慶長見聞集/巻之九

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巻之九
 
 
 
見しは昔、慶長三年の事かとよ、夏のくれかた四五人門立かどだちして涼し処に、小者こものにはさみ箱かつがせ海道かいだうを通る人有り。あらふしぎや大名にはあらずともする者もなし、誰にてましますらんと能く見れば、江戸本町のなまりや六郎左衛門なり。我も人も是を見て、扨々さてきやつは出過者、ぜんたい国大名のまねをして、はさみ箱をかつがせとほるぞや町人のぶんとして似合はぬ振舞かな、よもおのれがにてはあらじ、大名衆だいみやうしうのはさみ箱をやかりつらん、たそがれ時なれば人はしらじと、世勢をするのみたもなさよ。我等が前を過ぐる時はづかしくや思ひけん、頭をもたげず通り行うしろすがたのをかしさよ。只是大名と太郎冠者が狂言きやうげん能似よくにたりと、指をさして笑ひたりしが、今は高きも賤きも皆はさみ箱をかつがする、是のみならず、当世たうせい風俗ふうぞく昔にかは美々敷事びゞしきことのべ尽すべからず。
 
 
見しは今、老楽らうらくといひて年よりたる下郎げらう有り。若きころ骨をくだきて身上しんしやうをかせぎ銭をたくはへて後、山城やましろの国愛宕山のふもと谷水といふ在所ざいしよのほとりに居住して有りしが、毎月朔日一度づつ世間せけん身持みもち沙汰さたする。此物語ものがたりを聞く人はかならず福者となりて、ながくえいぐわにあふべしといひならはす。我そのころ京へ上りたりしが、此由を聞き願ふに幸哉さいはひかな、さやうの事ならば関東より態々わざ上りても是を聞かでは有るべきかと、月の朔日ついたちを待ちえて、いそぎ谷水といふ在所ざいしよを尋行きしに、この談義だんぎ聴聞ちやうもんせんと、老若男女らうにやくなんによ群集くんじゆす。八十有余の翁びんひげ白髪なるが、三尺ほど高きゆかにのぼりて云ふやう、それ仏法ぶつぽふ世法せほふは車の両輪りやうりんのごとく鳥のりやうよくにたとへたり。然に仏法修行ぶつほふしゆぎやうと云ふは若きころけうげを廿年三十年修行しゆぎやうし、後の世にこがね仏と成つてたのしみにあはん事をよく推量すゐりやうしたるを、智者上人ちしやしやうにんとはいへり。こゝ春屋和尚しゆんをくをしやうと申してたつとき人まします。檀那だんな問ひけるは、極楽ごくらくへとく参りたしといふ。和尚をしやう一首を詠ず。つみとがのおもきをすくふ方便はうべん極楽ごくらくよりもごく成りけり。ぼんなうの大海に入らずんば菩提ぼだいの国をうべからず。先ごくに入るべしとのたまふ。是もつとも殊勝也しゆしようなり。又或人善をば何となすべきやらんと問ふ。僧答へて、殺生せつしやうせよせつしやうせよ、殺生をなさば地獄に入る事矢の如しといはれたり。是も有がたし。されば仏は現在げんざいくわを見て過去くわこ未来みらいを知ると説かれたり。然るときんば、現在げんざいにて三明白也めいはくなり今生こんじやうまづしければ後生ごしやうまたしか也。故に仏法世法ぶつぽふせほふは車の両輪りやうりんといへり。扨また世法修行と云ふは、身体しんたいはつぷを父母にけし形をかへず、そのまゝにてわかころより老いてたのしむべき事を修行しゆぎやうせり。身体あへてそこなひやぶらざるを孝のはじめなりと、孝経かうきやうにもかゝれたり。楽天らくてんが云く、一のはかりごとは幼稚えうちに有りと也。道品々みちしなにかはるといふとも、他の宝をかぞへて半銭の得あるべからず。たゞわが身をかへりみ油断不機根ゆだんふきこんにして立身なりがたし。人となる者は安からず。安かオープンアクセス NDLJP:363る者は必人とならず。銭をたくはへて後、現世安楽げんぜあんらく福人ふくじんとよばれんは仏の位にひとしからずや。我等かた請けがたきぼんぶ、人身にんしんをこゝにうけて一世たのしみにあふ事、たゞ是銭にしくはあらじ。され共是をうる事かたし。こゝ貧者ひんじやくらまのびしやもんへ参籠さんろうし福を祈りける処に、しやだんよりむかで一つはひ出でたり。是はいかなる仔細しさいぞと神主に問へば、あのむかでのひまもなく手足をうごかすをみよとの教へなり。是に付ても皆人宿やど昼寐ひるねして心安く有るべき身が、是まで遠路をはこび給ふ心ざしかへすも有がたくたのもしく覚え侍る。遠き所もいで立つ足もとよりはじまると、古人の申置きしも立身りつしん肝要かんえう、いさめを云へる成るべし。山もふもとのちりひぢより起つて天雲あまぐものたな引く迄おひのぼるがごとし。さればさかひにもずや宗安そうあんといひてうとくなる人有り。此人に貧者あひて云けるは金を願へども来らざるはいかにと問ふ。宗安そうあん答へて、まづ銭を願ふべしといふ。実に銭はねがひ安かるべし。一銭かろしといへ共重ぬれば貧しき人を富める人となす。扨又京たちうり宗和そうわが所にて、碁会ごくわい有り。本因坊ほんいんぱう利玄りげんとのうちみだれ興に乗じ、利玄りげん打ちて尾張の国うつみの浦に大網をおろしたりと申しければ、本因坊ほんいんばう一手打ちて、一目づつもはまをたしなめといはれたりと人かたる。本因坊ほんいんばうの云へるこそ金言きんげんなれ。此心持こゝろもち有る故に、利玄に半石はんせきつよく、名人めいじんのほまれ天下に聞え有り。此人算砂さんさと名付たるは、猶以殊勝しゆしよう也。いさごをかぞふるならば其中にかねをひろふべし。古記こきにも砂石させきをひろふ者必金玉きんぎよくをうべしといへり。されば沙汰さたの二字はいさごをえるとよめり。それいかにとなれば、金といさごと取まじへ、それにえりわけ、金の道理を取て非のいさごをえらび捨て、是非分明ぜひぶんみやう也。然に今日の世法せはふ旁々かた徳分とくぶんに五ヶ条の金言きんげんを沙汰する者也。是をよく聞覚えつかのも忘るゝ事なかれ。

 一、第一人間にんげん定命ぢやうみやう百歳其上不定ふぢやうの事

 一、第二家職かしよく油断ゆだんなき事

 一、第三一銭をつかふに安からざる事

 一、第四みぢんつもつて山となる事

 一、第五しやつくわくが身をつゞむるも、一たびはのべん為なり。然に銭有て用ひざらんは、有財餓鬼うざいがきとなづく。其上われだによく物くひ、心安くあらばと願ふは、たゞぶんちうのごとし。小人せうじんは独たのしむ、君子は衆とたのしむと古人も云へり。是を耳のそこによくとゞめなば、徳の来る事火のかわけるに付、水のくだるにしたがふが如し。などか富貴ふうきの家にいたらざるべき、あなかしこといひければ、皆人聞きて有難しとて退散たいさんせり。

 
 
見しは今、知人ちじん四五人同道し愚老所ぐらうのところへ尋ね来り給ひぬ。われ出逢たまさかの御出何をかもてなし申さん、あたらしきさかなはなきかとひとりごといへば、客の中に一人申されけるは、亭主ていしゆは我等を馳走ちそうぶり見えたり。余の物は無用むよう、皆々ふぐ好物かうぶつなれば、肴町さかなまちに鰒有るべし。たゞ鰒汁よといへる処に、又一人鰒オープンアクセス NDLJP:364汁のもてなしならば、鶴白鳥つるはくてうにもまさり成るべし。たゞ鰒のあつ物よと口々にいへり。愚老ぐらう聞きて鰒汁安き御所望也ごしよまうなり。然共こゝ物語ものがたりの候、我知人に中嶺源なかみねげん衛門ゑもんと云ふ人、常に鰒汁を好みしが、去年こぞなつきもにあたつて血をはき忽死にたり。愚老それを見しより、鰒はおそろしく候。又当年たうねん伝馬町てんまちやうにて、彦三と申者鰒を好みしが、ある時干鰒ほしふぐをくひ死たり。扨又此程こあみ町にて鰒をくひ、親子けんぞく七人家一つにて死たり。是を見しよりわれおくびやう心にや、鰒の沙汰を聞けば身の毛よだつ也。此度鰒汁をば免るし給へと申しければ、其中に竹田庄右衛門と云年比としごろ五十ばかりの老士聞きて、亭主の申す処ことわりしごくせり。唯今思はずしらず鰒のさた有りしに、若き衆たはぶれ事に所望しよまうなり。我も此已前いぜん人の相伴に鰒汁をくひつるが、くふうちにも少心にかゝり、食して後も何とやらん忘れがたかりし。鰒を食しては酒をのみたるがよきと聞きつれば、われ下戸なれ共酒を多くのみたりしに、却て酒に酔ひて胸とゞろく。是は鰒故か酒故かとしばしが程心えなく思ひつれば酒さめたり。鰒食しては誰がおもはくも同じかるべし。然るときんば客に鰒をもてなす亭主ていしゆ無分別者むふんべつもの成るべし。鰒無用と申されければ、若きしう是非ぜひのさたなし。爰に或老人此物語を聞きていひけるは、医書いしよに鰒は大温肝に毒ありとしるしたり。然るに去年とほり町にて人々寄合鰒料理よりあひふぐれうりせしが、此鰒人ためならずとて手づから生鰒をあらひ、肝を取て捨て血あひ骨迄も切捨て、みどころ計をよくこしらへ、にごり酒に一時ひたし料理して、八人寄合よりあひしよくせしに、其内五人は則時に死、三人は十日程病みて後本復ほんぷくす。此人々町にても人にしられたる人也。鰒をくひあまた死にたると沙汰さたあらば、かばねの上の恥辱ちじよくなるべし。時のくひちがひとてさたもせず。上代と末代まつだいは人の性も違ふ故か、にく計くひて人多く死する事必定なれば、鰒を食して益有るまじくかく、おろかなる人を仏はたとへて、経に犛牛尾を愛するが如しと説かれたり〈[#「犛」は底本では「(牙+攵)/耳」]〉。此牛の尾にけん有り。是を牛ねぶれば舌きれ血出る、血の味ひすうして甘し。是によつて好みて尾をねぶり、終には舌破れて死すと説けり。牛は畜生ちくしやうたるにより物をしらず。それ欲のきはめは命に過ぎたる物なし。天下にかへざる大切の命を持ちていける間よろこばず、毒魚どくぎよと知つてふくすは、世のしれものなりと申されし。
 
 
聞きしは今、江戸町に兼然法師けんねんほうしと云人云けるは、世間の人万物いはひさらに道理なし。諸人年の内より春の来るをおそしと待つ事如何なる仔細しさいぞや。紀伊が歌に、はかなしやわが世も残りすくなきに何とて年のくれをいそぐぞとよめり。また基俊もととし、いづくにもをしみあかさぬ人あらじこよひばかりのことしと思へばと詠ぜり。然に皆人極月ごくげつ廿九日晦日みそかに成りぬれば、元日の祝のたねにとて魚鳥畜類ぎよてうちくるゐの肉を用意よういす。是は何事ぞ、経に肉を食する口は死尸しゝを捨るつかなりといましめ給へば、却てわざはひをまねくにあらずや。節分せつぶんの夜大豆をまき、明春みやうしゆん元日にはまづ年神としがみを祝ひ、詩人歌人しゞんかじんは詩を作り歌をずし連歌れんがをつらね悦びのみいへり。是又心得こゝろえがたし。俊成卿しゆんぜいきやう述懐じゆつくわいの歌に、沢におふる若菜わかなならねどいたづらに年をつむにも袖はぬれけりと詠ぜり。元日人来て愚老を若く成たるといふ、仔細分別しさいふんべつなし。言葉計のあらまオープンアクセス NDLJP:365しはうしと云前句に、身をいはふ初春毎はつはるごとに老の来てと宗砌そうぜい付給ひぬ。我は去々年よりも去年、こぞよりもことし、年をとり重るに随て、まゆ白くなり腰屈こしかゞみ、眼かすみ耳聞えず万苦み重る事、をしみても余りあるはとしくれ、うらみてもうらめしきは年の初也。拾遺しふゐに、かぞふればわが身に積る年月を送りむかふと何急ぐらんと、兼盛かねもりよめり。人間春をかさね月日を過す事、たとへば屠処としよひつじのごとし。歩々ほゝ死に近し。故に兼然けんねん春をいはふ事なしと云ふ。我聞きておろかなる法印ほういんの云ひ事ぞや、節分せつぶんおには外へ福は内へとをさめ、煎大豆いりおほまめをかぞへ、舟をゑがきて敷などするを、なやらふ鬼やらひ共歌連歌うたれんがに詠ぜり。是は大内おほうちにてのまつりごと万民是をまなべり。天下において春の初のことぶき、是仁義のもと人倫じんりんのたもつ所の命也。古歌に、むつきたつ春のはじめにかくしこそあひしゑみては年はけめかもと詠ぜり。年のはじめしたしき中あひ見えていはふ事、寿命延年じゆみやうえんねんの法也。天子も元正のとらの時清凉殿東庭へ出御有つて星を拝し給ふ。すべらぎの星をとなふる雲の上に光のどけき春は来にけりと詠ぜり。ぞくしやうを拝し災難さいねんのぞおもむきは、大地ずゐしやうしに見えたり。雲の上に聞えあげよとよばふらん年のはじめの万代よろづよの声とよめり。旗をふりて万代の声と万歳をとなへ給ふと也。正月の神は女体によたいばんご大王の乙姫おとひめにてまします。本地文珠師利ほんぢもんじゆしりぼさつ御名は待連神と申也。一さい草木国土こくどいきとしいける物有情非情うじやうひじやう迄も、春の来るをよろこばずと云ふ事なし。春は東よりはじまる故、草木春をつかさどる、陽に向へる花木は春に逢ふ事安し。まして人間においてをや。正月朔日ついたち御節会ごせちゑの日の祭りとて、諸卿達しよきやうたち集つて二枝の松を持寄て、朔日たつの時是を植ゑ、神歌をうたひ政をなし給ふ。扨又白散と云くすりを正月朔日ついたち一人是をのめば一家無病むびやう、一家のめば一里無病むびやうと云々。元日の祝言目出度仔細あげてのべ尽すべからず。昔天竺仏性国てんぢくぶつしやうこくに一人の大外道だいげだう有り、名付て大量王だいりやうわうといふ。三がいにあらゆる所の大外道にて、仏神ぶつしん宝王法ばうわうはふをけがしさまたぐる者也。その国にいます加璃帝王彼雲王をせめ殺て、肉をげんたんと云ふ薬にねりて、国土こくどの人民に与へ給ふ。是を食服しよくふくする者悉若きに返り、病有る者は則ちいゆ。国土豊饒ほうねうにして長命富貴ちやうめいふうき也。天より請次て三国に是を用る。正月七日を五節供せつくの第一として七種の糝する事、彼大曇王が肉皮にくひを切集めて肉遠丹にくゑんたんにせし姿すがた也。是を食して一さいの人民のいのちを延ると云々。そうじて五節句せつくは曇王が政也。正月七日を人日じんじつと云ひ、三月三日を仙源せんげんと云ひ、五月五日を端午たんごと云ひ、七月七日を七夕と云ひ、九月九日を重陽ちやうやうといふ。皆其日々々に仔細しさい有り。元日をいはふ事、漢土かんどには詩を作り和国のことわざには歌をよむ事常也。三元悦びの言の葉をば高も賤も詠じ給へり。尋常じんじやうの詞も和歌に用ひて思ひを述れば感応かんおう有りとかや。おろかなりともよし和歌と云前句に、春秋のあはれをしらぬ身はかなしと紹巴ぜうは付給ひぬ。予も又人の数ならねど心ざしさえがたきあまりに、蜂腰ほうえう卑詞を語りて当春たうしゆんの元日に、日の本やひとの国までけふの春と申し侍りぬ。新古今に、けふといへば諸越もろこしまでも行く春を都にのみとおもひけるかなと詠ぜり。昌琢しやうたく発句ほつくに、老木にも花さく春のめぐみ哉とせられたり。法印ほういん老いたりともいかで春をよろこばざらん。悦ぶ気の前に幸の来る事、内典外典ないてんげてんに多く記せりと、皆人も申されけれオープンアクセス NDLJP:366ば、法印ほういん返答なかりし。
 
 
見しは今、角田川すみだがはは武蔵と下総のさかひをながれぬ。されば河なかばよりこなたには石有るあなたはみなぬまなり。こゝに浅草の者云ひけるは、下総の国に石なき事を、浅草の童部どもあなどり笑つて、五月になればゐんぢせんとて舟に石をひろひ入れ、河向ひに見えたる牛島うしじまの里のみぎはへ舟をさしよせ、牛島うしゞまわらじやどもをつぶてにて打勝ちて利口を云つて、年々笑ふ。古歌に、うなゐ子が打ちたれがみをふりさげて向ひつぶての袖かざすなりとよみしは、下総の国牛島うしじまの童子どもの事かと思ひ出せり。去程さるほどに牛島のわらは是を無念むねんに思ひ、常に武蔵むさしの石をひろひぬすみおき、五月浅草あさくさの子共側の舟に取乗来る時、牛島のわらは岸根に出てゐんじをする。其岸へ打ちたるつぶてやがてこなたのきしへよると語る。愚老ぐらう聞きて、木石心なしといへども花実の時をたがへず。武蔵の石は下総の地にとまらず。かくのごとくの国境を如何成るか、よくしりて分られたる事の不思議さよといへば、老人云り、石に性有せいあり水に音有りと古人も申されし。此国を六十六ヶ国に分る事は、行基菩薩ぎやうきぼさつ国々の水をのみ分給へば六十六也。然る間、六十六ヶ国に定め給ふ事、忝も文武天皇もんむてんわう御宇慶雲ぎようけいうんころほひ也。此行基ぼさつはそのかみ三十九代天智天皇てんちてんわうの御時たんじやうしてよりこのかた、天武天皇てんむてんわう持統天皇ぢとうてんわう文武天皇もんぶてんわう元明天皇げんみやうてんわう元正天皇げんしやうてんわう聖武天皇しやうむてんわう孝謙天皇かうけんてんわう迄八代の御代を経たりと云々。八十二歳にて入滅にふめつす。和泉の国大鳥おほとりの郡の人高志氏たかしうぢ百済国王くだらこくわう流也りうなり。聖武の時代に、大僧正だいそうじやうと号す。孝謙かうけん御宇ぎよう菩薩号ぼさつがうをおくり給ひぬ。日本において寿命じゆみやうの人也。扨又国かはれば人形心声言葉もかはる。鳥類てうるゐ畜類ちくるゐ虫魚ちうぎよ草木さうもく山川さんせん、土石に至るまで国々によつてかはる事、今さら不審ふしんまでも有るべからずと申されし。
 
 
見しは今、佐々木大学助さゝきだいがくのすけと云人、山上半蔵やまかみはんざうと云者に申されけるは、近日大阪へ御陣立ごぢんだての御ふれ有り、よきよろひは持ちたるが、かぶと気に入らず。御目をかけらるゝ大名着料のかぶと多く有り、一押所望しよまうの状を遣すべし、其方能筆のうひつなれば書きてたべと硯を出す。半蔵筆をとり、扨かぶとゝいふ字をばいづれを書候べしといふ。大学助聞きて、われ不文字也、かぶとゝいふ文字数多あらば、いづれ成とも書給へ。半蔵聞きて、されば甲冑かつちうの二字を日本にてはかぶととよろひとよみ来る所に、礼記らいきの書には甲をよろひ冑をかぶとゝよみ候。此二字のよみさかさまに漢和相違かんわさうゐせり。然るに日本読によむ人有り。礼記らいき〈[#ルビ「らいき」は底本では「らいれ」]〉のよみこそ本なれと用ひ給へる方も有り。人々心にかはる。すべて此かぶとの文字に相違あらん時は、ひたすら筆者のあやまりにこそなり候べけれと、筆を捨て退出たいしゆつす。われ此義を能筆の人に語りければ、老士聞て、日本は万唐国よろづからくにの例を学ぶといへども、又相違の義多し。あげて記しがたし。されば遠州につさかといふ里に、当年たうねん仔細しさい有つて数多所あまたところより江戸御城へ申来る文に、日坂、新坂、入坂、外坂と書きたり、正字覚束なし。是に依つて、此中此里の御制札ごせいさつにも仮名に書遣したり。正字は其在所の者知るべし。オープンアクセス NDLJP:367しかればかぶとゝ云ふ字、甲冑二字の外に多し。執筆しゆひつ半蔵はんざう不文字にて是を知らざるや。たとひ正字を知るといふとも、さし当て用の事あらば、仮字に書いてよるしかるべし。難字なんじを書きて読とかずは、其用調とゝのひがたし。扨何の益あらんと申されし。
 
 
見しは今、江戸通町に喜斎きさいと云老人有り。新五郎といふ若き知人ちじんあひて云ひけるは、御身そくさいにて長命をたもち給ふ。扨御年はいかほどぞととふ。老人聞きて腹をたて、牛馬のうりかひにこそ年の尋はする物なれ。ほれ者うつ気もの也とさんに悪口する。新五郎しんごらう聞きて年の尋に御腹立ごふくりふ実々是は御道理至極ごだうりしごく、我若輩じやくはいにていひあやまりゆるさせ給へと、詞をやはらげたぶらかし云ければ、老人いよ腹をたて、さやうに道理を分る奴めが、年の尋はきつくわい也と、心いられたる老人にて、こぶしを握つて新五郎がしやつらをはりければ、鼻のあたりやいたみつらん、鼻血ながれて見えにけり。新五郎無念むねんにや思ひけん、はり返さんとちからを出し、鼻のあたりを心がけさんにはりければ、又老人のはなよりもくろ血たりてぞ見えにける。去程に此人たちつかみあひはり合ひて、上をしたへとせし程に、ふたりの人の姿をみれば、たゞくれなゐの小袖をきたるふぜい也。其町人ちやうにんがあつまり月行事先立つきゞやうじさきだて云けるやうは、此程御服町ごふくちやうのたなにて与三郎よさぶらうと云者柳枝をけづるとて小刀にて指をきり、少し血の出たるさへ御奉行所ぶぎやうしよにて疵帳きずちやうに付けられたり。かほどまで血をあやめし人達なれば、御奉行所へつれて行き、きず帳に付べしと云ふ。あたりの町衆是を聞き、御服町の与三郎は小刀にてもきれ、それは切疵きりきずなれば、手おひ帳に付られたり。是はこぶしきずなれば鼻のそここそ痛みつらめ、はなの穴より血は出でたり。あたりれたるばかりなるを手負帳ておひちやうには付がたし。以後に訴人そにん有りとても、あたりの町衆まちしゆも見たりといひて相談してぞさりにける。かたへなる人此けんくわを見て申されけるは、老人に対して戯語を云ふは、先づもてあやまり也。されば先哲せんてつ遺文ゐぶんを見るに、心上にやいば有つておほくは人命をやぶる。川下に火有りてこれがために人身をそんずといへり。是すなはち忍災にんさいの二字をさす也。一旦のいかり堪忍かんにんしぬれば、心上の刄をまぬかれ、水火をふまずして災難さいなんのうれひなかるべし。然間小人は遠慮ゑんりよなきをうれふと云々。世間は虎おほかみもなにならず人の口こそ猶さがなけれとえいぜり。養生やうじやうに耳目は是うれひをなす、口舌こうぜつはわざはひをなすと也。又云、口は是わざはひの門、舌は是わざはひの万般ばんぱんのわざはひ皆口舌こうぜつより出るといへり。かはをそと云ふけだものはたはぶれくるひあそび、はてには一方くひ殺す。かるが故にたはぶれして後に腹立はらだつ人をば、をそのたはれといふ。古歌に、世中はをそのたはれのたゆみなくつゝまれてのみすぎわたる哉とよめり。戯言なれども思ふより出といへるなれば、出言につゝしみなきは愚なり。老者を敬し少者をあはれむは、是義なり。此理知らざる故のわざはひなりと申されし。
 
 
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見しは今、江戸の町人とめるもまづしきも心やさしくありけり。わづかなる庭のほとりにも、花木を植置き詠給へり。誰とてもかゝるみやびこそねがはしき事ならめ。一花開くれば四方の春長閑のどかにて、紅花の春のあした、こうきんしうのよそほひかや。りうこうそんが詩に、洛陽らくやうぐわつ春錦はるにしきの如しと作れり。げにも花故に里も鄙びねば、江戸はさながら花の都、匂ひ芬々として、わうさきるさに花のすりごろも色香いろかに染まぬ人もなし。伝へ聞く、だいご雲林院うりんゐんの花は九重こゝのへの匂ひくんず。其ころは君も君たる故、政ただしく仏法王法ぶつぼふわうはふさかんにして、花も香をまし色も妙也。此花を見る人は、憂ひを忘れ悦びあへり。去程さるほどに忘憂花合歓桜と、皇より号し給へり。今又目出度御時代なれば、花も心有てや匂ふらん。若俄に山風野風吹来て妙なる花をやちらさんと、硯薄紙をくわいちうし、花の下の狂仁きやうじん雲に似、霞の如し。心々に詩をうそぶき歌をずし給へり。是に付ても、いにしへ詩人歌人しじんかじんの花の詠こそ面白けれ。躬恒みつねが歌に、いもやすくねられざりけり春の夜は花の散るのみゆめに見えつゝと詠ぜり。西行法師さいぎやうほうし、ねがはくは花の下にて春しなんその二月の望月もちづきころと、よみしもいとをかし。楽天らくてんが詩に、はるかに人家を見て、花あれば便すなはち入る、貴賤きせん親疎しんそとを論ぜずと作れり。紹巴ぜうは発句ほつくに、武蔵野もはてあらん花の吉野山よしのやま。又智薀ちをんは花一木植きうゑぬ都の宿もなしとせられしも、今江戸町の様に思ひ出でられたり。昔或わう、都の内の家居毎いへゐごとに花を植ゑてあいし給ふ。夫より花洛くわらくと云事始りぬ。古今集こきんしふに、見渡せば柳桜をこきまぜて都は春のにしきなりけりと、素性法師そせいほうしえいぜり。昔都むかしみやこに桜町の中納言と云人は、桜を愛し給へり。猶も吉野の桜を移し四方に植ゑおき、其中に屋を立て住給ひければ、皆人此町を桜町と云。中納言をば桜町の中納言とぞいひける。七日に花の咲きちるを歎き、たいさんぶくんを祭り給へば、三七日よはひをのべたりければかくぞ思ひつゞけて、千早振ちはやふる荒人神あらひとがみのかみたれば花もよはひをのべにける哉と詠ぜり。皆人今宵こよいは花の下臥したぶししておぼろ月夜にしく物はなしと打詠うちながめ、ねぬる夜を花のおもはんあした哉と聴雪せられしも、花に来てねぬる者をば花も大切におもはんと云心かや。され共、花見にと家路いへぢにおそく帰るには待つ時すぐといもやいはましとよみしも又をかし。誠に人の心のうき立つ物は春の気色也。宗砌の発句ほつくに、いづれ見ん花の俤月おもかげのかほとせられたり。てうとくりんがこうせいろくに、春の月をもてあそぶに、秋の月にもまされりといへり。月さへ春は秋にまされりなどと、思ひ心々にふる事をまじへいひかたらひ、木本毎このもとごとにやすらひ花を友と明し暮し給へり。或人是を見て申されけるは、夫人のおそるべきは、執着愛念しふぢやくあいねん也。生死しやうじの久く流転るてんする事あいよくのいたす処也。古今集こきんしふに、大かたは月をもめでじ是れぞこのつもれば人の老となるものと詠めり。此歌をよく沈吟ちんぎんせば、人の教誡けうかいのはしたるべし。草木きやうをとくと云は、春花咲秋紅葉はるはなさきあきもみぢする是をしへ也。たゞ人は無常の身にせりぬる事を心にひしとかけて、つかの間も忘るまじきは此一事也。さあらば此世のにごりもうすくなり、仏道ぶつだうつとむる心もまめやか成るべし。執心しふしんをたち色欲しきよくをやめて、真実しんじつ解脱げだつの門にいらん事こそねがはしき事ならめ。心を物にとどむるときんば、微物びぶつといへどももつて病とす。されば謝良佐しやりやうさ程子ていしのよき弟子也。一つの硯を持て宝オープンアクセス NDLJP:369としけるを、程子物をもてあそべば志をうしなふといひければ、良佐りやうさあせをながして其まゝ硯をてたり。志を寓すると、とゞむるの二つをよくわきまふべき事也。いにしへの荘周さうしう片時へんしのねぶりのうちに、胡蝶こてふと成つて百年が間、花の園にあそぶと見てめぬ。詞花しくわに、百年もゝとせは花に宿りて明しけん此世はてふの夢にこそあれとよめり。又人に見えなば夢よことわれと云前句に、たが玉かあはれこてふとなりぬらんと、宗祇そうぎ付られたるこそ殊勝しゆしようなれ。この句にもとづき察するに、江戸の町衆まちしゆには、胡蝶や生れ来ぬらん、荘周さうしう分身ぶんしんしたりけん、花のもとの狂仁きやうじんはかなき夢のたはぶれをなせり。新古今しんこきんに、ながむとて花にもいたくなれぬれば散るわかれこそかなしかりけれと詠ぜり。かく色にめで、香にそむることをもとゝしてよき道をしらず、人間は色欲しきよくの二つにまよへり、おそるべし。此執心執着しふしんしふぢやくをはなれ浮世うきよを夢とさとり、身命しんみやうをまぼろしのごとく思ひて世をいとひ、出離しゆつりげだつの道に入給へかしとぞ申されける。

 
 
見しは昔、江戸町屋敷まちやしきのわりあましに洲崎すさき有りしを、新福寺しんぷくじと云坊主ぼうず此洲を屋敷やしきこしらへ寺を建ておく。此坊主ばうずつく案をめぐらし云けるやうは、夫江戸は天下のみなもと諸侍しよさふらひの集るちまたといへども、八幡の宮立なし。われ此洲を石にてつきたて、其上に新八幡宮武士ぶし氏神うぢがみ建立こんりふすべしと云て、日木六十六ヶ図を大ぬさをかつぎ廻り、大名小名だいみやうせうみやうの家々村里浜辺むらさとはまべ在所ざいしよ迄も、残りなくくわんじんする。それははや七八年以前よりのはかりごとぞや。いまだ宮柱みやばしら一本のしたくも見えず。史記しきに大行はさいきんをかへりみずと云々、如何なる小事にかゝはり延引えんいんふしぎ也。但広大なる工故、こんりふなりがたくや有りぬらん。昔頼朝公治承ぢしよう四年の冬鎌倉へ打入り、先鶴岡まづゝるがをか若宮わかみやを建て給ふ。同五年に至て、仰には当宮たうみや去年かりに建立こんりふそこつの義なれば、松を柱かやののきを用ひらるゝ、若宮再興わかみやさいこう有るべしとて、武蔵の国浅草あさくさ郷司きやうじと云大工の棟梁とうりやうを召され、梶原かぢはら平三景時かげとき土肥次郎実平とひじらうさねひら大庭平太景能おほばへいたかげよし昌寛等を奉行として、花構の義をなし専神威もつぱらしんゐをかざり、養和やうわ元年七月廿日宝殿棟上ほうでんむねあげ儀式ぎしきありと云々。此宮を末代まつだい迄も関東くわんとうの弓矢の鎮守ちんじゆにいはひ奉る。ていれば、新福寺しんぷくじ先大かたにも社を建給へかしといふ。傍へなる人云、それはまだ遠き引句なり。夫人の家ををさむる次第しだいは内より外におよぼし、近きより遠きにおよぼすと、先哲も申されし。是金言きんけん也。されば十年以前いぜんの事かとよ、桜田山へ愛宕あたご飛び給ふと風聞ふうぶんする。是は希代不思議きだいふしぎ哉と、われも人も此山へのぼりて見れば、草村の中にたゞ幣帛へいはくばかりを立置きたり。其後草のかりを結び御幣ををさめ、愛宕あたごをしゆご申せしが、今みればしやうごん殊勝しゆしようにおはします。扨又神田山かんだやま近所きんじよ本郷といふ在所ざいしよに、昔より小塚こづかの上にほこら一つ有りて、富士ふじ浅間せんげん立たせ給ふといへ共、在所ざいしよの者信敬しんきやうせざれば、他人是をしらず。然所に近隣こまごめと云里に人有て、せんげんこまごめへ飛来り給ふと云て塚をつき、其上に草の庵りを結び、御幣を立ておきつれば、まうでの袖群集そでくんじふせり。本郷の里人さとびと是をみて、わが氏神うぢかみをとなりへとられうらやむ計也。今見れば、こまごめのやしろ建直しあけの玉がき前に大鳥井おほとりゐ立て、しやうごん殊勝しゆしように有て、皆人是へ参る。神は人のうやまふにオープンアクセス NDLJP:370よて威をますと云事思ひ知れたり。れいげんあらたにおはしますと云ならはし、近国他国の老若貴賤らうにやくきせん皆悉くこまごめの富士せんげんへ参詣さんけいし、六月一日大市おほいち立て繁昌はんじやうする事前代未聞ぜんだいみもんなり。かくのごときの二つの大円鑑日前に有て、新福寺明暮あけくれ拝すといへども、其わきまへなきをいかゞせん。古語にがつはうの木も毛末よりおこるといへるなれば、まづわづかに草のかりやしろを結び、御幣ごへいなりともたておき、そんじようそこに新八幡宮しんはちまんぐう御立有と、日本橋のほとりに高札かうさつ立ておくならば、江戸は物見ものみたけき所にて貴賤群集きせんぐんしふをなし、はんじやういやましならん事をしり給はぬのうたてさよ。
 
 
見しは今、江戸町にいく衛門ゑもんと云人有り。うたひを明暮あけくれにうたへり。しる人有りていさめけるは、其方うたひをふかくならひ給ふは、芸者げいしやになりたき望かや。さればある歌に、おんぎよくはたゞ大竹のごとくにてまつすぐにしてふしすくなかれとよめり。其方の謡を聞けば、かみがかりにしもがかりにもあらず、ふしおほくしてことば直ならず、かなはぬげいをば打捨て、よの芸をならひ給へ。賢よりかしこからんとならば色をかへよと、子夏しかは申されしに、がひさわにもとりえとて、人には必生つき一つは有る物也といふ。いく衛門ゑもん答て、御異見ごいけんもつとも道理至極だうりしごくせり。去りながらわれまつたく芸者げいしやの望にあらず。然に寒山かんざんと云ひし人は、常に手にはゝきをさげて五ぢんろくよくの塵埃ぢんあいをはらへり。我はうたひをけいきよくの口舌にあつらへて胸塵きようぢんをはらふ。其上謡のおこりを尋ぬるに、地神ちじん五代あまてるおんかみの御時、天の岩戸いわとの前にて、八百万神やほよろづかみあそび神楽歌かぐらうたをそうし給ひしよりはじまれりと也。是昔神代のまなびなる故、能謡をば何たる祭り祈祷きたうよりも神は請給ふとかや。扨又猿楽さるがくと云事は、人皇にんわう五十代の帝桓武天皇つかんむてんわう御宇ぎよう、ひえいざんのふもと坂本さかもとに猿三疋寄合よりあひ、二疋は舞楽ぶがくをなし一疋は楽に合て手をたゝく。是則ち山王権現さんわうごんげん示現じげんなれば、或大臣是を学ぶ。四定舞楽さだめぶがくをなし能と雖するは、四天王をかたとれり、其子孫金剛、金春こんはる観世くわんぜ宝正はうしやう是也。人間のはじまり恋無常仏法世法こひむじやうぶうぽふせはふ有りとあらゆる道理をわきまへ、過現未くわげんみ迄もくわんずる事、此一曲の徳ならずや。されば高徳下賤かうとくげせん座席ざせきにも千秋せんしう万歳の悦びをうたひ給ふ事、世もつてさらに尽すまじ。又老若酒宴遊楽らうにやくしゆえんいうらくにじようじて同音にうたひ給ふ時には、自他じたのしうたんをのぞき、たしやう一ぺんの所得道也。扨又夜つれの折から一曲をかなでし時に、百八ぼんなうの雲はれ、五濁ごじよくの水かげ清く真如しんによの月ほがらか也。されば謡をうたふ事人間のみにかぎるべからず。花に鳴く鶯水に住むかはづの声を聞けば、いきとしいけるものいづれか歌をよまざりけると、顕昭文に書かれたり。爰をもつて文選もんぜんには、声曲せいきよく有るを詠といひ声曲なきを謡とは云へり。謡歌と書てはくせゝり歌とよむ。謡うたふともよめり。皆人の歌ひ給ふ高砂たかさご有情非情うじやうひじやうの其こゑ皆歌にもるゝ事なし。草木土沙さうもくどしや風声水音ふうせいすいおん皆是仏事みなこれぶつじをなせり。是を名付て経とすとしやくし給へりと云。皆人此物語を聞きて、げにも謡はあまたの徳義ありけるぞや。春の林の東風こちにうごき、あきの虫の北露に鳴くも、皆謡のすがたならずや、有がたしといへり。
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見しは昔、慶長けいちやう年中家康公唐船を造らしめ給ひ、浅草川の入江いりえにつながせ給ふ。かゝる大船をつくり海にうかべる事、みぎはにては人力も及びがたかるべし。いかやうなる手だて有て出るや、さらに分別におよばず。先年江戸御城石垣えどごじやういしがきをつかせらるゝによつて、伊豆の国にて大石を大船につむを見しに、海中へ石にて島をつき出し、水底みなそこ深き岸に舟を付、陸と舟との間に柱を打渡し舟をうごかさず、平地へいちのごとく道をつくり石をば台にのせ、舟のうちにまき車を仕付て綱を引き、陸にて手子棒てこぼうを持ちて石をおしやり舟にのする。舟中にまき車の工み奇特きとく也。古歌に、我こひ千引ちびきいしのなくばかりと詠るは、千人して引く石をちびきの石といへり。今の時代には大名衆だいみやうしゆ西国の大石を大舟に積江戸へ持来て、千人引は扨おき、三千人五千人引の石を幾千とも数しらず引給ふ事おびたゞしかりけり。扨又唐船海中へ出す事、海に綱引つなひきまき車も立て難し。くがにて手子てこぼうも及ぶべからず。されば昔実朝さねともの時代鎌倉由井浜ゆゐのはまにおいて唐船を作らしめ給ふ。是に仔細しさいあり。奈良ならより陳和卿ちんくわけいと云者鎌倉に参著さんちやくす。是は東大寺とうだいじの大仏を作りたる宋人なり。されば東大寺とうだいじ供養くやうの日、右大将家奈良うだいしやうけなら進発しんぱつ此寺へ御参詣ごさんけいけちえんせしめ給ふの次でに、頼朝公和卿くわけい対面たいめん有て、後世ごせの道を聞せしめんが為、しきりに以て命ぜらるゝといへども、和卿くわけいが云、貴客きかくは多く人命をたゝしめ給ふの間、罪業ざいごふ是重し、値遇ちぐし奉り難し、其はゞかり有と云々。依てつひに謁し申さず。然共当時たうじ将軍実朝しやうぐんさねともに於ては、権化ごんげの再誕恩顔おんがんを拝せん為参上さんじやうをくはだつるの由是を申す。則ち筑後ちくご左衛門尉朝重さゑもんのじようともしげが宅をてんぜられ、和卿くわけい旅宿りよしゆくとす。先大膳大夫広元朝臣だいぜんだいぶひろもとあそん御使おんつかひとしてつかはさる。其後和卿くわけい御所ごしよに召され御対面ごたいめん有り。和卿実朝くわけいさねともを三度拝し奉り、すこぶる沸泣ていきふす。将軍家しやうぐんけ其礼をはゞかり給ふの所に、和卿申て云、貴客きかくはいにしへ宋朝育王山そうてういわうざん長老ちやうらうたり。時にわれ門弟もんていに列すと云々。実朝おほせられて云、此事さんぬる建暦けんりやく元年六月三日うしこく将軍家ぎよしんの間に、尊僧そんそう一人御夢中ごむちうに入て此趣をつげ奉る。御夢想ごむさうの事あへて以て御言葉に出されずの処に、六ヶ年におよびてたちまち以て和卿くわけい申状まうしゞやう符合ふがうす。よつ御信仰ごしんかうの外他事なし。然処に将軍家先生せんしやう御住所ごぢうしよ育王山を拝し給はんが為、諸越もろこしに渡らしめ給ふべき由思召立によつて唐舟を修造しゆざうすべき由、彼和卿宋人に仰付られたり。御供おんともの人六十余はいに定め、結城朝光ゆふきともみつ是を奉行ぶぎやうす。相州武州さうしうぶしうしきりに是をいさめ申さるゝといへども、御許容ごきよようにあたはず舟の沙汰に及ぶ。漸唐船出来し、彼舟を出さん為、建保けんぽう五年四月十七日数百輩すうひやくはいの匹夫をもろの御家人等に仰付、彼船由井の浜に浮べんとぎす。実朝公御出有てかんりんし給ふ。信濃守しなのゝかみ行光ゆきみつ今日の行事ぎやうじとして、諸人是を引事午のこくより申のなゝめに至る。然ども此所の為体ていたらく唐船出づべき海浦にあらずと諸人申ければ、将軍も見捨て還御くわんぎよし給ふ。此舟いたづらに砂の上にちそんずと古記にみえたりといへば、人聞て唐舟作るは地形ちぎやうみなとをもつぱら見立る。鎌倉の浦は常に汀の波高く、遠浅海とほあさうみにして小舟の出入も安からず。いかに況や唐舟をや。天下の主の御威勢ごゐせいにても出づべからず。宋人そうひと番匠ばんじやうも舟を陸にて作る事のみ思ひて、海へ出すべき事をわきまへざるは愚の至なり。くがよりオープンアクセス NDLJP:372唐船からふねを海へうかべる方便はうべんなくして出でがたし。夫大石に足はなしといへども、舟におきぬれば大海たいかい万里を過ぐる、是も方便はうべんに依つて也。先年作らしめ給ふ浅草川の唐舟からふねは、伊豆の国伊東いとうといふ浜辺はまべ在所ざいしよに川あり。是こそ唐舟作るべき地形ちぎやうなりとて、其浜の砂の上に柱をしき台として、其上に舟の敷を置き、半作の比より砂を掘上げ敷台しきだいの柱を少しづつさげ、堀の中に舟をおき、此舟海中へ浮べる時に至て河尻かはじりをせきとめ、其河水を舟のある堀へ流し入れ、水のちからをもて海中へおし出す。此たくみを昔鎌倉の人はしらざるにや。
 
 
見しは今、木の実様々有る中に、かきは異名いみやう多し。木練、木淡、熟柿じゆくし、しぶかき、めうたん、串柿くしがき柿餅かきもち古来仕出こらいしいだせり。つるし柿は近年出来たるが、犬鼻とは悪柿の名也。色品により味ひもかはれり。されば濃州のうしうに大なるじゆくし有り。大御所様おほごしよさま御自愛浅ごじあいあさからず。故に人はうびして御所柿ごしよがきといひならはす。然ば愚老ぐらうさる屋形やかた伺候しこう折節をりふし、主人の御前へ杉箱すぎばこを五あたらしく葢を釘にて打付持出る。主人云、上書うはがきに進上御所柿百入と書付候へ執筆しゆひつかゝんとせしに、まてしばし是は御年寄衆おんとしよりしゆへ進上也。上書に御所柿とはおそれすくなからずや。たゞじゆくしと書くべきかと家老を召て問ひ給ふ。家子いへのこ申て云、熟柿と書ては常の柿と覚召おばしめさるべし。此大柿を御所柿と天下にさたし、進物しんもつ上書うはがきに皆遊ばし候、苦しかるまじと申ければ、則書付送り給ひぬ。主人念を入給ふもすこぶる神妙しんめう也。長臣申つるもしか也。され共この両条分明りやうでうぶんみやうしがたしと、朋友の中にて愚老ぐらう語りければ、一人云けるは、此柿は美濃みのの国より毎年まいねん江戸へ奉る故、余へもらす事を禁制きんせいし、此国にて信敬しんきやう異名いみやう也。其あまる所世上にひろまりぬ。ほとんど皆人のとさんなどに御所柿と号する事はゞかり有るべきか、ていれば御年寄衆おんとしよりしゆの中に一人、其つゝしみ有て御所を略し、熟柿到来と返札有るならば、諸士しよしいかでおそれなからんやといへば、又一人云、いや世上の人口を一人してあざむかん。屈原くつげんが世こぞつて皆にごれり、我ひとりすめり、衆人皆へり、我独さめりといふにて、賢人けんじんがましからんか、屈原は此言葉故に流罪るざいせられたり。いま目出度めでたき御時代にて、諸侍しよさぶらひ仁義を専とし文を学で物を知給ふといへども、知らざる体につゝしみあり。此かきのみならず、世間にいひ伝ふるそゞろごと多し。文字も一てんのあやまり有て漢和相違かんわさうゐの有事を、今下学集かゞくしふなどにおほく記し出せり。此等の一字両様りやうやうの異逆それをそれと知りながら、古風をとがめず今をもすてず、両字共に皆人用ひ給へり。すべて儀といふも事の字義にしたがひ、一様に定おくべからずと孟子まうしに見えたり。万事はわが心に具足ぐそくせり。たゞ時のよろしきにしたがふを善とすと古老いへるなれば、あながちにとがめて益なしといふ。老人聞て夫みきとは酒の名也。三木みきとかく一説有、又神酒みきと書り。此故にや神へきようする時はみきといふ。御供みごくといふ崇敬そうきやうの故也。いはゆる御の字は天子の外に用ひがたし。御門の奉供をば供御贄くごにへがうす。されば、磯菜いそな品多き中に伊豆の国のあまのりは名物也めいぶつなり甘苔あまのり紫苔むらさきのり共書けり。治承の比ほひ、頼朝よりとも公天下を治め武将ぶしやうにそなはり給ふに依て、オープンアクセス NDLJP:373翌年よくねんはる豆州づしうより、ぐごの甘苔あまのりと号しかまくら殿へ奉る。頼朝聞召きこしめし是は伊豆の国より御佳例ごかれとして、毎年まいねん御門みかどへさゝぐる供御くごのあまのり、すなはち御門へ奉り給ふ。又腹赤はらかのにへとは魚也。九州宇土郡うどごほり長浜ながはまより帝へ奉る。景行天皇けいかうてんわうの御時はじまる。元日節会ぐわんじつせちゑに奉供事は聖武しやうむ天皇の御宇にはじまる。下々においてくひやう取渡御書御教書と号す。然に御所ごしよとは公方くばうの御名也。末代まつだいに至ては御所柿ごしよがきと云伝るとも、当御時代たうごじだいにおいて御所柿ごしよがきと号し、どさんなどにほどんどはゞかりすくなからずやと申されし。
 
 
見しは今、江戸繁昌はんじやうにて諸人ときめきあへる有様、高きも賤も、老いたるも若きも、かしこきも愚なるも、彼まどひの一つやんごとなし。されば吉原町を見るに、遊女共我おとらじとべにおしろいをかほにぬり門毎に立ちならびたるは、誠に六宮のふんたいの顔色がんしよくも是にはまさらじといへば、中立なかだち聞きてなう御身たちはしろしめされずや、ふんたいをめさるゝはかたち愚なる人のはかり事也。此上臈衆じやうらふしゆの外に和尚さまと名付、容色無双ぶさう美人達びじんたちおはしますが、此人々は生れながらの色かたち其まゝにて、ふんたいと云事をば名をもしり給はず。其面影おもかげ花にも月にもたとへがたし。はらとこぼれかゝりたるびんのはつれより、ほのかに見えたるまゆの匂ひ、ふようのまなじり、たんくわのくちびる、心言葉ことばもおよばれず。金翠きんすゐのよそほひをかざり桃花たうくわこびをふくみ、人目をよぎておくふかく屏風べうぶきちやうの内にまします。御面影おんおもかげあからさまにかいま見る事もかたし。せめて御身達に玉簾の隙よりもれ出る衣のかをり計をそとふれさせまゐらせばや。つたへ聞く、業平なりひらの中将にちぎりをむすぶ女三千七百三十三人侍るうちに、べつして十二人を書きあらはし侍る中に、紀在常きのありつねのむすめ第一に書れたりしも、此上臈衆じやうらふしゆによもまさらじ。此和尚このをしやうさま達の御姿おんすがたをばかんの李夫人りふじんをうつせし画工もゑがくべからず。梅が香を桜の花に匂はせて柳が枝にさかせたらんこそ、此姿にもたとふべけれ。昔かぐや姫といふ美人有りしが、是に皆心まどはせり。此姫のいはく、我に逢みん人はたつの首に五色ごしきひかる玉あり、それを持来りたまへ。諸越もろこしに有るひねずみの皮衣かはごろもを取りてたべ。天竺こうがの底に有るこやす貝を取て給べ。東の海にほうらいと云山有り、それに銀を根とし金をくきとし白き玉を実として立る木あり。一枝折つて給はらんと仰有りしかば、皆人聞きて世にも有る物なればこそ、かぐや姫のこのみ給へるとて、こま、諸越もろこし、天竺へ宝をもたせ人を数多遣はして、是彼と求め来るを姫に奉れば、是にはあらず益なしとのたまふ。また金銀珠玉きんぎんしゆぎよくにて物の上手じやうずに玉の枝を作らせ送給へば、誠かと聞きて見つれば言の葉を飾れる玉の枝にぞ有りけるとて、終に人間に逢給はずして、天人と成て天上へあがり給ひぬと、竹取物語に見えたり。若此かぐや確にやたとへん。たゞ是天人の影向やうがうし給ふぞとかたれば、皆人聞て其面影おもかげを一目見ばやと心空にあこがれ浮立雲のごとくなり。去程さるほどに此遊女を諸人に見せ心をまどはせんとはかり事をめぐらし、のうかぶきの舞台ぶたいを爰かしこに立ておき、そんじようそれさまの御能有り、かぶき舞有りと高札を立ておけば、是を見んと貴賤きせんくんじゆをなす処に、笛太鼓ふえたいこつゞみうたひのやくしやをそろへはやし立オープンアクセス NDLJP:374つる時に、をしやうぶたいへ出ひきよくを尽す遊舞の袖、是やまこと天人てんにんぞと皆人見ほれまよひて、此世は夢ぞかし、命もをしからじ、宝もようなしと、蓄へ持ちたる財宝を皆尽し果て、そのうへはせんかたなく人をすかして銭金をかり、身のおき所なうしてかけおちする者もあり、ばくちすご六を打ちて御法度はつとにおこなはるゝも有り、主親しうおや貴命きめいにそむきちくてんするもあり、盗みをなして首切らるゝも有り、女をさしころし自害じがいし共に死するもあり。下べの者は其家のふだいにつかはるゝも有り。身のはて色々様々也。此由このよし御奉行衆ごぶぎやうしう聞召きこしめし、とかく彼らを江戸におくべからずと女の数をあらため給ふに、をしやうと号する遊女いうぢよ三十余人、その次の名をうる遊女いうぢよ百余人、皆こと箱根はこね相坂あふさかをこし西国へながし給ふ。にや此道は智者も愚者もかはる事なし。戦国策せんごくさく男色なんしよく老をやぶる、女色ぢよしよく舌を破るといへり。此道ふかくつゝしむべき事也。