慶長見聞集/巻之三
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【 NDLJP:275】巻之三 聞しは今、或人語りけるは、古無僧 一人尺八を吹き、我門に立ちたり。一銭とらする所に、古無僧云、われは門毎にめぐり、母を尋ぬると云、ふしんなり、如何成人ぞととへば、古無僧答て生国 は山城国の者也。我奉公し、主人の供して豊後の国へ行けるに、親は身のなすわざもなく世に住侘びて、東の方に栖 求めんと父母ともなひ下りぬ。二とせが程、親の行衛をきかず。明暮恋しく思へども、心にまかせぬ事にて相過る所に、三年已前 のはる知る人語りけるは、当年主人の供して江戸へ下り、主人より去る所へ急用の使に行きけるに、其方母人 路次 にてはたと行逢ひたり。母、袖にとり付き、古しへ我子の新八と友達なれば、子に逢ふ心地こそすれと、ひたすらに愁歎 す。其方子の新八は豊後の国にあり、息才 にて奉公す。されども父母の行衛をしらずと云て、明暮歎くと云へば、母云、一年 の秋夫 病死して別れたり。たのむ方なくいとゞ我子の行衛のなつかしさに、乞食 して上方へ上 る所に、箱根の関にて女を通さずといへばせん方なく、あきれ果 、いきて苦みなげかんより谷へ身をなげしなんとおもひつるが、命のあらば又もや子に逢はんと、箱根 山を下り又江戸へかへり人に奉公し、命つなぐど泣く。人々見ていたはしさに、共になみだをながしけり。われ主人のため急用のために使に行く。返事遅々 せば腹を切り追失はるゝか身安かるまじ。残多けれども又こそあはめといへば、母は扨も情なしとて、しばしと袖にすがり、はなすまじと人目もわかず泣きかなしめば、進退ならず迷惑 す。町海道 のことなれば、とほる者ども何事かあると立止 り、両人を中にとりまいて群集すること市のごとし。斯ありて時刻移るの悲しさに、取付たる袂を引切て、あへなくもはしり過ぎ、跡の事はしらず。我奉公の身やんごとなき仕合にて、母人 の在所をも聞かず其方にかたるも面目なしといふ。我聞て父のことはなげきてもかひ有るまじ。生たる母の在所 を尋ばやとおもひ、主人へ詫 びければ、情ふかき人にて暇をいだされたり。即刻 豊後の国を立ていそぐほどに、廿日といふに江戸へ付ぬ。母の行衛知りがたければ、ちひさき板に書付、我生国 山城の国むだきの郡小浮の里。名は新八をきな名は犬法師 、母を尋ぬると書て、江戸海道の橋詰毎 に札を立て置き、我は尺八を吹き習 ひ古無僧と成りて、江戸町の門毎に立めぐり尋ぬる事はや三年になるといへども、母の在所 しらずとなみだを流す。これを聞て、男女 皆あはれをもよほし袖をぬらしたり。かたへなる人云く、是に付てあはれ成事おもひ出せり。昔建仁元年三月八日鎌倉将軍頼家公、比企 判官能員 が宅に入御 し給ひ、庭樹の花ざかりなるの間、兼て案内を申の故也。爰に京都より下向 の舞女 有て微妙 と号す。盃酌 の間是を召出され歌舞の曲を尽す。左金吾 しきりに是をかんじ給ふ。廷尉 申て云、此舞女愁訴 の有によりて、山河もしのぎ参向 すと申す。金吾聞召し其旨やがて直にたづねしめ給ふの所に、彼の女落涙 数行 にしてさうなくこと葉を出さず。尋【 NDLJP:276】問度々におよぶの間、申上て曰、建久年中父右兵衛尉為成 ねいじんのざんげんによりて、官人の為禁獄 せられ、しかうして奥州えびすに給はらんために是をはなちつかはさる。将軍家の雑色 請取り申し下向 しをはんぬ。母は愁歎たへず、孤独 のうらみにしづむ。やうやく長大の今れんぼの切なる故、父の存亡をしらんがために、始て当道 をなしつ東路に赴と申す。将軍聞召しふびんの次第なりとかんじ給ふ。聞く輩悉もて悲涙 をもよほす。奥州へ人を遣し彼者尋ぬべき由仰出されしなり。其後に尼御台所 金吾の御所へ入御 し給ふ。舞女を召され其芸をみ給ふの後、親をこふる志をかんじせしめ給ひ、奥州よりの飛脚帰参 するほどは、尼御台所 にこうずべきよし仰有て、則還御 の御供す、ていれば、奥州に遣はさる雑色の男、八月五日帰参す。舞女が父為成亡のよしを申す。舞女聞てもんぜつす。同十五日、舞女は栄西律師 のぜんばうにおいて出家をとぐ。持蓮 と改号 す。ひとへに父をとぶらはん為なり。尼御堂御哀憐 の余り居所を深沢の里の辺りにおいて給はる。常に御持仏堂の砌 に参るべき由仰ふくめらるゝ。彼の女日比 古部左衛門尉保忠 と密通 し、ひよく連理 の契 りをなすところに、保忠は甲斐の国にいたり、彼者の帰来るをまたず出家す。悲歎 にたへざるがゆゑなりと皆人かんるゐを流したり。然に保忠甲斐より来り、舞女出家のよしを聞き、おどろき遺恨 やむことなくて、彼禅門 に入り、舞女落髪せしむる僧等を悉くてうちやくす。是に付て仔細ども有り略しぬ。扨又其方父は死に、母去々年迄存命 なるとや、孝子の志をば天地も感じ仏神 もあはれみ給ふ。などか母人にめぐりあひ給はざらんとなぐさめぬ、ていれば、古無僧三年町を尋れども、母の行衛なし。大名衆の屋形 を尋ぬる所に、或屋形 の門外にて尺八を吹きたり。門番乞食は門内へ入るべからず御法度 なりといふ。古無僧我は母を尋ぬる者なりとしか〴〵のことを語る。番の者聞てはゝを尋ぬる志あはれなりふびんなり。此屋形の内をば、我尋ねとらすべし、しばらく待たれよと云て屋内をはしりまはつて聞所に、或下女聞て、夫は誠か年頃はいかほど名は何と云ぞ。男答て、年は甘歳計名は新八をさな名は犬法師 といふ。女聞てのうそれこそ我子よと云て、あわてふためき門外へかけ出る有様、狂人の如く、子を一目みて、やれ法師よと走りよりていだきつき、是はゆめかやうつゝかや、もしさめなばいかゞせんと泣。子は父の事を云出し、あはれ二親みるならば、いかゞ嬉しかるべきと共になく計なり。屋形 の男女 集りて袖をぬらさぬはなし。主人聞て、女に暇 をとらせ、あまつさへ豊後迄の路銭をそへて出す。親子よろこび伴ひ本へ帰りけり。孝子の志浅からず、仏神の御引合にやと、皆人なみだをもよほせり。
見しは昔、廿年以前の事にや有けん、他国より吉利支丹 と云宗旨 渡りて日本人多く此宗になる。是はいかなる仔細ぞととへば、ていうすと云者、能く人を助け給ふ。神仏は人をたすくべからずと仇かたきにいとひ捨る。その上命をおそれず仁義礼智信をもしらず、常に悪食 を好み牛ぶたをかひおき是をくらつて、悪道無道 にして心のまゝの振舞をなす。秀吉公聞召し夫 第六天 の魔王 は欲界 の六天を皆我【 NDLJP:277】領して、中にも此界の衆生 の生死にはなるゝことををしみ、或は妻となり或は夫となりて是をさまたげんとす。然によきを愛し悪をにくむ是仁の道なり。仏神をかろんずる徒者 とて、京三条河原に五十余人はた物にかけ給ふ。のびすはんの国下是しもこりず、いかにもして日本人を吉利支丹 になし、後は我国にせんとの謀ごとにて、当将軍の御時代に、又伴天蓮 と云ふ坊主 を多く渡し長崎、京、伏見、江戸に寺を立ておき、先 非人乞食 をともなひ我宗になす。扨又日本人のつうじをかたらひ、其者に七日づつの日を定て談義 説する。夫日本人の尊み給ふ釈迦、阿弥陀、天照大神いづれの仏神も、古へは皆人間なり。人のひとを助くること叶ふべからず。此世界をばていうすひらき給ふ。人間もていうす作り給ふ。たとへば親の子を思ふごとく、ていうす人間をあはれみ、此宗ゆゑに死罪にはた物にかゝりたらん者は、忽天上へ生れたのしみにあふと語れば、無分別者 何とか聞えて、皆此宗になる。秀吉公聞召、それ我朝は神国仏法 流布 の国なり。是外道 の妨なるべし。忝も仏法日本へ渡る事、如来めつ後一千五百一ヶ年をへて、人皇第三十代欽明天皇の即位十三年、壬申の年十月、百済国 のせいめい王より金銅の釈迦仏の像と、并に経論 を渡し給へり。夫よりはんじやうして、推古天皇この方弥さかんなり。然るにかれらを殺すこと、世欲名利 の為にもあらず。釈迦因位 のとき、正法流布 のためには悪僧を亡し、聖徳太子、守屋を討給ひしも、仏法をひろめん為ぞかし。其上密宗 に調伏 の法とておこなはるゝは、是悪心邪法を行ずる衆生 をば、秘法 の力を以て降伏 し、はやく打ころして後世に成仏せよとの慈悲の方便ならずや。然るに一殺多生 の理ありと御諚 有て、ばてれんをば舟にのせこと〴〵く流し、日本人のきりしたんころぶと云をば命をたすけ、ころばざるをば諸国にて死罪に行るゝこと、数百人に及べり。江戸にては二十余人、浅草原にて首を切り給ふ。
大滝 の浦へ黒船 流れより、舟損す。是は呂宋国 よりのびすばんへ渡る船也。数々の物を積みたるは宝の山ともいひつべし。此荷物浦 へ打上けるを、安房、常陸、下総の者共集りてひろひ上れどもつきせずと風聞する。江戸町の者共十五以上六十以下の人迄も、上総の浦へ走りよつて、此荷物 を拾はんとする。此浦本多出雲守と云人の領地也。拾ふ事きんぜいと高札 を立てられたり。愚老も此荷物を拾はんと人並 に行けるが及ばずして、人のひろひたるものを、骨折 代 を出しもらひとり江戸へ帰る。つら〳〵思ひけるに、此荷物京都にてうるならば、過分 の金銀をとり、我一期 楽 しむべし、皆人持て行かざる先にと心懸 、駄賃夜 を日に次でのぼる。おなじき十月廿日と申すには、京二条の問屋島屋与右衛門といふ人の宿につきたり。京の町人 あつまりて云ひけるやうは、音に聞えし大黒船 のひろひ荷物 こそはやのぼりたり。いざ是をみんと島屋が家へ数百人入込 み、内に立つ所なくて門外に人の立ならびたるはたゞ是市の如し。われ是を見て、すは夜を日に継で人より先にのぼりたるは、これをこそ願ひつれ。けふは十月廿日えびすいはひ日に京着し、めでたき吉日 なり。ねを高くうらんものをとこゝろうれしくて、宝の山に入りたるこゝちせり。忝くもえびす三郎殿と申すは、いざなぎの御子、惣じて一女三男と申して、四人の御子おはします。日神月神そさのをひるこ是なり。天照大神よりも三番めに渡らせ給ふ御弟なり。御名をば三郎殿と申奉る。又西の宮と申しき。本地阿弥陀如来 にてまします。西の宮と申すなり東の国の人こそ西の宮とは申べけれ。南北の人も西の宮と申すは是なり。又此御神を蛭子 と申す仔細有り。是は神道の義おぼろげにて人知り難し。知たりとても云べからず。なかんづく市にえびすをいはひ奉る事いはれ有り。聖徳太子と西の宮の御神御約束ありて、末代の衆生はういつ邪見を宗とすべし。国々の者集り雑言し、酒に酔ひなば悪事出来市みだりがはしく成るべし。市たいてんせば、我願ひ空しかるべし。市の中にあとをたれてわうなんをはらひ、売人を救ひ給へとのたまへば、三郎殿りやうじよう有ていやしき売人におもてをさらし、手ずさみに成り給ひし衆生 をたすけおはします、難有御慈悲哉 とおもふ所に、宿のしまや此売物をとり見遣りければ、皆人云ひけるは、慶長元年丙申の九月八日土佐の国浦戸 の湊より十八里沖に、夥敷 黒船流 れ上る。是はなんばんよりのびすばんへ渡海する売船也。悪風 に逢ひ梶をそこなひ海中にとし月をふる【 NDLJP:279】故、糧なくして五百人死し、残りて二百人生たり。此よし長曽我部 より告来たる。其比秀吉公大阪におちやうそかはします。急ぎ増田右衛門尉長盛をけんしとして指遣 はさる。大工に仰て船のたけを積らせ給へば、長さ三十六間横二十間也。梶の穴広さ畳五畳敷 なり。此荷物積日記を尋出し見給へば、宝の山とも云つべし。西海大船二百余艘に此荷物をつみ、増田右衛門尉奉行し、大阪の浦に着岸 す。秀吉御喜悦なゝめならず、此内に生れたるしやかふ十あふむの鳥二つあり。然れば当年 関東へより、船は土佐の船より大きなるとかや、日本は小国なれば人集りて二十年三十年売共買共、此黒船 の荷物尽すまじ。明日にもなるならば、荷物山のくづれ落るがごとく来るべし。時に宿のしまやいひけるは、如何にや京の町人達、元より此荷物関東にて拾ひ物なり。然といへども、此人京へのほりくだりの路銭を出して貰ひ給ふと助言する。其助言にもつかざれば捨るには及ばずして、下り計の路銭にかへて東へ下りしは、只今玉をふちに沈めたる心地、扨又宝の山に入て手を空しくして帰るにことならず。
見しは今、江戸万町に源斎 といふ人親子いさかふ。親心いられたる人にて、子の六郎兵衛を杖をとつてしたゝかに打ちたり。六郎兵衛云、か程に腹が立ならば我は子也、とがむる人も有るべからず、只打ころして親の本意をとげ給へといひてやむ事なし。となりの人来りて六郎兵衛をいさめていはく、いにしへ伯瑜 といふ人の母はきはめて腹あしく心たけくして、伯瑜をうつこといとけなき昔より成人するまで怠らず。母老て杖のよわるをかへつて悲しむ。かるがゆゑに、此人末代までも孝子の名を得たり。扨又酉夢 父をうちしかば、天雷 下りてたちまち其身をさく。おやにはしたがふならひ、堪忍 し給へといふ。六郎兵衛曰く、夫程の理を此六郎兵衛しらぬ者とやおもふ、我親を打にぞ天雷も罰をあつべけれ、親に打ちころされんと云は孝也。親年寄るに随ひて、万ひがめりといさめをいへば、却て杖にてうたれたり。然れば孟子は不孝に三つの品を上られたり。親のひがごとに随ひていさめず、不義におとしいる、是大不孝といへり。夫君親の忠孝と云は、あらそふべき時はあらそひ、したがふべきときはしたがふ故に、孔子のたまはく、君にしたがひたてまつるは、忠にあらず、親にしたがふは孝にあらずと申されし。其上我子たりといへども、早家をもち妻子を持つ、四十に及び子をちやうちやくせらるゝこと外聞実義 を失ひたり。たゞ打ちころされんといふ。となりの人いはく、それ世上におもひおもわれすること、親子に増はなし。然共親が子を殺し子が親を亡す事、むかしもいまもある習ひなり。志かなふときんば、呉越 も昆弟 たり、志かなはざるときんば、骨肉 もてきしうたりと、古しへの人云へり。唐尭 は老おとろへたるはゝを尊み、舜は頑 なる父をうやまへり。孝経に父父ならずといふとも子子たらずんば有るべからずと云々。然ば六郎兵衛孔孟の金言をよく知りて、父をいさむるといへども、其深志をしらず。孟子の語に、父子にしたしみ有りと云へり。我身は頭より足の爪先まで父母のうみ付たる物なれば一体なり。いさめて親きかずといふともほしいまゝにはからふべからず。其【 NDLJP:280】身をかへりみ、つゝしみて孝をせんには、父母は元より子をおもふ道なれば、父子の道立つべし。論語に父母につかふまつること、能く其身を尽すと云々。仁王経 に六親不和天神 不祐 と説けり。天地をいたゞき給ふけんらう地神も地の重きことはなし。不孝の者ふむ跡骨髄 に通りかなしび給ふとなり。故に仏はわれ一刧 において説くとも、父子の恩つくること有るべからずと説けり。一切の恩はおやの恩よりおこるとなれば、おそるべきは孝の道なり。昔嵯峨 の院の御時、治部卿 としかげがむすめの腹にをのこ一人有り。彼は三つの頃より孝の志あり。五つの年より親をはごくみ、天道の恵みにあへる事うつぼ物語にみえたり。史記に明君は臣をしり、明父は子をしるとや、故に慈父は無用の子を愛せずといへり。然れども父母常念子子 不念父母 と説給ひて、親は子をおもふならひ子は親をおもはざる浮世なるべし。其上世間に物を願ひてなることならぬことの二つの道有り、生れつかぬ富貴寿命など願ふは理にあらず。天命なれば望とも叶ひがたし。親に孝、君に忠をせんとおもふ事如何ほどもなる事なりといさめければ、六郎兵衛聞て有がたき人のをしへ、我不孝故也と親に詫て中をなほり、親子むつまじくさかえり。
見しは今、世上の有様尊きも賤しきも分際 に随ひ持給へる道具、品々有る中に、家より大なるものなし。針よりちひさき物なし。是男女の持ずして叶はぬ重宝 也。家の内にあつて風雨寒暑をのぞき、万 調度 を納るは、是家の徳義 なり。往昔は家もなかりしに、古人 鳥の巣かくるをみて作り始めたり。人の栖 はあらぬ古しへと云前句に、天が下行方は今もかゝる世にと、紹巴 付けられたり。然るに家は一人の分限により大小善悪の差別有り、針はかはる事なし。扨針をつく〴〵と見るに、鉄をちひさう作り立て、うつくしくすりみがく事、如何計の造作 ならんとおもふ処に、失ひやすく又求るに其あたへ安きこと貧者の幸を得たり。其上ちひさき針の事耳穴をあくる事ふしぎにおもひけるに、当年甚三郎と云人上方 より江戸へ来り、みせ店に有て針のめど明くるをみるに、神変奇特 なり。世間に学ぶ道品品多しといへども、針の穴明くる事は学びがたし。其針穴 愚老 目には中々見えず、女の有りしが細き糸をちやくと通したり。是又ふしぎなりといへば、かたへなる人云く、昔黄帝 の臣下に離と云ふひとは、馬を千里の外に立て、あらそひて其眼の人見 を弓にて射る。又淮南子 に離朱 は針の耳を百歩の外にて通すとあり。いにしへ神農 の御代には木の葉つゞてきたる衣裳を作り着ることは、黄帝の御時よりぞはじまれる。扨又日本にて衣類裁縫の事は、人皇十六代応神天皇御宇に、百済国 より女工はじめてわたり、夫より衣裳をつゞり着たり。今も桑門 は着てんげり。椹 もなくて静なる山といふ前句に、衾 にも落葉をきたる世捨人 と兼載 付けたまひぬ。昔は寒につめられ死するゆゑ、土穴を掘りて入寒をふせぐ。其頃の世には寒つよくせし時は、雪鬼とて土化生のもの国を廻りて雪をふらし人をとり、口に飲と、故に相伴ふ人其鬼に穴はしらすな、能々隠せといはんとて、あなかしこくせよといへり。扨こそ【 NDLJP:281】秘事 なることをば穴賢 秘 じと文にも書くなり。抑我国は天神七代地神五代迄は人王もなかりき。然るに地神五代うがやふきあはせずのみことの御宇に、仁王はじまりて出来給ひぬ、神武天皇是なり。夫より三十代にあたらせたまふ欽明天皇の御宇に、天竺国霖夷天王 の御息女、金宮皇后と申姫の桑の木船にのり、常陸の国豊浦のみなとへ流れより、此所にてわたを仕出し方便 をなし給ふ。此義別紙に委く記し侍る。然るに又不思議を古き文に曰、欽明天皇の御息女がぐや姫と申奉るは、常陸の国筑波山 へ飛び給ひて、神といはゝれ給ふ。国の人あがめ奉り、御供をそなへ神酒 を参らせ、尊敬 申すことなゝめならず。或時神詫 にのたまはく、我は是旧国のあるじ霖夷天王 のむすめなり。是国は仏法流布の国なれば、人民を守り衆生 さいどせん為に来りたり。吾いやしき腹にやどることあらじとて、欽明天皇の御子となりたるなり。我此国においてこがひの神となりたり。此豊浦にて綿といふこと仕出し、則各夜姫 我なり。爰許 の山もいさぎよからず、是より都近き富士山へよぢのぼりてとぞ、神はあがらせ給ふ。其後富士山へ飛給ふ。竹取の翁達をがみ申しけり。筑波山の御神と富士権現 とは御一体分身にて御座さんやう神と成給ふ時は、本地勢至菩薩 の化身 なり。かゝる仏菩薩 の変化にて御座す間、道の人は綿絹をたつ也。此恩徳をおそるゝ故なり。扨又針の始る事は、聖徳太子の御あね御前にたつた姫と申女人有り。天皇の御息女 にてましませども片輪 なる人なり。大内をおひ出され、こゝかしこを迷ひ行き給ふを、人目見苦しとて小屋を作り姫を入置き、業の為とて針といふこと、太子教へ給ふ。夫よりはりといふこと出来たり。太子の御嫡女故、皆人姉小路 の針と申伝へたり。人いかで生ながらさかしからん、姿こそ生れ付たらめ、学ばゝなどか賢きより賢にうつさばうつらざらん。縦根情愚鈍 なるといふとも、このまばおのづからその道にいたりぬべし。紀昌射 を飛衛 に学ぶ。衛 が云、先またゝかざることをまなんで後に、射をいふべし。昌帰てその妻の機下 にえんぐわして、目を持てけんていを受け、二年の後針の末まなじりにさかしまにすといへども、まじろがず。重て衛につく。衛がいふ未だし也。みることをまなんでしかうして後に小を見て大のごとく、微を見ること著のごとくして、しかうして後に、我につくべし。昌�をもて虱 を窓にかけて是をしるしとす。四旬 の間やゝ大也。三年の後車輪の如く、もて余物をみれば、皆丘山 也。則えんかくの弓、朔蓬 のかんをもて是を射る。虱 のこゝろをつらぬいてかけて絶せず。論語に三年まなんでよきに到らずんば可なりといへり人一度せば、おのれ千度してよくせんに、などか物をしらざらん。はいしやう書に泰山のあまじたり石をうがつ、たんきよくのつるべ縄ゐげたをたつ、水は石のきりにあらず、索 は木ののこぎりにあらず、日せん度是をしてしからしむなりといへり。万久敷積 ておのづからなるとなり。針めど明ると計に限るべからず、きとくはみな稽古 にありと申されし。
見しは今、天下治り国豊にして五常を専とし給ふ。なかんづく仏法繁昌 ゆゑ諸宗の寺々に高座 をかざ【 NDLJP:282】り、檀那 をあつめて談儀 をのべ給へり。然る間、各一門を立て勝劣 を諍論 し、五年六年の学僧は早 高座にあがり説法し給ひぬ。十年十年修行 の能化達 は仏一代の聖致 は胸中にをさめたりとの給ふ。あまつさへ我智恵を人に知らせんとて、釈迦 は愚鈍 也、人には八万蔵経を物くどく説れたりといふ上人もあり。うそをつかれたりといふ智識も有り。だるまの九年面壁 扨も廻 り遠し。一座の座禅 にくていこうの罪業 を滅す。先仏先祖皆心愚也と、釈迦達摩 をあざむき広言 をはき給ふ。然るに江戸法林寺 上人 の談儀殊勝 のよし、其聞え有りしかば、諸宗 共に参詣す。上人 高座にあがり説法して云く、本来 の面目と云は、即身即仏 にして、外に仏なし。不立文字 にして経意 を用ひず。以心伝心 に、有願 は今仏出世ならば、此法林寺一不審かけんに、中々一答もおよぶべからず、放言 したまふ折節 庭の樹のとまり烏俄にかしましう鳴き出す。上人の御説法を鳴けつ所に、上人扨も悪き烏めかな、説法ものべられぬとの給ふ座中にて、一人声高 に、いや烏がわらふよと云ければ、聴衆 聞て一同に、実にも烏がわらふよ鳴くよと云ひやまず。座中騒ぎどうえうする。上人もおもひの外なれば、けてんがほにてあきれ果て無言にしておはせしが、しばらくありて、上人 左の手に経を持、右の手に扇を開き高座に立て、やれ鳴音しづまれ〳〵と両手をふつてまねき、跋扈 とふみとゞろかし給ふ。聴衆 是をみて、あれ天狗のはねひろげたるを見よとわらひ、一言づつとおもへども、千人計の聴衆なれば、寺内ひゞきわたり、一人座を立かとみえけるが、一同に退散 して、上人ひとりすげもなく高座にのこり給ひぬ。かゝる仕合合ひける烏俄に鳴出で、人の気さはるは世のならひといひながら、上人の説法 の時節 、烏鳴あはせたるは、法林寺御ふのあしき事なりと、愚老語りければ、爰にある禅師 是を聞て仰けるは、いや〳〵烏鳴き知りてわらひたる事もあるべし。其上からすは是めいどのとり、能人の心をしりあだなる世をしらせんとて、苦哉々々と鳴く。さればおもひとめてよ鳥の声々と、牡丹花 前句をせられしに、法はただ何の世にもとくなれやと、聴□仏道を能心得て付られたるこそやさしけれ。蛤雀授とてはまぐりに小鳥などが説法 を聴聞して得道 せし事、経にとかれたり。荀子に瓠巴琴をならせば潜魚 出て聞き、伯牙 琴をひけば六馬あふいで秣 かふ。いにしへは魚虫鳥獣皆かくの如し。世は澆季 なりといへども、日月地に落ち給はず。こゝろ鳥類など聞しらざらん。すべて能化 のさはりはまんしんなり。形は出家 たりといへども、内心には天狗入替り魔道 に著していとまなまし。夫世間の諸事も其議を心得て、人に語ることは安く、其語のごとく其事をなす事はかたし。儒者 の中にも孔孟 などのごとくこゝろに五常をそんする人もなし。今又諸宗 において仏教を学する人も、その旨の義理をだに学び得つれば、おの〳〵満足のおもひをなし給へり。故に学解 のまさるに随ひて、がまんも又高し。本分 の大智にかなへる人はまんしんをもおこすべからず、智恵 をもたつとむべからず。元より人々如来 の智恵徳相 を具足 ぞといへども、妄想顛倒 の病にさへられて現成 しがし。有所得のこゝろに任じて徳行にほこる人は、魔道に入ることのかれがたし。故に経にも法を得ることは安く法を守ることかたしと説れたり。其上末世の【 NDLJP:283】衆生古徳の家風に同じがたし。上代の聖人は智行徳 けけ、和光 の方便利益の因縁 誠にはかり難し。伝へ聞く、恵ゑんのせいまん禅師 は、うゑて松柏の葉をさんし渇して胴中 泉を飲ず。青々 たる竹を見やんで、衣にくわして自在にねむるといひて、松の緑などを食し、のどがかわけば谷川の水をすくひてのみ、常にあをき竹などあいし、竹を愛する業もつきぬれば、ほく〳〵とねむりなどして、木食草衣 にありて一生涯を送られたり。ちよく道人はひめもす両眼枯松 にかけて米なきことをうれひず、たゞ句をもとむと云ひて沈吟 し、鳥獣とこしなへにして、老生と閑なる山居といへり。是ほどに法味禅悦 の食をあいせば、仏道遠からじ。山里はひとりあるさへ淋しきに、ふたりある身のさぞうかるらんなどと詠吟せられ、しかく真如平等 なるがゆゑ、四生 の群類非情 に至るまでもすこしきへだてなし。老の曰、道徳ある人には陸を行に虎 も爪 をさしおく、陣に入るに甲兵 も力杖 身をおかさず。扨又修行 成就 の僧、法幢 をとるといふは、智劔 を以て一切群生 をきりとらんがためなり。爰を禅宗 には吹毛 の劔 とあつかふ、浄土 の祖師 善導 は利劔 則是 弥陀号 としやくしたまへり。今時の能化達者清浄の仏法 を名利のためにけがし、解脱 の行儀を渡世 のはかりごとゝし、がまんのはたほこをたて、悪心の劔をみがきせつかひのこゝろやすまず、勝劣 を諍論 して、瞋恚 をおこし、無始 のぼんのう妄想 よくなれたることをのみ好み、迷著 のきづなはなれがたし。中々古人の家風に及びがたし。其ひれいあげてかぞふべからずとぞのたまひける。
見しは今、延寿院は当地の名医諸人信敬 す。八十余歳長命 なり。養生故 ぞと人沙汰せり。然るにゑんじゆゐん観世大夫 に謡 をけいこし、活計事の座席にて、かならずうたへり。家職 にもなき似合ぬ道をすき、自慢顔 してうたひたまひぬと、皆人云。延寿院 きゝて、我ながら謡すきにあらず。夫人の養生といふは寒ければ衣をかさね、あつければ衣をぬき、それ〴〵に応じ進退あるが、養生万過 たるはおよばざるにはしかじ。されども義は時のよろしきにしたがふならひ、人酒飯もてなし、有る時には客ぶりに飲食をすごす。夫 脾胃 は食物ををさめ一身を養ふといへども、過ぬればはうまん食熱し呼吸常ならずして、こゝろ安からざれば、脾胃 の性たるこよくわんを好み、歌うたふとなれば、われ過食 の時に至りて歌うたふ。即時 脾胃 ゆるやかにして、肺の風門ひらけぬれば、五臓 五腑 も皆ひらけて三途 の病さへ六賊たり。心腹 いう〳〵くわん〳〵たりといへり。是を聞くより此方、弟子衆をはじめ諸人饗膳 のうへには、かならず養生うたひと号して謡ひ給へり。当世のはやり養生謡の事なり。
聞しは今、関西、大阪、堺にてのはやりもの、関東江戸まで流行 しは、たのもし無尽 と名付て、ひんなるものが有程なる者をかたらひ、金を持寄り、座中へ出し、百両も二百両も積置き皆入札を入是を買ひとる。うとくなる者は、貧なる者に高うかはせ、毎月金の利足をとるを悦び、貧なる者は持ぬ金を得る【 NDLJP:284】心地して歓ぶ。はやりものなれば、いかなる人も五十口三 口無尽 に入り、扨又無尽 好む人達は、一人して百口も二百口もするなり江戸本石町四丁日の乳牛 彦右衛門と云人は、二百二十口に入て無尽中をかけまはり、売買にひまなしと愚老に物語りせられし。いづれの人もかくの如く成るに依て、町さわがしき事、是希代 のためし也。老人是をみて申されけるは、おのれが有を有にして他の有をむさぼらず。是先賢がいましめなり。夫無尽といふ事はひんなるものゝたくみ出せる悪事なれば、むじゆんと名付たりしを、此わざわひ好む者が無尽と文字を書かへたり。韓非子 に矛楯 の二字はほこたてと続く、矛は人をさゝんとす、楯は人をふせがんとす、故に相違し、人と中あしきことをむじゆんといふと注せり。是により無尽のある年はかならず国さわがしき事あり。好事 もなきにはしかじとこそいへ、まして此事吉事 なるべしともおぼえずといふ。若き人達是を聞て、あざ笑し処に、当春の比より風聞せしは、大阪にまします秀頼公無じゆんをたくみ給ふ。是により大阪へ御陣立有べしと、爰かしこにてつぶやきけり。無尽 買ひたる人は是を聞き、それ人間の私語 らいのごとしとなり。好事 門を出ず悪事千里を走るといへり。是こそまことに国の乱れなるべれ。われ〳〵がはかり事願ふに幸ありとて、毎月無尽の寄合 へ出あはず、売たる人は此金をうしなはんことなげきかなしむ。此等の人、財を求る時もわづらひ、守る時もくるしむ。失ひぬればいよ〳〵憂ふ。たのしみとおもへるは、苦を楽とせり。財も不足とおもへるは、貧しき人にもすぐれたり。経に知足 の人は、地のうへに臥すとも安楽なり。不知足の者は天堂 に処すれども、こゝろに叶はず。小欲 の人は貧といへども富めり。多欲の人は富といへども貧といへり。誠に財多ければ、身を害すと見る古人のこと葉おもひしられたり。然れば大国の比量を聞に、呉王劔かくをこのめば、百姓にはんさう多し。楚王 細腰 を好めば、宮中に餓死 あり。越王勇を好めば、此皆あやふき所に死をあらそふ。皆是所詮 なきこと好と云伝へり。扨又当年無尽はやりしこと、偏に秀頼公むじゆんのもとゐ、よの中民百姓のすゐびすべき前表 なり。是のみならず世間になんなき事はやるは、悪事出来のもと成るべし。
見しは昔、関東にてのていたらく、愚老若き頃までは、諸人の衣裳木綿布子 也。麻は絹に似たればとて、麻布を色々に染めわたを入、おひへと云て上着にせしなり。布は出所多し。木曽の麻布は信濃にて織 、手作 は武蔵によめり。おくぬの信夫 文字ずりは、忍郡 にておる。希有 の細布は、油中折に件の布はうの毛にてなると云々。此説さま〴〵に記せり。扨又我若きころ三浦に六十ばかりの翁あり。語りしは大永元年の春、武蔵の国熊ヶ谷の市に立しに、西国のもの木綿種を持来りて売買す。是を調法 のものかなと買ひとりて植つればおひたり。皆人是をみて、次のとし又西国の者持きたるを、三浦の者ども熊ヶ谷の市に出て買取り植ぬれば、四五年の内三浦に木綿多し。三浦木綿と号し諸国に賞翫 す。夫より此方関東にて諸人木綿を着ると語る。然るときんば、木綿関東に出来始ること、大永元年より【 NDLJP:285】慶長十九年、当年迄は九十四年このかたとしられたり。愚老若き頃諸人のはかまもめんなり。今の時代はあさなり。扨又此頃絹のうら付ばかまはやりぬ。およそはかまのはじまる事、天竺大羅国 といふ国はしのく王と申す王おはします。ある時うるはしき女房余所より来たれり。帝王近づけて后のおもひをなし給ふ。かのきさき懐胎 し、頓て御産をとき給ふ。とり上げ見奉れば、王子にて渡らせ給ふ。御門御歓 限りなし。彼后しきりにいとまを乞たひまふといへども出し給はず。后のたまはく、我は此国のかたはらに黒鹿山といふ山あり。その山の主、鹿の王なり。我人間にたより仏性 を得べきために、大王に契を込め奉るなり。我本望是までなり。一人の王子出来させたまへば、身の幸是に過じとおもひ侍れば、いとま申してさらばとてかきけす如くに失せにけり。此王子おとなしくならせ給ひ、随て諸芸 勝れ弓馬の道殊に達し給ふ。此王子の左の足ひたすらまだらなり。さながら鹿の毛を見るごとし。是併鹿の腹に宿らせたまふ御しるしなり。扨こそ斑足王 とは名付けけれ。此足見ぐるしとて袴といふこと始りぬ。又馬などにのり給ふには、行縢 と云事を仕出しめされたり。此時より起る。鹿の夏毛などの皮にてもするなり。扨又或文に昔綿を多く入れて、夜の物とて夜着にする、是をおひへとも北のものとも名付たり。故如何なれば、裏に越後をするによりてなり。冬は北より来る、越後の国北なり。其縁を取りておひへとも北のものとも名付たり。又異名を布子 とも綿入 とも云也。此詞皆公家より出たり。信濃布ははそく白し。雪にてさらす布なり。美濃布は上品と云て芹河 といふ所より出る。内裡 へ奉る。天子の御座すらんかんにある幕布なり。九の尋 有と云々。是は九節進といふ物語に記せり。今やんごとなき御方は布子おひへのさたはしろしめされず。されば安房国と相模は年久敷弓矢をとり、終に和平の義なし。天正十八年七月小田原ぼつらく以後天下一統となる。我房州へ行たりけるに、もめん布を見せ棚につみかさねおきたり。是をかはんととりてみれば、横せまく竪 長し。是は見始、何とたちぬふととへば、脇入 してぬふと云。みれば実にも房州一国の人皆わき入して着たり。是等の事詮なき義なれども、近き年中世上うつり替ること、今の若き衆しらざるゆゑ記し侍る。昔もさることやありけん。狭布 の細 布ははたばりせまくひろみじかく、古歌に、にしきぎはちづかになりぬみちのくのけふのほそ布むねあはずしてとよめり。又あし絹はひろさたらずと詠ぜり。あだち絹、常陸紬、加賀絹、伊豆の八丈絹など、大名衆其外にも有徳 なる人達 き給ひぬ。あや、どんす、練羽二重 などの京染きたるをみては、此人は京気のものをきたりと云てほめうらやみしなり。きんらんにしきなどは、古き宮寺のをさめ物を袋に縫て入置るを、祭のときかんなぎ持出るを目には見れども、身にふれがたし。その時節は関東みだれ国郡在々所々まで私の弓矢をとり、爰かしこに関をすゑ海道往来安からず。されども高野ひじりおひをおひて関東へ下る。是は弘法大師修行のかたちを学べるひじりとて、弓箭の中をもあけて通す。その笈 の中にきんらんにしきのきれはじあり。此ひじり云けるは、是は高野山寺々にて、三世の仏を絵像 にうつしかけおき給ふ表具のたちのこしなり。此金欄 にしきを少しなりとも身【 NDLJP:286】にふれば、いみけがれをのぞく。かるがゆゑに仏神は常に御影をうつし給ふ。悪魔尼神 はおぢをのゝくと語れば、此にしきの切 を一寸二寸づつたかうかひて、をさなき人の守り袋のはしなどに縫付 けしなり。扨又今は天下治り御代ゆたかにして、貴賤男女ともに昔見も聞もせぬ結構なる唐織 を着給ふ。わうしゑんが曰く、はたをになひ毳 をきける者には、共にじゆんめんの麗密をいひがたしといへるがごとく、今の世に見る美々しき事どもをば、我等若き比の人達は夢にもしらず、人語るともいかで誠にせん。古語に君子その室に居て其言を出すと、善なるときんば千里の外皆是に応ずと云々。誠に万里をへだつる他国も、近き我国のごとく往来たえず。去る程に唐国にては日本人の好める衣裳を色々様様に工出 し織出 して、毎年相模の国うらが湊へ黒船着 、唐 と日本とのつうじ出合、売買ゆゝしくぞおぼゆる。
聞しは今、或人物語りに、それ和歌は長歌、短歌、せどう、こんぼん、折句 など云て体多しとかや。折句 とは、唐衣 きつゝなれにしつましあればはる〳〵きぬる旅をしぞおもふ。此歌はかきつばたというて五文字を句の上におきてよめり。是は名歌なりといふ。寿用軒 といふ人聞て、此歌よからずとあざらひ笑ふ。人聞て其方は歌道を知らず。但し知て笑ふか、しらで笑ふかととふ。寿用軒 答て、我歌の道をばしらねども、三十一字の数をばおばえたり。此歌字あまりなり。字あまりの歌はおもはしからずと、いにしへの歌人もいましめ給ひたるとかや。扨又前にあることばを又いふこと、言葉 の病といひて、当世は重言を大にきらふと云。かたへなる人聞て寿用軒の物知きそくまことしからず。件のから衣の歌は業平 よめり。新古今集に見えたり。されば文宣王 の生知なりしもいにしへを捨ずを申されし。重言字余の歌も歌によるべかりき。源信明朝臣 の歌に、ほの〳〵と有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風とよめるは、ほの二つ、月三つ、おろす二つ、風二つあり。その上三字余 りたれども、名歌なるにや新古今集にのせられたり。河海に、君により、よゝよゝよゝとよゝよゝと、ねをのみぞなくよゝよゝよゝとよみたる歌は、同字八つあり。との字のてには三つあれども、多きを手柄と読みたるにや。夫難波の謡 は祝言 なり。天下を守り治る〳〵万歳楽ぞ目出度々々々とうたへるはひがことなり。又万のことぶきに珍重々々際限あるべからずとこそ、文にもしるせり。寿用軒 不勘 にして昔をあざむくこといふにたへたり。
【 NDLJP:275】巻之三 聞しは今、或人語りけるは、
乾為父坤為母生其中間三才於是定夫日本者元是神国也。阴阳不測名之謂神聖之為聖霊之為霊誰不尊崇。況人得生悉阴阳所感也。五体六塵起去動静須臾不離神非求他人人具足箇箇円成通是神体也。又称仏国者不無拠。文云惟神明応迹国而大日本国矣。法華云諸仏救世者住於大神通為悦衆生故現無□神力是金□ 妙文神与仏其名異而其趣一者恰如符節上古緇素各蒙神助。航洋遠入震旦求仏家之法求仁道教孜孜内外之典籍将来未学師師相承的的伝受仏法之昌成超越異朝豈仏法之東漸乎。爰吉利支丹之徒党適来於日本非啻渡商船而通資賊叨欲弘邪法惑正法以城政号作已有是大禍之萌也。不可不制矣。日本神国仏国而尊神敬仏専仁義之道匡善悪法有逆犯輩随其重軽行墨劓剕宮大辟之五刑。礼云表多而服五罪多而利五有罪之疑者乃以仏為証誓是罪罰之条目犯不犯之区別繊毫不差。五逆十悪之罪人者仏神三宝人天大応之所棄捐也。積悪之余殃難逃或炮烙獲罪如是勧善懲悪之道也。欲制悪悪易積欲積善難保豈不如炳誡乎。現世猶此後世奚遁閻老呵嘖三世諸難救歴代列祖不祭可畏可畏。彼伴天連徒党皆反㆑件政令嫌疑神道誹謗正正残義捐善見有戒人載傾載奔自拝自礼以是為宗本懐非邪。何哉実神敵仏敵也。急不禁後世必有国家之患。殊司号令不制之却蒙天譴矣。日本国之内寸土尺地無所措手足速掃攘之強有違命者可刑罪之。今幸受天之【 NDLJP:278】詔命主国城乗国柄者外題五常之至徳内帰一代之蔵教。是故国豊民安。経云現世安穏後生善処。孔夫子亦云身体髪膚受于父母不敢毀傷孝之始也。全其身乃是敬神早。彼邪法称称冐我正法世既雖及澆季益神道仏法紹隆之善政也。一天四海宜承莫知莫敢遺失。
慶長十八龍集癸丑臘月日
ありがたき