慶長見聞集/巻之十

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巻之十
 
 
 
見しは今、江戸いせ町に高岡浄和軒たかをかじやうわけんと云知人ちじん子を二人持り。浅草観音あさくさくわんおんへ日まうでして、子共の命長かれと祈る。然に子一人死にたり。され共観音へ参る事常のごとし。愚老ぐらう云けるは子供の命を祈り給へど一人の子は死にたり、夫にてもいんぐわをわきまへ給はずや。寿命じゆみやう長短福徳ちやうたんふくとくの大小是皆前世の業因ごふいんにこたへたる定業ぢやうごふなりといさめければ、浄和軒じやうわけん聞て先の子の死たる事、観音をうらみ申べからず。われ二人を祈りつる事二念疑心ねんぎしんにおつれば也。いま一人を祈るは一念なれば、などか御恵おんめぐみにあづからざるべき。観音品の明文にしゆおんしつたいさんと説給ふ、観音妙智力とて妙の力にて世間の苦をすくひ給ふ、猶たのみ有り。定業亦能転ぢやうごふやくのうてんはぼさつのちかひなり、大聖のせいやくあに虚妄きよまうにあらずやといふ。誠に信心有難き人にこそあれと愚老云ければ、或能化のうけのたまはく、観音は大慈大悲だいじだいひ𦬇ぼさつにて一切衆生さいしゆじやうを平等にすくひ給ふ。といふは父の子を思ふかたち、悲と云は母の子をかなしむすがた也。一度も観音くわんおんを念ずれば、諸々の苦をはなれ願ひをみてり。まして毎日まいにち詣でて念ずる功力くりきをや。仏𦬇ぶつぼさつの御身体はたとへば鏡のごとし。向ふ者まことを以て祈らば利生りしやう有るべし。踈心そしんをもつていのらば利益有るべからず。是かゞみかげあきらか成るがごとし。世間せけん目前もくぜんにさへ多くもつて奇特あり。似我じがと云虫有り、くだんオープンアクセス NDLJP:375の虫ははちの一るゐ也。毛詩もうしに云、螟蛉子有めいれいこあり螺羸是を朝野てうやに負と云々。彼はち他の虫をふくんで我が巣の中に入て呪して似我々々じがといへば、すなはち蜂に成るなり。かるが故に、似我々々といふ也。われにによによといのる心也。真言しんごんじゆとは、皆正覚しやうがくほとけの名也。是を衆生しゆじやうとなへて正覚しやうがくをなせよと教給ふ。衆生をしへのごとく是を数遍すへんとなふれば正覚をなすも、たゞ此似我々々じがの我にによと度々呪願すれば、蜂になるが如しといへり。呪とはしゆぐわんとて仏の願ひ也。諸仏しよぶつの名を衆生となへて仏になれかしと願ひ給ふを呪といふ。南無観世音なむくわんぜおんと一度となふれば、今生こんじやうの願ひをみてるのみならず、来生らいせには必観音のれんだいに乗じてながくたのしびにあへり。大慈大悲のせいぐわんには、枯れたる木にも花さき実のなるとかや。清水観音きよみづくわんおんの御歌に、たゞたのめしめじが原のさしも草我世の中にあらんかぎりはの御慈詠ごじえい有難ありがたやあふぐべしたふとむべし。
 
 
聞しは昔、愚老ぐらう若きころ坐頭ざとう平家を語る、其中に右兵衛佐頼朝公うひやうゑのすけよりともこう、伊豆の国の目代八牧判官平兼隆もくだいやまきはんぐわんたひらのかねたかを夜討にし義兵を挙し事を、諸国の坐頭ざとう八牧判官とかたりけるに、城言じやうげんといふ一人の坐頭有てやすぎ判官と語る。此すぎとまきとの両説りやうせつをやゝともすれば問答しつるが、一人の坐頭ざとう片意志かたいし者にて、わが師匠ししやう城慶坊じやうけいばう生国しやうこく伊豆の人にて、やすぎの事をよく知て教へなりとて語りやまず。皆人じやうごは坐頭とあだ名を付て笑ひたりしといへば、寿斎じゆさいと云人聞て、いや一人の坐頭ざとうやすぎと語るも仔細有るべし。此両説おぼつかなし。今人毎に賞ひ給へる盛衰記せいすゐき平家物語へいけものがたりに八牧と記し、東鑑あづまかゞみには山木とかき、扨又或文には矢杉やすぎと記せり。いづれもすり本にて古今ここん用ひ来れり。然るときんば、正字確ならず。是に付て思ひ出せり。本田出雲守ほんだいづものかみと云入四五年以前いぜん上総かづさの国中おだきと云所知行をちぎやうし、をたぎとは何と書くぞととはれければ、里のおきな答て、仔細しさいはしらず昔より小滝と書くといふ。出雲守いづものかみ聞て小を捨て大をとると古人もいへり。前々はさもあれ今より大滝と書くべしと申されければ、地頭ぢとうの気にしたがひ大滝と書く。在所ざいしよの者共げにも小より大がまさりなるといひたるとかや。是義は時のよろしきにしたがふ心也。すべてたしかなる文に矢杉と記すといふ共、あまねく人の云伝ふる八牧を用ひてよろしかるべし。是のみならずいにしへよりあやまり来れる事多し、夢々ゆめとがむべからず。古歌こかに秋の夜は春日わするゝ物なれやかすみにきりはちへまさるらんと詠ぜり。此歌ちへと得心とくしんしてはことわり聞えがたし。され共ちへに仔細しさいありと云人もあり。又或人申されしは、立といふ字を昔見誤まり、かなよみにちへととなへ来れるにや、立にて此歌の義理ぎりすなほに聞えたり。扨又うづらの字を日本の俗鳥ぞくてうと作す、是もあやまり来れり。此類このるゐ多し、あげてかぞふべからず。しかるに右の両説りやうせつを察するに、杉と牧とはすがた似たる字也。又仮字に書きてもまきとすぎは見まがへるなれば、筆者ひつしや書きあやまりたるにや、たゞとにもかくにも世上せじやうにひろくさたするをとなへてよかるべしと申されし。
 
 
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聞きしは今、伯斎はくさいと云関西くわんさい人云ひけるは、われ東国を大かに見たりしが、宮寺みやでらに大きなるは一つもなし。鎌倉鶴岡かまくらつるがをか古宮ふるみやたゞ一つ有りけれ共、大社とはいひがたし。五山ごさん尋行たづねゆき見れ共名のみ計の小寺也こでら也。昔かまくらはんじやうなれば、大寺大社も有りぬべし。文治ぶんぢ五年六月鶴岡塔供養つるがをかたふきやうこと古記こきにあり。其塔も損ずる、大仏あれ共堂はなし。此大仏殿は建武けんむ二年八月三日大風に破損す。関東下手へた大工立しゆゑ風に皆損じたり。扨又奈良の大仏殿は聖武しやうむ天皇御宇天平壬午十四年より御建立ごこんりふ、同十七年八月二十三日先しき地のだんをかまへ仏のうしろに山をつき、同十九年九月二十九日仏を奉る。孝謙天皇の御宇ぎよう天平勝宝てんびやうしようはうぐわん年其こう終る。三年の間八ヶなほし、同十二月七日供養有り。仏の御長十六丈金銅るしやなぶつざうを安置し給ふ。此仏の御法有難みのりありがたき事花厳経けごんきやうにのべ給へるとかや。然に安徳あんとく天皇御宇、治承ぢしやう四年庚子十二月二十八日、平相国入道前業へいしやうこくにふだうぜんごふ悪行あくぎやうにより、四百三十年有つて大仏殿だいぶつでんもえくひとなる所に、しゆんせう坊重□上人じやうにん法皇の命旨を承り、寿永じゆえい二年癸卯四月十九日に、大宋国陳和卿だいそうこくちんくわけいをしてはじめて本仏の御頭みぐし奉らしむ。同き五月二十五日に至て首尾しゆびす。三十余日冶鋳やじゆ十四度にようはんして功成りをはんぬ。文治ぶんぢ元年乙巳八月二十八日に太上法皇だじやうほふわうてづから御開眼ごかいげん、時に法皇数重すぢう足代あしろによぢのぼり十六丈の形像けいしやうを見あふぎ給ふ。供奉くぶ卿相けいしやう以下いかくろめき足ふるひて皆半階はんかいとゞまる。供養くやうせしむる昌導しやうだう当寺たうじ別当法務僧正定遍べつたうほふむそうじやうぢやうへん呪願じゆぐわん興福寺別当こうふくじのべつたう権僧正信円ごんそうじやうしんゑん講師かうしは同き寺権別当ごんのべつたう大僧都覚憲だいそうづかくけんすべてぞくする処也。納衣一千口也。其後そのゝち上人しやうにん往昔わうせきれいを尋ね大神宮に参り造寺ざうじ祈念きねんを致すの所に、風の社の□によてまのあたりに二くわ宝珠ほうじゆを得たり。当寺たうじ重宝じうはうとし勅封ちよくふうの蔵にあり。建久六年乙卯二月十四日巳刻みのこく、将軍家鎌倉より御上洛ごしやうらくし給ふ。是南都東大寺とうだいじ供養くやうの間御結縁ごけちえん有るべきによて也。御台所みだいどころならびに男女なんによ御息おんそく進発しんぱつし給ふ。畠山次郎重忠はたけやまじらうしげたゞ先陣と云々。三月十一日将軍家馬千びき東大寺とうだいじにほどこし入せしめ給ふ。義盛景時よしもりかげとき昌寛等是を奉行ぶぎやうす。およそ御奉加八木ごほうがはちぼく万石黄金まんごくわうごん一千両上絹じやうけん一千びきと云々。将軍家大仏殿だいぶつでんに御参、こゝ陳和卿ちんくわけい宋朝そうてう来客らいかくとして和州工匠こうしやうに応じ、およそ其るしやな仏の修餝しうしよくを拝しほとんど、びしゆかつまの再誕さいたんといひつべし。よて将軍重源上人ぢうげんしやうにんを中使としてちぐ結縁けちえんのために和卿をまねかしめ給ふ所に、国敵こくてき退治たいぢの時多く人の命をたち罪業ざいごふ深重也。論ずるにおよばざるの由再三さいさんす。将軍かんるゐをおさへ、奥州征伐あうしうせいばつの時着し給ふ所の甲冑かつちう、ならびに鞍馬あんばびき金銀等を和卿くわけいに送らる。和卿甲冑くわけいかつちうを給り、造営ざうえい釘料くぎれうとしてがらんに施入せにふす。其外領納りやうなふするにあたはず悉もて是をかへし奉ると云々。然に此大仏三百七十余歳をふる所に、永禄八乙丑の年、松永弾正少弼まつながだんじやうせうひつ又焼けほろぼしたり。此大仏殿だいぶつでん数百年をふるといへども終に風には破損せず、二度ながら灰となる。されば関西くわんさい寺社じゝやたくみ立たる故風にも損せずるふりたる大がらん多し。南都七大寺を初め京の五山四ヶの本寺ほんじ三十三間堂、祇園ぎをん清水きよみづ東寺とうじ嵯峨さが何れも広大なる伽藍有り。去程さるほど関東くわなとうは是を見て目をおどろかすといふ。老人聞て伯斎はくさいの物しりきそくこそほいなけれ。扨こそ古人もほしいまゝに言葉をもらすは失のもとなりといへり。四ヶの本寺ほんじ関西くわんさいに有りとかや。延暦寺えんりやくじ園城寺をんじやうじは近江の国なオープンアクセス NDLJP:377り。江州は関東にあらずや。後拾遺ごしふゐに、相阪あふさか東路あづまぢとこそ思ひしに心づくしのせきにぞありける。又風雅集ふうがしふに、御調物みつぎものたえず備ふる東路あづまぢ瀬田せた長橋ながはし音もとゞろくと兼盛かねもりえいぜり。よくわきまへたる事は、必口重く、とはぬ限りはいはぬこそいみじけれ。されば昔関東くわんとう弓箭きうせん有つて国乱れふるき寺社じゝや灰燼くわいじんとなる。然るに頼朝公治承ぢしよう四年十月六日鎌倉へ打入うちいる。先はるかに鶴岡つるがをか幡宮まんぐうををがみ給ひ、同十七日に鳥居とりゐを立られたり。扨若宮御建立わかみやごこんりふ有るべしとて大工をたづね給ふ所に、武蔵国むさしのくに浅草あさくさ卿司がうしといふ工匠かうしやう棟梁とうりやう有り。是を召され養和やうわはじまるうしとし此宮建立このみやこんりふし給ふ。四面のくわいらうあり。作り道十余町てうまうことすぐれたり。慶長十九当年迄四百三十五歳に当りぬ。続古今集しよくこきんしふに、宮柱みやばしらふとしき立て万代に今ぞさかえん鎌倉の里と、鎌倉かまくら右大臣よめり新拾遺しんしふゐに、鶴岡つるがをか木高こだかき松を吹く風の雲ゐにひらく万代の声と、右兵衛督基氏うひやうゑのかみもとうぢ詠ぜり。然るに当代たうだい中井大和守と云ふ大工の棟梁とうりやう有り、京大仏殿江戸駿河の殿主てんしゆをも立て上手じやうずの名をえたり。大和守大阪御陣ごぢん馳参はせさんする所に、軍中ぐんちうにさいづちの指物あり。諸人是を見て扨もめづらしき指物哉さしものかな。是たゞものに有るべからず。天下に其名をうるたくみ大和守としられたり。かれがつちにあたる所せいろう矢倉やぐらはいふもさらなり、岩垣鐡門いはがきてつもんもみぢんにくだくべしと諸侍しよさぶらひはうびし前代未聞ぜんだいみもん名工めいこう也。大和守鎌倉八幡宮はちまんぐうを見て申しけるは、社のかつかふ大工だいく秘術七宝ひじゆつしつぼうしやうごんしきしやうの次第しだいをば口舌こうぜつにてのぶべからず、筆にも記しがたし。いはんや末代まつだいにおいて是を学ぶ人有るべからず。たゞ目をおどろかすばかり也。さればなはをけづると云ふ事有り。げうの代に匠石しやうせきと云ふ工あり。又野人やじんと云白土ぬり有り。或人此ふたりを頼み作りしらかべをぬる所に、亭主ていしゆ扨も上手のかべぬりかなとあふのきに成つてほめける時に、かべぬりへらをちやくと亭主ていしゆはなの先に白土を付る、薄きはへの羽の薄さに付る。是を湯水ゆみづにてあらひぬぐひすれ共落ちず。家主めいわくするに、工見てさらばわれ釿にてけづりおとさんと云ふ。あぶなく思へ共よんどころなしたのむと云ひければ、はなの皮をもきらず土をけづり落したり。それより蠅けづりと云事天下において沙汰さたせり。然るに我てう武蔵むさしの国のがうしは匠石しやうせきがゆかりにてこそ有るべけれ。其上おほくの工有つて品々しなに心をつくし、神妙不思議しんべうふしぎを残す事言葉にのべがたしとぞほめたる。よろづの道をば道が知ると云て、其家々の者ならずしてよくは知りがたし。おろかなる人はなんを求めて言葉を工みにし、いさゝかの事をもいみじと自讃じさんし、かへつてあざけりとなる事を知らず。是浅知せんちの有ることなりといへり。

 
 
見しは昔、上野かうづけくに岡根をかねと云ふ山里やまざとに、藤次と云て身まづしく姿無骨すがたぶこつなる者有りしが、六七年前江戸へ来り、志葉しばの町はづれにちひさきくさいほりをむすび月日を送りしが、年をおひ其身よろしくなり、今は江戸さかゆる町にて家屋敷いへやしきを求め、万什物よろづじふもつをたくはへ人のまじはりをむつまじくす。つね振舞ふるまひことひとすぐれたりと諸人にほめられ、目出度ぞさかえける。いやしき身とて思ひ捨てめやと云前句に、立ちよる人をいとはぬ花のかげ兼載けんさい付給つけたむへり。此者古郷ふるさとるならば一期いちごまづしく、心おろかに有はつべオープンアクセス NDLJP:378き身が、生所うまれどころなれ共見捨て繁昌はんじやうの江戸へ来り、人の形儀作法ぎやうぎさはふを見習ひ仁義じんぎの道を学び、今人いまびとといはるること是よき住所すみかにあるが故也。人間にんげん天理てんりといひて此理をもたぬ人はあらねども、それを分明ぶんみやうせざりによつて、よろづにまよへり。其上心おろかなる人学ばずんば道を知りがたし。先哲せんてつも一大事だいじ住所すみかといへり。人間一期にんげんいちごたのしむべきすみか肝要かんえうと求めずして、生所うまれところをしたひ旧縁きうえんにつながれ、いたづらに一生涯しやうがいをおくりくらすはつねならひなり。孟母まうぼと云は、孟軻まうかが母也。母、いへ墓所ぼしよのちかくに作る。いとけなうしてたはふれに葬送さうそうの事を明暮あけくれなす。母是を見て、此所しかるべからずと市のかたはらに住す。売買ばいの事を学ぶ。母こゝやくなしとくわんがくゐんのかたはらに住す。学者達出入がくしやたちいでいりにしよじやくをもてあそぶを見て、是を学ぶ。時に学半がくなかばに母の家に来る。母の云く、学びえたりやと問ふ。半学なかばまなぶとこたふ。その時母はた物をりけるが、中より切つて見せたり。軻是を見て、やが心得学堂こゝろえがくだうに帰つて学をきはめ天下一の学匠がくしやうとなる。扨又頭武と云つてしらみは住所すみかによつて色々なり。かうべに住むはくろし。身に住むはしろし。ぢやうこうはかやを食してかうばし。かくのごとく人も住所すみかによつて悪人共智者共あくにんともちしやとも成るべし。花山院御製くうざんゐんぎよせいに、木のもとをすみかとすればおのづから花見る人と成りぬべきかなと詠じ給ふ。扨又昌叱しやうしつびて住むとも都也けりと前句をせられしに、遠近をちこちの花のこずゑをみぎりにてと紹巴ぜうは付けられたり。かゝる目出度めでたき江戸えどの花の都をよそに見て、かた田舎ゐなかに住みはてんはおろか成る心にあらずや。
 
 
見しは今、小坂熊居助と云者、明暮あけくれ世をうらみ人をうらやみて云ひけるやうは、このごろたてばかたをならべ、ゐればひざをくみし、友人も俄におのれいみじげなる風情ふぜい、見ても聞きてもきのどくや腹立はらだちやと、ひゐする人をうらやめり。是ひが事也。おのれすなほならねば人の賢を見てうらやむは尋常じんじやう也。過去くわこ善悪ぜんあく業因ごふいんによりて今世のひんぷく苦楽くらく有り。悪念化あくねんくわして地ごく鬼畜きちくげんじ、善因つもつて浄土じやうどぼだいとあらはる。後漢書ごかんじよに人の恨る所は天のさる所也、人の思ふ所は天のくみする所也と云々、歌に、おのが身のおのが心にかなはぬを思はば物を思ひしりなんと詠ぜり。誠に我身を心に任せぬ世の習ひなれば、まして人をうらむるはおろか也。先哲せんてつもまさるをもうらやまざれ、おとるをもいやしむなとこそ申されし。古歌こかに、世やはうき人やはつら海士あまのかるもにすむ虫のわれからぞうきとよめり。子夏しかがいはく、生命せいめいに有り、富貴天ふうきてんに有りと也。皆是過去くわこのいんなるべし。扨又末代まつだいのくわをしらんとほつせば現在げんざいのいんを見よと也。かくのごとくわきまへしりぬれば、三くらからず。
 
 
見しは昔、慶長けいちやう二年のころほひ行人ぎやうにん江戸へ来り云様、神田のはら大塚おほつかの本にて来六月十五日火定くわぢやうせんとふれて町をめぐる。やうや定日ぢやうにちもきはまりぬはば。老若男女らうにやくなんによ大塚おほつかとのち、有り難き事にや、是を拝まんと貴賤群集きせんくんじゆし、広き野原のはらも所せきたちどなかりけり。塚本つかもとたなをゆひて行人ぎやうにんあがり、其下にたきゞをつみ火オープンアクセス NDLJP:379を付け焼立やきたつる処に、行人ぎやうにん火中くわちうへ飛入たるともいふ。飛びかぬるを弟子でし行人ぎやうにん共そばよりつきおそむたる共いふ。我もたしかには見ざりけり。次の口朋友ほういうとうちつれとぶらひ行き大塚のあたりを見るに、人気はひとりもなく跡には骨交ほねまじりの灰計はひばかり残りたり。又かたはらにありさいげんなう見ゆる。古歌に、みな月や照日てるひのうつのあわれのみよあもの通路かよひぢ行きちがふ也とよみしもおもひ出せり。東西へ行き南北へはしる行方ゆくかたあり帰る栖あり。たゞきのふ此所このところへ集しわれ人にことならず。虫にはなにたる物か生れ来てあるく。足の下に如何計いかばかりありをかふみころしつらん。きのふ行人ぎやうにんと共にやけ死にたる蟻ごうがしやよりも多かるべし。此ありやけ残り也。妻を尋ね子を尋ぬると覚えたりと笑へば、友人聞きて、愚なる云事哉。其方蟻をふみころす事慈悲じひなきによつて也。いきとしいけるもの前世ぜんせの兄弟生々しやうの父母也。一さいのものをわが親子おやこのごとくおもはんにいかでころさん、善業ぜんごふのみなもとは慈悲じひをもつてむねとすといへり。其上五戒ごかいのはじめに殺生戒ぜつしやうかいを第一とす。此戒このかいやぶる事慈悲じひなき故也。慈悲じひ有る人をばほとけもあはれみ神も納受なふじゆたれ、其人のかうべにやどり給ひぬ。きやうに一足千虫を殺すと説かれしは、其方の事なるべし。むかし沙弥蟻しやみあり一つ水にながるゝをみて取りあげいかしけるによつて、今生こんじやうの命をのびたると古記に見えたり。きのふの行人ぎやうにんけふ白骨はくこつとなるを見て、誰か是にちやくしんをなさゞらん。此観念くわんねんをなさん時、むし生死しやうじのさいしやう悉くめつすべし。此故に慧心僧都そうづはふじやうくわんをなさんと思はゞ、常につかのほとりに行きて死人しにんかばねを見よとのたまひき。夫れ四種しゝゆ葬礼さうれいとて、火葬くわさう水葬すゐさう野葬やさう土葬どさうといふ事あり。人をやくこと人王にんわう四十二代文武天皇御宇もんむてんかうのぎよう四年の春元興寺げんこうじ道昭入滅だうせうにふめつ、これ日本火葬くわさうの始也。あした紅顔こうがん有つてせいろにほこるといへ共、身はたちまちくわして暮天数片ほてんすうへんけぶりと立ちのぼり、ほねむなしくとゞまつて卵塔らんたうきくのちりとなる。是生死しやうじの習ひ有為うゐてんべんのことわり也。荘子さうしに形はまことに槁木のごとくならしめつべしや、しかうして心まさに死灰しくわいの如くならしめつべしやと云々。よろづ心念しんねんのおこるは陽気やうきの生じて発動はつどうするゆゑなり。それをよくしづかにをさめて枯木こぼくのごとくひえたるはひのごとくせよと云荘子が心法しんぼふ也。本来ほんらい面目めんぼくと云ふも外になし。わが心ををさむるにあり。人死して白骨はくこつとなりあり人に似たるとばかり見て無情むじやうをわきまへざるはおろか也。一切生類さいじやうるゐ蟻に至る迄も心を付て能く見給へ。子を思ひ、おやをなつかしみ、夫婦ともなひ、妬み怒り、欲あり、命を惜む事人間にんげんにたがはず。故に一さい有情うじやうを見て無事をもくわんぜず慈悲じひの心なからんは、鬼畜木石きちくぼくせき也。人虫ことなれ共其志はおなじ。無益の事をなし年月を送るは、まげて一生を過ぎて蟻磨ありうすを廻るに似たり。此心文選もんぜんにも陳翰ちんかん大槐官記だいくわいくわんきにも有り。流転生死るてんしやうじえんたる事は多く後世ごせほだいの便たよりとなる事はまれにもなく、当来たうらい生所しやうしよを思はざるは愚なり。仁政じんせいの道に叶ひ給はゞ、おのづから和光わくわうの深き意をもしり、仏陀ぶつだの広き恵みをも信じ、経文きやうもんのかすかなるおもむきをも悟り給ひぬべしと云へり。誠に有がたき朋友ほういうのいさめとこそ思ひ侍れ。
 
 
聞きしは今、江戸に於てさる屋形やかたへ過ぎし夜大名衆だいみやうしゆ集り給ひ、酒宴しゆゑんの上、さかづきに付て口論こうろん有り。たがひにかオープンアクセス NDLJP:380たなを抜合せ、一方には弓のうでを打ち落され、あまつさへ又面を二刀切られ給ひぬ。ひとりは手もひ給はず。皆人中へ入れて両方へ引分ひきわけ、夜中に乗物に乗り屋形たかたへ帰り給ひしが、手負ひたる大名の方より夜中におしよする由聞えしかば、一方には門をかため今やと待ちたり。あたりの大名屋形だいみやうやかたにも夜もすがらさわぎおびたゞしかりしが、過ぎし夜は何事もなし。此大名衆だいみやうしゆは天下において五人三人のうちのかしら大名にてましませば、此けんくわ後は何とかをさまらん。両やかたに人数取籠にんずとりこもり、甲冑かつちうを帯し弓鉄砲ゆみてつぱう用意ようい有つて上を下へ騒ぐといへ共、門を打て出入なし。その上此人々の一もんひろし、親類縁類しんるゐゑんるゐに至るまでも内々ない仕度したく有りとかや。如何成いかなる大事が出来ぬべきと、よる者も此事いひやまず。され共われ両屋形りやうやかたうち知人ちじんなければ、大名衆だいみやうしゆことまちの者にかゝらずと聞き居たり。其後此喧嘩けんくわの事人に尋ねければ、町にて此ほど沙汰さたせし大名衆だいみやうしゆのけんくわ一ゑんなき事也。何者か此悪事あくじを云ひ出しけん、江戸より外へ出づる口は品川口しながはぐち田安口たやすぐち神田口かんだぐち浅草口あさくさぐち舟口ふなぐち共に五口有り。江戸町より一日のうち外へ出行く者、幾千万共数いくせんまんともかずしらず。さぞ此悪事あくじ日本国へ聞えつらん、好事かうじもなきには如じとこそいへ、かゝる悪説あくせつ天魔てんま所行しよぎやう成るべし。以来人の云事を誠と思ひかたるべからずといへば、老人の有りしが聞いて、いや人の物語ものがたりを聞いていはじと云ふは愚也。昔より記し置いたる抄物も、皆人の物語を聞きて書きおきたり。此四五日江戸町にて沙汰さたせし大名衆だいみやうしゆ喧嘩けんくわのみおほかるべし。然るは盛衰記せいすゐきを見るに、平家のちやく小松内大臣重盛公の子息しそく権助ごんのすけ三位中将惟盛これもりは、讃岐さぬき八島やしま戦場せんぢやうをのがれ出て三所権現じよごんげんをじゆんれいをとげ、那智なちうらに来て松のかはをけづり、一首の和歌をぞ残されける。生れ来て終にしぬてふことのみぞさだめなき世に定めありける。元暦げんりやく元年三月廿八日生年二十二歳と書きおき、那智なちうらにて入水じゆすゐし終んぬ。又或説あるせつに、中将殿を那智なちのきやくそうあはれみて、滝の奥山中にあんじつを結びかくしおき、是にて果て給ひぬ。又或説あるせつに、中将殿ちうしやうどのは三山を参詣さんけいし、都へ上りとらはれてかまくらへ下る時、飲食をたち、十一日といへば、相模さがみの国湯本ゆもとのしゆくにて卒し給ひぬ。但し是はせんちうきに有りと書きたり。此中将の果てし処を、此物語ものがたりの内に三せつ迄記せり。此物語は相国しやうこく入道清盛公にふだうきよもりこうの事を書きはじめ、なかんづく公家の事を委しく記したれば、都あたりにて書きたると覚えたり。然ば中将殿都にて捕はれ給ひなば、世にかくれ有るまじきに、三説しるしたるもふしん也。又平家物語へいけものがたり信濃入道行長しなのにふだうゆきなが作りて生仏いきぼとけと云ふめしひに教へ、ふしを付てかたらせたり。此入道も人の云伝いひつたへをや記したりけん、此物語も盛衰記に相違さうゐの事多し。扨又源平の事を謡舞うたひまひに作りたり。是も右の両書物にちがふことのみあり。如何なる文を見たるや、是又おぼつかなし。かくのごとく説多ければ虚言さぞ多からん。然るときんば、いづれをか虚とし、いづれを実とせん。此程江戸町のざうせつ多かるべしといへり。
 
 
見しは今、江戸大橋おほはしのあたりに何となく売刀うりがたなを持出しが、近年は貴賤きせんくんじゆし刀市かたないち立て、刀を抜連オープンアクセス NDLJP:381れ物すさまじきてい也。かたき持ちたる人此道通りてえき有るまじ。其上大盗人おほぬすびと多く立交はり、人の財珍ざいちんをうばひ取るをとらへ、御奉行所ごぶぎやうしよへつれて行けば、火あぶりはり付にかけ給ふ。扨又小盗人こぬすびとは腰にさげたる火打袋ひうちぶくろいんろう刀のさげなど切取るをとらへ、手足のゆびをもぎて日本橋にほんばしにさらしおく。かく罪科ざいくわ軽重けいぢうしたがひて罪におこなひ、其上盗人の宿同類やどどうるゐ迄も御せんさく有て同罪どうざいになし、諸国の御法度ごはつと右の如くなれば、今はぬすびと絶えはで天下おだやかに、諸人正直しやうぢきけんぱふを心に嗜み、仁義を本とし仏法ぶつぽふ信敬しんきやうし目出度世上せじやう也。孟子まうし尭舜げうしゆんの仁はあまねく人を愛せず、賢を親する事をすみやかにすと云々。尭舜げうしゆんほどの君もなけれ共、世間の者を皆あいする事はなし。賢人をしたしみ持ちて、それに国の政道せいだうをさわがせ給へるによつて、世も太平にて万民豊ばんみんゆたかにさかえたり。史記しきに千金のかはごろもえきにあらず、台樹だいしや之根は一木の枝にあらず、三代の間は一士の智にあらずと也。誠に今代々の将軍しやうぐん相つゞき国を治給ふ事一人の智恵ちゑにあらず。名目みやうもくも多く出来、政を行ひ給ふ故なるべし。其上太平の御代みよには弓をふくろに入れ太刀たちを箱にをさむとかや。大橋に市を立ぬき刀くせ事停止ちやうじの旨仰出されたり。竹林抄ちくりんせうに、包むとすれど名はしられけりといふ前句に、武士の此時弓を袋にてと専順せんじゆん付られたるも、今爰に思ひ出けり。まことに有がたき君の御時代と万民よろこびあへり。
 
 
見しは今、天下治り国民ゆたかにして有難ありがたき御時代に生れあひたり。諸人しよにん仁義を専とし慈悲じひあいきやうをもとゝし給ふ。仁と云は父の子をいつくしみ思ふかたち、母の子をかなしむ姿也。仏教ぶつけうにも慈悲心じひしんそく仏心ぶつしんと説き給ふ。慈悲じひあらん人をば親踈しんそをいはず親のごとく思ひ、恩あらんともがらには貴賤きせんを論ぜず主従しうじうれいをいたす、是仁の道也。なほ以て君子はじやうふかく慈悲有るべき事也。じやうには命を捨て恨には恩をわする。是よのつねの習ひ、上に義あれば下あへて服せざる事なし。孟子まうしにそくいんの心は仁のたんなりと云々。仁、心にあれば、用外にあらはるゝ者也。こゝに或君子まします、いときなき御時より愚老ぐらうをあはれみ思召おぼしめし遠国ゑんごくより毎年江戸へ御下向ごげかうみぎり、予参向さんかういたす所に、老いたる身なれば死ても有るかと思召出さるゝに、そくさいなるよとおほせ也。かたじけなくも賤き身が如何なる先世の御縁ごえんを結び、御れんみんにあづかり候ぞと涙を流し申す計也。昔文王ぶんわう城洛じやうらくに行くに老馬してあり。帝いかなる馬ぞと問ひ給ふ。臣下答て、よはひ老いたりとて捨つると申す。王あはれんで此馬を養ひ給ひければ、四方の古老くわう是を聞きて帝にしたがふ者三十余国也。今われ老馬らうばのごとし。君の御恵おんめぐみに預る事古今ここんことならず。又或時あるとき愚老ぐらうはとの杖にすがり御屋形おんやかた御見廻おんみまひ申したり。君仰に云、老足らうそくにて町より是迄遠路これまでゑんろをはこぶ志感悦かんえつ思召おぼしめす。折しも今日は寒天かんてん、見るに、翁薄衣おきなはくいにしてふびんの次第しだい也。さぞな路次中ろじちう寒からんと、君うへにめされたる帋子かみこを脱せ給ひ、年寄としよりの身は風しみ易し、是を着て寒風かんぷうをよき私宅したくに帰り候へと下されたり。拙者せつしや是をいたゞき感涙かんるゐきもにめいずる計也。私たくに帰り妻子共に此由を語り、いやしき身を上としてあはれみ給ふ御情おんなさけ山海よりもふかしと、たゞ袖をぬらすより外はなし。仁者は人をあいすと孔子こうしのたまひオープンアクセス NDLJP:382しも思ひしられたり。昔良将むかしりやうしやうの兵を用ゐる時にたんらうを一河の水にあぢはへり。士卒しそつ是をかんじ君の為に死をかろんず、まこと恩愛おんあいのふかき滋味じみのおのれにおよぼすをもつて也。愚老ぐらうつれに思ふ事を書くまゝに、余りに物にいひはやりてかやうの事迄記し侍る事、他のあざけりをかへり見ざるか、されば古き連歌れんがに、年こそ今は立ち帰りけれと云前句に、老いぬればいときなかりし心にてと救済きうさい付給へるも、翁が心におなじ。老いて二度ちごになると世俗せぞくにいへるがごとし。捨てえぬ身こそ袖はぬれけれと云前句に、たどるまに年は老いにき歌の道と宗砌付給へり。其上われに等しき友もなし、桃李たうり物いはねば、せめては独言ひとりごとに思ふ事などかいはでたゞにややみぬべき。老いたるかたちをば見る人是をううとみ、聞く人かれをにくむ。年寄としよりをわらはん人の行末ゆくすゑの命ながかれ思ひしらせんと、古き歌をも思ひ出で侍りぬ。予老いおとろへ、いきの松原いきてかひなきいのち何かくるしからん。なさけは中にうごけば言葉ことばは外にあらはるる世のならひと、見捨て聞きすてらるべし。
 
 
見しは昔、湯島天神ゆしまてんじんの御社あれ果て、社壇しやだんはむぐらの下にうもれ、社頭しやとうはひとへにちりに交はり、神はを失ひ祭礼礼典さいれいれいてんも時をわすれ、権実霊社ごんじつれいしや泥土でいどにくちぬ計にて、和光同塵わくわうどうぢん結縁けちえんも余り有る計也。かゝる所に神ぞましますと云前句に、捨てぬべきちり浮世うきよに交りてと、専順せんじゆん付けたるも思ひ出でけり。然に当君たうきみ江戸へ打入り給ひしよりこのかた、民ゆたか繁昌はんじやう他に異なり。ていればいま湯島ゆしまやしろいのりをかけきかひする事さりもやらず、社壇しやだんちりをはらひいがきをみがき如在のけい見えたり。霊験れいけんあらたにおはしますと云ひならはしまうでおこたらず、取分毎月とりわけまいげつ縁日えんにち前日ぜんじつ一夜こもつて、十八時中じちう貴賤きせんくんじゆをなす。現当げんたう願望成就ぐわんまうじやうじゆ祭礼さいれいの袖つらなりて海道かいだう寸土すんど見えず。去程さるほど下向げかうの人々は道をたがへてかへさせり。天神別当てんじんべつたう申されけるは、そのかみ天神はつくしだざいふにてこうぜらる。時平しへい無実むじつのざんそう御恨海おんうらみよりも深く山よりも高し。此怨念をんねんを達せんと思召おぼしめし都へ飛来り、大嶺おほみねのたけにのぼり唐笠からかさほどの雲を先にたて虚空こくうをへんまんし、百千万億らいでんしんどうし都をくつがへさんとし給へば、洛中洛外らくちうらくゞわい貴賤男女きせんなんによたましひきえはてぬ。御門みかど大きにおどろき思召し、ひえい山法性ばう僧正そうじやうを急ぎ召されければ、僧正かんたんをくだき御祈誓ごきせい有るによつて、天地変異てんちへんいもしづまりぬ。村上むらかみ天皇の御宇ぎよう天暦てんりやく元年丁未九月九日天神北野てんじんきたのへせんぐう、正暦しやうれき四年癸巳五月廿日しやう太政大臣だじやうだいじん大相国だいしやうこく贈官ぞうくわん有り。然るに鎌倉殿御成敗ごせいばい式目しきもくのおく書起請文きしやうもんに諸神をのせらるゝ事、梵天ぼんてんは三がいの主也。帝釈たいしやく欲界よくかいのしゆごたり。四大天王だいてんわうはしゆみの四しうをつかさどる主也。そうじて日本国中六十余州よしう大小の神祇しんぎと有るは残さゞる儀也。ことには伊豆箱根両所権現いづはこねりやうしよごんげん三島大明神みしまだいみやうじん此三社は関東の惣社そうしや八幡大菩薩はちまんだいぼさつ関東武士くわんとうぶし氏神うぢがみ天満大自在天神てんまんだいじざいてんじん鎌倉かまくら鎮守ちんじゆなるが故也。すべ起請文きしやうもんに其所のちんじゆ氏神うぢがみるゝ事定れる法也。それ起請文きしやうもんは意のまことを引きおこし諸神しよじんをくわんじやうする也。むかし諸社しよしや神官神人しんくわんしんじん起請文きしやうもん書きつる事有り。やしろ停止ちやうじし、関西くわんさい北野関東きたのくわんとう荏柄えがらに於て書かしめ給ふ。是大神の明徳めいとく也。往事わうじオープンアクセス NDLJP:383鎌倉かまくら繁昌はんじやうする事ひとへに荏柄天神えがらてんじん御威光ごゐくわうと知られたり。扨又湯島天神ゆしまてんじんは当君江戸御打入えどおんうちいり以前いぜんよりの霊、今江戸えど日を追ひ年を重ぬるに随つて繁昌はんじやうする事、いにしへ鎌倉殿かまくらどの御在世ございせいにことならず。然ば湯島天神ゆしまてんじん鎮守ちんじゆとや申さん。其上天神てんじん文道ぶんだう大祖たいそ風月ふうげつの主たり。此御神おんかみの御あはれみをば草木迄もかつがうの思ひ浅からず。中にも松梅は天神御慈愛の木也。唐国にて梅を好文木かうぶんぼくと名付くる事、とうしんの王にあいていと申王まします。此王書をよみ給へば、春にあらざれ共梅ひらく又霊巌寺れいがんじの松はげんしやう三蔵渡天さんざうとてんしたがつて松の枝西にかたぶきぬ。又我朝にて梅桜松きどくをあらはせり。それ天神は時平しへいの大臣のざんそうによりつくしへさせん、延喜えんぎ元年正月廿九日あんらくじに移らせ給ふ。住みなれし古郷ふるさとの恋しさに、つねに都のくもながめ給へり。ころは二月の事なるに、日影長閑ひかげのどかに照しつゝ東風こち吹きけるに思召出で、こちふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとてれるな忘れそとえいじ給ひければ、天神てんじん御所ごしよたかつじ東の紅梅殿こうばいでんの梅の枝さけ折れて、雲井くもゐ遥かに飛行きてあんらくじへぞまゐりける。桜も御所ごしよに有けるが、御歌なかりければ、梅桜とておなじまがきのうちにそだち、おなじ御所ごしよに枝をかはし有りつるに、いかなれば梅は御言葉おんことばにかゝり、われはよそに思召おぼしめさるらんとうらみ奉りて、一夜が中にれにけり。御歌に、梅はび桜はるゝ世の中に何とて松のつれなかるらんと遊ばしければ、松は一夜のうちに筑紫へびてまゐりたりけるが故に、老松の明神みやうじんとはいはゝれたるとかや。天神てんじんのたまはく、我いたらん所にはかならず老松おいまつたねをまかする神詫有りて、天暦てんりやく九年三月十二日北野右近きたのうこん馬場ばゞに、一夜に松千本ひたり。くはしく縁起えんぎに有り。又御歌に、梅あらばいかなるしづがふせやにもわれ立ちよらん悪魔あくましりぞけとの御神詠ごしんえい、有難き御誓ひ也。或時人尋来たづねきて、紅梅殿こんばいでんより飛び参りたる西府さいふの梅はいづれなるらんと、口々に云て見まはる所に、いづくともしらず、十二三ばかりなる童子来り、或古木の梅のもとにて、これや此のこち吹く風にさそはれてあるじ尋ねし梅のたちえはと打詠うちながめてせにけり。北野きたの天神てんじんの御やうがうとおぼえて、各々かつがうのかうべを傾ぶけ給ひけり。是により松梅をば御神木ごしんぼく諸人しよにんあがめ給へり。其上神社仏事じんじやぶつじほか耳にふれ目に見る事、いづれか大慈大悲だいじだいひのせいぐわんにもるゝ事や有る。木の本かやの本に至るまで、和光わくわうのすゐじやくの居にあらずや。故にきやう神仏しんぶつ水波すゐはのごとしと説かれたり。かゝるしんりきを誰かあふがざらん。
 
 
見しは今、江戸町に長光法眼ちやうくわうほうげんと云人有りしが、にはかに其身福有ふくいうにして、家作やづく美々敷びゞしく衣服いふくいちじるく、有る時は乗物のりもの、或時は乗馬じやうばして往来をなし、成るにまかせて雲の上までも上るべき振廻ふるまひなせしが、ほどもなくおとろへて世上をへつらひかなしめり。知人ちじん見ていさめけるは、かたをそびやかしへつらひ笑ふ、夏畦かけいよりもやめりと曽子そうしはいへり。其方今ひんにてましますとも、さのみなげき給ひそとよ。身あればくるしみあり。心あればうれひあり。此苦このくほとけは火にたとへられたり。人としてのうある者は天のかごにより、人としてさい有る者はなげきによる。よろづにさきのつまりをるはやぶれに近き道也。月オープンアクセス NDLJP:384みちてかけ物さかんにしておとろふ習ひ、其上富時とむときへりくだらざればまづしき時くゆるといへり。扨又まづしうしてへつらふ事なく、とんでおごる事なし。かるが故に君子はゆたかにしておごらず、小人はおごつてゆたかならずと、古人は申されし。馬はやせて毛長けながし、人はひんにして智みじかしといへるなれば、身のほどをわきまふべき事也。たとひおもてに好相かうさうを備へ、りようらきんしようを身に纒ひたる共、心おろかにましまさば、虎皮こひ犬糞けんふんをつゝめるがごとし。故に人はおのれをつゝまやかにしておごりをしりぞきてざいをたくはへず、世をむさぼらざらんこそいみじかるべけれ。昔よりかしこき人のとめるはなし。べんくわが持ちし玉は石かはらに似たりといへ共、三だいに出てつひに光りにあふ事を思へば、たのそでの白玉とえいぜり。孔子曰、昔はわれ其言を聞きて其功を信じき。今われ其人を見て其行を見る。予において是をあらたむと申されし。たゞ身の程をわきまふべき事也。人間万事にんげんばんじさいおうが馬と云事、是は宋人そうひと晦機師かいきししよう也。人間万事塞翁にんげんばんじさいおううま、枕をのきかしらして雨を聞きてねぶると云云。此の心は、人間にんげん万事ばんじ善も必しもよきにあらず悪も必しも悪ならず、悦ぶべからず、かなしむべからざるの也。淮南子ゑなんじに云、塞上さいじやうに一おうあり馬を失ふ。人皆是をとぶらふ。翁が云、悪きもなんぞ必しもあしからんといふ。数月すげつ有つて此馬をひきゐて来る。人みな是をす。翁が云、善も必しもよきならんやと云ふ。翁が子このんで馬を乗り、落ちてひぢる。皆人是をとぶらふ。翁が云、あくもなんぞ必しも悪ならんと云ふ。一年有つて胡国こゝく大きにみだるゝ。壮年さうねんの者たゝかひ皆悉く死す。此翁が子ひとりひぢを折りたる故にたゝかひに出ずいのちまつたうする事をたり。是によつて是を見れば、誠に善悪ぜんあくはかられず。世俗せぞく口号くちずさみに、此ぎんず。すべて世のことわり悦ぶべからず悲むべからずと諫められたり。
 
 
聞きしは今、安斎あんさいと云人いふやう、世に人のあそび給ひけるは、雪月花にしくはなし。中にもわれは四時しゞともに色香いろかたへなる花こそ面白おもしろけれ。され共るわかれを悲しみ、かぬまをおそしとなげき、菊後梅前花きくごばいぜんはなを待つ心、釈迦しやかみろくのあひだと詩に作りたるも、我心におなじ。天智天皇てんちてんわう近江国あふみのくに志賀しがの郡大津おほつみやにまします時、四季しきに花咲く桜を植ゑおきながめたまふ。是を志賀しが花園はなぞのといへり。かばかり目出度めでたき桜今の世にもねがはしき事ぞかし。欧陽公おうやうこう花をうる詩に、浅深せんしん紅白こうはくよろしく相まじふべし。先後せんごなは宜しく次第しだいうべし。我四時しじ酒をたづさへさらんとほつす。一日をして花ひらけざらしむることなかれといひしも、誠にやさしき心也。自然斎じねんさい発句ほつくに、咲かぬをなぐさめぐさの花もがなとせられしも殊勝しゆしよう也。昔人はいろことなる品々しなえいにも、似物を花と名付なづけて詩人歌人しじんかじん詠吟えいぎんせり。雲を見て円徳法印ゑんとくほういんの歌に、おしなべて花の盛になりにけり山のごとにかゝるしら雲。是をくもの花といへり。波を見て伊勢いせが歌に、波の花おきからきてちりくめり水の春とは風やなるらん。是なみの花と也。雪を見て友則とものりの歌に、雪ふれば木ごとに花の咲きにけりいづれを梅とわきてをらなん。是雪の花といへり。扨又そうけい連無れんむが詩に、富士山を見て、六月の雪花そせいをひるがへすと作りたるも面白おもしろしといふ。オープンアクセス NDLJP:385古庵こあんといふ人聞きて、安斎あんさい古歌こかおぼえて花をのみ色々様々いろさまにあいし給へるといへ共、世のならひとして色ある物つひにはきえ失せぬ。われはとこしなへにらぬ花をこそながむれといふ。安斎あんさい聞きて是は不思議ふしぎ也、いづれの花ぞと問ふ。古庵こあん答へて、其方のながめもわがながめもおなじ詠也。され共、見所みどころ相違さうゐ有り。それいかにとなれば、安斎あんさい目前もくぜんの花を見るによつてちる。我は其言葉ことばの花をながむる故にらず。歌に、如何にしてことばの花の残りけん移ろひてし人の心にとえいぜり。又、をしめども紅葉もみぢなりけりと云前句まえくに、いつも見る心の花にともなひてと、宗祇そうぎ付け給ひぬ。是皆自己目前じこもくぜん見所みどころにかはりあり。古今和歌集こきんわかしふに、それ大和やまと歌は人の心をたねとしてよろづことのはとぞなれりけると書かれしは、月花つきはなをめで鳥をうらやみかすみをあはれみつゆをかなしみ、むかし神代かみよより今に至る迄、よろづことの葉をよみおき給へ共、風情ふぜいつくる事なし。此言葉ことばはやしの花は咲きしよりちる事なく、たねにたねのかずそひ枝に枝ひろごり、世界せかいにみちてよとともにくんず。いにしへ歌のひじりと聞えし柿本人丸かきのもとのひとまる、ほの明石あかしの浦のあさぎりに島がくれ行く舟をしぞ思ふとよまれたるは、三世不可得さんぜふかとく道理だうりをあらはせるとかや。能因法師のういんほうし伊予いよの国へ下りし時、雨をいのりて、天河あまのがはなはしろ水にせきくだせあまくだります神ならばかみとよみ給ひければ、たちまち大雨ふりしぞかし。西行法師さいぎやうほうしの詠に、埋木うもれぎの人しれぬ身としづめども心の花はのこりける哉とよみしをこそ信用しんようすべけれと、たがひ証歌しようかを引きて意趣いしゆをあらそふ。老人聞きて、いやいやいづれの詠もまことにあらず。自他じたのしやべつあるは妄想まうざう也。真実しんじつ道理だうりといふは、自己目前じこもくぜん一枚と見るまなこに、自他じたのへだてあるべからずといへり。
 
 
貧家ひんかには親知しんちすくなく、いやしきには古人うとしといへる古き言葉ことば、今予が身の上にしられたり。老悴らうすゐとおとろへ、いよ友ぞうとかりける。童子をかたらひまことならざる昔をかたり友となせば、昔をかたり尽さずんば有るべからずといひてやむ事なし。いたくいひし事なれば、或時あるとき黄葉くわうえふを金なりとあたへてすかし、或時は顔をしかめ、がごうじとおどせ共問ひやまず。其せめもだしがたきによつて、小童をなぐさめんがため、狂言きやうげんきぎよのよしなしごとを書きあつめたる笑ひ草、讃仏乗さんぶつじようの因とも成るべきか。又近き年中世上せじやうのうつりかはれる事共を愚老見聞きたりし故、此物語のはじめごと見聞けんもんの二字をおき、古今ここんことなる事をすこしもかざらず言葉ことばをくはへず、其時々とき有体ありていをしるし侍れば、やさしき風俗ふうぞく面白事おもしろきこと候はず。是世のため人のためにもあらず、たゞみづからが心をなぐさめん為なれば、清書せいしよにも及ばず草案さうあんのまゝにて打ちおき侍りぬ。然共、古今集こきんしふ行末ゆくすゑは我をも忍ぶ人やあらんむかしを思ふ心ならひにとえいぜし歌の心もあり。され共、古語こごに言葉すくなきはあやまちすくなきとこそ申されしに、まのあたりの塵語ぢんごを拾ひ、世間せけん物語ものがたりの中に思出づるにまかせ、心得ぬ古人こじんの言葉を書き加へ、長々敷戯言たはふれごとをつゞつてもつて禿筆とくひつをそめ、冷灰れいかい胸次卑懐きやうじひくわいをあらはすこと、さぞひが事侍らん。誠にかたはらいたくひとへに鸚鵡あうむの物いふに似たり。後賢こうけんのあざけりあにざんきをあらはす也。しかオープンアクセス NDLJP:386はあれ共、人たる身は安からずといへり。此翁このおきな無智愚鈍むちぐどんにして人たらぬ安かる身なれば、難波江なにはえのよしあしともたれかは是をはめそしらん。古き歌に、何事なにごとも思ひてたる身ぞやすき老をば人の待つべかりける。げにやおろかに送りこし春秋のしもいろはまゆの上にかさなり、よはひは山のの月よりもかたぶき、身は狩場かりば雉子きゞすよりもつかれ、なげきこりつむすゑも、今たきゞきなん時至りぬれば、世ののぞみぢんもなし。たゞ一そくの絶えなんを待つばかり也。つら往事わうじを思へばきのふのごとし。後果こうくわすればあすを頼みがたし。たもちこしいそぢは、只夢たゞゆめに住みてうつゝとす。扨又ろせいは夢のうちに五十年のたのしびにあひて、何事も一すゐゆめの世ぞとさとり得しこそ、げに殊勝しゆしようなるべけれど、予もまことしくそゞろごとを書置きぬれども、まさに生死長夜しやうじちやうやの夢はめがたし。きよき心にあらざれば、口号くちずさみはべる、よしあしの人のうへのみいひしかど言葉にも似ぬわが心かな。于時ときに慶長けいちやう十九年のとし季冬きとう後の五日記をはんぬ