしように思ひ侍れ。わが名誉めいよを金札にあらはし、海道に立ておく事、世のひけんをもはゞからざること云ふに絶えたり。昔唐国たうごくには智人高位ちじんかうゐに至る。されば城北七里じやうほくしちり昇仙橋しようせんけうあり。馬相如ばしやうじよと云者都を出て学問所がくもんじよへ行く時、此橋の柱に題して云、大丈夫駟馬だいぢやうぶしばの車に乗ぜずば、二度此橋を過ぎじと云々。心は我学問がくもんをとげて高位の身と成つて、しばの高車にのぼる身とならずば、二度此橋を渡らじとちかつて橋柱はしばしらに書付て行きけるが、終には思ひのごとくなりけるとなん。堀川ほりかは百首の橋のたいの歌に、思ふ事橋のはしらに書き付て、昔の人はくらゐましけりと、匡房たゞふさ詠めり。古語に人のおのれをしらざるをうれひざれ、おのれが人をしらざる事をうれひよといへり。よろづに上手とオープンアクセス NDLJP:334いはれし人は、われと威風をなのらねども、世上にひろく沙汰せり。少智の人は身をほめ他をそしりて我名をわれとあげんとする、是ひが事なり。しれらんをばしれりとせよ、しらざらんをばしらずとせよ、是しれるなりといへり。いづれの道も一道を学びうる事かたし。いはんや万能斎まんのうさいと名付くるはひが事也。扨又耆扁ぎへんと名付る医師は、耆婆扁鵲ぎぼへんじやく此二名を一名に付けたるに、やきはは天竺阿闍世王てんぢくあじやせわうの時の名医めいい也。平生ひそかに薬王樹やくわうじゆの枝をして、人の五ざう病根びやうこんを照し見て是をくづせり。詳に耆婆経ぎばきやうに見えたりと云々。扁鵲は周の末の戦国の時の名医なり。楊子やうしに、扁鵲ろじんにして、医、ろに多しと云云。へんじやくはろこくの人にて良医りやういの名をえたり。其時節そのじせつ世間のくすし皆、われはろの国の生れの者也と、人に信仰せられんとせしと也。すべてまねものをうらんとては、よき人の名をかる。是浅智せんちのはかりごと、愚人のあざけりを、古語にしるされたり。伝聞つたへきく老子らうし孔子こうし顔回がんくわいなども、異様なる名をば付給はず。人の名は外よりあらはすの本意なり。我と我名をあらはすはまことしからず。先哲せんてつもわれをしらずして外をしるといふ事、有るべからずといへり。故に己をしるをものしる人と、古き文にも見えたり。
 
 
聞しは昔、日本にて黄金見はじめし事は、人王にんわう三十四代推古すゐこ天皇御宇ぎよう十三年乙丑のとし、かうらい国よりはじめて渡りたり。扨又我朝にて黄金ほり出す事は、人王四十五代聖武しやうむ天皇御宇ぎよう天平勝宝てんぴやうしようはう元年己丑年奥州よりはじめて御門みかどへ奉る。銀は人王四十代天武てんむ天皇の御宇三年甲戌の年、対馬国つしまのくによりはじめてさゝぐると、いづれも古記に見えたり。されば大和国に金御岳かねのみたけといふ名所有り。古歌に、我恋のかねのみたけの金ならばみろくの世にもあはましものをと詠ぜり。又、しろがねの目貫めぬきの太刀をさげはきてならの都をねるはたが子ぞとよみしぞかし。かやうのことわりを聞きしに、昔はこがねしろがねまれなりとしられたり。春宵しゆんせうこくあたひ千金とは東坡とうばもやさしく譬へられたり。然処しかるところ当君たうくんの御時代には、諸国に金山出来、金銀の御運上ごうんじやう牛車ぎうしやに引きならべ、馬に付けならべ、まい日おこたらず。なかんづく佐渡島さどがしまはたゞ金銀をもつてつき立てたる宝の山なり。此金銀を一箱に十二貫目入合百箱を五十駄つみの舟につみ、毎年五艘十艘づつよき波風に佐渡島より越後のみなとへ著岸す。是を江城へ持運ぶ。おびたゞしき事昔をたとへてもなし。民百しやうまでも金銀をとりあつかふ事有りがたき御時代なり。かねたけの歌の心なれば、誠に今がみろくの世にやあるらん。仏の世ならずば万民いかでたのしまん。千も久しかれとぞ申しあへり。
 
 
見しは今、江戸町の道雨少しふりぬれば、どろふかうして往来安からず。去程に足駄あしだのはの高きを皆人このめり。猩々しやう酒履さかぐつを好み、江戸の人は沼履ぬまくつを好む。人猩かはれども、用る所は和漢ことならず。比しも春なれや、つばめさいげんなく飛来て、道のぬかりをはこぶ。されば霊陵山れいりようざんと云所に、石有り。雨ふれオープンアクセス NDLJP:335ば其石つばめと成て飛び、晴るれば又石となるとかや。歌に、ふれば鳥ふらねば本の石となる雨はつばめのなみだなりけりと詠ぜり。扨又見ればつばめの一つれの声と云前句に、石をうつしづくもふかくふる雨にと、宗尹そういん付け給ひぬ。演雅の詩に、つばめは居所なくしてけいしする事いそがはしと云々。愚老ぐらうつれづれのあまりに、つばくろめいくらの家を作るとも道のぬかりははこびつくさじと口ずさみ、海道かいだうを詠め居しに、とほる人を見れば、あたらしき小袖にをりめだかなる上下かみしも、道のぬかりをたどり行きしが、荷おひ馬にはたと行きあひ、けあげのどろをいとひがほにて、あなやと云ていそぎかたはらへよけんとせしを、馬かた是を見、いたづら者にて馬に鞭をはたとあつる。此馬おどろきはねければ、どろ水を此人に思ふまゝにぞあびせたる。のりごはなる上下も泥染となり、打しをれみともなき有様は、高野証空上人かうやしようくうしやうにんの京へのぼる道にて馬の日引たる男に行逢うて、堀へおとされ腹あしくとがめしも是にはしかじ。此人腹を立て、にくいやつめが馬のおひやうかな。此よごれたるいしやう上下かみしもをわきまへさすべしとしかる。馬かた聞きて、あらをかしの人の腹立はらだちや、物もいはざる畜生ちくしやうをあひてになしてのざふごんかや。御身はいしやう美々しくえもんけだかく引つくろひ、上下かみしもを著て人体にんていがましく見えけるが、馬車にものらずして、泥をいとふのをかしさよと、手を打ちたゝいて笑ひ行く。此人聞きていとゞ腹は立ちけれども、いたづら者の馬かたをあひてになすべきやうもなし。それよりつらく見えけるは、往来わうらいの人が立ちとゞまり、やれをかしや、泥まみれのをのこを見よとくんじゆして、指をさしてあざ笑ひ、海道に立ちふさがり、しばしは通路ぞなかりける。此人腹をすゑかねて四方をにらんで云ひけるは、泥によごれたる我姿が、をかしく有りてや笑ふらん。相手に主はきらふまじと、刀をぬいて切つてまはり死なんと云ひて狂ひければ、見物衆けんぶつしゆきもをけしあわてふためきにげんとするに、ぼくり足駄あしだにまとはつてひとりころぶぞさいごなる。四五百人の見物衆が、人の上に人が重り、しつまろびつおきあがらんと、泥にまみれてあがけども、皆うつぶきに重りて頭ももたげず尻もあがらず、どろの中へつらをつきこみ、手足にてどろをこねかへし、ひとりはひあがる姿を見れば、土にて作りし辻地蔵つじぢざうの雨にうたれて、あさましげに眼ばかりぞきらめきける。ちひさき子供は上よりおされどろを口よりのみ入れて、いきをえせねば皆死にたり。親兄弟おやきやうだいは是を取りあげなきかなしめる有様を見るに、かはゆく有り、をかしくもあり。かゝる仕合候ひけり。扨其人は先へも行かず跡へも帰らず、面目めんぼくなげに立ちわづらひ、いきがひなくぞ見えにける。万のまうごにはあふとも、愚人の一にはあはざれといへる古人の言葉、思ひ知られたり。大日経に一念のしんいには、倶胝劫ぐていごふ善根ぜんごんをやきうしなふと説かれたり。されば他人の過を見ては、かへつて身上をうゝしむべき事也。およそ大事は小事せうじよりおこると、貞観ぢやうぐわんせいえうに見えたり。道のあしき時分じぶん、荷おひ馬にあひなば、遠くよけべき事也と皆人いふ。年寄りたるおきな海道を通りしが、此由を聞き立ちとゞまつて云けるは、いや用心するとも過去くわこ業因ごふいんのがるべからず。人にあしくあたれば、必後の世にそれがためにあだをうく。生有物しやうあるものをころせば必後の世にオープンアクセス NDLJP:336おのれ害せられぬ。昔天笠に大王有り、たつとき上人有りとて迎へをつかはさる。此王明暮あけくれ数寄すきにて臣下を集め打給ふ時、上人参り給ひぬと申れば、碁に切手きれてあるをきれとのたまひけるに、此上人の首をきれとの宣旨せんじと聞きなして、則聖の首を討ち切りぬ。碁果てゝ其上人こなたへとのたまふ。宣旨にまかせひじりの首を切りたると申す。大王大きにかなしび、仏になげかせ給ふ時に、仏ののたまはく、昔国王はかはづにて土中に有り、上人はもと農夫なり。然に春田をかへす時、心ならずからすきにてかはづの首を切りぬ。其因果のがれずして切られぬ。因果いんぐわはかやうなる物ぞとをしへ給ふ。扨又彼両人の乱逆らんぎやく元来をうかゞひ見るに、馬おひは、いにしへ奥州あうしう金売吉次かねうりきちじ小冠者こくわじや九郎義経の変化へんげ、どろまみれの男は、平家の侍関原与市さぶらひせせはらよいちなり。因果いんぐわのがれがたしと云て過行きぬ。皆人聞きて、にさもやあらんと笑ひて退散たいさんせり。
 
 
見しは今、江戸舟町に鈴木久兵衛といふ人の子に才三郎と云者、四五日物いふ事常に相違せり。気ちがひたるかと、親、心もとなく思ひしに、当年八月二十八日午刻空しづかにして風音もなきに、此者立て大声をあげ、すは、大風吹いて来て家ころぶぞ、つかひ柱をかへやれ、ころぶぞ、われ柱におされて死ぬるぞ、たすけよ人集まれと、家の中をかけまはり飛びめぐり歩きてんだうするを、親兄弟其外十人計りつき取りとゞむるに、力ことの外に有つてかなはず。家の中鳴音なりおとしんどうする。それがし家近所きんじよなれば何事ぞと走寄つてとゞむるに叶はず。一時過ひつじこくに至て、にはかに大風ふき来て町の家はたゞしやうぎだふしのごとし。大名衆だいみやうしう屋形宮寺やかたみやてらも残らず。増上寺の山門、誓願寺せいぐわんじの山門もころぶ。其外数百年を経たる品川の塔もそんじたり。かくのごときの大風老人も覚えずといふ。彼気ちがひ者一時の後、俄に吹出づる大風を知りたるはふしんなり。然ば昔、鎌倉将軍実朝公の時代、建保けんぽう四年丙子八月二十八日大風吹き、堂舎だうしや損じたる事を記せり。ねんだいきにも見えたり。又予九歳のころ天正元年癸酉の年八月二十八日未の刻三百五十八年に当て、月日もたがはず大風吹きたり。是も年代記ねんだいきに有り。扨又慶長十九甲寅当年八月二十八日未の刻四十二年にめぐり当つて、月日時刻つきひじこくたがはず三度まで大風吹きたる事きどくなり。故にしるし置き侍るなり。
 
 
見しは今、天下をさまり目出度御代なれば、公家殿上人くげいてんじやうびと迄もあまねく江戸へ下り給ひぬ。此都人云、此辺に角田川すみだがはとて音に聞えし名所あり。武蔵と下総のさかひをながれぬ。いにしへ在原中将ありはらちうじやうでうきさきに参りし事おほ君にもれ聞え、遠流をんるの身となりひらは、東国角田川に来りぬ。此河の辺に京にては見なれぬ鳥有り。渡守わたしもりに問ひければ、是なん都鳥みやこどりといふを聞きて、名にしおはゞいざことゝはん都鳥わが思ふ人はありやなしやととよみしぞかし。新古今しんこきんに、おぼつかな都にすまぬ都鳥ことゝふ人にいかゞこたへしとよめり。俊成卿しゆんぜいきやうむすめの歌に、いにしへの秋の空まですみだ川月にこととふ袖の露かなと詠ぜり。扨オープンアクセス NDLJP:337又しづむや魚の見えずなり行くと云前句に、名もしるき鳥のうかべる角田川と宗長そうちやう付けたり。昌休しやうきう東国一見の時角田川の辺に至りて、秋風やこととふ舟の渡守わたしもり、とせしとかや。歌人は居ながら名所を知るといへども、いかで見るほどには有るべきぞ。あづまへ下りての思ひ出、何か是にはまさらんと、此名所を一見し給ひ、近衛殿このゑどのの御歌に、こたへせばわが出てこし都鳥とりあつめてもことゝはましをとよみ給ふ。八条殿はちでうどの、角田川すむてふ鳥の名にしおふ都人もやたえず来ぬらん。また三条中納言、角田川くる人毎に昔より言葉の花の都鳥哉。阿野宰相あのさいしやう、吹風もをさまれる世に角田川わたさぬ隙や波の舟人、また荘厳院さうごんゐん、かきながす水のあはれのいにしへを見れば衣のすみだ川かな。玄仍げんじよう発句ほつくに、盛りかととはゞや花の都鳥、昌琢しやうたく、名にしおはゞかすまじ月の角田川と申されし。諸人の詠あげて尽しがたし。然にかめ道閑だうかんと云京の知人当年はじめて江戸へ下りしが、音に聞えし角田川の名所いかやうなる面白き事や有るととふ。愚老聞きて、惣じていづれの名所も面白き事はあらねども、旧跡きうせきをば詩人歌人尋ね給へり。扨又角田川の寺の庭に、うたひに作りたる梅若丸うまわかまる塚有てしるしの柳有り。見物衆は塚のあたりの芝の上に円居まとゐして、歌を誦し詩を作り酒盛する所に、此寺の坊主ぼうず大上戸おほじやうごにて、爰やかしこの酒宴場しゆえんばへ飛入り走入つて、五盃十盃づつ呑む事数をしらず。何よりもをかしきは、此坊主角田川のうたひきりはしを一つ二つ覚え、平家とらも舞ともわかず称名しようみやうぶしに打上げてうたふ。されどもみじかくうたふにけう有て皆人笑ふ。道閑聞きて、われ上戸じやうごなり、いでさらば角田川へ行き、其坊主と酒宴せんといふ。われ聞きて、其方角田川見物なるべかず。此坊主はじめて一見の人をよく見知つて、歌をしよまうする。よくもあしくも文字さへつゞき詠みぬればよろこぶ。よまざれば悪口あくこうをはき寺のあたりを払つて追出し、当座の恥辱をあたふる。其方は宏才くわうさい利口りこうたりといへども、歌の道をば文字の数をもしらず、思ひとゞまり給へ。道閑だうかん閉口へいこうし、つく案じ、此名所見ずば京の知人、我が心つたなしといはん。其上思ふ仔細有りと、小舟にさをさし角田川へ行く。寺の庭なる梅若丸の塚を見物する所に、案の如く坊主出逢うて、旅人は都の人と見えたり、当地はじめて一見の人々は、よくもあしくもおしなべて、歌をよませ給ひぬと、硯短冊紙を持出てしきりに所望す。道閑いはく、都の者をよく見知り給へるの奇特きとくさよと、おくせず筆を取り、うめわかまるのつかやなぎすみだ河原のなみだかなと書きて、坊主に見する。此坊主歌よむやうはしらねども、発句と歌文字の数をば覚えたり。此句をよみて指を折り、又ほくしては指を折り、しばし案じて云けるは、いかにや都人、此句の文字をかぞふるに、発句には七文字多し、歌には七文字たらず、不審なりととふ。道閑答へて、是は歌にあらず、発句にあらず、扨又なが歌にあらず、みじか歌にもなし。この頃都にはやりし中歌也といふ。坊主聞きて、田舎者さやうの事をしらずして、尋申る面目めんぼくはひにまびれたりといふ。道閑聞きて、知つてとふは礼なりといへば、左様にもまつたくぞんせずと返答する。京田舎人きやうゐなかびと出会珍であひめづらしきあいさつ、聞捨てがたく記し侍る。
 
 
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見しは昔、関東に盗人多く有つて諸国に横行わうかうし、人の財産ざいさんをうばひとり民をなやまし、旅人の衣装いしやうをはぎとる。かれを在々所々ざいしよにて捕へ首をきり、はたもの火あぶりになし給へどつきず。然処に、下総の国向崎といふ在所ざいしよかたはらに、甚内じんないといふ大盗人有りしが、訴人そにんに出て申しけるは、関東に頭をする大盗人千人も二千人も候べし。是皆いにしえ名を得しいたづら者、風魔が一るゐらつはの子孫どもなり。此者どもの有所ありか残りなく存知たり、案内申すべし、盗人がりし給ふべしと云。江戸御奉行衆聞召し、願ふに幸哉と仰有つて、誅伐追討ちうばつゝゐたうの為人数をもよほし、向崎甚内を先立て、関東国中の盗人を狩り給ふ。こゝの村、かしこの里、野の末、山のおくに隠れ居たりしを、せこを入れて狩出し、あそこへ追つめ彼処かしこにせめよせ殺し給ふ事、たとへばいにしへ頼朝公富士のまきがりし、数のかせきをころし給へるがごとし。関東の盗人残なくたやし給へば、世中静なる所に、向崎甚内は盗人がりの大将給はりたるとて、いたづら者を多く扶持ふちする、香餌の許にけんぎよのあつまるがごとくなれば、たゞ大名の為体ていたらくにて国々をめぐる。先年秀吉公の時代に、諸国の大名だいみやう京伏見きやうふしみ屋形作やかたづくりし給ひ、日本国の人の集りなり。石川五右衛門と云ふ大盗人、伏見野ふしみののかたはらに大きに屋敷をかまへ屋形やかたを作り、国大名くにだいみやうにまなんで、昼は乗物のりものにのり鑓長刀弓鉄砲をかつがせ、海道を行廻りおし取し、よるは京伏見きやうふしみへ乱入り、ぬすみをして諸人をなやます。此事終には顕れ、石川五右衛門は京三条河原にてかまにていられたり。今又向崎甚内がふるまひも是によく似たりと皆人云ふ所に、爰彼処かしこよりさいげんあく、盗人をとらへ引きて江戸へ来る。いかなる者ぞと問給へば、是は向崎が被官ひくわん、かれは甚内がけんぞく也と云。御奉行衆ぶぎやうしゆ聞召しとかくにきやつは大盗人諸人のみせしめとて、向崎を捕へ首につなさし馬にのせ旗をさゝせ、江戸町を引めぐり、浅草原にはりつけにかけ給ふ事、慶長十八うしの年なり。淮南子ゑなんじに、よくおよぐ者はおぼる、よく乗る者はおつ。おの其よくする所を以て却て、自わざはひをなすと云へるが如く、此者終には盗人の罪をえたり。夫よりこのかた国々日を追ひ月をふるに随つて、戸ざさぬ御世となり、東海道東山道の旅人迄も腰に金をつけ、かたに銭をかつぎあるくにさはりなし。御代の宝をはこぶ駅路うまやぢと云ふ前句に、白波しらなみのたたぬ山をばよる越えてと専順せんじゆん付け給ひぬ。古歌に、今もかも戸ざしはさゝぬ旅人の道ひろき世に相坂あふさかの関と、よめるも思ひ出でにけり。かゝるすぐなる御時代にあひぬる物哉と悦びあへり。

 
 
見しは今、江戸はたご町に助四郎と云者ふうふいさかひ、のくべきといへば、のかれじといひてやむ事なし。人聞きて世間に女をめとるに五不取と云て五つの品有り。三不去と云て三つの品有り。七去と云て七つの品有る事をあらはせり。婦に七去とは、父母にしたがはざるを去る、子なきを去る、いんなるを去る、うはなりねたみするを去る、悪疾あくしつ有るを去る、多言なるを去る、物をかくし盗するをば去る、これ孔子の語なり。然則ば助四郎仔細ありてこそ去らめ、のかれじとはひが事也といふ所に、此女町の両御代官へ参りて庭中に申しけるは、我身男に二十年つれあひいたし、十二になるをのこ一人、七つにオープンアクセス NDLJP:339なるむすめ一人、又当年くわいにんいたし、三人の子供の母を去るべきと申す。いたづら男を召よせられ御沙汰に預るべしといふ。両御代官聞召し夫婦のいさかひ家々に有る事也。女の男にしたがふ事、若草わかくさの風にしたがふがごとしと文集に見えたり。扨又女は三従とて、一世の間家をもたず一人にしたがふと也。いとけなうして親にしたがひ、中にして男にしたがひ、老いて子にしたがふ。是を女に三つの家なしとこそ申されし。男には兎にも角にも随ふべき事也と仰せられければ、女、たのむ木の本に雨のたまらぬ心地して、袖をしぼりなく帰りぬ。
 
 
見しは今、かんれいといへる人、近年江戸町にありしが、此人心はつたなくて外見更に人に似ず。ひとへに異相を学び、才智利口さいちりこうに有つて云ひけるやうは、伯夷はくい叔斉しゆくせい、武王につかへず首陽山しゆやうざんに入つてわらびをくらふ。麻子ましが云、君達は如何なる賢人なれば山渓さんけいを愛するや。伯夷が云、武王不義なる故に、周の粟を食せずわらびを食すと云。麻子が云く、普天ふてんの下王土わうどにあらざる事なし、率土そつどたみ王臣わうしんにあらずと云事なし。なんぞわらびを食するや。是を聞きて二人わらびを食せず、七日のうちに餓死がしす。是を麻子がせめと云伝へり。そのかみ伝へ聞く、賢人おほしといへども、かく心おろかにしてうゑ死たる者を末代まつだいに至て賢人と沙汰する人、是又伯夷叔斉とおなじき愚痴ぐちの人なり。小隠せういん陵藪りようそうにかくれ、大隠は朝市てうしにかくる。されば心ふかくも身をかくす山と云前句に、花さけばうき世の人になりはてゝと、宗祇そうぎ付けられたり。此句誠に世を捨てたる句なり。世をのがるゝ事たゞわが心に有りと云ひて、或時は詩を作り、或時は枯木に花の咲くやうなる物語のみせり。故に此人を賢人といふ。老人聞きて、愚なる云事ぞや、大才博学に書を覚え、詩文を作り、弁舌たれる計にて賢人とは心得べからず。世説せゝつに云、褚季野ちよきや物いはずといへども、四時の気又備はると云々。季野はかると物いはぬ人なれども、心中に分別のわきまへ有り。胡曽こそうが詩に、首陽山しゆやうざんは倒れて平地となるとも、はくいしゆくせい賢名はすべからず。是誠の賢人也とこそ作りたれ。先哲せんてつの言葉にも、外に賢善精進けんぜんしやうじんの相を顕す事をえざれ、内にこれをいだけばなりといへり。此人寒嶺かんれいと名付たりしは、伝へ聞く、賢人寒山にひとしきとや。寒山かんざん拾得じつとく散聖さんせいなり。もろこしに出生文珠普賢しゆつしやうもんじゆふげん化身けしん、いかでおそれざらんや。外相げさうれんちよくにして賢相をまなぶと云とも心は奸賊かんぞくたり。心事境界しんじきやうがいさびずして賢人といひがたし。左様の家風にこそ等閑の言句もうるはしく有るべけれ。寒山はわが心月に似て、へきたんすんで高潔たりと云て、ぢんあいをはらつて見られた。拾得はせいじんにてまします。わが心月にひせず、かへつて円欠ゑんかんありといはれた。爰は半月はんげつの時も有り、満月まんげつの時も有つた時がゑんかんともにかけぬるよ。賢人の心を歌に、まろくてもまろくあれかし我心かどの有るには物のかゝるにとよみければ、又聖人の心をまろかれと思ふ心のかどにこそありとあらゆる物はかゝれりと詠ぜり。実まろかれと思ふこそ一つの角よ。去程に賢人は時を知て国につかへ、時を見て山に入り、樹下石上じゆげせきじやうに有つて心を安くし、万事無心ばんじむしん釣竿てうかん、三公にもかオープンアクセス NDLJP:340へず此江山などと云て、たゞおのれが心をやしなへり。けいかうは山沢にあそびて魚鳥を見れば、心たのしむと申されし。陸機文りくきぶんの賦に、石、国を包みて山高く、水、珠をいだいて川こびたりと云々。人も内に徳あれば智をふかくかくすといへども、形にあらはるゝ所常の人にかはりてよきといへり。扨又聖人に心なし、万人の心をもつて心とす。塵にまじはつてはちすの泥にそまぬが如し。寒山かんざんは清月を詠む物のひりんにたえてなし。吾をして如何かとかんといへり。拾得は吾心水に比せず却つて清濁せいだく有り。先心事より掃除さうぢよして見れば、世々の秋天月も又塵と申されし。真実しんじつ内証ないしようは同じといへども、賢人は浅く聖人は深しと千古の記する文にも有り。左伝に少が長をしのぐと云々。文選もんぜんに云く、桀が犬げうを吠えしむべし。せきが客由をさらしめつべしと云々。此句の昔を以て今をさつするに、寒嶺かんれい伯夷はくい叔斉しゆくせいをとがむるは、桀が犬の類ひなるべしといへり。
 
 
見しは昔、当君たうくん武州豊島とよしまこほり江戸へ御打入よりこのかた町繁昌はんじやうす。しかれども地形広からず。是に依てとよしまの洲崎すさきに、町をたてんと仰せ有つて、慶長八卯の年日本六十余州の人歩にんぷをよせ、神田山かんだやまをひきくづし、南方の海を四方三十余町うめさせ、くが地となし其上に在家を立て給ふ。昔平相国へいしやうこく清盛公くにひやうごの浦に新京をたてんと、七ヶ国の人夫を集め、島をつき給ふに、崩れて島成就じやうじゆしがたし。其後石面に一切経さいきやうを書写し、其石にてつきければ、誠に龍神りうじん納受し給へるにや、島成就し、是に依て経島きやうじまと名付たり。其島の上に三町ほどの在家を立て、末代に名を残し給ひぬ。是を今の豊島にくらぶれば、十にしてわづか其一つに及べり。此町の外家居つゞき、広大なる事、南は品川西はたやすの原、北は神田の原、東は浅草まで町つゞきたり。豊島の名におひ民ゆたかにさかゆる事、それしんたんの都は家居百万間とかや、中々是を比ぶるにたらず。天地かいびやくより慶長迄の世をかんがふるに、此御代にはしかじ。上一人の御恵み深ければ、下万民皆栄華えいぐわにほこる。君が世は千世に一たびゐる塵の白雲かゝる山となるまで、久しかれとぞ祝し侍る。
 
 
聞しは今、吉野勘兵衛と云人、あかつきのねざめ侘敷わびしくして、まうねんさま起ると云。かたへなる人聞きて、たゞ道を学び給ふべし。学ぶ道なければあかつきのねざめ侘しき物也。妄念まうねんをはらふ中立なかだち、学道よりよろしきはなし。勘兵衛聞きてわれ鈍性どんせい也。学ぶ共益有るべからずといふ。老人云、それ十のうげいとやらん其外道様々の品多かるべし。万事ふるゝ事に益有り。一道まなぶときんば其道したしき友となり、影のかたちにしたがひ、ひゞきのこゑに応ずるがごとく、まどろめば夢に見え、さむれば眼にさへぎり、手にふれ身にそふ心地して、此道の友明暮あけくれはなれがたし。昔守翁といひつる絵師ゑし龍をすきて書きつれば、龍、姿すがたを目前にあらはす。此心を引きかへて、見ゆらめや心の松に時鳥と宗牧そうぼくせられたり。生れてたつとき人なし。ならひえぬれば智徳となる。初心不勘しよしんふかんにして心なしと見ゆオープンアクセス NDLJP:341る人も、よき一言といふ事有る物也と、本文にも見えたり。人毎に我がこのむ事には失を忘れて愛し、わがうけぬ事には失をもとめてなんぜり。いづれの道もよく学び給はゞ名をうべしといさめければ、爰に禅師ぜんじの有りしが是を聞きて、いや方々云ふ所本意にあらず、是皆世間をいとなむ風俗にして、菩提ぼだいを期する志しはかつてなし。世の無常むじやうをくわんずるに、なすわざ皆いたづら事、ねてもさめても妄想まうざうに著して、生死しやうじの道に迷ひあかせり。真実の益をもとめんは仏道ぶつだう也。人に善悪の性有り。悪縁あくえんたる六塵の境にたいすれば妄業まうごふつくりやすし。勝縁たる三宝のきやうにむかへば、妙用めうようあらはれやすし。よしなき世間のことわざに妄執まうしふをまさんよりは、経巻きやうくわんを見て大乗のえきを信ぜんにはしかじ。何事もふるゝ所に心付く物なれば、かりにも不善を遁れ、あからさまにも聖教しやうけうに一句を見れば、多念たねんの非を知るが故に、まうねん去つて心しづかなり。扨又孟子に、鶏鳴きておく、じゝとして善をする者は舜が徒也。鶏鳴いて起き、孳々じゝとして利する者はせきが徒なり。しゆんせきとの分をしらんとほつせば他なし。利と善との間なりといへり。此利善の間を分明すれば、よるのねざめもあるべからずと申されし。
 
 
聞しは今、或人云けるは当世心得ぬ俗言ぞくげん多し。中にも主人を檀那だんなといひ、等閑なほざりなるを如在じよざいといひ、鎧を具足ぐそくといふ。されば舞は中古かしこき人作りけるにや、世上にあまねく翫び給ふせつたいに、佐藤庄司次信忠信さとうしやうじつぎのぶたゞのぶが為に、具足を二領をどし立る。又たかたちに鈴木三郎ぐそく一領給はり討死せんと舞ひ給ひぬ。これらの言葉古き文の義理にそむき、文字のよみも相違せり。夫文道は公家武家学び給へる所なり。猶もつて今は天下治り国民豊にして、下々迄も筆道をたしなみ、文字の正理を正し、言句ごんくのせんさく有りといへども、右の詞をばあへて以て咎むる人なし。文にも記し言葉にもいひかはし給ひぬ。かやうのそゞろ事更に益なしと云ふ。老人聞きて、いにしへも今も理もなき事をとなへ、名目計にて云伝ふるよしなし事多し。是尋常の習ひとがむべからず。我朝は万事唐国たうごくの例を用ひ来るといへども又相違もあり。唐に御の字をば天子にのみ用る。今日本には上下に渡る。然共我朝にも昔より今に至迄、御の字を禁中には用ひ給ひぬとかや。扨又貞水元年武蔵守平泰時が作りたる式目しきもくに、御成敗ごせいばいの式目と御の字を置く事、将軍の御成敗ごせいばいにて私の義にあらざればなりと注せり。其頃まではかくぞ候ひける。様と云ふ字も我若き時分、関東にて上なる人に用ひしが、当世は上下に用る。されば古歌に箸鷹はしたかの身寄のかたの雪消えて貝崎の羽や白符しらふなるらんとよめり。鷹に身より只崎と云ふ羽有。鷹の右のかたばみより左の方は只崎也。去りながらまた、箸鷹の身寄只崎定らず大宮人は右にすゑけりと詠める歌もあり。其故如何となれば、往古には天子御狩みかりの御時、月卿雲客げつけいうんかく右にすゑて供奉くぶし給ふ。左は右より諸事不自由也。其後武家鷹逍遥と成て左にすうる。是は刀をぬくべき為也。義をたゞし給へる公家武家の間にさへかくの如きの相違有り。是のみならず、昔の書物にもちがふ事多しといへども、今さらとがむる人なくとなへ来ると知られたり。ほとんど世上の人口あざむくは大いなるひが事也。オープンアクセス NDLJP:342すべて往事わうじをとがめ益なかるべし。
 
 
見しは今、江戸町に下岡才兵衛しもをかさいべゑと云ふ人、京へのぼる。始ての道なればよきつれもがなと云ふ所に、座頭ざとう聞きて、われ此度官の為上洛仕る。けちえんにめくらを同道有てたべかしといふ。才兵衛聞きて道しれるつれをこそ願ひつれ。めくらは却つて道のさまたげと思へども、結縁けちえんなりとて同道し、品川に著きたり。然るに川崎への駄賃だちん銭出入に付て、才兵衛馬主と問答しことわりやむ事なし。座頭ざとう聞きてあら詮なき問答哉、川崎迄の駄賃定りて候程に、われは代物を渡し馬を取りたり。馬方うまかた申すごとく銭を渡し道を急ぎ給へといふ。才兵衛聞きて、座頭めくらなれば、京迄の遠路駄賃差引をばわれに聞かずしてわたす事、不届者ふとゞきもの也としかる。座頭聞きて、我はじめての上洛なれば、江戸より京迄道のつもり馬次うまつぎの在所を人によく尋ね覚えたり。其上一里に付て代物十六文づつの定りにてかくれなし。御存じなくば語りて聞かせ申さん。江戸より二里参りて品川しながは、是より二里半行て川崎かはさき〈二里半〉神奈川かながは〈一里半〉ほどがへ〈二里〉戸塚とづか

〈二里〉藤沢ふぢさは〈三里〉平塚ひらつか〈一里〉大磯おほいそ〈四里〉小田原をだはら〈四里〉箱根はこね〈四里〉三島みしま〈一里半〉枚橋まいばし〈二里〉はら〈二里〉吉原よしはら〈三里〉蒲原かんばら〈一里〉由井ゆゐ〈二里〉清見きよみ〈一里〉江尻えじり〈三里〉府中ふちう〈一里〉鞠子まりこ〈一里〉 岡部をかべ〈二里〉藤枝ふぢえだ〈二里〉島田しまだ〈一里〉金谷かなや〈二里〉新坂につさか〈二里〉懸河かけがは〈二里半〉袋井ふくろゐ〈一里半〉見付みつけ〈三里〉浜松はまゝつ〈三里〉前坂まへざか〈一里半〉荒井あらゐ〈一里〉白須賀しろすが〈二里〉二河ふたがは〈二里〉吉田よしだ〈二里〉御油ごゆ〈一里〉 赤坂あかさか〈二里〉富士川ふじかは〈二里〉岡崎をかざき〈三里〉池鯉鮒ちりふ〈三里〉鳴海なるみ〈一里半〉みや〈七里舟〉桑名くはな〈三里〉四ヶいち〈三里〉石楽師いしやくし〈一里半〉しやうの〈二里〉亀山かめやま〈一里半〉せき地蔵ぢざう〈二里〉さか 〈二里〉土山つちやま〈三里〉水口みなくち〈三里〉石部いしべ〈三里〉草津くさつ〈四里〉大津おほつ〈三里〉京迄道合百二十四里也と云。才兵衛聞きて、盲目奇特きとくに道を覚えたるといへば、座頭聞きて、此上は京迄駄賃だちん差引さしひきをばめくらに御まかせ候へとて遠路駄賃ゑんろだもん問答もんだふもなく、目有人が目くらに教へられ、江戸より京迄のぼり付きたり。さればいにしへ、燕、蜀両国の戦ひ有りしとき、一盲衆盲まうしうまうを引くとこそ聞きつれ。盲人まうじん明眼めあきを導く事世に稀なりといへば、老人聞きて愚なる云事哉。虫さへ道を教ふるいはれ有り。吉備大臣きびだいじんは元正天皇のけんたうし也。在唐ざいたうの時、野馬台やばだいぶんをよまんと欲す。文義さとしやすからず。蜘蛛くも、糸を引きて道を教ふる。則ち読む事を得たり。扨又木人ぼくじん道を教ふるためし有り。諸越黄帝もろこしくわうていの御代に蚩尤しいうと云へる者、たくろく山のはんせんと云ふ所にて、三年の間黄帝と戦つて、蚩尤すでに亡びんとする時、口より霧をはきて天下を暗ます故に、東西を失ふ。黄帝工夫くふうをもつて風后ふうこうと云ふ臣下に命して指南しなんの車を作り、其上に木人ぼくじん有つてゆびを南にさして教ふる。帝の軍兵方角ぐんびやうはうがくを知つて蚩尤しいうをほろぼす。是木人のをしへ也。故に指南しなんと書くは此いはれ也と云ふ。かたへなる人聞きて、また針有つて人に道を教へたる事有り。われ先年伊豆の国より伊勢へ渡海す。其海の間に駿河、遠江、三河、尾張四ヶ国有りといへども、舟をかくる湊なし。故にこちの順風じゆんふうをえて夜昼三日に伊勢の湊へ著岸ちやくがんす。若其うち風かはりぬれば、伊豆へもどるかさなければ舟をそんさす。日本海中にたぐひなき大事の渡也。然るに我乗つたる舟、日中に乗出し夜に入て大雨しきりにふり、俄にあらき風四方よりもみあはせ帆を吹きおろし、波にゆられてしばしたゞよひ前後方角はうがくを失ひ、今の風はより吹たりと云者有り、おもかぢとりかぢより吹きたると云者もあり。たゞ波のオープンアクセス NDLJP:343そこにしづむ心地せし所に、かんどり磁石じしやくを持ち舟そこに入り火をともし、水に針をうかべて見れば、南を教ふる。皆人悦び、風はかはらず東風也といふ。其時舟中の人々悦び、順風にほをあげ風波の難をのがれ、伊勢の湊へ翌日著岸ちやくがんす。是ひとへに針のをしへなり。かく木、針すら人に道を教ふるためし有り。人はたゞ心ををさむべし。頼朝公は関東に有つて西海の平氏を亡ぼし、謀を万里の外に運らし、天下を治め給ひぬ。かしこき人はしばいほりの内に居ながら後世の道をよくしる。万法共に目をもて見んとするは愚也。たゞ一心の工夫くふうにあり。目くらはうつくしき色をも見ず、つんばは面白おもしろき声をも聞かず、是は形にある片輪かたは也。扨又形のみに限らず、心に智恵なければ心も片輪にして聾盲ろうまうのごとし。阿那律あなりつは眼つぶれて後三千界を見ること、たなごころの内なる物を見るが如し。閉目則見、開目則失の古き言葉、今思ひあたれりとまうされし。

 
 
見しは今、江戸繁昌故、日本国の人参り家作やづくりなすによりて、三里四方は野も山も家を作り、寸土すんどのあきまなし。然に東南の海ぎはによし原有り。色このみする京田舎きやうゐなかの者共此よし原を見立て、けいせい町をたてんと、よしの苅跡かりあとこゝやかしこに家作やづくりたりしは、たゞかにの身のほどに穴をほり、住居たるがごとし。古歌に、蘆原あしはら苅田かりたのおもにはひちりていなつきがにや世を渡るらんとよみしも、此傾城町けいせいまちにこそあれと笑ひたりしが、日を追ひ月を重ぬるに随つて、此町繁昌する故、草のかり屋を破り、西より東、北より南へ町割をなす。先づ本町と号し、京町、江戸町、伏見町、境町、大阪町、墨町、新町と名付け、家居びゝしく軒をならべ板ぶきに作りたり。扨又此町を中に籠めて其めぐりにあげや町と号し、幾筋いくすぢ共数しらず横町をわり、のうかぶきの舞台を立ておき、毎日舞楽ぶがくをなして是を見する。此外勧進舞くわんじんまひ蛛舞くもまひ獅子舞しゝまひ、すまふ、じやうるり、いろ様々のあそびしてぞ興じける。しばの見物をかごとになし、僧俗老若貴賤此町に来りくんじゆす。ちからをもいれずして人をまどはすけいせいのはかり事思ひの外也。昔いこくの事なるに、いうわうをかたぶけ奉らんとて、狐、美女に変じてきさきとなり、烽火ほうくわを見て笑ひ、百のこびをなしければ、御門みかどうれしき事に思召し、それ故にいうわう終にほろびはて給ひぬ。彼女三つある狐と成つてこうと鳴きて古き塚に入りたり。狐、人をとらかすには必びじんと成つて顔色よく、かしらは雲のびんづらとへんじ、おもてはうつくしきよそほひとなり、みどりのまゆ花のかほばせをうなだれ、こつぜんに一度笑へば千万のわざありとかや。女は陰なり、狐におなじ。いづれも夜をこのむ。かるが故に、古歌にもおほくよみそへて、古狐、老狐、ひる狐、わか狐などと見えたり。ふる塚の狐のかはく色よりも人の心のむくつけきかな。人もみなあなしらし老い狐いとしもひるのまじらひなせそとよめり。誠に江戸よし原のひる塚には、天地も動き目に見えぬ鬼神おにがみ来現らいげん有りつべしといへば、有識の人申されけるは、夫人は見るに迷ふならひ、いかにいはんや、江戸吉原の若狐にまよはぬ人有るべからず。されば出家しゆつけは仏のかたちを学び給へば、オープンアクセス NDLJP:344誠に殊勝しゆしよう有りがたくおもひ侍る。其上一子出家すれば九ぞく天に生ずと説かれたり。又人有て七宝のたふばをたてん事、高三十三天に至るといふとも、一日の出家の功徳くどくにはおよびがたしといへり。されども心は俗出家同じかるべし。色欲しきよくに迷ふ凡夫ぼんぷなれば、出家は里を遠くはなれ、山居閑居さんきよかんきよが本意成るべし。仏法我朝にはんじやうする事は、第三十二代のみかど用明天皇御宇なり。此帝三宝を信授しんじゆし給ふ事言葉にのべ尽しがたし。常の御詠吟ごえいぎんに、智者は秋の鹿鳴きて山に入り、愚人は夏の虫飛んで火にやくと、のたまひけるこそ有難けれ。ぼんなうは家の犬、うてども門をさらず。菩提ぼだいは山のかせぎ、まねけども来らずといへり。仏、鹿と成りて衆生を利やくし給ふ事有り。是により鹿野苑ろくやをんと名付けたり。出家は郷里をさり山里にかき籠りて仏につかうまつりてこそ、つれもなく心のにごりもきよまる心地有るべけれ。戒行かいぎやうもかけ内証も明ならずしては、所得しよとく施物罪業せもつざいごふにあらずと云ふ事なし。南山の道宣律師どうせんりつしは十方世界女人有所ぽうせかいによにんあるところに則地獄ぢごく有りといへり。阿含経あごんきやうに一たび女人を見れば、ながく三の業をむすぶ。いかにいはんや一度犯しぬれば無間地獄むげんぢごくつと説かれたり。然に末代の人は、性なく欲ふかく、徳うすく智浅くして、先賢の教古聖のいましめにかなふべきとも見えず。今生こんじやう名利名聞みやうりみやうもん明暮あけくれ心とせり。かしらをそりても心をそらず。されば、墨染すみぞめに心のうちはそらずして世わたり衣きぬ人ぞなきと歌人もよみしぞかし。三どくよくをほしいまゝにして、かつて生死はなれがたし。東坡とうばが詩に、桑下あに三宿のしたひなからんやと作れり。沙門しやもんをば出家と名付る上は此二字に辱ぢざらめや。出家をくはしくいはゞ、三がい火宅くわたくを出づるを云ふと也。出家は王者をけいせず、父母をも拝せずと恵遠法師ゑゝんほうしのたまひし。経にも忍を捨て無為に入る、是真実しんじつ報恩者はうおんしやと説けり。悉達太子はだんとくせんに入り、迦葉かせふそんじやはけいそくざんに入り給ひぬ。仏法の大意は生死流転しやうじるてんをたち、菩提の妙果めうくわを期すべしといへり。遁世とんせいは出家の行儀ぎやうぎ也。扨又身は家に有て、心家を出づるといふは、形は塵にまじはりて心ざし道をしたふ、是誠の道人だうじん古往にもまれなり。まして末代に至つてをや。見る事聞くことにまよふ人界にんがいなれば、世をのがれ仏道をもとむるが本意なるべし。法華経ほけきやう五巻に、入里乞食将一比丘と説かれたり。此文をふかくわきまふべき事也といへり。愚老聞きて、実に殊勝しゆしようなる物語、出家の事はさておきぬ。頭に雪をいたゞく身も、此うかれめを見ては思ひの外なる心出来る。此みちりつぎの外といひならはせり。況んや若き人たちに彼遊女を見することは、猫のつなをはなちて生魚なまうをを見するにことならずや。
 
 
聞しは昔、関東北条左京大夫平朝臣氏康公は、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野を治め、常陸下野へ手をかけ、関八州に威をふるひ、文武至剛ぶんぶしがうの名将たり。其比氏康うぢやす敵対てきたいの人々、安房に里見左馬頭義弘さとみさまのかみよしひろ、当陸に佐竹太郎信重さたけたらうのぶしげ下野宇都宮弥しもつけうつのみやゝ郎国綱らうくにつな、越後に長尾平景虎ながをたひらのかげとら、甲斐に武田源信玄たけたみなもとのしんげん、駿河に今川義元、東西南北に敵有つて戦ふ。諸侍しよさぶらひ義を守り節をおもくし、名を惜み命をかろんじ、いさみすゝんで死をあらそひ、うちつ討たれつ、敵御方てきみかた骸骨がいこつ地にしき、血は野草をそめ、鬨の声矢叫びの音しんどオープンアクセス NDLJP:345うしやむ時なし。然る処に弘治二丙辰の年あつかい有つて、氏康、信玄、義元、三人のなか無事に成りぬ。其上氏康うぢやすの子息氏政うぢまさは信玄のむこになり、義元そく氏真うじざねは氏康のむこに定め、信玄そく義信よしのぶは義元のむこに定め、三方へ御こし入れて、北条、今川、武田の三家一に成りぬ。此無事の仔細三人の大将言葉に出さずといへども、心底にはいづれも天下に望をかけ、無事になると知られたり。関東侍くわんとうんざむらひは先例を思ふ故にや、小身なる人も天下に望をかくる。然に義元は駿すんゑんさんの軍兵二万五千を引率いんぞつし、駿府を打立ち京都へ攻上せめのぼる。尾州に入り、諸勢打散つて乱妨らんばうなす。義元は松原にて酒もりし給ふ所に、織田三郎信長六七百の人数にて馳向はせむかひ、御方にまなんでおしよせ、尾張の国でんがくがくぼど云所にて、永禄えいろく三年庚申五月十九日義元は信長の為に亡び、同八年五月十九日公方光源院義輝公くばうくわうげんゐんよしてるこうは三好が為に生害しやうがいなり、三好修理亮みよししゆりのすけ子息しそく左京大夫さきやうのだいぶ天下を二代持つ。然るに信長、美濃、尾張、三河、三国の勢を引率いんぞつし、西国へせめのぼり、同十一年十月十五日入洛じゆらく、其以後公方義昭公再び帰洛きらくし給ふ。同十二年に三好父子は信長に誅せられ、氏康うぢやす元亀げんき元年十月三日病死、氏真は伯父をぢ信玄しんげんに追出せられのちそつす。太郎義信たらうよしのぶは父信玄にころされ、信玄は天正てんしやう元年四月十二日病死びやうしす。景虎は同六年三月十三日卒去そつきよす。されば氏康うぢやす信玄しんげん景虎かげとら此三人の内一人存命においては、信長めつばうたるべきに、信長天運つよき故也と諸人さたせり。同十年三月十一日勝頼同太郎信勝父子は信長公のためにほろび、同年六月二日信長公三位中将信忠父子は明智日向守光秀がために滅亡し、同月十三日に光秀は羽柴筑前守秀吉に討たれ、柴田修理亮勝家しばたしゆりのすけかついへ織田三七信孝おださんしちのぶたかは秀吉のために誅せられ、其後京乱しづまりぬ。同十八年七月十一日氏政は秀吉公ひでよしこうのために切腹せつぷくし、氏直うぢなほは高野山にいり、同十九年十一月四日卒逝そつせいす。関白秀次公は文禄四年七月十五日高野山において太閤のために切腹せつぷくし、義昭公よしあきこうは慶長二年八月二十八日にこうじ給ひぬ。秀吉公は同三年八月十八日他界たかい也。愚老ぐらう永禄年中に生れてよりこのかた、天下に望をかけ給ふ大名右に記すごとく二十一人、此内十四人は弓箭ゆみやにて卒し、七人は病死びやうし也。扨又右之内八人は果報くわはうめでたう天下に義兵をあげ、武将の位に即き給へり。されども内六人は弓箭にて果て給ひぬとかたれば、老人聞きて申されけるは、論語に人遠きおもんぱかりなきときんば必ちかきうれひ有りといへり。一生の間身終るまで思慮しりよなき時は、必一日片時へんしの内にも禍あるべし。人間はかなき有様、譬へば夏の蝉時しりがほに鳴くを、うしろに蟷螂たうらうおかさんとす。雀又いぼじりを守る。其木の下にわらわ弓を引きて射んとよる。足もとに深谷ふかきたに有るをしらず、身をあやまてり。皆是まへの理を思ひて後のがいをかへりみずと、おんせうけうが云ひおきしも、いま思ひ知られたり。